新唐書

巻一百九十六 列傳第一百二十一 隱逸 王績 孫思邈 田遊巖 孟詵 王友貞 王希夷 李元愷 衛大經 武攸緒 白履忠 吳兢 盧鴻 吳筠 潘師正 司馬承禎 賀知章 秦系 張志和 孫述睿 陸羽 崔覲 陸龜蒙

巻一百九十六 列傳第一百二十一 隱逸 王績 孫思邈 田遊巖 孟詵 王友貞 王希夷 李元愷 衛大經 武攸緒 白履忠 吳兢 盧鴻 吳筠 潘師正 司馬承禎 賀知章 秦系 張志和 孫述睿 陸羽 崔覲 陸龜蒙

古来の隠者には、おおよそ三つの類型がある。最上の者は、身は隠れても徳は晦まず、自ら草野に放浪するが、名声はそれに従って赴く。万乗の貴きをもってしても、なおその軌跡を尋ねて招聘を委ねる。次ぐ者は、治世の才具を携えながら伸ばすことができず、あるいは峻厳な行いを持って俗に屈せず、応じることがあっても、爵禄に対しては淡々と受け、悠々と辞し、人君に常に慕い企てる心を抱かせ、寂然として足りざるが如くならしめる。これが貴ぶべきである。末の者は、資質が枯淡で、山林を楽しみ、己が才を内に省みて、終に当世の取捨に堪えられない。故に丘園に逃れて還らず、人に常にその風を高くさせて敢えて誹謗を加えさせない。また世に隠者がいなかったことはなく、いたならば必ず旌表し礼賛して先んじたのは、孔子の所謂「逸民を挙げれば、天下の人の心はこれに帰する」によるのである。

原文古之隱者,大抵有三概:上焉者,身藏而德不晦,故自放草野,而名往從之,雖萬乘之貴,猶尋軌而委聘也;其次,挈治世具弗得伸,或持峭行不可屈於俗,雖有所應,其於爵祿也,泛然受,悠然辭,使人君常有所慕企,怊然如不足,其可貴也;末焉者,資槁薄,樂山林,內審其才,終不可當世取捨,故逃丘園而不返,使人常高其風而不敢加訾焉。且世未嘗無隱,有之未嘗不旌賁而先焉者,以孔子所謂「舉逸民,天下之人歸焉」。

唐が興り、賢人が位に就く者は多く、遁世して出ない者は、その才が歴然と述べるに足るが、しかし皆下の類型の者である。それでもなお、各々その素質を保ち、言葉に黙を託したのではなく、足は崖壑にありながら志は城闕にあるのでもない。しかし利を放つ徒は、隠逸を仮りて自らを飾り、禄仕を欺くため、道で肩を摩し、ついに終南山・嵩少山を仕途の近道と号するに至り、高尚の節は失われた。故に喜び慕うに足る者を集めて篇に類する。

原文唐興,賢人在位眾多,其遁戢不出者,才班班可述,然皆下概者也。雖然,各保其素,非托默於語,足崖壑而志城闕也。然放利之徒,假隱自名,以詭祿仕,肩相摩於道,至號終南、嵩少爲仕途捷徑,高尚之節喪焉。故裒可喜慕者類於篇。

王績

原文王績

王績、字あざなは無功、絳州龍門の人。性質は簡略で放縦、拝揖を喜ばない。兄の王通は、隋末の大儒で、河汾の間に徒を集め、古に倣って『六経』を作り、また『中説』を著して『論語』に擬した。諸儒に称道されなかったため、書は顕れず、ただ『中説』のみが伝わる。王通は王績が誕放であることを知り、家事を煩わせず、郷族の慶弔冠婚には与からせなかった。李播・呂才と親善であった。

原文王績,字無功,絳州龍門人。性簡放,不喜拜揖。兄通,隋末大儒也,聚徒河、汾間,仿古作《六經》,又爲《中説》以擬《論語》。不爲諸儒稱道,故書不顯,惟《中説》獨傳。通知績誕縱,不嬰以家事,鄉族慶吊冠昏,不與也。與李播、呂才善。

大業年間、孝悌廉潔に挙げられ、秘書省正字に任じられた。朝廷にいることを好まず、六合県丞を求めたが、酒を嗜んで職務に堪えず、当時天下も乱れていたため、弾劾され、遂に解任されて去った。歎いて言うには、「網羅は天にあり、我はまさにどこに安んじようか!」と。乃ち郷里に還った。河渚の間に田十六頃があった。仲長子光という者も、隠者で、妻子なく、北渚に廬を結び、凡そ三十年、己が力によらざるものは食さなかった。王績はその真実を愛し、移って近くに住んだ。子光は唖で、一度も言葉を交わさず、向かい合って酒を酌み交わすことを大いに楽しんだ。王績には奴婢数人がおり、黍を植え、春秋に酒を醸し、鳧雁を養い、薬草を植えて自給した。『周易』・『老子』・『莊子』を床頭に置き、他の書はめったに読まなかった。兄弟に会いたい時は、すぐに河を渡って家に帰った。北山の東皋を遊歴し、著書して自ら東皋子と号した。牛に乗って酒肆を通ると、留まること数日に及んだ。

原文大業中,舉孝悌廉潔,授秘書省正字。不樂在朝,求爲六合丞,以嗜酒不任事,時天下亦亂,因劾,遂解去。歎曰:「網羅在天,吾且安之!」乃還鄉里。有田十六頃在河渚間。仲長子光者,亦隱者也,無妻子,結廬北渚,凡三十年,非其力不食。績愛其真,徙與相近。子光喑,未嘗交語,與對酌酒歡甚。績有奴婢數人,種黍,春秋釀酒,養鳧雁,蒔藥草自供。以《周易》、《老子》、《莊子》置床頭,他書罕讀也。欲見兄弟,輒度河還家。游北山東皋,著書自號東皋子。乘牛經酒肆,留或數日。

高祖武徳初め、前官として門下省に待詔した。故事により、官が酒を給すること一日三升、或る人が問うて「待詔は何が楽しいのか?」と。答えて言うには、「良醸が恋しいだけである」と。侍中陳叔達がこれを聞き、一日一斗を給し、時に「斗酒学士」と称された。貞観初め、病により罷免された。再び有司に調べられ、当時太楽署史の焦革の家は醸造が上手かったので、王績は丞を求めた。吏部は流外の官ではないとして許さなかったが、王績は固く請うて「深い意味がある」と言い、遂にこれを除した。焦革が死ぬと、妻が酒を送るのを絶やさず、一年余りして、また死んだ。王績は言うには、「天は我に美酒を酣に飲ませないのか?」と。官を棄てて去った。これより太楽丞は清職となった。焦革の酒法を追述して経とし、また杜康・儀狄以来の善く酒を作る者を採って譜とした。李淳風が言うには、「君は酒家の南史・董狐である」と。居所の東南に磐石があり、杜康祠を立ててこれを祭り、師と尊び、焦革を配祀した。『酔郷記』を著して劉伶の『酒徳頌』に次いだ。その飲みっぷりは五斗に至っても乱れず、人が酒で招く者は、貴賤を問わずすぐに赴き、『五斗先生伝』を著した。刺史の崔喜はこれを悦び、面会を請うたが、答えて言うには、「どうして厳君平を坐して召すことができようか?」と。遂に詣らなかった。杜之松は旧知で、刺史となり、王績に礼を講じるよう請うたが、答えて言うには、「我は邦君の門で揖譲し、糟粕を談じ、醇醪を棄てることはできない」と。之松は歳時に酒脯を贈った。初め、兄の王凝が隋の著作郎となり、『隋書』を撰したが未完成で死に、王績がその余功を継いだが、また完成できなかった。終わる日を予知し、薄葬を命じ、自らその墓誌を書いた。

原文高祖武德初,以前官待詔門下省。故事,官給酒日三升,或問:「待詔何樂邪?」答曰:「良醞可戀耳!」侍中陳叔達聞之,日給一斗,時稱「鬥酒學士」。貞觀初,以疾罷。復調有司,時太樂署史焦革家善釀,績求爲丞,吏部以非流不許,績固請曰:「有深意。」竟除之。革死,妻送酒不絕,歲餘,又死。績曰:「天不使我酣美酒邪?」棄官去。自是太樂丞爲清職。追述革酒法爲經,又采杜康、儀狄以來善酒者爲譜。李淳風曰:「君,酒家南、董也。」所居東南有磐石,立杜康祠祭之,尊爲師,以革配。著《醉鄉記》以次劉伶《酒德頌》。其飲至五斗不亂,人有以酒邀者,無貴賤輒往,著《五斗先生傳》。刺史崔喜悅之,請相見,答曰:「奈何坐召嚴君平邪?」卒不詣。杜之松,故人也,爲刺史,請績講禮,答曰:「吾不能揖讓邦君門,談糟粕,棄醇醪也。」之松歲時贈以酒脯。初,兄凝爲隋著作郎,撰《隋書》未成,死,績續餘功,亦不能成。豫知終日,命薄葬,自志其墓。

