新唐書

巻一百九十五 列傳第一百二十 孝友 李知本 張志寬 劉君良 王少玄 任敬臣 支叔才 程袁師 武弘度 宋思禮 鄭潛曜 元讓 裴敬彜 梁文貞 沈季詮 許伯會 陳集原 陸南金 張琇附:王君操 趙師舉 同蹄智壽、智爽 徐元慶 余常安 梁悅 穆宗世 侯知道、程俱羅 何澄粹

巻一百九十五 列傳第一百二十 孝友 李知本 張志寬 劉君良 王少玄 任敬臣 支叔才 程袁師 武弘度 宋思禮 鄭潛曜 元讓 裴敬彜 梁文貞 沈季詮 許伯會 陳集原 陸南金 張琇附:王君操 趙師舉 同蹄智壽、智爽 徐元慶 余常安 梁悅 穆宗世 侯知道、程俱羅 何澄粹

唐は天命を受けて二百八十八年、孝悌をもって朝廷に名を通わす者は、多く巷裏の草を刈る民であり、皆史官に書されるを得た。

原文唐受命二百八十八年,以孝悌名通朝廷者,多閭巷刺草之民,皆得書於史官。

萬年の王世貴、長安の嚴待封、涇陽の田伯明、華原の韓難陀、華州の王瞿曇、鄭縣の辛法汪・郭士挙・張長・郭士度・鄭迪・柳仁忠・能君徳・劉崇・甘元爽・韓子尚・韓思約、下邽の張萬徹、朝邑の申屠思恭・呂昂、鶉觚の張元亮、霊臺の孫智和、新平の馮猛将、宜川の司馬芬、洛交の周崇俊、洛川の何善宜、博陵の崔定仁、冀州の燕遺倩、貝州の馬衡、滄州の鄭士才、清池の孫楚信・劉賢、渤海の辺鳳挙、瀛州の朱寶積、楽陵の蘇伏念、邯鄲の章征、雞澤の馮仁海・郭守素、文安の董相、武邑の王達多・張丘感・張藝朗及び孫師才・張義節、沙河の趙君恵、南楽の谷感徳、魏縣の毛仁、武城の茹智達、歴亭の王師威・李肆仁、臨河の李文綢、湯陰の後斥奴、鼓城の彭思義・陳屺・田堤嶽、太原の盧遺仁・王知道、蒲州の賈孝才、解縣の衛玄表、南嶽の張利見、安邑の曹文行・孫懷応・相裏誌降・楊王操・邵玄同・張衡・曹存勛・李文褒・董文海・李文秀・張仙児・張公憲、虞鄕の董敬直、河東の張金城・呂神通・呂雲・呂誌挺・呂元光・趙挙・張祐・姚熾・張師徳・馮巨源・杜山蔵、河西の郭文政、伊闕の任仲済・源榮璧、汴州の張士巖、陳留の家師諒・董允恭、尉氏の楊思貞、中牟の潘良瑗及び子季通、陽武の時恵珣、封丘の楊嵩珪、許田の李頤道、胙城の蔡洪・石善雄及び孫彥威、朗山の胡君才、徐州の皇甫はじ恒、彭城の尹務榮、荊州の劉寶、長寿の史摶、益州の焦懐肅・郭景華、郪縣の曹少微、涪城の趙煙、資陽の趙光寓・黄、梓潼の馬冬王・秦挙・王興嗣、依政の樊漪、巴西の韋士宗・文博熒及び子詮、南鄭の李貞古、巣縣の張進昭、萬載の廖洪、南陵の蘇仲方、鄱陽の張讃、楽平の謝惟勤・沈普・姜居、上饒の鮑嘉福・虞熔真、句容の張常洧、弋陽の張球・李営及び子凝孫楚、貴溪の黄舟、建昌の熊士贍、臨江の袁鳴、贛縣の謝俊、餘杭の何公弁・章成緬・方宗、建徳の何起門、桐廬の祝希進、諸暨の張萬和、蕭山の李渭・許伯会・戴恭・俞僅、信安の徐知新・徐恵諲、東陽の応先・唐君祐、睦州の許利川、建陽の劉常、邵武の黄亙・張巨篯・吳海、泉山の黄嘉猷、永泰の王奭、皆親に事え喪に居て至行を著わす者なり。萬年の宋興貴、奉先の張郛、澧陽の張仁興、櫟陽の董思寵、湖城の閻旻、高平の雍仙高、湖城の閻酆、正平の周思藝・張子英、曲沃の張君密・秦徳方・馬玄操・李君則、太平の趙徳儼、隴西の陳嗣、北海の呂元簡、経城の宋洸之、単父の劉九江、無棣の徐文亮、楽陵の吳正表、河間の劉宣・董永、安邑の任君義・衛開、龍門の梁神義・賀見涉・張奇異、鄭縣の王元緒・寇元童、舒城の徐行周、睦州の方良琨、桐廬の戴元益、高安の宋練、涇縣の萬晏、弋陽の李植、繁昌の王丕、皆数世同居する者なり。天子皆門閭を旌表し、粟帛を賜い、州県は存問し、賦税を復し、官を授けられたる者あり。

原文萬年王世貴,長安嚴待封,涇陽田伯明,華原韓難陀,華州王瞿曇,鄭縣辛法汪、郭士舉、張長、郭士度、鄭迪、柳仁忠、能君德、劉崇、甘元爽、韓子尚、韓思約,下邽張萬徹,朝邑申屠思恭、呂昂,鶉觚張元亮,靈臺孫智和,新平馮猛將,宜川司馬芬,洛交周崇俊,洛川何善宜,博陵崔定仁,冀州燕遺倩,貝州馬衡,滄州鄭士才,清池孫楚信、劉賢,渤海邊鳳舉,瀛州朱寶積,樂陵蘇伏念,邯鄲章征,雞澤馮仁海、郭守素,文安董相,武邑王達多、張丘感、張藝朗暨孫師才、張義節,沙河趙君惠,南樂谷感德,魏縣毛仁,武城茹智達,歷亭王師威、李肆仁,臨河李文綢,湯陰後斥奴,鼓城彭思義、陳屺、田堤嶽,太原盧遺仁、王知道,蒲州賈孝才,解縣衛玄表,南嶽張利見,安邑曹文行、孫懷應、相裏誌降、楊王操、邵玄同、張衡、曹存勛、李文褒、董文海、李文秀、張仙兒、張公憲,虞鄕董敬直,河東張金城、呂神通、呂雲、呂誌挺、呂元光、趙舉、張祐、姚熾、張師德、馮巨源、杜山藏,河西郭文政,伊闕任仲濟、源榮璧,汴州張士巖,陳留家師諒、董允恭,尉氏楊思貞,中牟潘良瑗暨子季通,陽武時惠珣,封丘楊嵩珪,許田李頤道,胙城蔡洪、石善雄暨孫彥威,朗山胡君才,徐州皇甫恒,彭城尹務榮,荊州劉寶,長壽史摶,益州焦懷肅、郭景華,郪縣曹少微,涪城趙煙,資陽趙光寓、黃,梓潼馬冬王、秦舉、王興嗣,依政樊漪,巴西韋士宗、文博熒暨子詮,南鄭李貞古,巢縣張進昭,萬載廖洪,南陵蘇仲方,鄱陽張讃,樂平謝惟勤、沈普、姜居,上饒鮑嘉福、虞熔真,句容張常洧,弋陽張球、李營暨子凝孫楚,貴溪黃舟,建昌熊士贍,臨江袁鳴,贛縣謝俊,餘杭何公弁、章成緬、方宗,建德何起門,桐廬祝希進,諸暨張萬和,蕭山李渭、許伯會、戴恭、俞僅,信安徐知新、徐惠諲,東陽應先、唐君祐,睦州許利川,建陽劉常,邵武黃亙、張巨篯、吳海,泉山黃嘉猷,永泰王奭,皆事親居喪著至行者。萬年宋興貴,奉先張郛,澧陽張仁興,櫟陽董思寵,湖城閻旻,高平雍仙高,湖城閻酆,正平周思藝、張子英,曲沃張君密、秦德方、馬玄操、李君則,太平趙德儼,隴西陳嗣,北海呂元簡,經城宋洸之,單父劉九江,無棣徐文亮,樂陵吳正表,河間劉宣、董永,安邑任君義、衛開,龍門梁神義、賀見涉、張奇異,鄭縣王元緒、寇元童,舒城徐行周,睦州方良琨,桐廬戴元益,高安宋練,涇縣萬晏,弋陽李植,繁昌王丕,皆數世同居者。天子皆旌表門閭,賜粟帛,州縣存問,復賦稅,有授以官者。

