新唐書

巻一百九十四 列傳第一百十九 卓行 元德秀 權臯 甄濟 陽城 司空しくう

元德秀

元德秀、字は紫芝、河南河南の人なり。質朴にして飾り気少なし。幼くして孤となり、母に仕えて孝、進士に挙げらるるも、左右を去るに忍びず、自ら母を背負いて京師に入る。及第したる後、母亡くなり、墓側に廬し、食には塩酪を用いず、敷物には茵席を敷かず。喪服を除き、貧困により南和尉に補せられ、恵みある政あり。黜陟使これを聞き、龍武軍錄事參軍に抜擢す。

徳秀は親の存命中に娶るに及ばず、婚姻を肯わず。人、以て後を絶つべからずと為すも、答えて曰く「兄に子あり、先人の祭祀を得たり。吾何ぞ娶らんや」と。初め、兄の子繈褓にして親を喪い、乳母を得る資なく、徳秀自らこれを乳し、数日にして乳流れ、食らう能うに至りて止む。既に長じ、娶らんとすれども、家貧しきを苦にし、乃ち魯山令を求む。此に先立ち車より堕ち足を傷め、趨拝すること能わず、太守客礼をもってこれを待つ。盗賊獄に繋がれ、時に虎暴れを為す。盗賊、虎を格して自ら贖わんことを請う。許す。吏白す「彼は詭計にして、且つ亡去せん。累えとならざるや」と。徳秀曰く「許せり。約に背くべからず。即ち累えあらば、吾当に坐す。余人に及ばず」と。明日、盗賊虎の屍を以て還る。挙県嗟嘆す。

玄宗東都に在り、五鳳楼下に酺し、三百里内の県令・刺史に命じ、各々声楽を以て集まらしむ。是の時、帝勝負を第し、賞黜を加えんとすと頗る言う。河内太守は優伎数百を輦し、錦繡を被らしめ、或いは犀象を作り、瑰譎光麗なり。徳秀は惟だ楽工数十人、袂を聯ねて『於蒍於』を歌う。『於蒍於』は、徳秀の作れる歌なり。帝聞き、これを異とし、嘆いて曰く「賢人の言なるかな」と。宰相に謂いて曰く「河内の人その塗炭たるか」と。乃ち太守を黜し、徳秀ますます知名となる。

得る所の俸禄は、悉く人の孤遺なる者の衣食に充つ。任期満ち、笥に一縑を余し、柴車を駕して去る。陸渾の佳山水を愛し、乃ち定住す。墻垣扃鑰を為さず、家に仆妾無し。凶歳には、日あるいは爨かず。酒を嗜み、陶然として琴を弾じて自ら娯しむ。人酒肴を以てこれに従うも、賢鄙を問わずして酣飫す。是の時、程休・邢宇・宇の弟宙・張茂之・李・族子丹叔・惟嶽・喬潭・楊拯・房垂・柳識、皆門弟子と号す。徳秀文辞に善くし、『蹇士賦』を作りて自ら況う。房琯、毎に徳秀を見て、嘆息して曰く「紫芝の眉宇を見れば、人の名利の心ことごとく尽きん」と。蘇源明常に人に語りて曰く「吾不幸にして衰俗に生まる。恥じざる所は、元紫芝を識れることなり」と。

天宝十三載卒す。家に惟だ枕・履・簞・瓢のみ。潭、時に陸渾尉たり、その葬りを庀る。族弟結、これを哭して慟す。或いは曰く「子哭すること過ぎて哀し。礼なるか」と。結曰く「礼の過ぐるを知りて、情の至れるを知らざるなり。大夫は弱にして固無く、性にして専無く、老いて在ること無く、死して余ること無し。人情の耽溺し、喜愛し、悪むべき者は、大夫之れ無し。生六十年、未だ嘗て女色を識らず、錦繈を視ず、未だ嘗て足ることを求めず、而して苟も辞し、色を佚せず、未だ嘗て十畝の地・十尺の舎・十歳の僮有ること無く、未だ嘗て布帛を完うして衣とし、五味の餐を具せず。吾これを哀しむは、以て荒淫貪佞・綺紈粱肉の徒を戒めんがためなり」と。

