褚無量
褚無量、字は弘度、杭州鹽官の人である。幼くして沈子正・曹福に経書を授かり、典籍に心を砕いた。家は臨平湖に臨み、龍が現れた時、人々は皆走り見物したが、無量はまだ幼く、書を読んで聞こえぬかの如く、人々はこれを異とした。特に『礼』と司馬遷の『史記』に精通した。明経科に及第し、累進して国子博士となり、司業に遷り修文館学士を兼ねた。
中宗が南郊の祭りを行わんとした時、詔して儀典を定めさせた。時に祝欽明・郭山惲が皇后を亜献とすべしと建言したが、無量は太常博士の唐紹・蔣欽緒と共に固く争い、次のように論じた。「郊祀は国家の大事であり、その折衷は『周礼』に如くはない。『周礼』によれば、冬至に天を円丘で祭る時は地を配せず、ただ始祖を主とするのみで、また妣(母)を配さない。故に后は参与できない。また『大宗伯』に『凡そ大祭祀、王后参与せざれば、則ち摂りて豆籩を薦え、徹す』とある。これは后が助祭すべきでないことを示す。また内宰の職掌に『大祭祀、后が祼献すれば則ち瑤爵を賛す』とある。天を祭るには祼礼がないから、これは宗廟の祭りであることが分かる。巾車・内司服は后の六服と五路を掌るが、后が天を祭る服と路はない。これも后が天祭を助けない証左である。ただ漢代に天地合祭があり、皇后が参享したことがある。末世の神を瀆す行為であり、典拠に適うものではなく、法とすべきではない。」時に左僕射の韋巨源が欽明を支持したため、無量の議は退けられた。母の老齢を理由に官を辞した。
玄宗が太子であった時、再び国子司業兼侍読に任じられ、『翼善記』を撰して進め、厚く礼遇と返答を受けた。太子が国学で釈奠を行う時、経書を講ぜしめると、端緒を立て義を樹て、博く敏にして弁明し、銀青光禄大夫に進み、賜与は豊かであった。即位すると、左散騎常侍兼国子祭酒に遷り、舒国公に封ぜられた。母の喪に服して官を辞すと、詔して州刺史の薛瑩に弔祭させ、賜物を加等した。墓の左に廬し、鹿が植えた松柏を犯すと、無量は号泣して訴えて言った。「山林に不足はないのに、どうして我が塋樹を犯すのか。」これより群鹿は馴れ従い、再び触れることはなく、無量は終生その肉を口にしなかった。喪が明けると、召されて元の官に復した。高齢のため、仗衛に随い徐行を許され、また腰輿を設け、殿中に乗り入れることを許された。頻りに上書して得失を陳べた。
開元五年、帝が東都に幸せんとした時、太廟が壊れた。姚崇が建言した。「廟はもと苻堅の旧殿であり、行幸を止めるべきではない。」無量はその言を卑しみ、聴くに足らぬとして、上疏して言った。「王者に陰盛陽微あれば、則ち先祖に変異が現れる。今、後宮で御幸を受けざる者は、皆出して変異に応ずべし。俊良を挙げ、奢靡を抑え、賦を軽くし、刑を慎み、諫争を納れ、諂諛を察し、絶えた世を継げば、則ち天人和会し、災異は止む。」帝は姚崇の言を是とし、車駕は遂に東行した。無量はまた上言した。「昔、虞舜の巡狩に、山川に秩し、群神を遍くした。漢の孝景帝は橋山で黄帝を祠り、孝武帝は九疑で舜を祠り、高祖は魏を過ぎて信陵君の墓を祭り、趙を過ぎて楽毅の後を封じ、孝章帝は桓譚の冢を祠った。願わくは陛下、過ぎる所の名山・大川・丘陵・墳衍、及び古の帝王・賢臣で祀典にある者を、皆詔して祭らしめよ。古より受命の君は、必ず滅びた国を興し絶えた家を継ぎ、徳を崇め功に報いる。故に人の国を存するは、人の災いを救うより大なり。人の後を立てるは、人の墓を封ずるより重し。東都に到り、唐初より今に至る功臣で世の絶えた者の子孫を収め叙し、支庶に在りとも、皆承襲を得しめよ。」帝はその言を納れ、即ち詔して無量に堯を平陽で祠らせ、宋璟に舜を蒲阪で祠らせ、蘇颋に禹を安邑で祠らせ、在所の刺史に参献させた。また武徳以来の勲臣の子孫を求め、その封を継がせた。
初め、内府の旧書は高宗の時より宮中に蔵され、甲乙叢倒していた。無量は繕写録して補い整序することを請い、秘籍を広めんとした。天子は詔して東都乾元殿の東廂で部類を分け整比させ、無量をその使とした。そこで表して聞喜尉の盧僎・江夏尉の陸去泰・左監門率府胄曹参軍の王擇従・武陟尉の徐楚璧に分かれて校定させた。衛尉が仮設の屋舎を設け、光禄が食を給した。また詔して秘書省・司経局・昭文・崇文の二館に更に検校させ、天下の遺書を採って闕文を補わせた。数年せずして四庫は完治した。帝は群臣に書を観させ、無量らに帛を差等を以て賜った。無量はまた言った。「貞観の御書は皆宰相が末尾に署名した。臣が位卑く以て辱しむに足らず、願わくは宰相と連名して跋尾せん。」聴かれなかった。帝が西還すると、書を麗正殿に移し、修書学士を麗正殿直学士と改め、京官に比して朝会に預からしめた。また詔して無量に麗正殿で前功を纂続させた。皇太子及び四王が未だ就学せず、無量は『孝経』・『論語』を五通して帝に献じた。帝は言った。「朕知るところなり。」そこで郗常亨・郭謙光・潘元祚らを選び太子・諸王の侍読とした。七年、太子が学で歯冑の礼を行うと、詔して無量に升坐して講論勧学させ、百官に礼を観させ、厚く賜賚した。卒す。七十五歳。病篤く人に語り、麗正殿の書が未だ畢らざるを恨みとした。帝は聞いて悼痛し、宰相に詔して言った。「無量は朕が師なり。今その永逝す。優れた典禮を用うべし。」ここに礼部尚書を贈り、謚して文と曰い、葬事は官が給した。撰述すること百余篇。歿後、書殿において『史記』・『至言』を講じた十二篇を得て上ると、帝は嘆息し、絹五百匹をその家に賜った。
初め、無量と馬懷素が侍読となったが、後に秘書少監の康子原・国子博士の侯行果もまたその選に践んだ。賞賚は頻りに加えられたが、礼遇は衰えた。陸去泰は左右補闕内供奉を歴任した。王擇従は京兆の人、汜水令で終わった。
徐安貞
徐楚璧は、初め制挙に応じ、三たび甲科に登り、開元時には中書舍人・集賢院学士となり、帝が文を属する時多く草稿を見させた。中書侍郎、東海県子で終わった。中書省に久しく在り、この時李林甫が権を握り、或いは計議多く参助したと云う。後に名を安貞と改めた。
元行沖
元淡、字は行沖、字をもって顕れ、後魏の常山王素蓮の後裔である。幼くして孤となり、外祖父の司農卿韋機に養われた。長じて博学、特に故訓に通じた。進士第に及第し、累遷して通事舍人となった。狄仁傑はこれを器とした。嘗て仁傑に謂って言った。「下の上に事うるは、譬えば富家が儲積して自ら資とするが如し。脯臘膎胰は滋膳を供え、参術芝桂は疾疢を防ぐ。門下には旨味を充す者多し。願わくは小人を以て一の薬石を備えしめよ。可ならんや。」仁傑は笑って言った。「君は正に吾が薬籠中の物、一日も無くてはならぬ。」
