新唐書

巻二百一十 列傳第一百三十五 藩鎭魏博

安禄山・史思明が天下を乱し、粛宗の時に大難がほぼ平定されたが、君臣ともに安泰を喜び、河北の地を分割して叛将に授け、禍の芽を養護し、禍根を成した。乱人がこれに乗じ、ついに勝手に官吏を任命し、賦税を私物化し、朝廷に朝献しなかった。戦国時代を真似、互いに依存し、土地を子孫に伝え、百姓を脅迫し、その首に鋸を加え、利に誘われて逆汚に走り、ついにその人々をして自らを羌狄の如く見なすに至らしめた。一つの賊が死ねば、また一つの賊が生まれ、唐が滅びるまで百余年、ついに王土とはならなかった。

その盛んな時には、蔡州が斉に附き連なり、内に河南の地を分裂させ、合従して天子に抗した。杜牧は「山東は、王者が得なければ王者とならず、覇者が得なければ覇者とならず、賊が得るゆえに天下安からず」とまで言い、また曰く、

今の天下はどうであろうか。干戈は朽ち、斧鉞は鈍り、包容して混同し貸し与え、逆賊の子孫を養育し、ほとんど常態となっている。しかるに執事の大人たちはかつて周りに思慮を巡らし、宿謀とすべきことを計算せず、かえって高慢に抑揚し、自ら広大で繁昌し己に及ぶものなしと思い込んでいる。ああ、知らないのか、それとも蹇頓して顛倒傾覆してから支えの計略を立てようとするのか。そもそも天下は幾里、列郡は幾所、河以北には蟠城数百、競って寇となり、我が民の憔悴し、天時の不利を窺い、やがてその仲間とともに我が民を掌股の上で驚かせ乱そうとする。今、我らが壮健なうちに、これを擒え取ることを図らず、ただ安逸に甘んじて、後世の子孫に背脅の疽根を残すとは、これまたどういうことか。

議者は言う、強情な者どもには、我らが良将勁兵を銜策とし、高位美爵でその腹を満たし、安んじて撓まず、外にして拘わらず、虎狼を飼いながらその心に逆らわなければ、忿気は生じず、これが大暦・貞元の邦を守った所以であると。どうして必ずや激戦して我が民を焚き焦がし、その後で快とする必要があろうか。

愚者は言う、大暦・貞元の間、城数十、千百の卒夫があれば、朝廷は法を貸し与えた。故に彼らは大言をはき、一家を立て、制度を破り法を削り、尊大奢侈を競った。天子は問わず、有司は呵責せず、王侯の爵位を越えて受け、覲聘せずとも几杖で支え、逆賊の息子や虜の胤に、皇子の娘を嫁がせた。地はますます広がり、兵はますます強くなり、僭上の擬えはますます甚だしく、奢侈の心はますます盛んになった。土田や名器は、分け与え尽くされたが、賊夫の貪心はまだ畔岸に及ばず、淫名越号し、兵を走らせ四方を略奪し、その志を満たした。趙・魏・燕・齊は同日に起こり、梁・蔡・呉・しょくはこれに追随して和し、その他混澒として騒ぎ立て、真似ようとする者は、往々にして存在した。運よく孝武皇帝(憲宗)に遭い、前の英傑、後の傑物が、夕に思い朝に議し、故に大なる者は誅鉏し、小なる者は恵みをもって来服させた。およそ生人は油然として多欲であり、欲して得られなければ怒り、怒れば争乱がこれに従う。ゆえに家では教え鞭打ち、国では刑罰し、天下では征伐し、その欲を裁きその争いを塞ぐのである。大暦・貞元の間はこれに反し、わずかな所有を提げて、果てしない争いを塞ごうとした。ゆえに首尾と四肢が、ほとんど互いに運転できなかった。今、凡そこれが非であると知らず、かえってこれを経典として用いれば、盗となる者が河北のみに止まらないことが見えるであろう。ああ、大暦・貞元の邦を守る術を、永く戒めよ。

魏博は五世伝わり、田弘正が入朝するに至り、十年後に再び乱れ、四姓を変え、十世伝わり、州七つを有した。成徳は二姓を変え、五世伝わり、王承元が入朝するに至り、翌年、王廷湊が反し、六世伝わり、州四つを有した。盧龍は三姓を変え、五世伝わり、劉総が入朝するに至り、六月後、朱克融が反し、十二世伝わり、州九つを有した。淄青は五世伝わって滅び、州十二を有した。滄景は三世伝わり、程権が入朝するに至り、十六年後に李全略がこれを有し、その子同捷に至って滅び、州四つを有した。宣武は四世伝わって滅び、州四つを有した。彰義は三世伝わって滅び、州三つを有した。澤潞は三世伝わって滅び、州五つを有した。とはいえ、その由来を跡づければ、事には因縁があり、地の軽重は人の謀の臧否によるのであろうか。今、勝手に兵を興し世襲する者を取って、『藩鎮伝』とする。田弘正・張孝忠らのように、忠を顕わし誠を納めて王室を屏藩した者は、別伝に任せる。

田承嗣

田承嗣、字は承嗣、平州盧龍の人。代々盧龍軍に仕え、豪侠として知られた。安禄山の麾下に属し、奚・契丹を破り、功を重ねて武衛将軍に至った。禄山が反すると、張忠志とともに賊の前駆となり、河・洛を陥れた。かつて大雪の時、禄山が諸屯を巡行し、その営に至ると、人の気配がなかったが、やがて甲を着け卒を列ね、籍を閲して、一人も欠けていなかった。禄山はその才能を異とし、潁川を守らせた。

