新唐書

巻一百八十・列傳第一百五 李德裕

巻一百八十・列傳第一百五 李德裕

李德裕、字あざなは文饒、元和の宰相吉甫の子なり。少より学に力を入れ、冠すや、卓犖として大節あり。諸生と共に有司の試を受けるを好まず、蔭により校書郎に補せらる。河東の張弘靖、これを辟きて掌書記と為す。府罷し、召されて監察御史に拝せらる。

原文李德裕,字文饒,元和宰相吉甫子也。少力於學,既冠,卓犖有大節。不喜與諸生試有司,以廕補校書郎。河東張弘靖辟為掌書記。府罷,召拜監察御史。

穆宗即位し、翰林學士に擢でらる。帝、太子たりし時、既に吉甫の名を聞き、ここより德裕を顧みること厚く、凡そ號令大典冊は、皆その手を経る。数え召し見え、賞賜獎勵優渥なり。帝、政に怠荒す、故に戚裏多く請丐するところあり、宦人を挟みて禁中の語を詗し、大臣に関托す。德裕建言す、「旧制、駙馬都尉と要官は禁中往来せず。開元中、訶督特に切なり、今乃ち公然と宰相及び大臣の私第に至る。是等は他材無く、直に禁密を洩漏し、中外に交通するのみ。請う、宰相に事を白する者は、中書に至るを聴すべし、輒り第に詣る無からしむ。」帝然りとす。再び中書舍人に進む。未だ幾ばくもせず、御史中丞を授けらる。

原文穆宗即位,擢翰林學士。帝為太子時,已聞吉甫名,由是顧德裕厚,凡號令大典冊,皆更其手。數召見,賚獎優華。帝怠荒於政,故戚裏多所請丐,挾宦人詗禁中語,關托大臣。德裕建言:「舊制,駙馬都尉與要官禁不往來。開元中,訶督尤切,今乃公至宰相及大臣私第。是等無佗材,直洩漏禁密,交通中外耳。請白事宰相者,聽至中書,無輒詣第。」帝然之。再進中書舍人。未幾,授御史中丞。

初め、吉甫憲宗に相たりし時、牛僧孺・李宗閔、直言策に対し、痛く当路を詆し、失政を条す。吉甫、帝に訴え、且つ泣く、有司皆罪を得、遂に怨みを為す。吉甫又た帝に謀りて両河の叛将を討たんとし、李逢吉その言を沮解し、功未だ既ならざるに吉甫卒し、裴度実にこれを継ぐ。逢吉、議合わざるを以て罷め去り、故に吉甫を追銜して度を怨み、德裕を擯きて進ましめず。ここに至り、帝の暗庸なるを間み、度が元稹と相怨むを憚り、その宰相を奪いて己れ代わりて之に代わらんとす。僧孺を引きて益々党を樹てんと欲し、乃ち德裕を出して浙西觀察使と為す。俄にして僧孺相に入り、ここより牛李の憾結ぶ。

原文始,吉甫相憲宗,牛僧孺、李宗閔對直言策,痛詆當路,條失政。吉甫訴於帝,且泣,有司皆得罪,遂與為怨。吉甫又為帝謀討兩河叛將,李逢吉沮解其言,功未既而吉甫卒,裴度實繼之。逢吉以議不合罷去,故追銜吉甫而怨度,擯德裕不得進。至是,間帝暗庸,{{?|訁木}}度使與元稹相怨,奪其宰相而己代之。欲引僧孺益樹黨,乃出德裕為浙西觀察使。俄而僧孺入相,由是牛、李之憾結矣。

初め、潤州は王國清の乱を承け、竇易直府庫を傾けて軍に賚い、貲用空殫し、而下益々驕る。德裕自ら檢約し、留州の財を以て兵を贍ひ、儉ながらも均し、故に士怨み無し。再期すれば、則ち賦物儲牣す。南方は禨巫を信じ、父母癘疾と雖も、子棄てて敢えて養わず。德裕、長老に語る可き者を択び、孝慈の大倫を諭し、患難相収め棄つべからざるの義を以てし、帰りて相曉敕せしめ、約に違う者は顕に法を以て置く。数年、悪俗大いに変ず。又た属州の経祠に非ざる者を按じ、千余所を毀ち、私邑山房千四百舎を撤し、寇廋蔽する所無し。天子詔を下して褒揚す。

