新唐書

巻一百九十三 列傳第一百十八 忠義下 程千里附:袁光廷 龐堅附:薛願 張興 蔡廷玉 符令奇子:璘 劉乃 孟華 張伾 周曾 張名振 石演芬 吳漵 高沐 賈直言 辛讜 黃碣孫:揆

程千里

程千里は京兆府萬年県の人である。身長七尺、魁偉で膂力に優れた。磧西に応募し、累進して安西副都護となった。天宝の末、北庭都護・安西北庭節度使を兼ねた。突厥の首領阿布思が帰順し、もとは朔方に属し、李の姓を賜り献忠と名乗ったが、幽州に転属させられ、平素より安禄山と怨みがあり、内心恐れて、ついに叛いて磧外に戻り、しばしば辺境を侵した。玄宗はこれを憂い、詔して千里に兵を率いて討伐捕獲させた。千里は葛邏祿を諭し、密かに挟撃するよう命じた。献忠は果たして窮して葛邏祿に帰ろうとしたところ、捕らえられ、妻子や帳下の数千人とともに千里のもとに送られ、そこで献俘を勤政楼で行い、詔して斬って示衆させた。千里は右金吾衛大將軍に抜擢され、宿衛に留まった。

禄山が反乱を起こすと、詔して河東で兵を募り、直ちに節度副使・雲中太守に任じ、上党長史に転じた。賊が攻めて来ると、激戦して多くの首級を挙げ、累進して開府儀同三司・礼部尚書を加えられた。至徳二載、賊将蔡希徳が上党を包囲し、軽騎で挑戦してきた。千里は勇を恃んで県城の門を開き、百騎を率いて直ちに希徳を生け捕りにしようとしたが、ほとんど捕らえようとしたところに救援が到着したので、退却した。折しも橋が壊れ、馬がつまずき、賊に捕らえられた。仰ぎ見て諸騎に還るよう命じ、「我に代わって諸将に報ぜよ。将帥は失うとも、城は失うなかれ」と言った。軍中みな涙を流し、守備を増強して固守した。賊は陥落させられず、ついに引き揚げた。千里を囚人として東都に連行し、安慶緒は偽って特進に任じ、客省に囚禁した。慶緒が敗れると、厳荘に害された。後に赦令が数度下り、死難者を追褒したが、千里のみは生きて捕らえられたため、対象とはならなかった。

附 袁光廷

初め、禄山が難を構えると、西北の戍兵は悉く入援したため、河・隴の郡県は皆吐蕃に陥落したが、ただ河西の戍将袁光廷が伊州刺史として、多年にわたり固守し、遊説が百方あっても終に降らず、配下も心を一つにして離反する者はなかった。糧食が尽きると、自ら妻子を手にかけ、焼死した。建中の初め、工部尚書を追贈された。

龐堅

龐堅は京兆府涇陽県の人である。四世の祖の玉は、隋に仕えて監門直閣となった。李密が洛口を占拠すると、玉は関中の精鋭兵を率いて王世充に属しこれを撃ち、百戦して敗れなかった。世充が東都に帰ると、秦王が東進して洛を巡行し、玉は万騎を率いて降伏した。高祖こうそは隋の旧臣として礼遇した。玉は魁梧で膂力があり、軍法に明るく、長く宿衛にあり、朝廷の制度に通じていた。帝は諸将が多く儀礼作法に通じていないのを顧み、故に玉に領軍・武衛の二大將軍を授け、衆人に模範として観させ、梁州総管として出させた。巴山の獠が叛くと、玉はその首領を梟首し、残党は四方に奔った。属県の獠と反乱者は州裏の親戚であり、賊のために遊説し、窮追すべからずと言った。玉は聞き入れず、軍中に令を下して「穀物が熟したら、我は全て収穫して軍糧とする。賊を殲滅しなければ、我は帰らない」と言った。聞いた者は恐れ、互いに言った「軍が止まなければ、我々の穀物は尽き、餓死してしまう」。そこで共に賊の営に入り、親しい者と結託し、渠長を斬って降伏したので、衆はついに潰走した。越州都督ととくに転じた。召されて監門大將軍となった。太宗は老成で篤実であるとして、東宮の兵を統率させた。老いても怠らず、大小の事務に親しくあたらなかった。卒すると、帝は朝を廃し、幽州都督・工部尚書を追贈した。

堅は潁川太守を歴任した。安禄山が反乱を起こすと、南陽節度使魯炅は堅を長史兼防禦副使に、薛願を潁川太守に表し、共に潁川を守らせた。当時、陳留・滎陽けいようは既に賊に陥ち、南陽は包囲され、潁川は往来の要衝に当たっていた。賊将阿史那承慶が精鋭を尽くして攻め、城壁から百里にわたって樹木を全て伐採した。城中の兵士は寡少で、糧食も少なく、願と堅は昼夜戦ったが、諸郡の兵に援けはなく、正月から十一月まで続いた。賊は木鵝・衝車・飛梯を設けて城に迫り、矢は雨の如く、兵士は皆雷の如く喚き、夜半に城を越えて侵入した。二人は降伏を肯んぜず、賊は縛って東京に連行し、磔にして八つ裂きにしようとした。ある者が禄山に説いて「義士です。彼らは主君のために尽くしているので、殺すのは不祥です」と言った。そこで樹に縛り付けた。夜が明け死に至るまで、見る者は皆泣いた。