李華は兄事として徳秀に仕え、而して蕭穎士・劉迅と友とす。及び卒す。華、謚して文行先生と曰う。天下その行いを高しとし、名づけず、これを元魯山と謂う。華ここに於いて『三賢論』を作る。或いその長ずる所を問う。華曰く「徳秀の志は当に道を以て天下を紀すべく、迅は当に『六経』を以て人心を諧うべく、穎士は当に中古を以て今世を易うべし。徳秀は愚智を斉うせんと欲し、迅は一物感ずるもその正を得ず、穎士は呼吸折節して重禄を獲るも、一刻の安易を易えず。孔子の門に於いて、皆達者なるか。徳秀をして師保の位に据えしめ、形容を瞻れば、乃ちその仁を見ん。迅をして卿佐の服を被らしめ、賓友に居らしめ、治乱の根源を謀り、元精に参わらしめば、乃ちその妙を見ん。穎士は百錬の剛の若く、屈すべからず。廃興去就・一生一死の間に当たらしめて、而る後にその節を見ん。徳秀は王者の楽を作して徳を崇ぶるは、天人の極致なりと為し、而して辞章称せざれば、是れ楽無きなりとし、ここに於いて『破陣楽辞』を作りて商・周を訂す。迅は世の史官たり、『礼』・『易』・『書』・『春秋』・『詩』を述べて『古五説』と為し、条貫源流し、古今の変に備う。穎士は特に子長の年を編まずして列伝を為すを罪とし、後世これに因るは、典訓に非ざるなりとす。『春秋』三家の後より、訓えて生人を斉うせざれば録せず。然れども各々病あり。元は酒を病み、劉は物を賞するを病み、蕭は悪を貶すること太だ亟く、能を奨ること太重きを病む。若しその節を取らば、皆人の師と為るべし」と。世これを篤論と謂う。

休、字は士美、広平の人。宇は字紹宗、宙は字次宗、河間の人。茂之、字は季豊、南陽の人。は字伯高、丹叔は字南誠、惟嶽は字謨道、趙の人。潭は字源、梁の人。垂、字は翼明、清河の人。拯、字は斉物、隋の観王雄の後、進士に挙げられ、終に右ぎょう衛騎曹参そうしん軍。制科に擢でられ、南華令に遷る。大水あり、他県飢え、人互いに属するに至る。具{衍食}鬻を為し、及び去るに、糗糧を送る。吏碑を立てる。安禄山乱に、清河に客し、平原太守顔真卿に師を乞うて、一郡全うせらる。廬州刺史を歴任す。拯と名最も著しく、潭・識は文を以て後に伝わる。

権臯

権臯、字は士繇、秦州略陽の人、潤州丹徒に徙る。晉の安丘公翼の十二世の孫。父倕は席・蘇源明と芸文を以て相友とし、終に羽林軍参軍。

臯進士第に擢でられ、臨清尉と為る。安禄山その名を籍し、表して薊尉と為し、幕府に署す。臯、禄山将に叛かんとすと度り、その猜虐諫むべからざるを以て、行かんと欲すれども、禍の親に及ぶを慮る。天宝十四載、京師に俘を献ぜしめらる。還り福昌尉仲謨を過ぐ。謨の妻は臯の妹なり。密かに疾を以てこれを召すことを約す。謨来たり、臯陽に喑し、直ちに謨を視て瞑す。謨為に尽く哀しみ、自ら含斂す。臯逸れて去る。人知る者無し。吏詔書を以て臯の母に還る。母実に死せりと謂い、慟哭して行路を感ぜしむ。故に禄山これを虞せず、その母を帰す。臯潜かに淇門に候い、奉侍して昼夜南奔し、臨淮に客す。驛亭保を為して以て北方を詗わしむ。既に江を度りて禄山反す。天下その名を聞き、争い取って以て属と為さんとす。高適表して大理評事・淮南采訪判官と為さんとす。

