新唐書

巻二百〇四 列傳第一百二十九 方技

巻二百〇四 列傳第一百二十九 方技

方技

原文方技

 

およそ推歩、卜、相、醫、巧は、皆技である。技をもって自ら一世に顕れることができた者は、また天に悟るところがあり、積習によって至るものではない。しかし士君子がこれを能くすれば、迂闊でなく、拘泥せず、驕らず、神がかりしない。小人がこれを能くすれば、迂闊で諸々の拘礙に入り、拘泥して大方に通ぜず、驕って衆を誇り、神がかりして人を誣う。故に前聖はこれを以て教えとせず、蓋しこれを惜しむのである。李淳風が太宗に濫殺を諫め、許胤宗が方剤の書を著さず、嚴譔が乾陵に合葬することを諫めたのは、乃ち卓然として時に益ある者であり、茲に珍しむべきである。至って王遠知、張果、姜撫等の詭行と怪を紀すは、また技の下たる者である。

原文凡推步、卜、相、醫、巧,皆技也。能以技自顯地一世,亦悟之天,非積習致然。然士君子能之,則不迂,不泥,不矜,不神;小人能之,則迂而入諸拘礙,泥而弗通大方,矜以誇眾,神以誣人,故前聖不以為教,蓋吝之也。若李淳風諫太宗不濫誅,許胤宗不著方劑書,嚴譔諫不合乾陵,乃卓然有益於時者,茲可珍也。至遠知、果、撫等詭行紀怪,又技之下者焉。

李淳風は、岐州雍の人である。父の播は、隋に仕えて高唐尉となったが、官を棄てて道士となり、黄冠子と号し、論譔をもって自らを顕わした。淳風は幼くして爽秀、群書に通じ、歩天歴算に明るかった。貞観の初め、傅仁均と暦法を争い、議者は多く淳風に附いたので、将仕郎として太史局に直った。渾天儀を制し、前世の失を詆摭し、『法象書』七篇を著して上った。承務郎に抜擢され、太常博士に遷り、太史丞に改め、諸儒と共に書を修し、太史令に遷った。太宗が秘讖を得て、「唐中弱く、女武有りて王に代わる」と言う。淳風に問うたところ、対えて曰く、「その兆既に成り、已に宮中に在り。また四十年にして王となり、王となって唐の子孫を夷し且つ尽くす」と。帝曰く、「我求めこれを殺すは、奈何」と。対えて曰く、「天の命ずる所は、去るべからず。而して王者は果たして死なず、徒らに疑似の戮を以て淫に無辜に及ぼすのみ。且つ陛下の親愛する所、四十年にして老ゆ。老ゆれば則ち仁なり、終わりを受けて姓を易うるも、唐を絶つこと能わず。若しこれを殺せば、復た壮者を生じ、多く殺して逞しうすれば、則ち陛下の子孫遺種無からん」と。帝その言を采り、止めた。

原文李淳風,岐州雍人。父播,仕隋高唐尉,棄官為道士,號黃冠子,以論譔自見。淳風幼爽秀,通群書,明步天歷算。貞觀初,與傅仁均爭歷法,議者多附淳風,故以將仁郎直太史局。制渾得儀,詆摭前世失,著《法象書》七篇上之。擢承務郎,遷太常博士,改太史丞,與諸儒修書,遷為令。太宗得秘讖,言「唐中弱,有女武代王」。以問淳風,對曰:「其兆既成,已在宮中。又四十年而王,王而夷唐子孫且盡。」帝曰:「我求而殺之,奈何?」對曰:「天之所命,不可去也,而王者果不死,徒使疑似之戳淫及無辜。且陛下所親愛,四十年而老,老則仁,雖受終易姓,而不能絕唐。若殺之,復生壯者,多殺而逞,則陛下子孫無遺種矣!」帝采其言,止。

淳風は占候吉兇に於いて、符節の合うが如く、当世の術家は鬼神の相う有りと意し、学習によって致す可きものにあらずとし、終に測る能わなかった。労により昌楽県男に封ぜられた。詔を奉じて算博士梁述、助教王真儒等と『五曹』、『孫子』等の書を是正し、註解を刊定して学官に立てた。『麟徳歴』を撰して『戊寅歴』に代え、候者はこれを推して最も密なりとした。秘閣郎中より復た太史令となり、卒した。撰する所の『典章文物志』、『乙巳占』等の書は世に伝わる。子の該、孫の仙宗、並びに太史令に擢げられた。

原文淳風於占候吉兇,若節契然,當世術家意有鬼神相之,非學習可致,終不能測也。以勞封昌樂縣男。奉詔與算博士梁述、助教王真儒等是正《五曹》、《孫子》等書,刊定註解,立於學官。撰《麟德歷》代《戊寅歷》,候者推最密。自秘閣郎中復為太史令,卒。所撰《典章文物志》、《乙巳占》等書傳於世。子該,孫仙宗,並擢太史令。

唐初に暦を言う者は傅仁均のみ。仁均は、滑州の人、太史令に終わる。

原文唐初言歷者惟傅仁均。仁均,滑州人,終太史令。

甄權は、許州扶溝の人である。母の病を以て、弟の立言と方書を究め習い、遂に高醫となった。隋に仕えて秘書省正字あざなとなったが、疾を称して免れた。魯州刺史の庫狄嵚が風痺を患い弓を引くことができず、権は矢を堋に向けて立たせ、その肩隅を鍼し、一進して曰く、「射るべし」と。果たして言う如くであった。貞観中、権は已に百歳、太宗その舎に幸し、飲食を視、その術に訪い及び、朝散大夫に擢げ、几杖衣服を賜った。尋いで卒す、年一百三歳。撰する所の『脈経』、『針方』、『明堂』等の図は時に伝わる。

原文甄權,許州扶溝人。以母病,與弟立言究習方書,遂為高醫。仕隋為秘書省正字,稱疾免。魯州刺史庫狄嵚風痺不得挽弓,權使彀矢向堋立,鍼其肩隅,一進,曰:「可以射矣。」果如言。貞觀中,權已百歲,太宗幸其舍,視飲食,訪逮其術,擢朝散大夫,賜幾杖衣服。尋卒,年一百三歲。所撰《脈經》、《針方》、《明堂》等圖傳於時。

立言は太常丞に仕えた。杜淹が流腫に苦しみ、帝遣わして視せしめると、曰く、「此を去ること十日、午漏上りて、且つ死す」と。その如くであった。ある道人、必ず腹に懣煩ありて二年を弥ぎ、診て曰く、「腹に蠱有り、誤って髪を食いて然るなり」と。雄黄一剤を餌らせしめ、少選して、一蛇を拇の如く吐く、目無し、之を焼くに髪の気有り、乃ち愈ゆ。

原文立言仕為太常丞。杜淹苦流腫,帝遣視,曰:「去此十日,午漏上,且死。」如之,有道人必腹懣煩彌二歲,診曰:「腹有蠱,誤食發而然。」令餌雄黃一劑,少選,吐一蛇如拇,無目,燒之有發氣,乃愈。

