新唐書

巻二百零七 列傳第一百三十二 宦者上

巻二百零七 列傳第一百三十二 宦者上

序

原文序

唐代の制度では、内侍省の官に内侍四人、内常侍六人、内謁者監・内給事各十人、謁者十二人、典引十八人、寺伯・寺人各六人がある。また五局がある。第一は掖廷局で、宮嬪の簿籍を主管する。第二は宮闈局で、宮門の警護を担当する。第三は奚官局で、宮中の疾病死喪を処理する。第四は内仆局で、供帳燈燭を主管する。第五は内府局で、中蔵の給納を主管する。局には令と丞があり、いずれも宦官がこれをつとめる。

原文唐制:內侍省官有內侍四,內常侍六,內謁者監、內給事各十,謁者十二,典引十八,寺伯、寺人各六。又有五局:一曰掖廷,主宮嬪簿最;二曰宮闈,扈門闌;三曰奚官,治宮中疾病死喪;四曰內仆,主供帳燈燭;五曰內府,主中藏給納。局有令,有丞,皆宦者爲之。

太宗は詔して内侍省に三品官を立てず、内侍をもってその長とし、階は第四とし、事を任せず、ただ門閣の守禦・廷内の掃除・稟食のみとした。武后の時、その人員をやや増した。中宗に至って、黄衣の宦官は二千員に及び、七品以上の員外官を千員置いたが、なお朱紫の衣を着る者は少なかった。玄宗は承平の世を継ぎ、財用富足し、志は大きく事は奢り、賞賜爵位を惜しまなかった。開元・天宝のころ、宮嬪はおおむね四万に至り、宦官で黄衣以上の者は三千員、朱紫の衣を着る者は千余人に及んだ。その意にかなう者はすなわち三品の将軍に拝され、門に戟を列ねた。殿頭で供奉する者は、委任が華やかで重く、節を持ち命を伝え、その光焔殷々として四方を動かした。至る郡県では奔走し、献遺は万を数えるに至った。功德を修め、禽鳥を市うこと、一たびその使となれば、なおかつ数千緡を費やした。監軍は権を握り、節度使せつどしはかえってその下に出た。ここにおいて甲舍・名園・上腴の田で中人の名義となるものは京畿の半ばを占めた。粛宗・代宗は庸弱で、これに倚って捍衛とした。故に李輔国は尚父として顕れ、程元振は援立によって奮い起ち、魚朝恩は軍容として重んぜられたが、なお常に兵を主とすることは得なかった。徳宗は朱泚の賊を懲らしめ戒めたので、左右神策・天威等の軍を宦官に委ねてこれを主とさせ、護軍中尉・中護軍を置き、禁兵を分かち提げさせた。ここにおいて威柄は下に遷り、政は宦人に在り、手を挙げ伸縮するに、便ち軽重があった。至って慓士奇材は、則ち養って子とし、巨鎮強藩は、則ち争って我が門より出ず。

原文太宗詔內侍省不立三品官,以內侍爲之長,階第四,不任以事,惟門閣守禦、廷內掃除、稟食而已。武後時,稍增其人。至中宗,黃衣乃二千員,七品以上員外置千員,然衣朱紫者尚少。玄宗承平,財用富足,誌大事奢,不愛惜賞賜爵位。開元、天寶中,宮嬪大率至四萬,宦官黃衣以上三千員,衣朱紫千餘人。其稱旨者輒拜三品將軍,列戟於門。其在殿頭供奉,委任華重,持節傳命,光焰殷殷動四方。所至郡縣奔走,獻遺至萬計。修功德,市禽鳥,一爲之使,猶且數千緡。監軍持權,節度返出其下。於是甲舍、名園、上腴之田爲中人所名者半京畿矣。肅、代庸弱,倚爲扞衞,故輔國以尚父顯,元振以援立奮,朝恩以軍容重,然猶未得常主兵也。德宗懲艾泚賊,故以左右神策、天威等軍委宦者主之,置護軍中尉、中護軍,分提禁兵,是以威柄下遷,政在宦人,舉手伸縮,便有輕重。至慓士奇材,則養以爲子;巨鎮強藩,則爭出我門。

小人の情は、猥りに険しく顧藉なく、また日夕天子に侍し、狎れば則ち威なく、習えば則ち疑わず。故に昏君は昵する所に蔽われ、英主は忽せにした所に禍を生ず。玄宗は遷幸して崩じ、憲宗・敬宗は弑されて殞ち、文宗は憂いて僨し、昭宗に至って天下は亡びた。禍は開元に始まり、天祐に極まり、兇愎参会し、党類殲滅し、王室従って潰喪す。譬えば猶ほ火を灼きて蠹を攻むるが如く、蠹尽きて木焚く、詎に哀しまざらんや。その跡を尋ぬれば、残気剛ならず、柔情遷り易く、褻れば則ち上なく、怖れば則ち怨みを生じ、これに権を借れば則ち専らにし、禍を為せば則ち迫って近く、緩やかならば相攻め、急なれば相一す。これ小人の常勢なり。噫、梟狐神ならず、天これに昏きを与う、末として乱を如何ともするなし。故に中葉以来の宦人の大なる者を取って篇に稡む。

原文小人之情,猥險無顧藉,又日夕侍天子,狎則無威,習則不疑,故昏君蔽於所昵,英主禍生所忽。玄宗以遷崩,憲、敬以弒殞,文以憂僨,至昭而天下亡矣。禍始開元,極於天祐,兇愎參會,黨類殲滅,王室從而潰喪,譬猶灼火攻蠹,蠹盡木焚,詎不哀哉!跡其殘氣不剛,柔情易遷,褻則無上,怖則生怨,借之權則專,爲禍則迫而近,緩相攻,急相一,此小人常勢也。噫!梟狐不神,天與之昏,末如亂何。故取中葉以來宦人之大者稡之篇。

楊思勖

原文楊思勖

楊思勖は、羅州石城の人、本姓は蘇氏、養われた姓を冒す。少くして内侍省に給事し、玄宗に従って内難を討ち、左監門衛将軍に抜擢され、帝は爪牙として倚った。開元初め、安南の蛮渠梅叔鸞叛き、黒帝と号し、三十二州の衆を挙げ、外に林邑・真臘・金鄰等国と結び、海南を占拠し、衆四十万と号した。思勖は行くことを請い、詔して首領の子弟十万を募り、安南大都護光楚客とともに馬援の故道より出で不意を襲い、賊は愕眙して謀る暇なく、遂に大敗し、屍を封じて京観とし還った。十二年、五溪の首領覃行章乱を為し、詔して思勖を黔中招討使とし、兵六万を率いて往き、行章を執り、斬首三万級、功により輔国大将軍に進み、祿俸・防閣を給された。泰山封禅に従い、驃騎大将軍に進み、虢国公に封ぜられた。邕州封陵の獠梁大海反し、賓・横等州を破り、思勖またこれを平らげ、大海等三千人を禽え、支党を討ち斬ること皆尽くした。瀧州の蛮陳行範自ら天子と称し、その下の何遊魯は定国大将軍と号し、馮璘は南越王と号し、州県四十を破った。詔して思勖に永・道・連三州の兵を発し、淮南の弩士十万を率い、陣において遊魯・璘を襲い斬らしめた。行範は盤遼諸洞に走り、思勖は衆を悉くして窮追し、生け捕りにし、その党六万を坑い、馬金銀巨万を獲ること数えしめた。卒す、年八十余。

原文楊思勖,羅州石城人,本蘇氏,冒所養姓。少給事內侍省,從玄宗討內難,擢左監門衞將軍,帝倚爲爪牙。開元初,安南蠻渠梅叔鸞叛,號黑帝,舉三十二州之眾,外結林邑、真臘、金鄰等國,據海南,眾號四十萬。思勖請行,詔募首領子弟十萬,與安南大都護光楚客繇馬援故道出不意,賊驢眙不暇謀,遂大敗,封屍爲京觀而還。十二年,五溪首領覃行章亂,詔思勖爲黔中招討使,率兵六萬往,執行章,斬首三萬級,以功進輔國大將軍,給祿俸、防閣。從封泰山,進驃騎大將軍,封虢國公。邕州封陵獠梁大海反,破賓、橫等州,思勖又平之,禽大海等三千人,討斬支黨皆盡。瀧州蠻陳行範自稱天子,其下何遊魯號定國大將軍,馮璘南越王,破州縣四十。詔思勖發永、道、連三州兵,淮南弩士十萬,襲斬遊魯、璘於陣。行範走盤遼諸洞,思勖悉眾窮追,生縛之,坑其黨六萬,獲馬金銀鉅萬計。卒,年八十餘。

思勖は鷙忍にして、敢えて殺戮し、得たる俘虜は必ず面・脳を剥ぎ、髪の皮を褫って人に示し、将士は憚り服し、敢えて視る者なく、これをもって能く功を立てた。内給事牛仙童が張守珪の賂を納れたとき、詔して思勖に付してこれを殺させた。思勖は格に縛り付け、箠打ち惨憺にして勝えず、乃ち心を探り、手足を截ち、肉を剔いで食わせ、肉尽きて乃ち死するを得しめた。

原文思勖鷙忍,敢殺戮,所得俘,必剝面、腦、褫發皮以示人,將士憚服,莫敢視,以是能立功。內給事牛仙童納張守珪賂,詔付思勖殺之。思勖縛於格,箠慘不可勝,乃探心,截手足,剔肉以食,肉盡乃得死。

附 楚客

原文附 楚客

楚客は、楽安の人、後に桂州都督を歴任して致仕し、松滋県侯に封ぜられた。

原文楚客者,樂安人,後歷桂州都督致仕,封松滋縣侯。

高力士

原文高力士

高力士は、馮盎の曾孫なり。聖暦初め、嶺南討撃使李千里が二閹児を上った。曰く金剛、曰く力士。武后はその強悟なるをもって、勅して左右に給事せしめた。累に坐して逐い出され、中人高延福が養って子とし、故にその姓を冒す。武三思に善くし、歳余りして、復た禁中に入るを得、司宮台に稟食す。既に壮く、長さ六尺五寸、謹密にして、詔令を伝えるに善く、宮闈丞となる。

原文高力士,馮盎曾孫也。聖歷初,嶺南討擊使李千里上二閹兒,曰金剛,曰力士,武後以其強悟,敕給事左右。坐累逐出之,中人高延福養爲子,故冒其姓。善武三思,歲餘,復得入禁中,稟食司宮臺。既壯,長六尺五寸,謹密,善傳詔令,爲宮闈丞。

玄宗が藩王たる時、力士は心を傾けて附結し、既に韋氏を平げて後、乃ち内坊に属するを啓し、内給事に抜擢された。先天年中、蕭至忠・岑羲等を誅する功により右監門衛将軍となり、内侍省事を知る。ここにおいて四方の奏請は皆先ず省にて後進め、小事は即ち専決し、洗沐する時も未だ出でず、殿帷の中に眠息し、僥幸の者は一見を願うこと天人の如し。帝曰く「力士が上に当たれば、我が寝て乃ち安し」と。この時、宇文融・李林甫・蓋嘉運・韋堅・楊慎矜・王鉷・楊国忠・安祿山・安思順・高仙芝等は、才寵をもって進むとはいえ、皆厚く力士と結んだ故に、将相に踵いて至ることを得、自余の風に承け附会する者は数えられず、皆その欲する所を得た。中人たる黎敬仁・林昭隠・尹鳳翔・韓莊・牛仙童・劉奉廷・王承恩・張道斌・李大宜・朱光輝・郭全・辺令誠等は、並びに内供奉し、或いは外にて節度軍を監し、功德を修め、鳥獣を市うこと、皆その使となった。使い還りて、裒獲する所は、動けば巨万を数え、京師の甲第池園・良田美産は、占める者十の六、寵は力士と略等しかったが、然れども悉く力士の左右軽重を藉って乃ち能く然りとした。粛宗が東宮に在りし時、兄の事として力士に接し、他の王・公主は翁と呼び、戚裏の諸家は尊んで爹と曰い、帝は或いは名を呼ばずして将軍と呼んだ。

