新唐書

巻一百九十一 列傳第一百十六 忠義上 夏侯端 劉感 常達 敬君弘 呂子臧附:馬元規 王行敏附:盧士叡 李玄通 羅士信 張道源 李育德 高叡子:仲舒 安金藏 王同皎 吳保安 李憕子:源 彭 盧弈孫:元輔 張介然 無詖

およそ生ある者が最も重んずるは身なり、軽く用いるを得るは忠と義なり。身を後にし義を先にするは仁なり、身は殺さるべしも名は死すべからずは志なり。凡そ生を捐てて義に趣く者は、寧ろめ期して垂名不朽たらんことを望みて之を為すや。一世の成敗と雖も、亦た必ずしも済わず、要は重んずる所と与にし、終始一操を守り、嵩・岱のごときも吾を圧せざるなり。夷・齊は周を排し商を存せんとし、商は害せられて亡びず、而して周以て興る。両人は餓死に至るも肯て屈せず、卒ふに武王慚德を蒙り、而して夷・齊は仁を得たりと為す。仲尼顔色を変じて之を言ひ、敢えて少しくも損ずること無し。故に忠義は真に天下の大閑か。奸鈇逆鼎、人を搏ちて其の毒を肆にす、然れども一の義士を殺せば、則ち四方情を解く。故に乱臣賊子は然りと疑ひ沮んで逞ふるを得ず。何ぞや。彼の為にせんと欲する所を以て、我が為にするなり。義在れば与に在り、義亡ぶれば与に亡ぶ。故に王者は常に推して之を褒め、以て生民を砥礪し不軌を窒がんとす。然りと雖も、烈丈夫に非ざれば、何ぞ能く之を為さん。彼の委靡軟熟、偷生自私する者は、真に畏るべき人なるかな。故に夏侯端より以来凡そ三十三人を左方に次敘す。

夏侯端

夏侯端は寿州寿春の人、梁の尚書左僕射詳の孫なり。隋に仕えて大理司直と為る。高祖こうそ微時に之と相友とす。大業中、賊を河東に討つに、表して端を副とす。端は数術に邃く、密かに高祖に語りて曰く、「玉床揺るぎ、帝坐安からず。晋は歳を得、真人将に興らんとす。天下の乱を安んずる者は、其れ公に在らんか。但だ上性沈忌にして、内に諸李を悪む。今金才已に誅せられ、次に将に公を取らんとす。宜しく早く計らふべし」と。帝其の言に感ず。義師興り、端は河東に在り、吏捕へて長安ちょうあんに送る。帝京師に入り、囚を釈き、臥内に引入れ、秘書監に擢ぐ。

李密の降るや、関東の地未だ所属する所無し。端は仮節を請ひて招諭せんとす。乃ち大将軍を拝し、河南道招尉使と為る。即ち檄を州県に伝へ、東は海に薄し、南は淮に揵し、二十余州使いを遣はして順附す。譙州に次ぐに、会ふに亳・汴二州刺史已に王世充に降る。道塞がり、帰する所無し。計窮まりて仿徨す。麾下二千人糧尽きて忍びず端を委て去らんとす。端乃ち馬を殺して大沢中に宴し、衆に謂ひて曰く、「我は王命を奉じ、義屈すべからず。公等は妻子有り、徒に死するは益無し。吾若が首を丐ひ、持て賊に与へて富貴を取らん」と。衆号泣して忍びず視る。端も亦た泣き、自ら刎せんと欲す。争ひて之を持ち、乃ち止む。五日行くに、餓死すること十四三。賊に遇ひ、衆潰く。従ふ者纔かに三十余人、遂に東に走り、豆を擷みて以て食す。端は節を持ちて臥起し、嘆じて曰く、「平生死地を知らず、乃ち此に在り」と。其の下を縦して去らしめ、倶に没する毋からしむ。会ふに李公逸杞州を守り、兵を勒して端を迎ふ。時に河南の地悉く世充に入る。公逸端の節に感じ、亦た固く守る。世充人を遣はして淮南郡公・尚書少吏部の印綬を以て端を召し、解きて服する衣を以て贈る。端曰く、「吾は天子の使なり、寧ろ賊の官を汚さんや。首を持たずしては見ゆべからず」と。即ち書及び衣を焚き、因りて節の毛を解きて之を懐ひ、間道宜陽に走り、崖峭榛莽を歴る。比して到るに、其の下僅かに在る者有り、皆体発臒焦げ、人堪へて視るべからず。端入り謁し、自ら功無きを謝し、危困の状に及ばず。帝之を閔み、復た秘書監を拝す。出でて梓州刺史と為る。禄稟を散じて孤窮を周し、子孫の為に計らはず。貞観元年卒す。

劉感

劉感は岐州鳳泉の人、後魏の司徒しと豊生の孫なり。武徳初、驃騎将軍を以て涇州に戍し、薛仁杲に囲まれる。糧尽き、乗する所の馬を殺して士に啖はし、而して骨を煮て自ら飲み、木屑を和して以て食するに至る。城将に陷らんとす。長平王叔良之を救ふ。賊乃ち解く。叔良と出で戦ふに、賊に執はれ、還りて涇州を囲み、感をして城中に降るを約せしむ。感紿ひて諾す。城下に至り大呼して曰く、「賊大いに饑ゆ、亡ぶは朝暮に在り。秦王数十万の衆将に至らんとす。勉めて苦しむ毋かれ」と。仁杲怒り、感を執りて其の半を土中に埋め、馳せて之を射る。死に至るまで詈ること益甚だし。

賊平ぐ。高祖其の屍を得るを購ひ、少牢を以て祭り、瀛州刺史を贈り、爵は平原郡公、封戸二千、謚して忠壮と曰ふ。詔して其の子に嗣ぎて封爵せしめ、田宅を賜ふ。

常達

常達は陜州陜の人。隋に仕えて鷹撃郎将と為る。嘗て高祖に従ひ征伐し、宋老生と霍邑に戦ひ、軍敗れて自ら匿る。帝已に死せりと意ひ、久しくして乃ち自ら帰る。帝大いに悦び、命して統軍と為し、隴州刺史を拝す。

時に薛挙方に強し。達其の子仁杲を敗り、首級千を斬る。挙将の仵士政を遣はして紿ひて降らしむ。達疑はず、厚く撫接を加ふ。士政隙に伺ひて之を劫ひ、並びに其の衆二千を賊に帰す。挙其の妻を指して達に謂ひて曰く、「皇后を識るか」と。答へて曰く、「彼は癭老嫗、何の道か有らん」と。挙の奴張貴又た曰く、「亦た我を識るか」と。達瞋目して曰く、「若は乃ち奴耳」と。貴忿り、笏を挙げて其の面を撃つ。達懾れず、亦た刀を抜きて之を逐ふ。趙弘安之を蔽ひ捍ぎて、乃ち免る。仁杲平ぐ。帝達を見て労ひて曰く、「君の忠節は、正に古人に求むべし」と。士政を執りて之を殺さしめ、達に布帛三百段を賜ひ、達並びに劉感の事を以て史臣令狐徳棻に授く。終に隴西刺史と為る。

