新唐書

巻一百九十九 列傳第一百二十四 儒學中 郎餘令兄:餘慶 徐齊聃子:堅 孫:嶠 沈伯儀 路敬淳弟:敬潛 王元感 王紹宗兄:玄宗 彭景直 盧粲 尹知章附:孫季良 張齊賢 柳沖 馬懷素附:殷踐猷 孔若思從父:禎 禎子:季詡 子:至

郎餘令

郎餘令は、定州新樂の人である。祖父の穎は、字を楚之といい、兄の蔚之とともに名を知られた。隋の大業年間、尚書民曹朗となり、蔚之は左丞の位にあった。煬帝は二人を「二郎」と称した。武徳の時、楚之は大理卿として常山郡公に封ぜられ、李綱・陳叔達とともに律令を制定した。節を持って山東を諭したが、竇建徳に捕らえられ、白刃で脅されたが、終に屈しなかった。賊が平定されると、老齢を理由に引退を請い、謚を平といった。

餘令は学に博く、進士に及第し、霍王元軌の府参軍事に任ぜられた。従父の知年もまた王友となった。元軌は常に「郎家の二賢がともに我が府に入ったとは、培塿(小さい塚)に松柏の林が生じたとは思わなかった」と言った。幽州録事参軍に転じた。浮屠(僧)を称する者が、薪を積んで自ら焼死しようとした時、長史裴煚が官属を率いて見物に行こうとした。餘令は言った、「人は生を好み死を憎むのが情である。彼は教義を蔑ろにし、その欲する所に反している。公はこれを察すべきで、軽々しく赴くべきではない」。煚が試みに廉しく調べると、果たしてその奸計を得た。

孝敬(太子弘)が東宮にあった時、餘令は梁の元帝に『孝徳伝』があるのを以て、さらに『後伝』数十篇を撰して太子に献じた。太子は嘆賞して重んじた。著作佐郎に改め、卒した。

餘令の兄 餘慶

兄の餘慶は、吏として清廉であったが、法に厳格であった。高宗の時、万年令となり、道上に遺物を拾う者もなかった。累遷して御史中丞となり、謙虚で謹み、下僚を引き立て、御史を座に引いて議論した。吏部侍郎楊思玄は傲慢で貴ぶところがあり、選者を礼をもって遇さなかったので、餘慶は弾劾してその官を免じた。久しくして、出て蘇州刺史となった。連座して貶められ、交州都督ととくに左遷された。

驩州司馬裴敬敷は餘慶と旧知の間柄であったが、ある事で餘慶の婢の父を笞打った。婢はちょうど寵愛されており、敬敷を讒して獄中で死なせた。また財貨を収集することに際限がなく、民が朝廷に訴えた。使者が十輩も臨んで取り調べたが、餘慶はごまかし、その実情を得ることができなかった。最後に、広州都督陳善弘がこれを按問した。餘慶は朝廷に長く在ったことを恃み、法令に明るいとして、善弘を軽んじ、答対をしなかった。善弘は怒って言った、「文を舞わし法を弄することは、私は君に及ばない。今日天子の命を以て君を治めるにあたり、私の力は余裕がある」。彼を枷で縛って打とうとしたので、餘慶は恐れて罪を服した。高宗は詔して瓊州に流した。赦に会って当に還るべきであったが、朝廷はその暴虐を憎み、春州に移した。

初め、餘慶が万年を治めた時、父の知運はその酷さを嫌い、杖で打とうとしたが、餘慶は避けて免れた。父は嘆いて言った、「国家が彼を用いた。私はどうしようもない」。御史中丞となった時、また嘆いて言った、「郎氏は危うい」。憂いのうちに死んだ。餘慶はついに貪婪残酷のゆえに廃された。

徐齊聃

徐齊聃、字は将道、湖州長城の人、代々馮翊に客居した。梁の慈源侯整の四世の孫。八歳で文を能くし、太宗は召して試み、自ら佩いていた金削刀を賜った。弘文生に挙げられ、曹王府参軍に調ぜられた。高宗の時、潞王府文学・崇文館学士となり、皇太子の講義に侍り、芳林門で書を修めた。時に姑が帝の婕妤であったため、恩恵によって進んだと疑われるのを嫌い、故に出て桃林令を求めた。召されてはい王侍読となり、再び司議郎に遷ったが、いずれも就かなかった。累進して西台舎人となった。

咸亨初年、詔して突厥の酋長の子弟をして東宮に事えさせようとした。齊聃は上書して諫め、以て「氈裘(毛皮の衣)の冒頓の末裔が、辮髪を解き衣冠を改め、左右に侍らせるのは、いわゆる『恭慎威儀、以て有徳に近づく』『官を任ずるは賢才のみ、左右はその人のみ』の義ではない」とした。また長孫無忌は讒言によって死に、家廟が毀損廃絶していた。齊聃は帝に言った、「斉献公(無忌の父)は陛下の外祖父である。後嗣に罪があっても、先廟に及ぼして毀つべきではない。今、周忠孝公(武士彠)の廟はかえって崇飾して制を越えている。恐らく海内に示す所以ではないでしょう」。帝は悟り、詔して献公の官を復し、無忌の孫の延を以てその祭祀を主とさせた。

齊聃は文誥を善くし、帝はこれを愛し、皇太子及び諸王に文章を属するよう侍らせた。職務が枢要で繁劇なため、一日おきに参内することを許された。禁中の事を漏らした罪に坐し、蘄州司馬に貶められた。また欽州に流された。卒す。年四十四。睿宗の時、礼部尚書を追贈された。子に堅あり。

齊聃の子 堅

堅、字は元固、幼少より聡明な性質あり。沛王その名を聞き、召し見て、紙を授けて賦を作らしむるに、これを異とす。十四にして孤となり、壮に及び、寛厚なる長者たり。秀才に挙げられ及第し、汾州参軍事となり、萬年主簿に遷る。

天授三年、上言す。「書に五聴あり、令に三覆あり、情を失うを慮るなり。比来大逆を犯す者、詔して使者に勘当せしむ、実を得れば輒ち決す。人命は至重なり、万に一不実あらば、訴うる由なく、以て赤族に就かん、豈に痛ましからずや。此れ下の奸乱を検するに足らず、適に人に威福を長ずるのみ。臣請う、令の如く覆奏せば、則ち死者恨み無からん。又古は罰は嗣に逮ばず、故に卻芮国を乱して缺朝に升り、嵇康戮に蒙りて紹難に死す、則ち他の親に復た疑を致さず。今選部は逆人の親属を広く責め、服無きに至るまで尚ほ数十条あり。且つ詔書に『逆と同堂の親は京畿に任ぜず、緦麻の親は侍衛すべからず』と。臣請う、詔書の外は一切禁ぜず、以て曠蕩を申べん」。

聖暦年中、東都留守楊再思・王方慶共に引きて判官と為す。方慶は『礼』学に善く、嘗て就きて疑晦を質す、堅は為に申し釈し、常に未だ聞かざるを得たり。文に属するに典厚にして、再思は毎に目して鳳閣舎人の様と為す。徐彦伯・劉知幾・張説と『三教珠英』を修め、時に張昌宗・李嶠総領す、年を弥ぎて筆を下さず、堅と説は専意撰綜に意を注ぎ、条彙粗く立ち、諸儒之に因りて、乃ち書を成す。累遷して給事中となり、慈源県子を封ぜらる。

中宗韋月将を怒り、即ち斬らんと欲す、堅奏す盛夏生長の時なりと、請う秋を須ちて乃ち決せんと、時に申し救う者亦衆なり、以て搒死を得たり。俄かに礼部侍郎を以て修文館学士と為る。

