新唐書

巻二百零八 列傳第一百三十三 宦者下

李輔國

李輔國は、本名を靜忠といい、宦官の奴隷として閑廄の小兒となった。容貌は醜陋であったが、わずかに書計に通じていた。高力士に仕え、四十歳を過ぎて、廄中の簿最(帳簿の管理)を主管させられた。王鉷が使となったとき、禾豆(飼料)の管理を任せると、損耗や不正を厳しく摘発し、馬はそれゆえに肥え、皇太子に推薦されて東宮に侍することができた。

陳玄禮らが楊國忠を誅殺したとき、輔國はあらかじめ謀議に加わり、また太子に中軍を分けて朔方に向かわせ、河・隴の兵を収め、興復を図るよう勧めた。太子が霊武に至ると、ますます親近され、即位して天下の人心を繋ぐよう勧めた。家令に抜擢され、元帥府行軍司馬を判じた。肅宗は次第に股肱の任に用い、名を護國と改め、さらに今の名に改めた。四方の章奏・軍符・禁寶(皇帝の印璽)をすべて彼に委ねた。輔國は事に応じて細かく謹厳に振る舞い、君主の親信を得たが、内心は深く険悪でまだ放肆には至らなかった。葷を食わず、しばしば仏教の詭行を行い、人は柔順善良と思って忌み嫌わなかった。帝が京師に還ると、殿中監に任じられ、閑廄・五坊・宮苑・営田・栽接総監使を兼ね、さらに隴右群牧・京畿鋳銭・長春宮等使、少府・殿中の二監を兼ね、成国公に封ぜられ、実封五百戸を賜った。宰相群臣が時を定めず天子に謁見したいときは、皆輔国を通じて請うて、ようやく許しを得た。常に銀臺門に止まって政事を決した。察事聽兒数十人を置き、官吏にわずかな過失があれば、捕らえられずにはおかず、捕らえればただちに推問した。州県の獄訟、三司の制劾、捕縛・流刑・降格などは、すべて私的に判断し、制勅と称して行ったが、一度も上聞に達することはなかった。詔書が下ると、輔国が署名してから施行し、群臣は敢えて議論する者はいなかった。外出するときは甲士三百人を護衛とした。貴幸の者でも官名を呼ばず、「五郎」と呼んだ。李揆が国政を執るとき、子孫の礼で仕え、「五父」と号した。帝は元擢の女を娶らせ、擢はそれゆえ梁州長史となり、兄弟も皆臺省の位についた。

李峴が政を輔けると、叩頭して「国を乱すであろう」と述べた。そこで詔勅が中書を経由しないものは、峴が必ず審査覆奏することとなり、輔国は快く思わなかった。

時に太上皇は興慶宮に居り、帝は復道より起居しに来り、太上皇もまた時折大明宮に至り、あるいは道中で相逢うこともあった。帝は陳玄禮・高力士・王承恩・魏悅・玉真公主に常に太上皇の左右に侍らせ、梨園の弟子に日々声伎を奏して娯楽させた。輔国は元来微賤であり、暴貴したとはいえ、力士らはなお礼をせず、これを怨み、奇功を立てて自らの地位を固めようとした。初め、太上皇はしばしば長慶楼に酒宴を設け、南に大道を俯瞰し、徘徊して観覧し、あるいは父老が通りかかれば、皆拝舞して去った。上元年中、剣南の奏事吏が楼の下を通りかかり、上謁したので、太上皇は酒を賜い、詔して公主及び如仙媛にこれを主らせ、また郭英乂・王銑らを召して飲ませ、賜与は頗る厚かった。輔国はそこで帝に妄りに言うことには、「太上皇は市に近く居り、外人と交通し、玄禮・力士らが陛下に不利を図ろうとしており、六軍の功臣も不安で落ち着かず、願わくは太上皇を禁中に移されたし」。帝は悟らなかった。以前、興慶宮には馬三百匹があったが、輔国は詔を偽ってこれを取り上げ、わずか十馬を残した。太上皇は力士に言うことには、「我が児は輔国の謀を用いて、孝を終えることができぬ」。時に帝が病に臥せると、輔国はすぐさま詐って皇帝が太上皇に宮中を巡行するよう請うたと言い、睿武門に至ると、射生官五百が道を遮り、太上皇は驚き、ほとんど馬から墜ちんとし、何をする者かと問うと、輔国は甲騎数十を馳せて奏することには、「陛下は興慶宮が低湿で狭いため、乗輿を奉迎して宮中に還らせます」。力士は声を厲して言うことには、「五十年の太平天子、輔国は何事をしようとするのか」。叱って下馬させると、輔国は手綱を失い、力士を罵って「翁は事を解せぬ」と言い、一人の従者を斬った。力士は呼んで言うことには、「太上皇が将士らがそれぞれ安否を問われる」。将士は刀を納めて万歳を唱え、皆再拝した。力士はまた言うことには、「輔国は太上皇の馬を御せよ」。輔国は靴のまま走り、力士と共に轡を執って西内に還り、甘露殿に居し、侍衛はわずか数十で、皆弱く老いていた。太上皇は力士の手を執って言うことには、「将軍がなければ、朕は兵の死鬼となるところであった」。左右は皆涙を流した。また言うことには、「興慶は、わが王たる地であり、数度皇帝に譲ったが、帝は受けなかった。今の移徙は、わが志によるものである」。まもなく承恩を播州に、魏悅を溱州に、如仙媛を帰州に流し、公主を玉真観に住まわせた。さらに後宮の声楽百余りを選び、代わりに太上皇に侍らせ、灑掃を備えさせた。詔して万安・咸宜の二公主に服膳を見させた。これより太上皇は怏怏として楽しまず、ついに天下を棄てられた。輔国は功により兵部尚書に遷った。南省で政務を執るとき、武士に戎装させて道を夾み、跳丸・舞剣を陳べ、百騎が前駆し、御府が食を設け、太常が楽を備え、宰相群臣がことごとく会した。志を得てからは、やがて驕り高ぶり、宰相を求め、帝は重ねて違えることを憚り、「卿の勲力は何の任にでもつくが、ただ衆望が一つでない。どうしたものか」。輔国はそこで宰相裴冕をそそのかして連名の表で自分を推薦させた。帝は密かに蕭華を摘して冕に諭して止めさせた。

張皇后はしばしばその専横を憎み、帝が病に臥せると、太子が国を監し、后は太子を召し、輔国及び程元振を誅殺しようとしたが、太子は従わず、さらに越王・兗王を召してこれを図った。元振が輔国に告げると、すぐに兵を伏せて淩霄門にて太子を迎え、変を伺い、この夜に二王及び中人朱輝光・馬英俊らを捕えて囚え、后を他の殿で殺した。

代宗が立つと、輔国らは定策の功により、ますます跋扈し、ついに帝に言うことには、「大家(陛下)はただ宮中に坐していて、外事は老奴に処決させてください」。帝は愕然として除こうとしたが、その兵権を握ることを憚り、そこで尚父と尊び、事の大小を問わずすべて関白し、群臣の出入りも皆まず輔国に詣でさせ、輔国はやや自ら安んじた。さらに司空しくう兼中書令に冊進し、実封八百戸を賜った。まもなく、左武衛大将軍彭體盈を以て代わりに閑廄・嫩牧・苑内・営田・五坊等使とし、右武衛大将軍薬子昂を以て代わりに元帥行軍司馬を判じ、輔国に外に大第を賜った。中外その失勢を聞き、互いに賀し合った。輔国は初めて惘然として憂い、どうしてよいかわからず、表を奉って官を解くことを乞うた。詔があり、博陸郡王に進封し、なお司空・尚父とし、朔望の朝参を許した。輔国は中書に入って謝表を作ろうとしたが、閽者が入れず、言うことには、「尚父は宰相を罷められております。入ることはできません」。輔国は気塞がり、しばらくして言うことには、「老奴は死罪である。郎君(陛下)に事えきれず、地下にて先帝に事えましょう」。帝は優しい言葉で諭して遣わした。