王績の仕官は、酔って職を失い、郷人がこれをあざ笑った。無心子に託してその趣を現した。曰く、「無心子が越に居た。越王はその大人物たるを知らず、拘えて仕えさせたが、喜ぶ色がなかった。越国の法に曰く、『穢行ある者は歯しない』と。間もなく無心子は穢行で知られるようになり、王はこれを罷免したが、慍る色がなかった。退いて茫蕩の野に適い、動の邑を過ぎて機士に会った。機士は股を撫でて言うには、『ああ、あなたは賢者でありながら罪で廃されたのか?』と。無心子は答えなかった。機士が言うには、『教えを願いたい』と。曰く、『あなたは蜚廉氏の馬を聞いたことがあるか。一匹は朱い鬣に白い毛、龍の骨格に鳳の胸、疾駆すれば舞の如く、終日轡を緩めずに熱死した。もう一匹は頭が重く尾を昂げ、駱駝の首に貉の膝、足を引きずり善く蹶き、野に棄てられたが、一年で肥えた。鳳は山に棲むことを憎まず、龍は泥に蟠ることを恥じない。君子は潔白にこだわって患いに遭わず、穢れを避けずして精を養うのである』と」。その自ら処する所はこのようであった。

原文績之仕,以醉失職,鄉人靳之,托無心子以見趣曰:「無心子居越,越王不知其大人也,拘之仕,無喜色。越國法曰:『穢行者不齒。』俄而無心子以穢行聞,王黜之,無慍色。退而適茫蕩之野,過動之邑而見機士,機士撫髀曰:『嘻!子賢者而以罪廢邪?』無心子不應。機士曰:『願見教。』曰:『子聞蜚廉氏馬乎?一者硃鬣白毳,龍骼鳳臆,驟馳如舞,終日不釋轡而以熱死;一者重頭昂尾,駝頸貉膝,啉是齧善蹶,棄諸野,終年而肥。夫鳳不憎山棲,龍不羞泥蟠,君子不苟潔以罹患,不避穢而養精也。』」其自處如此。

朱桃椎、益州成都の人。澹泊として俗を絶ち、裘を被り索を曳き、人はその行いを測ることができなかった。長史の竇軌がこれを見て、衣服・鹿幘さく・麂靴を贈り、強いて郷正に任命しようとした。地面に委ねて、服しようとしなかった。更に山中に廬を結び、夏は裸、冬は木の皮や葉を綴って自らを蔽い、贈り物は一切受け取らなかった。かつて十足の芒鞋を織って道上に置くと、見る者が言うには、「居士の鞋だ」と。米や茶と交換するために売り、その場所に置くと、すぐに取って去り、終に人と接しなかった。その作る鞋は、草が柔らかく細かく、環結が緊密で、人は争って履いた。高士廉が長史となり、礼を尽くして請うと、階を降りてこれと語ったが、答えず、睨みつけて出て行った。士廉は拝して言うには、「祭酒は我に無事をもって蜀を治めさせようとするのか?」と。乃ち条目を簡略にし、賦斂を薄くし、州は大いに治まった。たびたび人を遣わして安否を問うたが、会うとすぐに林草に走り自ら隠れたという。

原文硃桃椎,益州成都人。澹泊絕俗,被裘曳索,人莫能測其爲。長史竇軌見之,遺以衣服、鹿幘、麂靴,逼署鄉正。委之地,不肯服。更結廬山中,夏則裸,冬緝木皮葉自蔽,贈遺無所受。嘗織十芒屩置道上,見者曰:「居士屩也。」爲鬻米茗易之,置其處,輒取去,終不與人接。其爲屩,草柔細,環結促密,人爭躡之。高士廉爲長史,備禮以請,降階與之語,不答,瞪視而出。士廉拜曰:「祭酒其使我以無事治蜀邪?」乃簡條目,薄賦斂,州大治。屢遣人存問,見輒走林草自匿云。

孫思邈

原文孫思邈

孫思邈、京兆華原の人。百家の説に通じ、老子・莊周をよく説いた。北周の洛州総管獨孤信がその幼少時に会い、異とし、言うには、「聖童であるが、器が大きすぎて用いるのが難しいだけだ」と。成長して、太白山に住んだ。隋の文帝が政を輔ける時、国子博士として召したが、拝さなかった。密かに人に語って言うには、「後五十年に聖人が出る。我はまさにこれを助けよう」と。太宗の初め、召されて京師に詣でた。年は既に老いていたが、聴視は聡明であった。帝は歎じて言うには、「有道者である!」と。官にしようとしたが、受けなかった。顕慶年間、再び召し出されて拝謁し、諫議大夫に任じようとしたが、固く辞した。上元元年、病と称して山に還り、高宗は良馬を賜い、鄱陽公主の邑司を仮りてこれに住まわせた。

原文孫思邈,京兆華原人。通百家説,善言老子、莊周。周洛州總管獨孤信見其少,異之,曰:「聖童也,顧器大難爲用爾!」及長,居太白山。隋文帝輔政,以國子博士召,不拜。密語人曰:「後五十年有聖人出,吾且助之。」太宗初,召詣京師,年已老,而聽視聰嘹。帝歎曰:「有道者!」欲官之,不受。顯慶中,復召見,拜諫議大夫,固辭。上元元年,稱疾還山,高宗賜良馬,假鄱陽公主邑司以居之。

思邈は陰陽・推歩・医薬に通じないものはなく、孟詵・盧照鄰らが師事した。照鄰は悪疾を患い、治すことができず、感傷して問うて言う、「高医は病を癒やすが、その術は如何に」と。答えて言う、「天には四時五行があり、寒暑が交替し、和すれば雨となり、怒れば風となり、凝れば雨霜となり、張れば虹霓となる、これが天の常の数である。人の四肢五臓は、一覚一寐し、吐納往来し、流れて栄衛となり、章じて気色となり、発して音声となる、これが人の常の数である。陽はその形を用い、陰はその精を用いる、天と人とは同じである。これを失えば、烝して熱を生じ、否して寒を生じ、結して瘤贅となり、陥して癰疽となり、奔れば喘乏し、端すれば燋槁し、面に発し、形に動く。天地もまた然り、五緯の縮贏、孛彗の飛流、これがその危診である。寒暑時ならざるは、その蒸否である。石立ち土踊るは、これがその瘤贅である。山崩れ土陥るは、これがその癰疽である。奔風暴雨はその喘乏、川瀆竭涸はその燋槁である。高医は薬石をもって導き、𨥧剤をもって救う。聖人は至徳をもって和し、人事をもって輔ける。故に体には癒ゆべき疾があり、天には振るうべき災いがある」と。

原文思邈於陰陽、推步、醫藥無不善,孟詵、盧照鄰等師事之。照鄰有惡疾,不可爲,感而問曰:「高醫愈疾,奈何?」答曰:「天有四時五行,寒暑迭居,和爲雨,怒爲風,凝爲雨霜,張爲虹霓,天常數也。人之四支五藏,一覺一寐,吐納往來,流爲榮衛,章爲氣色,發爲音聲,人常數也。陽用其形,陰用其精,天人所同也。失則烝生熱,否生寒,結爲瘤贅,陷爲癰疽,奔則喘乏,端則燋槁,發乎面,動乎形。天地亦然:五緯縮贏,孛彗飛流,其危診也;寒暑不時,其蒸否也;石立土踴,是其瘤贅;山崩土陷,是其癰疽;奔風暴雨其喘乏,川瀆竭涸其燋槁。高醫導以藥石,救以𨥧劑;聖人和以至德,輔以人事。故體有可愈之疾,天有可振之災。」

照鄰が言う、「人事とは如何に」と。曰く、「心はこれが君であり、君は恭しみを尚ぶ、故に小なることを欲する。《詩経》に『深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し』とある、これが小の謂いである。胆はこれが将であり、果決を務めとする、故に大なることを欲する。《詩経》に『赳赳たる武夫、公侯の幹城』とある、これが大の謂いである。仁者は静か、地の象である、故に方なることを欲する。《伝》に『利のために回らず、義のために疚まず』とある、これが方の謂いである。智者は動く、天の象である、故に円なることを欲する。《易》に『機を見て作り、終日を俟たず』とある、これが円の謂いである」と。

原文照鄰曰:「人事奈何?」曰:「心爲之君,君尚恭,故欲小。《詩》曰『如臨深淵,如履薄冰』,小之謂也。膽爲之將,以果決爲務,故欲大。《詩》曰『赳赳武夫,公侯幹城』,大之謂也。仁者靜,地之象,故欲方,《傳》曰『不爲利回,不爲義疚』,方之謂也。智者動,天之象,故欲圓。《易》曰『見機而作,不俟終日』,圓之謂也。」