睿宗即位し、太子左庶子兼崇文館学士を授け、史を修め、東海郡公に進み、黄門侍郎に遷る。時に監察御史李知古兵を以て姚州渳河蛮を撃ち、之を降し、又城を築き、賦役を輸せしむるを請う。堅議す。「蛮夷は羈縻を以て属す、宜しく中国と法を同じうすべからず、師を労して遠く伐つを恐れ、益は損に償わず」。聴かず、詔して知古に剣南兵を発して城堡を築かしめ、州県を列ぬ。知古是に因りて其の豪酋を誅し、子女を入れて奴婢と為さんと欲す、蛮懼れ、知古を殺し、相率いて潰叛し、姚・巂の路閉ざして通ぜざること数年。

初め、太平公主用事し、武攸暨屡々堅を邀請す、堅許さず。又妻岑羲の女弟を以て、固より機密を辞し、太子詹事に転じ、曰く「吾高きを求むるに非ず、禍を逃るるのみ」。羲敗るるも、悪に染まず、出でて絳州刺史と為る。数たび外徙し、久しくして乃ち秘書監・左散騎常侍さんきじょうじに遷る。

玄宗麗正書院を改めて集賢院と為し、堅を以て学士に充て、張説に副えて院事を知らしむ。帝大いに集賢に酺し、幔舎は百司の上に在り、説大榜を掲げて其の寵を侈らしめんと令す、堅見て、遽ち命じて之を撤かしめ、曰く「君子何ぞ多く人を尚するを取らんや」。上に従いて泰山に詣で、参定の儀典を以て、光禄大夫を加う。堅は典故に多く諳識し、凡そ七たび撰次高選に当る。卒す、年七十余、帝悼惜し、使を遣わして就きて吊し、太子少保を贈り、謚して文と曰う。

斉聃の姑は太宗の充容と為り、仲は高宗の婕妤と為り、皆図史に明らかなり、議者は堅父子を漢の班氏の如しとす。

堅の子 嶠

子嶠、字は巨山。開元中に駕部員外郎・集賢院直学士と為り、中書舎人・内供奉・河南尹に遷る。慈源県公を封ぜらる。父子相次いで学士と為り、祖より孫に及び、三世中書舎人と為る。

沈伯儀

沈伯儀、湖州呉興の人。武后の時、太子右諭徳と為る。

初め、太常少卿韋万石明堂大享の事を議し、上言す。「鄭玄は五天帝を祀ると説き、王肅は五行帝を祀ると謂う。『貞観礼』は玄に従い、『顕慶礼』に至りて昊天上帝を祀り、乾封の詔書は五天帝を祀り兼ねて昊天を祀り、上元の詔書は『貞観礼』に従い、儀鳳初の詔書は祀事一切周の制を用いよとす。今何の楽に応ずべきか」。高宗乃ち詔して尚書省に諸儒を集めて議せしむ、定め能わず。ここにおいて大享は『貞観』・『顕慶』の二礼を参用す。

垂拱元年、成均助教孔玄義奏す。「厳父は天に配するより大なるは莫し、天は万物に於いて最大と為り、父を推して天に偶せしむるは、孝の大、尊の極なり。『易』に『先王楽を作して徳を崇べ、殷に之を上帝に薦め、以て祖・考に配す』と称す。上帝は天なり。昊天の祭は、宜しく祖・考並びに配すべし、請う太宗・高宗を以て上帝に円丘に配し、神堯皇帝を以て感帝に南郊に配せん。『祭法』に『祖は文王、宗は武王』と。祖は始なり、宗は尊なり。一名にして二義あり。『経』に『宗祀文王』と称す、文王は祖と当るべきに宗と云うは、武王を包みて言うなり。知る明堂は祖・考を以て配し、二経に合う」。伯儀曰く。「有虞氏は黄帝を禘し而ち嚳を郊し、顓頊を祖とし而ち堯を宗とす。夏後氏は黄帝を禘し而ち鯀を郊し、顓頊を祖とし而ち禹を宗とす。殷人は嚳を禘し而ち冥を郊し、契を祖とし而ち湯を宗とす。周人は嚳を禘し而ち稷を郊し、文王を祖とし而ち武王を宗とす。鄭玄曰く『禘・郊・祖・宗は、皆配食なり。昊天円丘を祭るを禘と曰い、上帝南郊を祭るを郊と曰い、五帝・五神明堂を祭るを祖・宗と曰う』。此れ最も詳なり。虞夏は顓頊を退け嚳を郊し、殷は契を舎て冥を郊し、去取違舛す、惟だ周礼の序を得、明堂に至りて始めて両配す。文王は上に五帝に配し、武王は下に五神に配し、父子を別つなり。『経』に曰く『厳父は天に配するより大なるは莫し』。又曰く『文王を明堂に宗祀し、以て上帝に配す』。武王を厳しくして天に配するを言わざれば、則ち武王は明堂に在りと雖も、未だ配に斉しからず、同祭と雖も終に一主と為るなり。緯に曰く『後稷は天地の主と為り、文王は五帝の宗と為る』。若し一神にして両祭せば、則ち薦献数瀆し、此の神に二主無きなり。貞観・永徽の礼は実に専配し、顕慶後より始めて兼ねて尊ぶ。今請う高祖こうそを以て円丘・方沢に配し、太宗を以て南北郊に配し、高宗を以て五天帝に配せん」。鳳閣舎人元万頃・範履冰等議す。「今礼昊天上帝等五祀は、咸く高祖・太宗を奉りて兼配し、以て孝を申ぶ。『詩昊天』の章『二後之を受け』、『易』『上帝に薦え、祖・考に配す』、兼配の義あり。高祖・太宗既に先に五祀に配す、当に旧の如くすべし。請う高宗を奉りて歴配せん」。是より郊・丘、三帝並びに配すと云う。

伯儀は歴任して国子祭酒・修文館学士、卒す。

路敬淳

路敬淳は貝州臨清の人である。父の文逸は、隋末の大乱に遭い、一家は盗賊に殺された。文逸は逃れて免れ、流浪辛苦し、自ら家の多難を傷み、口を閉じて食を絶った。行く人がその窮状を哀れみ、強いて飲食させ、さらに背負って行き、ようやく脱した。貞観末、申州司馬に任じられた。

敬淳は若くして学問を志し、門外に出なかった。親の喪に服し、倚廬に居て三年出ず。喪が明けて、号慟して門に入るや、容貌は痩せ衰え、妻も識らぬほどであった。後に進士に及第した。天授年間、再び太子司議郎兼修国史・崇賢館学士に遷った。数度詔を受けて慶恤の儀典を纂輯し、武后に称賛された。特に姓系に明るく、魏・晋以降について、その由来を推し究め、すべて条序があり、『姓略』・『衣冠系録』など百余篇を著した。後に綦連耀と交わり、獄に下されて死んだ。神龍初、秘書少監を追贈された。

敬淳の弟 敬潛

弟の敬潛は、若くして敬淳と並び称され、懐州録事参軍を歴任し、やはり耀の事に連座して獄に繋がれたが、死を免れた。後に遂安令となった。先に、令は多く死ぬことがあったので、敬潛は辞そうとしたが、妻が言うには、「君は獄で死なずに全うした、これも生死に命があるのではないか」と。これに従った。官に着くと、梟が屏風で鳴き、鼠数十匹が前を走り、左右がこれを追うと、杖を抱えて号したが、敬潛は懼れなかった。久しくして、衛令に遷り、位は中書舎人に至った。