韓穎・劉烜という者が歩星(星占い)に巧みで、乾元年中に翰林に待詔し、穎は司天監の位に、烜は起居舎人となり、輔国と甚だ親密であった。輔国が中書を領すると、穎は秘書監に進み、烜は中書舎人となり、裴冕が山陵使判官に引き立てた。輔国が罷められると、ともに嶺南に流され、賜死された。

輔国が太上皇を移して以来、天下はこれを憎み、帝も東宮にいたときから積もる不平があった。位を嗣ぐと、顕戮を望まず、侠客を遣わして夜に刺殺させた。年五十九。その首を溷中に投げ込み、右臂を断ち、泰陵に告げた。しかしなおその事を秘し、木を刻んで首の代わりに葬り、太傅を贈り、謚して丑といった。後に梓州刺史杜濟が武人として牙門将となり、自ら輔国を刺した者であると言った。

王守澄

王守澄は、その来歴は史書に記されていない。元和年間に徐州の軍を監し、召還された。時に憲宗は方士の説を好み、詔を下して天下にその人を求めると、宰相皇甫鎛・左金吾将軍李道古らが楊仁晝・浮屠大通を推挙した。仁晝は姓名を柳泌と改め、大通は自ら百五十歳の寿命あり、不死の薬を持つと称し、ともに翰林院に待詔された。虢人の田元佐は秘方あり、瓦礫を黄金に化すことができると言い、詔により虢県令に任じられ、董景珍・李元戢とともに皆、柳泌・大通の仲介で天子に推薦され、天子はその説に惑わされた。柳泌は金石の薬を進めて帝に服用させると、帝は甚だ躁急となり、しばしば激怒して左右を責め、続いて罪を得る者がおり、禁中は息をひそめ、帝はこれより不となった。十五年、元会を罷め、群臣は危惧したが、時に義成軍節度使劉悟が来朝し、麟徳殿で対面を賜り、悟が出て言うには「上体は平癒されました」と。内外これにより安堵した。その夜、守澄は内常侍陳弘志とともに中和殿で帝をしいし、服用した薬のためとし、急崩を以て天下に告げ、乃ち梁守謙・韋元素らと策を定めて穆宗を立てた。まもなく枢密事を知るに至った。

文宗が位を嗣ぐと、守澄は助力があったため、驃騎大将軍に進められた。帝は元和の逆罪が久しく討たれないことを患い、故に宋申錫を宰相とし、事に因ってこれを除かんと謀ったが、成らず、更にその党鄭注・李訓にその隙を乗じさせ、ここに楊承和を驩州に流し、韋元素を象州に流した。中人劉忠諒を遣わして武昌で元素を追殺し、承和には公安で次いで賜死させた。李訓は乃ち守澄を脅して軍容使として邸宅に就かせ、内養に命じて酖酒を賜って死なせた。事は秘密で、当時知る者なく、揚州大都督ととくを追贈された。その弟守涓は徐州監軍より召還され、中牟で死んだ。

劉克明

劉克明もまた来歴は記されず、敬宗の寵幸を得た。敬宗は撃球を好み、ここに陶元皓・靳遂良・趙士則・李公定・石定寛が球工として便殿に召され、内籍は宣徽院あるいは教坊に属したが、皆、神策軍の隷卒や里閭の悪少年の出身で、帝は殿中で彼らと昵懇に戯れて楽しんだ。四方これ聞き、争って軽捷勇猛の者を帝に進めた。嘗て三殿で角觝を閲し、首を砕き臂を断つ者あり、廷中に流血し、帝は甚だ歓び、厚く賜物し、夜半に罷めた。親近した者らは既に皆、凶悪で不逞の徒であり、また些細な過ちでも必ず責め辱めたため、ここより怨望を抱いた。帝は深夜に自ら狐を捕らえて楽しみ、これを「打夜狐」と称し、中人許遂振・李少端・魚志弘が侍従に及ばず、皆、官位を削られた。帝が夜に狩猟から還り、克明・田務澄・許文端・石定寛・蘇佐明・王嘉憲・閻惟直ら二十八人と群飲し、酣になった時、帝が更衣するため、燭が忽然と消え、克明は佐明・定寛とともに更衣室で帝を弑し、詔を偽って翰林学士路隋を召し詔書を作らせ、絳王に軍国事を領せしめた。翌日、遺詔を下し、絳王が即位した。克明らは功を恃み、左右の者を替えようとし、自ら支党を引き入れて兵権を専らにせんとした。時に、枢密使王守澄・楊承和、中尉梁守謙・魏従簡が宰相裴度とともに江王を迎え、左・右神策軍及び六軍飛龍兵を発して討ち、克明は井戸に投じて死に、その屍を引き出して戮した。務澄らは皆、斬首して徇し、家財を没収し、またその党数十人を殺した。

初め、克明が謀逆を図った時、母は禁じて許さなかった。文宗が立つと、母の忠を嘉し、銭千緡・絹五百匹を賜い、婢二人を給した。

田令孜

田令孜、字は仲則、しょくの人である。本姓は陳氏。咸通年間に小馬坊使を歴任した。僖宗が即位すると、令孜を左神策軍中尉に抜擢し、この時西門匡範が右中尉の位にあり、世に「東軍」「西軍」と称した。

帝は幼く愚鈍で、闘鵝や走馬を好み、しばしば六王宅・興慶池に幸して諸王と闘鵝し、一鵝が五十銭に至った。内園の小児らと特に昵懇で、寵を恃んで暴横であった。初め、帝が王であった時、令孜と同臥起し、ここに至ってその学識があり事を処する能力を認め、また帝の資質が狂昏であったため、政事を一切委ね、「父」と呼んだ。而して帝は荒淫酣酔して節度なく、左蔵庫・斉天庫などの金幣を発して、伎子や歌児に賜る日は巨万に及び、国用は耗盡した。令孜は内園小児の尹希復・王士成らに語り、帝を勧めて京師の両市の蕃旅・華商の宝貨を没収し内庫に送らせ、使者をして櫃坊・茶閣を監視させ、訴え出る者は皆、京兆府で杖死させた。

令孜は帝が畏れるに足らぬと知ると、官爵を売り捌き、除拜は詔を待たず、緋紫の袍を仮に賜るも上聞に達しなかった。あらゆる制度は崩壊弛緩し、内外は汚れ玩ばれた。既に各地で盗賊が起こるも、上下互いに掩い隠し、帝は知るに及ばなかった。この時、賢人は一人もおらず、ただ佞んで鄙しく貪婪な者が相集まって員数を備え、安きに偷み黙するのみであった。左拾遺侯昌蒙は憤りに堪えず、閹尹が権を用いて天下を乱すと指弾し、上疏が入ると、内侍省で賜死された。

