新唐書

巻二百一 列傳第一百二十六 文藝上 袁朗 賀德仁 蔡允恭 謝偃 崔信明 劉延祐 張昌齡 崔行功 杜審言孫:杜甫 王勃附:楊炯 盧照鄰 駱賓王 元萬頃

唐は天下を有すること三百年、文章はおおよそ三変あり。高祖こうそ・太宗の時は、大難始めて平らぎ、江左の余風に沿い、文句を綺麗に飾り、揣摩迎合して上下に合わせたので、王勃・楊炯がその伯となった。玄宗は経術を好み、群臣は次第に彫琢を厭い、理致を求め、雅を崇め浮を黜け、気益々雄渾となり、則ち燕国公張説・許国公蘇頲がその宗を擅にした。この時、唐興って既に百年、諸儒は争って自ら名家を成した。大暦・正元の間、美才輩出し、道の真を咀嚼し、聖の涯を涵泳し、ここにおいて韓愈がこれを倡え、柳宗元・李翺・皇甫湜らがこれに和し、百家を排逐し、法度森厳、晋・魏を抵轢し、上は漢・周を軋し、唐の文は完然として一王の法となり、これがその極みである。若し侍従酬奉の文ならば李嶠・宋之問・沈佺期・王維、制冊ならば常袞・楊炎・陸贄・権徳輿・王仲舒・李徳裕、詩を言うならば杜甫・李白・元稹・白居易・劉禹錫、譎怪ならば李賀・杜牧・李商隠、皆卓然としてその長を以て一世の冠たり、その尚ぶべきこと已んぬ。

然れども嘗てこれを言う、夫子の門に文学を以て下科と為す、何ぞや。蓋し天の付与する所は、君子小人に常の分無く、惟だ能くする者のみ之を得る故に、一芸と号す。中智より以還、恃みて以て敗を取る者有り、朋奸し偽を飾る者有り、怨望して国を誹る者有り。若し君子は則ち然らず、自ら功業行実を以て時に光明ならしめ、亦た一に立言に於いてのみに非ずして朽ちず垂れ、仮令試みるを得ずとも、固より且つ闡繹優遊し、異有っても排せず、怨有っても誹らず、而して君を善に納るることを忘れず、故に貴ぶべきなり。今但だ文を以て自ら名を成す者を取って『文芸篇』と為す。韋応物・沈亜之・閻防・祖詠・薛能・鄭穀等、その類尚だ多く、皆班班として文の人間に在る有り、史家その行事を逸する故に、述べ得ることを得ずと云う。

袁朗

袁朗、その先は雍州長安ちょうあんの人。父の樞は、陳に仕えて尚書左僕射と為る。朗は陳に在りて秘書郎と為り、江総特に之を器とした。後主その才を聞き、詔して『月賦』一篇を為さしむるに、灑然として留まる思無く、後主曰く「謝荘独り前に美を為すを得ず」と。復た詔して『芝草』・『嘉蓮』二頌を為さしむるに、歎賞特に厚し。累遷して太子洗馬・徳教殿学士と為る。陳滅びて隋に入り、尚書儀曹郎を歴任す。

武徳初め、隠太子と秦王・斉王相傾き、争って名臣を致して以て自らを助けしむ。太子には詹事李綱・竇軌、庶子裴矩・鄭善果、友賀徳仁、洗馬魏徴、中舎人王珪、舎人徐師謨、率更令欧陽詢、典膳監任璨、直典書坊唐臨、隴西公府祭酒韋挺、記室参軍事庾抱、左領大都督ととく府長史唐憲有り。秦王には友于志寧、記室参軍事房玄齢・虞世南・顔思魯、諮議参軍事竇綸・蕭景、兵曹杜如晦、鎧曹褚遂良、士曹戴胄・閻立德、参軍事薛元敬・蔡允恭、主簿薛収・李道玄、典籤蘇幹、文学姚思廉・褚亮、敦煌公府文学顔師古、右元帥府司馬蕭瑀、行軍元帥府長史屈突通・司馬竇誕、天策府長史唐儉・司馬封倫、軍諮祭酒蘇世長、兵曹参そうしん軍事杜淹、倉曹李守素、参軍事顔相時有り。斉王には記室参軍事栄九思、戸曹武士逸、典籤裴宣儼有り、朗は文学と為る。従父弟の承序も亦た名有り、王召して文学館学士と為す。朗累封して汝南県男と為り、再転して給事中と為る。卒す、太宗為に朝を廃すること一日、高士廉に謂ひて曰く「朗任浅くして性謹厚、人をして悼惜せしむ」と。詔して喪費を給し、其の家を存問す。

朗の遠祖滂は、漢の司徒しとと為る。滂より朗に至る凡そ十二世、其の間司徒・司空しくうたる者四世、淑・顗・察皆宋の難に死し、昂は斉・梁に節を著す。時に朗自ら中外の人物を以て海内の冠と為し、仮令琅邪王氏踵いで公卿と為るも、特だ累朝佐命の功有るを以てし、鄙みて伍と為さず。

孫 誼

朗の孫誼は、神功中蘇州刺史と為る。司馬張はいなる者は、侍中文瓘の子、嘗て誼に白して曰く「州に一長史を得たり、隴西李亶、天下の甲門なり」と。誼曰く「夫れ門戸と為るは、歴世の名節を以て天下の高むる所、老夫是なり。山東人は尚だ婚媾を重んじ、祿利を求むるのみ、危きを見て命を受くるに至っては、則ち人無し、何ぞ尚ぶに足らんや」と。沛大いに慚じぬ。