附 薛願

願は汾陰県の人である。父の縚は太常卿であった。兄の崇一は恵宣太子の娘を娶り、その妹は太子瑛の妃となった。瑛が廃されると、願は嶺外に貶謫され、久しくしてようやく帰還を許された。

張興

張興という者は、束鹿県の人である。身長七尺、一食に一斗の米、十斤の肉を食べた。悍ましく敏捷で弁舌に長け、饒陽の裨将となった。禄山が反乱を起こし、饒陽を攻めた。興は禍福を開陳し、譬えを用いて敵を諭し、城を守って一年に及び、衆心はついに固まった。滄州・趙州が既に陥落し、史思明が衆を率いて城に迫ると、興は甲冑を着け、十五斤の陌刀を持って城に登った。賊将が入ろうとすると、興が一刀を挙げるごとに数人が死に、賊は皆気圧された。城が陥落すると、思明は彼を馬の前に縛り付け、好んで言った「将軍は壮士である。節を屈するならば、高い爵位を受けるべきだ」。これに対し「昔、厳顔は一巴郡の将に過ぎなかったが、なお張飛に降らなかった。私は大郡の将である。どうして逆虜に身を委ねられようか。今日幸いに死を得るが、一言を以て誡めとしたい」。思明が「何と言うか」と問うと、興は言った「天子は禄山を父子の如く遇したのに、今は反逆した。大丈夫たるもの、国のために掃除できず、かえってその配下となるとは、どういうことか」。思明は「将軍は天道を観ないのか。我が上は二十万の兵を起こし、直ちに洛陽らくように向かい、天下は大いに定まった。偏師を以て函谷を叩けば、守将は面縛し、唐の滅亡は固い」と言った。興は「桀・紂・秦・隋は人力を窮め、四海を挙げて怨みを買ったので、商・周・漢・唐は代わって神器を持つことができた。皇帝に背徳はなく、禄山は数帝の賢に及ばない。これは歳月を苟延するだけで、終には捕らえられるだけだ」。思明は怒り、鋸で引き裂いた。死に臨んで罵って「我は強き死兵を集めて賊衆を敗るであろう!」。軍中は凜然として顔色を改めた。

蔡廷玉

蔡廷玉は、幽州昌平の人である。安禄山に仕えたが、聞こえるところはなかった。朱泚とは同郷で、幼少より親しく交わり、泚が幽州節度使となると、幕府に任用された。

廷玉には深謀遠慮があり、人と交わることを善くし、内外から愛され親しまれた。泚は多くを彼に諮問し、しばしば京師に派遣した。当時、幽州の兵は最も強く、財力に富み、兵士は驕悍で、日々併呑を考え、上下の礼法を知らなかった。廷玉は折に触れて泚に言った、「古より臣下とならずして子孫に福を推し及ぼした者はない。公は南は趙・魏と連なり、北は奚虜に接し、兵は強く地は険しいが、これは永劫の計ではない。一日趙・魏が反ぜいすれば、公は沸き立つ鼎中の魚となるのみである。天子に奉じるに如かず、多難の時こそ、勲を鼎彜に刻むことができる。どうであろうか」。泚はこれを善しとした。廷玉は密かにその力を消耗させようとし、泚を諷して金幣を出して士を礼遇させ、また貢賦を帰して天子の経費を助けさせ、牛馬を献じて道を満たし、倉庫の蓄えを薄くさせた。そこで泚に入朝を勧め、泚が聞き入れようとしたところ、諸校が怒り、廷玉を縛って辱めた。廷玉は屈する言辞を述べず、泚は殺すに忍びず、一年余り囚えた後に釈放し、「そなたも後悔しているか」と言った。廷玉は答えて、「公を導いて逆を為させたならば悔いるが、義をもって公を励ましたことについて何を悔いようか」。再び一年間拘束され、「過ちを改めることができるか。そうでなければ、死ぬことになる」と問われた。対して、「私を殺さなければ、公は名を得る。私を殺せば、私は名を得る」。泚は屈服させることができず、以前のように遇した。

また朱體微という者もおり、これも泚の腹心であった。廷玉に建議があれば、體微は常にこれを助け、故に泚はますます信頼し、桀傲な気性は少しずつ改まった。廷玉はついに朝廷への奉仕を成し遂げた。泚はそこで涿州を永泰軍とし、薊州を静塞軍とし、瀛州を清夷軍とし、莫州を唐興軍とし、團練使を置き、支郡を隷属させ、盧龍軍の勢力は少し削がれた。しかし泚は内に弟の滔が己を脅かすことを恐れ、滔もまた泚に入朝を勧めたので、軍を滔に委ねた。廷玉と體微は共に泚に申し上げた、「公が入朝すれば功臣の首となり、後の事務は極めて重い。誠信ある者でなければ託すことはできない。滔はたとえ大弟であっても、変わりやすく真情がなく、もし兵権を仮すならば、これに禍を嫁ぐことになります」。泚は聞き入れなかった。二人は泚に従って朝廷に到着した。徳宗が太子であった時、廷玉の名を知っており、謁見すると、礼遇と眷顧は格別に厚かった。泚が幽州行營を統率して涇原鳳翔節度使となると、詔により廷玉は大理少卿として司馬とされ、體微は要籍とされた。

