新唐書

巻一百九十 列傳第一百十五 三劉成杜鍾張王

劉建鋒

劉建鋒、字は銳端、蔡州朗山の人なり。忠武軍の部將となり、孫儒・馬殷と共に秦宗權に事へる。儒の敗れたるに、建鋒・殷は散卒を収め、轉た江西を寇し、衆七千あり、建鋒を主と推し、殷を前鋒とし、張佶を謀主とし、洪・虔數州を略し、衆遂に十餘萬となる。乾寧元年、潭州を取り、武安節度使鄧處訥を殺し、自ら節度留後と稱し、表を京師に奉り、詔して即ち檢校尚書左僕射・武安軍節度使を拜す。

建鋒既に志を得て、即ち酒を嗜み事をせず。新息の小史陳贍、建鋒の御者たりしが、妻美にして艷なり、乃ち之を私す。贍怒り、袖に鐵撾を挾みて建鋒を撃ち死せしめ、其の喉を斷つ。衆張佶を推して帥とす、佶固より辭す、馬佶の左髀を踶き傷つけ、令を下して曰く「吾れ而が主に非ず」と。時に馬殷邵州を攻めて未だ克たず、是に於て人を遣はし殷を迎へ、贍を市に磔く。

馬殷

殷至るに、佶坐して其の謁を受けしが、既にして將吏を率ひ殷を推して留後とす。詔して即ち檢校太傅・潭州刺史を除く。殷、成汭・楊行密・劉隱皆士を養ひて王を圖るを見て、其の屬高郁に謂ひて曰く「吾れ重幣を以て四鄰に奉りて吾が境を固めんと欲す、計安くに出づる」と。郁曰く「荊南暗弱にして、焉んぞ我を患ふることを得ん。淮南は我が讎なり、固より吾を援けず。公若し邸を京師に置き、天子に職貢を歸し、王人來りて命を錫はば、四方畏服し、然る後に兵を按じて不廷を討たば、霸業成るべし」と。殷悟り、厚く宣武朱全忠を結びて以て朝に請ふ、乃ち湖南節度兵馬留後を拜す。郁又殷を教へて鉛鐵錢を鑄し、十を以て銅錢一に當てしむ。民自ら山を摘み、茗を收めて算し、高戶を募りて邸閣を置き茗を居むることを得しめ、「八床主人」と號す。歲入算數十萬、用度遂に饒なり。

是に於て邵・衡・永・道・郴・連の六州を收め、桂州を進攻し、留後劉士政を執る。諸城風を望み奔潰し、盡く昭・賀・梧・象・柳・宜・蒙等の州を得。又容管を攻め、寧遠節度使龐巨曦を執り、其の衆及び貲を虜ふ。昭宗鳳翔に在り、難方に亟し、中人を間道に遣はし朱書を賜ひ、密詔して殷をして楊行密と汴州を攻めしむ、殷兵遂に出でず。

殷の弟賨、沈勇にして書史を知り、孫儒に從ひて盜を爲し、晚く楊行密に事へて黑雲軍使と爲る。錢镠と戰ひ、數功有り。夜臥するに、常に光怪有り。行密之を知りて曰く「吾れ今汝を兄に歸す」と。辭して曰く「賨一敗卒、公死せずして待つ。湖南宇下に在り、朝に亡び夕に至らんとす、但だ誼公を捨つるに忍びず」と。行密具に賫を以て遣はして曰く「爾還り、兄と共に湘・楚を食らへ、然らば何を以て我に報ぜん」と。答へて曰く「願はくは二國の好を通じ、商賈をして相資はしめん」と。行密喜ぶ。既に至りて、殷表して以て自副とす。每に殷を勸めて行密と連和せしむ、殷全忠を畏れ、卒に克たず。

