褚無量
褚無量、字は弘度、杭州鹽官の人である。幼くして沈子正・曹福に経書を授かり、典籍に心を砕いた。家は臨平湖に臨み、龍が現れた時、人々は皆走り見物したが、無量はまだ幼く、書を読んで聞こえぬかの如く、人々はこれを異とした。特に『礼』と司馬遷の『史記』に精通した。明経科に及第し、累進して国子博士となり、司業に遷り修文館学士を兼ねた。
中宗が南郊の祭りを行わんとした時、詔して儀典を定めさせた。時に祝欽明・郭山惲が皇后を亜献とすべしと建言したが、無量は太常博士の唐紹・蔣欽緒と共に固く争い、次のように論じた。「郊祀は国家の大事であり、その折衷は『周礼』に如くはない。『周礼』によれば、冬至に天を円丘で祭る時は地を配せず、ただ始祖を主とするのみで、また妣(母)を配さない。故に后は参与できない。また『大宗伯』に『凡そ大祭祀、王后参与せざれば、則ち摂りて豆籩を薦え、徹す』とある。これは后が助祭すべきでないことを示す。また内宰の職掌に『大祭祀、后が祼献すれば則ち瑤爵を賛す』とある。天を祭るには祼礼がないから、これは宗廟の祭りであることが分かる。巾車・内司服は后の六服と五路を掌るが、后が天を祭る服と路はない。これも后が天祭を助けない証左である。ただ漢代に天地合祭があり、皇后が参享したことがある。末世の神を瀆す行為であり、典拠に適うものではなく、法とすべきではない。」時に左僕射の韋巨源が欽明を支持したため、無量の議は退けられた。母の老齢を理由に官を辞した。
玄宗が太子であった時、再び国子司業兼侍読に任じられ、『翼善記』を撰して進め、厚く礼遇と返答を受けた。太子が国学で釈奠を行う時、経書を講ぜしめると、端緒を立て義を樹て、博く敏にして弁明し、銀青光禄大夫に進み、賜与は豊かであった。即位すると、左散騎常侍兼国子祭酒に遷り、舒国公に封ぜられた。母の喪に服して官を辞すと、詔して州刺史の薛瑩に弔祭させ、賜物を加等した。墓の左に廬し、鹿が植えた松柏を犯すと、無量は号泣して訴えて言った。「山林に不足はないのに、どうして我が塋樹を犯すのか。」これより群鹿は馴れ従い、再び触れることはなく、無量は終生その肉を口にしなかった。喪が明けると、召されて元の官に復した。高齢のため、仗衛に随い徐行を許され、また腰輿を設け、殿中に乗り入れることを許された。頻りに上書して得失を陳べた。
開元五年、帝が東都に幸せんとした時、太廟が壊れた。姚崇が建言した。「廟はもと苻堅の旧殿であり、行幸を止めるべきではない。」無量はその言を卑しみ、聴くに足らぬとして、上疏して言った。「王者に陰盛陽微あれば、則ち先祖に変異が現れる。今、後宮で御幸を受けざる者は、皆出して変異に応ずべし。俊良を挙げ、奢靡を抑え、賦を軽くし、刑を慎み、諫争を納れ、諂諛を察し、絶えた世を継げば、則ち天人和会し、災異は止む。」帝は姚崇の言を是とし、車駕は遂に東行した。無量はまた上言した。「昔、虞舜の巡狩に、山川に秩し、群神を遍くした。漢の孝景帝は橋山で黄帝を祠り、孝武帝は九疑で舜を祠り、高祖は魏を過ぎて信陵君の墓を祭り、趙を過ぎて楽毅の後を封じ、孝章帝は桓譚の冢を祠った。願わくは陛下、過ぎる所の名山・大川・丘陵・墳衍、及び古の帝王・賢臣で祀典にある者を、皆詔して祭らしめよ。古より受命の君は、必ず滅びた国を興し絶えた家を継ぎ、徳を崇め功に報いる。故に人の国を存するは、人の災いを救うより大なり。人の後を立てるは、人の墓を封ずるより重し。東都に到り、唐初より今に至る功臣で世の絶えた者の子孫を収め叙し、支庶に在りとも、皆承襲を得しめよ。」帝はその言を納れ、即ち詔して無量に堯を平陽で祠らせ、宋璟に舜を蒲阪で祠らせ、蘇颋に禹を安邑で祠らせ、在所の刺史に参献させた。また武徳以来の勲臣の子孫を求め、その封を継がせた。
