新唐書

巻二百零六 列傳第一百三十一 外戚

およそ外戚の成敗は、主君の徳の如何を見る。主賢ならば則ち其の栄を共にし、主否ならば則ち先ず禍を受く。故に太宗は貴幸を検め、賞賜を裁ち、貞観の時、内裏に敗家無し。高宗・中宗の二宗、柄艶私に移り、乱を産み朝廷にあり、武氏・韋氏の諸族、耄嬰頸血、一日に同じく鉄刃を汚す。玄宗の初年、法近親に行はれ、裏表修敕す。天宝に明を奪はれ、政を妃宗に委ね、階を反虜に召し、遂に天下を喪ふ。楊氏の誅、噍類遺さず、蓋し数十年の寵、一日の惨を賞せず、甲第厚貲、同坎の悲を救ふ無く、寧く哀しまざらんや。代宗・徳宗より降り、閹尹嬖に参じ、後宮多くと雖も、赫赫たる顯門無く、亦た刀鋸の大戮無し。故に福を用ふること甚だしき者は禍酷を得、名を取ること少なき者は責軽きを蒙る、理の然る所以なり。若し乃ち長孫無忌の功、武平一の識、呉漵の忠、内寵に縁らざる者は、自ら別伝に見ゆ。

獨孤懷恩

獨孤懷恩は、元貞皇后の弟の子なり。父整は、隋に仕へて涿郡太守と為る。懷恩の幼きに、隋の文帝の献皇后、姪として宮中に養ふ。逮う長ずるに及び、稍々記書を学ぶも、而して財を居すること訾はず、豪猾博徒を交ふるを喜ぶ。鄠県令と為り、疾を以て免ぜらる。

及び秦王、武周を美良川に敗るに及び、懷恩逃れて帰る。帝師を率ひて蒲州を攻めしむ。君宝聞きて曰く、「王者死せず、果して其の然り」と。唐儉状を知る。会ふに武周、劉讓を還して兵を罷めんことを求め、因りて白して懷恩等の奸を発す。是の時行本蒲州を挙げて降り、懷恩兵を勒して城に入る。帝方に河を済さんとして讓至り、具に反状を得たり。帝之を召す。懷恩知らず、単舟を以て来り、即ち之を縛し、窮めて党与を索め、獄に縊死せしめ、首を以て華陰市に徇し、其の家を籍す。

武士彟

武士彟、字は信、世貲を殖し、交結を喜ぶ。高祖嘗て汾・晉に屯領し、其の家に休り、因りて顧接被る。後太原を留守し、行軍司鎧参軍に引く。募兵既に集まり、劉弘基・長孫順德を以て之を統べしむ。王威・高君雅、私に士彟に謂ひて曰く、「弘基等は皆背征三衛なり、罪死に当たる。奈何ぞ之に兵を授く。吾将に劾して之を系へん」と。士彟曰く、「此れ皆唐公の客なり。若し爾らば、必ず大いに嫌有らん」と。故に威等疑ひて発せず。会ふに司兵参軍田徳平、威を勧めて募人の状を劾せんと欲す。士彟脅して謂ひて曰く、「討捕兵悉く唐公に隷す。威・君雅は与ること無く、徒らに寄坐するのみ。何を為さん」と。徳平亦た止む。兵起るに及び、士彟謀に与らず。大将軍府鎧曹参そうしん軍を以て京師を平らげるに従ひ、光禄大夫・義原郡公と為る。自ら言ふ、嘗て帝の天に騎して上るを夢みたりと。帝笑ひて曰く、「爾は故に王威の党なり。能く劉弘基等を罷系するを以て、其の意録す可し。且つ嘗て我を礼せり。故に汝に官を以て酬ふ。今胡ぞ迂妄に我に媚びん」と。累遷して工部尚書、進みて応国公に封ぜられ、利・荊二州都督ととくを歴る。卒し、礼部尚書を贈られ、謚して定と曰ふ。高宗の永徽中、士彟の仲女を以て皇后と為す。故に崇めてへい州都督・司徒しと・周国公を贈る。咸亨中、加贈して太尉兼太子太師・太原郡王と為し、高祖廟廷に配享し、功臣の上に列す。后朝を監し、忠孝太皇と尊び、崇先府を建て、官属を置き、五世を追王す。后革命し、更に東都に武氏七廟を立て、帝と追冊し、諸妣皆帝号に随ひて皇后と曰ふ。先天中、詔有りて士彟の偽号を削り、仍って太原王と為し、廟遂に廃す。

初め、士彟相裏氏を娶り、子元慶・元爽を生む。又た楊氏を娶り、三女を生む。元女は賀蘭氏に妻し、早く寡す。季女は郭氏に妻し、顯はれず。士彟卒したる後、諸子楊に事ふるに礼を尽さず、之を銜む。后立ち、楊を代国夫人に封じ、進めて栄国と為し、后の姉を韓國夫人と為す。是の時元慶已に宗正少卿に官し、元爽少府少監、兄の子惟良衛尉少卿なり。楊后を諷して上疏し元慶等を外に出ださしめ、以て退譲を示す。是に由りて元慶は龍州に斥けられ、元爽濠州、惟良始州なり。元慶死し、元爽振州に流さる。乾封の時、惟良及び弟の淄州刺史懷運、嶽牧と泰山の下に集まる。是に於て韓國に女宮中に在り、帝尤も愛幸す。后之を併せ殺さんと欲し、即ち帝を導きて其の母の所に幸せしむ。惟良等食を上ぐ。后堇を其の中に寘く。賀蘭之を食し、暴死す。后罪を惟良等に帰し、之を誅し、有司を諷して姓を「蝮氏」に改めしめ、属籍を絶つ。元爽坐に縁りて死し、家属嶺外に投ぜらる。