景雲中、太常少卿を授かった。行沖は拓跋氏の出であることを以て、史に編年なきを恨み、『魏典』三十篇を撰した。事詳しく文約にして、学者はこれを尊んだ。初め、魏の明帝の時、河西の柳谷に石が現れ、牛が馬を継ぐ象があった。魏収は晋の元帝が牛氏の子で司馬姓を冒したとして、石の符瑞と著した。行沖は昭成皇帝の名が犍であり、晋を受けて命を継いだことから、独りこれが当てはまるとした。ある人が古冢を破って銅器を得た。琵琶に似て、身は正円、人は皆弁えられなかった。行沖は言った。「これは阮鹹の作った器なり。」命じて木に替え、弦を張ると、その声は亮雅で、楽家は遂にこれを「阮鹹」と謂った。
開元の初め、太子詹事を罷免され、岐州刺史として出向し、関内按察使を兼ねた。自ら書生を以て、弾治の才にあらずとし、固辞した。入朝して右散騎常侍・東都副留守となった。嗣彭王の子の誌謙が仇人の告変に坐し、考訊して自ら誣伏し、数十人に株蔓したが、行沖はその冤を察し、列奏して原された。四遷して大理卿となったが、法家を好まず、固く居官を謝し、左散騎常侍に改め、常山県公に封ぜられた。使を充てて集賢を検校し、再遷して太子賓客・弘文館学士となった。先に、馬懐素が書誌を撰し、褚無量が麗正四部書を校したが、業未だ卒らず、相次いで物故した。詔して行沖に並び代わらせた。玄宗自ら『孝経』に註し、詔して行沖に疏を作らせ、学官に立てた。老を以て麗正校書事を罷めた。
初め、魏光乗が魏徴の『類礼』を用いて経に列することを請うた。帝は行沖に命じ諸儒と集義して疏を作らせ、学に立てんとした。そこで国子博士範行恭・四門助教施敬本を引いて采獲刊綴し五十篇とし、官に上った。ここにおいて右丞相張説が建言した、「戴聖の録したる所、向に已に千載、経と並び立ち、罷むべからず。魏の孫炎始めて旧書に因り類を擿して相ひ比し、鈔綴するが如く有り、諸儒共に之を非とす。至りて徴更に整次を加え、乃ち訓註と為す、恐らく用ふべからず。」帝然りとし、書は中に留めて出さず。行沖は諸儒が己を間う意ありとし、因りて論を著して自ら弁じ、名づけて『釈疑』と曰う。曰く、
客、主人に問う、「小戴の学、康成の註、魏氏乃ち刊易有り、二経孰れか優れる。」主人曰く、「『小戴礼』は漢末に行はれ、馬融伝を為し、盧植二十九篇を合して之を解し、世に伝はらず。鉤党の獄起り、康成竄伏の中に於て、紛挐の典を理め、探究を存すと雖も、諮謀する所靡し。『鄭志』を具ふる者百余科、章句の徒、曾て是を省みず。王肅之に因り、或は多く攻詆す。而して鄭学に孫炎有り、鄭義を扶くるも、条例支分し、箴石間ひ起り、百篇を増革す。魏氏群言の冗脞を病み、衆説の精簡を采り、刊正芟礱し、書畢りて以て聞す。太宗嘉賞し、録して儲貳に賜ふ。陛下業を纂ぎ、宜しく循襲すべき所に、乃ち諸儒を制し、旧義を甄分す。豈に章句の士、昔言を堅持し、擯圧して申さず、新を知るに疑ひ、故を仍ふに果なるを悟らんや。」
客曰く、「当局は迷と称し、傍観は必ず審なり、何を為して疑ひて列を申さざる。」答へて曰く、「章句を改易するは、是れ五難有り。漢の孔安国『古文尚書』に註し、族兄の臧書を与へて曰く、『相如常に俗儒の淫詞義を冒すを忿り、乱を撥き正に反さんと欲して未だ能はざるなり。浮学株を守り、衆非は正に非ず、古より然り、恐らく此の道未だ信ぜられずして、独智譴を為さん。』一なり。昔、孔季産古学に専らにし、孔扶なる者有りて俗に浮沈し、毎に産に誡めて曰く、『今朝廷章句内学に率ひ、君独り古義を脩む。古義は章句内学に非ず、身を危ふるの道なり、独り善くして世に容れられず、君其れ殆からん。』二なり。劉歆『左氏』を好み、学官を建てんと欲し、哀帝之を納る。諸儒遷延して肯て対を置かず。歆書を移して誚譲す。諸博士皆忿恨す。龔勝時に光禄大夫たり、歆の議を見て、乃ち骸骨を乞ふ。司空師丹因りて大いに怒りを発し、歆が前誌を改乱し、先帝の立てる所を非毀するを詆す。歆懼れ、出でて五原太守と為る。君賓の学を以て、公仲の博を以てすら、猶ほ同門朋党の議に迫られ、卒に子駿をして謗を負はしむ。三なり。王肅鄭玄を規すること数百千条、鄭学の馬昭肅の短を詆劾す。詔して博士張融を遣はし経に按じて問詰せしむ。融是非を推処し、而して肅の酬対歳時に疲る。四なり。王粲曰く、『世に伊・雒以東、淮・漢以北、康成一人のみと称す。鹹に先儒多く闕く、鄭氏道備はると言ふ。』粲窃に嗟怪し、因りて学ぶ所を求め、『尚書註』を得、退きて其の意を思ふに、意皆尽きたり、疑ふ所猶ほ未だ諭せず、凡そ二篇有り。王邵曰く、『魏・晋浮華、古道湮替し、載を歴ること三百、士大夫章句を為すを恥づ。唯だ草野生専経自ら許し、博く究めず、其の善きに従ひて択ぶ、徒に父は康成、兄は子慎とせんと欲し、寧ろ孔聖の誤を道ひ、鄭・服の非を言ふを諱む。』然らば則ち鄭・服の外は、皆讎なり。五なり。夫れ物極まれば則ち変ず、比及百年、当に明哲の君子有りて、吾と世を同じくせざるを恨まん。道の行はれ廃るるは、必ず其の時有る者か。何ぞ遽かに近名の嫌を速にせん。」
俄に致仕を丐ひ、十七年に卒す。年七十七。礼部尚書を贈られ、諡して献と曰う。
陳貞節
明年、帝将に大いに明堂を享せんとす。貞節武後の営める所を悪み、古の所謂「木鏤まず、土文せず」の制に非ざるを以て、乃ち馮宗と上言す、「明堂は必ず丙巳に直くし、以て房・心に憲み政を布き、太微上帝の所とすべし。武後始めて乾元正寝を以て陽午の地を占め、先帝政を聴く所以なり、故に殿を撤して堂を作る。撤するの日、音雷の如く有り、庶民嘩訕し、以て神靈悦ばずと為す。堂成りて、災火之に従ふ。後徳を脩めず、俄に復た営構し、殫く用て極めて侈にし、詭りて厥の変を禳ひ、又厳に上帝に配せんと欲す、神安んぞ肯て臨まんや。且つ密邇掖廷、人神雑擾す、是れ物を放つべからざる者と謂ふなり。二京上都は、四方是れ則り。天子政を聴くに、乃ち便坐に居る、群臣に尊を示すこと無し。願くは明堂を以て復た乾元殿と為し、人をして其の旧を識らしむ、亦愈らざらんや」と。詔して所司に詳議せしむ。刑部尚書王誌愔等僉に謂ふ、「明堂瑰怪にして法に不法、天燼の余、大享を容れず。旧に因り制に循ひ、還た乾元正寝に署すことを請ふ。正・至には、天子之に御して朝会す。若し大享せば、復た圜丘に寓す」と。制して可と曰す。貞節寿を以て卒す。
施敬本
敬本は太常博士を以て集賢院修撰となった。逾年、右補闕・秘書郎に遷り、卒す。
盧履冰
後に履冰は官に在りて卒す。
王仲丘
王仲丘は沂州瑯邪の人。祖師順は高宗に仕え、漕輸の事を議して当時名有り、終に司門郎中。仲丘は開元中に左補闕内供奉・集賢修撰・起居舍人に歴任す。