唐初、姓譜学はただ敬淳のみが名家であった。その後、柳沖・韋述・蕭穎士・孔至がそれぞれ撰述したが、皆路氏を本としている。

王元感

王元感は、濮州鄄城の人である。明経の高第に挙げられ、博城丞に調任された。紀王慎が兗州都督となった時、厚く礼を加え、その子の東平王続に命じて往きて学業を受けた。天授年間、左衛率府録事に稍遷し、弘文館を兼直した。武后の時、郊祀を済ませ、ついで明堂を享け、嵩山に封じたが、詔して韋叔夏らと儀具を起草させたところ、衆人はその練達を推した。四門博士に転じ、なお弘文館を直した。

年老いても、夜を徹して読書を廃さなかった。撰した『書糾謬』・『春秋振滯』・『礼繩愆』など凡そ数十百篇を、長安ちょうあん年間に上進し、官の筆紙を乞うて秘書に写し蔵めさせた。詔して両館学士・成均博士に議して可否を問うた。祝欽明・郭山惲・李憲らは本来章句の家であり、元感が先儒を詆して異同を論ずるのを見て、快からず、数度その言を沮み詰めたが、元感は隙に縁って申し釈し、ついに屈しなかった。魏知古はその書を見て、嘆じて言うには、「『五経』の指南なり」と。一方、徐堅・劉知幾・張思敬らはその異聞を惜しみ、常にこれを助理し、連名して疏を上って推薦したので、ついに詔して褒美し、儒宗と為した。太子司議郎兼崇賢館学士を拝した。中宗は東宮官属であることを以て、朝散大夫を加え、卒した。

元感は初め、三年の喪は三十六月とする論を著し、諸儒を譏誚した。鳳閣舎人張柬之がその説を破って言うには、「三年の喪は二十五月、古より然り。『春秋』僖公三十三年十二月『乙巳、公薨ず』、文公二年冬『公子遂斉に如きて幣を納る』。左氏は『礼なり』と言う。杜預は『僖公の喪は是の年十一月に終わり、幣を納るは十二月に在り。故に礼と謂う』と。『公羊伝』には『幣を納るは書さず、此れ何を以てか書す。譏すなり。何を以てか譏す。三年の内に婚を図らず』と。何休は『僖公は十二月に薨ず、未だ二十五月を終えず、故に譏すと云う』と。杜預は歴を推して乙巳は十一月に在り、『経』に十二月と書するは誤りなりとす。文公元年四月、僖公を葬る。『伝』に『緩し』と曰う。夫れ諸侯の葬は五月、若し十二月に薨ずれば、五月は緩しと云うを得ず、則ち十一月なること明らかなり。然れども二家の争う所は、一月に在りて一歳に非ず、則ち二十五月、其の一の験なり。『書』に成湯既に没すと称し、太甲元年に『惟れ元祀、十有二月、伊尹先王に祀り、嗣王を奉じて厥の祖を祇見す』と曰う。孔安国は『湯は元年十一月に崩ず』と言う。此れ則ち明年に祥、又明年に大祥、故に下に『惟れ三祀、十有二月朔、尹冕服を以てし、嗣王を奉じて亳に帰る』と言う。是れ十一月に服除けて冕すなり。『顧命』に『四月哉生魄、王懌せず。翌日乙丑、王崩ず。丁卯、命して冊度を作さしむ。越えて七日癸酉、伯相命して士に材を須わしむ』と。則ち成王崩じてより康王麻冕黼裳に至る凡そ十日、康王始めて廟を見る。明らかに湯の崩ずるは十一月に在り。殯を比べて訖り、十二月を以て其の祖を祇見す。『顧命』に廟を見て訖り『諸侯廟門を出でて俟つ』、『伊訓』に『厥の祖を祇見し、侯甸群後咸だ在り』と言う。則ち崩及び廟見は、周は殷に因るなり、元年の前に復た一歳有るに非ず、此れ二十五月の二の験なり。『礼』に『三年の喪は、二十五月にして畢り、哀痛未だ尽きず、然れども是を以て断つ者は、死を送るに已む有り、生に服するに節有り』と。又た曰く『期にして小祥、菜果を食う。又た期にして大祥、醯醬有り。中月にして禫、酒肉を食う』と。又た曰く『再期の喪は三年。期の喪は二年。九月・七月の喪は三時。五月の喪は二時。三月の喪は一時』と。此れ二十五月の三の験なり。『儀礼』に『期にして小祥、又た期にして大祥、中月にして禫、是の月なり、吉祭す』と。此れ二十五月の四の験なり。『書』・『春秋』・『礼』は皆周公・尼父の定むる所、敢えて問う、此れ法と為すべきか否かを。昔し鄭玄は中月にして禫とする者は、内に一月を容れ、喪より禫に至るまで、凡そ二十七月と為す。今既に之を用うるも、而して二十五月には初め疑論無し。大抵子の親の喪に於いては、終身の痛み有り、創巨き者は日久しく、痛み深き者は愈遅し、何ぞ歳月を以て止まんや。故に練にして慨然たり、悲慕未だ尽きず、而して踴擗の情は差し未だなり。祥にして廓然たり、哀傷已に除かれ、而して孤藐の懷は更に劇し。此れ情の致す所、寧くも外飾ならんや。故に先王は其の中制を立て、情文両つながら称せしむ、是を以て祥すれば則ち縞帯素紕、禫すれば則ち佩ばざる無し。夫れ衰麻を去り、錦縠を襲うは、行道の人も皆忍びず、直に礼を以て之を節するのみ、如何ともすべからず。故に仲由は制を過ぎて姉に服する能わず、孔鯉は期を過ぎて母を哭する能わず、彼れ豈に懐わざらんや。名教の厳しきを畏るるなり」と。当世、柬之の言は聖人に詭せずと謂い、而して元感の論は遂に廃された。

王紹宗

王紹宗、字は承烈、梁の左民尚書銓の曾孫である。系は本は瑯邪に在り、江都に徙ったという。少くして貧しく、学を嗜み、草隸に巧みで、客居して僧坊に寄り、書を写して庸を取って自給し、凡そ三十年。庸は一月分足れば即ち止め、余分を取らず、人が厚く償おうとしても、常に拒んで受けなかった。

徐敬業が兵を起こすと、その行いを聞き、幣を以て劫したが、疾篤と称した。また唐之奇に強いて遣わさせたが、赴かず、敬業は怒って殺そうとしたが、之奇が言うには、「彼は人望なり、之を殺せば士心を沮む、不可なり」と。これにより免れた。事平らぎ、大総管李孝逸がその節を表し、武后は東都に召し赴かせ、殿中に謁し、褒慰甚だ厚く、太子文学に擢った。累進して秘書少監に至り、皇太子に侍らせた。紹宗は雅に修飾を好み、当時の公卿はその風を慕悦せざる無く、張易之兄弟も頗る結納した。易之が誅されると、連座して廃され、家に卒した。

かつて人に書を送りて曰く、「鄙夫の書に工なるものは無し、ただ水墨の積習によるのみ。常に精しく心を率い意を虚しくし、神を静めて思ひ以て之を取る。吳中の陸大夫、常に余を以て虞君に比す、臨写せざる故なり。聞く、虞、被中に腹を畫く、と、余と正に同じ。」と。虞は即ち世南なり。

紹宗の兄は玄宗である。

紹宗の兄の玄宗は、嵩山に隠棲し、太和先生と号し、黄老の術を伝えた。

彭景直

彭景直は、瀛州河間の人である。中宗の景龍の末、太常博士となった。時に献陵・昭陵・乾陵の三陵は皆日祭を行っていたが、景直が上言して曰く、礼においては、陵には日祭はなく、宗廟には月祭がある、故に王者は廟・祧・壇・