滔が泚に請うことがあっても、時には従わず、廷玉は必ずこれを挫き、旧法に従わせた。滔はすでに田悦を破り、次第に傲慢で思いのままに振る舞うようになった。左右に廷玉を憎む者がおり、妄りに言った、「かねてより滔を誹謗し、燕を四分割しようと企てたのは、廷玉が唱え、體微が和したのです」。滔は上表して二人が骨肉を離間したと述べ、有司において誅殺することを請うた。また泚にも同様の内容の書を送った。泚は滔が己の軍を奪ったことを憤り、従わなかった。ちょうど滔が幽州で叛いた時、帝は滔の上表を示し、泚もまたその書を白状したので、罪を二人に帰し、廷玉を柳州司戸参軍に、體微を南浦尉に貶して滔を慰撫した。滔は諜者を朝廷に潜ませて伺わせ、「上もし廷玉を殺さなければ、謫されて去り、東に出て洛陽を経由するはずだ。我はこれを麾下に縛り致し、八つ裂きにしよう」と言った。出発に際し、帝は廷玉を労って言った、「そなたは暫く行け、国のために屈を受けるのだ。年内には帰還させよう」。廷玉が藍田驛に至ると、人が左巡使鄭詹に申し出た、「商於の道は険しく、行くべからず」。詹は使者を追わせて潼関へ向かわせた。廷玉は子の少誠・少良に告げて言った、「私は天子のために血刃を交えずして幽州十一城を下し、その地を分割して桀驁を封じようとしたが、成らんとするに敗れた。天が逆賊を助けるのか。今、役人が私を東都から出させようとしている。これはおそらく滔の計略であろう。私は国を辱しめることはできない」。霊宝に至る頃、自ら河に投身した。

宰相盧杞はちょうど御史大夫嚴郢を憎んでおり、これを追放しようとしていた。廷玉の死の状況を得ると、ただちに詹を死に抵し、郢を斥けて出させた。帝は廷玉の忠を哀れみ、その柩を帰し、手厚く賻を与えた。李晟が朱泚を平定した時、少誠らはちょうど喪が終わったところであった。晟は上表して廷玉の追贈を請うた。二人の子にも官職を与えた。しかし帝は滔を招来しようとしていたので、その上奏を寝かせ、遂に取りやめとなった。

符令奇

符令奇は、沂州臨沂の人である。初め盧龍軍の裨将であった。ちょうど幽州が乱れた時、子の璘を連れて昭義に奔り、節度使薛嵩が軍副に任用した。嵩が卒すると、田承嗣がその地を盗み、令奇を右職に引き立てた。

田悦が朝命に抗すると、馬燧が洹水でこれを破った。令奇は密かに璘に語って言った、「私は世事を多く見てきた。安禄山・史思明が綱紀を乱して以来、生き残る者はなかった。私は田氏の覆亡は遠くないと見る。どうして苟も旦夕を繋ぎ、京師に縲絏され、宗族が地を屠られるようなことをする必要があろうか。そなたが朝廷に委質し、唐の忠臣となれば、私もまた後世に名を揚げることができよう」。璘は泣いて言った、「悦は残忍な人であり、近い禍が畏れられます」。答えて言った、「今、王師が四方から迫り、我々は俎上の肉である。そなたが今行けば、私は死しても朽ちず、行かなければ、私もまた死ぬ。屍が逆賊の地に積み重なるのはどういうことか」。璘はうつむいて泣き、答えることができなかった。初め、悦は李納と濮陽で会し、そこで援軍を乞い、納は麾下の一部を分けてこれに随わせた。この時、納の兵は斉に帰還し、璘に三百騎を与えて護送させた。璘は父と臂を噛み別れ、そこで衆を率いて燧に降った。璘が出奔する時、三人の子と共に降った。悦は怒り、令奇を引き出して厳しく責めた。令奇は罵って言った、「そなたは義を忘れ主に背き、旦夕に死ぬであろう。私は子に順を教え、身を殺されても何を悔いようか。同じく死ぬにしても、そなたよりはるかに優れている」。悦は怒り、奮い立って起った。令奇は刑に臨み、色を変えず、七十九歳で、その家は誅滅された。

燧は璘を軍副に任用し、詔により特進を拝し、義陽郡王に封ぜられた。父が害されたと聞くと、号泣して血を泣き、燧はその冤を表し、檢校左散騎常侍さんきじょうじを加えられ、晉陽の第一等の邸宅一区と祁の田五十頃を賜り、令奇には戸部尚書を追贈された。

令奇の子 璘

璘は字を元亮という。李懷光が反すると、詔により燧がこれを討った。璘は五千の兵を率いて先に河を渡り、西の軍と合流した。燧に従って入朝し、輔国大将軍となり、靖恭裏の第一等の邸宅一区と藍田の田四十頃を賜った。璘が降った時、母は里中に隠れて独り難を免れ、悦が死ぬと、詔により魏から迎えられ、別殿で宴を賜った。璘は環衛の職に十三年居り、卒した。六十五歳。越州都督を追贈された。

