新唐書

巻一百九十二 列傳第一百十七 忠義中 顏杲卿兄:春卿 附:沈盈 賈循從子:隱林 張巡 許遠 南霽雲 雷萬春 姚訚

顏杲卿

顏杲卿、字は昕、真卿と五世祖を同じくし、文儒の家系に生まれる。父は元孫、垂拱年間に名を知られ、濠州刺史となった。杲卿は蔭官により遂州司法参軍に任ぜられる。性質剛直にして、事に臨み明察果断。かつて刺史に詰責せられしとき、顔色を正して弁明し、屈せざりき。開元中、兄の春卿、弟の曜卿とともに書判超等に挙げられ、吏部侍郎席は嘆賞して推服す。再び考課最上により范陽戸曹参そうしん軍に遷る。安祿山その名を聞き、表して営田判官とし、常山太守を仮せしむ。

祿山反す。杲卿および長史袁履謙、道中にて謁見す。杲卿に紫袍を、履謙に緋袍を賜い、仮子李欽湊に兵七千を率いさせて土門に駐屯せしむ。杲卿、賜わりし衣を指して履謙に謂いて曰く、「公と何ぞこれを著るや」と。履謙悟り、乃ち真定令賈深、内丘令張通幽と謀を定めて賊を図る。杲卿は疾と称して政務を視ず、子の泉明をして往復して計議せしめ、密かに太原尹王承業を結び応と為し、平盧節度副使賈循をして幽州を取らしむ。謀泄れ、祿山は循を殺し、向潤客・牛廷玠をして守らしむ。杲卿は陽に事を為さず、政を履謙に委ね、密かに処士権渙・郭仲邕を召して策を定む。時に真卿は平原に在り、平素より賊の逆謀を聞き、密かに死士を養い拒守の計と為す。李憕ら死す。賊は段子光を使わし、首を伝えて諸郡に徇わしむ。真卿は子光を斬り、甥の盧逖を常山に遣わして起兵を約し、賊の北道を断たしむ。杲卿大いに喜び、兵が犄角の勢いを為せば賊の西進の鋒を挫けんと以為う。乃ち賊の命を矯って欽湊を召し計事す。欽湊夜還る。杲卿は城門は夜開くべからずと辞し、外の郵舍に止めしむ。履謙および参軍馮虔、郡の豪傑翟萬德ら数人をして飲み労わしめ、既に酔いて之を斬り、併せて其の将潘惟慎を殺す。賊党殲滅し、屍を滹沱水に投ず。履謙、首を以て杲卿に示せば、則ち喜び且つ泣く。

先に、祿山は将の高邈を遣わして范陽に兵を召すも未だ還らず。杲卿は城尉の崔安石をしてこれを図らしむ。邈、満城に至る。虔・萬德皆伝舎に会す。安石、酒を置くを以て欺く。邈馬を舎て、虔は吏を叱してこれを縛らしむ。而して賊将の何千年、趙より来たり、虔もまたこれを執る。日未だ中ならざるに、二賊を送る。杲卿乃ち萬德・深・通幽を遣わし欽湊の首を伝え、両賊を械にして京師に送らしめ、泉明と偕に行かしむ。太原に至る。王承業、自ら功と為さんと欲し、厚く泉明を遣わし還らしめ、密かに壮士の翟喬に命じて路にて賊せしむ。喬不平に思い、故を告ぐ。乃ち免る。玄宗は承業を擢て大将軍と為し、送りの吏は皆賞せらる。已にして事顕わる。乃ち杲卿を拝して衛尉卿兼御史中丞と為し、履謙を常山太守と為し、深を司馬と為す。即ち檄を河北に伝え、王師二十万土門に入ると言い、郭仲邕を遣わし百騎を領して先鋒と為し、馳せて南し、柴を曳き塵を揚げしむ。望む者は大軍至れりと謂う。日中にして、数百里を伝う。賊の張献誠、方に饒陽を囲むも、甲を棄てて走る。ここに於いて趙・鉅鹿・広平・河間は並びに偽刺史を斬り、首を常山に伝う。而して楽安・博陵・上谷・文安・信都・魏・鄴の諸郡は皆自ら固む。杲卿兄弟の兵大いに振るう。

祿山、陜に至り、兵の興るを聞き、大いに懼る。史思明らをして平盧兵を率いさせて河を渡り常山を攻めしめ、蔡希徳は懐より会師す。旬を渉らず、賊急に城を攻む。兵少なく、未だ守りの計を為すに及ばず、河東に求救す。承業は前に既に賊を殺したる功を攘み、兵を出さず。杲卿昼夜戦い、井竭き、糧・矢尽き、六日にして陥ち、履謙とともに執わる。賊脅して降らしむるも応ぜず。少子の季明を取って刃を頸に加え、「我に降らば、当に汝が子を生かさん」と曰う。杲卿答えず。遂に盧逖を併せて殺す。杲卿洛陽らくように至る。祿山怒りて曰く、「吾汝を擢て太守と為せり。何の負う所あってか反すや」と。杲卿瞋目して罵りて曰く、「汝は営州の牧羊の羯奴なるのみ。窃かに恩寵を荷い、天子汝に何事を負うというや。而るに乃ち反すとは。我は世々唐の臣、忠義を守る。汝を斬りて上に謝せざるを恨む。従って汝に従い反せんや」と。祿山忿に勝えず、之を天津橋の柱に縛り、節を解きて肉を以て啖らしむ。詈り絶えず。賊其の舌を鉤にて断ち、「復た能く罵るか否や」と曰う。杲卿声含胡にして絶ゆ。年六十五。履謙は既に手足を断たるるも、何千年の弟適傍らに在り、血を咀んで其の面に噴き、賊之を臠にす。見る者泣き垂る。杲卿の宗子近属は皆害せらる。杲卿既に虜せらるるや、諸郡復た賊のために守る。

