唐は天命を受けて二百八十八年、孝悌をもって朝廷に名を通わす者は、多く巷裏の草を刈る民であり、皆史官に書されるを得た。
萬年の王世貴、長安の嚴待封、涇陽の田伯明、華原の韓難陀、華州の王瞿曇、鄭縣の辛法汪・郭士挙・張長・郭士度・鄭迪・柳仁忠・能君徳・劉崇・甘元爽・韓子尚・韓思約、下邽の張萬徹、朝邑の申屠思恭・呂昂、鶉觚の張元亮、霊臺の孫智和、新平の馮猛将、宜川の司馬芬、洛交の周崇俊、洛川の何善宜、博陵の崔定仁、冀州の燕遺倩、貝州の馬衡、滄州の鄭士才、清池の孫楚信・劉賢、渤海の辺鳳挙、瀛州の朱寶積、楽陵の蘇伏念、邯鄲の章征、雞澤の馮仁海・郭守素、文安の董相、武邑の王達多・張丘感・張藝朗及び孫師才・張義節、沙河の趙君恵、南楽の谷感徳、魏縣の毛仁、武城の茹智達、歴亭の王師威・李肆仁、臨河の李文綢、湯陰の後斥奴、鼓城の彭思義・陳屺・田堤嶽、太原の盧遺仁・王知道、蒲州の賈孝才、解縣の衛玄表、南嶽の張利見、安邑の曹文行・孫懷応・相裏誌降・楊王操・邵玄同・張衡・曹存勛・李文褒・董文海・李文秀・張仙児・張公憲、虞鄕の董敬直、河東の張金城・呂神通・呂雲・呂誌挺・呂元光・趙挙・張祐・姚熾・張師徳・馮巨源・杜山蔵、河西の郭文政、伊闕の任仲済・源榮璧、汴州の張士巖、陳留の家師諒・董允恭、尉氏の楊思貞、中牟の潘良瑗及び子季通、陽武の時恵珣、封丘の楊嵩珪、許田の李頤道、胙城の蔡洪・石善雄及び孫彥威、朗山の胡君才、徐州の皇甫恒、彭城の尹務榮、荊州の劉寶、長寿の史摶、益州の焦懐肅・郭景華、郪縣の曹少微、涪城の趙煙、資陽の趙光寓・黄、梓潼の馬冬王・秦挙・王興嗣、依政の樊漪、巴西の韋士宗・文博熒及び子詮、南鄭の李貞古、巣縣の張進昭、萬載の廖洪、南陵の蘇仲方、鄱陽の張讃、楽平の謝惟勤・沈普・姜居、上饒の鮑嘉福・虞熔真、句容の張常洧、弋陽の張球・李営及び子凝孫楚、貴溪の黄舟、建昌の熊士贍、臨江の袁鳴、贛縣の謝俊、餘杭の何公弁・章成緬・方宗、建徳の何起門、桐廬の祝希進、諸暨の張萬和、蕭山の李渭・許伯会・戴恭・俞僅、信安の徐知新・徐恵諲、東陽の応先・唐君祐、睦州の許利川、建陽の劉常、邵武の黄亙・張巨篯・吳海、泉山の黄嘉猷、永泰の王奭、皆親に事え喪に居て至行を著わす者なり。萬年の宋興貴、奉先の張郛、澧陽の張仁興、櫟陽の董思寵、湖城の閻旻、高平の雍仙高、湖城の閻酆、正平の周思藝・張子英、曲沃の張君密・秦徳方・馬玄操・李君則、太平の趙徳儼、隴西の陳嗣、北海の呂元簡、経城の宋洸之、単父の劉九江、無棣の徐文亮、楽陵の吳正表、河間の劉宣・董永、安邑の任君義・衛開、龍門の梁神義・賀見涉・張奇異、鄭縣の王元緒・寇元童、舒城の徐行周、睦州の方良琨、桐廬の戴元益、高安の宋練、涇縣の萬晏、弋陽の李植、繁昌の王丕、皆数世同居する者なり。天子皆門閭を旌表し、粟帛を賜い、州県は存問し、賦税を復し、官を授けられたる者あり。
唐の時陳蔵器『本草拾遺』を著し、人肉は羸疾を治すと謂う。是より民間に父母の疾あるを以て、多く股肉を刲きて進むる者多し。又京兆の張阿九・趙言、奉天の趙正言・滑清泌、羽林飛騎の啖榮禄、鄭縣の吳孝友、華陰の尹義華、潞州の張光玼、解縣の南鍛、河東の李忠孝・韓放、鄢陵の任客奴、絳縣の張子英、平原の楊仙朝、楽工の段日升、河東将の陳涉、襄陽の馮子、城固の雍孫八、虞鄕の張抱玉・骨英秀、榆次の馮秀誠、封丘の楊嵩珪・劉浩、清池の朱庭玉・弟庭金、繁昌の朱𢙨、歙縣の黄芮、左千牛の薛鋒及び河陽の劉士約、或いは帛を給し、或いは門閭を旌表し、皆名は国史に在り。善いかな、韓愈の論や。曰く「父母疾あるに、薬餌を亨じて以て孝と為す。未だ肢体を毀つを聞かず。苟くも義を傷わざれば、則ち聖賢先ず衆にして之を為す。