後に醫をもって顕るる者は、清漳の宋俠、義興の許胤宗、洛陽の張文仲・李虔縱、京兆の韋慈藏。俠は朝散大夫、薬蔵監に官す。

原文後以醫顯者,清漳宋俠、義興許胤宗、洛陽張文仲李虔縱、京兆韋慈藏。俠官朝散大夫,藥藏監。

胤宗は陳に仕えて新蔡王外兵参軍となった。王太后が風を病み言う能わず、脈沈み対し難く、醫家は術窮まれりと告げた。胤宗曰く、「餌液進むべからず」と。即ち黄耆・防風を以て湯数十斛こくを煮、床下に置き、気霧の如く、之を熏薄す、是の夕語る。義興太守に擢げられた。武徳初、累進して散騎侍郎となった。関中に骨蒸疾多く、転相染み、得る者は皆死す、胤宗療視すれば必ず愈ゆ。或いは其の書を著して後世に貽すを勧むる者有り、答えて曰く、「醫はただ意のみ、思慮精なれば則ち之を得る。脈の候は幽にして明らかにし難く、吾が意の解する所、口能く宣ぶる莫し。古の上醫は、要は脈を視るに在り、病乃ち識る可し。病と薬値うれば、ただ一物を用いて之を攻め、気純にして愈ゆること速し。今の人は脈を為すを善くせず、情を以て病を度り、物を多くして以て功有るを幸いとす。譬えば兔を知らずして原野を広く絡め、一人の之を得るを冀うが如し、術亦疏なり。一薬偶々得たりとも、他の味相制し、専力する能わず、此れ難愈の験なり。脈の妙なる処は伝う可からず、虚しく方剤を著すも、終に世に益無し。此れ吾が書を著さざる所以なり」と。卒す、年七十余。

原文胤宗仕陳為新蔡王外兵參軍。王太后病風不能言,脈沈難對,醫家告術窮。胤宗曰:「餌液不可進。」即以黃耆、防風煮湯數十斛,置床下,氣如霧,熏薄之,是夕語。擢義興太守。武德初,累進散騎侍郎。關中多骨蒸疾,轉相染,得者皆死,胤宗療視必愈。或勸其著書貽後世者,答曰:「醫特意耳,思慮精則得之。脈之候幽而難明,吾意所解,口莫能宣也。古之上醫,要在視脈,病乃可識。病與藥值,唯用一物攻之,氣純而愈速。今之人不善為脈,以情度病,多其物以幸有功,譬獵不知兔,廣絡原野,冀一人獲之,術亦疏矣。一藥偶得,它味相制,弗能專力,此難愈之驗也。脈之妙處不可傳,虛著方劑,終無益於世,此吾所以不著書也。」卒年七十餘。

文仲は武后の時に仕え、尚薬奉禦に至った。特進蘇良嗣方朝せんとし、疾作して、廷中に仆る。文仲診て曰く、「憂憤にして成る。若し脅痛む者は、殆ど救う可からず」と。頃くして脅痛むと告ぐ。又曰く、「心に及べば則ち貽す」と。俄かに心痛みて死す。文仲、風と気を論ずるは尤も精し。後に諸の方を言う者を集めて共に書を著せしめ、詔して王方慶に之を監せしむ。文仲曰く、「風の状一百二十有四、気の状八十、時に以て治めざれば、則ち死之に及ぶ。ただ頭風と上気・足気は、薬常に禦う可し。病風の人、春秋の末月、洞利せしむる可く、乃ち困劇せず。自余は発すれば則ち治め、時に以て消息すべし」と。乃ち『四時軽重術』を著す、凡そ十八種、之を上る。

原文文仲仕武後時,至尚藥奉禦。特進蘇良嗣方朝,疾作,仆廷中。文仲診曰:「憂憤而成,若脅痛者,殆未可救。」頃告脅痛。又曰:「及心則貽。」俄心痛而死。文仲論風與氣尤精。後集諸言方者與共著書,詔王方慶監之。文仲曰:「風狀百二十四,氣狀八十,治不以時,則死及之。惟頭風與上氣、足氣,藥可常禦。病風之人,春秋末月,可使洞利,乃不困劇,自餘須發則治,以時消息。」乃著《四時輕重術》凡十八種上之。

虔縱は侍禦醫に官し、慈藏は光祿卿に官す。

原文虔縱官侍禦醫,慈藏光祿卿。

袁天綱は、益州成都の人である。隋に仕えて鹽官令となった。洛陽に在り、杜淹・王珪・韋挺と遊ぶ。天綱、淹に謂いて曰く、「公は蘭臺・学堂全く且つ博し、将に文章を以て顕わるべし」と。珪に謂いて「法令成り、天地相臨み、十年ならずして官五品」と。挺に謂いて「面虎の如く、将に武を以て官に処るべし」と。「然れども三君久しく皆譴を得ん、吾且く之を見ん」と。淹は侍御史として天策に入り学士となり、珪は太子中允、挺は隠太子に善くし、左衛率に薦められる。武徳中、俱に事に坐して雋州に流され、天綱に見ゆ。曰く、「公等終に且つ貴し。杜は位三品、寿を言う難し。王・韋も亦三品、杜に後れて寿之に過ぐ。但だ晩節皆困す」と。竇軌を見て曰く、「君は伏犀玉枕に貫き、輔角完く起つ。十年にして且つ顕れ、功を立つるは其れ梁・益の間か」と。軌後益州行臺仆射となり、天綱復た曰く、「赤脈瞳を幹し、方に語りて浮赤大宅に入る。公将と為れば必ず多く殺す、願わくば自ら戒めよ」と。軌果たして事に坐して召見せらる。天綱曰く、「公憂うる毋れ、右輔澤みて動く、久しからずして必ず還る」と。果たして還りて都督となる。

原文袁天綱,益州成都人。仕隋為鹽官令。仕隨為鹽官令。在洛陽,與杜淹、王珪、韋挺遊,天綱謂淹曰:「公蘭臺、學堂全且博,將以文章顯。」謂珪「法令成,天地相臨,不十年官五品」;謂挺「面如虎,當以武處官」;「然三君久皆得譴,吾且見之」。淹以侍御史入天策為學士,珪太子中允,挺善隱太子,薦為左衛率。武德中,俱以事流雋州,見天綱,曰:「公等終且貴。杜位三品,難與言壽,王、韋亦三品,後於杜而壽過之,但晚節皆困。」見竇軌曰:「君伏犀貫玉枕,輔角完起,十年且顯,立功其在梁、益間邪!」軌後為益州行臺仆射,天綱復曰:「赤脈幹瞳,方語而浮赤入大宅,公為將必多殺,願自戒。」軌果坐事見召。天綱曰:「公毋憂,右輔澤而動,不久必還。」果還為都督。

貞観の初め、太宗が召し出して言うには、「古に君平あり、朕今爾を得る、いかん」と。対えて曰く、「彼は時に逢わず、臣は固より之に勝つ」と。武后の幼き時、天綱その母を見て曰く、「夫人は法に貴子を生ず」と。乃ち二子元慶・元爽を見て曰く、「官三品、家を保つ主なり」と。韓国夫人を見て曰く、「此の女は貴しと雖も夫に利あらず」と。后最も幼く、姆抱きて以て見せ、男と偽りて示す、天綱その歩みと目を視て、驚きて曰く、「龍瞳鳳頸、極めて貴き験なり。若し女と為らば、当に天子と作るべし」と。帝九成宮に在り、岑文本を見よと命ずれば、曰く、「学堂瑩夷、眉目を過ぐ、故に文章天下に振るう。首生骨未だ成らず、前にして視れば、法三品。肉骨に称せず、寿の兆に非ず」と。張行成・馬周を見れば、曰く、「馬君は伏犀脳を貫き、背に負う有るが若し、貴き験なり。近古君臣相遇うること公に及ぶ者未だ有らず。然れども面沢赤くして耳根無く、後骨隆せず、寿長からず。張は晩に官を得、終に位は宰相」と。その術精妙なること此の如し。高士廉曰く、「君終に何の官と作る」と。謝して曰く、「僕夏四月に及びて、数既に尽きん」と。期の如く火山令にて卒す。