従父弟 承序

承序は斉王元吉府の学士と為り、府廃せられ、建昌令を補す。治め慈簡を尚び、吏民徳を懐く。高宗の晋王と為らんとする時、太宗僚属を崇く選び、梁・陳の名臣子弟誰か可なるかを問う。岑文本曰く「昔陳亡びし時、百司奔散す、袁憲なる者有り、朝服を着て後主の傍に立ち、白刃も避けず。王世充隋を篡す、群臣表を上りて進むるを勧む、而るに憲の子給事中承家は疾と称して肯て署せず。今其の少子承序、風操清亮、先烈に愧じず」と。帝乃ち召し拜して晋王友・兼侍読と為し、弘文館学士を加え、卒す。

従祖弟 利貞

朗の従祖弟利貞は、陳の中書令敬の孫、高宗の時に太常博士・周王侍読と為る。及び王立って太子と為るに及び、百官礼を上る、帝群臣・命婦を大会し合宴を宣政殿に設け、九部伎・散楽を設けんとす。利貞上疏して諫め、以て「前殿路門は、命婦宴会・倡優進御の所に非ず、請う命婦を別殿に徙し、九部伎を左右の門より入らしめ、散楽を罷めて進めざらしむ」と為す。帝之を納る。既に会し、帝詔を伝えて利貞に曰く「卿奕葉忠鯁、能く疏を抗して朕の失を規む、厚く賜わずんば能くする者を勧むること無し」と。乃ち物百段を賜う。祠部員外郎に擢で、卒す。中宗立ち、旧恩を以て追贈して秘書少監と為す。

賀徳仁

賀德仁は越州山陰の人である。父の朗は、陳の散騎常侍さんきじょうじで終わった。德仁は従兄の德基と共に周弘正に師事し、文辞をもって称され、人々が語って曰く「学行は師とすべきは賀德基、文質彬彬たるは賀德仁」といった。兄弟八人、時に漢の荀氏に比せられ、太守の鄱陽王伯山はその住む甘滂里を高陽と改めたという。

初め、德仁は陳に在りて、吳興王友となった。隋に入り、楊素がその材を薦め、章王記室を授けられ、王はこれを厚く遇した。齊に徙封されると、また府の属官となった。王が廃されると、官吏は罪に当たったが、德仁は忠謹をもって赦され、河東司法参軍を補された。素より隱太子と善くし、高祖が兵を起こすと、太子は隴西公に封ぜられ、德仁を友とし、庾抱を記室とした。俄かに並びに中舍人に遷る。年老いて吏職を更えず、洗馬に徙り、蕭德言・陳子良と皆東宮學士となった。貞觀初め、趙王友に遷り、卒した。

從子の紀・敱もまた博學であった。高宗の時、紀は太子洗馬となり、五禮の修撰に預かり、敱は率更令・兼太子侍讀となり、皆崇賢館學士となった。

附 庾抱

抱は、陳の御史中丞眾の孫である。開皇中、延州参軍となった。吏部に入調し、尚書牛弘が筆劄を与え、自ら序せしめたところ、筆を援げて成した。元德太子學士となり、會うところ嫡皇孫生誕の大宴に、坐中に頌を献じ、太子は嗟賞した。及び隴西府に在りては、文檄は皆その手に出づ。

蔡允恭

蔡允恭は荊州江陵の人、後樑の左民尚書大業の子である。姿容美しく、詩を工みす。隋に仕え、起居舍人を歴任した。煬帝が賦を作るごとに、必ずこれを諷誦せしめた。宮人を教えさせようと遣わしたが、允恭はこれを恥じ、数たび疾と称した。内史舍人を授け、俾うところ宮に入らしめんとしたが、因りて辞し、これにより疎斥された。帝がしい遇され、宇文化及・竇建德に事え経て、國に歸り秦王府参軍・文學館學士となった。貞觀初め、太子洗馬を除かれ、卒し、『後樑春秋』を著した。

謝偃

謝偃は衛州衛の人、本姓は直勒氏、祖の孝政は北齊に仕えて散騎常侍となり、姓を謝に改めた。偃は隋にて散從正員郎であった。貞觀初め、詔に応じて對策高第となり、高陵主簿を歴任した。太宗が東都に幸する時、穀・洛水が洛陽らくよう宮を壞したので、詔して直言を求めしめ、偃は上書して得失を陳べ、帝は善しと称し、弘文館直學士に引き、魏王府功曹に遷した。嘗て『塵』・『影賦』二篇を作り、帝はその文を美しとし、召見して偃に賦を作らせんと欲した。先ず序一篇を作り、頗る天下乂安・功德茂盛の意を言い、偃に授けて賦を作らしめた。偃は帝の指すところに縁り、篇名を『述聖』と曰い、帝は悅び、帛数十を賜うた。

初め、帝が即位するや、直中書省の張蘊古が『大寶箴』を上り、民畏れて未だ懷かざるをもって帝を諷し、その辞は挺切にして、大理丞に擢げられた。偃はまた『惟皇誠德賦』を献じ、その序は大略に言う「治にして亂を忘れ、安にして危を忘れ、逸にして勞を忘れ、得にして失を忘る、この四者は人主にして然らざるは莫し。桀は瑤台を以て麗と為し、而も南巢の禍を悟らず、殷辛は象箸を以て華と為し、而も牧野の敗を知らず。是を以て聖人は宮室に処すれば則ち前王の亡ぶ所以を思い、萬國に朝すれば則ち己の尊ぶ所以を思い、府庫を巡れば則ち今の得る所以を思い、功臣を視れば則ちその輔佐の始めを思い、名将を見れば則ち用力の初めを思う。此くの如くすれば則ち人に易心無く、天下何ぞ化せざるを患えんや。旦に行えば堯・舜、暮にして失えば桀・紂、豈に異人ならんや」と。その賦は蓋し帝の成功を規し、自ら至難に処するを云う。また『玉諜真紀』を撰して封禅を勧む。時に李百藥は詩を工み、偃は賦に善く、時人「李詩謝賦」と称す。府廢せられ、終に湘潭令となった。