当時、典章制度に差異と矛盾があったので、仲丘は『貞観礼』と『顕慶礼』の二つの礼を合わせようとし、「挙げてあるものは、廃することはできない」という道理に基づき、上言した。「『貞観礼』では、正月の上辛の日に、感帝を南郊で祀る。『顕慶礼』では、昊天上帝を円丘で祀って穀物を祈る。臣が考えるに、『詩経』に『春夏に上帝に祈穀す』とあり、『礼記』に『上辛に上帝に祈穀す』とある。ならば上帝は昊天に当たるであろう。鄭玄は言う、『天の五帝は代々王となり、王者は必ずその一に感応して興る。夏の正月に郊で生みの親を祭り、その祖を配祀し、それによって穀物を祈る』と。感帝の祭祀は、『貞観礼』で用いられている。祈穀の壇によって、五方帝を遍く祭ることを請う。五帝は、五行の精であり、九穀の宗である。二つの礼をともに用いることを請う。『貞観礼』では、雩祀に五方上帝、五人帝、五官を南郊で祀る。『顕慶礼』では、昊天上帝を円丘で祀る。臣が考えるに、上帝に雩祭するのは、百穀のために慈雨を祈るためである。故に『月令』に『大いに帝に雩し、盛楽を用う』とある。鄭玄は説く、『帝とは上帝なり、すなわち天の別号なり。円丘に祀るは、天の位を尊ぶなり』と。『顕慶礼』が昊天を祀るのは『月令』に合致するが、『貞観礼』はかつて五帝を祀っている。二つの礼をともに用いることを請う。『貞観礼』では、季秋に五方帝、五官を明堂で祀る。『顕慶礼』では、昊天上帝を明堂で祀る。臣が考えるに、周は郊祀で后稷を配祀して天を祭り、明堂で宗祀して文王を配祀して上帝を祭った。先儒は天を感帝とし、太微五帝を引き合いに出して上帝とし、昊天に属させた。鄭玄は『周官』の旅上帝、五帝を祀ることを称し、それぞれ文は異なるが礼は同じであり、並べて一つとすることは許されないとした。故に『孝経』の天と上帝について、『上帝もまた天なり』と説明を加えた。神に二主はなく、ただその場所を異にするのは、后稷を避けるためである。今『顕慶礼』が上帝を享けるのは、経書に合致するが、しかし『貞観礼』はかつて五方帝を祀っている。二つの礼をともに用いることを請う。」詔して可とした。
礼部員外郎に遷った。卒し、秘書少監を贈られた。
康子元
康子元は、越州会稽の人である。官歴は献陵令であった。開元初年、詔して中書令張説に『易経』・『老子』・『荘子』に通じる者を推挙させたところ、集賢直学士の侯行果が子元と平陽の敬会真を張説に推薦した。張説はこれを聞かせ、ともに衣幣を賜り、侍読に任じられた。子元は累進して秘書少監に抜擢され、会真は四門博士となり、まもなくともに集賢侍講学士を兼ねた。
玄宗が泰山に東幸しようとしたとき、張説は子元、行果、徐堅、韋縚を引きいて封禅の儀礼を審議裁断させた。初め、高宗の封禅の際、中書令許敬宗が議して言った。「周人は臭気を尊ぶので、祭祀の前に燔柴する。」張説、徐堅、子元が上奏して言った。「『周官』に、楽六変すれば天神降る、とある。これは楽によって神を降すのであって、燔柴によるのではない。宋、斉以来、皆まず福酒を嚌してから燎祭を行っている。祭祀の後に燔柴することを請う。『貞観礼』の通りがよい。」行果と趙冬曦は議して、「先に燎祭して神を降すのが古来のやり方である。もし祭祀の後に燔柴するならば、神は降る由もない」と考えた。子元の議論は強固で動かなかった。張説が言った。「康子はひとり蒙輪を出して、一隊を当てようとするのか?」議論が決まらず、張説は帝に決断を請うた。帝は詔して後燔とした。
乗輿が泰山から還るに際し、従官を減らし、先に東都に至ったが、子元、毋煚、韋述のみが学士として従った。久しくして宗正少卿に転じ、病により秘書監を授かり、致仕した。卒し、汴州刺史を贈られた。帝はかつて賛を制して張説と子元に賜り、工人に命じてその像を図らせ、冬曦、韋述、毋煚にそれぞれ伝を分けて作らせた。
侯行果
行果は、上谷の人で、国子司業を歴任し、皇太子の侍読を務めた。卒し、慶王傅を贈られた。
初め、行果、会真および長楽の馮朝隱がともに進講した。朝隱は『老子』・『荘子』の秘義を推究することができ、会真もまた『老子』に詳しく、毎回講義を始める前に必ず香を焚き手を洗ってから読んだ。帝は言った。「私はさらに『易経』に詳しい者を求めたいが、行果に及ぶ賢者はない。」朝隱はついに太子右諭徳に至り、会真は太学博士となった。
趙冬曦
趙冬曦は、定州鼓城の人である。進士に及第し、左拾遺を歴任した。神龍初年、上書して言った。「古代の律の条項は千余りあった。隋の時、奸臣が法を侮り、律に著して言った。『律に正条のないものは、出罪には重いものを挙げて軽いことを明らかにし、入罪には軽いものを挙げて重いことを明らかにする』と。一言で数百の条項を廃した。これ以来、軽重は愛憎に沿い、罰せられる者はその理由を知らず、賈誼がこれを見れば必ず慟哭するであろう。法が分かりやすければ、下の者は犯すことを敢えず、機阱から遠ざかる。文義が深ければ、吏が便乗して私的に結託することが盛んになる。律・令・格・式は、科条を刊定し、事柄を直に書き記すべきである。準拠による加減比附、情状酌量および軽いものを挙げて重いことを明らかにする類、不応為の類は、すべて用いるべきではない。愚夫愚婦をして相率いて罪から遠ざからしめ、犯す者はたとえ貴人でも必ず罰せられるようにすべきである。律が明らかであれば人は信じ、法が統一されれば主は尊ばれる。」当時、これを称賛した。
開元初年、監察御史に遷り、事に坐して岳州に流された。召還されて官に復し、秘書少監賀知章、校書郎孫季良、大理評事鹹廙業とともに集賢院に入り脩撰した。この時、将仕郎王嗣琳、四門助教範仙廈が校勘となり、翰林供奉呂向、東方顥が校理となった。まもなく、冬曦は史官の事を知り、考功員外郎に遷った。一年余りして、季良、廙業、知章、呂向とともに直学士となった。冬曦はまもなく中書舍人内供奉に遷り、国子祭酒の任で卒した。
冬曦の性格は放達で、世事にこだわらなかった。兄の夏日、弟の和璧、安貞、居貞、頤貞、匯貞は皆進士に及第した。安貞は給事中、居貞は呉郡采訪使、頤貞は安西都護となった。居貞の子の昌は、別に伝がある。
王嗣琳は太子校書郎の任で罷免された。東方顥は上書して旨に逆らい、左遷されて高安丞となった。廙業もまた事に坐して左遷され余杭令となった。仙廈は講論を得意とし、後に道士となった。開元の集賢学士には、また尹愔、陸堅、鄭欽説、盧僎らがいて名がやや知られていた。
尹愔
尹愔は秦州天水の人である。父の思貞は字を季弱という。『春秋』に通暁し、高第に挙げられた。かつて國子博士の王道珪に師事し、王道珪は彼を評して「我が門人は多いが、尹子は測りがたい」と言った。親の喪に遭い哀毀して、喪が明けても仕官しなかった。左右史の張説・尹元凱が推薦して國子大成に任じられた。毎回の釈奠では三教を講辨し、聴く者は皆、未だ聞かざるを得た。四門助教に遷り、『諸經義樞』・『續史記』を撰したが、いずれも完成しなかった。天官・麟臺が交わって辟召する夢を見、覚めて親族と訣別の言葉を交わし、二日後に卒した。年四十。
愔は博學で、特に老子の書に通じていた。初め道士となり、玄宗が玄言を尚ぶと、愔を推薦する者があり、召し出されて応対すると、帝は大いに喜び、厚く礼遇して諫議大夫・集賢院學士とし、國史修撰を兼ねさせたが、固辞して起たなかった。詔があり、道士の服裝のままで職務に当たることを許され、そこで就職し、専ら集賢院・史館の図書を管轄した。開元末に卒し、左散騎常侍を追贈された。
陸堅