原文貞觀初,太宗召見曰:「古有君平,朕今得爾,何如?」對曰:「彼不逢時,臣固勝之。」武後之幼,天綱見其母曰:「夫人法生貴子。」乃見二子元慶、元爽,曰:「官三品,保家主也。」見韓國夫人,曰:「此女貴而不利夫。」後最幼,姆抱以見,紿以男,天綱視其步與目,驚曰:「龍瞳鳳頸,極貴驗也;若為女,當作天子。」帝在九成宮,令視岑文本,曰:「學堂瑩夷,眉過目,故文章振天下。首生骨未成,自前而視,法三品。肉不稱骨,非壽兆也。」張行成、馬周見,曰:「馬君伏犀貫腦,背若有負,貴驗也。近古君臣相遇未有及公者。然面澤赤而耳無根,後骨不隆,壽不長也。張晚得官,終位宰相。」其術精類如此。高士廉曰:「君終作何官?」謝曰:「仆及夏四月,數既盡。」如期以火山令卒。

子客師も亦その術を伝え、廩犧令と為る。高宗一鼠を奩の中に置き、術家に射させしむるに、皆鼠と曰う。客師独り曰く、「強ち実に鼠なれど、然れども入れば則ち一、出れば則ち四」と。発けば、鼠三子を生めり。嘗て江を渡らんとし、舟を叩きて還る、左右故を請うれば、曰く、「舟中の人の鼻下の気皆墨なり、以て済うべからず」と。俄かに一男子有り、跛にして負う、直ちに舟に就く、客師曰く、「貴人有り、吾は済うべし」と。江中風忽ち起こり、幾くんか覆えんとして免る。跛男子は乃ち婁師德なり。

原文子客師,亦傳其術,為廩犧令。高宗置一鼠於奩,令術家射,皆曰鼠。客師獨曰:「強實鼠,然入則一,出則四。」發之,鼠生三子。嘗度江,叩舟而還,左右請故,曰:「舟中人鼻下氣皆墨,不可以濟。」俄有一男子,跛而負,直就舟,客師曰:「貴人在,吾可以濟。」江中風忽起,幾覆而免。跛男子乃婁師德也。

時に長社の人張憬蔵有り、天綱と匹敵する術を持つ。太子詹事蔣儼問う所有り、答えて曰く、「公の厄は三尺の土の下に在り、六年を尽くして貴し、六十にして蒲州刺史の位に至り、禄無からん」と。儼高麗に使いし時、莫離支に囚われ、土室に居ること六年にして還る。蒲州に為るに及び、歳期の如く、則ち掾史・妻子を召し、当に死すべしと告ぐ、俄かに詔して致仕を聴す。劉仁軌郷人靖賢と占いを請う、憬蔵答えて曰く、「劉公当に五品にして譴せられ、終に位は人臣に冠たる」と。賢に謂いて曰く、「君は法に客死す」と。仁軌は尚書僕射と為る。賢猥りに曰く、「我が三子皆田宅に富み、吾何ぞ客死せん」と。俄かに三子を喪い、田宅を尽く鬻ぎ、友の家に寄りて死す。魏元忠尚だ少なく、往きて憬蔵を見、之を問う、久しく答えず、元忠怒りて曰く、「窮通は命有り、何ぞ君に関わるや」と。衣を払いて去る。憬蔵遽かに起ちて曰く、「君の相は怒る時に在り、位必ず卿相」と。姚崇・李迥秀・杜景佺往きて之に従い遊ぶ、憬蔵曰く、「三人は皆宰相なれど、然れども姚最も貴し」と。郎中裴珪の妻趙之を見る、憬蔵曰く、「夫人の目修緩なり、法に曰く『豕視淫』、又曰く『目に四白有れば、五夫宅を守る』と、夫人将に罪を得ん」と。俄かに姦に坐し、掖廷に没入せらる。裴光廷国を当つる時、憬蔵紙に大いに「臺」の字を署して之に投ず、光廷曰く、「吾既に臺司たり、尚何事か有らん」と。後三日、台州刺史に貶せらる。

原文時有長社人張憬藏,持與天綱埒。太子詹事蔣儼有所問,答曰:「公厄在三尺土下,盡六年而貴,六十位蒲州刺史,無有祿矣。」儼使高麗,為莫離支所囚,居土室六年還。及為蒲州,歲如期,則召掾史、妻子,告當死,俄詔聽致仕。劉仁軌與鄉人靖賢請占,憬藏答曰:「劉公當五品而譴,終位冠人臣。」謂賢曰:「君法客死。」仁軌為尚書仆射。賢猥曰:「我三子皆富田宅,吾何客死?」俄喪三子,盡鬻田宅,寄死友家。魏元忠尚少,往見憬藏,問之,久不答,元忠怒曰:「窮通有命,何預君邪?」拂衣去。憬藏遽起曰:「君之相在怒時,位必卿相。」姚崇、李迥秀、杜景佺往從之遊,憬藏曰:「三人者皆宰相,然姚最貴。」郎中裴珪妻趙見之,憬藏曰:「夫人目修緩,法曰『豕視淫』,又曰『目有四白,五夫守宅』,夫人且得罪。」俄坐奸,沒入掖廷。裴光廷當國,憬藏以紙大署「臺」字投之,光廷曰:「吾既臺司矣,尚何事?」後三日,貶臺州刺史。

隋末又た高唐の人乙弗弘禮有り、煬帝藩に居る時、召し見る、弘禮賀して曰く、「大王は万乗の主と為り、戒むる所は徳のみ」と。即位に及び、諸術家を悉く詔して坊に処せしめ、弘礼に総摂せしむ。海内漸く乱る、帝曰く、「而が昔言う所朕に既に験あれど、然れども終に当に奈何せん」と。弘礼逡巡す、帝之を知り、乃ち曰く、「言わざれば、将に死せん」と。弘礼曰く、「臣観るに人臣の相陛下に類する者は長からず、然れども聖人は相せず、故に臣知ること能わず」と。是より有司に監視せしめ、外と語ることを得ざらしむ。

原文隋末又有高唐人乙弗弘禮,當煬帝居藩,召見,弘禮賀曰:「大王為萬乘主,所戒在德而已。」及即位,悉詔諸術家坊處之,使弘禮總攝。海內浸亂,帝曰:「而昔言朕既驗,然終當奈何?」弘禮逡巡,帝知之,乃曰:「不言,且死!」弘禮曰:「臣觀人臣相與陛下類者不長,然聖人不相,故臣不能知。」由是敕有司監視,毋得與外語。

薛大鼎事に坐して奴に没せられ、貞観の時に及び、弘礼に請う有り、答えて曰く、「君は奴なり、何事をか欲せん」と。衣を解きて之を見よと請う、弘礼腰より下を指して曰く、「位は方嶽」と。

原文薛大鼎坐事沒為奴,及貞觀時,有請於弘禮,答曰:「君,奴也,欲何事?」請解衣視之,弘禮指腰而下曰:「位方嶽。」

玄宗の時に金梁鳳なる者有り、頗る人の貴賤夭寿を言う。裴冕河西留後と為る時、梁鳳輒ち言う、「半歳ならずして兵起こり、君当に御史中丞より宰相を除かるべし」と。又言う、「一日は雒に向かい、一日は蜀に向かい、一日は朔方に向かう、此時公国を当つべし」と。冕その言を妖しとし、之を絶つ。俄かに禄山反す、冕御史中丞として召され、因りて三日のことを問う、答えて曰く、「雒の日は即ち滅び、蜀の日は久しからず、朔方の日は愈明らかなり」と。粛宗即位し、而して冕遂に相と為り、帝に薦む、都水使者に拝す。梁鳳呂諲に謂いて曰く、「君将に政を輔けんとす、須らく大いに怖るる有りて乃ち得べし」と。諲駅史を責む、之を、史突如として射て諲に中つ、両矢風に中り、走りて免る、明年政事を知る。李揆・盧允服を毀ち偽りて謁す、梁鳳許さず、二人情を以て語る、梁鳳曰く、「李は自ら舎人より歳を閲て相と為り、盧は郎官を過ぎず」と。揆既に相と為り、允を吏部郎中に擢ぐ。