蘊古は洹水の人。書傳に敏く、世務に曉たり、文は當時に擅る。後事に坐して誅せられた。

崔信明

崔信明は青州益都の人。高祖の光伯は後魏に仕えて七兵尚書となった。信明の生まるるや、五月五日、日方中にして、異雀鳴き集り庭樹にあり、太史令史良が占いて曰く「五月は火なり、火は『離』を主る、『離』は文なり、日中は文の盛んなるなり、雀五色にして鳴く、この兒将に文を以て顕はるべし。然れども雀の類微なり、位殆ど高からざるか」と。及んで長ずるに、強記にして、文章を美くす。郷人の高孝基嘗て人に語りて曰く「崔生の才富み、一時の冠たるも、但だ位到らざるを恨むのみ」と。隋の大業中、堯城令となった。竇建德が號を僭すや、而して信明の族弟敬素なる者、賊の鴻臚卿となり、自ら得意と謂い、信明に語りて曰く「夏王英武にして、天下を挙ぐるの心有り、士女繈負して至ること数うべからず。兄は此時を以て功を立て事を立たず、豈に所謂幾を見て終日を俟たざるを謂うや」と。答えて曰く「昔、申胥は海隅の釣師にして、能くその節を固くす。爾は吾が身を賊中に屈して斗筲を求めしめんと欲するか」と。遂に城を逾えて去り、太行山に隱れた。貞觀六年、詔有りて即ち家に拜して興勢丞となった。秦川令に遷り、卒した。

信明は蹇亢にして、門望を以て自ら負い、嘗てその文を矜り、李百薬に過ぐと謂い、議者は許さず。揚州錄事參軍の鄭世翼なる者もまた驁倨にして、数たび恌軽に物に忤い、信明に江中に遇い、謂いて曰く「公に『楓落吳江冷』有りと聞く、其の餘を見んことを願う」と。信明は欣然として多く衆篇を出だす、世翼は覽み終わらざるに曰く「見る所聞く所に逮わず」と。諸を水に投じ、舟を引いて去る。

附 鄭世翼

世翼は、鄭州滎陽けいようの人、周の儀同大將軍敬德の孫なり。貞觀の時、怨み謗る罪に坐して巂州に流死す。『交遊傳』を撰し、世に行わる。

信明の子冬日、武后の時に位は黃門侍郎、酷吏に誣られて死す。

劉延祐

劉延祐は、徐州彭城の人なり。伯父胤之、少より志學し、孫萬壽・李百藥と相善しむ。武德中、杜淹に薦められて信都令と為り、惠政有り。永徽初、著作郎・弘文館學士として令狐德棻・陽仁卿等と國史並びに實録を撰次し、勞により陽城縣男に封ぜらる。楚州刺史に終る。

延祐は進士に擢でられ、渭南尉を補し、吏能有り、治績第一なり。李勣之を戒めて曰く、「子は春秋少にして美名有り、宜しく稍自ら抑へ、人の上に出でる無きを為すべし」と。延祐欽みて納る。後に檢校司賓少卿、薛縣男に封ぜらる。

徐敬業敗れたる後、詔して延祐に節を持して軍に到らしむ。時に吏議す、敬業の署けたる五品官は殊死、六品は流と。延祐謂ふ、誣脅は情を以て察す可しと。乃ち論じて五品官は流に當り、六品以下は除名すべしとし、全宥すること甚だ衆し。箕州刺史を拜し、轉じて安南都護と為る。舊俚戶は歲半租なりしが、延祐全入を責む。衆始めて怨み、亂を謀る。延祐其の渠李嗣仙を誅す。而して餘黨丁建等遂に叛き、衆を合して安南府を圍む。城中兵少にして支へず、壘を嬰して援を待つ。廣州の大族馮子猷、功を立つるを幸ひ、兵を按じて出でず。延祐害に遇ふ。桂州司馬曹玄靜兵を進めて建を討ち、之を斬る。

從弟 藏器

延祐の從弟藏器、高宗の時に侍御史と為る。衛尉卿尉遲寶琳、人を脅して妾と為す。藏器劾して之を還す。寶琳私に帝に請ひて其の還るを止む。凡そ再び劾し再び止む。藏器曰く、「法は天下の縣衡たり、萬民の共にするところ、陛下用捨情に繇る。法何の施すところか有らん。今寶琳私に請ふ、陛下之に從ふ。臣公に劾す、陛下亦之に從ふ。今日從ひ、明日改む。下何の遵ふところか有らん。彼匹夫匹婦猶失信を憚る。況や天子乎」と。帝乃ち詔して可とす。然れども内之を銜み、悅ばず。稍遷りて比部員外郎と為る。監察御史魏元忠其の賢を稱す。帝擢でて吏部侍郎に任ぜんと欲す。魏玄同沮めて曰く、「彼道を守ること篤からざる者、之を用ふる安んぞ」と。遂に出して宋州司馬と為し、卒す。

子 知柔

子知柔、性簡靜、風儀美なり。親の喪に居り、墓側に廬す。詔して闕を築きて之を表す。國子司業を歷へ、累遷して工部尚書と為る。開元六年、河南大水す。詔して知柔に馳驛して民の疾苦及び吏の善惡を察せしむ。表陳する所、陳州刺史韋嗣立・汝州刺史崔日用・兗州刺史韋元珪・符離令綦毋頊等、止むこと二十七人治狀有り。久しくして、太子賓客に遷り、彭城縣侯に封ぜらる。致仕し、全祿を給して終身す。遺令薄葬し、祖載服用皆自ら其の費を處す。贈られて太子少保、諡して文と曰ふ。弟知幾、別に傳有り。