また養性の要を問うと、答えて言う、「天には盈虚があり、人には屯危がある、自ら慎まなければ、済すことはできない。故に養性は必ずまず自慎を知らねばならない。慎みは畏れを本とす、故に士が畏れなければ仁義を簡略にし、農が畏れなければ稼穡を堕とし、工が畏れなければ規矩を慢にし、商が畏れなければ貸殖せず、子が畏れなければ孝を忘れ、父が畏れなければ慈を廃し、臣が畏れなければ勲を立てず、君が畏れなければ乱を治めない。ここにおいて太上は道を畏れ、其次は天を畏れ、其次は物を畏れ、其次は人を畏れ、其次は身を畏れる。身を憂うる者は人に拘われず、己を畏るる者は彼に制せられず、小を慎む者は大に懼れず、近くを戒むる者は遠くを侮らない。これを知れば人事は畢わる」と。

原文復問養性之要,答曰:「天有盈虛,人有屯危,不自慎,不能濟也。故養性必先知自慎也。慎以畏爲本,故士無畏則簡仁義,農無畏則墮稼穡,工無畏則慢規矩,商無畏則貸不殖,子無畏則忘孝,父無畏則廢慈,臣無畏則勳不立,君無畏則亂不治。是乙太上畏道,其次畏天,其次畏物,其次畏人,其次畏身。憂于身者不拘於人,畏於己者不制於彼,慎於小者不懼於大,戒於近者不侮於遠。知此則人事畢矣。」

初め、魏徴らが斉・梁・周・隋などの五家の史を修めるに当たり、しばしば遺漏を諮問したので、その伝は最も詳しい。永淳の初め、卒す、百余歳、遺令して薄葬を命じ、明器を蔵めず、祭祀には牲牢を去らせた。

原文初,魏征等修齊、梁、周、隋等五家史,屢咨所遺,其傳最詳。永淳初,卒,年百餘歲,遺令薄葬,不藏明器,祭去牲牢。

孫処約がかつて諸子を引いて会わせると、思邈は言う、「俊は先に顕れ、侑は晩く貴くなり、佺は禍いが兵を執るにある」と。後に皆験した。太子詹事盧斉卿が若い時、思邈は言う、「後五十年にして方伯の位に至り、我が孫が属吏となるであろう、自ら愛せよ」と。時に思邈の孫の溥は未だ生まれていなかったが、溥が蕭県の丞となった時、斉卿は徐州刺史であった。

原文孫處約嘗以諸子見,思邈曰:「俊先顯,侑晚貴,佺禍在執兵。」後皆驗。太子詹事盧齊卿之少也,思邈曰:「後五十年位方伯,吾孫爲屬吏,願自愛。」時思邈之孫溥尚未生,及溥爲蕭丞,而齊卿徐州刺史。

田遊巖

原文田遊巖

田遊巖は、京兆三原の人である。永徽の時、太学生に補せられた。罷めて帰り、太白山に入る。母と妻は皆方外の志があり、共に山水の間に棲み遅れた。蜀より荊・楚を歴て、夷陵の青溪を愛し、その側に廬を止めた。長史李安期がその才を表し、召して京師に赴かせようとしたが、汝まで行き、病を辞して箕山に入り、許由の祠の傍らに居り、自ら「由東隣」と号し、頻りに召されても出なかった。

原文田遊巖,京兆三原人。永徽時,補太學生。罷歸,入太白山。母及妻皆有方外志,與共棲遲山水間。自蜀曆荊、楚,愛夷陵青溪,止廬其側。長史李安期表其才,召赴京師,行及汝,辭疾入箕山,居許由祠旁,自號「由東鄰」,頻召不出。

高宗が嵩山に幸した時、中書侍郎薛元超を遣わしてその母を問わせ、薬物と絮帛を賜う。帝自らその門に至り、遊巖は野服で出て拝し、儀容は謹樸であった。帝は左右に命じて扶け止めさせ、謂うて言う、「先生は近頃佳いか」と。答えて言う、「臣は所謂、泉石膏肓、煙霞痼疾の者でございます」と。帝が言う、「朕が君を得ることは、漢が四皓を得るに何の異なることがあろうか」と。薛元超が帝を賛して言う、「漢は嫡を廃し庶を立てようとした故に、四人の者が出たのであり、陛下のように自ら巖穴に降られることとどうして比べられましょうか」と。帝は悦び、因って遊巖に命じて家属を乗伝させて都に赴かせ、崇文館学士に拝した。帝が奉天宮を営むと、遊巖の旧宅は宮の左に当たり、詔して毀たせなかった。天子自らその門に榜を書き、「隠士田遊巖宅」とした。太子洗馬に進む。裴炎が死ぬと、平素厚く善しとしていたことに坐し、放還されて山に帰る。蚕衣耕食し、当世と交わらず、ただ韓法昭・宋之問と方外の友となったという。

原文高宗幸嵩山,遣中書侍郎薛元超就問其母,賜藥物絮帛。帝親至其門,遊巖野服出拜,儀止謹樸,帝令左右扶止,謂曰:「先生比佳否?」答曰:「臣所謂泉石膏肓,煙霞痼疾者。」帝曰:「朕得君,何異漢獲四皓乎?」薛元超贊帝曰:「漢欲廢嫡立庶,故四人者爲出,豈如陛下親降巖穴邪?」帝悅,因敕遊巖將家屬乘傳赴都,拜崇文館學士。帝營奉天宮,遊巖舊宅直宮左,詔不聽毀。天子自書榜其門,曰「隱士田遊巖宅」。進太子洗馬。裴炎死,坐素厚善,放還山。蠶衣耕食,不交當世,惟與韓法昭、宋之問爲方外友云。

時にまた史徳義という者がいた、昆山の人で、虎丘山に住んだ。牛に騎り瓢を帯びて、廛野に出没した。高宗がその名を聞き、洛陽に召したが、俄かに疾を称して帰った。天授の初め、江南宣労使周興がこれを薦め、また召されて都に赴き、朝散大夫に擢でられた。周興が死ぬと、免官されて帰り、平素の誉れは頓に衰えた。

原文時又有史德義者,昆山人,居虎丘山。騎牛帶瓢,出入廛野。高宗聞其名,召至洛陽,俄稱疾歸。天授初,江南宣勞使周興薦之,復召赴都,擢朝散大夫。興死,免官歸,素譽頓衰。

孟詵

原文孟詵

孟詵は、汝州梁の人である。進士第に擢でられ、累遷して鳳閣舎人となった。ある日劉禕之の家に行き、賜わった金を見て言う、「これは薬金である、焼くと、火に五色の気がある」と。試みると、験があった。武后が聞き、悦ばず、出されて台州司馬となり、頻りに遷って春官侍郎となった。相王が召して侍読とした。同州刺史に拝した。神龍の初め、致仕し、伊陽山に居り、方薬を治めた。睿宗が召し、用いようとしたが、老いを以て固く辞し、物百段を賜い、詔して河南に春秋に羊酒糜粥を給せしめた。尹の畢構は詵に古人の風があるとして、その居所を子平里と名付けた。開元の初め、卒す、九十三歳。

原文孟詵,汝州梁人。擢進士第,累遷鳳閣舍人。他日至劉禕之家,見賜金,曰:「此藥金也,燒之,火有五色氣。」試之,驗。武后聞,不悅,出爲台州司馬,頻遷春官侍郎。相王召爲侍讀。拜同州刺史。神龍初,致仕,居伊陽山,治方藥。睿宗召,將用之,以老固辭,賜物百段,詔河南春秋給羊酒糜粥。尹畢構以詵有古人風,名所居爲子平里。開元初,卒,年九十三。

詵は居官するに頗る刻斂であったが、治績をもって称された。その閑居時に嘗て人に語って言う、「養性の者は、善言を口から離さず、善薬を手から離さぬがよい」と。当時、その言を伝えた。

原文詵居官頗刻斂,然以治稱。其閒居嘗語人曰:「養性者,善言不可離口,善藥不可離手。」當時傳其當。

王友貞

原文王友貞

王友貞は、懐州河内の人である。父の知敬は、書隷を善くした。武后の時、仕えて麟台少監となった。友貞は若くして司経局正字となった。母が病むと、医者が人肉を得て啖れば良く癒えると言ったので、友貞は股を剔いて進めると、母の疾は癒えた。詔してその門を旌表した。平素好学で、子弟を訓誨すること厳父の如くであった。口にして人の過ちを語らず、然諾を重んじ、時に君子と為された。長水令を歴任し、罷めて帰った。中宗が東宮に在った時、召して司儀郎としようとしたが、就かなかった。神龍の初め、太子中舎人として征されたが、固く疾を辞した。詔して珍饌を致し、全禄を終身に給し、四時にその所に送り、州県に存問させた。玄宗が東宮に在った時、表して蒲車をもって召そうとしたが、至らなかった。卒す、九十九歳、銀青光禄大夫を贈られ、県令が弔祭した。