原文玄宗時有金梁鳳者,頗言人貴賤夭壽。裴冕為河西留後,梁鳳輒言:「不半歲兵起,君當以御史中丞除宰相。」又言:「一日向雒,一日向蜀,一日向朔方,此時公當國。」冕妖其言,絕之。俄而祿山反,冕以御史中丞召,因問三日,答曰:「雒日即滅,蜀日不能久,朔方日愈明。」肅宗即位,而冕遂相,薦於帝,拜都水使者。梁鳳謂呂諲曰:「君且輔政,須大怖乃得。」諲責驛史,之,史突入射諲,兩矢風中,走而免,明年知政事。李揆、盧允毀服紿謁,梁鳳不許,二人語以情,梁鳳曰:「李自舍人閱歲而相,盧不過郎官。」揆已相,擢允吏部郎中。

王遠知、系は本より瑯邪、後に揚州の人と為る。父曇選、陳の揚州刺史と為る。母昼寝し、夢みに鳳その身に集まる、因りて娠有り。浮屠宝誌曇選に謂いて曰く、「子を生めば当に世の方士と為るべし」と。

原文王遠知,系本瑯邪,後為揚州人。父曇選,為陳揚州刺史。母晝寢,夢鳳集其身,因有娠。浮屠寶誌謂曇選曰:「生子當為世方士。」

遠知少しく警敏、多く書伝に通じ、陶弘景に事え、その術を伝え、道士と為る。又た臧兢に従い遊ぶ。陳の後主その名を聞き、召し入れて重陽殿にす、弁論超詣、甚だ咨挹せらる。隋の煬帝晋王と為り、揚州を鎮むる時、人を介して以て邀え見んとす、少選にして髪白く、俄かに復た鬢す、帝懼れ、之を遣わす。後に涿郡に幸す、詔して遠知をして臨朔宮に見えしむ、帝弟子の礼を執り、仙事を咨質し、詔して京師に玉清玄壇を作り以て之を処す。揚州に幸するに及び、遠知帝に京国を遠ざくべからずと謂う、省みず。

原文遠知少警敏,多通書傳,事陶弘景,傳其術,為道士。又從臧兢遊。陳後主聞其名,召入重陽殿,辯論超詣,甚見咨挹。隋煬帝為晉王,鎮揚州,使人介以邀見,少選發白,俄復鬢,帝懼,遣之。後幸涿郡,詔遠知見臨朔宮,帝執弟子禮,咨質仙事,詔京師作玉清玄壇以處之。及幸揚州,遠知謂帝不宜遠京國,不省。

高祖尚だ微なりし時、遠知密かに天命を語る。武徳中、王世充を平ぐる時、秦王房玄齢と微服して之を過ぐ、遠知未だ識らず、迎えて語りて曰く、「中に聖人有り、王に非ずや」と。乃ち宝を以て念ず。遠知曰く、「方に太平の天子と為らんとす、願わくは自ら愛せよ」と。太宗立ち、之を官せんと欲す、苦しく辞す。貞観九年、詔して潤州に即ち茆山を観と為し、俾ち之に居らしむ。璽詔して曰く、「奏する所を省るに、旧山に還らんことを願う、已に別詔して雅素に違わず、並びに祠観を立てしむるを敕し、以て曩の懐を伸ぶ。未だ知らず先生早晚江外に至り、祠舍何れの時に当りて功を就くべきや。太史令薛頤等をして往きて朕が意を宣べしむ」と。

原文高祖尚微,遠知密語天命。武德中,平王世充,秦王與房玄齡微服過之,遠知未識,迎語曰:「中有聖人,非王乎?」乃念以寶。遠知曰:「方為太平天子,願自愛。」太宗立,欲官之,苦辭。貞觀九年,詔潤州即茆山為觀,俾居之。璽詔曰:「省所奏,願還舊山,已別詔不違雅素,並敕立祠觀,以伸曩懷。未知先生早晚至江外,祠舍何當就功?令太史令薛頤等往宣朕意。」

遠知多く怪言有り、その弟子潘師正に詫えて曰く、「吾少くして累有り、上天するを得ず、今少室伯を署す、吾将に行かん」と。即ち沐浴し、冠衣を加え、寝る者の如く、遂に卒す。或いは言う寿蓋し百二十六歳と。遺命して子紹業に曰く、「爾年六十五にして天子を見、七十にして女君を見ん」と。調露中、紹業その言を表す、高宗召し見、嗟賞し、遠知に太中大夫を追贈し、謚して升真先生と曰う。武后の時復た召し見る、皆その年の如し。又た金紫光禄大夫を贈る。天授中改めて謚して升玄と曰う。

原文遠知多怪言,詫其弟子潘師正曰:「吾少也有累,不得上天,今署少室伯,吾將行。」即沐浴,加冠衣,若寢者,遂卒。或言壽蓋百二十六歲雲。遺命子紹業曰:「爾年六十五見天子,七十見女君。」調露中,紹業表其言,高宗召見,嗟賞,追贈遠知太中大夫,謚升真先生。武後時復召見,皆如其年。又贈金紫光祿大夫。天授中改謚升玄。

薛頤は滑州の人である。隋の大業の時に道士となり、天文・暦法に長じていた。武徳初年、秦王府に召し出されて直され、密かに言うには、「徳星が秦の分野に留まっております。王は天下に帝たるべきです」と。秦王は彼を太史丞に上表し、次第に太史令に昇進した。貞観の時、太宗が泰山に封禅を行おうとしたところ、彗星すいせいが現れた。薛頤は言うには、「臣が天意を推し量りますに、陛下は未だ東行すべきではありません」と。またちょうど大臣たちが上奏して反対したため、帝は遂に取りやめた。固く道士となることを請うたので、帝は九〓山に観を築き、紫府と号し、薛頤を太中大夫に拝してそこに住まわせた。すぐに祠を建てて清臺とし、星辰の運行と災祥を観測して報告させたが、その上奏は太史李淳風のものと一致した。数年後に卒した。

原文薛頤者,滑州人。當隋大業時為道士,善天步律歷。武德初,追直秦王府,密語曰:「德星舍秦分,王當帝天下。」王表為太史丞,稍遷令。貞觀時,太宗將封泰山,彗星見,賾因言:「臣商天意,陛下未可東。」亦會大臣上議,帝遂罷。固丐為道士,帝為築觀九〓山,號曰:「紫府」,拜賾太中大夫,往居之。即祠建清臺,候辰次災祥以聞,所上與太史李淳風合。數歲卒。

高宗の時、また葉法善という者がいた。括州括蒼の人である。代々道士を務め、陰陽・占卜・符呪の術を伝え、怪異や鬼を鎮圧し退けることができた。帝はこれを聞き、京師に召し出そうとしたが、官職を与えて寵遇しようとしても拝受しなかった。内道場に留め置き、礼遇と賜物は特に手厚かった。当時帝は方士をことごとく召し集めて黄金を煉り丹薬を製していたが、法善は上言して、「丹薬は急に完成するものではなく、ただ財と日時を浪費するのみです。真偽を検討させてください」と言った。帝はこれを許し、凡そ百余人を全て罷免させた。かつて東都の凌空祠で壇を築いて祭祀を行った時、都人の多くが見物に来たが、数十人が自ら火中に駆け込んだ。人々は大いに驚き、救い出して事なきを得た。法善は笑って言うには、「これは物の怪に憑かれたのである。我が法をもってこれを制したまでだ」と。尋ねてみるとその通りで、病もまた皆癒えた。その詭幻な術はこのような類いであった。

原文高宗時,又有葉法善者,括州括蒼人。世為道士,傳陰陽、占繇、符架之術,能厭劾怪鬼。帝聞之,召詣京師,欲寵以官,不拜。留內齋場,禮賜殊縟。時帝悉召方士,化黃金治丹,法善上言:「丹不可遽就,徒費財與日,請核真偽。」帝許之,凡百餘人皆罷。嘗在東都淩空祠為壇以祭,都人悉往觀,有數十人自奔火中,眾大驚,救而免。法善笑曰:「此為魅所馮,吾以法攝之耳。」問而信,病亦皆已。其譎幻類若此。