張昌齡

張昌齡は、冀州南宮の人なり。兄昌宗と皆文を以て自ら名とす。州秀才に舉げんと欲す。昌齡科廢れて久しきを以て、固く譲る。更に進士に舉げられ、王公治と齊名す。皆考功員外郎王師旦に絀けらる。太宗其の故を問ふ。答えて曰く、「昌齡等は華にして實少く、其の文浮靡、令器に非ず。之を取らば則ち後生勸慕し、陛下の風雅を亂さん」と。帝然りとす。

貞觀末、翠微宮成る。頌を闕下に獻ず。召見せられ、『息兵詔』を試みらる。少選して文成る。帝大悅び、之を戒めて曰く、「昔禰衡・潘嶽己を矜り物に慠り、死を得ず。卿の才二人に減ぜず。宜しく前を鑑とし、朕が求むる所に副へよ」と。乃ち敕して通事舍人裏供奉と為す。俄に昆山道記室と為り、『平龜茲露布』は士に稱せらる。賀蘭敏之豫北門修撰を奏す。卒す。

昌宗官は太子舍人・修文館學士に至る。『古文紀年新傳』数十篇を撰す。

崔行功

崔行功は、恒州井陘の人である。祖父の謙之は北斉に仕え、ついに鉅鹿太守となり、鹿泉に移り住んだ。若くして学問を好み、唐儉はその才能を愛で、娘を妻とさせ、そのために文章や奏上文の代作を頼んだ。高宗の時、累進して吏部郎中に転じ、奏上の占いをよくしたので、常に通事舍人内供奉を兼ねた。事に坐して游安令に貶せられ、また召されて司文郎中となり、蘭台侍郎李懷儼とともに朝廷の大典冊を主管した。

初め、太宗は秘書監魏徴に命じて四部の群書を写させ、内府に蔵せんとし、讎正三十員、書工百員を置いた。魏徴が職を移ると、また詔して虞世南・顔師古に引き継いで領させたが、功はならなかった。顕慶年中、讎正員を罷め、書工に家で写させ、官に送って報酬を取らせ、散官に番に随って刊正させた。ここに至り、詔して東台侍郎趙仁本・舍人張文瓘及び行功・懷儼に相次いで使を充てて検校させ、詳正学士を置いて散官に代えさせた。労により蘭台侍郎に遷り、卒した。

孫の銑。

孫の銑は、定安公主を尚し、太府卿となった。初め、公主は王同皎に降嫁し、後に銑に降嫁した。公主が卒すると、同皎の子の繇は父と合葬することを請うた。給事中夏侯銛が駁奏して「公主は王氏と絶えており、喪は崔氏に還るべきである」とし、詔して可とした。銛はなおも出されて瀘州都督となった。

行功の兄の子の玄、〓は別に伝がある。

杜審言。

杜審言、字は必簡、襄州襄陽の人、晋の征南将軍杜預の遠裔である。進士に擢でられ、隰城尉となった。才高きを恃み、傲世して疾まれた。蘇味道が天官侍郎であった時、審言が判を集め、出て人に謂って曰く「味道は必ず死ぬ」と。人は驚いて故を問うと、答えて曰く「彼が吾が判を見れば、羞じて死ぬであろう」と。また嘗て人に語って曰く「吾が文章は屈・宋に衙官を為さしめ、吾が筆は王羲之に北面せしむべきである」と。その矜誕、此の類いである。

累遷して洛陽丞となり、事に坐して吉州司戸参軍に貶せられた。司馬周季重・司戸郭若訥がその罪を構え、獄に繋ぎ、之を殺さんとした。季重らが酒酣の時、審言の子の並、年十三、袖に刃を隠して座中で季重を刺し、左右が並を殺した。季重は死に臨んで曰く「審言に孝子あり、吾知らず、若訥が故に我を誤らしめた」と。審言は官を免ぜられ、東都に還った。蘇頲は並の孝烈を傷み、その墓に志し、劉允済は文を以て祭った。

後に武后が審言を召し、之を用いんとし、問うて曰く「卿喜ぶか」と。審言は蹈舞して謝し、后は《歓喜詩》を賦せしめ、その文を歎重し、著作佐郎を授け、膳部員外郎に遷した。神龍初、張易之と交通した事に坐し、峰州に流された。入って国子監主簿・修文館直学士となり、卒した。大学士李嶠らが奏請して加贈を加え、詔して著作郎を贈った。

初め、審言が病甚だしい時、宋之問・武平一らが省候して様子を問うと、答えて曰く「甚だ造化の小児に苦しめられ、尚何をか言わん。然れども吾在りて、久しく公らを圧し、今将に死せんとす、固より大いに慰む、但だ替人を見ずを恨むのみ」と云う。少くして李嶠・崔融・蘇味道と文章四友を為し、世に「崔・李・蘇・杜」と号した。融の亡き時、審言は緦服を着けたと云う。

従祖兄の易簡。

従祖兄の易簡は、九歳にして文を属することができ、長じて博学、岑文本に器とされた。進士に擢でられ、渭南尉を補った。咸亨初、殿中侍御史を歴任した。嘗て道で吏部尚書李敬玄に遇い、避けず、敬玄は恨み、召して考功員外郎として之を屈した。而して侍郎裴行儉は敬玄と不平であり、故に易簡は上書して敬玄の罪を言うと、敬玄は曰く「襄陽の児、軽薄なること乃ち爾りか」と。因って易簡の険躁を奏し、高宗怒り、開州司馬に貶した。

