方技
李淳風、甄權(許胤宗、張文仲)、袁天綱(客師、張憬藏、乙弗私禮、金梁鳳、王遠知)、薛頤(葉法善)、明崇儼、尚獻甫、嚴善思、杜生、張果(邢和璞、師夜光、羅思遠)、姜撫、桑道茂
およそ推歩、卜、相、醫、巧は、皆技である。技をもって自ら一世に顕れることができた者は、また天に悟るところがあり、積習によって至るものではない。しかし士君子がこれを能くすれば、迂闊でなく、拘泥せず、驕らず、神がかりしない。小人がこれを能くすれば、迂闊で諸々の拘礙に入り、拘泥して大方に通ぜず、驕って衆を誇り、神がかりして人を誣う。故に前聖はこれを以て教えとせず、蓋しこれを惜しむのである。李淳風が太宗に濫殺を諫め、許胤宗が方剤の書を著さず、嚴譔が乾陵に合葬することを諫めたのは、乃ち卓然として時に益ある者であり、茲に珍しむべきである。至って王遠知、張果、姜撫等の詭行と怪を紀すは、また技の下たる者である。
李淳風は、岐州雍の人である。父の播は、隋に仕えて高唐尉となったが、官を棄てて道士となり、黄冠子と号し、論譔をもって自らを顕わした。淳風は幼くして爽秀、群書に通じ、歩天歴算に明るかった。貞観の初め、傅仁均と暦法を争い、議者は多く淳風に附いたので、将仕郎として太史局に直った。渾天儀を制し、前世の失を詆摭し、『法象書』七篇を著して上った。承務郎に抜擢され、太常博士に遷り、太史丞に改め、諸儒と共に書を修し、太史令に遷った。太宗が秘讖を得て、「唐中弱く、女武有りて王に代わる」と言う。淳風に問うたところ、対えて曰く、「その兆既に成り、已に宮中に在り。また四十年にして王となり、王となって唐の子孫を夷し且つ尽くす」と。帝曰く、「我求めこれを殺すは、奈何」と。対えて曰く、「天の命ずる所は、去るべからず。而して王者は果たして死なず、徒らに疑似の戮を以て淫に無辜に及ぼすのみ。且つ陛下の親愛する所、四十年にして老ゆ。老ゆれば則ち仁なり、終わりを受けて姓を易うるも、唐を絶つこと能わず。若しこれを殺せば、復た壮者を生じ、多く殺して逞しうすれば、則ち陛下の子孫遺種無からん」と。帝その言を采り、止めた。
淳風は占候吉兇に於いて、符節の合うが如く、当世の術家は鬼神の相う有りと意し、学習によって致す可きものにあらずとし、終に測る能わなかった。労により昌楽県男に封ぜられた。詔を奉じて算博士梁述、助教王真儒等と『五曹』、『孫子』等の書を是正し、註解を刊定して学官に立てた。『麟徳歴』を撰して『戊寅歴』に代え、候者はこれを推して最も密なりとした。秘閣郎中より復た太史令となり、卒した。撰する所の『典章文物志』、『乙巳占』等の書は世に伝わる。子の該、孫の仙宗、並びに太史令に擢げられた。
唐初に暦を言う者は傅仁均のみ。仁均は、滑州の人、太史令に終わる。
甄權は、許州扶溝の人である。母の病を以て、弟の立言と方書を究め習い、遂に高醫となった。隋に仕えて秘書省正字となったが、疾を称して免れた。魯州刺史の庫狄嵚が風痺を患い弓を引くことができず、権は矢を堋に向けて立たせ、その肩隅を鍼し、一進して曰く、「射るべし」と。果たして言う如くであった。貞観中、権は已に百歳、太宗その舎に幸し、飲食を視、その術に訪い及び、朝散大夫に擢げ、几杖衣服を賜った。尋いで卒す、年一百三歳。撰する所の『脈経』、『針方』、『明堂』等の図は時に伝わる。
後に醫をもって顕るる者は、清漳の宋俠、義興の許胤宗、洛陽の張文仲・李虔縱、京兆の韋慈藏。俠は朝散大夫、薬蔵監に官す。
