新唐書

巻二百三 列傳第一百二十八 文藝下 李華子:翰 孟浩然附:王昌齡 崔顥 劉太真 邵説 于邵 崔元翰 于公異 李益 盧綸 歐陽詹從子:秬 李賀 吳武陵 李商隱 薛逢 李頻 吳融

李華

李華、字は遐叔、趙州贊皇の人なり。曾祖太沖は、名が宗族の間に冠たり、郷人の語に曰く「太沖に兄無し」と。太宗の時、祠部郎中に擢でらる。

華は少より曠達にして、外は坦蕩の若く、内は謹重、然諾を尚び、毎に汲黯の為人を慕ふ。累ねて進士・宏辞科に中る。天宝十一載、監察御史に遷る。宰相楊国忠の支婭、所在に横猾なり、華出使して、劾按して橈がず、州県肅然たり。権幸に疾まれて、右補闕に徙る。安禄山反し、上に誅守の策を献ぐるも、皆留めて用ひず。

玄宗しょくに入り、百官解竄す。華の母は鄴に在り、間行して母を輦して逃れんと欲すれど、盗に得られ、偽りに鳳閣舎人を署す。賊平りて、杭州司戸参軍に貶せらる。華自ら傷む、危乱を践みて、節を完うせず、又た親を安んぜず、終養せんと欲すれど母亡ひ、遂に江南に屛居す。上元中、左補闕・司封員外郎を以て之を召す。華喟然として曰く「烏にか節を隳し親を危くして、天子の寵を荷はんや」と。疾と称して拝せず。李峴江南に選を領し、表して幕府に置き、検校吏部員外郎に擢づ。風痹に苦しみ、官を去り、山陽に客隠し、子弟を勒して農に力を尽くさしめ、窮槁に安んず。晩年浮屠法に事へ、甚だ書を著さず、唯だ天下の士大夫の家伝・墓版及び州県の碑頌、時に時に金帛を齎して往き請ふに、乃ち強ひて応ず。大暦初、卒す。

初め、華『含元殿賦』を作り成りて、以て蕭穎士に示せば、穎士曰く「『景福』の上、『霊光』の下なり」と。華の文辞は綿麗なり、宏傑の気少く、穎士は健爽自肆、時に穎士に及ばずと謂へど、華は自ら疑ふ之に過ぎたりと。因りて『弔古戦場文』を著し、極思研扢し、既に成り、故書と為して汚し、梵書の庋に雑置す。它日、穎士と之を読み、工なりと称す。華問ふ「今誰か及ぶ可き」と。穎士曰く「君精思を加へば、便能く至るべし」と。華愕然として服す。

華は士類を愛獎し、名は随ひて重し。若し独孤及・韓雲卿・韓会・李紓・柳識・崔祐甫・皇甫冉・謝良弼・朱巨川、後に至りて執政顕官となる。華は禍に触れて悔を銜み、元徳秀・権皋の銘及び『四皓賛』を為すに及び、称道深婉にして、読者其の志を憐れむ。

宗子の翰、従子の観、皆名有り。

子 翰

翰は進士第に擢でられ、衛尉に調はる。天宝末、房琯・韋陟倶に史官と為すを薦むれど、宰相擬せず。翰の善くする所の張巡、睢陽に死節す。人其の功を媢み、以て賊に降れりと為す。肅宗未だ知らざるに及ばず。翰、巡の功状を伝へ、表を上ぐ。曰く、

「臣聞く、聖主は死難の士を褒め、死事の孤を養ひ、或は親しく轜車を推し、或は追ひて邑封を建て、死を厚くして以て生を慰め、存を撫して以て亡に答ふ。君は臣に遺さず、臣も亦た其の君に背かざるなり。逆胡乱を構へしより、雒陽を拠り、幽・朔を引いて以て河南を呑まんとす。故御史中丞・贈揚州大都督ととく張巡、忠誼奮発し、烏合を率ひ、雍丘を守り、賊の心腹を潰す。魯炅宛・葉に甲を棄て、哥舒翰潼関に敗績し、賊送りて神器を盗み、二京に鴟峙し、南は漢・江に臨み、西は岐・雍に逼る。群帥列城、風望みて出奔す。巡は孤城を守りて卻かず。賊は巡の後を繞り出でて以て江淮を擾はんと欲す。巡は軍を退けて睢陽に扼し、東南の咽領を扼す。春より冬に訖るまで、大戦数十、小戦数百、弱を以て強を制し、奇を出して窮まり無し。凶醜を殺馘すること凡そ十余万、賊敢へて睢陽を越えて江淮を取らず。江淮以て完し、巡の力なり。城孤にして糧尽き、外救至らず、猶ほ羸を奮ひ病を起して、鋒を摧き堅を陷る。三軍は膚を啖ひて食し、死を知りて叛かず。城陷ちて執はれ見ゆるも、卒に橈詞無く、凶徒を慢叱し、精は白日に貫く。古の忠烈と雖も以て加ふる無し。