原文初,潤州承王國清亂,竇易直傾府庫賚軍,貲用空殫,而下益驕。德裕自檢約,以留州財贍兵,雖儉而均,故士無怨。再期,則賦物儲牣。南方信禨巫,雖父母癘疾,子棄不敢養。德裕擇長老可語者,諭以孝慈大倫,患難相收不可棄之義,使歸相曉敕,違約者顯置以法。數年,惡俗大變。又按屬州非經祠者,毀千餘所,撤私邑山房千四百舍,寇無所廋蔽。天子下詔褒揚。

敬宗立ち、侈用度無く、詔して浙西に脂朅妝具を上らしむ。德裕奏す、「比年旱災、物力未だ完からず。乃ち三月壬子の赦令、常貢の外、悉く進献を罷む。此れは陛下、聚斂の吏の縁りて奸を成すを恐れ、雕窶の人のその敝に勝えざるを恐れ給うなり。本道素より富饒と號し、更に李錡・薛蘋、皆民に酒を榷し、供に羨財あり。元和の詔書は榷酤を停め、又た赦令は諸州の羨餘の使に送る無きを禁ず。今存する者は惟だ留使錢五十萬緡のみ、率歳の経費常に十三萬少く、軍用褊急なり。今須する所の脂朅妝具、度るに銀二萬三千兩、金百三十兩を用い、物は土産に非ず、力を営索すと雖も、尚お逮ばざるを恐る。願くは宰相に詔して議せしめ、何を以てか臣をして詔旨に違わず、軍興に乏せず、人を疲れさず、怨を斂めざらしむるかを、則ち前敕後詔、咸か遵承す可し。」報えず。是の時に方り、進献を罷むるや、月を閲せずして、貢を求むる使者足相接して道にあり、故に德裕一を推して他を諷す。

原文敬宗立,侈用無度,詔浙西上脂朅妝具,德裕奏:「比年旱災,物力未完。乃三月壬子赦令,常貢之外,悉罷進獻。此陛下恐聚斂之吏緣以成奸,雕窶之人不勝其敝也。本道素號富饒,更李錡、薛蘋,皆榷酒於民,供有羨財。元和詔書停榷酤,又赦令禁諸州羨餘無送使。今存者惟留使錢五十萬緡,率歲經費常少十三萬,軍用褊急。今所須脂朅妝具,度用銀二萬三千兩,金百三十兩,物非土產,雖力營索,尚恐不逮。願詔宰相議,何以俾臣不違詔旨,不乏軍興,不疲人,不斂怨,則前敕後詔,鹹可遵承。」不報。方是時,罷進獻,不閱月,而求貢使者足相接于道,故德裕推一以諷它。

又た詔して盤絛繚綾千匹を索む。復た奏して言す、「太宗の時、使涼州に至り、名鷹を見て、李大亮に諷して之を献ぜしむ。大亮諫めて止め、詔を賜いて嘉歎す。玄宗の時、使者江南に抵りて〓〓・翠鳥を捕えしむ。汴州刺史倪若水之を言う、即ち褒納を見る。皇甫詢、半臂を織り、琵琶の捍撥を造り、牙筩を鏤くことを益州にてす。蘇頲詔に奉ぜず、帝罪を加えず。夫れ〓〓・鏤牙は微物なり。二三の臣尚お労人損德を言うを以てす。豈に二祖かくの如き臣ありて、今独り之無からんや。蓋し有位者蔽いて聞かざるなり、陛下拒んで納れざるに非ず。且つ立鵝天馬、盤絛掬豹、文彩怪麗、惟だ乗輿当に禦すべし。今広く千匹を用うるは、臣未だ諭さず。昔、漢文身に弋綈を衣い、元帝軽纖の服を罷む。故に仁德慈儉、今に至るまで之を称す。願くは陛下二祖の容納に師い、遠く漢家の恭約を思い、賜わるを裁ち節減せば、則ち海隅の蒼生畢く賜を受くべし。」優詔して為に停む。