陸堅は河南洛陽の人である。初め汝州参軍となり、友婿の李慈が誅殺されたことに連座して、涪州参軍に貶せられ、再び通事舍人に遷った。詔により喪中起復を命じられ、宦官が敦諭したが、就任しなかった。給事中として學士を兼ねた。書を善くした。初めの名は友悌であったが、玄宗はその剛直さを嘉して、改めて名を賜った。泰山への封禅に従い、建安男に封ぜられた。帝は彼を甚だ厚く遇し、禁中にその図像を描かせ、自ら賛を製した。秘書監の任上で卒した。年七十一。吏部尚書を追贈され、謚は懿といった。
鄭欽説
鄭欽説は、後魏の濮陽太守敬叔の八世孫である。開元初め、新津丞から五経の試験を請い、及第して鞏県尉・集賢院校理に任じられた。右補闕内供奉を歴任した。暦術に通じ、博物であった。初め、梁の太常任昉が大同四年七月、鐘山の墳壙中に銘文を得た。その文は「龜は土を言い、蓍は水を言う。甸服、黄鐘、霊址を啓く。瘞は三上庚に在り、墮は七中己に遇う。六千三百浹辰交わり、二九重三四百圮つ」というものであった。当時はこれを弁じ得る者なく、よってこれを蔵し、諸子に戒めて言った。「代々この銘を持って通人を訪ね、これを知る者があれば、我が死して恨みなし」と。任昉の五世孫の升之は商洛に隠居し、銘文を写して鄭欽説に授けた。欽説は出使の途中、長楽駅でこれを受け取り、敷水まで三十里のところで悟って言った。「宅を卜する者は埋葬の歳月を隠し、先んじて墓の崩壊する日辰を識るのである。甸服は五百、黄鐘は十一、大同四年より逆に漢の建武四年を求めれば、凡そ五百十一年である。葬は三月十日庚寅、これが三上庚である。壊れるのは七月十二日己巳、これが七中己である。浹辰は十二、建武四年三月より大同四年七月まで、六千三百一十二月、月ごとに一交する故に、六千三百浹辰交わりという。二九は十八、重三は六である。建武四年三月十日より大同四年七月十二日まで、十八万六千四百日、故に二九重三四百圮つというのである」。升之は大いに驚き、その智を敬服した。
欽説は平素より李林甫に憎まれており、韋堅が死ぬと、欽説は当時殿中侍御史の位にあったが、常に韋堅の判官を務めていたため、夜郎尉に貶せられ、そこで卒した。
子の克鈞は都官郎中となった。吐蕃が霊州を包囲し、軍糧が枯渇した時、徳宗は克鈞を霊・夏二州運糧使とし、米を転送して塞下に備蓄させたので、守備の者は安堵した。
盧僎
盧僎は吏部尚書盧従願の三従父である。聞喜尉より學士となり、ついに吏部員外郎に至った。
兄の俌は中宗の時に右補闕を歴任した。默啜が侵入し、沙咤忠義を破った時、詔して百官に賊を破る勝策を陳べさせたが、ただ俌のみが上疏して言った。「内を治めれば外に及ぶことができ、賞罰が明らかであれば士卒は節を尽くす。鳴沙の役では、主将が先に遁走したが、中軍はなお死戦できた。正しく法を執行し功を記録すれば、軍の士気は励まされる。沙咤忠義は騎将の材ではあるが、大任に当たることはできない。古法に因り、人を募って辺境に移住させ、行役を免じ、廬伍に編入し、教令を明らかにし、虜獲を賞し、近く戦えば家を守り、遠く戦えば財貨を得られるようにすべきである。弁勇の士を購い求め、諸蕃を強化し、以て攻取を図る。辺州刺史を選び、兵車を蒐め糧食を積み、烽燧を厳にして守備に備えるべきである」。中宗はその言を善しとしたが、施行する者はなかった。俌はついに秘書少監に至った。
啖助
啖助は字を叔佐といい、趙州の人で、後に關中に移った。経術に淹博であった。天宝末、臨海尉・丹陽主簿に調任された。任期が満ちると、隠居し、粗末な飯と炒り粉で満足して暮らした。
『春秋』を善くし、三家(左氏・公羊・穀梁)の短長を考証し、漏れや欠落を繕い補い、『集傳』と号し、凡そ十年にして成った。またその綱條をまとめて『例統』とした。その孔子が『春秋』を修めた意について言うには、「夏の政は忠であり、忠の弊は野である。殷人は敬をもってこれを承け、敬の弊は鬼である。周人は文をもってこれを承け、文の弊は僿(薄い)である。僿を救うには忠に如くはない。文というものは、忠の末である。本に教えを設ければ、その弊はなお末である。末に教えを設ければ、弊はどうしようもない。武王・周公は殷の弊を承け、已むを得ずこれを用いた。周公が没して後、どう改めるべきかを知る者なく、故にその弊は二代よりも甚だしい。孔子はこれを傷んで言った、『虞・夏の道は、民に怨み寡なく、商・周の道は、その弊に勝えず』と。故に言う、『後代に作者有りと雖も、虞帝には及ぶべからず』と。蓋し唐・虞の化は季世に行い難く、夏の忠は変じてこれを致すべきことを言うのである。故に『春秋』は権をもって用を輔け、誠をもって礼を断じ、忠の道をもって情を原すのである。空名に拘らず、狷介を尚ばず、宜しきに従って乱を救い、時に因って黜陟する。古語に『商は夏を変じ、周は商を変じ、春秋は周を変ず』と言い、公羊子もまた言う、『堯・舜の道を楽しみて、以て後聖に擬す』と。これによって『春秋』は二帝・三王の法を用い、夏を本とし、周の典を一々守るのではないことは明らかである」。また言う、「幽王・厲王は衰えたとはいえ、『雅』はまだ『風』とはなっていない。平王が東遷するに及んで、人は余化に習い、もし善悪があれば、周の法をもってこれを正すべきである。故に平王の末より断ち、隠公を始めとするのは、薄俗を拯い善を勧め、周の弊を救い、礼の失を革めるためである」。助は公羊・穀梁の二家を愛し、左氏の解義は誤りが多いとし、その書は孔氏の門人から出たものであるとした。また『論語』で孔子が引用するのは、率ね前世の人、老彭・伯夷などで、同時代の者ではないのに、「左丘明これを恥ず、丘もまたこれを恥ず」と言っている。丘明とは、史佚・遅任のような者であろう。また『左氏傳』・『國語』は、綴り合わされており、序事が矛盾しており、一人の為したものではない。蓋し左氏は諸国の史を集めて『春秋』を解釈したのであり、後人が左氏と言えば、直ちに丘明に附著するのは誤りである。助の穿鑿した見解は多くこの類である。
助の門人に趙匡・陸質がおり、その高弟である。助は四十七歳で卒した。質は助の子の異とともに、助の撰した『春秋集註總例』を裒録し、趙匡に増減を請い、質がこれを纂集して『纂例』と号した。匡は字を伯循といい、河東の人で、洋州刺史を歴任し、質が趙夫子と称した者である。
大暦の時、助・匡・質は『春秋』を以て、施士匄は『詩』を以て、仲子陵・袁彜・韋彤・韋は『礼』を以て、蔡広成は『易』を以て、強蒙は『論語』を以て、皆自らその学を名乗り、而して士匄・子陵が最も卓異であった。
施士匄
士匄は呉の人、兼ねて『左氏春秋』を善くし、二経を教授す。四門助教より博士となり、秩満して去らんとするに、諸生封疏して留まるを乞い、凡そ十九年、官に卒す。弟子共に之を葬る。士匄『春秋伝』を撰す、甚だ伝はらず。後に文宗経術を喜び、宰相李石因りて士匄の『春秋』読む可しと言う。帝曰く、「朕之を見たり、穿鑿の学、徒らに異同を為すのみ。但だ学者は井を浚うが如く、美水を得るのみ。何ぞ必ずしも労苦して旁に求め、然る後に得たりと為さんや」と。