殷と建鋒は同里の人、凡そ宗權の黨散じて盜を爲す者は、皆酷烈を以て相矜り、時に通名して「蔡賊」と云ふ。

成汭

成汭、青州の人。少にして行ひ無く、酒を使ひ人を殺し、亡れて浮屠と爲る。後蔡賊の中に入り、賊帥の假子と爲り、姓名を更めて郭禹と爲す。江陵に戍すべかりしに、亡れて盜と爲り、火門山を保つ。後荊南節度使陳儒に詣りて降り、裨校に署す。久しくして、張瑰儒を囚ふ、禹の凶慓なるを以て、之を殺さんと欲す。禹千人を結びて峽に奔り入る、夜蛇其の所を環く、祝して曰く「負ふ所あるは、死生唯だ命に在り」と。既にして蛇亡ぶ。禹乃ち歸州を襲ひ、之に入り、自ら刺史と稱す。流亡を招き還し、士伍を訓へ、勝兵三千を得、秦宗權の故將許存禹に奔る、禹青州の剽卒三百を以て之に畀へ、清江に於て荊南部將牟權を討たしむ、權を禽へ、其の衆を取る。禹又其の將王建肇を破り、建肇黔州に奔る。昭宗禹を拜して荊南節度留後と爲し、始めて名を汭と改め、故姓に復す。

宗權の餘黨常厚夔州を攻む。是の時、西川節度使王建將を遣はし忠州に屯し、夔州刺史毛湘と唇齒を相し、厚白帝に屯す。汭存を率ひ二軍の間を乘じて之を攻む、二軍人をして汭を誶辱せしむ、韓楚言尤も劇し、汭之を恥じて曰く「賊を禽ふること有らば、當に支解して以て逞しむべし」と。會ふに存夜營を斬りて厚を襲ひ、之を破る、厚萬州に奔り、刺史張造に拒まれて、綿州に走る。存夔州に入る。楚言の妻李夫に語りて曰く「君常に軍を辱しめ、且つ支解せらる、前に死するに如かず」と。楚言決せず。李刀を席下に礪き、方に共に食するに、復之に語る、夫曰く「未だ知る可からず」と。李刀を取つて其の首を斷ち、併せて三子を殺し、乃ち自ら剄す。汭其の烈を畏れ、禮を以て之を葬り、石を刻みて表して烈女と曰ふ。即ち司馬劉昌美をして夔を守らしめ、存を率ひ江を溯りて雲安を略し、建の將皆奔る。存兵を渝州に按じ、盡く江に瀕する州縣を下す。

時に王建肇黔州を據りて自ら守る、帝建肇を以て武泰軍節度使と爲す。汭將趙武を遣はし存を率ひて之を攻む、建肇走る、汭乃ち武を以て留後と爲し、存を萬州刺史と爲す。存志を得ず、汭客を遣はして之を伺はしむ、方に球を蹴る、汭曰く「存必ず叛かん、自ら其の力を試むるなり」と。將を遣はして之を襲はしむ。存夜左右を率ひて堞を超えて走り、王建肇と皆王建に降る。

汭頗る吏治を知り、嘗て囚を錄し、盡く其の情にす。墊江の賊陰に令を殺す、其の主簿小史の之を導くを疑ひ、訊して承はらず。刑に臨みて曰く「我將に地下に訟せん」と。月を逾へて、吏暴死す。汭聞き、益々獄に詳なり。始めて州を治むるに、民版幾ばくも無し、再期せずして、自ら占むる者萬餘。帝數詔して石を刻み功を頌せしむ、輒ち固く辭す。時に鎮國節度使韓建も亦治を以て顯はる、號して「北韓南郭」と曰ふ。汭進み累ね檢校太尉・中書令・上谷郡王と爲る。雲安の榷鹽、本鹽鐵に隷す、汭擅に之を取り、故に能く兵五萬を畜ふ。初め賀隱を任ず、隱は賢者なり、故に汭の舉ぐる所少しく過ち有り。晚く妻の父を得て之を任じ、諸子を譖害す、汭皆手を下して之を殺し、嗣を絕つに至る。澧・朗本荊南の隷州、雷滿に據らる、別に節度と爲る、汭數之を請ふ、宰相徐彥若許さず。及び彥若罷め、江陵に道す、汭怨言を出す、彥若曰く「公一面を專にし、自ら桓・文を視る、一賊を取ること能はずして、朝廷を怨むるか」と。汭大いに慚づ。晚く術士を喜び、藥を餌ひて濱り死して蘇る。

