新唐書

巻二百 列傳第一百二十五 儒學下 褚無量附:徐安貞 元行沖 陳貞節 施敬本 盧履冰 王仲丘 康子元附:侯行果 趙冬曦附:尹愔 陸堅 鄭欽説 盧僎 啖助附:施士匄 仲子陵 韋彤 陳京 暢當 林蘊 韋公肅 許康佐

巻二百 列傳第一百二十五 儒學下 褚無量附:徐安貞 元行沖 陳貞節 施敬本 盧履冰 王仲丘 康子元附:侯行果 趙冬曦附:尹愔 陸堅 鄭欽説 盧僎 啖助附:施士匄 仲子陵 韋彤 陳京 暢當 林蘊 韋公肅 許康佐

褚無量

原文褚無量

褚無量、字あざなは弘度、杭州鹽官の人である。幼くして沈子正・曹福に経書を授かり、典籍に心を砕いた。家は臨平湖に臨み、龍が現れた時、人々は皆走り見物したが、無量はまだ幼く、書を読んで聞こえぬかの如く、人々はこれを異とした。特に『礼』と司馬遷の『史記』に精通した。明経科に及第し、累進して国子博士となり、司業に遷り修文館学士を兼ねた。

原文褚無量,字弘度,杭州鹽官人。幼授經於沈子正、曹福,刻意墳典。家濱臨平湖,有龍出,人皆走觀,無量尚幼,讀書若不聞,眾異之。尤精《禮》、司馬《史記》。擢明經第,累除國子博士,遷司業兼修文館學士。

中宗が南郊の祭りを行わんとした時、詔して儀典を定めさせた。時に祝欽明・郭山惲が皇后を亜献とすべしと建言したが、無量は太常博士の唐紹・蔣欽緒と共に固く争い、次のように論じた。「郊祀は国家の大事であり、その折衷は『周礼』に如くはない。『周礼』によれば、冬至に天を円丘で祭る時は地を配せず、ただ始祖を主とするのみで、また妣(母)を配さない。故に后は参与できない。また『大宗伯』に『凡そ大祭祀、王后参与せざれば、則ち摂りて豆籩を薦え、徹す』とある。これは后が助祭すべきでないことを示す。また内宰の職掌に『大祭祀、后が祼献すれば則ち瑤爵を賛す』とある。天を祭るには祼礼がないから、これは宗廟の祭りであることが分かる。巾車・内司服は后の六服と五路を掌るが、后が天を祭る服と路はない。これも后が天祭を助けない証左である。ただ漢代に天地合祭があり、皇后が参享したことがある。末世の神を瀆す行為であり、典拠に適うものではなく、法とすべきではない。」時に左僕射の韋巨源が欽明を支持したため、無量の議は退けられた。母の老齢を理由に官を辞した。

原文中宗將南郊,詔定儀典。時祝欽明、郭山惲建言皇后為亞獻,無量與太常博士唐紹、蔣欽緒固爭,以為:「郊祀,國大事,其折衷莫如《周禮》。《周禮》冬至祭天圓丘,不以地配,唯始祖為主,亦不以妣配,故後不得與。又《大宗伯》:『凡大祭祀,王後不與,則攝而薦豆籩,徹。』是後不應助祭。又內宰職『大祭祀,後祼獻則贊瑤爵。』祭天無祼,知此乃宗廟祭耳。巾車、內司服,掌後六服與五路,無後祭天之服與路,是後不助祭天也。惟漢有天地合祭,皇后參享事。末代黷神,事不經見,不可為法。」時左僕射韋巨源佐欽明,故無量議格。以母老解官。

玄宗が太子であった時、再び国子司業兼侍読に任じられ、『翼善記』を撰して進め、厚く礼遇と返答を受けた。太子が国学で釈奠を行う時、経書を講ぜしめると、端緒を立て義を樹て、博く敏にして弁明し、銀青光禄大夫に進み、賜与は豊かであった。即位すると、左散騎常侍兼国子祭酒に遷り、舒国公に封ぜられた。母の喪に服して官を辞すと、詔して州刺史の薛瑩に弔祭させ、賜物を加等した。墓の左に廬し、鹿が植えた松柏を犯すと、無量は号泣して訴えて言った。「山林に不足はないのに、どうして我が塋樹を犯すのか。」これより群鹿は馴れ従い、再び触れることはなく、無量は終生その肉を口にしなかった。喪が明けると、召されて元の官に復した。高齢のため、仗衛に随い徐行を許され、また腰輿を設け、殿中に乗り入れることを許された。頻りに上書して得失を陳べた。

原文玄宗為太子,復拜國子司業兼侍讀,撰《翼善記》以進,厚被禮答。太子釋奠國學,令講經,建端樹義,博敏而辯,進銀青光祿大夫,錫予蕃渥。及即位,遷左散騎常侍兼國子祭酒,封舒國公。母喪解,詔州刺史薛瑩吊祭,賜物加等。廬墓左,鹿犯所植松柏,無量號訴曰:「山林不乏,忍犯吾塋樹耶?」自是群鹿馴擾,不復棖觸,無量為終身不禦其肉。喪除,召復故官。以耆老,隨仗聽徐行,又為設腰輿,許乘入殿中。頻上書陳得失。

開元五年、帝が東都に幸せんとした時、太廟が壊れた。姚崇が建言した。「廟はもと苻堅の旧殿であり、行幸を止めるべきではない。」無量はその言を卑しみ、聴くに足らぬとして、上疏して言った。「王者に陰盛陽微あれば、則ち先祖に変異が現れる。今、後宮で御幸を受けざる者は、皆出して変異に応ずべし。俊良を挙げ、奢靡を抑え、賦を軽くし、刑を慎み、諫争を納れ、諂諛を察し、絶えた世を継げば、則ち天人和会し、災異は止む。」帝は姚崇の言を是とし、車駕は遂に東行した。無量はまた上言した。「昔、虞舜の巡狩に、山川に秩し、群神を遍くした。漢の孝景帝は橋山で黄帝を祠り、孝武帝は九疑で舜を祠り、高祖は魏を過ぎて信陵君の墓を祭り、趙を過ぎて楽毅の後を封じ、孝章帝は桓譚の冢を祠った。願わくは陛下、過ぎる所の名山・大川・丘陵・墳衍、及び古の帝王・賢臣で祀典にある者を、皆詔して祭らしめよ。古より受命の君は、必ず滅びた国を興し絶えた家を継ぎ、徳を崇め功に報いる。故に人の国を存するは、人の災いを救うより大なり。人の後を立てるは、人の墓を封ずるより重し。東都に到り、唐初より今に至る功臣で世の絶えた者の子孫を収め叙し、支庶に在りとも、皆承襲を得しめよ。」帝はその言を納れ、即ち詔して無量に堯を平陽で祠らせ、宋璟に舜を蒲阪で祠らせ、蘇颋に禹を安邑で祠らせ、在所の刺史に参献させた。また武徳以来の勲臣の子孫を求め、その封を継がせた。

原文開元五年,帝將幸東都而太廟壞,姚崇建言:「廟本苻堅故殿,不宜罷行。」無量鄙其言,以為不足聽,乃上疏曰:「王者陰盛陽微,則先祖見變。今後宮非禦幸者,宜悉出之,以應變異。舉畯良,撙奢靡,輕賦,慎刑,納諫爭,察諂諛,繼絕世,則天人和會,災異訖息。」帝是崇語,車駕遂東。無量又上言:「昔虞舜之狩,秩山川,遍群神。漢孝景祠黃帝橋山,孝武祠舜九疑,高祖過魏祭信陵君墓,過趙封樂毅後,孝章祠桓譚冢。願陛下所過名山、大川、丘陵、墳衍,古帝王、賢臣在祀典者,並詔致祭。自古受命之君,必興滅繼絕,崇德報功。故存人之國,大於救人之災;立人之後,重於封人之墓。願到東都,收敘唐初逮今功臣世絕者,雖在支庶,鹹得承襲。」帝納其言,即詔無量祠堯平陽,宋璟祠舜蒲阪,蘇颋祠禹安邑,在所刺史參獻。又求武德以來勛臣苗裔,紹續其封。