郭子儀が東都を平定すると、承嗣は郡を挙げて降ったが、まもなく再び叛いた。安慶緒が鄴に奔ると、承嗣は潁川から来て、蔡希徳・武令珣と合兵六万し、慶緒は再び勢いを振るい、王師に抗した。一年余りして、史思明が乱を起こすと、承嗣はまた賊の先導をし、朝義が敗れると、ともに莫州を守った。僕固玚が北を追うと、承嗣は窮し、詐って朝義をして自ら幽州に救いを求めさせた。承嗣は莫を守り、賊の妻子を捕らえて玚に降り、厚く金帛をもって玚の将士を反間した。玚は部下に変が生じることを慮り、すぐに降伏を約した。承嗣は病気と偽って出ず、玚は馳せ入ってこれを取ろうとしたが、承嗣は千本の刀を列ねて備え、玚は志を得ず、承嗣は重く賄賂して免れた。そして張忠志・李懐仙・薛嵩とともに僕固懐恩のもとに詣でて謝罪し、行間に備えんことを願った。朝廷は二賊が続いて乱を起こし、州県が残破したため、数度大赦し、凡そ賊に詿誤した者は一切問わなかった。この時、懐恩は功高く、また賊が平定されれば重任を得られないことを恐れ、承嗣らに河北を分かち帥とさせることを建言し、鉄券を賜い、死なないことを誓わせた。承嗣を莫州刺史に拝し、三遷して貝博滄瀛等州節度使、検校太尉に至った。

承嗣は沈猜陰賊で、礼義に習わなかった。志を得るとすぐに戸口を計り、重く賦斂し、兵を練り甲を繕い、老弱をして耕させ、壮者を軍中に置き、数年もせずに十万の衆を有した。また、軽捷で強力な者一万人を選び、牙兵と号し、自ら官吏を署置し、版籍や税入はすべて私有した。また宰相を兼ねることを求め、代宗は寇乱がようやく平定されたばかりで多くを宥したため、これに就いて同中書門下平章事を加え、雁門郡王に封じ、その軍を天雄と寵称し、魏州を大都督ととく府とし、即座に長史を授け、詔して子の田華に永楽公主を娶わせ、その心を結ぼうとした。しかしその性は兇詭に著しく、ますます不遜であった。

天子が中人を遣わして李宝臣を労うと、礼をせず、宝臣はこれに背き、かえって朱滔を攻め、承嗣と和し、承嗣はこれに滄州を与えた。李正己もまた天子に請い、承嗣の入朝を許させた。十一年、帝は諫議大夫杜亞を遣わし、節を持って魏に至りその降を受け、一家を挙げて京師に還ることを許し、魏博の管轄を赦して更始させた。承嗣は逗留して至らなかった。その秋、また滑州を略し、李勉の兵を破った。ちょうど李霊耀が汴州で叛くと、詔して李忠臣・李勉・河陽の馬燧が合して討たせた。霊耀が魏に救いを求めると、承嗣は田悦に兵三万を率いて赴かせ、李勉の将杜如江・李正己の将尹伯良を破り、死者はほぼ半数に及び、勝に乗じて汴北の外城に屯し、霊耀と合した。燧・忠臣が逆撃してこれを破り、悦は脱身して遁れ、数万を斬り捕らえた。霊耀は東に走り、承嗣に帰らんとしたが、杜如江に捕らえられ、魏将の常準とともに京師に献じられた。翌年、承嗣は上書して罪を請い、詔して官爵を復し、子弟は皆もとの官のままとし、再び鉄券を賜った。

承嗣は貝・博・魏・えい・相・礠・洺の七州を盗み有したが、未だ北面して天子に仕えたことはない。二度にわたり軍を興したが、時に国威が中絶したため、窮してまた放たれ、故に承嗣は奸を恣にしても畏怖忌憚することがなかった。十四年に死す、年七十五、太保を贈られた。

承嗣の従子 悦

悦は早く孤となり、母は再嫁して平盧の戍卒に嫁ぎ、悦は母に従って淄・青の間を転々とした。承嗣が魏を得て、訪ね求めてこれを得た、年十三、拝伏して礼あり、承嗣はこれを異とし、号令を委ねたところ、裁処は皆承嗣の意に合った。長ずるに及んで、剽悍にして闘を善くし軍中に冠たり、賊忍にして狙詐、外に行義を飾り、財を軽んじて施しを重んじ、以て美誉を鉤し、人皆これに附した。承嗣はその才を愛し、将に死せんとするに当たり、諸子の弱きを顧みて、乃ち悦に命じて節度事を知らしめ、諸子をしてこれを輔けしめた。帝は詔して悦を中軍兵馬使・府左司馬より留後に擢で、俄に工部尚書を検校し、節度使とした。

悦は初め賢才を招致し、館宇を開き、天下の士を礼し、外に恭順を示し、陰にその奸を助けた。帝の晩年は特に寛弛であり、悦の奏請は従わざるはなかった。徳宗が立つと、方鎮を仮借せず、諸将は稍々惕息した。時に黜陟使洪経綸が河北に至り、悦が士七万を養うを聞き、直ちに符を下してその四万を罷め田畝に帰らしめた。悦は即ち命に奉じ、因って大いに将士を集め、好言を以てこれを激して曰く、「汝ら軍中に籍を置くこと久しく、縑廩を仰ぎ父母妻子を養う、今罷め去らば、何を恃りて生くべきか」と。衆は大いに哭した。悦は乃ち悉く家財を出してこれを給し、各々部に還るを令し、此より後、魏人は悦を徳とした。

劉晏の死に及び、藩帥は益々懼れ、又伝言に帝将に東封泰山すと、李勉遂に汴州を城す。而して李正己懼れ、兵万人を率いて曹州に屯し、乃ち人を遣わして悦を説き同叛せしむ。悦は因って梁崇義等と兵を阻み連和し、王侑・扈・許士則を腹心とし、邢曹俊・孟希祐・李長春・符璘・康愔を爪牙とした。建中二年、鎭州の李惟嶽・淄青の李納が節度の襲封を求むるも、許さず、悦が為に請うも、答えず、遂に謀を合わして同叛した。時に于邵・令狐亙等が浮屠の汰を表すに会い、悦は乃ちその軍を詐って曰く、「詔有り、軍の老疾疲弱なる者を閲す」と。これにより挙軍怨みを咨う。悦は納と濮陽に会し、納は兵を分かちて悦を佐けた。

