古来の隠者には、おおよそ三つの類型がある。最上の者は、身は隠れても徳は晦まず、自ら草野に放浪するが、名声はそれに従って赴く。万乗の貴きをもってしても、なおその軌跡を尋ねて招聘を委ねる。次ぐ者は、治世の才具を携えながら伸ばすことができず、あるいは峻厳な行いを持って俗に屈せず、応じることがあっても、爵禄に対しては淡々と受け、悠々と辞し、人君に常に慕い企てる心を抱かせ、寂然として足りざるが如くならしめる。これが貴ぶべきである。末の者は、資質が枯淡で、山林を楽しみ、己が才を内に省みて、終に当世の取捨に堪えられない。故に丘園に逃れて還らず、人に常にその風を高くさせて敢えて誹謗を加えさせない。また世に隠者がいなかったことはなく、いたならば必ず旌表し礼賛して先んじたのは、孔子の所謂「逸民を挙げれば、天下の人の心はこれに帰する」によるのである。
唐が興り、賢人が位に就く者は多く、遁世して出ない者は、その才が歴然と述べるに足るが、しかし皆下の類型の者である。それでもなお、各々その素質を保ち、言葉に黙を託したのではなく、足は崖壑にありながら志は城闕にあるのでもない。しかし利を放つ徒は、隠逸を仮りて自らを飾り、禄仕を欺くため、道で肩を摩し、ついに終南山・嵩少山を仕途の近道と号するに至り、高尚の節は失われた。故に喜び慕うに足る者を集めて篇に類する。
王績
王績、字は無功、絳州龍門の人。性質は簡略で放縦、拝揖を喜ばない。兄の王通は、隋末の大儒で、河汾の間に徒を集め、古に倣って『六経』を作り、また『中説』を著して『論語』に擬した。諸儒に称道されなかったため、書は顕れず、ただ『中説』のみが伝わる。王通は王績が誕放であることを知り、家事を煩わせず、郷族の慶弔冠婚には与からせなかった。李播・呂才と親善であった。
大業年間、孝悌廉潔に挙げられ、秘書省正字に任じられた。朝廷にいることを好まず、六合県丞を求めたが、酒を嗜んで職務に堪えず、当時天下も乱れていたため、弾劾され、遂に解任されて去った。歎いて言うには、「網羅は天にあり、我はまさにどこに安んじようか!」と。乃ち郷里に還った。河渚の間に田十六頃があった。仲長子光という者も、隠者で、妻子なく、北渚に廬を結び、凡そ三十年、己が力によらざるものは食さなかった。王績はその真実を愛し、移って近くに住んだ。子光は唖で、一度も言葉を交わさず、向かい合って酒を酌み交わすことを大いに楽しんだ。王績には奴婢数人がおり、黍を植え、春秋に酒を醸し、鳧雁を養い、薬草を植えて自給した。『周易』・『老子』・『莊子』を床頭に置き、他の書はめったに読まなかった。兄弟に会いたい時は、すぐに河を渡って家に帰った。北山の東皋を遊歴し、著書して自ら東皋子と号した。牛に乗って酒肆を通ると、留まること数日に及んだ。
王績の仕官は、酔って職を失い、郷人がこれをあざ笑った。無心子に託してその趣を現した。曰く、「無心子が越に居た。越王はその大人物たるを知らず、拘えて仕えさせたが、喜ぶ色がなかった。越国の法に曰く、『穢行ある者は歯しない』と。間もなく無心子は穢行で知られるようになり、王はこれを罷免したが、慍る色がなかった。退いて茫蕩の野に適い、動の邑を過ぎて機士に会った。機士は股を撫でて言うには、『ああ、あなたは賢者でありながら罪で廃されたのか?』と。無心子は答えなかった。機士が言うには、『教えを願いたい』と。曰く、『あなたは蜚廉氏の馬を聞いたことがあるか。一匹は朱い鬣に白い毛、龍の骨格に鳳の胸、疾駆すれば舞の如く、終日轡を緩めずに熱死した。もう一匹は頭が重く尾を昂げ、駱駝の首に貉の膝、足を引きずり善く蹶き、野に棄てられたが、一年で肥えた。鳳は山に棲むことを憎まず、龍は泥に蟠ることを恥じない。君子は潔白にこだわって患いに遭わず、穢れを避けずして精を養うのである』と」。その自ら処する所はこのようであった。