高宗・中宗の二朝に五十年間仕え、山中を往来し、時折禁中に召し入れられた。もとより仏法を好まず、常に力を込めて誹謗した。議論する者はその好みを浅はかだとしたが、その術は高く、遂には測り知ることができなかった。睿宗が立つと、陰ながら助力したと言う者もいた。先天年中、鴻臚卿に拝され、員外置とされ、越国公に封ぜられ、景龍観に住まわせられ、その父は追贈されて歙州刺史とされ、その寵遇は当世を照らした。開元八年に卒した。ある説では隋の大業丙子年に生まれ、庚子年に死んだという。およそ百七歳であったらしい。玄宗は詔を下して褒め悼み、越州都督を追贈した。

原文歷高、中二宗朝五十年,往來山中,時時召入禁內。雅不喜浮屠法,常力詆毀,議者淺其好習,然發衛高,卒叵之測。睿宗立,或言陰有助力。無天中,拜鴻廬卿,員外置,封越國公,舍景龍觀,追贈其父歙州刺史,寵映當世。開元八年卒。或言生隋大業丙子,死庚子,蓋百七歲雲。玄宗下詔褒悼,贈越州都督。

明崇儼は洛州偃師の人で、梁の国子祭酒明山賓の五世の孫である。幼少時に父の明恪が安喜県令に任ぜられて従い、鬼神を召喚する術に長じた役人がいたので、その術を全て伝授された。乾封初年、嶽牧挙に応じて、黄安県丞に任ぜられ、奇技をもって自ら名を成した。高宗が召し出して会うと、大いに喜び、冀王府文学に抜擢した。試みに地下室を作り、宮人にそこで音楽を奏させ、崇儼を召して問うた。「何の兆しか? 我がために止めよ」と。崇儼は桃の木に二つの符を書き、室の上に刺し立てると、音楽は即座に止んだ。そして言うには、「さきほど怪しい龍を見て、怖れて止めたのです」と。真夏の盛りに、帝が雪を思い慕うと、崇儼は座ったまましばらくして雪を取って献上し、自ら陰山へ行って取ってきたと言った。四月、帝が瓜を思い出すと、崇儼は百銭を求め、たちまち瓜を献上して言うには、「緱氏の老人の園で得ました」と。帝が老人を召して訳を尋ねると、老人は言うには、「一つの瓜を埋めたが失くしてしまい、土の中から百銭を得ました」と。

原文明崇儼,洛州偃師人,梁國子祭酒山賓五世孫。少隨父恪令安喜,吏有能召鬼神者,盡傳其術。乾封初,應嶽牧舉,調黃安丞,以奇技自名。高宗召見,甚悅,擢冀王府文學。試為窟室,使宮人奏樂其中,召崇儼問:「何祥邪?為我止之。」崇儼書桃木為二符,剚室上,樂即止,曰:「向見怪龍,怖而止。」盛夏,帝思雪,崇儼坐頃取以進,自雲往陰山取之。四月,帝憶瓜,崇儼索百錢,須臾以瓜獻,曰:「得之緱氏老人圃中。」帝召老人問故,曰:「埋一瓜失之,土中得百錢。」

累進して正諫大夫となった。帝は彼を閣中に入れて供奉させ、謁見する度に時政を述べたが、多くは鬼神のことを託して言った。ついには武后のために厭勝の事を行い、また章懐太子に徳がないと言った。儀鳳四年、東都で盗賊に刺殺された。好事な者は言うには、「崇儼は鬼を使役して労苦が多く、鬼に殺されたのだ」と。しかし太后は太子が刺客を遣わして殺したと疑い、故に侍中を追贈し、諡して莊とし、子の明珪を秘書郎に抜擢した。御史中丞崔謐らに命じて雑治させ、無実の罪を認めさせられた者は甚だ多かった。太子が廃されると、死の真相は明らかになった。

原文累遷正諫大夫。帝令入閣供奉,每謁見,陳時政,多托鬼神為言。至為武後作厭勝事,又言章懷太子不德。儀鳳四年,為盜所刺於東都,好事者為言:「崇儼役鬼勞苦,為鬼所殺。」而太后疑太子使客殺之,故贈侍中,謚曰莊,擢子珪為秘書郎。命御史中丞崔謐等雜治,誣服者甚眾。及太子廢,死狀乃明。

尚献甫は衛州汲県の人で、占候に長じていた。武后が召し出して会うと、道士から太史令に抜擢されたが、辞して言うには、「臣は頑なで野卑であり、官長に仕えることはできません」と。后は太史局を渾儀監と改め、献甫をその令とし、秘書省に隷属させなかった。しばしば災異について問い、また上陽宮で術数家を集めて『方域』などの篇を撰述させた。長安二年、熒惑(火星)が五諸侯星を犯した。献甫は自ら申し述べて、「五諸侯は太史の星位です。臣の命は納音で金に属します。火は金の仇です。臣はまさに死ぬでしょう」と言った。后は言うには、「朕が卿のためにこれを鎮めよう」と。水衡都尉に転任させて言うには、「水は金を生ず。卿は憂うるな」と。秋に至って卒した。后は嘆き怪しみ、また渾儀監を太史局に戻したという。

原文尚獻甫,衛州汲人,善占候。武後召見,由道士擢太史令,辭曰:「臣梗野,不可以事官長。」後改太史局為渾儀監,以獻甫為令,不隸秘書省。數問災異,又於上陽宮集術家撰《方域》等篇。長安二年,熒惑犯五諸侯,獻甫自陳:「五諸侯,太史位;臣命納音,金也;火,金之仇,臣且死。」後曰:「朕為卿厭之。」迂水衡都尉,謂曰:「水生金,卿無憂。」至秋卒,後嗟異,復以渾儀監為太史局云。

厳善思は名を譔といい、同州朝邑の人で、字をもって行われる。父の厳延は、河東の裴玄証・隴西の李貞蔡静と共に皆儒術に通じ、図讖としんに明るかった。善思は父の業を伝え、褚遂良・上官儀らはその才能を奇とした。高宗が泰山に封禅する時、銷聲幽藪科に挙げられて及第し、襄陽尉に任ぜられた。親の喪に服し、墓の傍らに廬を結び、そこで十年間隠居した。武后の時に監察御史に抜擢され、右拾遺内供奉を兼ね、しばしば天下の事を言上した。ちょうど酷吏が大獄をでっち上げていた時、善思を詳審使として、八百余人を平反して生き長らえさせ、千余姓を赦免した。長寿年中、司刑寺で囚人を審理し、疑わしく事実でない者百人を放免した。来俊臣らはこれを憎み、罪を着せて交趾に流したが、五年後に帰還を許された。この時李淳風が死に、占候の家は皆効験がなかったので、詔して善思を著作佐郎兼太史令とした。聖暦二年、熒惑が輿鬼星に入った。后がその占いを問うと、答えて言うには、「大臣がこれに当たるでしょう」と。この年、王及善が卒した。長安年中、熒惑が月に入り、鎮星が天関星を犯した。善思は言うには、「法によれば乱臣が罪に伏すべきですが、下が上を謀る象があります」と。一年余りして、張柬之らが兵を起こして二張を誅殺した。給事中に遷った。