劉乃

劉乃は字を永夷といい、河南伊闕の人である。幼少より聡明で、『六経』を暗誦し、日に数千言を読んだ。文詞に優れ、当時に推重された。天宝年間に進士第に擢でられた。父に喪に服し、孝行で知られた。喪が終わると、中書舎人宋昱が銓事を掌り、乃はちょうど選調されようとしていたので、進んで書を呈して言った、『書経』に称する、『人を知れば則ち哲なり、よく官人すれば則ち恵なり』。これが唐虞でも難しいとした所以である。今、文部は始めに人材を選び、終わりに官位を授ける。これは人を知り、官人するという二つの責務を担っている。昔、禹・稷・皐陶のような聖人でも、なお九徳を載せて采り、九載を以て考績した。今、有司はただ一二の小宰に委ね、一幅の判文によって言を察し、一揖の内に行いを観る。なんと易しいことであろうか。判というものは、狭い詞と短い韻を体とする。これは小さな炉で多くの金属を鼓し、鼎鏞を作ろうとしても、得られないのと同じである。故にたとえ周公・尼父の図書『易象』の訓があっても、判によってこれを責めれば、徐陵・庾信にすら及ばず、たとえ至徳があっても、喋喋としてこれを取れば、嗇夫にすら及ばない。故に霄を幹き日を蔽う巨樹であっても、尺寸の材を求めれば、必ずや彫琢した杙の後となる。龍吟虎嘯は希声であるが、なお頰舌の感に頼れば、必ず蛙黽の下となる。なんと悲しいことではないか。執事が誠にまず政事を重んじ、次に文学を重んじ、退いてその家を治める様を観察し、進んでその節に臨む様を察すれば、龐大で深沈たる事柄も、その門閾を窺うことができるでしょう」。昱はこれを賞賛し、剡尉に補した。劉晏が江西にいた時、奏して巡覆の使とし、留後を充てさせた。

大暦年間、召されて司門員外郎に拝された。徳宗の初め、郭子儀を尚父に進めた。時に冊礼は廃れており、詔文を視る者適宜を知らず、宰相崔祐甫が召して閤中に至らせてこれを草せしめると、少時にして文成り、詞義は典裁であった。俄かに給事中に擢でられ、権知兵部侍郎となった。楊炎・盧杞が国政を執る時、五歳遷らなかった。建中四年、真に兵部侍郎を拝した。

帝が奉天に狩りし時、乃ち臥疾して私第にあり、朱泚が人を遣わして召すも、固より篤と称した。復た偽相蔣鎮を遣わして慰め誘うも、乃ち佯いて喑して答えず、灸して完膚無し。鎮が再び至り、脅すべからざるを知り、乃ち太息して曰く、「我嘗て曹郎を忝くすも、死す能わず、寧ろ自ら亶腥を辱しむるも、復た賢哲を汚さんことを欲するか」と。遂に止んだ。乃ち車駕の梁州に如くを聞き、自ら床に投じ、膺を搏ちて天を呼び、食わずして卒す。年六十。帝その忠を聞き、礼部尚書を贈り、謚して貞恵と曰う。子伯芻は別伝あり。

孟華

孟華は、史その何れの所の人なるかを失う。初め李宝臣に事えて府官属となり、論議幸幸として回らず、同舎之を疾む。王武俊が李惟嶽を斬り、華を遣わして京師に至らせ事を陳べしめしに、徳宗河朔の利害を問うと、華の対し旨に称し、検校兵部郎中兼侍御史に擢でられた。

朱滔と武俊が田悦の囲みを解かんと謀るに、帝華を還して諭し、その謀を乱さんと欲す。華至り、武俊を譲りて曰く、「安・史未だ覆滅せざりし時、大夫その兵を観て、自ら天下取るべしと謂えり、今日何ぞ汩々たるや。且つ上大夫に恩甚だ厚く、将に康中丞を他州に還し、我が深・趙を帰さんとす。古より忠臣、未だ大功を先にせずして後高官を得る者あらず。大夫何ぞ失地を望むや。夫れ薬口に苦き者は病に利く、大夫後日愚言を思わば、悔ゆるも逮ばざらん」と。或る曰く、「華朝に入り私に便宜を奏し、我を傾けんと欲す、故に顕職を得たり」と。武俊之に惑うも、然れども華を旧人とし、未だその職を奪うに忍びず、卒に進んで悦を援う。華従いて臨清に至り、病と称して恒州に還る。武俊子にその為す所を察せしむるに、乃ち門を闔して賓客を謝す。武俊忌むに足らざるを知り、華を殺す意無し。既に僭して王と称し、礼部侍郎を授くるも、起たず、嘔血して死す。

張伾

張伾は、本は沢潞の将たり、臨洺を守り、田悦之を攻む。城に乗じて固守すること累月、士死に、糧且つ尽き、救至らず。伾悉く部将を召して軍門に立ち、命じて女を出だし遍く拝せしめ、因りて曰く、「諸君戦い良く苦しむ、吾貲無くして賞と為すに足らず、願わくは是の女を以て直を売り、衆士の一日の費と為さん」と。士皆哭して曰く、「請う死戦せん」と。会うに馬燧河東より兵を将いて悦を城下に撃ち、之を敗る。伾勝に乗じて出戦し、一も百に当たらざる無し。功を以て泗州刺史に遷る。州に居ること十年、右金吾衛大将軍に擢でられ、未だ拝せずして卒す。尚書右僕射を贈られる。

