新唐書

列傳第一百三十 列女

列女

女子の行いは、親に対しては孝、婦としては節、母としては義にして慈、これに止まる。中古以前、書に載せる后・妃・夫人の事蹟は、天下これを化した。後に彤史の職廃れ、婦訓・姆則家に及ばず、故に賢女紀すべきものは千載の間寥寥として相望む。唐興り、風化陶淬すること数百年にして、聞家令姓の窈窕たる淑女、大難に臨み、礼節を守り、白刃も移すこと能わず、哲人烈士と不朽の名を争い、寒きこと霜雪の如きも、亦た貴ぶべし。今、尤も顕著なる行いを採獲し、篇に著し、以て父父・子子・夫夫・婦婦の懿を緒正す。

李徳武の妻裴淑英

李徳武の妻裴氏、字は淑英、安邑公矩の女、孝を以て郷党に聞こゆ。徳武は隋に在り、事に坐して嶺南に徙され、時に嫁して歳を踰えたばかり、矩は表を上りて離婚を請う。徳武、裴に謂いて曰く、「我方に貶せられ、還る理無し、君必ずや他の族に儷すべし、ここに於いて長く決別せん」と。答えて曰く、「夫は天なり、背くべけんや。願わくば死すとも他無し」と。耳を割りて誓わんと欲す、保姆持ちて許さず。夫の姻族、歳時の塑望に裴は礼を致すこと謹みて惟れ厳なり。居て薰沢を禦かず。『列女伝』を読み、再嫁せざる者を述べたるを見て、人に謂いて曰く、「二廷を践まざるは婦人の常なり、何を以て異とし書に載すや」と。後十年、徳武未だ還らず、矩は嫁がすことを決す、断髪して食わず、矩は奪うこと能わざるを知り、これを聴す。徳武は更に汆朱氏を娶る。赦に遇い還る、中道に其の完節を聞き、乃ち後妻を遣わし、夫婦として初めの如くす。

楊慶の妻王氏

楊慶の妻王氏は、世充の女なり。慶は河間王の子として郇王となり、滎陽けいようを守る。世充に陥ち、故に世充これを妻とし、用いて管州刺史と為す。太宗洛陽らくようを攻む。慶、王と謀りて唐に帰らんとす。謝して曰く、「鄭は我を以て箕帚を奉ぜしむるは、公の心を綴ぐに在り。今、恩を負き義に背き、身の為に謀る、如何せん。長安ちょうあんに至らば、則ち公家の婢のみ。願わくは我を還して東都に送らしめよ」と。慶聴かず。王、左右に謂いて曰く、「唐勝てば則ち鄭滅び、鄭安んずれば則ち吾が夫死す。是の如くならば、生くる何の益かあらん」と。乃ち薬を飲みて死す。慶朝に入り、官は宜州刺史。

房玄齢の妻盧氏

房玄齢の妻盧氏、其の世を失う。玄齢微時に在り、病みて且つ死せんとす。諉えて曰く、「吾病革まり、君年少なり、寡居すべからず、善く後人に事えよ」と。盧泣きて帳中に入り、一目を剔ぎて玄齢に示し、他無きを明らかにす。会に玄齢良く癒え、終身これを礼す。

獨狐師仁の姆王蘭英

王蘭英は、獨狐師仁の姆なり。師仁の父武都、唐に帰らんと謀る。王世充これを殺す。師仁始めて三歳、死を免れて禁錮せらる。蘭英、髡鉗を請うて保養を得んとす。許す。時に喪乱し、餓死者藉藉たり。道路に遊丐して以て師仁に食わしめ、身は土を啖み水を飲む。後に薪を採ると詐り、窃かに師仁を帰して京師に至る。高祖こうそ其の義を嘉し、詔して蘭英を永寿郷君に封ず。

楊三安の妻李氏

楊三安の妻李氏、京兆高陵の人。舅姑亡く、三安又死す。子幼く、孤窶す。昼は田し夜は紡ぎ、凡そ三年、舅姑及び夫の兄弟凡そ七喪を葬る。遠近嗟涕す。太宗聞きて之を異とし、帛三百段を賜い、州県を遣わして存問せしめ、其の徭役を免ず。