張通幽は兄が賊に相たるを以て、杲卿を楊国忠に讒す。故に贈りを加えず。粛宗鳳翔に在りしとき、真卿其の枉を表す。会に通幽普安太守と為る。上皇杖を以て之を殺す。李光弼・郭子儀常山を収め、杲卿・履謙の二家の親属数百人を獄より出し、厚く給遺し、喪を行わしむ。乾元初、杲卿に太子太保を贈り、諡して忠節と曰い、其の妻崔を清河郡夫人に封ず。初め、博士の裴郡は杲卿が執政せざるを以て、但だ忠と諡す。議者平らかならず。故に二つの美諡を以てす。逖・季明および宗子らは皆五品官を贈らる。建中中、又杲卿に司徒しとを贈る。初め、杲卿殺さるるや、首を衢に徇わしむ。敢えて収むる者なし。張湊なる者有り、其の髪を得て、持って上皇に謁す。是の昔夢に見ゆ。帝覚めて、祭を為す。後に湊、髪を其の妻に帰す。妻疑う。髪動くこと雲の如し。後に泉明屍を購い将に葬らんとす。刑者に言を得たり。死する時一足先ず断たる、と。履謙と同坎に瘞す。其の域を指して之を得る。乃ち長安ちょうあんの鳳棲原に葬る。季明・逖同じ塋にす。

泉明は孝節有り、人の急を振るうを喜ぶ。既に承業に遣わさるるも、未だ至らざるに常山陥つ。故に寿陽に客す。史思明李光弼を囲み、泉明を獲て、革を以て裹み、幽州に送る。間関して免るるを得。思明帰国す。而して真卿方に蒲州刺史と為る。泉明をして河北に到り宗属を求めしむ。初め、一女および姑の女並びに賊中に流離す。及是に至り並びに之を得る。悉く銭三万を以て姑の女を贖い還し、資を取りて復往くも、則ち己が女復た之を失う。履謙および父の故将の妻子奴隸尚三百余人、転徙して自ら存せず。泉明力を尽くして贍給し、多きを分かち薄きを勻らし、相扶け挟みて河を渡り真卿に托す。真卿随う所に帰り資送す。泉明の父を殯するや、履謙と柩を分かち、護りて長安に還る。履謙の妻、斂の具の儉狹なるを疑い、発して之を視るに、杲卿らと等し。乃ち号踴し、泉明を父の如く待つ。粛宗泉明を拝して郫令と為す。政化清明、宿盗を誅し、人情翕然たり。成都尹其の課を挙げて第一と為し、遷して彭州司馬と為す。家貧しく、官に居りて廉、而して孤藐相従うこと百口、飦鬻給せず。慍嘆無し。母の喪に居り、毀えて骨立つ。其の行義、当世以て難しと為す。

杲卿の兄 春卿

春卿、倜儻として姿儀美しく、当世の務めに通ず。十六にして明経・抜萃の高第に挙げられ、調で犀浦主簿と為る。嘗て徒を州に送るに、其の籍を亡う。廷に至り、口に物色を記す。凡そ千人、差うる所無し。長史陸象先之を異とし、転じてしょく尉と為す。蘇颋代わって長史と為る。讒せられて獄に繫がる。《棕櫚賦》を作りて自ら托す。颋遽ちに之を出す。魏征の遠孫の瞻、罪死に抵る。春卿為に玉真公主に請う。死せず。時人其の節を高しとす。終に偃師丞。臨終、真卿の臂を捉えて曰く、「爾当に吾が族を大にすべし。顧みるに我見るを得ず。諸子を以て汝に諉す」と。後に真卿其の昏嫁を主る。

附 沈盈

沈盈は、また杲卿の甥であり、行義あり、黄老の学に明るかった。解褐して博野尉となり、杲卿とともに難に死し、贈られて大理正とされ、その二子の遙・達に官を授けられた。

賈循

賈循は、京兆華原の人であり、その先祖は常山に家があった。父の会は、高節あり、嘗て疾を称して辟召に応ぜず、里中で「一龍」と号された。親が亡くなると、土を負って墓を成し、その左に廬して、手ずから松柏を植え、時に「関中の曾子」と号された。卒すると、県人は私謚して広孝征君といった。