「議者は巡を罪するに食人以てし、巡を愚するに守死を以てす。臣窃に之を痛む。夫れ忠は臣の教なり、恕は法の情なり。巡は節を握して死す、教を虧くに非ず。骸を析きて以て爨す、本情に非ず。『春秋』は功を以て過を覆ひ、『書』は過を赦し刑を宥す。『易』に在りては悪を遏ぎ善を揚ぐ。国を為す者は瑕を棄て用ふるを録す。今者乃ち巡の罪を議せんと欲す。是れ教を廢し節を絀き、功を以て過を掩はず、刑を以て情を恕さず、善は遏ぐ可く、悪は揚ぐ可く、瑕は録して用ひ棄つ。人倫を獎け、勧戒を明かにする所以に非ざるなり。且つ禄山は徳に背き、大臣将相は比肩して賊に従ふ。巡は官に朝せず、宴に坐せず、一伍の士無く、一節の権無く、徒らに身を奮ひて節に死し、以て義旅を動かす。忠と謂はざる可けんや。数千の卒を以て横はり賊の鋒を挫く。若し巡無くんば則ち睢陽無く、睢陽無くんば則ち江淮無し。有ること賊江淮の資に因り、兵広くして財積り、根結盤拠し、西に向ひて以て拒がんには、終に殲滅すと雖も、其の曠日持久必せり。今陝・鄢の一戦、犬羊北に駭き、王師其の西を震し、巡其の東を扼す。此れ天の巡をして江淮を挙げて以て陛下を待たしむるなり。師至りて巡死す。功と謂はざる可けんや。古へ列国侵伐するも、猶ほ災を分かち患を救ふ。諸将同じく国恩を受け、辞を奉じて罪を伐つ。巡は固守して亦た外援を待つ。援至らずして食尽き、食尽きて人に及ぶ。則ち巡の情は求む可し。仮りに巡の城を守るの初め、已に人を食ふを計らば、数百の衆を損じて以て天下を全うせば、臣尚ほ功過相掩ふと謂はん。況んや素志に非ざるをや。夫子『春秋』を制し、褒貶を明かにす。斉桓公将に封禅せんとすれど、略して書かず。晋文公王を河陽に召すも、書して之を諱る。巡の蒼黄の罪は、僭禅より軽く、興復の功は、糾合より重し。

「今巡の子亜夫は官を得と雖も、饑寒を免れず。江淮は既に巡の保つ所、戸口充完す。宜しく百戸を割きて其の子をして食はしむべし。且つ強死は厲と為り、帰する所有れば則ち災と為らず。巡は身首分裂し、将士の骸骼掩はれず。宜しく睢陽に相ひて高原を択び、大塚を起し、魂を招きて葬り、善を旌ぐの義なり。臣少くより巡と遊び、巡の死難を哀しみ、休明を睹ず。唯だ令名其の栄祿なり。若し時に紀録せずんば、日月浸悠し、或は掩れて伝へず、或は伝へて実ならず。巡は生死に遇はず。誠に悲悼す可し。謹みて伝一篇を撰し、昧死して上ぐ。儻ひ得て史官に列せば、死骨朽ちず。」

帝是に繇りて感悟し、而して巡の大節は世に白く、義士之を多し。

翰は累進して左補闕・翰林學士となった。大暦年間、病により免官し、陽翟に客居し、死去した。

翰は文章を精密に作りながら構想は遅く、常に令皇甫曾に音楽を求め、思慮が枯渇すればそれを演奏し、精神が高揚してから文章を綴った。族弟の紓は、別に傳がある。

從子 觀

觀は字を元賓という。貞元年間、進士・宏辭に挙げられ、連続して及第し、太子校書郎を授かった。二十九歳で死去した。觀は文章を綴るに当たり、前人を踏襲せず、当時は韓愈と互角であると評された。及んで觀が若くして夭折し、愈が後に文章をますます精巧にしたので、論者は觀の文章は極みに達しておらず、愈は老いても止まなかったので、ついに名を擅にしたのだという。陸希聲は「觀は文辞を重んじたので、文辞が理を上回った。愈は質実を重んじたので、理が文辞を上回った。たとえ愈が窮して老いても、終に觀の文辞に及ぶことはできず、觀が愈より後に死んでも、愈の質実に追いつくことはできないであろう」と評したという。

孟浩然

孟浩然は字を浩然といい、襄州襄陽の人である。若くから節義を好み、人の患難を救うことを喜び、鹿門山に隠棲した。四十歳になって、はじめて京師に遊学した。かつて太学で詩を賦したところ、一座の者が嘆服し、敢えて対抗する者はいなかった。張九齢・王維はとりわけ彼を称揚した。維はひそかに内署に招き入れたが、やがて玄宗が来臨され、浩然は床下に隠れた。維が実情を答えると、帝は喜んで「朕はその人を聞いてはいたが未だ見ずにいた。どうして恐れて隠れるのか」と言われ、詔して浩然を出させた。帝がその詩を問うと、浩然は再拝し、自ら作った詩を誦した。「不才明主棄」の句に至ると、帝は「卿は仕官を求めないのに、朕は卿を棄てたことはない。どうして私を誣いるのか」と言われ、よって帰郷を許された。採訪使韓朝宗は浩然と共に京師に至り、朝廷に推薦しようと約束した。ちょうど旧友が来訪し、大いに飲んで歓談していたところ、ある者が「君は韓公と約束があるではないか」と言うと、浩然は叱って「すでに飲んでいるのだ。他のことなど構っている暇はない」と言い、ついに赴かなかった。朝宗は怒って別れを告げて去ったが、浩然は後悔しなかった。張九齢が荊州長史となった時、府に召し出して任用したが、府が廃止された。開元末、背中に癰を病んで死去した。

後に樊澤が節度使となった時、浩然の墓は低く損壊していた。符載が書簡を以て澤に申し上げて言うには、「故處士孟浩然は、文と質ともに傑出して美しく、逝去して歳月久しいが、子孫は衰微し、墳墓は荒廃している。この人を思うと、通りすがりの者も慨嘆する次第です。以前貴公が大墓を改めて築こうとされた時、州中の搢紳は、その風聞に感奮いたしました。しかし今は外は軍旅に迫られ、内は賓客に労し、歳月を費やし、あるいはまだその暇がないのでしょう。もし好事の徒が機に乗じてこれを成し遂げてしまえば、貴公の宿志に背くことになります」と。澤はそこで更に鳳林山の南に碑を刻み、その墓を封じて修復した。