是れ不幸にして因りて且つ死せば、則ち毀傷滅絶の罪帰する所有り。安んぞ其の門を旌して以て異を表せんや」と。然りと雖も、委巷の陋、学術礼義の資有ること無くして、能く身を忘れて其の親に及び、誠心より出づるは、亦た称すべき者なり。故に十七八を列す。広明の後、方鎮法を淩ぎ、地を誇ること千里、事上聞に上らず、孝悌篤行の士、旌命の及ばざる所なり。小説を載する者、名字他書に参見せず、録すべからず。若し李知本・張志寛の属、上を承け下に順い、礼譲君子の風有り。故に輯めて之を序す。張士巖父病み、薬に鯉魚を須う。冬月氷合い、獺魚を銜えて前に至り、以て父に供うるを得、父遂に癒ゆ。母癰を病み、士巖血を吮う。父亡び、墓に廬し、虎狼之に依る有り。焦懐肅母病み、毎に其の唾を嘗む。若し味異なれば、輒ち悲号幾絶す。母終わり、水漿口に入れず五日、土を負いて墳を成し、廬して守り、日一食し、杖して然る後起つ。継母没す、亦た之が如し。張進昭、母狐刺を患い、左手堕ちて終わる。殯に及び、進昭左腕を截ち墓に廬す。張公芸九世同居、北斉の東安王永楽・隋の大使梁子恭躬ずから慰撫し、其の門を表す。高宗太山に事有り、其の居に臨幸し、本末を問う。「忍」の字を書いて以て対す。天子之が為に流涕し、縑帛を賜いて去る。四人の名頗る著わしく、篇に詳しく見ゆ。
李知本
李知本は、趙州元氏の人、元魏の洛州刺史霊の六世の孫なり。父孝端、隋に仕えて獲嘉丞と為る。族弟太沖と俱に世閥有り。而して太沖官婚最も高く、郷人の語に曰く「太沖兄無く、孝端弟無し」と。
知本経術に渉り、親に事えて篤至なり。弟知隠と雍順し、子孫百余り、貲用僮仆に至るまで間無し。大業末、盗賊閭を過ぎて入らず、相戒めて曰く「義門を犯す無かれ」と。往きて依る者五百余室、皆以て免る。貞観初、知隠伊闕丞と為り、知本夏津令と為る。開元中、孫瑱給事中・揚州長史と為る。知隠の孫颙、文辞有り、太常少卿に至る。従祖兄弟給事中の位に在る者凡そ四人。
張志寛
張志寬は蒲州安邑の人である。父の喪に服して身を毀したため、州里に称された。王君廓が兵を率いて地を略する際、その里を暴かず、頼って全うした者は百軒余りに及んだ。後に里正となったが、ある日突然県に詣でて母の病を称し急を求めた。県令が様子を問うと、答えて曰く、「母に疾あれば、志寬もまた病む。それ故に知るのである」と。県令はその妄りを謂い、獄に繋いだが、馳せて検証したところその言の如くであった。そこで慰めて遣わした。母が終ると、土を負って墳を成し、自ら松柏を植えた。高祖は使者を遣わして弔問させ、員外散騎常侍に拝し、物四十段を賜い、その里を表彰した。
劉君良
劉君良は瀛州饒陽の人である。四世同居し、族兄弟も猶お同産の如く、門内の斗粟尺帛も私する所無し。隋の大業末、凶饉に際し、妻が別居を勧めた。そこで庭の木の鳥の雛を置き換え、争わせて鳴かせると、家人は怪しんだ。妻は曰く、「天下乱れて、禽鳥さえ相容れぬ。況んや人においてをや」と。君良は即ち兄弟と別れて処した。一月余りして密かにその計を知り、因って妻を斥けて曰く、「汝は我が家を破る者なり」と。兄弟を召して流涕して告げ、再び同居を復した。天下乱れ、郷人が共にこれに依った。衆、堡を築き、因って義成堡と号した。武徳年中、深州別駕楊弘業がその居に至ると、凡そ六院が一つの庖を共にし、子弟皆礼節有り、嘆挹して去った。貞観六年、門閭を異として表彰した。
王少玄
王少玄は博州聊城の人である。父は隋末に乱兵に死し、遺腹として少玄を生んだ。甫めて十歳、父の所在を問うと、母が告げたので、即ち哀泣して屍を求めた。当時野中の白骨は覆圧し、或いは曰く、「子の血を漬けて滲むものは、父の胔なり」と。少玄は膚を鑱み、旬を閲して獲た。遂に以て葬った。創は甚だしく、弥年して乃ち興った。貞観年中、州が状を言上し、徐王府参軍に拝した。
