太宗は身に櫜鞬を帯び、風に纚き露に沐すも、然れども経術に情を鋭くし、即ち王府に文學館を開き、名儒十八人を召して學士と為し、天下の事を議わしむ。即位するや、殿の左に弘文館を置き、悉く内學士を引き入れ番宿更休せしむ。朝を聴くの間は、則ち古今を討ち、前王の成敗する所以を道い、或いは日昃夜艾に及び、未だ嘗て少しく怠ること無し。貞観六年、詔して周公の祠を罷め、更に孔子を先聖と為し、顔氏を先師と為す。天下の惇師老德を尽く召して學官と為す。数たび臨幸して釈菜を観、祭酒博士に命じて経義を講論せしめ、束帛を賜う。生にして一経を通ずる者は、吏を署するを得。學舍を広げて千二百区、三學は生員を益し、並びに書・算の二學を置き、皆博士有り。大抵諸生員は三千二百に至る。玄武の屯営飛騎より、皆博士に経を受くことを給し、一経を通ずる者は、貢限に入るを聴す。四方の秀艾、策を挾み素を負い、坌集して京師に至る。文治煟然として勃興す。ここに於いて新羅・高昌・百濟・吐蕃・高麗等の群酋長並びに子弟を遣わして學に入らしめ、笥を鼓ぎ堂に踵く者は、凡そ八千余人。袂を紆侈し、方履を曳き、訚訚秩秩、三代の盛んなりしも、未だ聞かざる所なり。帝又《五経》の繆闕を讎正し、天下に頒ち学者に示し、諸儒と章句を稡めて義疏を為し、其の伝を久しくせしむ。因りて詔して前代の通儒梁の皇偘・褚仲都・周の熊安生・沈重・陳の沈文阿・周弘正・張譏・隋の何妥・劉炫等の子孫に、並びに引擢を加う。二十一年、詔す「左丘明・卜子夏・公羊高・穀梁赤・伏勝・高堂生・戴聖・毛萇・孔安国・劉向・鄭衆・杜子春・馬融・盧植・鄭玄・服虔・何休・王粛・王弼・杜預・範寧の二十一人、其の書を用い、其の道を行えば、宜しく以て之を褒大する有るべし。今より並びに孔子廟廷に配享せよ」。ここに於いて唐三百年の盛、貞観を称う、寧ろ其れ然らざらんや。
高宗は吏事を尚び、武后は権変を矜る。諸王駙馬に至るまで、皆祭酒を領するを得たり。初め、孔穎達等始めて官を署し、《五経》の題を発して諸生と酬問す。是に及んで、惟だ祥瑞案三牒を判ずるのみにて即ち罷む。
玄宗は群臣及び府郡に詔して通経の士を挙げしむ。而して褚無量・馬懷素等禁中に勧講し、天子尊礼して、敢えて尽く臣とせず。集賢院を置き典籍を部分し、乾元殿に群書を博匯して六万巻に至り、経籍大いに備わり、又開元と称せらる。祿山の禍に、両京の蔵する所、一たび炎埃と為り、官私の楮、喪脱幾くんと尽くす。章甫の徒、劫せられて縵胡と為る。ここに於いて嗣帝区区として乱を救うを得ず、安んぞ暇あらんや貞観・開元の事を語るに。楊綰・鄭餘慶・鄭覃等大儒を以て政を輔うより、學科を優にし、先ず経誼を先にし、進士を黜け、文辞を後にするを議すも、亦克く能わず。文宗《五経》を定め、之を石に镵る。張参等訛文を是正すも、寥寥として一二紀す可きのみ。之を観るに、始め未だ嘗て艱難に成らずんばあらず、而して後易きに敗る。
嘗て之を論ず。武は救世の砭剤、文は其の膏粱か。乱已に定まりては、必ず文を以て之を治む。否なば、是れ病損して砭剤を進むるなり、其の傷多し。然らば則ち武之を得、武之を治むるも、免れず覇且つ盗、聖人は是に反して王と為る。故に曰く、武は業を創め、文は成を守る、これ百世易うべからざるの道なり。若し乃ち天下を挙げて一に之を仁義にせんとせば、儒に若くは莫し。儒は其人を待ちて、乃ち能く其の功を光明にす、宰相大臣是れ已なり。専ら誦習伝授に至り、他に大事業無き者は、則ち次に《儒學篇》と為す。
徐文遠
徐曠、字は文遠、字を以て行わる。南斉の司空孝嗣の五世の孫。父徹は、梁の秘書郎、元帝の女安昌公主を尚ぶ。江陵陥るや、俘と為りて西にされ、偃師に客す。貧しくして自ら給する能わず。兄文林は肆に書を鬻ぐ。文遠日に之を閲し、因りて博く《五経》に通じ、《左氏春秋》に明る。時に耆儒沈重太學に講じ、業に授くること常に千人、文遠之に従いて質問す。数日せずして辞去す。或る人其の故を問う。答えて曰く「先生の説く所は、紙上の語のみ。若し奥境に至りては、彼未だ見ざる所有り。尚何ぞ観んや」。重其の語を知り、召して反復研辯せしめ、其の能を嗟嘆す。性方正にして、挙動純重、竇威・楊玄感・李密・王世充皆従いて學を受く。
隋の開皇中、累遷して太學博士と為り、詔して漢王諒に経を授けしむ。会うに諒反すに、名を除かれて民と為る。大業初、礼部侍郎許善心文遠及び包愷・褚徽・陸德明・魯達を薦めて學官と為し、擢て国子博士と為し、愷等は太學博士と為る。世に《左氏》に文遠有り、《礼》に褚徽有り、《詩》に魯達有り、《易》に陸德明有りと称し、皆一時の冠たり。文遠経を説くに、遍く先儒の異論を挙げ、是非を分明にし、乃ち新意を出して以て折衷し、聴く者労を忘る。越王侗国子祭酒を署す。