初め、王維が郢州を過ぎた時、刺史亭に浩然の像を描き、よって浩然亭と称した。咸通年間、刺史鄭諴は賢者の名を直接呼ぶべきでないとして、更に孟亭と改めた。

開元・天寶の間、同じく名を知られた者に王昌齢・崔顥がいるが、皆、官位は顕赫ではなかった。

附 王昌齢

昌齢は字を少伯といい、江寧の人である。進士に及第し、秘書郎を補された。また宏辞に合格し、汜水尉に遷った。細かい行いを慎まなかったため、龍標尉に貶された。世の乱れにより郷里に帰ったが、刺史閭丘曉に殺害された。張鎬が河南で軍務を巡察した時、兵が大いに集結したが、曉が最後に到着したので、殺そうとしたところ、曉は「老親がおります。どうか命をお貸しください」と弁解した。鎬は「王昌齢の親は、誰に養わせるというのか」と言った。曉は黙然とした。

昌齢は詩を巧みにし、構想は緻密で思致は清らかであり、当時は王江寧と称された。

附 崔顥

崔顥もまた進士第に擢第し、文才はあるが品行がなかった。賭博を好み、酒を嗜んだ。妻を娶るには美貌の者だけを選び、やがてまた棄てることを繰り返し、合わせて四、五度娶った。最終官は司勳員外郎であった。初め、李邕がその名を聞き、館を空けて招いた。顥が至って詩を献じたが、最初の章に「十五嫁王昌」とあった。邕は叱って「小児無礼なり」と言い、面会せずに去ってしまった。

劉太眞

劉太眞は宣州の人である。文章を作ることを善くし、蘭陵の蕭穎士に師事した。進士の高等に挙げられた。淮南の陳少遊が表を上って掌書記に任じ、嘗て少遊を桓公・文公に擬えたため、義士より誹謗された。興元初め、河東宣慰賑給使となり、累遷して刑部侍郎に至った。徳宗は天下が平らかになったことを以て、貞元四年九月、詔して群臣に曲江に宴せしめ、自ら詩を作り、勅して宰相に文人を選ばせて賡和させた。李泌らは群臣皆和すことを請い、帝自らその等第を定め、劉太眞・李紓らを上とし、鮑防・于邵らをこれに次ぎ、張濛らを下とした。選ばれた者は四十一人、ただ泌・李晟・馬燧の三宰相のみは差等を付けなかった。礼部に遷り、貢士を掌ったが、多く大臣貴近の子弟を取ったため、坐して信州刺史に貶せられ、卒した。

邵説

邵説は相州安陽の人である。既に進士第に擢でられたが、未だ調を受けず、史思明に陥った。朝義の敗北に及び、郭子儀に帰順し、子儀はその才を愛し、幕府に留めた。累遷して長安ちょうあん令・秘書少監となった。大暦末、上言して曰く、「天道は三十年に一小変、六十年に一大変す。禄山・思明の難は、出入り二紀、多難漸く平らぎ、向の乱は、今将に変じて治に至らんとす。宜しく徽号を建て、天意を承くべし。而るに方に郊廟を謁し、大赦各一たるも、誠に恐らくは雲雨の施未だ普からず、鬱結の気未だ除かれざるを。願わくは此の時に因りて享献を修め、郊廟に款き、徳有る者を褒め、賢人を録し、天下と更始し、災を振い寿を益すの術たるべし」と。聴かれず。

徳宗即位の後、吏部侍郎に擢でられた。説は因りて自ら陳べて曰く、「家は本より儒なり、先祖の長白山人の貞一は、武后の革命を以て、終身仕えることを肯んぜず。先臣の殿中侍御史瓊之は、玄宗に事え逮う。臣は十六にして即ち孤となり、母の手に長育され、天宝中に始めて仕う。喪に会い、河北に客し、禄山乱し、喪紀まさに終らんとす。臣は衰絰を褫かず又再期し、終に免れざるを懼れ、陰に洺・魏に走る。慶緒西城に遁れ保ち、儒者を捜し脅して己が用と為し、兵を以て臣を迫り、遂に醜逆に陥る。俄にして史思明順附し、間道を以て北闕下に帰らんと欲す。粛宗、臣を左金吾えい曹参そうしん軍に拝し、思明の所に留まることを許す。烏承恩の事に会い、路絶え、帰るを得ず。朝義の敗れ、固く河陽を守らんと欲す。臣は回紇の野戦に利あるを知り、陰に其の行を勧め、以て賊を破るの計と為す。朝義既に走り、臣西に帰りて状を献ず。先帝詔して翰林に臣の上言する所を索めしめ、王伷と偕に召す。先帝、誠節白く著るしと謂い、故に伷を侍御史に擢で、臣を殿中侍御史と為し、使者に宣旨制詔して其の状を尽く言わしむ。則ち疇昔の本末、先帝之を知る。今又擢でて次を以てせず。天断よりと雖も、尚謗りを輿人より受くるを恐れ、陛下の明を傷つけん。今吏員未だ乏しからずして調する者多く、功優を以て益し、平格に准えて以て留まるを判すれば、人去く者十に七、彼且つ讒説を鼓して以て疑を上に投ぜん。此れ臣の大いに懼るる所なり」と。因りて戸部郎中蕭定・司農卿庾準を薦めて自らに代えしめんとす。許されず。

説は職に在りて才を以て顕れ、或いは言う、将に政を執らんとすと。金吾将軍裴儆、柳載に謂いて曰く、「説は賊に事えて劇官と為り、其の兵を掌り、大小百戦し、名家の子を掠めて奴婢と為すこと数うべからず。死を宥められて厚顔無く、乃ち第産を崇め、貴幸に附く。相邦たらんと欲す、其れ能く久しからんや」と。建中三年、厳郢を逐う。説は郢と善くし、微かに朱泚を諷して其の冤を訟わしめ、草奏を為り、帰州刺史に貶せられ、卒した。