循は大略あり、礼部尚書の蘇頲が嘗て今の廉頗・李牧と謂い、益州となった時、表して列将に署した。西山で吐蕃を破り、三遷して静塞軍営田使となった。張守珪が北伐し、灤河に次ぎ、凍て解けるに属し、渡らんとすれど橋なし。循は広狭を揣って橋を造りて渡り、虜を破って還り、功により遊撃将軍・榆関守捉使に擢げられた。地は南は海に負い、北は長城に属し、林莽岑翳として、寇の蔽伏する所なり。循は土を調え木を斬りて道を開き、賊は遁去した。范陽節度使の李適之が薦めて安東副大都護となす。安禄山が平盧節度を兼ね、表して副とし、博陵太守に遷る。禄山は奚・契丹を撃たんとし、また奏して循を光禄卿として自らの副とし、留後を知らしむ。九姓叛き、禄山は河東節度を兼ね、而して循もまた雁門を兼ねて之に副う。母亡くして将に葬らんとすれど、宅に枯桑あり、一夕にして再生し、芝が北庸に出で、人瑞と為す。玄宗は循に功あるを以て、詔して其の父に常山太守を贈る。

禄山反し、循をして幽州を守らしむ。故に杲卿之を招き、以て賊の巣穴を傾けんとす。循許諾す。向潤客等が其の謀を発するに為り、賊之を縊す。建中二年、太尉を贈り、謚して忠と曰う。

循の従子 隠林

従子の隠林は、永平兵馬使となった。衛に入らんとするに当たり、朱泚の難に属し、衆を率いて行在に扈す。徳宗隠林を見て、其の貌の偉なるに偉び、家世を問う。答えて曰く、「故范陽節度副使の循は、臣が従父なり。」帝之を異とし、臥内に引き至り、手板を以て地に画きて攻守の計を陳ぶ。即ち奏して曰く、「臣嘗て日の墜つるを夢み、首を以て之を承けたり。」帝曰く、「朕に非ずや?」因って行在を糾察せしめ、検校右散騎常侍さんきじょうじに遷し、武威郡王に封ず。

賊囲み急なり。隠林は侯仲荘とともに矢石を冒して死戦す。已にして解く。従臣慶びを称す。隠林涕を流して前に進みて曰く、「泚已に奔る。群臣大いに宗社の疆き無きの休を慶ぶ。然れども陛下は資性急にして、容掩する能わず。若し悛めざれば、今たとえ賊亡ぶとも、憂い未だ艾たず。」帝之を忤とせず、神策統軍に拝す。卒す。帝其の質直を思い、尚書左僕射を贈り、実戸三百を以て其の家を封ず。

張巡

張巡、字は巡、鄧州南陽の人なり。群書に博通し、戦陣の法に暁る。気志高邁にして、細節を略し、交わる所必ず大人長者にして、庸俗と合わず、時人知る可からず。開元末、進士第に擢げられる。時に兄の暁は已に監察御史の位にあり、皆名称を以て一時に重し。巡は太子通事舎人より出でて清河令となり、治績最も優れ、而して節義を負い、或いは困厄に帰する者あれば、資を傾けて振護し吝るところ無し。秩満して都に還る。是の時楊国忠方に国を専らにし、権勢炙る可し。或る者一見を勧め、且つ顕用せんとす。答えて曰く、「是れ方に国の怪祥と為り、朝宦為す可からず。」更に真源令に調う。土多く豪猾にして、大吏の華南金は威を樹てて恣肆す。邑中の語に曰く、「南金の口、明府の手。」巡下車し、法を以て之を誅し、余党を赦す。改行遷善せざる莫し。政簡約にして、民甚だ之に宜し。

安禄山反す。天宝十五載正月、賊酋張通晤が宋・曹等州を陥とし、譙郡太守楊万石は賊に降り、巡を逼って長史と為し、西に向かって賊軍を迎えしむ。巡は吏を率いて玄元皇帝祠に哭し、遂に兵を起こして賊を討つ。従う者千余。初め、霊昌太守嗣呉王祗は詔を受けて河南の兵を合し禄山を拒ぐ。単父尉賈賁なる者あり、閬州刺史璿の子なり。吏を率いて呉王の兵と称し、宋州を撃つ。通晤は襄邑に走り、頓丘令盧韺に殺される。賁は軍を引いて進み雍丘に至り、巡と之を合し、衆二千有り。是の時雍丘令令狐潮は県を挙げて賊に附く。遂に自ら将いて東に向かい淮陽の兵を敗り、其の衆を虜い、反接して廷に在らしめ、将に之を殺さんとす。暫く行部す。淮陽の囚は更に縛を解き、起きて守者を殺し、賁等を迎え入る。潮は帰るを得ず。巡乃ち其の妻子を屠り、城上に礫とす。祗聞き、制を承けて賁を監察御史に拝す。潮は賁を怨み、還って雍丘を攻む。賁は門に趨るも、衆に躪み死せらる。巡は騎を馳せて決戦し、身創を受けしも顧みず、士乃ち巡を奉りて軍を主とす。間道より諸朝に表し、箋を騰して祗の府に至らしむ。祗乃ち兗以東を挙げて巡に委ねて経略せしむ。