原文又詔索盤絛繚綾千匹,復奏言:「太宗時,使至涼州,見名鷹,諷李大亮獻之,大亮諫止,賜詔嘉歎。玄宗時,使者抵江南捕〓〓、翠鳥,汴州刺史倪若水言之,即見褒納。皇甫詢織半臂、造琵琶捍撥、鏤牙筩於益州,蘇頲不奉詔,帝不加罪。夫〓〓、鏤牙,微物也。二三臣尚以勞人損德為言,豈二祖有臣如此,今獨無之?蓋有位者蔽而不聞,非陛下拒不納也。且立鵝天馬,盤絛掬豹,文彩怪麗,惟乘輿當禦。今廣用千匹,臣所未諭。昔漢文身衣弋綈,元帝罷輕纖服,故仁德慈儉,至今稱之。願陛下師二祖容納,遠思漢家恭約,裁賜節減,則海隅蒼生畢受賜矣。」優詔為停。

元和以後より、天下に私に僧を度するを禁ず。徐州の王智興紿いて天子の誕月を言い、壇を築き人を度して以て福を資せんことを請う。詔して可とす。即ち顕に江淮の間に募り、民皆曹輩奔走し、因りてその財を牟擷して自ら入る。德裕劾奏す、「智興、泗州に壇を為し、度せんと願う者を募り、人錢二千を輸すれば、則ち復た勘詰せず、普く髡落を加う。淮より右に自り、戸三丁男、必ず一男剔発し、影傜賦を規り、度する所算無し。臣、江を度する者の日数百なるを閲す。蘇・常の齊民、十固八九、若し禁遏を加えざれば、則ち前めて誕月に至り、江淮丁男六十萬を失い、細変と為さず。」詔有りて徐州に禁止せしむ。

原文自元和後,天下禁毋私度僧。徐州王智興紿言天子誕月,請築壇度人以資福,詔可。即顯募江淮間,民皆曹輩奔走,因牟擷其財以自入。德裕劾奏:「智興為壇泗州,募願度者,人輸錢二千,則不復勘詰,普加髡落。自淮而右,戶三丁男,必一男剔發,規影傜賦,所度無算。臣閱度江者日數百,蘇、常齊民,十固八九,若不加禁遏,則前至誕月,江淮失丁男六十萬,不為細變。」有詔徐州禁止。

時に帝昏荒、数え遊幸し、群小に狎比し、朝を聴くこと簡忽なり。德裕『丹扆六箴』を上り、表して言す、「『心乎く愛す、遐く謂わざるか』、此れ古の賢人の事君に篤き者なり。夫れ跡疎にして言親しき者は危うく、地遠にして意忠なる者は忤う。臣窃に惟み念う、先聖より抜き出で、遍く寵私を荷い、忠を竭くさざれば、是れ霊鑒に負く。臣、先朝に在り、嘗て『大明賦』を献じて以て諷し、頗る嘉采を蒙る。今日明主に節を尽くすも、亦た是れに由る。」其一を『宵衣』と曰い、朝を見るの晩きを諷す。二を『正服』と曰い、服禦の法に非ざるを諷す。三を『罷献』と曰い、怪珍を斂求するを諷す。四を『納誨』と曰い、忠言を侮棄するを諷す。五を『辨邪』と曰い、群小を任するを諷す。六を『防微』と曰い、偽遊軽出を諷す。辞皆明直婉切なり。帝其の言を用うること能わざるも、猶お韋處厚に敕して諄諄として詔を作らしめ、厚く其の意に謝す。然れども逢吉に排笮せられ、訖く内徙せず。