于邵

于邵は字を相門といい、其の先は代より来たり、京兆万年の人となった。天宝末、進士に第し、書判超絶を以て、崇文校書郎に補せられた。比部郎中より道州刺史となるも、行かず、巴州に徙る。歳饑に会い、部内の獠乱し、城下に迫る。邵は兵を励まして拒戦し、且つ使を遣わして諭曉し、獙は降を丐う。邵は儒服を以て出で、賊見て皆拝し、即ち引き去る。節度使李抱玉以て聞こえしめ、梓州に遷るも、疾を辞して拝せず、兵部郎中を授かる。崔寧蜀を帥き、表して度支副使と為す。俄かに諫議大夫として制誥を知り、進んで礼部侍郎となり、朝に大典冊有れば、必ず其の手より出づ。三司使と為り、薛邕の獄を治むるに、徳宗の旨を失い、桂州長史に貶せられる。復た太子賓客と為り、宰相陸贄と平らかならず、杭州刺史に出づ。久しく疾有りて告を求め、衢州別駕に貶せられ、江州に徙る。卒す。年八十一。

邵は孝悌行い有り、晩塗益ます修潔なり。樊澤始めて賢良を挙ぐ。邵望見して曰く、「将相の材なり」と。崔元翰進士を挙ぐ。年五十なり。邵其の文を以て異等に擢でて曰く、「後当に詔令を司どらん」と。已にして皆然り。独孤授博学宏辞を挙ぐ。吏部考して乙と当つ。邵之を覆し、甲科に置く。人其の公を咨る。

崔元翰

崔元翰は名を鵬といい、字を以て行わる。父良佐は、斉国公日用の従昆弟なり。明経甲科に擢でられ、湖城主簿に補せられたが、母喪を以て、遂に仕えず。詩・易・書・春秋を治め、演範・忘象・渾天等の論数十篇を譔す。共北白鹿山の陽に隠る。卒す。門人共に謚して貞文孝父と曰う。

元翰は進士・博学宏辞・賢良方正を挙ぐるに、皆異等なり。義成の李勉表して幕府に在らしめ、馬燧更に表して太原掌書記と為す。召されて礼部員外郎に拝す。竇参政を秉り、引いて制誥を知らしむ。其の訓辞温厚にして、典誥の風有り。然れども性剛褊にして、能く時に容れられることを取らず、孤特自ら恃む。誥を掌ること凡そ再期、遷らず、罷めて比部郎中と為る。時に已に七十余、卒す。

其の好学老いて倦まず、思を用いること精緻にして、班固・蔡邕の間に馳騁し以て自ら名家と為す。陸贄・李充を怨み、乃ち裴延齢に附く。延齢表して京兆の妄費を鉤校し、吏を執ること甚だ急なり。而して充等自ら過無く、訖りて能く傅致して以て罪と為さずと云う。

于公異

于公異は蘇州呉の人である。進士に擢第し、李晟表して招討府掌書記と為す。朱泚平らぎ、露布を徳宗に上りて曰く、「臣既に宮禁を肅淸し、寢園に祗奉す。鍾〓移らず、廟貌旧の如し」と。帝覧みて泣下し、曰く、「誰か之が辞を為す」と。或いは公異と対う。帝咨歎すること一再なり。初め、公異と陸贄故に隙有り。時に贄翰林に在り、聞きて喜ばず。世多く言う、公異能く後母に事えず、既に仕えて帰省せずと。及んで贄政を当つに及び、乃ち其の状を奏す。詔して孝経を賜い、罷めて田里に帰らしむ。盧邁坐して人に非ざるを挙ぐるに因り、俸を奪わるること両月。時に中書舎人髙郢嘗て御史元敦義を薦む。公異譴せらるるに及び、郢亦た敦義の美行無きを劾す。詔して敦義の官を免ず。公異是より自ら振るわずして卒す。

李益

李益は、故宰相李揆の族子(同族の子)にして、詩に於いて特に長ず。貞元の末、その名は同族の李賀と相並ぶ。一篇成る毎に、楽工は争って賄賂を以てこれを求め取り、声歌に被せ、天子に供奉す。征人・早行等の篇に至っては、天下皆これを図絵に施す。

幼少より癡愚にして猜忌心強く、妻妾を防閑すること苛酷厳しく、世間はこれを「李益疾」と謂う。同輩の行い稍々進み顕るるも、益のみは調せず、鬱鬱として去る。燕に遊び、劉濟が幕府に辟置し、進めて営田副使と為す。嘗て濟に詩を与え、語に怨望を含む。憲宗は元よりその名を知り、秘書少監・集賢殿学士に召す。能く堪えず、諫官が幽州在時の怨望の語を暴くに因り、詔して秩を降す。俄かに旧官に復し、累遷して右散騎常侍さんきじょうじに至る。大和初、礼部尚書を以て致仕し、卒す。

時にまた太子庶子李益、同じく朝に在りし故、世間は「文章李益」と言いて弁別せり。

盧綸

盧綸、字は允言、河中蒲の人。天宝の乱を避け、鄱陽に客す。大暦初、数たび進士に挙げられて第に入らず。元載、綸の文を取って進め、閿郷尉に補す。累遷して監察御史と為り、輒ち疾を称して去る。王縉と善しきに坐し、久しく調せず。渾瑊、河中に鎮し、元帥判官に辟し、累遷して検校戸部郎中と為る。嘗て京師に朝す。是の時、舅の韋渠牟、徳宗の寵を得、その才を表し、禁中に召見す。帝、作する所有れば、輒ち賡和せしむ。異日、渠牟に問うて曰く、「盧綸・李益は何れの処にか在る」と。答えて曰く、「綸は渾瑊に従い河中に在り」と。駅を以てこれを召す。会いて卒す。

