新唐書

巻一百九十七 列傳第一百二十二 循吏 韋仁壽 陳君賓 張允濟附:李桐客 李素立 孫至遠子:畬 薛大鼎子:克構 賈敦頤附:楊德幹 田仁會子:歸道 孫:賓庭 裴懷古 韋景駿 李惠登 羅向子:讓 韋丹子:宙 岫 盧弘宣子:告 薛元賞 何易于

天下を治めるのは君主である。治められることを求めるのは民である。君主の治めを推し及ぼして民を助けるのは吏である。故に吏が良ければ法は平らに政は成り、不良であれば王道は弛んで敗れる。堯・舜の時に曰く「九徳咸事(九徳を備えた者が皆事に当たる)」であり、「百工惟時(百官が皆時に適う)」である。周の文王・武王の時に曰く「《棫樸》は能く官人(人を官に任じる)なり」であり、「《南山有臺》は賢を得るを楽むなり」である。これが循吏の効験である。堯・舜は五帝の盛んな帝であり、文・武は三王の顕著な王である。これなくして治めることができなかった。後世においてどうしてできようか。

唐が興り、隋の乱離を承け、荒廃を祓い、初めて州刺史・県令を選んで任用した。太宗は嘗て曰く、「朕は天下の事を思い、丙夜(夜更け)に枕を安んぜず、常に人を治める根本を思うに、刺史より重きは莫し。故に姓名を屏風に録し、臥し興いてこれに対し、才の有無の状を得ては、直ちにその下に疏し、以て廃置を擬す」と。又詔して内外の官五品以上に県令に任ずべき者を挙げしむ。ここに於いて官はその人を得、民は嘆愁を去り妥安に就く。都督ととく・刺史はその職として州県を察し、時に使者を遣わして天下を循行せしめ、不職を劾挙せしむ。初め、都督・刺史は皆天子が臨軒して冊授す。後に復た冊授せず、然れども猶命を受くる日に便殿に対し、衣物を賜わりて乃ち遣わす。玄宗の開元の時、已に辞し、仍って側門に詣で進止を候う。これをもって守臣を光寵し、以てその功を責むる所以なり。初め、刺史は京官に準じて魚袋を佩くことを得、品卑しき者は緋・魚を仮す。開元の中、又酷吏を錮廃し、無良を懲らしめ、群臣これに化され、苛嬈の風を革め、争って恵利を以て顕わる。復た詔す、三省侍郎に欠あれば、嘗て刺史を任じた者を択び、郎官に欠あれば、嘗て県令を任じた者を択べ、と。宰相名臣に至るまで、孜孜として長人(民の長)は軽く授け急に易うべからざるを言わざるは莫し。ここを以て授受の間、皆善しとすること能わざるも、得るところ十に五なり。故に葉気嘉生し、薰じて太平となり、祀を垂れること三百、漢と相埒す。これを致すの術、循吏を謂わずして何ぞや。故に治宜を条次し、以てその庸を著わす。若し将相大臣兼ねて勲閥を以て著わる者は、名は本篇に見え、茲に列せず。

韋仁壽

韋仁壽は、京兆万年の人なり。隋の大業末、しょく郡司法書佐となり、獄を断ずるに平らにして、罪を得る者皆自ら韋君の論ずる所とし、死すとも恨み無し。高祖こうそ関に入り、使者を遣わして蜀を徇定せしむ。制を承けて仁壽を巂州都督府長史に擢ぐ。南寧州款を納る。朝廷歳毎に使を遣わして撫接す。至るに率いて貪沓にして、辺人これを苦しみ、多く叛き去る。帝素より仁壽の治理を聞き、詔して南寧州都督を検校せしめ、治を越巂に寄せ、詔して歳一たび按行し尉労せしむ。仁壽兵五百人を将い、西洱河に循い、地を開くこと数千里、詔を称して七州十五県を置く。酋豪皆来り賓見し、即ち牧宰を授く。威令簡厳にして、人々安悅す。将に還らんとす。酋長泣きて曰く、「天子公に藉りて鎮撫せしむ。奈何ぞ我を去らんと欲するや」と。仁壽池壁未だ立たざるを以て解す。諸酋即ち相率いて城を築き廨を起す。ほぼ旬にして略く具わる。仁壽乃ち実を以て告げて曰く、「吾詔を奉じて第に撫循するのみ。庸ぞ敢えて擅に留まらんや」と。夷夏の父老乃ち悲啼して祖行し、子弟を遣わして方物を貢ぐに随わしむ。天子大いに悅ぶ。仁壽徙めて南寧州に治めんことを請う。兵を仮りて遂に撫定せんとす。詔して可とし、勅して益州に兵を給して護送せしむ。刺史竇軌その功を疾み、訹言して山獠方に叛く、未だ遠略を以てすべからずと。時に遣わさず。歳余りして卒す。

陳君賓

陳君賓は、陳の鄱陽王伯山の子なり。隋に仕えて襄国通守となる。武徳初、郡を挈げて命を聴き、東陽郡公に封ぜられ、邢州刺史に遷る。貞観初、鄧州に徙む。州喪乱を承けた後、百姓流冗す。君賓意を加えて労徠す。期月せずして、皆自業に還る。明年、四方霜潦す。独り君賓の治むる所に年有り。儲倉充羨し、蒲・虞二州の民その境に就食す。太宗詔を下してこれを労して曰く、「去年関内六州穀登らず、糇糧少なく、民を析きて房を逐い食わしむ。聞くに刺史と百姓朕が此の懷を識り、務めて相安養し、還りて贏糧有り、布帛を出して行者に贈遺すと。此れ水旱の常數を知り、更に相拯贍し、禮譲興行し、海内の人皆兄弟と為り、澆薄の風を変ず。朕顧みて何をか憂えん。已に有司に命じ、刺史以下の功最を録せしむ。百姓養戸は、今年の調物を免ず」と。是歳、入りて太府少卿となり、転じて少府少監、事に坐して免ぜらる。起きて虔州刺史となり、卒す。