后賀蘭敏之を取りて士彟の後と為し、武の氏を賜ひ、封を襲はしめ、累擢して左侍極・蘭臺太史令と為し、名儒李嗣真等と刊撰に参与せしむ。敏之韶秀自ら喜び、栄国に烝し、愛する所を挟み、佻横にして過失多し。栄国卒し、后珍幣を出だして佛廬を建て福を僥ふも、敏之乾匿して自ら用ふ。司衛少卿楊思儉の女、太子妃に選ばれ、婚期を告ぐ。敏之其の美を聞き、強ひて私す。楊の喪未だ畢らざるに、衰粗を褫ぎ、音楽を奏す。太平公主外家に往来し、宮人の従ふ者、敏之悉く逼りて之を乱す。后数たび怒を叠くす。此に至りて其の悪を暴し、雷州に流す。表して故姓に復す。道中自経して死す。乃ち元爽の子承嗣を還して士彟の後を奉らしめ、宗属悉く原す。

士彟の兄に士棱・士逸有り。

士棱、字は彦威、少より柔願にして、田に力をす。官司農少卿、宣城県公、常に苑囿農稼の事を主る。卒し、潭州都督を贈られ、献陵に陪葬す。

士逸、字は逖、戦功有り、斉王府戸曹参軍、六安県公と為る。王に従ひて太原を守り、劉武周に執へらる。嘗て間人を遣はして賊を破るの計を陳ぶ。賊平らぎ、擢授して益州行臺左丞と為し、数たび当世の得失を言ふ。高祖嘉びて之を納る。終に韶州刺史に至る。

承嗣既に還り、尚輦奉禦に擢でられ、周國公を襲封し、秘書監・禮部尚書に遷る。俄かに太常卿同中書門下三品となり、未だ幾ばくもせずして位を辞す。垂拱初年、春官尚書同鳳閣鸞臺平章事となり、納言に改め、蘇良嗣に代わりて文昌左相と為る。性暴にして軽く、禍を忍ぶに堪えず、左司郎中喬知之の婢窈娘の美なるを聞き、且つ歌を善くするを以て、これを奪い取る。知之『緑珠篇』を作りて以て諷す。婢詩を得て恨みて死す。承嗣怒り、酷吏に告げてこれを殺さしめ、其の家を残害す。

初め、后政を擅にし、中宗幽逐せらる。承嗣自ら伝国の己に及ぶを謂ひ、武氏まさに天下有るべしとし、即ち后に革命を諷し、唐家の子孫を去り、大臣の附かざる者を誅し、先世を追王し、宗廟を立つるを倡議す。又た王元慶を梁王と曰ひ、謚して憲とす。元爽魏王、謚して徳とす。后の従父士譲楚王、謚して僖とす。士逸しょく王、謚して節とす。又た兄の子承業を陳王に贈る。而して承嗣は魏王と為り、元慶の子三思は梁王と為り、士譲の孫攸寧は建昌王、攸帰は九江王、攸望は会稽王と為り、士逸の孫懿宗は河内王、嗣宗は臨川王、仁範は河間王と為り、仁範の子載徳は潁川王と為り、士棱の孫攸暨は千乗王と為り、惟良の子攸宜は建安王、攸緒は安平王、従子攸止は恒安王、重規は高平王と為り、承嗣の子延基は南陽王、延秀は淮陽王と為り、三思の子崇訓は高陽王、崇烈は新安王と為り、承業の子延暉は嗣陳王、延祚は鹹安王と為る。承嗣実封千戸、国史を監修す。密かに后党の鳳閣舎人張嘉福を諭し、洛州の人をして上書せしめ、己を立てて皇太子と為らんことを請わしめ、以て后の意を観る。后岑長倩・格輔元に問う。皆執って宜しからずとす。承嗣已むを得ず、奏請して嘉福等を責諭せしめ、罪とせず。長倩等を怨み、皆以て罪に坐して誅さる。特進を以て罷む。未だ幾ばくもせず、復た同鳳閣鸞臺三品と為る。承嗣左相と為り、而して攸寧納言と為る。故に皆罷む。又た三思と同三品と為り、月に及ばずして俱に免ぜられ、復た特進を拝す。后決意して太子に還す。久しくして、太子太保に遷り、志を得ず、鞅鞅として憤死す。太尉・并州牧を贈られ、謚して宣と曰う。

延基爵を襲ぐ。后其の名を斥くるを嫌ひ、更めて継魏王と曰う。長安初年、妻永泰郡主及び邵王と張易之兄弟の事を私語す。后忿争し、語聞こゆ。后怒り、自殺を令し、延義を以て王に代わらしむ。

中宗位を復す。侍中敬暉等諸武の王たるに当らざるを言ひ、君臣とともに白奏す、「事両大ならず。武家の諸王宜しく皆免ぜらるべし」。帝柔昏にして断ぜず、又た素より太后を畏れ、且つ悦び安んぜんと欲し、更に言ふ攸暨・三思皆二張を去るの功と与にすと。以て暉等を折り、纔かに封を一級降す。三思は徳静郡王、攸暨は寿春王、懿宗は耿国公、攸寧は江国公、攸望は葉国公、嗣宗は管国公、攸宜は息国公、重規は鄶国公、延義は魏国公、攸緒は巢国公、崇訓は酆国公、延祿は鹹安郡公と為る。直臣宋務光・蘇安恒上書して言ふ、「武諸王の封を饗くるは、人心に厭わず」。帝悟らず。

載徳終に湖州刺史、謚して武烈。攸帰歴て司属少卿、斉州刺史に至り、母に事へ孝なり。姉亡き期に、五辛を嘗めず、語れば輒ち涕を流す。攸止は絳州刺史。三人は太后の時に死し、封を削るに及ばず。

攸宜歴て同州刺史。万歳通天初年、清辺道行軍大総管と為り、契丹を討つ。后親しく白馬寺に餞し、師功無くして還る。左羽林大将軍を拝す。景龍の時、右羽林に遷り、卒す。禁兵を総べること前後十年。嗣宗終に司衛卿。

重規は汴・鄭二州刺史と為る。未だ至らざるに、役人をして営繕せしむ。后怒り、廬州刺史に貶す。ここに令を著す、諸王州と為るは、擅に営治すべからず。突厥の叛くや、重規を以て天兵中道大総管と為し、沙咤忠義・張仁亶とともに衆三十万を引きてこれを討つ。左羽林大将軍閻敬容を西道後軍と為し、兵十五万後援す。還りて左金吾衛大将軍と為り、終に衛尉卿。