天復三年、帝は淮南節度使楊行密に詔して鄂州を囲ませた。朱全忠は韓を遣わしてこれを救い、汭と馬殷・雷彥威に掎角の勢いをとらせようと示唆した。汭はみずから将兵して出陣したが、配下は汭が行密に抗し得ぬことを知り、敢えて諫める者なく、ただ親吏の楊師厚のみがこれを勧めた。汭は巨大な艦船を造り、堂々たる設備を整え、公安に至ったところ、占いが不吉であったため、帰還しようとした。師厚が言うには、「公は全軍を挙げて出陣し、中途で帰還されれば、いかにして百姓に顔向けなさるおつもりか」。汭はそこで進軍した。彥威は密かに軍を動かして江陵を攻略し、汭の諸将は私利を念じ、闘志がなかった。淮南の将李神福が沙橋に陣を構え、汭の軍を望見して言うには、「戦艦は盛んではあるが、首尾が断絶している。これを取ることができよう」。君山において汭を撃ち、これを破り、その船に火を放つと、兵衆は大いに潰走し、汭は江に身を投じて死んだ。士民は皆彥威に掠奪された。韓は走って帰還した。王建はついに夔・施・忠・万の四州を取った。天祐年間、全忠は汭が国事のために死んだことを上表し、杜洪とともに皆廟を立てるよう請うた。

杜洪

杜洪は鄂州の人である。里の俳優であった。乾符の末、黄巢が江南で乱を起こすと、永興の民は皆逃亡して盗賊となった。刺史の崔紹は民のうち強壮な者を募って土団軍とし、賊は侵すことを敢えず、ここにおいて人は皆兵を知るようになった。杭州刺史の路審中は董昌に拒まれて、黄州に客として逃れた。中和の末、紹の卒去を聞き、兵士三千を募って鄂州に入り守備した。洪は州将として功があり、また岳州刺史を逐ってその地に居た。光啓二年、安陸の賊周通が兵を率いて審中を攻めると、審中は逃亡し去り、洪は虚に乗じて鄂に入り、自ら節度留後を称し、僖宗はただちに本軍節度使に任じた。

この時、永興の民の呉討が黄州を占拠し、駱殷が永興を占拠した。二人はともに土団に属していた者で、故に軍は甚だしく掠奪を行った。洪は節度使の地位を得たが、朱全忠に附き、東南の貢物の通路を絶った。乾寧の初め、みずから将兵して討を撃ち、淮南に援軍を乞うた。楊行密は朱延寿を遣わしてこれを助けた。洪は軍を引き返し、延寿は黄州を抜き、討を捕らえて京師に献上した。駱殷は永興を棄てて逃走し、行密はその地を取った。洪は駱殷を得て、これを心腹とし、隙を見て永興を取り守った。

全忠がちょうど鳳翔を包囲していた時、昭宗は使者を東に出したが、武昌を通る道で、洪は皆これを殺した。時に行密が光州を攻略し、詔して洪に出兵させ、忠義の趙匡凝・武安の馬殷とともに安州を襲撃させた。行密は李神福・劉存に舟師一万人を率いさせて洪を討たせた。駱殷は永興を棄てて逃走し、県民の方詔が命を待って守った。神福はすでに詔を得て大いに喜び、永興は壮県であり、糧秣の供給の頼みとする所であるから、これを得れば鄂の半分を得たも同然であるとして、進軍して鄂州を包囲した。