時に洛陽饑う。文遠自ら城を出で樵拾す。李密に得らる。密文遠をして南向に坐らしめ、弟子の礼を備えて之を拝す。文遠謝して曰く「前日は先王の道を以て将軍に授けしが、今将軍兵百万を擁し、威四海に振う。猶能く体を屈して老夫にす、此れ盛德なり。安んぞ敢えて尽くさざらんや。将軍若し伊・霍と為らんと欲せば、絶を継ぎ傾を扶けば、吾老いりと雖も、猶願くは力を尽くさん。如し莽・卓と為り、危に乗り険を迫らんとせば、則ち仆耄たり、能く為すこと無からん」。密頓首して曰く「幸いに上公の位を得て、思う所以に力を竭くさんとす。先ず化及を征して国恥を刷し、然る後に天子に入見し、有司に請罪せん。惟だ先生の之を教うるを」。答えて曰く「将軍は名臣の子、累世節を尽くす。前に玄感の党に陥りしも、迷い未だ遠からずして復す。今若し之を忠を以て終わらば、天下の人の将軍に望む所なり」。密頓首して曰く「恭しく命を聞く」。俄にして世充専制す。密又焉に問う。対えて曰く「彼残忍にして意褊促、必ず乱に速かなるべし。将軍之を破らざれば以て朝すべからず」。密曰く「常に先生を儒者と謂い、軍旅を學ばずとす。大計を籌るに至りては、乃ち明略人に過ぐ」。
密敗れ、復た東都に入る。世充稍を異等に給す。而して文遠見るや輒ち先ず拝す。或る人問う「君踞りて李密に見えて王公に下る、何ぞ邪」。答えて曰く「密は君子、能く酈生の揖を受く。世充は小人、故人の義を容るる無し。時に相い動く可きのみ」。世充僭号す、以て国子博士と為す。子士会長安に奔る。世充怒り、其の稟を絶つ。文遠餓えて幾くんと死すこと数たび。身を出でて樵す。羅士信に獲らる。京師に送られ、仍って国子博士と為る。
高祖が国學に幸して釈奠を観るに、文遠は『春秋』の題を発し、論難鋒鋭にして、方に随ひて占對し、屈する者なし。帝之を異とし、東莞縣男を封ず。卒す、年七十四。孫有功、自ら傳有り。
陸德明
陸元朗、字は德明、字を以て行はる、蘇州吳の人なり。名理言を善くし、周弘正に學を受く。陳の太建中、後主太子たり、名儒を集めて承光殿に入れて講ぜしむ。德明始めて冠し、下坐に與る。國子祭酒徐孝克經を敷き、貴に倚りて辯を縱ふ。衆多く之に下る。獨り德明申答し、屢ひ其の説を奪ふ。舉坐賞を咨る。解褐して始興國左常侍と爲る。陳亡び、鄉闬に歸る。
隋の煬帝秘書學士に擢く。大業間、經明の士を廣く召す。四方踵ぎて至る。是に於て德明と魯達・孔褒と共に門下省に會して相酬難し、詘する者なし。國子助教に遷る。越王侗之を署して司業と爲し、殿中に入りて經を授く。王世充號を僭す。子玄恕を漢王に封じ、德明を以て師と爲す。即ち其の廬に束脩の禮を行ふ。德明之を恥づ。巴豆劑を服し、僵偃して東壁の下に在り。玄恕入りて床垂に拜す。德明之に對して利を遺し、復た口を開かず。遂に病を移して成臯に在り。
世充平らぐ。秦王之を辟きて文學館學士と爲し、經を以て中山王承乾に授け、太學博士を補ふ。高祖既に釈奠し、博士徐文遠・浮屠慧乘・道士劉進喜を召して各經を講ぜしむ。德明方に随ひて義を立て、遍く其の要を析く。帝大いに喜びて曰く、「三人者は誠に辯なり。然れども德明一舉にして輒ち蔽ふ。賢と謂ふ可し」と。帛五十匹を賜ひ、國子博士に遷し、吳縣男を封ず。卒す。
論撰甚だ多く、世に傳はる。後太宗其の書を閱し、德明の博辯を嘉し、布帛二百段を以て其の家に賜ふ。
德明の子 敦信
子敦信、麟德中、左侍極より檢校右相に繇り、累ねて嘉興縣子を封ぜられ、老疾を以て致仕し、終に大司成に至る。
曹憲
曹憲、揚州江都の人なり。隋に仕へて秘書學士と爲り、徒を聚めて教授す、凡そ數百人。公卿多く之に從ひて遊ぶ。小學家に於て尤も邃く、漢の杜林・衛宏以後、古文亡び絶ゆ。憲に至りて復興す。煬帝諸儒と『桂苑珠叢』を撰せしめ、文字を規正せしむ。又『廣雅』を註す。學者其の該を推し、秘書に藏む。
貞觀中、揚州長史李襲譽之を薦む。弘文館學士を以て召すも至らず。即ち家にて朝散大夫を拜し、當世之を榮とす。太宗嘗て書を讀み、奇難の字有り、輒ち使者を遣はして憲に問はしむ。憲具はりて音註を爲し、援驗詳復す。帝之を咨尚す。卒す、年百餘歲。
憲始めて梁の昭明太子の『文選』を以て諸生に授く。而同郡の魏模・公孫羅・江夏の李善相繼ぎて傳授す。是に於て其の學大いに興る。句容の許淹なる者、浮屠より還りて儒と爲り、識多く聞廣く、故訓に精し。羅等と並び名家と爲る。羅官は沛王府參軍事・無錫丞。模は武后の時に左拾遺と爲り、子景倩亦其の學を世ふ。拾遺を以て召され、後度支員外郎を歷る。善は子邕の傳に見ゆ。
顏師古