墠は、親疏の多少による差等を設ける。七廟・一壇・一墠を立てる。考廟・王考廟・皇考廟・顯考廟と称し、いずれも月祭を行う。遠い廟は祧となり、享嘗のみを行う。祧を去れば壇となり、壇を去れば墠となり、祈禱があればこれを祭り、祈禱がなければ止める。譙周は言う、「天子の始祖・高祖・曾祖・祖・考の廟は、いずれも朔日に加えて薦め、生時の朔食に倣い、月祭と号す。二祧廟は月祭せず」と。すなわち古には日祭はなかった。今、諸陵で朔・望に進食するのは、古の殷事に近く、諸節に進食するのは、古の薦新に近い。鄭玄は言う、「殷事は、月の朔・半に、新物を薦めて奠することなり」と。『儀禮』によれば、朔・半の日は、常日の朝夕と同じであり、大祥を過ぎれば、すなわち四時となる。この祭りは皆廟で行うという。近世になって初めて朔・望・諸節に陵寢を祭り、ただ四時及び臘のみ、廟で五享を行う。経を尋ね礼を質すに、陵で日祭を行うという文はない。漢の時、京師では高祖より宣帝に至るまで、及び太上皇・悼皇考の陵の傍らに廟を立てた。園にはそれぞれ寢・便殿があり、故に日祭は諸寢で、月祭は諸便殿で行った。貢禹は礼節が煩瑣であるとして、元帝に願い郡・国の廟を廃止した。丞相韋玄成らは後に議して、七廟以外の寢園は皆再び修めないこととした。議者もまた祭りは数を多くすべきでないとし、古に復して四時に廟で祭るべきであるとした。劉歆は『春秋外傳』を引いて言う、「祖・禰は日祭し、曾・高は月祀し、二祧は時享し、壇・墠は歳貢す」と。魏・晉以降、墓を祭らなくなった。唐家は古を択び法を作る。臣は諸陵の日祭を廃止し、礼に従うのが妥当であると謂う。

帝は従わず、詔を下して曰く、「有司が諸陵は日ごとに食を進むべからずと申す。夫れ礼は人情を以て之が沿革を為す、何ぞ専ら古に拘りて聞く所に泥せんや。乾陵は宜しく朝晡に奠を進め、昭陵・献陵は日に一たび進めよ。或いは有司の費に乏しきは、朕の常膳を減じて之を為すべし」と。

帝崩じ、定陵に葬らる。有司議して和思皇后を祔葬せんとす。后は武后に殺され、其の喪所を得ず、将に招魂して諸の梓宮に合せんとす。景直曰く、「招魂は古に伝ふること無し、不可なり。請ふ、橋山に衣冠を蔵する故事の如くせん。后の祎衣を納れ、寢宮に復し、衣魂輅を挙げ、太牢を以て告げ、之を方中に内れ、帝の梓棺の右に奉り、夷衾を以て覆はん」と。衆其の言に当る。制して曰く、「可なり」と。景直後、礼部郎中に歴りて卒す。

盧粲

盧粲は幽州范陽の人、後魏の侍中盧陽烏の五世の孫である。祖父の盧彥卿もまた著述を善くした。盧粲は冠を始めると、進士に及第した。神龍年間に累遷して給事中となった。時に節湣太子が立てられると、韋后はこれを憎み、中宗に衛府の封物を東宮に給するよう諷したが、盧粲は駁奏して言うには、「太子は匕鬯の主であり、歳時の服用は宜しく百司より取るべきである。《周禮》に曰く、諸の財器を用いるは『歳終れば則ち会し、唯だ王及び太子は会せず』と。今乃ち諸王と等夷にすることは、古昔を憲章する所謂に非ず」と。詔して可とした。

武崇訓が死ぬと、詔して墓を陵の制に見做すべしとせしが、粲は曰く、「凡そ王・公主の墓、陵と称する者は無く、唯だ永泰公主の事は特制より出で、後人の援用比すべきに非ず。崇訓の塋兆は、諸王に見做すことを請う」と。詔して曰く、「安樂公主は永泰と異ならず、崇訓は主に於いて当に同穴すべく、陵と為すに疑い無し」と。粲は固く執りて、「陵の称は、本より尊極に施す所、崇訓の親と雖も、雍王に及ばず、雍の墓は陵と称せず、崇訓は主に縁りて是の名を仮るを得んや」と。詔して可とす。主は大いに怒り、粲を出して陳州刺史とす。粲は曰く、「苟くも論ずる所行わるるを得ば、遠しと雖も何ぞ憚らんや」と。開元初、秘書少監と為る。

その従父の行嘉は、仕えて雍王の記室となり、また学問で知られた。粲は累ねて固安県侯に封ぜられ、終に邠王傅となり、謚して景といった。

尹知章

尹知章は、絳州翼城の人である。若い頃は学問をしていたが、甚だ通暁するには至らなかった。ある時、夢に人が現れ、巨大な鑿で彼の心臓を破り、薬を内に塗布するが如きを見て、驚いて目覚め、思うに志が開け徹し、遂に『六経』を遍く明らかにした。諸生でかつて講義を受けていた者たちは、改めて北面して大義を受けた。

長安年間(701-704年)、定王府文学に抜擢された。太常博士に遷った。中宗の時、或る者が建言して涼の武昭王を七廟の始祖とすべしとすると、知章は議して「武昭王は遠い世のことであり、王業の根拠となるものではない」と言い、そこで止んだ。陸渾県令として出向し、事に坐し、直ちに官を棄てて去った。時に散騎常侍の解琬もまた罷免されて帰っており、知章と共に経術を深く思索し、互いに喜び楽しんだ。張説が朝廷に上表し、礼部員外郎に抜擢され、転じて国子博士となった。馬懷素が秘書を編纂・確定するに当たり、知章に文字を是正するよう奏上した。

休暇の度ごとに、講義と教授をやめることはなかった。『易経』・『老子』・『荘子』の書については特に深い理解を示した。弟子で貧しい者には、援助を与えた。性質は温和で厚く、人々は彼の喜びや怒りの表情を見たことがなかった。家産のことを尋ねたこともなく、その子が薪や米を多く買い求めて一年の計画としようとしたところ、知章は言った、「お前の計画通りなら、貧しい人はどうやって資を得るというのか。それに、私がなお民の利を奪うべきであろうか」と。官の任上で没した。注釈した伝は多く、当時に流行した。門人の孫季良らがその徳を称え、東都の国子監の門外に刻んだ。