朱桃椎、益州成都の人。澹泊として俗を絶ち、裘を被り索を曳き、人はその行いを測ることができなかった。長史の竇軌がこれを見て、衣服・鹿幘・麂靴を贈り、強いて郷正に任命しようとした。地面に委ねて、服しようとしなかった。更に山中に廬を結び、夏は裸、冬は木の皮や葉を綴って自らを蔽い、贈り物は一切受け取らなかった。かつて十足の芒鞋を織って道上に置くと、見る者が言うには、「居士の鞋だ」と。米や茶と交換するために売り、その場所に置くと、すぐに取って去り、終に人と接しなかった。その作る鞋は、草が柔らかく細かく、環結が緊密で、人は争って履いた。高士廉が長史となり、礼を尽くして請うと、階を降りてこれと語ったが、答えず、睨みつけて出て行った。士廉は拝して言うには、「祭酒は我に無事をもって蜀を治めさせようとするのか?」と。乃ち条目を簡略にし、賦斂を薄くし、州は大いに治まった。たびたび人を遣わして安否を問うたが、会うとすぐに林草に走り自ら隠れたという。
孫思邈
思邈は陰陽・推歩・医薬に通じないものはなく、孟詵・盧照鄰らが師事した。照鄰は悪疾を患い、治すことができず、感傷して問うて言う、「高医は病を癒やすが、その術は如何に」と。答えて言う、「天には四時五行があり、寒暑が交替し、和すれば雨となり、怒れば風となり、凝れば雨霜となり、張れば虹霓となる、これが天の常の数である。人の四肢五臓は、一覚一寐し、吐納往来し、流れて栄衛となり、章じて気色となり、発して音声となる、これが人の常の数である。陽はその形を用い、陰はその精を用いる、天と人とは同じである。これを失えば、烝して熱を生じ、否して寒を生じ、結して瘤贅となり、陥して癰疽となり、奔れば喘乏し、端すれば燋槁し、面に発し、形に動く。天地もまた然り、五緯の縮贏、孛彗の飛流、これがその危診である。寒暑時ならざるは、その蒸否である。石立ち土踊るは、これがその瘤贅である。山崩れ土陥るは、これがその癰疽である。奔風暴雨はその喘乏、川瀆竭涸はその燋槁である。高医は薬石をもって導き、𨥧剤をもって救う。聖人は至徳をもって和し、人事をもって輔ける。故に体には癒ゆべき疾があり、天には振るうべき災いがある」と。
照鄰が言う、「人事とは如何に」と。曰く、「心はこれが君であり、君は恭しみを尚ぶ、故に小なることを欲する。《詩経》に『深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し』とある、これが小の謂いである。胆はこれが将であり、果決を務めとする、故に大なることを欲する。《詩経》に『赳赳たる武夫、公侯の幹城』とある、これが大の謂いである。仁者は静か、地の象である、故に方なることを欲する。《伝》に『利のために回らず、義のために疚まず』とある、これが方の謂いである。智者は動く、天の象である、故に円なることを欲する。《易》に『機を見て作り、終日を俟たず』とある、これが円の謂いである」と。
また養性の要を問うと、答えて言う、「天には盈虚があり、人には屯危がある、自ら慎まなければ、済すことはできない。故に養性は必ずまず自慎を知らねばならない。慎みは畏れを本とす、故に士が畏れなければ仁義を簡略にし、農が畏れなければ稼穡を堕とし、工が畏れなければ規矩を慢にし、商が畏れなければ貸殖せず、子が畏れなければ孝を忘れ、父が畏れなければ慈を廃し、臣が畏れなければ勲を立てず、君が畏れなければ乱を治めない。ここにおいて太上は道を畏れ、其次は天を畏れ、其次は物を畏れ、其次は人を畏れ、其次は身を畏れる。身を憂うる者は人に拘われず、己を畏るる者は彼に制せられず、小を慎む者は大に懼れず、近くを戒むる者は遠くを侮らない。これを知れば人事は畢わる」と。