原文王友貞,懷州河內人。父知敬,善書隸。武后時,仕爲麟台少監。友貞少爲司經局正字。母病,醫言得人肉啖良已,友貞剔股以進,母疾愈。詔旌表其門。素好學,訓誨子弟如嚴君。口不語人過,重然諾,時以爲君子。曆長水令,罷歸。中宗在東宮,召爲司儀郎,不就。神龍初,以太子中舍人征,固辭疾。詔致珍饌,給全祿終身,四時送其所,州縣存問。玄宗在東宮,表以蒲車召,不至。卒,年九十九,贈銀青光祿大夫,賴縣令弔祭。

王希夷

原文王希夷

王希夷は徐州の滕の人である。家は貧しく、父母が喪に服したとき、人のために羊を牧し、賃銭を得て葬った。嵩山に隠棲し、師の黄頤に養生の術を学ぶこと四十年。黄頤が卒すると、更に兗州の徂徠に住み、劉玄博と親善であった。『周易』『老子』を読むことを好み、松柏の葉や雑花を服餌し、年七十余りにして、筋力は柔軟で強健であった。刺史の盧齊卿が謁見して政事を問うと、答えて曰く、「『己の欲せざる所は人に施す勿れ』、この言以て足る」と。

原文王希夷,徐州滕人。家貧,父母喪,爲人牧羊,取傭以葬。隱嵩山,師黃頤學養生四十年。頤卒,更居兗州徂徠,與劉玄博友善。喜讀《周易》、《老子》,餌松柏葉、雜華,年七十餘,筋力柔強。刺史盧齊卿就謁問政,答曰:「『己所不欲,勿施於人』,此言足矣。」

玄宗が東方に巡狩したとき、詔して州県に敦めさせて行在所に引見せしむ。時に九十余歳、帝は張説に命じて政事を訪わせ、宦官に扶けられて宮中に入り、語り合って甚だ悦び、国子博士に拝し、還山を聴された。勅して州県に春秋に束帛酒肉を致させ、なお絹百匹、衣一襲を賜う。

原文玄宗東巡狩,詔州縣敦勸見行在,時九十餘,帝令張説訪以政事,宦官扶入宮中,與語甚悅,拜國子博士,聽還山。敕州縣春秋致束帛酒肉,仍賜絹百、衣一稱。

李元愷

原文李元愷

李元愷は邢州の人である。博学で、天歩律暦に善く、性恭慎にして、未だ嘗て敢えて人に語らざりき。宋璟嘗て之に師事し、既に国政を執るに当たり、厚く束帛を遺して以て之を朝に薦めんとす。拒絶して答えず。洺州刺史の元行沖が招き致して、経義を問い終わり、衣服を贈る。辞して曰く、「吾が躯は新麗を服すべからず、称せざるを懼れて咎を速んずるなり」と。行沖は垢衊の衣を更に之に与うるも、已むを得ずして受く。俄かに身の蚕する素絲を報いて曰く、「義、無妄の財を受くべからざるなり」と。是に先立ち、定州の崔元鑒は『礼』学に善く、張易之の力を用いて、朝散大夫を授かり、家居して半禄を給せらる。元愷誚して曰く、「功無くして禄有るは災いなり」と。卒す、年八十余。

原文李元愷,邢州人。博學,善天步律曆,性恭慎,未嘗敢語人。宋璟嘗師之,既當國,厚遺以束帛,將薦之朝,拒不答。洺州刺史元行沖邀致之,問經義畢,贈衣服,辭曰:「吾軀不可服新麗,懼不稱以速咎也。」行沖垢衊復與之,不獲已而受。俄報身所蠶素絲,曰:「義不受無妄財也。」先是,定州崔元鑒善《禮》學,用張易之力,授朝散大夫,家居給半祿。元愷誚曰:「無功而祿,災也。」卒,年八十餘。

衞大経

原文衞大經

衞大経は蒲州解県の人である。卓然たる高行、口に二言無し。武后の時、之を召すも、固より疾を辞す。平素魏の夏侯乾童と善し、其の母の卒するを聞き、盛暑に歩み往きて弔う。或る人止めて曰く、「方に夏なり、遠く渉るは書を致すに如かず」と。答えて曰く、「書能く意を尽くすや」と。比至るに、乾童は事有りて行く。乃ち席を設けて弔礼を行い、其の家を訊ねずして還る。開元初、畢構が刺史と為り、県令の孔慎言をして就き謁せしむ。辞して見えず。

原文衞大經,蒲州解人。卓然高行,口無二言。武后時,召之,固辭疾。素善魏夏侯乾童,聞其母卒,盛暑步往吊,或止之曰:「方夏,涉遠不如致書。」答曰:「書能盡意邪?」比至,乾童以事行,乃設席行吊禮,不訊其家而還。開元初,畢構爲刺史,使縣令孔慎言就謁,辭不見。

大経は『易』に邃く、人の之を「『易』聖」と謂う。予め死日を筮い、墓を鑿ち自ら志を為す。言う如くに終わる。

原文大經邃于《易》,人謂之「《易》聖」。豫筮死日,鑿墓自爲志,如言終。

武攸緒

原文武攸緒

武攸緒は則天皇后の兄惟良の子なり。恬淡寡欲、『易』・莊周の書を好む。少しく姓名を変え、長安市に卜を売り、銭を得ては輒ち委ね去る。後に更に太子通事舍人を授かり、累遷して揚州大都督府長史・鴻臚少卿と為る。后が革命するに及び、安平郡王に封ぜられ、中嶽の封に従う。固より官を辞し、隠居を願う。后其の詐りを疑い、之を許し、以て為す所を観る。攸緒は巖下に廬し、素より遁るる者の如し。后其の兄攸宜を遣わして敦諭せしむも、卒に起たず。后乃ち之を異とす。龍門・少室の間に盤桓し、冬は茅椒に蔽れ、夏は石室に居り、賜わられたる所の金銀の鐺鬲・野服、王公の遺る所の鹿裘・素障・癭杯、塵皆流積して、禦わざるなり。潁陽に田を市い、家奴をして雑作せしめ、自ら民に混じる。晚年肌肉消眚し、瞳に紫光有り、昼に星を見ること能う。

原文武攸緒,則天皇后兄惟良子也。恬淡寡欲,好《易》、莊周書。少變姓名,賣卜長安市,得錢輒委去。後更授太子通事舍人,累遷揚州大都督府長史、鴻臚少卿。後革命,封安平郡王,從封中嶽,固辭官,願隱居。後疑其詐,許之,以觀所爲。攸緒廬巖下如素遁者,後遣其兄攸宜敦諭,卒不起,後乃異之。盤桓龍門、少室間,冬蔽茅椒,夏居石室,所賜金銀鐺鬲、野服,王公所遺鹿裘、素障、癭杯,塵皆流積,不禦也。市田潁陽,使家奴雜作,自混於民。晚年肌肉消眚,瞳有紫光,晝能見星。

中宗の初め、降封して巢国公と為り、国子司業杜慎盈を遣わし書を齎し安車を以て召し、太子賓客に拝す。苦しくして還山を祈り、詔して可とす。安楽公主出降するに、又通事舍人李邈を遣わし璽書を以て之を迎う。将に至らんとす、帝勅して有司に即ち両儀殿に位を設けさせ、問道の礼を行わしむ。詔して見る日に山帔葛巾し、名せず拝せず。攸緒至り、更に冠帯す。仗入り、通事舍人贊して就位す。攸緒趨りて常班に就き再拝す。帝愕然たり、礼行うに及ばず。朝廷歎息す。賜予は受くる所無し。親貴来謁すも、寒温を道う外、黙して言う所無し。還るに及び、中書・門下・学士・朝官五品以上、並びに城東に祖す。

原文中宗初,降封巢國公,遣國子司業杜慎盈齎書以安車召,拜太子賓客。苦祈還山,詔可。安樂公主出降,又遣通事舍人李邈以璽書迎之。將至,帝敕有司即兩儀殿設位,行問道禮,詔見日山帔葛巾,不名不拜。攸緒至,更冠帶。仗入,通事舍人贊就位,攸緒趨就常班再拜,帝愕然,禮不及行,朝廷歎息。賜予無所受,親貴來謁,道寒溫外,默無所言。及還,中書、門下、學士、朝官五品以上,並祖城東。

俄にして諸韋誅され、武氏禍に連なるも、唯攸緒は及ばず。睿宗其の自ら安からざるを恐れ、詔を下して慰諭し、復召して太子賓客に拝せんとす。就かず。譙王重福の乱に、攸緒誣を以て系せらる。張説表して廬山に置く。中書令姚元崇奏す、「攸緒は武后の時に未だ嘗て輒ち出でず。今州県逼遣し、士之が為に驚嗟す。願わくは詔して嵩山の旧居を賜い、州県に存問せしめよ」と。詔して可とす。開元十一年卒す。

原文俄而諸韋誅,武氏連禍,唯攸緒不及。睿宗恐其不自安,下詔慰諭,復召拜太子賓客,不就。譙王重福之亂,攸緒以誣被系,張説表置廬山,中書令姚元崇奏:「攸緒在武后時未嘗輒出,今州縣逼遣,士爲驚嗟。願詔賜嵩山舊居,令州縣存問。」詔可。開元十一年卒。