任敬臣
支叔才
支叔才は定州の人である。隋末の凶饉の折、夜に野中で食を乞い、還って母に進めんとしたところ、賊に捕らえられ殺されんとした。情を告げると、賊その孝を閔れみ、縛を解いた。母が癰を病むと、叔才は瘡を吮い薬を注ぐ。亡くなると、墓側に廬し、白鵲が廬の傍らに止まった。高宗の時、その家を異として表彰した。
至徳年間、常州の人王遇と弟の遐が共に賊に捕らえられ、一人を釈放しようとした際、兄弟死を譲り合い、賊その意に感じ、尽く放免した。
程袁師
程袁師は宋州の人である。母病み、十旬帯を褫かず、薬は嘗めざれば進めず。弟に代わって洛州に戍る。母終わり、訃を聞き、日に二百里を走り、因って土を負って墳を築き、号して臒て、人再び識らず。曾門以来を改葬し、二十年を閲して乃ち畢わる。常に白狼・黄蛇が墓の左に馴れ、哭する毎に群鳥鳴き翔る。永徽年中、刺史が朝に状を上す。詔して吏に敦駕せしむ。既に至りて、仕えんことを願わず、儒林郎を授け、還す。
武弘度
武弘度は、士の兄の子、相州司兵参軍を補う。永徽年中、父卒す。徐州より髪を被き徒跣して喪所に趨り、土を負って塋を築き、晨夕に号し、日に一溢の米を食す。素芝が廬前に産じ、貍が其の傍らを擾る。高宗詔を下して褒美し、その門を旌す。
宋思礼
宋思禮、字は過庭、継母徐氏に仕えて孝行で知られた。蕭県主簿に補せられる。大旱に遭い、井戸や池が涸れ、母は病弱で、泉水でなければ口に合わず、思禮は憂慮し恐れて祈ると、忽ち泉が庭に湧き出で、味は甘く冷たく、日々汲むに足りた。県人はこれを異とし、県尉柳晃が石に刻んでその感応を称えた。
鄭潛曜
鄭潛曜は、父は萬鈞、駙馬都尉・滎陽郡公。母は代國長公主。開元中、公主が病臥すると、潛曜は左右に侍し、慌ただしくも離れず、三ヶ月も顔を洗わなかった。公主の病が重くなると、血を刺して書を諸神に請い、身をもって代わることを乞うた。書を焼くと、「神許」の二字のみが化けずに残った。翌日、公主は癒え、左右に言わしめぬよう戒めた。後に臨晉長公主を尚し、太僕光祿卿を歴任した。
元讓
元讓は、雍州武功の人。明経に挙げられたが、母の病のため官に就かず、食事を給仕して里門を出ること数十年。母が終ると、墓の傍に廬を結び、櫛や沐浴を廃し、粗食と水のみで過ごした。咸亨中、太子が監国すると、門に闕を表するよう命じた。永淳初、巡察使が元讓の孝悌が卓越していると上表し、太子右内率府長史に抜擢された。任期が満ちて郷里に帰ると、人々に訴訟があれば皆、元讓の判を仰いだ。中宗が東宮にあられた時、召されて司議郎に拝され、入謁すると、武后は遠くから見て言われた、「卿は家に孝ならば、必ず国に忠であろう。宜しく治道をもって吾が子を輔けよ。」まもなく卒した。
裴敬彜
裴敬彜は、絳州聞喜の人。曾祖父の子通は、隋の開皇中に太中大夫として母の喪に服し、哭いて目を失明し、白い烏が塚の木に巣を作った。兄弟八人皆、名だたる孝子であり、詔して門闕を表彰し、世に「義門裴氏」と称された。
敬彜は七歳で文章を能くし、性質は謹み深く敏捷で、宗族に重んじられ、「甘露頂」と号された。父の智周は、臨黄令に補せられたが、下僚に訴えられた。敬彜十四歳の時、巡察使唐臨の許に赴き冤罪を直訴すると、臨はこれを奇とし、試みに賦を作らせたところ、賦は巧みであった。父の罪は既に解かれ、敬彜を朝廷に表し、陳王府典簽に補せられた。ある日、忽ち泣いて左右に謂う、「父上の病痛は、私もいつもそうなのだが、今、心悸して痛む。事は測りがたい。」そこで急を請い、倍の速さで帰ると、父は既に卒しており、憔悴して礼を超えていた。乾封初、累遷して監察御史となった。母が病み、医者の許仁則という者は鍵がかかって車に乗れず、敬彜自ら輿を作って迎えに行った。喪に服した後、詔して絹帛を贈り、官が霊輿を作った。喪服が終ると、著作郎兼修国史となった。中書舎人・太子左庶子を歴任した。武后の時、酷吏に陥れられ、嶺南で死んだ。