孫の甫。

審言は子の閑を生み、閑は甫を生んだ。甫、字は子美、少くして貧しく自ら振るわず、呉越・斉趙の間に客した。李邕はその材を奇とし、先んじて往きて之を見た。進士に挙げられて第に中らず、長安に困した。

天宝十三載、玄宗が太清宮に朝献し、廟及び郊で饗した時、甫は賦三篇を奏上した。帝は之を奇とし、集賢院に待制せしめ、宰相に命じて文章を試させ、河西尉に擢でたが、拝せず、右衛率府冑曹参軍に改めた。数えて賦頌を上し、因って高く自ら称道し、且つ言うには「先臣の恕・預以来、儒を承け官を守ること十一世、審言に至り、文章を以て中宗の時に顕れたり。臣は緒業に頼り、七歳より辞を属し、且つ四十年、然れども衣は体を覆わず、常に人に寄食し、窃かに転じて溝壑に死せんことを恐れ、伏して惟うに天子の哀憐を請う。若し先臣の故事を執らしめ、泥塗の久しき辱を抜かしめば、則ち臣の述作は《六経》を鼓吹するに足らずと雖も、沈郁頓挫、時に随いて敏給なること、揚雄・枚皋に企て及ぶべし。臣此の如き有り、陛下其れ忍びて之を棄てんや」と。

安禄山の乱が起こり、天子がしょくに入ると、杜甫は三川に避けて逃れた。粛宗が即位すると、鄜州から痩せ衰えた姿で行在所に奔ろうとしたが、賊に捕らえられた。至徳二年、逃れて鳳翔に至り謁見し、右拾遺に任ぜられた。房琯とは布衣の交わりがあり、琯は当時陳濤斜で敗れ、また客の董廷蘭のことで宰相を罷免されていた。杜甫が上疏して言うには、「罪は細かいものであり、大臣を免ずるには及ばない。」帝は怒り、詔して三司に親しく問わせた。宰相の張鎬が言うには、「杜甫が罪に当たるならば、言論の道が絶える。」帝はようやく納得した。杜甫は謝罪し、かつ称えて言うには、「房琯は宰相の子であり、若い時から自らを立てて醇儒となり、大臣の風格がある。当時の議論は房琯の才能が公輔に堪えると認め、陛下は果たして委ねて宰相とされた。その主君の憂いを深く思う様子を見れば、義が顔色に現れている。しかし性質は簡略さを欠く。琴を酷く嗜み、廷蘭は琯の門下に寄り、貧しく病み昏耄して、依り頼んで非行をなした。琯は人情を愛惜し、ついに汚点を残した。臣はその功名が未だ成らず、志気が挫かれるのを歎き、陛下が細かいことを棄てて大きなことを記録されることを願い、死を冒して称述したのである。近くは激しい批判に及び、聖心に背いた。陛下が臣の百死を赦し、再び骸骨を賜われば、天下の幸いであり、臣ひとりが蒙るものではない。」しかし帝はこれ以降、あまり省みて取り上げなかった。

当時、所在で寇賊が略奪し、杜甫の家は鄜に寓居し、長年貧窮し、幼い子が餓死するに至ったため、杜甫が自ら往って省視することを許した。従って京師に還り、出て華州司功参軍となった。関輔が飢饉となると、すぐに官を棄て去り、秦州に客居し、薪を負い橡栗を採って自給した。流落して剣南に至り、成都の西郭に草庵を結んだ。召し出されて京兆功曹参軍を補されたが、赴任しなかった。ちょうど厳武が剣南東・西川節度使となったので、往って依った。武が再び剣南を統帥すると、表して参謀、検校工部員外郎とした。武は世旧の故をもって、杜甫を甚だ善く遇し、親しくその家に至った。杜甫がこれに会うと、時に頭巾もつけず、しかも性質は偏狭で躁急、傲慢ででたらめであり、かつて酔って武の床に登り、睨みつけて言うには、「厳挺之にこんな子がいたとは!」武もまた暴猛であり、外見では気にしていない様子であったが、内心では恨みを抱いた。ある日、杜甫及び梓州刺史の章彝を殺そうとし、吏を門前に集めた。武が出ようとすると、冠が簾に三度引っかかり、左右がその母に告げると、駆けつけて救い止めさせ、ただ彝だけを殺した。武が卒すると、崔旰らが乱を起こし、杜甫は梓・夔の間を往来した。

大曆年中、瞿唐峡を出て、江陵に下り、沅・湘を遡って衡山に登り、ついで耒陽に客居した。岳祠に遊んだ時、大水が急に到来し、十日間も食物を得られず、県令が船を備えて迎えたので、ようやく還ることができた。県令がかつて牛肉の炙り物と白酒を贈ると、大いに酔い、一晩で卒去した。享年五十九。

杜甫は放曠で自らを検束せず、天下の大事を論じることを好み、高遠で実際に即さなかった。若い時より李白と並び称され、当時「李杜」と号された。かつて李白及び高適とともに汴州に過ぎ、酒酣に吹台に登り、慷慨として古を懐い、人は測り知ることができなかった。幾度か寇乱を嘗め、節を挺して汚れるところなく、歌詩を作り、時勢の衰え弱まるを傷み、情に君を忘れず、人はその忠を憐れんだという。