顏師古、字は籀、其の先は瑯邪臨沂の人なり。祖之推、高齊より周に入り、終に隋の黃門郎と爲り、遂に關中に居り、京兆萬年の人と爲る。父思魯、儒學を以て顯る。武德初、秦王府記室參軍事と爲る。
師古少くより博覽し、故訓學に精しく、屬文を善くす。仁壽中、李綱之を薦む。安養尉を授く。尚書左僕射楊素其の年弱きを見て謂ひて曰く、「安養は劇縣なり。子何を以て之を治めん」と。師古曰く、「鶏を割くに未だ牛刀を用ゐず」と。素其の言の大なるに驚く。後果たして幹治を以て聞こゆ。時に薛道衡襄州總管と爲り、之推と舊く、其の才を佳とし、每文章を作るに、疵短を指摘せしむ。俄に職を失ひ、長安に歸り、調を得ず、窶甚だしく、教授を資として生く。
高祖が関中に入ると、長春宮に謁見し、朝散大夫を授けられ、敦煌公府文学に任ぜられ、累進して中書舎人となり、機密を専ら掌った。師古は性質敏捷にして、治体に明練であった。軍国の務多き時節、詔令は一としてその手を出でざるはなく、冊奏の工巧、当時に及ぶ者なし。太宗即位すると、中書侍郎に任ぜられ、瑯邪県男に封ぜられたが、母の喪に服して官を解かれた。喪が明けて官に還る。歳余りして、公事に坐して免官せらる。
帝嘗て『五経』は聖人より遠く、伝習浸く訛れるを嘆き、師古に詔して秘書省に於いて考定せしめ、多く厘正する所あり。既に成りて、悉く諸儒を召して議せしむ。ここに於いて各おの習う所を執り、共に師古を非難詰難す。師古は輒ち晋・宋の旧文を引き、方に随い明らかに答へ、誼拠該博明瞭にして、その悟表に出で、人々嘆服す。尋いで通直郎・散騎常侍を加えらる。帝因りて定めし書を天下に頒ち、学者之に頼る。
俄かに秘書少監に任ぜられ、専ら刊正の事を掌り、古篇奇字世の惑う所を討析申し孰しめ、必ず本源を暢ふ。然れども多く後生を引いて讎校に与からしめ、素流を抑へ、貴勢を先にす。商賈富室の子と雖も、亦選中に竄入す。ここに由りて素議之を薄くし、郴州刺史に斥けらる。未だ行かず、帝其の才を惜しみ、譲りて曰く、「卿の学、信に称す可きも、事親居官、朕聞くこと無し。今日の行、自ら誰にか之を取る。卿が曩に任使を経たるを念ひ、朕棄つるに忍びず。後宜しく自ら戒むべし。」師古謝罪し、復た留めて故官と為す。
師古性簡峭にして、輩行を視るに傲然たり、推接すること罕なり。既に其の才を負ひ、早くより駆策を見、意望甚だ高し。是に及び頻りに譴せられ、仕益々進まず、罔然として喪沮し、乃ち門を闔へて賓客を謝し、巾褐裙帔、情を放ち蕭散し、林墟の適を為す。古図画・器物・書帖を多く蔵し、亦性の篤く愛する所なり。『五礼』の撰に与り成りて、爵を進めて子と為す。又た太子承乾の為に班固『漢書』を註し之を上る。物二百段・良馬一を賜はる。時人杜征南・顔秘書を左丘明・班孟堅の忠臣と謂ふ。
帝将に泰山に事有らんとし、詔して公卿博士をして雑に其の儀を定めしむ。而して論者争ひて異端を為す。師古奏す、「臣撰定する所の『封禅儀註書』は十一年に在り。当時諸儒適中と謂へり。」ここに於いて以て有司に付し、多く其の説に従ふ。秘書監・弘文館学士に遷る。十九年、遼征に従ひ、道中病みて卒す。年六十五。謚して戴と曰ふ。
初め、思魯妻と相宜しからず、師古苦諫す。父聴かず、情隔たり有り。故に帝之に及ぶ。
師古の弟 時相
師古の弟相時、字は睿、亦た学を以て聞こゆ。天策府参軍事と為る。貞観中、累進して諫議大夫となり、争臣の風有り。礼部侍郎に転ず。羸瘠多く病む。師古死し、哀しみに勝へずして卒す。
師古の叔 遊秦
師古の叔遊秦、武徳初、累進して廉州刺史となり、臨沂県男に封ぜらる。時劉黒闥初めて平らぎ、人多く強暴なり。遊秦の至るに及び、礼譲大に行はれ、邑裏之を歌ふ。高祖璽書を下して奨労す。終に鄆州刺史。『漢書決疑』を撰す。師古多く其の義を資取す。
孔穎達
孔穎達、字は仲達、冀州衡水の人。八歳にして学に就き、誦記日に千余言、『三礼義宗』を暗記す。長ずるに及び、服氏『春秋伝』・鄭氏『尚書』・『詩』・『礼記』・王氏『易』に明るく、文を属するに善くし、歩暦に通ず。嘗て同郡の劉焯を訪ふ。焯名海内に重し、初め之を礼せず。及び疑ふ所を質すを請ひ、遂に大いに畏服す。
隋の大業初、明経に挙げられ高第となり、河内郡博士を授けらる。煬帝天下の儒官を召して東都に集め、詔して国子秘書学士と論議せしむ。穎達冠たり、又年最少なり。老師宿儒其の下に出るを恥ぢ、陰に客を遣はして之を刺さしむ。楊玄感の家に匿れて免る。太学助教を補す。隋乱れ、虎牢に避地す。