樊会仁の母敬氏

樊會仁の母、敬は、蒲州河東の人、字は象子。かんざしをさして會仁を生む。夫死に、舅姑に事えて祥順なり。家、其の少なるを以て、俗に之を嫁せんとし、里人に潜かに婚を約し、期に至り、いつはりて母の病と為し、帰りて視せしむ。敬至りて、見紿だまさるるを知り、乃ち外は知らざる者の如く為し、私に會仁に謂ひて曰く、「吾孀処して死せざるは、母老いて兒幼きを以てなり、今舅将に吾が志を奪はんとす、汝云何」と。會仁泣く、敬曰く、「兒啼くなかれ」と。乃ち隙を伺ひて遁れ去り、家追ひて半道に及び、死を以て自ら守り、乃ち罷む。會仁未だ冠せずして卒し、時に敬の母又終はり、既に葬りて、親しき所に謂ひて曰く、「母死に子亡びぬ、何をか生くると為さん」と。食はず数日にして死す、聞く者之を憐れむ。

衛の孝女無忌

衛の孝女は、絳州夏の人、字は無忌。父、郷人衛長則に殺さる。無忌甫はじめて六歳、兄弟無く、母改嫁す。およびて長ずるに及び、志父の讐を報ぜんとす。たまたま從父大いに客を延ぶるに、長則坐に在り、無忌甓かわらを以て之にち、之を殺す。吏に詣りて父の冤已に報ぜられたりと称し、就刑を請ふ。巡察使褚遂良以て聞こえしむ、太宗其の罪を免じ、驛を給して雍州に徙し、田宅を賜ふ。州縣禮を以て之を嫁す。

鄭義宗の妻盧氏

鄭義宗の妻盧は、范陽の士族なり。書史に渉り、舅姑に事えて恭順なり。夜、盗有りて兵を持ちて其の家をおびやかす、人皆匿竄す、惟だ姑去ること能はず、盧刃を冒して姑の側に立ち、賊の為に捽捶そつすいせられほとんど死す。賊去り、人問ふ何をか懼れざる、答へて曰く、「人の鳥獸に異なる所以は、其の仁義有るを以てなり。今憐里急難に尚相赴く、況んや姑を委棄すべけんや。若し百に一危き有らば、我独り生くべからず」と。姑曰く、「歳寒くして然る後に松柏のおくれてるるを知る、吾乃ち今婦の心を見る」と。

劉寂の妻夏侯碎金

劉寂の妻夏侯は、滑州胙城の人、字は碎金。父長雲、鹽城の丞と為り、明を喪ふ。時に劉已に二女を生めり、劉と絶つを求めて、帰り父の疾に侍す。又後母に事えて孝を以て称さる。五年にして父亡び、して喪に勝へず、髪をはだせんうつし、身に土を負ひて冢を築き、其の左に廬し、寒くも綿せず、日に一食すること三年。詔して物二十段、粟十石を賜ひ、門閭をことに表す。後に其の女母の喪に居るも、亦母の行ひの如く、官又粟帛を賜ひ、其の門を表す。

于敏直の妻張氏

于敏直の妻張は、皖城公儉の女なり。三歳を生みて、つねに父母病むに、已に能く晝夜省侍し、顏色成人の如し。および長ずるに及び、いよいよ恭順仁孝なり。儉病篤し、之を聞き、號泣幾ほとんど絶ゆ。儉死し、一慟して遂に卒す。高宗其の行ひをしとし、物百段を賜ひ、状を以て史官に属す。

楚王靈龜の妃上官氏

楚王靈龜の妃上官は、下邽の士族なり。靈龜出でて哀王の後に継ぎ、而して舅姑在り、妃朝夕侍奉し、謹み甚だし、凡そ珍美なるもの、献を経ざれば先づ嘗めず。靈龜卒し、将に葬らんとす、前妃近族無く、議者挙げざらんと欲す、妃曰く、「逝者知有らば、魂托る所無からんや」と。乃ち禮を備へて合葬す。聞く者嘉嘆す。喪除け、兄弟共に諭して曰く、「妃少く、又子無し、行ひ有ること無からんや」と。泣きて曰く、「丈夫は義を以てし、婦人は節を以てす、我溝壑に殉ずる能はざれども、尚ほ妝澤をととのへ、他胙を祭らんや」と。将に自ら劓刵ぎじせんとす、衆遂に敢へて強ひず。