白履忠

原文白履忠

白履忠は汴州浚儀の人である。文史に貫知し、古き大梁城に居り、時に梁丘子と号す。景雲中、召されて校書郎と為るも、官を棄て去る。開元十年、刑部尚書王志愔、履忠の博学守操を薦め、褚無量・馬懷素に代えて入閣侍読すべしとす。国子祭酒楊瑒又其の賢を表す。召して京師に赴かしむ。病老を辞して職に任じず。詔して朝散大夫に拝す。還るを乞う。手詔して京師に游ぶを許し、徐に里閭に返らしむ。履忠数ヶ月留まりて乃ち去る。

原文白履忠,汴州浚儀人。貫知文史,居古大梁城,時號梁丘子。景雲中,召爲校書郎,棄官去。開元十年,刑部尚書王志愔薦履忠博學守操,可代褚無量、馬懷素入閣侍讀,國子祭酒楊瑒又表其賢,召赴京師。辭病老不任職,詔拜朝散大夫。乞還,手詔許游京師,徐返里閭。履忠留數月乃去。

吳兢

原文吳兢

吳兢、其の里人なり、謂いて曰く、「子素より貧しく、斗米匹帛に沾わず。五品を得ると雖も亦何の益かあらん」と。履忠曰く、「往きし契丹きったん入寇の時、家より排門夫を取る。吾は読書を以て、県之を免す。今終身高臥し、徭役ようえきを寬む。豈に易く得んや」と。

原文吳兢,其里人也,謂曰:「子素貧,不沾斗米匹帛,雖得五品亦何益?」履忠曰:「往契丹入寇,家取排門夫,吾以讀書,縣爲免。今終身高臥,寬徭役,豈易得哉!」

盧鴻

原文盧鴻

盧鴻、字は顥然、その先祖は幽州范陽の人、洛陽に移る。博學にして、書籀を善くす。嵩山に廬す。玄宗の開元初め、禮を備へて再び徵す、至らず。五年、詔して曰く、「鴻は泰一の道有り、中庸の德有り、深きを鉤り微に詣り、確乎として自ら高し。詔書屢下す、每輒ち辭托す、朕をして虚心引領せしむ、今に數年。素履幽人の介を得たりと雖も、而も考父滋恭の誼を失ふ、豈に朝廷の故と生と趣を殊にせるか。將た山林に縱欲し、往きて而も返る能はざるか。禮に大倫有り、君臣の義廢す可からず。今城闕密邇す、勞と爲すに足らず、有司其れ束帛の具を齎し、重ねて茲の旨を宣べ、翻然として節を易へ、朕が意に副ふ有らんことを想ふ」と。

原文盧鴻,字顥然,其先幽州范陽人,徙洛陽。博學,善書籀。廬嵩山。玄宗開元初,備禮征再,不至。五年,詔曰:「鴻有泰一之道,中庸之德,鉤深詣微,確乎自高。詔書屢下,每輒辭托,使朕虛心引領,於今數年。雖得素履幽人之介,而失考父滋恭之誼,豈朝廷之故與生殊趣邪?將縱欲山林,往而不能返乎?禮有大倫,君臣之義不可廢也。今城闕密邇,不足爲勞,有司其齎束帛之具,重宣茲旨,想有以翻然易節,副朕意焉。」

鴻東都に至り、謁見して拜せず、宰相通事舍人を遣はして狀を問はしむ、答へて曰く、「禮は忠信の薄き所なり、臣敢へて忠信を以て見ゆ」と。帝召して内殿に升らしめ、酒を置く。諫議大夫に拜す、固く辭す。復た制を下し、山に還るを許し、歲に米百斛こく・絹五十を給し、府縣其の家を致す、朝廷の得失、其れ狀を以て聞かしむ。將に行かんとし、隱居の服を賜ひ、官草堂を營み、恩禮殊に渥し。鴻山中に到り、學廬を廣め、徒を聚むること五百人に至る。及び卒す、帝萬錢を賜ふ。鴻の居る室、自ら寧極と號すと云ふ。

原文鴻至東都,謁見不拜,宰相遣通事舍人問狀,答曰:「禮者,忠信所薄,臣敢以忠信見。」帝召升內殿,置酒。拜諫議大夫,固辭。復下制,許還山,歲給米百斛、絹五十,府縣爲致其家,朝廷得失,其以狀聞。將行,賜隱居服,官營草堂,恩禮殊渥。鴻到山中,廣學廬,聚徒至五百人。及卒,帝賜萬錢。鴻所居室,自號寧極云。

吳筠

原文吳筠

吳筠、字は貞節、華州華陰の人。經誼に通じ、文辭を美くし、進士に舉げられて中らず。性高鯁にして、時に沈浮するを耐へず、去りて南陽倚帝山に居す。

原文吳筠,字貞節,華州華陰人。通經誼,美文辭,舉進士不中。性高鯁,不耐沈浮于時,去居南陽倚帝山。

天寶初め、召されて京師に至り、道士籍に隷せんことを請ふ、乃ち嵩山に入り潘師正に依り、其の術を究む。南に天臺に遊び、滄海を觀、名有る士と相娛樂し、文辭京師に傳はる。玄宗使を遣はして召見し大同殿に、語るに甚だ悅び、敕して翰林に待詔せしめ、『玄綱』三篇を獻ず。帝嘗て道を問ふ、對へて曰く、「道に深きは、『老子』五千文に如くは莫し、其の餘は徒らに紙劄を喪ふのみ」と。復た神仙治煉の法を問ふ、對へて曰く、「此れ野人の事、歲月を積みて之を求む、人主の留意すべきに非ず」と。筠每に開陳するは、皆名教世務にして、微言を以て天子を諷し、天子之を重んず。群沙門其の見遇を嫉み、而して高力士素より浮屠に事ふ、共に筠を帝に短くす、筠亦た天下將に亂れんとするを知り、懇に嵩山に還るを求む。詔して道館を立つることを爲す。安祿山兵を稱せんと欲し、乃ち茅山に還る。而して兩京陷り、江・淮盜賊起る、因りて東に會稽剡中に入る。大曆十三年卒す、弟子私に諡して宗元先生と爲す。

原文天寶初,召至京師,請隸道士籍,乃入嵩山依潘師正,究其術。南遊天臺,觀滄海,與有名士相娛樂,文辭傳京師。玄宗遣使召見大同殿,與語甚悅,敕待詔翰林,獻《玄綱》三篇。帝嘗問道,對曰:「深於道者,無如《老子》五千文,其餘徒喪紙劄耳。」復問神仙治煉法,對曰:「此野人事,積歲月求之,非人主宜留意。」筠每開陳,皆名教世務,以微言諷天子,天子重之。群沙門嫉其見遇,而高力士素事浮屠,共短筠於帝,筠亦知天下將亂,懇求還嵩山。詔爲立道館。安祿山欲稱兵,乃還茅山。而兩京陷,江、淮盜賊起,因東入會稽剡中。大曆十三年卒,弟子私諡爲宗元先生。

始め、蟋嘻力士に惡まれて斥けらる、故に文章深く釋氏を詆す。筠の善くする孔巢父・李白、歌詩略相甲乙すと云ふ。

原文始,蟋嘻惡於力士而斥,故文章深詆釋氏。筠所善孔巢父、李白,歌詩略相甲乙云。

潘師正

原文潘師正

潘師正は、貝州宗城の人。少くして母に喪ひ、墓に廬し、孝を以て聞こゆ。王遠知に事へて道士と爲り、其の術を得、逍遙穀に居す。高宗東都に幸す、召見し、須ふ所を問ふ、對へて曰く、「茂松清泉、臣の須ふ所なり、既に乏しからず」と。帝尊異し、詔して即ち其の廬に崇唐觀を作らしむ。及び奉天宮を營み、又敕して逍遙穀に直に門を作りて仙遊と曰ひ、北を尋真と曰ふ。時太常新樂を獻ず、帝名を改めて『祈仙』・『望仙』・『翹仙曲』とす。卒す、年九十八、太中大夫を贈り、諡して體玄先生と曰ふ。

原文潘師正者,貝州宗城人。少喪母,廬墓,以孝聞。事王遠知爲道士,得其術,居逍遙穀。高宗幸東都,召見,問所須,對曰:「茂松清泉,臣所須也,既不乏矣。」帝尊異之,詔即其廬作崇唐觀。及營奉天宮,又敕直逍遙穀作門曰仙遊,北曰尋真。時太常獻新樂,帝更名《祈仙》、《望仙》、《翹仙曲》。卒,年九十八,贈太中大夫,諡體玄先生。

又劉道合有り、亦た師正と共に嵩山に居し、帝即ち其の隱る所に太一觀を立て、之に居らしむ。時將に太山を封ぜんとす、雨止まず、帝道合に令して禳祝せしむ、俄にして霽る、乃ち令して傳を馳せ先づ太山に行き祈祓せしむ。賞賜を得れば輒ち貧乏に散じ、蓄ふ所無し。