原文玄宗在藩,力士傾心附結,已平韋氏,乃啟屬內坊,擢內給事。先天中,以誅蕭、岑等功爲右監門衞將軍,知內侍省事。於是四方奏請皆先省後進,小事即專決,雖洗沐未嘗出,眠息殿帷中,僥幸者願一見如天人然。帝曰:「力士當上,我寢乃安。」當是時,宇文融、李林甫、蓋嘉運、韋堅、楊慎矜、王鉷、楊國忠、安祿山、安思順、高仙芝等雖以才寵進,然皆厚結力士,故能踵至將相,自餘承風附會不可計,皆得所欲。中人若黎敬仁、林昭隱、尹鳳翔、韓莊、牛仙童、劉奉廷、王承恩、張道斌、李大宜、朱光輝、郭全、邊令誠等,並內供奉,或外監節度軍,脩功德,市鳥獸,皆爲之使。使還,所裒獲,動巨萬計,京師甲第池園、良田美產,占者什六,寵與力士略等,然悉藉力士左右輕重乃能然。肅宗在東宮,兄事力士,它王、公主呼爲翁,戚裏諸家尊曰爹,帝或不名而呼將軍。

力士は幼くして母の麦氏と相失い、後、嶺南節度使がこれを瀧州に得て、迎え還したが、復た記識せず、母曰く「胸に七つの黒子あるか否か」と。力士は袒いて示すに、言う如し。母は金環を出し、「児の服する所なり」と曰う。乃ち相い持って号慟した。帝はために越国夫人に封じ、その父を追贈して広州大都督とした。延福とその妻は、力士の貴い時に故に在り、侍養は麦氏と均しかった。金吾大将軍程伯献は力士と約して兄弟となり、後、麦氏亡きとき、伯献は縗绖して吊いを受けた。河間の男子呂玄晤は京師に吏たり、女は国姝なり、力士これを娶る。玄晤は刀筆の史から抜擢されて少卿に至り、子弟の仕える者は皆王傅となった。玄晤の妻死するとき、中外より賻を贈り葬送し、第より墓に至るまで、車徒背を相望んで絶えず。

原文力士幼與母麥相失,後嶺南節度使得之瀧州,迎還,不復記識,母曰:「胸有七黑子在否?」力士袒示之,如言。母出金環,曰「兒所服者」,乃相持號慟。帝爲封越國夫人,而追贈其父廣州大都督。延福與妻,及力士貴時故在,侍養與麥均。金吾大將軍程伯獻約力士爲兄弟,後麥亡,伯獻缞绖受吊。河間男子呂玄晤吏京師,女國姝,力士娶之,玄晤擢刀筆史至少卿,子弟仕皆王傅。玄晤妻死,中外贈賻送葬,自第至墓,車徒背相望不絶。

初め、李林甫と牛仙客は、帝が東都へ行幸するのを憚り、且つ京師への漕運が不足していることを知って、賦粟を漕運に助けさせ、また和糴法を用いた。数年して、国用は漸く充実した。帝が大同殿で斎戒し、力士が侍ると、帝は言った、「朕は長安を出てからほぼ十年になるが、海内に事なく、朕は吐納導引を行い、天下の事を林甫に任せようと思うが、どうか」。力士は答えて言った、「天子が順動されるのは、古の制度です。税入が常ならば、人は労を告げません。今、賦粟を漕運に充てておりますが、臣は国に旬月の蓄えがないことを恐れます。和糴が止まなければ、私蔵は尽き、末業に趨く者が多くなります。また、天下の権柄を人に仮すべきではありません。威権が既に振るわれれば、誰が敢えて議する者がありましょう」。帝は悦ばず、力士は頓首して自ら陳べた、「心が狂易し、言葉が謬って死に当たります」。帝は酒を設け、左右は万歳を呼んだ。これにより内宅に還り、事に復さなかった。累進して驃騎大将軍に加えられ、渤海郡公に封ぜられた。来廷坊に仏祠を建て、興寧坊に道士祠を立て、珍楼宝屋は国費をもってしても及ばなかった。鐘が完成すると、力士は公卿を宴し、一たび鐘を叩けば礼銭十万を納め、佞悦する者は二十叩きに至り、少なくとも十叩きを下らなかった。都の北、澧水の堰に五つの硙を並べ、日に三百斛こくの賃銭を得た。

原文始,李林甫、牛仙客知帝憚幸東都,而京師漕不給,乃以賦粟助漕,及用和糴法,數年,國用稍充。帝齋大同殿,力士侍,帝曰:「我不出長安且十年,海內無事,朕將吐納導引,以天下事付林甫,若何?」力士對曰:「天子順動,古制也。稅入有常,則人不告勞。今賦粟充漕,臣恐國無旬月蓄;和糴不止,則私藏竭,逐末者眾。又天下柄不可假人,威權既振,孰敢議者!」帝不悅,力士頓首自陳「心狂易,語謬當死」。帝爲置酒,左右呼萬歲。由是還內宅,不復事。加累驃騎大將軍,封渤海郡公。於來廷坊建佛祠,興寧坊立道士祠,珍樓寶屋,國貲所不逮。鍾成,力士宴公卿,一扣鍾,納禮錢十萬,有佞悅者至二十扣,其少亦不減十。都北堰澧列五硙,日僦三百斛直。

袁思藝という者がいた。帝もまた愛幸したが、驕倨甚だしく、士大夫は疎遠にして畏れ、一方で力士は陰巧にして人の誉を得た。帝は初め内侍省監二員を置き、秩は三品とし、力士と思藝をこれに任じた。帝が蜀に行幸すると、思藝は遂に賊に臣し、一方で力士は帝に従い、斉国公に進んだ。帝は粛宗が即位したと聞き、喜んで言った、「吾が子は天に応じ人に順い、元を至徳と改め、孝を忘れず、尚ほ何を憂えよう」。力士は言った、「両京は失守し、生人は流亡し、河南漢北は戦区となり、天下は痛心しております。而るに陛下は何を憂うるかと為され、臣は敢えて聞きません」。上皇に従って還り、開府儀同三司に進み、実封五百戸を賜った。

原文有袁思藝者,帝亦愛幸,然驕倨甚,士大夫疏畏之,而力士陰巧得人譽。帝初置內侍省監二員,秩三品,以力士、思藝爲之。帝幸蜀,思藝遂臣賊,而力士從帝,進齊國公。帝聞肅宗即位,喜曰:「吾兒應天順人,改元至德,不忘孝乎,尚何憂?」力士曰:「兩京失守,生人流亡,河南漢北爲戰區,天下痛心,而陛下以爲何憂,臣不敢聞。」從上皇還,進開府儀同三司,實封戸五百。

上皇が西内に移り、十日を経て、李輔国に誣せられ、除籍され、長流して巫州に流された。力士は瘧を逃れて功巨閣の下におり、輔国が詔を以て召すと、力士は趨って閣外に至り、内養に遣わされて謫制を授けられ、因って言った、「巨は死すべきこと久し、天子は今日に至るまで哀憐されました。願わくは一たび陛下の顔色を見、死して恨みなし」。輔国は許さなかった。宝応元年に赦されて還り、二帝の遺詔を見て、北に向かって哭き血を嘔し、言った、「大行皇帝昇遐せられ、梓宮に攀ずるを得ず、死して余恨あり」。慟哭して卒し、年七十九。代宗は先帝を護衛した労により、その官を還し、揚州大都督を贈り、泰陵に陪葬させた。

原文上皇徙西內,居十日,爲李輔國所誣,除籍,長流巫州。力士方逃瘧功巨閣下,輔國以詔召,力士趨至閣外,遣內養授謫制,因曰:「巨當死已久,天子哀憐至今日,願一見陛下顏色,死不恨。」輔國不許。寶應元年赦還,見二帝遺詔,北向哭歐血,曰:「大行升遐,不得攀梓宮,死有餘恨。」慟而卒,年七十九。代宗以護衞先帝勞,還其官,贈揚州大都督,陪葬泰陵。

初め、太子瑛が廃され、武恵妃が寵愛されていた時、李林甫らは皆寿王に属した。帝は粛宗が長であることを以て、意未だ決せず、居て忽忽として食らわず。力士は言った、「大家が食らわざるは、亦た膳羞が具わらぬからでしょうか」。帝は言った、「爾は我が家の老なり、我が何を為さんとして然るかを揣うか」。力士は言った、「嗣君が未だ定まらぬのでしょうか。長を推して立てば、誰が敢えて争いましょう」。帝は言った、「爾の言うところ是なり」。儲位は遂に定まった。天宝中、辺将が功を争って立て、帝は嘗て言った、「朕は春秋高く、朝廷の細務は宰相に付し、蕃夷の不龔は諸将に付す。寧ろ暇あらざるか」。対えて言った、「臣は間もなく閣門に至り、奏事者の言うに雲南で数たび師を喪い、又北兵は悍く且つ強しと。陛下は何を以てこれを制せられますか。臣は禍が成りて禁じ得ざることを恐れます」。その指すところ蓋し禄山を謂う。帝は言った、「卿言うなかれ、朕将にこれを図らん」。十三年秋、大雨、帝は左右に人無きを顧み、即ち言った、「天方に災いす、卿宜しく言うべし」。力士は言った、「陛下が権を以て宰相に仮して以来、法令行わず、陰陽度を失い、天下の事どうして復た安んぜられましょう。臣が鉗口するは、その時なり」。帝は答えなかった。明年、禄山反す。力士は時事の勢いを揣み候うに巧みで、上下に相い、親昵たる者に至っても、当に覆敗すべきに至れば、肯て救力せず、故に生平に顕著なる大過無し。議者は頗る宇文融以来、権利相賊い、以て天下の禍の階となるを恨み、補益有りと雖も、相除くこと無しと云う。

原文初,太子瑛廢,武惠妃方嬖,李林甫等皆屬壽王,帝以肅宗長,意未決,居忽忽不食。力士曰:「大家不食,亦膳羞不具耶?」帝曰:「爾,我家老,揣我何爲而然?」力士曰:「嗣君未定耶?推長而立,孰敢爭?」帝曰:「爾言是也。」儲位遂定。天寶中,邊將爭立功,帝嘗曰:「朕春秋高,朝廷細務付宰相,蕃夷不龔付諸將,寧不暇耶?」對曰:「臣間至閣門,見奏事者言雲南數喪師,又北兵悍且強,陛下何以制之?臣恐禍成不可禁。」其指蓋謂祿山。帝曰:「卿勿言,朕將圖之。」十三年秋,大雨,帝顧左右無人,即曰:「天方災,卿宜言之。」力士曰:「自陛下以權假宰相,法令不行,陰陽失度,天下事庸可復安?臣之鉗口,其時也。」帝不答。明年祿山反。力士善揣時事勢候相上下,雖親昵,至當覆敗,不肯爲救力,故生平無顯顯大過。議者頗恨宇文融以來權利相賊,階天下之禍,雖有補益,弗相除云。

程元振

原文程元振

程元振は、京兆三原の人。少時に宦人として内侍省に直し、内射生使、飛龍廄副使に遷る。張皇后が越王を立てんと謀り、元振は太子に謁し、その奸を発し、李輔国と共に難を討つを助け、太子を立て、これが代宗である。右監門衛将軍に拝し、内侍省事を知る。帝は薬子昂に元帥行軍司馬を判せしめようとしたが、固く辞したので、乃ち元振を以て命じ、保定県侯に封じた。再び驃騎大将軍、邠国公に遷り、禁兵を尽く総べた。一年を逾えず、権は天下を震わせ、輔国の右に在り、兇決またこれを過ぎ、軍中では十郎と呼んだ。