仲子陵
子陵は蜀の人、古学を好み、峨眉山に捨つ。賢良方正に挙げられ、太常博士に擢てられ、後蒼・大小戴の『礼』を通ず。有司太祖の東向の位を正し、而して献・懿の二主を遷すを請う。子陵議して主を徳明・興聖の廟に蔵し、其の言典正なり。後に異論紛洄し、復た『通難』を為して諸儒に示せば、諸儒詘する能わず。久しくして黔中の選補を典し、伝に乗りて家を過ぐ、西人以って栄と為す。終に司門員外郎。子陵文義を以て自ら怡し、及び亡ぶに、其の家の存する所、惟だ図書及び酒数斛のみ。
賛
賛に曰く、『春秋』・『詩』・『易』・『書』は、孔子の時に師弟子相伝え、暴秦を歴て、断絶せざること系の如し。漢興に至り、挟書の令を刬ぐれば、則ち儒者肆然として講授し、經典浸に興る。左氏は孔子と同時に、『魯史』を以て『春秋』に附し伝を作り、而して公羊高・穀梁赤は皆子夏の門人に出づ。三家経を言うに、各回舛有り、然れども猶悉く之を聖人に本づく。其の得と失と蓋し十五、義或いは繆誤すれども、先儒聖人を畏れ、敢えて輒ち改めず。啖助唐に在り、名は『春秋』を治め、三家を摭訕し、承く所に本づかず、自ら名学を用い、私に憑り臆決し、之を尊んで「孔子の意なり」と曰う。趙・陸従いて之を唱え、遂に時に顕る。嗚呼、孔子没すること乃ち数千年、助の推著する所果たして其の意なるか、其れ必ずしも可ならざるなり。必ずしも可ならざるを以て而して之を必すれば、則ち固し。一己の固きを持して茲の世に倡えば、則ち誣なり。誣と固とは、君子の取らざる所なり。助果たして謂う可きか、徒らに後生をして穿鑿詭辨せしめ、前人を詬い、成説を捨てて自ら紛紛と為さしむるは、助の階せる所已なり。
韋彤
韋彤は京兆の人。四世の従祖方質は武后の時の宰相。彤は名は『礼』を治め、徳宗の時に太常博士と為る。
会す昭陵の寢宮原火の延燔に為り、而して客瑤臺の仏寺を祭る。又故宮山上に在り、水泉に乏しく、作者労を憚り、即ち行宮を以て寢と為さんと欲す。詔して宰相百官に議せしむ。吏部員外郎楊於陵議して曰く、「園寢は三代の制に非ず、秦・漢以来、陵に附し寢を置く。或いは遠く若くは邇くするも、則ち聞くこと無し。韋玄成等園陵を議し、興廃に於て初め適語無し。且つ寢宮の占むる所、柏城中に在り、陵に距ること遠からず。諸陵の寢をして、皆区限有らしめば、故に徙す可からず。若し止だ柏城に止まらば、則ち故寢已に燔け、行宮久しく在り。因りて以て治飾すれば、亦復た何の嫌か有らん。或いは曰く、『太宗創業し、寢宮輒ち易えず』と。是れ然らず。夫れ陵域神を宅す。神は本静なり。今大いに興造荒廃し、囂役密邇す。幽穸の安んずる所に非ず。之を改むる便なり」と。彤曰く、「先王都邑を建て立つるに、利しからざれば則ち之を遷す。況んや故有るや。今文寢災に遭い、徙して之を宮とす。故無きに非ず。神徙に安んず。因りて而して寢を建つるは、礼に至順なり。又它陵皆柏城に在り、便に随い営作し、封兆を越えず。力省やかにして従い易し」と。帝先帝の制を改むるを重んじ、宮を山顛に還す。
彤卒した後、武宗会昌五年、詔して京城に群臣の私廟を作るを許さず。宰相李德裕等彤の議する所を引きて曰く、「古制、廟は必ず中門の外に在り、吉兇皆告く。以て親しくして之を尊び、自ら専にせざるなり。今京外に廟を立つるを俾えれば、礼に於て其の意を得ること能わず。宮の南九坊、三坊を囲外と曰い、地荒左す。廟を立つるに嫌無し。余の六坊は禁ず可し」と。詔して許さず、古に準じ即ち居所に廟を立つるを聴す。
陳京
陳京、字は慶復、陳の宜都王叔明の五世の孫。父兼は右補闕・翰林学士と為る。京文辞を善くし、常袞之を称え、兄の子を以て妻とす。進士第に擢てられ、累遷して太常博士と為る。
徳宗奉天に在り、段秀実賊の為めに害せらるるを聞き、七日朝せず。宰相以て「方に多難の時、万機を壅ぐる宜しからず。天下其れ何と謂わん」と為す。京曰く、「丞相の言は非なり。夫れ大節を褒め、賢臣を恤むるは、天下の安んずる所以なり。況んや卓卓として特異なる者をや」と。帝曰く、「善し」と。京師に還り、左補闕に擢つ。帝盧杞を以て饒州刺史と為さんとす。京と趙需・裴佶・宇文炫・盧景亮・張薦共に劾して曰く、「杞政を輔け要位に在り、大臣時月を逾えても対を得ず、百官懍懍として常に兵頸に在るが若し。陛下復た之を用うれば、奸賊唾掌にして復興せん」と。帝聴かず。京等争うこと尤も確なり。帝大いに怒り、左右辟易す。諫者稍々引き卻く。京正色して曰く、「需等遽に退く毋かれ」と。極めて道い不可なるを以て、死を以て請う。杞遂に廃せらる。帝の立つるに、太后を迎え訪うも、久しく得ず、意且つ怠らんとす。京密かに白して曰く、「第に使を遣わし物色して以て求めしめよ」と。帝大いに悟り、終代に至るまで敢えて置かず。
初めに、玄宗、肅宗が既に廟室に合祀されると、献祖・懿祖の二祖を西夾室に遷し、太祖を東向の位に据えた。礼儀使の于休烈が議して言うには、「献祖・懿祖は太祖より尊属である。もし合食すれば、太祖の位が正しくならず、二祖の神主を蔵めて、太宗・中宗・睿宗・肅宗を世祖に従わせて南向とし、高宗・玄宗を高祖に従わせて北向とするのがよい」と。禘祭・祫祭に二祖を及ぼさず、凡そ十八年に及んだ。建中初年、代宗の喪が終わり、大祫祭を行うべき時となった。京は太常博士として上言した。「『春秋』の義によれば、毀廟の主は太祖に陳べ、未だ毀廟せざる主は祖に合食す。毀廟遷主を享けざるの言はない。唐家の祭祀の制は周と異なり、周は后稷を始封の祖とし、毀廟の主は皆后稷の下にある。故に太祖は東向し、常にその尊を統ぶ。司馬晉は高皇・太皇・征西四府君を別廟とし、大禘祫には則ち太祖の位を正し、屈する所なし。別廟に高皇・太皇以下を祭るは、親を叙する所以なり。唐家は宜しく別に献祖・懿祖の二祖の廟を立て、禘祫には則ち祭り、太祖は遂に東向の位を正すべし。徳明皇帝・興聖皇帝の二帝は、向に既に廟あり、則ち二祖を蔵めて合祀するが宜しい」と。
詔して百官に普く議せしむ。礼儀使・太子少師の顔真卿曰く、「今議する者に三説あり。一には献祖・懿祖は親遠くして遷され、祫祭に当たらず、宜しく主を西室に蔵むべしと言い、二には二祖は宜しく祫食し、太祖と並び昭穆とし、東向の位を闕くべしと言い、三には二祖を引きて禘祫に及ぼせば、即ち太祖は永くその始めを全うするを得ず、宜しく二主を徳明廟に合祀すべしと言う。然れども、人神未だ厭わざるなり。景皇帝は既に天命を受けて始封せり、百代遷さず、而して又天に配す。尊びて上と与にする無し。禘祫の時に至りては、暫く昭穆を屈して以て孝を申し先を尊ぶは、実に明神の意なり、天下に孝を教うる所以なり。況んや晉の蔡謨等に成議あり、拠り無きに非ず。請う、大祫享に献祖の主を奉じて東向とし、懿祖の主は昭に居り、景皇帝の主は穆に居らしめ、本を重んじ順を尚ぶ、万代の法と為すべし。夫れ祫は合なり。別に徳明を享くる有るは、是れ分食なり、合食に非ざるなり」と。時に議する者挙って然りとす。ここに於て献祖・懿祖の主を廟に還して祫祭に及ぼし、真卿の議の如くす。