太宗洛を平らげ、文学館学士を授け、国子博士に遷る。貞観初、曲阜県男に封ぜられ、給事中に転ず。時帝新に即位し、穎達数へて忠言を以て進む。帝問ふ、「孔子『能を以て不能に問ひ、多きを以て寡なきに問ひ、有ること無きが若く、実ること虚しきが若し』と称す。何の謂ぞ。」対へて曰く、「此れ聖人の人を教へて謙らしむるのみ。己れ能有りと雖も、仍ほ能はざるの人に就きて未だ能はざる所を咨り、己れ多しと雖も、仍ほ寡少の人に就きて更に其の多きを資く。内に道有りて外は無きが若く、中は実と雖も容は虚しきが若し。匹夫に非るのみならず、君徳も亦然り。故に『易』に『蒙を以て正を養ひ』、『明夷を以て衆を蒞む』と称す。若し其の尊極の位に拠り、聡明を衒ひ耀かし、才を恃みて以て肆らば、則ち上下通ぜず、君臣の道乖く。古より滅亡するもの、此れに由らざるは莫し。」帝善しと称す。国子司業を除き、歳余りして、太子右庶子を以て司業を兼ぬ。諸儒と歴及び明堂の事を議し、多く其の説に従ふ。論撰の労を以て、散騎常侍を加へられ、爵を子と為す。
皇太子は孔穎達に命じて『孝経章句』を撰ばしめ、その文章によって諫め諷することを尽くさせた。帝は彼がたびたび太子の過失を諫争していることを知り、黄金一斤、絹百匹を賜った。久しくして、祭酒に拝され、東宮に侍講した。帝が太学に行幸し釈菜の儀を見ると、穎達に経を講ぜしめ、終わって『釈奠頌』を上ったところ、詔があり褒め称えられた。後に太子が次第に法に背くようになると、穎達は争うことを止めず、乳母が「太子は既に成長なされた。たびたび面と向かって諫めるのは宜しくない」と言うと、答えて「国の厚恩を蒙りております。たとえ死すとも恨みません」と言い、諫めはますます切実になった。後に致仕し、卒去し、昭陵に陪葬され、太常卿を贈られ、諡して憲といった。
穎達の子の志は、司業の官で終わった。志の子の恵元は、学問に励み寡黙で、また司業となり、累進して太子諭徳に抜擢された。三代にわたって司業となったので、当時の人はこれを称えた。
付載 王恭
王恭は、滑州白馬の人である。若くして篤学で、郷里に教授し、弟子数百人を有した。貞観初年、召されて太学博士に拝され、『三礼』を講じ、別に『義証』を著したが、甚だ精緻で博識であった。蓋文懿・蓋文達はいずれも当時の大儒であったが、講義の度に先儒の義を挙げるごとに、必ず王恭の説を暢達させた。
付載 馬嘉運
馬嘉運は、魏州繁水の人である。若くして沙門となったが、後に儒学を修め、議論に長じた。貞観初年、累進して越王東閣祭酒に任ぜられた。退いて白鹿山に隠棲すると、諸方より学業を受けに来る者が千人に及んだ。十一年、召されて太学博士・弘文館学士に拝された。孔穎達の『正義』が煩雑であるとして、その瑕疵を指摘し、当時の諸儒はその精確さに敬服した。高宗が太子であった時、崇賢館学士に引き立てられ、しばしば洗馬秦暐と共に宮中で侍講し、国子博士の官で終わった。
欧陽詢
欧陽詢は、字を信本といい、潭州臨湘の人である。父の紇は、陳の広州刺史であったが、謀反を企てて誅殺された。詢は連座すべきところであったが、匿われて免れた。江総が故人の子として、ひそかに養育した。容貌は醜く小柄であったが、聡明で悟りは人に絶していた。江総が書記の術を教えると、読むごとに数行を同時に理解し、遂に経史に博く通貫した。隋に仕え、太常博士となった。高祖が微賤の時、しばしば交遊し、即位すると、累進して給事中に抜擢された。
詢は初め王羲之の書を模倣したが、後に険勁にしてそれを超え、自らその書体を名付けた。尺牘の伝わるところ、人はこれを法とした。高麗がかつて使者を遣わしてこれを求めた時、帝は嘆じて言った、「彼らはその書を見て、さぞや形貌魁偉であろうと思っているのだろうか」。かつて行く途中で索靖の書いた碑を見て、それを観察し、数歩去ってまた戻り、疲れると座布を敷き、遂にはその傍らに宿り、三日にしてようやく去った。その嗜好はこのようなものであった。貞観初年、太子率更令・弘文館学士を歴任し、渤海男に封ぜられた。卒去し、年八十五。
詢の子 通
子の通は、儀鳳年間に累進して中書舎人となった。母の喪に服している時、詔により喪を奪われた。毎朝入朝する際には、徒跣で門に至った。夜直の時は、藁を敷いて寝た。公事でなければ語らず、家に還ると号慟した。凶年で、葬ることが叶わず、廬に居ること四年、喪服を脱がなかった。冬月、家人が氈絮をひそかに席の下に置くと、通は気づき、直ちに取り除かせた。累進して殿中監に遷り、渤海子に封ぜられた。天授初年、司礼卿に転じ、納言事を判じた。輔政すること月余り、時に鳳閣舎人張嘉福が武承嗣を太子に立てることを請うと、通は岑長倩らと共に固く主張し、諸武の意に逆らった。長倩が獄に下されると、大逆の罪に坐して死し、来俊臣は通をも同謀として引き合いに出した。通は惨毒な拷問を受けても異なる言葉を発さず、俊臣が代わって供述を捏造し、誅殺した。神龍初年、官爵を追復された。
