序
小人の情は、猥りに険しく顧藉なく、また日夕天子に侍し、狎れば則ち威なく、習えば則ち疑わず。故に昏君は昵する所に蔽われ、英主は忽せにした所に禍を生ず。玄宗は遷幸して崩じ、憲宗・敬宗は弑されて殞ち、文宗は憂いて僨し、昭宗に至って天下は亡びた。禍は開元に始まり、天祐に極まり、兇愎参会し、党類殲滅し、王室従って潰喪す。譬えば猶ほ火を灼きて蠹を攻むるが如く、蠹尽きて木焚く、詎に哀しまざらんや。その跡を尋ぬれば、残気剛ならず、柔情遷り易く、褻れば則ち上なく、怖れば則ち怨みを生じ、これに権を借れば則ち専らにし、禍を為せば則ち迫って近く、緩やかならば相攻め、急なれば相一す。これ小人の常勢なり。噫、梟狐神ならず、天これに昏きを与う、末として乱を如何ともするなし。故に中葉以来の宦人の大なる者を取って篇に稡む。
楊思勖
思勖は鷙忍にして、敢えて殺戮し、得たる俘虜は必ず面・脳を剥ぎ、髪の皮を褫って人に示し、将士は憚り服し、敢えて視る者なく、これをもって能く功を立てた。内給事牛仙童が張守珪の賂を納れたとき、詔して思勖に付してこれを殺させた。思勖は格に縛り付け、箠打ち惨憺にして勝えず、乃ち心を探り、手足を截ち、肉を剔いで食わせ、肉尽きて乃ち死するを得しめた。
附 楚客
楚客は、楽安の人、後に桂州都督を歴任して致仕し、松滋県侯に封ぜられた。
高力士
高力士は、馮盎の曾孫なり。聖暦初め、嶺南討撃使李千里が二閹児を上った。曰く金剛、曰く力士。武后はその強悟なるをもって、勅して左右に給事せしめた。累に坐して逐い出され、中人高延福が養って子とし、故にその姓を冒す。武三思に善くし、歳余りして、復た禁中に入るを得、司宮台に稟食す。既に壮く、長さ六尺五寸、謹密にして、詔令を伝えるに善く、宮闈丞となる。
玄宗が藩王たる時、力士は心を傾けて附結し、既に韋氏を平げて後、乃ち内坊に属するを啓し、内給事に抜擢された。先天年中、蕭至忠・岑羲等を誅する功により右監門衛将軍となり、内侍省事を知る。ここにおいて四方の奏請は皆先ず省にて後進め、小事は即ち専決し、洗沐する時も未だ出でず、殿帷の中に眠息し、僥幸の者は一見を願うこと天人の如し。帝曰く「力士が上に当たれば、我が寝て乃ち安し」と。この時、宇文融・李林甫・蓋嘉運・韋堅・楊慎矜・王鉷・楊国忠・安祿山・安思順・高仙芝等は、才寵をもって進むとはいえ、皆厚く力士と結んだ故に、将相に踵いて至ることを得、自余の風に承け附会する者は数えられず、皆その欲する所を得た。中人たる黎敬仁・林昭隠・尹鳳翔・韓莊・牛仙童・劉奉廷・王承恩・張道斌・李大宜・朱光輝・郭全・辺令誠等は、並びに内供奉し、或いは外にて節度軍を監し、功德を修め、鳥獣を市うこと、皆その使となった。使い還りて、裒獲する所は、動けば巨万を数え、京師の甲第池園・良田美産は、占める者十の六、寵は力士と略等しかったが、然れども悉く力士の左右軽重を藉って乃ち能く然りとした。粛宗が東宮に在りし時、兄の事として力士に接し、他の王・公主は翁と呼び、戚裏の諸家は尊んで爹と曰い、帝は或いは名を呼ばずして将軍と呼んだ。
力士は幼くして母の麦氏と相失い、後、嶺南節度使がこれを瀧州に得て、迎え還したが、復た記識せず、母曰く「胸に七つの黒子あるか否か」と。力士は袒いて示すに、言う如し。母は金環を出し、「児の服する所なり」と曰う。乃ち相い持って号慟した。帝はために越国夫人に封じ、その父を追贈して広州大都督とした。延福とその妻は、力士の貴い時に故に在り、侍養は麦氏と均しかった。金吾大将軍程伯献は力士と約して兄弟となり、後、麦氏亡きとき、伯献は縗绖して吊いを受けた。河間の男子呂玄晤は京師に吏たり、女は国姝なり、力士これを娶る。玄晤は刀筆の史から抜擢されて少卿に至り、子弟の仕える者は皆王傅となった。玄晤の妻死するとき、中外より賻を贈り葬送し、第より墓に至るまで、車徒背を相望んで絶えず。
初め、李林甫と牛仙客は、帝が東都へ行幸するのを憚り、且つ京師への漕運が不足していることを知って、賦粟を漕運に助けさせ、また和糴法を用いた。数年して、国用は漸く充実した。帝が大同殿で斎戒し、力士が侍ると、帝は言った、「朕は長安を出てからほぼ十年になるが、海内に事なく、朕は吐納導引を行い、天下の事を林甫に任せようと思うが、どうか」。力士は答えて言った、「天子が順動されるのは、古の制度です。税入が常ならば、人は労を告げません。今、賦粟を漕運に充てておりますが、臣は国に旬月の蓄えがないことを恐れます。和糴が止まなければ、私蔵は尽き、末業に趨く者が多くなります。また、天下の権柄を人に仮すべきではありません。威権が既に振るわれれば、誰が敢えて議する者がありましょう」。帝は悦ばず、力士は頓首して自ら陳べた、「心が狂易し、言葉が謬って死に当たります」。帝は酒を設け、左右は万歳を呼んだ。これにより内宅に還り、事に復さなかった。累進して驃騎大将軍に加えられ、渤海郡公に封ぜられた。来廷坊に仏祠を建て、興寧坊に道士祠を立て、珍楼宝屋は国費をもってしても及ばなかった。鐘が完成すると、力士は公卿を宴し、一たび鐘を叩けば礼銭十万を納め、佞悦する者は二十叩きに至り、少なくとも十叩きを下らなかった。都の北、澧水の堰に五つの硙を並べ、日に三百斛の賃銭を得た。