原文程元振,京兆三原人。少以宦人直內侍省,遷內射生使、飛龍廄副使。張皇后謀立越王,元振見太子,發其奸,與李輔國助討難,立太子,是爲代宗。拜右監門衞將軍,知內侍省事。帝以藥子昂判元帥行軍司馬,固辭,乃以命元振,封保定縣侯。再遷驃騎大將軍、邠國公,盡總禁兵。不逾歲,權震天下,在輔國右,兇決又過之,軍中呼十郎。

王仲升という者は、初め淮西節度使として、襄州の張維瑾の部将と申州で戦い、捕らえられた。賊が平らぎ、元振はこれを薦めて右羽林大将軍兼御史大夫とした。将軍が大夫を兼ねるのは仲升に始まる。裴冕は元振と忤り、乃ち韓穎等の罪を掎って施州に貶した。来瑱は襄・漢を守って功有り、元振は嘗て諉属したが応ぜず、仲升と共に誣って瑱を殺させた。同華節度使李懷讓は構えられ、憂い甚だしく自殺した。元振は素より李光弼を悪み、数たび媒蠍して以てこれを疑わせた。瑱等は上将、冕・光弼は元勲、既に誅斥され、或いは自ら省みず、方帥はこれにより携解した。

原文王仲升者,初爲淮西節度使,與襄州張維瑾部將戰申州,被執。賊平,元振薦爲右羽林大將軍兼御史大夫。將軍兼大夫由仲升始。裴冕與元振忤,乃掎韓穎等罪貶施州。來瑱守襄、漢有功,元振嘗諉屬,不應,因仲升共誣殺瑱。同華節度使李懷讓被構,憂甚自殺。素惡李光弼,數媒蠍以疑之。瑱等上將,冕、光弼元勛,既誅斥,或不自省,方帥繇是攜解。

広徳初め、吐蕃とばん・党項が内侵し、詔して天下の兵を集めたが、一士も奔命する者無し。虜は便橋を叩き、帝は倉黄として出て陝に居し、京師は陥落し、賊は府庫を剽ぎ、閭弄を焚き、蕭然として空と為った。ここにおいて太常博士、翰林待詔の柳伉が上疏して言った、「犬戎は数万の衆を以て関を犯し隴を度り、秦・渭を歴て、邠・涇を掠め、血刃せずして京師に入り、謀臣は一言を奮わず、武士は一戦を力めず、卒を提げて叫呼し、宮闈を劫し、陵寢を焚く。これは将帥が陛下に叛くなり。朝義の滅びしより、陛下は以て智力の能くする所と為し、故に元功を疎んじ、近習に委ね、日引き月長じて以て大禍を成す。群臣廷に在りて一も顔を犯し慮を回らす者無し。これは公卿が陛下に叛くなり。陛下始めて都を出でし時、百姓填然として府庫を奪い、相殺戮す。これは三輔が陛下に叛くなり。十月朔より諸道の兵を召し、尽く四十日、一隻の輪も関に入る者無し。これは四方が陛下に叛くなり。内外離叛し、一の魚朝恩のみ陝郡にて戮力すと雖も、陛下独り能く此を以て社稷を守れましょうか。陛下は今日の勢いを以て安しと為しますか、危しと為しますか。若し危しと為すならば、豈に高枕して天下の計を為さざるを得ましょう。臣聞く、良医疾を療するは、病に当たりて薬を飲ます。薬疾に当たらざれば、猶お益無きが如し。陛下は今日の病何の繇りか此に至るかを見給う。天下の心は、乃ち陛下の賢良を遠ざけ、宦豎を任じ、将相を離間して幾くんか亡ぶに近きを恨む。必ず宗廟社稷を存せんと欲すれば、独り元振の首を斬り、馳せて天下に告げ、悉く内使を出して諸州に隷せしめ、独り朝恩を留めて左右に備え、陛下は神策兵を持して大臣に付し、然る後に尊号を削ぎ、詔を下して咎を引き、徳を率い行いを励まし、嬪妃を屏け、将相を任ず。若し曰わく『天下其れ朕が自新して過ちを改むるを許すか、宜しく即ち士を募り西して朝廷と会すべし。若し朕が悪未だ悛まざるを以てするならば、則ち帝王の大器、敢えて聖賢を妨げず、其れ天下の往く所を聴け』と。此くの如くにして兵至らず、人感ぜず、天下服さざれば、請う赤き臣の族を以て謝せん」。疏聞こえ、帝は公議与せざるを顧み、乃ち詔を下して尽く元振の官爵を削ぎ、放って田里に帰らしめた。帝還り、元振は三原より婦人の衣を着て私かに京師に入り、司農卿陳景詮の家に宿り、不軌を図った。御史が劾按し、長流して溱州に流し、景詮は新興尉に貶した。元振は行きて江陵に至りて死んだ。

原文廣德初,吐蕃、党項內侵,詔集天下兵,無一士奔命者。虜扣便橋,帝倉黃出居陜,京師陷,賊剽府庫,焚閭弄,蕭然爲空。於是太常博士、翰林待詔柳伉上疏曰:「犬戎以數萬眾犯關度隴,歷秦、渭,掠邠、涇,不血刃而入京師,謀臣不奮一言,武士不力一戰,提卒叫呼,劫宮闈,焚陵寢,此將帥叛陛下也;自朝義之滅,陛下以爲智力所能,故疏元功,委近習,日引月長以成大禍,群臣在廷無一犯顏回慮者,此公卿叛陛下也;陛下始出都,百姓填然奪府庫,相殺戮,此三輔叛陛下也;自十月朔召諸道兵,盡四十日,無只輪入關者,此四方叛陛下也。內外離叛,雖一魚朝恩以陜郡戮力,陛下獨能以此守社稷乎?陛下以今日勢爲安耶?危耶?若以爲危,豈得高枕不爲天下計?臣聞良醫療疾,當病飲藥,藥不當疾,猶無益也。陛下視今日病何繇至此乎?天下之心,乃恨陛下遠賢良,任宦豎,離間將相而幾於亡。必欲存宗廟社稷,獨斬元振首,馳告天下,悉出內使隸諸州,獨留朝恩備左右,陛下持神策兵付大臣,然後削尊號,下詔引咎,率德勵行,屏嬪妃,任將相。若曰『天下其許朕自新改過乎,宜即募士西與朝廷會;若以朕惡未悛耶,則帝王大器,敢妨聖賢,其聽天下所往。』如此而兵不至,人不感,天下不服,請赤臣族以謝。」疏聞,帝顧公議不與,乃下詔盡削元振官爵,放歸田裏。帝還,元振自三原衣婦衣私入京師,舍司農卿陳景詮家,圖不軌。御史劾按,長流溱州,景詮貶新興尉。元振行至江陵死。

附 駱奉先

原文附 駱奉先

時にまた駱奉先という者あり、これも三原の人、右驍衞大將軍を歴任し、数たび帝に従って討伐に従軍し、特に寵幸を受け、廣德初め、仆固懷恩の軍を監した。奉先は恩寵を恃んで甚だ貪婪であり、懷恩は不平を抱き、やがてその讒言を恐れて、遂に叛した。事が平定すると、奉先を抜擢して軍容使とし、畿内の兵を掌り、権勢の炎は盛んに燃え上がった。永泰初め、吐蕃がたびたび京師を驚かすに及び、初めて鄠に城を築き、奉先をその使とし、県外の廬舎を悉く破壊して、一尺の椽も残さなかった。累ねて江國公に封ぜられ、鳳翔軍を監し、大歷末に卒した。

原文時又有駱奉先者,亦三原人,歷右驍衞大將軍,數從帝討伐,尤見幸,廣德初,監仆固懷恩軍者。奉先恃恩貪甚,懷恩不平,既而懼其譖,遂叛。事平,擢奉先軍容使,掌畿內兵,權焰熾然。永泰初,以吐蕃數驚京師,始城鄠,以奉先爲使,悉毀縣外廬舍,無尺椽。累封江國公,監鳳翔軍,大歷末卒。

魚朝恩

原文魚朝恩

魚朝恩は、瀘州瀘川の人である。天寶末、品官として黄門に給事し、内に陰険で狡猾、詔令の宣納を善くした。至德初め、李光進の軍を監した。京師が平定されると、三宮檢責使となり、左監門衞將軍として内侍省事を知った。九節度が賊を相州に囲んだ時、朝恩を観軍容・宣慰・処置使とした。観軍容使は朝恩に始まる。史思明が洛陽を攻めると、朝恩は神策兵を率いて陜に屯した。洛陽が陥落し、思明が長駆して硤石に至り、その子朝義を遊軍とした。肅宗は鋭兵十万を詔して渭水に沿って東進し、軍を援けさせた。朝恩は兵を陜東に抑え、神策将の衞伯玉をして賊将の康文景らと戦わせ、これを破った。洛陽が平定されると、屯を汴州に移し、開府儀同三司を加えられ、馮翊郡公に封ぜられた。寶應年中、また陜に還って屯した。代宗が吐蕃を避けて東幸した時、衞兵は離散し、朝恩は全軍を率いて華陰で奉迎し、乗輿と六軍はようやく振るった。帝はその功を徳とし、さらに天下観軍容・宣慰・処置使と号し、神策軍を専領させ、賞賜は際限がなかった。

原文魚朝恩,瀘州瀘川人。天寶末,以品官給事黃門,內陰黠,善宣納詔令。至德初,監李光進軍。京師平,爲三宮檢責使,以左監門衞將軍知內侍省事。九節度圍賊相州,以朝恩爲觀軍容、宣慰、處置使。觀軍容使自朝恩始。史思明攻洛陽,朝恩以神策兵屯陜。洛陽陷,思明長驅至硤石,使子朝義爲遊軍。肅宗詔銳兵十萬循渭而東以濟師。朝恩按兵陜東,使神策將衞伯玉與賊將康文景等戰,敗之。洛陽平,徙屯汴州,加開府儀同三司,封馮翊郡公。寶應中,還屯陜。代宗避吐蕃東幸,衞兵離散,朝恩悉軍奉迎華陰,乘輿六師乃振,帝德之,更號天下觀軍容、宣慰、處置使,專領神策軍,賞賜不涯。

朝恩は小人の資質を持ち、功を恃んで傲慢で畏れるところがなかった。仆固玚が絳州を攻め、姚良をして溫を占拠させ、回紇かいこつを誘って河陽を陥落させた。朝恩は李忠誠を遣わして玚を討たせ、霍文場をしてこれを監させた。王景岑をして良を討たせ、王希遷をしてこれを監させた。萬泉で玚を破り、良を生け捕りにした。高暉らが吐蕃を引き入れて寇したので、劉德信を遣わして討ち斬らせた。故に朝恩は麾下の数度の勝利と捕獲により、ひそかに自らを高しとした。この時、郭子儀は天下を平定する功があり、人臣として第一にあったが、朝恩は内心これを妬み、相州の敗戦に乗じて、こっそりと誹謗と讒言をし、肅宗はその言葉を容れなかったが、それでも子儀の兵権を罷め、京師に留めた。代宗が立つと、程元振と口を合わせて誹毀を加え、帝はまだ悟らず、子儀は甚だ憂えた。やがて吐蕃が京師を陥落させ、ついにその力を用いて、王室は再び安んじた。故に朝恩は内心慚じ、そこで帝に洛陽への遷都を勧め、戎狄から遠ざかろうとした。百官が朝廷にいる時、朝恩は十余人を従えて兵を持ち出し、言った、「虜がたびたび都甸を犯す、洛陽に幸したいと思うが、どうか。」宰相は答えず、近臣が一人折れて言った、「敕使は謀反か?今屯兵は寇を防ぐに足る、どうして急に天子を脅して宗廟を棄てさせようとするのか。」朝恩は色沮し、また子儀も不可と言ったので、やめた。