胤宗は陳に仕えて新蔡王外兵参軍となった。王太后が風を病み言う能わず、脈沈み対し難く、醫家は術窮まれりと告げた。胤宗曰く、「餌液進むべからず」と。即ち黄耆・防風を以て湯数十斛を煮、床下に置き、気霧の如く、之を熏薄す、是の夕語る。義興太守に擢げられた。武徳初、累進して散騎侍郎となった。関中に骨蒸疾多く、転相染み、得る者は皆死す、胤宗療視すれば必ず愈ゆ。或いは其の書を著して後世に貽すを勧むる者有り、答えて曰く、「醫はただ意のみ、思慮精なれば則ち之を得る。脈の候は幽にして明らかにし難く、吾が意の解する所、口能く宣ぶる莫し。古の上醫は、要は脈を視るに在り、病乃ち識る可し。病と薬値うれば、ただ一物を用いて之を攻め、気純にして愈ゆること速し。今の人は脈を為すを善くせず、情を以て病を度り、物を多くして以て功有るを幸いとす。譬えば兔を知らずして原野を広く絡め、一人の之を得るを冀うが如し、術亦疏なり。一薬偶々得たりとも、他の味相制し、専力する能わず、此れ難愈の験なり。脈の妙なる処は伝う可からず、虚しく方剤を著すも、終に世に益無し。此れ吾が書を著さざる所以なり」と。卒す、年七十余。
文仲は武后の時に仕え、尚薬奉禦に至った。特進蘇良嗣方朝せんとし、疾作して、廷中に仆る。文仲診て曰く、「憂憤にして成る。若し脅痛む者は、殆ど救う可からず」と。頃くして脅痛むと告ぐ。又曰く、「心に及べば則ち貽す」と。俄かに心痛みて死す。文仲、風と気を論ずるは尤も精し。後に諸の方を言う者を集めて共に書を著せしめ、詔して王方慶に之を監せしむ。文仲曰く、「風の状一百二十有四、気の状八十、時に以て治めざれば、則ち死之に及ぶ。ただ頭風と上気・足気は、薬常に禦う可し。病風の人、春秋の末月、洞利せしむる可く、乃ち困劇せず。自余は発すれば則ち治め、時に以て消息すべし」と。乃ち『四時軽重術』を著す、凡そ十八種、之を上る。
虔縱は侍禦醫に官し、慈藏は光祿卿に官す。
袁天綱は、益州成都の人である。隋に仕えて鹽官令となった。洛陽に在り、杜淹・王珪・韋挺と遊ぶ。天綱、淹に謂いて曰く、「公は蘭臺・学堂全く且つ博し、将に文章を以て顕わるべし」と。珪に謂いて「法令成り、天地相臨み、十年ならずして官五品」と。挺に謂いて「面虎の如く、将に武を以て官に処るべし」と。「然れども三君久しく皆譴を得ん、吾且く之を見ん」と。淹は侍御史として天策に入り学士となり、珪は太子中允、挺は隠太子に善くし、左衛率に薦められる。武徳中、俱に事に坐して雋州に流され、天綱に見ゆ。曰く、「公等終に且つ貴し。杜は位三品、寿を言う難し。王・韋も亦三品、杜に後れて寿之に過ぐ。但だ晩節皆困す」と。竇軌を見て曰く、「君は伏犀玉枕に貫き、輔角完く起つ。十年にして且つ顕れ、功を立つるは其れ梁・益の間か」と。軌後益州行臺仆射となり、天綱復た曰く、「赤脈瞳を幹し、方に語りて浮赤大宅に入る。公将と為れば必ず多く殺す、願わくば自ら戒めよ」と。軌果たして事に坐して召見せらる。天綱曰く、「公憂うる毋れ、右輔澤みて動く、久しからずして必ず還る」と。果たして還りて都督となる。