軍中其の子重政を立てんと議す。母徐及び兄号訴して肯て従わず、奔りて淮南節度使王鍔に告ぐ。乃ち免る。詔その忠を嘉し、起して金吾衛大将軍と為し、鍔に委ねて劇職に処せしめ、徐を魯国夫人に封ず。

周曾

周曾は、本は李希烈の部将たり、王玢・姚憺・韋清と志相善くし、四公子と号す。希烈反す。曾密かに其の計を得、一二を以て李勉に告ぐ。玢は許州鎮遏使たり。会うに哥舒曜汝州を抜く。希烈曾を遣わして往きて拒がしむ。曾軍を引きて蔡に拠らんと欲し、玢をして応ぜしめ、憺・清は中に居り謀りて希烈を取らんとし、密かに薬を求めて希烈を毒すも、死せず。曾の行くに、希烈仮子十人をして従わしむ。襄城に次ぎ、其の謀を知り、以て告ぐ。希烈李克誠をして騾軍千人を率いさせ曾を劫き殺し、而して其の兵を収め、並びに玢・憺を殺す。始め、約す事覚ゆれば相引く毋からんと。清懼れ、陽に希烈に説きて曰く、「今兵寡く、恐らくは事に就く能わず、請う朱滔に師を乞わん」と。希烈之を然りとす。襄邑に至り、劉洽を奪う。徳宗曾に太尉を、玢に司徒しとを、憺に工部尚書を贈り、清を安定郡王に擢で、実に封戸二百を賜う。

又た呂賁・康秀琳・梁興朝・賈楽卿・侯仙欽有り、皆希烈の難に死す。賁・秀琳に尚書左右僕射を、興朝等には皆尚書の秩を贈り、蕭昕を遣わして境上に祭を致さしむ。李勉・哥舒曜に命じて其の家の子孫を訪わしめ、詔す三世罪有ると雖も、常に一等を降すべしと。

曾後嗣無し。貞元年中、女及び曾の兄の子酆襲封を争う。有司奏す、曾首謀して帰順し、身賊の手に死す。陛下真食を錫うるも、不幸にして嗣絶ゆ。宜しく酆をして五十戸を以て祀を奉ぜしめ、女も亦五十戸を封ずべしと。

張名振

張名振は、始め李懐光に事えて都将たり。初め、懐光既に功を立てしに、徳宗鉄券を賜いしも、詔を奉じて倨甚だし。名振軍門に到り大言して曰く、「太尉賊を見て撃たず、使の到るを迎えず、将に反さんとするか。且つ安・史・仆固等今皆族滅す。公何を為さんと欲するや。是れ忠義の士に資りて功を立てしむるのみ」と。懐光召し見て、賊強きを諭し、須らく鋭を蓄えて時を俟つべしとし、誘いて反せざらしむ。及び軍を引いて咸陽に入るに、又た曰く、「公反せず、此に来るは何ぞや。急ぎ泚を攻めて京城を収めずして、賊を以て誰にか遺さんと欲するか」と。懐光怒りて曰く、「病狂の人なり」と。左右をして拉ぎ殺さしむ。

石演芬

石演芬は、もと西域の胡人であり、李懐光に仕えて都將に至り、殊に親信され、仮子として養われた。懐光が軍を三橋に駐屯させたとき、朱泚と連和せんとしていた。演芬は客の郜成義を行在所に遣わし、懐光に賊を討つ意思がないことを言上し、その総統の任を解くよう請わせた。成義は走って懐光の子李璀に告げた。懐光は演芬を召し出して罵って曰く、「汝は我が子であるのに、どうして我が家を破らんとするのか。今日我に背いた以上、ただちに死すべきである」と。対えて曰く、「天子は公を股肱とし、公は我を腹心とす。公すら天子に背くのに、我どうして公に背かざらんや。かつて我は胡人なり、異心なく、ただ一人に事えることを知るのみ。我を賊と呼ばぬならば、死すること固より我が分なり」と。懐光が兵士にその肉を切り取って食わせようとすると、皆曰く、「烈士なり、速やかに死なしむべし」と。刀をもってその首を断った。徳宗はこれを聞き、演芬に兵部尚書を追贈し、その家に銭三百万を賜い、成義を朔方で斬った。

吳漵

吳漵は、章敬皇后の弟である。代宗が即位すると、詔して皇后の祖父神泉を司徒に、父令珪を太尉に追贈し、叔父令瑤を太子家令・濮陽郡公に、令瑜を太子諭德・濟陽郡公に、漵を太子詹事・濮陽郡公に抜擢し、いずれも開府儀同三司とした。令瑤兄弟はもと縣令・郎將であったが、漵は盛王府参軍から進用され、まもなく鴻臚少卿・金吾將軍に遷った。建中初年、大將軍に遷る。漵は循々として礼譲があり、驕った気色や誇る様子がなく、朝廷に重んぜられ、当時、その才能がその地位に当たり、戚属であることによらないとされた。