綸は吉中孚・韓翃・錢起・司空しくう曙・苗發・崔峒・耿湋・夏侯審・李端と皆詩を能くし、名を斉しくし、「大暦十才子」と号す。憲宗、中書舎人張仲素に詔して遺文を訪ね集めしむ。文宗は特にその詩を愛し、宰相に問うて曰く、「綸の文章幾何ぞ。亦子有りや否や」と。李徳裕対えて曰く、「綸に四子有り。簡能・簡辞・弘止・簡求、皆進士第に擢でられ、台閣に在り」と。帝、中人を遣わし悉く家笥を索め、詩五百篇を得て以て聞かしむ。

附 吉中孚

中孚は、鄱陽の人。戸部侍郎に官す。

附 韓翃

翃、字は君平、南陽の人。侯希逸、表して淄青幕府に佐けしむ。府罷み、十年出でず。李勉、宣武に在り、復たこれを辟す。俄かに駕部郎中を以て制誥を知る。時に両韓翃有り、其の一は刺史と為る。宰相、孰れを与うべきかを請う。徳宗曰く、「詩人韓翃に与えよ」と。終に中書舎人に至る。

附 錢起

起は、呉興の人。天宝中、進士に挙げられ、郎士元と名を斉しくし、時の語に曰く、「前に沈・宋有り、後に錢・郎有り」と。終に考功郎中に至る。

附 司空曙

曙、字は文初、廣平の人。韋皋に従い劍南に在り、終に虞部郎中に至る。

附 苗発

発は晋卿の子にして、都官員外郎に終わる。峒は右補闕に終わり、湋は右拾遺に終わり、審は侍御史に終わる。

李端を附す

端は趙州の人なり。初め、郭曖が昇平公主をし、主は賢明にして才思あり、殊に士を招き納るるを好みし故に、端ら多く曖に従いて遊ぶ。曖嘗て官を進められし時、大いに客を集めしに、端の賦せる詩最も工なりしを以て、錢起曰く「素より之を為す、請う起の姓を賦せん」と。端立ちて一章を献じ、又前に勝れて工なりしに、客乃ち服し、主は帛百を賜う。後に疾を移して江南に至り、杭州司馬に終わる。

歐陽詹

歐陽詹、字は行周、泉州晉江の人なり。其の先は皆な本州の州佐・縣令たり。閩越の地は肥衍にして、山泉禽魚あり、文書吏事を通ずる能くとも、北につかふるをがえんぜず。常袞の宰相を罷めて觀察使と為るに及び、始めて縣鄕の秀民にして文辭を能くする者を択び、之と賓主の鈞禮を為し、觀游饗集には必ずあずかり、里人は矜耀す、故に其の俗稍々相い仕ふるを勧む。初め、詹は羅山甫と同く潘湖に隠れ、往きて袞に見ゆ。袞之を奇とす。辞して帰らんとし、舟を泛べて飲餞す。進士に挙げられ、韓愈・李觀・李絳・崔羣・王涯・馮宿・庾承宣と聯第し、皆天下の選なり、時に「龍虎榜」と称す。閩人の進士に第せられるは、詹より始まる。

詹は父母につかふるに孝、朋友と信義を交わす。其の文章は切深にして、回復明辯なり。愈と善し。詹先づ國子監四門助教と為り、其の徒を率いて闕下に伏し、愈を博士に挙ぐ。卒す、年四十餘。崔羣之を哭すること甚だしく、愈は詹の為に哀辭を為し、自ら書して羣におくる。初め、徐晦進士に挙げられてあたらず、詹数しばしば之を称す、明年髙第し、福建觀察使に仕ふ。詹に及ぶを語れば、必ず流涕す。

從子 秬

從子秬、字は降之、亦た文を為すに工なり。陸洿右拾遺より司勳郎中を除せられ、官を棄てて呉中に隠る。詔して之を召す、既に道に在りしに、秬書を遺して出處のにわかなるを譲る。洿至らずして還る。秬の名益々聞こゆ。

開成中、進士第に擢げられ、而して里人蕭本妄りに貞獻太后と近屬なりと言ひ、恩寵赫然たり。秬之を恥づ。會す澤潞の劉從諫表して秬を幕府に在らしむ。秬本の偽を辯質す。本終に罪を得。其の子稹命に拒む。秬方に休假して家に還る。稹表して時政を斥損す。或いは言ふ、秬之を為せりと。詔して崖州に流し、死を賜ふ。刑に臨み、色橈めず、書を為して遍く故人に謝し、自ら墓を誌す。人皆な之を憐れむ。

李賀

李賀、字は長吉、鄭王の後より出づ。七歳にして辭章を能くす。韓愈・皇甫湜始めて聞きて未だ信ぜず、其の家に過ぎ、賀に詩を賦せしむるに、筆を援げば輒ち就くこと素より構へしが如し、自ら目して曰く髙軒過と。二人大いに驚き、是より名有り。人と為り纖瘦にして、眉を通じ、指爪長く、疾書を能くす。毎旦日出づれば、弱馬に騎り、小奚奴に従ひ、古錦の囊を背にし、得る所遇へば、書して囊中に投ず。未だ嘗て先づ題を立て然る後に詩を為すこと、他人の牽合して程課するが如きに非ず。暮れに帰るに及び、足して之を成す。大醉・弔喪の日に非ざれば率ね此の如し。過ぐるも亦甚だ省みず。母婢をして囊中を探らしむるに、書する所の多きを見て、即ち怒りて曰く「是の兒は心を嘔き出さむと要して乃ち已まんとするのみ」と。父の名を晉肅と為すを以て、進士を挙げるを肯んぜず。愈之が為に諱辨を為すも、然れども卒に亦挙に就かず。

辭は奇詭を尚び、得る所は皆な驚邁にして、翰墨の畦逕を絶ち去り、當時之に效ふる者能はず。樂府数十篇、雲韶の諸工皆な之を絃管に合す。協律郎と為り、卒す、年二十七。游ぶ者權璩・楊敬之・王恭元、毎に譔著するに、時に為に取られ去らる。賀亦早世せし故に、其の詩歌世に傳ふる者鮮かなり。