初め、内府の旧書は高宗の時より宮中に蔵され、甲乙叢倒していた。無量は繕写録して補い整序することを請い、秘籍を広めんとした。天子は詔して東都乾元殿の東廂で部類を分け整比させ、無量をその使とした。そこで表して聞喜尉の盧僎・江夏尉の陸去泰・左監門率府胄曹参軍の王擇従・武陟尉の徐楚璧に分かれて校定させた。衛尉が仮設の屋舎を設け、光禄が食を給した。また詔して秘書省・司経局・昭文・崇文の二館に更に検校させ、天下の遺書を採って闕文を補わせた。数年せずして四庫は完治した。帝は群臣に書を観させ、無量らに帛を差等を以て賜った。無量はまた言った。「貞観の御書は皆宰相が末尾に署名した。臣が位卑く以て辱しむに足らず、願わくは宰相と連名して跋尾せん。」聴かれなかった。帝が西還すると、書を麗正殿に移し、修書学士を麗正殿直学士と改め、京官に比して朝会に預からしめた。また詔して無量に麗正殿で前功を纂続させた。皇太子及び四王が未だ就学せず、無量は『孝経』・『論語』を五通して帝に献じた。帝は言った。「朕知るところなり。」そこで郗常亨・郭謙光・潘元祚らを選び太子・諸王の侍読とした。七年、太子が学で歯冑の礼を行うと、詔して無量に升坐して講論勧学させ、百官に礼を観させ、厚く賜賚した。卒す。七十五歳。病篤く人に語り、麗正殿の書が未だ畢らざるを恨みとした。帝は聞いて悼痛し、宰相に詔して言った。「無量は朕が師なり。今その永逝す。優れた典禮を用うべし。」ここに礼部尚書を贈り、謚して文と曰い、葬事は官が給した。撰述すること百余篇。歿後、書殿において『史記』・『至言』を講じた十二篇を得て上ると、帝は嘆息し、絹五百匹をその家に賜った。
初め、無量と馬懷素が侍読となったが、後に秘書少監の康子原・国子博士の侯行果もまたその選に践んだ。賞賚は頻りに加えられたが、礼遇は衰えた。陸去泰は左右補闕内供奉を歴任した。王擇従は京兆の人、汜水令で終わった。
徐安貞
徐楚璧は、初め制挙に応じ、三たび甲科に登り、開元時には中書舍人・集賢院学士となり、帝が文を属する時多く草稿を見させた。中書侍郎、東海県子で終わった。中書省に久しく在り、この時李林甫が権を握り、或いは計議多く参助したと云う。後に名を安貞と改めた。
元行沖
元淡、字は行沖、字をもって顕れ、後魏の常山王素蓮の後裔である。幼くして孤となり、外祖父の司農卿韋機に養われた。長じて博学、特に故訓に通じた。進士第に及第し、累遷して通事舍人となった。狄仁傑はこれを器とした。嘗て仁傑に謂って言った。「下の上に事うるは、譬えば富家が儲積して自ら資とするが如し。脯臘膎胰は滋膳を供え、参術芝桂は疾疢を防ぐ。門下には旨味を充す者多し。願わくは小人を以て一の薬石を備えしめよ。可ならんや。」仁傑は笑って言った。「君は正に吾が薬籠中の物、一日も無くてはならぬ。」
景雲中、太常少卿を授かった。行沖は拓跋氏の出であることを以て、史に編年なきを恨み、『魏典』三十篇を撰した。事詳しく文約にして、学者はこれを尊んだ。初め、魏の明帝の時、河西の柳谷に石が現れ、牛が馬を継ぐ象があった。魏収は晋の元帝が牛氏の子で司馬姓を冒したとして、石の符瑞と著した。行沖は昭成皇帝の名が犍であり、晋を受けて命を継いだことから、独りこれが当てはまるとした。ある人が古冢を破って銅器を得た。琵琶に似て、身は正円、人は皆弁えられなかった。行沖は言った。「これは阮鹹の作った器なり。」命じて木に替え、弦を張ると、その声は亮雅で、楽家は遂にこれを「阮鹹」と謂った。
開元の初め、太子詹事を罷免され、岐州刺史として出向し、関内按察使を兼ねた。自ら書生を以て、弾治の才にあらずとし、固辞した。入朝して右散騎常侍・東都副留守となった。嗣彭王の子の誌謙が仇人の告変に坐し、考訊して自ら誣伏し、数十人に株蔓したが、行沖はその冤を察し、列奏して原された。四遷して大理卿となったが、法家を好まず、固く居官を謝し、左散騎常侍に改め、常山県公に封ぜられた。使を充てて集賢を検校し、再遷して太子賓客・弘文館学士となった。先に、馬懐素が書誌を撰し、褚無量が麗正四部書を校したが、業未だ卒らず、相次いで物故した。詔して行沖に並び代わらせた。玄宗自ら『孝経』に註し、詔して行沖に疏を作らせ、学官に立てた。老を以て麗正校書事を罷めた。