附 孫季良

季良は偃師の人、一名は翌、左拾遺・集賢院直学士を歴任した。

張齊賢

張齊賢は陝州陝の人である。聖暦初年、太常奉礼郎となった。

則天武后が百官に明堂における告朔の儀、時令の宣読、政事の布告について議させ、京官九品以上および四方の朝集使を皆朝廷に列せしめた。太常博士の辟閭仁諝が言うには、「経書には天子が毎月告朔を行うことはない。ただ『礼記』玉藻篇に『天子は南門の外で聴朔する』とあり、『周礼』太宰に『正月の吉日、邦国都鄙に政を布く』とある。幹寶は『建子の月の告朔の日である』と言う。これが『玉藻』の聴朔と同じ意味である。今、元日に時令を読むことは、古の聴朔の事に合致する。ただ鄭玄が秦の制度である『月令』に五帝・五官があるため、『聴朔には必ず特牲をもって時帝と神に告げ、文王・武王を配祀すべきだ』と言った。その言は正しくない。『月令』に『その帝は太昊、その神は句芒』とあるのは、令を宣布して人に告げ、時務に従い業を修めさせることであり、月々に皆令があるからそう言うのであって、天子が月朔に帝を配して祭るのではない。告朔は諸侯の礼である。『春秋』に『既に視朔し、遂に台に登る』とある。鄭玄はまた、人君が月に廟で告朔し、その祭りを朝享と言うと説く。魯は文公から初めて視朔しなくなったのであり、天子の行うことではないことは明らかである。鄭玄は告げる帝とは人帝であり、神とは重・黎・五官であると言い、天子が拝祭することには言及していない。臣は請う、告朔・月祭を廃し、古礼に応じることを」と。齊賢はその説を是とせず、質して言うには、「穀梁伝は『閏月、天子は告朔せず』と称え、他の月は故に告朔するとしている。左氏伝は魯が『閏朔を告げず、時政を棄てる』と言い、諸侯は閏月であっても告朔するとしている。『周礼』太史に『邦国に朔を頒つ』、『玉藻』に『閏月、王は門に居す』とあり、これは天子も閏月であっても告朔するのである。二つの伝は聖人から遠くなく、天子・諸侯の告朔の事を載せており、明らかに誤りはない。今、議する者が『太宰』の正月の吉日に邦国に治を布くことによって、天子は元日に一度告朔すると言うのは、その趣旨を大きく失っている。一年の元に、六官が自ら担当する典を布くのである。幹寶が吉を朔と解したため、世の人が誤って吉を告とし、誤りを根拠にして経を失い、法とすることはできない。議する者はまた左氏伝の説を引き、専ら諸侯にのみあるとしているが、『玉藻』が左氏の説と正しく同じであることを知らず、ただ天子について歳首の一度の告朔を言うのは、何という恣意的な取捨であろうか。また、時帝とは五人帝であると言う。鄭玄は時帝に天と人とを包み、故に文王・武王を配祀したのであり、両方の五帝に告げることを疑わなかったのである。諸侯は天子から朔を受け、廟に蔵する。天子は天から朔を受け、明堂にあるべきであり、故に時帝に告げ、祖考を配祀するのである。議する者は言う、『天子が月に告祭して朔を頒てば、諸侯はどうしてそれを蔵することができようか。故に太宰が歳首に一年の事を布き、太史がそれを頒つのである』と。それはそうではない。『周礼』太史の『邦国に朔を頒つ』とは、十二の朔を諸侯に総頒することである。天子がなお月に告げるのは、官府と都鄙に頒つためである。内外で言い方を異にしているのである。礼は廃すべきではない」と。鳳閣侍郎の王方慶がさらに推して言うには、「明堂は政を布く宮であり、天気を明らかにし、万物を統べる所以である。漢の儒者は明堂と太廟を一つとし、その祖を宗祀して上帝を配した。宗祀することを清廟と言い、正室を太室と言い、向陽を明堂と言い、学を建てることを太学と言い、円水を辟雍と言う。名は異なるが事は同じ、古の制度である。天子は正月の上辛に南郊で十二月の政を総受け、還って祖廟に蔵し、月ごとに一政を取り、明堂に班する。諸侯は則ち天子から受け、祖廟に蔵し、月ごとに一政を取り、国において行う。王者がその礼をもって廟に告げることを告朔と言い、月の政を見ることを視朔と言う。『玉藻』に『玄冕にして東門の外に朝日し、南門の外に聴朔す』とある。鄭玄は説く、『明堂は国の陽にあり、その時の堂に就いて聴朔する。事が終われば、路寢に宿る』と。今、元日に通天宮で朝を受け、有司が遂に時令を読み、政を布くのは、古の礼である。旧説では天子が歳に明堂に入るのは十八度である。大享一度、月告朔十二度、四時の迎気四度、巡狩の年一度。今、議する者は唯歳首の一度の入りを許すのみでは、あまりに狭すぎはしないか。陛下が幸い明堂を建て、告朔の事に従って用いられるなら、もし月ごとに一度聴けば煩瑣に近く、毎孟月に視朔するのは、ただその礼を制定し、臣下が専らにしないことである」と。成均博士の呉楊吾らが共に言うには、「秦が学を滅ぼし、告朔の礼は廃れた。今、四孟月と季夏を用い、明堂に至って五時の帝に堂上で告げるのは、齊賢・方慶の議の通り兼ねて行うことを請う」と。数年も経たず、礼もまた廃れた。

久しくして、齊賢は博士に遷った。時に東都に太社が置かれ、礼部尚書の祝欽明が礼官の博士に問うた、「周の家では田主に適した木を用いたが、今の社主は石である。どうしたものか」と。齊賢は太常少卿の韋叔夏・国子司業の郭山惲・尹知章らと議して言うには、「『春秋』に『君が軍を行えば、社を祓い鼓を衅ぎ、祝が奉じて従う』とある。故に『命を用いざれば、社に戮す』と言う。社稷の主に石を用いるのは、奉じて行くことができるからである。崔霊恩は言う、『社主に石を用いるのは、地の産が最も実だからであろうか』と。『呂氏春秋』は『殷人の社は石を用いる』と言う。後魏の天平年中、太社の石主を遷した。その来歴は古い。周の田主に適した木を用いたのは、民間の社であろう。太社ではない」と。ここにおいて旧主の長さ一尺六寸、方一尺七寸について、博士にどうかと問うたところ、齊賢らは議して言うには、「社主の制度は、礼に伝わっていない。天子が親征する時、載せて行くのであれば、重すぎることはない。『礼記』に『社は土を祭り、陰気を主る』とある。『韓詩外伝』に『天子の太社は方五丈、諸侯はその半分』とある。五は土の数である。社主は長さ五尺が宜しく、数五に準じる。方二尺が宜しく、陰の偶数に準じる。その上を尖らせて物の生を象り、その下を方形にして地体を象る。土中に半分埋め、本末を均しくする。古尺をもって測ることを請う」と云う。また問うた、「社稷の壇は四方の色に従い、中は数尺もなく、黄土で覆っている。どういうことか」と。齊賢らは言う、「天子の太社は、広さ五丈を測り、四方に分け、上を黄土で覆う。王者が四方を覆い被うことを象るのである。然らば壇上を黄土で覆うべきである。旧壇の上は数尺もなく、覆い被うことが狭いのは、古に背く」と。ここにおいて方色をもって壇の四面及び階を飾り、黄土で上を全面覆いにした。祭牲は皆太牢を用いた。その後、先農を「帝社」と改称し、また「帝稷」を立てた。皆齊賢らが参画して定めたものである。