貞観の初め、太宗が召し出して言うには、「古に君平あり、朕今爾を得る、いかん」と。対えて曰く、「彼は時に逢わず、臣は固より之に勝つ」と。武后の幼き時、天綱その母を見て曰く、「夫人は法に貴子を生ず」と。乃ち二子元慶・元爽を見て曰く、「官三品、家を保つ主なり」と。韓国夫人を見て曰く、「此の女は貴しと雖も夫に利あらず」と。后最も幼く、姆抱きて以て見せ、男と偽りて示す、天綱その歩みと目を視て、驚きて曰く、「龍瞳鳳頸、極めて貴き験なり。若し女と為らば、当に天子と作るべし」と。帝九成宮に在り、岑文本を見よと命ずれば、曰く、「学堂瑩夷、眉目を過ぐ、故に文章天下に振るう。首生骨未だ成らず、前にして視れば、法三品。肉骨に称せず、寿の兆に非ず」と。張行成・馬周を見れば、曰く、「馬君は伏犀脳を貫き、背に負う有るが若し、貴き験なり。近古君臣相遇うること公に及ぶ者未だ有らず。然れども面沢赤くして耳根無く、後骨隆せず、寿長からず。張は晩に官を得、終に位は宰相」と。その術精妙なること此の如し。高士廉曰く、「君終に何の官と作る」と。謝して曰く、「僕夏四月に及びて、数既に尽きん」と。期の如く火山令にて卒す。
子客師も亦その術を伝え、廩犧令と為る。高宗一鼠を奩の中に置き、術家に射させしむるに、皆鼠と曰う。客師独り曰く、「強ち実に鼠なれど、然れども入れば則ち一、出れば則ち四」と。発けば、鼠三子を生めり。嘗て江を渡らんとし、舟を叩きて還る、左右故を請うれば、曰く、「舟中の人の鼻下の気皆墨なり、以て済うべからず」と。俄かに一男子有り、跛にして負う、直ちに舟に就く、客師曰く、「貴人有り、吾は済うべし」と。江中風忽ち起こり、幾くんか覆えんとして免る。跛男子は乃ち婁師德なり。
時に長社の人張憬蔵有り、天綱と匹敵する術を持つ。太子詹事蔣儼問う所有り、答えて曰く、「公の厄は三尺の土の下に在り、六年を尽くして貴し、六十にして蒲州刺史の位に至り、禄無からん」と。儼高麗に使いし時、莫離支に囚われ、土室に居ること六年にして還る。蒲州に為るに及び、歳期の如く、則ち掾史・妻子を召し、当に死すべしと告ぐ、俄かに詔して致仕を聴す。劉仁軌郷人靖賢と占いを請う、憬蔵答えて曰く、「劉公当に五品にして譴せられ、終に位は人臣に冠たる」と。賢に謂いて曰く、「君は法に客死す」と。仁軌は尚書僕射と為る。賢猥りに曰く、「我が三子皆田宅に富み、吾何ぞ客死せん」と。俄かに三子を喪い、田宅を尽く鬻ぎ、友の家に寄りて死す。魏元忠尚だ少なく、往きて憬蔵を見、之を問う、久しく答えず、元忠怒りて曰く、「窮通は命有り、何ぞ君に関わるや」と。衣を払いて去る。憬蔵遽かに起ちて曰く、「君の相は怒る時に在り、位必ず卿相」と。姚崇・李迥秀・杜景佺往きて之に従い遊ぶ、憬蔵曰く、「三人は皆宰相なれど、然れども姚最も貴し」と。郎中裴珪の妻趙之を見る、憬蔵曰く、「夫人の目修緩なり、法に曰く『豕視淫』、又曰く『目に四白有れば、五夫宅を守る』と、夫人将に罪を得ん」と。俄かに姦に坐し、掖廷に没入せらる。裴光廷国を当つる時、憬蔵紙に大いに「臺」の字を署して之に投ず、光廷曰く、「吾既に臺司たり、尚何事か有らん」と。後三日、台州刺史に貶せらる。
隋末又た高唐の人乙弗弘禮有り、煬帝藩に居る時、召し見る、弘禮賀して曰く、「大王は万乗の主と為り、戒むる所は徳のみ」と。即位に及び、諸術家を悉く詔して坊に処せしめ、弘礼に総摂せしむ。海内漸く乱る、帝曰く、「而が昔言う所朕に既に験あれど、然れども終に当に奈何せん」と。弘礼逡巡す、帝之を知り、乃ち曰く、「言わざれば、将に死せん」と。弘礼曰く、「臣観るに人臣の相陛下に類する者は長からず、然れども聖人は相せず、故に臣知ること能わず」と。是より有司に監視せしめ、外と語ることを得ざらしむ。