初め、魏光乗が魏徴の『類礼』を用いて経に列することを請うた。帝は行沖に命じ諸儒と集義して疏を作らせ、学に立てんとした。そこで国子博士範行恭・四門助教施敬本を引いて采獲刊綴し五十篇とし、官に上った。ここにおいて右丞相張説が建言した、「戴聖の録したる所、向に已に千載、経と並び立ち、罷むべからず。魏の孫炎始めて旧書に因り類を擿して相ひ比し、鈔綴するが如く有り、諸儒共に之を非とす。至りて徴更に整次を加え、乃ち訓註と為す、恐らく用ふべからず。」帝然りとし、書は中に留めて出さず。行沖は諸儒が己を間う意ありとし、因りて論を著して自ら弁じ、名づけて『釈疑』と曰う。曰く、
客、主人に問う、「小戴の学、康成の註、魏氏乃ち刊易有り、二経孰れか優れる。」主人曰く、「『小戴礼』は漢末に行はれ、馬融伝を為し、盧植二十九篇を合して之を解し、世に伝はらず。鉤党の獄起り、康成竄伏の中に於て、紛挐の典を理め、探究を存すと雖も、諮謀する所靡し。『鄭志』を具ふる者百余科、章句の徒、曾て是を省みず。王肅之に因り、或は多く攻詆す。而して鄭学に孫炎有り、鄭義を扶くるも、条例支分し、箴石間ひ起り、百篇を増革す。魏氏群言の冗脞を病み、衆説の精簡を采り、刊正芟礱し、書畢りて以て聞す。太宗嘉賞し、録して儲貳に賜ふ。陛下業を纂ぎ、宜しく循襲すべき所に、乃ち諸儒を制し、旧義を甄分す。豈に章句の士、昔言を堅持し、擯圧して申さず、新を知るに疑ひ、故を仍ふに果なるを悟らんや。」
客曰く、「当局は迷と称し、傍観は必ず審なり、何を為して疑ひて列を申さざる。」答へて曰く、「章句を改易するは、是れ五難有り。漢の孔安国『古文尚書』に註し、族兄の臧書を与へて曰く、『相如常に俗儒の淫詞義を冒すを忿り、乱を撥き正に反さんと欲して未だ能はざるなり。浮学株を守り、衆非は正に非ず、古より然り、恐らく此の道未だ信ぜられずして、独智譴を為さん。』一なり。昔、孔季産古学に専らにし、孔扶なる者有りて俗に浮沈し、毎に産に誡めて曰く、『今朝廷章句内学に率ひ、君独り古義を脩む。古義は章句内学に非ず、身を危ふるの道なり、独り善くして世に容れられず、君其れ殆からん。』二なり。劉歆『左氏』を好み、学官を建てんと欲し、哀帝之を納る。諸儒遷延して肯て対を置かず。歆書を移して誚譲す。諸博士皆忿恨す。龔勝時に光禄大夫たり、歆の議を見て、乃ち骸骨を乞ふ。司空師丹因りて大いに怒りを発し、歆が前誌を改乱し、先帝の立てる所を非毀するを詆す。歆懼れ、出でて五原太守と為る。君賓の学を以て、公仲の博を以てすら、猶ほ同門朋党の議に迫られ、卒に子駿をして謗を負はしむ。三なり。王肅鄭玄を規すること数百千条、鄭学の馬昭肅の短を詆劾す。詔して博士張融を遣はし経に按じて問詰せしむ。融是非を推処し、而して肅の酬対歳時に疲る。四なり。王粲曰く、『世に伊・雒以東、淮・漢以北、康成一人のみと称す。鹹に先儒多く闕く、鄭氏道備はると言ふ。』粲窃に嗟怪し、因りて学ぶ所を求め、『尚書註』を得、退きて其の意を思ふに、意皆尽きたり、疑ふ所猶ほ未だ諭せず、凡そ二篇有り。王邵曰く、『魏・晋浮華、古道湮替し、載を歴ること三百、士大夫章句を為すを恥づ。唯だ草野生専経自ら許し、博く究めず、其の善きに従ひて択ぶ、徒に父は康成、兄は子慎とせんと欲し、寧ろ孔聖の誤を道ひ、鄭・服の非を言ふを諱む。』然らば則ち鄭・服の外は、皆讎なり。五なり。夫れ物極まれば則ち変ず、比及百年、当に明哲の君子有りて、吾と世を同じくせざるを恨まん。道の行はれ廃るるは、必ず其の時有る者か。何ぞ遽かに近名の嫌を速にせん。」
俄に致仕を丐ひ、十七年に卒す。年七十七。礼部尚書を贈られ、諡して献と曰う。
陳貞節