洪は城に拠り、汴に救援を請うた。全忠は兵五万を率いて霍丘に営した。行密がこれを防ぐと、汴兵は利あらず、引き返し、別将の呉章に兵三千をもって包囲を解かせたが、神福が迎え撃ってこれを破った。時に全忠はちょうど河東軍と激戦しており、故に洪を救うことができなかった。洪はそこで馬殷に助力を求めたが、殷は答えなかった。洪は策尽き、再び全忠に走り、全忠は曹延祚を遣わして呉章の兵一万三千と合わせて洪を救わせた。淮南の将劉存は堀を掘り城に迫った。殷は洪のために謀って言うには、「淮兵は深く入り込み、永興に頼って補給している。もし奇兵をもってこれを取れば、賊は戦わずして潰れよう」。洪は精兵をもって汴人と合流し、間道を通って永興を襲い、三十里で宿営した。存は方詔・苗璘をもってこれに当たらせた。汴の逃亡兵卒が淮の陣営に走り、軍の虚実を言うには、「鄆軍は懦弱で、取ることができるが、開道軍は当たることができない」。璘は言うには、「強きを殺せば弱きは挫けよう」。そこで自ら開道軍を撃ち、これを破り、汴の兵士三百人を捕らえ、城下で示衆した。洪の軍の士気は沮喪し、存は弁士を遣わして城に臨んで説得させたが、洪は汴が今強盛であることを恃み、降伏する意思がなかった。ある者が存に急いで援兵を撃つよう勧めると、城は自ずから陥ちるであろうと言った。存は言うには、「これを撃てば、賊は城内に入り、城は堅固となる。もしその遁走を許せば、城は取ることができよう」。間もなく汴軍は逃走し、この日城は陥落し、洪及び曹延祚を捕らえ、残党をことごとく斬った。行密は洪を見て責めて言うには、「お前は逆賊とともに主君をしいし、孤と仇敵となった。わが軍が帰還すると、また賊の後詰めとなった。今どうなったか」。洪は謝して言うには、「朱公に背くに忍びません」。延祚とともに揚州市で斬られた。劉存をもって鄂州を守らせた。行密が死ぬと、馬殷はついにその地を取った。

鍾傳

鍾傳は洪州高安の人である。荷物を売り歩くことを生業とし、ある者が盗賊となれば必ず大いに顕れるだろうと勧めた。時に王仙芝が猖獗し、江南は大いに乱れ、衆は傳を推して長とし、そこで夷獠を糾合し、山に依って堡塁を築き、一万人に至り、自ら高安鎮撫使を称した。仙芝が柳彥璋を遣わして撫州を攻略させたが、守ることができず、傳が入ってこれを占拠し、朝廷に言上すると、詔してただちに刺史に任じた。中和二年、江西観察使高茂卿を逐い、ついに洪州を有した。撫民の危全諷は傳の去った隙に乗じ、密かに州を窃取して叛き、弟の仔昌に信州を占拠させた。僖宗は傳を江西団練使に抜擢し、間もなく鎮南節度使・検校太保・中書令に任じ、潁川郡王に爵し、また南平に移した。

傳は兵を率いて撫州を包囲した。天火がその城を焼き、士民は騒ぎ驚いた。諸将は急攻を請うたが、傳は言うには、「人の危険に乗ずるは、よろしからず」。そこで祝祷して言うには、「全諷の罪であって、民を害するものではない」。火はただちに止んだ。全諷はこれを聞き、謝罪して命を聴き、娘を傳の子匡時に嫁がせた。傳は匡時を袁州刺史として馬殷を撃たせた。また彭玕を吉州刺史とした。玕は健将であり、傳はこれを重んじて頼みとした。

広明の後、州県は郷貢を行わなかったが、ただ傳のみが毎年士を推薦し、郷飲酒の礼を行い、官属を率いて臨観し、旅装の資を与えた。故に士は千里を遠しとせず傳の府に走った。傳は若い頃射猟をし、酔って虎に遇い、これと闘い、虎はその肩を搏ったが、傳もまた虎を捉えて放さず、人が来て虎を斬り、その後免れた。貴くなってからこれを悔い、諸子に戒めて言うには、「士が世に処するには、智と謀を尚ぶべきで、わが暴虎のまねをしてはならない」。そこで虎と搏つ様子を描いて子孫に示した。凡そ軍を出して攻戦するには、必ず仏祠に祈祷し、餌餅を積み重ねて犀や象とし、高さ数尋にした。晩節は重い徴収を行い、商人はその貨物を棄てて去るに至った。天祐三年に卒去した。