薛大鼎事に坐して奴に没せられ、貞観の時に及び、弘礼に請う有り、答えて曰く、「君は奴なり、何事をか欲せん」と。衣を解きて之を見よと請う、弘礼腰より下を指して曰く、「位は方嶽」と。
玄宗の時に金梁鳳なる者有り、頗る人の貴賤夭寿を言う。裴冕河西留後と為る時、梁鳳輒ち言う、「半歳ならずして兵起こり、君当に御史中丞より宰相を除かるべし」と。又言う、「一日は雒に向かい、一日は蜀に向かい、一日は朔方に向かう、此時公国を当つべし」と。冕その言を妖しとし、之を絶つ。俄かに禄山反す、冕御史中丞として召され、因りて三日のことを問う、答えて曰く、「雒の日は即ち滅び、蜀の日は久しからず、朔方の日は愈明らかなり」と。粛宗即位し、而して冕遂に相と為り、帝に薦む、都水使者に拝す。梁鳳呂諲に謂いて曰く、「君将に政を輔けんとす、須らく大いに怖るる有りて乃ち得べし」と。諲駅史を責む、之を、史突如として射て諲に中つ、両矢風に中り、走りて免る、明年政事を知る。李揆・盧允服を毀ち偽りて謁す、梁鳳許さず、二人情を以て語る、梁鳳曰く、「李は自ら舎人より歳を閲て相と為り、盧は郎官を過ぎず」と。揆既に相と為り、允を吏部郎中に擢ぐ。
王遠知、系は本より瑯邪、後に揚州の人と為る。父曇選、陳の揚州刺史と為る。母昼寝し、夢みに鳳その身に集まる、因りて娠有り。浮屠宝誌曇選に謂いて曰く、「子を生めば当に世の方士と為るべし」と。
遠知少しく警敏、多く書伝に通じ、陶弘景に事え、その術を伝え、道士と為る。又た臧兢に従い遊ぶ。陳の後主その名を聞き、召し入れて重陽殿にす、弁論超詣、甚だ咨挹せらる。隋の煬帝晋王と為り、揚州を鎮むる時、人を介して以て邀え見んとす、少選にして髪白く、俄かに復た鬢す、帝懼れ、之を遣わす。後に涿郡に幸す、詔して遠知をして臨朔宮に見えしむ、帝弟子の礼を執り、仙事を咨質し、詔して京師に玉清玄壇を作り以て之を処す。揚州に幸するに及び、遠知帝に京国を遠ざくべからずと謂う、省みず。
遠知多く怪言有り、その弟子潘師正に詫えて曰く、「吾少くして累有り、上天するを得ず、今少室伯を署す、吾将に行かん」と。即ち沐浴し、冠衣を加え、寝る者の如く、遂に卒す。或いは言う寿蓋し百二十六歳と。遺命して子紹業に曰く、「爾年六十五にして天子を見、七十にして女君を見ん」と。調露中、紹業その言を表す、高宗召し見、嗟賞し、遠知に太中大夫を追贈し、謚して升真先生と曰う。武后の時復た召し見る、皆その年の如し。又た金紫光禄大夫を贈る。天授中改めて謚して升玄と曰う。
薛頤は滑州の人である。隋の大業の時に道士となり、天文・暦法に長じていた。武徳初年、秦王府に召し出されて直され、密かに言うには、「徳星が秦の分野に留まっております。王は天下に帝たるべきです」と。秦王は彼を太史丞に上表し、次第に太史令に昇進した。貞観の時、太宗が泰山に封禅を行おうとしたところ、彗星が現れた。薛頤は言うには、「臣が天意を推し量りますに、陛下は未だ東行すべきではありません」と。またちょうど大臣たちが上奏して反対したため、帝は遂に取りやめた。固く道士となることを請うたので、帝は九〓山に観を築き、紫府と号し、薛頤を太中大夫に拝してそこに住まわせた。すぐに祠を建てて清臺とし、星辰の運行と災祥を観測して報告させたが、その上奏は太史李淳風のものと一致した。数年後に卒した。