宰相盧攜は平素より令孜に事え、建言する毎に必ず迎合して唱和した。初め、黄巢が広州を求め、兵を罷めんと願ったが、盧攜は高駢を寵遇して功を立てさせようとし、賊の要求を聞き入れなかった。因ってまた関東の諸節度使を更易したため、賊はこれに乗じ、東都を陥落させた。令孜は慌てて、罪を盧攜に帰し、帝を奉じて西に幸し、金光門より歩み出て咸陽の沙野に至ると、十余騎の軍卒が呼んで曰く「黄巢は陛下のために奸臣を除かんとし、乗輿今西に向かわれるは、秦中の父老何を望みとせん。還宮を願う」と。令孜はこれを叱し、羽林騎を馳せて斬らせ、即ち羽林の白馬に帝を載せ、昼夜馳せて駱谷に宿った。時に陳敬瑄が西川節度使であったが、令孜の兄であるため、帝に蜀に幸するよう請うた。詔を以て令孜を十軍十二衛観軍容制置左右神策護駕使とした。成都に至り、左金吾衛上将軍に進み、兼ねて四衛事を判じ、晋国公に封ぜられた。帝は蜀が狭陋なのを見て、次第に鬱々とし、日々嬪侍と博奕飲酒し、時々袂を攘ぎて北を望み、惆然として涙を流した。令孜は隙を窺って慰め解き、万歳を呼ぶと、帝は悦び、因って鄭畋・王鐸・程宗楚・李鋌・敬瑄らが方に並力していると盛んに称え、賊は憂うるに足らぬと言った。帝は曰く「善し」と。

初めに、成都において陳許の兵三千を募り、黄帽を着用させ、「黄頭軍」と称し、蛮族の防禦に当たらせた。帝が到着すると、将士を大いに労い、扈従した者には既に賜与があったが、黄頭軍には及ばず、皆ひそかに令孜を怨んだ。令孜は酒宴を設けて諸将を会し、黄金の杯で酒を勧め、即座にこれを賜った。黄頭軍の将郭琪は飲もうとせず、言うには、「軍容使が偏った恩恵を改め、衆士に均しく賜われば、誠に大願である」と。令孜は目を向けて言う、「君に功績があるのか」と。答えて言う、「党項と戦い、契丹に迫り、数十度の戦い、これが琪の功績である」と。令孜は嗤い、怒って言う、「承知した」と。密かに毒を酒に注ぎ、琪は飲み終えると、馳せ帰り、婢一人を殺し、その血を吸って解毒を得た。そこで夜に営を焼き、城邑を掠奪し、敬瑄が討ってこれを破り、広都に奔り、遂に高駢の所へ走った。帝は変事を聞き、令孜と共に東城を保って自ら守り、群臣は謁見できなかった。左拾遺孟昭図が対面を請うたが、召されず、そこで上疏して極力陳べた、「君と臣は一体となって相成り、安んずれば共に寧んじ、危うければ共に難に当たる。昔日西幸の際、南司に告げず、故に宰相・御史中丞・京兆尹は悉く賊に斃れ、唯両軍中尉のみが乗輿を扈従して全うした。今、在る百官は、概ね重険を冒し百死の中より出でし者である。昨晩黄頭軍の乱に、火は前殿を照らし、陛下は唯令孜と共に城を閉じて自ら守り、宰相を召さず、群臣と謀らず、入らんと欲すれば得ず、対面を求めれば許されず。且つ天下は、高祖こうそ・太宗の天下であって、北司の天下ではない。陛下は固より九州の天子であって、北司の天子ではない。北司が悉く南司に忠であると言えようか。廷臣が勅使に用無しと言えようか。文宗の時、宮中に災あり、左右巡使が到らず、皆顕著に責められた。如何にして天子が播越するに、宰相が関与せず、群司百官が路人の如く棄てられようか。既に過ぎた事は誠に諫めるに足らず、来るべき者は追うことを冀う」と。疏が入ると、令孜は匿して奏上せず、詔を矯って昭図を嘉州司戸参軍に貶し、人を遣わして蟆頤津に沈めた。初め、昭図は正言すれば必ず害されることを知り、家の隷に謂って言う、「大盗未だ殄らず、宦豎が君臣を離間す。吾は諫を以て官と為し、覆亡を坐視すべからず。疏を入れれば必ず死す。而して能く吾が骸を収めんか」と。隷は諾し、遂にその屍を葬った。朝廷はこれを痛んだ。

賊が平定されると、令孜は王鐸を儒臣であり且つ功無しとし、而して沙陀を召す首謀は楊復光であるとして、重きを北司に帰さんと欲し、故に鐸の都統を罷め、復光の功を第一とした。又、復光が己に逼ることを忌み、故にその賞を薄くした。自ら帷幄の決勝と謂い、王室の軽重を繋ぎ、出入り甚だ倨傲であった。会に復光が死すと、大いに喜び、即ち復恭の枢密使を罷めた。中人曹知愨なる者は、富家の子で、頗る沈鷙であった。賊が長安ちょうあんに在る時、知愨は清・濁二谷の民を率いて山に倚り屯し、賊に屈しなかった。密かに士卒に衣服・言語を賊に類する者に変えさせ、夜に長安に入り賊営を攻め、賊は大いに懼れた。帝は聞き、金紫を賜い、内常侍に擢げた。帝が還らんとするを聞き、因って大言する、「我れ将に衆を擁して大散関の下に在り、群臣の帰すべき者を閲してこれを納れん」と。令孜は然りと謂い、密かに王行瑜に命じて邠州の兵を以て嵯峨山を度り、その衆を襲撃して殺させた。ここに由って益々自ら放肆にし、天子を禁制して主断する所あらしめなかった。帝はその専横を以て、左右に語るや輒ち流涕した。

復光の部将鹿晏弘・王建等は、八都の衆二万を以て金・洋等州を取り、興元を進攻し、節度使牛頊は龍州に奔り、晏弘は自ら留後と為り、建及び張造・韓建等を部刺史とした。帝が還ると、討たれるを懼れ、兵を率いて許州に走った。王建は義勇四軍を率いて帝を西県に迎え、復た建及び韓建等を以てこれを主らせ、「随駕五都」と号した。令孜は復光の故を以て、才を以て諸衛将軍を授け、皆養子とした。別に神策新軍を募り、千人を一都とし、凡そ五十四都、左右に分けて十軍としてこれを統べた。又、親信を遣わして諸鎮を覘わせ、己に附かざる者を罪を以て除き徙めた。

養子匡祐が河中に宣慰すると、王重栄は厚く礼を為したが、匡祐は甚だ傲り、挙軍怒り、重栄は因って数え令孜の罪を責め、その無礼を責め、監軍が和解して去った。匡祐は還り、令孜に訴え、且つこれを図るを勧めた。令孜は奏上して両塩池を塩鉄使に帰属させ、即ち自ら両池榷塩使を兼ねた。重栄は詔を奉ぜず、表して令孜の十罪を暴いた。令孜は自ら将いて重栄を討ち、邠寧の朱玫・鳳翔の李昌符を率い、鄜・延・霊・夏等の兵を合わせ凡そ三万、沙苑に壁した。重栄は太原の李克用に連和を説き、克用は上書して令孜・玫を誅するを請うたが、帝はこれを和らげ、従わなかった。沙苑に大戦し、王師敗れた。玫は走って邠州に還り、昌符と共に令孜に用いられたことを恥じ、還って重栄と合した。神策兵は潰れて還り、過ぐる所を略して皆尽きた。克用が京師に逼ると、令孜は計窮まり、乃ち坊市を焚き、帝を劫いて夜に開遠門を啓いて出奔した。賊が長安を破って以来、宮室・舎廬の火災は十七度、後に京兆王徽が葺き復して粗く完うしたが、ここに至って令孜は唱えて言う、「王重栄反す」と。命じて宮城に火を放ち、唯だ昭陽・蓬莱の三宮のみ僅かに存した。王建は義勇四軍を以て帝を扈従し、夜に牢水に乱れ、遂に陳倉に次した。克用は河中に還り、玫は克用が逼らんとするを畏れ、重栄と連章して令孜を誅するを請うたが、而して鳳翔に駐った。令孜は帝に興元に幸するを請うたが、帝は従わず、令孜は兵を以て寝所に入り、帝を逼って夜に出でさせ、郡臣に知る者無く、宰相蕭遘等は皆従うに及ばなかった。玫は興元節度使石君涉に勧めて閣道を焚かせ、帝の西行の意を絶たせた。遘は令孜が天子を劫質するを悪み、方鎮の難を生ずるに、玫をして進み乗輿を迎えさせた。玫は兵を引いて行在を追い、興鳳の楊晟軍を破り、帝は梁・洋に次し、稍々引きて南に進み、玫の兵は中営に及び、左右で剽戮される者は数え勝たず。令孜は人に己を図られるを懼れ、面を蒙って行った。王建に長剣五百を以て清道させ、嚢に伝国璽を入れてこれを授けた。大散関に次すと、道険澀しく、帝は危殆に陥ること数度に及んだ。軍を分けて霊壁を守らせ、追兵を亢げた。玫は長駆して帝を躡い、帝は閣道毀たるるを以て、他の道を走り、困窮甚だしく、王建の膝を枕として暫く寐り、覚めて飯を食い、僅かに興元に至ることができた。玫・重栄は表して令孜を誅し、群臣を安尉するを請うた。詔して令孜を剣南監軍使と為すも、留まって去らなかった。重栄は河中に幸するを請うたが、令孜が沮んで止んだ。宰相遘は鳳翔に在る群臣を率いて表し、令孜が国を顓にして禍を煽り、小人の計に惑い、群帥を交乱するを請い、これを誅するを請うた。帝は省みるに及ばず、且つ詔して重栄に糧十五万斛を行在に給するを命じたが、重栄は令孜が在るを以て、命を奉じなかった。玫は乃ち嗣襄王煴を奉じて即ち偽位に即かせた。玫が敗れると、帝は乃ち京師に還ることができた。