時に幽州の朱滔等が詔を奉じて惟嶽を討つに会い、悦は乃ち孟希祐に兵五千を以て惟嶽を助けしめ、別に康愔に兵八千を以て邢州を攻めしめ、楊朝光に兵五千を以て盧疃に壁し、昭義の餉道を絶たしめた。悦は自ら兵数万を将いて進み、又朝光をして臨洺の将張伾を攻めしむ。伾は固守し、食将に尽き、賞賜足らず、乃ち愛女を飾りて衆に示して曰く、「庫廩竭きたり、願わくはこの女を以て賞に代えん」と。士は感泣し、死戦を請い、大いに悦軍を破る。詔有りて河東の馬燧・河陽の李芃と昭義軍に伾を救わしむ。三節度は狗・明の二山の間に次し、未だ進まず。伾急ぎ、紙を以て風鳶と為し、高さ百余丈、悦の営上を過ぐ、悦は善射の者をしてこれを射しむるも、及ばず。燧の営は噪ぎてこれを迎え、書を得て「三日解かずんば、臨洺の士将に悦の食と為らん」と言う。燧は乃ち壺関より鼓して東し、盧疃を破り、双岡に戦い、賊の大将盧子昌を禽えて朝光を殺し、悦は遁れて洹水を保つ。

ここにおいて曹俊は貝州刺史たり、乃ち承嗣の時の旧将にして、果敢にして謀有り。悦志を得ず、召して問う計安くより出づるかと、対えて曰く、「兵法に、十なれば則ち攻む、今公は逆を以て順に干す、勢敵わず。宜しく兵万人を留めて屯し{{!|𡻳|崞阝}}口に、以て西師を遏し、則ち河北二十四州を挙げて、惟だ公の命する所に従わん。今臨洺を攻むるは、糧竭き卒老ゆ、其の可なるを見ざるなり」と。悦の昵む扈・孟希祐等は皆これを訾り短とす、故に悦その言を聴かず。燧等は悦軍より三十里を距り、壘を築いて相望む。悦は納と兵三万を合し、洹水に陣す。燧は神策将李晟を引いて悦を挟攻し、悦大敗し、死傷二万に計り、壮騎数十を引いて夜奔り魏に至る、其の将李長春は関を拒んで内れず、以て官軍を須つ。而して三帥頓して進まず。明日、悦入るを得、長春を殺し、佩刀を把って軍門に立ち、流涕して曰く、「悦は伯父の余業を藉り、君等と休戚を同じくす。今敗亡此に及び、全きを図らんとは敢えず。然れども悦久しく天誅を稽える者は、特だ淄青・恒冀の子弟承襲を得ざるを以てし、既に報ずる能わず、乃ち兵を用い、士民を塗炭に使す。悦は正に母老いて自ら剄せざるを縁り、願わくは公等悦の首を斬りて富貴を取れ、倶に死する無かれ」と。乃ち自ら地に投ず。衆憐れみ、皆抱持して曰く、「今士馬の衆、尚お一戦すべく、事脱しくは済まずとも、死生これを以てせん」と。悦は涙を収めて曰く、「諸公悦の喪敗を以てせず、誓って存亡を同じくす、縦え身先んじて地下にしても、敢えて厚意を忘れんや」と。乃ち髪を断ちて誓いと為し、将士も亦髪を断ち、兄弟と約す。乃ち富民大家の財及び府庫の所有を率い、大いに賜与を行い。而して李再春及びその子瑤は博州を以て降り、悦の従兄昂は洺州を以て降り、燧等これを受く、悦は皆昂等の家を族す。悦自ら兵械の乏しきを視、衆単耗し、懼れ、出づる所を知らず、復た曹俊を召してこれと謀る。曹俊は軍を整え壘を完うして以て士気を振い、群心復た堅く、後十余日、燧等始めて進みて城下に薄る。

未だ幾ばくもせず、王武俊は惟嶽を殺し、而して深州は朱滔に降り、滔は兵を分かちてこれを守る。天子は武俊に恒州刺史を授け、康日知を以て深・趙二州観察使とす。武俊は賞の薄きを恨み、滔は深州を得ざるを怨む、悦は二将間すべきを知り、乃ち使いを路して王侑・許士則をして滔を説かしめて曰く、「司徒しとは詔を奉じて賊を討ち、十日とせずして、束鹿を抜き、深州を下し、惟嶽勢蹙む、故に王大夫能く逆首を得たり。聞く、幽州を出づる日、詔有りて惟嶽を破り其の地を得れば即ち麾下に隷すと、今乃ち深州を康日知に与うるは、是れ朝廷の公に信ぜざるなり。且つ上は英武独断、秦皇・漢武の風有り、将に豪桀を誅し、河朔を掃除し、父子相襲わしめず。又功臣劉晏等は皆旋踵して破滅し、梁崇義を殺し、其の口三百余を誅し、血漢江を丹くす。今日魏を破らば、則ち燕・趙を取ること轅下の馬を牽くが如し。夫れ魏博全ければ則ち燕・趙安く、鄙州の尚書必ず死を以て徳に報ぜん。且つ合従連衡し、災を救い患を恤うは、不朽の業なり、尚書願わくは上りて貝州を以て湯沐を広め、侑等をして簿最孔目を奉らしめ、司徒朝に魏に至れば則ち夕に貝に入らん、惟だ孰くこれを計れ」と。滔の心素より貝を得んと欲す、即ち大喜し、侑をして先ず還りて師期を告げしむ。

先に、詔して武俊に恒冀の粟三十万を出して滔に賜い、還って幽州に帰らしめ、突騎五百を以て燧の軍を助けしむ。武俊は悦の破らるるを懼れ、将に師を起して北伐せんとし、粟・馬を帰すを肯わず。滔は因って王郅をして武俊を説かしめて曰く、「天子は君の善戦を以てし、天下前に無しと、故に粟・馬を分散して以て君の軍を弱くす。今若し魏博を挙げば、則ち王師北向し、漳・滏の勢危うし。誠に能く連営して南に旆し、田悦を倒縣より解かば、大夫の利なり、豈に粟窖を出でず馬廄を離れざるのみならんや、又排危の義有り、声天下に満たん。大夫親しく逆首を断ち、血釁衣の袖を蔑し、日知は趙城を出でず、何の功か国に有りて、坐して二州を兼ぬる。河北の士は深州を得ざるを以て大夫の恥とす」と。武俊既に深を得て、亦喜び、即日使いをして滔に報ぜしむ。