延秀の母本帯方の人、其の家に坐して没入し奚官と為る。姝恵を以て、承嗣に賜ひ、延秀を生む。突厥の默啜女を薦めて和親す。后延秀をしてこれを納れしめ、詔して右豹韜大将軍閻知微・右武衛郎将楊鸞莊に金幣を賫し、突厥の所に送らしむ。知微等潜かに默啜と約し、延秀を執り進みて媯・檀を寇す。故に延秀帰るを得ず。神龍初年、默啜和を請ふ。延秀に因りて款を送る。還り、柏国公に封ぜられ、左衛中郎将。宗兄崇訓安楽公主に尚ふ。数たび宴昵し、頗る突厥語に通ず。虜の謳舞を仿ひ、姿度閑冶、主愛悦す。会に崇訓死す。遂に私に主に侍し、后因りて尚はしむ。太常卿兼右衛将軍と為り、恒国公に封ぜらる。三思死し、韋后復た延秀に私す。故に延秀益々自ら肆にす。主府倉曹参軍何鳳説いて曰く、「今天下武家に心を系ぐ。庶幾くは再興せん。且つ讖に曰く『黑衣神孫天裳を被る』。神孫公に非ずして尚誰かぞ」。因りて阜衣を服して衆を惑はすを勧む。韋后敗る。尚た主と禁中に居り、同じく肅章門に斬らる。攸望は太府卿より春州に貶死す。諸武の属延秀に坐して誅徙せらるる者略く尽くす。独り載徳の子平一文章を以て顕はれ、攸緒とともに常に盛満を避く。故に免る。自ら伝有り。

攸寧、天授中に擢で累ねて納言と為る。一年を逾へ、左羽林衛大将軍を以て罷む。俄かに還りて納言と為る。久しくして乃ち罷められ冬官尚書と為る。聖暦初年、同鳳閣鸞臺平章事。承嗣・三思政事を罷めてより、一年を間ひ、攸寧・三思復た国に当る。句使を置き、民の資産を苛取し、族を毀つ者凡そ十七八、天に呼びて冤を自らす。大庫百余舎を築き聚めて得たる財、一昔に火し、一錢を遺さず。冬官尚書を以て罷む。神龍初年、終に岐州刺史、尚書右僕射を贈らる。

三思太后の時に当たり、累ねて夏官・春官尚書に進み、国史を監修し、爵は王と為る。契丹営州を陥す。榆関道安撫大使を以て辺に屯す。還り、同鳳閣鸞臺三品、月を逾へて位を去る。又た検校内史、罷められ太子少保、賓客に遷り、仍た国史を監す。

三思の性傾諛、善く主の意を迎諧し、隠微を鉤探す。故に后頗る信任し、数たび其の第に幸し、賞予尤も渥し。薛・二張方に烝蠱す。三思痛く節を屈し、懷義の為に馬を禦ひ、昌宗を王子晉の後身と倡言し、公卿を引きて淫汙を歌詠す。然れども人に媚びて恥ぢず。后春秋高く、宮中に居るを厭ふ。三思此に因りて権を市はんと欲し、群不肖を誘脅し、即ち嵩山に三陽宮を営み、万寿山に興泰宮を建て、請ふ太后歳臨幸せんことを。己と二張扈侍して馳騁し、窃かに威福を以て自ら私すと雲ふ。工役鉅万萬、百姓愁嘆す。

崇訓が公主を娶るにあたり、三思は政務を補佐し、中宗は東宮に居たが、その家を寵耀せんと欲し、親迎の礼を具備させた。宰相李嶠・蘇味道ら及び沈佺期・宋之問ら諸有名士が文辞を作り、慢泄して互いに矜り、礼法を再び顧みなかった。中宗が復位すると、崇訓を駙馬都尉・太常卿に抜擢し、左衛将軍を兼ねさせた。三思は司空しくう・同中書門下三品に進み、実封五百戸を加えられた。固辞し、開府儀同三司に進んだ。時に降封があり、実封戸が裁減された。まもなく太后の遺詔により減じた分を還付され、崇訓を鎬国公に封じた。

初め、桓彦範らが既に二張を誅した時、薛季昶・劉幽求が三思らを併せて誅すよう勧めたが、従わなかった。翌日、三思は韋后に因って潜かに宮中に入り、国政を反易し、数日にして彦範らは皆権柄を失い、斥け去られた者は悉く還った。詔して群臣に太后の法に復して循わしめた。三思が建言して言うには、「大帝が泰山に封禅し、則天皇后が明堂を建て、嵩山に封じた。二聖の美は廃すべからず。」帝はその言を是とし、遂に五県の名を改めて乾封・合宮・永昌・登封・告成と曰う。明年の春、大旱があり、帝は三思・攸暨を遣わして乾陵に祈らせると雨が降り、帝は悦んだ。三思は公主に因って崇恩廟、昊陵・順陵の二陵を復するよう請い、皆令丞を置いた。その党の鄭愔が『聖感頌』を上進し、帝は石に刻ませた。補闕張景源が建言して言うには、「母子が業を承くは、中興と称すべからず。下した制書は皆これを除くべし。」ここにおいて天下の名祠を唐興・龍興と改めた。補闕権若訥また言うには、「制詔は貞観の故事の如くすべし。且つ太后の遺訓は母儀なり、太宗の旧章は祖徳なり。沿襲は当に近き者より始むべし。」帝は褒めて答えた。この時、苑中に球場を造営し、詔して文武三品を分かって都と為し、帝と皇后が臨観した。崇訓と駙馬都尉楊慎交は膏を注いで場を築き、その潤いを利するため、功を用いること計り知れず、人これを苦しめた。

三思は既に韋后と私通し、また上官昭容と淫乱し、内に節湣太子を忌み、即ち公主と謀りてこれを廃そうとした。太子は懼れ、故に羽林兵を発して三思の邸を囲み、崇訓と共に斬り、その党十余りを殺した。