高宗の時、また葉法善という者がいた。括州括蒼の人である。代々道士を務め、陰陽・占卜・符呪の術を伝え、怪異や鬼を鎮圧し退けることができた。帝はこれを聞き、京師に召し出そうとしたが、官職を与えて寵遇しようとしても拝受しなかった。内道場に留め置き、礼遇と賜物は特に手厚かった。当時帝は方士をことごとく召し集めて黄金を煉り丹薬を製していたが、法善は上言して、「丹薬は急に完成するものではなく、ただ財と日時を浪費するのみです。真偽を検討させてください」と言った。帝はこれを許し、凡そ百余人を全て罷免させた。かつて東都の凌空祠で壇を築いて祭祀を行った時、都人の多くが見物に来たが、数十人が自ら火中に駆け込んだ。人々は大いに驚き、救い出して事なきを得た。法善は笑って言うには、「これは物の怪に憑かれたのである。我が法をもってこれを制したまでだ」と。尋ねてみるとその通りで、病もまた皆癒えた。その詭幻な術はこのような類いであった。
高宗・中宗の二朝に五十年間仕え、山中を往来し、時折禁中に召し入れられた。もとより仏法を好まず、常に力を込めて誹謗した。議論する者はその好みを浅はかだとしたが、その術は高く、遂には測り知ることができなかった。睿宗が立つと、陰ながら助力したと言う者もいた。先天年中、鴻臚卿に拝され、員外置とされ、越国公に封ぜられ、景龍観に住まわせられ、その父は追贈されて歙州刺史とされ、その寵遇は当世を照らした。開元八年に卒した。ある説では隋の大業丙子年に生まれ、庚子年に死んだという。およそ百七歳であったらしい。玄宗は詔を下して褒め悼み、越州都督を追贈した。
明崇儼は洛州偃師の人で、梁の国子祭酒明山賓の五世の孫である。幼少時に父の明恪が安喜県令に任ぜられて従い、鬼神を召喚する術に長じた役人がいたので、その術を全て伝授された。乾封初年、嶽牧挙に応じて、黄安県丞に任ぜられ、奇技をもって自ら名を成した。高宗が召し出して会うと、大いに喜び、冀王府文学に抜擢した。試みに地下室を作り、宮人にそこで音楽を奏させ、崇儼を召して問うた。「何の兆しか? 我がために止めよ」と。崇儼は桃の木に二つの符を書き、室の上に刺し立てると、音楽は即座に止んだ。そして言うには、「さきほど怪しい龍を見て、怖れて止めたのです」と。真夏の盛りに、帝が雪を思い慕うと、崇儼は座ったまましばらくして雪を取って献上し、自ら陰山へ行って取ってきたと言った。四月、帝が瓜を思い出すと、崇儼は百銭を求め、たちまち瓜を献上して言うには、「緱氏の老人の園で得ました」と。帝が老人を召して訳を尋ねると、老人は言うには、「一つの瓜を埋めたが失くしてしまい、土の中から百銭を得ました」と。
累進して正諫大夫となった。帝は彼を閣中に入れて供奉させ、謁見する度に時政を述べたが、多くは鬼神のことを託して言った。ついには武后のために厭勝の事を行い、また章懐太子に徳がないと言った。儀鳳四年、東都で盗賊に刺殺された。好事な者は言うには、「崇儼は鬼を使役して労苦が多く、鬼に殺されたのだ」と。しかし太后は太子が刺客を遣わして殺したと疑い、故に侍中を追贈し、諡して莊とし、子の明珪を秘書郎に抜擢した。御史中丞崔謐らに命じて雑治させ、無実の罪を認めさせられた者は甚だ多かった。太子が廃されると、死の真相は明らかになった。