陳貞節は潁川の人。開元の初め、右拾遺となった。初め、隠・章懐・懿徳・節湣の四太子並びに陵廟を建て、八署に分ち、官を置き吏卒を列し、四時に祠官饗を進む。貞節以て是に非ずと為し、上言す、「王者祀を制するに、功徳を以てする者は猶ほ親尽きて毀つ。四太子廟は皆別祖にして、人に功無く、而して園祠時に薦め、有司守衛し、列帝に侔す。金奏登歌は、功徳を頌する所以なり。『詩』に曰く、『鐘鼓既に設け、一朝之を饗す。』功無くして頌せしむれば、舞詠度に非ずと曰はざらんや。周の制、始祖乃ち小廟と称す。未だ知らず四廟何をか名づけんと欲する。請ふらくは卒吏を罷め、祠官に属を領せしめずして、以て礼典に応ぜん。古へ別子祖と為り、故に大・小宗有り。若し祀未だ絶つべからずと謂はば、宜しく後とする所の子孫に奉らしむべし。」詔して有司に博議せしむ。駕部員外郎裴子余曰く、「四太子皆先帝の冢嗣、列聖懿属を念ひて之が享を為す。『春秋』晋の世子を書して曰く、『将に晋を以て秦に畀へんとす、秦将に予を祀らん。』此れ祀らざるなり。又言ふ、『神は類に非ざるを歆めず、君の祀ること乃ち戾からんか。』此れ廟有るなり。魯定公元年、煬宮を立つ。煬は伯禽の子、季氏の遠祖、尚ほ限と為さず、況んや天子親親を篤くして旁期に及ぼすをや、誰か然りと曰はざらん。」太常博士段同曰く、「四陵廟は皆天子の睦親継絶なり。逝く者は蘋繁を錫り、猶ほ生者の茅土を開くが如し。古へ子弟を封建す、詎んぞ皆功有らんや。生には議する所無く、死して乃ち礼に援りて祠を停む、人其れ何と謂はん。隠は上に於て伯祖なり、服は緦。章懐は伯父なり、服は期。懿徳・節湣は堂の昆弟なり、服は大功。親未だ尽きず、廟廃すべからず。」礼部尚書鄭惟忠等二十七人も亦其の言に附す。ここにおいて四陵廟は唯だ吏卒を半減し、他の事は旧の如し。
太常博士に遷る。玄宗は昭成皇后を睿宗の廟室に合祀し奉り、また肅明皇后をも並びに昇せんと欲す。貞節奏して言う、「廟には必ず配有り、一帝一後は礼の正なり。昭成皇后は太姒の徳有り、宜しく睿宗に昇配すべし。肅明皇后は既に子貴に非ず、宜しく別廟に在るべし。周人は『夷則を奏し、小呂を歌ひ、以て先妣を享く』。先妣は姜原なり、後稷を生めるを以て、故に特り廟を立てて宮と曰ふ。晉の簡文帝の鄭宣皇后は配食せず、宮を外に築き、以て歳時に享を致す。肅明は周の姜原・晉の宣後に準へ、主を別廟に納れ、時享は儀の如くせんことを請ふ」と。ここに於て、主を儀坤廟に留め、太廟に隷せしむることを詔し、官属を置くこと毋からしむ。貞節また博士蘇獻と上言す、「睿宗は孝和に対し、弟なり。賀循の説を按ずるに、兄弟は相い後と為らず。故に殷の盤庚は陽甲を序せずして、上り先君を継ぎ、漢の光武は孝成を嗣がずして、上り元帝を承け、晉の懐帝は世祖を継ぎ、恵帝を継がず。故に陽甲・孝成は出でて別廟と為る」と。また言ふ、「兄弟世を共にし、昭穆の位同じければ、則ち二廟を毀つ。天下を有つ者は、禰より上り七廟に事へ、尊者統ぶる所広きを以て、故に遠祖に及ぶ。若し兄弟を容るれば、則ち上り祖考を毀ち、天子七世を全うに事ふることを得ず。中宗を以て別廟と為し、大祫に則ち太祖に合食せしめんことを請ふ。睿宗を奉りて高宗を継がしむれば、則ち祼献永く序せん」と。詔して可とす。乃ち中宗を奉りて別廟と為し、睿宗を昇めて第七室と為す。
五年、太廟壊る。天子神主を太極殿に舎し、新廟を営み、素服して正寝を避け、三百日朝せず、猶東都に幸す。伊闕の男子孫平子上書して曰く、「乃ち正月太廟毀る、これ二帝を躋ぐるの験なり。《春秋》に『君薨ずれば、卒哭して祔し、祔して主を作り、主に特祀し、廟に烝嘗禘す』と。今皆之に違ふ。魯の文公の二年、僖を閔の上に躋ぐ、後太室壊る。《春秋》其の災を書し、説に曰く『僖は閔の兄と雖も、嘗て之が臣と為り、臣君の上に居る、是れ礼を失ふと謂ふ、故に太室壊る』と。且つ兄弟に臣たるも、猶躋ぐべからず。弟嘗て兄に臣たる、乃ち躋ぐべけんや。莊公薨ず、閔公二年にして禘す、《春秋》之を非とす。況や大行夏に崩じ、而るに太廟冬に禘す、亦亟ならずや。太室は尊ぶ所、若し曰く魯是より陵夷し、周公の祀を墮すと。太廟今壊る、意ふらくは其れ将に陵夷し、先帝の祀を墮さんとするか。陛下未だ孝和を祭らず、先づ太上皇を祭る、先臣後君なり。