初め、内府の旧書は高宗の時より宮中に蔵され、甲乙叢倒していた。無量は繕写録して補い整序することを請い、秘籍を広めんとした。天子は詔して東都乾元殿の東廂で部類を分け整比させ、無量をその使とした。そこで表して聞喜尉の盧僎・江夏尉の陸去泰・左監門率府胄曹参軍の王擇従・武陟尉の徐楚璧に分かれて校定させた。衛尉が仮設の屋舎を設け、光禄が食を給した。また詔して秘書省・司経局・昭文・崇文の二館に更に検校させ、天下の遺書を採って闕文を補わせた。数年せずして四庫は完治した。帝は群臣に書を観させ、無量らに帛を差等を以て賜った。無量はまた言った。「貞観の御書は皆宰相が末尾に署名した。臣が位卑く以て辱しむに足らず、願わくは宰相と連名して跋尾せん。」聴かれなかった。帝が西還すると、書を麗正殿に移し、修書学士を麗正殿直学士と改め、京官に比して朝会に預からしめた。また詔して無量に麗正殿で前功を纂続させた。皇太子及び四王が未だ就学せず、無量は『孝経』・『論語』を五通して帝に献じた。帝は言った。「朕知るところなり。」そこで郗常亨・郭謙光・潘元祚らを選び太子・諸王の侍読とした。七年、太子が学で歯冑の礼を行うと、詔して無量に升坐して講論勧学させ、百官に礼を観させ、厚く賜賚した。卒す。七十五歳。病篤く人に語り、麗正殿の書が未だ畢らざるを恨みとした。帝は聞いて悼痛し、宰相に詔して言った。「無量は朕が師なり。今その永逝す。優れた典禮を用うべし。」ここに礼部尚書を贈り、謚して文と曰い、葬事は官が給した。撰述すること百余篇。歿後、書殿において『史記』・『至言』を講じた十二篇を得て上ると、帝は嘆息し、絹五百匹をその家に賜った。

原文初,內府舊書,自高宗時藏宮中,甲乙叢倒,無量建請繕錄補第,以廣秘籍。天子詔於東都乾元殿東廂部匯整比,無量為之使。因表聞喜尉盧僎、江夏尉陸去泰、左監門率府胄曹參軍王擇從、武陟尉徐楚璧分部讎定。衛尉設次,光祿給食。又詔秘書省、司經局、昭文、崇文二館更相檢讎,采天下遺書以益闕文。不數年,四庫完治。帝詔群臣觀書,賜無量等帛有差。無量又言:「貞觀禦書皆宰相署尾,臣位卑不足以辱,請與宰相聯名跋尾。」不從。帝西還,徙書麗正殿,更以脩書學士為麗正殿直學士,比京官預朝會。復詔無量就麗正纂續前功。皇太子及四王未就學,無量以《孝經》、《論語》五通獻帝。帝曰:「朕知之矣。」乃選郗常亨、郭謙光、潘元祚等為太子、諸王侍讀。七年,太子齒胄於學,詔無量升坐講勸,百官觀禮,厚賚賜。卒,年七十五。病困語人,以麗正書未畢為恨。帝聞悼痛,詔宰相曰:「無量,朕師,今其永逝,宜用優典。」於是贈禮部尚書,謚曰文,葬事官給。所撰述百餘篇。歿後有於書殿得講《史記》、《至言》十二篇上之,帝嘆息,以絹五百匹賜其家。

初め、無量と馬懷素が侍読となったが、後に秘書少監の康子原ゆる・国子博士の侯行果もまたその選に践んだ。賞賚は頻りに加えられたが、礼遇は衰えた。陸去泰は左右補闕内供奉を歴任した。王擇従は京兆の人、汜水令で終わった。

原文始,無量與馬懷素為侍讀,後秘書少監康子原、國子博士侯行果亦踐其選,雖賞賚亟加,而禮遇衰矣。陸去泰,歷左右補闕內供奉。王擇從,京兆人,終汜水令。

徐安貞

原文徐安貞

徐楚璧は、初め制挙に応じ、三たび甲科に登り、開元時には中書舍人・集賢院学士となり、帝が文を属する時多く草稿を見させた。中書侍郎、東海県子で終わった。中書省に久しく在り、この時李林甫が権を握り、或いは計議多く参助したと云う。後に名を安貞と改めた。

原文徐楚璧,初應制舉,三登甲科,開元時為中書舍人、集賢院學士,帝屬文多令視草。終中書侍郎,東海縣子。在中書省久,是時李林甫用事,或言計議多所參助。後更名安貞。

元行沖

原文元行沖

元淡、字は行沖、字をもって顕れ、後魏の常山王素蓮の後裔である。幼くして孤となり、外祖父の司農卿韋機に養われた。長じて博学、特に故訓に通じた。進士第に及第し、累遷して通事舍人となった。狄仁傑はこれを器とした。嘗て仁傑に謂って言った。「下の上に事うるは、譬えば富家が儲積して自ら資とするが如し。脯臘膎胰は滋膳を供え、参術芝桂は疾疢を防ぐ。門下には旨味を充す者多し。願わくは小人を以て一の薬石を備えしめよ。可ならんや。」仁傑は笑って言った。「君は正に吾が薬籠中の物、一日も無くてはならぬ。」

原文元淡,字行沖,以字顯,後魏常山王素蓮之後。少孤,養於外祖司農卿韋機。及長,博學,尤通故訓。及進士第,累遷通事舍人。狄仁傑器之。嘗謂仁傑曰:「下之事上,譬富家儲積以自資也,脯臘膎胰以供滋膳,參術芝桂以防疾疢。門下充旨味者多矣,願以小人備一藥石,可乎?」仁傑笑曰:「君正吾藥籠中物,不可一日無也。」

景雲中、太常少卿を授かった。行沖は拓跋氏の出であることを以て、史に編年なきを恨み、『魏典』三十篇を撰した。事詳しく文約にして、学者はこれを尊んだ。初め、魏の明帝の時、河西の柳谷に石が現れ、牛が馬を継ぐ象があった。魏収は晋の元帝が牛氏の子で司馬姓を冒したとして、石の符瑞と著した。行沖は昭成皇帝の名が犍であり、晋を受けて命を継いだことから、独りこれが当てはまるとした。ある人が古冢を破って銅器を得た。琵琶に似て、身は正円、人は皆弁えられなかった。行沖は言った。「これは阮鹹の作った器なり。」命じて木に替え、弦を張ると、その声は亮雅で、楽家は遂にこれを「阮鹹」と謂った。

原文景雲中,授太常少卿。行沖以系出拓拔,恨史無編年,乃撰《魏典》三十篇,事詳文約,學者尚之。初,魏明帝時,河西柳谷出石,有牛繼馬之象。魏收以晉元帝乃牛氏子冒司馬姓,以著石符。行沖謂昭成皇帝名犍,繼晉受命,獨此可以當之。有人破古冢得銅器,似琵琶,身正圓,人莫能辨。行沖曰:「此阮鹹所作器也。」命易以木,弦之,其聲亮雅,樂家遂謂之「阮鹹」。

開元の初め、太子詹事を罷免され、岐州刺史として出向し、関内按察使を兼ねた。自ら書生を以て、弾治の才にあらずとし、固辞した。入朝して右散騎常侍・東都副留守となった。嗣彭王の子の誌謙が仇人の告変に坐し、考訊して自ら誣伏し、数十人に株蔓したが、行沖はその冤を察し、列奏して原された。四遷して大理卿となったが、法家を好まず、固く居官を謝し、左散騎常侍に改め、常山県公に封ぜられた。使を充てて集賢を検校し、再遷して太子賓客・弘文館学士となった。先に、馬懐素が書誌を撰し、褚無量が麗正四部書を校したが、業未だ卒らず、相次いで物故した。詔して行沖に並び代わらせた。玄宗自ら『孝経』に註し、詔して行沖に疏を作らせ、学官に立てた。老を以て麗正校書事を罷めた。

原文開元初,罷太子詹事,出為岐州刺史,兼關內按察使。自以書生,非彈治才,固辭。入為右散騎常侍、東都副留守。嗣彭王子誌謙坐仇人告變,考訊自誣,株蔓數十人,行沖察其枉,列奏見原。四遷大理卿,不樂法家,固謝所居官,改左散騎常侍,封常山縣公。充使檢校集賢,再遷太子賓客、弘文館學士。先是,馬懷素撰書誌,褚無量校麗正四部書,業未卒,相次物故。詔行沖並代之。玄宗自註《孝經》,詔行沖為疏,立於學官。以老罷麗正校書事。