貞元七年、太常卿の裴郁上言す。「商・周は卨・稷を祖とし、上に余尊無し。故に合食に序あり。漢は天命を受け、高皇帝を祖とす。故に太上皇は昭穆を以て合食せず。魏は武帝を祖とし、晉は宣帝を祖とす。故に高皇・処士・征西等の君も亦た昭穆を以て合食せず。景皇帝始めて唐に封ぜられ、唐は祖として推す。而るに献祖・懿祖は親尽きて廟遷され、猶お東向に居るは、礼ならざる祀り、神の享けざる所なり。願わくは群臣に議を下さんことを」と。ここに於て太子左庶子の李嶸等上言す。「謹んで按ずるに晉の孫欽の議に、『太祖以前は、主有りと雖も、禘祫の及ぶ所に非ず。其の及ぶ所は、太祖以後未だ毀たざる已に升りて二祧に蔵まるる者なり。故に百代に及ぶ』と。献祖・懿祖は始封前に在り、親尽きて主遷され、上は三代に擬す。則ち禘祫の及ぶ所に非ず。太祖以下、世祖の如きは、則ち『春秋』の所謂『太祖に陳ぶ』者なり。漢に郡国廟を罷むるを議し、丞相の韋玄成議して、『太上皇・孝惠帝は親尽きて宜しく毀つべし。太上皇の主は宜しく園に瘞し、孝惠帝の主は高廟に遷すべし』と。太上皇は太祖の前に在り、主は園に瘞され、禘祫に及ばず、献祖・懿祖の比なり。孝惠帝は高廟に遷され、太祖の後に在りて、禘祫に及び、世祖の比なり。魏の明帝は処士の主を遷して園邑に置き、歳時に令丞を以て奉薦し、東晉は征西等の祖を遷して西除に入れ、同じく祧と謂い、皆祀りに及ばず。故に唐初より開元に下るまで、禘祫猶お東向の位を虚く。九廟を立てるに及び、献祖・懿祖を追祖す。然れども三祖に祝するに臣と称せず。至徳の時、復た廟を作り、遂に弘農府君の主を為さず、祀り及ばざるを以てなり。広徳中、始めて景皇帝を以て東向の位に当たらしめ、献祖・懿祖の両主は親尽きたりとして、祫祭を罷めて蔵む。顔真卿は蔡謨の議を引き、復た献祖の主を奉じて東向とし、懿祖は昭、景皇帝は穆とす。謨の議が晉に未だ嘗て用いられざるを記せず、而して唐の一王の法、容か準うべけんや。臣等謂う、嘗・禘・郊・社に二尊無く、瘞・毀・遷・蔵は各お義を以て断ずべし。景皇帝既に東向す、一日に改易するは、礼と謂うべからず。宜しく献祖・懿祖の二主を西室に蔵め、以て本とすべし『祭法』の『遠廟を祧と為し、祧を去りて壇と為し、壇を去りて墠と為す。壇・墠は禱有れば祭り、禱無ければ止む』の義に。太祖は正を得て、屈する所無からん」と。
吏部郎中の柳冕等十二人の議に曰く。「天子は受命の君を以て太祖と為し、諸侯は始封の主を以て祖と為す。故に太祖・祖以下、親尽きて叠毀す。秦に学滅び、漢は礼に暇あらず、晉は失い宋は因る。故に連王廟の制有り、太祖の位を虚くする有り。且つ昭穆を列せざるは、所謂有序に非ず。叠毀を建てざるは、所謂有殺に非ず。連王廟は、所謂有別に非ず。太祖の位を虚くするは、所謂一尊に非ず。此れ礼の由て廃るる所なり。『伝』に曰く、『父は士と為り、子は天子と為るも、祭りは天子を以てし、葬は士を以てす』と。今献祖・懿祖の二祖は、唐未だ天命を受けざる時に在りて、猶お士なり。故に高祖・太宗は天子の礼を以て之を祭り、而して敢えて東向の位に奉ぜず。今之を易うるは、先帝の序を乱すに無からんや。周は天下有り、太王・王季を追王して天子の礼を以てす。其の祭りに及んでは、則ち親尽きて毀つ。漢は天下有り、太上皇を尊びて天子の礼を以てす。祭りに及んでは、親尽きて毀つ。唐家は献祖・懿祖の二祖を追王して天子の礼を以てす。其の祭りに及んでは、親尽きて毀つ、復た何の疑わん所かあらん。『周官』に先公の祧・先王の祧有り。先公の遷主は、后稷の廟に蔵む。其れ周未だ天命を受けざるの祧か。先王の遷主は、文王・武王の廟に蔵む。其れ周已に天命を受けたるの祧か。故に二祧有り、廟を異にする所以なり。今献祖より下は、猶お先公なり。景皇帝より下は、猶お先王なり。請う、別廟を以て二祖を居らしめば、則ち周道を行い、古制を復し、便なり」と。
工部郎中の張薦等は、献祖より降りて悉く昭穆に入れ、東向の位を虚くすべしと請う。司勲員外郎の裴樞曰く。「『礼』に、『親を親しむ故に祖を尊び、祖を尊ぶ故に宗を敬い、宗を敬う故に族を収め、族を収むる故に宗廟厳なり、宗廟厳なれば故に社稷重し』と。太祖の上に、復た追尊せば、則ち祖を尊ぶの義乖れん。太廟の外に、別に廟を祭れば、則ち社稷重からず。漢の韋玄成は主を園に瘞すを請い、晉の虞喜は廟の両階の間に瘞すを請う。喜は左氏に拠り自ら証して曰く、『先王は日に祖・考を祭り、月に曾・高を祀り、時に二祧に及びて享け、歳に壇墠に及びて祫し、終に禘して郊宗の石室に及ぶ。是れを郊宗の祖と謂う』と。喜は夾室の中に石室を為して以て之を処すを請う。是れ然らず。何となれば、夾室は太祖の下に居する所以にして、太祖の上に蔵主の居する所に非ざればなり。卑き処正しく、尊き処傍らに居するは未だ有らざるなり。若し石室を園寢に建て、遷主を安んじ、漢・晉の旧章を采り、祫禘率ね一祭とすれば、庶幾くは『春秋』変の正を得ん」と。
この時、陳京は考功員外郎としてまた言う、「興聖皇帝は即ち献皇帝の曾祖、懿皇帝の高祖である。曾孫をもって曾祖・高祖の廟に合祀することは、人情において大いに順当である」と。京兆少尹の韋武は言う、「祫祭は則ち大いに合祀し、禘祭は則ち廟の序列を定める。祫祭を行う年には、常に献皇帝を東向きの主位とし、懿皇帝を率いて後に昭穆の順に極めて親しい者を祀るべきである。禘祭に至っては、則ち太祖(景皇帝)を西の席に設け、諸々の神主を左右に列べる。これは太祖に対して降格とはならず、献皇帝も厭うところはない」と。時に諸儒は左氏伝の「子たる者はたとえ聖人であっても、父の食するに先んじない」という文により、献皇帝の神主を迎えて仮に東向きの主位とし、太祖は一時的に穆位に還ることを請うた。同官尉の仲子陵は言う、「いわゆる先んじて食さないというのは、左丘明が正文公の逆祀を記したものである。儒者たちはどうして夏の後世で世数が足りない時に、禹が鯀に先んじないと言ったことを知ろうか。魏・晋の始祖は概ね近く、始祖の上には皆遷された神主がある。『宮』の詩を引くならば、永く祀ることもできる。虞祭の神主に因るならば、園に埋めることもできる。遠い廟を去ることに縁るならば、宮を築くこともできる。太祖が実際に卑しいのであれば、則ち正位を虚しくすることもできる。しかし永く祀ることと園に埋めることは、臣子として安んじられない。もし正位を虚しくするならば、則ち太祖の尊厳は時に応じて表明されない。献・懿二祖を奉じて徳明・興聖廟に遷すことを請う、これが順当である。或いは曰く、二祖を別廟とするのは合食に非ず、と。しかるに徳明・興聖二廟は禘祫の年、皆饗を薦めることがあり、これは既に分食しているのである。何ぞ独り二祖を疑うことあらんや」と。