袁思藝という者がいた。帝もまた愛幸したが、驕倨甚だしく、士大夫は疎遠にして畏れ、一方で力士は陰巧にして人の誉を得た。帝は初め内侍省監二員を置き、秩は三品とし、力士と思藝をこれに任じた。帝が蜀に行幸すると、思藝は遂に賊に臣し、一方で力士は帝に従い、斉国公に進んだ。帝は粛宗が即位したと聞き、喜んで言った、「吾が子は天に応じ人に順い、元を至徳と改め、孝を忘れず、尚ほ何を憂えよう」。力士は言った、「両京は失守し、生人は流亡し、河南漢北は戦区となり、天下は痛心しております。而るに陛下は何を憂うるかと為され、臣は敢えて聞きません」。上皇に従って還り、開府儀同三司に進み、実封五百戸を賜った。
程元振
程元振は、京兆三原の人。少時に宦人として内侍省に直し、内射生使、飛龍廄副使に遷る。張皇后が越王を立てんと謀り、元振は太子に謁し、その奸を発し、李輔国と共に難を討つを助け、太子を立て、これが代宗である。右監門衛将軍に拝し、内侍省事を知る。帝は薬子昂に元帥行軍司馬を判せしめようとしたが、固く辞したので、乃ち元振を以て命じ、保定県侯に封じた。再び驃騎大将軍、邠国公に遷り、禁兵を尽く総べた。一年を逾えず、権は天下を震わせ、輔国の右に在り、兇決またこれを過ぎ、軍中では十郎と呼んだ。
王仲升という者は、初め淮西節度使として、襄州の張維瑾の部将と申州で戦い、捕らえられた。賊が平らぎ、元振はこれを薦めて右羽林大将軍兼御史大夫とした。将軍が大夫を兼ねるのは仲升に始まる。裴冕は元振と忤り、乃ち韓穎等の罪を掎って施州に貶した。来瑱は襄・漢を守って功有り、元振は嘗て諉属したが応ぜず、仲升と共に誣って瑱を殺させた。同華節度使李懷讓は構えられ、憂い甚だしく自殺した。元振は素より李光弼を悪み、数たび媒蠍して以てこれを疑わせた。瑱等は上将、冕・光弼は元勲、既に誅斥され、或いは自ら省みず、方帥はこれにより携解した。
広徳初め、吐蕃・党項が内侵し、詔して天下の兵を集めたが、一士も奔命する者無し。虜は便橋を叩き、帝は倉黄として出て陝に居し、京師は陥落し、賊は府庫を剽ぎ、閭弄を焚き、蕭然として空と為った。ここにおいて太常博士、翰林待詔の柳伉が上疏して言った、「犬戎は数万の衆を以て関を犯し隴を度り、秦・渭を歴て、邠・涇を掠め、血刃せずして京師に入り、謀臣は一言を奮わず、武士は一戦を力めず、卒を提げて叫呼し、宮闈を劫し、陵寢を焚く。これは将帥が陛下に叛くなり。朝義の滅びしより、陛下は以て智力の能くする所と為し、故に元功を疎んじ、近習に委ね、日引き月長じて以て大禍を成す。群臣廷に在りて一も顔を犯し慮を回らす者無し。これは公卿が陛下に叛くなり。陛下始めて都を出でし時、百姓填然として府庫を奪い、相殺戮す。これは三輔が陛下に叛くなり。十月朔より諸道の兵を召し、尽く四十日、一隻の輪も関に入る者無し。これは四方が陛下に叛くなり。内外離叛し、一の魚朝恩のみ陝郡にて戮力すと雖も、陛下独り能く此を以て社稷を守れましょうか。陛下は今日の勢いを以て安しと為しますか、危しと為しますか。若し危しと為すならば、豈に高枕して天下の計を為さざるを得ましょう。臣聞く、良医疾を療するは、病に当たりて薬を飲ます。薬疾に当たらざれば、猶お益無きが如し。陛下は今日の病何の繇りか此に至るかを見給う。天下の心は、乃ち陛下の賢良を遠ざけ、宦豎を任じ、将相を離間して幾くんか亡ぶに近きを恨む。必ず宗廟社稷を存せんと欲すれば、独り元振の首を斬り、馳せて天下に告げ、悉く内使を出して諸州に隷せしめ、独り朝恩を留めて左右に備え、陛下は神策兵を持して大臣に付し、然る後に尊号を削ぎ、詔を下して咎を引き、徳を率い行いを励まし、嬪妃を屏け、将相を任ず。若し曰わく『天下其れ朕が自新して過ちを改むるを許すか、宜しく即ち士を募り西して朝廷と会すべし。若し朕が悪未だ悛まざるを以てするならば、則ち帝王の大器、敢えて聖賢を妨げず、其れ天下の往く所を聴け』と。此くの如くにして兵至らず、人感ぜず、天下服さざれば、請う赤き臣の族を以て謝せん」。疏聞こえ、帝は公議与せざるを顧み、乃ち詔を下して尽く元振の官爵を削ぎ、放って田里に帰らしめた。帝還り、元振は三原より婦人の衣を着て私かに京師に入り、司農卿陳景詮の家に宿り、不軌を図った。御史が劾按し、長流して溱州に流し、景詮は新興尉に貶した。元振は行きて江陵に至りて死んだ。
附 駱奉先