永王兵を挙ぐ。士大夫を脅す。臯姓名を詭して以て免る。玄宗しょくに在りてこれを聞き、監察御史を拝す。会に母喪し、風痺の疾を得、洪州に客す。南北梗否し、年を逾えて詔命至らず。中人州を過ぐる者有り、頗る求取して厭うこと無し。南昌令王遘これを按ぜんと欲し、臯に謀る。臯良久しく答えず、泣いて曰く「今何由かして天子の使を致さん。而して遽かにこれを治めんと欲するか」と。面を掩いて去る。遘悟り、厚く謝す。浙西節度使顔真卿表して行軍司馬と為し、起居舎人に召し拝すれども、固く辞す。嘗て曰く「吾乱世に身を潔くし、以て吾が志を全うせんとす。是を持して名を受けんと欲するか」と。李季卿江淮黜陟使と為り、その高行を列ね、著作郎に召すも、就かず。

中原乱れてより、士人は多く江を渡り、李華・柳識・韓洄・王定は皆権臯の節義を仰ぎ、彼と親しく交わった。韓洄・王定は常に権臯は宰輔・師保となし得ると評し、李華もまた天下の善悪を分かつは一人のみと為した。卒す、年四十六、韓洄等は喪服を着て哭し、詔して秘書少監を追贈す。元和年中、貞孝と謚す。子の徳輿、宰相に至り、別に伝あり。

甄済

甄済、字は孟成、定州無極の人。叔父は幽・涼二州の都督ととくとなり、家は衛州にあり、宗族は侠気を以て誇り合う。済は幼くして孤となり、独り学を好み、文雅を以て称せらる。青巖山に十余年居り、遠近その仁に服し、山を囲んで畋猟漁撈を敢えてせず。采訪使苗晋卿これを上表し、諸府五たび辟し、詔十たび至るも、堅く臥して起たず。

天宝十載、左拾遺を以て召す、未だ至らざるに安禄山朝に入り、済を玄宗に求め、范陽掌書記を授く。禄山衛に至り、太守鄭遵に意を致して山中に謁せしむ、済已むを得ず為に起ち、禄山下りて鈞礼を拝す。府中に居り、論議正直なり。久しくして、禄山に反謀あるを察し、諫むべからず。済は素より衛令の齊玘と善し、因りて謁して帰り、具に誠を以て告ぐ。密かに羊血を左右に置き、夜に至り、血を嘔くが如き状を為し、陽に支えず、旧廬に舁ぎて帰る。禄山反し、蔡希徳に封刀して之を召さしめ、曰く「即ち起たざれば、其の頭を断ちて我に見よ」と。済色動かず、左手に書して曰く「行くべからず」と。使者刀を把り趨りて前る、済頸を引いて之を待つ、希徳歔欷嗟嘆し、刀を止め、実病を以て告ぐ。後に慶緒復た強いて輿に載せて東都安国観に至らしむ。会に広平王東都を平らぐ、済軍門に詣り上謁して泣涕す、王感動す。粛宗詔して之を三司署に館し、賊官に汚れたる者をして羅拝せしめ、以て其の心を愧じしむ。秘書郎を授く、或いは言う太だ薄しと、更に太子舎人を拝す。

来瑱陜西襄陽の参謀に辟き、礼部員外郎を拝す。宜城楚昭王の廟、坎地広さ九十畝、済其の左に墅を立つ。瑱死し、屏居すること七年。大暦初め、江西節度使魏少遊表して著作郎と為し、兼ねて侍御史、卒す。

済子を生み、其の官に因りて字して礼闈・憲臺と曰う。而して礼闈死し、憲臺名を改めて逢と為す、幼くして孤となる。長ずるに及び、宜城の野に耕し、自ら力を尽くして書を読み、州県に謁せず。歳饑うれば、用を節して親里に給し、大いに穣れば、則ち其の余りを郷党の貧狭なる者に振るう。朋友緩急あれば、輒ち家資を出して周贍し、義を以て聞こゆ。