梁文貞
梁文貞は、虢州閺鄕の人。若くして軍に従い辺境を守り、帰還した時には、親は既に亡くなっていた。自ら養えなかったことを傷み、即ち壙に門を穿ち、朝夕掃除し、墓の左に廬を結び、黙して三十年、家人が問うことがあれば、文字を書いて答えた。役所が新道を改修することになり、文貞の廬の前を通ることになった時、旅人はこれを見て、皆涙を流した。甘露が墓所の木に降り、白兎が馴れ従い、県令が石に刻んでこれを記した。開元中、刺史の許景先が文貞の孝行が類を絶していると上表し、詔して史官に付した。
沈季詮
沈季詮、字は子平、洪州豫章の人。幼くして孤となり、母に仕えて孝行で、人と争ったことがなく、皆、臆病だと思った。季詮は言う、「私が臆病か?人子たる者、親に憂いを遺すことができようか!」貞観中、母に侍して江を渡る時、暴風に遭い、母が溺死すると、季詮は号呼して江中に投じ、しばらくして、母の腕を抱いて水上に浮かび出た。都督の謝叔方が礼を尽くして祭り、葬った。
許伯會
許伯會は、越州蕭山の人。或いは玄度の十二世孫という。孝廉に挙げられた。上元中、衡陽博士となった。母の喪に際し、土を背負って墳墓を築き、綿入れや絹帛を身に着けず、滋味を嘗めなかった。野火が墓所の木に迫ろうとした時、天に悲号すると、俄かに雨が降り、火は消えた。旱魃の年には、廬の前に泉が湧き、霊芝が生えた。
陳集原
陳集原は瀧州開陽の人である。代々酋長を務めた。父の龍樹は欽州刺史となり、病を得ると、集原は直ちに食事を取らなかった。父が亡くなると、数升の血を吐き、墓の傍に小屋を建てて住み、田畑や財産を全て兄弟に譲ったので、郷里の人々は彼を高く評価した。武后の時、右豹韜衛大將軍を歴任した。
陸南金
陸南金は蘇州呉の人である。祖父の士季は同郡の顧野王に師事して『左氏春秋』『司馬史(史記)』『班氏漢書』を学んだ。隋に仕えて越王侗の記室兼侍読となった。侗が称制すると、著作郎に抜擢された。時に王世充が簒逆を企てたので、侗は士季に言った、「隋は天下を有して三十年になるが、朝廷に果たして忠臣はいないのか」。士季は答えて言った、「危難を見て命を捧げることは、臣の宿願でございます。どうか啓事(上奏文)を書く機会に乗じて、陛下のために彼を誅殺させてください」。謀り事が漏れ、侍読を停められたため、果たせなかった。貞観初年、太学博士兼弘文館学士で終わった。
南金は太常奉礼郎に任じられた。開元初年、少卿の廬崇道が罪を得て嶺南に流され、逃げ帰って東都に潜伏した。南金は母の喪に服していたところ、崇道は弔問客を装って訪れ、内情を打ち明けたので、南金は彼を匿った。間もなく仇敵に跡をつけられ告発され、詔により侍御史の王旭が捕らえて取り調べた。南金は重い刑に当たるところ、弟の趙璧が王旭のもとに赴いて自ら申し出た、「崇道を匿ったのは私です。どうか私を死罪にしてください」。南金は固く弟が事実でないことを言い張ったので、王旭は怪しんだ。趙璧は言った、「母は未だ葬られず、妹は未だ嫁いでいません。兄はそれを成し遂げられますが、私が生きていても益はなく、死んだ方がましです」。王旭は驚き、その状況を上奏した。玄宗は二人を皆赦した。