楊紹宗の妻王氏

楊紹宗の妻王は、華州華陰の人。むつきに在りて母亡び、継母鞠愛す。父遼を征して歿し、継母又卒す、王年十五、乃ち二母の柩を挙げて父の象を立て、魂を招きて以て葬り、墓の左に廬す。永徽中、詔して曰く、「楊氏の婦隋時に在り、父遼西に歿し、能く魂を招き克く葬る。祖父母の塋隧に至りては、親しく板築に服し、哀感行路す」と。因りて物段並びに粟を賜ひ、闕を以て門を表す。

賈の孝女

賈の孝女は、濮州鄄城の人。年十五、父、族人玄基に殺さる。孝女の弟強仁尚ほ幼く、孝女嫁ぐをがえんぜず、ひそかに之を撫育す。強仁能く自ら樹立し、教へて玄基を伺ひて之を殺し、其の心を取って父の墓に告ぐ。強仁縣に詣りて状を言ふ、有司死を論ず。孝女闕に詣りて弟に代はりて死せんことを請ふ、高宗閔み嘆き、詔して並びに之を免じ、内に徙して洛陽に置く。

李氏の妻 王阿足

李氏の妻 王阿足は、深州鹿城の人である。早くに孤となり、兄弟無し。李氏に嫁して数年、夫死に子無く、寡婦となった姉が高齢で供養する者無きを以て、乃ち嫁ぐに忍びず。昼は耕し夜は織り、生計を営むことを能くし、二十余年を余して、姉乃ち亡くなり、葬送礼の如し。郷人其の義に服し、争って女妻を遣わして往き其の風訓に師事せしむ。寿を家に終う。

樊彥琛の妻 魏氏

樊彥琛の妻 魏なる者は、揚州の人。彥琛病む、魏曰く、「公病みて且つ篤し、公の独り死するを忍びず。」彥琛曰く、「死生は、常の道なり。幸いに諸の孤を養いて成立せしめ、相従いて死するは、吾が取るところに非ず。」彥琛卒す、徐敬業の難に値い、兵中に陥る。其の知音なるを聞き、箏を鼓がしむ、魏曰く、「夫亡くして死せず、而して我を管弦に逼る、禍我より発す。」刀を引いて其の指を斬る。軍伍強いて之に妻せんと欲す、固く拒み従わず、乃ち頸を擬えて曰く、「我に従う者は死せず。」魏厲声に曰く、「狗盗、乃ち人を辱めんと欲す、速やかに死す、吾が志なり!」乃ち害せらる、聞く者之を傷む。

李畬の母

李畬の母なる者は、其の氏を失う。淵識有り。畬監察御史と為り、稟米を得、之を量るに三斛にして贏ち、史に問う、曰く、「御史の米は、概さず也。」又車庸幾ばかり有るかを問う、曰く、「御史は償わず也。」母怒り、余りの米を帰し、其の庸を償わしめ、因りて畬を切責す。畬倉官を劾し、自ら状を言う、諸の御史之を聞き、慚色有り。

汴の女 李氏

汴の女 李なる者は、年八歳にして父亡くなり、堂に殯すること十年、朝夕臨む。笄に及び、母之を嫁がさんと欲す。髪を断ち、終養を丐う。母の喪に居り、哀号人に過ぎ、自ら葬具を庀え、州里葬を送る者千余人。墓に廬し、蓬頭、跣にして土を負い、以て園塋を完うし、松数百を蒔く。武后の時、按察使薛季昶之を表し、詔して門閭に闕を樹てしむ。

崔繪の妻 盧氏

崔繪の妻 盧なる者は、鸞臺侍郎献の女。献美名有り。繪喪い、盧年少、家之を嫁がさんと欲す、盧疾を称して許さず。女兄工部侍郎李思沖に適す、早く亡し。思沖方に顕重なり、表して継室を求め、詔許し、家内外の姻皆然う可し。思沖幣三百輿を帰す、盧可せず、曰く、「吾豈に再び人に辱しめられんや、寧ろ身を没して婢と為らん。」是の夕、竇より出で、糞穢を以て面を蔑み、還りて崔の舎に至り、髪を断ち自ら誓う。思沖以て聞く、武后奪わず、詔して浮屠尼と為らしめて終わる。

堅貞節婦 李氏

堅貞節婦 李なる者は、年十七、鄭廉の妻と為りて嫁す。未だ年を逾えず、廉死に、常に布衣蔬食す。夜忽ち男子の妻と為らんことを求むるを夢み、初め許さず、後数数之を夢む。李自ら容貌未だ衰えざるを疑い鬼の召す所なり、即ち発を截ち、麻衣し、薰飾せず、垢面塵膚、此れより是れ復た夢むこと無し。刺史白大威其の操を欽み、堅貞節婦と号し、表して門闕を旌し、居る所を名づけて節婦里と曰う。