当時、三思の奸乱して国を窃むことを疾み、司馬懿に比した。その正人を忌み阻むこと特に甚だしく、嘗て言うには、「我は何等の名を善人と為すかを知らず、唯だ我に与する者こそ是に近からん。」宗楚客兄弟・紀処訥・崔湜・甘元柬と相馳せ煽り、王同皎・周憬・張仲之らは憤りに勝えず、これを謀殺せんとしたが、冉祖雍・宋之愻・李悛に告発され、皆死罪に坐した。ここに因って五王に連座させ、崔湜は周利貞を遣わして就いてこれを殺させた。故に祖雍と御史姚紹之ら五人を、「三思の五狗」と号した。司農少卿趙履温・中書舎人鄭愔・長安令馬構・司勲郎中崔日用・監察御史李𢘽はその権に托り、内外に熏炙し、その特に政事に干与する者を、天下の語に曰く、「崔・冉・鄭、時に政を乱す。」爵賞を以て自ら相崇め立て、凡そ大獄を構え、善良を汚点し、その宗族を破壊し、天下は蕩然たり。初め韋月将・高軫が上疏し、極めて三思の過悪を言うと、有司は月将を殺し、軫を悪地に逐った。黄門侍郎宋璟が執奏したが、まもなく斥けられた。その権勢は大抵この如し。

既に死すと、帝は哀悼の礼を挙げ、朝を廃すること五日、太尉を贈り、再び梁王に封じ、謚して宣と曰う。崇訓を追封して魯王とし、謚して忠と曰う。公主は太子の首を以て三思の柩に祭った。睿宗が立つと、父子皆逆節を以て、棺を斫り屍を暴き、その墓を夷した。

懿宗は司農卿より爵を郡王と為し、懐州・洛州の二州刺史を歴任した。神功元年、孫万栄が王孝傑の兵を破ると、詔して懿宗を神兵道大総管と為してこれを討たしめ、婁師徳・沙咤忠義も並びに総管と為し、兵凡そ二十万、趙州に駐屯した。懿宗は賊将に至らんと聞き、懼れて出ずる所を知らず、軍を棄てて走らんと欲した。或る者が勧めて言うには、「賊は衆と雖も、輜重なく、鈔剽を以て命と為す。兵を按じてこれを老いさせ、その帰りを撃てば、大功を成すべし。」懿宗は計る暇なく、退いて相州を保つと、賊は遂に進んで趙州を屠った。後に万栄が死ぬと、懿宗はまた婁師徳と河北を撫循し、賊中より帰る人有れば、一切死に抵し、先ず胆を剔ぎ取って乃ちこれを殺し、血沫の前で挙動自若たり。初め万栄が入寇した時、別帥の何阿小が冀州を陥れ、人を殺して余種無く、懿宗の暴忍これに似たるを以て、故に「両何」と号し、相語って曰く、「唯だこの両何、人を殺すこと最多し。」

初め、懿宗は天授年間に詔を受けて大獄を訊き、大臣王公を誅したが、皆深く排し巧みに引き、内刑の塹中に陥れ、脱する者無かりき。その険酷は周興・来俊臣らも継ぐ能わざる所なり。神龍初め、太子詹事に遷り、終に懐州刺史に至る。

攸暨は右衛中郎将より太平公主を娶り、駙馬都尉に拝され、累遷して右衛大将軍に至る。天授年中、千乗郡王より進んで定王に封ぜられ、実封六百戸。麟台監司祀卿に遷る。長安年中、王を降って寿春と為し、特進を加えられる。中宗の時、司徒に拝され、再び定王に封ぜられ、戸千を加えられるが固辞し、開府儀同三司に進む。延秀の誅に坐し、楚国公に降る。攸暨は沈謹和厚にして、時に忤うこと無く、専ら自ら奉養するのみ。景龍年中に卒し、太尉・并州大都督を贈られ、定王に還され、謚して忠簡と曰う。公主の大逆に坐し、その墓を夷される。

韋温

韋温は、中宗の廃后庶人の従父兄なり。后の父玄貞は、普州参軍事を歴任し、女を皇太子妃と為した故に、累擢して州刺史に至る。帝が廬陵に幽せられると、玄貞は流されて欽州で死に、妻崔は蛮首寧承に殺され、四子の洵・浩・洞・泚は同じく容州で死に、后の二人の妹は逃れて京師に還る。帝が政を復するや、是日詔して玄貞に上洛郡王・太師・雍州牧・益州大都督を贈り、温の父玄儼に魯国公・特進・并州大都督を贈る。使者を遣わして玄貞の喪を迎え、詔して広州都督周仁軌に寧承を討たしめ、その首を斬って崔の柩に祭らせ、仁軌を左羽林大将軍・汝南郡公に任ず。柩至ると、帝と后は長楽宮に登り望んで哭き、酆王を贈り、謚して「文献」とし、廟号を「褒徳」とし、陵を「栄先」と号し、令丞を置き、百戸を給して掃除せしむ。洵に吏部尚書・汝南郡王を、浩に太常卿・武陵郡公を、洞に衛尉卿・淮陽郡公を、泚に太僕卿・上蔡郡公を贈り、並びに京師に葬る。

温は初め吏を試み、贓に坐して斥けられる。神龍初め、宗正卿に抜擢され、礼部尚書に遷り、魯国公に封ぜられる。弟の湑は、洛州戸曹参軍事より連ねて拝され左羽林大将軍・曹国公となる。后の長妹は陸頌に嫁ぎ、国子祭酒に進む。次妹は嗣虢王邕に嫁ぐ。湑の子捷は成安公主を娶り、温の従弟濯は定安公主を娶り、並びに駙馬都尉に拝され、捷は右羽林将軍となる。景龍三年、温は太子少保同中書門下三品を以て、遥かに揚州大都督を領す。温は既に天下の事を手にせるを見て、自ら殖えんとしてその権を牢ならんと欲し、友党を引用して一ならず、公卿は畏伏すれども、然れども温は無能にして、諸武の兇にして熾なるに如かざりき。

王湑は初め脩文館大学士を兼ねた。時に熒惑星が長く羽林に留まり、皇后はこれを嫌った。ちょうど王湑が従って温泉に行った時、皇后は変事を塞ぐために彼を毒殺し、司徒・并州大都督を厚く贈った。王湑の兄弟は文詞によって進んだが、帝は盛んに文章侍従を選び、詩を賦して楽しんでいた。王湑は学士であったが、常に北軍におり、何も作り出さなかった。