原文嚴善思名譔,同州朝邑人,以字行。父延,與河東裴玄證、隴西李貞蔡靜皆通儒術,該曉圖識。善思傳延業,褚遂良、上官儀等奇其能。高宗封泰山,舉銷聲幽藪科及第,調襄陽尉。居親喪,廬墓,因隱居十年。武後時擢監察御史,兼右拾遺內供奉,數言天下事。方酷吏構大獄,以善思為詳審使,平活八百餘人,原千餘姓。長壽中,按囚司刑寺,罷疑不實者百人。來俊臣等疾之,誣以罪,適交趾,五歲得還。是時李淳風死,候家皆不效,乃詔善思以著作佐郎兼太史令。聖歷二年,熒惑入輿鬼,後問其占,對曰:「大臣當之。」是年王及善卒。長安中,熒惑入月,鎮犯天關,善思曰:「法當亂臣伏罪,而有下謀上之象。」歲餘,張柬之等起兵誅二張。遷給事中。

武后が崩御し、乾陵に合葬しようとした時、善思が建言した。「尊き者が先に葬られれば、卑き者は入ることができません。今、乾陵を開くのは、卑き者をもって尊き者を動かすことで、術家の忌むところです。かつ玄関の石門は、金属で隙間を固めており、攻め鑿らなければ開きません。神道は幽静であり、多く驚かし汚すことになります。もし別に隧道を穿ってその中に入るならば、それは往昔葬った時の神位が前もって定まっていることであり、さらに害があります。かつて乾陵を営んだ時、国に大難があり、易姓建国して二十余年になります。今またこれを営むならば、難が再び生じるでしょう。合葬は古制ではありません。況んや事に不安があれば、どうして従うべき根拠足りましょうか。漢代には皇后は別に陵墓を築きました。魏・晋から合葬が始まりました。漢は祭祀を四百年積み重ね、魏・晋の国祚は概して長くありません。これもその験です。今もしさらに吉地を選び、乾陵の近くにし、従葬の義を取るならば、神に知る所あれば、通ぜざる所はなく、もし知らなければ、合葬しても何の益がありましょうか。山川の精気は、上って列星となります。葬るにその所を得れば、神は安らぎて後嗣は栄え、その宜しきを失えば、神は危うくて後嗣は損なわれます。願わくは私愛を割き、社稷を長久ならしめられんことを」。中宗は聞き入れなかった。

原文後崩,將合葬乾陵,善思建言:「尊者先葬,卑者不得入。今啟乾陵,是以卑動尊,術家所忌。且玄關石門,冶金錮隙,非攻鑿不能開,神道幽靜,多所驚黷。若別攻隧以入其中,即往昔葬時神位前定,更且有害。曩營乾陵,國有大難,易姓建國二十餘年,今又營之,難且復生。合葬非古也,況事有不安,豈足循據?漢世皇后別起陵墓,魏、晉始合葬。漢積祀四百,魏、晉祚率不長,亦其驗也。今若更擇吉地,附近乾陵,取從葬之義。使神有知,無所不通;若其無知,合亦何益?山川精氣,上為列星。葬得其所,則神安而後嗣昌;失其宜,則神危而後嗣損。願割私愛,使社稷長久。」中宗不納。

神龍年中、武后の喪が公除となった。太常が大いに楽を習い、郊廟に供えることを請うたが、詔はまだ許さなかった。善思が奏上して言うには、「楽は気の化したものであり、天地を感応させ五行を調和させるものです。漢・魏の喪礼は、日をもって月に代えました。およそ三年礼を行わなければ礼は必ず壊れ、三年楽を行わなければ楽は必ず崩れます。礼は陰、楽は陽です。楽が崩れれば陽は伏し、礼が廃れば陰は過ちを生じます。故に時宜に適うように変えることが、孝道の大なるものです。人神を安んずるは公、哀戚を飲み込むは私です。王者は私をもって公を害しません。どうか太常の奏の通りにされるよう請います」。帝はこれに従った。礼部侍郎に遷った。上表して皇后が政を擅にするのは社稷の憂いであるとし、汝州刺史を求めた。かつて姚崇に語って言うには、「韋氏の禍いまさに塗炭の苦しみとなろう。相王の居所に華蓋紫気あり、必ず九五の位に就かれるでしょう。公はよくこれを護られよ」。睿宗が立つと、姚崇がこの言葉を聞かせたので、召し出して右散騎常侍に拝した。

原文神龍中,武後喪公除,太常請大習樂,供郊廟,詔未許。善思奏曰:「樂者氣化,所以感天地、調五行。漢、魏喪禮,以日易月,蓋三年不為禮,禮必壞,三年不為樂,樂必崩。禮,陰也;樂,陽也。樂崩陽伏,禮廢陰愆,故變以適時,孝道之大。安人神,公也;茹哀戚,私也。王者不以私害公,請如太常奏。」帝從之。遷禮部侍郎。表皇后擅政,為社稷憂,求汝州刺史。嘗語姚崇曰:「韋氏禍且塗地,相王所居有華蓋紫氣,必位九五,公善護之。」及睿宗立,崇以語聞,召拜右散騎常侍。

初めに、譙王重福が均州に移された時、汝州を通過し、善思は刺史であった。及んで謀反を企て、偽って礼部尚書に任じられた。重福が敗れると、関通の罪に坐して死罪と論ぜられたが、吏部尚書宋璟・戸部郎中李邕がその罪を軽く見なし、給事中韓思復が固く請うたので、静州に流された。始め、善思が御史であった時、中書舍人劉允済が酷吏に陥れられ、死に瀕していたが、善思は力を尽くしてその冤罪を訟え、免れることができた。戸部尚書王本立はこれを見て、曰く「祁奚が叔向を救う故事、厳公(善思)にこれあり」と。後に允済に会ったが、語に一度もそのことを及ぼさなかった。思復が善思を解き放った時も、自らを徳とせず、時に長者の報いと称された。後に赦しに遇って還る。開元十六年に卒す。子の向は、乾元中に鳳翔尹となり、三世ともに年八十五と云う。

原文初,譙王重福徙均州,過汝,善思為刺史。及謀反,偽除禮部尚書。重福敗,坐關通論死,吏部尚書宋璟、戶部郎中李邕薄其罪,給事中韓思復固請,乃流靜州。始,善思為御史,中書舍人劉允濟為酷吏所陷,且死,善思力訟其冤,得免。戶部尚書王本立見之,曰:「祁奚之救叔向,嚴公有之。」後見允濟,語未嘗及之。思復之解善思也,亦不自德,時稱長者之報。後遇赦還。開元十六年卒。子向,乾元中為鳳翔尹,三世皆年八十五雲。

杜生という者は、許州の人である。『易』の占いに長じていた。逃亡した奴隷を追う者が、どこから追うべきかを問うと、戒めて曰く「此より行き、使者に逢えば、その鞭を懇ろに乞え。もし許されなければ、則ち実情を告げよ」と。その人は果たして道で使者に値い、生の言葉の如くにすると、使者はこれを異とし、曰く「鞭を取られては、我れ馬を進めるに足らず、道傍の葼を折って代えとせよ」と。乃ち往って葼を折ると、逃亡した奴隷がその下に伏しているのを見て、これを捕らえた。他日また逃亡した奴隷のある者が、生に戒められて銭五百を持ち、道で待ち受け、進鷂の使者を見れば、その一を買うべし、必ず奴隷を得ると。俄かに使者が至り、その人が実情を告げると、使者は一羽を与えた。忽ち飛び去って灌木の上に集まり、往ってこれを取ると逃亡した奴隷を得た。衆これを神と為す。

原文杜生者,許州人。善《易》占。有亡奴者問所從追,戒曰:「自此行,逢使者,懇丐其鞭。若不可,則以情告。」其人果值使者於道,如生語,使者異之,曰:「去鞭,吾無以進馬,可折道傍葼代之。」乃往折葼,見亡奴伏其下,獲之。它日又有亡奴者,生戒持錢五百伺於道,見進鷂使者,可市其一,必得奴。俄而使至,其人以情告,使者以一與之,忽飛集灌莽上,往取之而得亡奴。眾以為神。