原文朝恩資小人,恃功岸忽無所憚。仆固玚攻絳州,使姚良據溫,誘回紇陷河陽。朝恩遣李忠誠討玚,以霍文場監之;王景岑討良,王希遷監之。敗玚於萬泉,生擒良。高暉等引吐蕃入寇,遣劉德信討斬之。故朝恩因麾下數克獲,竊以自高。是時郭子儀有定天下功,居人臣第一,心冒之,乘相州敗,鬼爲詆譖,肅宗不內其語,然猶罷子信兵,留京師。代宗立,與程元振一口加毀,帝未及寤,子儀憂甚。俄而吐蕃陷京師,卒用其力,王室再安。故朝恩內慚,乃勸帝徙洛陽,欲遠戎狄。百僚在廷,朝恩從十餘人持兵出,曰:「虜數犯都甸,欲幸洛,云何?」宰相未對,有近臣折曰:「敕使反耶?今屯兵足以捍寇,何遽脅天子棄宗廟爲?」朝恩色沮,而子儀亦謂不可,乃止。

朝恩は軽薄な後生を引きいて門下に置くことを好み、『五経』の大義を講じ、文章を作り、文武兼備の才と称し、寵愛を誤って伺った。

原文朝恩好引輕浮後生處門下,講《五經》大義,作文章,謂才兼文武,僥伺誤寵。

永泰年中、詔して国子監を判らせ、鴻臚・礼賓・内飛龍・閑廄使を兼ね、鄭國公に封ぜられた。初めて学に詣でる時、詔して宰相・常参官・六軍将軍を悉く集めさせ、京兆尹が食を設け、内教坊が音楽と俳優を出して宴を助け、大臣の子弟二百人、朱紫雑然として附学生となり、廡の次に列した。また銭千万を賜い、その子銭を取って秩飯の供給に充てた。毎回視学する時、神策兵数百を従え、京兆尹の黎幹が銭を率いて従者を労い、一度の費用は数十万に及び、しかも朝恩の色は常に満足することがなかった。

原文永泰中,詔判國子監,兼鴻臚、禮賓、內飛龍、閑廄使,封鄭國公。始詣學,詔宰相、常參官、六軍將軍悉集,京兆設食,內教坊出音樂俳倡侑宴,大臣子弟二百人,朱紫雜然爲附學生,列廡次。又賜錢千萬,取子錢供秩飯。每視學,從神策兵數百,京兆尹黎幹率錢勞從者,一費數十萬,而朝恩色常不足。

凡そ詔して群臣を会して事を計る時、朝恩は貴を恃み、でたらめな言葉で坐人を折り愧じさせてその上に出で、元載のように弁が強くても拱手して黙するのみで、ただ礼部郎中の相裏造と殿中侍御史の李衎のみが酬詰を往復し、一度も屈服せず、朝恩は快からず、衎を黜して造を動かそうとした。また執政を易えようと謀って朝廷を震駭させようとし、そこで百官を都堂に会し、かつ言った、「宰相たるものは、元気を和し、群生を輯むるものである。今水旱時ならず、屯軍数十万、饋運困窮し、天子臥して安席せず、宰相は何をもってこれを輔けるのか?退いて賢路を避けず、黙々として尚何の頼みがあろうか。」宰相は俯首し、坐する者は皆色を失った。造は座を移ってこれに従い、因って言った、「陰陽和せず、五穀価騰りするは、皆軍容の事であって、宰相の関わる所ではない。かつ軍が引き離されず散らぬ故に、天はこれに災いを降すのである。今京師に事無く、六軍は相維いで鎮まることができ、また十万を屯すれば、饋糧が足りぬ所以であり、百司は稍食無し、軍容がこれを行い、宰相は文書を行うのみで、何に罪を帰すというのか。」朝恩は衣を払って去り、言った、「南衙は朋党をなして、我を害さんとす。」釈菜の会があり、『易』を執って座に昇り、百官皆在り、『鼎』卦には覆餗の象ありと言って、宰相を侵した。王縉は怒り、元載は怡然としていた。朝恩は言った、「怒るは常の情、笑う者は測り難し。」載はこれを恨んで未だ発しなかった。

原文凡詔會群臣計事,朝恩怙貴,誕辭折愧坐人出其上,雖元載辯強亦拱默,唯禮部郎中相裏造、殿中侍御史李衎酬詰往返,未始降屈,朝恩不懌,黜衎以動造。又謀將易執政以震朝廷,乃會百官都堂,且言:「宰相者,和元氣,輯群生。今水旱不時,屯軍數十萬,饋運困竭,天子臥不安席,宰相何以輔之?不退避賢路,默默尚何賴乎?」宰相俯首,坐皆失色。造徙坐從之,因曰:「陰陽不和,五谷踴貴,皆軍容事,宰相何與哉?且軍挐不散,故天降之沴。今京師無事,六軍可相維鎮,又屯十萬,饋糧所以不足,百司無稍食,軍容爲之,宰相行文書而已,何所歸罪?」朝恩拂衣去,曰:「南衙朋黨,且害我。」會釋菜,執《易》升坐,百官咸在,言《鼎》有覆餗象,以侵宰相。王縉怒,元載怡然。朝恩曰:「怒者常情,笑者不可測也。」載銜之未發。

朝恩には賜わった別荘があり、池沼の景勝爽やかであったので、表して仏祠とし、章敬太后のために福を薦め、即ち後の謚を以て祠の名とし、許された。ここにおいて用度は奢侈浩大となり、公然と曲江の諸館・華清宮の楼榭・百司の行署・将相の故第を壊し、その材を収めて興作を助け、費用は万億を慮うること無し。既に数たび郭子儀を誹毀したが、聞き入れられず、そこで盗賊を遣わしてその先祖の冢墓を発かせた。子儀は詭弁をもって自らを解き、衆の疑いを安んじた。久しくして、国子監・鴻臚礼賓等使の判を譲り、内侍監を加えられ、韓に徙封され、実封百戸を増やされた。やがて検校国子監を兼ねた。

原文朝恩有賜墅,觀沼勝爽,表爲佛祠,爲章敬太后薦福,即後謚以名祠,許之。於是用度侈浩,公壞曲江諸館、華清宮樓榭、百司行署、將相故第,收其材佐興作,費無慮萬億。既數毀郭子儀,不見聽,乃遣盜發其先冢,子儀詭辭自解,以安眾疑。久之,讓判國子監、鴻臚禮賓等使,加內侍監,徙封韓,增實封百戸。俄兼檢校國子監。

初め、神策都虞候の劉希暹は魁健で騎射に能く、最も朝恩に昵信され、太仆卿として交河郡王に封ぜられた。兵馬使の王駕鶴はただ謹厚きんこうであり、また徐國公に封ぜられた。希暹は朝恩に勧めて北軍に獄を置かせ、陰に悪少年を放って富人を横捕りし吏に付して考訊させ、因って法に中て、資産を録して軍に没入し、皆誣服して冤死したので、市人はこれを「地牢に入る」と号した。また万年県の吏の賈明觀は朝恩に倚って捕搏を恣に行い、財を積むこと巨万に及び、人その奸を発くもの無し。朝廷の裁決に、朝恩が預からぬことがあると、輒ち怒って言った、「天下の事に我によらざるものあろうか!」帝は聞いて喜ばなかった。養子の令徽という者は、まだ幼く、内給使となり、緑の服を着て、同列と争って憤り、帰って朝恩に告げた。明日、帝に謁して言った、「臣の子は位が低い、金紫を得たいと願い、班列の上に在りたい。」帝が未だ答えぬうちに、有司が既に紫服を前に奉り、令徽は謝した。帝は笑って言った、「小児の章服、大いに称する。」ますます快からず。

原文初,神策都虞候劉希暹魁健能騎射,最爲朝恩昵信,以太仆卿封交河郡王。兵馬使王駕鶴獨謹厚,亦封徐國公。希暹諷朝恩置獄北軍,陰縱惡少年橫捕富人付吏考訊,因中以法,錄貲產入之軍,皆誣服冤死,故市人號「入地牢」。又萬年吏賈明觀倚朝恩捕搏恣行,積財鉅萬,人無敢發其奸。朝廷裁決,朝恩或不預者,輒怒曰:「天下事有不由我乎!」帝聞,不喜。養息令徽者,尚幼,爲內給使,服綠,與同列爭忿,歸白朝恩。明日見帝曰:「臣之子位下,願得金紫,在班列上。」帝未答,有司已奉紫服於前,令徽稱謝。帝笑曰:「小兒章服,大稱。」滋不悅。

元載は左散騎常侍崔昭を京兆尹に任用し、財貨を厚く用いてその党与の皇甫温・周皓と結んだ。温は陝に駐屯し、皓は射生将であった。これより朝恩の密謀や奥深き言葉は、悉く帝の知るところとなった。希暹は帝の意向を察し、密かに朝恩に告げた。朝恩は少し懼れたが、帝の遇する所が未だ衰えざるを見て、故に自ら安んじながら密かに不軌を計った。帝は遂に元載に倚りこれを除くことを決し、成らざるを懼れたが、載は曰く、「陛下ただ臣に専属せられよ、必ず済みましょう」と。朝恩が殿に入る時は、常に武士百人を従えて自衛し、皓がこれを統率し、温は外に兵を握っていた。載は鳳翔尹李抱玉を山南西道節度使に転じ、温を代わりに鳳翔節度使とし、陽(表向き)にその権を重んじ、実は温を内に引き入れて自らを助けさせた。載はまた、鳳翔の郿を京兆に分け、鄠・盩厔及び鳳翔の虢・宝鶏を抱玉に与え、興平・武功・鳳翔の扶風天興を神策軍に与えることを議した。朝恩はその土地を利し、自ら封殖(領地を広げ)し、憂いとなるを知らなかった。郭子儀は密かに申し上げた、「朝恩は嘗て周智光と結んで外応とし、久しく内兵を領しております。早く図らねば、変は大いになりましょう」と。載は温を京師に留め、直ちには遣わさず、皓と共に朝恩を誅することを約した。謀が定まり、これを聞かせると、帝は曰く、「善く図れ、反って禍を受けることなかれ」と。寒食の節に当たり、禁中に宴し、既に罷みて、営に還らんとする時、詔を留めて事を議すべしとあり。朝恩は元来肥満で、毎度小車に乗って宮省に入った。帝は車の音を聞き、危坐し、載は中書省を守った。朝恩至り、帝はその異図を責め、朝恩は自ら弁し悖傲(逆らって傲慢)であった。皓と左右の者がこれを捕らえて縊り殺した。死年四十九、外に知る者無し。帝はこれを隠し、詔を下して観軍容等使を罷め、実封戸六百を増し、内侍監は元の如しとした。外には皆、「詔を奉じた後、縊りに投じた」と言った。屍を家に還し、葬るに銭六百万を賜う。

原文元載乃用左散騎常侍崔昭尹京兆,厚以財結其黨皇甫溫、周皓。溫方屯陜,而皓射生將。自是朝恩隱謀奧語,悉爲帝知。希暹覺帝指,密白朝恩,朝恩稍懼,然見帝接遇未衰,故自安而潛計不軌。帝遂倚載決除之,懼不克,載曰:「陛下第專屬臣,必濟。」朝恩入殿,嘗從武士百人自衞,皓統之,而溫握兵在外。載乃徙鳳翔尹李抱玉節度山南西道,以溫代節度鳳翔,陽重其權,寔內溫以自助。載又議析鳳翔之郿與京兆,以鄠、盩厔及鳳翔之虢、寶雞與抱玉,而以興平、武功、鳳翔之扶風天興與神策軍,朝恩利其土地,自封殖,不知爲虞也。郭子儀密白:「朝恩嘗結周智光爲外應,久領內兵,不早圖,變且大。」載留溫京師,未即遣,約與皓共誅朝恩。謀定,以聞,帝曰:「善圖之,勿反受禍!」方寒食,宴禁中,既罷,將還營,有詔留議事。朝恩素肥,每乘小車入宮省。帝聞車聲,危坐,載守中書省。朝恩至,帝責其異圖,朝恩自辯悖傲,皓與左右禽縊之,死年四十九,外無知者。帝隱之,下詔罷觀軍容等使,增實封戸六百,內侍監如故。外咸言「既奉詔,乃投縊」云。還屍於-家,賜錢六百萬以葬。