時にまた駱奉先という者あり、これも三原の人、右驍衞大將軍を歴任し、数たび帝に従って討伐に従軍し、特に寵幸を受け、廣德初め、仆固懷恩の軍を監した。奉先は恩寵を恃んで甚だ貪婪であり、懷恩は不平を抱き、やがてその讒言を恐れて、遂に叛した。事が平定すると、奉先を抜擢して軍容使とし、畿内の兵を掌り、権勢の炎は盛んに燃え上がった。永泰初め、吐蕃がたびたび京師を驚かすに及び、初めて鄠に城を築き、奉先をその使とし、県外の廬舎を悉く破壊して、一尺の椽も残さなかった。累ねて江國公に封ぜられ、鳳翔軍を監し、大歷末に卒した。
魚朝恩
魚朝恩は、瀘州瀘川の人である。天寶末、品官として黄門に給事し、内に陰険で狡猾、詔令の宣納を善くした。至德初め、李光進の軍を監した。京師が平定されると、三宮檢責使となり、左監門衞將軍として内侍省事を知った。九節度が賊を相州に囲んだ時、朝恩を観軍容・宣慰・処置使とした。観軍容使は朝恩に始まる。史思明が洛陽を攻めると、朝恩は神策兵を率いて陜に屯した。洛陽が陥落し、思明が長駆して硤石に至り、その子朝義を遊軍とした。肅宗は鋭兵十万を詔して渭水に沿って東進し、軍を援けさせた。朝恩は兵を陜東に抑え、神策将の衞伯玉をして賊将の康文景らと戦わせ、これを破った。洛陽が平定されると、屯を汴州に移し、開府儀同三司を加えられ、馮翊郡公に封ぜられた。寶應年中、また陜に還って屯した。代宗が吐蕃を避けて東幸した時、衞兵は離散し、朝恩は全軍を率いて華陰で奉迎し、乗輿と六軍はようやく振るった。帝はその功を徳とし、さらに天下観軍容・宣慰・処置使と号し、神策軍を専領させ、賞賜は際限がなかった。
朝恩は軽薄な後生を引きいて門下に置くことを好み、『五経』の大義を講じ、文章を作り、文武兼備の才と称し、寵愛を誤って伺った。
永泰年中、詔して国子監を判らせ、鴻臚・礼賓・内飛龍・閑廄使を兼ね、鄭國公に封ぜられた。初めて学に詣でる時、詔して宰相・常参官・六軍将軍を悉く集めさせ、京兆尹が食を設け、内教坊が音楽と俳優を出して宴を助け、大臣の子弟二百人、朱紫雑然として附学生となり、廡の次に列した。また銭千万を賜い、その子銭を取って秩飯の供給に充てた。毎回視学する時、神策兵数百を従え、京兆尹の黎幹が銭を率いて従者を労い、一度の費用は数十万に及び、しかも朝恩の色は常に満足することがなかった。
凡そ詔して群臣を会して事を計る時、朝恩は貴を恃み、でたらめな言葉で坐人を折り愧じさせてその上に出で、元載のように弁が強くても拱手して黙するのみで、ただ礼部郎中の相裏造と殿中侍御史の李衎のみが酬詰を往復し、一度も屈服せず、朝恩は快からず、衎を黜して造を動かそうとした。また執政を易えようと謀って朝廷を震駭させようとし、そこで百官を都堂に会し、かつ言った、「宰相たるものは、元気を和し、群生を輯むるものである。今水旱時ならず、屯軍数十万、饋運困窮し、天子臥して安席せず、宰相は何をもってこれを輔けるのか?退いて賢路を避けず、黙々として尚何の頼みがあろうか。」宰相は俯首し、坐する者は皆色を失った。造は座を移ってこれに従い、因って言った、「陰陽和せず、五穀価騰りするは、皆軍容の事であって、宰相の関わる所ではない。かつ軍が引き離されず散らぬ故に、天はこれに災いを降すのである。今京師に事無く、六軍は相維いで鎮まることができ、また十万を屯すれば、饋糧が足りぬ所以であり、百司は稍食無し、軍容がこれを行い、宰相は文書を行うのみで、何に罪を帰すというのか。」朝恩は衣を払って去り、言った、「南衙は朋党をなして、我を害さんとす。」釈菜の会があり、『易』を執って座に昇り、百官皆在り、『鼎』卦には覆餗の象ありと言って、宰相を侵した。王縉は怒り、元載は怡然としていた。朝恩は言った、「怒るは常の情、笑う者は測り難し。」載はこれを恨んで未だ発しなかった。
朝恩には賜わった別荘があり、池沼の景勝爽やかであったので、表して仏祠とし、章敬太后のために福を薦め、即ち後の謚を以て祠の名とし、許された。ここにおいて用度は奢侈浩大となり、公然と曲江の諸館・華清宮の楼榭・百司の行署・将相の故第を壊し、その材を収めて興作を助け、費用は万億を慮うること無し。既に数たび郭子儀を誹毀したが、聞き入れられず、そこで盗賊を遣わしてその先祖の冢墓を発かせた。子儀は詭弁をもって自らを解き、衆の疑いを安んじた。久しくして、国子監・鴻臚礼賓等使の判を譲り、内侍監を加えられ、韓に徙封され、実封百戸を増やされた。やがて検校国子監を兼ねた。