匡時は自立して節度観察留後となった。次子の匡範は江州刺史であったが、兄が立ったことを怨み、州を率いて淮南に附き、そこで兄が汴人と結んで揚州を図っていると述べた。楊渥は秦裴に匡時を攻めさせ、洪州を包囲した。匡時は城を守って出ず、凡そ三ヶ月、城は陥落し、淮軍は大いに掠奪して三日で止み、匡時及び司馬の陳象を捕らえて揚州に帰した。渥が厳しく責めると、匡時は頓首して死を請うた。渥は哀れんでこれを赦し、象を市中で斬った。

彭玕はすでに援けを失い、厚く馬殷と結び、かつ虚実を窺った。使者が帰還して言うには、「殷の将校は和睦しており、図ることはできません」。そこで帰順した。玕は『左氏春秋』に通じ、かつて西京の『石経』を募求し、金をもって厚く賜与した。揚州の人々は互いに語り合って言うには、「十金で一筆を易え、百金で一篇を償う。ましてや士を得ることにおいてはどうか」。故に士人は多く彼に依った。

初め、危全諷は匡時が立ったと聞き、喜んで言うには、「鍾郎が節度使となるのを三年待てば、我自らこれを取ろう」。渥の兵が盛んになると、敢えて救わず、密かに渥を攻めることを謀った。時に淮南の亡将王茂章が州を過ぎ、請うて言うには、「公が大挙なさると聞きました。諸将軍の才の有無を見せていただきたい」。全諷は衆十万を集め、茂章を招いてこれを見せた。茂章は答えて言うには、「揚州には士に三等あり、公の衆はまさにその下等に当たります。どうしてさらに増やされないのですか」。全諷は答えることができなかった。後に楊氏に併合された。

劉漢宏

劉漢宏は、もと兗州の小史であり、大将に従って王仙芝を撃ち、輜重を掠めて叛去した。乾符の末、江陵を略し、民の室廬を焼き、廛に完き家無し。ここにおいて都統王鐸、将崔鍇を遣わして之を降し、表して宿州刺史と為す。漢宏は賞薄きを恨み、望言有り。会に浙東観察使柳瑫罪を得たるを以て、乃ち漢宏に観察使を授け、之に代わる。僖宗しょくに在り、貢輸駅を踵ぎて西す。帝悦び、其の軍を寵して義勝軍と為し、即ち節度使を授く。漢宏既に七州を有し、志侈大にして、輒ち曰く、「天下方に乱れ、卯金刀吾に非ざれば尚誰かならんや」と。鴉諸廷に噪き、命じて樹を斫らしむ。或いは曰く、「巨木伐つべからず」と。怒りて曰く、「吾は白蛇を斬る能くす、何ぞ一木を畏れんや」と。

中和二年、弟漢宥を遣わし諸将を率いて杭州を攻め、西陵に壁し、董昌に敗れらる。復た兵七万を遣わし江に瀕して屯し、昌、錢镠をして宵に済りて之を襲破せしむ。明年、漢宏黄嶺に屯し、洞獠を発して同しく昌を攻む。镠富陽より出でて諸営を撃ち、多く潰走す。漢宏大いに沮み、軍十万を悉くし、艦を西陵に列ね、謀りて宵に済りて昌を襲わんとす。江に禱るに、一矢前に墜つ。之を悪む。俄に镠と遇い、镠俘馘五千、漢宏羸服して走る。或いは之を執るも、紿いて免る。明日復た戦い、镠其の弟漢容・将辛約を斬る。時に鍾季文明州を守り、盧約処州、蔣瑰婺州、杜雄臺州、朱褒温州に在り。褒の兵最も強し。故に漢宏は褒をして大艦を治め戦を習わしめ、史惠・施堅實・韓公汶を以て其の軍を将せしむ。帝杭・越の戦を挐つを聞き、中人焦居璠を遣わし節を持ち詔して通好せしむも、皆詔を奉ぜず。