唐の時陳蔵器『本草拾遺』を著し、人肉は羸疾を治すと謂う。是より民間に父母の疾あるを以て、多く股肉を刲きて進むる者多し。又京兆の張阿九・趙言、奉天の趙正言・滑清泌、羽林飛騎の啖榮禄、鄭縣の吳孝友、華陰の尹義華、潞州の張光玼、解縣の南鍛、河東の李忠孝・韓放、鄢陵の任客奴、絳縣の張子英、平原の楊仙朝、楽工の段日升、河東将の陳涉、襄陽の馮子、城固の雍孫八、虞鄕の張抱玉・骨英秀、榆次の馮秀誠、封丘の楊嵩珪・劉浩、清池の朱庭玉・弟庭金、繁昌の朱𢙨、歙縣の黄芮、左千牛の薛鋒及び河陽の劉士約、或いは帛を給し、或いは門閭を旌表し、皆名は国史に在り。善いかな、韓愈の論や。曰く「父母疾あるに、薬餌を亨じて以て孝と為す。未だ肢体を毀つを聞かず。苟くも義を傷わざれば、則ち聖賢先ず衆にして之を為す。是れ不幸にして因りて且つ死せば、則ち毀傷滅絶の罪帰する所有り。安んぞ其の門を旌して以て異を表せんや」と。然りと雖も、委巷の陋、学術礼義の資有ること無くして、能く身を忘れて其の親に及び、誠心より出づるは、亦た称すべき者なり。故に十七八を列す。広明の後、方鎮法を淩ぎ、地を誇ること千里、事上聞に上らず、孝悌篤行の士、旌命の及ばざる所なり。小説を載する者、名字あざな他書に参見せず、録すべからず。若し李知本・張志寛の属、上を承け下に順い、礼譲君子の風有り。故に輯めて之を序す。張士巖父病み、薬に鯉魚を須う。冬月氷合い、獺魚を銜えて前に至り、以て父に供うるを得、父遂に癒ゆ。母癰はれものを病み、士巖血を吮すう。父亡び、墓に廬し、虎狼之に依る有り。焦懐肅母病み、毎に其の唾を嘗む。若し味異なれば、輒ち悲号幾絶す。母終わり、水漿口に入れず五日、土を負いて墳を成し、廬して守り、日一食し、杖して然る後起つ。継母没す、亦た之が如し。張進昭、母狐刺を患い、左手堕ちて終わる。殯に及び、進昭左腕を截ち墓に廬す。張公芸九世同居、北斉の東安王永楽・隋の大使梁子恭躬ずから慰撫し、其の門を表す。高宗太山に事有り、其の居に臨幸し、本末を問う。「忍」の字を書いて以て対す。天子之が為に流涕し、縑帛を賜いて去る。四人の名頗る著わしく、篇に詳しく見ゆ。

原文唐時陳藏器著《本草拾遺》,謂人肉治羸疾,自是民間以父母疾,多刲股肉而進。又有京兆張阿九、趙言,奉天趙正言、滑清泌,羽林飛騎啖榮祿,鄭縣吳孝友,華陰尹義華,潞州張光玼,解縣南鍛,河東李忠孝、韓放,鄢陵任客奴,絳縣張子英,平原楊仙朝,樂工段日升,河東將陳涉,襄陽馮子,城固雍孫八,虞鄕張抱玉、骨英秀,榆次馮秀誠,封丘楊嵩珪、劉浩,清池朱庭玉、弟庭金,繁昌朱𢙨,歙縣黃芮,左千牛薛鋒及河陽劉士約,或給帛,或旌表門閭,皆名在國史。善乎!韓愈之論也,曰:「父母疾,亨藥餌,以是爲孝,未聞毀支體者也。茍不傷義,則聖賢先眾而爲之。是不幸因而且死,則毀傷滅絶之罪有歸矣,安可旌其門以表異之?」雖然,委巷之陋,非有學術禮義之資,能忘身以及其親,出於誠心,亦足稱者。故列十七八焉。廣明後,方鎮淩法,誇地千里,事不上聞,孝悌篤行之士,旌命所不及。載小説者,名字不參見他書,不可錄。若李知本、張志寬之屬,承上順下,有禮讓君子之風,故輯而序之。張士巖父病,藥須鯉魚,冬月冰合,有獺銜魚至前,得以供父,父遂愈。母病癰,士巖吮血。父亡,廬墓,有虎狼依之。焦懷肅母病,每嘗其唾,若味異,輒悲號幾絶。母終,水漿不入口五日,負土成墳,廬守,日一食,杖然後起。繼母沒,亦如之。張進昭,母患狐刺,左手墮而終。及殯,進昭截左腕廬於墓。張公藝九世同居,北齊東安王永樂、隋大使梁子恭躬慰撫,表其門。高宗有事太山,臨幸其居,問本末,書「忍」字以對,天子爲流涕,賜縑帛而去。四人名頗著,詳見於篇。

李知本

原文李知本

李知本は、趙州元氏の人、元魏の洛州刺史霊の六世の孫なり。父孝端、隋に仕えて獲嘉丞と為る。族弟太沖と俱に世閥有り。而なんじして太沖官婚最も高く、郷人の語に曰く「太沖兄無く、孝端弟無し」と。

原文李知本,趙州元氏人,元魏洛州刺史靈六世孫。父孝端,仕隋爲獲嘉丞。與族弟太沖俱有世閥,而太沖官婚最高,鄕人語曰:「太沖無兄,孝端無弟。」

知本経術に渉り、親に事えて篤至なり。弟知隠と雍順し、子孫百余り、貲用僮仆に至るまで間無し。大業末、盗賊閭を過ぎて入らず、相戒めて曰く「義門を犯す無かれ」と。往きて依る者五百余室、皆以て免る。貞観初、知隠伊闕丞と為り、知本夏津令と為る。開元中、孫瑱給事中・揚州長史と為る。知隠の孫颙、文辞有り、太常少卿に至る。従祖兄弟給事中の位に在る者凡そ四人。

原文知本涉經術,事親篤至,與弟知隱雍順,子孫百餘,至貲用僮仆無間也。大業末,盜賊過閭不入,相戒曰:「無犯義門。」往依者五百餘室,皆以免。貞觀初,知隱爲伊闕丞,知本夏津令。開元中,孫瑱爲給事中、揚州長史。知隱孫颙,有文辭,至太常少卿。從祖兄弟位給事中,凡四人。

張志寛

原文張志寬

張志寬は蒲州安邑の人である。父の喪に服して身を毀したため、州里に称された。王君廓が兵を率いて地を略する際、その里を暴かず、頼って全うした者は百軒余りに及んだ。後に里正となったが、ある日突然県に詣でて母の病を称し急を求めた。県令が様子を問うと、答えて曰く、「母に疾あれば、志寬もまた病む。それ故に知るのである」と。県令はその妄りを謂い、獄に繋いだが、馳せて検証したところその言の如くであった。そこで慰めて遣わした。母が終ると、土を負って墳を成し、自ら松柏を植えた。高祖は使者を遣わして弔問させ、員外散騎常侍に拝し、物四十段を賜い、その里を表彰した。

原文張志寬,蒲州安邑人。居父喪而毀,州裏稱之。王君廓兵略地,不暴其閭,倚全者百許姓。後爲裏正,忽詣縣稱母疾求急,令問狀,對曰:「母有疾,志寬輒病,是以知之。」令謂其妄,系於獄,馳驗如言,乃慰遣之。母終,負土成墳,手蒔松柏。高祖遣使者就吊,拜員外散騎常侍,賜物四十段,表其閭。

劉君良

原文劉君良

劉君良は瀛州饒陽の人である。四世同居し、族兄弟も猶お同産の如く、門内の斗粟尺帛も私する所無し。隋の大業末、凶饉に際し、妻が別居を勧めた。そこで庭の木の鳥の雛を置き換え、争わせて鳴かせると、家人は怪しんだ。妻は曰く、「天下乱れて、禽鳥さえ相容れぬ。況んや人においてをや」と。君良は即ち兄弟と別れて処した。一月余りして密かにその計を知り、因って妻を斥けて曰く、「汝は我が家を破る者なり」と。兄弟を召して流涕して告げ、再び同居を復した。天下乱れ、郷人が共にこれに依った。衆、堡を築き、因って義成堡と号した。武徳年中、深州別駕楊弘業がその居に至ると、凡そ六院が一つの庖を共にし、子弟皆礼節有り、嘆挹して去った。貞観六年、門閭を異として表彰した。