初め、魏徴らが斉・梁・周・隋などの五家の史を修めるに当たり、しばしば遺漏を諮問したので、その伝は最も詳しい。永淳の初め、卒す、百余歳、遺令して薄葬を命じ、明器を蔵めず、祭祀には牲牢を去らせた。
孫処約がかつて諸子を引いて会わせると、思邈は言う、「俊は先に顕れ、侑は晩く貴くなり、佺は禍いが兵を執るにある」と。後に皆験した。太子詹事盧斉卿が若い時、思邈は言う、「後五十年にして方伯の位に至り、我が孫が属吏となるであろう、自ら愛せよ」と。時に思邈の孫の溥は未だ生まれていなかったが、溥が蕭県の丞となった時、斉卿は徐州刺史であった。
田遊巖
田遊巖は、京兆三原の人である。永徽の時、太学生に補せられた。罷めて帰り、太白山に入る。母と妻は皆方外の志があり、共に山水の間に棲み遅れた。蜀より荊・楚を歴て、夷陵の青溪を愛し、その側に廬を止めた。長史李安期がその才を表し、召して京師に赴かせようとしたが、汝まで行き、病を辞して箕山に入り、許由の祠の傍らに居り、自ら「由東隣」と号し、頻りに召されても出なかった。
高宗が嵩山に幸した時、中書侍郎薛元超を遣わしてその母を問わせ、薬物と絮帛を賜う。帝自らその門に至り、遊巖は野服で出て拝し、儀容は謹樸であった。帝は左右に命じて扶け止めさせ、謂うて言う、「先生は近頃佳いか」と。答えて言う、「臣は所謂、泉石膏肓、煙霞痼疾の者でございます」と。帝が言う、「朕が君を得ることは、漢が四皓を得るに何の異なることがあろうか」と。薛元超が帝を賛して言う、「漢は嫡を廃し庶を立てようとした故に、四人の者が出たのであり、陛下のように自ら巖穴に降られることとどうして比べられましょうか」と。帝は悦び、因って遊巖に命じて家属を乗伝させて都に赴かせ、崇文館学士に拝した。帝が奉天宮を営むと、遊巖の旧宅は宮の左に当たり、詔して毀たせなかった。天子自らその門に榜を書き、「隠士田遊巖宅」とした。太子洗馬に進む。裴炎が死ぬと、平素厚く善しとしていたことに坐し、放還されて山に帰る。蚕衣耕食し、当世と交わらず、ただ韓法昭・宋之問と方外の友となったという。
時にまた史徳義という者がいた、昆山の人で、虎丘山に住んだ。牛に騎り瓢を帯びて、廛野に出没した。高宗がその名を聞き、洛陽に召したが、俄かに疾を称して帰った。天授の初め、江南宣労使周興がこれを薦め、また召されて都に赴き、朝散大夫に擢でられた。周興が死ぬと、免官されて帰り、平素の誉れは頓に衰えた。
孟詵
孟詵は、汝州梁の人である。進士第に擢でられ、累遷して鳳閣舎人となった。ある日劉禕之の家に行き、賜わった金を見て言う、「これは薬金である、焼くと、火に五色の気がある」と。試みると、験があった。武后が聞き、悦ばず、出されて台州司馬となり、頻りに遷って春官侍郎となった。相王が召して侍読とした。同州刺史に拝した。神龍の初め、致仕し、伊陽山に居り、方薬を治めた。睿宗が召し、用いようとしたが、老いを以て固く辞し、物百段を賜い、詔して河南に春秋に羊酒糜粥を給せしめた。尹の畢構は詵に古人の風があるとして、その居所を子平里と名付けた。開元の初め、卒す、九十三歳。
詵は居官するに頗る刻斂であったが、治績をもって称された。その閑居時に嘗て人に語って言う、「養性の者は、善言を口から離さず、善薬を手から離さぬがよい」と。当時、その言を伝えた。
王友貞