潮は賊衆四万を以て城に薄る。人大いに恐る。巡諸将に諭して曰く、「賊は城中の虚実を知り、我を軽んずる心有り。今意に出でずして出でば、驚かして潰えしむる可く、之に乗ずれば、勢必ず折る。」諸将曰く、「善し。」巡乃ち千人を分かち城に乗じ、数隊を以て出で、身は前駆となり、直ちに潮の軍に薄る。軍却く。明日賊城を攻め、百楼を設く。巡は城上に柵し、芻を束ね膏を灌ぎて以て之を焚く。賊敢えて向かわず。巡は隙を伺いて之を撃つ。六十日を積み、大小数百戦、士は甲を帯びて食い、瘡を裹いて闘う。潮遂に敗走す。之を追うこと、幾くんか獲んとす。潮怒り、復た衆を率いて来る。然れども素より巡に善し。城下に至り、情を語りて巡に曰く、「本朝危蹙し、兵関を出でず、天下の事去れり。足下は羸兵を以て危堞を守り、忠立つ所無し。盍ぞ相従いて苟も富貴をせんや。」巡曰く、「古えは父君に死し、義報ゆる無し。子乃ち妻孥の怨を銜み、力を賊に仮りて以て相図らん。吾君の頭の通衢に幹るを見ん、百世の笑いと為らん、奈何。」潮赧然として去る。

当此時、王命復た通ぜず。大将六人、巡に白して勢敵せず、且つ上の存亡知る莫し、降るに如かずと。六人の者、皆官は開府・特進なり。巡陽に諾す。明日堂上に天子の画像を設け、軍士を率いて朝し、人々尽く泣く。巡六将を引き至り、大誼を以て責め、之を斬る。士心益々勧む。

糧食が乏しくなった折、賊の尹子琦が塩米数百艘を送り届けようとしていた。張巡は夜に城南に陣を構え、子琦が全軍で迎撃に来ると、勇士を遣わし枚を銜ませて河に沿って進ませ、塩米千斛を奪い、残りを焼いて帰還した。城中の矢が尽きると、張巡は藁を縛って人形千余を作り、黒衣を着せ、夜に城から吊り下ろすと、子琦の兵は争ってこれを射た。しばらくして人形と知り、矢を回収すると数十万本を得た。その後また夜に人を吊り下ろすと、賊は笑って警戒しなかった。そこで死士五百を以て子琦の陣営を襲撃し、賊軍は大いに乱れ、陣幕を焼かれ、十余里も追撃された。賊は恥じて、兵を増やして包囲した。薪と水が尽きると、張巡は子琦を欺いて言った、「衆を率いて退却したい。二舎(六十里)退いて、我が軍を逃がせよ。」子琦はその謀を知らず、これを許した。そこで城を空にして四方三十里に出て、家屋を撤去し木材を発して戻り、守備を整えた。子琦は怒り、包囲を再び固めた。張巡はゆるやかに子琦に言った、「君がこの城を欲するなら、馬三十匹をよこせ。我は馬を得て出奔するから、君は城を取って口実とせよ。」子琦が馬を送ると、張巡は全てこれをぎょう将に与え、約して言った、「賊が来たら、一人一将を取れ。」翌日、子琦が張巡を責めると、答えて言った、「我は去ろうとしたが、将士が従わない。どうしようか。」子琦は怒って戦おうとしたが、陣がまだ成らないうちに、三十騎が突出し、将十四人を生け捕り、百余級を斬り、器械牛馬を収めた。子琦は陳留に逃げ戻り、再び出て来なかった。七月、子琦は賊将の瞿伯玉を率いて城を攻め、偽りの使者四人を遣わし賊の命令を伝えさせた。張巡はこれを斬って示衆し、残りは縛って節度使の幕府に送った。包囲は凡そ四ヶ月、賊は常に数万、張巡の衆はわずか千余であったが、戦う毎に勝利した。この時、河南節度使の嗣虢王李巨が彭城に屯し、張巡に先鋒を仮授した。

まもなく魯・東平が賊に陥ち、済陰太守の高承義が郡を挙げて叛いた。李巨は兵を率いて東の臨淮に走った。賊将の楊朝宗が寧陵に向かおうと謀り、張巡の糧道を断とうとした。張巡は外に李巨の支援を失い、衆を抜いて寧陵を守り、馬はわずか三百、兵三千であった。睢陽に至り、太守の許遠・城父令の姚訚らと合流した。そこで将の雷万春・南霽雲らを遣わし兵を率いさせ寧陵の北で戦い、賊将二十人を斬り、万余人を殺し、屍を汴水に投げ込んだので、水は流れなくなった。朝宗は夜に去った。詔があり、張巡を主客郎中に拝し、河南節度使の副使とした。張巡は将士の有功者を記録して李巨に請うたが、李巨はわずかに折衝・果毅の官を授けただけだった。張巡は諫めて言った、「宗廟社稷はなお危うく、陵墓は孤立している。どうして賞と財を惜しむことができようか。」李巨は聞き入れなかった。