時に浮屠の泓という者あり、黄州の人である。天官侍郎張敬之と親善であった。敬之は武后が在位するを以て、常に着ている服を示して子の冠宗に曰く「莽(王莽)の朝服のみ」と。俄かに冠宗は父が三品に入るべきとして、有司に詣でて状を言う。泓は忽ち曰く「君、煩わして三品を求むる無かれ」と。敬之は大いに驚き、後に冠宗の意より出づるを知る。敬之の弟の訥之が病み危篤に陥ると、泓曰く「公の弟は当に三品の位に至るべし、憂うるに足らず」と。已にして癒ゆ。嘗て燕国公張説の為に宅を買うに当たり、戒めて曰く「東北を穿つ無かれ、王の隅なり」と。他日、説に会って曰く「宅の気索然たり、如何」と。説と共に視ると、土の隅に三つの坎、丈余あり、泓は驚いて曰く「公の富貴は一世のみ、諸子は終わりを全うせざるべし」と。説は懼れ、平らげんとす。泓曰く「客土は気無く、地脈と連ならず、譬えば身の瘡痏に他肉を補うが如く、益無し」と。説の子は皆、賊に汚れて死に斥けらる云う。

原文時有浮屠泓者,黃州人。與天官侍郎張敬之善。敬之以武後在位,常指所服示子冠宗曰:「莽朝服耳。」俄冠宗以父應入三品,詣有司言狀。泓忽曰:「君無煩求三品也。」敬之大驚,已而知出冠宗意。敬之弟訥之疾殆,泓曰:「公弟當位三品,不足憂也。」已而愈。嘗為燕國公張說市宅,戒曰:「無穿東北,王隅也!」它日見說曰:「宅氣索然,云何?」與說共視,土隅有三坎丈餘,泓驚曰:「公富貴一世而已,諸子將不終。」說懼,將平之,泓曰:「客土無氣,與地脈不連,譬身瘡痏補它肉,無益也。」說子皆汙賊死斥云。

張果という者は、郷里と世系を晦まして自ら神とし、中条山に隠れ、汾・晋の間を往来し、世に数百歳の人と伝えられる。武后の時、使いを遣わして召すと、即ち死に、後人がまた恒州の山中に居るを見る。

原文張果者,晦鄉里世系以自神,隱中條山,往來汾、晉間,世傳數百歲人。武後時,遣使召之,即死,後人復見居恒州山中。

開元二十一年、刺史韋済が以て聞こえさせる。玄宗は通事舍人裴晤を遣わして往き迎えさせた。晤を見るや気絶して倒れ、久しくして蘇る。晤は逼ることを敢えず、馳せて状を白す。帝は更に中書舍人徐嶠を遣わし、璽書を齎して礼を邀わせ、乃ち東都に至り、集賢院に宿し、肩輿にて宮に入る。帝自ら治道と神仙の事を問う、語は秘して伝えず。果は息気を善くし、数日にわたり食せず、数々美酒を楽しむことができた。嘗て云う「我れは堯の丙子の歳に生まれ、位は侍中に至る」と。その容貌は実に年六七十の如し。時に邢和璞という者あり、人の夭寿を知るに長ず。師夜光という者あり、鬼を見るに長ず。帝は和璞に命じて果の生死を推させたが、懵然としてその端緒を知らず。帝は果を召して密かに坐らせ、夜光に視させたが、果の住む所を見ず。

原文開元二十一年,刺史韋濟以聞。玄宗令通事舍人裴晤往迎,見晤輒氣絕仆,久乃蘇。晤不敢逼,馳白狀。帝更遣中書舍人徐嶠賫璽書邀禮,乃至東都,舍集賢院,肩輿入宮。帝親問治道神仙事,語秘不傳。果善息氣,能累日不食,數禦美酒。嘗云:「我生堯丙子歲,位侍中。」其貌實年六七十。時有邢和璞者,善知人夭壽。師夜光者,善視鬼。帝令和璞推果生死,懵然莫知其端。帝召果密坐,使夜光視之,不見果所住。

帝は高力士に謂いて曰く「吾れ聞く、堇を飲んで苦しまざる者は、奇士なりと」と。時に天寒し、因って取りて果に飲ませると、三たび進み、頽然として曰く「佳酒に非ず」と。乃ち寝る。暫くして歯を見れば焦げ縮み、左右を顧みて鉄如意を取らせて撃ち落とし、帯中に蔵し、更に薬を出してその断ち目に傅す。良久くして、歯は既に生じ、粲然として並びて潔し。帝は益々これを神とす。玉真公主を降嫁して果に娶らせんと欲す、未だ言わず。果は忽ち秘書少監王迥質・太常少卿蕭華に謂いて曰く「諺に謂う、婦を娶るに公主を得れば、平地に公府を生ず、畏るべしと」と。二人はその語の倫ならざるを怪しむ。俄かに使い至り、詔を伝えて曰く「玉真公主、先生に降嫁せんと欲す」と。果は笑い、固より詔を奉ぜず。詔ありて形を図り集賢院に置く。懇ろに辞して山に還らんと請う、詔して可とす。銀青光禄大夫に擢で、通玄先生と号し、帛三百匹を賜い、扶侍二人を給す。恒山蒲吾県に至り、未だ幾ばくもせず卒す。或いは尸解したと云う。帝は其の所に棲霞観を立てしむ。

原文帝謂高力士曰:「吾聞飲堇無苦者,奇士也。」時天寒,因取以飲果,三進,頹然曰:「非佳酒也。」乃寢。頃視齒燋縮,顧左右取鐵如意擊墮之,藏帶中,更出藥傅其斷,良久,齒已生,粲然駢絜。帝益神之。欲以玉真公主降果,未言也。果忽謂秘書少監王迥質、太常少卿蕭華曰:「諺謂娶婦得公主,平地生公府,可畏也。」二人怪語不倫。俄有使至,傳詔曰:「玉真公主欲降先生。」果笑,固不奉詔。有詔圖形集賢院,懇辭還山,詔可。擢銀青光祿大夫,號通玄先生,賜帛三百匹,給扶侍二人。至恒山蒲吾縣,未幾卒,或言屍解。帝為立棲霞觀其所。

夜光は、薊州の人、少くして浮屠となる。長安に至り、九仙公主に因りて召されて温泉に見え、帝はその弁に奇とし、冠帯を賜い、四門博士を授け、緋衣・銀魚・金繒千数を賜い、幸臣の如く左右に侍するを得る。和璞は黄老を喜び、『潁陽書』を作り、世に伝わる。

原文夜光者,薊州人,少為浮屠。至長安,因九仙公主得召見溫泉,帝奇其辯,賜冠帶,授四門博士,賜緋衣、銀魚、金繒千數,得侍左右如幸臣。和璞喜黃老,作《潁陽書》,世傳之。

天宝中、孫甑生という者あり、技を以て聞こえ、石をして自ら闘わしめ、草を以て人と為し騎り馳せ走らしむることができた。楊貴妃はこれを見るを喜び、数たび召して宮中に入れる。

原文天寶中,有孫甑生者,以技聞,能使石自鬥,草為人騎馳走。楊貴妃喜觀之,數召入宮中。

また羅思遠という者あり、自ら隠れることができた。帝は学ぼうとしたが、その術を尽くして肯わず。試みに自ら隠れると、常に衣帯が余る。思遠と共に試みると、則ち験あり。厚く金帛を賜うも、然れども卒に得ず。帝怒り、襆に裹んで圧し殺す。数日後、中使いの者蜀より還るあり、思遠に逢い駕して西に向かう。笑いて曰く「上、戯れを為すこと何ぞ虐なる」と。

原文又有羅思遠,能自隱。帝學,不肯盡其術,試自隱,常餘衣帶,及思遠共試,則驗。厚錫金帛,然卒不得。帝怒,裹以襆,壓殺之。數日,有中使者自蜀還,逢思遠駕而西,笑曰:「上為戲何虐也!」