初め、魏光乗が魏徴の『類礼』を用いて経に列することを請うた。帝は行沖に命じ諸儒と集義して疏を作らせ、学に立てんとした。そこで国子博士範行恭・四門助教施敬本を引いて采獲刊綴し五十篇とし、官に上った。ここにおいて右丞相張説が建言した、「戴聖の録したる所、向に已に千載、経と並び立ち、罷むべからず。魏の孫炎始めて旧書に因り類を擿して相ひ比し、鈔綴するが如く有り、諸儒共に之を非とす。至りて徴更に整次を加え、乃ち訓註と為す、恐らく用ふべからず。」帝然りとし、書は中に留めて出さず。行沖は諸儒が己を間う意ありとし、因りて論を著して自ら弁じ、名づけて『釈疑』と曰う。曰く、

原文初,魏光乘請用魏征《類禮》列於經,帝命行沖與諸儒集義作疏,將立之學,乃引國子博士範行恭、四門助教施敬本采獲刊綴為五十篇,上於官。於是右丞相張說建言:「戴聖所錄,向已千載,與經並立,不可罷。魏孫炎始因舊書擿類相比,有如鈔綴,諸儒共非之。至征更加整次,乃為訓註,恐不可用。」帝然之,書留中不出。行沖意諸儒間己,因著論自辯,名曰《釋疑》。曰:

客、主人に問う、「小戴の学、康成の註、魏氏乃ち刊易有り、二経孰れか優れる。」主人曰く、「『小戴礼』は漢末に行はれ、馬融伝を為し、盧植二十九篇を合して之を解し、世に伝はらず。鉤党の獄起り、康成竄伏の中に於て、紛挐の典を理め、探究を存すと雖も、諮謀する所靡し。『鄭志』を具ふる者百余科、章句の徒、曾て是を省みず。王肅之に因り、或は多く攻詆す。而して鄭学に孫炎有り、鄭義を扶くるも、条例支分し、箴石間ひ起り、百篇を増革す。魏氏群言の冗脞を病み、衆説の精簡を采り、刊正芟礱し、書畢りて以て聞す。太宗嘉賞し、録して儲貳に賜ふ。陛下業を纂ぎ、宜しく循襲すべき所に、乃ち諸儒を制し、旧義を甄分す。豈に章句の士、昔言を堅持し、擯圧して申さず、新を知るに疑ひ、故を仍ふに果なるを悟らんや。」

原文客問主人:「小戴之學,康成之註,魏氏乃有刊易,二經孰優?」主人曰:「《小戴禮》行於漢末,馬融為傳,盧植合二十九篇而為之解,世所不傳。鉤黨獄起,康成於竄伏之中,理紛挐之典,雖存探究,咨謀靡所。具《鄭志》者百有余科,章句之徒,曾不是省。王肅因之,或多攻詆。而鄭學有孫炎,雖扶鄭義,條例支分,箴石間起,增革百篇。魏氏病群言之冗脞,采眾說之精簡,刊正芟礱,書畢以聞,太宗嘉賞,錄賜儲貳。陛下纂業,宜所循襲,乃制諸儒,甄分舊義。豈悟章句之士,堅持昔言,擯壓不申,疑於知新,果於仍故?」

客曰く、「当局は迷と称し、傍観は必ず審なり、何を為して疑ひて列を申さざる。」答へて曰く、「章句を改易するは、是れ五難有り。漢の孔安国『古文尚書』に註し、族兄の臧書を与へて曰く、『相如常に俗儒の淫詞義を冒すを忿り、乱を撥き正に反さんと欲して未だ能はざるなり。浮学株を守り、衆非は正に非ず、古より然り、恐らく此の道未だ信ぜられずして、独智譴を為さん。』一なり。昔、孔季産古学に専らにし、孔扶なる者有りて俗に浮沈し、毎に産に誡めて曰く、『今朝廷章句内学に率ひ、君独り古義を脩む。古義は章句内学に非ず、身を危ふるの道なり、独り善くして世に容れられず、君其れ殆からん。』二なり。劉歆『左氏』を好み、学官を建てんと欲し、哀帝之を納る。諸儒遷延して肯て対を置かず。歆書を移して誚譲す。諸博士皆忿恨す。龔勝時に光禄大夫たり、歆の議を見て、乃ち骸骨を乞ふ。司空師丹因りて大いに怒りを発し、歆が前誌を改乱し、先帝の立てる所を非毀するを詆す。歆懼れ、出でて五原太守と為る。君賓の学を以て、公仲の博を以てすら、猶ほ同門朋党の議に迫られ、卒に子駿をして謗を負はしむ。三なり。王肅鄭玄を規すること数百千条、鄭学の馬昭肅の短を詆劾す。詔して博士張融を遣はし経に按じて問詰せしむ。融是非を推処し、而して肅の酬対歳時に疲る。四なり。王粲曰く、『世に伊・雒以東、淮・漢以北、康成一人のみと称す。鹹に先儒多く闕く、鄭氏道備はると言ふ。』粲窃に嗟怪し、因りて学ぶ所を求め、『尚書註』を得、退きて其の意を思ふに、意皆尽きたり、疑ふ所猶ほ未だ諭せず、凡そ二篇有り。王邵曰く、『魏・晋浮華、古道湮替し、載を歴ること三百、士大夫章句を為すを恥づ。唯だ草野生専経自ら許し、博く究めず、其の善きに従ひて択ぶ、徒に父は康成、兄は子慎とせんと欲し、寧ろ孔聖の誤を道ひ、鄭・服の非を言ふを諱いみなむ。』然らば則ち鄭・服の外は、皆讎なり。五なり。夫れ物極まれば則ち変ず、比及百年、当に明哲の君子有りて、吾と世を同じくせざるを恨まん。道の行はれ廃るるは、必ず其の時有る者か。何ぞ遽かに近名の嫌を速にせん。」

原文客曰:「當局稱迷,傍觀必審,何所為疑而不申列?」答曰:「改易章句,是有五難:漢孔安國註《古文尚書》,族兄臧與書曰:『相如常忿俗儒淫詞冒義,欲撥亂反正而未能也。浮學守株,眾非非正,自古而然,恐此道未信,而獨智為譴。』一也。昔孔季產專古學,有孔扶者與俗浮沈,每誡產曰:『今朝廷率章句內學,君獨脩古義。古義非章句內學,危身之道也,獨善不容於世,君其殆哉!』二也。劉歆好《左氏》,欲建學官,哀帝納之,諸儒遷延不肯置對。歆移書誚讓,諸博士皆忿恨。龔勝時為光祿大夫,見歆議,乃乞骸骨。司空師丹因大發怒,詆歆改亂前誌,非毀先帝所立。歆懼,出為五原太守。以君賓之學,公仲之博,猶迫同門朋黨之議,卒令子駿負謗。三也。王肅規鄭玄數千百條,鄭學馬昭詆劾肅短。詔遣博士張融按經問詰,融推處是非,而肅酬對疲於歲時。四也。王粲曰:『世稱伊、雒以東,淮、漢以北,康成一人而已。鹹言先儒多闕,鄭氏道備。』粲竊嗟怪,因求所學,得《尚書註》,退思其意,意皆盡矣,所疑猶未諭焉,凡有二篇。王邵曰:『魏、晉浮華,古道湮替,歷載三百,士大夫恥為章句。唯草野生專經自許,不能博究,擇從其善,徒欲父康成,兄子慎,寧道孔聖誤,諱言鄭、服非。』然則鄭、服之外,皆讎矣。五也。夫物極則變,比及百年,當有明哲君子,恨不與吾同世者。道之行廢,必有其時者歟?何遽速近名之嫌邪?」