呉武陵

呉武陵、信州の人なり。元和の初め、進士第に擢げらる。淮西の呉少陽其の才を聞き、客鄭平を遣わして之をむかへ、将に賓友を以て待たんとす。武陵答えず。俄にして少陽の子元濟叛く。武陵書を遺して、自ら東呉王孫と称し、曰く

「夫れ勢ひ必ず得べからざる有り、事必ず疑ふべからざる有り。徒らに暴逆の名を取りて、物をへ俗を敗るは、智と謂ふべからず。一日亡破すれば、平生の親愛頭を連ねて就戮す、仁と謂ふべからず。支屬繁衍にして、因縁磨滅し、先魂傷餒す、孝と謂ふべからず。数百里の内、おりの若く拘へられ、常に左右の手に死すを疑ひ、低回姑息す、明と謂ふべからず。且つ三皇以来、数千万載、何ぞにわかに理亂常して能く自らおわる者有らんや。貞元の時、德宗函容を以て天下を御す。河北の諸鎭地を専にして臣とせず。朝廷爵號を以て資す。桀黠の者自ら計を得たりと謂ひ、反を以て利と為す。是に於て楊惠琳・劉闢・李錡・盧從史等又亂る。皇帝即位し、赫然として偏師を命じて之を討たしめ、盡く其の辜を伏せしむ、所謂時に當るなり。

かつて、張太尉は城壁の守備の労を厭い、易州・定州を辞して国老となり、田尚書は知慮が世俗を絶し、また魏博を以て帰順し、幽州・檀州・滄州・景州は皆信頼すべき臣下となった。しかしながら、足下と同心なるは、ただ斉・趙のみである。そもそも斉を恃むことなどできようか。徐はその頭を圧し、梁はその翼を薄くし、魏はその脛を断ち、滑はその腹を刺し、淮南はその衝に当たり、分兵すれば相救うに足らず、全軍を挙げれば曹・魯・東平はその有する所とならず。彼らは何の苦しみがあって自らを棄てようか。趙に至っては、固より子分のようなものである。先日、主上は沢潞を以てその先導とし、既に従史を斥けた後、姑く罪を赦し、爵禄を復したが、天下の人で討伐を欲する者は十中八、何のこともなく、丞相・御史を害し、朝廷は足下の故を以て、未だ斧鉞を加えず。されば、中山は城の険を搏ち、太原は井陘の隘に乗じ、燕は楽寿を徇り、邢は臨城を扼し、清河はその南を絶ち、弓高はその北を断つ。孤雛腐鼠、責めを求むるに暇あらず、またどうして人を救えようか。二鎮が敢えて動かざることもまた明らかである。足下は何を待って窮地に処するのか。

昔、私の師裴道明が嘗て言うには、『唐家二百年にして中興の主有り、その時に当たり、狠傲なる者は尽く滅び、河・湟の地は復す』と。今天子は英武にして賢を任じ、太宗に符節を同じくし、寛仁にして物を厚くし、玄宗の度量有り、罰は罪を貸さず、賞は功を遺さず。諸侯は斉・趙を豢養してその隙を熟させ、将帥は室を築き兵を礪き、進んで房・蔡を窺い、屯田は漕運を継ぎ、前鋒は喉を扼し、後陣は背を撫で、左は排し右は掖す。これ、幾何もせずして倒れざらんや。

足下は部曲が我を欺かざると思いなさるな。人心は足下と一つである。足下が天子に反すれば、人もまた足下に反せんと欲する。地を易えて論ずれば、兇横の命を嬰るは、大君の官守を奉ずるに若かず。戈を枕にし矛を把り、地を得ずして死するは、爵命を兼ね坐して胤嗣を保つに若かず。足下もし能く知幾の烈を挺てば、一介の使を発し、士馬・土疆を籍して有司に帰するに若くはない。上は覆載の仁を以て、必ず足下を保納し、垢瑕を滌い洗い、以て四海に倡えん。将校官属は寵且つ貴なるを失わず。何となれば、国を為す者は繊悪を以て大善を蓋わさぬからである。かつ、二心あれば伐ち、服すれば捨て、寵栄は厚くすべく、骨肉は保つべし。何ぞ独り為さざるのか。

三州は至って狭く、万国は至って広し。力は相侔わず、判然として知るべし。仮に官軍百敗すとも、行陣未だ乏しきことなからん。足下一敗すれば則ち擒らえられん。そもそも一壮士十夫に当たらずとは、その左右前後皆敵なればなり。いわんや一卒を以て百人に当たらんと欲するをや。昏迷して返らず、諸侯の師城下に集まり、壘を環らし塹を刳り、流潦を以て灌げば、主将は怨み携わり、士卒は崩れ離れ、田儋・呂興のごとき肘腋より発せん。屍は裹まるを得ず、宗は祀らるるを得ず、臣僕は以て誡めと為し、子孫は祖とせず、生けては暗愎の人、没しては幽憂の鬼。何ぞ其れ痛ましきこと甚だしきや。