通は早く孤となり、母の徐氏が父の書法を教えたが、堕落することを恐れ、かつて銭を与えて父の遺跡を買い求めさせた。通はひたすら臨模して売りに出し、数年で書は詢に次ぎ、父子は名声を等しくし、「大小欧陽体」と号された。褚遂良もまた書をもって自ら名乗ったが、かつて虞世南に問うて「わが書は智永と比べてどうか」と。答えて「彼は一字五万の値があると聞く。君はそれに及ぶか」と言うと、「詢と比べればどうか」と。曰く「詢は紙筆を選ばず、皆思い通りになると聞く。君はそれに及ぶか」。遂良が「ではどうすればよいか」と言うと、世南は「君もし手と筆が調和すれば、固より貴ぶべきである」と言った。遂良は大いに喜んだ。通は晩年自らを重んじ、狸毛を筆とし、兔毫で覆い、管はすべて象牙や犀角を用い、これでなければ書かなかった。
朱子奢
朱子奢は、蘇州呉の人で、郷人の顧彪に従って『左氏春秋』を授かり、文辞に優れていた。隋の大業年間、直秘書学士となった。天下が乱れると、病気を理由に郷里に帰った。後に杜伏威に従って朝廷に入り、国子助教に任ぜられた。
太宗貞観の初め、高麗・百済がともに新羅を伐ち、連年兵を解かず。新羅、急を告ぐ。帝、子奢に員外散騎侍郎を仮し、節を持ちて旨を諭し、三国の憾を平らげしむ。子奢、儀観あり、夷人これを尊畏す。二国、上書して罪を謝し、贈遺甚だ厚し。初め、子奢行かんとするに、帝戒めて曰く、「海夷は学を重んず、卿は大誼を講ぜよ、然れども其の幣に入るなかれ、還りて当に中書舎人を以て卿を処せん」と。子奢唯唯す。其の国に至り、『春秋』の題を発し、其の美女を納る。帝、旨に違えるを責むれど、猶其の才を愛し、散官を以て国子学に直し、累転して諫議大夫・弘文館学士となる。
初め、武徳の時、太廟の享は四室に止まる。高祖崩じ、将に主を廟に祔せんとす。帝、有司に詳議せしむ。子奢建言す、「漢の丞相韋玄成、五廟を立てんことを奏し、劉歆は七たるべしと議し、鄭玄は玄成を本とし、王粛は歆を宗とす。ここに於いて歴代の廟議一たらず。且つ天子七廟、諸侯五、降殺両を以てす、礼の正なり。若し天子と子・男同じからば、則ち間に容等無く、徳厚くして遊広く、徳薄くして遊狭きの義に非ず。臣、古に依りて七廟と為さんことを請う。若し親尽くば、則ち王業の基と為す所を以て太祖と為し、太祖の室を虚しくして無疆を俟ち、叠遷して乃ち之を処せん」と。ここに於いて尚書共に奏す、「『春秋』以来、天子七廟、諸侯五、大夫三、士二と言う。親親を推し、尊尊を顕わし、易うべからざるの法と為す。親廟六を建つることを請う」と。詔して可とす。乃ち弘農府君・高祖の神主を祔して六室と為す。帝崩ずるに及び、礼部尚書許敬宗議す、「弘農府君の廟は毀つべし。玄成の説を按ずるに、毀廟の主は当に瘞すべし。且つ四海常に宗享する所なり、挙げて之を瘞せば、神理の愜う所に非ず。晋の範宣、別廟を議して毀廟の主を奉ぜしむ。或いは言う、当に天府に蔵すべしと。天府は瑞異の舎る所なり。『礼』に祧を去るに壇有り墠有り。臣皆未だ安からず。唐家の宗廟、殿を共にし室を異にし、右を以て首と為す。若し遷主を奉じて右の夾室に納め、尊処を得ば、之を祈り之を祷ること未だ絶えざらん」と。詔有りて敬宗の議の如し。然れども七廟を言う者は、子奢に本づく。
帝嘗て詔して曰く、「起居の記録は臧否を録す。朕之を見て以て得失を知らんと欲す。如何」と。子奢曰く、「陛下の挙ぐる所過事無し。見ると雖も嫌うこと無からん。然れども此を以て後世の史官の禍を開かば、懼るべし。史官、身を全うして死を畏るれば、則ち悠悠たる千載、尚ほ聞くこと有らんや」と。
池陽令崔文康、事に坐す。櫟陽尉魏礼臣、劾して治む。獄成る。御史、其の枉えるを言う。礼臣、御史の阿党を訴え、有司に下して雑訊せしめ、言う如くならざれば死を請う。鞫して礼臣の実ならざるを報ず。詔して請の如くせんとす。子奢曰く、「律に在り、上書実ならざれば定罪有り。今死を以て抵す。死者は復た生くること能わず。自ら新たにせんと欲すと雖も得べからず。且つ天下、唯だ上書して罪を獲るを知り、自ら言わんと欲する者は、皆懼れて敢えて申さざらん」と。詔して可とす。
子奢、人と為り楽易にして、能く劇談し、経誼を以て縁飾す。毎に宴に侍すに、帝、群臣を論難せしむ。恩礼甚だ篤し。官に卒す。
張士衡
張士衡、瀛州楽寿の人。父は文慶、北斉の国子助教。士衡九歳、母の喪に居り、哀慕礼を過ぐ。博士劉軌思之を見て、為に泣下し、其の操を奇とし、文慶に謂いて曰く、「古は子を親しく教えず。吾君が為に之を成就せん」と。乃ち『詩』・『礼』を授く。又熊安生・劉焯等に従い経を受け、大義を貫知す。隋に仕えて余杭令と為り、老いて家に還る。