敬君弘

敬君弘は絳州絳の人、北斉の尚書右僕射顕俊の曾孫なり。功を累ねて歴りて驃騎将軍、封じて黔昌侯と為る。屯営兵を以て玄武門を守る。隠太子の死するや、左右解散す。其の車騎将軍馮立なる者は、材武有り、嘆じて曰く、「生には其の寵を頼み、死には難を共にせず、我何を以て士大夫に見えん」と。乃ち巣王の親将謝叔方と兵を率ひて玄武門を攻め、殊死に闘ふ。君弘身を挺して出づ。或ひは曰く、「事未だ判ずべからず、兵を按じて変を待ち、列を成して闘ふべし」と。従はず。中郎将呂世衡と呼びて進み、皆戦歿す。立其の下を顧みて曰く、「以て太子に報ゆるに足れり」と。遂に兵を解きて走る。君弘等敗るるや、秦府の兵振はず。尉遅敬徳巣王の首を擲ちて叔方に示す。叔方馬を下りて慟哭し、亦た出奔す。明日自ら帰る。太宗曰く、「義士なり」と。之を置く。俄かに立又た至る。帝譲りて曰く、「汝我が兄弟を離る、罪一なり。我が将士を殺す、罪二なり。何れの所にか死を逃れん」と。答へて曰く、「身を出だして主に事へ、戦ふの日には、他の事を知らず」と。因りて地に伏して悲み自ら勝へず。帝亦た労ひて之を遣す。詔して君弘に左屯衛大将軍を贈り、世衡に右ぎょう衛将軍を贈る。

立已に貸さるるを蒙る。帰りて人に語りて曰く、「上吾が罪を赦す、吾当に死を以て報ゆべし」と。未だ幾ばくもせず、突厥便橋を犯す。立数百騎を引きて虜と薄し、之を咸陽に敗る。帝喜び、広州都督ととくを授く。前日の牧守苛肆にして、蛮夷の患と為り、故に数叛く。立至るに、家産を事とせず、衣食贏るを求めず。嘗て貪泉を見て曰く、「此れ豈に隠の酌む所ならんや。吾日汲むと雖も、庸ぞ吾が性を易へん」と。遂に極飲して去る。職に在ること三年に満たず、恵愛有り、官に卒す。

叔方は伊州刺史を歴任し、軍を治めることに長け、戎・華(異民族と漢人)に愛された。累次加えて銀青光禄大夫となり、洪州・広州の二州都督に転じた。卒し、諡して勤という。本貫は萬年県の人であり、従って巢王に征討に従い功があり、王が表して屈咥真府左軍騎としたという。

呂子臧

呂子臧は、蒲州河東の人である。剛直で、吏事に健やかであった。隋の大業末に南陽郡丞となり、盗賊を捕撃して功があった。高祖が京師に入ると、馬元規を遣わして山南を慰撫させたが、子臧のみは堅く守って降らなかった。元規が士を遣わして諭させると、子臧はこれを殺した。煬帝が既にしいされた後、帝はさらにその婿の薛君倩に詔を持たせて遣わし、隋が滅んだ所以を説き、子臧を諭した。子臧は先君のために発喪を終えると、直ちに帰順を申し出、そのまま鄧州刺史に拝され、南陽郡公に封ぜられた。

武徳初め、朱粲が新たに敗れた時、子臧は兵を率いて元規と力を合わせた。元規が軍を進めないので、子臧は言った、「賊が新たに敗れ、上下ともに惶惑沮喪している隙に乗じれば、一戦で捕らえることができる。もし遷延すれば、その衆が次第に集まり、我が食糧が尽きれば、我に対して死力を尽くしてくるであろう。これは当たるべきではない」と。聞き入れられなかった。子臧は自らの率いる兵で単独進撃することを請うたが、またも許されなかった。間もなく朱粲は衆を得て、再び勢力を張り、元規は城に籠った。子臧は手を扼んで言った、「謀が用いられず、公の為に死を坐すことになるであろう」と。賊の包囲は固く、時に長雨が続き、城壁が崩れ落ちた。ある者が降伏を勧めたが、子臧は言った、「我は天子の方伯である。まして賊に降るということがあろうか」と。そこで麾下の数百人を率いて敵に赴いて死に、城もまた陥落し、元規もそこで死んだ。

附 馬元規

元規は、安陸の人である。初め隊正として帝に従って征伐し、節を持って南陽を下し、兵一万余を得たが、謀がなく、敗北に至った。

王行敏

王行敏は、へい州楽平の人である。隋末に盗賊の長となり、高祖が興ると来降し、潞州刺史に拝され、屯衛将軍に遷った。劉武周が并州に入り、上党を寇し、長子・壺関を取った。ある者が刺史の郭子武が懦弱で支えられず、潞州を失うであろうと言ったので、帝は行敏を馳せて遣わした。到着すると、子武と不和となり、賊の包囲が切迫し、蓄えが空乏し、衆が恐れおののいたので、行敏はこれを憂えた。時に子武が謀反を企てているとの告げがあったので、遂にこれを斬った。州民の陳正謙という者は、信義をもって郷里に称され、粟千石を出して軍を救済した。これにより人々自ら奮い立ち、賊は去った。行敏はまた竇建徳の兵を武陟で破った。武徳四年、兵を督いて燕・趙を巡行し、劉黒闥と歴亭で戦い、これを破った。その後、甲を解き備えを設けなかったため、黒闥に襲撃され、縛られてその麾下に連れて行かれた。終に屈せず、賊は遂にこれを斬った。死に臨み、西に向かって跪き言った、「臣の忠は、ただ陛下のみこれを知る」と。帝はこれを聞いて悼み惜しんだ。

黒闥の乱において、死事した者にはまた盧士叡・李玄通がいる。

附 盧士叡

士叡は韓城に客居した。隋の乱に際し、英豪と結び交わした。高祖とは旧知であり、兵が興ると、数百人を率いて汾陰に上謁し、また兄の子をして劇賊の孫華を降伏させるよう諭させ、劉弘基とともに隋の将軍桑顕和を飲馬泉で破った。累次抜擢されて右光禄大夫となり、瀛州刺史となった。黒闥が軽騎を遣わしてその外郭を破ると、半日拒戦したが、兵士たちが親族が捕虜にされているのを見て、遂に潰走した。士叡は賊に捕らえられ、城や堡を説いて降伏させようとされたが従わず、殺害された。

附 李玄通

玄通は、藍田の人である。隋の鷹揚郎将となり、高祖が関中に入ると、率いる部衆を率いて自ら帰順し、定州総管に拝された。黒闥に破られ、その才を愛され、将としようとした。玄通は言った、「我は節を守って報いるべきであり、どうして志を賊に降すことができようか」と。聞き入れられず、囚われた。旧吏に飲食物を贈る者がいた。玄通は言った、「諸君が哀れんでくださるなら、我は一酔できる」と。そこで思い切り飲み、守衛の者に言った、「我は剣舞ができる。刀を借りたい」と。守衛の兵士がこれを与えた。曲が終わると、天を仰いで太息して言った、「大丈夫として方面を撫す身でありながら、守るべきものを保つことができず、まだ生きて息をすることができようか」と。そこで腹を切り裂いて死んだ。帝はこれに涙を流し、その子の伏護を大将軍に抜擢した。