帝は軍の乱を懼れ、劉希暹・王駕鶴を並びに御史中丞を兼ねさせた。また詔を下して将士を尉諭したが、独り希暹は自ら同悪たるを知り、言を遜らず、駕鶴がこれを発したので、遂に死を賜う。賈明観は兼ねて元載の寵幸を得たので、載は江西に隷属させることを奏し、功を立てて自ら贖わせたが、路嗣恭がこれを搒(打ち据え)て殺した。厚くした礼部尚書・礼儀使裴士淹・戸部侍郎判度支第五琦は皆坐して貶された。

原文帝懼軍亂,進劉希暹、王駕鶴並兼御史中丞。又下詔尉曉將士,獨希暹自知同惡,言不遜,駕鶴白髮之,遂賜死。而賈明觀兼得幸於載,故載奏隸江西,使立功自贖,路嗣恭搒殺之。所厚禮部尚書、禮儀使裴土淹、戸部侍郎判度支第五琦皆坐貶。

附 竇文場・霍仙鳴

原文附 竇文場、霍仙鳴

竇文場・霍仙鳴は、始め共に東宮に隷属し、徳宗に事え、名有らず。魚朝恩の死より、宦官は再び兵を典せず、帝は禁衛を尽く白志貞に委ねた。志貞は富人の金を多く納めて軍に補し、ただその庸(代役金)を収めるのみで身は軍に在らず。涇師の乱に及び、帝が近衛を召すも、一人も至る者無く、ただ文場等が宦官及び親王の左右を率いて従った。奉天に至り、帝は志貞を逐い、左右軍を併せて文場に主とさせた。興元初年、詔して神策左廂兵馬を監せしめ、王希遷に右を監せしめ、馬有麟を左神策軍大将軍とし、軍額はここに始まる。

原文竇文場、霍仙鳴者,始並隸東宮,事德宗,未有名。自魚朝恩死,宦人不復典兵,帝以禁衞盡委白誌貞,誌貞多納富人金補軍,止收其庸而身不在軍。及涇師亂,帝召近衞,無一人至者,惟文場等率宦官及親王左右從。至奉天,帝逐誌貞,並左右軍付文場主之。興元初,詔監神策左廂兵馬,以王希遷監右,而馬有麟爲左神策軍大將軍,軍額由此始。

帝が山南より還り、両軍は復た完うしたが、帝は宿将の制し難きを忌み、故に文場・仙鳴に分かれてこれを総せしめ、天威軍を廃して左右神策に入れた。この時、竇・霍の権は朝廷に振るい、諸方の節度大将は多くその軍より出で、台省の要官はその門下に走り、援影を丐う者は足相躡んだ。衛士朱華は按摩をもって文場の寵幸を得、慮補置に参じ、賄賂数万緡を求め、藩鎮の贈遺は累百鉅万に及び、士の妻女を略するに憚るところ無し。詔してこれを軍中に殺す。その隆赫この如し。

原文帝自山南還,兩軍復完,而帝忌宿將難制,故詔文場、仙鳴分總之,廢天威軍入左右神策。是時,竇、霍權振朝廷,諸方節度大將多出其軍,臺省要官走門下,丐援影者足相躡。衞士朱華以按摩得幸文場,參慮補置,索賕數萬緡,而藩鎮贈遺累百鉅萬,略士妻女無所憚,詔殺之於軍。其隆赫如此。

久しくして、護軍中尉・中護軍各二員を置き、詔して文場を左神策護軍中尉とし、仙鳴を右とし、焦希望を左神策中護軍とし、張尚進を右とした。中尉・護軍は文場等より始まる。後、仙鳴は病に移り、帝は十馬を賜い、諸祠に祈って解かしむ。後、稍々癒ゆるも、已にして暴死す。帝は左右の毒を進めたるを疑い、小使を捕えて詰め状を問い、数十人を誅す。開府儀同三司を贈り、内常侍第五守亮を以てこれに代う。文場は累擢して驃騎大将軍となる。時に監察御史崔行が軍中に囚われ、吏が酒食を具えて、媚び悦ばんと欲し、故に拒まざりしを、文場が劾奏し、詔して遠方に流す。文場は年老いて致仕し卒す。

原文久之,置護軍中尉、中護軍各二員,詔文場爲左神策護軍中尉,仙鳴爲右,焦希望爲左神策中護軍,張尚進爲右。中尉、護軍自文場等始。後仙鳴移病,帝賜十馬,令諸祠祈解。後稍愈,已而暴死,帝疑左右進毒,捕詰小使問狀,誅數十人,贈開府儀同三司,以內常侍第五守亮代之。文場擢累驃騎大將軍。時監察御史崔行囚於軍,吏爲具酒食,欲悅媚之,故不拒。文場劾奏,詔流遠方。文場年老致仕卒。

その後、楊志廉・孫栄義が左右中尉となり、権を招き驕肆し、竇・霍と略等し。帝の晩節、民間の禁中の事に関する訛言を聞き、北軍が太学生何竦・曹寿を捕えて系訊す。人情大いに懼れ、司業武少儀が上書して「もし罪測り難きこと有らば、願わくは四方に明示せられよ」と。俄かに釈放を得たり。是の時、宦官復た盛んとなる。

原文其後楊誌廉、孫榮義爲左右中尉,招權驕肆,與竇、霍略等。帝晩節聞民間訛語禁中事,而北軍捕太學生何竦、曹壽系訊,人情大懼,司業武少儀上書「有如罪不測,願明示四方」。俄得釋。是時宦官復盛矣。

附 焦希望

原文附 焦希望

希望は涇陽の人、明威将軍を歴任し、洪州都督を贈られる。尚進は河東の人、忠武将軍を歴任し、開府儀同三司を贈られる。志廉は弘農の人、左監門衛大将軍を歴任し、栄義は涇陽の人、右武衛大将軍を歴任す。並びに揚州大都督を贈られる。

原文希望者,涇陽人,歷明威將軍,贈洪州都督。尚進,河東人,歷忠武將軍,贈開府儀同三司。誌廉,弘農人,歷左監門衞大將軍;榮義,涇陽人,歷右武衞大將軍。並贈揚州大都督。

劉貞亮

原文劉貞亮

劉貞亮、本姓は俱、名は文珍、養われた宦官の父を冒したので、故に改む。性忠強、義理を識る。平涼の盟に、渾瑊の軍中に在り、虜の変に会い、捕らえられて西に赴かんとし、俄かにして帰るを得たり。宣武軍を監し出で、自ら親兵千人を置く。貞元末、兵を領する宦官の順に附く者益々衆し。

原文劉貞亮,本俱氏,名文珍,冒所養宦父,故改焉。性忠強,識義理。平涼之盟,在渾瑊軍中,會虜變,被執且西,俄而得歸。出監宣武軍,自置親兵千人。貞元末,宦人領兵附順者益眾。

時に順宗立ち、痼疾に淹りて朝すること能わず、ただ李忠言・牛美人が侍る。美人は帝の旨を忠言に付し、忠言はこれを王叔文に授け、叔文は柳宗元等と裁定し、然る後に中書に下す。然れども未だ縦欲を得ず、遂に神策兵を奪って自ら強からんとし、即ち範希朝を用いて京西北禁軍都将とし、宦者の権を収む。而して忠言は素より懦謹、毎に叔文と事を論ずるを見るも、敢えて異同すること無く、ただ貞亮のみ乃ちこれと争う。又、朋党の熾んじて結ぶを悪み、因って中人劉光琦・薛文珍・尚衍・解玉・呂如全等と共に帝を勧めて広陵王を立てて太子とし監国せしむ。帝はその奏を納れ、貞亮は学士衛次公・鄭絪・李程・王涯を召して金鑾殿に至らせ、制詔を草して定制せしむ。太子既に立ち、叔文の党を尽く逐い、政を大臣に委ね、議者はその忠を美とす。

原文會順宗立,淹痼弗能朝,惟李忠言、牛美人侍。美人以帝旨付忠言,忠言授之王叔文,叔文與柳宗元等裁定,然後下中書。然未得縱欲,遂奪神策兵以自強,即用範希朝爲京西北禁軍都將,收宦者權。而忠言素懦謹,每見叔文與論事,無敢異同,唯貞亮乃與之爭。又惡朋黨熾結,因與中人劉光琦、薛文珍、尚衍、解玉、呂如全等同勸帝立廣陵王爲太子監國,帝納其奏,貞亮召學士衞次公、鄭絪、李程、王涯至金鑾殿草定制詔。太子已立,盡逐叔文黨,委政大臣,議者美其忠。

高崇文が劉辟を討つに、復た監軍となる。初め、東川節度使李康は辟に破られ、これを囚う。崇文至り、辟は康を帰して雪がんことを求む。貞亮は賊を拒まざるを劾してこれを斬る。故に専悍を以て見訾そしらる。累遷して右衛大将軍、内侍省事を知る。元和八年卒す。開府儀同三司を贈られる。

原文高崇文討劉辟,復爲監軍。初,東川節度使李康爲辟所破,囚之。崇文至,辟歸康求雪,貞亮劾以不拒賊,斬之,故以專悍見訾。遷累右衞大將軍,知內侍省事。元和八年卒,贈開府儀同三司。

憲宗の立つは、貞亮の有功と為す所なり。然れども終身寵仮(寵愛して仮借)する所無し。呂如全は内侍省内常侍・翰林使を歴任し、樟材を擅に取って第を治むるに坐し、東都獄に送られ、閿郷に至り自殺す。又、郭旻は酔って夜禁に触れ、杖殺せらる。五坊の朱超晏・王志忠は鷹人を縦して民家に入らしめ、二百を搒(打ち据え)て職を奪わる。これによりて憚り畏れざる者無し。

原文憲宗之立,貞亮爲有功,然終身無所寵假。呂如全歷內侍省內常侍、翰林使,坐擅取樟材治第,送東都獄,至閿鄕自殺。又郭旻醉觸夜禁,杖殺之。五坊朱超晏、王誌忠縱鷹人入民家,搒二百,奪職,由是莫不懾畏。

吐突承璀

原文吐突承璀

吐突承璀は、字あざなを仁貞といい、閩の人である。黄門として東宮に仕え、掖廷局博士となり、明察にして才幹があった。憲宗が即位すると、累進して左監門将軍・左神策護軍中尉・左街功徳使に抜擢され、薊国公に封ぜられた。

原文吐突承璀,字仁貞,閩人也。以黃門直東宮,爲掖廷局博士,察察有才。憲宗立,擢累左監門將軍、左神策護軍中尉、左街功德使,封薊國公。

王承宗が叛くと、承璀は帝が征討に意欲的であると推し量り、自ら出陣を請うた。帝はその果断勇敢さを見て喜び、任に堪えると考え、直ちに詔して承璀を行営招討処置使とし、左右神策軍及び河中・河南・浙西・宣歙の兵を率いさせた。内寺伯の宋惟澄・曹進玉を館駅使とした。河南・陝・河陽は惟澄が主管し、京・華・河中から太原までは進玉が主管した。また詔して内常侍の劉国珍・馬朝江に分かって易・定・幽・滄等州の糧料使を領させた。ここにおいて諫官の李庸阝・許孟容・李元素・李夷簡・呂元膺・穆質・孟簡・独孤郁・段平仲・白居易らが延英殿で集まって対し、古より宦官が大帥の位に就いた例はなく、四方の笑いものとなる恐れがあると論じた。帝はそこで招討宣慰使に改め、通化門に臨んでその出陣を慰労した。承璀は衆を統率する遠大な謀略がなく、盧従史に侮られ軽んじられ、一年を過ぎても功績がなかったが、密詔によって従史を捕らえさせ、また密かに人を遣わして承宗を説き、上書して罪を待つようにさせたので、ようやく詔して軍を返し、帰還して中尉となった。段平仲は承璀が軽率な謀略で国費を浪費し、国威を損なったと弾劾し、斬首しなければ天下に謝罪できないと論じた。帝はやむなく、軍器荘宅使に左遷した。まもなく左衛上将軍に任じ、内侍省を管掌させた。