逢常に父の名の国史に在らざるを以て、京師に詣りて自ら言わんと欲す。元和中、袁滋表して済の節行は権臯と同科なり、宜しく国史に載すべしと。詔有りて済に秘書少監を追贈す。而して逢は元稹と善し、稹書を史館修撰韓愈に移して曰く「済禄山を棄て去り、其の反するに及び、名号有り、又逼りて之を致し、執って起たず、卒に其の名を汚さず。易きに居る時に従う所を弁じ、利仁の世に其の操を堅くし、而も猶お選懦者の為さざる所、蓋し人の心を怫ふるは難く、而して己を害するの避くるは深しなり。天下大乱に至り、忠を死する者は必ずしも顕れず、乱に従う者は必ずしも誅せられず、而して眷々として本朝を思い、甘心して白刃に就くは、難きかな。甄生の若きは、弁冕其の身に加わらず、禄食其の口に進まず、直に布衣の一男子のみ。乱に及びては、則ち頸を延べて刃を受け、分死して回らず、必ずしも顕れざるを以て忠を廃せず、必ずしも誅せられざるを以て乱に従わず。古と今とに在りて、蓋し百一なり」と。愈答えて曰く「逢能く身を行い、幸いに方州の大臣に於いて、以て其の先人の事を標目し、之を天下の耳目に載せ、之を天子に徹し、其の父を追爵して第四品と為し、赫然として人を驚かす、逢と其の父と俱に当に書を得べし」と。是より父子俱に名を顕わす。

陽城

陽城、字は亢宗、定州北平の人、陜州夏県に徙る、世官族を為す。資好学、貧しくして書を得ること能わず、吏と為るを求め、集賢院に隷し、窃かに院の書を読みて之れ、昼夜戸を出でず、六年、通ぜざる所無し。進士第に及び、乃ち去りて中条山に隠れ、弟の堦・域と常に衣を易えて出づ。年長じ、娶るを肯わず、弟に謂いて曰く「吾と若とは孤煥相育つ、既に娶れば則ち外姓を間わす、共に処すと雖も而して益々疏し、我忍びず」と。弟之を義とし、亦娶らず、遂に終身す。

城謙恭簡素、人に遇うに長幼一なり。遠近其の行いを慕い、学び来る者跡道に接す。閭里に争訟有れば、官に詣らずして城に詣りて之を決す。其の樹を盗む者有り、城之に遇い、其の恥を慮り、退きて自ら匿る。嘗て糧絶え、奴を遣わして米を求めしむ、奴米を以て酒に易え、路に酔いて臥す。城其の故を怪しみ、弟と之を迎う、奴未だ醒めず、乃ち負いて帰る。覚むるに及び、痛く咎めて謝す、城曰く「寒くして飲む、何ぞ責めん」と。寡妹城に依りて居る、其の子四十余、癡にして人を知らず、城常に負いて出入す。始め、妹の夫遠方に客死す、城弟と千里を行き、其の柩を負いて帰葬す。歳饑うれば、跡を屏して隣里を過ぎず、屑榆を以て粥と為し、講論輟まず。奴の都兒有り、其の徳に化し、亦方介自ら約す。或いは其の餒を哀れみ、之に食を与うるも、納れず。後ち糠核数杯を致すに及びて、乃ち受く。山東節度府城の義を聞き、使を発して五百縑を遺し、使者に戒めて返さしめず。城固く辞し、使者委ねて去る、城之を置きて未だ嘗て発せず。会に里人の鄭俶親を葬らんと欲し、人に貸するも得ず、城其の然るを知り、縑を挙げて之に与う。俶既に葬り、還りて曰く「君子の施しを蒙り、願わくは奴と為りて以て徳を償わん」と。城曰く「吾子に非ず、能く我と同しく学を為さんか」と。俶泣いて謝し、即ち書を以て教う、俶業と為すこと能わず、城更に遠阜に徙り、使って其の習を顓にせしむ。学初めの如く、慚じて、縊死す。城驚き且つ哭し、厚く自ら咎め、為に緦麻を服して之を瘞す。

陜虢観察使李泌数たび礼餉す、城之を受く。泌辟きて之を府に致さんと欲す、起たず、乃ち諸朝に薦め、詔して著作佐郎を以て召し、並びに緋魚を賜う。泌参軍事韓傑を使い詔を奉じて其の家に至らしむ、城詔を封じて還し、自ら「多病老憊、奔奉に堪えず、惟だ哀憐せよ」と称す。泌強うること敢えず。宰相と為るに及び、又之を徳宗に言う、是に於いて召して右諫議大夫を拝し、長安ちょうあん尉楊寧に束帛を賫して其の家に詣らしむ。城褐衣を着て闕下に到り辞譲す、帝中人を使い緋衣を持して之に衣せしめ、召見し、帛五十匹を賜う。