王友貞は、懐州河内の人である。父の知敬は、書隷を善くした。武后の時、仕えて麟台少監となった。友貞は若くして司経局正字となった。母が病むと、医者が人肉を得て啖れば良く癒えると言ったので、友貞は股を剔いて進めると、母の疾は癒えた。詔してその門を旌表した。平素好学で、子弟を訓誨すること厳父の如くであった。口にして人の過ちを語らず、然諾を重んじ、時に君子と為された。長水令を歴任し、罷めて帰った。中宗が東宮に在った時、召して司儀郎としようとしたが、就かなかった。神龍の初め、太子中舎人として征されたが、固く疾を辞した。詔して珍饌を致し、全禄を終身に給し、四時にその所に送り、州県に存問させた。玄宗が東宮に在った時、表して蒲車をもって召そうとしたが、至らなかった。卒す、九十九歳、銀青光禄大夫を贈られ、県令が弔祭した。
王希夷
王希夷は徐州の滕の人である。家は貧しく、父母が喪に服したとき、人のために羊を牧し、賃銭を得て葬った。嵩山に隠棲し、師の黄頤に養生の術を学ぶこと四十年。黄頤が卒すると、更に兗州の徂徠に住み、劉玄博と親善であった。『周易』『老子』を読むことを好み、松柏の葉や雑花を服餌し、年七十余りにして、筋力は柔軟で強健であった。刺史の盧齊卿が謁見して政事を問うと、答えて曰く、「『己の欲せざる所は人に施す勿れ』、この言以て足る」と。
玄宗が東方に巡狩したとき、詔して州県に敦めさせて行在所に引見せしむ。時に九十余歳、帝は張説に命じて政事を訪わせ、宦官に扶けられて宮中に入り、語り合って甚だ悦び、国子博士に拝し、還山を聴された。勅して州県に春秋に束帛酒肉を致させ、なお絹百匹、衣一襲を賜う。
李元愷
李元愷は邢州の人である。博学で、天歩律暦に善く、性恭慎にして、未だ嘗て敢えて人に語らざりき。宋璟嘗て之に師事し、既に国政を執るに当たり、厚く束帛を遺して以て之を朝に薦めんとす。拒絶して答えず。洺州刺史の元行沖が招き致して、経義を問い終わり、衣服を贈る。辞して曰く、「吾が躯は新麗を服すべからず、称せざるを懼れて咎を速んずるなり」と。行沖は垢衊の衣を更に之に与うるも、已むを得ずして受く。俄かに身の蚕する素絲を報いて曰く、「義、無妄の財を受くべからざるなり」と。是に先立ち、定州の崔元鑒は『礼』学に善く、張易之の力を用いて、朝散大夫を授かり、家居して半禄を給せらる。元愷誚して曰く、「功無くして禄有るは災いなり」と。卒す、年八十余。
衞大経は蒲州解県の人である。卓然たる高行、口に二言無し。武后の時、之を召すも、固より疾を辞す。平素魏の夏侯乾童と善し、其の母の卒するを聞き、盛暑に歩み往きて弔う。或る人止めて曰く、「方に夏なり、遠く渉るは書を致すに如かず」と。答えて曰く、「書能く意を尽くすや」と。比至るに、乾童は事有りて行く。乃ち席を設けて弔礼を行い、其の家を訊ねずして還る。開元初、畢構が刺史と為り、県令の孔慎言をして就き謁せしむ。辞して見えず。
大経は『易』に邃く、人の之を「『易』聖」と謂う。予め死日を筮い、墓を鑿ち自ら志を為す。言う如くに終わる。
武攸緒
武攸緒は則天皇后の兄惟良の子なり。恬淡寡欲、『易』・莊周の書を好む。少しく姓名を変え、長安市に卜を売り、銭を得ては輒ち委ね去る。後に更に太子通事舍人を授かり、累遷して揚州大都督府長史・鴻臚少卿と為る。后が革命するに及び、安平郡王に封ぜられ、中嶽の封に従う。固より官を辞し、隠居を願う。后其の詐りを疑い、之を許し、以て為す所を観る。攸緒は巖下に廬し、素より遁るる者の如し。后其の兄攸宜を遣わして敦諭せしむも、卒に起たず。后乃ち之を異とす。龍門・少室の間に盤桓し、冬は茅椒に蔽れ、夏は石室に居り、賜わられたる所の金銀の鐺鬲・野服、王公の遺る所の鹿裘・素障・癭杯、塵皆流積して、禦わざるなり。潁陽に田を市い、家奴をして雑作せしめ、自ら民に混じる。晚年肌肉消眚し、瞳に紫光有り、昼に星を見ること能う。