初め、神策都虞候の劉希暹は魁健で騎射に能く、最も朝恩に昵信され、太仆卿として交河郡王に封ぜられた。兵馬使の王駕鶴はただ謹厚であり、また徐國公に封ぜられた。希暹は朝恩に勧めて北軍に獄を置かせ、陰に悪少年を放って富人を横捕りし吏に付して考訊させ、因って法に中て、資産を録して軍に没入し、皆誣服して冤死したので、市人はこれを「地牢に入る」と号した。また万年県の吏の賈明觀は朝恩に倚って捕搏を恣に行い、財を積むこと巨万に及び、人その奸を発くもの無し。朝廷の裁決に、朝恩が預からぬことがあると、輒ち怒って言った、「天下の事に我によらざるものあろうか!」帝は聞いて喜ばなかった。養子の令徽という者は、まだ幼く、内給使となり、緑の服を着て、同列と争って憤り、帰って朝恩に告げた。明日、帝に謁して言った、「臣の子は位が低い、金紫を得たいと願い、班列の上に在りたい。」帝が未だ答えぬうちに、有司が既に紫服を前に奉り、令徽は謝した。帝は笑って言った、「小児の章服、大いに称する。」ますます快からず。
元載は左散騎常侍崔昭を京兆尹に任用し、財貨を厚く用いてその党与の皇甫温・周皓と結んだ。温は陝に駐屯し、皓は射生将であった。これより朝恩の密謀や奥深き言葉は、悉く帝の知るところとなった。希暹は帝の意向を察し、密かに朝恩に告げた。朝恩は少し懼れたが、帝の遇する所が未だ衰えざるを見て、故に自ら安んじながら密かに不軌を計った。帝は遂に元載に倚りこれを除くことを決し、成らざるを懼れたが、載は曰く、「陛下ただ臣に専属せられよ、必ず済みましょう」と。朝恩が殿に入る時は、常に武士百人を従えて自衛し、皓がこれを統率し、温は外に兵を握っていた。載は鳳翔尹李抱玉を山南西道節度使に転じ、温を代わりに鳳翔節度使とし、陽(表向き)にその権を重んじ、実は温を内に引き入れて自らを助けさせた。載はまた、鳳翔の郿を京兆に分け、鄠・盩厔及び鳳翔の虢・宝鶏を抱玉に与え、興平・武功・鳳翔の扶風天興を神策軍に与えることを議した。朝恩はその土地を利し、自ら封殖(領地を広げ)し、憂いとなるを知らなかった。郭子儀は密かに申し上げた、「朝恩は嘗て周智光と結んで外応とし、久しく内兵を領しております。早く図らねば、変は大いになりましょう」と。載は温を京師に留め、直ちには遣わさず、皓と共に朝恩を誅することを約した。謀が定まり、これを聞かせると、帝は曰く、「善く図れ、反って禍を受けることなかれ」と。寒食の節に当たり、禁中に宴し、既に罷みて、営に還らんとする時、詔を留めて事を議すべしとあり。朝恩は元来肥満で、毎度小車に乗って宮省に入った。帝は車の音を聞き、危坐し、載は中書省を守った。朝恩至り、帝はその異図を責め、朝恩は自ら弁し悖傲(逆らって傲慢)であった。皓と左右の者がこれを捕らえて縊り殺した。死年四十九、外に知る者無し。帝はこれを隠し、詔を下して観軍容等使を罷め、実封戸六百を増し、内侍監は元の如しとした。外には皆、「詔を奉じた後、縊りに投じた」と言った。屍を家に還し、葬るに銭六百万を賜う。
附 竇文場・霍仙鳴
竇文場・霍仙鳴は、始め共に東宮に隷属し、徳宗に事え、名有らず。魚朝恩の死より、宦官は再び兵を典せず、帝は禁衛を尽く白志貞に委ねた。志貞は富人の金を多く納めて軍に補し、ただその庸(代役金)を収めるのみで身は軍に在らず。涇師の乱に及び、帝が近衛を召すも、一人も至る者無く、ただ文場等が宦官及び親王の左右を率いて従った。奉天に至り、帝は志貞を逐い、左右軍を併せて文場に主とさせた。興元初年、詔して神策左廂兵馬を監せしめ、王希遷に右を監せしめ、馬有麟を左神策軍大将軍とし、軍額はここに始まる。
帝が山南より還り、両軍は復た完うしたが、帝は宿将の制し難きを忌み、故に文場・仙鳴に分かれてこれを総せしめ、天威軍を廃して左右神策に入れた。この時、竇・霍の権は朝廷に振るい、諸方の節度大将は多くその軍より出で、台省の要官はその門下に走り、援影を丐う者は足相躡んだ。衛士朱華は按摩をもって文場の寵幸を得、慮補置に参じ、賄賂数万緡を求め、藩鎮の贈遺は累百鉅万に及び、士の妻女を略するに憚るところ無し。詔してこれを軍中に殺す。その隆赫この如し。
その後、楊志廉・孫栄義が左右中尉となり、権を招き驕肆し、竇・霍と略等し。帝の晩節、民間の禁中の事に関する訛言を聞き、北軍が太学生何竦・曹寿を捕えて系訊す。人情大いに懼れ、司業武少儀が上書して「もし罪測り難きこと有らば、願わくは四方に明示せられよ」と。俄かに釈放を得たり。是の時、宦官復た盛んとなる。
附 焦希望
希望は涇陽の人、明威将軍を歴任し、洪州都督を贈られる。尚進は河東の人、忠武将軍を歴任し、開府儀同三司を贈られる。志廉は弘農の人、左監門衛大将軍を歴任し、栄義は涇陽の人、右武衛大将軍を歴任す。並びに揚州大都督を贈られる。
劉貞亮
劉貞亮、本姓は俱、名は文珍、養われた宦官の父を冒したので、故に改む。性忠強、義理を識る。平涼の盟に、渾瑊の軍中に在り、虜の変に会い、捕らえられて西に赴かんとし、俄かにして帰るを得たり。宣武軍を監し出で、自ら親兵千人を置く。貞元末、兵を領する宦官の順に附く者益々衆し。