張允済

張允済は、青州北海の人なり。隋に仕えて武陽令となり、愛利を以て行いと為す。元武の民、牸牛を以て婦家に依る者有り。久しくして孳むこと十余犢。将に帰らんとす。而して婦家牛を与えず。民県に訴う。県決すること能わず。乃ち允済に詣る。允済曰く、「若し自ら令有らば、吾何をか与って為さん」と。民泣きてその抑えらるるを訴う。允済因って左右に命じて民を縛し、その首を蒙り、婦家を過ぎ、盗牛者を捕うと云う。命じて民家の牛を尽く出ださしめ、来たる所を質す。婦家知らず、遽かに曰く、「此れ婿家の牛なり。我関与せず」と。即ち左右に命じて蒙を撤かしめ、曰く、「此の牛を以て婿家に還すべし」と。婦家叩頭して罪に服す。元武の吏大いに慚ず。允済道旁を過ぐ。姥有りて廬を守りて蒔く所の蔥有り。因って教えて曰く、「第に舎に還れ。もし盗有らば、当に令に告げん」と。姥謝して帰る。俄かに大いに蔥を亡う。允済十里内の男女を召し尽くして至らしめ、物色してこれを験す。果たして盗者を得たり。行人有りて夜発ち、袍を道中に遺す。十余里を行きて乃ち寤る。人曰く、「吾が境未だ嘗て遺を拾わず。還りてこれを取るべし」と。既にして袍を得たり。政を挙ぐるに尤も異なり。高陽郡丞に遷る。郡太守を缺く。独り郡事を統ぶ。吏下畏悅す。賊帥王須抜郡を攻む。ここに於いて糧屈す。吏槐葉槁節を食うも、叛く者無し。貞観初、累遷して刑部侍郎となり、武城県男に封ぜられ、幽州刺史に擢げられ、卒す。

附 李桐客

時に又李桐客有り。亦た治を以て称せらる。初め隋に仕え、門下録事と為る。煬帝江都に在り、四方日を追って乱るるを以て、謀りて都を丹楊に徙めんとし、群臣を召して議す。左右意を希い、以て江左且つ幸を望む、若し巡狩して石に勒して功を紀し、禹の旧跡を復せば、顧みて其れ然らざらんやと為す。桐客独り曰く、「呉会は卑湿にして狭く、万乗を奉じ三軍を給するに足らず。呉人力屈し、命に堪うる無し。且つ険阻を逾越するは、社稷の福に非ず」と。御史劾して訹毀を以てす。ほとんど罪を得て免ぜらる。宇文化及に脅かされ、将に黎陽に至らんとす。又竇建徳に陷る。賊平ぐ。秦王府法曹参そうしん軍を授く。貞観初、累ねて通・巴二州刺史と為り、治め清平を尚び、民慈父と呼ぶ。桐客は、冀州衡水の人なり。

李素立

李素立は、趙州高邑の人なり。曾祖義深、北斉に仕えて梁州刺史と為る。父政藻、隋の水部郎と為り、淮南に使いし、盗に死す。素立武徳初に仕え、監察御史に擢げらる。民法を犯すも死に及ばず。高祖之を殺さんと欲す。素立諫めて曰く、「三尺の法は、天下の共有する所、一たび動揺せば、則ち人手足を措く所無し。方に大業経始せんとす。奈何ぞ輦轂の下先ず刑書を棄てんや」と。帝嘉納し、ここに由りて恩顧特異なり。親喪を以て官を解く。起きて七品清要を授けらる。有司雍州司戸参軍を擬す。帝曰く、「要なれども清からず」と。復た秘書郎を擬す。帝曰く、「清なれども要ならず」と。乃ち侍御史を授く。貞観中、転じて揚州大都督府司馬と為る。

初め、突厥の鉄勒部が内附すると、その地に瀚海都護府を置き、詔して素立にこれを統領せしむ。ここにおいて、闕泥熟別部が数度辺境を梗みしが、素立は兵を用いるに足らずとして、使いを遣わして降伏を諭し、夷人はその恩恵に感じ、馬牛を率いて献上す。素立は酒一杯を受けるのみに止め、残りを返す。乃ち屯田を開き、署次を立てしめ、虜は益々その威を畏る。太僕・鴻臚卿を歴任し、累ねて高邑県侯に封ぜらる。出でて綿州刺史となる。永徽初年、蒲州に転じ、行かんとするに当たり、州に残せる儲蓄及び什器を全て返し、家書を携えて道に就く。卒去に遭う。高宗は特に朝を一日廃し、謚して平と曰う。

孫至遠

孫至遠、初めは名を鵬と曰う。素立がちょうど使を奉じし時、家人に謂いて曰く、「古に事を待ちて子に名づくるあり。吾がこの役は以て子孫に命ずべし」と。遂にこれを以て名とす。少より秀晤にして、よく『尚書』・『左氏春秋』を治め、未だ杜預の『釈例』を見ざるに『編記』を作り、大趣略ねて同じ。また『周書』を撰し、後稷より赧王に至るまで、伝紀と為す。令狐徳棻その良史を許す。初め蒲州参軍に調じ、累ねて乾封尉を補す。上元の時、制策に高第し、明堂主簿を授かる。喪に因り解く。既に除服し、鴻臚主簿に調ず。戎狄の簿領を奏上し、高宗悦び、監察御史裏行に擢でる。貴幸に忤い、外遷し、久しくして乃ち司勲・吏部員外郎中を歴任す。天官侍郎に遷り、選事を知る。令史の賄謝を受くるを疾み、多くこれを絀易し、吏は肅然として手を斂む。王忠なる者あり、放たるるも、吏誤ってその姓を「士」と書き、擬定し終えて成さんと欲す。至遠曰く、「調者三万、士姓無し。これ必ず王忠なり」と。吏叩頭して服罪す。至遠の選を知るは、内史李昭德の推挙による。人或いはその往きて謝すを勧むるも、答えて曰く、「公は公を以て我を用う。奈何ぞ私を以て謝せんと欲するや」と。遂に詣らず。故に昭德これを銜み、出でて壁州刺史と為す。卒す。年四十八。