中宗の初め、降封して巢国公と為り、国子司業杜慎盈を遣わし書を齎し安車を以て召し、太子賓客に拝す。苦しくして還山を祈り、詔して可とす。安楽公主出降するに、又通事舍人李邈を遣わし璽書を以て之を迎う。将に至らんとす、帝勅して有司に即ち両儀殿に位を設けさせ、問道の礼を行わしむ。詔して見る日に山帔葛巾し、名せず拝せず。攸緒至り、更に冠帯す。仗入り、通事舍人贊して就位す。攸緒趨りて常班に就き再拝す。帝愕然たり、礼行うに及ばず。朝廷歎息す。賜予は受くる所無し。親貴来謁すも、寒温を道う外、黙して言う所無し。還るに及び、中書・門下・学士・朝官五品以上、並びに城東に祖す。
俄にして諸韋誅され、武氏禍に連なるも、唯攸緒は及ばず。睿宗其の自ら安からざるを恐れ、詔を下して慰諭し、復召して太子賓客に拝せんとす。就かず。譙王重福の乱に、攸緒誣を以て系せらる。張説表して廬山に置く。中書令姚元崇奏す、「攸緒は武后の時に未だ嘗て輒ち出でず。今州県逼遣し、士之が為に驚嗟す。願わくは詔して嵩山の旧居を賜い、州県に存問せしめよ」と。詔して可とす。開元十一年卒す。
白履忠
白履忠は汴州浚儀の人である。文史に貫知し、古き大梁城に居り、時に梁丘子と号す。景雲中、召されて校書郎と為るも、官を棄て去る。開元十年、刑部尚書王志愔、履忠の博学守操を薦め、褚無量・馬懷素に代えて入閣侍読すべしとす。国子祭酒楊瑒又其の賢を表す。召して京師に赴かしむ。病老を辞して職に任じず。詔して朝散大夫に拝す。還るを乞う。手詔して京師に游ぶを許し、徐に里閭に返らしむ。履忠数ヶ月留まりて乃ち去る。
吳兢
吳兢、其の里人なり、謂いて曰く、「子素より貧しく、斗米匹帛に沾わず。五品を得ると雖も亦何の益かあらん」と。履忠曰く、「往きし契丹入寇の時、家より排門夫を取る。吾は読書を以て、県之を免す。今終身高臥し、徭役を寬む。豈に易く得んや」と。
盧鴻
盧鴻、字は顥然、その先祖は幽州范陽の人、洛陽に移る。博學にして、書籀を善くす。嵩山に廬す。玄宗の開元初め、禮を備へて再び徵す、至らず。五年、詔して曰く、「鴻は泰一の道有り、中庸の德有り、深きを鉤り微に詣り、確乎として自ら高し。詔書屢下す、每輒ち辭托す、朕をして虚心引領せしむ、今に數年。素履幽人の介を得たりと雖も、而も考父滋恭の誼を失ふ、豈に朝廷の故と生と趣を殊にせるか。將た山林に縱欲し、往きて而も返る能はざるか。禮に大倫有り、君臣の義廢す可からず。今城闕密邇す、勞と爲すに足らず、有司其れ束帛の具を齎し、重ねて茲の旨を宣べ、翻然として節を易へ、朕が意に副ふ有らんことを想ふ」と。
鴻東都に至り、謁見して拜せず、宰相通事舍人を遣はして狀を問はしむ、答へて曰く、「禮は忠信の薄き所なり、臣敢へて忠信を以て見ゆ」と。帝召して内殿に升らしめ、酒を置く。諫議大夫に拜す、固く辭す。復た制を下し、山に還るを許し、歲に米百斛・絹五十を給し、府縣其の家を致す、朝廷の得失、其れ狀を以て聞かしむ。將に行かんとし、隱居の服を賜ひ、官草堂を營み、恩禮殊に渥し。鴻山中に到り、學廬を廣め、徒を聚むること五百人に至る。及び卒す、帝萬錢を賜ふ。鴻の居る室、自ら寧極と號すと云ふ。
吳筠
吳筠、字は貞節、華州華陰の人。經誼に通じ、文辭を美くし、進士に舉げられて中らず。性高鯁にして、時に沈浮するを耐へず、去りて南陽倚帝山に居す。
始め、蟋嘻力士に惡まれて斥けらる、故に文章深く釋氏を詆す。筠の善くする孔巢父・李白、歌詩略相甲乙すと云ふ。
潘師正