時に順宗立ち、痼疾に淹りて朝すること能わず、ただ李忠言・牛美人が侍る。美人は帝の旨を忠言に付し、忠言はこれを王叔文に授け、叔文は柳宗元等と裁定し、然る後に中書に下す。然れども未だ縦欲を得ず、遂に神策兵を奪って自ら強からんとし、即ち範希朝を用いて京西北禁軍都将とし、宦者の権を収む。而して忠言は素より懦謹、毎に叔文と事を論ずるを見るも、敢えて異同すること無く、ただ貞亮のみ乃ちこれと争う。又、朋党の熾んじて結ぶを悪み、因って中人劉光琦・薛文珍・尚衍・解玉・呂如全等と共に帝を勧めて広陵王を立てて太子とし監国せしむ。帝はその奏を納れ、貞亮は学士衛次公・鄭絪・李程・王涯を召して金鑾殿に至らせ、制詔を草して定制せしむ。太子既に立ち、叔文の党を尽く逐い、政を大臣に委ね、議者はその忠を美とす。
高崇文が劉辟を討つに、復た監軍となる。初め、東川節度使李康は辟に破られ、これを囚う。崇文至り、辟は康を帰して雪がんことを求む。貞亮は賊を拒まざるを劾してこれを斬る。故に専悍を以て見訾らる。累遷して右衛大将軍、内侍省事を知る。元和八年卒す。開府儀同三司を贈られる。
憲宗の立つは、貞亮の有功と為す所なり。然れども終身寵仮(寵愛して仮借)する所無し。呂如全は内侍省内常侍・翰林使を歴任し、樟材を擅に取って第を治むるに坐し、東都獄に送られ、閿郷に至り自殺す。又、郭旻は酔って夜禁に触れ、杖殺せらる。五坊の朱超晏・王志忠は鷹人を縦して民家に入らしめ、二百を搒(打ち据え)て職を奪わる。これによりて憚り畏れざる者無し。
吐突承璀
吐突承璀は、字を仁貞といい、閩の人である。黄門として東宮に仕え、掖廷局博士となり、明察にして才幹があった。憲宗が即位すると、累進して左監門将軍・左神策護軍中尉・左街功徳使に抜擢され、薊国公に封ぜられた。
王承宗が叛くと、承璀は帝が征討に意欲的であると推し量り、自ら出陣を請うた。帝はその果断勇敢さを見て喜び、任に堪えると考え、直ちに詔して承璀を行営招討処置使とし、左右神策軍及び河中・河南・浙西・宣歙の兵を率いさせた。内寺伯の宋惟澄・曹進玉を館駅使とした。河南・陝・河陽は惟澄が主管し、京・華・河中から太原までは進玉が主管した。また詔して内常侍の劉国珍・馬朝江に分かって易・定・幽・滄等州の糧料使を領させた。ここにおいて諫官の李庸阝・許孟容・李元素・李夷簡・呂元膺・穆質・孟簡・独孤郁・段平仲・白居易らが延英殿で集まって対し、古より宦官が大帥の位に就いた例はなく、四方の笑いものとなる恐れがあると論じた。帝はそこで招討宣慰使に改め、通化門に臨んでその出陣を慰労した。承璀は衆を統率する遠大な謀略がなく、盧従史に侮られ軽んじられ、一年を過ぎても功績がなかったが、密詔によって従史を捕らえさせ、また密かに人を遣わして承宗を説き、上書して罪を待つようにさせたので、ようやく詔して軍を返し、帰還して中尉となった。段平仲は承璀が軽率な謀略で国費を浪費し、国威を損なったと弾劾し、斬首しなければ天下に謝罪できないと論じた。帝はやむなく、軍器荘宅使に左遷した。まもなく左衛上将軍に任じ、内侍省を管掌させた。
ちょうど劉希光が羽林大将軍孫璹から二十万緡の銭を受け取って方鎮を求めた事件があり、詔により賜死となったが、その跡が承璀に及んだため、命じて淮南軍監軍に出させた。奸佞の者である太子通事舎人の李涉が投匭して承璀らの冤状を訴えた。この時、孔戣が匭事を管掌し、その副本を閲して受け付けず、直ちに上表してその奸状を明らかにし、李涉を峽州司倉参軍に左遷した。しかし帝は承璀を殊の外厚遇し、李絳が翰林に在ってその過失を苦言して論じたため、決意して出させたのである。帝は後に承璀を還そうと考え、李絳を宰相から罷免し、承璀を召し出して内弓箭庫使とし、再び左神策中尉に復帰させた。恵昭太子が薨じると、承璀は澧王の立太子を請うたが、聞き入れられなかった。常に一室を飾り、賜わった詔勅を蔵していたが、地面に二尺の毛が生えたのを不吉として、自ら糞除して埋めた。一年余りして帝が崩御すると、穆宗は以前の議論を恨みに思い、禁中で彼を殺した。敬宗の時、左神策中尉の馬存亮がその冤罪を論じ、詔して子の士曄に収葬を許した。宣宗の時、士曄を右神策中尉に抜擢した。
この時、諸道は毎年宦官となる少年を進上し、「私白」と号し、閩・嶺地方が最も多く、後には皆任事に就いた。当時、閩は中官の巣窟であると言われた。咸通年間、杜宣猷が観察使となると、毎年時節に吏を遣わしてその祖先を祭らせ、当時「勅使墓戸」と号された。宣猷はついに群宦官の力によって宣歙観察使に転任した。
馬存亮
馬存亮は、字を季明といい、河中の人である。元和の時、累進して左神策軍副使・左監門衛将軍となり、内侍省事を管掌し、左神策中尉に進んだ。軍の籍簿には凡そ十余万が記されていたが、存亮の選抜は特に精妙で、部隊に疲れた兵士はなく、部署に冗員はいなかった。