羅士信

羅士信は、斉州歴城の人である。隋の大業の時、長白山の賊の王薄・左才相・孟讓が斉郡を攻めた。通守の張須陀が兵を率いて賊を撃った。士信は執衣(従者)の身分で、年十四、背は低いが勇猛で、自ら戦いに加わることを請うた。須陀は甲冑に耐えられないのではないかと疑い、軽んじた。士信は怒り、重い甲冑を身に着け、左右の鞬を背負い、馬に上って顧みた。須陀はこれを許した。賊を濰水のほとりで撃ち、陣がようやく列なると、長矛を執って賊の陣営に馳せ入り、数人を刺し殺し、首級一つを取って投げ上げ、矛で受け止め、戴いて進んだ。賊は皆呆然として恐れ、敢えて抗う者はいなかった。須陀がこれに乗じ、大いに賊を破った。士信は敗走する賊を追撃し、賊を一人殺すごとに、必ずその鼻を削ぎ取り懐に入れ、帰還すると、これを以て首級の代わりに検証した。須陀は嘆服し、自らの乗馬を与えた。凡そ戦う時は、須陀が先に登り、士信が副うことを常とした。煬帝は使者を遣わし、須陀と士信の陣法を図にして内史に上らせた。

後に須陀が李密に殺されると、士信は裴仁基と共に李密に帰順し、総管に任じられ、配下の兵を率いて王世充を討った。重傷を負い、世充に捕らえられた。世充はその才を愛し、厚遇して、寝食を共にした。後に李密の将軍邴元真らを得たため、士信は次第に疎んじられ遠ざけられた。士信は彼らと同列となることを恥じ、配下の千余人を率いて高祖に降り、陝州道行軍総管に任じられ、世充を討つ計画を立てた。

士信は行軍では先鋒となり、退却時には殿軍を務め、得たものは全て配下の功ある者に分け与え、あるいは衣服を脱ぎ馬を解いて彼らに賜り、兵士はそのために命を惜しまなかった。しかし法を厳格に持ち、親しい旧友にも少しも容赦せず、その部下もあまり心服しなかった。軍が洛陽らくように駐屯し、千金堡を攻撃した時、堡の者が悪口を言って軍を罵ったので、士信は怒り、夜に百人を遣わして嬰児を載せ、堡の下で泣き騒がせ、東都から逃げ出して来た者のように装わせた。しばらくして偽って気づいたふりをして言った、「違う、ここは千金堡だ」。そこで散り散りになった。堡の兵が門を開いて追撃掠奪に出たところ、士信の伏兵が中に入り、一人残らず皆殺しにした。賊が平定されると、絳州総管に任じられ、郯国公に封じられた。

秦王に従って劉黒闥を洛水のほとりで撃ち、一城を得た。王君廓がこれを守備したが、賊が急攻し、敗れて城を出た。秦王が諸将に言った、「誰がこれを守れるか」。士信が言った、「私に守らせてください」。そこで命じられた。士信が入城すると、賊は全軍で攻撃し、ちょうど雨雪が降り、救援軍は進むことができなかった。城は陥落し、黒闥は彼を使おうとしたが、屈せずに死んだ。二十八歳であった。秦王はひそかに悼み、その屍を買い求めて葬り、勇と諡した。初め、士信は仁基に礼遇された。東都が平定された時、私財を出して北邙に葬り、その恩に報い、かつ言った、「私が死んだらその側に葬られたい」。ここに至り、その志の通りになった。

張道源

張道源は、并州祁県の人で、名は河、字をもって顕れた。十四歳の時、父の喪に服し、士人はその孝行を賢しとし、県令郭湛がその居住地を復礼郷至孝里と名付けた。道源はかつて客と夜に宿泊し、客が急死した。道源は主人が突然驚くのを恐れ、死体の傍らに臥し、朝になってから告げ、また徒歩で護送してその家に帰した。隋末に政治が乱れ、監察御史を辞して故郷に帰った。

高祖が興ると、大将軍府戸曹参そうしん軍に任じられた。賈胡堡に至り、また并州を守らせた。京師が平定されると、山東を慰撫するために派遣され、燕・趙を降した。詔があり褒め称えられ、累ねて范陽郡公に封じられた。淮安王神通が山東を平定した時、趙州を守らせたが、竇建德に捕らえられた。ちょうど建德が河南を寇した時、密かに人を朝廷に遣わし、虚に乗じて賊の心臓部を衝くことを請うた。すぐに詔があり諸将に兵を率いて影のごとく応接させた。まもなく賊が平定され、帰還し、大理卿に任じられた。時に何稠が罪を得て、その家族を没収し群臣に賜った。道源は言った、「禍福は常ならず、どうして他人の滅亡を利して、その子女を取って自ら奉じることができようか。仁者はそうしない」。改めて衣食を与えて帰した。天子はその年老いたのを見て、綿州刺史に任じた。死去し、工部尚書を追贈され、節と諡された。道源は九卿の官にありながら、財産がなく、死ぬ時、粟二斛が残っていた。詔があり帛三百段を賜った。

族孫の楚金は至行があり、兄の越石と共に進士に挙げられた。州が楚金だけを推薦しようとしたが、固辞し、共に取りやめるよう請うた。都督李勣は嘆いて言った、「士は才行を求めるものである。既に譲ることができるなら、どうして皆取ることを嫌おうか」。そこで共に推薦した。累進して刑部侍郎となった。儀鳳初年、彗星が東井に現れ、上疏して得失を陳べた。高宗は欽んで受け入れ、物二百段を賜った。武后の時、秋官尚書を歴任し、南陽侯に封じられた。清廉な概操があったが、文書に厳しく、当時も少し軽んじられた。酷吏に陥れられ、嶺表に流されて死んだ。

李育德

李育德は、趙州の人である。祖父の諤は、隋に仕えて通州刺史となり、名臣となった。代々財産に富み、家僮は百人いた。天下が乱れると、ひそかに武器甲冑を整え、武陟城を守って自衛し、多く人がこれに従い、遂に長となった。大賊が略奪に来たが、陥とすことができなかった。隋が滅びると、柳燮らと共に李密に帰順し、私的に総管に任じられた。密が王世充に破られると、郡を挙げて降伏し、すぐに陟州刺史に任じられた。

兄の厚徳は、賊のところから逃げ帰ったが、黄河を渡って再び捕らえられた。賊は彼に育徳を招かせようとしたので、偽って承諾し、兄を死なせなかった。賊の帥段大師は裨校に兵を率いて厚徳を監視させたが、厚徳は密かにその歓心を得て、州人賈慈行と謀って賊を追い払おうとした。慈行は夜に城に登って叫んだ、「唐兵が登城した!」。厚徳は獄から囚人たちを擁して騒ぎ出て、長史を斬り、衆は敢えて動かず、大師は城から縋り下りて逃げた。すぐに殷州刺史に任じられた。厚徳が帰省した時、育徳を留めて守らせ、兵を率いて賊の河内の堡三十一ヶ所を陥とした。世充は怒り、精鋭を全て率いて攻撃し、城は陥落したが、なお力戦し、三人の弟と共に戦死した。