潘師正は、貝州宗城の人。少くして母に喪ひ、墓に廬し、孝を以て聞こゆ。王遠知に事へて道士と爲り、其の術を得、逍遙穀に居す。高宗東都に幸す、召見し、須ふ所を問ふ、對へて曰く、「茂松清泉、臣の須ふ所なり、既に乏しからず」と。帝尊異し、詔して即ち其の廬に崇唐觀を作らしむ。及び奉天宮を營み、又敕して逍遙穀に直に門を作りて仙遊と曰ひ、北を尋真と曰ふ。時太常新樂を獻ず、帝名を改めて『祈仙』・『望仙』・『翹仙曲』とす。卒す、年九十八、太中大夫を贈り、諡して體玄先生と曰ふ。
又劉道合有り、亦た師正と共に嵩山に居し、帝即ち其の隱る所に太一觀を立て、之に居らしむ。時將に太山を封ぜんとす、雨止まず、帝道合に令して禳祝せしむ、俄にして霽る、乃ち令して傳を馳せ先づ太山に行き祈祓せしむ。賞賜を得れば輒ち貧乏に散じ、蓄ふ所無し。
咸亨中、帝の爲に丹を作る、劑成りて卒す。帝後宮を營み、道合の墓を遷す、其の棺を開くに、骸の坼くること蟬蛻の若きを見る。帝聞き、恨みて曰く、「我が爲に丹を合し、而も自ら服して去る」と。然れども餘れる丹に他異無し。
司馬承禎
司馬承禎、字は子微、洛州溫の人。潘師正に事へ、辟穀道引の術を傳へ、通ぜざる無し。師正之を異にし、曰く、「我陶隱居の正一法を得、而して四世を逮ぶ」と。因りて辭し去り、遍く名山に遊び、天臺に廬して出でず。武后嘗て之を召す、未幾、去る。睿宗復た其の兄承禕を命じて就き起す。既に至り、中掖廷に引入れて其の術を問ふ、對へて曰く、「道を爲すに日損す、損之又損し、無爲に至る。夫れ心目の知見する所、每に之を損するも尚ほ已む能はざるに、況や異端を攻めて智慮を增さんや」と。帝曰く、「身を治むるは則ち爾り、國を治むるは何若」と。對へて曰く、「國猶ほ身の如し、故に心を淡に遊ばし、氣を漠に合はし、物と自然にして私無ければ、而して天下治まる」と。帝嗟味して曰く、「廣成の言なり」と。寶琴・霞紋帔を錫ひ、之を還す。
開元中、再び召されて都に至り、玄宗詔して王屋山に壇室を置きて以て居らしむ。篆・隷を善くす、帝命じて三體を以て『老子』を寫さしめ、文句を正す。又命じて玉真公主及び光祿卿韋縚を其の居る所に至らしめ、金籙に按じ、祠を設け、厚く賜ふ。卒す、年八十九、銀青光祿大夫を贈り、諡して貞一先生と曰ひ、親しく其の碑に文す。
師正・道合と承禎等より、語言詼譎として方士に似たり、之を剟して錄せず、直に其の隱概を取るのみ。
賀知章
賀知章、字は季真、越州永興の人。性質は曠達で、談説を善くし、族姑の子陸象先と親善であった。象先嘗て人に謂ひて曰く、「季真の清談風流、吾一日見ざれば、則ち鄙吝生ず」と。
申王薨じ、詔して挽郎を選ぶに、知章取捨平らかならず、廕子の喧訴止む能はず、知章梯牆して出で首を以て事を決す、人皆之を靳しむ、坐して工部に徙る。粛宗太子たる時、知章賓客に遷り、秘書監を授けられ、左補闕薛令之侍読を兼ぬ。時に東宮官積年遷らず、令之壁に書し、礼の薄きを望む、帝見て、復た題して「自ら安んずるを聴く者」とす。令之即ち官を棄て、徒歩にて郷里に帰る。
知章晩節尤も誕放にして、裏巷に遨嬉し、自ら「四明狂客」及び「秘書外監」と号す。毎に酔へば、輒ち辞を属し、筆を停めずして書く、皆観るべき有り、未だ嘗て刊飭せず。草隸を善くし、好事者筆硯を具へて之に従ふ、意に愜ふ所有れば、復た拒まず、然れども紙纔に十数字、世伝へて以て宝と為す。
天宝初め、病み、夢に帝居に游び、数日にして寤め、乃ち道士と為ることを請ひ、郷里に還る。詔して之を許し、宅を以て千秋観と為して居らしむ。又周宮湖数頃を求めて放生池と為し、詔有りて鏡湖剡川の一曲を賜ふ。既に行かんとす、帝詩を賜ひ、皇太子百官餞送す。其の子僧子を擢でて会稽郡司馬と為し、緋魚を賜ひ、侍養せしめ、幼子も亦道士と為ることを聴す。卒す、年八十六。粛宗乾元初め、雅旧を以て、礼部尚書を贈る。
令之、長溪の人。粛宗も亦旧恩を以て召すも、令之は已に前に卒せり。
秦系