原文劉君良,瀛州饒陽人。四世同居,族兄弟猶同產也,門內鬥粟尺帛無所私。隋大業末,荒饉,妻勸其異居,因易置庭樹鳥雛,令鬥且鳴,家人怪之,妻曰:「天下亂,禽鳥不相容,況人邪!」君良即與兄弟別處。月餘,密知其計,因斥去妻,曰:「爾破吾家!」召兄弟流涕以告,更復同居。天下亂,鄕人共依之,眾築爲堡,因號義成堡。武德中,深州別駕楊弘業至其居,凡六院共一庖,子弟皆有禮節,嘆挹而去。貞觀六年,表異門閭。

王少玄

原文王少玄

王少玄は博州聊城の人である。父は隋末に乱兵に死し、遺腹として少玄を生んだ。甫めて十歳、父の所在を問うと、母が告げたので、即ち哀泣して屍を求めた。当時野中の白骨は覆圧し、或いは曰く、「子の血を漬けて滲むものは、父の胔かばねなり」と。少玄は膚を鑱きざみ、旬を閲して獲た。遂に以て葬った。創は甚だしく、弥年して乃ち興った。貞観年中、州が状を言上し、徐王府参軍に拝した。

原文王少玄,博州聊城人。父隋末死亂兵,遺腹生少玄。甫十歳,問父所在,母以告,即哀泣求屍。時野中白骨覆壓,或曰:「以子血漬而滲者,父胔也。」少玄镵膚,閱旬而獲,遂以葬。創甚,彌年乃興。貞觀中,州言狀,拜徐王府參軍。

任敬臣

原文任敬臣

任敬臣、字は希古、棣州の人である。五歳で母を喪い、哀毀天至す。七歳、父の英に問うて曰く、「何を以てか母に報いん」と。英曰く、「名を揚げ親を顕わすべし」と。乃ち志を刻して学に従う。汝南の任処権その文を見て驚きて曰く、「孔子顔回の賢を称し、以て弗およばずと為す。吾は古人に非ずと雖も、然れども此の児を見れば、信じ及ぶべからず」と。十六、刺史崔樞秀才に挙げんと欲す。自ら学未だ広からずとし、遁れ去る。又三年して卒業し、孝廉に挙げられ、著作局正字を授かる。父亡き後、数え殞絶す。継母曰く、「而喪に勝たずんば、孝と謂う可きか」と。敬臣更に饘粥を進む。服除け、秘書郎に遷る。休沐の日は、闔門して書を誦す。監虞世南その人を器とし、歳終わりに上考を書すも、固く辞す。召されて弘文館学士と為り、俄かに越王府西閣祭酒を授かる。当代、王再び表して留め、朝請郎に進む。制科に挙げられ、許王文学に擢でられる。復た弘文館学士と為り、終に太子舎人に至る。

原文任敬臣,字希古,棣州人。五歳喪母,哀毀天至。七歳,問父英曰:「若何可以報母?」英曰:「揚名顯親可也。」乃刻誌從學。汝南任處權見其文,驚曰:「孔子稱顏回之賢,以爲弗如也。吾非古人,然見此兒,信不可及。」十六,刺史崔樞欲舉秀才,自以學未廣,遁去。又三年卒業,舉孝廉,授著作局正字。父亡,數殞絶,繼母曰:「而不勝喪,謂孝可乎?」敬臣更進饘粥。服除,遷秘書郎。休沐,闔門誦書。監虞世南器其人,歳終,書上考,固辭。召爲弘文館學士,俄授越王府西閣祭酒。當代,王再表留,進朝請郎。舉制科,擢許王文學。復爲弘文館學士,終太子舍人。

支叔才

原文支叔才

支叔才は定州の人である。隋末の凶饉の折、夜に野中で食を乞い、還って母に進めんとしたところ、賊に捕らえられ殺されんとした。情を告げると、賊その孝を閔あわれみ、縛を解いた。母が癰を病むと、叔才は瘡を吮い薬を注ぐ。亡くなると、墓側に廬し、白鵲が廬の傍らに止まった。高宗の時、その家を異として表彰した。

原文支叔才,定州人。隋末荒饉,夜丐食野中,還進母,爲賊執,欲殺之,告以情,賊閔其孝,爲解縛。母病癰,叔才吮瘡註藥。及亡,廬墓,有白鵲止廬傍。高宗時,表異其家。

至徳年間、常州の人王遇と弟の遐が共に賊に捕らえられ、一人を釈放しようとした際、兄弟死を譲り合い、賊その意に感じ、尽く放免した。

原文至德間,有常州人王遇、弟遐俱爲賊執,將釋一人,兄弟相讓死,賊感其意,盡縱之。

程袁師

原文程袁師

程袁師は宋州の人である。母病み、十旬帯を褫とかず、薬は嘗めざれば進めず。弟に代わって洛州に戍る。母終わり、訃を聞き、日に二百里を走り、因って土を負って墳を築き、号して臒やせて、人再び識らず。曾門以来を改葬し、二十年を閲して乃ち畢わる。常に白狼・黄蛇が墓の左に馴れ、哭する毎に群鳥鳴き翔る。永徽年中、刺史が朝に状を上す。詔して吏に敦駕せしむ。既に至りて、仕えんことを願わず、儒林郎を授け、還す。

原文程袁師,宋州人。母病,十旬不褫帶,藥不嘗不進。代弟戍洛州。母終,聞訃,日走二百里,因負土築墳,號臒,人不復識。改葬曾門以來,閱二十年乃畢。常有白狼、黃蛇馴墓左,每哭,群鳥鳴翔。永徽中,刺史狀諸朝,詔吏敦駕。既至,不願仕,授儒林郎,還之。

武弘度

原文武弘度

武弘度は、士の兄の子、相州司兵参軍を補う。永徽年中、父卒す。徐州より髪を被き徒跣して喪所に趨り、土を負って塋を築き、晨夕に号し、日に一溢の米を食す。素芝が廬前に産じ、貍が其の傍らを擾る。高宗詔を下して褒美し、その門を旌す。

原文武弘度,士兄之子,補相州司兵參軍。永徽中,父卒,自徐州被發徒跣趨喪所,負土築塋,晨夕號,日一溢米。素芝產廬前,貍擾其旁。高宗下詔褒美,旌其門。

宋思礼

原文宋思禮

宋思禮、字は過庭、継母徐氏に仕えて孝行で知られた。蕭県主簿に補せられる。大旱に遭い、井戸や池が涸れ、母は病弱で、泉水でなければ口に合わず、思禮は憂慮し恐れて祈ると、忽ち泉が庭に湧き出で、味は甘く冷たく、日々汲むに足りた。県人はこれを異とし、県尉柳晃が石に刻んでその感応を称えた。

原文宋思禮,字過庭,事繼母徐爲聞孝。補蕭縣主簿。會大旱,井池涸,母羸疾,非泉水不適口,思禮憂懼且禱,忽有泉出諸庭,味甘寒,日不乏汲。縣人異之,尉柳晃爲刻石頌其感。

鄭潛曜

原文鄭潛曜

鄭潛曜は、父は萬鈞、駙馬都尉・滎陽けいよう郡公。母は代國長公主。開元中、公主が病臥すると、潛曜は左右に侍し、慌ただしくも離れず、三ヶ月も顔を洗わなかった。公主の病が重くなると、血を刺して書を諸神に請い、身をもって代わることを乞うた。書を焼くと、「神許」の二字のみが化けずに残った。翌日、公主は癒え、左右に言わしめぬよう戒めた。後に臨晉長公主を尚し、太僕光祿卿を歴任した。

原文鄭潛曜者,父萬鈞,駙馬都尉、滎陽郡公。母,代國長公主。開元中,主寢疾,潛曜侍左右,造次不去,累三月不靧面。主疾侵,刺血爲書請諸神,丐以身代。火書,而「神許」二字獨不化。翌日主愈,戒左右無敢言。後尚臨晉長公主,歷太仆光祿卿。