初め、城未だ起たざる時、縉紳其の風采を見んことを想う。既に草茅より興り、諫諍の官に処る、士以て且に職に死すべしと為し、天下益々之を憚る。命を受くるに及び、他の諫官事を論ずるに苛細紛紛たり、帝厭苦しむ、而して城浸く得失を聞き且つ熟し、猶未だ言うを肯わず。韓愈『争臣論』を作りて之を譏切す、城屑とせず。方に二弟と賓客を延いて、日夜劇飲す。客諫めて止めんと欲する者有れば、城其の情を揣み知り、強いて客に飲ませ、客辞すれば、即ち自ら満ち引き、客已むを得ず。之と酬酢し、或いは酔い、席上に仆る、城或いは先ず酔いて客の懐に臥し、客の語を聴くこと能わず、関言するを得ず。常に木枕布衾を以て銭を質し、人其の賢を重んじ、争って之を售る。毎に二弟に約す「吾が俸禄の入る所、而して月食の米幾何、薪菜塩幾銭かを度る可し、先ず之を具え、余りは酒家に送り、留むる無かれ」と。服用贏副無く、客或いは其の佳きを称えて愛す、輒ち喜び、挙げて之に授く。陳萇なる者有り、其の俸を得るを候い、常に往きて銭の美を称え、月に獲る所有り。位に居ること八年、人其の際を窺うこと能わず。

裴延齢が陸贄・張滂・李充らを誣告して追放したとき、帝の怒りは甚だしく、敢えて言う者もなかった。陽城はこれを聞き、「我は諫官である。天子に無罪の大臣を殺させてはならぬ」と言い、拾遺の王仲舒と共に延英閣に詣でて上疏し、延齢の罪を極論し、慷慨として大義を引き、陸贄らの冤罪を訴え、数日にわたって止まなかった。聞く者は寒心して恐れたが、城はますます奮い立った。帝は大いに怒り、宰相を召して城の罪を責めた。順宗が皇太子であったが、これを救い開き、ようやく免れることができ、勅を下して宰相に城を諭して帰らせた。しかし帝の怒りは収まらず、ついに延齢を宰相にしようとした。城は公然と言った、「延齢が宰相となるなら、我は白麻(詔書)を奪い破り、朝廷で泣くであろう」。帝が延齢を宰相にしなかったのは、城の力によるものである。このことで罪に坐し、国子司業に左遷された。諸生を引き連れて告げて言うには、「およそ学ぶ者は、忠と孝を学ぶためである。諸生の中で久しく親を省みない者はいるか」。翌日、城に謁して帰郷し養う者二十人、三年も帰って侍しない者はこれを斥けた。孝秀で徳行ある者を選び堂上に昇らせ、酒に沈み教えに従わない者は皆罷免した。自ら経籍を講じ、生徒は皆きちんと法度を守った。