ここにおいて田滔は兵二万を率いて寧晋に駐屯し、王武俊は兵一万五千を率いてこれと合流した。田悦は援軍が来たのを頼みに、康愔に兵を督させて官軍と禦河上で戦わせたが、大敗し、甲を棄てて城に逃げ帰った。田悦は怒り、城門を閉じて入れず、塹壕の中で踏みつけられて死ぬ者が甚だ多かった。その夏、田滔・王武俊の軍が到着すると、田悦は牛酒を整えて迎え犒労した。李燧らは魏の河西に営を張り、王武俊・田滔・田悦は河東に陣を構え、陣営の中に楼櫓を建て、両軍は相対峙して、秋から冬まで続いた。李燧は張晟に兵三千を与え、邢州・趙州から張孝忠と合流して涿州・莫州の二州を攻撃させ、幽州・薊州への通路を断たせた。

田悦は田滔の恩徳を重んじ、彼を盟主に推戴して臣下となろうとした。田滔は敢えて受けず、そこでさらに七国の故事のように議した。田悦は国号を魏とし、僭称して魏王と称し、府を大名府とし、子を府留後に任命した。扈を留守とし、許士則を司武とし、曾穆を司文とし、裴抗を司礼とし、封演を司刑とし、いずれも侍郎とした。劉士素を内史舎人とし、張瑜・孫光佐を給事中とし、邢曹俊・孟希祐を左右仆射とし、田晁・高緬を征西節度使とし、蔡濟・薛有倫を虎牙将軍とし、高崇節に軍前兵馬を執らせ、夏侯<赤真>を兵馬使とした。田晁は兵数千を率いて李納を助け鄆州を守った。翌年の夏、田滔は河間に駐屯し、大将馬寔に兵一万人を与えて魏を守らせた。ちょうど朱泚の乱が起こり、皇帝が奉天に出奔し、李燧が太原に帰還し、王武俊らも皆罷兵したので、田悦は彼らを餞別し、王武俊・馬寔に厚く贈り物をし、官属にも皆贈り物をした。

ここにおいて李抱真・王武俊は出兵して魏を救うことを約した。ちょうど詔があり、田悦を検校尚書右仆射に拝し、済陽郡王に封じ、給事中孔巣父が節を持って宣撫することとなった。初め田悦が兵を擁して以来凡そ四年、狂悖で思慮が浅く、しばしば戦って幾度も敗北し、死者は十の八に及び、兵士はこれを苦しみ、かつ戦争に飽きていた。孔巣父が到着すると、喜ばない者はなかった。田悦は孔巣父と酒宴を張り、門や階段の警備を全て撤去した。夜中に至り、従弟の田緒と族人が私語して言うには、「仆射は妄りに兵を起こし、我が一族を危うくせんとした。金帛を以て天下に厚く施すが、兄弟には及ばない。」ある者が諫めて止めさせようとしたが、田緒は怒り、諫めた者を殺し、そこで左右の者と共に垣を越えて入った。田悦はちょうど酔って、寝入っていた。田緒は刃を抜いて堂に上がり、二人の弟が諫めて止めたが、田緒は彼らを斬り、そこで手ずから田悦を刺し、併せて田基の母と妻を殺した。田悦は死に、年三十四。夜明け頃、田悦の命と偽って許士則・蔡濟を呼び寄せて事を計ろうとしたが、到着すると彼らを殺した。劉忠信という者は、田悦が常に田緒を監督させて寝門に直らせていたが、田緒は叫んで言った、「劉忠信が仆射を刺し、扈と共に謀反した。」衆は彼を捕らえ、彼は言った、「そんなことはない。」既に四肢は切断されていた。

田承嗣の第六子 田緒

田緒は字を緒といい、田承嗣の第六子である。田悦は諸弟を待遇するに隔てなく、田緒に牙軍を統率させたが、彼は凶悪で過ちが多く、嘗て鞭打って戒めた。田悦は飲食衣服について、倹約して節度があったが、田緒は常に不足を苦にし、甚だ怨みを抱き、故意に乱を起こした。田悦が死ぬと、衆が従わないことを恐れ、その徒数百を率いて出奔しようとしたが、邢曹俊が衆を率いて追いかけて連れ戻した。田緒はそこで軍中に令を下して言った、「私は先王の子である。私を立てる者には賞を与える。」衆はそこで共に田緒を留後に推戴し、扈に罪を帰して、その首を斬って示し、また田悦の親信薛有倫ら数十人を殺し、孔巣父を通じて使者を遣わし天子の命を聴いた。田滔は田悦の死を聞き、兵五千を率いて馬寔の軍と合流し、進んで魏州を攻撃した。馬寔は王莽河のほとりに陣を構え、南は河に至り、東は博州に達し、殺戮略奪甚だ多かった。人を魏に入れて田緒を招き降伏させようとした。田緒は新たにさんさんだつしたばかりで、馬寔の包囲が急であったため、使者を遣わして好意的な言葉で田滔に会見を求め、田滔はこれと盟約することを許した。曾穆は田緒に田滔と絶つよう勧めたが、田緒の部署も既に定まっていたため、城に乗り出して戦い、王武俊・李抱真は各々田悦の時のように和好を修めた。詔により即座に田緒を節度使に拝した。馬寔が魏を包囲すること凡そ三ヶ月、田滔は敗走した。

貞元元年、嘉誠公主を田緒に降嫁し、駙馬都尉に拝した。李希烈が平定されると、功により一子に八品官を賜った。田緒は猜疑心が強く、兄弟姑妹凡そ数人を殺した。兄の田朝は、李納に仕えて斉州刺史となった。ある者が李納が田朝を魏に入れて田緒に代えようとしていると言ったので、田緒は李納に厚く賄賂を贈り、かつ田朝を召し寄せたが、田朝は死を請うて行かず、そこで京師に送った。滑州を通る時、田緒がこれを奪おうとしたが、賈耽が兵を派遣して援護したため、免れた。