南金は書史に通じ、操行は謹厳で完璧であった。張説と陸象先は彼を賢人と称し、庫部員外郎から持病のため太子洗馬に改められ、任地で没した。
張琇
張琇は河中解県の人である。父の審素は巂州都督であったが、陳纂仁という者が、彼が戦功の等級を詐称し、私的に兵士を雇ったと誣告した。玄宗はこれを疑い、監察御史の楊汪に命じて直ちに取り調べさせた。纂仁はさらに審素が総管の董堂礼と謀反を企てていると告発した。そこで楊汪は審素を捕らえて雅州の獄に繋ぎ、巂州に急行して謀反の状況を調べた。堂礼は憤りに耐えかね、纂仁を殺し、兵七百で楊汪を包囲し、上奏文を書いて審素の罪を雪ぐよう脅迫した。やがて役人たちが共に堂礼を斬ったので、楊汪は脱出でき、そこで審素が実際に謀反したと断罪し、斬首に処し、その家財を没収した。琇と兄の皇はまだ幼く、嶺南に流された。久しくして、逃げ帰った。楊汪は名を万頃と改めていた。皇は当時十三歳、琇は二歳年下であった。二人は夜、魏王池で万頃を待ち伏せし、皇がその馬を斬りつけた。万頃は驚き、戦う間もなく、琇に殺された。万頃を殺した理由を書き記した文を斧に結びつけ、江南へ向かい、父を陥れた者を皆殺しにしてから、役所に出頭するつもりであった。汜水の途中で、役人に捕らえられ、朝廷に報告された。中書令の張九齢らは皆、彼らの孝烈を称え、死罪を免ずべきだと主張したが、侍中の裴耀卿らは許すべきでないと述べ、帝もまたその意見に同調し、九齢に言った、「孝子というものは、義のためには命をも顧みない。彼らを殺せばその志を成就させることができ、赦せば法律を損なう。子たる者、誰が孝を願わないだろうか。互いに仇討ちを繰り返せば、やがて終わるときがなくなる」。結局耀卿の意見が用いられ、議する者はこれを冤罪と感じた。帝は詔を下して趣旨を説明し、ついに彼らを処刑した。刑に臨んで食事を賜ったが、皇は食べられなかった。琇は顔色を変えず、言った、「地下で先人に会えるのに、何の恨みがあろう」。人々は哀れまない者はなく、誄文を書いて道に掲げ、金を集めて北邙に葬った。それでもなお仇敵に墓を暴かれるのを恐れ、偽の塚を作り、本物の場所を知られないようにした。
附 王君操
太宗の時、即墨の人王君操がいた。父は隋末に同郷の李君則に殺され、君操は逃亡した。当時君操はまだ幼かった。貞観の世になり、時代が変わり、君操は貧しく孤児であったが、仇家は何の憚りもなく、州に自ら名乗り出た。君操は密かに刃物を携えて仇を殺し、その心臓と肝臓を抉り出してすぐに食べ尽くし、急いで刺史に告げて言った、「父は兇手に殺され、二十年を経ても仇を討てませんでしたが、今ようやく憤りを晴らしました。どうか役所に引き渡して死罪にしてください」。州がその状況を上奏すると、帝は死罪を赦した。
附 趙師挙
高宗の時、絳州の人趙師挙の父が人に殺された。師挙は幼く、母は再嫁したので、仇家は警戒しなかった。師挙が成長し、人に雇われて働き、夜に読書した。久しくして、自ら仇人を殺し、役所に出向いて自ら申し出た。帝は彼を許した。
附 同蹄智壽、智爽
徐元慶
武后の時、下邽の人徐元慶の父の爽が県尉の趙師韞に殺された。元慶は姓名を変えて駅舎の下働きとなった。久しくして、師韞が御史として駅舎に宿泊した時、元慶は自ら手を下して彼を殺し、自ら縛につき役所に出頭した。後に死罪を赦そうとしたが、左拾遺の陳子昂が議して言った。
先王は礼を立てて人を進め、罰を明らかにして政を整う。枕幹して仇敵に当たるは、人子の義なり。罪を誅し乱を禁ずるは、王政の綱なり。されど義なくしては人を訓うべからず、綱乱れては法を明らかにすべからず。聖人は礼を修めて内を治め、法を飾りて外を防ぎ、法を守る者に礼を以て刑を廃せしめず、礼に居る者に法を以て義を傷つけしめず、然る後に暴乱消え、廉恥興り、天下直道を行わるる所以なり。