原文王承宗叛,承璀揣帝銳征討,因請行。帝見其果敢,自喜,謂可任,即詔承璀爲行營招討處置使,以左右神策及河中、河南、浙西、宣歙兵從之。內寺伯宋惟澄、曹進玉爲館驛使:自河南、陜、河陽,惟澄主之;京、華、河中至太原,進玉主之。又詔內常侍劉國珍、馬朝江分領易、定、幽、滄等州糧料使。於是諫官李庸阝、許孟容、李元素、李夷簡、呂元膺、穆質、孟簡、獨孤郁、段平仲、白居易等眾對延英,謂古無中人位大帥,恐爲四方笑。帝乃更爲招討宣慰使,爲禦通化門慰其行。承璀禦眾無它遠略,爲盧從史侮狎,逾年無功,賴中詔擿使執從史,而間遣人説承宗上書待罪,乃詔班師,還爲中尉。平仲劾承璀輕謀弊賦,損國威,不斬首無以謝天下。帝不獲已,罷爲軍器莊宅使。尋拜左衞上將軍,知內侍省。

ちょうど劉希光が羽林大将軍孫璹から二十万緡の銭を受け取って方鎮を求めた事件があり、詔により賜死となったが、その跡が承璀に及んだため、命じて淮南軍監軍に出させた。奸佞の者である太子通事舎人の李涉が投匭して承璀らの冤状を訴えた。この時、孔戣が匭事を管掌し、その副本を閲して受け付けず、直ちに上表してその奸状を明らかにし、李涉を峽州司倉参軍に左遷した。しかし帝は承璀を殊の外厚遇し、李絳が翰林に在ってその過失を苦言して論じたため、決意して出させたのである。帝は後に承璀を還そうと考え、李絳を宰相から罷免し、承璀を召し出して内弓箭庫使とし、再び左神策中尉に復帰させた。恵昭太子が薨じると、承璀は澧王の立太子を請うたが、聞き入れられなかった。常に一室を飾り、賜わった詔勅を蔵していたが、地面に二尺の毛が生えたのを不吉として、自ら糞除して埋めた。一年余りして帝が崩御すると、穆宗は以前の議論を恨みに思い、禁中で彼を殺した。敬宗の時、左神策中尉の馬存亮がその冤罪を論じ、詔して子の士曄に収葬を許した。宣宗の時、士曄を右神策中尉に抜擢した。

原文會劉希光納羽林大將軍孫璹錢二十萬緡求方鎮,有詔賜死,跡絓承璀,故令出監淮南軍。纖人太子通事舍人李涉投匭言承璀等冤狀,於是孔戣知匭事,閱其副,不受,即表其奸,逐爲峽州司倉參軍。然帝於承璀殊厚,會李絳在翰林,苦論其過,故決遣之。帝後欲還承璀,爲罷絳宰相,召爲內弓箭庫使,復左神策中尉。惠昭太子薨,承璀請立澧王,不從。常飾一室藏所賜詔敕,地生毛二尺,惡之,躬糞除瘞之。逾年帝崩,穆宗銜前議,殺之禁中。敬宗時,左神策中尉馬存亮論其冤,詔許子士曄收葬。宣宗時,擢士曄右神策中尉。

この時、諸道は毎年宦官となる少年を進上し、「私白」と号し、閩・嶺地方が最も多く、後には皆任事に就いた。当時、閩は中官の巣窟であると言われた。咸通年間、杜宣猷が観察使となると、毎年時節に吏を遣わしてその祖先を祭らせ、当時「勅使墓戸」と号された。宣猷はついに群宦官の力によって宣歙観察使に転任した。

原文是時,諸道歲進閹兒,號「私白」,閩、嶺最多,後皆任事,當時謂閩爲中官區藪。咸通中,杜宣猷爲觀察使,每歲時遣吏致祭其先,時號「敕使墓戸」。宣猷卒用群宦力徙宣歙觀察使。

馬存亮

原文馬存亮

馬存亮は、字を季明といい、河中の人である。元和の時、累進して左神策軍副使・左監門衛将軍となり、内侍省事を管掌し、左神策中尉に進んだ。軍の籍簿には凡そ十余万が記されていたが、存亮の選抜は特に精妙で、部隊に疲れた兵士はなく、部署に冗員はいなかった。

原文馬存亮,字季明,河中人。元和時,累擢左神策軍副使、左監門衞將軍,知內侍省事,進左神策中尉。軍所籍凡十餘萬,存亮料柬尤精,伍無罷士,部無冗員。

敬宗の初め、染署の工人張韶は卜者の蘇玄明と親しくしていた。玄明が言うには、「私はかつてあなたのために占ったが、あなたは殿上で食事をするはずで、私もそれに与る。上(天子)が昼夜猟をし、出入りに規律がないと聞く。図ることができる。」張韶は毎度染材を宮中に運び入れる際、衛士に咎められなかった。そこでひそかに百余人の工人らと結び、兵器を車中に隠し、材木を運ぶ者のように装って右銀台門に入り、日暮れに事を起こすことを約した。その積荷を詰問する者があったので、張韶は謀略が発覚したと思い、その者を殺し、兵を出して大声で呼び隊列を成し、浴堂門は閉ざされた。時に帝は清思殿で球を打っており、驚き、右神策軍に行幸しようとした。ある者が言うには、「賊が宮中に入ったが、その多寡を知らず、道が遠く危ぶまれる。左軍に入る方が近くて速い。」帝はこれに従った。初め、帝は常に右軍中尉の梁守謙を寵愛し、遊幸の度に両軍が競技すると、帝は多く右軍の勝利を望み、左軍はこれを恨みに思っていた。この時、存亮は出迎え、帝の足を捧げて泣き、背負って入った。五百騎を以て二太后を迎えに行かせたが、到着する頃には、賊は既に関を斬って清思殿に入り、御座に昇り、乗輿の残りの膳を盗み食いし、玄明を揖して向かい合って食事し、かつ「占いの通りだ」と言った。玄明は驚いて「これだけか!」と言った。張韶はこれを嫌い、宝器を悉くその徒党に賜り、弓箭庫を攻めた。仗士が防戦したが勝てなかった。存亮は左神策大将軍の康芸全・将軍の何文哲・宋叔夜・孟文亮、右神策大将軍の康誌睦・将軍の李泳・尚国忠に騎兵を率いさせて賊を討たせた。日暮れに、張韶及び玄明を射て皆死なせた。賊が入った初め、宦官らは倉皇に望仙門から出奔し、内外は行在所を知らなかった。夜明け近くに、乱党を悉く捕らえ、左右両軍が宮中を清め、車駕は還御した。群臣が延英門に詣でて天子に拝謁したが、到着した者は十の一二に過ぎず、賊が入った門の警戒が不十分だった責任で数十人が坐し、杖罰に処されたが誅殺はされなかった。存亮には実封二百戸を賜り、梁守謙は開府儀同三司に進み、その他功績に応じて賞賜に差があった。存亮は一時の功で最も高かったが、権勢を推譲し、淮南軍監軍を求めた。代わって帰還すると、内飛龍使となった。大和年間、右領軍衛上将軍として致仕し、岐国公に封ぜられ、卒して揚州大都督を追贈された。

原文敬宗初,染署工張韶與卜者蘇玄明善,玄明曰:「我嘗爲子卜,子當禦殿食,我與焉。吾聞上晝夜獵,出入無度,可圖也。」韶每輸染材入宮,衞士不呵也。乃陰結諸工百餘人,匿兵車中若輸材者,入右銀臺門,約昏夜爲變。有詰其載者,韶謂謀覺,殺其人,出兵大呼成列,浴堂門閉。時帝擊球清思殿,驚,將幸右神策。或曰:「賊入宮,不知眾寡,道遠可虞,不如入左軍,近且速。」從之。初,帝常寵右軍中尉梁守謙,每遊幸;兩軍角戲,帝多欲右勝,而左軍以爲望。至是,存亮出迎,捧帝足泣,負而入。以五百騎往迎二太后,比至,而賊已斬關入清思殿,升禦坐,盜乘輿餘膳,揖玄明偶食,且曰「如占」。玄明驚曰:「止此乎!」韶惡之,悉以寶器賜其徒,攻弓箭庫,仗士拒之,不勝。存亮遣左神策大將軍康藝全、將軍何文哲宋叔夜孟文亮,右神策大將軍康誌睦、將軍李泳尚國忠,率騎兵討賊,日暮,射韶及玄明皆死。始賊入,中人倉卒繇望仙門出奔,內外不知行在。遲明,盡捕亂黨,左右軍清宮,車駕還。群臣詣延英門見天子,然至者不十一二,坐賊所入闌不禁者數十人,杖而不誅,賜存亮實封戸二百,梁守謙進開府儀同三司,它論功賞有差。存亮於一時功最高,乃推委權勢,求監淮南軍。代還,爲內飛龍使。大和中,以右領軍衞上將軍致仕,封岐國公,卒贈揚州大都督。

存亮は徳宗に仕え、六朝に歴事し、資質は端正で慎重であり、士卒をよく訓育した。初めて禁衛を去る時、兵士らは皆泣いた。唐代において宦官で忠謹と称された者は、存亮・西門季玄・厳遵美の三人のみである。

原文存亮逮事德宗,更六朝,資端畏,善訓士,始去禁衞,眾皆泣。唐世中人以忠謹稱者,唯存亮、西門季玄、嚴遵美三人而已。

附 厳遵美

原文附 嚴遵美

遵美の父季寔は、掖廷局博士であった。大中時、宮人が宣宗を弑殺しようと謀った。この夜、季寔は咸寧門の下で宿直し、変事を聞きつけて射てこれを殺した。翌日、帝は労って「お前でなければ、私は危うく免れなかった。」と言い、北院副使に抜擢し、終に内枢密使となった。

原文遵美父季寔,爲掖廷局博士。大中時,有宮人謀弒宣宗。是夜,季寔直咸寧門下,聞變,入射殺之。明日,帝勞曰:「非爾,吾危不免。」擢北院副使,終內樞密使。

遵美は左軍容使を歴任し、嘗て嘆いて言った。「北司の供奉官は胯衫で給事したものだ。今や笏を執るのは、過ぎたことである。枢密使には聴事(政務を執る広間)がなく、ただ三間の舎があるだけで書物を蔵していたに過ぎない。今や堂状に帖黄して事を決するのは、これ楊復恭が宰相の権を奪った過失である。」当時の中官の横行を痛んで言ったのであろう。後に昭宗に従って鳳翔に遷り、致仕を求め、青城山に隠棲し、八十余歳で卒した。

原文遵美歷左軍容使,嘗嘆曰:「北司供奉官以胯衫給事,今執笏,過矣。樞密使無聽事,唯三楹舍藏書而已,今堂狀帖黃決事,此楊復恭奪宰相權之失也。」蓋疾時中官肆橫云。後從昭宗遷鳳翔,求致仕,隱青城山,年八十餘卒。