中宗が即位すると、武后の東都廟を唐廟に改め、七室を満たす議が起こり、涼武昭王を始祖とした。齊賢が上議して言う、「『礼』によれば、天子は七廟あり、始封の君を尊んで太祖と称し、百代遷さず、始祖とは聞かない。殷は玄王から湯に至り、周は後稷から武王に至るまで、皆太祖の後裔であり、合食に序がある。景皇帝は唐を始封し、実に太祖であるが、世数が近いため、なお昭穆の中にある。今、武昭王を始祖として引き上げるのは、殷・周が卨・稷を本とするのと異なる。卨・稷の興して胙を受けた者は、景皇帝である。昭王の国は世々伝わらず、後嗣は守りを失った。景帝こそ実に唐を始封し、子孫これを受け継いでいる。近き唐を捨てて、遠き涼を引くのは、その可なるを見ない。かつ魏は曹参そうしんを祖とせず、晋は司馬卬を祖とせず、宋は楚元王を祖とせず、斉・梁は蕭何しょうかを祖とせず、陳・隋は胡公・楊震を祖としない。今、昭王を祖と謂うのは、可であろうか。漢は周が後稷を郊祀したのに倣い、堯を郊祀しようと議したが、杜林は周は後稷より興り、漢の業は特に起こり、功は堯に縁らず、とし、ついに郊祀しなかった。武徳初年に定めた時、昭王に特に近かったが、祖と託さなかったのは、故あるからである。今これを立てるのは、祖宗の意ではない。景皇は位を失い、神も臨享せず、おそらく子孫に謀を遺す者ではない。」博士の劉承慶・尹知章もまた言う、「受命の君は、王跡に浅深あり、代系に遠近あり。祖は功により、昭穆は親による。功ある者は遷さず、親尽きた者は毀つ。今、廟数未だ備わらぬを以て、当に遷すべき主を昭穆の上に引き、苟も七室を充たすべからず。景皇帝既に太祖と号し、世浅きを以てなお六室の位にあるは、則ち室未だ当に七あるべからず、天子の廟七ならざるに非ず。大帝の神主既に祔すれば、宣皇帝は当に遷すべし。宣は始祖に非ず、また宗号無く、親尽きて遷すは、復た立つべからず。請う、なお六室と為さんことを。」詔して宰相に詳らかに裁せしむ。ここに祝欽明等上言して、「博士等三百人、両説あり:齊賢等は武昭王を祖とせず、劉承慶等は宣皇帝の遷を請う。臣等は皆その奏を可とせんと欲す。」詔して可とす。まもなく孝敬皇帝を義宗とし、廟に列して七室とす。西京の太廟もまたこれに如し。

齊賢は累遷して諫議大夫となり、卒す。

柳沖

柳沖は、蒲州虞郷の人、隋の饒州刺史莊の曾孫。父は楚賢、大業中に河北県長となる。高祖の兵興ると、堯君素郡に拠り固守す。楚賢説いて曰く、「隋の亡ぶるは、天下共に知る。唐公の名は図籙に在り、動くに誠信を以てし、豪英景赴し、天の賛する所なり。君子は幾を見て作し、終日を俟たんや。」君素従わず、楚賢潜かに行き自ら帰り、侍御史を授かる。貞観中、節を持ちて突厥を冊拝し、その遺を辞して受けず。交・桂二州都督・杭州刺史を歴任し、皆名あり。

沖は学を好み、多く研総す。天授初め、司府寺主簿となり、詔して淮南を安撫せしめ、指有り、河東県男に封ぜらる。中宗の景龍中、左散騎常侍に遷り、国史を修す。

初め、太宗諸儒に命じて『氏族志』を撰せしめ、群姓を甄差す。その後、門胄の興替常ならず、沖その書を改修せんことを請う。帝詔して魏元忠・張錫・蕭至忠・岑羲・崔湜・徐堅・劉憲・呉兢及び沖に命じ、共に徳・功・時望・国籍の家を取って、等しくしてこれを次ぐ。夷蕃の酋長で冠帯を襲ぐ者は、析きて別品に著す。会に元忠等物故に継ぎ、先天の時に至り、復た詔して沖及び堅・兢と魏知古・陸象先・劉子玄等に討綴せしめ、書乃ち成り、『姓系録』と号す。太子賓客・宋王師・昭文館学士を歴任し、老いて致仕す。開元初め、詔して沖と薛南金に復た刊竄を加えしめ、乃ち定む。

後に柳芳著論甚だ詳し、今その要を刪ぎ、左方に著す。芳の言うには、

氏族とは、古の史官の記す所なり。昔、周の小史系世を定め、昭穆を辯じ、故に古に『世本』あり、黄帝以来より春秋時に至る諸侯・卿・大夫の名号継統を録す。左丘明『春秋』を伝え、亦言う、「天子は徳を建て、生に因りて姓を賜い、土を胙し、氏を命ず。諸侯は字を以て氏と為し、謚を以て族と為す。」昔、堯は伯禹に姓を賜いて姒と曰い、氏を有夏と曰い、伯夷に姓を賜いて姜と曰い、氏を有呂と曰う。下りて三代に及び、官に世功あれば、則ち官族有り、邑もまたこれに如し。後世、或いは国に氏すれば、則ち斉・魯・秦・呉、謚に氏すれば、則ち文・武・成・宣、官に氏すれば、則ち司馬・司徒しと、爵に氏すれば、則ち王孫・公孫、字に氏すれば、則ち孟孫・叔孫、居に氏すれば、則ち東門・北郭、誌に氏すれば、則ち三烏・五鹿、事に氏すれば、則ち巫・乙・匠・陶。ここに姓を受け氏を命ぜられ、粲然として衆し。

秦は学を滅ぼし、公侯の子孫その本系を失う。漢興り、司馬遷父子乃ち『世本』を約して『史記しき』を修め、周譜に因りて世家を明らかにし、乃ち姓氏の出づる所を知る。虞・夏・商・周・昆吾・大彭・豕韋・斉桓・晋文皆同じ祖なり。王を更え覇を叠ね、多き者は千祀、少なき者は数十代なり。先王の封既に絶え、後嗣その福を蒙り、猶お強家と為る。

漢の高帝は徒歩より興り、天下有り、官を賢を以て命じ、爵を功を以て詔し、誓いて曰く、「劉氏に非ざる者の王たる、功無き者の侯たるは、天下共にこれを誅す。」と。先王公卿の胄は、才あれば則ち用い、才なければこれを棄つ。士と庶族を辨ぜず、然らば則ち始めて官を尚ぶ。然れども猶お山東の豪傑を徙して京師を実にし、斉の諸田、楚の屈・景、皆右姓なり。その後、豪英を進抜し、論じてこれを録す。蓋し七相・五公の興る所の由なり。

魏氏は九品を立て、中正を置き、世冑を尊び、寒士を卑しめ、権は右姓に帰した。その州大中正・主簿、郡中正・功曹は、皆著姓士族を取ってこれを行い、以て門冑を定め、人物を品藻した。晋・宋これに因り、始めて姓を尚ぶ。然れどもその貴賤を別ち、士庶を分つは、易うべからざるなり。時に有司の選挙は、必ず譜籍を稽へ、その真偽を考う。故に官に世冑あり、譜に世官あり、賈氏・王氏の譜学ここに出づ。ここに譜局有り、令史の職皆備わる。江を過ぐれば則ち「僑姓」と為り、王・謝・袁・蕭を大とす;東南は則ち「吳姓」と為り、朱・張・顧・陸を大とす;山東は則ち「郡姓」と為り、王・崔・盧・李・鄭を大とす;関中も亦た「郡姓」と号し、韋・裴・柳・薛・楊・杜を首とす;代北は則ち「虜姓」と為り、元・長孫・宇文・於・陸・源・竇を首とす。「虜姓」とは、魏の孝文帝洛に遷り、八氏十姓、三十六族九十二姓有り。八氏十姓は、帝宗属より出づ、或いは諸国魏に従う者なり;三十六族九十二姓は、世々部落の大人たり;並びに河南洛陽らくよう人と号す。「郡姓」とは、中国の士人を以て閥閲を差第し、これが制を為す。凡そ三世に三公有る者を「膏粱」と曰い、令・仆有る者を「華腴」と曰い、尚書・領・護以上の者を「甲姓」と為し、九卿若しくは方伯の者を「乙姓」と為し、散騎常侍・太中大夫の者を「丙姓」と為し、吏部正員郎を「丁姓」と為す。凡そ入るを得る者を、「四姓」と謂う。又詔して代人諸冑は、初め族姓無し、その穆・陸・奚・於は、吏部に下し猥官に充てること勿れ、得て「四姓」を視よと。北斉因襲し、秀才・州主簿・郡功曹を挙ぐるに、「四姓」に非ざれば選に在らず。故に江左氏族を定むるに、凡そ郡の上姓第一は、則ち右姓と為す;太和は郡四姓を以て右姓と為す;斉の浮屠曇剛の『類例』は凡そ甲門を右姓と為す;周の建徳氏族は四海の通望を以て右姓と為す;隋の開皇氏族は上品・茂姓を以て則ち右姓と為す;唐の『貞観氏族志』は凡そ第一等を以て右姓と為す;路氏の著す『姓略』は、盛門を以て右姓と為す;柳沖の『姓族系録』は凡そ四海の望族を以て右姓と為す。歴代の説を通ぜざれば、譜と与に言うべからざるなり。今流俗独り崔・盧・李・鄭を以て四姓と為し、太原王氏を加えて五姓と号す、蓋し経に依らざるなり。