劉長卿と善くし、詩を以て相贈答す。権徳輿曰く、「長卿自ら五言長城と為す、系偏師を用ひて之を攻む、老いて益々壮なり」と。其の後東に度りて秣陵に至り、年八十餘にして卒す。南安の人之を思ひ、亭を立てて之に於り、其の山を号して
張志和
兄鶴齢其の遁世して還らざるを恐れ、為に室を越州東郭に築き、茨を生草にし、椽棟に斤斧を施さず。豹席棕屩、毎に釣を垂れて餌を設けず、志魚に在らず。県令渠を浚はしむるに、畚を執りて忤色無し。嘗て大布を以て裘を製せんと欲す、嫂為に躬績織し、及んで成る、之を衣る、暑きも解かず。
観察使陳少遊往きて見る、終日留まる為にし、其の居を表して玄真坊と曰ふ。門隘きを以て、地を買ひて其の閎を大にし、回軒巷と号す。先づ是れ門流水に阻まれ、梁無し、少遊為に之を構ふ、人号して大夫橋と曰ふ。帝嘗て奴婢各一を賜ふ、志和之を配して夫婦と為し、漁童・樵青と号す。
山水を図るを善くし、酒酣なるや、或は鼓を撃ち笛を吹き、筆を舐めて輒ち成す。嘗て『漁歌』を撰す、憲宗真を図りて其の歌を求むるも、致す能はず。李徳裕志和を称して「隠して名有り、顕にして事無く、窮せず達せず、厳光の比」と云ふ。
孔述睿
述睿は幼くして兄の充符、弟の克讓とともに篤く孝行し、既に孤兒となると、共に嵩山に隠棲した。而して述睿は資質として學問を好んだ。大曆年間、劉晏が代宗に推薦し、太常寺協律郎として召され、累進して司勳員外郎・史館修撰に至った。述睿は一たび遷轉するごとに、必ず朝廷に謝しに赴いた。やがて病を理由に辭して歸り、これを常とした。
德宗が即位すると、諫議大夫に拜し、河南尹趙惠伯に詔書と束帛を齎らせ、禮を備えて敦促して遣わした。到着すると、別殿で應對し、第宅を賜り、廄馬を給し、皇太子侍讀を兼ねた。固く辭したが、許されなかった。久しくして秘書少監に改め、右庶子を兼ね、再び史館修撰となった。述睿は『地理志』を重ねて編次し、本末最も詳しかった。性退讓にして、未だ嘗て物に忤わず、親朋が宴會を開いても、終日嚴肅に默しており、人皆これを畏れた。令狐峘と同職となり、峘はしばしば侮蔑したが、終に爭わず、時に長者と稱された。
貞元四年、帝は平涼の難を思い特に悲しみ、述睿が精愨で誠實であることから、祠具を持たせ詔を奉じて臨祭させた。また病を理由に解任を乞うと、久しくして許され、太子賓客として郷里に歸り、帛五十匹・衣一襲を賜った。故事により、致仕には公の驛馬を給さないが、帝は特に給することを命じた。卒す。年七十一。工部尚書を贈られた。
子の敏行、字は至之。元和初め、進士第に擢でられた。岳鄂の呂元膺が節度使府に表して任用し、元膺が東都・河中に轉ずるごとに、府に隨って遷った。入朝して右拾遺に拜し、四遷して司勳郎中・集賢殿學士・諫議大夫となった。李絳が害された事件は、元は監軍楊叔元に起因するが、當時敢えて言う者なく、敏行が上書して極論したため、叔元は罪を得た。名臣の子として、少時より操行を修め、官に就いてからは、當時の豪俊と交わり、一時名を成したが、高雅な操行は父に及ばなかった。卒す。年三十九。工部侍郎を贈られた。
陸羽
陸羽、字は鴻漸、一名は疾、字は季疵、復州竟陵の人。生い立ちは知れず、或いは僧が水濱で拾い、養育したという。成長して、『易』で自ら占い、『蹇』の『漸』を得て、「鴻漸于陸、其羽可用爲儀」と言った。そこで陸を氏とし、名と字をこれに因んでつけた。
幼い時、師が彼に梵字を教えようとすると、答えて「兄弟も少なく、後嗣も絶えるのに、孝と爲し得ましょうか」と言った。師は怒り、糞除や壁塗りをさせて苦しめ、また牛三十頭を放牧させた。陸羽は密かに竹で牛の背に字を書いた。張衡の『南都賦』を得たが、讀めず、端座して子供たちが囁くように誦する様を真似ていると、師は彼を拘え、草を刈らせた。文字を記憶する時、ぼんやりとして忘れたようで、一日中仕事をしないので、監督者が鞭で苦しめると、歎いて「歲月は過ぎ去った、どうして書を學ばなかったのか」と言い、嗚咽して堪えられず、遂に逃げ去り、優人に身をやつし、詼諧な文を數千言作った。