富商が罪に当たり、万年県令李令質がこれを取り調べた。王濯が急いで救おうとしたが、令質は従わず、帝に訴えた。帝が令質を召し出すと、左右の者は恐れたが、令質は平然として言った、「王濯は賊と親しいわけではなく、ただ財貨のために請うただけです。王濯は勢いが重いとはいえ、陛下の法を守るには及びません。死んでも恨みはありません」。帝は釈放して責めなかった。

帝が崩御し、皇后が専政した。変事を恐れ、韋温に内外の兵を全て統率させ、省中を守らせた。また、従子の韋播・韋捷、従弟の韋璿・韋高嵩に左右羽林軍を分領させた。韋温は宗楚客・武延秀らと共に皇后に図讖を託し、韋氏が天命を受けるべきだと説き、少帝を殺害しようと謀った。内では相王・太平公主が尊属であることを恐れ、先にこれを除こうとし、その後謀を起こそうとした。しかし玄宗の兵が夜に起こり、将軍葛福順が玄武門を攻め、羽林に入り、韋播・韋璿・韋高・韋嵩を斬り、首を掲げて示し、軍中は相率いて応じ、敢えて後れる者はいなかった。皇后が死ぬと、夜明け前に韋温を斬り、諸韋の子弟を分捕り、少長を問わず皆斬った。

周仁軌

周仁軌は、京兆万年の人で、皇后の母方の一族である。并州長史であった時、残酷で殺戮を好んだ。ある日、堂下に切り落とされた腕があるのを見て嫌い、野原に送った。数日後見に行くと、元のままあった。その月、韋后が敗れると、使者が仁軌を誅し、刑人が刀を挙げると、仁軌は腕で受け、地に落ちて初めて悟った。

睿宗は韋玄貞・韋洵の墳墓を平らげ、民が宝玉を盗み取ってほぼ尽きた。天宝九載、再び詔して発掘させ、長安尉薛栄先が視察に行った。冢銘に葬った月日が記されており、発冢の月日と全く同じで、陵と尉の名が合うと言われた。

王仁皎

王仁皎、字は鳴鶴、玄宗の廃后の父である。景龍年中、将帥として推挙され、甘泉府果毅に授けられ、左衛中郎将に遷った。帝が即位し、后の縁故により、将作大匠に抜擢され、累進して開府儀同三司に進み、祁国公に封ぜられ、三百戸を食んだ。仁皎は職を避けて事とせず、名誉を遠ざけ、厚く奉養し、媵妾と財貨を蓄えるだけであった。六十九歳で卒し、太尉・益州大都督を贈られ、諡は昭宣。官が葬儀を執り行った。柩が行く時、帝は望春亭に御して喪を見送った。詔して張説にその碑文を書かせ、帝自ら石に題した。

子の守一は、后と双子で、帝が微賤の時から親しく旧交があり、後に詔して清陽公主を娶った。太平公主討伐に従って功があり、尚乗奉御から殿中少監・晋国公に遷り、累進して太子少保となり、父の爵を襲い、良く遇された。后が廃されると、柳州別駕に貶され、藍田に至り、賜死された。守一は貪欲で顧みる所なく、財貨を巨万蓄え、全て官に没収された。

楊国忠

楊国忠は、太真妃の従祖兄で、張易之の出である。飲酒と博奕を好み、しばしば人に借金を乞い、行いに検束がなく、姻族から歯牙にもかけられなかった。三十歳で蜀軍に従い、屯田の成績優秀で昇進すべきところ、節度使張宥はその人柄を嫌い、笞打って屈辱を与えたが、結局優秀として新都尉となった。罷免されて去り、ますます困窮し、蜀の大豪族鮮于仲通が大いに資給した。従父の楊玄琰が蜀州で死ぬと、国忠はその家を護り、妹と通じた。これが所謂虢国夫人である。その財を集め、成都で摴蒲し、一日で費やし尽くし、逃亡した。久しくして扶風尉に任ぜられたが、志を得ず。再び蜀に入り、剣南節度使章仇兼瓊は宰相李林甫と不和で、楊氏が新たに寵を得たと聞き、結びつけて奥の助けとしようと考え、仲通を長安に遣わした。仲通は辞し、国忠を引見した。国忠は姿形が魁偉で口が達者であったので、兼瓊は喜び、推官に表し、春の貢物を率いて長安に行かせた。出発に際し告げて言った、「郫に一日分の糧がある。君が着いたら、取るがよい」。国忠が着くと、蜀の貨物百万を得て、大いに喜んだ。京師に至り、諸妹に会い、贈り物を届けた。当時虢国夫人は新たに寡婦で、国忠は多く分け与え、公然と淫らなことを止めなかった。諸楊は日々兼瓊を称え、国忠が摴蒲に巧みだと言った。玄宗が引見し、金吾兵曹参軍・閑廄判官に抜擢した。兼瓊が戸部尚書兼御史大夫として入朝したのは、彼の力によるものである。国忠は次第に供奉に入り、常に遅く出仕し、専ら簿帳を主管し、計算を画策し、分銖も誤らず、帝は喜んで言った、「度支郎の才である」。累遷して監察御史となった。

李林甫が韋堅らの獄を起こし、太子を危うくしようとした。獄事が退けられるのを恐れ、国忠が寵を頼み、猛禽のように使えると考え、彼を頼りに按劾させた。国忠は残酷な文書で厳しく誹謗し、連年逮捕拘束し、誣蔑されて誅された者は百余族に及び、太子を危うくできると見込む者は、林甫の意に先んじて陥れ、皆その望むところに中った。林甫は深く阻み固く位を保ち、陰に方向を示したので、国忠はこれに乗じて奸を行い、恣肆して憚るところがなかった。虢国夫人が宮中で権勢を振るい、帝の好悪を、国忠は必ず微細に探り知り、帝はこれを能いとし、度支員外郎を兼ねさせた。遷らず一年も経たずに、十五余りの使職を領し、林甫は初めて彼を憎んだ。