至徳二載、安禄山が死に、安慶緒がその配下の尹子琦に同羅・突厥・奚の精兵を率いさせ、朝宗と合わせて凡そ十余万で睢陽を攻めさせた。張巡は士卒を励まして固守し、一日に二十戦し、気力は衰えなかった。許遠は自ら才能が張巡に及ばないとして、軍事を委ねてその下に居ることを請うた。張巡は辞さずに受け、許遠は専ら軍糧と戦具を整えた。これ以前、許遠の将の李滔が東平を救援したが、遂に叛いて賊に入り、大将の田秀栄が密かに通じていた。ある者が許遠に告げて言った、「朝に出戦する時、碧帽を目印とする。」その言う通りに見ると、その衆を全滅させた。戻るとすぐに言った、「我が誘ったのだ。」精騎を以て行くことを請い、錦帽に替えた。許遠が張巡に告げると、張巡は彼を召して城に登らせ、責めて斬首し、賊に示した。そこで出て戦いを挑むと、子琦は敗れ、車馬牛羊を獲たが、全て士卒に分け与え、微細なものも家に入れなかった。詔があり、張巡を御史中丞に、許遠を侍御史に、姚訚を吏部郎中に拝した。

張巡は勝ちに乗じて陳留を撃とうとした。子琦はこれを聞き、再び城を包囲した。張巡は配下に語って言った、「我は上恩を蒙っている。賊が再び来れば、ただ死ぬのみである。諸君はたとえ身を捨てても、賞が勲に値しない。これを痛恨とする。」聞く者は皆感慨した。そこで牛を殺して大いに饗し、全軍で戦った。賊は兵が少ないのを見て大笑いした。張巡と許遠が自ら鼓を打つと、賊は潰走し、北に数十里追撃した。その五月、賊が麦を刈ったので、兵を渡した。張巡は夜に鼓を鳴らして隊を厳とし、出撃するかのように見せた。賊は警戒した。やがて自ら鼓を鳴らすのを止めると、賊は城上の兵が休んでいるのを窺い、守備を緩めた。張巡は南霽雲らに門を開かせて直ちに子琦の陣所に迫り、将を斬り旗を抜いた。大首長が甲を着て、拓羯千騎を率い、旗幟を翻して城に乗り、張巡を招いた。張巡は密かに勇士数十人を堀の中に吊り下ろし、鉤・陌刀・強弩を持たせ、約して言った、「鼓の音を聞いて奮い立て。」首長は衆を恃んで備えをせず、城上が騒ぐと、伏兵が発してこれを生け捕りにし、弩に矢をつがえて外向きにし、救兵は前に進めなかった。やがて吊り下ろした兵士がまた城壁に登ると、賊は皆驚いて見つめ、甲を按じて出て来なかった。張巡は子琦を射ようとしたが、誰だか判別できなかった。そこで蒿を削って矢とし、当たった者は喜び、張巡の矢が尽きたと思い、走って子琦に報告した。そこでその姿を得た。霽雲に射させると、一発で左目に当たり、賊は退いた。七月、再び城を包囲した。

初め、睢陽には穀物六万斛あり、一年を支えることができた。しかし李巨がその半分を濮陽・済陰に送らせた。許遠が固く争ったが、聞き入れられなかった。済陰は糧を得るとすぐに叛いた。この時、食糧が尽き、士卒は日に米一勺ずつ配られ、木の皮を噛み、紙を煮て食い、わずか千余人となり、皆やせ衰えて弓が引けず、救兵は来なかった。賊はこれを知り、雲梯を城壁に寄せた。張巡は出て鉤と長柄でこれを支え、進ませず、篝火で梯を焼いた。賊は鉤車・木馬で攻めて来たが、張巡はすぐにこれを破壊した。賊はその機略に感服し、攻撃をやめ、壕を穿ち柵を立てて守った。張巡の兵士は多く餓死し、生き残りも皆傷つき気力が乏しかった。張巡は愛妾を出して言った、「諸君は一年余り食糧が乏しいが、忠義少しも衰えない。我は肉を割いて衆に食わせることができないのを恨む。どうして一妾を惜しんで士卒の飢えを坐視できようか。」そこで殺して大いに饗し、座る者は皆泣いた。張巡は強いて食わせ、許遠も奴僕を殺して士卒に食わせ、ついには雀を捕らえ鼠を掘り、鎧や弩を煮て食った。

賊将の李懐忠が城下を通りかかった。張巡が問うた、「君は胡(安禄山)に仕えてどれほどか。」「二年。」「君の祖父・父は官にあったか。」「はい。」「君は代々官を受け、天子の粟を食んでいる。どうして賊に従い、弓を引き我と戦うのか。」懐忠は言った、「そうではない。我は昔将軍として、幾度も死戦し、ついに賊に滅ぼされた。これは天のなすところであろう。」張巡は言った、「古より悖逆の者は終に滅びる。一日事が平らげば、君の父母妻子も皆誅される。どうしてこれを忍びるのか。」懐忠は涙をぬぐって去り、やがてその徒数十人を率いて降った。張巡は前後して賊将を説き降ろすことが多く、皆その死力を得た。