至遠の父休烈もまた文あり、終に郪令に至り、年四十九。世その父子の材の尽きざるを嘆ず。至遠は桓彦範を見て、力を尽くしてその賢を言う。盧従願は尚お少く、高く評目す。弟の従遠が且つ貴なるを許し、その位を言し、以て至る所を験す。蘇頲はその出なり、少にして母を失う。至遠愛視して甚だ謹み、女を以てこれに妻せしむ。兄弟に友にし、寡姊に事うるに礼あり、世その徳を称す。

従遠は清密にして学あり。神龍初年、中書令・太府卿を歴任し、累ねて趙郡公に封ぜられ、謚して懿と曰う。兄弟皆徳望相埒り。また従父遊道、武后の時に冬官尚書・同鳳閣鸞臺三品。

至遠の子 畬

至遠の子畬、字は玉田、少より聰警なり。初め汜水主簿を歴任し、事に遇うや蜂の如く鋭く、厮豎といえども、一たび閲すれば輒ち姓名・居業を記す。黜陟使路敬潛その清白を薦め、右臺監察御史裏行に擢でる。臺廃せられ、監察御史を授かり、累ねて転じて国子司業となる。母に事うるに謹み、累世同居し、長幼礼あり。畬の妻物故す。時に母病み、悲傷せんことを恐れ、家人に約して哭するを以て母の所に聞かしめず、朝夕省侍して憂色無し。母終わり、毀えて卒す。

従遠の子巖、年十余歳、中宗明堂を祀るに会し、近臣の子弟を以て籩豆を執らしむ。巖進止礼に中り、右宗衛兵曹参軍を授かる。洛陽らくよう尉を歴任し、累ねて遷り兵部郎中となる。扶風の兵を発して姚・巂に応じ、旨に称し、諫議大夫に遷り、贊皇県伯に封ぜらる。終に兵部侍郎に至る。巖は草隸を善くす。参軍の時一裘を製し、服して終身す。

薛大鼎

薛大鼎、字は重臣、蒲州汾陰の人。父粹、隋の介州長史となり、漢王諒と同反し、誅せらる。大鼎は官奴に貰われ、辰州に流され、戦功を用いて還るを得る。高祖兵を興すや、龍門に謁見し、因りて帝に説きて龍門を絶ち、軍を永豊倉に就きて食わしめ、檄を遠近に伝え、天府を拠り、豪桀に示し、拠背扼喉の計と為すべしと。帝これを奇とす。時に諸将已に河東を先攻するを決策せり、故に議は置かる。大将軍府察非掾を授かる。出でて山南道副大使となり、屯田を開きて倉廩を実す。趙郡王孝恭、輔公祏を討つに、大鼎を以て饒州道軍師と為し、兵を引きて彭蠡湖を度り、功により浩州刺史に遷る。累ねて徙り滄州となる。無棣渠久しく廞塞す。大鼎これを浚治して海に属せしめ、商賈流行す。裏民歌いて曰く、「新溝通ずれば、舟楫利し。滄海に属すれば、魚鹽至る。昔は徒行し、今は騁駟す。美なるかな薛公の徳滂被せり」と。また長蘆・漳・衡の三渠を疏き、汚潦を泄らし、水害と為さず。是の時、鄭徳本は瀛州に在り、賈敦頤は冀州と為り、皆治名有り。故に河北「鐺脚刺史」と称す。永徽中、銀青光禄大夫に遷り、行って荊州大都督長史となる。卒す。謚して恭と曰う。

大鼎の子 克構

子克構、器識有り。永隆初年、戸部郎中を歴任す。族人黄門侍郎顗、弟紹が太平公主に尚するに因り、克構に問う。答えて曰く、「室に傲婦有れば、善士の悪む所なり。夫れ淑徳を惟り、以て君子に配すれば、患無かるべし」と。顗敢えて沮まず。而して紹遂に誅せらる。陳思忠父の喪に居る。詔して服を奪う。客往きて弔う。思忠辰日を以て見えずと辞す。克構曰く、「親に事うる者は、嫌を避くる可し。既に孤と為れば、則ち哭かざる無し」と。世その言を服す。天授中、麟臺監に遷る。弟が酷吏に陥れらるるに坐し、流されて嶺南に死す。

賈敦頤

賈敦頤、曹州冤句の人。貞観の時、数州刺史を歴任し、資性廉潔なり。朝に入るや、常に尽く室を行し、車一乗、弊甚だしく、羸馬に繩羈し、道上その刺史たるを知らず。久しくして、洛州司馬と為り、公事に累いて獄に下る。太宗これを貰わんとす。有司執って貰わず。帝曰く、「人孰くか過ち無からん。吾は甚だしき者を去るのみ。若し悉く法を以て縄せば、子と雖も父に得ず、況んや臣の其の君に事えんや」と。遂に原せらる。瀛州刺史に徙る。州は滹沱・滱の二水に瀕し、歳毎に湓溢し、室廬を壊し、数百里に浸洳す。敦頤堰庸を立てしめ、水暴く能わず、百姓これに利す。時に弟敦実は饒陽令と為り、政清静にして、吏民嘉美す。旧制、大功の嫌は官を連ねず。朝廷その兄弟の治行相高きを以て、故に徙めずして以て寵を示す。永徽中、洛州に遷る。洛は豪右多く、田を占むる類い制を逾ゆ。敦頤これを挙げて没する者三千余頃、以て貧民に賦し、奸を発し伏を擿ち、下能く欺く無し。官に卒す。