大業兵起こり、諸儒学を廃す。唐興り、士衡復た郷里に講教す。幽州都督燕王霊夔、礼を以て邀聘し、北面して之に事う。太子承乾、風を慕い迎え致し、太宗の洛陽宮に謁す。帝、食を賜い、朝散大夫・崇賢館学士に擢ぐ。
太子、士衡斉人なるを以て、高氏何を以て亡ぶやと問う。士衡曰く、「高阿那瑰の兇険、駱提婆の佞、韓長鸞の虐、皆奴隸の才、是を信じ是を使い、忠良は外に誅され、骨肉は内に離れ、黎元を剝喪す。故に周師郊に臨むに、人其の用たる莫く、此れ亡ぶ所以なり」と。復た問う、「仏に事えて福を営めば、其の応奈何」と。対えて曰く、「仏に事うるは清静仁恕に在り爾。貪婪驕虐の如きは、財を傾けて之に事うと雖も、禍に損する無し。且つ善悪必ず報い有り、影の形に赴くが如し。聖人之を言うこと備わりたり。君と為りて仁、臣と為りて忠、子と為りて孝なれば、則ち福祚永し。是に反すれば而ち殃禍至る」と。時に太子過失を以て聞こゆ。士衡是に因りて之を規るも、然れども用うる能わず。太子廃せられ、伝を給して罷め郷里に帰り、卒す。
士衡、『礼』を以て諸生を教う。当時顕るき者は、永平の賈公彦・趙の李玄植。
附 賈大隱
公彦終に太学博士、章句を撰次すること甚だ多し。子大隱、儀鳳中、太常博士と為る。会に太常仲春に太廟に瑞を告く。高宗礼官に問う、「何の世にして然るか」と。大隱対えて曰く、「古者は祭を以て首時とし、薦を以て仲月とす。近世元日に瑞を奏すれば、則ち二月廟に告ぐ。告ぐる者は必ず薦有り。始め其の時に得ざるに本づく」と。累遷して中書舎人となる。垂拱中、博士周悰、武氏の廟を七室と為し、唐廟を五と為し、下りて諸侯に比せんことを請う。大隱奏して言う、「秦・漢母后制を称す、古に戾り礼を越ゆる者未だ有らず。悰国廟の数を損じ、大義に悖る。以て訓とすべからず」と。武後已むを得ず、偽り之を聴く。時に皆大隱の沈正詭従せざるを服し、大臣の体有り。終に礼部侍郎。
附 李玄植
公彦業を玄植に伝う。玄植又『左氏春秋』を王徳韶に受け、『詩』を斉威に受け、百家の記書を該覧す。貞観間、弘文館直学士と為る。高宗の時、数たび召見せられ、方士・浮屠と講説す。玄植、帝の暗弱なるを以て、頗る其の短を箴切す。帝之を礼すれど、寤らず。事に坐して巴令に遷り、卒す。
張後胤
張後胤、字は嗣宗、蘇州昆山の人。祖父の僧紹は、梁の零陵太守。父の沖は、陳の國子博士、隋に入り漢王諒の并州博士となる。
後胤は弱冠にして、学行をもって家を継ぐ。高祖が太原に鎮するや、客として招き、経書を秦王に授けしむ。義寧の初め、齊王文學となり、新野縣公に封ぜらる。武德年中、員外散騎侍郎に抜擢され、邸宅一区を賜う。
太宗即位し、燕王諮議に進み、王に従い朝に入り、召見さる。初め、帝が太原に在りし時、嘗て問う、「隋の運命将に終らんとす、天下を得る者は何の姓ぞ。」答えて曰く、「公家の徳業、天下の心を繋ぐ、若し天に順いて動かば、河以北より、指撝して定む可し。然る後に関右に長駆し、帝業成る可し。」至是に至り自ら所言を陳ぶ。帝曰く、「是の事未だ嘗て之を忘れず。」乃ち燕月池を賜う。帝従容として曰く、「今日弟子は何如。」後胤曰く、「昔、孔子の門人三千、達する者も子男の位無し。臣が一人を翼賛し、乃ち天下に王たる、臣が功を計るに、先聖に過ぐ。」帝之が為に笑い、群臣に令して『春秋』を以て酬難せしむ。帝曰く、「朕昔君より大誼を受けしも、今尚之を記す。」後胤頓首して謝して曰く、「陛下は乃ち生知なり、臣天功を叨りて己が力と為す、罪なり。」帝大いに悦び、燕王府司馬に遷す。出でて睦州刺史となり、骸骨を乞う。帝其の強力なるを見て、何の官を欲するかと問う。因りて陳謝し敢へざるを陳ぶ。帝曰く、「朕卿に従ひて経を受け、卿朕に従ひて官を求む、何の疑ふ所かあらん。」後胤頓首し、願くは國子祭酒を得んとす。之を授く。散騎常侍に遷す。永徽年中致仕し、金紫光祿大夫を加へられ、朔望に朝し、禄賜防閣は旧の如し。卒す。年八十三。礼部尚書を贈られ、謚して康と曰う。昭陵に陪葬す。
後胤の孫 齊丘
孫の齊丘は、監察御史・朔方節度使を歴任し、終に東都留守に至り、謚して貞獻と曰う。子の鎰は、別に傳有り。
蓋文達
蓋文達は、冀州信都の人。広く前代の典籍に渉猟し、特に『春秋』三家に明るし。刺史竇抗、諸生を集めて講論す。是の時、劉焯・劉軌思・孔穎達並びに耆儒として門を開き業を授く。是日悉く至る。而して文達は経に依りて弁挙し、皆諸儒の意の未だ叩かざる所、一座厭嘆す。抗之を奇とし、問う、「何れの所よりか学ぶ。」焯曰く、「若人は岐嶷、天然より出づ。多を以て寡に問はば、則ち焯其の師と為らん。」抗曰く、「冰は水に生じて水より寒し、其れ此を謂ふか。」