光啓二年、镠諸将を率いて越を攻め、自ら導山に趨り、公汶を曹娥埭に破る。褒と戦い、其の艦を焼き、進みて豊山に屯す。堅實、镠に詣りて降る。漢宏麾下六百人を率いて臺州に走る。镠其の母妻を屯に斬る。杜雄其の軍を饗す。皆酔い、漢宏を執りて董昌に見ゆ。漢宏曰く、「古より豈に国亡びざる者あらんや」と。昌して市に斬らしむ。刑者を叱して曰く、「吾は節度使、庸人の殺す可きに非ず。我嘗て夢みしに、金を持ちて我を殺す者は、必ず錢镠なり」と。昌、镠に命じて之を斬らしむ。

張雄

張雄は、泗州漣水の人なり。里人馮弘鐸と皆武寧軍の偏将と為る。弘鐸、吏に辱めらる。雄之を弁数し、並びに節度使時溥に疑わる。二人禍を懼れ、乃ち兵三百を合して江を度り、白下に壁し、蘇州を取って之に拠る。稍稍嘯会し、戦艦千余、兵五万、乃ち自ら「天成軍」と号す。

鎮海節度使周宝の敗れ、常州に奔る。高駢の将徐約の兵甚だ鋭きを聞き、之を誘いて雄を撃たしめ、之に蘇州を与う。雄衆を海中に匿し、別将趙暉をして上元に拠らしめ、舟械を資す。宝の兵散じ、多く暉に降り、衆数万。雄即ち上元を以て西州と為す。其の才を負い、台城を治めて府と為さんと欲し、旌旗衣服王者に僭す。

楊行密揚州を囲む。畢師鐸厚く宝幣を賫し、雄を啖いて連和せしむ。雄軍を率いて海を浮かび東塘に屯す。是の時揚州囲まるること久しく、皮嚢革帯食余り無く、軍中人を殺して糧に代え、纔か千錢。雄の至るを聞き、間道より珍を挟みて軍に走り、銀二斤を以て斗米を易え、糠に逮ぎて乞い差を以て直と為す。雄の軍富みて過ぎたる所欲、即ち戦わずして去る。暉数え江道を剽し、雄之を撃ち殺し、其の衆を坑い、自ら上元に屯す。大順初、上元を以て升州と為し、詔して雄に刺史を授く。未だ幾ばくもせず、卒す。雄衆を馭するに善く、人之を思い、廟を立つ。弘鐸代わって刺史と為る。

弘鐸

弘鐸は騎射に善く、侃侃として儒者の若し。行密既に淮南を得、弘鐸好を納む。然れども兵艦の完利を倚り、潤州を取らんと謀り、客尚公乃を遣わし進みて行密を説くも、行密従わず。客曰く、「公聴かず、未だ知らず幾楼船に勝たんと」と。時に行密の大将田頵宣州に在り、陰に弘鐸を図り、工を募りて艦を治む。工曰く、「上元に舟を為すは、木を遠方に市い、堅致にして数十歳に勝つ可し」と。頵曰く、「我れ舟を一用の為に為し、其の久しきを計わず、境に於いて木を取る可し」と。弘鐸宣・揚の間に介し、自ら安からず、而して州数え怪有り。天復二年、大風屋を発し、巨木飛舞す。州人駭きて曰く、「州将に主を易えん」と。大将馮暉等、弘鐸を勧めて軍を悉くして南に向かい、声言して鍾伝を討つと為し、実は頵を襲わんとす。行密之を知り、客を遣わし説きて止むるも、聴かず。頵曷山に於いて逆撃し、弘鐸大敗し、残士を収めて海に入らんと欲す。行密復振するを懼れ、人を遣わし東塘に迎え犒い、好く謂いて曰く、「兵に勝負有り、今衆尚強し、乃ち自ら海に棄つるは、奈何。吾が府は隘れども、尚以て居る可し。若し揚州を欲せば、我れ将に公を譲らん」と。弘鐸挙軍尽く哭す。行密飛艫を挐ぎ、兵を持たずして其の軍に入り、弘鐸の手を執り尉勉し、遂に帰らしめ、表して淮南節度副使と為す。尚公乃を見て曰く、「頗る馮公の為に潤州を求めたるを憶うや。何ぞ多く尚なる邪」と。謝して曰く、「臣君の為に、其の未だ遂げざるを恨む」と。行密笑いて曰く、「吾れ君を得ば、尚何をか憂えん」と。