朱泚が反逆すると、盧杞・白誌貞は皆、泚に功績があるから、まず難を起こすべきではなく、大臣一人に節を持たせて慰撫し諭せば、悪意も改まると言った。徳宗は左右を見たが、敢えて行く者なし。漵曰く、「陛下が臣を無能とされぬなら、賊中に至り天子の厚意を諭さんことを願う」と。帝は大いに喜んだ。漵は退いて人に謂いて曰く、「死して益なきを知りながら賊に会うことを決したのは、人臣として禄を食みその難に死ぬは、当然のことなり。危難の時にあたり、どうして自らの計らいができよう。かつ陛下に下に難に赴く者なきことを恨ませぬためなり」と。即日、詔を携えて泚に会い、帝が疑わずに待遇する旨を詳しく説いた。しかし泚はすでに僭逆を企てていたので、漵を客省に留めて遣わさず、ついに害された。帝は悲しみ塞ぎ、太子太保を追贈し、謚して忠と曰い、その家に実封二百戸を賜い、一子に五品正員官を与えた。京師が平定されると、官がその葬儀を整えた。子の士矩は別に伝がある。

高沐

高沐は、渤海の人である。父の馮は、宣武の李霊耀に仕え、曹州を仮守した。霊耀が反逆すると、馮は密かに人を遣わして賊の細事を奏上し、詔によりただちに曹州刺史に任ぜられた。時に李正己が曹・濮を盗有したため、馮は朝廷に自ら通じることができず、官の任地で没した。

沐は、貞元年間に進士第に擢げられ、家を鄆に託していたので、李師古が辟して判官に任じた。師道が叛くと、沐はその僚の郭戸・郭航・李公度を率いて古今の成敗を引き、前後たびたび諫説したが、受け入れられなかった。師道が厚遇する吏の李文会・林英らは隙に乗じて訴えて曰く、「近頃心を尽くして公の家事を憂えているのに、沐らに憎まれています。公はどうして十二州の地を挙げて沐らの千載の名を成さしめようとなさるのですか」と。これにより沐を疏遠し斥けて、濮州を守らせた。沐は上書して山東の煮海の利の豊かなことを大いに誇り、その地を得れば国を富ませることができると述べた。師道の謀は皆露見した。後に林英が京師で奏事する際、邸の吏を脅して、沐が誠意をもって天子と結んでいることを言わせた。師道は怒り、沐を誅し、郭戸を濮州に囚禁し、守衛を厳しくし、凡そ十年に及んだ。

呉元済が命に従わず、師道は兵を率いて彭城を攻め、蕭・はいの数県を破って還り、官軍を緩ませようとした。郭戸は帛書を作って衣の綿の間に隠し、郭航に間道を行かせて武寧軍の李願のもとに走らせ、奇兵三千を請い海を渡って萊・淄を衝くことを求めた。賊は海を頼みとして備えず、かつ居住する者は皆罪人で、守る者なし、と。初め、郭戸は事の漏れることを恐れ、師道が信任する吏劉諒の名を署して遣わした。李願はこれを朝廷に白上したが、議者は師道が遣わしたものと疑い、返答を得られなかった。郭航は旧来の道を行かず、険阻な遠回りの道を経て郭戸のもとに還った。まもなく師道が郭航を召すと、郭戸は事が露見したかと疑い、自決しようとした。郭航曰く、「事が覚れば、我ひとり死ぬ。君は患うなかれ」と。郭航はついに自殺し、こうして絶えた。官軍が師道を討つに及んで、諸節度の兵は四道であったが、彭城の兵は魚臺・金郷を下し、李聴の軍は海州を取ること拾遺の如くで、郭戸の策を用いたところが多かった。

初め、淮西が平定されると、師道の勢いは窮まり、内心甚だ懼れた。李公度と大将李英曇はともに三州を献上し、長子を入侍させるよう進言した。師道はこれを認めたが、まもなく後悔し、李英曇を殺そうとした。賈直言が師道の寵愛する奴に諷して曰く、「高沐の冤気は天にあり、禍い将に至らんとす。英曇がまた死ねば、これはその祟りを増すことなり」と。そこでやめた。萊州に追放し、まもなくこれを殺した。

また崔承寵・楊偕・陳佑・崔清らは皆、節を守って賊に逆らい、李文会は彼らを沐の党と指摘した。沐の死に際し、皆囚禁された。劉悟が師道を平定した後、郭戸の臂を捉えて歔欷流涕し、義成節度府に辟して任じ、また李公度を僚属に請うた。元和十四年、沐に吏部尚書を追贈し、馬揔に委ねて礼を備えて収葬させ、その家を恤んだ。

郭航は萊州の人で、気節をもって知られ、師道は右職に任じた。郭戸とともに代々斉に居住した。初め、郭戸は進士に挙げられようとしたが、権徳輿が取ろうとして、その家が賊中にあると聞き、やめた。こうして賊に招聘された。二人はともに忠をもって顕れることができた。

賈直言

賈直言は、河朔の旧族であるが、史書にその地を失う。父の道沖は、技芸をもって待詔となった。代宗の時、事に坐して鴆を賜り、将に死せんとした。直言はその父を欺いて曰く、「四方の神祇に謝すべきなり」と。使者が少し怠ると、すかさず鴆を取って代わりに飲み、迷って倒れた。翌日、毒が足から流れ出て、久しくして蘇った。帝はこれを憐れみ、父の死を減じて、ともに嶺南に流した。直言はこれにより足が不自由になった。

後に師道の府属に任ぜられた。師道が軌を逸したとき、刀を提げ棺を背負って入諫して曰く、「願わくは先に死して、城の破れるを見ざらん」と。また、縛られ檻車に載せられ、妻子が連累される様を描いて献上した。師道は怒り、これを囚禁した。劉悟が入城すると、その禁を解き、義成府に辟して任じた。後に潞に移り、府に随って遷った。