御史大夫賀蘭進明が巨節度に代わり、臨淮に駐屯し、許叔冀・尚衡は彭城に次ぎ、皆観望して敢えて救わず。張巡は南霽雲をして叔冀の許に赴かせて兵を請わしむるも、応ぜず、布数千端を遣わす。霽雲は馬上にて嫚罵し、決死の闘いを請うも、叔冀敢えて応ぜず。張巡はまた臨淮に赴き急を告げさせ、精騎三十を率いて囲みを冒して出で、賊は万众を以て之を遮るも、霽雲左右に射て、皆披靡す。既に進明に謁見す。進明曰く、「睢陽の存亡は既に決せり、兵を出だすも何の益かあらん」と。霽雲曰く、「城は或いは未だ下らず。もし既に亡びたれば、死を以て大夫に謝せんことを請う」と。叔冀なる者は、進明の麾下なり。房琯は元より進明を牽制せんとし、亦た御史大夫を兼ね、勢相埒うて兵精なり。進明は師の出でて且つ襲われんことを懼れ、又た張巡の声威を忌み、その成功を恐れ、初めより出師の意無し。又た霽雲の壮士たるを愛し、之を留めんと欲す。大饗を為し、楽作る。霽雲泣いて曰く、「昨睢陽を出づる時、将士粒食せず已に弥月なり。今大夫兵を出ださずして、広く声楽を設く。義として独り享くに忍びず、食うと雖も、咽を通さず。今主将の命達せず、霽雲一指を置きて以て信を示すことを請い、中丞に帰報せん」と。因りて佩刀を抜き指を断つ。一座大いに驚き、為に涕を出す。卒に食わずして去る。矢を抽ちて回し仏寺の浮図に射れば、矢磚に著く。曰く、「吾賊を破りて還らば、必ず賀蘭を滅ぼさん。此の矢は以て誌す所以なり」と。真源に至れば、李賁馬百匹を遺わす。寧陵に次ぎ、城使廉坦の兵三千を得て、夜囲みを冒して入る。賊覚え、之を拒ぎ、且つ戦い且つ引き、兵多く死し、至る所纔かに千人。時に大霧、張巡戦声を聞きて曰く、「此れ霽雲等の声なり」と。乃ち門を啓き、賊の牛数百を駆りて入る。将士相い持して泣く。

賊は外援絶えたるを知り、囲み益々急なり。衆議東に奔らんとす。張巡・許遠議して以て、睢陽は江・淮の保障なり、若し之を棄てば、賊勝に乗じて鼓して南せば、江・淮必ず亡ぶ。且つ飢えたる衆を帥いて行けば、必ず達せず。十月癸丑、賊城を攻む。士病みて戦う能わず。張巡西に向かいて拝し曰く、「孤城備え竭き、全うする能わず。臣生を以て陛下に報いず、死して鬼と為りて以て賊を癘せん」と。城遂に陥ち、許遠と俱に執わる。張巡の衆之を見て、起きて且つ哭く。張巡曰く、「安んぜよ、怖るる勿れ、死は乃ち命なり」と。衆仰ぎ視ること能わず。尹子琦張巡に謂いて曰く、「公の督戦するを聞くに、大呼すれば輒ち眥裂け血面し、歯を嚼みて皆碎く、何ぞ是に至るや」と。答えて曰く、「吾逆賊を気呑せんと欲するも、力を顧みて屈するのみ」と。子琦怒り、刀を以て其の口を抉り、歯存する者三四。張巡罵して曰く、「我は君父の為に死す。爾賊に附くは、乃ち犬彘なり、安んぞ久しからんや」と。子琦其の節に服し、将に之を釈せんとす。或る者曰く、「彼は義を守る者なり、烏んぞ肯て我が用いられんや。且つ衆心を得たり、留むべからず」と。乃ち刃を以て脅し降らすも、張巡屈せず。又た霽雲を降らすも、応ぜず。張巡呼んで曰く、「南八、男児死するのみ、不義の為に屈すべからず」と。霽雲笑いて曰く、「将に為す有らんと欲するなり。公は我を知る者なり、敢えて死せざらんや」と。亦た肯て降らず。乃ち姚訚・雷萬春等三十六人と俱に害に遇う。張巡年四十九。初め、子琦生け捕りにして安慶緒の所に致さんと議す。或る者曰く、「兵を用いて拒ぎ守る者は、張巡なり」と。乃ち許遠を洛陽に送る。偃師に至り、亦た不屈にて死す。巨の臨淮に走るや、張巡に姉有り、陸氏に嫁す。王を遮りて行く勿れと勧むるも、納れず。百縑を賜うも、受けず。張巡の為に行間を補縫し、軍中「陸家姑」と号す。張巡に先んじて害せらる。