敬宗の初め、染署の工人張韶は卜者の蘇玄明と親しくしていた。玄明が言うには、「私はかつてあなたのために占ったが、あなたは殿上で食事をするはずで、私もそれに与る。上(天子)が昼夜猟をし、出入りに規律がないと聞く。図ることができる。」張韶は毎度染材を宮中に運び入れる際、衛士に咎められなかった。そこでひそかに百余人の工人らと結び、兵器を車中に隠し、材木を運ぶ者のように装って右銀台門に入り、日暮れに事を起こすことを約した。その積荷を詰問する者があったので、張韶は謀略が発覚したと思い、その者を殺し、兵を出して大声で呼び隊列を成し、浴堂門は閉ざされた。時に帝は清思殿で球を打っており、驚き、右神策軍に行幸しようとした。ある者が言うには、「賊が宮中に入ったが、その多寡を知らず、道が遠く危ぶまれる。左軍に入る方が近くて速い。」帝はこれに従った。初め、帝は常に右軍中尉の梁守謙を寵愛し、遊幸の度に両軍が競技すると、帝は多く右軍の勝利を望み、左軍はこれを恨みに思っていた。この時、存亮は出迎え、帝の足を捧げて泣き、背負って入った。五百騎を以て二太后を迎えに行かせたが、到着する頃には、賊は既に関を斬って清思殿に入り、御座に昇り、乗輿の残りの膳を盗み食いし、玄明を揖して向かい合って食事し、かつ「占いの通りだ」と言った。玄明は驚いて「これだけか!」と言った。張韶はこれを嫌い、宝器を悉くその徒党に賜り、弓箭庫を攻めた。仗士が防戦したが勝てなかった。存亮は左神策大将軍の康芸全・将軍の何文哲・宋叔夜・孟文亮、右神策大将軍の康誌睦・将軍の李泳・尚国忠に騎兵を率いさせて賊を討たせた。日暮れに、張韶及び玄明を射て皆死なせた。賊が入った初め、宦官らは倉皇に望仙門から出奔し、内外は行在所を知らなかった。夜明け近くに、乱党を悉く捕らえ、左右両軍が宮中を清め、車駕は還御した。群臣が延英門に詣でて天子に拝謁したが、到着した者は十の一二に過ぎず、賊が入った門の警戒が不十分だった責任で数十人が坐し、杖罰に処されたが誅殺はされなかった。存亮には実封二百戸を賜り、梁守謙は開府儀同三司に進み、その他功績に応じて賞賜に差があった。存亮は一時の功で最も高かったが、権勢を推譲し、淮南軍監軍を求めた。代わって帰還すると、内飛龍使となった。大和年間、右領軍衛上将軍として致仕し、岐国公に封ぜられ、卒して揚州大都督を追贈された。
存亮は徳宗に仕え、六朝に歴事し、資質は端正で慎重であり、士卒をよく訓育した。初めて禁衛を去る時、兵士らは皆泣いた。唐代において宦官で忠謹と称された者は、存亮・西門季玄・厳遵美の三人のみである。
附 厳遵美
遵美の父季寔は、掖廷局博士であった。大中時、宮人が宣宗を弑殺しようと謀った。この夜、季寔は咸寧門の下で宿直し、変事を聞きつけて射てこれを殺した。翌日、帝は労って「お前でなければ、私は危うく免れなかった。」と言い、北院副使に抜擢し、終に内枢密使となった。
遵美は左軍容使を歴任し、嘗て嘆いて言った。「北司の供奉官は胯衫で給事したものだ。今や笏を執るのは、過ぎたことである。枢密使には聴事(政務を執る広間)がなく、ただ三間の舎があるだけで書物を蔵していたに過ぎない。今や堂状に帖黄して事を決するのは、これ楊復恭が宰相の権を奪った過失である。」当時の中官の横行を痛んで言ったのであろう。後に昭宗に従って鳳翔に遷り、致仕を求め、青城山に隠棲し、八十余歳で卒した。
仇士良
仇士良は、字を匡美といい、循州興寧の人である。順宗の時に東宮に侍することができた。憲宗が嗣位すると、再び遷って内給事となり、出て平盧・鳳翔等軍の監軍となった。嘗て敷水駅に宿泊した時、御史の元稹と上廳の部屋を争い、稹を撃って傷つけた。中丞の王播が奏上して、御史と中使は先着順で正寝を得るべきであり、旧章の通りとすべきと請うた。帝は稹を正しいとせず、その官を斥けた。元和・大和の間、数度内外五坊使を任じられ、秋に内畿で鷹を検閲する際、到る所で官吏に供応を強要し、その暴状は寇盗よりも甚だしかった。
文宗と李訓は王守澄を殺そうと謀り、士良が元来守澄と不和であったため、左神策軍中尉兼左街功徳使に抜擢し、互いに牽制させようとした。やがて李訓が宦官を悉く追放しようと謀ると、士良はその謀略を悟り、右神策軍中尉の魚弘誌・大盈庫使の宋守義と共に帝を挟んで宮中に還った。王涯・舒元輿は既に縛られ、士良は脅迫と侮辱をほしいままにし、自ら謀反を認めさせ、その文書を朝廷に示した。この時、その実情を弁明できる者なく、皆誠に謀反であると思った。士良はそこで兵を放って捕らえさせ、軽重を問わず悉く両軍で殺害し、公卿の半数が空席となった。事が平定すると、特進・右驍衛大将軍を加えられ、弘誌は右衛上将軍兼中尉、守義は右領軍衛上将軍となった。
李石が政を輔けると、威厳があり風骨があった。士良が議論する度に数度屈したため、深く忌み嫌い、賊に命じて親仁里で李石を刺させたが、馬が逸走して免れた。李石は恐れて辞職し、士良はますます畏れるところがなくなった。