初め、帝が蜀に入る時、諸王は徒歩して従い、寿王は斜谷に至って進めず、令孜は駆り立てて前進させた。王は足が痛み且つ拘ると謝し、馬を得れば済むと言った。令孜は怒って王を鞭打ち、強いて行かせ、王はこれを恥じた。及んで帝が病むと、中外寿王に属した。令孜が入って帝を候うて言う、「陛下、臣を憶え給うか」と。帝は直視して語ることができなかった。令孜は自ら剣南監軍使を署し、拱宸奉鑾軍を閲して自衛と為し、昼夜馳せて成都に入り、固く表して官を解き医薬を求む。詔して可とした。俄かに官爵を削り、儋州に長流したが、然れども猶お敬瑄に依って行かなかった。

皇帝が即位し、これが昭宗である。楊復恭が代わって観軍容使となり、王建を壁州刺史として出向させた。建は利州を奪い、自ら防禦使を称し、ついで閬・邛・蜀・黎・雅等の州を平定したので、詔して直ちに永平軍を置き、建を節度使に任じた。令孜は建と連合して朝廷に対抗しようと謀り、かつ「我が子である」と言って、書を送って召し寄せた。建は喜び、将に到らんとしたが、復たこれを退けた。建は怒り、進軍して成都を包囲した。令孜は城に登って建に謝して言うには、「老夫は久しく厚く交わってきたのに、どうして困らせるのか」と。答えて言うには、「父子の恩は、どうして忘れようか。ただ父上自ら朝廷を絶たれたので、もし改めて図るならば、父子は初めの如くであろう」と。令孜は言う、「私は面会して事を計りたい」と。建は承諾し、令孜は夜に印節を背負って建に授け、明日に成都に入り、令孜を碧鶏坊に囚えた。初め、右神策統軍宋文通は諸軍に憎まれており、令孜は事に因って召し出し、殺そうとした。既に会うと、却って喜んで養子とし、名を彦賓とし、これが李茂貞である。故に独り上書してその罪を雪ぎ、詔して湖南監軍とした。凡そ二年、敬瑄と同日に死んだ。刑に臨み、帛を裂いて縆とし、行刑者に授けて言うには、「私はかつて十軍容の位にあった。私を殺すにも礼があるべきだ」と。因って縊る方法を教え、既に死して、色は変わらなかった。乾寧年中、詔して官爵を復した。

楊復恭

楊復恭は、字を子恪といい、本来は林氏の子で、楊復光の従兄である。宦官の父玄翼は、咸通年中に枢密を領し、代々権勢ある家となった。復恭は学術に少し通じ、諸鎮の兵を監した。龐勛の乱に、戦功があり、河陽監軍から入朝して宣徽使に任じられ、枢密使に抜擢された。黄巢が京師を盗むと、令孜が威福を専らにし、天下を損なったが、内外で敢えて抗う者なく、ただ復恭のみが屡々得失を争った。令孜は怒り、飛龍使に左遷したので、復恭は藍田に臥して病んだ。僖宗が興元に出居すると、復た枢密使となり、制置経略は多くその手を経た。車駕が還ると、遂に令孜に代わって左神策中尉・六軍十二衛観軍容使となり、魏国公に封ぜられ、実封八百戸、賜号「忠貞啓聖定国功臣」。

帝が崩じ、策を定めて昭宗を立て、鉄券を賜い、金吾上將軍を加えられ、次第に朝政を掌握した。帝は嘗て言うには、「朕は徳がなく、汝が我を援け立てた。奢侈を減省して天下に示すべきである。我が故事を見るに、尚衣が上御服を一日一襲、太常が新曲を一日一解していたが、今は禁止せよ」と。復恭は頓首して善しと称した。帝は遂に遊幸の費用を問うと、対えて言うには、「懿宗以来、毎に行幸にはおよそ銭十万、金帛五車、十部楽工五百、犢車・紅網朱網画香車百乗、諸衛士三千を用いたと聞きます。凡そ曲江・温湯や畋獵を大行従、宮中・苑中を小行従といいます」と。帝は乃ち詔して半減させた。

ここにおいて宰相韋昭度・張濬・杜譲能等が帝に大中の故事を説き、宦官を抑えて仮借せず、帝もまた次第に復恭の横暴を厭うようになった。王瓌は、恵安太后の弟で、節度使を求めた。帝が復恭に問うと、対えて言うには、「呂産・呂禄は漢を傾け、武三思は唐を危うくした。后族は封拝すべからず。陛下が誠に瓌を愛するなら、他の職に任ずるは可なり。節を仮りて外藩とすべからず。恐らくは勢いを負って地を専らにし、制し難からん」と。帝は乃ち止めた。瓌はこれを聞き、甚だ怒り、禁中に至って復恭を見て詬り辱め、遂に禁中で事を任ずるようになった。復恭は己が権を分かつを欲せず、黔南節度使に任じるよう奏し、興元を経由させた。而して兄の子守亮が節度使を領しており、密かに利州刺史に命じて江にて瓌の舟を覆させ、宗族賓客皆死に、舟が自ら敗れたと報告させた。帝は復恭の謀を知り、これにより深く恨んだ。

復恭は諸子を州刺史とし、「外宅郎君」と号した。また養子六百人を養い、諸道の軍を監させた。天下の威勢は、挙げてその門に帰した。守立は天威軍使となり、本は胡弘立で、勇武は軍中で冠たり、人これを畏れた。帝は復恭を斥けようとしたが、乱を起こすことを懼れ、乃ち好んで言うには、「卿の家の胡子は何処におるか。我れ殿内を衛らせたい」と。復恭は守立をして帝に見えさせ、姓を李と賜い、名を順節とし、六軍の管鑰を掌らせ、光寵甚だしかりき。既に勢力が等しくなると、遂に復恭と恨みを争い互いに中傷し、その私事を暴き立てた。