原文又有劉道合者,亦與師正同居嵩山,帝即所隱立太一觀,使居之。時將封太山,雨不止,帝令道合禳祝,俄而霽,乃令馳傳先行太山祈祓。得賞賜輒散貧乏,無所蓄。

咸亨中、帝の爲に丹を作る、劑成りて卒す。帝後宮を營み、道合の墓を遷す、其の棺を開くに、骸の坼くること蟬蛻の若きを見る。帝聞き、恨みて曰く、「我が爲に丹を合し、而も自ら服して去る」と。然れども餘れる丹に他異無し。

原文咸亨中,爲帝作丹,劑成而卒。帝后營宮,遷道合墓,開其棺,見骸坼若蟬蛻者。帝聞,恨曰:「爲我合丹,而自服去。」然所餘丹無它異。

司馬承禎

原文司馬承禎

司馬承禎、字は子微、洛州溫の人。潘師正に事へ、辟穀道引の術を傳へ、通ぜざる無し。師正之を異にし、曰く、「我陶隱居の正一法を得、而して四世を逮ぶ」と。因りて辭し去り、遍く名山に遊び、天臺に廬して出でず。武后嘗て之を召す、未幾、去る。睿宗復た其の兄承禕を命じて就き起す。既に至り、中掖廷に引入れて其の術を問ふ、對へて曰く、「道を爲すに日損す、損之又損し、無爲に至る。夫れ心目の知見する所、每に之を損するも尚ほ已む能はざるに、況や異端を攻めて智慮を增さんや」と。帝曰く、「身を治むるは則ち爾り、國を治むるは何若」と。對へて曰く、「國猶ほ身の如し、故に心を淡に遊ばし、氣を漠に合はし、物と自然にして私無ければ、而して天下治まる」と。帝嗟味して曰く、「廣成の言なり」と。寶琴・霞紋帔を錫ひ、之を還す。

原文司馬承禎,字子微,洛州溫人。事潘師正,傳辟穀道引術,無不通。師正異之,曰:「我得陶隱居正一法,逮而四世矣。」因辭去,遍遊名山,廬天臺不出。武后嘗召之,未幾,去。睿宗復命其兄承禕就起之。既至,引入中掖廷問其術,對曰:「爲道日損,損之又損,以至於無爲。夫心目所知見,每損之尚不能已,況攻異端而增智慮哉?」帝曰:「治身則爾,治國若何?」對曰:「國猶身也,故游心於淡,合氣於漠,與物自然而無私焉,而天下治。」帝嗟味曰:「廣成之言也!」錫寶琴、霞紋帔,還之。

開元中、再び召されて都に至り、玄宗詔して王屋山に壇室を置きて以て居らしむ。篆・隷を善くす、帝命じて三體を以て『老子』を寫さしめ、文句を正す。又命じて玉真公主及び光祿卿韋縚を其の居る所に至らしめ、金籙に按じ、祠を設け、厚く賜ふ。卒す、年八十九、銀青光祿大夫を贈り、諡して貞一先生と曰ひ、親しく其の碑に文す。

原文開元中,再被召至都,玄宗詔于王屋山置壇室以居。善篆、隸,帝命以三體寫《老子》,刊正文句。又命玉真公主及光祿卿韋縚至所居,按金籙,設祠,厚賜焉。卒,年八十九,贈銀青光祿大夫,諡貞一先生,親文其碑。

師正・道合と承禎等より、語言詼譎として方士に似たり、之を剟して錄せず、直に其の隱概を取るのみ。

原文自師正、道合與承禎等,語言詼譎似方士,剟之不錄,直取其隱概云。

賀知章

原文賀知章

賀知章、字は季真、越州永興の人。性質は曠達で、談説を善くし、族姑の子陸象先と親善であった。象先嘗て人に謂ひて曰く、「季真の清談風流、吾一日見ざれば、則ち鄙吝生ず」と。

原文賀知章,字季真,越州永興人。性曠夷,善談説,與族姑子陸象先善。象先嘗謂人曰:「季真清談風流,吾一日不見,則鄙吝生矣。」

證聖の初め、進士・超拔群類科に擢でられ、累遷して太常博士となる。張説が麗正殿修書使となり、表して知章及び徐堅・趙冬曦を院に入れ、『六典』等の書を撰せしむるも、累年功無し。開元十三年、礼部侍郎に遷り、集賢院学士を兼ね、一日に並びて謝す。宰相源乾曜、説に語りて曰く、「賀公両命の栄、光寵と為すに足れり、然れども学士・侍郎孰れか美たる」と。説曰く、「侍郎は衣冠の選なり、然れども要は具員の吏たり。学士は先王の道を懐ひ、経緯の文有り、然る後に之を処す。此れ其の間なり」と。玄宗自ら賛を作りて之を賜ふ。太子右庶子に遷り、侍読を充つ。

原文證聖初,擢進士、超拔群類科,累遷太常博士。張説爲麗正殿修書使,表知章及徐堅、趙冬曦入院,撰《六典》等書,累年無功。開元十三年,遷禮部侍郎,兼集賢院學士,一日並謝。宰相源乾曜語説曰:「賀公兩命之榮,足爲光寵,然學士、侍郎孰爲美?」説曰:「侍郎衣冠之選,然要爲具員吏;學士懷先王之道,經緯之文,然後處之。此其爲間也。」玄宗自爲贊賜之。遷太子右庶子,充侍讀。

申王薨じ、詔して挽郎を選ぶに、知章取捨平らかならず、廕子の喧訴止む能はず、知章梯牆して出で首を以て事を決す、人皆之を靳しむ、坐して工部に徙る。粛宗太子たる時、知章賓客に遷り、秘書監を授けられ、左補闕薛令之侍読を兼ぬ。時に東宮官積年遷らず、令之壁に書し、礼の薄きを望む、帝見て、復た題して「自ら安んずるを聴く者」とす。令之即ち官を棄て、徒歩にて郷里に帰る。

原文申王薨,詔選挽郎,而知章取捨不平,廕子喧訴不能止,知章梯牆出首以決事,人皆靳之,坐徙工部。肅宗爲太子,知章遷賓客,授秘書監,而左補闕薛令之兼侍讀。時東宮官積年不遷,令之書壁,望禮之薄,帝見,復題「聽自安者」。令之即棄官,徒步歸鄉里。

知章晩節尤も誕放にして、裏巷に遨嬉し、自ら「四明狂客」及び「秘書外監」と号す。毎に酔へば、輒ち辞を属し、筆を停めずして書く、皆観るべき有り、未だ嘗て刊飭せず。草隸を善くし、好事者筆硯を具へて之に従ふ、意に愜ふ所有れば、復た拒まず、然れども紙纔に十数字、世伝へて以て宝と為す。

原文知章晚節尤誕放,遨嬉裏巷,自號「四明狂客」及「秘書外監」。每醉,輒屬辭,筆不停書,咸有可觀,未始刊飭。善草隸,好事者具筆研從之,意有所愜,不復拒,然紙才十數字,世傳以爲寶。

天宝初め、病み、夢に帝居に游び、数日にして寤め、乃ち道士と為ることを請ひ、郷里に還る。詔して之を許し、宅を以て千秋観と為して居らしむ。又周宮湖数頃を求めて放生池と為し、詔有りて鏡湖剡川の一曲を賜ふ。既に行かんとす、帝詩を賜ひ、皇太子百官餞送す。其の子僧子を擢でて会稽郡司馬と為し、緋魚を賜ひ、侍養せしめ、幼子も亦道士と為ることを聴す。卒す、年八十六。粛宗乾元初め、雅旧を以て、礼部尚書を贈る。

原文天寶初,病,夢游帝居,數日寤,乃請爲道士,還鄉里,詔許之,以宅爲千秋觀而居。又求周宮湖數頃爲放生池,有詔賜鏡湖剡川一曲。既行,帝賜詩,皇太子百官餞送。擢其子僧子爲會稽郡司馬,賜緋魚,使侍養,幼子亦聽爲道士。卒,年八十六。肅宗乾元初,以雅舊,贈禮部尚書。

令之、長溪の人。粛宗も亦旧恩を以て召すも、令之は已に前に卒せり。

原文令之,長溪人。肅宗亦以舊恩召,而令之已前卒。

秦系

原文秦系

劉長卿と善くし、詩を以て相贈答す。権徳輿曰く、「長卿自ら五言長城と為す、系偏師を用ひて之を攻む、老いて益々壮なり」と。其の後東に度りて秣陵に至り、年八十餘にして卒す。南安の人之を思ひ、亭を立てて之に於り、其の山を号して

原文與劉長卿善,以詩相贈答。權德輿曰:「長卿自以爲五言長城,系用偏師攻之,雖老益壯。」其後東度秣陵,年八十餘卒。南安人思之,爲立於亭,號其山爲

張志和

原文張志和

兄鶴齢其の遁世して還らざるを恐れ、為に室を越州東郭に築き、茨を生草にし、椽棟に斤斧を施さず。豹席棕屩、毎に釣を垂れて餌を設けず、志魚に在らず。県令渠を浚はしむるに、畚を執りて忤色無し。嘗て大布を以て裘を製せんと欲す、嫂為に躬績織し、及んで成る、之を衣る、暑きも解かず。