武后が崩御し、乾陵に合葬しようとした時、善思が建言した。「尊き者が先に葬られれば、卑き者は入ることができません。今、乾陵を開くのは、卑き者をもって尊き者を動かすことで、術家の忌むところです。かつ玄関の石門は、金属で隙間を固めており、攻め鑿らなければ開きません。神道は幽静であり、多く驚かし汚すことになります。もし別に隧道を穿ってその中に入るならば、それは往昔葬った時の神位が前もって定まっていることであり、さらに害があります。かつて乾陵を営んだ時、国に大難があり、易姓建国して二十余年になります。今またこれを営むならば、難が再び生じるでしょう。合葬は古制ではありません。況んや事に不安があれば、どうして従うべき根拠足りましょうか。漢代には皇后は別に陵墓を築きました。魏・晋から合葬が始まりました。漢は祭祀を四百年積み重ね、魏・晋の国祚は概して長くありません。これもその験です。今もしさらに吉地を選び、乾陵の近くにし、従葬の義を取るならば、神に知る所あれば、通ぜざる所はなく、もし知らなければ、合葬しても何の益がありましょうか。山川の精気は、上って列星となります。葬るにその所を得れば、神は安らぎて後嗣は栄え、その宜しきを失えば、神は危うくて後嗣は損なわれます。願わくは私愛を割き、社稷を長久ならしめられんことを」。中宗は聞き入れなかった。
初めに、譙王重福が均州に移された時、汝州を通過し、善思は刺史であった。及んで謀反を企て、偽って礼部尚書に任じられた。重福が敗れると、関通の罪に坐して死罪と論ぜられたが、吏部尚書宋璟・戸部郎中李邕がその罪を軽く見なし、給事中韓思復が固く請うたので、静州に流された。始め、善思が御史であった時、中書舍人劉允済が酷吏に陥れられ、死に瀕していたが、善思は力を尽くしてその冤罪を訟え、免れることができた。戸部尚書王本立はこれを見て、曰く「祁奚が叔向を救う故事、厳公(善思)にこれあり」と。後に允済に会ったが、語に一度もそのことを及ぼさなかった。思復が善思を解き放った時も、自らを徳とせず、時に長者の報いと称された。後に赦しに遇って還る。開元十六年に卒す。子の向は、乾元中に鳳翔尹となり、三世ともに年八十五と云う。
杜生という者は、許州の人である。『易』の占いに長じていた。逃亡した奴隷を追う者が、どこから追うべきかを問うと、戒めて曰く「此より行き、使者に逢えば、その鞭を懇ろに乞え。もし許されなければ、則ち実情を告げよ」と。その人は果たして道で使者に値い、生の言葉の如くにすると、使者はこれを異とし、曰く「鞭を取られては、我れ馬を進めるに足らず、道傍の葼を折って代えとせよ」と。乃ち往って葼を折ると、逃亡した奴隷がその下に伏しているのを見て、これを捕らえた。他日また逃亡した奴隷のある者が、生に戒められて銭五百を持ち、道で待ち受け、進鷂の使者を見れば、その一を買うべし、必ず奴隷を得ると。俄かに使者が至り、その人が実情を告げると、使者は一羽を与えた。忽ち飛び去って灌木の上に集まり、往ってこれを取ると逃亡した奴隷を得た。衆これを神と為す。
時に浮屠の泓という者あり、黄州の人である。天官侍郎張敬之と親善であった。敬之は武后が在位するを以て、常に着ている服を示して子の冠宗に曰く「莽(王莽)の朝服のみ」と。俄かに冠宗は父が三品に入るべきとして、有司に詣でて状を言う。泓は忽ち曰く「君、煩わして三品を求むる無かれ」と。敬之は大いに驚き、後に冠宗の意より出づるを知る。敬之の弟の訥之が病み危篤に陥ると、泓曰く「公の弟は当に三品の位に至るべし、憂うるに足らず」と。已にして癒ゆ。嘗て燕国公張説の為に宅を買うに当たり、戒めて曰く「東北を穿つ無かれ、王の隅なり」と。他日、説に会って曰く「宅の気索然たり、如何」と。説と共に視ると、土の隅に三つの坎、丈余あり、泓は驚いて曰く「公の富貴は一世のみ、諸子は終わりを全うせざるべし」と。説は懼れ、平らげんとす。泓曰く「客土は気無く、地脈と連ならず、譬えば身の瘡痏に他肉を補うが如く、益無し」と。説の子は皆、賊に汚れて死に斥けらる云う。