附 楊德幹

咸亨の初め、敦実は洛州長史となり、これまた寛大で慈恵があり、人心は慕い向かった。洛陽令の楊徳幹は残酷苛烈を誇り、杖殺人をもって威を立てようとしたが、敦実は諭して止めさせ、「政治は人を養うにあり、生を傷つけること過多なれば、たとえ能あれども、貴ぶに足らぬ」と言った。徳幹はこれにより衰減した。初め、洛陽の人々は敦頤のために大市の傍らに碑を刻んだが、敦実が入朝して太子右庶子となると、人々はまたその側に碑を立てたので、故に「常棣碑」と号した。懐州刺史を歴任し、美しい事跡があった。永淳の初めに致仕し、病篤く、子孫が医者を迎えたが、敦実は会おうとせず、「未だ良医の老いを治め得ると聞かず」と言った。卒す。年九十余。子の膺福は左散騎常侍さんきじょうじ・昭文館学士となり、竇懐貞の党として誅殺された。

徳幹は沢・斉・汴・相の四州刺史を歴任し、威厳があり、急語に曰く、「寧ろ三斗の炭を食らえども、楊徳幹に逢わじ」と。天授の初め、子の神譲が徐敬業とともに起兵し、皆誅殺に及んだ。

田仁会

田仁会は、雍州長安ちょうあんの人である。祖父の軌は、隋の幽州刺史となり、信都郡公に封ぜられた。父の弘は封を襲ぎ、陵州刺史に至った。仁会は制挙に擢でられ、累任して左武候中郎将となった。太宗が遼東を征したとき、薛延陀が数万騎をもって河内を掩った。詔により仁会は執失思力とともに兵を率いてこれを撃破し、数百里にわたって追撃し、延陀を生け捕りにせんとした。璽書をもって嘉賞慰労された。永徽年中、平州刺史となり、旱魃の年には自ら身を曝して祈り、大雨が至り、穀物はみのった。人々は歌って曰く、「父母我を育む兮田使君、精誠を挺て兮上天に聞こゆ、中田雨を致す兮山雲を出だし、倉廩実る兮礼義申さる、願わくは君常に在らん兮貧しきを患えじ」と。五転して勝州都督となり、管内に夙賊あり、山に依って行人を剽掠した。仁会は騎兵を発して捕らえ討ち、これを平定した。城門は夜も開かれ、道に寇賊の跡無し。入朝して太府少卿となり、右金吾将軍に遷った。得たる俸禄に余剰あれば、すなわち官に納め、人はこれを名を尚ぶと為した。しかし資質は強直で悪を疾み、昼夜巡行し、毫髪の奸もあれば必ず発し、廷中の譴罰は日に数百に及び、京師の貴賤を問わず皆これを憚った。巫が鬼道を伝えて衆を惑わし、自ら死人を生かすことができると言い、市里で神と崇められたが、仁会は弾劾して辺境に流した。右衛将軍に転じ、年老いを以て骸骨を乞うた。卒す。年七十八。諡して威という。

仁会の子 帰道

子の帰道は、明経に及第し、累進して通事舎人内供奉・左衛郎将となった。突厥の默啜が和を請うた。武后は将軍閻知微に詔して可汗号を冊立させ、節を持って往かせた。默啜はまた使者を遣わして謝し、知微は途中でこれに遇い、すなわち緋袍銀帯を与え、使者が到着したと表して、礼を備えて朝廷で賜うよう請うた。帰道は諫めて曰く、「虜は恩恵に背きて既に積年、今悔い改めて入朝するに、辮を解き衽を削るは宜しく天旨を待つべし。然るに知微は擅に賜い、朝廷をして何を以てこれに加えしむるや?初服を正すよう勅し、須らく天子の命を待つべし。小国の使者、礼を備えて迎えるに足らず」と。后はこれに従った。默啜が単于都護府に至らんとしたとき、詔して帰道に司賓卿を摂行させて労いに行かせた。默啜は六胡州及び都護府の地を請うて得ず、大いに怨望し、帰道を捕らえて害せんとした。帰道は色を撓めず、罵りかつ責め、禍福を陳べたので、默啜もまた悔いた。時に詔有りて默啜に粟三万石、彩五万段、農器三千を賜い、かつ結婚を許すとあって、ここに更に礼をもって帰道を遣わした。既に還り、詳らかに默啜の臣たらずの状を陳べ、辺備を請うた。已にして果たして反した。ここに帰道を擢てて夏官侍郎とし、益々親信した。

左金吾将軍・司膳卿に遷り、千騎を押して玄武門を宿衛した。桓彦範らが二張を誅するに及び、帰道は予め聞かず、騎士を索められても応じなかった。事平らぎ、彦範はこれを誅せんとしたが、言葉が直なるを以て、免じられ、私第に還った。しかし中宗はその操守を壮とし、召して太僕少卿に拝し、殿中少監・右金吾将軍に遷った。卒す。輔国大将軍を贈られ、原国公を追封され、諡して烈という。帝自ら文を作りて祭った。

帰道の子 賓庭

子の賓庭は、開元の時に至り光禄卿となった。

裴懐古

裴懐古は、寿州寿春の人である。儀鳳年中、闕下に上書し、下邽主簿に補せられ、頻りに遷って監察御史となった。姚・巂道の蛮が反し、命により懐古は馳駅して往きこれを懐柔安輯し、誅賞を明らかにしたので、帰順する者は日に千計となった。俄かに首悪を縛し、遂に南方を平定し、蛮夏は石を立てて功を著した。恒州の浮屠がその徒より祝詛不道と誣告され、武后怒り、命じて按問誅殺せしめようとした。懐古はその冤罪を得、后に申し訴えたが、聴かず。因りて曰く、「陛下の法は天下と画一なるを、豈臣をして無辜を殺して盛旨を希わしめんや?仮令その人に不臣の状あらば、臣何の情を以てかこれを寬げん?」后の意解け、誅を免れた。