澤潞の劉従諫は本来、李訓と共に鄭注を誅殺する約束をしていた。李訓が死ぬと、仇士良が志を得たことを憤り、上書して言うには、「王涯ら八人は皆、宿儒の大臣であり、富貴を保とうと願っていたのに、どうして苦しんで謀反などしようか。今、大戮が加えられて既に追うべからざるものとなったが、彼らを逆賊と名付けることは、九泉の下で憤りを抱かせることである。そうでなければ、天下の義夫節士は、禍を畏れて身を伏せ、誰が陛下と共に天下を治めようとするだろうか」と。即ち、李訓が移送した書状を部将の陳季卿に持たせて奏聞させた。季卿が到着した時、ちょうど石に盗賊が発生し、京師が擾乱したため、疑って進もうとしなかった。従諫は大いに怒り、季卿を殺し、朝廷に書状を飛ばした。また言うには、「臣は李訓と共に鄭注を誅殺しようとしたが、鄭注は本来、宦官に引き立てられた者であるから、彼らに知らせなかった。今、四方に宰相が内官を除こうとしたと伝わっており、両軍中尉がそれを聞き、自らを救おうとして、妄りに相殺戮し、反逆と称している。もしも大臣が無将の謀を抱いていたなら、自ら執って有司に付すべきであり、どうして捕虜を放ち劫掠させ、屍を闕下に横たわらせることなどあろうか。陛下は目が届かず、耳にも聞こえなかったのである。かつ、宦官の根と党は内に蔓延している。臣は面陳しようとしたが、横に戮害を被ることを恐れ、謹んで封疆を修め、甲兵を繕い、陛下の腹心となろう。もし奸臣が制し難いならば、誓って死をもって君側を清めん」と。書状が聞こえると、人々は伝え観た。士良は沮喪し恐れ、即ち従諫を検校司徒に進めて、その言を和らげようとした。従諫は動かし得ると知り、また言うには、「臣の陳べることは国の大體に係る。聞き入れられるならば、宜しく王涯らの罪を洗い宥すべきであり、聞き入れられないならば、賞は妄りに出るべきではない。どうして死んだ者の冤が晴らされず、生きている者が祿を受けることがあろうか」と。固く辞した。累次上書し、士良らの罪を暴き指弾した。帝は去ることができなかったが、然しながらその言に頼ってやや自ら強くした。これより後、鬱々として楽しまず、両軍の球獵宴会は絶えた。
開成四年、風痹に苦しみ、少し間が空くと、宰相を召して延英殿で引見し、退いて思政殿に座り、左右を顧みて言うには、「直っている学士は誰というか」と。答えて「周墀です」と言う。召し寄せると、帝は言う、「お前の見るところ、朕はどのような君主か」と。墀は再拝して言う、「臣には知ることはできませんが、然しながら天下では陛下を堯・舜の主と言っています」と。帝は言う、「問うた所以は、周の赧王・漢の献帝とどちらがましかということだ」と。墀は惶駭して言う、「陛下の徳は、周の成王・康王、漢の文帝・景帝でも比べるに足らず、どうして自ら二主に比べられるのですか」と。帝は言う、「赧王・献帝は強臣に制せられたが、今朕は家奴に制せられている。自ら遠く及ばないと思う」と。因りて涙を流し、墀は地に伏して流涕した。後に再び朝することなく、大漸に至るまでという。
初め、枢密使の劉弘逸・薛季棱、宰相の李玨・楊嗣復が太子を奉じて監国させようと謀り、士良と仇弘志が議して更に立て替えようとしたが、李玨が従わなかったので、乃ち詔を矯って潁王を皇太弟とし、士良が兵を以て奉迎し、太子は還って陳王となった。初め、荘恪太子が薨じると、楊賢妃が安王を引き入れようと謀ったが、成らなかった。武宗が既に立つと、士良がその事を発し、帝に除くよう勧めて人望を絶とうとしたので、故に王と妃は皆死んだ。士良は驃騎大將軍に遷り、楚国公に封ぜられ、弘志は韓国公に封ぜられ、実封三百戸を賜った。俄かに李玨・嗣復は罷免されて去り、弘逸・季棱は誅殺された。
士良が老いた時、宦官たちが挙げて邸に送り還すと、謝して言うには、「諸君は善く天子に仕え、老夫の言葉を聞くことができるか」と。衆は唯々とした。士良は言う、「天子を閑暇にさせてはならない。暇があれば必ず書を観、儒臣に接し、則ちまた諫めを受け入れ、智深く慮遠くし、玩好を減らし、遊幸を省みるようになる。我々の恩は薄く、権は軽くなる。諸君の為に計るに、財貨を殖やし、鷹馬を盛んにし、日に球獵声色を以てその心を蠱惑し、極めて侈靡にし、悦んで息むことを知らせず、則ち必ず経術を斥け、外事を暗くし、万機を我に在らしめよ。恩沢権力はどこへ行こうとするのか」と。衆は再拝した。士良は二王・一妃・四宰相を殺し、貪酷二十餘年、亦た術を以て自ら将し、恩礼衰えずという。死んだ明年、その家に数千の兵器が蔵されていたことが発覚し、詔して官爵を削り、その家を籍没した。