天宝七載、給事中・兼御史中丞に抜擢され、専ら度支を判った。ちょうど三妹が国夫人に封ぜられ、兄の楊銛が鴻臚卿に抜擢され、国忠と共に棨戟を列ね、邸宅は華美で僭越、都邑に跨がった。当時海内は豊かで、州県の粟帛は巨万を挙げ、国忠は言上した、「古は二十七年耕して九年の食を余す。今は太平を置き、所在の滞積を出し、軽貨に換え、京師を富ませることを請う」。また天下の義倉及び丁租・地課を悉く布帛に換え、以て天子の禁蔵に充てた。翌年、帝は百官に庫物を観覧させ、積み上がって丘山の如く、群臣に賜うこと各有差等、国忠には紫衣・金魚を賜い、太府卿事を知らせた。

初め、楊慎矜が王鉷を御史中丞に引き入れたが、後に隙が生じた。王鉷は国忠を頼りに共に慎矜を弾劾し、不道に当たるとし、誅殺した。これにより権勢は中外に傾いた。吉温が国忠のために林甫の政権を奪うことを謀り、国忠は即座に京兆尹蕭炅・御史中丞宋渾を誣奏し、追放した。二人は共に林甫が厚く善くしていた者で、林甫は救うことができず、遂に怨みを結んだ。王鉷の寵は正に厚く、位勢は国忠の右にあったが、国忠はこれを忌み、邢縡の事件に因り、王鉷を陥れて誅殺させ、自ら代わって京兆尹となり、その使職を全て領した。即ち支党を窮めて弾劾し、林甫の交私の状を引き出し、左遷逮捕に連座させ、しばしば上聞し、帝は初めて林甫を厭い、疎遠にした。

これより先、南詔の質子閤羅鳳が逃亡し、帝は討伐しようとした。国忠は鮮于仲通を蜀郡長史に推薦し、兵六万を率いて討伐させた。瀘川で戦い、全軍が没し、仲通のみ挺身して免れた。当時国忠は兵部侍郎を兼ね、元より仲通に恩があり、その敗北を隠し、改めて戦功を叙し、白衣のまま職を領させた。自ら剣南を兼領することを請い、詔して剣南節度・支度・営田副大使に拝し、節度事を知らせた。間もなく本道兼山南西道採訪処置使を加え、幕府を開き、竇華・張漸・宋昱・鄭昂・魏仲犀らを引き入れて自らを補佐させ、自らは京師に留まった。帝が再び左蔵庫に幸し、百官に班賜した。出納判官魏仲犀が言上した、「鳳凰が通訓門に集まった」。門は庫の西に直し、詔して鳳皇門と改め、仲犀を殿中侍御史に進め、属吏は多く「鳳凰優」によって任官を得た。間もなく国忠を御史大夫に拝し、仲通を京兆尹に引き入れ、自ら吏部を兼領した。

国忠は雲南での功績が無かったことを恥じ、林甫に牽制されていることを知り、帝に対して自らを弁解せんと欲し、麾下に命じて己が屯所に赴くことを請わせ、外には辺境を憂うる様を示して上意に合致せしめ、実には禁中の言路を杜塞せんとす。林甫は果たして彼を派遣するよう奏上した。辞去の際、泣きながら林甫に中傷されたことを訴え、貴妃もまたこれを言上したので、帝はますます彼を親しみ、召還の日を予め定めた。然るに国忠は途上にあり、不安に慄いて自ら安んぜず。帝は華清宮に在り、駅伝を以て国忠を追い返した。林甫は病みて既に困憊し、床下に入って拝謁すると、林甫は言う、「死ぬるなり、公はまさに宰相に入り、後事を公に託す」と。国忠はその詐りを恐れ、敢えて承諾せず、汗を流して顔を覆う。林甫は果たして死し、遂に右相に任じ、文部尚書・集賢院大学士・監修国史・崇賢館大学士・太清太微宮使を兼ね、而して節度使・採訪使等の使職及び度支を判ることは解かれず。国忠は既に権柄を得ると、林甫の奸事を窮めて摘発し、その家を破砕した。帝はこれを功と為し、魏国公に封ぜんとす。国忠は固く魏を辞し、衛国公に転封された。

国忠は既に宰相として選挙を領するに及び、初めて長名を廃することを建策し、銓選の日に即ち留任・放出を定めた。旧例によれば、毎年南院に版を掲げて選式と為し、選者は自らを通達し、一つの辞が式に合わざれば、直ちに調官を得ず、故に十年官に就かざる者あり。国忠は押例を創始し、賢不肖を問わず、選任の深き者を先に補官し、牒文に謬り欠けあれば再び通達することを得しめ、衆議は翕然としてこれを美とした。先天以前は、諸司の官で政事を知る者は、午の漏刻尽きて、本司に還りて事を視る。兵部・吏部の尚書・侍郎は案を分けて注擬す。開元末には、宰相の員数少なく、任益々尊く、再び本司の事を視ず。吏部の銓選は、故に常に三度注し三度唱えるを以て、春より夏に至って乃ち終わる。而して国忠は密かに吏をして邸第に到らしめ、予めその員を定め、百官を尚書省に集めて注唱せしめ、一日にして畢り、神明を誇り、天下の耳目を驚かす者なり。是より以降、資格紛乱して、再び綱序無し。虢国夫人は宣陽坊の左に居り、国忠はその南に在り、台禁より還るや、虢国の邸第に趣く。郎官・御史で事を白する者は皆従いて至る。同じ邸第に居り、出でては駢騎し、相調笑し、施施として禽獣の如く、羞じることを為さず、道路の人は恥じ驚く。明年の大選に因り、邸第において唱補し、帷の中に女兄弟をして観せしむ。士の鬼野蹇傴たる者、その名を呼べば、直ちに堂上にて笑い、声は諸外に徹き、士大夫はこれを詬い恥じた。先に、有司が既に注を定めれば、則ち門下を過ぎ、侍中・給事中が按閲し、不可あればこれを黜す。国忠は則ち左相陳希烈を召して隅に坐らせ、給事中を傍らに置き、既に対注して曰く、「既に門下を過ぎたり」と。希烈は敢えて異を唱えず。侍郎韋見素・張倚は本曹の郎と共に堂下を趨走し、案牒を抱え、国忠は女弟を顧みて曰く、「紫袍の二主事は如何」と。皆大いに噱う。鮮于仲通等は選者鄭怤を諷して省戸の下に碑を立てて徳を頌せんことを願わしめ、詔して仲通に頌を作らしむ。帝は数字を改め、因って黄金を以てその処を識す。