監軍劉承偕は劉悟と不和で、密かに慈州刺史張汶と謀り、劉悟を縛って闕下に送り、張汶をもって節度に代えようとした。事が漏れ、劉悟は兵をもって承偕を囲み、小使を殺した。賈直言は急ぎ入って責めて曰く、「司空しくうが兵を縦して天子の使者を脅すは、李司空に倣わんとするか。他日また軍中に指笑されることとならん」と。劉悟はこれを聞き、感じ悔い、承偕を邸に匿って難を免れた。劉悟が過ちがあれば必ず諫争したので、劉悟は臣節をもって朝廷に光明を保つことができた。穆宗は直言を召して諫議大夫としようとしたが、群情はさわ然として妥当と称した。しかし劉悟が固く留めたので、そのまま留まることを許された。

初め、劉悟の子の劉従諫は甚だ貴く、直言を見るや紫衣を着て笏を擁し、兵を以て自らを衛らせた。直言は劉悟を諫めて曰く、「郎君は年少なり、山東の熊を襲わしむるなかれ、朝服は勝手に着るべきか」と。劉悟が死すと、劉従諫は喪を発せず、大将の劉武徳等を召して劉悟の遺言を偽り、隣道の使者と共に表を上って襲位を求めしめたり。直言入りて譲りて曰く、「父死して哭せず、何の顔面あって山東の義士に見えんや」と。従諫曰く、「反せんと欲するのみ」と。直言仰いで天を哭して曰く、「爾が父は十二州の地を提げて朝廷に帰し功臣となる。然るに張汶の故を以て、自ら潔からずして頭を淋すと謂い、遂に羞じて死す。郎今日乃ち反せんと欲するか」と。従諫起ちて直言の項を抱きて哭して曰く、「計窮して然るなり」と。直言曰く、「君何ぞ土地無きを憂えん、今朝廷を脅かすは、正に死を速めるのみ。若し武徳の謀に従わば、吾れ劉氏の元済となるを見ん」と。従諫拝して曰く、「唯だ大夫の之を救わんことを」と。直言乃ち自ら留後を摂り、従諫をして喪に居らしむ。初め、従諫は惟だ鄆兵二千のみ同謀せり。直言既に之を折するや、軍中遂に安んず。

大和九年に卒す。工部尚書を贈らる。

辛讜

辛讜は、太原尹辛雲京の孫なり。『詩』『書』を学び、剣を撃つことを能くし、然諾を重んじ、人の急ぎに走る。初め李嶧に事え、銭穀を主る。性廉勁にして、事に遇うて文法を処せず、皆之と合う。罷めて揚州に居り、年五十、仕えんことを肯わず、而して慨然として常に時を済わんとする意有り。

龐勛反し、泗州に於いて杜慆を攻む。讜之を聞き、舟を挐えて泗口に趨き、賊の柵を貫きて入る。慆素より其の名を聞き、手を握りて曰く、「吾が僚の李延樞嘗て吾が為に夫子の人たるを道う、何ぞ意図せんや臨んで教えんとするを。吾れ憂い無し」と。讜亦た慆と共に事うべしと謂い、乃ち還りて妻子と決せんことを請い、慆と生死を同じくせんとす。時に賊甚だ張り、衆皆南に走るに、独り讜北に行く。讜未だ至らざるに、慆之を憂う。延樞必ず来たるを知りて曰く、「讜至らば、表して判官と為すべし」と。慆諾す。俄にして至る。慆喜びて曰く、「囲み急なり、飛鳥も敢えて過ぎず、君乃ち白刃を冒して危城に入る、古人の能くせざる所なり」と。乃ち解いて白衣を以て甲を被らしむ。

賊将李円淮口を焚く。讜曰く、「事棘し。独り出でて以て援を求めん」と。乃ち楊文播・李行実と戊夜に淮を踰え、岸を坎りて登り、三十里を馳せて洪澤に至り、戍将郭厚本を見て急を告ぐ。厚本出兵を許す。大将袁公異等曰く、「賊衆我寡、往くべからず」と。讜剣を抜き目を瞋して呼びて曰く、「泗州旦夕に陷らんとす。公等詔を被りて来たり、乃ち逗留して進まず、何を為さんと欲するか。大丈夫国恩に孤くんば、生くると雖も羞ずべし。且つ泗を失わば、則ち淮南寇場と為らん。君尚ほ能く独り存せんや。吾れ今左臂を断ちて君を殺し去らん」と。剣を推して直ちに前に進む。厚本之を持す。公異等僅かに免る。讜泗を望みて慟哭す。帳下皆流涕す。厚本決して兵五百を付くるを許す。讜曰く、「足れり」と。遍く士に問うて曰く、「行くことを能くせんか」と。皆曰く、「諾」と。讜面を地に仆して、泣きて以て謝す。衆既に淮を叩くに、人語りて曰く、「賊城を破れり」と。讜将に之を斬らんとす。衆為に請う。讜曰く、「公等舟に登れ。吾れ其の死を赦す」と。士遽かに登る。已に済みて、慆亦た兵を出し、表裏に撃ち、賊大いに敗る。讜入る。人心遂に固し。浙西杜審権将の翟行約を遣わして赴援せしめ、蓮塘に壁す。慆人を遣わして廷に労せんと欲す。諸吏憚りて敢えて出でず。讜独り往きて犒いて還る。