俄に致仕を丐ひ、十七年に卒す。年七十七。礼部尚書を贈られ、諡して献と曰う。

原文俄丐致仕,十七年卒,年七十七,贈禮部尚書,謚曰獻。

陳貞節

原文陳貞節

陳貞節は潁川の人。開元の初め、右拾遺となった。初め、隠・章懐・懿徳・節湣の四太子並びに陵廟を建て、八署に分ち、官を置き吏卒を列し、四時に祠官饗を進む。貞節以て是に非ずと為し、上言す、「王者祀を制するに、功徳を以てする者は猶ほ親尽きて毀つ。四太子廟は皆別祖にして、人に功無く、而して園祠時に薦め、有司守衛し、列帝に侔す。金奏登歌は、功徳を頌する所以なり。『詩』に曰く、『鐘鼓既に設け、一朝之を饗す。』功無くして頌せしむれば、舞詠度に非ずと曰はざらんや。周の制、始祖乃ち小廟と称す。未だ知らず四廟何をか名づけんと欲する。請ふらくは卒吏を罷め、祠官に属を領せしめずして、以て礼典に応ぜん。古へ別子祖と為り、故に大・小宗有り。若し祀未だ絶つべからずと謂はば、宜しく後とする所の子孫に奉らしむべし。」詔して有司に博議せしむ。駕部員外郎裴子余曰く、「四太子皆先帝の冢嗣、列聖懿属を念ひて之が享を為す。『春秋』晋の世子を書して曰く、『将に晋を以て秦に畀へんとす、秦将に予を祀らん。』此れ祀らざるなり。又言ふ、『神は類に非ざるを歆めず、君の祀ること乃ち戾からんか。』此れ廟有るなり。魯定公元年、煬宮を立つ。煬は伯禽の子、季氏の遠祖、尚ほ限と為さず、況んや天子親親を篤くして旁期に及ぼすをや、誰か然りと曰はざらん。」太常博士段同曰く、「四陵廟は皆天子の睦親継絶なり。逝く者は蘋繁を錫り、猶ほ生者の茅土を開くが如し。古へ子弟を封建す、詎んぞ皆功有らんや。生には議する所無く、死して乃ち礼に援りて祠を停む、人其れ何と謂はん。隠は上に於て伯祖なり、服は緦。章懐は伯父なり、服は期。懿徳・節湣は堂の昆弟なり、服は大功。親未だ尽きず、廟廃すべからず。」礼部尚書鄭惟忠等二十七人も亦其の言に附す。ここにおいて四陵廟は唯だ吏卒を半減し、他の事は旧の如し。

原文陳貞節,潁川人。開元初,為右拾遺。初,隱、章懷、懿德、節湣四太子並建陵廟,分八署,置官列吏卒,四時祠官進饗。貞節以為非是,上言:「王者制祀,以功德者猶親盡而毀,四太子廟皆別祖,無功於人,而園祠時薦,有司守衛,與列帝侔。金奏登歌,所以頌功德,《詩》曰:『鐘鼓既設,一朝饗之。』使無功而頌,不曰舞詠非度邪?周制:始祖乃稱小廟。未知四廟欲何名乎?請罷卒吏,詔祠官無領屬,以應禮典。古者別子為祖,故有大、小宗。若謂祀未可絕,宜許所後子孫奉之。」詔有司博議。駕部員外郎裴子余曰:「四太子皆先帝冢嗣,列聖念懿屬而為之享。《春秋》書晉世子曰:『將以晉畀秦,秦將祀予。』此不祀也。又言:『神不歆非類,君祀無乃戾乎!』此有廟也。魯定公元年,立煬宮。煬,伯禽子,季氏遠祖,尚不為限,況天子篤親親以及旁期,誰不曰然?」太常博士段同曰:「四陵廟皆天子睦親繼絕也。逝者錫蘋繁,猶生者之開茅土。古封建子弟,詎皆有功?生無所議,死乃援禮停祠,人其謂何?隱於上,伯祖也,服緦;章懷,伯父也,服期;懿德、節湣,堂昆弟也,服大功。親未盡,廟不可廢。」禮部尚書鄭惟忠等二十七人亦附其言。於是四陵廟惟減吏卒半,它如舊。

太常博士に遷る。玄宗は昭成皇后を睿宗の廟室に合祀し奉り、また肅明皇后をも並びに昇せんと欲す。貞節奏して言う、「廟には必ず配有り、一帝一後は礼の正なり。昭成皇后は太姒の徳有り、宜しく睿宗に昇配すべし。肅明皇后は既に子貴に非ず、宜しく別廟に在るべし。周人は『夷則を奏し、小呂を歌ひ、以て先妣を享く』。先妣は姜原なり、後稷を生めるを以て、故に特り廟を立てて宮と曰ふ。晉の簡文帝の鄭宣皇后は配食せず、宮を外に築き、以て歳時に享を致す。肅明は周の姜原・晉の宣後に準へ、主を別廟に納れ、時享は儀の如くせんことを請ふ」と。ここに於て、主を儀坤廟に留め、太廟に隷せしむることを詔し、官属を置くこと毋からしむ。貞節また博士蘇獻と上言す、「睿宗は孝和に対し、弟なり。賀循の説を按ずるに、兄弟は相い後と為らず。故に殷の盤庚は陽甲を序せずして、上り先君を継ぎ、漢の光武は孝成を嗣がずして、上り元帝を承け、晉の懐帝は世祖を継ぎ、恵帝を継がず。故に陽甲・孝成は出でて別廟と為る」と。また言ふ、「兄弟世を共にし、昭穆の位同じければ、則ち二廟を毀つ。天下を有つ者は、禰より上り七廟に事へ、尊者統ぶる所広きを以て、故に遠祖に及ぶ。若し兄弟を容るれば、則ち上り祖考を毀ち、天子七世を全うに事ふることを得ず。中宗を以て別廟と為し、大祫に則ち太祖に合食せしめんことを請ふ。睿宗を奉りて高宗を継がしむれば、則ち祼献永く序せん」と。詔して可とす。乃ち中宗を奉りて別廟と為し、睿宗を昇めて第七室と為す。

原文遷太常博士。玄宗奉昭成皇后祔睿宗室,又欲肅明皇后並升焉。貞節奏言:「廟必有配,一帝一後,禮之正也。昭成皇后有太姒之德,宜升配睿宗;肅明皇后既非子貴,宜在別廟。周人『奏夷則,歌小呂,以享先妣』。先妣,姜原也,以生後稷,故特立廟曰宮。晉簡文帝鄭宣皇后不配食,築宮於外,以歲時致享。肅明請準周姜原、晉宣後,納主別廟,時享如儀。」於是,留主儀坤廟,詔隸太廟,毋置官屬。貞節又與博士蘇獻上言:「睿宗於孝和,弟也。按賀循說,兄弟不相為後。故殷盤庚不序陽甲,而上繼先君;漢光武不嗣孝成,而上承元帝;晉懷帝繼世祖,不繼惠帝。故陽甲、孝成出為別廟。」又言:「兄弟共世,昭穆位同,則毀二廟。有天下者,從禰而上事七廟,尊者所統廣,故及遠祖。若容兄弟,則上毀祖考,天子不得全事七世矣。請以中宗為別廟,大祫則合食太祖。奉睿宗繼高宗,則祼獻永序。」詔可。乃奉中宗別廟,升睿宗為第七室。