復恭は常に肩輿で太極殿に至った。宰相が延英殿に対し、叛臣の事を論じ、孔緯が言うには、「陛下の左右に将に反せんとする者あり」と。帝は愕然とした。緯は復恭を指した。復恭は言う、「臣どうして陛下に背くことがありましょうか」と。緯は言う、「復恭は陛下の家奴でありながら、肩輿で前殿に至る。広く不逞の輩を樹てて皆楊姓とす。これ反逆ではあるまいか」と。復恭は言う、「士心を収めて天子を輔けんと欲するなり」と。帝は言う、「誠に士心を収めんと欲するなら、どうして李姓を仮さないのか」と。復恭は答える言葉がなかった。会に緯が江陵を守るに出ると、乃ち人をして長楽坡でこれを劫わせ、その旌節を斬り、資財貯蓄ことごとく尽き、緯は僅かに免れた。

復恭の子守貞は龍劍節度使、守忠は洋州節度使となり、皆自ら貢賦を擅にし、上書して朝政を誹謗軽んじた。大順二年、復恭の兵権を罷め、鳳翔監軍として出向させたが、行くことを肯ぜず、因って致仕を乞うた。詔して可とし、上將軍に遷し、几杖を賜うた。使者が還ると、腹心を遣わして道中で使者を殺させ、商山に遁れて居た。俄かに昭化坊の邸に入居した。邸は玉山営に近く、而して子の守信が軍使となり、数え省みて出入りした。或る者が父子将に乱を謀らんとしていると告げた。時に順節は遥領で鎮海軍節度使・同中書門下平章事となり、詔して神策軍使李守節と共に衛兵を率いて復恭を攻め、使者殺害の罪を治めさせ、帝は延喜楼に御してこれを待った。家人が拒戦し、守信もまた兵を率いて昌化里に至り、陣を布いて待った。会に日が入り、復恭は守信と挙族して出奔し、遂に興元に走った。

順節は既に復恭を斥けると、則ち横暴となり、出入りに兵を従え、両軍中尉劉景宣・西門重遂がその意が尋常ならざるを察し、状を以て聞かせた。詔して順節を召すと、輒ち甲士三百を率いて入り、銀臺門に至った。これを制止しようとしたが、景宣が順節を引いて殿廡に坐らせ、部将嗣光審が出て斬った。従者は大いに騒ぎ、延喜門を出て永寧里を剽掠し、夜が尽きて止んだ。賈徳晟は順節と共に天威軍使であったが、順節が誅せられると、頗る嘆き憤り、重遂もまた奏してこれを誅した。ここにおいて鳳翔李茂貞・邠州王行瑜・華州韓建・同州王行約・秦州李茂莊が共に守亮が叛臣を納れたるを弾劾し、出兵して罪を討つことを請い、軍餉は度支に仰がないとした。茂貞は山南招討使を仮することを請うた。宦官は同類を惜しんで執って可とせず、帝もまた茂貞が山南を得れば必ず制し難からんと謂い、詔して両方を解かせた。茂貞は復恭が自ら隋の諸孫を称し、恭帝が唐に禅したるにより、名を復恭としたと弾劾し、逆状明白であるとし、且つ守亮の官爵を削ることを請うた。遂に擅に行瑜と出討し、自ら興元節度使と号し、宰相に書を送り、傲慢悖逆して臣たらず。帝は為に詔を下し、茂貞・行瑜にこれを討たしめた。景福元年、その城を破り、復恭・守亮・守信は閬州に奔った。茂貞は子の継密をして興元を守らせた。詔して吏部尚書徐彦若を鳳翔節度使とし、而して茂貞を興元に帥とせんとしたが、拝せず、継密を留後とすることを請うた。帝は已むを得ず、節度使を授け、ここより茂貞は強大となり始めた。

復恭と守亮らは閬州より北へ太原に奔らんとし、商山に向かい、乾元に至りて、韓建の邏士に捕らえられ、即時に復恭・守信を斬り、檻車に守亮を乗せて京師に送り、長安市に梟首す。茂貞は復恭が守亮に与えし書を上奏して曰く、「承天門は隋家の旧業なり。児は但だ粟を積み兵を訓えよ、何ぞ進奉せんとするや。吾れ荊榛を披きて天子を立てしが、位を得てよりは、乃ち定策の国老を廃す、いかんぞ負心の門生に奈んせんや」と。門生とは天子を謂う。その不臣、此の類のごとし。仮子の彦博は太原に奔りてその屍を収葬す。李克用が為に申雪し、詔して官爵を復す。

劉季述

劉季述は、元より微賤なりしが、次第に僖宗・昭宗の間に顕れ、累擢して枢密使となる。楊復恭の斥けられたる時、帝は西門重遂を以て右神策軍中尉・観軍容使と為す。時に李茂貞は興元を得て、愈々跋扈して不軌なり。宰相杜譲能と内枢密使李周𧬤及び重遂と謀りて之を誅せんとし、乃ち師を興し、嗣覃王戒丕を以て京西招討使と為し、神策大将軍李鐬を副とす。茂貞は兵を引きて盩厔に壁を迎え、興平に迫る。王師潰く。遂に臨臯に逼って陣し、譲能らの罪を暴言す。京師震恐す。帝は安福門に坐し、重遂・周𧬤を斬りて茂貞に謝す。更に駱全瓘・劉景宣を以て両中尉に代えしむ。乾寧二年、茂貞は王行瑜・韓建と兵を以て朝に入る。李克用は師を率いて茂貞を討ち、渭北に次ぐ。同州節度使王行実は京師に奔り、景宣らに謂いて曰く、「沙陀十万至れり。請う、天子を奉じて出幸し、その鋒を避けん」と。景宣は方に茂貞と睦まじくす。故に全瓘は鳳翔衛将閻圭と共に帝を脅して岐に狩らしむ。王行実及び景宣の子継晟は火を放ちて東市を剽す。帝は承天門に登る。矢、楼闔に著く。帝懼れ、暮に莎城に出ず。士民従う者数十万。谷口に至りて、人暍死すること十三。夜は盗に掠められ、哭声山に殷し。徙って石門に駐す。茂貞恐れ、乃ち全瓘・景宣及び圭を殺して自ら解く。天子京師に還り、景務脩・宋道弼を以て之に代う。俄かに国を専らにす。宰相崔胤之を悪む。徐彦若・王摶は禍解けざるを懼れ、稍々胤を抑えて北軍と和せしむ。胤怒り、摶が宦豎に党すを劾し、不忠なりとして罷め去らしめ、俄かに死を賜う。道弼を州に流し、務脩を愛州に流し、倶に灞橋にて死す。彦若を南海に逐う。乃ち季述・王仲先を以て左右中尉と為し、胤を疾むこと尤も甚だし。