夫れ文の弊、官を尚ぶに至り;官の弊、姓を尚ぶに至り;姓の弊、詐を尚ぶに至る。隋その弊を承け、その弊する所以を知らず、乃ち古道に反し、郷挙を罷め、地著を離れ、執事の吏を尊ぶ。ここに於いて土は郷里無く、裏は衣冠無く、人は廉恥無く、士族乱れて庶人僭す。故に譜を善く言う者は、地望に系して惑わず、姓氏に質して疑わず、婚姻に綴じて別有り。山東の人は質朴なれば、故に婚婭を尚び、その信は与うべく;江左の人は文華なれば、故に人物を尚び、その智は与うべく;関中の人は雄健なれば、故に冠冕を尚び、その達は与うべく;代北の人は武勇なれば、故に貴戚を尚び、その泰は与うべく。その弊に及べば、則ち婚婭を尚ぶ者は外族を先にし本宗を後にし、人物を尚ぶ者は庶孽を進め嫡長を退け、冠冕を尚ぶ者は伉儷を略し栄華を慕い、貴戚を尚ぶ者は勢利に徇い礼教を亡う。四者倶に弊すれば、則ちその尚ぶ所を失う。

人の守る所無ければ、則ち士族削がれ;士族削がれれば、則ち国従って衰う。管仲曰く、「国を為すの道、利一孔より出ずる者は王たり、二孔より出ずる者は強く、三孔より出ずる者は弱く、四孔より出ずる者は亡ぶ。」と。故に冠婚は、人道の大倫なり。周・漢の官人は、その政を斉しくし、その門を一にし、下に禁を知らしむ、これ一孔より出ずるなり、故に王たり;魏・晋の官人は、中正を尊び、九品を立て、郷に異政有り、家に競心有り、これ二孔より出ずるなり、故に強し;江左・代北の諸姓は、紛乱して一ならず、その要帰する所無し、これ三孔より出ずるなり、故に弱し;隋氏の官人は、吏道を以て天下を治め、人の行い、郷党を本とせず、政は上に煩く、人は下に乱る、これ四孔より出ずるなり、故に亡ぶ。唐は隋の乱を承け、宜しく忠を以てこれを救うべし、忠厚なれば則ち郷党の行い修まり;郷党の行い修まれば則ち人物の道長く;人物の道長ければ則ち冠冕の緒崇く;冠冕の緒崇ければ則ち教化の風美しく;乃ち古と参ずべし。

晋の太元中、散騎常侍河東の賈弼、『姓氏簿状』を撰す、十八州百十六郡、合わせて七百一十二篇、士庶を甄析して遺す所無し。宋の王弘・劉湛その書を好む。弘は毎日千客に対し、一人の諱を犯さず。湛は選曹と為り、『百家譜』を撰して銓序を助け、文寡省を傷む、王儉又これを広め、王僧孺演益して十八篇と為し、東南の諸族自ら一篇と為し、百家の数に入らず。弼は子の匪之に伝え、匪之は子の希鏡に伝え、希鏡『姓氏要状』十五篇を撰す、特に諳究する所なり。希鏡は子の執に伝え、執は更に『姓氏英賢』一百篇を作り、又『百家譜』を著し、両王の記す所を広む。執はその孫の冠に伝え、冠『梁国親皇太子序親簿』四篇を撰す。王氏の学は、賈氏に本づく。

唐興り、譜を言う者は路敬淳を宗とし、柳沖・韋述これに次ぐ。李守素も亦た姓氏に明るく、時に「肉譜」と謂う。後に李公淹・蕭穎士・殷寅・孔至有り、世に称せらる。

初め、漢に鄧氏の『官譜』有り、応劭に『氏族』一篇有り、王符の『潜夫論』にも『姓氏』一篇有り、宋の何承天に『姓苑』二篇有り。譜学は大抵ここに具わる。魏の太和の時、諸郡中正に詔し、各本土の姓族の次第を列して挙選の格と為し、名づけて「方司格」と曰い、人今に至るまでこれを称す。

馬懷素

馬懷素、字は惟白、潤州丹徒の人。江都に客し、李善に師事す。貧しく資無く、昼は樵り、夜は輒ち然して以て書を読み、遂に経史に博通す。進士第に擢でられ、又文学優贍科に中り、郿尉を補す。労を積み、左台監察御史に遷る。長安中、大夫魏元忠、張易之の構える所と為り嶺表に謫せられ、太仆崔貞𫺤・東宮率獨孤祎之、道を祖す。易之怒り、人を使い急変を上らせ、貞𫺤等が元忠と謀反すと告ぐ。武后詔して懷素にこれを按ぜしむ。使者促迫すれども、懷素執して従わず、曰く、「貞𫺤流人を餞して罪に当たるべし、以て謀反と為すは、則ち非なり。昔彭越は逆を以て誅せられ、欒布は屍下に事を奏す、漢罪に坐せず。今元忠の罪は越に比ぶるに非ず、宜しく餞闊の人を坐すべからず。且つ陛下は生殺の柄を操り、罪を加えんと欲せば、自ら聖心に処決すべし。既に臣に状を按ずるを付す、惟だ陛下の法を守るを知るのみ。」と。后意解け、貞𫺤等乃ち免る。宰相李迥秀、易之の勢を藉り、賕を斂め法を諉う、懷素これを劾して罷む。礼部員外郎に転ず。十道使を以て江西を黜陟し、処決平恕なり。考功に遷り、実才を核取し、権貴の謁請阿撓すること能わず。中書舍人内供奉に擢でられ、修文館直学士と為る。

開元の初め、戸部侍郎となり、常山県公に封ぜられ、昭文館学士を兼ねて進んだ。学問に篤く、手から書巻を離すことがなかった。謙虚で恭しく慎み畏れ、長者として推された。玄宗は詔して褚無量とともに侍読とし、日を代えて番入りさせた。既に閣を叩けば、肩輿に乗って進み、あるいは行在所が遠ければ、馬に乗ることを許された。宮中で宴見するたびに、帝は師臣の礼をもって自ら送迎した。詔があり秘書を校勘させた。この時、文籍は満ち溢れ、皆煤け朽ちて蠹魚に食い切られ、籤は紛れて錯雑していた。馬懐素が建議して言うには、「願わくは紫微・黄門に下し、宿学の巨儒を召して繆り欠けたるを校せしめよ」と。また言うには、「斉以前の旧籍は、王儉の『七志』に既に詳しい。近時の書の篇目及び前の志に遺れたるを採り、儉の『志』を継いで秘府に蔵せよ」と。詔して可とした。即ち懐素を秘書監に拝した。そこで詔して国子博士尹知章、四門助教王直、直国子監趙玄黙、陸渾丞呉綽、桑泉尉韋述、扶風丞馬利徴、湖州司功参軍劉彦直、臨汝丞宋辞玉、恭陵丞陸紹伯、新鄭尉李子釗、杭州参軍殷踐猷、梓潼尉解崇質、四門直講余欽、進士王愜・劉仲丘、右威衛参軍侯行果、邢州司戸参軍袁暉、海州録事参軍晁良、右率府冑曹参軍毋煚、滎陽けいよう主簿王湾、太常寺太祝鄭良金らに分かれて部を撰次させ、踐猷の従弟秘書丞殷承業・武陟尉徐楚璧に文字を是正させた。懐素は秘書少監盧俌・崔沔を修図書副使とし、秘書郎田可封・康子元を判官とするよう奏上した。しかし懐素は著述を善くせず、緒を別つことができなかった。会に卒す。帝は洛陽南城門で哀悼し、潤州刺史を贈り、諡して文と曰い、輿を与えて郷里に還し、喪事は官が辦じた。