国子四門博士の韓愈は衆議を質し、自らその説を述べて曰く、「一に、献・懿二祖の神主は永く夾室に蔵すべきであるというが、臣は可ならずと謂わん。そもそも礼によれば、祫祭には毀廟の主も皆合食する。今夾室に蔵すれば、祫祭の時に太廟で食されないことになろうか。もし二祖が参与しなければ、合祀とは謂わないのである。二に、両神主は毀して埋めるべきであるというが、臣は可ならずと謂わん。礼によれば、天子は七廟・一壇・一墠あり、遷された神主は皆祧廟に蔵され、百代を経ても毀たれない。祫祭には則ち太廟で饗される。魏晋以来、初めて毀瘞の議が始まり、経典に見えない。唐家は九廟を立てた。周の制度から推すと、献・懿はなお壇墠にあるようなものであり、毀瘞して禘祫に参与させないことができようか。三に、二祖の神主は各々諸陵に遷すべきであるというが、臣は可ならずと謂わん。二祖は太廟で二百年を享けてきた。一日にしてこれを遷せば、恐らく眷顧して依違し、直ちに下国で享けられないであろう。四に、神主を奉じて興聖廟に合祀し禘祫には参与させないべきであるというが、臣は可ならずと謂わん。礼に『祭るは在るが如し』とある。景皇帝は太祖ではあるが、献・懿に対しては子孫である。今子を引いて東向きとし、父の祭を廃するのは、典と謂うべからず。五に、献・懿は別に京師に廟を立てるべきであるというが、臣は可ならずと謂わん。凡そ礼には降格と削減があり、故に廟を去って祧とし、祧を去って壇とし、壇を去って墠とし、墠を去って鬼とし、次第に遠ざかるに従い、祭は益々稀となる。昔、魯が煬宮を立てたことを、春秋はこれを非とし、既に毀された廟、既に蔵された主を取って、再び宮を築いて祭るのは不当であると謂った。今の議は正にこれと同じである。故に臣は皆可ならずと謂うのである。古えには殷は祖を玄王とし、周は祖を後稷とし、太祖の上は皆自ら帝であった。また世数が既に遠く、再び祭らないので、始祖が東向きの位を得ることができたのである。景皇帝は太祖ではあるが、献・懿に対しては子孫である。禘祫の際には、献祖が東向きの位に居り、景皇帝は昭あるいは穆に従う。これは祖が孫によって尊ばれ、孫が祖によって屈するのであり、神道と人情はそれほど遠くない。また常祭は多く、合祭は少ない。則ち太祖が屈することは少なく、伸ぶることは多い。孫の尊を伸ばして祖の祭を廃するより、順ではないか」と。
柳冕はまた『禘祫義證』十四篇を上奏し、帝は詔して尚書省に百官・国子儒官を会させ、可否を明らかに定めさせた。左司郎中の陸淳が奏して曰く、「礼及び諸儒の議を按ずるに、太祖の位を復することは正しい。太祖の位が正しければ、則ち献・懿二祖の神主は安んずべき所があるべきである。今議する者に四説あり、夾室に蔵す、別廟に置く、各々園に遷す、興聖廟に合祀する、という。臣は謂う、夾室に蔵すのは、則ち献祖を享ける期がなく、周人が二祧を蔵するの義に非ず。別廟に置くのは、論が曹魏に始まり、礼に伝わるところがない。司馬晋は議して用いなかった。諸園に遷すのは、宗廟の制を乱す。ただ興聖廟に合祀し、禘あるいは祫の一祭を行うのみが、礼に得るであろう」と。帝は依違して未だ決しなかった。
十九年、禘祭を行わんとするに当たり、陳京はまた奏して、禘祭は大いに祖宗を合祀するものであり、必ず太祖の位を尊び、昭穆を正すべきであるとし、詔して百官に議させんことを請うた。尚書左僕射の姚南仲らは、献・懿の神主を奉じて徳明・興聖廟に合祀することを請うた。鴻臚卿の王権は申し衍べて曰く、「周人は文王を祖とし、武王を宗とした。故に詩・清廟の章に曰く『文王を祀るなり』と。何ぞ太王・王季を言わないのか。則ち太王・王季より上は、皆後稷に合祀されたので、清廟で文王を祀ることができたのである。太王・王季の尊は、私礼である。後稷の廟に合祀するのは、敢えて私をもって公を奪わないのである。古えには先王は遷廟の主を、昭穆に従って祖廟に合蔵した。献・懿の神主は興聖廟に合祀すべきである。則ち太祖は東向きにしてその尊を得、献・懿の神主は帰ってその所を得る」と。この時、興聖廟に合祀すべしと言う者は十の七八に及び、天子は尚お猶豫して未だ剛に定めなかった。ここに至り、群臣は次第に顕かに、二祖は本来追崇されたものであり、受命開国の鴻業を有するものではないと言い、また王権は根拠を詩・礼に援って明白であった。帝は泮然として、ここに二祖を興聖廟に遷すことを定め、凡そ禘祫の時に一たび享けることとした。詔して興聖廟の二室を増広せしむ。祀日の迫るに会い、廟は未だ成らず、張りたる繒を以て室とし、神主を廟の垣の間に内し、興聖・徳明の神主を奉じてこれに居らしめた。廟が成って合祀した。ここより景皇帝は遂に東向きとなった。
陳京は博士より議を献じて以来、二十年を弥いで乃ち決し、諸儒に後言はなかった。帝は陳京に緋衣・銀魚を賜う。昭陵の寝殿は山上を占め、宦官侍従は汲み上げの労を憚り、その所を改めんことを請うたが、宰相は抗することができなかった。陳京は曰く、「これは太宗の志であり、その倹は以て後世の法と為すに足り、改むべからず」と。議者は多く宦官に附いたが、帝は曰く、「陳京の議は善い」と。遂に徙さず。帝は陳京を器とし、宰相の才ありと謂い、これを用いんとした。会うこと病い狂易となり、自ら刺して死なず、また中書舎人の崔邠・御史中丞の李汶が己を誹謗したと言い、帝は詰め弁ぜしめたが状なく、然れども尚お自考功員外郎より再び給事中に遷し、皆集賢殿学士を兼ねた。帝は陳京が忌む者に中傷されたかと疑い、中人をして問い賚うことを相継がしめた。後に延英殿に対すると、帝は諭して遣わさんとしたが、陳京は沮駭して走り出で、罷められて秘書少監となり、卒した。
初め、帝が李希烈を討たんとした時、財用が屈し、陳京は戸部侍郎の趙贊と共に民の屋架に税をかけ、商人の資力を籍し、率を以てこれに貸すことを請うた。憲宗は嘗て宰相の李吉甫に問うて曰く、「我が藩邸に在りし時、徳宗が梁・漢に播遷し、久しくして乃ち復したことを聞く。誰か実に乱を召した者か、我が為に之を言え」と。対えて曰く、「徳宗は始めて即位し、躬行して慈儉をなし、崔祐甫の輔政を経て、四方は至治を企望した。祐甫歿して後、宰相その人に非ず、奸佞蠱を営み、河北の叛臣は力をもって服せしめ得ると謂い、甘き言葉先に入り、主の聴惑む。而して陳京・趙贊は帝の為に屋架に税し、商人の緡を貸し、内に怨み外に忿み、身大乱に及ぶ。咎は宵人を信じ、下を剝ぎ上を佐くるに興り、天の霊に頼り、敗れて亡に抵らず」と。帝は恨惋して曰く、「陳京と趙贊は、真の賊臣なり」と。
陳京に子なく、従子の褒を以て嗣がしむ。褒の孫の伯宣は、著作佐郎を辞して拝せず。
賛に曰く、徳宗の弊政は、間架税・借商銭・宮市が最も甚だしかり。順宗は太子たりし時、これを極言せんと欲し、王叔文の諫を懲りて止む、その畏れることかくの如し。区区たる臣、顔を冒して関説す、難きかな。その国を享くる日浅く、志は民に在らず。憲宗は暴斂の令が賊臣に始まるを聞き、感憤太息す、人を愛すること至れりなり。程異・皇甫镈を用うるに及び、諫者聴かず。利を興すの臣、君の徳を敗ること甚だし。