累遷して検校尚書左仆射・常山郡王となり、また雁門郡王に移封され、実封五百戸、同中書門下平章事を加えられた。急病で死に、年三十三、司空しくうを贈られた。少子の田季安が嗣いだ。

田緒の少子 田季安

田季安は字を夔という。母は身分が低かったが、公主が己の子と命じ、寵愛は諸兄を上回った。数歳で左衞胄曹参そうしん軍・節度副使となった。田緒が死んだ時、年十五、喪を匿して変を観、軍中で留後に推戴され、これにより節度使に授けられた。喪が明けると、検校尚書右仆射を加えられ、位を進めて検校司空となり、まもなく同中書門下平章事となった。田季安は公主の厳しさを畏れ、頗る礼法に従った。公主が薨ずると、自ら恣にし、鞠を打ち狩りをし、欲を酣にし、軍中の事は軽重を率意にし、官属が進諫しても皆聞き入れなかった。

ちょうど詔があり、中尉吐突承璀が神策兵を率いて王承宗を討つこととなった。田季安は謀って言った、「王師は二十五年にわたって河を跨がなかった。今魏を越えて趙を伐つ。趙が確かに虜となるなら、魏もまた虜となる。どうすればよいか。」ある者が五千騎を以て君の憂いを除く決戦を請うた。田季安は言った、「善し。軍を沮む者は斬る。」時に幽州の劉済の将譚忠がたまたま魏に使いしており、これを聞き、入って田季安に謁見して言った、「往年王師が蜀を取ったのも呉を取ったのも、計算は一つも誤らなかった。これは宰相の謀りごとである。今趙を伐つのに、老臣宿将を用いずして中臣に委ね、天下の甲兵を起こさずして秦の甲兵を出す。君は誰がこれを謀ったか知っているか。これは上(天子)自らが謀り、以て臣下を服させ誇ろうとしているのである。もし師が趙を叩く前に、先に魏で砕かれるならば、これは上の謀りごとが下に及ばず、かつ恥ずかしくないでいられようか。既に恥じて且つ怒れば、必ず智謀を任せ、猛将を仗り、再び挙兵して河を渡るであろう。前の敗北を鑑みれば、必ず魏を越えて趙を誅することはなく、罪の軽重を較べれば、必ず趙を先にして魏を後にはしない。これは上にも下にもならず、魏に向かって来るであろう。」田季安は言った、「計略はどう出せばよいか。」譚忠は言った、「王師が魏に入れば、君は厚くこれを犒労せよ。全軍を挙げて趙を伐つとし、密かに趙に書を送って言うのだ、『魏がもし趙を伐てば、友を売る者となる。魏がもし趙と与すれば、君に背く者となる。友を売り君に背くことは、魏は耐え忍ぶことができない。執事が城壁を緩め、一城を遺わば、魏はこれを保持して天子に献捷し符節とすることができる。これにより魏は北は趙に奉じ、西は臣となることができ、世に並ぶなき利益である。』と。趙が君を拒まなければ、魏は安泰である。」田季安はこれを然りとし、大将を遣わして兵を率い王師と会し王承宗を伐たせ、糧餉は自ら調達し、堂陽を取って報告し、太子太保を加えられた。

丘絳という者がいた。父の時の賓佐で、同府の侯臧と権力を争い、田季安は怒り、下県の尉に左遷したが、まもなく召還し、先に道の左に穴を掘っておき、到着すると、生き埋めにした。残忍で忌憚がなく、おおよそこのようなものであり、死年三十二、太尉を贈られた。

田季安の子 田懷諫

妻は元誼の娘であり、諸将を召してその子田懷諫を立てた。最も幼く、事を執ることができず、政は私奴の蔣士則が決し、しばしば諸将を更迭したので、軍中は怒り、田興を留後に推戴した。いわゆる田弘正という者であり、田懷諫を邸に帰し、蔣士則ら十余人を殺した。田季安が葬られると、田懷諫を京師に送り、右監門衞将軍を授けられ、寵賜は豊かであった。田緒の弟田縉・田華は朝廷に顕れた。

田緒の弟 田縉

縉は字を雲長といい、貞元十年に入朝し、左ぎょう衞將軍を授けられ、扶風郡公に封ぜられた。元和年間、夏綏銀節度使に任ぜられる。開元の時に宥州を置き、寇の通路を扼したが、久しくして廃されていたのを、縉は再び城を築いた。王師が蔡を伐つに当たり、縉は駱駝・牛馬を献上して軍を助けた。吐蕃が豊州を寇すと、縉は伏兵を設けてその帰路を邀え、捕斬は過当に及んだ。入朝して左衞大將軍となり、李聽がこれを代わった。聽は縉が軍糧四萬斛を盗み没し、羌人の羊馬を強取したことを弾劾し、故に吐蕃が隙に乗じたという。衡王傅に貶ぜられる。間もなく吐蕃がまた鹽州を攻めたため、房州司馬に貶ぜられた。長慶初年、左領軍衞將軍の任で終わる。

緒の弟 華

華は太常少卿となり、永樂・新都の二公主を尚う。

田氏は承嗣より懷諫に至るまで、四世、凡そ四十九年。

史憲誠

史憲誠、その先祖は奚であり、内徙して靈武に至り、建康の人となる。三世にわたり魏博の将を署され、祖父及び父の爵は皆王となった。憲誠は初め趫敢をもって父の軍に従い、田弘正が李師道を討つに当たり、先鋒兵四千を率いて河を渡り、城柵を抜き、師は踵を進めて乗勝に逐北し、鄆の堞に傅した。師道の首が伝えられると、功により御史中丞を兼ねた。