時に帝は酒を嗜み、左右を怒り責むること常ならず。季述らは愈々自ら危ぶむ。先に、王子病み、季述は内医工の車譲・謝筠を引き入るるも、久しく出でず。季述ら共に帝に白して曰く、「宮中に妄りに人を処すべからず」と。帝納れず、詔して籍に著すも禁ぜず。ここにより帝と謀り有るを疑い、乃ち外に朱全忠と兄弟たらんと約し、従子の希正を遣わして汴邸官の程巖と謀りて帝を廃せんとす。会に全忠が天平節度副使李振を遣わして京師に計を上る。巖因りて曰く、「主上厳急にして、内外惴恐す。左軍中尉は昏きを廃し明きを立てんと欲す。如何」と。振曰く、「百歳の奴、三歳の郎主に事うるは常なり。国を乱すは不義、君を廃すは不祥、吾の敢て聞く所に非ず」と。希正大いに沮む。帝夜に苑中に猟し、酔いて侍女三人を殺す。明日午漏上りて、門啓かず。季述、胤に見えて曰く、「宮中殆ど不測なり」と。仲先と率いて王彦範・薛斉偓・李師虔・徐彦回、総べて衛士千人を率いて関を毀ちて入り、立てんとする所を謀るも未だ決せず。是の夜、宮監窃かに太子を取りて入る。季述ら因りて皇后の令を矯りて曰く、「車譲・謝筠は上を勧めて人を殺し、災咎を禳ぎ塞ぐ、皆大いに道に背く。両軍軍容之を知る。今皇太子を立てて以て社稷を主たしむ」と。黎明、兵を廷中に陳べ、宰相に謂いて曰く、「上の為す所此の如し、社稷の主に非ず。今まさに太子を以て群臣に見えしむべし」と。即ち百官を召して奏に署せしむ。胤対うるを得ず。季述は皇太子を衛して紫廷院に至る。左右軍及び十道邸官の俞潭・程巖ら思玄門に詣でて対請す。士皆万歳を呼ぶ。思政殿に入る。遇う者は輒ち殺す。帝方に乞巧楼に坐し、兵の入るを見て驚き床より堕ち、将に走らんとす。季述・仲先は帝を把りて坐らしめ、持する所の釦杖を以て地を画きて帝を責めて曰く、「某日の某の事、爾我に従わず、罪一なり」と。数十に至るも未だ止まず。皇后出でて遍く拝して曰く、「宅家を護り、怖しめしむることなかれ。若し罪有らば、惟だ軍容の議に俟つ」と。季述は百官の奏を出だして曰く、「陛下瞀くして勤めに倦む。願わくは太子を奉じて国を監せしめ、陛下自ら東宮に頤養せよ」と。帝曰く、「昨、而らと飲みて甚だ楽しめり、何ぞ此に至るや」と。后曰く、「陛下軍容の語の如くせよ」と。宮監帝を掖きて思政殿より出づ。后倡えて言いて曰く、「軍容一心に輔持す。請う、上に疾を養わしめよ」と。帝も亦曰く、「朕久しく疾みたり。太子をして国を監せしむ」と。巖ら皆万歳を呼ぶ。后は伝国璽を季述に授け、帝の輦に就く。左右十余り人、少陽院に入りて囚う。季述は金を液して以て鐍を完うす。師虔は兵を以て守る。太子は武徳殿に即帝位す。帝は太上皇と号し、皇后は太上皇后と為す。大赦天下す。東宮官属三品は爵一級を賜い、四品以下は一階を賜う。天下父後たる者は爵一級を賜う。群臣に爵秩を加え厚く賜い、上下に媚附せんと欲す。東宮を問安宮と改む。季述らは皆先ず誅戮を以て威を立て、夜は鞭笞し、昼は屍を十輦出だす。凡そ帝に寵有る者は悉く榜殺す。帝の弟睦王を殺す。師虔は尤も苛察にして、左右出入を搜索し、天子の動静は輒ち季述に白す。帝の衣は昼に服し夜に浣う。食は竇より進む。下は筆紙銅鉄に至るまで、詔書兵器を作るを疑い、皆与えず。方に寒し。公主嬪御に衾纊無し。哀れみ外廷に聞こゆ。

胤は朱全忠に難を告げ、兵をもって君側の悪を除かんことを請うた。全忠は胤の書を封じて季述に示し、「彼は翻覆す、図るべし」と言った。季述はこれをもって胤を責めた。胤は言った、「奸人の偽書は、古より有り、必ずや罪と為すならば、族に及ばざるを請い誅せん」。季述はこれを軽んじ、乃ち盟を結んだ。胤は全忠に謝して言った、「左軍は胤と盟し、相害わず、然れども仆は公に帰心し、併せて二人の侍児を送る」。全忠は書を得て、恚りて言った、「季述我をして両面人たらしむ」。ここより始めて離る。季述の子希度が汴に至り、廃立の本計を言い、また李奉本を遣わして太上皇の誥を示す。全忠は狐疑して決せず。李振入見して言った、「豎刁・伊戾の乱は、以て者の資と為す。今閹奴天子を幽劫す、公討たざれば、以て諸侯に令する無からん」。乃ち希度・奉本を囚え、振を京師に遣わして胤と謀らしむ。この時季述は百官を尽く誅し、乃ち帝を弑し、太子を挟みて天下に令せんと欲す。都將孫德昭・董從實は銭五千緡を盗み没した。仲先は衆中でこれを辱め、その償いを督し、株連甚だ衆し。胤はその不逞を間いて言った、「能く両中尉を殺し、太上皇を迎え、大功を立てば、何ぞ小罪を以て足れりと羞じんや」。また客を遣わし密かに徳昭に告げ、帯を割き内の蜜丸を通意す。徳昭は別將周承誨を邀え、十二月晦を期し、士を安福門に伏せて旦を待つ。仲先は肩輿に乗じて朝に造る。徳昭等これを劫し、東宮門外に斬る。少陽院を叩き呼んで曰く、「逆賊斬られたり」。帝は疑いて未だ信ぜず、皇后曰く、「賊の首を献ぐべし」。徳昭は仲先の頭を擲ちて進む。宮人扉を毀ち、長楽門に出でて禦す。群臣賀す。承誨は馳せて左軍に入り、季述・彦範を執り楼前に至る。胤は先んじて京兆尹鄭元規に戒め、万人を集めて大梃を持たしむ。帝、季述を詰む未だ已まず、万梃皆進み、二人同じく梃下に死す。遂にこれを屍す。両軍の支党死する者数十人。中官は太子を奉じて左軍に遁れ、伝国璽を収む。齊偓は井中に死し、その屍を出だして斬る。全忠は巖を檻送して京師に至らしめ、市に斬る。季述等は三族を夷す。徳昭を以て検校太保・静海軍節度使と為し、従実を検校司徒しと・容管節度使と為し、並びに同中書門下平章事とし、氏を李と賜い、曰く継昭、曰く彦弼。承誨も亦た検校司徒・邕管節度使と為し、宰相の秩を視る。皆「扶傾済難忠烈功臣」と号し、形を淩煙閣に図し、宿衛に留まること凡そ十日にして乃ち休み、内庫の珍宝を竭くしてこれを賜う。当時「三使相」と号し、人臣比ぶる無し。

初め、延英において宰相奏事す。帝は平らかに可否し、枢密使は立ち侍り、聞くを得たり。出でては、或いは上の旨を矯い未だ然らずと謂い、数たび改易して権を橈ます。ここに至り、詔して大中の故事の如くす。延英に対し、両中尉は先ず降り、枢密使は旨を殿西に候す。宰相奏事已に畢り、案前に事を受く。師虔は屏風の後に宰相の奏する所を録せんことを請う。帝は官を侵すを以て、許さず。詔して徐彦回と同誅せしむ。

韓全誨・張彦弘

韓全誨・張彦弘は、皆その来たる所を知らず、並びに鳳翔軍を監す。全誨は入りて内枢密使と為る。劉季述の誅に際し、崔胤・陸扆は武徳殿右廡に見ゆ。胤曰く、「中人兵を典くより以来、王室愈々乱る。臣は神策左軍を主たることを請い、扆を以て右を主たらしめば、則ち四方の藩臣謀る敢えざらん」。昭宗意決せず。李茂貞人に語りて曰く、「崔胤軍権を奪う手に及ばずして、藩鎮を滅ぼさんと志す」。帝聞き、李継昭等を召して胤の請う所を奈何にせんと問う。対えて曰く、「臣世々軍に在り、書生の衛兵を主たるを聞かず。且つ罪人已に得たり、軍を持ちて北司に還す便し」。帝、胤に謂いて曰く、「議者同じからず、庸くも軍を主たる勿れ」。乃ち全誨を以て左神策中尉と為し、彦弘を右と為し、皆驃騎大將軍に拝し、袁易簡・周敬容を枢密使と為す。胤怒り、京兆鄭元規と約し人を遣わし狙い殺さしむも、克たず。全誨等は胤必ず己を除かんとするを知りて乃ち已み、因りて茂貞を諷し選士四千を留めて宿衛せしめ、李継筠・継徽を以てこれを総べしむ。胤も亦た朱全忠を諷し内兵三千を南司に居らしめ、婁敬思を以てこれを領せしむ。韓偓、岐・汴の交戍するを聞き、数たび胤を諫めて止む。胤曰く、「兵肯えて去らざるのみ」。偓曰く、「初め何を為してか召すや」。胤対えず。議者は京師復た安からざるを知る。