天寶年間、州人が酒宴を開き、役人が陸羽を伶師に任命すると、太守李齊物がこれを見て異とし、書物を授けたので、遂に火門山に庵を結んだ。容貌は侻陋で、吃りながらも辯舌があった。人の善行を聞けば、己がことの如く喜び、過ちを見れば、人に逆らうまでに切に諫めた。朋友と宴席に居て、思い立つことがあれば直ちに去り、人は彼がよく怒ると疑った。人と約束すれば、雨雪や虎狼も避けなかった。上元初め、更に苕溪に隠れ、自ら桑苧翁と稱し、門を閉じて著書した。或いは獨り野中を行き、詩を誦し木を叩き、彷徨して意を得ず、慟哭して歸ることもあったので、時に今の接輿であると言われた。久しくして、詔して陸羽を太子文學に拜し、太常寺太祝に轉じたが、就職しなかった。貞元末、卒す。
陸羽は茶を嗜み、經三篇を著し、茶の起源、製法、器具について特に詳しく述べ、天下ますます茶を飲むことを知るようになった。當時、茶を賣る者は、陸羽の形を陶製して竈の煙突の間に置き、茶神として祀った。常伯熊という者がおり、陸羽の論に因んで更に茶の功效を廣く著した。御史大夫李季卿が江南を宣慰し、臨淮に滞在した時、伯熊が茶をよく煮ることを知り、召し寄せると、伯熊が器を持って進み、季卿はために再び杯を舉げた。江南に至り、また陸羽を推薦する者があったので召すと、陸羽は野服を着て道具を携えて入ったが、季卿は禮をしなかった。陸羽はこれを恥じ、更に『毀茶論』を著した。その後、茶を尚ぶことが風となり、時に回紇が入朝し、始めて馬を驅って茶を買った。
崔覲
崔覲、梁州城固の人。儒をもって自ら業とし、自ら耕耨して生計を立てた。老いて子がなく、田宅財産を奴婢に分け與えて各々の業とさせ、自らは妻と共に南山に隠れ、奴婢にその家を訪ねれば酒食を給することを約し、夫婦嘯詠し互いに楽しみとした。山南西道節度使鄭余慶が參謀に辟召し、敦促して就職させたが、吏事に通ぜず、余慶は長者と稱した。文宗の時、左補闕王直方はその同郷人であり、上書して事を論じ、便殿で引見され、遺逸を訪ねられたので、直方は崔覲の高行を推薦した。詔して起居郎として召したが、病を理由に辭して至らなかった。
陸龜蒙
陸龜蒙、字は魯望、元方の七世の孫である。父の賓虞は文をもって侍御史に至った。龜蒙は少時より高邁で放縱、『六經』の大義に通じ、特に『春秋』に明るかった。進士に舉げられたが一度も及第せず、湖州刺史張摶に從って游學した。摶は湖・蘇二州を歷任し、辟召して自らの補佐とした。饒州に至ったことがあり、三日間何處にも赴かなかった。刺史蔡京が官屬を率いて會いに行くと、龜蒙は喜ばず、衣を拂って去った。
松江の甫裏に住み、多くの論撰があり、幽憂疾痛であっても、資産十日分の蓄えもなくとも、少しも止めなかった。文が成ると、草稿を篋中にしまい込み、或いは一年經っても省みず、好事家に盜まれることもあった。書物を得れば熟誦してから書き寫し、校合に勤勉で、硃筆黃筆を手から離さず、所藏は少ないが、その精華は皆傳えるに足るものであった。人の書物を借り、篇帙が壞れ誤っていれば、必ず補綴し校正した。人の學問を聞くことを樂しみ、講論して倦まなかった。
陸氏は姑蘇に在り、その門前に巨石有り。遠祖の陸績、嘗て呉に仕えて郁林太守と為り、罷めて帰るに装ひ無く、舟軽くして海を越ゆるを得ず、石を取りて重しと為す。人其の廉を称し、「郁林石」と号す。世其の居を保つと云ふ。