時に節を守って死んだ者には、李公逸、張善相がおり、合わせて三人である。

公逸は、族弟の善行と雍丘に住み、才幹雄大で、衆の帰するところとなった。初め王世充に附いていたが、その必ず敗れると策し、高祖に誠意を示し、その地に杞州を置き、すぐに総管に任じられ、陽夏郡公に封じられた。善行を刺史とした。世充がその弟に徐・亳の兵を率いて攻撃させたので、公逸は援軍を請うたが、返答がなく、善行に守らせ、自ら朝廷に入って状況を言上しようとした。襄城に至り、賊の巡邏兵に捕らえられ洛陽に送られた。世充が言った、「君は鄭を越えて唐に臣下するのは、どういうわけか」。答えて言った、「私は天下においてただ唐があると聞いています」。賊は怒って斬った。善行も死んだ。帝は悼み惜しみ、その子を襄邑県公に封じた。

善相は、襄城の人である。大業末年に里長となり、兵を督して盗賊を追跡し、衆に附頼され、許州を拠点として李密に奉じた。密が敗れると、州を率いて来降し、詔によりすぐに伊州総管を授けられた。王世充が攻撃し、賊に何度も苦しめられ、三度使者を遣わして救援を請うたが、朝廷は手が回らなかった。ちょうど食糧が尽き、衆が餓死し、善相は僚属に言った、「私は唐の臣として、命を尽くすべきである。君たちは死ぬ必要はない、私の首を斬って賊に降ればよい」。衆は泣いて肯かず、言った、「公と共に死ぬのは、独りで生きるよりましです」。城が陥落して捕らえられ、賊を罵って殺された。高祖は嘆いて言った、「私は善相に負い目がある、善相は私に背かない!」。そこでその子を襄城郡公に封じた。

高叡

高叡は、京兆萬年県の人で、隋の尚書左僕射高熲の孫である。明経に挙げられ、次第に通義県令に遷り、治績があり、人々は石に刻んでその徳を記した。趙州刺史を歴任し、平昌県子となった。聖暦初年、突厥の默啜が侵入し、叡は城を守って抵抗したが、虜の攻撃はますます激しくなった。長史唐波若は陥落寸前と見て、すぐに虜と通じた。叡はこれを察知したが、力で制することができず、自ら首を吊った。死に切れず、虜に捕らえられ、降伏を説いて諸県に諭させられたが、応じず、殺された。初め、虜が来た時、叡に計略を進める者があった、「突厥は蜂のごとく鋭く、向かうところ完きものなく、公は抗しがたく、しばらく降伏すべきです」。答えて言った、「私は刺史である。戦わずして降るのは、罪が大きい」。武后は嘆き惜しみ、冬官尚書を追贈し、節と諡した。詔があり波若を誅し、その家を没収した。制を下して叡の忠節と波若の賊への臣従を天下に知らしめた。

叡の子、仲舒。

子の仲舒は、故訓の学に通じ、明経に擢でられ、相王府文学となり、王に欽重された。開元初め、宋璟・蘇頲が政を執るとき、多く彼に諮問した。時に舍人崔琳は政事に練達し、璟らは彼を礼遇した。常に人に語って曰く、「古事は高仲舒に問い、時事は崔琳に問え、何ぞまた疑わんや」と。ついに太子右庶子に至る。

安金藏。

安金藏は、京兆長安の人。太常の工籍に在った。睿宗が皇嗣たるとき、少府監裴匪躬・中官范雲仙が私に皇嗣を謁した罪に坐し、皆殊死に処せられ、これより公卿は復た見えず、ただ工・優・給使のみが進むことを得た。俄かに皇嗣に異謀有りと誣うる者あり、武后詔して来俊臣に状を問わしむ。左右の者は惨楚を畏れ、服を引かんと欲す。金藏大いに呼びて曰く、「公我が言を信ぜずば、請う心を剖きて皇嗣の反せざるを明らかにせん」と。佩刀を引きて自ら腹を剚ち、腸出でて地に被わり、眩いて仆れた。后聞きて大いに驚き、輿にて禁中に致し、高医に命じて腸を内め、桑の皮を褫ぎてこれを紩ぎ、一夕を閲て蘇生した。后臨み視て嘆じて曰く、「吾子有りて自ら明らかにする能わず、爾が忠に如かず」と。即ち詔して獄を停めしむ。睿宗乃ち安んず。是の時に当たり、朝廷の士大夫翕然としてその誼を称え、自ら及ばずと為す。

神龍初め、母喪に遭い、南闕口に葬り、石墳を営み、昼夜息まざりき。地は本より卬燥なりしに、泉忽ち湧き流れて廬の側に至り、李冬に華有り、犬鹿相い擾う。本道の使盧懷慎其の事を上奏す。詔して閭に闕を表す。景雲の時、右武衛中郎将に遷る。玄宗其の事を史官に属し、右驍衛将軍に擢で、爵は代国公と為す。詔して其の名を泰・華二山の碑に镵して以て栄と為す。卒す。睿宗廟廷に配饗す。大歷中、兵部尚書を贈られ、謚して忠と曰う。子の承恩を以て廬州長史と為す。中和中、又其の遠孫敬則を擢でて太子右諭徳と為す。

王同皎。

王同皎は、相州安陽の人、陳の駙馬都尉王寛の曾孫なり。陳滅亡後、河北に徙る。長安年中、太子の女安定郡主を尚り、典膳郎に拝される。太子は中宗なり。桓彦範ら二張を誅し、同皎を遣わし李湛・李多祚と即ち東宮にて太子を迎え、玄武門に至り諸将を指授せんことを請う。太子拒みて許さず。同皎進みて曰く、「逆豎道に反し、顕に不軌を肆にす。諸将と衙の執事期を刻して之を誅せんとす。須らく殿下の到るを以て衆望を繫がん」と。太子曰く、「上方不豫なり。得無や不可か」と。同皎曰く、「南将相家族を毀ちて以て社稷を安んぜんとす。奈何ぞ之を鼎鑊の内に欲せんや。太子能く自ら出でて之を諭さば、衆乃ち止まん」と。太子猶豫す。同皎即ち扶けて馬上に上せ、従いて玄武門に至り、関を斬って入る。兵長生殿の太后の在所に趨き、環侍して厳かに定まる。因りて易之らを誅せる状を奏す。帝位に復し、右千牛将軍に擢で、瑯邪公に封じ、実封五百戸を食む。主は進められ公主に封ぜられ、同皎を駙馬都尉に拝し、光禄卿に遷す。