昔兄弟の上に躋ぎ、今弟兄に先だちて祭る。昔太室壊れ、今太廟毀る、《春秋》と正に同じ、察らざるべからず。武後国を篡す、孝和中興の功有り、今内主別祠に在り、世に立つことを得ず、亦已に薄し。夫れ功は棄つべからず、君は下すべからず、長は軽んずべからず。且つ臣君を継ぐは、猶子父を継ぐが如し。故に禹は鯀を先にせず、周は不窋を先にせず、宋・鄭は帝乙・厲王の不肖を以てせず、猶之を尊ぶなり、況や中興なるをや。晉の太康の時、宣帝廟地陥み梁折る、又三年、太廟殿陥みて泉に及び、更に之を営む、梁又折る。天の譴るる所は、必ずしも朽ちて壊るるに非ず。晉天を承けず、故に乱に及ぶ。臣謂ふらく、宜しく孝和を遷して還廟せしむべし、何ぞ必ずしも礼に違ひ、下り魯・晉と同じからんや」と。帝其の言を異とし、詔して有司に復議せしむ。貞節・献と博士馮宗之を質して曰く、「天子七廟、三昭三穆、太祖と而して七。父昭子穆、兄弟与からず。殷は成湯より帝乙に至る十二君、其の父子世六。《易乾鑿度》に曰く『殷の帝乙六世王』と。則ち兄弟世と為さず。殷人は六廟、親廟四、湯と並びて六。殷兄弟四君、若し世と為すと為さば、方に上り四室を毀ち、乃ち祖禰無く、是れ必ず然らず。古者は禰より祖に極り、叠毀叠遷と雖も、而して三昭穆未だ嘗て闕かず。《礼》に、大宗子無ければ、則ち支子を立つ。又曰く『人の後と為る者は之が子と為る』と。兄弟相い後と為ること無し、故に至親を舎て、遠属を取る。父子を継と曰ひ、兄弟を及と曰ふ、兄弟廟に入らず、尚お久し。借りに兄弟代り立ち統を承くる有らば、告享に嗣子・嗣孫と称することを得ず、乃ち伯考・伯祖と言ふ、何の統序か有らん。殷十二君、惟だ三祖・三宗、兄弟自ら別廟と為るを明らかにす。漢の世祖七廟を列し、而して恵帝与からず。文・武子孫昌衍し、文は漢の太宗と為る。晉の景帝も亦文帝の兄なり、景絶世し、廟に列せず。及び謚を世祖に告ぐるに、景を従祖と称す。今晉の武帝其の父を越えて崇むるを謂ひ、而して廟毀れて亡に及ぶと為すは、何ぞ漢は恵帝を出だして世を享くること長久なるや。七廟・五廟は、天子・諸侯を明らかにす。父子相継ぐは、一統なり。昭穆列序は、継を重んずるなり。礼に、兄弟相継ぐは、嗣子と称することを得ず、睿宗孝和を父とせず、必ず上り高宗を継ぐ者なるを明らかにす。偶室廟に於ては、則ち二穆と為る、礼に於て可ならんや。礼の不可とする所にして、天子をして旁に伯考を紹がしめ、己が親正統を棄てしめんや。孝和中興し、別に園寢を建つ、百世毀たず、尚お何をか議せん。平子猥りに僖公の逆祀を引きて比と為す、深く知らず、孝和新寢に昇り、聖真方に廟に祔せば、則ち未だ嘗て一日も上に居らざるを」と。帝宰相に語し平子を召して博士と詳論せしむ。博士前言を護り、合して平子を軋す。平子経を援きて弁数分明なり、献等屈する能はず。蘇颋博士を右す、故に平子坐して都城尉に貶せらる。然れども諸儒平子の孤挺なるを以て、礼官に迮せらるるを見て、平らかならず。帝亦其の直なるを知り、久しく決せず、然れども卒に中宗を廟に復せず。
明年、帝将に大いに明堂を享せんとす。貞節武後の営める所を悪み、古の所謂「木鏤まず、土文せず」の制に非ざるを以て、乃ち馮宗と上言す、「明堂は必ず丙巳に直くし、以て房・心に憲み政を布き、太微上帝の所とすべし。武後始めて乾元正寝を以て陽午の地を占め、先帝政を聴く所以なり、故に殿を撤して堂を作る。撤するの日、音雷の如く有り、庶民嘩訕し、以て神靈悦ばずと為す。堂成りて、災火之に従ふ。後徳を脩めず、俄に復た営構し、殫く用て極めて侈にし、詭りて厥の変を禳ひ、又厳に上帝に配せんと欲す、神安んぞ肯て臨まんや。且つ密邇掖廷、人神雑擾す、是れ物を放つべからざる者と謂ふなり。二京上都は、四方是れ則り。天子政を聴くに、乃ち便坐に居る、群臣に尊を示すこと無し。願くは明堂を以て復た乾元殿と為し、人をして其の旧を識らしむ、亦愈らざらんや」と。詔して所司に詳議せしむ。刑部尚書王誌愔等僉に謂ふ、「明堂瑰怪にして法に不法、天燼の余、大享を容れず。旧に因り制に循ひ、還た乾元正寝に署すことを請ふ。正・至には、天子之に御して朝会す。若し大享せば、復た圜丘に寓す」と。制して可と曰す。貞節寿を以て卒す。