張巡長さ七尺、鬚髯怒する毎に尽く張る。書を読むこと三復を過ぎず、終身忘れず。文章を為すに稿を立たず。睢陽を守るに、士卒・居人、一たび見て姓名を問えば、其の後識らざる無し。更に潮及び子琦と、大小四百戦、将三百・卒十余万を斬る。其の兵を用いるに未だ嘗て古法に依らず、大将を勒して戦を教えしめ、各其の意を出ださしむ。或る者之を問う。答えて曰く、「古は人情敦樸なり、故に軍に左右前後有り、大将中に居り、三軍之を望みて以て斉しく進退す。今胡人は馳突を務め、雲合い鳥散し、変態百出する故に、吾は唯だ兵に将の意を識らしめ、将に士の情を識らしめ、上下相習い、人自ら戦うのみ」と。其の械甲は敵に取りて、未だ嘗て自ら修めず。毎戦、親しく行陣に臨まず、退く者有れば、張巡已に其の所に立ち、謂いて曰く、「我此を去らず、我が為に決戦せよ」と。士其の誠に感じ、皆一以て百に当たる。人を待つに疑う所無く、賞罰信なり、衆と共に甘苦・寒暑を同じくす。廝養と雖も、必ず衣を整えて之を見る。下争いて死力を致す。故に少を以て衆を撃つも、未だ嘗て敗れず。囲まれること久しく、初め馬を殺して食い、既に尽きて、婦人・老弱に及び、凡そ三万人を食う。人将に死せんことを知りて、而も畔く者有ること莫し。城破れ、遺民止むること四百のみ。

初め、粛宗詔して中書侍郎張鎬に進明に代わり河南を節度せしめ、浙東李希言・浙西司空しくう襲禮・淮南高適・青州鄧景山の四節度を率い、睢陽を救わんと掎角す。張巡亡きこと三日にして鎬至り、十日にして広平王東京を収む。鎬命中書舎人蕭昕に其の行を誄せしむ。時に議する者或いは謂う、張巡初め睢陽を守るに、衆六万、既に糧尽き、満を持して隊を按じ再生の路に出でず、夫れ人を食うは、寧ろ人を全うするに若かずや、と。是に於いて張淡・李紓・董南史・張建封・樊晁・朱巨川・李翰皆謂う、張巡江・淮を蔽遮し、賊の勢を沮む。天下亡びざるは、其の功なり、と。翰等皆名士たり。是より天下異言無し。天子詔を下し、張巡に揚州大都督ととくを贈り、許遠に荊州大都督を贈り、霽雲に開府儀同三司を贈り、再び揚州大都督を贈り、並びに其の子孫を寵す。睢陽・雍丘に徭税を三年賜う。張巡の子亞夫金吾大将軍に拝し、許遠の子玖婺州司馬と為る。皆睢陽に廟を立て、歳時祭を致す。徳宗至徳以来の将相の功效尤も著しき者を差次し、顔杲卿・袁履謙・盧弈及び張巡・許遠・霽雲を上と為す。又た姚訚に潞州大都督を贈り、一子に官す。貞元中、復た張巡の他の子去疾・許遠の子峴に官す。張巡の妻に申国夫人を贈り、帛百を賜う。是より僖宗に至るまで、忠臣の後を求め、三人に及ばざる無し。大中時、張巡・許遠・霽雲の像を淩煙閣に図す。睢陽は今に至るまで祠享し、「双廟」と号す。

許遠

許遠は、右相敬宗の曾孫なり。寛厚なる長者、吏治に明らかなり。初め河西に客す。章仇兼瓊辟して剣南府に署し、子を以て之に妻せんと欲すも、固く辞す。兼瓊怒り、事を以て劾し貶して高要尉と為す。赦を経て還る。会に禄山反す。或る者許遠を玄宗に薦む。召して睢陽太守に拝す。許遠は張巡と同年に生まれながら長ず。故に張巡兄と呼ぶ。

大暦年中、巡の子去疾が上書して曰く、「孽胡南侵し、父巡と睢陽太守遠は各々一面を守る。城陥ち、賊の入りし所は遠の分よりす。尹子琦郡の部曲を分けて各々一方にし、巡及び将校三十餘人皆心を割き肌を剖き、惨毒備盡し、而して遠と其の麾下は傷無し。巡命に臨み嘆きて曰く、『嗟乎、人に恨むべき者有り!』賊曰く、『公我を恨むか』答えて曰く、『遠の心を得ること能わざるを恨む、国家の事を誤る、若し死して知有らば、当に地下に赦さじ』と。故に遠の心の向背は、梁・宋の人皆之を知る。国威を喪衄せしめ、巡の功業を墮敗せしむるは、則ち遠は臣と天を同じく戴かず、請う官爵を追奪し、以て冤恥を刷せん」と。詔して尚書省に下し、去疾をして許峴及び百官と議せしむ。皆以て去疾の證狀最も明らかなるは、城陥ちて遠獨り生くると為す。且つ遠本より睢陽を守り、凡そ城を屠るに生ける主将を致すを功と為せば、則ち遠の巡の後に死するは惑うに足らざるなり。若し曰く、後に死する者は賊と與にすと、其の先に巡の死する者を謂いて巡当に叛すべしと為すは、可ならんや。当の此時去疾尚ほ幼く、事未だ詳らかに知らず。且つ艱難以来、忠烈未だ二人に先んずる者無し、事は簡書に載せ、日星の如く妄りに軽重すべからず。議乃ち罷む。然れども議する者紛紜として齊しからず。