神龍後、武三思王室に烝濁す。同皎之を悪み、張仲之・祖延慶・周憬・李悛・冉祖雍と謀り、武后の霊駕発するを須ち、伏弩を以て三思を射殺せんとす。会に播州司兵参軍宋之愻が外妹を以て延慶に妻せんとし、延慶辞す。之愻固く請う。乃ち昏を成す。延慶心之に厚く、復た疑わず。故に之愻の子曇其の実を得る。之愻の兄之問嘗て仲之の家に舍し、亦其の謀を得たり。曇をして密かに三思に語らしむ。三思悛を遣わし急変を上せしめ、且つ同皎兵を擁し闕下にて皇后を廃せんと欲すと言わしむ。帝殊に曉らず、大いに怒り、同皎を都亭驛にて斬り、其の家を籍す。同皎将に死せんとし、神色自ら如し。仲之・延慶皆死す。憬比幹廟に遁入り自剄す。将に死せんとして、人に謂ひて曰く、「比幹は古の忠臣、神にして聡明なり。其れ我を知らんや。后・三思朝を乱し、忠良を虐害す。滅亡久からず。吾が頭を国門に幹し、其の敗るるを見よ」と。憬は寿春の人。後、太子重俊三思を誅す。天下共に同皎の見及ばざるを傷む。睿宗立ち、詔して官爵を復し、謚して忠壮と曰う。祖雍・悛らを誅す。

先だって、許州司戸参軍燕欽融再び上書し韋后の政を擅にするを斥け、且つ逆節已に萌せりとす。后怒り、中宗を勧めて廷に召し至らしめ、撲殺せしむ。宗楚客復た私に衛士に令し極力せしむ。故に死す。又博陵の人郎岌亦た后及び楚客の乱るるを表し、誅せらる。是に至り、俱に諫議大夫を贈り、礼を備えて改葬し、欽融に一子に官を賜う。

同皎の子繇は永穆公主を尚り、子潜を生む。字は弘志。生まれて三日、緋衣・銀魚を賜う。幼より荘重にして、児の弄びを喜ばず。帝の外孫を以て、千牛に補せられ、復た公主を尚ばんと選ばるるも固く辞す。元和年中累擢して将作監に至る。吏或いは名を北軍に籍するも、輒ち驕墯して事を為さず。潜悉く之を奏して罷めしむ。故に戒めずして弁ず。監に公食無く、而して息銭旧より皆私有す。潜に至り、取りて以て食を具えしむ。遂に故事と為る。

散騎常侍さんきじょうじに遷り、涇原節度使に拝される。憲宗と対し、大いに悦びて曰く、「吾汝が善く職するを知る。我自ら之を用いん」と。潜鎮に至り、壁壘を繕い、粟を積み、高屋を構えて兵を偫え、利にして厳なり。遂に師を引き原州より硤石を逾え、虜将一人を取り、烽候を斥け、帰化・潘原の三壘を築く。原州を復た城せんことを請う。度支議を沮む。故に原州復た陷る。穆宗即位し、瑯邪郡公に封じ、更に荊南を節度す。吏の悪を疏し、之を里閭に榜し、尤も縱なる者を殺す。射を三等に分ち、士に之を習わしめ、能わざる者は罷む。故に冗軍無し。大和初め、検校尚書左僕射。官に卒す。司空しくうを贈られる。

呉保安。

呉保安、字は永固、魏州従の人。気宇挺特にして俗ならず。睿宗の時、姚・巂の蛮叛く。李蒙を姚州都督に拝す。宰相郭元振弟の子仲翔を蒙に托す。蒙表して判官と為す。時に保安義安尉を罷め、調を得ず。仲翔が里人なるを以て、介せずして見えて曰く、「願わくは子に因りて李将軍に事えしむることを得んや」と。仲翔雅故無きも、其の窮を哀しみ、力を尽くして之を薦む。蒙表して掌書記と為す。保安後に行く。蒙已に深入し、蛮と戦いて没す。仲翔執えらる。蛮の華人を俘うるや、必ず厚く財を責め、乃ち肯て贖う。仲翔貴胄なるを聞き、千縑を求む。会に元振物故す。保安巂州に留まり、仲翔を贖わんと営む。苦しくして資無し。乃ち力を尽くして貨を居くること十年、縑七百を得る。妻子は遂州に客す。間関して保安の所在を求め、姚州に困して進む能わず。都督楊安居状を知り、其の故を異とし、資を以て行かしめ、保安を得て求む。引いて語りて曰く、「子家を棄て朋友の患に急うること是に至るか。吾官の資を貣いて子の乏しきを助けんことを請う」と。保安大いに喜び、即ち縑を蛮に委ね、仲翔を得て以て帰る。初め、仲翔蛮に奴とせられ、三たび逃げ三たび獲らる。乃ち転じて遠酋に鬻がる。酋之を厳遇し、昼は役し夜は囚う。没すること凡そ十五年にして乃ち還る。

安居亦は丞相の故吏であり、保安の誼を嘉して、仲翔に厚く礼し、衣服や蓄えの品を贈り、檄を以て近県の尉を領せしめた。久しくして蔚州録事参軍に調じ、優れた考課により代州戸曹に遷った。母の喪に服し、喪が明けて、嘆息して曰く、「吾は呉公に頼りて生かされ、死を免れた。今親は亡し、その志を行うべし」と。乃ち保安を求めし。時に、何安は彭山丞として客死し、その妻もまた没し、喪を帰すことができなかった。仲翔は縗絰を服し、その骨を嚢に収め、徒跣してこれを背負い、魏州に帰葬し、墓側に廬して三年にして去った。後に嵐州長史となり、保安の子を迎え、娶らせて官を譲った。

李憕

李憕は、并州汶水の人である。或いはその先祖は興聖皇帝より出づと云うも、譜系は疎く晦んで、伝わらない。父の希倩は、神龍初年に右台監察御史となった。憕は幼少より秀敏で、明経に挙げられ高第となり、成安尉を授かった。張説が宰相を罷められ、相州刺史となった時、座に善相の者がおり、説は官属の後、誰が貴くなるかを遍く問うた。相工は憕及び臨河尉の鄭巖を指した。説は娘を巖に嫁がせ、甥の娘を憕に嫁がせた。母の喪に遭い免官となる。武功尉より政績特に優れたるを以て主簿に遷る。説が并州に在った時、憕を引き幕府に置いた。及んで執政すると、長安尉となった。宇文融が天下の田を括るに当たり、官属を高く選び、多く賢才を招いてその権柄を重くせんとした。表して憕を仮に監察御史とし、分道して検核せしむ。課績により真に御史を拝した。小さな累により坐し、下って晋陽令となる。三遷して給事中となる。治に力を尽くし、事を任せる称あり、簿最を明らかにし、下りて敢えて欺く者なし。李林甫の意に失い、出て河南少尹となる。尹の蕭炅は内に権に倚り、法を曲げ私を殖やした。憕はその謬りを裁抑し、吏下これに頼った。道士の孫甑生は左道を以て幸いし、祠の事に托して嵩山・少室の間を往来し、請託して吏治を乱したが、憕は応ぜず、故に炅を挟んで朝廷に讒した。天宝初年、清河太守を除く。美政を挙げられ、広陵長史に遷り、民は祠を立てて賽祝し、歳時絶えず。賊を捕らえるに負い、彭城太守に徙る。酒泉県侯に封ぜられる。連ねて襄陽・河東に徙り、並びに采訪処置使を兼ねる。入って京兆尹となる。楊国忠これを悪み、光禄卿・東京留守に改む。