五年、太廟壊る。天子神主を太極殿に舎し、新廟を営み、素服して正寝を避け、三百日朝せず、猶東都に幸す。伊闕の男子孫平子上書して曰く、「乃ち正月太廟毀る、これ二帝を躋ぐるの験なり。《春秋》に『君薨ずれば、卒哭して祔し、祔して主を作り、主に特祀し、廟に烝嘗禘す』と。今皆之に違ふ。魯の文公の二年、僖を閔の上に躋ぐ、後太室壊る。《春秋》其の災を書し、説に曰く『僖は閔の兄と雖も、嘗て之が臣と為り、臣君の上に居る、是れ礼を失ふと謂ふ、故に太室壊る』と。且つ兄弟に臣たるも、猶躋ぐべからず。弟嘗て兄に臣たる、乃ち躋ぐべけんや。莊公薨ず、閔公二年にして禘す、《春秋》之を非とす。況や大行夏に崩じ、而るに太廟冬に禘す、亦亟ならずや。太室は尊ぶ所、若し曰く魯是より陵夷し、周公の祀を墮すと。太廟今壊る、意ふらくは其れ将に陵夷し、先帝の祀を墮さんとするか。陛下未だ孝和を祭らず、先づ太上皇を祭る、先臣後君なり。昔兄弟の上に躋ぎ、今弟兄に先だちて祭る。昔太室壊れ、今太廟毀る、《春秋》と正に同じ、察らざるべからず。武後国を篡す、孝和中興の功有り、今内主別祠に在り、世に立つことを得ず、亦已に薄し。夫れ功は棄つべからず、君は下すべからず、長は軽んずべからず。且つ臣君を継ぐは、猶子父を継ぐが如し。故に禹は鯀を先にせず、周は不窋を先にせず、宋・鄭は帝乙・厲王の不肖を以てせず、猶之を尊ぶなり、況や中興なるをや。晉の太康の時、宣帝廟地陥み梁折る、又三年、太廟殿陥みて泉に及び、更に之を営む、梁又折る。天の譴るる所は、必ずしも朽ちて壊るるに非ず。晉天を承けず、故に乱に及ぶ。臣謂ふらく、宜しく孝和を遷して還廟せしむべし、何ぞ必ずしも礼に違ひ、下り魯・晉と同じからんや」と。帝其の言を異とし、詔して有司に復議せしむ。貞節・献と博士馮宗之を質して曰く、「天子七廟、三昭三穆、太祖と而して七。父昭子穆、兄弟与からず。殷は成湯より帝乙に至る十二君、其の父子世六。《易乾鑿度》に曰く『殷の帝乙六世王』と。則ち兄弟世と為さず。殷人は六廟、親廟四、湯と並びて六。殷兄弟四君、若し世と為すと為さば、方に上り四室を毀ち、乃ち祖禰無く、是れ必ず然らず。古者は禰より祖に極り、叠毀叠遷と雖も、而して三昭穆未だ嘗て闕かず。《礼》に、大宗子無ければ、則ち支子を立つ。又曰く『人の後と為る者は之が子と為る』と。兄弟相い後と為ること無し、故に至親を舎て、遠属を取る。父子を継と曰ひ、兄弟を及と曰ふ、兄弟廟に入らず、尚お久し。借りに兄弟代り立ち統を承くる有らば、告享に嗣子・嗣孫と称することを得ず、乃ち伯考・伯祖と言ふ、何の統序か有らん。殷十二君、惟だ三祖・三宗、兄弟自ら別廟と為るを明らかにす。漢の世祖七廟を列し、而して恵帝与からず。文・武子孫昌衍し、文は漢の太宗と為る。晉の景帝も亦文帝の兄なり、景絶世し、廟に列せず。及び謚を世祖に告ぐるに、景を従祖と称す。今晉の武帝其の父を越えて崇むるを謂ひ、而して廟毀れて亡に及ぶと為すは、何ぞ漢は恵帝を出だして世を享くること長久なるや。七廟・五廟は、天子・諸侯を明らかにす。父子相継ぐは、一統なり。昭穆列序は、継を重んずるなり。礼に、兄弟相継ぐは、嗣子と称することを得ず、睿宗孝和を父とせず、必ず上り高宗を継ぐ者なるを明らかにす。偶室廟に於ては、則ち二穆と為る、礼に於て可ならんや。礼の不可とする所にして、天子をして旁に伯考を紹がしめ、己が親正統を棄てしめんや。孝和中興し、別に園寢を建つ、百世毀たず、尚お何をか議せん。平子猥りに僖公の逆祀を引きて比と為す、深く知らず、孝和新寢に昇り、聖真方に廟に祔せば、則ち未だ嘗て一日も上に居らざるを」と。帝宰相に語し平子を召して博士と詳論せしむ。博士前言を護り、合して平子を軋す。平子経を援きて弁数分明なり、献等屈する能はず。蘇颋博士を右す、故に平子坐して都城尉に貶せらる。然れども諸儒平子の孤挺なるを以て、礼官に迮せらるるを見て、平らかならず。帝亦其の直なるを知り、久しく決せず、然れども卒に中宗を廟に復せず。

原文五年,太廟壞,天子舍神主太極殿,營新廟,素服避正寢,三百不朝,猶幸東都。伊闕男子孫平子上書曰:「乃正月太廟毀,此躋二帝之驗也。《春秋》:『君薨,卒哭而祔,祔而作主,特祀於主,烝嘗禘於廟。』今皆違之。魯文公之二年,躋僖於閔上,後太室壞,《春秋》書其災,說曰:『僖雖閔兄,嘗為之臣,臣居君上,是謂失禮,故太室壞。』且兄臣於弟,猶不可躋;弟嘗臣兄,乃可躋乎?莊公薨,閔公二年而禘,《春秋》非之。況大行夏崩,而太廟冬禘,不亦亟乎?太室尊所,若曰魯自是陵夷,墮周公之祀。太廟今壞,意者其將陵夷,墮先帝之祀乎?陛下未祭孝和,先祭太上皇,先臣後君。昔躋兄弟上,今弟先兄祭。昔太室壞,今太廟毀,與《春秋》正同,不可不察。武後篡國,孝和中興有功,今內主別祠,不得立於世,亦已薄矣。夫功不可棄,君不可下,長不可輕。且臣繼君,猶子繼父。故禹不先鯀,周不先不窋,宋、鄭不以帝乙、厲王不肖,猶尊之也,況中興邪?晉太康時,宣帝廟地陷梁折,又三年,太廟殿陷而及泉,更營之,梁又折。天之所譴,非必朽而壞也。晉不承天,故及於亂。臣謂宜遷孝和還廟,何必違禮,下同魯、晉哉?」帝異其言,詔有司復議。貞節、獻與博士馮宗質之曰:「天子七廟,三昭三穆,與太祖而七。父昭子穆,兄弟不與焉。殷自成湯至帝乙十二君,其父子世六。《易乾鑿度》曰:『殷之帝乙六世王。』則兄弟不為世矣。殷人六廟:親廟四,並湯而六。殷兄弟四君,若以為世,方上毀四室,乃無祖禰,是必不然。古者繇禰極祖,雖叠毀叠遷,而三昭穆未嘗闕也。《禮》:大宗無子,則立支子。又曰:『為人後者為之子。』無兄弟相為後者,故舍至親,取遠屬。父子曰繼,兄弟曰及,兄弟不相入廟,尚矣。借有兄弟代立承統,告享不得稱嗣子、嗣孫,乃言伯考、伯祖,何統序乎?殷十二君,惟三祖、三宗,明兄弟自為別廟。漢世祖列七廟,而惠帝不與。文、武子孫昌衍,文為漢太宗。晉景帝亦文帝兄,景絕世,不列於廟。及告謚世祖,稱景為從祖。今謂晉武帝越崇其父,而廟毀及亡,何漢出惠帝而享世長久乎?七廟、五廟,明天子、諸侯也;父子相繼,一統也;昭穆列序,重繼也。禮,兄弟相繼,不得稱嗣子,明睿宗不父孝和,必上繼高宗者。偶室於廟,則為二穆,於禮可乎?禮所不可,而使天子旁紹伯考,棄己親正統哉?孝和中興,別建園寢,百世不毀,尚何議哉?平子猥引僖公逆祀為比,殊不知孝和升新寢,聖真方祔廟,則未嘗一日居上也。」帝語宰相召平子與博士詳論。博士護前言,合軋平子。平子援經辯數分明,獻等不能屈。蘇颋右博士,故平子坐貶都城尉。然諸儒以平子孤挺,見迮於禮官,不平。帝亦知其直,久不決,然卒不復中宗於廟。

明年、帝将に大いに明堂を享せんとす。貞節武後の営める所を悪み、古の所謂「木鏤まず、土文せず」の制に非ざるを以て、乃ち馮宗と上言す、「明堂は必ず丙巳に直くし、以て房・心に憲み政を布き、太微上帝の所とすべし。武後始めて乾元正寝を以て陽午の地を占め、先帝政を聴く所以なり、故に殿を撤して堂を作る。撤するの日、音雷の如く有り、庶民嘩訕し、以て神靈悦ばずと為す。堂成りて、災火之に従ふ。後徳を脩めず、俄に復た営構し、殫く用て極めて侈にし、詭りて厥の変を禳ひ、又厳に上帝に配せんと欲す、神安んぞ肯て臨まんや。且つ密邇掖廷、人神雑擾す、是れ物を放つべからざる者と謂ふなり。二京上都は、四方是れ則り。天子政を聴くに、乃ち便坐に居る、群臣に尊を示すこと無し。願くは明堂を以て復た乾元殿と為し、人をして其の旧を識らしむ、亦愈らざらんや」と。詔して所司に詳議せしむ。刑部尚書王誌愔等僉に謂ふ、「明堂瑰怪にして法に不法、天燼の余、大享を容れず。旧に因り制に循ひ、還た乾元正寝に署すことを請ふ。正・至には、天子之に御して朝会す。若し大享せば、復た圜丘に寓す」と。制して可と曰す。貞節寿を以て卒す。