薛約という者は、狂直で、事を言って罪を得、連州に流された。吏が跡を追って捕らえようとしたが、城の家で見つかった。城は吏を門に坐らせ、薛約を引き入れ飲食を終わらせ、歩いて都外まで送り別れた。帝は城が罪人と朋党をなすのを憎み、道州刺史として出させた。太学の諸生何蕃・季償・王魯卿・李讜ら二百人が闕下で頓首し、城の留任を請うた。柳宗元はこれを聞き、何蕃らに書を送って言うには、「詔が陽公を道州に出されたと聞き、僕は憂い悩む。幸いに不諱の時代に生まれながら、大綱を論列することができず、下僚の者に聞き、陽公が南に行かれることを知った。今諸生が陽公の徳を愛慕し、懇ろに留まることを乞うているのを見て、手を打って大いに喜んだ。昔、李膺・嵇康の時代、太学生徒が闕を仰いで訴え出たが、僕は千百年を経て再び見ることはないだろうと思っていた。それが今日にあるとは。誠に諸生の賜るところ甚だ厚く、また陽公の漸くに導き訓育されたところによるのであろうか。ああ、公は博く厚く恢大な徳を持ち、善も偽も併せ容れ、来る者は拒まず。狂惑の小生が門下に依托し、文を飛ばして愚を陳べる者があれば、論者は陽公が汚れを納れるに過ぎるとし、人師の道がないと言う。仲尼の党には狂狷あり、南郭はこれを讒した。曾参の徒七十二人、負芻の禍を致す。孟軻が斉に館すとき、従者が履を窃んだ。かの聖賢でさえ免れなかった。どうして人を拒むことができようか。俞跗・扁鵲の門は病夫を拒まず、繩墨の傍らは枉んだ材を拒まず、師儒の席は曲った士を拒まない。かつ陽公が朝廷にあれば、四方に風聞が伝わり、貪冒苟進の邪薄の夫はその志を沮喪する。師尹の位は微々たるものであっても、人々は実にこれを瞻望するのである。一州を化するよりも、その功は遠近で測れるものではない。諸生の言は、独り己のためではなく、国にとっても甚だ宜しい」。何蕃らは闕下を守ること数日、吏に遮られ抑えられて上聞できなかった。城が出発すると、皆泣涕し、石を立ててその徳を記した。

道州に至ると、民を治めること家を治めるが如く、罰すべきはこれを罰し、賞すべきはこれを賞し、簿書を意に介さなかった。月俸は足る分を取るだけで、残りは官に収めた。日に米二斛、大きな魚一匹を炊き、甌と杓を道に置き、人々と共に食した。州には侏儒が産し、毎年朝廷に貢いでいたが、城はその生き別れを哀れみ、進めることがなかった。帝がこれを求めたので、城は奏上して言うには、「州民は皆背が低い。もし貢ぐとなれば、何を供すべきか分かりません」。これ以来廃止された。州人はこれを感じ、「陽」を子の名につけた。前刺史が罪に坐して獄に下ったとき、刺史に寵愛された吏が、不法の事を拾って城に告げ、自らを免れようとしたが、城は直ちにこれを鞭打ち殺した。賦税を時に合わせず、観察使がたびたび責めた。州が考功の等第を上申するとき、城は自ら署して言うには、「撫字心労れ、追科政拙し、考下下」。観察府が判官を派遣して賦税を督めた。州に至り、城が出迎えないのを怪しみ、吏に問うと、吏は言うには、「刺史は罪があると思い、自ら獄に囚われています」。判官は驚き、馳せ入り、城に謁して言うには、「使君に何の罪がありましょうか。私は命を受けて安否を伺いに来ただけです」。数日留まったが、城は帰ろうとせず、門を閉ざし、館の外に寝て命を待った。判官は急いで辞去した。府はまた官を派遣して挙劾させようとしたが、その者は義として行きたがらず、妻子を車に載せて途中で逃げ去った。順宗が即位し、城を召し還そうとしたが、城はすでに卒していた。七十歳。左散騎常侍さんきじょうじを追贈し、その家に銭二十万を賜り、官が喪を護って帰葬させた。

何蕃は和州の人。父母に事えて孝であった。太学で学び、一年に一度帰郷したが、父母は許さなかった。二年を隔ててまた帰ったが、また許さなかった。合わせて五年、慨然として親が老いたことを思い、自ら安んじることができず、諸生に揖して去ろうとした。諸生は共に何蕃を空き部屋に閉じ込め、皆で何蕃の義行を書き上げ、陽城に留めるよう請うた。ちょうど城が罷免されたので、これも止んだ。初め、朱泚が反乱したとき、諸生が乱に従おうとしたが、何蕃が正色して叱り、聞き入れなかったので、六館の士で汚名を受ける者はなかった。何蕃は太学に二十年居て、死喪して帰る者のない者は、皆自ら喪を治めた。季償は魯の人。王魯卿は進士に及第し、名があった。

司空図

司空図、字は表聖、河中虞郷の人。父の輿は、風骨と才幹があった。大中の時、盧弘正が塩鉄を管掌し、表を上って安邑両池の榷塩使とした。これ以前は法が疎闊で、吏が軽々しく禁を犯したが、輿は数十条の約束を立て、皆が宜しいとした。労により再び戸部郎中に遷った。