元慶が父の仇を報い、身を束ねて罪に帰すは、古の烈士と雖も何を以てか加えん。然れども人を殺す者は死す、画一の制なり。法は二つあるべからず、元慶は辜に伏すべし。『伝』に曰く「父の仇は天を同じくせず」と。人を勧むるの教なり。教え苟もせざれば、元慶は赦すべし。
臣聞く、刑は乱を遏むるに所以に生ず。仁は徳を崇ぐるに所以に利すと。今父の仇を報ゆるは、乱に非ず。子の道を行ゆるは、仁なり。仁にして利なく、乱と同じく誅せらるるは、是れ能く刑すと曰うべし、未だ以て訓うべからず。然らば則ち邪は正より生じ、治は必ず乱より作る。故に礼防勝えず、先王は以て刑を制す。今元慶の節を義とすれば、則ち刑を廃すなり。跡を元慶の能く義を以て天下を動かす所以は、其の生を忘れて徳に及ぶに在り。若し罪を釈きて其の生を利せば、是れ其の徳を奪い、其の義を虧く。所謂身を殺して仁を成し、死を全うして生を忘るるの節に非ず。臣謂う、宜しく国の典を正し、之を刑に寘き、然る後に閭墓を旌ぐべしと。
時に其の言を韙とす。後に礼部員外郎柳宗元駁して曰く。
礼の大本は、乱を防ぐに在り。若し曰く、賊虐を為す無かれ、凡そ子たる者は殺して赦す無かれと。刑の大本も、亦た乱を防ぐに在り。若し曰く、賊虐を為す無かれ、凡そ治むる者は殺して赦す無かれと。其の本は則ち合い、其の用は則ち異なる。旌ぐと誅すとは、並び得ず。其の旌ぐべきを誅すれば、此れを濫と謂い、刑を黷する甚だし。其の誅すべきを旌げば、此れを僭と謂い、礼を壊す甚だし。
若し師韞独り私怨を以て、吏気を奮い、辜ならざる者を虐げ、州牧罪を知らず、刑官問うを知らず、上下蒙冒し、籲号聞こえず。而るに元慶能く心を処し慮を積みて以て仇人の胸に沖き、介然として自ら克ち、即ち死すとも憾み無し。是れ礼を守りて義を行ゆるなり。執事者は宜しく慚色有るべく、将に謝するに暇あらざるに、又た何を以てか誅せん。
其れ或いは父罪を免れず、師韞の誅するや、法に愆らず。是れ吏に死するに非ず、法に死するなり。法其れ仇とすべけんや。天子の法を仇とし、法を奉ずる吏を戕するは、是れ悖驁にして上を淩ぐなり。執えて之を誅するは、以て邦典を正す所以なり。而るに又た何を以てか旌がん。
礼の所謂仇とは、冤抑沈痛にして号して告ぐる無き者を謂う。罪に抵い法に触れ、大戮に陷りて、彼之を殺す、我乃ち之を殺すと曰い、曲直を議せず、寡を暴にし弱を脅すのみを謂うに非ず。『春秋伝』に曰く「父誅せられず、子復仇すべし。父誅せらるれば、子復仇す、此れ推刃の道なり。復仇して害を除かず」と。今若し此れを取って以て両下の相殺するを断ぜば、則ち礼に合わん。
且つ夫れ仇を忘れざるは、孝なり。死を愛せざるは、義なり。元慶能く礼を越えず、孝に服し義に死す。是れ必ず理に達し道を聞ける者なり。夫れ理に達し道を聞けるの人、豈其れ王法を以て敵仇とせんや。議する者反って以て戮すと為すは、刑を黷し礼を壊す。其れ以て典と為すべからざる明らかなり。請う臣が議を下し令に附せしめ、斯の獄を断ずる者有らば、宜しく前議を以て事に従うべからず。
余常安
憲宗の時、衢州の人余常安の父・叔皆な里人謝全に殺さる。常安八歳、既に能く復仇を謀る。十有七年、卒に全を殺す。刺史元錫軽きに比するを奏す。刑部尚書李鄘執いて不可とし、卒に死に抵う。
梁悦
又た富平の人梁悦の父は秦果に殺さる。悦仇を殺し、県に詣りて罪を請う。詔して曰く「『礼』に在りては父の仇は天を同じくせず。而して法に人を殺せば必ず死す。礼・法は王教の大端なり。二説異なり。下して尚書省に議せしめよ」と。職方員外郎韓愈曰く。