張果という者は、郷里と世系を晦まして自ら神とし、中条山に隠れ、汾・晋の間を往来し、世に数百歳の人と伝えられる。武后の時、使いを遣わして召すと、即ち死に、後人がまた恒州の山中に居るを見る。
開元二十一年、刺史韋済が以て聞こえさせる。玄宗は通事舍人裴晤を遣わして往き迎えさせた。晤を見るや気絶して倒れ、久しくして蘇る。晤は逼ることを敢えず、馳せて状を白す。帝は更に中書舍人徐嶠を遣わし、璽書を齎して礼を邀わせ、乃ち東都に至り、集賢院に宿し、肩輿にて宮に入る。帝自ら治道と神仙の事を問う、語は秘して伝えず。果は息気を善くし、数日にわたり食せず、数々美酒を楽しむことができた。嘗て云う「我れは堯の丙子の歳に生まれ、位は侍中に至る」と。その容貌は実に年六七十の如し。時に邢和璞という者あり、人の夭寿を知るに長ず。師夜光という者あり、鬼を見るに長ず。帝は和璞に命じて果の生死を推させたが、懵然としてその端緒を知らず。帝は果を召して密かに坐らせ、夜光に視させたが、果の住む所を見ず。
帝は高力士に謂いて曰く「吾れ聞く、堇を飲んで苦しまざる者は、奇士なりと」と。時に天寒し、因って取りて果に飲ませると、三たび進み、頽然として曰く「佳酒に非ず」と。乃ち寝る。暫くして歯を見れば焦げ縮み、左右を顧みて鉄如意を取らせて撃ち落とし、帯中に蔵し、更に薬を出してその断ち目に傅す。良久くして、歯は既に生じ、粲然として並びて潔し。帝は益々これを神とす。玉真公主を降嫁して果に娶らせんと欲す、未だ言わず。果は忽ち秘書少監王迥質・太常少卿蕭華に謂いて曰く「諺に謂う、婦を娶るに公主を得れば、平地に公府を生ず、畏るべしと」と。二人はその語の倫ならざるを怪しむ。俄かに使い至り、詔を伝えて曰く「玉真公主、先生に降嫁せんと欲す」と。果は笑い、固より詔を奉ぜず。詔ありて形を図り集賢院に置く。懇ろに辞して山に還らんと請う、詔して可とす。銀青光禄大夫に擢で、通玄先生と号し、帛三百匹を賜い、扶侍二人を給す。恒山蒲吾県に至り、未だ幾ばくもせず卒す。或いは尸解したと云う。帝は其の所に棲霞観を立てしむ。
夜光は、薊州の人、少くして浮屠となる。長安に至り、九仙公主に因りて召されて温泉に見え、帝はその弁に奇とし、冠帯を賜い、四門博士を授け、緋衣・銀魚・金繒千数を賜い、幸臣の如く左右に侍するを得る。和璞は黄老を喜び、『潁陽書』を作り、世に伝わる。
天宝中、孫甑生という者あり、技を以て聞こえ、石をして自ら闘わしめ、草を以て人と為し騎り馳せ走らしむることができた。楊貴妃はこれを見るを喜び、数たび召して宮中に入れる。
また羅思遠という者あり、自ら隠れることができた。帝は学ぼうとしたが、その術を尽くして肯わず。試みに自ら隠れると、常に衣帯が余る。思遠と共に試みると、則ち験あり。厚く金帛を賜うも、然れども卒に得ず。帝怒り、襆に裹んで圧し殺す。数日後、中使いの者蜀より還るあり、思遠に逢い駕して西に向かう。笑いて曰く「上、戯れを為すこと何ぞ虐なる」と。