符鳳の妻 玉英

符鳳の妻 某氏、字は玉英、尤も姝美なり。鳳罪を以て儋州に徙され、南海に至り、獠賊に殺さる、玉英を脅して之に私せしめんとす、対えて曰く、「一婦人衆男子に事うるに足らず、請う一の長者を推せん。」賊之を然りとす。乃ち衣を更えんことを請う、有る頃、盛服して舟に立ち、罵りて曰く、「賊に辱しめらるるは、死するに如かず!」自ら海に沈む。

高叡の妻 秦氏

高叡の妻秦氏。叡は趙州刺史となり、默啜に攻められた。州は陥落し、叡は毒薬を仰いで死なず、默啜の所に至ると、竇帯と異なる袍を示して曰く、「我に降らば、爾に官を賜わん。降らざれば、且つ死せん」と。叡は秦氏を見る。秦氏曰く、「君は天子の恩を受く、当に死をもって報ずべし。賊の一品官、何ぞ栄え足らんや」と。ここより皆瞑目して語らず。默啜、屈せざるを知り、乃ち之を殺す。

王琳の妻韋氏

王琳の妻韋氏は、士族なり。琳は眉州司功参軍となり、俗は僭侈して盛んに飾るも、韋氏は簪珥あるを知らず。二子の堅・冰を訓うるに法あり、後皆名聞あらしむ。琳の卒する時、韋氏年二十五、家は強いて嫁がさんと欲すれど、韋氏固く拒み、音楽を聴かず、一室に処し、或いは終日食わず。卒年七十五、『女訓』を著して世に行わる。

盧惟清の妻徐氏

盧惟清の妻徐氏は、淄州の人、世に陳留に客す。惟清は仕えて校書郎を歴任す。徐氏の女兄の夫李宜得は罪を得て斥けられ、惟清は僚姻に坐し、播川尉に貶せらる。徐氏は郷里に還り、糲食し、鉛膏を斥け、采絺を禦さず。大赦に会し、徐氏は間関して惟清を迎え、荊州に至り、惟清の死を聞く。二髯の奴、将に徐氏を劫いて下江に帰せんとす。徐氏之を知り、其の罪を数う。奴敢えて逼らず、其の資を劫いて去る。徐氏は倍道して行き播川に至り、足に繭を生じ血を流し、惟清の尸を得て、喪を以て還る。歳を閲て洛陽に至る。既に葬り、子無きを以て、終服して陳留に還る。汴州刺史の齊瀚、其の節を高くし、頌して之に詩す。

饒娥

饒娥、字は瓊真、饒州楽平の人。小家に生まれ、織纴に勤め、頗る自ら修整す。父の勣、江に漁す。風濤に遇い、舟覆り、屍出でず。娥年十四、水上に哭き、三日食わずして死す。俄かに大いに震電し、水蟲多く死に、父の屍浮かび出づ。郷人之を異とし、賵を帰し礼を具え、父及び娥を鄱水の陰に葬る。県令の魏仲光、其の墓に碣を建つ。建中初め、黜陟使の鄭淑則、其の閭を表旌す。河東の柳宗元、為に碑を立つと云う。

竇伯女・仲女

竇伯女・仲女は、京兆奉天の人。永泰年中、賊に遇い行剽せられ、二女自ら山谷に匿る。賊跡して之を得、将に私を以て逼らんとす。行きて大谷に臨む。伯曰く、「我豈に賊に汚されんや」と。乃ち自ら投下す。賊大いに駭く。俄にして仲も亦躍りて墜つ。京兆尹の第五琦、其の烈行を表す。詔して門閭を旌し、其の家の徭役を免じ、官為に葬るを庀つ。

盧甫の妻李氏

盧甫の妻李氏は、秦州成紀の人。父の瀾、永泰初めに蘄令と為る。梁・宋兵興り、瀾は劇賊数千人を諭降す。刺史の曹升、賊を襲い、之を敗る。賊は瀾が己を売りしを疑い、瀾及び其の弟の渤を執る。兄弟争い相代わりて死せんとす。李氏、父の被殷するを見、亦た父に代わるを請う。遂に皆遇害す。

又た王泛の妻裴氏有り。亦た賊中に俘えられ、之を汚さんと欲す。罵りて曰く、「吾は衣冠の子なり。豈に生を愛し汚されんや」と。賊兵を以て臨むも、罵り止まず。乃ち支解す。