閻知微が突厥に使するとき、懐古はその軍を監した。默啜は知微を脅して可汗と称せしめ、また懐古に官を与えようとしたが、拝せず、殺さんとした。辞して曰く、「忠を守りて死するは、節を毀りて生くると、孰れか与にせん?請う、斬に就き、避けざらん」と。遂に軍中に囚われ、因って逃亡するを得た。しかし元来病弱で、騎乗できず、山谷の間に宛転し、辛うじてへい州に達した。時に長史武重規が暴虐をほしいままにし、左右が妄りに人を殺して賞を取ろうとし、懐古の到るを見て争ってこれを捕らえようとした。ある果毅が嘗て懐古を識っており、疾呼して曰く、「裴御史なり」と。遂に免れた。祠部員外郎に遷った。

姚・巂の酋長らが闕下に叩頭し、懐古を得て遠夷を鎮安せんことを願い、姚州都督に拝ぜられたが、病を以て辞した。始安の賊欧陽倩が衆数万を擁し、州県を剽掠し、懐古を桂州都督招尉討撃使とした。未だ嶺を逾えざるに、先んじて書を以て禍福を諭したので、賊は迎えて降り、自ら陳べて吏の侵掠によりて反したと。懐古はその誠意を知り、疑わざるを示せば、その謀を破るべしと為し、軽騎をもって赴いた。ある者曰く、「獠夷は親しみ難く、備えたり尚且つ信ぜず、況んやこれを易くするをや!」答えて曰く、「忠信は神明に通ず、況んや裔人をや!」と。身をもってその陣営に至り撫諭したので、倩ら大いに喜び、掠めたる所のもの全てを帰して出降し、諸洞で平素より翻覆する者もまた、牽連して根拠を附し、嶺外平らぐ。

相州刺史・并州大都督長史に転じ、至る所で吏民に懐かれ愛された。神龍年中、召されて左羽林大将軍となったが、未だ官に至らず、并州に還された。人がその還るを知り、老幼を携え扶けて出迎えた。崔宣道が初めて代わって長史となり、また野次していた。懐古は厚く宣道を愧じ入らせたくなく、人をやって迎える者を還らせたが、来る者は愈々衆く、人心を得ること此の如しであった。俄かに幽州都督に転じ、両蕃を綏懐し、その部落を挙げて内属せんとしたが、時に左威衛大将軍に召されるに会い、孫佺がこれに代わった。佺は兵を知らず、遂にその軍を敗った。官に卒す。

懐古は清介で審慎であり、幽州に在った時、韓琬が監察御史として軍を監し、その「士を馭するに信あり、財に臨むに廉なり、国の名将なり」と称えた。

韋景駿

韋景駿は、司農少卿韋弘機の孫である。明経科に及第した。神龍年間(705-707年)、肥郷県令を歴任した。県の北は漳水に臨み、連年氾濫し、人々はこれを苦しんだ。旧堤防は漕渠に迫り、岸は険しいが、すぐに崩壊決壊した。景駿は地勢を観察し、南へ千歩余り進み、高所に堤防を築いた。水が堤の根元に至るとすぐに去り、その北側は乾燥して肥沃な田地となった。また船を繫いでその上に橋とし、長橋を廃止した。工事は少なく費用は倹約であり、後世これが法式となった。ちょうど河北が飢饉の時、自ら里を巡り、人々に有無を通じるよう勧め、教え導き慰撫したので、県民だけは流散を免れた。去任する時、人々は石碑を立ててその功績を記した。後に貴郷県令となった。母と子が互いに訴え出た者があった。景駿は言った、「私は幼くして天に背かれ、常に自ら痛んでいた。お前たちは幸いにも親がいるのに、孝行を忘れるのか。教えが信じられないのは、令の罪である」。そして嗚咽して涙を流し、『孝経』を授けて、その大義を習わせた。そこで母子は感奮して悟り、自ら新たにすることを請い、遂に孝子となった。当時、治績で有名な者は、景駿と清漳県令馮元淑、臨洺県令楊茂謙の三人であった。

景駿は数年後、趙州長史となり、道中肥郷を通った。民は喜び、争って酒食を捧げて迎え労い、小児もその中にいた。景駿は言った、「お前たちがまだ生まれない頃に、私はこの邑を去った。旧恩があるわけではないのに、どうして来たのか」。答えて言った、「長老が私に言うには、学舎・館舎・橋・堤防は皆、公が治めたもので、公は古人だと思っていました。今、幸いにも親しくお目にかかることができたので、参ったのです」。景駿はそのために一日中留まった。後に房州刺史に遷った。州は僻遠で険しく、蛮夷の風俗があり、学校がなく、淫祠の鬼神を祀ることを好んだ。景駿は諸生を貢挙させ、隘路を通じさせ、駅舎を作り、祠で名のないものを廃止した。景駿が民を治めるには、民に便利な方法を求めることが多く、このような類いであった。奉天県令に転じたが、赴任せずに卒去した。

茂謙は制挙に抜擢され、左拾遺内供奉を授かり、官吏として廉潔で勤勉であり、秘書郎を歴任した。初め竇懷貞はその才能を大いに重んじ、執政となると、彼を推薦して大理正・左臺御史中丞とした。開元初年、出向して魏州刺史・河北道按察使となった。司馬張懷玉とは同郷で、長く親しくしていたが、晩年に不和となり、互いに短所をあげつらったため、左遷されて桂州都督となった。広州に転じた。卒去した。