原文時帝昏荒,數遊幸,狎比群小,聽朝簡忽。德裕上《丹扆六箴》,表言:「'心乎愛矣,遐不謂矣',此古之賢人篤于事君者也。夫跡疏而言親者危,地遠而意忠者忤。臣竊惟念拔自先聖,遍荷寵私,不能竭忠,是負靈鑒。臣在先朝,嘗獻《大明賦》以諷,頗蒙嘉采。今日盡節明主,亦由是也。」其一曰《宵衣》,諷視朝希晚也;二曰《正服》,諷服禦非法也;三曰《罷獻》,諷斂求怪珍也;四曰《納誨》,諷侮棄忠言也;五曰《辨邪》,諷任群小也;六曰《防微》,諷偽遊輕出也。辭皆明直婉切。帝雖不能用其言,猶敕韋處厚諄諄作詔,厚謝其意。然為逢吉排笮,訖不內徙。

時に亳州の浮屠が水は病を癒すと妄言し、これを「聖水」と号し、転々と流聞され、南方の人々は十戸ごとに一人を雇い、汲みに行かせた。既に行きて飲むや、病者は葷血に近づくことを敢えず、危篤の老人は多く死んだ。而して水一斗は三十千、取る者はますます他から汲み、道中で転売し、互いに欺き煽り、往く者は日に数十百人に及んだ。徳裕は厳しく津邏に命じて捕え絶やし、且つ言うには、「昔、呉に聖水あり、宋・斉に聖火あり、皆もと妖祥にして、古人の禁ずる所なり。観察使令狐楚に命じて填塞せしめ、妄りの源を絶たんことを請う」と。帝はこれに従う。帝は方に仏老に惑い、福を祷り年を祈り、浮屠方士、並びに禁中に出入りす。狂人杜景先が上言して、その友周息元は寿数数百歳とし、帝は宦者を遣わして浙西に迎えさせ、詔して在所に馳駅して敦遣せしむ。徳裕は上疏して曰く、「道の高き者は、広成・玄元に若くは莫く、人の聖なる者は、軒轅・孔子に若くは莫し。昔、軒轅が広成子に治身の要を問うに、曰く、'視ること無く聴くこと無く、神を抱いて以て静かにすれば、形将に自ら正し。子の形を労すること無く、子の精を揺るがすこと無く、乃ち長生すべし。慎んで其の一を守り、以て其の和に処す。故に我れ身を修めて千二百歳、形未だ嘗て衰えず'と。又曰く、'吾が道を得る者は上は皇となり、下は王となる'と。玄元が孔子に語りて曰く、'子の驕気と多欲・態色と淫志とを去れ、是れ皆子の身に益無し'と。陛下は軒後の術を修め、異人を物色す。若し広成・玄元が混跡して至り、陛下に告ぐるの言あらば、亦此に出ずる莫からん。臣は慮るに、今得る所の者は、皆迂怪の士にして、物をして氷を淖ますが如く、小術を以て聰明を欺き、文成・五利の如き者ならんと。又、前世の天子は方士を好むと雖も、未だ其の薬を禦ぐる者無し。故に漢人は黄金成る可しと称し、以て飲食の器と為せば則ち寿ぶと為す。高宗の時劉道合、玄宗の時孫甑生皆黄金を作る能くし、二祖は之を服さず、豈に宗廟を重しと為さざるに非ずや。儻し必ず真隠を致さば、願わくは保和の術を師うるに止め、慎んで薬に及ぶこと無からしめよ。然らば則ち九廟尉悦せん」と。息元は果たして誕譎にして情に合わず、自ら張果・葉靜能と遊ぶと云う。帝は詔して画工に肖状して図と為し以て之を観るも、終に帝の世に他に験無し。文宗即位して、乃ち之を逐う。