宣慰使の李季卿、状を聞く。詔して李氏に昌県君を、裴氏に河東県君を贈り、瀾・渤並びに官を贈る。

鄒待征の妻薄氏

鄒待征の妻薄氏は、侍征に従い江陰に官す。袁晁乱れ、薄氏は賊に掠められ、将に之を汚さんとす。従わず。家のおうに語りて待征に報ぜしめて曰く、「我は義辱を受けず」と。即ち水に死す。賊去り、其の屍を得る。義声江南に動き、聞人李華『哀節婦賦』を作る。

金節婦

金節婦は、安南の賊帥陶齊亮の母である。常に忠義をもって齊亮を諭したが、頑なに受け入れず、遂に縁を絶った。自ら田を耕して食い、紡いで衣とし、州里の人々はこれを法と仰いだ。大暦の初め、詔して二人の丁男を賜り侍養させ、本道の使者は四時に存問して終身に及んだ。

高湣女妹妹

高湣女は名を妹妹といい、父彥昭は李正己に仕えた。李納が命に背いた時、その妻子を人質とし、濮陽を守らせた。建中二年、城を挙げて河南都統劉玄佐に帰順したので、李納はその一家を誅戮した。時に女は七歳、母の李はその幼さを哀れみ、死を免じて婢とすることを請うた。許されたが、女は肯わず、言うには「母も兄も皆免れないのに、何を頼みて生きようか」と。母と兄が刑に処せられようとする時、四方に遍く拝した。女がその故を問うと、答えて「神に祈ることができる」と言う。女は言う、「我が家は忠義のために誅されるのに、神がまだ何を知っていて拝むというのか」と。父の在りかを問い、西に向かって哭き、再拝して死に就いた。徳宗は驚き嘆き、詔して太常に湣の諡を賜わらせた。諸儒は争ってその誄を作った。

彥昭は劉玄佐に従って寧陵を救い、汴州を回復し、功を重ねて潁州刺史を授かった。朝廷はその忠を記録し、州に二十年居て転任せず、卒して陜州都督ととくを追贈された。

楊烈婦

楊烈婦は、李侃の妻である。建中の末、李希烈が汴を陥し、陳州を襲おうと謀った。李侃は項城令であったが、李希烈は兵数千を分けて諸県を平定略取し、李侃は城が小さく賊が鋭いとして、逃げ去ろうとした。婦は言う、「賊が来れば守るべきであり、力が足りなければ、死ぬのみである。君が逃げるなら、尚誰が守ろうか」と。李侃は言う、「兵は少なく財は乏しい。どうすればよいか」と。婦は言う、「県を守らなければ、その地は賊の地となり、倉廩府庫は皆その蓄えとなり、百姓は皆その戦士となる。国家にとって何があろうか。重賞を以て死士を募ることを請う。尚救うことができる」と。李侃は乃ち吏民を召し廷中に入れて言う、「令は確かに君であるが、満年すれば去る。吏民がこの土に生まれ、墳墓がここにあるのとは同じではない。宜しく相ともに死守すべきであり、身を失って北面し賊に奉ずることを忍ぶか」と。衆は泣き、承諾した。乃ち宣して言う、「瓦石を以て賊を撃つ者は、千銭を賞す。刀矢を以て賊を殺す者は、万銭を賞す」と。数百人を得た。李侃はこれを率いて城に乗じ、婦は自ら炊事して衆に饗した。賊に報じて言う、「項城の父老は義をもって賊に下らず、我が城を得ても威と為すに足らず、宜しく急ぎ去るべし。徒らに利を失うだけで、益はない」と。賊は大笑した。李侃は流れ矢に当たり、家に還ると、婦は責めて言う、「君がいなければ、誰が肯って固く守ろうか。外で死ぬのは、まだ床で死ぬよりましである」と。李侃は急いで城に登った。時に賊将が矢に当たって死んだので、遂に兵を引き去り、県はついに完った。詔して李侃を太平令に遷した。