景駿の子の韋述は、別に伝がある。

李惠登

李惠登は、営州柳城の人で、平盧軍の裨将となった。安祿山の乱に際し、董秦に従って海を渡り、滄州・棣州などを攻略平定した。軽兵で遠く戦い、賊は支えきれず、戦えば必ず敗北した。史思明が反乱すると、惠登は賊に陥り、計略をもって身を挺して山南に逃れ、来瑱に依った。来瑱は上表して試みに金吾衛将軍とした。李希烈が反乱すると、兵二千を付属され、隋州に駐屯させられた。惠登は州を挙げて帰順し、即座に刺史に任じられた。州は幾度も乱に遭い、野は荒廃し、人々は生業につく場所がなかった。惠登は質朴で学術はなかったが、人々が利と言うものを実行し、害と言うものを除去し、心のままに安んじ、暗に古人と合致した。政治は清静で、二十年間在任し、田畑は開墾され、戸口は日増しに増え、人々はそのことを歌い舞った。そこで節度使於頔がその治績を上奏し、詔により御史大夫を加えられ、隋州は上州に昇格した。まもなく検校国子祭酒となり、卒去し、洪州都督を追贈された。

羅向

羅向は、越州会稽の人である。宝応元年(762年)初め、朝廷に上書し、太常寺太祝を授けられた。曹王李臯が江西・荊襄節度使を兼ねると、常に幕府に任用し、累進して副使となった。李臯が卒去すると、軍が乱れ、府庫を掠奪した。向は首謀者十余人を捕らえて斬り、その首をさらし、庭中に棘を巡らせ、掠奪した庫物を投げ入れさせると、一日で皆満ちた。そこで残党を赦した。召されて奉天県令となった。宦官の出入りが道を塞ぎ、吏がこれに縁って禁を犯した。向は彼らを鞭打ち、死んでもやめず、これ以来、彼らは息を潜めた。抜擢されて廬州刺史となった。民間で病む者は、医薬を捨てて淫祠に祈った。向は命令を下してこれを止めさせた。学校を修築し、政教は簡易で、芝草や白雀が現れた。淮南節度使杜佑がその治状を上奏し、金紫の服を賜った。再び京兆尹に遷り、平糴の半減を請い、常賦でこれを充てたので、人々はその利益を頼りにした。老病のため解任を求め、太子賓客に転じ、累封して襄陽県男となった。卒去し、諡は夷といった。

向の子 羅譲

子の譲は、字を景宣といい、文学によって早くから名声があった。進士科・宏辞科・賢良方正科に挙げられ、皆高い成績で及第し、咸陽尉となった。父の喪に服し、ほとんど身を滅ぼさんばかりであった。喪が明けても、布衣に粗飯で、十数年も辟召に応じなかった。淮南節度使李鄘がその居宅に赴いて敦請し、幕府に置き、監察御史を授け、給事中の位に至り、累進して福建観察使となり、御史中丞を兼ねた。仁恵の名声があった。ある者が婢を譲に贈ろうとした。どこから来たのかと問うと、答えて言った、「姉九人とも官に売られ、残っているのは老母だけです」。譲はいたく哀しみ、券書を焼き、母を召し出して返した。入朝して散騎常侍となり、江西観察使に任じられた。卒去し、七十一歳。礼部尚書を追贈された。

韋丹

韋丹は、字を文明といい、京兆府万年県の人で、周の大司空しくう韋孝寛の六世の孫である。高祖の韋琨は、洗馬として太子李承乾に仕え、諫めたが聞き入れられなかった。太宗はその才能を認め、給事中に抜擢した。高宗が東宮にいた時、中舎人となり、武陽県侯に封じられた。孝敬皇帝(李弘)が太子となると、韋琨は右中護として詹事となった。卒去し、秦州都督を追贈され、諡は貞といった。

丹は早く孤児となり、外祖父の顔真卿に学び、明経科に及第し、安遠県令に任じられたが、庶兄に譲り、紫閣山に入って従父の韋能に師事した。再び『五経』科で高い成績で及第し、咸陽尉を歴任し、張献甫が上表して邠寧幕府の佐官とした。順宗が太子の時、殿中侍御史として召されて舎人となった。新羅国の君が死んだので、詔により司封郎中として派遣され弔問することとなった。故事では、外国に使する時、州県の官十職を賜り、売って資金を得、これを「私覿官」といった。丹は言った、「外国に使するのに資金が足りなければ、上奏して請うべきである。どうして官を売って金を受け取ることがあろうか」。即座に必要な費用を詳細に上疏し、皇帝は有司に命じてこれを与え、これによって令として定着した。出発せず、新羅で立てた君が死んだので、帰朝して容州刺史となった。民に耕織を教え、惰遊を止めさせ、学校を興し、貧しくて自ら身を売った者を贖い戻し、吏が掠めて奴隷とすることを禁じた。初めて州城を築き、周囲十三里、屯田二十四所を設け、茶・麦の栽培を教え、仁徳の教化が大いに行われた。河南少尹に遷ったが、着任せず、義成軍司馬に転じた。諫議大夫として召され、直諫の名声があった。

劉辟が反乱すると、議者は誅殺を免れさせようとした。丹は上疏し、「孝文帝の世、法は廃れ人は怠慢であったので、威をもって補うべきであった。今、辟を誅しなければ、使者として行けるのは両京だけになってしまう」と論じた。憲宗はこれを褒め称えた。ちょうど辟が梓州を包囲したので、丹を剣南東川節度使に任じ、李康に代えさせた。漢中に至り、上言して康の守備は尽力しており、代えるべきではないと述べた。召還されて蜀の事を議した。辟が梓州を去ると、高崇文に譲り、晋慈隰州観察使に任じ、咸陽郡公に封じられた。一年を経て、自ら上陳して、治める三州は要害の地ではなく、職を張るに足らず、国家の費用となるとし、これを河東に属させる方がよいとした。帝はこれに従った。