原文時亳州浮屠詭言水可愈疾,號曰「聖水」,轉相流聞,南方之人,率十戶僦一人使往汲。既行若飲,病者不敢近葷血,危老之人率多死。而水鬥三十千,取者益它汲,轉鬻於道,互相欺訹,往者日數十百人。德裕嚴勒津邏捕絕之,且言:「昔吳有聖水,宋、齊有聖火,皆本妖祥,古人所禁。請下觀察使令狐楚填塞,以絕妄源。」從之。帝方惑佛老,禱福祈年,浮屠方士,並出入禁中。狂人杜景先上言,其友周息元壽數百歲,帝遣宦者至浙西迎之,詔在所馳驛敦遣。德裕上疏曰:「道之高者,莫若廣成、玄元;人之聖者,莫若軒轅、孔子。昔軒轅問廣成子治身之要,曰:'無視無聽,抱神以靜,形將自正。無勞子形,無搖子精,乃可長生。慎守其一,以處其和。故我脩身千二百歲矣,形未嘗衰。'又曰:'得吾道者上為皇,下為王。'玄元語孔子曰:'去子之驕氣與多欲、態色與淫志,是皆無益於子之身。'陛下脩軒後之術,物色異人,若使廣成、玄元混跡而至,告陛下之言,亦無出於此。臣慮今所得者,皆迂怪之士,使物淖冰,以小術欺聰明,如文成、五利者也。又前世天子雖好方士,未有禦其藥者。故漢人稱黃金可成,以為飲食器則壽。高宗時劉道合、玄宗時孫甑生皆能作黃金,二祖不之服,豈非以宗廟為重乎?儻必致真隱,願止師保和之術,慎毋及藥,則九廟尉悅矣。」息元果誕譎不情,自言與張果、葉靜能遊。帝詔畫工肖狀為圖以觀之,終帝世無它驗。文宗即位,乃逐之。

年を逾えて、剣南西川に徙る。蜀は南詔の入寇より以来、杜元穎を敗り、而して郭釗之に代わるも、病みて事を能わず、民は職を失い、聊生す所無し。徳裕至るや、則ち残を完うし怯を奮い起こし、皆条次有り。成都は既に南に姚・協を失い、西に維・松を亡い、清溪より沫水を下りて左に至るまで、尽く蛮の有と為る。初め、韋皋は南詔を招来し、巂州を復し、内資を傾けて蛮と好を結び、戦陣の文法を示す。徳裕は皋が戎を啓き盗に資するを以て、其の策是に非ず、癰疽を養い成し、第に未だ決せざるのみとす。元穎の時に至り、隙に遇いて発し、故に長駆深入し、千里を蹂剔し、蕩然として孑遺無し。今、瘢夷尚お新たに、痛く矯革せざれば、一方の恥を刷うること能わず。乃ち籌邊楼を建て、南道の山川険要にして蛮と相入る者を按じて之を左に図し、西道の吐蕃とばんと接する者を右に図す。其の部落の衆寡、饋餫の遠邇、曲折ことごとく具わる。乃ち辺事に習う者を召して之と指画商訂し、凡そ虜の情偽尽く之を知る。又、伏瘴の旧獠と州兵の戦に任ずる者を料択し、獰耄を廃遣すること什三四、士敢えて怨む者無し。又、甲人は安定に、弓人は河中に、弩人は浙西に請う。繇りて蜀の器械皆犀銳なり。戸二百を率いて一人を取り、戦を習わしめ、事を貸して勿れ、緩なれば則ち農し、急なれば則ち戦う、之を「雄辺子弟」と謂う。其の精兵を南燕保義・保惠・両河慕義・左右連弩と曰い、騎士を飛星・鷙撃・奇鋒・流電・霆声・突騎と曰う。総じて十一軍。杖義城を築き、以て大度・青溪関の阻を制し、禦侮城を作り、以て栄経の犄角の勢を控え、柔遠城を作り、以て西山吐蕃を厄し、邛崍関を復し、巂州の治を台登に徙し、以て蛮の険を奪う。