子父の仇を復するは、『春秋』・『礼記』・『周官』に見え、若し子史は数え勝えず。未だ非として罪する者無し。最も宜しく律に詳なるべし。而るに律に条無し。闕文に非ざるなり。蓋し復仇を許さざれば、則ち孝子の心を傷つけ、復仇を許せば、則ち人将に法に倚りて顓に殺し、以て禁止する無からんことを以為うなり。夫れ律は聖人に本づくと雖も、然れども執りて之を行ゆるは、有司なり。経の明らかにする所は、有司を制する者なり。其の義を経に丁寧にして其の文を律に深く没するは、将に法吏をして一に法に断ぜしめ、経術の士をして経を引きて以て議せしめんと欲するなり。
『周官』に曰く「凡そ人を殺して義なる者は、令して仇とせしむるなかれ。之を仇すれば則ち死す」と。義とは宜なり。人を殺して其の宜を得ざる者は、子復仇すべきを明らかにす。此れ百姓の相い仇とする者なり。公羊子曰く「父誅せられず、子復仇すべし」と。誅せられざる者は、罪誅さるるに当たらず。誅とは、上施す下の辞にして、百姓の相い殺すに非ず。『周官』に曰く「凡そ仇讐を報ずる者は、士に書す。之を殺すも罪無し」と。復仇せんとすれば、必ず先ず官に言う、則ち罪無きを言うなり。
復讐の名は同じくすれども、その事は各々異なる。あるいは百姓が互いに仇を報ずるものは、『周官』に称する所の如く、今に議するに足るものあり。あるいは官吏に誅せられるものは、『公羊』に称する所の如く、今に行うべからざるものあり。『周官』に称する所は、復讐せんとすれば先ず士に告ぐ。もし孤稚羸弱にして、微かなる志を抱きて敵人の便を伺う者は、自ら言う能わざるを恐る。未だ以て今に断ずるべからず。然らば則ち之を殺すことと赦すこと、一にすべからず。宜しく其の制を定めて曰く、『父の仇を復する者有らば、事発するや、其の事を具して尚書省に下し、集議して以て聞こえ、酌量して之を処せよ』と。然らば経の指を失うこと無からん。
詔有りて、悦が冤を申し、罪を請いて公門に詣でしむるを以て、循州に流す。
穆宗の世
穆宗の世、京兆の人康買得、年十四、父憲雲陽の張蒞に錢を責む。蒞酔ひ、憲を拉ぎて危うく死せんとす。買得、蒞の趫悍なるを以て、救ひて解くに足らざるを度り、則ち鍤を挙げて其の首を撃つ。三日にして蒞死す。刑部侍郎孫革建言す、「買得父の難を救ひて暴と為さず、解けざるを度りて撃つも兇と為さず。先王刑を制するに、必ず先ず父子の親を先にす。『春秋』心を原ひて罪を定め、『周書』諸罰に權有り。買得孝性天に至る、宜しく矜宥を賜うべし」と。詔有りて死を減ず。
侯知道、程俱羅
何澄粹
又何澄粹有り、池州の人なり。親病み日錮る。俗鬼を尚び、病者は薬を進めず。澄粹股の肉を剔ぎて進む。親疾瘳ゆ。後親没し、墓に伏し、哭踴数無し。毀に以て卒す。当時「青陽孝子」と号す。士其が為に誄を作ること甚だ衆し。
寿州安豊の李興も亦至行有り。柳宗元之が為に『孝門銘』を作りて曰く、「寿州刺史臣承思言す、『九月丁亥、安豊令上る所の部内編戸氓興、父悪疾に被り、歳月亟に就く。興自ら刃を以て股肉を切り、仮托して饋献す。父老病已に啖う能わず、宿して死す。興号呼し臆を撫で、口鼻血を垂る。土を捧げて墳に就き、涕洟に沾漬す。墳の左に小廬を作り、苫茨を以て蒙ぎ、其中に伏匿し、扶服頓踴し、昼夜哭訴す。孝誠幽に達し、神之が為に見異す。廬上紫芝・白芝を産み、廬中醴泉湧く。此れ皆陛下孝治の神化、陰に其の心に中り、而して能く斯の事を致す。謹みて按ずるに、興匹庶賤陋、習ひを循りて浅下、性文字の導く所に非ず、生耨耒を以て業と為す。而して能く彼の醇孝に鐘り、古烈を超出す。天意神道、猶瑞物を錫して以て殊異を表す。