姜撫は、宋州の人。自ら仙人の不死の術に通ずると言い、隠居して出でず。開元末、太常卿韋縚が名山を祭り、因って隠民を訪ね、還って白すに、撫は既に数百歳なりと。召して東都に至らしめ、集賢院に宿す。因って言う「常春藤を服すれば、白髪を還って鬢とし、則ち長生を得べし。藤は太湖に生ずるもの最も良く、終南には往々にしてこれ有れども、及ばず」と。帝は使者を太湖に遣わし、多く取りて中朝の老臣に賜う。因って天下に詔し、自らこれを求めしむ。宰相裴耀卿は觴を奉じて千万歳の寿を上ず。帝悦び、花萼楼に御して群臣を宴し、藤百奩を出して遍く賜う。撫を擢で銀青光禄大夫とし、沖和先生と号す。撫また言う「終南山に旱藕あり、これを餌とすれば延年す」と。状は葛粉に類す。帝は湯餅を作りて大臣に賜う。右驍衛将軍甘守誠は薬石を銘ずる能くし、曰く「常春なるものは、千歳藟なり。旱藕は、杜蒙なり。方家久しく用いず、撫は名を易えて以てこれを神とす。民間に酒を以て藤を漬け、飲む者多く暴死す」と。乃ち止む。撫は内に慚悸し、薬を牢山に求めんことを請い、遂に逃げ去る。

原文姜撫,宋州人。自言通仙人不死術,隱居不出。開元末,太常卿韋縚祭名山,因訪隱民,還白撫已數百歲。召至東都,舍集賢院。因言:「服常春藤,使白髮還鬢,則長生可致。藤生太湖最良,終南往往有之,不及也。」帝遣使者至太湖,多取以賜中朝老臣。因詔天下,使自求之。宰相裴耀卿奉觴上千萬歲壽,帝悅,禦花萼棲宴群臣,出藤百奩,遍賜之。擢撫銀青光祿大夫,號沖和先生。撫又言:「終南山有旱藕,餌之延年。」狀類葛粉,帝作湯餅賜大臣。右驍衛將軍甘守誠能銘藥石,曰:「常春者,千歲藟也。旱藕,杜蒙也。方家久不用,撫易名以神之。民間以酒漬藤,飲者多暴死。」乃止。撫內慚悸,請求藥牢山,遂逃去。

桑道茂という者は、寒門の人、その系望を失う。太一遁甲の術に長ず。乾元初、官軍が安慶緒を相州に囲み、勢い危うきこと甚だし。道茂は囲みの中に在り、密かに人に語りて曰く「三月壬申、西師潰く」と。期に至り、九節度の兵皆敗る。後に召されて翰林に待詔す。建中初、上言す「国家三年を出でずして厄会有るべし、奉天に王気有り、宜しく坦堞を高くし、王者の居と為し、万乗を容るるを得べし」と。徳宗は素よりその数(術数)を験し、京兆尹厳郢に詔して衆数千及び神策兵を発してこれを城せしむ。時に盛夏に功を趣め、人其の故を知らず。朱泚の反するに及び、帝は奉天に難を蒙るも、これに頼りて済う。

原文桑道茂者,寒人,失其系望。善太一遁甲術。乾元初,官軍圍安慶緒於相州,勢危甚,道茂在圍中,密語人曰:「三月壬申西師潰。」至期,九節度兵皆敗。後召待詔翰林。建中初,上言:「國家不出三年有厄會,奉天有王氣,宜高坦堞,為王者居,使可容萬乘者。」德宗素驗其數,詔京兆尹嚴郢發眾數千及神策兵城之。時盛夏趣功,人莫知其故。及朱泚反,帝蒙難奉天,賴以濟。

李晟が右金吾大將軍となった時、桑道茂は一匹の縑を携えて李晟に会い、再拝して言うには、「貴公のご栄達は比類なきものですが、しかし私の命は貴公の手にあります。お赦しいただけますか」と。李晟は大いに驚き、その言葉の意味を理解しなかった。道茂は懐中から一通の文書を取り出し、自ら姓名を記し、その左側に「賊に逼迫脅迫されたため」と書き添え、固く李晟に判を求めると、李晟は笑って言うには、「私に何と言わせたいのか」と。道茂は言うには、「ただ『状に準じてこれを赦す』とお書きください」と。李晟はやむなく従った。その後また縑を出して李晟の衫と交換したいと願い、衿の胸の部分に「他日の証拠とする」と題して書いてくれるよう請うた。再拝して去った。道茂は果たして朱泚の偽官に汚された。李晟が長安を収復した時、道茂は逆徒と共に旗の下に縛られ、刑に処せられようとしたが、李晟の衫と文書を示した。李晟は上奏し、彼の死罪を赦した。

原文李晟為右金吾大將軍,道茂賫一縑見晟,再拜曰:「公貴盛無比,然我命在公手,能見赦否?」晟大驚,不領其言。道茂出懷中一書,自具姓名,署其左曰:「為賊逼脅。」固請晟判,晟笑曰:「欲我何語?」道茂曰:「弟言準狀赦之。」晟勉從。已又以縑願易晟衫,請題衿膺曰:「它日為信。」再拜去。道茂果汙朱泚偽官。晟收長安,與逆徒縛旗下,將就刑,出晟衫及書以示。晟為奏,原其死。

この時、藩鎮が勝手に土地を支配して安寧な時はなく、道茂は言うには、「年号が元和になれば、寇盗は滅ぼされるであろう」と。憲宗の時に至ってそれは実証された。道茂の住居には二本の柏の木が大いに茂っていた。彼は言うには、「人が住んで木が繁茂するのは去るべきもので、木が盛んになれば土は衰え、土が衰えれば人は病む」と。そこで数十鈞の鉄をその下に埋め、また言うには、「後にこの地を掘り返して死者が出るであろう」と。大和年間、温造がそこに住み、埋蔵された鉄を掘り出して造は死んだ。杜佑は楊炎と親しかった。盧杞がこれを憎んだので、佑は恐れて道茂に問うと、答えて言うには、「君は年内に外官に補せられるならば、福寿は測り知れないほどであろう」と。間もなく饒州刺史に拝され、後に司徒で終わった。李泌が病んだ時、道茂は紙に書き記して言うには、「厄は三月二日に饗宴に臨む時、国と家は吉であるが身は危うい」と。中和の日に当たり、泌は重篤であったが、強いて入朝した。徳宗は泌が歩けないのを見て、詔して帰宅させたが、死去した。この日、北軍が謀反を企てたが、仗士がこれを捕らえて斬った。李鵬が盛唐令であった時、道茂は言うには、「君の位はここまでだが、長男は宰相の位に至り、次男も大鎮を治め、子孫は百代にわたって栄えるであろう」と。鵬が没すると、後に李石が宰相に至り、李福は七つの鎮を歴任し、諸孫はみな顕官に通じたという。

原文是時藩鎮擅地無寧時,道茂曰:「年號元和,寇盜翦滅矣。」至憲宗乃驗。道茂居有二伯甚茂,曰:「人居而木蕃者去之,木盛則土衰,土衰則人病。」乃以鐵數十鈞埋其下,復曰:「後有發其地而死者。」大和中,溫造居之,發藏鐵而造死。杜佑與楊炎善。盧杞疾之,佑懼,以問道茂,答曰:「君歲中補外,則福壽叵涯矣。」俄拜饒州刺史,後終司徒。李泌病,道茂署於紙曰:「厄三月二日就饗,國與家吉而身危。」會中和日,泌雖篤,強入。德宗見泌不能步,詔歸第,卒。是日北軍謀亂,仗士禽斬之。李鵬為盛唐令,道茂曰:「君位止此,而冢息位宰相,次息亦大鎮,子孫百世。」鵬卒,後石至宰相,福歷七鎮,諸孫通顯云。