懐素の卒後、詔して秘書官を並びに修書学士と号し、四部を草定させたが、人人意自ら出でて、統一する所なく、一年を過ぎても成らなかった。有司は供擬に疲れ、太僕卿王毛仲が内料を罷めるよう奏上した。また詔して右常侍褚無量・大理卿元行沖に選に応ぜざる者を考絀させた。無量らが奏上して言うには、「修撰に条理あり、宜しく大儒を得て綜治せしむべし」と。詔して行沖に委ねた。そこで煚・述・欽に総緝して部分させ、踐猷・愜に経を治めさせ、述・欽に史を治めさせ、煚・彦直に子を治めさせ、湾・仲丘に集を治めさせた。八年、『四録』が成り、上った。学士に賞擢はなかった。

行沖が麗正院を管知し、また紹伯・利徴・彦直・踐猷・行果・子釗・直・煚・述・湾・玄黙・欽・良金と朝邑丞馮朝隠・冠氏尉権寅献・秘書省校書郎孟暁・揚州兵曹参軍韓覃・王嗣琳、福昌令張悱・進士崔蔵之を麗正書の校勘に入れるよう奏上した。これにより秘書省は撰緝を罷め、学士は皆麗正に在った。

王愜・劉仲丘は老病で郷里に還った。陸紹伯は官に卒した。王直は岐王府記室参軍事で終わった。趙玄黙は集賢直学士となった。馬利徴は出て山茌令となったが、儒緩で治術なく、免官され、家で終わった。李子釗は保任の人非ざるに坐し、德州長史で終わった。余欽は太学博士・集賢院学士に至った。王湾は洛陽尉となった。鄭良金は右補闕・京兆府倉曹参軍事となった。権寅献は臨淮太守となった。孟暁は左補闕となった。韓覃は萊州別駕となり、刺史を誣告した罪に坐し、遠方に流された。崔蔵之は膳部員外郎となった。明年、将仕郎梁令瓚を文学として書院に直し、後に右率府兵曹参軍として罷め、恒王府司馬で終わった。秘書省校書郎源幼良が利徴に代わり、後に協律郎として罷まった。

附 殷踐猷

殷踐猷、字は伯起、陳の給事中殷不害の五世の従孫なり。博学、特に氏族・暦数・医方に通ず。賀知章・陸象先・韋述と最も善くし、知章は嘗て「五総亀」と号し、亀は千年にして五たび聚まり、問うて知らざるなしと謂った。初め杭州参軍となり、文儒異等科に挙げられ、秘書省学士を授かり、曹州司法参軍を用いられ、麗正殿学士を兼ねた。叔父の喪に、哀慟して血を嘔いて卒し、年四十八。

少子の殷寅、宏辞に挙げられ、太子校書となり、出て永寧尉となった。吏が甚だしく侮謾したので、寅は怒ってこれを殺し、澄城丞に貶せられた。病みて将に死せんとするに、母の蕭氏が老いて、忍びず決別するを。斂に及んで、その子の殷亮は指を断ち髪を剪って棺中に置き、自ら誓って祖母に事えること寅の在りし如くせんと。その後、蕭氏の疾に侍り、衣を脱がざること数年、白燕がその楣に巣くった。後に給事中・杭州刺史で終わった。

踐猷の弟の季友、秘書郎を歴任し、画を善くした。

從父の殷仲容、冬官郎中で終わり、重き名有り。子の承業、謹樸を以て称され、太子左諭徳・右威衛将軍を歴任した。

族子の成己、晋州長史。初め、母の顔氏の叔父、吏部郎中敬仲が酷吏に陥れられ、二妹を率いて耳を割き冤を訴え、敬仲は死を減ぜられた。成己の生まるるに及びて、左耳欠けたる云う。

孔若思

孔若思、越州山陰の人、陳の吏部尚書孔奐の四世の孫。祖父の紹安、兄の紹新と共に早くより知名。陳滅び、鄠に客居し、志を学に励ます。外兄の虞世南曰く、「本朝覆れ、吾が分湮滅す。弟此の如き有り、亡びざるを知る」と。紹安は孫万寿と共に文辞を以て称され、時に「孫孔」と謂う。隋の大業末、監察御史となる。高祖が河東で賊を討つに、紹安は夏侯端と共に監軍し、礼遇特に密なり。帝が禅を受けると、端は先に帰り、秘書監に拝された。已にして紹安は間道を走って長安に至り、帝悦び、内史舎人に擢げ、宅一区・良馬二匹を賜う。

若思は早く孤となり、その母自ら訓教し、長じて博学を以て聞こえた。褚遂良の書を遺わす者有り、一卷を納れたり。その人曰く、「是の書は千金貴し、何ぞ之を取る廉なる」と。答えて曰く、「審に爾らば、此れ多しと為す」と。更に其の半を還す。明経に擢げられ、庫部郎中を歴任し、常に曰く、「仕宦は郎中に至れば足る」と。座右に止水一石を置き、自足の意を明らかにす。

中宗の初め、敬暉・桓彦範が国政を当たり、若思が古今に多く識るを以て、凡そ大なる政事は、必ず諮質して後に行わしめた。三遷して礼部侍郎となり、出て衛州刺史となる。故事、宗室を以て州別駕と為し、刺史に謁見するに、驁放にして肯えて恭を致さず。若思は別駕李道欽を劾奏し、状を訊ぜんことを請う。詔有りて別駕が刺史に謁見して恭を致すは、若思より始まる。清白を以て銀青光禄大夫に擢げられ、絹百匹を賜い、累ねて梁郡公に封ぜられた。開元七年卒し、諡して恵と曰う。

若思の從父 孔禎

従父の禎は、進士に及第し、監察御史を歴任し、門に賓客の謁見なく、当時はその狷介を譏った。高宗の時、再び絳州刺史に遷り、武昌県子に封ぜられ、謚して温といった。

禎の子に季詡あり。

子の季詡は、字を季和という。永昌の初め、制科に擢でられ、秘書郎を授かった。陳子昂は常にその神清韻遠、衛玠に比すべしと称えた。左補闕に終わる。

若思の子に至あり。

若思の子の至は、字を惟微という。著作郎を歴任し、氏族学に明るく、韋述・蕭穎士・柳沖と並び称された。『百家類例』を撰し、張説らを近世の新族として、これを削り去った。説の子の垍は寵を得ていた折から、怒って言うには、「天下の族姓が、何でお前の関わることか、妄りに紛紛としているのか」と。垍の弟は平素より至と親しく、実情を告げた。初め、書が成った時、韋述に見せると、述は伝うべきものと評した。垍の言葉を聞き、懼れて、増減を加えようとしたところ、述は言うには、「止めよ。丈夫奮筆して一家の書を成す、何ぞ人のために動揺せん。死すとも改むべからず」と。そこでやめた。当時、述及び穎士・沖も皆『類例』を撰したが、至の書は工なりと称された。