原文兄鶴齡恐其遁世不還,爲築室越州東郭,茨以生草,椽棟不施斤斧。豹席棕屩,每垂釣不設餌,志不在魚也。縣令使浚渠,執畚無忤色。嘗欲以大布製裘,嫂爲躬績織,及成,衣之,雖暑不解。

観察使陳少遊往きて見る、終日留まる為にし、其の居を表して玄真坊と曰ふ。門隘きを以て、地を買ひて其の閎を大にし、回軒巷と号す。先づ是れ門流水に阻まれ、梁無し、少遊為に之を構ふ、人号して大夫橋と曰ふ。帝嘗て奴婢各一を賜ふ、志和之を配して夫婦と為し、漁童・樵青と号す。

原文觀察使陳少遊往見,爲終日留,表其居曰玄真坊。以門隘,爲買地大其閎,號回軒巷。先是門阻流水,無梁,少遊爲構之,人號大夫橋。帝嘗賜奴婢各一,志和配爲夫婦,號漁童、樵青。

山水を図るを善くし、酒酣なるや、或は鼓を撃ち笛を吹き、筆を舐めて輒ち成す。嘗て『漁歌』を撰す、憲宗真を図りて其の歌を求むるも、致す能はず。李徳裕志和を称して「隠して名有り、顕にして事無く、窮せず達せず、厳光の比」と云ふ。

原文善圖山水,酒酣,或擊鼓吹笛,舐筆輒成。嘗撰{{WavyBookMark|漁歌}},憲宗圖真求其歌,不能致。李德裕稱志和「隱而有名,顯而無事,不窮不達,嚴光之比」云。

孔述睿

原文孔述睿

孔述睿、越州山陰の人。梁の侍中休源の八世の孫。高祖徳紹、竇建德に事へて中書侍郎と為り、嘗て檄を草して太宗を毀薄す。賊平ぎ、執へて汜水楼に登り、責めて曰く、「爾檄を以て我を謗る云何」と。対へて曰く、「犬其の主に非ざれば吠ゆ」と。帝怒りて曰く、「賊乃ち主なるか」と。命じて壮士に捽しめて楼下に殞さしむ。曾祖昌寓、字は広成、貞観中に対策高第、歴て魏州司馬、治状有り、帝為に刺史を置かず。政を為すこと三年、璽書褒美し、膳部郎中に進む。祖祖舜、字は奉先、監察御史と為り、累を以て下りて成武令を除かれ、雉廷に馴る。

原文孔述睿,越州山陰人。梁侍中休源八世孫。高祖德紹,事竇建德爲中書侍郎,嘗草檄毀薄太宗,賊平,執登汜水樓,責曰:「爾以檄謗我云何?」對曰:「犬吠非其主。」帝怒曰:「賊乃主邪?」命壯士捽殞樓下。曾祖昌寓,字廣成,貞觀中對策高第,歷魏州司馬,有治狀,帝爲不置刺史。爲政三年,璽書褒美,進膳部郎中。祖祖舜,字奉先,爲監察御史,以累下除成武令,雉馴於廷。

述睿は幼くして兄の充符、弟の克讓とともに篤く孝行し、既に孤兒となると、共に嵩山に隠棲した。而して述睿は資質として學問を好んだ。大曆年間、劉晏が代宗に推薦し、太常寺協律郎として召され、累進して司勳員外郎・史館修撰に至った。述睿は一たび遷轉するごとに、必ず朝廷に謝しに赴いた。やがて病を理由に辭して歸り、これを常とした。

原文述睿少與兄充符、弟克讓篤孝,已孤,偕隱嵩山。而述睿資嗜學。大曆中,劉晏薦于代宗,乙太常寺協律郎召,擢累司勳員外郎、史館修撰。述睿每一遷,即至朝謝。俄而辭疾歸,以爲常。

德宗が即位すると、諫議大夫に拜し、河南尹趙惠伯に詔書と束帛を齎らせ、禮を備えて敦促して遣わした。到着すると、別殿で應對し、第宅を賜り、廄馬を給し、皇太子侍讀を兼ねた。固く辭したが、許されなかった。久しくして秘書少監に改め、右庶子を兼ね、再び史館修撰となった。述睿は『地理志』を重ねて編次し、本末最も詳しかった。性退讓にして、未だ嘗て物に忤わず、親朋が宴會を開いても、終日嚴肅に默しており、人皆これを畏れた。令狐峘と同職となり、峘はしばしば侮蔑したが、終に爭わず、時に長者と稱された。

原文德宗立,拜諫議大夫,命河南尹趙惠伯齎詔書束帛,備禮敦遣。既至,對別殿,賜第宅,給廄馬,兼皇太子侍讀。固辭,弗許。久乃改秘書少監,兼右庶子,復爲史館修撰。述睿重次《地理志》,本末最詳。性退讓,未始忤物,雖親朋燕集,至嚴默終日,人皆畏之。與令狐峘同職,峘數抵侮,然卒不校也,時稱長者。

貞元四年、帝は平涼の難を思い特に悲しみ、述睿が精愨で誠實であることから、祠具を持たせ詔を奉じて臨祭させた。また病を理由に解任を乞うと、久しくして許され、太子賓客として郷里に歸り、帛五十匹・衣一襲を賜った。故事により、致仕には公の驛馬を給さないが、帝は特に給することを命じた。卒す。年七十一。工部尚書を贈られた。

原文貞元四年,帝念平涼之難尤惻怛,以述睿精愨而誠,故遣持祠具稱詔臨祭。又以疾乞解,久乃許,以太子賓客還鄉,賜帛五十匹、衣一襲。故事,致仕不給公馹,帝特命給焉。卒,年七十一,贈工部尚書。

子の敏行、字は至之。元和初め、進士第に擢でられた。岳鄂の呂元膺が節度使せつどし府に表して任用し、元膺が東都・河中に轉ずるごとに、府に隨って遷った。入朝して右拾遺に拜し、四遷して司勳郎中・集賢殿學士・諫議大夫となった。李絳が害された事件は、元は監軍楊叔元に起因するが、當時敢えて言う者なく、敏行が上書して極論したため、叔元は罪を得た。名臣の子として、少時より操行を修め、官に就いてからは、當時の豪俊と交わり、一時名を成したが、高雅な操行は父に及ばなかった。卒す。年三十九。工部侍郎を贈られた。

原文子敏行,字至之。元和初,擢進士第。岳鄂呂元膺表在節度府,元膺徙東都、河中,輒隨府遷。入拜右拾遺,四遷司勳郎中、集賢殿學士、諫議大夫。李絳遇害,事本監軍楊叔元,時無敢言,敏行上書極論之,叔元乃得罪。以名臣子,少修潔,及仕宦,能交當時豪俊,有名一時,而雅操不逮父矣。卒,年三十九,贈工部侍郎。

陸羽

原文陸羽

陸羽、字は鴻漸、一名は疾、字は季疵、復州竟陵の人。生い立ちは知れず、或いは僧が水濱で拾い、養育したという。成長して、『易』で自ら占い、『蹇』の『漸』を得て、「鴻漸于陸、其羽可用爲儀」と言った。そこで陸を氏とし、名と字をこれに因んでつけた。

原文陸羽,字鴻漸,一名疾,字季疵,復州竟陵人。不知所生,或言有僧得諸水濱,畜之。既長,以《易》自筮,得《蹇》之《漸》,曰:「鴻漸于陸,其羽可用爲儀。」乃以陸爲氏,名而字之。

幼い時、師が彼に梵字を教えようとすると、答えて「兄弟も少なく、後嗣も絶えるのに、孝と爲し得ましょうか」と言った。師は怒り、糞除や壁塗りをさせて苦しめ、また牛三十頭を放牧させた。陸羽は密かに竹で牛の背に字を書いた。張衡の『南都賦』を得たが、讀めず、端座して子供たちが囁くように誦する様を真似ていると、師は彼を拘え、草を刈らせた。文字を記憶する時、ぼんやりとして忘れたようで、一日中仕事をしないので、監督者が鞭で苦しめると、歎いて「歲月は過ぎ去った、どうして書を學ばなかったのか」と言い、嗚咽して堪えられず、遂に逃げ去り、優人に身をやつし、詼諧な文を數千言作った。

原文幼時,其師教以旁行書,答曰:「終鮮兄弟,而絕後嗣,得爲孝乎?」師怒,使執糞除圬塓以苦之,又使牧牛三十,羽潛以竹畫牛背爲字。得張衡《南都賦》,不能讀,危坐效群兒囁嚅若成誦狀,師拘之,令薙草莽。當其記文字,懵懵若有遺,過日不作,主者鞭苦,因歎曰:「歲月往矣,奈何不知書!」嗚咽不自勝,因亡去,匿爲優人,作詼諧數千言。