武德年中、國子助教を授けられ、秦王文學館直學士と為る。貞観初め、諫議大夫・兼弘文館學士に抜擢され、蜀王師と為る。王罪有りて、文達官を免ぜらる。崇賢館學士を拝し、卒す。
文達の宗人 文懿
宗人の文懿も亦儒学を以て称せられ、当時「二蓋」と号す。高祖、秘書省に学を置きて以て王公子を教ふ。文懿は國子助教と為る。既に席に昇り、公卿更相質問す。文懿譬曉密微にして、遠近宗仰す。終に國子博士に至る。
谷那律
谷那律は、魏州昌樂の人。貞観年中、累遷して國子博士となる。群書に淹識し、褚遂良嘗て「『九経』庫」と称す。諫議大夫に遷し、兼弘文館學士。太宗に従ひ出獵し、雨に遇ひ沾漬す。因りて問うて曰く、「油衣は若何にして漏れ無からん。」那律曰く、「瓦を以て之を為せば、当に漏れざるべし。」帝其の直を悦び、帛二百段を賜う。卒す。
那律の孫 倚相
孫の倚相は、仕えて秘書省正字と為り、図書を讎覆し、多く刊定す。
倚相の子 崇義
子の崇義は、天寶の末に幽州の大將となり、雄敢として聞こえた。左金吾衛大將軍を歴任し、ついに薊門に客居した。
崇義の子は從政。
子を生んで從政と名づけ、儒學を少しばかり涉獵し、風操があった。李寶臣に仕え、定州刺史を歴任し、清江郡王に封ぜられた。寶臣及び張孝忠の妻は、その女兄弟である。
寶臣は初めは倚任したが、晩年には少しずつ疎んじ忌むようになり、從政はついに門を閉ざし交遊を謝して事を為さなかった。及んで惟嶽が節度を知るようになると、田悅と謀って天子の命に抗おうとした。從政は諫めて言うには、「上は神斷をもって諸侯を絀け、太平を致さんと欲しておられる。爾が亡き父は燕と切骨の恨みがあり、天子が討伐を致せば、帥を命ずるに燕に先んずる者はない。怨みを誅し仇を復するには、必ず力を尽くして後やむであろう。先日爾が亡き父は大將百餘人を誅したが、子弟の存する者は常に不平を抱き、危きに乗じて相覆さんとすれば、誰が爾の如くできようか。昔、魏に洺・相の圍みがあり、王師四方より集まり、身は零陵に投じ、天を仰いで涙を垂れ、出ずる所を知らなかった。爾が亡き父の保佑に頼り、兵を頓して進まず、而して先帝の寬厚により、辛うじて赦貸を得たのである。然らざれば、田氏に尚ほ種あらんや。今、悅は兇獪なり、承嗣と孰れか優る。爾はまた幼くして富貴にあり、戸庭を出でずして、便ち旅拒せんと欲するのか。且つ人心は知り難く、天道は欺き難し。軍中の諸將、危きに乗じて隙に投ずるは、古より豈に少なからんや。今、久安の計を図らんとすれば、爾の兄惟誠に留後を摂せしむるに若くはなく、爾は速やかに宿衛に入るべし。然らば福祿は保たれん。」と。聞き入れられなかった。從政は門を塞ぎ病と称して出ず、惟嶽の信ずる所の王他奴らはその怨望を疑い、日々これを伺った。從政は懼れ、乃ち血を吐き、直ちに薬を仰いで、五日にして死んだ。曰く、「吾は死を恨まず、而れども渠が宗を覆すを痛む。」後に惟嶽は王武俊に殺され、その揣摩の如くであった。
蕭德言
蕭德言、字は文行、陳の吏部郎蕭引の子なり。系は蘭陵に出づ。『左氏春秋』に明るし。冠に甫だ及ばず、國子生として嶽陽王の賓客となる。陳滅び、關中に徙る。浮屠の服を詭りて江南に亡歸し、州縣より部送されて京師に至る。仁壽中、校書郎を授かる。貞觀の時、著作郎・弘文館學士を歴任す。
太宗は前世の得失を知らんと欲し、詔して魏征・虞世南・褚亮及び德言に經史百氏の帝王の興衰する所以を裒次して上進せしむ。帝はその書の博にして要を得たるを愛し、曰く、「我をして古を稽へ事に臨みて惑はざらしむるは、公等の力なり。」賚賜特に渥し。
德言は晚節學愈よ苦しく、經を開く毎に、輒ち祓濯し帶を束ねて危坐す。妻子諫めて曰く、「老人何ぞ終日自ら苦しむ。」答えて曰く、「先聖の言に対す、何ぞ復た勞を憚らん。」詔して經を以て晉王に授けしむ。時に許叔牙侍讀たり、同しく勸講す。王太子となるや、德言は又た侍讀を兼ね、而して叔牙も亦た弘文館學士を兼ぬ。德言致仕を請う、太宗許さず、詔を下して敦勉す。武陽縣侯に封ぜられ、秘書少監に進み、久しくして乃ち謝を得たり。
高宗立つ、銀青光祿大夫を拜し、その祿を全く給し、通事舍人を遣わして即ち家に致問せしむ。乘輿肅章門に至り引見し、禮遇隆重なり。これにより晉府及び東宮の舊臣子孫、並びに秩を增し金を賜う。卒す、年九十七、太常卿を贈られ、謚して博と曰う。
附 許叔牙
叔牙、字は延基、句容の人。貞觀の時、晉王府參軍事・弘文館直學士に遷る。『詩』・『禮』に於いて特に邃く、『詩纂義』十篇を獻じ、太子寫して司經に付す。御史大夫高智周これを見て曰く、「『詩』を明らかにせんと欲する者は、宜しく先ず此を讀むべし。」
叔牙の子は子儒。