先だって萬歳通天の初め、契丹が平州を寇し、鄒保英が刺史であったが、城将に陥らんとした時、妻の奚が家僮女丁を率いて城に乗じ、賊に下らず、詔して誠節夫人に封じられた。默啜が飛狐を攻め、県令古玄應の妻の高が能く固守したので、虜は引き去り、詔して徇忠縣君に封じられた。史思明の叛に際しては、衛州の女子侯、滑州の女子唐、青州の女子王が、相い歃血して行営に赴き賊を討ち、滑濮節度使許叔冀がその忠を表したので、皆果毅に補された。敢決として国を忘れなかったとはいえ、楊烈婦の慨慷として君臣の大義を知るには及ばないという。

賈直言妻董氏

賈直言の妻は董である。直言は事に坐し、嶺南に貶された。妻が若いので、乃ち訣別して言う、「生死は期すべからず、我が去るに及びては、急ぎ嫁ぐがよい。待つには及ばない」と。董は答えず、縄を引いて髪を束ね、帛で封じ、直言に署名させて言う、「君の手でなければ解かない」と。直言が貶されて二十年にして乃ち還ると、署名した帛は宛然として変わらなかった。湯沐に及んで、髪は堕ちて余すところ無かった。

李孝女妙法

李孝女は、名を妙法といい、瀛州博野の人である。安祿山の乱に、劫掠されて他州に徙された。父の死を聞き、間道を奔って喪に赴かんとしたが、一子が去るに忍びず、一つの乳を割いて留めて行った。既に到ると、父は既に葬られており、号踊して父の墓を開いて見ることを請うたが、宗族は許さなかった。再び刀を把って心を刺すと、乃ち開いた。棺を見て、舌で塵を去り、髪を解いて拭った。墓の左に廬を結び、手ずから松柏を植えると、異鳥が来た。後、母が病み、時に食飲せず、女は終日匙や箸を見たことがなかった。亡くなると、血を刺して母の臂に書き記して葬り、墓側に廬して終身を過ごした。

李湍妻某氏

李湍の妻某氏。湍は呉元済の軍に籍を置いていたが、元和年中、自ら抜けて鳥重胤に帰順した。妻は賊に縛られて臠とされて食われ、将に死せんとする時、尚湍に号して言う、「善く鳥仆射に事えよ」と。観る者は嘆き泣いた。重胤はその事を史官に属することを請うた。詔して可とした。

董昌齡母楊氏

董昌齢の母楊氏は、代々蔡州に住んだ。昌齢は呉少陽に仕え、呉元済の時に至って、呉房県令となった。母は常々密かに戒めて言うには、「逆順と成敗は、汝が図るべきことなり」と。昌齢は未だ決せず、郾城に移った。楊氏はまた言うには、「逆賊は天を欺き、神の福さざる所なり。速やかに降るべし、我を累とすることなかれ。汝が忠臣とならば、我は死しても恨みなし」と。時に王師が郾城に迫り、昌齢はついに降った。憲宗は喜び、直ちに郾城県令兼監察御史に任じた。昌齢は謝して言うには、「母の訓なり、臣何の能かあらん」と。帝は嗟嘆した。元済は楊氏を囚え、殺さんとすること屡なりき。蔡州が平定されて母は健在なり。陳許節度使李遜がこれを上表し、北平郡太君に封ぜられた。

王孝女和子

王孝女は徐州の人、字は和子。元和年中、父と兄は共に防秋のため涇州に屯し、吐蕃が辺境を寇すや、共に戦死した。和子は年十七、単身で髪を振り乱し徒跣に蓑を着て涇の屯に至り、日々に物乞いし、二つの喪を護って帰り、郷里に葬り、松柏を植え、髪を切り容姿を損ない、墓の傍に廬を結んだ。節度使王智興がその状を上奏し、詔してその門を旌表した。