姜撫は、宋州の人。自ら仙人の不死の術に通ずると言い、隠居して出でず。開元末、太常卿韋縚が名山を祭り、因って隠民を訪ね、還って白すに、撫は既に数百歳なりと。召して東都に至らしめ、集賢院に宿す。因って言う「常春藤を服すれば、白髪を還って鬢とし、則ち長生を得べし。藤は太湖に生ずるもの最も良く、終南には往々にしてこれ有れども、及ばず」と。帝は使者を太湖に遣わし、多く取りて中朝の老臣に賜う。因って天下に詔し、自らこれを求めしむ。宰相裴耀卿は觴を奉じて千万歳の寿を上ず。帝悦び、花萼楼に御して群臣を宴し、藤百奩を出して遍く賜う。撫を擢で銀青光禄大夫とし、沖和先生と号す。撫また言う「終南山に旱藕あり、これを餌とすれば延年す」と。状は葛粉に類す。帝は湯餅を作りて大臣に賜う。右驍衛将軍甘守誠は薬石を銘ずる能くし、曰く「常春なるものは、千歳藟なり。旱藕は、杜蒙なり。方家久しく用いず、撫は名を易えて以てこれを神とす。民間に酒を以て藤を漬け、飲む者多く暴死す」と。乃ち止む。撫は内に慚悸し、薬を牢山に求めんことを請い、遂に逃げ去る。
李晟が右金吾大將軍となった時、桑道茂は一匹の縑を携えて李晟に会い、再拝して言うには、「貴公のご栄達は比類なきものですが、しかし私の命は貴公の手にあります。お赦しいただけますか」と。李晟は大いに驚き、その言葉の意味を理解しなかった。道茂は懐中から一通の文書を取り出し、自ら姓名を記し、その左側に「賊に逼迫脅迫されたため」と書き添え、固く李晟に判を求めると、李晟は笑って言うには、「私に何と言わせたいのか」と。道茂は言うには、「ただ『状に準じてこれを赦す』とお書きください」と。李晟はやむなく従った。その後また縑を出して李晟の衫と交換したいと願い、衿の胸の部分に「他日の証拠とする」と題して書いてくれるよう請うた。再拝して去った。道茂は果たして朱泚の偽官に汚された。李晟が長安を収復した時、道茂は逆徒と共に旗の下に縛られ、刑に処せられようとしたが、李晟の衫と文書を示した。李晟は上奏し、彼の死罪を赦した。
この時、藩鎮が勝手に土地を支配して安寧な時はなく、道茂は言うには、「年号が元和になれば、寇盗は滅ぼされるであろう」と。憲宗の時に至ってそれは実証された。道茂の住居には二本の柏の木が大いに茂っていた。彼は言うには、「人が住んで木が繁茂するのは去るべきもので、木が盛んになれば土は衰え、土が衰えれば人は病む」と。そこで数十鈞の鉄をその下に埋め、また言うには、「後にこの地を掘り返して死者が出るであろう」と。大和年間、温造がそこに住み、埋蔵された鉄を掘り出して造は死んだ。杜佑は楊炎と親しかった。盧杞がこれを憎んだので、佑は恐れて道茂に問うと、答えて言うには、「君は年内に外官に補せられるならば、福寿は測り知れないほどであろう」と。間もなく饒州刺史に拝され、後に司徒で終わった。李泌が病んだ時、道茂は紙に書き記して言うには、「厄は三月二日に饗宴に臨む時、国と家は吉であるが身は危うい」と。中和の日に当たり、泌は重篤であったが、強いて入朝した。徳宗は泌が歩けないのを見て、詔して帰宅させたが、死去した。この日、北軍が謀反を企てたが、仗士がこれを捕らえて斬った。李鵬が盛唐令であった時、道茂は言うには、「君の位はここまでだが、長男は宰相の位に至り、次男も大鎮を治め、子孫は百代にわたって栄えるであろう」と。鵬が没すると、後に李石が宰相に至り、李福は七つの鎮を歴任し、諸孫はみな顕官に通じたという。