元讓

原文元讓

元讓は、雍州武功の人。明経に挙げられたが、母の病のため官に就かず、食事を給仕して里門を出ること数十年。母が終ると、墓の傍に廬を結び、櫛や沐浴を廃し、粗食と水のみで過ごした。咸亨中、太子が監国すると、門に闕を表するよう命じた。永淳初、巡察使が元讓の孝悌が卓越していると上表し、太子右内率府長史に抜擢された。任期が満ちて郷里に帰ると、人々に訴訟があれば皆、元讓の判を仰いだ。中宗が東宮にあられた時、召されて司議郎に拝され、入謁すると、武后は遠くから見て言われた、「卿は家に孝ならば、必ず国に忠であろう。宜しく治道をもって吾が子を輔けよ。」まもなく卒した。

原文元讓,雍州武功人。擢明經,以母病不肯調,侍膳不出閭數十年。母終,廬墓次,廢櫛沐,飯菜飲水。咸亨中,太子監國,下令表闕於門。永淳初,巡察使表讓孝悌卓越,擢太子右內率府長史。歳滿,還鄕里,人有所訟,皆詣讓判。中宗在東宮,召拜司議郎,入謁,武後望謂曰:「卿孝於家,必能忠於國,宜以治道輔吾子。」尋卒。

裴敬彜

原文裴敬彜

裴敬彜は、絳州聞喜の人。曾祖父の子通は、隋の開皇中に太中大夫として母の喪に服し、哭いて目を失明し、白い烏が塚の木に巣を作った。兄弟八人皆、名だたる孝子であり、詔して門闕を表彰し、世に「義門裴氏」と称された。

原文裴敬彜,絳州聞喜人。曾祖子通,隋開皇中以太中大夫居母喪,哭喪明,有白烏巢冢樾。兄弟八人皆爲名孝,詔表門闕,世謂「義門裴氏」。

敬彜は七歳で文章を能くし、性質は謹み深く敏捷で、宗族に重んじられ、「甘露頂」と号された。父の智周は、臨黄令に補せられたが、下僚に訴えられた。敬彜十四歳の時、巡察使唐臨の許に赴き冤罪を直訴すると、臨はこれを奇とし、試みに賦を作らせたところ、賦は巧みであった。父の罪は既に解かれ、敬彜を朝廷に表し、陳王府典簽に補せられた。ある日、忽ち泣いて左右に謂う、「父上の病痛は、私もいつもそうなのだが、今、心悸して痛む。事は測りがたい。」そこで急を請い、倍の速さで帰ると、父は既に卒しており、憔悴して礼を超えていた。乾封初、累遷して監察御史となった。母が病み、医者の許仁則という者は鍵がかかって車に乗れず、敬彜自ら輿を作って迎えに行った。喪に服した後、詔して絹帛を贈り、官が霊輿を作った。喪服が終ると、著作郎兼修国史となった。中書舎人・太子左庶子を歴任した。武后の時、酷吏に陥れられ、嶺南で死んだ。

原文敬彜七歳能文章,性謹敏,宗族重之,號「甘露頂」。父智周,補臨黃令,爲下所訟。敬彜年十四,詣巡察使唐臨直枉,臨奇之,試命作賦,賦工。父罪已釋,表敬彜於朝,補陳王府典簽。一日,忽泣涕謂左右曰:「大人病痛,吾輒然,今心悸而痛,事叵測。」乃請急,倍道歸,而父已卒,羸毀逾禮。乾封初,遷累監察御史。母病,醫許仁則者鐍不能乘,敬彜自爲輿往迎。既居喪,詔贈縑帛,官爲作靈輿。終服,以著作郎兼修國史。歷中書舍人、太子左庶子。武後時,爲酷吏所陷,死嶺南。

梁文貞

原文梁文貞

梁文貞は、虢州閺鄕の人。若くして軍に従い辺境を守り、帰還した時には、親は既に亡くなっていた。自ら養えなかったことを傷み、即ち壙に門を穿ち、朝夕掃除し、墓の左に廬を結び、黙して三十年、家人が問うことがあれば、文字を書いて答えた。役所が新道を改修することになり、文貞の廬の前を通ることになった時、旅人はこれを見て、皆涙を流した。甘露が墓所の木に降り、白兎が馴れ従い、県令が石に刻んでこれを記した。開元中、刺史の許景先が文貞の孝行が類を絶していると上表し、詔して史官に付した。

原文梁文貞,虢州閺鄕人。少從軍守邊,逮還,親已亡。自傷不得養,即穿壙爲門,晨夕汛掃,廬墓左,喑默三十年,家人有所問,畫文以對。會官改新道,出文貞廬前,行旅見之,皆爲流涕。有甘露降塋木,白兔馴擾,縣令刊石紀之。開元中,刺史許景先表文貞孝絶倫類,詔付史官。

沈季詮

原文沈季詮

沈季詮、字は子平、洪州豫章の人。幼くして孤となり、母に仕えて孝行で、人と争ったことがなく、皆、臆病だと思った。季詮は言う、「私が臆病か?人子たる者、親に憂いを遺すことができようか!」貞観中、母に侍して江を渡る時、暴風に遭い、母が溺死すると、季詮は号呼して江中に投じ、しばらくして、母の腕を抱いて水上に浮かび出た。都督の謝叔方が礼を尽くして祭り、葬った。

原文沈季詮,字子平,洪州豫章人。少孤,事母孝,未嘗與人爭,皆以爲怯。季詮曰:「吾怯乎?爲人子者,可遺憂於親乎哉!」貞觀中,侍母度江,遇暴風,母溺死,季詮號呼投江中,少選,持母臂浮出水上。都督謝叔方具禮祭而葬之。

許伯會

原文許伯會

許伯會は、越州蕭山の人。或いは玄度の十二世孫という。孝廉に挙げられた。上元中、衡陽博士となった。母の喪に際し、土を背負って墳墓を築き、綿入れや絹帛を身に着けず、滋味を嘗めなかった。野火が墓所の木に迫ろうとした時、天に悲号すると、俄かに雨が降り、火は消えた。旱魃の年には、廬の前に泉が湧き、霊芝が生えた。

原文許伯會,越州蕭山人。或曰玄度十二世孫。舉孝廉。上元中,爲衡陽博士。母喪,負土成墳,不禦絮帛、嘗滋味。野火將逮塋樹,悲號於天,俄而雨,火滅。歳旱,泉湧廬前,靈芝生。

陳集原

原文陳集原

陳集原は瀧州開陽の人である。代々酋長を務めた。父の龍樹は欽州刺史となり、病を得ると、集原は直ちに食事を取らなかった。父が亡くなると、数升の血を吐き、墓の傍に小屋を建てて住み、田畑や財産を全て兄弟に譲ったので、郷里の人々は彼を高く評価した。武后の時、右豹韜衛大將軍を歴任した。

原文陳集原,瀧州開陽人。世爲酋長。父龍樹,爲欽州刺史,有疾,即集原輒不食。及亡,嘔血數升,即塋作廬,盡以田貲讓兄弟,裏人高之。武後時,歷右豹韜衛大將軍。

陸南金

原文陸南金

陸南金は蘇州呉の人である。祖父の士季は同郡の顧野王に師事して『左氏春秋』『司馬史(史記)』『班氏漢書』を学んだ。隋に仕えて越王侗の記室兼侍読となった。侗が称制すると、著作郎に抜擢された。時に王世充が簒逆を企てたので、侗は士季に言った、「隋は天下を有して三十年になるが、朝廷に果たして忠臣はいないのか」。士季は答えて言った、「危難を見て命を捧げることは、臣の宿願でございます。どうか啓事(上奏文)を書く機会に乗じて、陛下のために彼を誅殺させてください」。謀り事が漏れ、侍読を停められたため、果たせなかった。貞観初年、太学博士兼弘文館学士で終わった。

原文陸南金,蘇州吳人。祖士季,從同郡顧野王學《左氏春秋》、《司馬史》、《班氏漢書》。仕隋爲越王侗記室兼侍讀。侗稱制,擢著作郎。時王世充將篡逆,侗謂士季曰:「隋有天下三十年,朝果無忠臣乎?」士季對曰:「見危授命,臣宿誌也。請因啟事爲陛下殺之。」謀泄,停侍讀,乃不克。貞觀初,終太學博士兼弘文館學士。