原文逾年,徙劍南西川。蜀自南詔入寇,敗杜元穎,而郭釗代之,病不能事,民失職,無聊生。德裕至,則完殘奮怯,皆有條次。成都既南失姚、協,西亡維、松,由清溪下沫水而左,盡為蠻有。始,韋皋招來南詔,復巂州,傾內資結蠻好,示以戰陣文法。德裕以皋啟戎資盜,其策非是,養成癰疽,第未決耳。至元穎時,遇隙而發,故長驅深入,蹂剔千里,蕩無孑遺。今瘢夷尚新,非痛矯革,不能刷一方恥。乃建籌邊樓,按南道山川險要與蠻相入者圖之左,西道與吐蕃接者圖之右。其部落眾寡,饋餫遠邇,曲折鹹具。乃召習邊事者與之指畫商訂,凡虜之情偽盡知之。又料擇伏瘴舊獠與州兵之任戰者,廢遣獰耄什三四,士無敢怨。又請甲人于安定,弓人河中,弩人浙西。繇是蜀之器械皆犀銳。率戶二百取一人,使習戰,貸勿事,緩則農,急則戰,謂之「雄邊子弟」。其精兵曰南燕保義、保惠、兩河慕義、左右連弩;騎士曰飛星、鷙擊、奇鋒、流電、霆聲、突騎。總十一軍。築杖義城,以制大度、青溪關之阻;作禦侮城,以控榮經犄角勢;作柔遠城,以厄西山吐蕃;復邛崍關,徙巂州治台登,以奪蠻險。

旧制、歳末に内粟を運びて黎・巂州を贍い、嘉・眉より起こし、陽山江を道とし、大度に達し、乃ち諸戍に分餉す。常に盛夏に至り、地は瘴毒に苦しみ、輦夫多く死す。徳裕は命じて邛・雅の粟を転じ、十月を以て漕の始めと為し、夏に先だちて至らしめ、以て陽山の運を佐け、饋る者炎月に渉らず、遠民乃ち安んず。蜀人は多く女を鬻ぎて人の妾と為す、徳裕は為に科約を著す:凡そ十三歳以上は、三年の労を執り、下る者は五歳、期に及べば則ち之を父母に帰す。属下の浮屠私廬数千を毀ち、以て地を農に予う。蜀の先主祠の傍に猱村有り、其の民は髪を剔ぐこと浮屠の若く、妻子を畜うること自如す、徳裕は下令して禁止す。蜀の風大いに変わる。

原文舊制,歲抄運內粟贍黎、巂州,起嘉、眉,道陽山江,而達大度,乃分餉諸戍。常以盛夏至,地苦瘴毒,輦夫多死。德裕命轉邛、雅粟,以十月為漕始,先夏而至,以佐陽山之運,饋者不涉炎月,遠民乃安。蜀人多鬻女為人妾,德裕為著科約:凡十三而上,執三年勞;下者,五歲;及期則歸之父母。毀屬下浮屠私廬數千,以地予農。蜀先主祠旁有猱村,其民剔髮若浮屠者,畜妻子自如,德裕下令禁止。蜀風大變。

ここに於いて二辺漸く懼れ、南詔は俘掠したる四千人を還すことを請い、吐蕃の維州将悉怛謀は城を以て降る。維は成都より四百里を距ち、山に因りて固と為し、東北は索叢嶺より下ること二百里、地に険無く、長川を走ること三千里に満たず、直ちに吐蕃の牙に至り、異時に之を戍り、以て虜の入るを制せし所なり。徳裕既に之を得るや、即ち兵を発して以て守り、且つ出師の利を陳ぶ。僧孺は中に居りて其の功を沮ぎ、命じて悉怛謀を虜に返し、以て盟する所を信ぜしむ。徳裕は終身之を以て恨みと為す。監軍使王踐言の朝に入るに会い、盛んに悉怛謀の死を言い、遠人の向化の意を拒ぐ。帝も亦之を悔い、即ち兵部尚書を以て召し、俄かに中書門下平章事を拝し、贊皇県伯に封ず。