全誨・彦弘及び彦弼は勢を合して恣に暴れ、中官はこれに倚りて自ら驕る。帝平らかならず、斥逐する者有りと雖も、皆行くことを肯ぜず。胤固より尽くこれを誅せんことを請う。全誨・彦弘は帝に見えて哀れみを祈る。帝左右の漏言有るを知り、始めて詔して囊封して奏事せしむ。宦人は更に麗姝にして書を知る者数十人を求め、帝に侍りて内诇と為し、ここにより胤の計多く露わる。

初め、張浚度支を判ず。楊復恭は軍貲乏しきを以て、塩曲一歳の入を仮りて用度を済さんことを奏し、遂に復た還さず。胤に至り、乃ち度支の財尽き、以て百官に稟する無きを白し、旧制の如くせんことを請う。全誨は李継筠を擿て軍中甚だ匱すを訴え、三司を割きて神策に隷せしめんことを請わしむ。帝却くることが能わず、詔して胤の塩鉄を領するを罷む。胤これを銜む。

全誨等は帝の己を誅せんことを懼れ、継誨・彦弼・継筠と交通して乱を謀る。帝、令狐渙に問う。渙は胤及び全誨等を召し内殿に宴してこれを和解せんことを請う。韓偓謂う、「一二の柄臣を顕に斥け、余りの人の自ら新たにするを許さば、妄謀必ず息まん。然らずんば皆自ら疑い、禍将に速からん。和解すと雖も、凶焰益々肆う」。帝乃ち止む。この時全忠は河中を併す。胤は急詔を為して朝に入らしめ、又書を詒して曰く、「上反正するは、公の力なり。而るに鳳翔朝に入り、功を引きて自ら帰す。今若し後るれば、必ず先ず討たれん」。全忠詔を得て、汴に還り、師を悉くして全誨を討つ。帝は忠と為し、又その茂貞と功を同じくせんことを欲し、即ち詔して力を並せしむ。胤に命じ二鎮に書を詒し、帝の意を示さしむ。全忠は同州を取り、汴兵凡そ七万、威関中に震う。全誨等泣きて奏して曰く、「全忠将に至らんとし、陛下を脅して関東に幸せんと欲し、将に伝禅を謀らんとす。臣高祖の天下の他姓に移るを見るに忍びず、願わくば鳳翔に至り、義兵を合して元悪を討たん」。帝未だ許さず、方に乞巧楼に在り。全誨急なり、即ちその下に火す。帝楼を降り、乃ち西幸を決す。彦弼等は帝未だ即ち駕せざるを以て、愈々誖い、宮中禁索苛亟す。帝と後相視て泣く。宮人私かに都を逃れ出づ。民崩沸し、或いは開化坊に奔り胤の第に依りて自ら固む。闬に家を留むる無し。鳳翔軍と左神策兵は大衢に陣し、長楽門外丘墟の若し。ここにおいて日南至す。百官朝せず。帝思政殿に坐す。時に彦弼は先んじて鳳翔に入る。全誨は帝を逼りて出だす。惟だ皇后・諸王数百騎を衛と為す。帝は繡袍・塗金帽を着し、右神策軍を以て従う。実に天復元年十一月壬子なり。全誨等は遂に宮城に火す。継誨・彦弼は百官を劫いて天子に従わんと欲す。李徳昭等は兵を按じてこれを衛い、乃ち免るるを得。茂貞は帝をして盩厔に居らしむ。

全忠は華州を取ると、自ら釈明する命令を下して曰く、「我は詔を受け、また宰相の書を得て朝に入るよう命ぜられたが、既に至れば、皆偽りなり。逆臣全誨が天子を震驚させ、乗輿を脅して出遷させ、草莽に暴露せしむ。我はまさに入朝して対し、状を言わん」と。時に公卿は皆長安に在り、数日朝廷の勅画を聞かず。胤は王溥を使わして全忠に見えしめて曰く、「上はなお盩厔に在り、公は急ぎ進むべし」と。群臣盧知猷らは全忠に奏記し、西して天子を迎えんことを請う。答えて曰く、「進めば君を脅すに似、退けば国に負う。然れども敢えて勉めざらんや」と。胤は百官を率いて全忠を灞橋に迎え、長安に入り一宿して西す。

茂貞は全忠の至るを聞き、帝を以て鳳翔に入らしめ、従臣わずか三四人なり。全忠は楊達・裴鑄を遣わして鳳翔に入らしめ、表を奉じて天子にす。汴部の将康懷英は武功において李継昭を襲い破り、六千級を禽馘す。全誨は懼れ、李克用に救いを請う。克用は全忠に書を遺し、崔胤を執り、海内の謗を洗わんことを勧む。全忠は答えず、進んで鳳翔の東偏に屯す。茂貞は城に登り、遠く呼びかけて曰く、「天子ここに災を厭い、讒人公の来るを誤らす。公まさに入覲すべし」と。全忠曰く、「宦官乗輿を脅驚せしむ。我は兵を以て罪を問い、上を迎えて東還せん。王は同謀者に非ず、なお何をか言わん」と。明日、鳳翔を囲む。茂貞は出でず。帝は中人を遣わして詔し、全忠に班師せしむ。詔を奉ぜず。使者再び往く。全忠は命を聴き、兵を引いて邠州を攻む。李継徽は城に嬰り、三日にして乃ち降る。その妻を質とし、また継徽をして守らしめ、三原に回壁す。胤と鄭元規は三原に至り、全忠を邀えて説く。全忠もまた自ら茂貞の戦わんとするを聞き、営を渭北に徙し、高原に拠る。戦い勝たず。全忠は夜に入り盩厔を抜き、藍田を抜き、また三原に屯す。

時に李克用は慈・隰を攻め、鳳翔を救う。全忠は河中に還る。克用の部将李嗣昭は戦いて数たび利あらず。全忠は晉・汾二州を取り、嗣昭は遁れて河東に還る。全忠曰く、「これ茂貞の倚る所、今敗れたり。何ぞ能く久からんや」と。胤また全忠に説いて曰く、「宦豎、帝を擁して蜀に入らんと謀る」と。かつ泣く。全忠その手を執り、乃ち計を定めて天子を迎えんとす。時に朱友寧が岐兵を莫父に破るに会い、居人は皆保に入る。全忠は精甲五万を以て茂貞と決戦す。岐兵敗れ、仆す屍万余、茂貞の帳下八百人縛に就く。乃ち城に嬰り、夏より冬に訖るまで、兵連れて解く能わず、勝敗略々相償う。援軍十余壁、数たび全忠の擾襲を受け、進むを得ず、城中日々困す。全忠ここより鳳・鄜・坊・成・隴等州を取り、間劫鈔して以て軍餉を佐け、故に能く乏しからず。茂貞は帝と全忠に密約あるを疑い、甲士を増して宮殿を守らしむ。