元済は書を得て悟らず。

時に裴度の東討に会し、韓愈が司馬となると、武陵は愈に勧めて度の謀りと為らしめんとし、「中官の常に快とせざる者を取って監軍と為し、素より快とする者を内に帰せしめ、我が地と為して諸侯を傾け、帛百万を出して士大夫に給すれば、孰れか丞相の人と為らざらん。然る後、三大将を分かちて賊を環らし屯し、斥候を明らかにし、牛酒を以て高会し、密かに実の期日を以て蔡に臨む諸将に授け、而して三期を以て賊を紿かし、弁士をして尺書を持たせ元済及び将士を劫し約して降らしめば、彼竄謀する所無からん」と言う。時に度の部署は既に定まりし故、用いられず。元済の未だ破られざる数ヶ月前、武陵は硤石より東南を望むに、気は旗鼓矛楯の如く、皆顛倒横斜せり。少選して、黄白の気西北より出で、盤蜿相交わる。武陵は愈に告げて曰く、「今西北は王師の在る所、気黄白は喜象なり。敗気は賊と為り、日は木に直り、其の盈数を挙ぐれば、六十日を閲ずして賊必ず亡ぶ。夫れ天其の祥を見すは、宜しく事を修めて之に応ずべし。かつ洄曲の守将は急緩すべからずして使うべからず、呉城の賊将趙曄は詐にして軽し。若し兵を以て之を誘い、伏せて以て待てば、一挙にして其の城を奪うべく、則ち右臂断たれん」と。武陵の奇譎なること、此の類の如し。

長慶の初め、竇易直が戸部侍郎として度支を判じ、武陵を表して塩を北辺に主どらしむ。易直は職に不なるを以て、其の遇を薄くす。時に表して和糴貯備使を置き、郎中を択びて之が為にせんとす。武陵諫めて曰く、「今縁辺の膏壤、鞠て榛莽と為り、父母妻子相活かず。前に朔方に在りし時、度支の米価四十にして、而も月を踰ゆる積み無く、皆先ず商人に取り、而る後牒を求めて都に還りて錢を受く。脱し寇有りて城に薄かば、三旬ならずして便ち餓死すべし、何の所にか財を取りて和糴と云わんや。天下治まらずとは、権の有司に帰せざるを病とす。塩鉄・度支は一戸部郎の事、今其の務を三分し、吏万員、財賦日々に蹙む。西北辺の院官は、皆御史・員外郎を以て之が為にす。始め命ずる時は責めて信ずべく、今又使を加えて其の務を権らしむるは、是れ御史・員外の事に久しきも、返って信ずべからざるなり。今更に旬月を経れば、又郎中の為すを以て信ずべからざるとなさん。即ち更に時歳を経れば、明公の為すも、亦又信ずべからざるとなさん。上下相阻み、一国交わって疑わば、誰をか信ずべき者と為さん。況んや一使の建つや、胥徒走卒殆ど百輩、督責騰呼し、数千里寧ならず。誠に辺隅を完実せしめんと欲すれば、独り浮民を募り、罪人を徙し、沃土を発するも可なり。何ぞ必ずしも使を加え吏を増さんや」と。易直納れず。

久しくして、入って太学博士と為る。大和の初め、礼部侍郎崔郾が東都にて進士を試す。公卿皆長楽にて祖道す。武陵最後に至り、郾に謂いて曰く、「君方に天子の為に奇材を求めんとす。敢えて益する所を献ぜん」と。因りて袖中の書を出だし笏に搢す。郾之を読むに、乃ち杜牧の賦する所の阿房宮賦なり。辞既に警抜なる上、武陵の音吐鴻暢なるに、坐客大驚す。武陵請いて曰く、「牧方に有司に試みられんとす。請う第一人を以て之を処せん」と。郾謝して已に其人を得たりとす。第五に至り、郾未だ対せざるに、武陵勃然として曰く、「然らずば、宜しく賦を以て見還すべし」と。郾曰く、「教の如くす」と。牧果たして異等なり。後に出でて韶州刺史と為り、贓に坐して潘州司戸参軍に貶せられ、卒す。

初め、柳宗元永州に謫せられし時、武陵亦事に坐して永州に流され、宗元其の人を賢とす。宗元が柳州刺史と為るに及び、武陵北還し、大いに裴度に器遇せらる。毎に宗元に子無きを言い、度を説いて曰く、「西原蛮未だ平らかならず、柳州は賊と犬牙す。宜しく武人を用いて宗元に代え、江湖に優游せしむべし」と。又、工部侍郎孟簡に遺す書に曰く、「古に一世三十年と称す。子厚の斥けらるること十二年、殆ど半世なり。霆砰電射は天の怒りなり。終朝を能くせず。聖人上に在りて、安んぞ畢世にして人臣を怒らんや。且つ程・劉・二韓は皆已に抜拭せられ、或いは大州劇職に処る。独り子厚猿鳥と伍を為す。誠に恐るらくは霧露の嬰るるを、則ち柳氏後無からん」と。度未だ用うるに及ばずして宗元死す。始め、李愬が唐・鄧を節度せし時、武陵は李景儉・王湘の健智沈敏なるを薦め、表して自らの副とすべしと言い、時に知人と号せらる。

李商隱

李商隠は字を義山といい、懐州河内の人である。あるいは英国公李世勣の裔孫だともいう。令狐楚が河陽の節度使となったとき、その文才を奇として、諸子と交遊させた。楚が天平・宣武に移ると、いずれも巡官に表奏して任用し、毎年資装を整えて挙人の上京に随行させた。開成二年、高鍇が貢挙を掌ると、令狐綯は高鍇と親しく、大いに称賛したので、進士に及第した。弘農尉に任じられ、囚人を生かしたことで観察使孫簡の意に逆らい、罷免されようとしたが、ちょうど姚合が孫簡の後任となって、官に戻るよう諭した。また抜萃科を受験して合格した。

王茂元が河陽を鎮守したとき、その才能を愛で、書記を掌るよう表奏し、娘を妻とさせ、侍御史を得た。茂元は李徳裕と親しく、牛・李の党人は商隠を嗤って、詭薄で行いがなく、共に排斥した。茂元が死ぬと、京師に遊学し、長く任用されず、さらに桂管観察使鄭亜の幕府に依って判官となった。鄭亜が循州に貶謫されると、商隠はこれに従い、凡そ三年して帰った。鄭亜もまた李徳裕と親しい者であり、令狐綯は商隠が家の恩を忘れ、利に走って迎合したと思い、謝絶して通じなかった。京兆尹盧弘止が府参軍に表奏し、牋奏を掌らせた。令狐綯が国政を執ると、商隠は困窮を訴えて自ら弁解したが、綯は恨みを置かなかった。弘止が徐州を鎮守すると、掌書記に表奏した。久しくして朝廷に戻り、再び令狐綯に干謁し、ようやく太学博士を補された。柳仲郢が剣南東川節度使となると、判官に辟召し、検校工部員外郎となった。幕府が罷めると、滎陽けいように客居し、卒した。