長慶二年、田布の自殺に際し、軍は乱れて且つ囂騒となった。時に憲誠は中軍兵馬使であり、河朔の旧事を頗る言ってその衆を揺るがし、衆は乃ち府に逼還し、擅に軍務を総べた。穆宗は朱克融・王廷湊が方に幽・鎭を盗むも、これを制する術なく、即ち節度使を以てこれを授けた。憲誠は外には王命を詫び、而して内には幽・鎭と結び、これに依って自らを固めた。時に李が乱れ、密かにこれと交通し、数度旄節を請うことを助け、馬頭に城を築き、黎陽に舟を具え、将に師を渡さんとする者を示した。会に天子が司門郎中韋文恪を遣わして宣慰すると、憲誠は使者に礼倨に見え、言辞悖慢であった。俄に李の斬られたことを聞き、更に恭謹にして文恪に謂いて曰く、「我は本より奚、狗の如し、唯だ主を知る、日々に箠を加うるも離れ難し」と。その譎獪此の類なり。檢校司空に進む。

李全略と婚家となり、大和年間、その子同捷が反し、潜かに糧餉を以てこれを資した。文宗は約を申し、使者相望むも、因って同中書門下平章事に進む。憲誠は大将を京師に遣わして事を偵らせ、謾言を作って自ら大とし、宰相韋處厚その詐を折り、遣わし去らしむ。憲誠懼れ、兵を出して王師に従いこれを討ち、また大将丌志沼を遣わして師二萬を率い德州を攻めしむ。時に王廷湊は同捷を援け、陰に利を以て志沼を誘う。志沼反し、永濟に屯し、兵鋭甚だしく、諸鎭共にこれを禦ぐ。憲誠急を告げ、天子詔して義武李聽をして進討せしむ。ここにおいて志沼は廷湊と合兵して貝州を劫い、聽に敗れられ、廷湊に奔る。滄景平ぐると、憲誠自ら安からず、地を納るるを請い、檢校司徒兼侍中に進み、河中に徙り、千乘郡公に封ぜられ、李聽を以て代わらしむ。

初め、憲誠は族を以て行かんとし、魏軍の留めんことを懼れ、弟憲忠に策を問う。憲忠は相・衞を分かち、帥を置くことを請い、因って魏を弱くすべしと教う。また詔を請いて聽に軍を引き志沼を図る声をあげて清河を仮道せしめよと、帝これに従う。憲誠は因って聽に倚り公に魏を去らんと欲す。及んで聽が清河に次すと、魏人驚く。憲忠曰く、「彼は賊を取るに仮道す、吾が軍は朝廷に負くこと無し、何をか懼るるぞ」と。乃ち稍く安んず。然れども魏は素より兵を清河に聚め、聽の至るや、その甲を悉く出だし、将に魏に入らんとす。魏軍これを聞き懼れ、明日甲を尽くして出づ。聽は軍を按じて館陶に進まず。衆は憲誠が己を売りしと謂い、曰く、「我を紿いて恩を沽ぼすか」と。夜に攻めてこれを殺し、監軍史良佐を並せ、何進滔を推して帥とし以て請う。詔して憲誠に太尉を贈る。実に大和三年なり。憲誠の起つこと、凡そ七年、死す。

何進滔

何進滔、靈武の人、世々本軍の校となる。少くして魏に客し、軍中に委質し、田弘正に事う。弘正が王承宗を攻むるに、夜兵を以て鎭州に圧す。承宗は健将をして鉄を以て面を冒し、精騎千余を引き魏の壁に馳せしむ。進滔は猛士を率いてこれを逐い、幾くんか獲んとす。鎭人大いに懼る。李師道を討つに従い、功により侍御史を兼ねる。憲誠死す、軍中に傳呼して曰く、「何公を得てこれに事えば、軍安んぜん」と。進滔下令して曰く、「公等既に我を迫る、吾が令を聴くべし」と。衆唯唯す。「孰か前使及び監軍を殺せる者、疏を出だして之を出せ」と。凡そ九十余人を斬り、脅従する者を釈く。素服して臨哭し、将吏皆入り吊す。詔して留後に拝し、俄に節度使を授け進む。魏に居ること十余年、民これに安んず。累進して檢校司徒・同中書門下平章事となる。開成五年死し、太傅を贈られ、謚して定と曰う。

進滔の子 重順

子重順襲ぐ。武宗詔して河陽李執方・滄州劉約をして京師に朝することを諭さしめ、或いは地を割き自ら効せんとすれども、命を聴かず。時に帝新に即位し、重ねて兵を起す。乃ち福王綰を節度大使とし、重順を以て自ら副とし、名を弘敬と賜う。帝劉稹を討つに、東面詔討使を加う。弘敬は稹に倚りて唇歯と相し、深入の意無し。詔に因りてその母に事うる孝なることを称し、軍中に久しく、宜しく亟に戦うべしとす。弘敬も亦自ら如し。及んで王宰が乾河を逾えて澤州を攻むると、天子は稹が山東の兵を起すを慮り、弘敬に掎角してその道を塞がしめんと命ずれども、詔に奉ぜず。王元逵が邢州を克ち、上党を攻むると、弘敬已むを得ず、乃ち師を出す。未だ幾ばくもせず、宰が陳許の兵を統べて仮道し磁州を収む。弘敬懼れ、乃ち進戦し、平恩を抜く。詔して檢校尚書左仆射とする。澤潞平ぐると、同中書門下平章事を加う。懿宗初年、中書令を兼ね、楚國公に封ぜられる。咸通七年死し、太師を贈られる。

進滔の子 全臯

子全臯襲ぐ。明年、節度使に拝す。龐勛を平げ、功により檢校司空・同中書門下平章事に遷る。母喪に服し、賜わった節を納れ、喪を行わんと願うも、詔して許さず。全臯は年少にして殺戮を好み、下に小罪あれば、鮮やかに縱貰せず、人人危懼す。後に軍中に相傳えて糧帛を減ずと、衆遂に叛き、全臯は単騎遁る。衆は韓君雄を推して以て軍事を総べしめ、而して全臯を殺す。実に咸通十一年なり。詔して太保を贈る。

進滔より全臯に至るまで、凡そ三世、四十二年なり。

懿宗は更に普王を大使とし、君雄を留後に抜擢す。君雄は魏州の人なり。五月を経ずして、副大使に進み、三遷して檢校司空となる。僖宗即位の際、同中書門下平章事に進み、允中の名を賜う。六十一歳にして死す、太尉を贈られる。