南金は太常奉礼郎に任じられた。開元初年、少卿の廬崇道が罪を得て嶺南に流され、逃げ帰って東都に潜伏した。南金は母の喪に服していたところ、崇道は弔問客を装って訪れ、内情を打ち明けたので、南金は彼を匿った。間もなく仇敵に跡をつけられ告発され、詔により侍御史の王旭が捕らえて取り調べた。南金は重い刑に当たるところ、弟の趙璧が王旭のもとに赴いて自ら申し出た、「崇道を匿ったのは私です。どうか私を死罪にしてください」。南金は固く弟が事実でないことを言い張ったので、王旭は怪しんだ。趙璧は言った、「母は未だ葬られず、妹は未だ嫁いでいません。兄はそれを成し遂げられますが、私が生きていても益はなく、死んだ方がましです」。王旭は驚き、その状況を上奏した。玄宗は二人を皆赦した。

原文南金仕爲太常奉禮郎。開元初,少卿廬崇道抵罪徙嶺南,逃還東都。南金居母喪,崇道偽稱吊客,入而道其情,南金匿之。俄爲仇人跡告,詔侍御史王旭捕按,南金當重法,弟趙璧詣旭自言:「匿崇道者我也,請死。」南金固言弟自誣不情,旭怪之,趙璧曰:「母未葬,妹未歸,兄能辦之,我生無益,不如死。」旭驚,上狀。玄宗皆宥之。

南金は書史に通じ、操行は謹厳で完璧であった。張説と陸象先は彼を賢人と称し、庫部員外郎から持病のため太子洗馬に改められ、任地で没した。

原文南金知書史,履操謹完。張説、陸象先以賢謂之,由庫部員外以痼疾改太子洗馬,卒。

張琇

原文張琇

張琇は河中解県の人である。父の審素は巂州都督であったが、陳纂仁という者が、彼が戦功の等級を詐称し、私的に兵士を雇ったと誣告した。玄宗はこれを疑い、監察御史の楊汪に命じて直ちに取り調べさせた。纂仁はさらに審素が総管の董堂礼と謀反を企てていると告発した。そこで楊汪は審素を捕らえて雅州の獄に繋ぎ、巂州に急行して謀反の状況を調べた。堂礼は憤りに耐えかね、纂仁を殺し、兵七百で楊汪を包囲し、上奏文を書いて審素の罪を雪ぐよう脅迫した。やがて役人たちが共に堂礼を斬ったので、楊汪は脱出でき、そこで審素が実際に謀反したと断罪し、斬首に処し、その家財を没収した。琇と兄の皇はまだ幼く、嶺南に流された。久しくして、逃げ帰った。楊汪は名を万頃と改めていた。皇は当時十三歳、琇は二歳年下であった。二人は夜、魏王池で万頃を待ち伏せし、皇がその馬を斬りつけた。万頃は驚き、戦う間もなく、琇に殺された。万頃を殺した理由を書き記した文を斧に結びつけ、江南へ向かい、父を陥れた者を皆殺しにしてから、役所に出頭するつもりであった。汜水の途中で、役人に捕らえられ、朝廷に報告された。中書令の張九齢らは皆、彼らの孝烈を称え、死罪を免ずべきだと主張したが、侍中の裴耀卿らは許すべきでないと述べ、帝もまたその意見に同調し、九齢に言った、「孝子というものは、義のためには命をも顧みない。彼らを殺せばその志を成就させることができ、赦せば法律を損なう。子たる者、誰が孝を願わないだろうか。互いに仇討ちを繰り返せば、やがて終わるときがなくなる」。結局耀卿の意見が用いられ、議する者はこれを冤罪と感じた。帝は詔を下して趣旨を説明し、ついに彼らを処刑した。刑に臨んで食事を賜ったが、皇は食べられなかった。琇は顔色を変えず、言った、「地下で先人に会えるのに、何の恨みがあろう」。人々は哀れまない者はなく、誄文を書いて道に掲げ、金を集めて北邙に葬った。それでもなお仇敵に墓を暴かれるのを恐れ、偽の塚を作り、本物の場所を知られないようにした。

原文張琇,河中解人。父審素,爲巂州都督,有陳纂仁者,誣其冒戰級、私庸兵。玄宗疑之,詔監察御史楊汪即按。纂仁復告審素與總管董堂禮謀反。於是汪收審素系雅州獄,馳至巂州按反狀。堂禮不勝忿,殺纂仁,以兵七百圍汪,脅使露章雪審素罪。既而吏共斬堂禮,汪得出,遂當審素實反,斬之,沒其家。琇與兄皇尚幼,徙嶺南。久之,逃還。汪更名萬頃。皇時年十三,琇少二歳。夜狙萬頃於魏王池,皇斫其馬,萬頃驚,不及鬥,爲琇所殺。條所以殺萬頃狀系於斧,奔江南,將殺構父罪者,然後詣有司。道汜水,吏捕以聞。中書令張九齡等皆稱其孝烈,宜貸死,侍中裴耀卿等陳不可,帝亦謂然,謂九齡曰:「孝子者,義不顧命。殺之可成其誌,赦之則虧律。凡爲子,孰不願孝?轉相仇殺,遂無已時。」卒用耀卿議,議者以爲冤。帝下詔申諭,乃殺之。臨刑賜食,皇不能進,琇色自如,曰:「下見先人,復何恨!」人莫不閔之,爲誄揭於道,斂錢爲葬北邙,尚恐仇人發之,作疑冢,使不知其處。

附 王君操

原文附 王君操

太宗の時、即墨の人王君操がいた。父は隋末に同郷の李君則に殺され、君操は逃亡した。当時君操はまだ幼かった。貞観の世になり、時代が変わり、君操は貧しく孤児であったが、仇家は何の憚りもなく、州に自ら名乗り出た。君操は密かに刃物を携えて仇を殺し、その心臓と肝臓を抉り出してすぐに食べ尽くし、急いで刺史に告げて言った、「父は兇手に殺され、二十年を経ても仇を討てませんでしたが、今ようやく憤りを晴らしました。どうか役所に引き渡して死罪にしてください」。州がその状況を上奏すると、帝は死罪を赦した。

原文太宗時,有即墨人王君操,父隋末爲鄕人李君則所殺,亡命去,時君操尚幼。至貞觀時,朝世更易,而君操窶孤,仇家無所憚,詣州自言。君操密挾刃殺之,剔其心肝啖立盡,趨告刺史曰:「父死兇手,歷二十年不克報,乃今刷憤,願歸死有司。」州上狀,帝爲貸死。

附 趙師挙

原文附 趙師舉

高宗の時、絳州の人趙師挙の父が人に殺された。師挙は幼く、母は再嫁したので、仇家は警戒しなかった。師挙が成長し、人に雇われて働き、夜に読書した。久しくして、自ら仇人を殺し、役所に出向いて自ら申し出た。帝は彼を許した。

原文高宗時,絳州人趙師舉父爲人殺,師舉幼,母改嫁,仇家不疑。師舉長,爲人庸,夜讀書。久之,手殺仇人,詣官自陳,帝原之。

附 同蹄智壽、智爽

原文附 同蹄智壽、智爽

永徽初年、同官県の人同蹄智壽の父が同族に害された。智壽は弟の智爽と共に路上で待ち伏せし、仇を撃ち殺した。二人は共に役所に出頭し、自分が首謀者だと争ったので、役所は三年間決断できなかった。ある者が弟が最初に計画したと言ったので、ついに死刑を論じた。刑に臨んで智爽は言った、「仇は既に報いた。死んでも恨みはない」。智壽は地に投げ出してうずくまり、身に完膚なきまでにし、智爽の血を舐め尽くしてやっと止めた。見る者はこれを哀れんだ。

原文永徽初,同官人同蹄智壽父爲族人所害,智壽與弟智爽候諸塗,擊殺之,相率歸有司爭爲首,有司不能決者三年。或言弟始謀,乃論死,臨刑曰:「仇已報,死不恨。」智壽自投地委頓,身無完膚,舐智爽血盡乃已,見者傷之。

徐元慶

原文徐元慶

武后の時、下邽の人徐元慶の父の爽が県尉の趙師韞に殺された。元慶は姓名を変えて駅舎の下働きとなった。久しくして、師韞が御史として駅舎に宿泊した時、元慶は自ら手を下して彼を殺し、自ら縛につき役所に出頭した。後に死罪を赦そうとしたが、左拾遺の陳子昂が議して言った。

原文武后時,下邽人徐元慶父爽爲縣尉趙師韞所殺,元慶變姓名爲驛家保。久之,師韞以御史舍亭下,元慶手殺之,自囚詣官。後欲赦死,左拾遺陳子昂議曰:

先王は礼を立てて人を進め、罰を明らかにして政を整う。枕幹して仇敵に当たるは、人子の義なり。罪を誅し乱を禁ずるは、王政の綱なり。されど義なくしては人を訓うべからず、綱乱れては法を明らかにすべからず。聖人は礼を修めて内を治め、法を飾りて外を防ぎ、法を守る者に礼を以て刑を廃せしめず、礼に居る者に法を以て義を傷つけしめず、然る後に暴乱消え、廉恥興り、天下直道を行わるる所以なり。

原文先王立禮以進人,明罰以齊政。枕幹仇敵,人子義也;誅罪禁亂,王政綱也。然無義不可訓人,亂綱不可明法。聖人修禮治內,飭法防外,使守法者不以禮廢刑,居禮者不以法傷義,然後暴亂銷,廉恥興,天下所以直道而行也。

元慶が父の仇を報い、身を束ねて罪に帰すは、古の烈士と雖も何を以てか加えん。然れども人を殺す者は死す、画一の制なり。法は二つあるべからず、元慶は辜に伏すべし。『伝』に曰く「父の仇は天を同じくせず」と。人を勧むるの教なり。教え苟もせざれば、元慶は赦すべし。

原文元慶報父仇,束身歸罪,雖古烈士何以加?然殺人者死,畫一之制也,法不可二,元慶宜伏辜。《傳》曰:「父仇不同天。」勸人之教也。教之不茍,元慶宜赦。

臣聞く、刑は乱を遏むるに所以に生ず。仁は徳を崇ぐるに所以に利すと。今父の仇を報ゆるは、乱に非ず。子の道を行ゆるは、仁なり。仁にして利なく、乱と同じく誅せらるるは、是れ能く刑すと曰うべし、未だ以て訓うべからず。然らば則ち邪は正より生じ、治は必ず乱より作る。故に礼防勝えず、先王は以て刑を制す。今元慶の節を義とすれば、則ち刑を廃すなり。跡を元慶の能く義を以て天下を動かす所以は、其の生を忘れて徳に及ぶに在り。若し罪を釈きて其の生を利せば、是れ其の徳を奪い、其の義を虧く。所謂身を殺して仁を成し、死を全うして生を忘るるの節に非ず。臣謂う、宜しく国の典を正し、之を刑に寘き、然る後に閭墓を旌ぐべしと。

原文臣聞刑所以生,遏亂也;仁所以利,崇德也。今報父之仇,非亂也;行子之道,仁也。仁而無利,與同亂誅,是曰能刑,未可以訓。然則邪由正生,治必亂作,故禮防不勝,先王以制刑也。今義元慶之節,則廢刑也。跡元慶所以能義動天下,以其忘生而及於德也。若釋罪以利其生,是奪其德,虧其義,非所謂殺身成仁、全死忘生之節。臣謂宜正國之典,寘之以刑,然後旌閭墓可也。

時に其の言を韙とす。後に礼部員外郎柳宗元駁して曰く。

原文時韙其言。後禮部員外郎柳宗元駁曰:

礼の大本は、乱を防ぐに在り。若し曰く、賊虐を為す無かれ、凡そ子たる者は殺して赦す無かれと。刑の大本も、亦た乱を防ぐに在り。若し曰く、賊虐を為す無かれ、凡そ治むる者は殺して赦す無かれと。其の本は則ち合い、其の用は則ち異なる。旌ぐと誅すとは、並び得ず。其の旌ぐべきを誅すれば、此れを濫と謂い、刑を黷する甚だし。其の誅すべきを旌げば、此れを僭と謂い、礼を壊す甚だし。

原文禮之大本,以防亂也。若曰:無爲賊虐,凡爲子者殺無赦。刑之大本,亦以防亂也。若曰:無爲賊虐,凡爲治者殺無赦。其本則合,其用則異。旌與誅,不得並也。誅其可旌,茲謂濫,黷刑甚矣;旌其可誅,茲謂僭,壞禮甚矣。

若し師韞独り私怨を以て、吏気を奮い、辜ならざる者を虐げ、州牧罪を知らず、刑官問うを知らず、上下蒙冒し、籲号聞こえず。而るに元慶能く心を処し慮を積みて以て仇人の胸に沖き、介然として自ら克ち、即ち死すとも憾み無し。是れ礼を守りて義を行ゆるなり。執事者は宜しく慚色有るべく、将に謝するに暇あらざるに、又た何を以てか誅せん。

原文若師韞獨以私怨,奮吏氣,虐非辜,州牧不知罪,刑官不知問,上下蒙冒,籲號不聞。而元慶能處心積慮以沖仇人之胸,介然自克,即死無憾,是守禮而行義也。執事者宜有慚色,將謝之不暇,而又何誅焉?

其れ或いは父罪を免れず、師韞の誅するや、法に愆らず。是れ吏に死するに非ず、法に死するなり。法其れ仇とすべけんや。天子の法を仇とし、法を奉ずる吏を戕するは、是れ悖驁にして上を淩ぐなり。執えて之を誅するは、以て邦典を正す所以なり。而るに又た何を以てか旌がん。

原文其或父不免於罪,師韞之誅,不愆於法,是非死於吏也,是死於法也。法其可仇乎?仇天子之法,而戕奉法之吏,是悖驁而淩上也。執而誅之,所以正邦典,而又何旌焉?

礼の所謂仇とは、冤抑沈痛にして号して告ぐる無き者を謂う。罪に抵い法に触れ、大戮に陷りて、彼之を殺す、我乃ち之を殺すと曰い、曲直を議せず、寡を暴にし弱を脅すのみを謂うに非ず。『春秋伝』に曰く「父誅せられず、子復仇すべし。父誅せらるれば、子復仇す、此れ推刃の道なり。復仇して害を除かず」と。今若し此れを取って以て両下の相殺するを断ぜば、則ち礼に合わん。

原文禮之所謂仇者,冤抑沈痛而號無告也,非謂抵罪觸法,陷於大戮,而曰彼殺之我乃殺之,不議曲直,暴寡脅弱而已。《春秋傳》曰:「父不受誅,子復仇可也;父受誅,子復仇,此推刃之道。復仇不除害。」今若取此以斷兩下相殺,則合於禮矣。

且つ夫れ仇を忘れざるは、孝なり。死を愛せざるは、義なり。元慶能く礼を越えず、孝に服し義に死す。是れ必ず理に達し道を聞ける者なり。夫れ理に達し道を聞けるの人、豈其れ王法を以て敵仇とせんや。議する者反って以て戮すと為すは、刑を黷し礼を壊す。其れ以て典と為すべからざる明らかなり。請う臣が議を下し令に附せしめ、斯の獄を断ずる者有らば、宜しく前議を以て事に従うべからず。

原文且夫不忘仇,孝也;不愛死,義也。元慶能不越於禮,服孝死義,是必達理而聞道者也。夫達理聞道之人,豈其以王法爲敵仇者哉!議者反以爲戮,黷刑壞禮,其不可以爲典明矣。請下臣議附於令,有斷斯獄者,不宜以前議從事。

余常安

原文余常安

憲宗の時、衢州の人余常安の父・叔皆な里人謝全に殺さる。常安八歳、既に能く復仇を謀る。十有七年、卒に全を殺す。刺史元錫軽きに比するを奏す。刑部尚書李鄘執いて不可とし、卒に死に抵う。

原文憲宗時,衢州人余常安父、叔皆爲里人謝全所殺。常安八歳,已能謀復仇。十有七年,卒殺全。刺史元錫奏輕比,刑部尚書李鄘執不可,卒抵死。

梁悦

原文梁悅

又た富平の人梁悦の父は秦果に殺さる。悦仇を殺し、県に詣りて罪を請う。詔して曰く「『礼』に在りては父の仇は天を同じくせず。而して法に人を殺せば必ず死す。礼・法は王教の大端なり。二説異なり。下して尚書省に議せしめよ」と。職方員外郎韓愈曰く。

原文又富平人梁悅父爲秦果所殺,悅殺仇,詣縣請罪。詔曰:「在《禮》父仇不同天,而法殺人必死。禮、法,王教大端也,二説異焉。下尚書省議。」職方員外郎韓愈曰:

子父の仇を復するは、『春秋』・『礼記』・『周官』に見え、若し子史は数え勝えず。未だ非として罪する者無し。最も宜しく律に詳なるべし。而るに律に条無し。闕文に非ざるなり。蓋し復仇を許さざれば、則ち孝子の心を傷つけ、復仇を許せば、則ち人将に法に倚りて顓に殺し、以て禁止する無からんことを以為うなり。夫れ律は聖人に本づくと雖も、然れども執りて之を行ゆるは、有司なり。経の明らかにする所は、有司を制する者なり。其の義を経に丁寧にして其の文を律に深く没するは、将に法吏をして一に法に断ぜしめ、経術の士をして経を引きて以て議せしめんと欲するなり。

原文子復父仇,見於《春秋》、於《禮記》、《周官》,若子史,不勝數,未有非而罪者。最宜詳於律,而律無條,非闕文也。蓋以爲不許復仇,則傷孝子之心;許復仇,則人將倚法顓殺,無以禁止。夫律雖本於聖人,然執而行之者,有司也。經之所明者,制有司者也。丁寧其義於經而深沒其文於律者,將使法吏一斷於法,而經術之士得引經以議也。

『周官』に曰く「凡そ人を殺して義なる者は、令して仇とせしむるなかれ。之を仇すれば則ち死す」と。義とは宜なり。人を殺して其の宜を得ざる者は、子復仇すべきを明らかにす。此れ百姓の相い仇とする者なり。公羊子曰く「父誅せられず、子復仇すべし」と。誅せられざる者は、罪誅さるるに当たらず。誅とは、上施す下の辞にして、百姓の相い殺すに非ず。『周官』に曰く「凡そ仇讐を報ずる者は、士に書す。之を殺すも罪無し」と。復仇せんとすれば、必ず先ず官に言う、則ち罪無きを言うなり。

原文《周官》曰:「凡殺人而義者,令勿仇,仇之則死。」義者,宜也。明殺人而不得其宜者,子得復仇也。此百姓之相仇者也。公羊子曰:「父不受誅,子復仇可也。」不受誅者,罪不當誅也。誅者,上施下之辭,非百姓相殺也。《周官》曰:「凡報仇讎者,書於士,殺之無罪。」言將復仇,必先言於官,則無罪也。

復讐の名は同じくすれども、その事は各々異なる。あるいは百姓が互いに仇を報ずるものは、『周官』に称する所の如く、今に議するに足るものあり。あるいは官吏に誅せられるものは、『公羊』に称する所の如く、今に行うべからざるものあり。『周官』に称する所は、復讐せんとすれば先ず士に告ぐ。もし孤稚羸弱にして、微かなる志を抱きて敵人の便を伺う者は、自ら言う能わざるを恐る。未だ以て今に断ずるべからず。然らば則ち之を殺すことと赦すこと、一にすべからず。宜しく其の制を定めて曰く、『父の仇を復する者有らば、事発するや、其の事を具して尚書省に下し、集議して以て聞こえ、酌量して之を処せよ』と。然らば経の指を失うこと無からん。

原文復仇之名雖同,而其事各異。或百姓相仇,如《周官》所稱,可議於今者;或爲官吏所誅,如《公羊》所稱,不可行於今者。《周官》所稱:將復仇先告於士,若孤稚羸弱,抱微誌而伺敵人之便,恐不能自言,未可以爲斷於今也。然則殺之與赦不可一,宜定其制曰:「有復父仇者,事發,具其事下尚書省,集議以聞,酌處之。」則經無失指矣。

詔有りて、悦が冤を申し、罪を請いて公門に詣でしむるを以て、循州に流す。

原文有詔以悅申冤,請罪詣公門,流循州。

穆宗の世

原文穆宗世

穆宗の世、京兆の人康買得、年十四、父憲雲陽の張蒞に錢を責む。蒞酔ひ、憲を拉ぎて危うく死せんとす。買得、蒞の趫悍なるを以て、救ひて解くに足らざるを度り、則ち鍤を挙げて其の首を撃つ。三日にして蒞死す。刑部侍郎孫革建言す、「買得父の難を救ひて暴と為さず、解けざるを度りて撃つも兇と為さず。先王刑を制するに、必ず先ず父子の親を先にす。『春秋』心を原ひて罪を定め、『周書』諸罰に權有り。買得孝性天に至る、宜しく矜宥を賜うべし」と。詔有りて死を減ず。

原文穆宗世,京兆人康買得,年十四,父憲責錢於雲陽張蒞,蒞醉,拉憲危死。買得以蒞趫悍,度救不足解,則舉鍤擊其首,三日蒞死。刑部侍郎孫革建言:「買得救父難不爲暴,度不解而擊不爲兇。先王制刑,必先父子之親。《春秋》原心定罪,《周書》諸罰有權。買得孝性天至,宜賜矜宥。」有詔減死。

侯知道、程俱羅

原文侯知道、程俱羅

侯知道、程俱羅は、霊州霊武の人なり。親の喪に居り、壙を穿ち冢を作るに、皆身をして其の労を執らしむ。郷人の助くる者あれば、即ち哭して之を卻く。墳の次に廬し、哭泣に節無し。知道七年、俱羅三年止まず。知道垢塵首に積り、率ね夜半に墳に傅り、踴じて哭す。鳥獸之が為に悲號す。李華『二孝贊』を作りて其の行を表し、曰く、「厥の初め人を生ずるに、君有り親有り。親に孝するは子と為り、君に忠なるは臣と為る。兆は天命に自り、降りて人倫に及ぶ。死に背くは不義、生を忘るるは不仁。過及び智就きて、之が為に礼文す。至れるかな侯氏、創巨く病殷し。手足胼胝し、以て高墳を成す。夜黒く飈動き、鬼神に臨むが如し。哭に常の声無く、迥かに蒼旻に徹す。苴斬三年、爾独り身を終ふ。嗟嗟たる程生、其の哀しむや均し。後を顧みて配絶え、前を瞻みて隣無し」と。

原文侯知道、程俱羅者,靈州靈武人。居親喪,穿壙作冢,皆身執其勞,鄕人助者,即哭而卻之。廬墳次,哭泣無節,知道七年、俱羅三年不止。知道垢塵積首,率夜半傅墳,踴而哭,鳥獸爲悲號。李華作《二孝贊》表其行,曰:「厥初生人,有君有親。孝親爲子,忠君爲臣。兆自天命,降及人倫。背死不義,忘生不仁。過及智就,爲之禮文。至哉侯氏,創巨病殷。手足胼胝,以成高墳。夜黑飈動,如臨鬼神。哭無常聲,迥徹蒼旻。苴斬三年,爾獨終身。嗟嗟程生,其哀也均。顧後絶配,瞻前無鄰。」

何澄粹

原文何澄粹

又何澄粹有り、池州の人なり。親病み日錮る。俗鬼を尚び、病者は薬を進めず。澄粹股の肉を剔ぎて進む。親疾瘳ゆ。後親没し、墓に伏し、哭踴数無し。毀に以て卒す。当時「青陽孝子」と号す。士其が為に誄を作ること甚だ衆し。

原文又有何澄粹者,池州人。親病日錮,俗尚鬼,病者不進藥。澄粹剔股肉進,親疾爲瘳。後親沒,伏於墓,哭踴無數,以毀卒,當時號「青陽孝子」,士爲作誄甚眾。

寿州安豊の李興も亦至行有り。柳宗元之が為に『孝門銘』を作りて曰く、「寿州刺史臣承思言す、『九月丁亥、安豊令上る所の部内編戸氓興、父悪疾に被り、歳月亟に就く。興自ら刃を以て股肉を切り、仮托して饋献す。父老病已に啖う能わず、宿して死す。興号呼し臆を撫で、口鼻血を垂る。土を捧げて墳に就き、涕洟に沾漬す。墳の左に小廬を作り、苫茨を以て蒙ぎ、其中に伏匿し、扶服頓踴し、昼夜哭訴す。孝誠幽に達し、神之が為に見異す。廬上紫芝・白芝を産み、廬中醴泉湧く。此れ皆陛下孝治の神化、陰に其の心に中り、而して能く斯の事を致す。謹みて按ずるに、興匹庶賤陋、習ひを循りて浅下、性文字の導く所に非ず、生耨耒を以て業と為す。而して能く彼の醇孝に鐘り、古烈を超出す。天意神道、猶瑞物を錫して以て殊異を表す。伏して惟うに陛下唐堯の如神の德有り、宜しく旌褒を加え、上下に合わしむべし。請う其の裏閭を表し、石に刻して明白にし、風美を宣延し、後祀に観示して、永く極無からしめん。臣昧死して請う』と。制して曰く可とす。銘に曰く、『懿なるかな其の孝思、茲に淑霊と惟す。粹和を稟承し、天経を篤く守る。羸疾に泣侍し、隠冥に默禱す。刃を引いて自ら向かい、肌を殘し形を敗る。羞膳奉進し、憂労孝誠す。惟ふに時高高、曾て視聴せず。創巨く痛仍り、穹旻に號す。土を捧げ涕に濡れ、首を頓して墳を成す。膺を搯び眥を腐し、寒暑廬に在り。草木悴死し、鳥獸踟躕す。殊類異族も、亦相其の哀しむ。二位を肇め、孝道爰に興る。厥の猷を克く脩め、載籍是に登る。帝に有虞有り、孝を以て烝烝たり。仲尼経を述べ、以て曾子に教う。惟ふ昔魯侯、夷宮に命を見る。亦た考叔有り、莊公を寤して純と称す。顯顯たる李氏、実に之と倫を同じくす。道路に哀嗟し、裏鄰に涕慕す。神秘祉を錫し、三秀霊泉す。帝命薦加し、亦其の門を表す。上下を統一し、天人を交贊す。此の碑號を建て、億齢芬を揚ぐ』と」