帝は常歳十月に華清宮に幸し、春に乃ち還る。而して諸楊の湯沐館は宮の東垣に在り、連蔓相照らし、帝の臨幸するや、必ず五家を遍くし、賞賫は計り知れず。出でては賜ありて「餞路」と曰い、返りては労ありて「軟腳」と曰う。遠近より閹稚・歌児・狗馬・金貝を饋遺し、その門に踵ぎ重なる。

国忠は御史より宰相に至るまで、凡そ四十余の使職を領し、而して度支・吏部の事は自ら叢夥にして、第署一字も尽くす能わず、故に吏は軽重を為し、公然と賄賂を求め謁見すること忌憚無し。国忠の性は疏侻捷給にして、硁硁として枢務を処決し、自ら任じて疑わず、盛気驕愎にして、百僚敢えて相可否する者無く、官属は悉く苛督句剥して相槊す。又便佞にして、専ら帝の嗜欲に徇い、天下の成敗を顧みず。帝は雅く辺事を意とす、故に身を以て兵食を調え、文簿に習いし悪吏を取ってこれに任ぜしめ、軍の須索する凡そ、その手に快く成し、又省視する能わず。初め、李林甫は帝に天下無事を紿し、巳の漏刻出でて休むことを請い、許された。文書は填湊し、家に坐して裁決す。既に成れば、吏を敕して案を持たせ左相陳希烈の許に詣らせて聯署せしむ。左相は敢えて詰めず、謹んで署すのみ。国忠の時に至り、韋見素が希烈に代わるも、これを循って常と為す。他年、大雨にして稼を敗り、帝これを憂う。国忠は善き禾を択びて進め、「雨は災と為さず」と曰う。扶風太守房琯は郡の災を上奏す。国忠怒り、御史を遣わしてこれを按ぜしむ。後には乃ち水旱を以て聞かす者敢えて無く、皆先ず国忠の意を伺いて乃ち敢えて啓す。子の暄は明経に挙げられ、中らず。礼部侍郎達奚珣は子の撫を遣わして国忠を往見せしむ。国忠は方に朝し、撫を見て喜ぶ。已にして暄が当に黜せらるべきを聞き、詬って曰く、「子を生みて富貴ならざるや、豈に一名を以て鼠輩に売られんや」と。珣大いに驚き、即ち暄を致して高第とす。俄かに珣と同列と為るも、猶咤いて官の進まざるを為す。

国忠は国政を当つるも、常に剣南召募使を領し、戍卒を瀘南に遣わす。餉路険阻乏しく、挙げて還る者無し。旧制、勲戸は行役を免れ、以て戦功を寵す。国忠は当に行く者に先ず勲家を取らしむるを令す、故に士に闘志無し。凡そ募法は、奮わんと願う者を則ちこれに籍す。国忠は歳ごとに宋昱・鄭昂・韋儇を御史として迫促せしめ、郡県の吏窮して応ずる無く、乃ち詭りて餉を設け貧弱者を召し、密かに縛して室中に置き、絮衣を衣せしめ、械して屯に送る。亡する者は送吏を以てこれに代え、人人乱を思う。尋いで剣南留後李宓を遣わし兵十余万を率いて閤羅鳳を撃たしむ。西洱河に敗死す。国忠は捷書を矯って上聞す。再び師を興してより、中国のぎょう卒二十万を傾け、踦屨遺る無く、天下これを冤む。

安禄山は方に寵有り、辺に重兵を総べ、偃蹇として法を奉ぜず。帝はこれを護り、下も敢えて言う者無し。国忠は終に己が下に出でざるを知り、又内援を恃み、独り暴に反状を発す。帝は位を以て相冒するを疑い、これを信ぜず。禄山は逆心久しきも、帝の遇する厚きを以て、故に隠忍し、帝の一日晏駕するを俟って則ち兵を称せんとす。及び帝が国忠を嬖するを見て、甚だ己に利ならざるを畏れ、故に謀日急なり。俄かに禄山は尚書右僕射を授けらる。帝は国忠の悦ばざるを恐れ、故に司空を冊拝す。禄山は幽州に還り、国忠の己を図るを覚り、反謀遂に決す。国忠は客の何盈・蹇昂に命じて反状を刺求せしめ、京兆尹李峴を諷してその邸第を囲ませ、禄山の善くする李超・安岱・李方来・王岷を捕えて殺し、その党の吉温を合浦に貶す。禄山上書して自ら陳べ、而して条々に国忠の大罪二十を上る。帝は過ちを峴に帰し、零陵太守に貶し、以て禄山の意を尉す。国忠は寡謀矜躁にして、禄山の跋扈は図るに足らずと謂い、故に激怒せしめて必ず反せしめ、以て帝の信を取らんとす。帝は卒に悟らず。乃ち建言す、「禄山を平章事と為し、追い入れて輔政せしめ、賈循を以て使と為し范陽を節度せしめ、呂知誨に平盧を節度せしめ、楊光翙に河東を節度せしめんことを請う」と。已に詔を草す。帝は謁者輔璆琳をして禄山を覘わしむ。未だ還らざるに、帝は詔を座の側に致す。而して璆琳は金を納れ、固く反せずと言う。帝は国忠に謂いて曰く、「禄山に二心無し、前の詔はこれを焚きたり」と。禄山反す、国忠を誅するを名と為す。帝は自ら将として東せんと欲し、皇太子をして国を監せしめ、左右に謂いて曰く、「我一事を行わんと欲す」と。国忠は帝の将に太子に禅らんとするを揣り、帰って女弟等に謂いて曰く、「太子国を監すれば、吾属誅せられん」と。因りて泣き聚り、貴妃に入り訴う。妃は死を以て帝に邀い、遂に寝す。禄山は既に范陽を発し、嘆咤して曰く、「国忠の頭来る何ぞ遅き」と。