進滔の子 簡

子の簡は、留後を襲ぐ。俄かに節度使を授けられ、累進して檢校太尉・同中書門下平章事に至り、魏郡王に封ぜらる。帝蜀に在り、天下乱る。簡は強く完きを恃み、地を拓かんと欲し、非常の覬望あり。時に諸葛爽、黄巢のために河陽を守る。簡これを攻む。爽走り、即ち兵を以て戍し、邢・洺を略して帰る。東に鄆を攻む。鄆の将曹存実出でて戦い、敗れて死す。其の将朱宣、衆を率いて守る。久しく下らず。爽、其の隙に乗じ、復た河陽を取る。簡還りてこれを攻む。爽、新鄕に迎え撃ち、簡大敗す。楽彦禎、一軍を以て先に還る。簡奔りて帰り、疽背に発して死す。彦禎これに代わる。再世、凡そ十二年。

楽彦禎

彦禎も亦た魏人なり。簡の時、博州刺史を歴任し、河陽を下すに功あり、澶州に遷る。魏人これを立て、詔して檢校工部尚書とし、留後を領せしめ、節度使に進め、累加して檢校尚書左僕射・同中書門下平章事となる。

彦禎は儒術を喜び、公乗億・李山甫を引きて皆幕府に在らしむ。嗣襄王煴の乱に、彦禎は山甫をして鎭州の王镕を見えしめ、幽・邢・滄諸鎭と同盟して賊を拒がんと欲す。镕厚く謝し、遂に克たず。彦禎は王室の微なるを見て、頗る驕満して軌に不なり、大いに其の衆を興し、魏の城を周囲八十里に築き、一月にして畢る。人其の残虐を怨む。子の従訓は、兇悖なる資性あり、王鐸を劫し、其の家を取る。魏人これを直しとせず。又た亡命五百人を聚め、「子将」と号し、臥内に出入す。軍中に藉々としてこれを悪む。従訓懼れ、服を易えて近県に奔る。彦禎即ちこれを以て六州指揮使・相州刺史とし、兵械・泉布を輦載し、跡道に接す。軍中益々貳す。彦禎常に夢み、佩帯を解きて覆ひて行く。既に寤て曰く、「此れ神の我に告ぐ、下将に背く者有らんか」と。已にして軍乱れ、果たして彦禎を囚え、迫りて桑門と為し、尋いでこれを殺す。大将趙文㺹を推して総留後とす。

従訓、朱全忠に救いを求む。全忠為に師を起こし、内黄に次く。従訓、相州より軍三万を以て城に傅く。文㺹出でず、衆懼れ、これを殺し、更に羅弘信を推して軍を帥わしむ。弘信出でて戦い、従訓敗る。余衆を裒めて洹水に壁す。弘信、将程公佐を遣わし撃ち斬る。首を軍門に梟す。実に文徳元年なり。彦禎の起つより、凡そ七年。

羅弘信

羅弘信、字は徳孚、魏州貴鄕の人なり。騎射に善く、状貌雄偉なり。裨将として、馬牧を主る。魏に巫有りて弘信に告げて曰く、「白頭老人、君に謝せしむ。君当に是の地有るべし」と。弘信曰く、「神我を危うくせんと欲するか」と。文㺹死し、衆曰く、「孰か吾が軍を主たんことを願う者」と。弘信輒ち曰く、「神我に命ず」と。衆環視し、以て宜しと為し、遂にこれを立てる。詔して留後を知るに擢で、再遷して節度使とし、檢校司空・同中書門下平章事・章郡公を加う。

朱全忠、黄巢を討つ。粟三万斛・馬二百匹を餉る。秦宗権乱る。復た詔して弘信に粟二万斛を以て軍を助けしむ。未だ輸せず、檢校工部尚書雷鄴来たりて粟を責む。弘信素より牙軍に脅され、擅に鄴を殺す。全忠、檄を以て譙譲す。弘信敢えて報いず。大順初、全忠、太原の李克用を討ち、将趙昌嗣を遣わし弘信に見え、糧馬を仮らんとす。又た邢・洺に屯し、相・衞を仮道せんと議す。弘信納れず。全忠、丁会・龐師古・葛従周・霍存等をして万騎を率い河を度らしむ。弘信、内黄に壁す。凡そ五戦皆敗れ、大将馬武等を禽え、乃ち厚幣を以て和を求む。全忠河北を図らんと方にし、弘信を結納せんと欲し、乃ち兵を還す。

全忠、兗鄆を攻む。朱宣、克用に援を求め、李存信を遣わし兵を率いてこれを救い、道を請いて莘に屯す。其の下魏の芻牧を侵す。弘信平らかならず。克用、鎭・定の兵を合して河曲に営し、魏・滑の路を搤えんと欲す。弘信馳せて全忠に告げ、遊舸を禁じ、往来を絶たんことを請う。久しくして魏人至らず。全忠其の紿くを疑い、自ら将として滑州に至る。弘信来たりて告げて曰く、「魏人の未だ動かざるは、正に緩くこれを図らんと欲するなり」と。全忠遂に曹に屯す。太原の将李瑭、宣を救い、復た莘に壁す。弘信其の暴を厭い、而して瑭溝壘を以て自ら固む。全忠、使を遣わし謂いて曰く、「晋人の志は河朔を併せんとす。師還らば、公の為に之を憂う」と。弘信乃ち瑭を攻め、全忠に師期を告ぐ。全忠将に滑に趨りて援と為らんとし、封丘に次く。而して弘信已に瑭を破る。克用怒り、兵を以て魏博を掠む。全忠の将侯言、洹水に屯す。克用の兵数え戦を求む。言敢えて出でず。全忠、葛従周を以て将に代う。従周暗竇を為し、克用の兵至る毎に、輒ち精卒を出して薄戦し、必ず捷つ。克用洹を逾え西北より挑戦す。従周大いにこれを破り、其の子落落を禽え、乃ち引き去る。然れども魏を侵して已まず、白龍潭に大戦し、弘信敗る。克用追い魏門に薄きて還る。弘信乃ち全忠に師を乞う。全忠、将を遣わし洹水に壁して魏を救う。克用の遊兵、相・魏を剽す。民死すること十九。弘信其の逼に堪えず。光化元年、全忠に如きて亟に告ぐ。全忠復た葛従周を遣わし兵を将いて追躡せしめ、洺州を抜き、其の刺史邢行恭を執る。復た邢を攻め、馬師素自ら抜けて走る。遂に礠州を囲み、袁奉韜自殺す。五日とせずして三州を取り、首級二万を斬り、其の将百余りを禽う。是より克用の兵出でず。