元和の時、韓愈李翰の為す所の巡傳を読み、以て遠の事を闕くは是に非ずと為す。其の言に曰く、「二人の者は、死を守りて名を成す、先後異なるのみ。二家の子弟材下り、其の父の志を通知すること能わず、世をして遠の死を畏れて賊に服するを疑わしむ。遠誠に死を畏るれば、何ぞ苦しんで尺寸の地を守り、其の愛する所の肉を食い、抗して降らざるや。且つ援の至らざるを見、人相食いて猶お守る、其の愚なりと雖も必ず死すべきを知る、然れども遠の死を畏れざるは甚だ明らかなり」と。又言ふ、「城陥つる所の守よりす、此れ児童の見と異なる無し。且つ人の将に死せんとするや、其の臓腑必ず先ず病を受くる者有り、縄を引きて之を絶つに、其の絶つる必ず処有り。今従いて之を尤むるも、亦理に達せざるなり」と。愈は褒貶に於いて尤も慎む、故に之を著す。

南霽雲

南霽雲は、魏州頓丘の人なり。少く微賤、人の為に舟を操る。祿山反す、鉅野尉張沼兵を起して賊を討ち、抜きて将と為す。尚衡汴州の賊李廷望を撃つに、以て先鋒と為す。睢陽に遣わし、張巡と事を計る。退きて人に謂ひて曰く、「張公心を開きて人を待つ、真に吾の事とすべき者なり」と。遂に巡の所に留まる。巡固より帰るを勧む、去らず。衡金帛を賫して迎ふ、霽雲謝して受けず、乃ち巡に事へ、巡厚く礼を加ふ。始めて囲まるるに、臺を築きて萬死一生の者を募る、数日敢えて応ずる者無し。俄かに喑鳴して来る者有り、乃ち霽雲なり。巡対して泣下す。霽雲騎射に善く、賊を見ること百歩内にして乃ち発し、応弦に斃れざる者無し。

子承嗣、涪州刺史を歴る。劉辟叛す、備無きを以て永州に謫せらる。

雷萬春

雷萬春は、来たる所詳らかならず、巡に事へて偏将と為す。令狐潮雍丘を囲む、萬春城上に立ちて潮と語る、伏弩発して六矢面に著く、萬春動かず。潮木人を刻めるかと疑ひ、諜して其の実を得、乃ち大いに驚く。遥かに巡に謂ひて曰く、「向に雷将軍を見て、君の令の厳なるを知れり」と。潮雍丘の北に壁し、謀りて襄邑・寧陵を襲はんとす。巡萬春をして騎四百を引きて潮を圧せしむ、先ず賊に包まる。巡其の囲を突き、大いに賊を破り、潮遁げ去る。

萬春兵を将うるに、方略は霽雲に及ばず、而して強毅にして命を用ふ。毎たび戦ふに、巡之を任するに霽雲と鈞し。

姚訚

姚訚は、開元の宰相崇の從孫なり。父弇、楚州刺史。訚性豪蕩にして、飲謔を好み、絲竹に善し。壽安尉を歴る。素より巡に善く、城父令と為るに及び、遂に同しく睢陽を守る。累ねて東平太守を加ふ。

巡の霽雲・萬春を遣わして賊を寧陵に敗るるや、別将二十有五人:石承平・李辭・陸元锽・朱珪・宋若虛・楊振威・耿慶禮・馬日升・張惟清・廉坦・張重・孫景趨・趙連城・王森・喬紹俊・張恭默・祝忠・李嘉隠・翟良輔・孫廷皎・馮顏、其の後皆巡の難に死し、四人其の姓名を逸す。

贊して曰く、張巡・許遠は、謂ふべし烈丈夫なり。疲卒数万を以て、孤墉に嬰り、方張して制せざる虜に抗し、其の喉牙を鯁し、して東南に搏食することを得ざらしめ、首尾を牽掣し、梁・宋の間に豗潰す。大小数百戦、力盡きて乃ち死すと雖も、而して唐全く江・淮の財用を得て、以て中興を済し、利を引きて害に償ふ、百を以て万に易ふる可し。巡先に死するも遽しと為さず、遠後に死するも屈せず。巡死して三日にして救至り、十日にして賊亡ぶ、天完き節を二人に付し、名を畀えて窮まり無し、生を留めて後に顕はるるを待たず。惟ふに宋三葉、章聖皇帝東に巡り、其の廟を過ぎ、駕を留めて裴回し、巡等の雄挺、節を盡くして異代にす、金石刻に著し、其の忠を明らかにして贊す。夷・齊の西山に餓踣するに、孔子仁を称する、何を以て異ならん云ふ。