徐約

徐約は、曹州の人なり。既に蘇州を得、詔有りて刺史を授かる。錢镠弟銶を遣わして之を攻む。約民を駆りて墨镵を其の耏にす。曰く、「願わくは南都に戦わん」と。従事或いは曰く、「都とは国称なり。杭終に国あるか」と。約後漸く窘まり、其の下と哭いて別れ、海に入りて死す。镠沈粲をして蘇州を守らしむ。約の衆潤州の阮結に降るも、結定むる能わず。镠成及を以て之を討ち、尽く其の衆を殲す。

王潮

王潮は、字は信臣、光州固始の人なり。五代の祖曄は固始令と為り、民其の仁を愛し、之を留め、因りて家す。世貲を以て顕る。僖宗蜀に入り、盗江・淮に興る。寿春の亡命王緒・劉行全、群盗を合して寿州を拠る。未だ幾ばくもせず、衆万余、自ら将軍と称し、復た光州を取り、豪傑を劫いて軍中に置く。潮県史より軍正に署せられ、稟庾を主り、士其の信を推す。緒二州の籍を提げて秦宗権に附く。他日、賦期の如くならず、宗権切に責む。緒懼れ、行全と衆を抜きて南に走り、潯陽・贛水を略し、汀州を取り、自ら刺史と称し、漳州に入るも、皆能有せず。初め糧少なきを以て、故に道を兼ねて馳せ、軍中に約して曰く、「老孺を以て従う者は斬る」と。潮と弟審邽・審知、母を奉じて以て行く。緒潮を切に責めて曰く、「吾聞く、軍行に法有り、法無き軍無しと」と。対えて曰く、「人皆母有り、母無き人あるを聞かず」と。緒怒り、其の母を斬らんと欲す。三子同辞して曰く、「母に事うるは猶お将軍に事うるが若し。其の母を殺して焉んぞ其の子を用いん」と。緒之を赦す。会に母死す。敢えて哭せず、夜道左に殯す。

時に望気の者、軍中に暴興する者あらんと言う。緒は潜かに魁梧雄才なる者を視て、皆事を以てこれを誅す。衆懼る。南安に次ぎし時、潮、行全に語りて曰く、「子は美須眉、才衆に絶ゆ。吾子の死する所を知らず」と。而行全も怪しみ悟り、亦自ら安からず。左右数十人と叢翳に伏し、狙ひて緒を縛し徇らしむ。衆万歳を呼び、行全を推して将軍と為す。行全辞して曰く、「我潮に及ばず。請う、以て主と為さん」と。潮苦しく譲るも克たず。乃ち地を除き剚剣して祝ひて曰く、「拝して剣三たび動く者、我以て主と為さん」と。審知に至り、剣地に躍る。衆神と為し、皆これを拝す。審知潮に譲る。自ら副と為す。緒嘆じて曰く、「我是の子を殺すこと能はざるは、天に非ずや」と。潮軍に令して曰く、「天子蒙難す。今当に交・広に出で、巴・蜀に入り、以て王室を幹くべし」と。是に於て悉く師を将ひて行かんとす。会に泉州刺史廖彦若貪暴にして、潮の軍を治むるに法有るを聞く。故に州人牛酒を奉りて潮を迎ふ。乃ち城を囲み、歳余にしてこれを克ち、彦若を殺し、遂に其の地を有つ。