杜甫贊

贊して言う。唐が興り、詩人は陳・隋の風流を承け、浮華で靡爛したものを以て互いに誇った。宋之問・沈佺期らに至り、声律を研ぎ澄まし、浮切(平仄)に誤りなく、そして「律詩」と号し、競って相沿襲した。開元年間に及んで、ようやく雅正をもって裁ち切ったが、しかし華美を恃む者は質実に反し、麗しさを好む者は雄壮に背き、人は一つの概略を得て、皆自らその長所を名乗った。杜甫に至って、渾然として汪洋として、千の匯わり万の状、古今を兼ねてこれを有し、他人は不足するが、杜甫は飽き足りて余り、残った膏や余ったかおりが、後人に潤いを与えることが甚だ多かった。故に元稹が言うには、「詩人以来、子美の如き者はなかった。」杜甫はまた時事を述べることに長け、律切精深、千言に至っても少しも衰えず、世に「詩史」と号された。昌黎の韓愈は文章について許可すること慎重であったが、歌詩に至っては、ただ推して言うには、「李・杜の文章在り、光焰万丈の長。」誠に信ずるに足るという。

王勃

王勃、字は子安、絳州龍門の人。六歳で文辞に優れ、九歳で顔師古注『漢書かんじょ』を得て読み、『指瑕』を作ってその誤りを指摘した。麟徳初年、劉祥道が関内を巡行すると、勃は上書して自らを陳述し、祥道は朝廷に表し、対策で高第となった。年はまだ冠に及ばず、朝散郎を授けられ、しばしば頌を闕下に献じた。沛王がその名を聞き、召して府修撰に任じ、『平臺秘略』を論じ編纂させた。書が成ると、王はこれを愛重した。この時、諸王が闘鶏をしていたが、勃は戯れに文を作って英王の鶏を檄し、高宗は怒って言うには、「これはまさに離間を交わすものだ。」と。府から斥かれた。

勃は既に廃された後、剣南に客居した。かつて葛憒山に登って遠望し、慨然として諸葛亮の功績を思い、詩を賦して心情を表した。虢州に薬草が多いと聞き、参軍を補われるよう求めた。才能を恃んで他を陵駕し、僚吏に共に嫉まれた。官奴の曹達が罪に当たり、勃の所に匿われたが、事が漏れるのを恐れ、すぐにこれを殺した。事が発覚して誅されるべきところ、ちょうど赦令があり除名された。父の福畤は、雍州司功参軍から勃の故に連坐して左遷され交址令となった。勃は省問に赴き、海を渡る時に水に溺れ、驚き悸れて卒去した。享年二十九。

初め、道すがら鐘陵に出た時、九月九日に都督が大宴を滕王閣で開き、あらかじめその婿に序を作らせて客に誇ろうとし、そこで紙筆を出して遍く客に請うたが、敢えて引き受ける者なく、勃に至って、さっぱりと辞さなかった。都督は怒り、起きて更衣し、吏にその文を伺わせてすぐに報告させた。一再と報告があり、言葉がますます奇抜であると、はたと驚いて言うには、「天才なり!」と。遂に文を成すことを請い、極めて歓んで罷めた。勃が文を属するには、初めは精思せず、先ず墨を数升磨り、それから酣に飲み、被を引いて覆い臥し、覚めるや、筆を取って篇を成し、一字も改めず、当時の人は勃を「腹稿」と呼んだ。特に著書を好んだ。

初め、祖父の王通は、隋末に白牛溪に居て教授し、門人が甚だ多かった。かつて漢・魏から晋に至るまで書を百二十篇起こし、以て古『尚書』に続けようとしたが、後にその序文を失い、録はあるが書のないものが十篇あり、勃は欠逸を補い完うし、二十五篇と定めて著した。かつて人の子は医を知らざるべからずと言い、当時長安の曹元に秘術があったので、勃はこれに従って交遊し、その要諦を尽くし得た。かつて『易』を読み、夜夢に若し告ぐる者の如く言うには、「『易』に太極あり、子勉めてこれを思え。」と。覚めて『易発揮』数篇を作り、『晋卦』に至り、ちょうど病で止んだ。また言うには、「王者が土徳に乗って王たれば、世は五十、数は千年に尽きる。金徳に乗って王たれば、世は四十九、数は九百年。水徳に乗って王たれば、世は二十、数は六百年。木徳に乗って王たれば、世は三十、数は八百年。火徳に乗って王たれば、世は二十、数は七百年。これ天地の常である。黄帝から漢に至るまで、五運がちょうど一巡し、土徳が再び唐に帰する。唐は周・漢を継ぐべきであり、周・隋の短い国統を承けるべきではない。」と。そこで魏・晋以降を斥けて真の主君の正統ではなく、皆五行の沴気(災いの気)であるとした。そこで『唐家千歳歴』を作った。

武后の時、李嗣真が周・漢を二王後とし、周・隋を廃するよう請うたが、中宗は再び周・隋を用いた。天宝年中、太平が久しく、上言する者は多く詭異な説を以て進み、崔昌という者が勃の旧説を採り、『五行応運歴』を上って、周・漢を承け、周・隋を閏統として廃するよう請うた。右相の李林甫もまたこれを賛助した。公卿を集めて議し可否を決し、集賢学士の衛包・起居舎人の閻伯璵が上表して言うには、「都堂に集議した夜、四星が尾宿に聚まり、天意は明らかである。」と。そこで玄宗は詔を下して唐が漢を承けるとし、隋以前の帝王を黜け、介公・酅公を廃し、周・漢を尊んで二王後とし、商を三恪とし、京城に周武王・漢高祖の廟を起こした。崔昌に太子賛善大夫を授け、衛包に司虞員外郎を授けた。楊国忠が右相となると、自ら隋の宗族を称し、建議して再び魏を三恪とし、周・隋を二王後とし、酅・介の二公を旧封に復し、崔昌を烏雷尉に貶し、衛包を夜郎尉に貶し、閻伯璵を涪川尉に貶した。