原文明年,帝將大享明堂,貞節惡武後所營,非古所謂「木不鏤、土不文」之制,乃與馮宗上言:「明堂必直丙巳,以憲房、心布政,太微上帝之所。武後始以乾元正寢占陽午地,先帝所以聽政,故毀殿作堂。撤之日,有音如雷,庶民嘩訕,以為神靈不悅。堂成,災火從之。後不脩德,俄復營構,殫用極侈,詭禳厥變,又欲嚴配上帝,神安肯臨?且密邇掖廷,人神雜擾,是謂不可放物者也。二京上都,四方是則。天子聽政,乃居便坐,無以尊示群臣。願以明堂復為乾元殿,使人識其舊,不亦愈乎?」詔所司詳議。刑部尚書王誌愔等僉謂:「明堂瑰怪不法,天燼之餘,不容大享。請因舊循制,還署乾元正寢。正、至,天子禦以朝會。若大享,復寓圜丘。」制曰可。貞節以壽卒。

施敬本

原文施敬本

施敬本は潤州丹陽の人である。開元年中、四門助教となった。玄宗が封禅を行わんとし、有司に詔して典儀を講求せしめた。旧制では、手を盥ぎ爵を洗うことは、皆侍中がこれを主り、天神を祀る詔は、太祝がこれを主った。敬本上言して曰く、「周の制では、大宗伯に郁人あり、下士二人、祼事を掌る。漢には郁人なく、近臣を用いた。漢代の侍中は甚だ微なるもので、籍孺・閎孺等の幸臣がこれを為した。後漢の邵闔は侍中より遷って步兵校尉となり、秩千石、その職は起居を省み、虎子を執る、蓋し褻臣である。今の侍中は宰相の位にあり、郁人に比すべきではない。祝は主人の意を神に薦むる者、賤職ではない。古に二君相見るに、卿を以て上儐と為す、況んや天人際なるかな。周の太祝は、下大夫二人、上士四人。下大夫は今の郎中・太常丞の比、上士は員外郎・博士の比である。漢の太祝令は秩六百石、今の太祝は下士である。下士を以て天に接し、大臣を以て天子に奉ずるは、軽重倫を同じくせず、礼に非ざるなり。旧制では、謁者が太尉を引いて壇に升らしむ。謁者の位は下、壇に升る礼は重し。漢の尚書御史の属に、謁者僕射一人あり、秩六百石、銅印青綬、謁者三十五人、郎中を以て満歳なる者は給事中と称し、未だ歳満たざる者は謁者と称す。光禄勲の属に、謁者あり、賓贊を掌り、員七十人、秩比六百石。則ち古の謁者は名秩等差あり、今の謁者は班微にして、空名に循い実事を忘る、天に事うる所以に非ざるなり」と。帝詔して中書令張説に敬本を引かせてその議に熟せしむ。故に侍中・祝・謁者は、礼の軽重を視て、他の官を以て摂領せしむ。

原文施敬本,潤州丹陽人。開元中,為四門助教。玄宗將封禪,詔有司講求典儀。舊制,盥手、洗爵,皆侍中主之;詔祀天神,太祝主之。敬本上言曰:「周制,大宗伯郁人,下士二,掌祼事。漢無郁人,用近臣。漢世侍中微甚,籍孺、閎孺等幸臣為之。後漢邵闔自侍中遷步兵校尉,秩千石,其職省起居,執虎子,蓋褻臣也。今侍中位宰相,非郁人比。祝者薦主人意於神,非賤職也。古二君相見,卿為上儐,況天人際哉!周太祝,下大夫二,上士四。下大夫,今郎中、太常丞之比;上士,員外郎、博士之比。漢太祝令秩六百石,今太祝乃下士。以下士接天,以大臣奉天子,輕重不倫,非禮也。舊制,謁者引太尉升壇。謁者位下,升壇禮重。漢尚書御史屬,有謁者僕射一,秩六百石,銅印青綬;謁者三十五,以郎中滿歲稱給事中,未滿歲稱謁者。光祿勛屬,有謁者,掌賓贊,員七十,秩比六百石。則古謁者名秩差異等,今謁者班微,循空名,忘實事,非所以事天也。」帝詔中書令張說引敬本熟悉其議,故侍中、祝、謁者,視禮輕重,以它官攝領。

敬本は太常博士を以て集賢院修撰となった。逾年、右補闕・秘書郎に遷り、卒す。

原文敬本以太常博士為集賢院脩撰。逾年,遷右補闕、秘書郎,卒。

盧履冰

原文盧履冰

盧履冰は幽州范陽の人、元魏の都官尚書義僖の五世孫である。開元五年、仕えて右補闕に歴任す。建言して曰く、「古には父在りて母に為すに期服とし、霊を徹して心喪す。武后始めて父と同じく三年とせんことを請う、是に非ず、礼の如くにせんことを請う」と。玄宗之を疑い、また舅・嫂叔の服未だ安からず、並びに百官に議せしむ。刑部郎中田再思曰く、「礼を会するの家は比して訟を聚む。古に循うも必ずしも是ならず、今を行うも未だ必ずしも非ならず。父在りて母に三年は、高宗実に之を行い、令に著すること已久し。何ぞ必ずしも先帝の旨に乖き、人子の情を閡え、其の親に一期の服を愛し、伯叔母・姑姊妹と同じからしめんや。嫂叔・舅甥の服は、太宗実に之を制し、百年を閲て異論無し、改むべからず」と。履冰因りて言う、「上元中、父在りて母に三年、後雖請うも未だ用いず、逮って垂拱に至り始めて之を行えり。祖父母在りて子孫婦没し、再期の服を行うに至っては、宜しと謂うべからず。礼に、女子に専道無く、故に『家に二尊無し』と曰う。父在りて母に期服するは、一尊を統ぶるなり。今其の失を正さざれば、後世復た婦の夫を奪うの敗有らんことを恐る、察せざるべからず」と。書留して未だ下さず。履冰即ち極めて陳う、「父在りて母に為すに几筵を立つる者は一期、心喪する者は再期、父は必ず三年にして後に娶り、以て子の志を達す。夫れ聖人豈に所生に情を蔑ろにせんや。固より天下に意有り。昔武后陰に篡謀を儲え、予め自ら光崇し、期服を升め、斬衰に抗えり。俄にして唐家に乗陵し、以て釁階を啓く。孝和僅かに反正を得、韋氏復た出で、天子を冘殺し、幾くんぞ宗社を亡ぼさんとす。故に臣将に夫婦の綱を正さんとす、独り母子の間に非ざるなり。議者或いは言う、『母の服を降すは、詩の所謂罔極なる者に非ず、而又伯叔母・姑姊妹等と同し。且つ期服・斬衰既に升降有り、則ち歳月容れ異なるべからず』と。此れ迂生の鄙儒、未だ先王の旨に習わず、安んぞ礼を議するに足らんや。罔極なる者は、春秋祭祀し、時に之を思う、君子に終身の憂有りと謂うの謂いなり、何ぞ一期・二期の服に限らんや。聖人の礼に於けるや、必ず中を建て制し、賢不肖をして共に文理を成して後に釈せしむ。彼の伯叔・姑姊、豈に筵杖の制・三年の心喪有らんや。母は期服、父は斬衰、易うべからざるの道なり」と。左散騎常侍元行沖議して曰く、「古は情に縁りて服を制す。女は父に天し、妻は夫に天す。斬衰三年は、情礼俱に尽くる者、心に因り極を立つるなり。妻喪は杖期、情礼俱に殺する者、嫌疑を遠ざけ、乾道を尊ぶなり。嫡子に為すに三年斬衰して官を去らざるは、祖を尊び嫡を重んじ、其の礼を崇め、其の情を殺するなり。孝は厳父より大なるは莫し。故に父在りて母に為すに官を免じ、期服にして、心喪三年、情已に申べて礼殺するなり。堯・舜・周公・孔子より同じ。今尊厭の重きを捨て、厳父の義を虧き、之を礼と謂う、可ならんや。姨は兼ねて従母の名を有ち、母の女党を以てし、舅の服に加うるも、理無きに非ず。嫂叔服せざるは、則ち嫌を遠ざくるなり。請う古に据りて適と為さん」と。帝報えず。是の時喪服を言う者、各其の見る所を以て奮い、口を交えて紛騰す。七年、乃ち詔を下す、「服紀は一に古制を用いよ」と。ここより人間父在りて母に服するに、或いは期にして禫し、禫にして釈し、心喪三年、或いは期にして禫し、終に三年、或いは期服衰三年。