初め、帝の鳳翔に至るや、鴉数万殿樹に棲み、神鴉と謂う。俄かに鴉来らず、人は以て恐るるとなす。全誨ら小人は既に勢窘しく、更に相怨疾し、復た遠慮せず。時に財用窶短なり。帝は御す所の膳を輟きて全誨らに賜う。三たび譲る。帝曰く、「得難き時に同じ味を欲するのみ」と。茂貞は鲊を食いて美とす。帝曰く、「これ後池の魚なり」と。茂貞曰く、「臣魚を養いて以て天子を候う」と。聞く者皆駭く。

ここにおいて全忠の軍は東城を攻め、橋を焚き鏖戦す。部将李継寵出でて降る。茂貞懼れ、密かに中官を誅して以て難を紡がんと図る。先ず書を遺して曰く、「禍乱の生ずるは、全誨これを首とす。変興るや倉卒なり、故に天子を迎えてここに至らしむ。且つ公未だ至らざるや、他の盗の馮陵を懼る。公既に社稷を輔けんことを誌す。請う、乗輿を奉じて還宮せしめよ。仆は願わくは敝賦を以て従わん」と。全忠然りと許す。然れども軍稍々城に薄く、大いに謼すること三たびす。岐軍皆塹に投じ、闘う意無し。帝は茂貞・全誨・彥弼及び宰相蘇檢・李継岌・継忠を召して議す。和既に決す。中官また沮みて罷む。他日、帝は茂貞らを召して曰く、「十六宅の諸王、日に奏す餒死者十三、王・公主・夫人皆間日食す。今また将に竭かんとす。奈何」と。皆敢えて対えず。衛士十余人有り、左銀臺門を叩き、全誨を遮り罵って曰く、「一州を破り、餓死者十万、徒に軍容数人のみ」と。全誨は茂貞に詣り叩頭して訴う。茂貞謝して曰く、「士伍また何を知らん」と。また帝に訴う。帝許さず。李継昭は全誨に見えて曰く、「昔楊軍容は楊守亮一族を破り、今驃騎また我が族を破らんとするか」と。これを罵り、乃ち出でて降る。宦豎数たび援軍の至るを伝え、皆相賀す。百姓笑いて曰く、「我を紿くか」と。

是の時、全忠は四鎮の兵十余万を合し、営壘相属し、昼夜攻む。外兵は守る者を詬って曰く、「天子を劫う賊」と。守る者もまた外を詬って曰く、「天子を奪う賊」と。諸鎮は崔胤の檄を見て、皆狐疑して師を出さず。唯だ青州節度使王師範のみ兗州を取り、華州を襲い、李克用は晉州を攻めて以て援とす。全忠懼れ、囲み益々急なり。全誨らは素より譎険にして、常に全忠・胤の憚る所と為る。乃ち先ずこれを殺し、以て天子を迎えんことを請う。帝は既に宦人の脅遷を悪み、而して茂貞はまたその党なり。全忠は外に順を示すと雖も、終に悖逆す。皆倚るべからず。襄・漢に狩らんと欲し、趙匡凝に依らんとす。然れども去るを得ず。乃ち計を定めて全忠に帰し、以て近き禍を紡がんとす。

三年正月、茂貞は使を遣わして全忠の軍を諭さんことを請う。詔して崔構に中人郭遵誨を挟みて往かしむ。既に行く。また宮人寵顏を命じて馳せて全忠に見えしめ、密旨を諭さしむ。乃ち蔣玄暉を以て入衛せしむ。二日、茂貞独り見ゆ。日旰に至る。全誨・彥弘甚だ恨む。食に逮り、匕を捉うる能わず。自ら勢の去るを見、計用いる所無く、垂頭喪気す。帝は韓偓を召して東横門に見えしめ、手を執り涕泗す。帝曰く、「今先ず四大悪を去り、余は以て次第に誅せん」と。ここにおいて内養八輩、廷中に候して命を受け、毎に二輩は衛士十人を以て一首を取り、俄にして全誨・彥弘・易簡・敬容皆死す。即ち詔して第五可範を左軍都尉と為し、王知古・揚虔朗を樞密使と為す。知古は上院を領し、虔朗は下院を領す。継筠・継誨・彥弼皆伏誅す。茂貞はその輜重を取る。是の夜、内諸司使韋處廷ら二十二人を誅し、悉く首を内布囊にし、詔して蔣玄暉・学士薛貽矩をして全忠に送らしめ、曰く、「是れ皆乗輿をして東せしめざる者なり。既に斬りたり」と。全忠大いに喜び、遍く軍中に告げ、姚洎を以て岐・汴通和使と為す。全忠は茂貞に書を詒して曰く、「宦者、陴に乗じて詈りて已まず、曰く『王の旨を稟す』と。是れか」と。茂貞懼れ、また小使李継彜ら十人を誅す。ここにおいて壘門を開く。全忠はなお北壘を攻む。帝は寵顏を遣わして禦巾箱の宝器を賜い、兵を罷めしむ。また中官七十人を捕え殺す。全忠もまた京兆をして党与百余を誅せしむ。

天子は全忠の軍に入る。全忠は泥首して素服し、客省に待罪す。伝呼して三仗を徹す。詔有りて全忠の罪を釈し、朝服して見えしむ。全忠は地に伏して泣いて曰く、「老臣位将相たり。勤王無状にして、陛下をして此に及ばしむ。臣の罪なり」と。帝もまた嗚咽し、韓偓を命じてこれを起たしめ、玉帯を解きて以て賜い、これを召して食わしむ。帝は衛兵を顧み、或いは憤発する者有り。因って履の系解く。全忠に目して曰く、「吾が為にこれを系げ」と。全忠は跪きて履を結ぶ。汗背に浹す。而して左右敢えて動く者莫し。是の夜、帝三たび召す。皆辞す。朱友倫は兵を以て帝を衛す。

李克用は軍を引き去り、帝は京師に還る。崔胤・朱全忠は議し、第五可範ら八百余人を内侍省においてことごとく誅し、哀号の声は路に聞こえ、単弱数十人を留めて宮中の灑掃に備えしむ。胤は鎮州の人は性謹厚なりとして、即ち詔して王镕に五十人を選ばしめて勅使と為し、内諸司の宦官主領者は皆罷む。ここにおいて諸道の監軍を追い、所在において賜死し、その財産は籍に入る。詔して中官の脅遷の状及び全忠の乗輿を迎えし本末を方鎮に告げ、監軍院を罷め、咸に国初の故事に視て、三十人を以て員と為し、黄衣を衣て、養子を養うことを得ず。内諸司は皆省若しくは寺に帰し、両軍内外八鎮の兵は悉く六軍に属す。全忠は汴州に還る。帝は第五可範ら無辜なるを以て、頗るこれを悼み、文を為して祭る。是より詔命を宣伝するは、皆宮人を以てす。

初め、劉季述は専ら廃立を為し、中人は皆これに与聞す。帝が反正し、季述及び薛齊偓数族を誅するのみにして、余は貸して問わず。またこれを悔い、後稍々誅夷し、群宦浸く安からず。時に帝は幽辱を懲り、能く心を励まして庶政に務め、数たび群臣を召見して治道を問い、中興を志す有り。然るに韓全誨・崔胤権を争い、外に強臣を召し、本朝を劫して相吞嚙せしめ、卒に関東の軍を用いて窮討暴誅す。君側は清しと雖も、而して全忠の勢い遂に張り、帝は卒に弑死し、唐室以て亡ぶ。その禍は全誨・彦弘に本づくという。

贊して曰く、袁紹は常侍を誅して以て逞しと為し、而して曹操は漢を移す。崔丞相は軍容に血して甘心す、而して朱温は唐を篡す。大抵外に威柄を仮り、以て内に奸人を攘えば、則ち大臣専にし、王室卑し。漢・唐相去ること五百歳、乱を産み亡を取るも猶一轍を蹈む。天の廃する所に非ずして、人謀の洄刺なる乃ち然るか。