段居貞の妻謝氏

段居貞の妻謝氏、字は小娥、洪州章の人。居貞は元より歴陽の侠少、気節を重んじ、娶ること歳余にして、謝氏の父と共に江湖に商いし、共に盗賊に殺された。小娥は江流に赴き、脳を傷つけ足を折るも、人に救われて免れた。転々として物乞いして上元に至り、夢に父と夫が殺した主の名を告げ、その文を離析して十二言とし、持ちて内外の姻族に問うも、誰も解く者なし。隴西の李公佐が密かに占ってその意を得、曰く、「汝が父を殺した者は必ず申蘭、汝が夫を殺した者は必ず申春なり、試みにこれをもって求めよ」と。小娥は泣いて謝した。諸申とは、名だたる盗賊の亡命者なり。小娥は変装して男子となり、雇い人らと雑じる。物色すること歳余、江州にて蘭を得、獨樹浦にて春を得た。蘭と春は従兄弟なり。小娥は蘭の家に雇われて身を寄せ、日に謹信をもって自ら努め、蘭は次第にこれを頼み、贈り物の包みに至るまで委ねざるはなかった。小娥は盗まれた段氏・謝氏の服用の品が元のままにあるのを見、ますます夢の疑いなきを知った。出入りすること二年、その機を窺う。ある日蘭が群盗を尽く集めて酒を振る舞い、蘭と春は酔って、部屋に臥した。小娥は戸を閉ざし、佩刀を抜いて蘭の首を斬り、因って大呼して賊を捕らえよと叫ぶ。郷人が壁を越えて救い、春を擒らえ、贓物千万を得、その徒数十人。小娥は悉くその者どもの名を書き上げて官に上し、皆死罪に処せられ、乃ち初めて自らその状を言上した。刺史張錫はその烈を称え、観察使に上奏し、請いを為さしめず。豫章に還り、人争って聘うも、許さず。髪を剃りて浮屠の道に事え、垢衣に糲飯をもって終身を過ごした。

楊含の妻蕭氏

楊含の妻蕭氏、父の蕭歴は撫州長史となり、任地にて卒し、母もまた亡くなった。蕭氏は年十六、楊含と共に皆美しく淑やかであったが、容姿を損ない、二つの喪を載せて郷里に還る。貧しくして舟の賃銭を支払えず、宣州戦鳥山にて停泊するに、舟子は柩を置き去りにして去った。蕭氏は水辺に廬を結び、婢と共に穴を穿ち棺を納めて墳墓とし、松柏を植え、朝夕に臨み、馴らした鳥・白い兎・菌芝の祥瑞があった。長老らが彼女のために小屋を建て、歳時に粟と絹を進めた。喪が満ちても喪服を脱がず、人々はその行いを尊んだ。ある者が婚姻を請うと、女は言うには、「我は弱くして北に還る能わず、君誠に我がために二つの柩を故郷に葬らば、君子に事えんことを請う」と。ここにおいて、楊含が高安尉を罷めて帰り、彼女に聘い、且つ平素の通りであることを請うた。蕭氏は親が未だ葬られざるを以て、その載せることは許し、采礼は辞した。既に葬りて、乃ち喪服を脱ぎて楊氏に帰ったという。

韋雍の妻蕭氏

韋雍の妻蕭氏。張弘靖が幽州を鎮める時、韋雍を幕府に挙げた。朱克融の乱に、韋雍は劫掠された。蕭氏は難を聞き、韋雍と共に出て行こうとするも、左右の者がこれを阻み、退かず。韋雍が刃に臨む時、蕭氏は呼んで曰く、「我が苟くも生きて益なし、願わくは今日君の前で死なん」と。刑する者がその腕を断つと、乃ち韋雍を殺した。蕭氏の様子は平然としており、見る者は哀嘆した。その夜に死んだ。大和年中、楊志誠がその烈を上表し、詔して蘭陵県君を贈られた。

雍は字は和叔、進士第に及第した。

衡方厚の妻程氏

衡方厚の妻程氏。大和年中、方厚は邕州録事参軍であった。招討使董昌齢が統治に非道あり、方厚は数度事を争う。昌齢は怒り、将に吏に付さんとし、病と称して辞するも免れず、直ちに死を告げ、棺の中に臥した。昌齢はこれを知り、棺を堅く閉ざさせた。方厚は閉じ込められて久しく、爪で棺を掻き、爪が尽きて乃ち絶命した。程氏は共に死ぬことを恐れ、敢えて哭さず。昌齢は平然として疑わず、手厚くその喪を送らせた。程氏は徒歩で闕下に至り、右銀臺門を叩き、自ら耳を切り冤罪を陳述した。御史に下って審理させると事実あり、昌齢は乃ち罪を得た。文宗は詔して程氏を武昌県君に封じ、一子に九品正官の員を与えた。

鄭孝女

鄭孝女は、兗州瑕丘の人。父の神佐は官兵となり、慶州にて戦死した。時に母は既に亡く、また兄弟もなし。女は時に年二十四、直ちに髪を切り喪服を着け、身をもって喪を護り郷里に還り、母と合葬した。墓の下に廬を結び、手ずから松柏を植えて林となす。初め、牙兵李玄慶に許嫁していたが、この時に至り、嫁がざるを告げた。大中年中、兗州節度使蕭俶が朝廷にその状を上奏し、詔してその閭を旌表した。