施敬本
施敬本は潤州丹陽の人である。開元年中、四門助教となった。玄宗が封禅を行わんとし、有司に詔して典儀を講求せしめた。旧制では、手を盥ぎ爵を洗うことは、皆侍中がこれを主り、天神を祀る詔は、太祝がこれを主った。敬本上言して曰く、「周の制では、大宗伯に郁人あり、下士二人、祼事を掌る。漢には郁人なく、近臣を用いた。漢代の侍中は甚だ微なるもので、籍孺・閎孺等の幸臣がこれを為した。後漢の邵闔は侍中より遷って步兵校尉となり、秩千石、その職は起居を省み、虎子を執る、蓋し褻臣である。今の侍中は宰相の位にあり、郁人に比すべきではない。祝は主人の意を神に薦むる者、賤職ではない。古に二君相見るに、卿を以て上儐と為す、況んや天人際なるかな。周の太祝は、下大夫二人、上士四人。下大夫は今の郎中・太常丞の比、上士は員外郎・博士の比である。漢の太祝令は秩六百石、今の太祝は下士である。下士を以て天に接し、大臣を以て天子に奉ずるは、軽重倫を同じくせず、礼に非ざるなり。旧制では、謁者が太尉を引いて壇に升らしむ。謁者の位は下、壇に升る礼は重し。漢の尚書御史の属に、謁者僕射一人あり、秩六百石、銅印青綬、謁者三十五人、郎中を以て満歳なる者は給事中と称し、未だ歳満たざる者は謁者と称す。光禄勲の属に、謁者あり、賓贊を掌り、員七十人、秩比六百石。則ち古の謁者は名秩等差あり、今の謁者は班微にして、空名に循い実事を忘る、天に事うる所以に非ざるなり」と。帝詔して中書令張説に敬本を引かせてその議に熟せしむ。故に侍中・祝・謁者は、礼の軽重を視て、他の官を以て摂領せしむ。
敬本は太常博士を以て集賢院修撰となった。逾年、右補闕・秘書郎に遷り、卒す。
盧履冰
盧履冰は幽州范陽の人、元魏の都官尚書義僖の五世孫である。開元五年、仕えて右補闕に歴任す。建言して曰く、「古には父在りて母に為すに期服とし、霊を徹して心喪す。武后始めて父と同じく三年とせんことを請う、是に非ず、礼の如くにせんことを請う」と。玄宗之を疑い、また舅・嫂叔の服未だ安からず、並びに百官に議せしむ。刑部郎中田再思曰く、「礼を会するの家は比して訟を聚む。古に循うも必ずしも是ならず、今を行うも未だ必ずしも非ならず。父在りて母に三年は、高宗実に之を行い、令に著すること已久し。何ぞ必ずしも先帝の旨に乖き、人子の情を閡え、其の親に一期の服を愛し、伯叔母・姑姊妹と同じからしめんや。嫂叔・舅甥の服は、太宗実に之を制し、百年を閲て異論無し、改むべからず」と。履冰因りて言う、「上元中、父在りて母に三年、後雖請うも未だ用いず、逮って垂拱に至り始めて之を行えり。祖父母在りて子孫婦没し、再期の服を行うに至っては、宜しと謂うべからず。礼に、女子に専道無く、故に『家に二尊無し』と曰う。父在りて母に期服するは、一尊を統ぶるなり。今其の失を正さざれば、後世復た婦の夫を奪うの敗有らんことを恐る、察せざるべからず」と。書留して未だ下さず。履冰即ち極めて陳う、「父在りて母に為すに几筵を立つる者は一期、心喪する者は再期、父は必ず三年にして後に娶り、以て子の志を達す。夫れ聖人豈に所生に情を蔑ろにせんや。固より天下に意有り。昔武后陰に篡謀を儲え、予め自ら光崇し、期服を升め、斬衰に抗えり。俄にして唐家に乗陵し、以て釁階を啓く。孝和僅かに反正を得、韋氏復た出で、天子を冘殺し、幾くんぞ宗社を亡ぼさんとす。故に臣将に夫婦の綱を正さんとす、独り母子の間に非ざるなり。議者或いは言う、『母の服を降すは、詩の所謂罔極なる者に非ず、而又伯叔母・姑姊妹等と同し。且つ期服・斬衰既に升降有り、則ち歳月容れ異なるべからず』と。此れ迂生の鄙儒、未だ先王の旨に習わず、安んぞ礼を議するに足らんや。罔極なる者は、春秋祭祀し、時に之を思う、君子に終身の憂有りと謂うの謂いなり、何ぞ一期・二期の服に限らんや。