勃の兄勮、弟助は、皆進士に及第した。

兄 勮

勮は、長壽年間に鳳閣舍人となり、壽春等五王が出閣する際、有司が儀式を整えたが、冊文を載せるのを忘れ、群臣が既に参集してからその欠落に気づき、宰相は顔色を失った。勮は五人の吏を召し筆を執らせ、それぞれに文辞を分担させると、鮮やかに皆完成し、人々は嘆服した。まもなく弘文館學士を加えられ、天官侍郎を兼ねた。初め、裴行儉が選挙を掌った時、勮と蘇味道を見て言った、「この二人は皆、銓衡の才である。」ここに至ってその言葉は実証された。勮は平素劉思禮と親しく、彼を箕州刺史に任用したが、思禮は綦連耀と謀反を企て、勮は兄の涇州刺史勔及び弟の助と共に連座して誅殺された。神龍初年、詔により官位を回復した。

弟 助

助は、字を子功といい、七歳で母を喪い哀哭し、隣里も涙を流した。父の喪に服し、骨身を削るほどに憔悴した。喪が明けると、監察御史裏行となった。

初め、勔、勮、勃は皆才名を著わし、故に杜易簡は「三珠樹」と称えた。その後、助、劼もまた文才で顕れた。劼は早世した。福畤の末子の勸もまた文才があった。福畤がかつて韓思彦に自慢すると、思彦は戯れて言った、「武子(王済)には馬癖があったが、君には譽兒癖がある。王家の癖は何と多いことか。」助にその文章を出させると、思彦は言った、「子をこのように生んだならば、誇るに足る。」

勃は楊炯、盧照鄰、駱賓王と皆文章を以て名を並べ、天下は「王、楊、盧、駱」の四傑と称した。炯はかつて言った、「吾れは盧の前に在るを愧じ、王の後に居るを恥ず。」議者はこれを然りとした。

附 楊炯

炯は華陰の人である。神童に挙げられ、校書郎に任じられた。永隆二年、皇太子が釈奠を終えた後、豪俊を表して崇文館學士に充てるよう請い、中書侍郎薛元超が炯及び鄭祖玄、鄧玄挺、崔融等を推薦し、詔はこれを許可した。詹事司直に遷った。まもなく従父弟の神讓が徐敬業の乱に与したことに連座し、梓州司法参軍に左遷された。盈川令に遷り、張説が箴を贈って行くのを戒め、その苛酷を戒めた。官に至ると、果たして厳酷をもって称され、吏が少しでも意に逆らえば、鞭打ち殺し、人々に称賛されなかった。官の任下で卒し、中宗の時に著作郎を追贈された。

附 盧照鄰

照鄰は、字を昇之といい、范陽の人である。十歳で曹憲、王義方に従い『蒼頡篇』『爾雅』を授けられた。鄧王府典簽に任じられ、王はこれを愛重し、人に言った、「これは我が相如である。」新都尉に転じ、病のため官を去り、太白山に住み、方士の玄明膏を得て服用したが、父の喪に遭い、号泣嘔吐すると、丹薬が吐き出され、これにより病はますます重くなった。東龍門山に客居し、布衣に藜の羹、裴瑾之、韋方質、範履冰等が時々衣服や薬を供給した。病が甚だしくなり、足は攣り、片手もまた廃ると、具茨山の下に去り、園数十畝を買い、潁水を疏いて屋敷を巡らし、さらにあらかじめ墓を造り、その中に臥した。照鄰は自ら、高宗の時は吏治を尚びたのに、己は独り儒を尊び、武后は法を尚びたのに、己は独り黄老を尊び、後に嵩山を封じ、しばしば賢士を招聘したが、己は既に廃人となっていたと考えた。『五悲文』を著して自らを明らかにした。病が久しくなり、親族と訣別し、潁水に身を沈めた。

附 駱賓王

賓王は義烏の人である。七歳で詩を賦することができた。初め道王府の属官となり、かつて自らの能うところを言うよう求められたが、賓王は答えなかった。武功主簿を歴任した。裴行儉が洮州総管となった時、上表して書奏を掌らせようとしたが応じず、長安主簿に転じた。武后の時、しばしば上疏して事を論じた。臨海丞に左遷され、鬱々として志を得ず、官を棄てて去った。徐敬業の乱が起こると、賓王を府属に任じ、敬業のために天下に檄を伝え、武后の罪を斥けた。后はこれを読み、ただ笑っていたが、「一抔の土未だ乾かず、六尺の孤何くにか在る」の句に至り、驚いて言った、「これは誰が作ったのか。」ある者が賓王と答えると、后は言った、「宰相はどうしてこのような人物を失ったのか。」敬業が敗れると、賓王は亡命し、行方が知れなかった。中宗が即位すると、詔してその文章を求め、数百篇を得た。

ある日、崔融と張説が勃等を評して言った、「勃の文章は宏放で、常人の及ぶところではない。炯、照鄰はこれに及ぼうとすることができる。」説は言った、「そうではない。盈川(楊炯)の文は懸河の如く、酌んでも尽きず、盧に優り王に劣らない。後に居るを恥ずるは、まことにその通りである。前に在るを愧ずるは、謙遜である。」