安禄山反す。玄宗は封常清を遣わし東京に兵を募らしむ。憕は留台御史中丞の盧弈・河南尹の達奚珣と城塁を繕い、士卒を綏撫激励し、将に賊の西鋒を遏んとす。帝聞き、礼部尚書に擢ぐ。禄山河を渡る。号令厳密にして、候詗も知ること能わず。已に陳留・滎陽けいようを陥し、張介然・崔詖を殺し、数日を経ずして城下に迫る。常清の兵は皆白徒にして、戦い勝たず、輒ち北す。憕は残士数百を収め、断弦折矢を裒めて堅守す。人闘いに堪えず。憕、弈に約す、「吾曹は国より重寄を荷い、力敵せずと雖も、官に死すべし」と。部校は皆夜縋りて去る。憕は留守府に坐し、弈は台を守る。城陥つ。禄山鼓して入り、数千人を殺し、矢は闕門に著く。憕・弈及び官属の蔣清を執り、これを害す。詔有りて司徒を贈り、諡して忠懿と曰う。河・洛平らぎ、再び太尉を贈り、一子に五品官を拝す。

憕は『左氏春秋』に通じ、伊川に産を殖やすこと頗る多く、膏腴の地を占め、都より闕口に至るまで、畑や別荘が望みに満ち、時に「地癖」と謂う。巖は仕えて少府監に終わり、産利は憕に等し。憕に十余子あり、江・涵・沨・瀛らは同じく害に遇い、唯だ源・彭のみ脱す。

憕の子 源

源は八歳にして家覆り、俘虜とされて奴隷となり、民間に転々とする。史朝義の敗れたるに及び、故吏で洛陽にて源を識る者が贖い出し、その宗属に帰す。代宗聞き、河南府参軍を授け、司農主簿に遷す。父が賊の手に死せるを以て、常に悲憤し、仕えず娶らず、酒葷を絶つ。恵林仏祠は、憕の旧別荘なり。源は祠に依りて居り、戸を閉ざし日に一食す。祠殿はその先祖の寝所なり。過ぐる毎に必ず趨り、未だ階を践まず。自ら墓を営み終の制とし、時に時に埏中に偃臥す。

長慶初年、年八十なり。御史中丞の李徳裕、表を上りて源を薦め、曰く、「賈誼が称するに、守圉捍敵の臣は、城郭封疆に死す、と。天宝の時、士は節を伏すこと稀なり。逆羯始めて興り、符組を委ね城郭を棄つるを恥とせず。而るに憕は義を約して同列とし、位を守ること自如たり。刃に抵り就きて終わる。臣節の光は憕に始まる。而して源は天与の至孝、禄仕の心を絶つこと五十余年、常に沈黙を守り、理は深要に契う。一辞開析すれば、百慮洗然たり。この真節を抱きて清世に棄つ。臣窃に陛下の為にこれを惜しむ」と。穆宗詔を下して曰く、「昔、盗幽陵より起り、河・洛を振蕩す。贈太尉憕は難に処りて首に居り、正色を以て死に就く。両河風を聞き、再び危壁を固うす。殊節卓然たり、今に到るもこれを称す。源は曾参の行い・巣父の操あり、泊然として営み無く、この高年に汔る。夫れ忠を褒むるは、臣節を勧むる所以なり。孝を旌すは、人倫を激す所以なり。澆浮を鎮むるは、義を尚ぶるに如くは莫し。風俗を厚くするは、老を尊ぶるに如くは莫し。この四者を挙ぐるは、大いに時に儆しむるなり。源を以て諫議大夫を守らしめ、緋魚袋を賜うべし」と。河南尹は官を遣わし敦諭して上道せしむ。帝自ら使者を遣わし詔書袍笏を持たせて即時に賜い、また絹二百匹を賜う。源頓首して詔を受け、使者に謂いて曰く、「伏して疾み年老い、趨拝に堪えず」と。即ち附表して謝し、辞吐哀愨にして、一も受けず。尋いで卒す。敬宗の時、憕の孫を擢げて河南兵曹参軍となす。

憕の子 彭

彭は明経の第に擢げられる。天宝中、名臣の子にして用いるべき者を選び、咸寧丞より右補闕に遷る。天子に従いしょくに入る。後、憕より数年して卒す。孫に景譲・景荘・景温あり、別に伝す。

武德功臣十六人、貞観功臣五十三人、至徳功臣二百六十五人。徳宗即位し、武徳以来の宰相及び実封功臣の子孫を録し、一子に正員官を賜う。史館勲名特に高き者九十二人を考し、三等を以て条奏す。第一等はその歳に官を授く。第二等は次年に授く。第三等は子孫数たび朝廷に訟う。詔有りて差して二等と為し、増して百八十七人に至る。毎等、武徳以来の宰相を首とし、功臣これに次ぎ、至徳以来の将相またこれに次ぐ。大中初、また詔して李峴・王珪・戴冑・馬周・褚遂良・韓瑗・郝処俊・婁師徳・王及善・朱敬則・魏知古・陸象先・張九齢・裴寂・劉文静・張柬之・袁恕己・崔玄暐・桓彦範・劉幽求・郭元振・房琯・李嗣業・張巡・許遠・盧弈・南霽雲・蕭華・張鎬・李勉・張鎰・蕭復・柳渾・賈耽・馬燧・李憕の三十七人の画像を求め、続いて凌煙閣に図る。

司空・太子太傅・知門下省事・梁国公 房玄齢、尚書右僕射・検校侍中・萊国公 杜如晦、太子太保・同中書門下三品・宋国公 蕭瑀

開府儀同三司・同中書門下三品・知政事・上柱国・申国公 高士廉、太子太師・知政事・特進・鄭国公 魏徴、侍中・永寧郡公 王珪、吏部尚書・参豫朝政・道国公 戴冑

中書令、江陵県子岑文本、中書令・兼太子左庶子・検校吏部尚書・高唐県公馬周、侍中・兼太子左庶子・検校吏部礼部民部尚書事・清苑県男劉洎、尚書右僕射・同中書門下三品・河南郡公褚遂良