商隠は初め文を為すに瑰邁奇古であったが、令狐楚の幕府に在ったとき、楚はもとより章奏に巧みで、その学を授けた。商隠は儷偶長短に長じ、繁縟はこれを過ぎた。時に温庭筠・段成式ともにこれを用いて互いに誇り、「三十六体」と号した。

薛逢

薛逢は字を陶臣といい、蒲州河東の人である。会昌初年、進士に及第した。崔鉉が河中を鎮守したとき、幕府に表奏した。崔鉉が再び宰相となると、万年尉に引き立てた。弘文館に直した。侍御史・尚書郎を歴任した。持論は鯁切で、謀略が高いことを以て自ら標榜した。

初め、彭城の劉瑑と交わり、瑑の文辞は薛逢より数人下であったが、常にこれを軽んじた。瑑が次第に親近されると、薛逢は意を得ず、遂に互いに忿恨した。ちょうど劉瑑が国政を執ると、薛逢を知制誥に推薦する者があったが、劉瑑はみだりに言うに、「先朝は両省の官である給事中・中書舎人を任ずるに先ず州県を治めさせ、初めて除することができた。薛逢はまだ州を試みていない」と。執って認めなかった。そこで巴州刺史として出された。一方、楊収・王鐸は同牒で及第し、楊収が政を輔けると、薛逢は詩で微かに辞を以て譏誚し、楊収はこれを恨み、再び蓬州・?州刺史に斥けた。楊収が罷めると、太常少卿として召還され、給事中を歴任した。王鐸が宰相となると、薛逢はまた詩で王鐸を誹謗し、王鐸は怒り、朝廷内外もまた薛逢の褊狭を卑しんだので、故に歯牙にかけられなかった。秘書監に遷り、卒した。

子の廷珪は進士に及第した。大順初年、司勲員外郎として知制誥を以て、中書舎人に遷った。昭宗に従って華州に駐蹕し、左散騎常侍に引き立てて拝されたが、病と称して免じ、成都に客居した。光化年中、再び舎人となり、累進して尚書左丞となった。朱全忠が四鎮を兼ねると、廷珪は官告使として汴に至り、客将が先に会見し、拝礼するようほのめかしたが、廷珪は知らぬふりをして言うに、「吾れ何の徳があって、令公の拝礼を受けようか」と。会見に及んでも、終に礼を加えようとしなかった。

李頻

李頻は字を徳新といい、睦州寿昌の人である。若くして秀悟で、長ずるに及んで西山に廬し、多く記覧した。その属辞は、詩において特に長じた。里人の方干と親善であった。給事中姚合は詩で名があり、士人多く帰重したが、李頻は千里を走ってその品評を請い、姚合は大いに称揚し、娘を妻とさせた。

大中八年、進士に及第し、秘書郎に任じられ、南陵主簿となった。判入等して、再び武功令に遷った。このとき畿内の民は多く神策軍に籍を置き、吏はその横暴を以て、概ねこれを憚り、敢えて法で裁こうとしなかった。李頻が到着すると、神策軍の士尚君慶が、六年も賦税を滞納して納めず、傲然として里巷に出入りしていた。李頻は密かに隣伍を摘発して競わせ、君慶が県廷に叩頭して質すと、李頻は即ち械で獄に送り、旧悪をことごとく条陳し、京兆尹に請うてこれを殺し、負債を督して少しも寛容しなかった。豪猾は大いに驚き、息を潜めて法に奉じ、県は大いに治まった。六門堰というものがあり、百五十年廃頽していたが、ちょうど凶歳で、李頻は官倉を開いて民を雇い渠を浚わせ、旧道に従って水を分かち田を灌漑し、穀物は大いに豊作となった。懿宗はこれを嘉し、緋衣・銀魚を賜った。まもなく侍御史に抜擢され、法を守って阿徇せず、累遷して都官員外郎となった。建州刺史を請うて表した。到着すると、礼法を以て下を治め、さらに条教を布いた。時に朝政は乱れ、盗賊が起こり、互いに奪い合ったが、建州は李頻によって安泰であった。官の下で卒し、喪が帰ると、父老相ともに柩を扶け、永楽州に葬り、梨山に廟を立て、毎年これを祀った。天下が乱れ、盗賊がその墓を暴くと、寿昌の人は随って封土を加えて掩ったという。

呉融

呉融は字を子華といい、越州山陰の人である。祖父の翥は、大中年間に名があり、観察府が吏に任用しようと召したが応じず、節度使はその気概を高く評価し、朝廷に言上して、文簡先生の号を賜った。

呉融は学問に自力し、辞調に富んだ。龍紀初年、進士に及第した。韋昭度が蜀を討つとき、書記を掌るよう表奏し、累遷して侍御史となった。連座して官を去り、荊南に流浪し、成汭に依った。久しくして左補闕に召され、礼部郎中として翰林学士となり、中書舎人を拝した。昭宗が反正し、南闕に御すると、群臣が称賀したが、呉融が最も早く到着した。このとき左右は歓喜驚き、帝が指図授けると、十余りの草稿を重ね、呉融は跪いて詔を作り、しばらくして完成し、語は意に当たり詳しく、帝は賞賛して甚だ厚かった。戸部侍郎に進んだ。鳳翔に劫遷されたとき、呉融は従うことができず、去って閿郷に客居した。まもなく翰林に召還され、承旨に遷り、官のまま卒した。