仇士良

原文仇士良

仇士良は、字を匡美といい、循州興寧の人である。順宗の時に東宮に侍することができた。憲宗が嗣位すると、再び遷って内給事となり、出て平盧・鳳翔等軍の監軍となった。嘗て敷水駅に宿泊した時、御史の元稹と上廳の部屋を争い、稹を撃って傷つけた。中丞の王播が奏上して、御史と中使は先着順で正寝を得るべきであり、旧章の通りとすべきと請うた。帝は稹を正しいとせず、その官を斥けた。元和・大和の間、数度内外五坊使を任じられ、秋に内畿で鷹を検閲する際、到る所で官吏に供応を強要し、その暴状は寇盗よりも甚だしかった。

原文仇士良,字匡美,循州興寧人。順宗時得侍東宮。憲宗嗣位,再遷內給事,出監平盧、鳳翔等軍。嘗次敷水驛,與御史元稹爭舍上廳,擊傷稹。中丞王播奏御史、中使以先後至得正寢,請如舊章。帝不直稹,斥其官。元和、大和間,數任內外五坊使,秋按鷹內畿,所至邀吏供餉,暴甚寇盜。

文宗と李訓は王守澄を殺そうと謀り、士良が元来守澄と不和であったため、左神策軍中尉兼左街功徳使に抜擢し、互いに牽制させようとした。やがて李訓が宦官を悉く追放しようと謀ると、士良はその謀略を悟り、右神策軍中尉の魚弘誌・大盈庫使の宋守義と共に帝を挟んで宮中に還った。王涯・舒元輿は既に縛られ、士良は脅迫と侮辱をほしいままにし、自ら謀反を認めさせ、その文書を朝廷に示した。この時、その実情を弁明できる者なく、皆誠に謀反であると思った。士良はそこで兵を放って捕らえさせ、軽重を問わず悉く両軍で殺害し、公卿の半数が空席となった。事が平定すると、特進・右驍衛大将軍を加えられ、弘誌は右衛上将軍兼中尉、守義は右領軍衛上将軍となった。

原文文宗與李訓欲殺王守澄,以士良素與守澄隙,故擢左神策軍中尉兼左街功德使,使相糜肉。已而訓謀悉逐中官,士良悟其謀,與右神策軍中尉魚弘誌、大盈庫使宋守義挾帝還宮。王涯、舒元輿已就縛,士良肆脅辱,令自承反,示牒於朝。於時莫能辨其情,皆謂誠反,士良因縱兵捕,無輕重悉斃兩軍,公卿半空。事平,加特進、右驍衞大將軍,弘誌右衞上將軍兼中尉,守義右領軍衞上將軍。

李石が政を輔けると、威厳があり風骨があった。士良が議論する度に数度屈したため、深く忌み嫌い、賊に命じて親仁里で李石を刺させたが、馬が逸走して免れた。李石は恐れて辞職し、士良はますます畏れるところがなくなった。

原文李石輔政,棱棱有風岸,士良與論議數屈,深忌之,使賊刺石於親仁裏,馬逸而免。石懼,辭位,士良益無憚。

澤潞の劉従諫は本来、李訓と共に鄭注を誅殺する約束をしていた。李訓が死ぬと、仇士良が志を得たことを憤り、上書して言うには、「王涯ら八人は皆、宿儒の大臣であり、富貴を保とうと願っていたのに、どうして苦しんで謀反などしようか。今、大戮が加えられて既に追うべからざるものとなったが、彼らを逆賊と名付けることは、九泉の下で憤りを抱かせることである。そうでなければ、天下の義夫節士は、禍を畏れて身を伏せ、誰が陛下と共に天下を治めようとするだろうか」と。即ち、李訓が移送した書状を部将の陳季卿に持たせて奏聞させた。季卿が到着した時、ちょうど石に盗賊が発生し、京師が擾乱したため、疑って進もうとしなかった。従諫は大いに怒り、季卿を殺し、朝廷に書状を飛ばした。また言うには、「臣は李訓と共に鄭注を誅殺しようとしたが、鄭注は本来、宦官に引き立てられた者であるから、彼らに知らせなかった。今、四方に宰相が内官を除こうとしたと伝わっており、両軍中尉がそれを聞き、自らを救おうとして、妄りに相殺戮し、反逆と称している。もしも大臣が無将の謀を抱いていたなら、自ら執って有司に付すべきであり、どうして捕虜を放ち劫掠させ、屍を闕下に横たわらせることなどあろうか。陛下は目が届かず、耳にも聞こえなかったのである。かつ、宦官の根と党は内に蔓延している。臣は面陳しようとしたが、横に戮害を被ることを恐れ、謹んで封疆を修め、甲兵を繕い、陛下の腹心となろう。もし奸臣が制し難いならば、誓って死をもって君側を清めん」と。書状が聞こえると、人々は伝え観た。士良は沮喪し恐れ、即ち従諫を検校司徒に進めて、その言を和らげようとした。従諫は動かし得ると知り、また言うには、「臣の陳べることは国の大體に係る。聞き入れられるならば、宜しく王涯らの罪を洗い宥すべきであり、聞き入れられないならば、賞は妄りに出るべきではない。どうして死んだ者の冤が晴らされず、生きている者が祿を受けることがあろうか」と。固く辞した。累次上書し、士良らの罪を暴き指弾した。帝は去ることができなかったが、然しながらその言に頼ってやや自ら強くした。これより後、鬱々として楽しまず、両軍の球獵宴会は絶えた。

原文澤潞劉從諫本與訓約誅鄭註。及訓死,憤士良得誌,乃上書言:「王涯等八人皆宿儒大臣,願保富貴,何苦而反。今大戮所加已不可追,而名之逆賊,含憤九泉。不然,天下義夫節士,畏禍伏身,誰肯與陛下共治耶?」即以訓所移書遣部將陳季卿以聞。季卿至,會石遇盜,京師擾,疑不敢進。從諫大怒,殺季卿,騰書於朝。又言:「臣與訓誅註,以註本宦豎所提挈,不使聞知。今四方共傳宰相欲除內官,而兩軍中尉聞,自救死,妄相殺戮,謂爲反逆。有如大臣挾無將之謀,自宜執付有司,安有縱俘劫、橫屍闕下哉?陛下視不及,聽未聞也。且宦人根黨蔓延在內,臣欲面陳,恐橫遭戮害,謹修封疆,繕甲兵,爲陛下腹心。如奸臣難制,誓以死清君側。」書聞,人人傳觀。士良沮恐,即進從諫檢校司徒,欲弭其言。從諫知可動,復言:「臣所陳系國大體,可聽,則宜洗宥涯等罪;不可聽,則賞不宜妄出。安有死冤不申,而生者荷祿?」固辭。累上書,暴指士良等罪。帝雖不能去,然倚其言差自強。自是郁郁不樂,兩軍球獵宴會絶矣。

開成四年、風痹に苦しみ、少し間が空くと、宰相を召して延英殿で引見し、退いて思政殿に座り、左右を顧みて言うには、「直っている学士は誰というか」と。答えて「周墀です」と言う。召し寄せると、帝は言う、「お前の見るところ、朕はどのような君主か」と。墀は再拝して言う、「臣には知ることはできませんが、然しながら天下では陛下を堯・舜の主と言っています」と。帝は言う、「問うた所以は、周の赧王・漢の献帝とどちらがましかということだ」と。墀は惶駭して言う、「陛下の徳は、周の成王・康王、漢の文帝・景帝でも比べるに足らず、どうして自ら二主に比べられるのですか」と。帝は言う、「赧王・献帝は強臣に制せられたが、今朕は家奴に制せられている。自ら遠く及ばないと思う」と。因りて涙を流し、墀は地に伏して流涕した。後に再び朝することなく、大漸に至るまでという。

原文開成四年,苦風痹,少間,召宰相見延英,退坐思政殿,顧左右曰:「所直學士謂誰?」曰:「周墀也。」召至,帝曰:「自爾所況,朕何如主?」墀再拜曰:「臣不足以知,然天下言陛下堯、舜主也。」帝曰:「所以問,謂與周赧、漢獻孰愈?」墀惶駭曰:「陛下之德,成、康、文、景未足比,何自方二主哉?」帝曰:「赧、獻受制強臣,今朕受制家奴,自以不及遠矣!」因泣下,墀伏地流涕。後不復朝,至大漸云。

初め、枢密使の劉弘逸・薛季棱、宰相の李玨・楊嗣復が太子を奉じて監国させようと謀り、士良と仇弘志が議して更に立て替えようとしたが、李玨が従わなかったので、乃ち詔を矯って潁王を皇太弟とし、士良が兵を以て奉迎し、太子は還って陳王となった。初め、荘恪太子が薨じると、楊賢妃が安王を引き入れようと謀ったが、成らなかった。武宗が既に立つと、士良がその事を発し、帝に除くよう勧めて人望を絶とうとしたので、故に王と妃は皆死んだ。士良は驃騎大將軍に遷り、楚国公に封ぜられ、弘志は韓国公に封ぜられ、実封三百戸を賜った。俄かに李玨・嗣復は罷免されて去り、弘逸・季棱は誅殺された。

原文始,樞密使劉弘逸薛季棱、宰相李玨楊嗣復謀奉太子監國,士良與弘誌議更立,玨不從,乃矯詔立潁王爲皇太弟,士良以兵奉迎,而太子還爲陳王。初,莊恪太子薨,楊賢妃謀引安王,不克。武宗已立,士良發其事,勸帝除之以絶人望,故王、妃皆死。士良遷驃騎大將軍,封楚國公,弘誌韓國公,實封戸三百。俄而玨、嗣復罷去,弘逸、季棱誅矣。

帝は明断であり、士良に援立功があったとはいえ、内実は彼を嫌い、陽に尊寵を示した。李徳裕が君寵を得ると、士良は愈々恐れた。会昌二年、尊号を上るに当たり、士良は「宰相が赦書を作り、禁軍の縑糧芻菽を減らす」と宣言して怨みを煽り、両軍に語って言うには、「審かにこれがあるならば、楼前で争うがよい」と。徳裕がこれを帝に白上すると、使者を命じて神策軍に諭して言うには、「赦令は朕の意によるものであり、宰相が何に関わろうか。お前たちどうして敢えてそうするのか」と。兵士はようやく平らかになった。士良は惶惑して自ら安からず。明年、観軍容使に進み、左右軍を兼ねて統べたが、疾を理由に辞し、罷めて内侍監とし、省事を知らせた。固く老いを請うと、詔して許した。尋いで卒し、揚州大都督を贈られた。

原文帝明斷,雖士良有援立功,內實嫌之,陽示尊寵。李德裕得君,士良愈恐。會昌二年,上尊號,士良宣言「宰相作赦書,減禁軍縑糧芻菽」以搖怨,語兩軍曰:「審有是,樓前可爭。」德裕以白帝,命使者諭神策軍曰:「赦令自朕意,宰相何豫?爾渠敢是?」士乃怗然。士良惶惑不自安。明年,進觀軍容使,兼統左右軍,以疾辭,罷爲內侍監,知省事。固請老,詔可。尋卒,贈揚州大都督。

士良が老いた時、宦官たちが挙げて邸に送り還すと、謝して言うには、「諸君は善く天子に仕え、老夫の言葉を聞くことができるか」と。衆は唯々とした。士良は言う、「天子を閑暇にさせてはならない。暇があれば必ず書を観、儒臣に接し、則ちまた諫めを受け入れ、智深く慮遠くし、玩好を減らし、遊幸を省みるようになる。我々の恩は薄く、権は軽くなる。諸君の為に計るに、財貨を殖やし、鷹馬を盛んにし、日に球獵声色を以てその心を蠱惑し、極めて侈靡にし、悦んで息むことを知らせず、則ち必ず経術を斥け、外事を暗くし、万機を我に在らしめよ。恩沢権力はどこへ行こうとするのか」と。衆は再拝した。士良は二王・一妃・四宰相を殺し、貪酷二十餘年、亦た術を以て自ら将し、恩礼衰えずという。死んだ明年、その家に数千の兵器が蔵されていたことが発覚し、詔して官爵を削り、その家を籍没した。