天寶年間、州人が酒宴を開き、役人が陸羽を伶師に任命すると、太守李齊物がこれを見て異とし、書物を授けたので、遂に火門山に庵を結んだ。容貌は侻陋で、吃りながらも辯舌があった。人の善行を聞けば、己がことの如く喜び、過ちを見れば、人に逆らうまでに切に諫めた。朋友と宴席に居て、思い立つことがあれば直ちに去り、人は彼がよく怒ると疑った。人と約束すれば、雨雪や虎狼も避けなかった。上元初め、更に苕溪に隠れ、自ら桑苧翁と稱し、門を閉じて著書した。或いは獨り野中を行き、詩を誦し木を叩き、彷徨して意を得ず、慟哭して歸ることもあったので、時に今の接輿であると言われた。久しくして、詔して陸羽を太子文學に拜し、太常寺太祝に轉じたが、就職しなかった。貞元末、卒す。

原文天寶中,州人酺,吏署羽伶師,太守李齊物見,異之,授以書,遂廬火門山。貌侻陋,口吃而辯。聞人善,若在己,見有過者,規切至忤人。朋友燕處,意有所行輒去,人疑其多嗔。與人期,雨雪虎狼不避也。上元初,更隱苕溪,自稱桑苧翁,闔門著書。或獨行野中,誦詩擊木,裴回不得意,或慟哭而歸,故時謂今接輿也。久之,詔拜羽太子文學,徙太常寺太祝,不就職。貞元末,卒。

陸羽は茶を嗜み、經三篇を著し、茶の起源、製法、器具について特に詳しく述べ、天下ますます茶を飲むことを知るようになった。當時、茶を賣る者は、陸羽の形を陶製して竈の煙突の間に置き、茶神として祀った。常伯熊という者がおり、陸羽の論に因んで更に茶の功效を廣く著した。御史大夫李季卿が江南を宣慰し、臨淮に滞在した時、伯熊が茶をよく煮ることを知り、召し寄せると、伯熊が器を持って進み、季卿はために再び杯を舉げた。江南に至り、また陸羽を推薦する者があったので召すと、陸羽は野服を着て道具を携えて入ったが、季卿は禮をしなかった。陸羽はこれを恥じ、更に『毀茶論』を著した。その後、茶を尚ぶことが風となり、時に回紇かいこつが入朝し、始めて馬を驅って茶を買った。

原文羽嗜茶,著經三篇,言茶之原、之法、之具尤備,天下益知飲茶矣。時鬻茶者,至陶羽形置煬突間,祀爲茶神。有常伯熊者,因羽論復廣著茶之功。御史大夫李季卿宣慰江南,次臨淮,知伯熊善煮茶,召之,伯熊執器前,季卿爲再舉杯。至江南,又有薦羽者,召之,羽衣野服,挈具而入,季卿不爲禮,羽愧之,更著《毀茶論》。其後尚茶成風,時回紇入朝,始驅馬市茶。

崔覲

原文崔覲

崔覲、梁州城固の人。儒をもって自ら業とし、自ら耕耨して生計を立てた。老いて子がなく、田宅財産を奴婢に分け與えて各々の業とさせ、自らは妻と共に南山に隠れ、奴婢にその家を訪ねれば酒食を給することを約し、夫婦嘯詠し互いに楽しみとした。山南西道節度使鄭余慶が參謀に辟召し、敦促して就職させたが、吏事に通ぜず、余慶は長者と稱した。文宗の時、左補闕王直方はその同郷人であり、上書して事を論じ、便殿で引見され、遺逸を訪ねられたので、直方は崔覲の高行を推薦した。詔して起居郎として召したが、病を理由に辭して至らなかった。

原文崔覲,梁州城固人。以儒自業,身耕耨取給。老無子,乃以田宅財貲分給奴婢各爲業,而身與妻隱南山,約奴婢過其舍則給酒食,夫婦嘯詠相視爲娛。山南西道節度使鄭余慶辟爲參謀,敦趣就職,不曉吏事,余慶稱長者。文宗時,左補厥王直方,其里中人也,上書論事,見便殿,訪遺逸,直方薦覲高行,詔以起居郎召,辭疾不至。

陸龜蒙

原文陸龜蒙

陸龜蒙、字は魯望、元方の七世の孫である。父の賓虞は文をもって侍御史に至った。龜蒙は少時より高邁で放縱、『六經』の大義に通じ、特に『春秋』に明るかった。進士に舉げられたが一度も及第せず、湖州刺史張摶に從って游學した。摶は湖・蘇二州を歷任し、辟召して自らの補佐とした。饒州に至ったことがあり、三日間何處にも赴かなかった。刺史蔡京が官屬を率いて會いに行くと、龜蒙は喜ばず、衣を拂って去った。

原文陸龜蒙,字魯望,元方七世孫也。父賓虞,以文曆侍御史。龜蒙少高放,通《六經》大義,尤明《春秋》。舉進士,一不中,往從湖州刺史張摶游,摶曆湖、蘇二州,辟以自佐。嘗至饒州,三日無所詣。刺史蔡京率官屬就見之,龜蒙不樂,拂衣去。

松江の甫裏に住み、多くの論撰があり、幽憂疾痛であっても、資産十日分の蓄えもなくとも、少しも止めなかった。文が成ると、草稿を篋中にしまい込み、或いは一年經っても省みず、好事家に盜まれることもあった。書物を得れば熟誦してから書き寫し、校合に勤勉で、硃筆黃筆を手から離さず、所藏は少ないが、その精華は皆傳えるに足るものであった。人の書物を借り、篇帙が壞れ誤っていれば、必ず補綴し校正した。人の學問を聞くことを樂しみ、講論して倦まなかった。

原文居松江甫裏,多所論撰,雖幽憂疾痛,貲無十日計,不少輟也。文成,竄稿篋中,或歷年不省,爲好事者盜去。得書熟誦乃錄,讎比勤勤,硃黃不去手,所藏雖少,其精皆可傳。借人書,篇帙壞舛,必爲輯褫刊正。樂聞人學,講論不倦。

田數百畝、屋三十楹あったが、田は低地を苦とし、雨潦になると江と通じるので、常に饑えに苦しんだ。自ら畚鍤を取り、草刈りや除草に休む時なく、或いはその勞を讖ると、答えて「堯・舜は瘠せ衰え、禹は胼胝した。彼らは聖人である。我は一介の褐衣、敢えて勤めないことがあろうか」と言った。茶を嗜み、顧渚山の下に園を設け、每年茶の租を取り、自ら品第を判定した。張又新が『水説』七種を著したが、その第二は慧山泉、第三は虎丘井、第六は松江である。その趣味を助ける者は、百里の遠方でもこれを取り寄せた。初め、酒に病み、二年してやめた。その後客が來ても、壺を提げ杯を置くだけで再び飲まなかった。流俗の交わりを好まず、たとえ門を造っても會おうとしなかった。馬に乘らず、舟に上がれば蓬席を設け、束書・茶竈・筆床・釣具を携えて往來した。時に江湖散人と稱し、或いは天隨子・甫裏先生と號し、自ら涪翁・漁父・江上丈人に比した。寬が高士として召したが、至らなかった。李蔚・盧攜は平素より親善で、國政を執るとき、左拾遺に拜するよう召した。詔が下りようとした時、龜蒙は卒した。光化年間、韋莊が龜蒙及び孟郊等十人を上表し、皆右補闕を贈られた。

原文有田數百畝,屋三十楹,田苦下,雨潦則與江通,故常苦饑。身畚鍤,茠刺無休時,或譏其勞,答曰:「堯、舜黴瘠,禹胼胝。彼聖人也,吾一褐衣,敢不勤乎?」嗜茶,置園顧渚山下,歲取租茶,自判品第。張又新爲《水説》七種,其二慧山泉,三虎丘井,六松江。人助其好者,雖百里爲致之。初,病酒,再期乃已,其後客至,挈壺置杯不復飲。不喜與流俗交,雖造門不肯見。不乘馬,升舟設蓬席,齎束書、茶灶、筆床、釣具往來。時謂江湖散人,或號天隨子、甫裏先生,自比涪翁、漁父、江上丈人。寬以高士召,不至。李蔚、盧攜素與善,及當國,召拜左拾遺。詔方下,龜蒙卒。光化中,韋莊表龜蒙及孟郊等十人,皆贈右補闕。

陸氏は姑蘇に在り、その門前に巨石有り。遠祖の陸績、嘗て呉に仕えて郁林太守と為り、罷めて帰るに装ひ無く、舟軽くして海を越ゆるを得ず、石を取りて重しと為す。人其の廉を称し、「郁林石」と号す。世其の居を保つと云ふ。

原文陸氏在姑蘇,其門有巨石。遠祖績嘗事吳爲郁林太守,罷歸無裝,舟輕不可越海,取石爲重,人稱其廉,號「郁林石」,世保其居云。