原文盧履冰,幽州范陽人,元魏都官尚書義僖五世孫。開元五年,仕歷右補闕。建言:「古者父在為母期,徹靈而心喪。武後始請同父三年,非是,請如禮便。」玄宗疑之,又以舅、嫂叔服未安,並下百官議。刑部郎中田再思曰:「會禮之家比聚訟。循古不必是,而行今未必非。父在為母三年,高宗實行之,著令已久。何必乖先帝之旨,閡人子之情,愛一期服於其親,使與伯叔母、姑姊妹同?嫂叔、舅甥服,太宗實制之,閱百年無異論,不可改。」履冰因言:「上元中,父在為母三年,後雖請,未用也,逮垂拱始行之。至有祖父母在而子孫婦沒,行服再期,不可謂宜。禮,女子無專道,故曰『家無二尊』。父在為母服期,統一尊也。今不正其失,恐後世復有婦奪夫之敗,不可不察。」書留未下。履冰即極陳:「父在為母立几筵者一期,心喪者再期,父必三年而後娶,以達子之誌。夫聖人豈蔑情於所生?固有意於天下。昔武後陰儲篡謀,豫自光崇,升期[B18J],抗斬衰,俄而乘陵唐家,以啟釁階。孝和僅得反正,韋氏復出,冘殺天子,幾亡宗社。故臣將以正夫婦之綱,非特母子間也。議者或言:『降母服,非《詩》所謂罔極者,而又與伯叔母、姑姊妹等。且[B18J]、斬已有升降,則歲月不容異也。』此迂生鄙儒,未習先王之旨,安足議夫禮哉?罔極者,春秋祭祀,以時思之,謂君子有終身之憂之謂,何限一期、二期服哉?聖人之於禮,必建中制,使賢不肖共成文理而後釋,彼伯叔、姑姊,烏有筵杖之制、三年心喪乎?母[B18J]父斬,不易之道也。」左散騎常侍元行沖議曰:「古緣情制服:女天父,妻天夫,斬衰三年,情禮俱盡者,因心立極也。妻喪杖期,情禮俱殺者,遠嫌疑,尊乾道也。為嫡子三年斬衰而不去官,尊祖重嫡,崇其禮,殺其情也。孝莫大於嚴父,故父在為母免官,[B18J]而期,心喪三年,情已申而禮殺也,自堯、舜、周公、孔子所同。而今舍尊厭之重,虧嚴父之義,謂之禮,可乎?姨兼從母之名,以母之女黨,加於舅服,不為無理。嫂叔不服,則遠嫌也。請據古為適。」帝弗報。是時言喪服,各以所見奮,交口紛騰。七年,乃下詔:「服紀一用古制。」自是人間父在為母服,或期而禫,禫而釋,心喪三年;或期而禫,終三年;或[B18J]衰三年。

後に履冰は官に在りて卒す。

原文後履冰以官卒。

王仲丘

原文王仲丘

王仲丘は沂州瑯邪の人。祖師順は高宗に仕え、漕輸の事を議して当時名有り、終に司門郎中。仲丘は開元中に左補闕内供奉・集賢修撰・起居舍人に歴任す。

原文王仲丘,沂州瑯邪人。祖師順,仕高宗,議漕輸事有名當時,終司門郎中。仲丘開元中歷左補闕內供奉、集賢脩撰、起居舍人。

当時、典章制度に差異と矛盾があったので、仲丘は『貞観礼』と『顕慶礼』の二つの礼を合わせようとし、「挙げてあるものは、廃することはできない」という道理に基づき、上言した。「『貞観礼』では、正月の上辛の日に、感帝を南郊で祀る。『顕慶礼』では、昊天上帝を円丘で祀って穀物を祈る。臣が考えるに、『詩経』に『春夏に上帝に祈穀す』とあり、『礼記』に『上辛に上帝に祈穀す』とある。ならば上帝は昊天に当たるであろう。鄭玄は言う、『天の五帝は代々王となり、王者は必ずその一に感応して興る。夏の正月に郊で生みの親を祭り、その祖を配祀し、それによって穀物を祈る』と。感帝の祭祀は、『貞観礼』で用いられている。祈穀の壇によって、五方帝を遍く祭ることを請う。五帝は、五行の精であり、九穀の宗である。二つの礼をともに用いることを請う。『貞観礼』では、雩祀に五方上帝、五人帝、五官を南郊で祀る。『顕慶礼』では、昊天上帝を円丘で祀る。臣が考えるに、上帝に雩祭するのは、百穀のために慈雨を祈るためである。故に『月令』に『大いに帝に雩し、盛楽を用う』とある。鄭玄は説く、『帝とは上帝なり、すなわち天の別号なり。円丘に祀るは、天の位を尊ぶなり』と。『顕慶礼』が昊天を祀るのは『月令』に合致するが、『貞観礼』はかつて五帝を祀っている。二つの礼をともに用いることを請う。『貞観礼』では、季秋に五方帝、五官を明堂で祀る。『顕慶礼』では、昊天上帝を明堂で祀る。臣が考えるに、周は郊祀で后稷を配祀して天を祭り、明堂で宗祀して文王を配祀して上帝を祭った。先儒は天を感帝とし、太微五帝を引き合いに出して上帝とし、昊天に属させた。鄭玄は『周官』の旅上帝、五帝を祀ることを称し、それぞれ文は異なるが礼は同じであり、並べて一つとすることは許されないとした。故に『孝経』の天と上帝について、『上帝もまた天なり』と説明を加えた。神に二主はなく、ただその場所を異にするのは、后稷を避けるためである。今『顕慶礼』が上帝を享けるのは、経書に合致するが、しかし『貞観礼』はかつて五方帝を祀っている。二つの礼をともに用いることを請う。」詔して可とした。

原文時典章差駁,仲丘欲合《貞觀》、《顯慶》二禮,據「有其舉之,莫可廢之」之誼,即上言:「《貞觀禮》,正月上辛,祀感帝於南郊。《顯慶禮》:祀昊天上帝於圓丘以祈谷。臣謂《詩》『春夏祈谷於上帝』,《禮》『上辛祈谷於上帝』,則上帝當昊天矣。鄭玄曰:『天之五帝遞王,王者必感一以興。比夏正月祭所生於郊,以其祖配之,因以祈谷。』感帝之祀,《貞觀》用之矣。請因祈谷之壇,遍祭五方帝。五帝者,五行之精,九谷之宗也。請二禮皆用。《貞觀禮》,雩祀五方上帝、五人帝、五官於南郊。《顯慶禮》,祀昊天上帝於圓丘。臣謂雩上帝,為百谷祈甘雨,故《月令》:『大雩帝,用盛樂。』鄭玄說:『帝,上帝也,乃天別號。祀於圓丘,尊天位也。』《顯慶》祀昊天與《月令》合,而《貞觀》嘗祀五帝矣,請二禮皆用。《貞觀禮》,季秋祀五方帝、五官於明堂。《顯慶禮》,祀昊天上帝於明堂。臣謂周郊祀後稷以配天,宗祀文王於明堂以配上帝。先儒以天為感帝,引太微五帝著之上帝,則屬之昊天。鄭玄稱《周官》旅上帝,祀五帝,各文而異禮,不容並而為一。故於《孝經》天、上帝,申之曰:『上帝亦天也。』神無二主,但異其處,以避後稷。今《顯慶》享上帝,合於《經》,然《貞觀》嘗祀五方帝矣。請二禮皆用。」詔可。

礼部員外郎に遷った。卒し、秘書少監を贈られた。

原文遷禮部員外郎。卒,贈秘書少監。

康子元

原文康子元

康子元は、越州会稽の人である。官歴は献陵令であった。開元初年、詔して中書令張説に『易経』・『老子』・『荘子』に通じる者を推挙させたところ、集賢直学士の侯行果が子元と平陽の敬会真を張説に推薦した。張説はこれを聞かせ、ともに衣幣を賜り、侍読に任じられた。子元は累進して秘書少監に抜擢され、会真は四門博士となり、まもなくともに集賢侍講学士を兼ねた。

原文康子元,越州會稽人。仕歷獻陵令。開元初,詔中書令張說舉能治《易》、《老》、《莊》者,集賢直學士侯行果薦子元及平陽敬會真於說,說藉以聞,並賜衣幣,得侍讀。子元擢累秘書少監,會真四門博士,俄皆兼集賢侍講學士。