原文壽州安豐李興亦有至行,柳宗元爲作《孝門銘》,曰:「壽州刺史臣承思言:『九月丁亥,安豐令上所部編戶氓興,父被惡疾,歳月就亟,興自刃股肉,假托饋獻,父老病已不能啖,宿而死。興號呼撫臆,口鼻垂血,捧土就墳,沾漬涕洟。墳左作小廬,蒙以苫茨,伏匿其中,扶服頓踴,晝夜哭訴。孝誠幽達,神爲見異,廬上產紫芝、白芝,廬中醴泉湧。此皆陛下孝治神化,陰中其心,而克致斯事。謹按興匹庶賤陋,循習淺下,性非文字所導,生與耨耒爲業,而能鐘彼醇孝,超出古烈,天意神道,猶錫瑞物以表殊異。伏惟陛下有唐堯如神之德,宜加旌褒,合於上下。請表其裏閭,刻石明白,宣延風美,觀示後祀,永無極。臣昧死請。』制曰可。銘曰:『懿厥孝思,茲惟淑靈。稟承粹和,篤守天經。泣侍羸疾,默禱隱冥。引刃自向,殘肌敗形。羞膳奉進,憂勞孝誠。惟時高高,曾不視聽。創巨痛仍,號於穹旻。捧土濡涕,頓首成墳。搯膺腐眥,寒暑在廬。草木悴死,鳥獸踟躕。殊類異族,亦相其哀。肇有二位,孝道爰興。克脩厥猷,載籍是登。在帝有虞,以孝烝烝。仲尼述經,以教於曾。惟昔魯侯,見命夷宮。亦有考叔,寤莊稱純。顯顯李氏,實與之倫。哀嗟道路,涕慕裏鄰。神錫秘祉,三秀靈泉。帝命薦加,亦表其門。統一上下,交贊天人。建此碑號,億齡揚芬。』」

附 許法慎

原文附 許法慎

許法慎、滄州清池の人なり。甫三歳、已に知有り。時に母病み、乳を飲まず、慘慘として憂色有り。或ひは珍餌を以て詭ひて之を悦ばしむるも、輒ち食わず、還た以て母に進む。後親喪し、常に塋に廬す。甘露・嘉禾・霊芝・木連理・白兔の祥有り。天寶中、其の閭を表異す。

原文許法慎,滄州清池人。甫三歳,已有知。時母病,不飲乳,慘慘有憂色。或以珍餌詭悅之,輒不食,還以進母。後親喪,常廬於塋,有甘露、嘉禾、靈芝、木連理、白兔之祥。天寶中,表異其閭。

附 林攢

原文附 林攢

林攢、泉州莆田の人なり。貞元初、仕えて福唐尉と為る。母羸老、未だ迎へずして病む。攢聞き、官を棄てて還る。母亡するに及び、水漿口に入れず五日。自ら埏甓して冢を作り、其の右に廬す。白烏来り、甘露降る。觀察使李若初官属を遣わして実を驗す。會ふに露晞ゆ。里人色を失ふ。攢哭して曰く、「天の降する所の露、我を禍すや」と。俄にして露復た集まり、烏も亦回翔す。詔して母の墓前に二闕を作らしむ。又其の閭を表し、徭役ようえきを蠲む。時に「闕下林家」と号す。

原文林攢,泉州莆田人。貞元初,仕爲福唐尉。母羸老,未及迎而病。攢聞,棄官還。及母亡,水漿不入口五日。自埏甓作冢,廬其右,有白烏來,甘露降。觀察使李若初遣官屬驗實,會露晞,里人失色,攢哭曰:「天所降露,禍我邪?」俄而露復集,烏亦回翔。詔作二闕於母墓前,又表其閭,蠲徭役,時號「闕下林家」。

附 陳饒奴

原文附 陳饒奴

陳饒奴、饒州の人なり。年十二、親並びに亡し、窶弱喪に居り、又歳饑う。或ひは其の弟妹を分かつを教ふ、性命を全うすべしと。饒奴流涕し、身丐訴して相全養す。刺史李復之を異とし、資儲を給し、其の門に署して「孝友童子」と曰ふ。

原文陳饒奴,饒州人。年十二,親並亡,窶弱居喪,又歳饑,或教其分弟妹,可全性命。饒奴流涕,身丐訴相全養。刺史李復異之,給資儲,署其門曰「孝友童子」。

附 王博武

原文附 王博武

王博武は許州の人である。会昌年中、母に侍して広州に至り、沙湧口に及んで暴風に遭い、母は溺死し、博武は自ら水に投身した。嶺南節度使せつどし盧貞が吏に命じて網を沈めさせると、二つの屍を得たので、これを葬り、その墓に「孝子墓」と表した。詔して石に刻ませた。

原文王博武,許州人。會昌中,侍母至廣州,及沙湧口,暴風,母溺死,博武自投於水。嶺南節度使盧貞俾吏沈罟,獲二屍焉,乃葬之,表其墓曰「孝子墓」。詔爲刻石。

附 萬敬儒

原文附 萬敬儒

萬敬儒は廬州の人である。三世同居し、親に喪に遭い、墓側に廬して、血を刺して浮屠の書を写し、二指を断ち切ると、やがてまた生えた。州はその居所を改めて成孝郷広孝聚と称した。大中時、その家を表彰した。

原文萬敬儒,廬州人。三世同居,喪親,廬墓,刺血寫浮屠書,斷手二指,輒復生。州改所居曰成孝鄕廣孝聚。大中時,表其家。

附 章全益

原文附 章全益

章全益は梓州涪城の人である。幼くして孤となり、兄の全啓に養育された。母が病むと、全啓は股を刲いて母に食わせて癒した。全啓が亡くなると、全益は斬衰を服し、手の一指を断ち切って報いた。妻を娶らず、僮僕と一室に処し、薬を売って自ら生業とし、世に黄金を作り得ると伝えられた。成都に四十年居り、章孝子と号し、卒す。年九十八。

原文章全益,梓州涪城人。少孤,爲兄全啟所鞠。母病,全啟刲股膳母而愈。及全啟亡,全益服斬衰,斷手一指以報。不畜妻,僮仆處一室,賣藥自業,世傳能作黃金。居成都四十年,號章孝子,卒,年九十八。

贊

原文贊

賛して曰く、聖人の天下を治むるに道あり、曰く「要は孝弟のみ」と。父は父たり、子は子たり、兄は兄たり、弟は弟たり、これを推して国に之き、国より天下に之き、一つの善を建てれば百行従い、その失うところは則ち法を以てこれを縄す。故に曰く「孝は天下の大本なり、法はその末なり」と。匹夫単人に至りては、孝を行うこと一概にして、兇盗も敢えて凌がず、天子喟然としてこれを旌るは、孝を教えて忠を求めんがためなり。故にこれを裒めて篇に著す。

原文贊曰:聖人治天下有道,曰「要在孝弟而已」。父父也,子子也,兄兄也,弟弟也,推而之國,國而之天下,建一善而百行從,其失則以法繩之。故曰:「孝者天下大本,法其末也。」至匹夫單人,行孝一概,而兇盜不敢淩,天子喟而旌之者,以其教孝而求忠也。故裒而著於篇。