初め、士良・弘志は文宗が李訓と謀ったことを憤り、屡々帝を廃そうとした。崔慎由が翰林学士であった時、夜直の半ばに至らぬうちに、中使が召し入れると、秘殿に至り、士良らが堂上に坐しているのを見た。帷帳は周密で、慎由に謂って言うには、「上は不豫已久しく、即位以来、政令多く荒闕す。皇太后に制有りて嗣君を更に立てんとす。学士は詔を作るべし」と。慎由は驚いて言う、「上は高明の徳天下に在り、安んぞ軽く議すべけんや。慎由の親族中表千人、兄弟群従且つ三百、何ぞ覆族の事と与にすべけんや。死すとも命を承けず」と。士良らは黙然とし、久しくして後戸を開き、小殿に引き至ると、帝がそこにいた。士良らは階を歴りて帝の過失を数え、帝は俯首した。既にして士良は帝を指して言う、「学士でなければ、再びここに坐することは得られない」と。乃ち慎由を送り出し、戒めて言う、「泄らすな、禍は爾の宗族に及ぶ」と。慎由はその事を記し、箱枕の間に蔵し、当時人は知らなかった。将に没せんとする時、その子の胤に授けた。故に胤は中官を憎み、終に討ち除いた。蓋し禍の原は士良・弘志に在りという。
楊復光
楊復光は、閩の人である。本姓は喬氏。武力有り、少く内常侍楊玄价の家に養われ、頗る節誼を以て自ら奮い、玄价は之を奇とした。宣宗の時、玄价は塩州軍を監し、刺史劉臯を誣って殺した。臯は威名有る者で、世にその冤を訟うた。稍々遷って左神策軍中尉となり、宰相楊收を讒して去らせ、権寵は時に震う。
復光は謀略を有し、累ねて諸鎮の軍を監す。乾符の初め、平盧節度使曾元裕を佐けて賊王仙芝を撃ち、これを破る。招討使宋威が江西に於いて仙芝を撃つに、復光は軍中にあり、判官呉彦宏に請ひて賊を約して降らしむ。仙芝、将尚君長を遣はして自ら縛して約の如くせしむ。威、其の功を疾み、密かに僖宗に請ひて之を誅せしむ。故に仙芝怨み、復た兵を引いて叛く。後に天子、威の禍を階せるを悟り、之を罷め、兵を以て復光に与ふ。乃ち進みて徐唐莒を禽す。王鐸、招討と為るに、復光仍て監軍たり。鐸の荊南を棄つるや、山南東道節度使劉巨容其の地を定め、忠武別将宋浩を以て荊南を領せしめ、泰寧将段彦謨之を佐けしむ。復光の父嘗て忠武軍を監し、而して浩已に大将と為り、復光を見て之を少なしとし、礼を為さず。彦謨も亦た浩の下に居るを恥ぢ、遂に隙有り。復光曰く、「胡ぞ之を殺さざる」と。彦謨、慓士を引きて浩を撃ち殺す。復光、客常滋を以て留後を仮し、而して浩の罪を奏し、彦謨を薦めて朗州刺史と為す。詔して鄭紹業を荊南節度使と為し、復光を以て忠武軍を監せしめ、鄧州に屯し、賊の右衝を遏つ。帝西幸し、紹業を召して行在に見えしむ。復光更に彦謨を引いて荊南節度使と為す。彦謨、辺を行くと紿り、復光に詣り、黄金数百両を以て謝と為す。其の後、忠武周岌賊命を受け、嘗て夜宴し、復光を召す。左右曰く、「彼既に賊に附く、必ず公に利あらず、行かざるに如かず」と。復光固より往く。酒所にて時事を語るに、復光泣きて曰く、「丈夫の感ずる所は、独り恩と義のみ。彼恩義を顧みず、利害を規る、何ぞ丈夫たるや。公匹夫奮ひて侯に封ぜられ、乃ち十八葉の天子を捐て、北面して賊に臣す、何の恩義利害か昧々たるや」と。岌流涕して曰く、「吾が力足らず、陽に合して陰に之を離る。故に公を召して計らんとす」と。因りて杯を持ちて盟して曰く、「酒の如く有らん」と。即ち子守亮を遣はして賊使を伝舎に斬らしむ。秦宗権蔡州に拠りて叛く。岌・復光忠武兵三千を以て之に入り見ゆ。宗権即ち部将王淑を遣はし兵万人を持して従はしむ。復光荊・襄を定め、師鄧に次ぐ。淑逗遛す。復光之を斬り、其の軍を併せて八と為し、鹿宴弘・晋暉・張造・李師泰・王建・韓建等を以て之が将と為し、進みて南陽を攻む。賊将朱温・何勤逆戦す。大いに敗れ、遂に鄧州を収め、北に追ひて藍橋に至る。会ひて母喪有り、師を班す。俄に起たれて天下兵馬都監と為り、諸軍を総べ、東面招討使王重榮と並力して関中を定む。朱温同州を守る。復光使いを遣はし鐫諭す。温、其の部を以て降る。方に賊の強きに、重榮憂へて出ずる所を知らず、復光に謂ひて曰く、「賊に臣すか、将た国に負かん。拒み戦はんか、則ち兵寡し。奈何」と。復光曰く、「李克用我と世を共にして患難を同じくす。其の人、奮ひて身を顧みず。比に数たび召すも未だ即ち至らざるは、太原の道通ぜざるに由るのみ。禍を忍ぶ者に非ず。若し上の意を諭さば、彼宜しく必ず来らん」と。重榮曰く、「善し」と。王鐸に白して詔使を以て太原に至らしむ。克用の兵乃ち出づ。京師平ぐ。功を以て開府儀同三司・同華制置使を加へ、弘農郡公に封じ、号を賜ひて「資忠輝武匡国平難功臣」と曰ふ。卒す河中に。観軍容使を贈り、謚して忠肅と曰ふ。
復光は下を御するに恩有り。軍中其の死を聞き、皆慟哭す。而して麾下功を立てる者多し。諸子将帥と為る者数十人、守宗も亦た忠武節度使と為る。
贊
贊して曰く、楚の鄖公辛は敢へて君を讎とせずして父の冤を忘れず。昭湣の世、両軍の寵遇厚薄有り。而して卒に存亮を用ひて難を夷ぐ。功及ぶ者莫し。古より忠臣は疏斥不用より出づること蓋し多し。存亮豈に記書道理を通ずるの人ならんや。何ぞ其れ君臣の大誼を識ること明らかなる甚だしき。大なる労を屍せず、権を畏れて外に処るは、又愈よ賢なり。夫れ「龍蛇」の詩を書く者と、何ぞ其れ小なるや。