原文士良之老,中人舉送還第,謝曰:「諸君善事天子,能聽老夫語乎?」眾唯唯。士良曰:「天子不可令閑暇,暇必觀書,見儒臣,則又納諫,智深慮遠,減玩好,省遊幸,吾屬恩且薄而權輕矣。爲諸君計,莫若殖財貨,盛鷹馬,日以球獵聲色蠱其心,極侈靡,使悅不知息,則必斥經術,阇外事,萬機在我,恩澤權力欲焉往哉?」眾再拜。士良殺二王、一妃、四宰相,貪酷二十餘年,亦有術自將,恩禮不衰云。死之明年,有發其家藏兵數千物,詔削官爵,籍其家。

初め、士良・弘志は文宗が李訓と謀ったことを憤り、屡々帝を廃そうとした。崔慎由が翰林学士であった時、夜直の半ばに至らぬうちに、中使が召し入れると、秘殿に至り、士良らが堂上に坐しているのを見た。帷帳は周密で、慎由に謂って言うには、「上は不豫已久しく、即位以来、政令多く荒闕す。皇太后に制有りて嗣君を更に立てんとす。学士は詔を作るべし」と。慎由は驚いて言う、「上は高明の徳天下に在り、安んぞ軽く議すべけんや。慎由の親族中表千人、兄弟群従且つ三百、何ぞ覆族の事と与にすべけんや。死すとも命を承けず」と。士良らは黙然とし、久しくして後戸を開き、小殿に引き至ると、帝がそこにいた。士良らは階を歴りて帝の過失を数え、帝は俯首した。既にして士良は帝を指して言う、「学士でなければ、再びここに坐することは得られない」と。乃ち慎由を送り出し、戒めて言う、「泄らすな、禍は爾の宗族に及ぶ」と。慎由はその事を記し、箱枕の間に蔵し、当時人は知らなかった。将に没せんとする時、その子の胤に授けた。故に胤は中官を憎み、終に討ち除いた。蓋し禍の原は士良・弘志に在りという。

原文始,士良、弘誌憤文宗與李訓謀,屢欲廢帝。崔慎由爲翰林學士,直夜未半,有中使召入,至秘殿,見士良等坐堂上,帷帳周密,謂慎由曰:「上不豫已久,自即位,政令多荒闕,皇太后有制更立嗣君,學士當作詔。」慎由驚曰:「上高明之德在天下,安可輕議?慎由親族中表千人,兄弟群從且三百,何可與覆族事?雖死不承命。」士良等默然,久乃啟後戸,引至小殿,帝在焉。士良等歷階數帝過失,帝俯首。既而士良指帝曰:「不爲學士,不得更坐此。」乃送慎由出,戒曰:「毋泄,禍及爾宗。」慎由記其事,藏箱枕間,時人莫知。將沒,以授其子胤,故胤惡中官,終討除之,蓋禍原於士良、弘志云。

楊復光

原文楊復光

楊復光は、閩の人である。本姓は喬氏。武力有り、少く内常侍楊玄价の家に養われ、頗る節誼を以て自ら奮い、玄价は之を奇とした。宣宗の時、玄价は塩州軍を監し、刺史劉臯を誣って殺した。臯は威名有る者で、世にその冤を訟うた。稍々遷って左神策軍中尉となり、宰相楊收を讒して去らせ、権寵は時に震う。

原文楊復光,閩人也,本喬氏。有武力,少養於內常侍楊玄價家,頗以節誼自奮,玄價奇之。宣宗時,玄價監鹽州軍,誣殺刺史劉臯。臯有威名者,世訟其冤。稍遷左神策軍中尉,譖去宰相楊收,權寵震時。

復光は謀略を有し、累ねて諸鎮の軍を監す。乾符の初め、平盧節度使曾元裕を佐けて賊王仙芝を撃ち、これを破る。招討使宋威が江西に於いて仙芝を撃つに、復光は軍中にあり、判官呉彦宏に請ひて賊を約して降らしむ。仙芝、将尚君長を遣はして自ら縛して約の如くせしむ。威、其の功を疾み、密かに僖宗に請ひて之を誅せしむ。故に仙芝怨み、復た兵を引いて叛く。後に天子、威の禍を階せるを悟り、之を罷め、兵を以て復光に与ふ。乃ち進みて徐唐莒を禽す。王鐸、招討と為るに、復光仍て監軍たり。鐸の荊南を棄つるや、山南東道節度使劉巨容其の地を定め、忠武別将宋浩を以て荊南を領せしめ、泰寧将段彦謨之を佐けしむ。復光の父嘗て忠武軍を監し、而して浩已に大将と為り、復光を見て之を少なしとし、礼を為さず。彦謨も亦た浩の下に居るを恥ぢ、遂に隙有り。復光曰く、「胡ぞ之を殺さざる」と。彦謨、慓士を引きて浩を撃ち殺す。復光、客常滋を以て留後を仮し、而して浩の罪を奏し、彦謨を薦めて朗州刺史と為す。詔して鄭紹業を荊南節度使と為し、復光を以て忠武軍を監せしめ、鄧州に屯し、賊の右衝を遏つ。帝西幸し、紹業を召して行在に見えしむ。復光更に彦謨を引いて荊南節度使と為す。彦謨、辺を行くと紿り、復光に詣り、黄金数百両を以て謝と為す。其の後、忠武周岌賊命を受け、嘗て夜宴し、復光を召す。左右曰く、「彼既に賊に附く、必ず公に利あらず、行かざるに如かず」と。復光固より往く。酒所にて時事を語るに、復光泣きて曰く、「丈夫の感ずる所は、独り恩と義のみ。彼恩義を顧みず、利害を規る、何ぞ丈夫たるや。公匹夫奮ひて侯に封ぜられ、乃ち十八葉の天子を捐て、北面して賊に臣す、何の恩義利害か昧々たるや」と。岌流涕して曰く、「吾が力足らず、陽に合して陰に之を離る。故に公を召して計らんとす」と。因りて杯を持ちて盟して曰く、「酒の如く有らん」と。即ち子守亮を遣はして賊使を伝舎に斬らしむ。秦宗権蔡州に拠りて叛く。岌・復光忠武兵三千を以て之に入り見ゆ。宗権即ち部将王淑を遣はし兵万人を持して従はしむ。復光荊・襄を定め、師鄧に次ぐ。淑逗遛す。復光之を斬り、其の軍を併せて八と為し、鹿宴弘・晋暉・張造・李師泰・王建・韓建等を以て之が将と為し、進みて南陽を攻む。賊将朱温・何勤逆戦す。大いに敗れ、遂に鄧州を収め、北に追ひて藍橋に至る。会ひて母喪有り、師を班す。俄に起たれて天下兵馬都監と為り、諸軍を総べ、東面招討使王重榮と並力して関中を定む。朱温同州を守る。復光使いを遣はし鐫諭す。温、其の部を以て降る。方に賊の強きに、重榮憂へて出ずる所を知らず、復光に謂ひて曰く、「賊に臣すか、将た国に負かん。拒み戦はんか、則ち兵寡し。奈何」と。復光曰く、「李克用我と世を共にして患難を同じくす。其の人、奮ひて身を顧みず。比に数たび召すも未だ即ち至らざるは、太原の道通ぜざるに由るのみ。禍を忍ぶ者に非ず。若し上の意を諭さば、彼宜しく必ず来らん」と。重榮曰く、「善し」と。王鐸に白して詔使を以て太原に至らしむ。克用の兵乃ち出づ。京師平ぐ。功を以て開府儀同三司・同華制置使を加へ、弘農郡公に封じ、号を賜ひて「資忠輝武匡国平難功臣」と曰ふ。卒す河中に。観軍容使を贈り、謚して忠肅と曰ふ。

原文復光有謀略,累監諸鎮軍。乾符初,佐平盧節度使曾元裕擊賊王仙芝,敗之。招討使宋威擊仙芝於江西,復光在軍,請判官呉彥宏約賊降,仙芝遣將尚君長自縛如約。威疾其功,密請僖宗誅之,故仙芝怨,復引兵叛。後天子寤威階禍,罷之,以兵與復光,乃進禽徐唐莒。王鐸爲招討,復光仍監軍。鐸之棄荊南也,山南東道節度使劉巨容定其地,以忠武別將宋浩領荊南,泰寧將段彥謨佐之。復光父嘗監忠武軍,而浩已爲大將,見復光,少之,不爲禮,彥謨亦恥居浩下,遂有隙。復光曰:「胡不殺之?」彥謨引慓士擊殺浩,復光以客常滋假留後,而奏浩罪,薦彥謨爲朗州刺史。詔鄭紹業爲荊南節度使,以復光監忠武軍,屯鄧州,遏賊右沖。帝西幸,召紹業見行在,復光更引彥謨爲荊南節度使。彥謨紿行邊,詣復光,以黃金數百兩爲謝。其後忠武周岌受賊命,嘗夜宴,召復光,左右曰:「彼既附賊,必不利公,不如毋行。」復光固往,酒所語時事,復光泣曰:「丈夫所感,獨恩與義耳,彼不顧恩義,規利害,何丈夫哉!公奮匹夫封侯,乃捐十八葉天子,北面臣賊,何恩義利害昧昧耶?」岌流涕曰:「吾力不足,陽合而陰離之,故召公計。」因持杯盟曰:「有如酒!」即遣子守亮斬賊使於傳舍。秦宗權據蔡州叛,岌、復光以忠武兵三千入見之。宗權即遣部將王淑持兵萬人從。復光定荊、襄,師次鄧,淑逗遛,復光斬之,並其軍爲八,以鹿宴弘、晉暉、張造、李師泰、王建、韓建等爲之將,進攻南陽。賊將朱溫、何勤逆戰,大敗,遂收鄧州,追北藍橋。會母喪,班師。俄起爲天下兵馬都監,總諸軍,與東面招討使王重榮並力定關中。朱溫守同州,復光遣使鐫諭,溫以所部降。方賊之強,重榮憂不知所出,謂復光曰:「臣賊邪,且負國;拒戰邪,則兵寡,柰何?」復光曰:「李克用與我世共患難,其爲人,奮不顧身,比數召未即至者,由太原道不通耳,非忍禍者。若諭上意,彼宜必來。」重榮曰:「善。」白王鐸以詔使至太原,克用兵乃出。京師平,以功加開府儀同三司、同華制置使,封弘農郡公,賜號「資忠輝武匡國平難功臣」。卒河中,贈觀軍容使,謚曰忠肅。

復光は下を御するに恩有り。軍中其の死を聞き、皆慟哭す。而して麾下功を立てる者多し。諸子将帥と為る者数十人、守宗も亦た忠武節度使と為る。

原文復光御下有恩,軍中聞其死,皆慟哭,而麾下多立功者。諸子爲將帥數十人,守宗亦爲忠武節度使。

贊

原文贊

贊して曰く、楚の鄖公辛は敢へて君を讎とせずして父の冤を忘れず。昭湣の世、両軍の寵遇厚薄有り。而して卒に存亮を用ひて難を夷ぐ。功及ぶ者莫し。古より忠臣は疏斥不用より出づること蓋し多し。存亮豈に記書道理を通ずるの人ならんや。何ぞ其れ君臣の大誼を識ること明らかなる甚だしき。大なる労を屍せず、権を畏れて外に処るは、又愈よ賢なり。夫れ「龍蛇」の詩を書く者と、何ぞ其れ小なるや。

原文贊曰:楚鄖公辛不敢讎君而忘父冤,昭湣之世,兩軍寵遇有厚薄,而卒用存亮夷難,功莫及者。自古忠臣出於疏斥不用蓋多矣,存亮豈通記書道理之人邪,何其識君臣大誼明甚?不屍大勞,畏權處外,又愈賢矣。與夫書「龍蛇」之詩者,何其小哉!