聖人の礼に於けるや、必ず中を建て制し、賢不肖をして共に文理を成して後に釈せしむ。彼の伯叔・姑姊、豈に筵杖の制・三年の心喪有らんや。母は期服、父は斬衰、易うべからざるの道なり」と。左散騎常侍元行沖議して曰く、「古は情に縁りて服を制す。女は父に天し、妻は夫に天す。斬衰三年は、情礼俱に尽くる者、心に因り極を立つるなり。妻喪は杖期、情礼俱に殺する者、嫌疑を遠ざけ、乾道を尊ぶなり。嫡子に為すに三年斬衰して官を去らざるは、祖を尊び嫡を重んじ、其の礼を崇め、其の情を殺するなり。孝は厳父より大なるは莫し。故に父在りて母に為すに官を免じ、期服にして、心喪三年、情已に申べて礼殺するなり。堯・舜・周公・孔子より同じ。今尊厭の重きを捨て、厳父の義を虧き、之を礼と謂う、可ならんや。姨は兼ねて従母の名を有ち、母の女党を以てし、舅の服に加うるも、理無きに非ず。嫂叔服せざるは、則ち嫌を遠ざくるなり。請う古に据りて適と為さん」と。帝報えず。是の時喪服を言う者、各其の見る所を以て奮い、口を交えて紛騰す。七年、乃ち詔を下す、「服紀は一に古制を用いよ」と。ここより人間父在りて母に服するに、或いは期にして禫し、禫にして釈し、心喪三年、或いは期にして禫し、終に三年、或いは期服衰三年。
後に履冰は官に在りて卒す。
王仲丘
王仲丘は沂州瑯邪の人。祖師順は高宗に仕え、漕輸の事を議して当時名有り、終に司門郎中。仲丘は開元中に左補闕内供奉・集賢修撰・起居舍人に歴任す。
当時、典章制度に差異と矛盾があったので、仲丘は『貞観礼』と『顕慶礼』の二つの礼を合わせようとし、「挙げてあるものは、廃することはできない」という道理に基づき、上言した。「『貞観礼』では、正月の上辛の日に、感帝を南郊で祀る。『顕慶礼』では、昊天上帝を円丘で祀って穀物を祈る。臣が考えるに、『詩経』に『春夏に上帝に祈穀す』とあり、『礼記』に『上辛に上帝に祈穀す』とある。ならば上帝は昊天に当たるであろう。鄭玄は言う、『天の五帝は代々王となり、王者は必ずその一に感応して興る。夏の正月に郊で生みの親を祭り、その祖を配祀し、それによって穀物を祈る』と。感帝の祭祀は、『貞観礼』で用いられている。祈穀の壇によって、五方帝を遍く祭ることを請う。五帝は、五行の精であり、九穀の宗である。二つの礼をともに用いることを請う。『貞観礼』では、雩祀に五方上帝、五人帝、五官を南郊で祀る。『顕慶礼』では、昊天上帝を円丘で祀る。臣が考えるに、上帝に雩祭するのは、百穀のために慈雨を祈るためである。故に『月令』に『大いに帝に雩し、盛楽を用う』とある。鄭玄は説く、『帝とは上帝なり、すなわち天の別号なり。円丘に祀るは、天の位を尊ぶなり』と。『顕慶礼』が昊天を祀るのは『月令』に合致するが、『貞観礼』はかつて五帝を祀っている。二つの礼をともに用いることを請う。『貞観礼』では、季秋に五方帝、五官を明堂で祀る。『顕慶礼』では、昊天上帝を明堂で祀る。臣が考えるに、周は郊祀で后稷を配祀して天を祭り、明堂で宗祀して文王を配祀して上帝を祭った。先儒は天を感帝とし、太微五帝を引き合いに出して上帝とし、昊天に属させた。鄭玄は『周官』の旅上帝、五帝を祀ることを称し、それぞれ文は異なるが礼は同じであり、並べて一つとすることは許されないとした。故に『孝経』の天と上帝について、『上帝もまた天なり』と説明を加えた。神に二主はなく、ただその場所を異にするのは、后稷を避けるためである。今『顕慶礼』が上帝を享けるのは、経書に合致するが、しかし『貞観礼』はかつて五方帝を祀っている。二つの礼をともに用いることを請う。」詔して可とした。
礼部員外郎に遷った。卒し、秘書少監を贈られた。
康子元
康子元は、越州会稽の人である。官歴は献陵令であった。開元初年、詔して中書令張説に『易経』・『老子』・『荘子』に通じる者を推挙させたところ、集賢直学士の侯行果が子元と平陽の敬会真を張説に推薦した。張説はこれを聞かせ、ともに衣幣を賜り、侍読に任じられた。子元は累進して秘書少監に抜擢され、会真は四門博士となり、まもなくともに集賢侍講学士を兼ねた。