太子太師・同中書門下三品・燕国公於志寧、尚書右僕射・同中書門下三品・兼太子少傅・北平県公張行成、中書令・行侍中・兼太子少保・蓚県公高季輔

侍中・兼太子賓客・襲潁川県公韓瑗、中書令・兼太子詹事・南陽県侯来済、侍中・兼太子賓客張文瓘、侍中・甑山県公郝処俊

中書侍郎・同中書門下三品・兼太子右庶子・酒泉県公李義琰、内史・河東県侯裴炎、文昌左相・同鳳閣鸞臺三品・温国公蘇良嗣、内史・梁国公狄仁傑

納言・検校并州大都督府長史・天兵軍大総管・隴右諸軍大使・譙県子婁師徳、鳳閣侍郎・同鳳閣鸞臺平章事・石泉県公王方慶、文昌左相・同鳳閣鸞臺三品・襲邢国公王及善

尚書右僕射・兼中書令・知兵部尚書事・斉国公魏元忠、紫微令・梁国公姚崇、正諫大夫・同鳳閣鸞臺平章事朱敬則、尚書左僕射・同中書門下平章事・許国公蘇瓌

吏部尚書・兼侍中・広平郡公宋璟、黄門監・梁国公魏知古、中書侍郎・同中書門下平章事・兗国公陸象先、紫微侍郎・同紫微黄門平章事・許国公蘇頲

中書令・河東県侯張嘉貞、中書侍郎・同中書門下平章事・清水県公李元紘、黄門侍郎・同中書門下平章事・宜陽県子韓休、中書令・始興県伯張九齢

司空・河東郡公裴寂、納言・上柱国・魯国公劉文静

太尉・検校中書令・同中書門下三品・揚州大都督・趙国公長孫無忌、礼部尚書・河間郡王孝恭、尚書右僕射・検校中書令・行太子左衛率・上柱国・衛国公李靖

司空・兼太子太師・英国公李勣、開府儀同三司・鄜州都督・鄂国公尉遅敬徳、左光禄大夫・洛州都督・蒋国公屈突通、陝東道大行臺・吏部尚書・鄖国公殷開山

衛尉卿・夔国公劉弘基、沢州刺史・邳国公長孫順徳、民部尚書・上柱国・莒国公唐倹、右驍衛大将軍・駙馬都尉・譙国公柴紹

右驍衛大将軍・褒国公段志玄、洪州都督・渝国公劉政会、左武候将軍・相州都督・郯国公張公謹、右武衛大将軍・盧国公程知節

左武衛大将軍・上柱国・胡国公秦叔宝、弘文館学士・秘書監・永興県公虞世南、右衛大将軍・兼太子右衛率・工部尚書・武陽県公李大亮、左武衛大将軍・邢国公蘇定方

夏官尚書・同中書門下三品・清辺道行軍総管・耿国公王孝傑、中書令・漢陽郡公張柬之、中書令・博陵郡公崔玄暐、侍中・平陽郡公敬暉

侍中・譙國公桓彥範、中書令・南陽郡公袁恕已、右武衛大將軍・同中書門下三品・韓國公張仁願、尚書左丞相・兼黃門監・徐國公劉幽求、

黃門侍郎・參知機務・脩文館學士・齊國公崔日用、兵部尚書・同中書門下三品・代國公郭元振、尚書左承相・兼中書令・集賢院學士・燕國公張說、紫微侍郎・上柱國・趙國公王琚、

兵部尚書・同中書門下三品・持節朔方軍節度大使・中山郡公王晙、

尚書左僕射・同中書門下平章事・兼河南江淮副元帥・東都留守・冀國公裴冕、文部尚書・同中書門下平章事・清河縣公房琯、門下侍郎・同中書門下平章事・衛國公桂鴻漸、

鎮西北庭行營節度使・開府儀同三司・衛尉卿・兼懷州刺史・虢國公李嗣業、平盧軍節度使・柳城郡太守劉正臣、恒州刺史・衛尉少卿・兼御史中丞顏杲卿、

常山郡太守袁履謙、河南節度副使・左金吾衛將軍・檢校主客郎中・兼御史中丞張巡、睢陽郡太守・兼御史中丞許遠、御史中丞・留臺東都・知武部選盧弈、

睢陽郡太守・特進左金吾衛將軍南霽雲、右第一內史令・延安郡公竇威、將作大匠・判納言・陳國公竇抗、

侍中・兼太子左庶子・江國公陳叔達、納言・觀國公楊恭仁、判吏部尚書・參議朝政・安吉郡公杜淹、中書令・虞國公溫彥博、

中書侍郎・檢校刑部尚書・參知機務崔仁師、中書令・兼檢校太子詹事・上柱國・安國公崔敦禮、戶部尚書・平恩縣公許圉師、兵部尚書・同中書門下三品・浿江道行軍總管任雅相、

度支尚書・同中書門下三品・范陽郡公盧承慶、西臺侍郎・同東西臺三品・兼弘文館學士・楚國公上官儀、右相・廣平郡公劉祥道、左侍極・兼檢校左相・嘉興縣子陸敦信、

文昌左相・同鳳閣鸞臺三品・樂城縣公劉仁軌、荊州大都督府長史・安平郡公李安期、尚書右僕射・同中書門下三品・兼太子賓客・襲道國公戴至德、司列少常伯・太子右中護・兼正諫大夫・同東西臺三品趙仁本、

中書令・趙國公李敬玄、中書令・兼太子左庶子薛元超、中書令・同中書門下三品崔知溫、侍中・同中書門下三品・襲廣平郡公劉齊賢、

納言・樂平縣男王德真、地官尚書・檢校納言・鉅鹿縣男魏玄同、文昌左相・同鳳閣鸞臺三品・特進・輔國大將軍・鄧國公岑長倩、鳳閣侍郎・同鳳閣鸞臺三品・臨淮縣男劉祎之、

納言・博昌縣男韋思謙、地官尚書・同鳳閣鸞臺平章事格輔元、司禮卿・判納言事・渤海縣子歐陽通、內史李昭德、

鸞臺侍郎・同鳳閣鸞臺平章事陸元方、鳳閣侍郎・同鳳閣鸞臺三品杜景佺、尚書右僕射・兼太子賓客・同中書門下三品・鄖國公韋安石、左散騎常侍・同中書門下三品・知東都留守・趙郡公李懷遠

中書令、逍遙公韋嗣立は侍中を守り、同中書門下三品、兼太子右庶子、常山縣男李日知は檢校黃門監、漁陽縣伯盧懷慎は中書令、左丞相、兼侍中、安陽郡公源乾曜。

黃門侍郎、同紫微黃門平章事、魏縣侯杜暹、侍中、趙城侯裴耀卿、左武衛大將軍、開府儀同三司、雀安王神通、特進、太常卿、江夏王道宗。

荊州都督、周國公武士、右屯衛大將軍、檢校晉州都督總管、譙國公竇琮、少府監、葛國公劉義節、右光祿大夫、羅國公張平高。

洛州都督、右衛大將軍、酂國公竇軌、夔州都督、息國公張長愻、金紫光祿大夫、夷國公李子和、左監門衛大將軍、檢校右武候將軍、榮國公樊興。

左監門衛大將軍、巢國公錢九隴、右驍衛大將軍、歸國公安興貴、右武衛大將軍、申國公安脩仁、殿中監、郢國公宇文士及。

右武衛大將軍、沔陽郡公公孫武達、荊州都督、懷寧郡公杜君綽、右驍衛將軍、濮國公龐卿惲、代州都督、同安郡公鄭仁泰。

右翊衛將軍、遂安郡公李安遠、幽州都督、歷陽郡公獨孤彥雲、始州刺史、左屯衛大將軍、襄武郡公劉師立、右威衛大將軍、濟東郡公李孟嘗。

右監門衛大將軍、河南縣公元仲文、右監門衛將軍、廬陵郡公秦師行、左領軍大將軍、新興公馬三寶、右衛大將軍、駙馬都尉、畢國公阿史那社爾。

鎮軍大將軍、虢國公張士貴、左衛大將軍、瑯邪郡公牛進達、鎮軍大將軍、嘉州郡公周護、陜州刺史、天水郡公丘行恭、潭州都督、吳興郡公沈叔安。

散騎常侍、豐城縣男姚思廉。

太子少師、同中書門下三品、特進、朔方道行軍大總管、宋國公唐休璟、左羽林軍大將軍、遼陽郡王李多祚、左領軍大將軍、趙國公李湛、刑部尚書、太子賓客、魏國公楊元琰。

殿中監、兼知總監、汝南郡公翟無言、冠軍大將軍、左羽林軍大將軍、光祿卿、天水縣公趙承恩、將作大匠裴思諒、右羽林軍將軍、弘農郡公楊執一。

左衛將軍、河東郡公薛思行、光祿卿、駙馬都尉、瑯邪郡公王同皎、中書令、越國公鐘紹京、太僕卿、立節郡王薛崇簡。

右金吾衛大將軍、涼國公李延昌、太子中允同正、冀國公馮道力、少府監、趙國公崔諤之、左監門衛中候、光祿卿、申國公許輔乾。

左金吾大將軍、鄧國公張暐、朔方道行軍大總管、左羽林軍大將軍、平陽郡公薛訥、河南副元帥、太尉兼侍中、臨淮郡王李光弼、河東節度副大使、守司空、兼兵部尚書、霍國公王思禮。