初め全忠亟に兗鄆を討つ。弘信の貳するを懼れ、故に歳時賂遺すること良く厚し。弘信饋答有る毎に、全忠其の使を引きて北面して拝受し、兄事す。弘信以て己を厚くすと為し、故に心を推す。

累進して檢校太師、守侍中となり、臨清郡王に徙る。光化元年死す。年六十三。太師を贈られ、追封して北平王とし、謚して曰く莊肅。子の紹威襲ぐ。

弘信の子 紹威

紹威は字を端己という。幼少より英気あり、性質精悍にして、吏事に明辨なり。留後を領するや、昭宗直ちに詔して父の節度を嗣がしめ、累次加えて檢校太尉とし、「忠勤宣力致聖功臣」の號を賜う。幽州の劉仁恭兵を引きて鎭・冀を攻め、遂に魏を掠む。紹威全忠に告急す。全忠自ら將として仁恭と內黃に戰い、日中、大いに之を破り、首三萬級を斬る。葛從周方に邢を守るも、亦その眾を魏縣に敗る。仁恭眾十萬を以て貝州を陷す。全忠李思安をして內黃に屯せしめ、從周軍を悉くして魏に入らしむ。仁恭魏を攻む。從周五百騎を以て出でて鬥い、門者に謂ひて曰く、「前に強敵あり、易ふべからず」と。扉を闔ふるを命ず。士死戰し、仁恭の將二人を執る。仁恭別將をして內黃を攻めしむるも、思安に敗らる。從周勝に乘じて八壁を破り、北を追ひて臨清に至る。仁恭乃ち滄州に還り、李克用と魏を圖る。紹威全忠と兵を連ねて滄州を伐ち、從周德州を攻め拔き、進みて浮陽に薄る。仁恭兵を以て至る。監軍蔣玄暉請ふ、其の壁に入るを須ち、食盡きて取るべきなりと。從周曰く、「兵は機に在り、機は上將に在り、豈に監軍の知る所ならんや」と。老鴉堤に逆戰し、之を破り、首五萬を斬り、其の將百餘人を獲る。又た唐昌範橋に戰ひ、六たび遇ふて輒ち勝つ。仁恭和を約し、乃ち還る。紹威全忠に德し、故に奉事愈よ固し。全忠帝を洛陽らくように遷す。諸鎭に命じて宮闕を治めしむ。而して紹威太廟を營り、侍中を加へられ、鄴王に封ぜらる。

魏の牙軍は、田承嗣軍中の子弟を募りて之を爲せるに起り、父子世襲し、姻黨盤互し、悍驕にして法令を顧みず、憲誠等皆其の立つ所なり。慊からざる有れば、輒ち之を害して噍類無し。稟を厚く給し、姑息して制すること能はず。時の語に曰く、「長安ちょうあん天子、魏府牙軍」と。其の勢強きを謂ふなり。紹威曩の禍を懲り、外は優假を示すと雖も、內に堪へず。俄にして小校李公佺亂を作すも、克たず、滄州に奔る。紹威乃ち決策して屠翦し、楊利言を遣はして全忠と謀る。全忠乃ち苻道昭を遣はし兵を將ひて魏軍二萬と合し滄州を攻め、公佺を求め、又た李思安を遣はして戰を助けしむ。魏軍之を疑はず。紹威の子は全忠の婿なり。會ひて女卒す。馬嗣勛をして來り葬を助けしむ。長直千人を選び盟器を納るるも、實は甲を以て入る。全忠滑より河を濟ひ、聲言して滄景行營を督すとす。紹威出で迎へんと欲し、銳兵を假りて入らんとす。軍中勸めて出づる毋かれとし、而して止む。紹威人を遣はして潛かに庫に入り、纮を斷ち甲を解かしむ。夜に註ぎ、奴客數百を將ひて嗣勛と之を攻む。軍庫に趨きて兵を得るも、戰ふ可からず。因りて夷滅すること凡そ八千族、市空しとなる。平明、全忠亦至る。事定まるを聞き、馳せて軍に入る。魏兵行に在る者變を聞く。是に於て史仁遇高唐を保ち、李重宗縣に屯し、分かち據ること貝・澶・衞等六州。仁遇自ら魏博留後と稱す。全忠滄州の兵を解きて高唐を攻む。仁遇眾を引きて走るも、遊騎に獲らる。支解せらる。進みて博・澶二州を拔く。李重霸走るも、俄に其の首を斬る。相・衞皆降る。

紹威其の逼を除くとは雖も、然れども勢弱く、全忠に牽制せられ、刺史に比す。內に悒悒として悔恨す。全忠の兵滄州に在り。紹威饋餉を主り、鄴より長蘆に至る五百里、道に絶ゆること無し。全忠還る。紹威元帥行府を建て、土木壯麗を極む。全忠大いに悦ぶ。紹威間を説きて曰く、「邠・岐・太原皆狂譎にして、唐室を復すを以て言と爲す。王宜しく自ら神器を取り、天下の望を專にすべし」と。全忠歸りて、乃ち禪を受く。

紹威多く書を聚め、萬卷に至る。江東の羅隱詩を爲すに工なり。紹威厚幣を以て之を結び、譜系昭穆を通じ、因りて己の爲す所の詩を目して「偷江東集」と云ふ。

贊して曰く、田承嗣幾ば禽らる。李寶臣承倩に怒りて魏を釋す。建中の際、三將軍銳を持ちて血を躪むも、功成る者無し。四叛勢を連ね、兵結び難作る。天子宗廟を守ること能はず。傳へて弘正に及び、汙を去りて朝に入るも、數年にして復た亂る。唐終に魏を得ず。夫の豎刁齊を亂すと、孰れか輕重を爲さん。