暢當
暢當は、河東の人なり。父は璀、左散騎常侍、代宗の時、裴冕・賈至・王延昌と共に集賢院に待制し、戸部尚書に終わる。
當は果州刺史として卒す。
林蘊
林蘊は、字は復夢、泉州莆田の人なり。父は披、字は茂彥、臨汀に山鬼淫祠多きを以て、民之に厭苦す。『無鬼論』を撰す。刺史樊晃奏して臨汀令に署し、治行を以て別駕に遷る。
蘊は経に通ず。西川節度使韋臯推官に辟す。劉辟反す。蘊は逆順を以て曉すも、聴かず。復た書を遺わし切に諫む。辟怒り、獄に械し、将に之を殺さんとす。刑に就かんとして大呼して曰く、「『危邦に入らず、乱邦に居らず』。死を得るを幸いと為す」と。辟其の直を惜しみ、陰に刑人に戒めて剣を抽き其の頸を磨き、以て脅し之を服せしめんとす。蘊叱して曰く、「死すれば即ち死す。我が項豈に頑奴の砥石たるべきや」と。辟服すべからざるを知り、之を捨て、唐昌尉に斥く。辟敗るるに及び、蘊の名京師に重し。
李吉甫・李絳・武元衡相と為る。蘊書を貽して以て諷す、「国家西土を有つは、猶お右臂の如し。今臂体に附かず。北は豳郊に弥がり、西は汧・隴に極まる。数百里を数えずして外域と為る。涇原・鳳翔・邠寧の三鎮は皆な右臂なり。大藩旄鉞を擁する者数十百人。唯だ李抱玉河・湟を復すを請う。将を命ずるに其の人を得ず。宜しく行伍の長を抜き、使いて秦・隴を守らしむべし。王者功成りて楽を作し、治定まりて礼を制す。権臣有りて楽曲を制し、自ら喪紀を立つ。舜契に命じて曰く、『百姓親しまず、五品遜らず、汝司徒と作れ』と。唐は臯・佑・鍔・季安を以て司徒と為す。官人を択ばず。盧従史・於臯謨罪大なりと雖も刑軽し。農桑百分の一無し。農夫一人百口に給し、蚕婦一人百身に供す。下に竭力する者は、飢えて食を得ず、寒くして衣を得ず。辺兵菜色す。而して将帥侈を縦し自ら養う。中人十戸以て一の功無き卒を給するに足らず。百卒以て一の驕将を奉ずるに足らず」と。六事皆な当時の極めて弊れる所なり。蘊も亦た韋臯の引いて重んずる所と為るも、其の専制を嫉み、感憤関説す。然れども酒を嗜み多く物に忤う。宰相置いて用いざるなり。
滄景の程権が書記を辟召した。やがて程権は四州の版籍を上って吏を請うたが、軍中は慣れ親しんだ地を擅にし、内属することを恐れ、程権を挟んで命に拒み、出ることができなかった。蘊は君臣の大誼を陳べ、首将を諭し、人々は釈然とし、ここにおいて程権は去ることができた。蘊は礼部員外郎に遷った。刑部侍郎劉伯芻が朝廷にこれを薦め、邵州刺史として出された。嘗て客の陶玄之を杖殺し、屍を江中に投げ、その妻を籍して倡とし、また贓に坐し、杖して儋州に流され、卒した。
蘊は弁給にして、嘗て姓崔の者が氏族を矜ったことがあり、蘊はこれを折して曰く、「崔杼は斉君を弑し、林放は礼の本を問う、優劣は如何なるものか」と。その人は俯首して対することができなかった。
韋公肅
韋公肅は、隋の儀同観城公韋約の七世孫なり。元和の初めに太常博士兼脩撰となった。憲宗が藉田を耕そうとし、詔して韋公肅に儀典を草具させ、容家これを善しとした。太子少傅判太常卿事鄭餘慶の廟に二祖妣あり、祔祭について疑い、諸有司に請うた。韋公肅議して曰く、「古の諸侯は一娶九女、故に廟に二嫡なし。秦以来再娶あり、前娶後継、皆嫡なり、両祔に嫌いなし。晉の驃騎大將軍温嶠に継室三あり、並びに夫人と為すことを疑い、以て太学博士陳舒に問う。舒曰く、『妻は先に没すと雖も、栄辱並びに夫に従う。礼に祖姑に祔す、祖姑に三あれば、則ち各々舅の生む所に祔す。是れ皆夫人なり。生を以て正礼にし、没して貶すべからず』と。ここにおいて遂に舒の議を用いた。且つ嫡継は古に殊制あり、今に異等なし、祔配の典、安んぞ同じからざるを得ん。卿士の寝祭二妻、廟享を異にすべけんや。古は媵妾を以て継ぎ、今は嫡妻を以てす、一娶を援いて比と為すに宜しからず、子孫の栄享逮わざらしむべからず。或いは曰く、『《春秋》、魯の恵公元妃孟子卒し、継室を声子を以てす。声子は孟の侄娣なり、恵廟に入らず。宋の武公仲子を生み、魯に帰り、桓公を生みて恵公薨ず。宮を立ててこれを奉るも、恵公に合せず、別宮するは何ぞ。父の志を追うなり』と。然らばその比奈何と。曰く、晉の南昌府君の廟に荀・薛両氏あり、景帝の廟に夏侯・羊両氏あり、唐家の睿宗室には則ち昭成・肅明二后あり、故太師顔真卿の祖室に殷・柳両氏あり。二夫人並びに祔す、故事則ち然り」と。諸儒異を為す能わず。
初め、睿宗の祥月に、太常が朔望に朝を弛め、尚食に蔬具を進め、楽を止むることを奏した。余日は便殿に御し、供奉仗を具す。中書・門下の官は侍するを得、その他は奏事なければ謁すべからず。前忌と晦の三日、後三日、皆事を聴かず。忌晦の明日、百官側門を叩きて慰を通ず。後遂に常と為す。ここに及び、韋公肅上言して曰く、「《礼》、忌日は楽しまず、而して忌月なし。唯だ晉の穆帝后を納れんとし、康帝の忌月を疑い、その議を有司に下す。ここにおいて荀納・王洽等忌時・忌歳を引きてその言を譏破す。今有司前の禁を承け、二十五月の限に在り、朝を弛め楽を徹する事あり。喪除くれば則ち礼革まり、王者は私懐を以て礼節を逾えず、故に禫礼は月を徙し楽しみ、漸くその情を去るなり、遠きを追うを容れず、而して礼を立てて反って重し。今茲の太常、郊廟と雖も、楽は且く停習す、是れ反って重くして以て神を慢にするを謂うなり。有司悉く中外の作楽を禁ず、是れ故なくして徹するを謂うなり。願わくは経誼に依り、その違を裁正せん」と。詔ありて中書門下に礼官・学官を召して議せしむるに、皆曰く韋公肅の請う所の如くにすべしと。制可す。官を以て寿に卒す。
許康佐
許康佐は、貞元中に進士・宏辞に挙げられ、連ねて之に中った。家は貧を苦しみ、母老いて、知院官を求め、人はその禄を択ばざるを譏った。母の喪除くに及び、凡そ辟命に皆答えず、人は乃ちその親の為に屈するを知り、ここより有名あり。
侍御史に遷る。中書舎人を以て翰林侍講学士と為り、王起と皆文宗の寵礼を受く。帝《春秋》を読みて「閽、呉子余祭を弑す」に至り、問うて曰く、「閽は何人ぞや」と。康佐は中官の方強きを以て、敢えて対せず、帝は嘻笑して罷む。後に蓬莱殿に書を観、李訓を召して之を問う。対えて曰く、「古の閽寺、今の宦人なり。君は刑臣に近づかず、以て軽死の道と為し、孔子之を書して以て戒めと為す」と。帝曰く、「朕刑臣に近づくこと多し、慮わざるを得んや」と。訓曰く、「列聖知りて而も遠ざくる能わず、悪みて而も去る能わず、陛下之を念う、宗廟の福なり」と。ここにおいて内に剪除を謀る。康佐は帝の指を知り、因りて疾を辞し、罷めて兵部侍郎と為る。礼部尚書に遷る。卒し、吏部を贈られ、謚して懿と曰う。
諸弟皆進士第に擢げられ、而して堯佐最も先進し、又宏辞に挙げられ、太子校書郎と為る。八年、康佐之に継ぐ。堯佐は位は諫議大夫に至る。