哥舒翰が潼関を守り、兵を抑えて険要を守っていたが、国忠は彼が己に背こうとしていると聞き、疑念を抱き、朝廷の中から督戦した。翰はやむなく関を出て、遂に大敗し、賊に降った。この報が届くと、その日、帝は南内から未央宮へ御駕を移された。国忠は百官に会い、咽び泣いて堪えられなかった。監察御史高適が百官の子弟を率い、豪傑十万を募って防戦することを請うたが、衆人は不可と認めた。初め、国忠は乱が起こると聞き、自ら剣南を率いようとし、あらかじめ腹心を梁・益の間に置き、自らを保全する策を図った。この時、帝が宰相を召して事を計らせると、国忠は言った、「蜀へ幸するのが宜しい」。帝はこれを然りとされた。翌日、遅くに暁、帝は延秋門を出られたが、群臣は知らず、なお朝に上ろうとし、ただ三衛の広騎が儀仗に立ち、刻漏の音が聞こえるばかりであった。国忠は韋見素・高力士及び皇太子・諸王数百人と共に帝を護衛した。右龍武大将軍陳玄禮が国忠を謀殺しようとしたが、果たせなかった。進んで馬嵬に次ぐと、将兵は疲弊し、食糧が欠乏した。玄禮は乱を恐れ、諸将を召して言った、「今、天子は震蕩し、社稷は守られず、生民をして肝脳を地に塗らせているのは、豈に国忠の致すところではないか。彼を誅して天下に謝そうと思うが、どうか」。衆人は言った、「願うこと久しい。事が行なわれて身が死ぬとも、固より願うところである」。時に吐蕃の使者が国忠に請いがあると、衆人は大呼して言った、「国忠は吐蕃と謀反を図っている」。衛騎が合し、国忠が突出すると、或る者がその額を射中て、これを殺し、争ってその肉を食らい尽くし、首を梟して示しものとした。帝は驚いて言われた、「国忠は遂に反したのか」。時に吐蕃の使者も殲滅された。御史大夫魏方進が衆人を責めて言った、「何故に宰相を殺すのか」。衆人は怒り、また彼を殺した。

四人の子、暄・出・曉・晞。暄は太常卿・戸部侍郎の位にあり、乱を聞き、馬から落ち、衆人が弩で射ると、身に百矢を貫かれて、ようやく倒れた。出は万春公主を尚し、鴻臚卿の位にあり、賊に陥って殺された。曉は漢中に奔り、漢中王瑀に打ち殺された。晞及び国忠の妻裴柔は共に陳倉に奔ったが、追兵に斬られた。柔はもと蜀の娼妓であった。共に穴を掘って埋めた。

その党与の翰林学士張漸・竇華、中書舎人宋昱、吏部郎中鄭昂は、皆山谷に走ったが、民がその財を争い、その富は国忠に匹敵した。昱は財産を恋い、密かに都に入ったが、乱兵に殺された。残りは誅殺に坐した。

国忠は本名を釗といったが、図讖に「卯金刀」があるため、御史中丞の位にあった時、帝が今の名に改めさせた。

李翛

李翛、字は翛、寒賤より起り、庄憲太后の婭婿であることによって進み、坊・絳二州刺史を歴任した。他の才能はなく、政務は粗く処理した。性質は繊細で巧み、厨伝を飾り、宦官と結託して善誉を求めた。憲宗は才能あるものと認め、司農卿に拝し、京兆尹に進み、専ら聚斂に努めて恩寵を固め、しばしば近臣を譖毀したので、一時側目された。太后が崩じると、詔して翛を橋道置頓使とし、官費を吝しみ、物々を裁減して喜ばしいものとした。梓宮が灞橋に至ると、従官の多くは食を得られなかった。初め渭城門を改めて造ることを議し、費用三万銭と見積もったが、翛は労役とし、聞き入れず、軌道を深く穿たせた。柱が危うく支えられず、喪車が通り過ぎたばかりに門が壊れ、輼輬車は辛うじて免れ、門を取り払ってようやく通行できた。翛は妄りに車軸が折れたと奏上したので、山陵使李逢吉が上を罔くしたことを弾劾し、免官を請うた。時に帝は兵を用いており、翛はたびたび献上物をしたため、罪に坐せず、ただ詔して俸給を奪うのみであったが、逢吉がこれを執り行い、銀青光禄大夫の一階を削った。翌日、黄金を加賜された。帝は浙西が富饒であることから、遺利を掊捃しようとし、翛を観察使とした。病を得て京師に還った。元和十四年に卒すと、士人に賀い合う者があった。

鄭光

鄭光は、孝明皇太后の弟である。会昌の末、大車に乗って日月を載せ、大路を行き、光輝が洪洞として六合を照らす夢を見た。覚めて占わせると、占い師が言った、「君はまさに暴貴するであろう」。一ヶ月も経たぬうちに、宣宗が即位し、光は民伍より興り、諸衛将軍に拝され、累遷して平盧軍節度使となり、河中・鳳翔に転じ、また鄠・雲陽二県の良田を賜った。大中四年、詔してその租賦を除こうとしたが、宰相が言った、「国の常賦は、貧しい下戸でも免れず、どうして外戚のために法を廃することができましょうか」。帝は悟り、前の詔を撤回した。まもなくその妾を夫人に封じようとしたが、光は帝の意を悟り、詔を返上して拝することを敢えなかった。帝はこれを嘉した。七年、朝しに来て、延英殿で対し、奏上する言葉が鄙俗で近しいため、帝は失望し、悦ばず、留めて右羽林統軍兼太子太保とした。太后がその家が空しく短いと言うと、帝は厚く金帛を賜ったが、終に方鎮を委ねることはなかった。卒すと、司徒を贈られ、詔して三日の朝を罷め、群臣が奉慰した。御史大夫李景讓が言った、「礼によれば、外祖父母・舅には小功五月の服、伯叔父や兄弟には斉縗期年の服であり、外を疏くし内を密にする所以である。王者は外戚を強くしてはならない。按ずるに、王・公主の喪でも三日を過ぎず、光は少し降すべきである」。詔して二日に罷めた。

子の漢卿は、終に義昌軍節度使となった。