乾封の初め、帝既に封禪し、復た詔して感帝・神州を祀り、正月を以て北郊を祭らしむ。司禮少常伯郝處俊ら奏言して曰く、「顯慶に禮を定め、感帝の祀を廢して穀を昊天に祈り、高祖を以て配す。舊く感帝・神州を祀るに、元皇帝を以て配す。今、祈谷を改めて感帝を祀ると為し、又た神州を祀り、還た高祖を以て配す。何ぞ升降紛紛たるや。虞氏は黃帝を禘し、嚳を郊す。夏は黃帝を禘し、鯀を郊す。殷は嚳を禘し、冥を郊す。周は嚳を禘し、稷を郊す。玄は謂う、禘は天を圓丘に祭るなり。郊は上帝を南郊に祭るなり。崔靈恩説く、夏正に天を郊す。王者各其の出づる帝を祭る。所謂『王者其の祖の自ら出づる所を禘し、其の祖を以て之に配す』なり。則ち禘は遠祖、郊は始祖なり。今、禘・郊同じ祖と為す。禮歸する所無し。神州は本十月を祭る。方陰の事を用うるを以てなり。玄説く、三王の郊は一に夏正を用う。靈恩謂う、神州北郊を祭るに正月を以てす。諸儒の言う所、猥りに互ひて明らかならず。臣願わくは奉常・司成・博士を會して普く議せん。」ここにおいて、子儒は博士陸遵楷・張統師・權無二等と共に白して曰く、「北郊の月は經に見えず。漢光武正月に北郊を建つ。鹹和中に議す、北郊は正月を以てす。武德以来十月を用う。請う武德の詔書に循わん。」明年、詔して圓方二丘・明堂・感帝・神州は宜しく高祖・太宗を奉じて配し、仍た昊天上帝及び五天帝を明堂に祭らしむ。
子儒は長壽中、天官侍郎・弘文館學士を歴任し、潁川縣男に封ぜられる。選事を令史句直に委ね、日偃臥して筆を下さず、時人語りて曰く「句直平配」。既にして補授失序し、口實と為って傳わる。德言の曾孫至忠は、自ら傳有り。
敬播
敬播は蒲州河東の人である。貞観の初め、進士に及第した。時に顔師古・孔穎達が『隋史』を撰次していたが、詔により播は秘書内省に赴き参纂した。再び著作佐郎に遷り、国史の修撰を兼ねた。太宗に従って高麗を伐ち、帝が戦った山を駐蹕と名付けたが、播は人に謂って曰く、「鑾輿は再び東せず、山の名づくる所以は、蓋し天意なり」と。その後果たしてその通りとなった。太子司議郎に遷る。時に初めてこの官を置き、特に清要で近侍の職であった。中書令馬周は嘆じて曰く、「恨むらくは資品が妄りに高く、この職を歴任し得ざることなり」と。また令狐徳棻らと『晋書』を撰し、凡そ凡例は皆播の発したところであった。
有司が建言して曰く、「謀反大逆の罪は、父子のみが連坐して死に、兄弟には及ばず。請う、更に議せん」と。詔して群臣に大議させた。播は曰く、「兄弟は孔懐の重き有りと雖も、然れども父子に比すれば則ち軽し。故に生には異室有り、死には別宗有り。今、高官重爵の本蔭は、唯だ子孫に逮ぶのみにして、昆季には及ばず。何ぞ栄は其の蔭を隔てて、罪は其の罰を均しくせんや」と。詔して播の議に従った。
房玄齢は嘗て播を称して、「陳寿の流か」と。玄齢は顔師古の註した『漢書』の文が繁雑なのを患い、其の要を掇って四十篇とせしめた。この時『漢書』学が大いに興り、其の章章たる者は劉伯荘・秦景通兄弟・劉訥言の如き、皆名家であった。
附 劉伯荘
伯荘は彭城の人、弘文館学士となり、国子博士に遷り、許敬宗らと論撰甚だ多く、終に崇賢館学士に至った。自ら著した書もまた百余篇有り。
伯荘の子 之宏
子の之宏は其の学を世襲した。武后の時、著作郎を以て国史の修撰を兼ね、終に相王府司馬に至った。睿宗が立つと、秘書監を贈られた。
附 秦景通
景通は晉陵の人。弟の暐と共に名有り、皆『漢書』に精しく、「大秦君」「小秦君」と号された。当時『漢書』を治むる者は、其の授ける所に非ざれば、法無しと為したという。景通は太子洗馬に仕え、崇賢館学士を兼ねて至った。暐は後に復た其の官及び職を践んだ。
附 劉訥言
訥言は乾封年中に都水監主簿を歴任し、『漢書』を以て沛王に授けた。王が太子となると、訥言を洗馬兼侍読に抜擢した。嘗て俳諧十五篇を集めて、太子の歓を求めた。太子が廃されると、高宗之を見て怒り、名を除いて民と為した。復た事に坐して流罪に処せられ、振州にて死した。
羅道琮
羅道琮は蒲州虞郷の人。慷慨として節義を尚んだ。貞観末、上書して旨に忤い、嶺表に徙された。同じく斥けられた者が荊・襄の間にて死し、臨終に泣いて曰く、「人生に死有り、独り骨を異壌に委するか」と。道琮曰く、「吾若し還らば、終に君をして独り此に留まらしめじ」と。路左に瘞めて去った。歳余りして、赦に遇って帰る。時に丁度霖潦にて積水し、其の殯処を失った。道琮は野に慟哭す。波中に忽ち湓沸するが如き者有り。道琮曰く、「若し屍在らば、再び沸く可し」と。祝し終わりて、水復た湧き、乃ち屍を得て、之を背負って郷里に還った。尋いで明経に擢げられ、太学博士に仕えて至り、時の名儒と為った。