左相・豳国公韋見素、太保・韓国公苗晉卿、中書令・趙国公崔圓、

太原節度使・検校尚書左僕射・同中書門下平章事・金城郡王辛雲京、河西隴右副元帥・兵部尚書・同中書門下平章事・涼国公李抱玉、太子太師・検校尚書右僕射・知省事・信都郡王田神功、

四鎮北庭涇原節度使・検校尚書左僕射・知省事・扶風郡王馬璘、左羽林軍大將軍・検校戸部尚書・兼御史大夫薛景仙、右散騎常侍・検校礼部尚書・兼御史大夫尚衡、

太原尹・兼御史大夫・北都留守・河東節度副大使・南陽郡公鄧景山、河東節度副使・兼雁門郡太守・光禄卿賈循、礼部尚書・東京留守・酒泉県侯李憕、

東平郡太守姚訚、右第二、

盧弈、

盧弈は、黄門監盧懷慎の末子である。眉目はあらあらしく、頤が豊かで、謹厳寡欲、細やかに自らを修めた。兄の盧奐と名声は相上下したが、剛毅さはこれを超えていた。天宝初めに鄠県令となり、治める所は常に最上とされ、功を積んで給事中に抜擢され、御史中丞に拝された。盧懷慎・盧奐及び盧弈と、三人がその官に居り、清節は彼らに似て、時にその美を伝えた。まもなく東都の留台となり、武部選を兼ねて知った。

安禄山が東都を陥落させると、官吏は逃亡散逸した。盧弈は先に妻子を遣わし、官印を懐かせて間道より京師へ走らせ、自らは朝服を着て留台に坐した。捕らえられ、殺されようとした時、直ちに禄山の罪を数え上げ、ゆるりと賊徒を顧みて言うには、「人臣たる者は逆順を識るべきである。我は失節を蹈まず、死して何の恨みがあろうか」と。見る者は恐懼した。盧弈は刑に臨み、西に向かって再拝して辞し、賊を罵るのに口を空しゅうせず、逆党は顔色を変えた。粛宗は詔して礼部尚書を追贈し、有司に諡を下議させた。時に、洛陽が亡んだのは、兵を操る者がその咎を負うべきで、執法の吏は去ってもよいのに、身を寇仇に委ねて死したのは誰を怨むというのか、という意見があった。博士の獨孤及が言うには、「荀息は晋において身を殺して、その言を食らわず。玄冥はその官に勤めて水死し、位を守って躬を忘れず。伯姫は傅姆を待って火死し、礼を先にして身を後にす。彼らの死した日は、皆事に補うところ無し。されば禄山の乱は裏・丕より大なり。盧弈の廉察の任は、玄冥の官より切なり。分命の系る所、傅姆に啻ならず。逆党の兵威は、水火より烈し。この時に当たりて、能く干戈を執る者と其の戮力を同じくし、引きて来らず、推して去らず、白刃の下に操を全うするは、夫れ安きを懐いて偷生する者と其の風を同じくするに与にせんや。諡して貞烈と曰うことを請う」と。詔して可とした。

子の盧杞は、別に伝がある。盧杞の子は盧元輔。

盧弈の孫 盧元輔

元輔は字を子望といい、若くして清行をもって聞こえた。進士に擢でられ、崇文校書郎を補した。盧杞が死ぬと、徳宗はこれを忘れず、元輔を左拾遺に拝した。杭・常・絳の三州刺史を歴任し、考課は常に最上となり、召されて吏部郎中を授けられ、累進して兵部侍郎に至り、華州刺史となり、卒した。

元輔は端静介正にして、能くその祖を紹ぐことができた。故に顕要な劇務を歴任したが、人々は盧杞の悪を累としなかったという。

張介然

張介然は、猗氏の人で、本名は六朗といった。性質は慎み深く誠実で、長じて計画に長じた。初めは河・隴の支郡太守となった。王忠嗣・皇甫惟明・哥舒翰が相次いで節度使を領し、皆彼を営田・支度等使に署した。入朝して奏上し、帝意に称い、賜与は豊かであった。介然は啓上して言うには、「臣の位は三品で、棨戟を与えられるべきです。もし京師に列ねるならば、富貴ではあっても郷人に知られません。故郷に列戟を得たいと願います」と。玄宗はこれを許し、別に京師の邸宅の門に戟を賜い、なお絹五百匹を賜って、閭里の長老を宴した。本郷に列戟を得たのは、介然から始まった。哥舒翰は彼を少府監に推薦し、衛尉卿を歴任した。

安禄山が反すると、河南節度采訪使を授けられ、陳留を守った。陳留は水陸の要衝に拠り、居民は繁殖多く、太平が久しく、戦を知らなかった。介然が屯したこと三日と経たぬうちに、賊は既に黄河を渡った。車騎は蹂躙奔騰し、煙塵は数十里に漫り、日は色を奪われた。兵士は鉦鼓の声を聞くと、皆気力を失い甲を授けることができなかった。凡そ十六日で、城は陥落した。初め、賊の首領を購う詔があり、安慶宗を誅した状況を暴いていた。禄山が陳留に入り、詔書を見て、胸を打って大哭し言うには、「我は何の罪ぞ!我が子もまた何の罪ぞ、乃ちこれを殺すとは!」と。即ち大いに恚憤し、陳留の降伏者一万人を殺して憤りを晴らし、血流は川を成し、介然を軍門で斬った。偽将の李廷望を以て節度使とし、陳留を守らせた。

禄山は既に陳留を陥とし、鼓を鳴らして進軍し、敢えて抗う者なし。一夜を経て滎陽を攻め、太守崔無詖は衆を率いて城に登り防ぐも、軍の騒ぐ声を聞き、矢が雨の如く降り注ぎ、無詖と官属は皆賊の手に死す。偽将武令珣をしてここを守らしむ。

無詖

無詖は、もと韋后の外戚、博陵の旧望なり。初め、無詖は蕭至忠の女を娶る。至忠敗れて、貶せらる。久しくして益州司馬となる。平素より楊國忠と善し、國忠用いられて事を執るや、少府監に引き上げ、滎陽を守る。詔ありて禮部尚書を贈られ、謚して毅勇と曰う。