江南西道観察使に転ずる。韋丹は戸口に応じて俸給を受け、余剰は官に委ね、八州の冗食者を罷めて、その財を収む。初め、民は瓦屋を作ることを知らず、茅葺きに竹の椽を用い、久しく乾燥すれば軋んで燃え上がる。韋丹は工人を召して陶器作りを教え、材木を場に集め、その費用を推量して価格とし、利潤を取らせず。家屋を建てられる者は、官から材木と瓦を受け、賦税を半免し、徐々にその償いを取る。逃亡して未だ帰還せざる者は、官が代わってこれを為す。貧しくてできない者には、財を与える。自ら赴いて勧め督す。南北の市を設け、営舎を造って軍を宿らせる。年中旱魃の時、人を募って工事に就かせ、厚く報酬を与え、食糧を支給す。衢の南北に両営を挟み、東西七里に及ぶ。廃倉を以て新たな厩舎とし、馬は繁殖して死なず。堤防を築いて江を防ぎ、長さ十二里、水門を設けて漲水を疏く。凡そ陂塘五百九十八所を造り、田一万二千頃を灌漑す。ある吏が倉庫を十年間主管し、韋丹がその糧食を覆核するに、三千斛を失う。韋丹曰く、「吏が自ら費やしたであろうか」と。その家を籍没し、全ての文書記録を得れば、乃ち権吏が奪い取ったものなり。諸吏を召して曰く、「汝らが権勢を恃んで倉庫から取るは、罪なり。汝らと期す、一月の内に返せ」と。皆頓首して謝し、期日に至り敢えて違う者なし。ある卒が命令に違反して死に当たるも、釈放して誅さず、去って上書し韋丹の不法を告ぐ。詔して韋丹に官を解かせて弁明を待たしむ。会うに卒す、年五十八。卒の告げたることを検証するに、皆実ならず、韋丹の治績は愈々明らかとなる。

太和年中、裴誼が江西を観察し、上言して韋丹のために祠堂を立て、石に功績を刻んで紀念すべしとす。報いず。宣宗が『元和実録』を読み、韋丹の政事が卓然たるを見る。他日宰相に語りて曰く、「元和の時、民を治むるに孰れか第一なる」と。周墀対えて曰く、「臣嘗て江西を守りしに、韋丹は大功有り、徳は八州に被わり、歿して四十年、老幼之を思いて忘れず」と。乃ち詔して観察使紇幹に韋丹の功績状を上せしめ、命じて功を碑に刻ましむ。

韋丹の子 韋宙

子の韋宙は、蔭を推して累次調任して河南府司録参軍となり、李玨が河陽幕府に表す。宣宗、宰相の周墀に謂いて曰く、「韋丹に子有りや」と。韋宙を以て対う。帝曰く、「好官を与えよ」と。乃ち侍御史を拝し、三度遷って度支郎中となる。

盧鈞が太原を節度し、韋宙を副使に表す。是の時、回鶻は已に諸部を破り、塞下に入り、吏民を剽殺す。盧鈞は信望有る重吏を得て辺境を視察せしめんと欲す。韋宙、往くことを請う。定襄・雁門・五原より始め、武州塞を絶ち、雲中を略し、句註を逾え、遍く酋豪に会い、鐫して諭す。亭障の守卒を視察し、その糧給を増す。吏に約して擅に兵を以て諸戎を侵すことを得ざらしめ、犯す者は死す。是に於いて三部六蕃諸種皆信悦す。召されて吏部郎中を拝す。出でて永州刺史となる。州は災害凶作に遭い、乃ち官下の什器で刺史の供応に用いるものを売り払い、九十余万銭を得て、糧食を買い入れしむ。俗は法を知らず、多く罪に触る。韋宙は書を作りて法律を定め、併せて種植の生業に適することを記し、戸ごとに之を与う。州は嶺に倚り、糧秣の輸送は艱険、毎に饑饉有れば、人は輒ち餓死す。韋宙始めて常平倉を築き、穀物の余剰を収めて欠乏に備う。冗役九百四十四員を罷む。県は旧く吏を置きて賦税を督めしむ。韋宙は民に自ら輸納せしめ、十家を相保たしめ、常に期日より先んず。湘源は零陵香を産す。歳毎に上供のため買い上げ、人これを苦しむ。韋宙、奏してこれを罷む。民貧しくて牛無く、人力を以て耕す。韋宙、社を設置し、二十家が月ごとに若干の銭を出し合い、籤を引いて当たる者に先ず牛を買わしめ、これを以て準則とす。久しきに及び、牛に乏しきこと無し。学官を立て、仕官の家の子弟十五人を取って之を充てる。初め、俚民の婚儀には、財を出して賓客を会し、「破酒」と号し、昼夜に集まり、多きは数百人に至り、貧しき者も猶数十人。力足らざれば、則ち迎えず、淫奔に至る者あり。韋宙、条約を定め、略々礼の如くならしむ。俗遂に改まる。邑中の少年、常に七月に鼓を撃ち、群をなして民家に入り、「行盗」と号す。皆迎えて酒食を調え、之を「起盆」と謂い、後に「解素」と為し、喧嘩騒ぎて闘争す。韋宙至りて、一切これを禁ず。

還りて大理少卿となる。久しきを経て、江西観察使を拝す。政は簡易、南方は世官と為す。遷って嶺南節度使となる。南詔が交趾を陥落せしむ。兵を撫で備えを積み、幹事を以て聞こゆ。検校尚書左僕射・同中書門下平章事を加えらる。咸通年中に卒す。

韋宙の弟 韋岫

韋宙の弟韋岫、字は伯起、亦た名有り。韋宙が嶺南に在りし時、従女を小校劉謙に妻とす。或る人は諫めて止む。韋岫曰く、「吾が子孫或いは当に之に依らん」と。劉謙後功を以て封州刺史と為り、二子を生む。即ち劉隠・劉龔なり。盧携が進士に挙げらるるも、甚だ陋なり。韋岫独り盧携必ず大用有らんと謂う。盧携が執政するに及び、韋岫は泗州刺史より擢でられて福建観察使と為る。