玄宗が泰山に東幸しようとしたとき、張説は子元、行果、徐堅、韋縚を引きいて封禅の儀礼を審議裁断させた。初め、高宗の封禅の際、中書令許敬宗が議して言った。「周人は臭気を尊ぶので、祭祀の前に燔柴する。」張説、徐堅、子元が上奏して言った。「『周官』に、楽六変すれば天神降る、とある。これは楽によって神を降すのであって、燔柴によるのではない。宋、斉以来、皆まず福酒を嚌してから燎祭を行っている。祭祀の後に燔柴することを請う。『貞観礼』の通りがよい。」行果と趙冬曦は議して、「先に燎祭して神を降すのが古来のやり方である。もし祭祀の後に燔柴するならば、神は降る由もない」と考えた。子元の議論は強固で動かなかった。張説が言った。「康子はひとり蒙輪を出して、一隊を当てようとするのか?」議論が決まらず、張説は帝に決断を請うた。帝は詔して後燔とした。

原文玄宗將東之太山,說引子元、行果、徐堅、韋縚商裁封禪儀。初,高宗之封,中書令許敬宗議:「周人尚臭,故前祭而燔柴。」說、堅、子元白奏:「《周官》:樂六變,天神降。是降神以樂,非緣燔也。宋、齊以來,皆先嚌福酒,乃燎。請先祭後燔,如《貞觀禮》便。」行果與趙冬曦議,以為:「先燎降神,尚矣。若祭已而燔,神無由降。」子元議挺不徙。說曰:「康子獨出蒙輪,以當一隊邪?」議未判,說請決於帝,帝詔後燔。

乗輿が泰山から還るに際し、従官を減らし、先に東都に至ったが、子元、毋煚、韋述のみが学士として従った。久しくして宗正少卿に転じ、病により秘書監を授かり、致仕した。卒し、汴州刺史を贈られた。帝はかつて賛を制して張説と子元に賜り、工人に命じてその像を図らせ、冬曦、韋述、毋煚にそれぞれ伝を分けて作らせた。

原文乘輿自岱還,減從官,先次東都,唯子元、毋煚、韋述以學士從。久乃徙宗正少卿,以疾授秘書監,致仕。卒,贈汴州刺史。帝嘗制贊賜說、子元,命工圖其象,詔冬曦、述、煚分為傳。

侯行果

原文侯行果

行果は、上谷の人で、国子司業を歴任し、皇太子の侍読を務めた。卒し、慶王傅を贈られた。

原文行果者,上谷人,歷國子司業,侍皇太子讀。卒,贈慶王傅。

初め、行果、会真および長楽の馮朝隱がともに進講した。朝隱は『老子』・『荘子』の秘義を推究することができ、会真もまた『老子』に詳しく、毎回講義を始める前に必ず香を焚き手を洗ってから読んだ。帝は言った。「私はさらに『易経』に詳しい者を求めたいが、行果に及ぶ賢者はない。」朝隱はついに太子右諭徳に至り、会真は太学博士となった。

原文始,行果、會真及長樂馮朝隱同進講。朝隱能推索《老》、《莊》秘義,會真亦善《老子》,每啟篇,先薰盥乃讀。帝曰:「我欲更求善《易》者,然無賢行果雲。」朝隱終太子右諭德,會真太學博士。

趙冬曦

原文趙冬曦

趙冬曦は、定州鼓城の人である。進士に及第し、左拾遺を歴任した。神龍初年、上書して言った。「古代の律の条項は千余りあった。隋の時、奸臣が法を侮り、律に著して言った。『律に正条のないものは、出罪には重いものを挙げて軽いことを明らかにし、入罪には軽いものを挙げて重いことを明らかにする』と。一言で数百の条項を廃した。これ以来、軽重は愛憎に沿い、罰せられる者はその理由を知らず、賈誼がこれを見れば必ず慟哭するであろう。法が分かりやすければ、下の者は犯すことを敢えず、機阱から遠ざかる。文義が深ければ、吏が便乗して私的に結託することが盛んになる。律・令・格・式は、科条を刊定し、事柄を直に書き記すべきである。準拠による加減比附、情状酌量および軽いものを挙げて重いことを明らかにする類、不応為の類は、すべて用いるべきではない。愚夫愚婦をして相率いて罪から遠ざからしめ、犯す者はたとえ貴人でも必ず罰せられるようにすべきである。律が明らかであれば人は信じ、法が統一されれば主は尊ばれる。」当時、これを称賛した。

原文趙冬曦,定州鼓城人。進士擢第,歷左拾遺。神龍初,上書曰:「古律條目千餘。隋時奸臣侮法,著律曰:『律無正條者,出罪舉重以明輕,入罪舉輕以明重。』一辭而廢條目數百。自是輕重沿愛憎,被罰者不知其然,使賈誼見之,慟哭必矣。夫法易知,則下不敢犯而遠機阱;文義深,則吏乘便而朋附盛。律、令、格、式,謂宜刊定科條,直書其事。其以準加減比附、量情及舉輕以明重、不應為之類,皆勿用。使愚夫愚婦相率而遠罪,犯者雖貴必坐。律明則人信,法一則主尊。」當時稱是。

開元初年、監察御史に遷り、事に坐して岳州に流された。召還されて官に復し、秘書少監賀知章、校書郎孫季良、大理評事鹹廙業とともに集賢院に入り脩撰した。この時、将仕郎王嗣琳、四門助教範仙廈が校勘となり、翰林供奉呂向、東方顥が校理となった。まもなく、冬曦は史官の事を知り、考功員外郎に遷った。一年余りして、季良、廙業、知章、呂向とともに直学士となった。冬曦はまもなく中書舍人内供奉に遷り、国子祭酒の任で卒した。

原文趙冬曦,定州鼓城人。進士擢第,歷左拾遺。神龍初,上書曰:「古律條目千餘。隋時奸臣侮法,著律曰:『律無正條者,出罪舉重以明輕,入罪舉輕以明重。』一辭而廢條目數百。自是輕重沿愛憎,被罰者不知其然,使賈誼見之,慟哭必矣。夫法易知,則下不敢犯而遠機阱;文義深,則吏乘便而朋附盛。律、令、格、式,謂宜刊定科條,直書其事。其以準加減比附、量情及舉輕以明重、不應為之類,皆勿用。使愚夫愚婦相率而遠罪,犯者雖貴必坐。律明則人信,法一則主尊。」當時稱是。

冬曦の性格は放達で、世事にこだわらなかった。兄の夏日、弟の和璧、安貞、居貞、頤貞、匯貞は皆進士に及第した。安貞は給事中、居貞は呉郡采訪使、頤貞は安西都護となった。居貞の子の昌は、別に伝がある。

原文趙冬曦,定州鼓城人。進士擢第,歷左拾遺。神龍初,上書曰:「古律條目千餘。隋時奸臣侮法,著律曰:『律無正條者,出罪舉重以明輕,入罪舉輕以明重。』一辭而廢條目數百。自是輕重沿愛憎,被罰者不知其然,使賈誼見之,慟哭必矣。夫法易知,則下不敢犯而遠機阱;文義深,則吏乘便而朋附盛。律、令、格、式,謂宜刊定科條,直書其事。其以準加減比附、量情及舉輕以明重、不應為之類,皆勿用。使愚夫愚婦相率而遠罪,犯者雖貴必坐。律明則人信,法一則主尊。」當時稱是。

王嗣琳は太子校書郎の任で罷免された。東方顥は上書して旨に逆らい、左遷されて高安丞となった。廙業もまた事に坐して左遷され余杭令となった。仙廈は講論を得意とし、後に道士となった。開元の集賢学士には、また尹愔、陸堅、鄭欽説、盧僎らがいて名がやや知られていた。

原文趙冬曦,定州鼓城人。進士擢第,歷左拾遺。神龍初,上書曰:「古律條目千餘。隋時奸臣侮法,著律曰:『律無正條者,出罪舉重以明輕,入罪舉輕以明重。』一辭而廢條目數百。自是輕重沿愛憎,被罰者不知其然,使賈誼見之,慟哭必矣。夫法易知,則下不敢犯而遠機阱;文義深,則吏乘便而朋附盛。律、令、格、式,謂宜刊定科條,直書其事。其以準加減比附、量情及舉輕以明重、不應為之類,皆勿用。使愚夫愚婦相率而遠罪,犯者雖貴必坐。律明則人信,法一則主尊。」當時稱是。