開元年間、張説が徐堅と近世の文章について論じ、説は言った、「李嶠、崔融、薛稷、宋之問の文は良金美玉の如く、用いるに不可なる所なし。富嘉謨は孤峰絶岸の如く、壁立万仞、濃雲鬱然として興り、震雷俱に発するが如く、誠に畏るべし。もしかれを廊廟に施せば、人を駭かすであろう。閻朝隱は麗服靚妝の如く、燕歌趙舞、観る者は疲れを忘れるが、これを『風』『雅』に類するならば、罪人である。」堅が問うた、「今世はどうか。」説は言った、「韓休の文は大羹玄酒の如く、典則有りて滋味薄し。許景先は豊肌膩理の如く、穠華可愛と雖も、風骨に乏しい。張九齢は軽縑素練の如く、実に時用を済すに足るも、辺幅に窘し。王翰は瓊杯玉斝の如く、爛然として珍しむべしと雖も、多く玷缺有り。」堅はこれを篤論であると言った。

元萬頃

元萬頃は、後魏の京兆王の子推の末裔である。祖父の白澤は、武徳年間に、梁・利十一州都督に至り、新安公に封ぜられた。萬頃は初め通事舎人として出仕した。

李勣に従って高麗を征し、書記を管掌した。李勣は別将の郭待封に命じて舟師をもって平壘に赴かせ、馮師本に糧食を載せてこれに続かせたが、期日に間に合わなかった。李勣に報告しようとしたが、間諜に捕らえられることを恐れ、萬頃が離合詩を作って李勣に送った。李勣は怒って言った、「軍機は切迫しているのに、何で詩を用いるのか」と。待封を斬ろうとしたが、萬頃が事情を説明したので、免れた。また萬頃に檄文を作らせて高麗を責め、鴨淥の険を守ることを知らぬことを嘲笑したところ、莫離支が答えて言うには、「謹んで命を承る」と。兵を移して固守したため、軍は入ることができなかった。高宗はこれを聞き、萬頃を嶺外に投じた。

赦に遇って還り、著作郎となった。武后は帝に勧めて諸儒を禁中に召し論撰させ、萬頃は周王府戸曹参軍の範履冰・苗神客・太子舎人の周思茂・右史の胡楚賓とともに選ばれ、合わせて『列女伝』・『臣軌』・『百僚新戒』・『楽書』など九千余篇を撰した。朝廷の疑議や表疏に至るまで皆密かに参処させ、以て宰相の権を分かつに至り、故に当時「北門学士」と称された。思茂・履冰・神客は左右に供奉し、或いは二十余年を経た。

萬頃は文辞に敏であったが、放達にして細かい行いを治めず、儒者の風がなかった。武后の時、累遷して鳳閣侍郎に至り、誅に坐した。

附 范履冰

履冰は、河内の人である。垂拱年中、鸞台天官二侍郎・春官尚書・同鳳閣鸞台平章事を歴任し、国史の修撰を兼ねた。載初初年、逆人を挙げた罪に坐して殺された。

神客は、東光の人で、終に著作郎に至った。

附 周思茂

思茂は、漳南の人で、弟の思鈞とともに早くから知名であった。累遷して麟台少監・崇文館学士に至った。垂拱年中、獄に下されて死した。

附 胡楚賓

楚賓は、秋浦の人である。文を属するのに甚だ敏速で、必ず酒中にあって、然る後に下筆した。高宗が文を作ることを命ずると、常に金銀の盃で酒を盛って飲ませ、文が成ると即ちこれを賜った。家に居る時は概ね沈飲し、賄を留めず、費い尽くしてはまた入り、賜り物を得ては出で、常と為す類であった。性質重慎にして、未だ禁中の事を語らず、人がその酔いに乗じて問うても、また熟視して答えなかった。尋いで崇賢直学士を兼ね、卒した。

萬頃の孫 正

萬頃の孫の正は、名節を修め、明経の高第に擢でられ、監門衛兵曹参軍に授けられた。舅の孫逖と物理を談じ、己の及ばざるを歎いた。粛宗の初め、吏部尚書の崔寓が選挙を典すると、正は書判第一として京師に召し詣らせられたが、父の詢倩が老いたことを以て、疾を辞して免れた。河南節度使の崔光遠が表してその府に置いた。史思明が河・洛を陥すと、父を輦に乗せて山中に匿ったが、賊が名を以て購い求めた。正は事の急なるを度り、弟に謂って言った、「賊の禄は親を養うべからず、彼は吾が名を利とし、免れ難からん。然れども身を汚さずして死すれば、吾れ猶お生きるが如し」と。賊に得られると、高位を以て誘ったが、瞋目して固く拒み、兄弟皆遇害した。父はこれを聞き、仰薬して死し、路人の為に哭した。事平らぐと、詔して伏節の十一姓を録し、而して正を冠と為した。秘書少監を贈られ、その子の義方を華州参軍とした。

曾孫 義方

義方は、京兆府司録を歴任し、韋夏卿・李実が相次いで尹となると、事あるごとに彼に諮問した。虢州刺史・商州刺史・福建観察使を歴任した。宦官の吐突承璀は閩の人であるが、義方はその親族を右職に用いた。李吉甫が再び国政を執ると、ひそかに承璀の奥深い助力を得ようとし、ただちに義方を召して京兆尹とした。李絳はその党派を憎み、外して鄜坊観察使とし、一切の事務を処理したが、しかし苛酷であり、人多くこれを怨んだ。卒し、左散騎常侍を追贈された。

曾孫 季方

弟の季方は、明経に挙げられ、楚丘尉に任じられ、殿中侍御史を歴任した。兵部尚書の王紹が表を上して度支員外郎とし、金部郎中・膳部郎中に遷り、能職と称された。王叔文が権力を握ると、季方が用いられぬことを憚り、兵部郎中として新羅に使わした。新羅は中国に喪あるを聞き、時に遣わさず、供饋が乏しかったので、季方は厳しい顔色でこれを責め、戸を閉ざし食を絶って死を待った。夷人は悔いて謝し、歓を結んで乃ち還った。卒し、年五十一、同州刺史を追贈された。