初め、黄巢の将、窃かに福州を有たんとす。王師下ること能はざるに、建人陳巖、衆を率ひてこれを抜き、又観察使鄭鎰を逐ひ、自ら州を領す。詔して即ち刺史を授く。久しくして巖卒す。其の婿範暉、兵を擁して留後を自称す。巖の旧将多く潮に帰す。暉取るべきを言ふ。潮乃ち従弟彦復を遣はし兵を将ひ、審知これを監せしめ、福州を攻む。審知白馬に乗り陣を履行し、望む者披靡す。「白馬将軍」と号す。暉守ること弥年下らず。潮令して曰く、「兵尽くれば兵を益し、将尽くれば将を益す。兵将尽くれば、則ち吾至らん」と。是に於て彦復急攻す。暉海に入りて亡ぶ。追ひてこれを斬る。建・汀二州皆籍を挙げて命を聴く。潮乃ち尽く五州の地を有つ。

昭宗、潮に福建等州団練使を仮す。俄に観察使に遷す。乃ち四門義学を作り、流亡を還し、賦斂を定め、吏を遣はし農を勧む。人皆これを安んず。乾寧中、福州を寵して威武軍と為し、即ち潮を拝して節度使・検校尚書左僕射とす。卒す。司空しくうを贈る。

潮病み、審知を以て節度を権めしむ。審邽に譲るも、許さず。詔して審知を検校刑部尚書・節度観察留後とす。厚く朱全忠に事へ、全忠これを薦めて節度使・同中書門下平章事と為す。帝鳳翔に在り、審知に朱詔を賜ひ、三品より皆承制にて除授を得しむ。天祐初、瑯邪郡王に進む。

審邽

審邽、字は次都。泉州刺史、検校司徒しとと為る。儒術を喜び、『書』・『春秋』に通ず。吏治に善くし、流民還る者には牛犁を仮し、廬舍を興完す。中原乱れ、公卿多く来りてこれに依る。財を以て振賦し、楊承休・鄭璘・韓偓・帰傳懿・楊贊図・鄭戩等の如きはこれに頼りて以て禍を免る。審邽、子延彬を遣はし招賢院を作りて以てこれを礼す。

劉知謙

劉知謙、寿州上蔡の人。乱を避け封州に客す。清海牙将と為る。節度使韋宙、兄の女を以てこれに妻せんとす。衆不可と謂ふも、宙曰く、「若人は状貌常に非ず。吾子孫をこれに托さん」と。

黄巢、嶺表より北還す。湖・湘の間に群盗蟻結す。知謙因りて封州に拠る。詔有りて即ち刺史を授け賀水鎮使を兼ね、梧・桂を遏む。知謙流亡を撫納し、用度を愛嗇し、士卒を養ふ。未幾、精兵万人を得、多く戦艦を具へ、境内粛然たり。久しくして疾病す。諸子を召して曰く、「今五嶺盗賊方に興らんとす。吾精甲犀械有り。爾功を勉めて建てよ。時なるかな失ふべからず」と。

知謙卒す。共に其の子隠を推して嗣と為す。清海軍節度使劉崇龜、表して封州刺史と為す。薛王知柔嗣ぎて節度を領すに代はる。未だ至らざるに、牙将盧琚叛く。隠兵を率ひて知柔を奉迎し、直ちに広州に趨り、琚を禽へてこれを献ず。是に於て知柔以て聞す。昭宗、隠を拝して本軍行軍司馬と為し、俄に副使に遷す。天復初、節度徐彦若死す。隠自ら留後を称す。

盧光稠

虔人盧光稠なる者、衆数万有り、州を拠りて自ら留後と為し、又韶州を取る。隠これと争ひ、戦ひ勝たず、悉く師を以て虔州を攻む。光稠軍を伏して戦を掉す。隠縦に駆く。伏発き、身を挺して免る。天祐初、始めて隠に詔して権節度留後と為し、乃ち使者を遣はし朝に入り、重く朱全忠に賂りて以て自ら固めしむ。是の歳、光稠死す。子延昌自ら刺史を称す。其の下の為す所に殺され、更に李図を推して州事を総せしむ。図死す。鍾傳尽く其の衆を劫ひ、子匡時を遣はしてこれを守らしめんと欲す。克たず。州人自ら譚全播を立てて刺史と為し、全忠に附す。