三月を囲み、救兵外に敗れ、城益々危し。讜復た請いて淮南に兵を乞い、壮士徐珍等十人と斧を携え夜に賊の柵を斬りて出で、節度使令狐綯に見え、復た浙西に詣でて審権に見ゆ。時に皆泗州已に陷ると伝う。讜を賊の計りと疑い、之を囚う。讜李嶧を引いて自ら明らかにす。嶧時に大同防禦使たり、其の忠信ずべしと称す。審権乃ち救うを許し、淮南の兵五千を合わし、塩粟備わる。方に淮路梗まるに、進むことを得ず。讜兵を引いて決戦し、賊六百級を斬り、乃ち克く入る。城上歓叫す。慆下と迎えて泣く。其の功を朝に表す。監察御史を授く。囲み凡そ十月にして乃ち解く。卒に一州を完うす。

初め、讜救いを求むるに、家を過ぐること十余り、未だ嘗て妻子を見ず。糧を得ること累ねて二十万。讜の子及び兄の子広陵に客す。慆に托して曰く、「先人の祀りに乏しからしめざらしむるは、公の恵なり」と。後に功を以て第一と為り、亳州刺史を拝し、曹・泗二州に徙る。乾符末、終に嶺南節度使となる。

方に讜の少き時、野に耕す。牛斗う有り。衆畏れて奔踐す。讜直ちに前に進み、両に其の角を持す。牛動くこと能わず。久しくして引いて触れ、竟に其の角を折る。里人駭異し、牛を屠りて以て讜に飯す。然れども讜臒くして短く、才及び中人。後に貴く、力亦た少しく衰うと云う。

黄碣

黄碣は、閩の人なり。初め閩の小将たり。学問を喜び、軒然として志向有り。同列に其の筆を仮る者有り。碣怒りて曰く、「是の筆它日大事を断ず。仮すべからず」と。後安南に戦いて功有り。高駢其の能を表し、漳州刺史と為し、婺州に徙る。治め績有り。劉漢宏兵を遣わして之を攻む。兵寡くして守るべからず、州を棄てて去り、蘇州に客す。

董昌威勝軍節度使と為り、碣を表して自らの副とす。久しくして乃ち応ず。昌の反するに及び、碣諫めて曰く、「大王田畝を抜き、貢輸の勤めに席し、将相の位に在り、紀すべき勲業有るに非ず。今王朝に忠を尽くすこと能わず、乃ち自ら尊大し、一日にして誅滅し種無からん。桓・文は周室を侮らず、曹操は敢えて漢を危うくせず。今王僻くして一城に嬰る、乃ち大逆を為す、何ぞや。碣請う、挙族先ず死し、王の滅ぶを見ること能わじ」と。昌怒りて曰く、「碣我に順わざるか」と。斥き出だす。碣書を幕府の李滔に移して曰く、「『順天』と元を建つ。愚の之を策するに、針を以て槊と為すべけんや」と。或る其の書を窃みて昌に示す。昌使者をして之を斬らしむ。使者首を以て至る。昌詬りて曰く、「賊我に負う。三公肯わずして為さず、而して死を求むるか」と。混中に抵し、其の家百口を夷し、鏡湖の南に坎りて同く瘞む。昌敗る。詔有りて司徒を贈り、其の後を求むるも得ること能わず。

昌既に碣を殺し、滔亦た害に遇う。乃ち会稽令の呉鐐を召して策を問う。鐐曰く、「王真の諸侯と為り、栄を子孫に遺して為さず、乃ち偽の天子を作し、自ら滅亡を取る」と。昌叱して之を斬り、其の家を族す。又た山陰令の張遜を召して御史台を知らしむ。固く辞して曰く、「王自ら棄つ、天下の笑いと為る。且つ六州の勢逆を助けず。王孤州に拠りて以て死を速む、何と謂わん。遜敢えて身を以て王に許さじ」と。昌之を悪みて曰く、「遜天意を知らず、邪説を議して我を拒ぐ」と。之を囚う。他日人に謂いて曰く、「我れ碣・鐐・遜無くとも、何ぞ事に乏さん」と。即ち之を害す。

碣の孫 揆

孫揆、字は聖圭、刑部侍郎孫逖の五世の従孫なり。進士に第し、戸部巡官を辟く。中書舎人・刑部侍郎・京兆尹を歴る。昭宗李克用を討つに、揆を以て兵馬招討制置宣慰副使と為し、既にして更に昭義軍節度使を授け、本道の兵を以て会戦せしむ。克用兵を刀黄嶺に伏せ、揆を執る。厚く礼して将に之を用いんとし、曰く、「公輩当に廟堂に従容すべし。何ぞ自ら行陣を履行せんや」と。揆大罵して詘せず。克用怒り、鋸を以て之を解かしむ。鋸の歯行わず。揆之に謂いて曰く、「死狗奴、人を解くには当に板を以て之を束るべし。汝輩安んぞ知らん」と。行刑者其の言う所の如くす。詈声絶えずして死に至る。昭宗之を憐れみ、左僕射を贈る。