李廷節の妻崔氏

李廷節の妻崔氏。乾符年中、廷節は郟城尉となった。王仙芝が汝州を攻め、廷節は捕らえられた。賊は崔氏の妹が美しいのを見て、これを妻にしようとしたが、彼女は罵って言った、「私は士人の妻、死ぬも生きるも天命、どうして賊の汚辱を受けられようか」。賊は怒り、その心臓をえぐり出して食らった。

殷保晦の妻封絢

殷保晦の妻封氏は、封敖の孫、名は絢、字は景文。文章と草隸を能くした。保晦は校書郎を歴任した。黄巢が長安に入ると、共に蘭陵里に隠れた。翌日、保晦は逃げた。賊は封氏の容色を気に入り、娶ろうとしたが、固く拒絶された。賊は万の言葉で誘い説いたが、答えなかった。賊は怒り、勃然として言った、「従えば生きられ、そうでなければ、まさに我が剣の脂膏となれ」。封氏は罵って言った、「私は公卿の子、正を守って死ぬは、なお生きるが如し、終に逆賊の手に辱められまい」。遂に害に遇った。保晦が帰ると、左右が言った、「夫人は死にました」。保晦は号泣して絶命した。

竇烈婦

竇烈婦は、河南の人、朝邑令華某の妻。初め、同州で軍が乱れ、節度使李瑭を逐って河中に走らせた。令は望仙里に匿れたが、それが仇家であることを知らなかった。夜半に盗賊が入り、令の首を掴み、殺そうとした。竇氏は泣きながら蔽い防ぎ、苦しんで賊の袂を握り、刀に中るまで解かず、令は脱走して死なずに済み、賊も去った。京兆がこれを聞き、酒・帛・医薬を賜い、死に瀕しながらも癒えた。

李拯の妻盧氏

李拯の妻盧氏は、姿が美しく、文を綴ることができた。拯は字を昌時といい、咸通末に進士に擢でられ、累遷して考功郎中となった。黄巢の乱に、平陽に避難し、僖宗が召して翰林学士とした。帝が宝鶏に出ると、嗣襄王李煴に陥った。煴が敗れ、拯が死ぬと、盧氏は屍に伏して哭いた。王行瑜の兵が彼女を逼ったが、従わず、刃で脅すと、一臂を断たれて死んだ。

山陽の女趙氏

山陽の女趙氏は、父が塩を盗み、死罪に当たった。女は官に訴えて言った、「飢えに迫られて盗んだのであり、死を救うのみ、情に酌むべきところあり、これを酌み得るか。そうでなければ、共に死ぬことを請う」。役人は彼女の義を感じ、父の死罪を減ずることを許した。女は言った、「身は今、官に賜わったもの、願わくは服を毀ち浮屠の法に依って報いん」。節を立てて自ら耳を截ち、父の病に侍り、遂に嫁がず。

周迪の妻朱氏

周迪の妻某氏。迪は商売が巧みで、広陵を往来した。畢師鐸の乱に会い、人は互いに掠め売りして食とした。迪は飢えて将に絶えんとした。妻は言った、「今帰ろうとすれば、両全せず。君の親がおられる、共に死すべからず、願わくは売られて君の行を助けん」。迪は忍びなかったが、妻は固くして肆に詣り、数千銭を得て迪に奉った。迪が城門に至ると、守衛が誰何し、欺いていると疑い、迪と共に肆に行って様子を問うと、妻の首が既に枅に在るのを見た。迪は里余りの遺体を持ち帰って葬った。

延寿の妻王氏

朱延寿の妻王氏は、楊行密の時に当たる。延寿は行密に仕えて寿州刺史となり、行密が臣でないことを憎み、寧国節度使田頵と謀って彼と絶ち唐に帰ろうとした。事が洩れ、行密は計略で延寿を召し、揚州を与えようとした。延寿はこれを信じた。将に行かんとする時、王氏は言った、「今若し揚州を得ば、宿志を成し、興衰は時に在り、家に係るものにあらず。然れども願わくは日に一介を以て験とせん」。許された。行密に殺された時、介は至らなかった。王氏は言った、「事敗れたり」。即ち家僕を部署し、兵器を授けた。扉を閉ざすや否や捕騎が至り、遂に私財を出して民に施し、百の燎を発して牙居を焼き、天を呼んで言った、「我は誓って仇人の辱を受けじ」。火に赴いて死んだ。