司空図は、咸通の末に進士に擢第し、礼部侍郎の王凝に特に賞待された。やがて王凝が法に坐して商州に貶されると、図は知己を感じ、これに従った。王凝が起用されて宣歙観察使となると、召し置いて幕府とした。殿中侍御史に召されたが、王凝の府を去るに忍びず、御史台に弾劾され、光禄寺主簿に左遷され、東都に分司した。盧攜が故宰相として洛に居たが、図の節を嘉し、常に交遊した。盧攜が朝廷に還るとき、陝虢を過ぎ、観察使の盧渥に属して言うには、「司空御史は高士である」。盧渥は直ちに表して僚佐とした。ちょうど盧攜が再び政を執ると、召して礼部員外郎に拝し、まもなく郎中に遷った。

黄巢が長安を陥落させたとき、図は逃げようとしたが、前に進めなかった。図の弟に段章という奴がおり、賊に陥ち、図の手を執って言うには、「私が主張する将軍は士を喜んで下す。往って見るがよい。虚しく溝中に死ぬことはない」。図は行くことを肯わず、段章は泣いた。そこで咸陽に奔り、間関して河中に至った。僖宗が鳳翔に駐蹕すると、行在で知制誥に拝し、中書舎人に遷った。後に宝鶏に狩り、従うことができず、また河中に還った。龍紀の初め、また旧官に拝されたが、病を理由に解任された。景福年中、諫議大夫に拝されたが、赴任しなかった。後に再び戸部侍郎として召されたが、身をもって闕下に謝し、数日で引き去った。昭宗が華州にいたとき、兵部侍郎に召されたが、足疾を理由に固く自ら乞うた。ちょうど洛陽らくように遷都し、柳璨が賊臣の意を迎え、天下の才望を誅し、王室の喪を助けようとした。詔して図を入朝させると、図は陽に笏を堕とし、野人の耄碌した様子を装った。柳璨は図が世を意としないことを知り、帰還を許した。

司空圖は中條山の王官谷に居を構え、先祖伝来の田地があったので、隠居して出仕しなかった。亭や観、素室を築き、ことごとく唐代の節義ある士人や文人の画像を掲げ、亭を休休と名付け、文章を作って志を表した。「休とは美なり、既に休して美具わる。故に才を量りて、一に休すべし。分を揣って、二に休すべし。耄いて聵く、三に休すべし。又た少にして惰、長じて率、老いて迂、此の三者は時に済う用に非ざれば、則ち又た休すべし。」と。因みに自らを耐辱居士と称した。その言は奇矯で常ならず、以て当時の禍災を免れたという。予め冢棺を用意し、佳日に遇うと、客を導いて壙中に坐らせ詩を賦し、酒を酌み交わして徘徊した。客或いは之を難ずると、図は曰く、「君何ぞ広からざるや?生死は一致す、吾れ寧ろ暫く此の中に遊ばんや!」と。毎年時節の祠禱鼓舞には、図は里の耆老と楽しみを共にした。王重榮父子は特に之を重んじ、度々饋遺したが、受け取らなかった。嘗て碑文を作ったところ、絹数千匹を贈られたが、図は之を虞郷の市に置き、人が取るに任せ、一日で尽きた。当時、寇賊の過ぎ行く所は残暴であったが、独り王官谷には入らず、士人はこれに依って難を避けた。

朱全忠が既にさんさんだつすると、礼部尚書に召されたが、起たなかった。哀帝がしいされると、図はこれを聞き、食を絶って卒した。七十二歳。図に子がなく、甥を嗣としたが、嘗て御史に弾劾された際、昭宗は責めなかった。

贊して曰く、節誼は天下の大閑たり、士は勉めざるべからず。臯・済の賊に汚されず、忠に拠りて自ら全うし、乱臣をして計を沮ますを見よ。天下の士は大分の在る所を知るが故に、傾きし朝も復た支うるなり。君子無くして、果たして能く国たるや?徳秀は徳を以てし、城は鯁峭を以てし、図は命を知る。其の志凛凛として秋霜と厳しさを争う、真の丈夫なるかな!