盧弘宣

盧弘宣、字は子章。元和年中、進士第に擢でらる。鄭権が襄陽を帥とし、辟して幕府に署す。李逢吉が鄭権に代わる。又二人交わりて憾み有り。盧弘宣始めて謁見するに、左右に謹んで衛せしむ。既に語りて、その沖遠なるを見、覚えず洗然たり。裴度が東都に留守し、判官に表す。累遷して給事中となる。駙馬都尉韋処仁が虢州刺史を拝せんとす。盧弘宣、その任に非ずと謂い、詔を還して下さず。

開成年中、山南・江西に大水有り。詔して盧弘宣と吏部郎中崔瑨に分かれて道を出で賑恤せしめ、指図有らしむ。還りて、京兆尹・刑部侍郎に遷る。剣南東川節度使を拝す。時に歳饑え、盗賊群を結び、酋豪自ら王を称し、偽って官吏を署し、敖廥を開きて亡命を招き、蓬・瀘・嘉・栄諸州に連なり、蛮落を訹して動揺混乱せしめ、根株磐くして熾んなり。盧弘宣、檄を下して脅し諭す。賊党稍々降る。その黠き強者は軍中に署し、孱弱で能無き者は農に還す。魁長は峡中に逃げ入る。吏捕えて之を誅す。義武節度使に転ず。盧弘宣の性格は寛厚、政目は簡省、人は便安す。然れども犯す者は甚だしからずとも赦さず。河朔の旧法、軍中で偶語すれば則ち死す。盧弘宣始めて之を除く。初め、詔して其の軍に粟三十万斛を賜う。飛狐に貯う。盧弘宣、運賃を計算すれば満額に達せずと計り、吏をして之を守らしむ。明年春、大旱。民に力を随えて往き取りしむ。時に幽・魏は饑甚だし。独り易・定は自如たり。秋に至り、貸し出したるものを悉く収む。軍食以て豊饒なり。工部尚書・秘書監を歴任し、太子少傅を以て致仕す。卒す、年七十七。尚書右僕射を贈らる。盧弘宣は士庶人の家祭に定儀無きを患い、乃ち十二家の法を合わせ、その適当なるものを損益し、順次に書と為す。

盧弘宣の子 盧告

子の盧告、字は子有、進士第に及第し、終わりに給事中となる。

薛元賞

薛元賞、里系の来たる所を知らず。太和初年、司農少卿より出でて漢州刺史と為る。時に李徳裕が剣南西川節度使たり。会うに維州降る。李徳裕之を受け、以て聞こゆ。牛僧孺其の議を沮み、執って之を還す。薛元賞上書し極言して、撫するに因るべきこと、虜の膺腹を潰すに、失うべからざるを論ず。省みられず。段文昌が李徳裕に代わり、薛元賞の治績が最上なりと状す。累遷して司農卿・京兆尹となる。出でて武寧節度使と為り、泗口の猥雑なる税を罷め、人以て便たりと為す。俄かに邠寧に転ず。

會昌年中、德裕が國政を執るに及び、再び京兆尹に任ぜられた。都の市には俠少年多く、黛墨をもてて膚を鏨り、詭力を誇り、坊閭を剽奪す。元賞、府に到ること三日にして、惡少を収め、杖死すること三十餘輩、諸市に陳す。餘黨懼れ、爭ひて火を以て其の文を滅す。元賞は吏事に長じ、時に弊を推言して、件として之を白す。禁屯は勢を怙って府縣を擾すも、元賞數たび之と爭ひ、少も縱せず、是より軍暴折戢し、百姓安きを頼む。就いて檢校吏部尚書を加ふ。歳を閲て、工部尚書に進み、諸道鹽鐵轉運使を領す。德裕は元賞の弟元龜を用ひて京兆少尹と為し、府事を知府せしむ。宣宗立つと、德裕を罷め、而して元龜は坐して崖州司戶參軍に貶せられ、元賞は下りて袁王傅を除く。久しうして、復た昭義節度使に拜し、卒す。

何易于

何易于、何れの所の人なるか及び以て進む所以は詳らかならず。益昌令と為る。縣は州より四十里を距つ。刺史崔樸、常に春に乘じて賓屬と舟を泛して益昌の傍に出で、民を索めて繂を挽かしむ。易于身を以て舟を引く。樸驚きて状を問ふ。易于曰く、「方に春なり、百姓耕し且つ蠶す。惟だ令のみ事せず、其の勞を任すべし」と。樸愧じて、賓客と疾く驅りて去る。鹽鐵官、茶利を榷取す。詔下りて、所在敢へて隱すこと毋し。易于詔書を視て曰く、「益昌人は茶を征せずんば且つ活くべからず、況んや厚賦を以て之を毒するをや」と。吏を命じて詔を閣かしむ。吏曰く、「天子の詔、何ぞ敢へて拒まん。吏は坐して死し、公は免れて竄るるを得んや」と。對へて曰く、「吾敢へて一身を愛し、暴を民に移さんや。亦た罪を爾曹に使はじ」と。即ち自ら之を焚く。觀察使、素より之を賢とし、劾せず。民に死喪有りて葬を具ふること能はざる者あれば、俸を以て吏を敕して為めに辦ぜしむ。高年を召して坐せしめ、以て政の得失を問ふ。凡そ民の廷に鬥ふ者は、易于丁寧に枉直を指曉し、杖楚を以て之を遣り、以て吏に付せず。獄三年にして囚無し。賦役を督むるに下戶を迫むるに忍びず、或は俸を以て代はりて輸す。饋給往來、傳符の外一に進むること無く、故に異稱無し。中上考を以て、羅江令に遷る。刺史裴休、嘗て其の邑に至る。導侍三人を過ぎず。廉約は蓋し資性なるか。