伏して惟うに陛下唐堯の如神の德有り、宜しく旌褒を加え、上下に合わしむべし。請う其の裏閭を表し、石に刻して明白にし、風美を宣延し、後祀に観示して、永く極無からしめん。臣昧死して請う』と。制して曰く可とす。銘に曰く、『懿なるかな其の孝思、茲に淑霊と惟す。粹和を稟承し、天経を篤く守る。羸疾に泣侍し、隠冥に默禱す。刃を引いて自ら向かい、肌を殘し形を敗る。羞膳奉進し、憂労孝誠す。惟ふに時高高、曾て視聴せず。創巨く痛仍り、穹旻に號す。土を捧げ涕に濡れ、首を頓して墳を成す。膺を搯び眥を腐し、寒暑廬に在り。草木悴死し、鳥獸踟躕す。殊類異族も、亦相其の哀しむ。二位を肇め、孝道爰に興る。厥の猷を克く脩め、載籍是に登る。帝に有虞有り、孝を以て烝烝たり。仲尼経を述べ、以て曾子に教う。惟ふ昔魯侯、夷宮に命を見る。亦た考叔有り、莊公を寤して純と称す。顯顯たる李氏、実に之と倫を同じくす。道路に哀嗟し、裏鄰に涕慕す。神秘祉を錫し、三秀霊泉す。帝命薦加し、亦其の門を表す。上下を統一し、天人を交贊す。此の碑號を建て、億齢芬を揚ぐ』と」
附 許法慎
許法慎、滄州清池の人なり。甫三歳、已に知有り。時に母病み、乳を飲まず、慘慘として憂色有り。或ひは珍餌を以て詭ひて之を悦ばしむるも、輒ち食わず、還た以て母に進む。後親喪し、常に塋に廬す。甘露・嘉禾・霊芝・木連理・白兔の祥有り。天寶中、其の閭を表異す。
附 林攢
林攢、泉州莆田の人なり。貞元初、仕えて福唐尉と為る。母羸老、未だ迎へずして病む。攢聞き、官を棄てて還る。母亡するに及び、水漿口に入れず五日。自ら埏甓して冢を作り、其の右に廬す。白烏来り、甘露降る。觀察使李若初官属を遣わして実を驗す。會ふに露晞ゆ。里人色を失ふ。攢哭して曰く、「天の降する所の露、我を禍すや」と。俄にして露復た集まり、烏も亦回翔す。詔して母の墓前に二闕を作らしむ。又其の閭を表し、徭役を蠲む。時に「闕下林家」と号す。
附 陳饒奴
陳饒奴、饒州の人なり。年十二、親並びに亡し、窶弱喪に居り、又歳饑う。或ひは其の弟妹を分かつを教ふ、性命を全うすべしと。饒奴流涕し、身丐訴して相全養す。刺史李復之を異とし、資儲を給し、其の門に署して「孝友童子」と曰ふ。
附 王博武
王博武は許州の人である。会昌年中、母に侍して広州に至り、沙湧口に及んで暴風に遭い、母は溺死し、博武は自ら水に投身した。嶺南節度使盧貞が吏に命じて網を沈めさせると、二つの屍を得たので、これを葬り、その墓に「孝子墓」と表した。詔して石に刻ませた。
附 萬敬儒
萬敬儒は廬州の人である。三世同居し、親に喪に遭い、墓側に廬して、血を刺して浮屠の書を写し、二指を断ち切ると、やがてまた生えた。州はその居所を改めて成孝郷広孝聚と称した。大中時、その家を表彰した。
附 章全益
章全益は梓州涪城の人である。幼くして孤となり、兄の全啓に養育された。母が病むと、全啓は股を刲いて母に食わせて癒した。全啓が亡くなると、全益は斬衰を服し、手の一指を断ち切って報いた。妻を娶らず、僮僕と一室に処し、薬を売って自ら生業とし、世に黄金を作り得ると伝えられた。成都に四十年居り、章孝子と号し、卒す。年九十八。
贊
賛して曰く、聖人の天下を治むるに道あり、曰く「要は孝弟のみ」と。父は父たり、子は子たり、兄は兄たり、弟は弟たり、これを推して国に之き、国より天下に之き、一つの善を建てれば百行従い、その失うところは則ち法を以てこれを縄す。故に曰く「孝は天下の大本なり、法はその末なり」と。匹夫単人に至りては、孝を行うこと一概にして、兇盗も敢えて凌がず、天子喟然としてこれを旌るは、孝を教えて忠を求めんがためなり。故にこれを裒めて篇に著す。