玄宗が泰山に東幸しようとしたとき、張説は子元、行果、徐堅、韋縚を引きいて封禅の儀礼を審議裁断させた。初め、高宗の封禅の際、中書令許敬宗が議して言った。「周人は臭気を尊ぶので、祭祀の前に燔柴する。」張説、徐堅、子元が上奏して言った。「『周官』に、楽六変すれば天神降る、とある。これは楽によって神を降すのであって、燔柴によるのではない。宋、斉以来、皆まず福酒を嚌してから燎祭を行っている。祭祀の後に燔柴することを請う。『貞観礼』の通りがよい。」行果と趙冬曦は議して、「先に燎祭して神を降すのが古来のやり方である。もし祭祀の後に燔柴するならば、神は降る由もない」と考えた。子元の議論は強固で動かなかった。張説が言った。「康子はひとり蒙輪を出して、一隊を当てようとするのか?」議論が決まらず、張説は帝に決断を請うた。帝は詔して後燔とした。
乗輿が泰山から還るに際し、従官を減らし、先に東都に至ったが、子元、毋煚、韋述のみが学士として従った。久しくして宗正少卿に転じ、病により秘書監を授かり、致仕した。卒し、汴州刺史を贈られた。帝はかつて賛を制して張説と子元に賜り、工人に命じてその像を図らせ、冬曦、韋述、毋煚にそれぞれ伝を分けて作らせた。
侯行果
行果は、上谷の人で、国子司業を歴任し、皇太子の侍読を務めた。卒し、慶王傅を贈られた。
初め、行果、会真および長楽の馮朝隱がともに進講した。朝隱は『老子』・『荘子』の秘義を推究することができ、会真もまた『老子』に詳しく、毎回講義を始める前に必ず香を焚き手を洗ってから読んだ。帝は言った。「私はさらに『易経』に詳しい者を求めたいが、行果に及ぶ賢者はない。」朝隱はついに太子右諭徳に至り、会真は太学博士となった。
趙冬曦
趙冬曦は、定州鼓城の人である。進士に及第し、左拾遺を歴任した。神龍初年、上書して言った。「古代の律の条項は千余りあった。隋の時、奸臣が法を侮り、律に著して言った。『律に正条のないものは、出罪には重いものを挙げて軽いことを明らかにし、入罪には軽いものを挙げて重いことを明らかにする』と。一言で数百の条項を廃した。これ以来、軽重は愛憎に沿い、罰せられる者はその理由を知らず、賈誼がこれを見れば必ず慟哭するであろう。法が分かりやすければ、下の者は犯すことを敢えず、機阱から遠ざかる。文義が深ければ、吏が便乗して私的に結託することが盛んになる。律・令・格・式は、科条を刊定し、事柄を直に書き記すべきである。準拠による加減比附、情状酌量および軽いものを挙げて重いことを明らかにする類、不応為の類は、すべて用いるべきではない。愚夫愚婦をして相率いて罪から遠ざからしめ、犯す者はたとえ貴人でも必ず罰せられるようにすべきである。律が明らかであれば人は信じ、法が統一されれば主は尊ばれる。」当時、これを称賛した。
開元初年、監察御史に遷り、事に坐して岳州に流された。召還されて官に復し、秘書少監賀知章、校書郎孫季良、大理評事鹹廙業とともに集賢院に入り脩撰した。この時、将仕郎王嗣琳、四門助教範仙廈が校勘となり、翰林供奉呂向、東方顥が校理となった。まもなく、冬曦は史官の事を知り、考功員外郎に遷った。一年余りして、季良、廙業、知章、呂向とともに直学士となった。冬曦はまもなく中書舍人内供奉に遷り、国子祭酒の任で卒した。
冬曦の性格は放達で、世事にこだわらなかった。兄の夏日、弟の和璧、安貞、居貞、頤貞、匯貞は皆進士に及第した。安貞は給事中、居貞は呉郡采訪使、頤貞は安西都護となった。居貞の子の昌は、別に伝がある。
王嗣琳は太子校書郎の任で罷免された。東方顥は上書して旨に逆らい、左遷されて高安丞となった。廙業もまた事に坐して左遷され余杭令となった。仙廈は講論を得意とし、後に道士となった。開元の集賢学士には、また尹愔、陸堅、鄭欽説、盧僎らがいて名がやや知られていた。