原文於是二邊浸懼,南詔請還所俘掠四千人,吐蕃維州將悉怛謀以城降。維距成都四百里,因山為固,東北繇索叢嶺而下二百里,地無險,走長川不三千里,直吐蕃之牙,異時戍之,以制虜入者也。德裕既得之,即發兵以守,且陳出師之利。僧孺居中沮其功,命返悉怛謀於虜,以信所盟,德裕終身以為恨。會監軍使王踐言入朝,盛言悉怛謀死,拒遠人向化意。帝亦悔之,即以兵部尚書召,俄拜中書門下平章事,封贊皇縣伯。

故事、丞郎宰相に詣るは、須らく少間有って乃ち敢えて通ず、郎官は公事に非ざれば敢えて謁せず。李宗閔の時、往々賓客を通ず。李聽は太子太傅と為り、善くする所を招き酒を載せて宗閔の閣に集い、酣酔して乃ち去る。徳裕に至りては、則ち御史に諭す:「事を以て宰相に見ゆる者有らば、必ず先ず台に白して乃ち聴け。凡そ朝を罷むるや、龍尾道より趨り出づべし」と。遂に輒く閣に至る者無し。又、京兆の沙堤を築くこと・両街の上朝衛兵を罷む。常に建言す:「朝廷には唯だ邪正の二途有り、正は必ず邪を去り、邪は必ず正を害す。然れども其の辞皆聴く可きが若し、願わくは取捨する所を審にせよ。然らずんば、二者並び進み、聖賢と雖も経営すと雖も、成功するに繇り無からん」と。俄かに宗閔罷められ、徳裕代わって中書侍郎・集賢殿大学士と為る。初め、二省は江淮の大賈に符し、堂厨の食利を主らしむ。因りて是に貲を挟み天下に行き、至る所の州鎮に右客と為り、富人は之に倚りて自ら高しと為す。徳裕は一切之を罷む。

原文故事,丞郎詣宰相,須少間乃敢通,郎官非公事不敢謁。李宗閔時,往往通賓客。李聽為太子太傅,招所善載酒集宗閔閣,酣醉乃去。至德裕,則喻御史:「有以事見宰相,必先白台乃聽。凡罷朝,由龍尾道趨出。」遂無輒至閣者。又罷京兆築沙堤、兩街上朝衛兵。常建言:「朝廷惟邪正二途,正必去邪,邪必害正。然其辭皆若可聽,願審所取捨。不然,二者並進,雖聖賢經營,無繇成功。」俄而宗閔罷,德裕代為中書侍郎、集賢殿大學士。始,二省符江淮大賈,使主堂廚食利,因是挾貲行天下,所至州鎮為右客,富人倚以自高。德裕一切罷之。

後、帝は暴に風を感し、言語を害す。鄭注は始め王守澄に因りて薬を進め、帝少しく間ゆ。又、李訓を薦めて待詔せしむ。帝は諫官を授けんと欲す。徳裕曰く、「昔、諸葛亮に言有り、'賢臣に親しみ小人を遠ざくれば、先漢の興隆する所以なり。小人に親しみ賢士を遠ざくれば、後漢の傾頽する所以なり'と。今、訓は小人、頃に咎悪天下に暴れ、左右に引致すべからず」と。帝曰く、「人誰か過ち無からん、当に其の改むるを容るべし。且つ逢吉も嘗て之を言えり」と。対えて曰く、「聖賢は則ち過ちを改むる有り、若し訓が天資奸邪なれば、尚お何の能く改めん。逢吉は位宰相にして、顧みて凶回を愛し、以て陛下を累わす、亦罪人なり」と。帝は王涯に語りて別に官を与えんとす。徳裕は手を搖りて涯を止む。帝は適に見て、懌ばず。訓・注皆怨み、即ち復た宗閔を召して政を輔けしめ、徳裕を拝して興元節度使せつどしと為す。入りて帝に見え、自ら陳べて闕下に留まるを願う。復た兵部尚書を拝す。宗閔奏す:「命已に行わる、止む可からず」と。更に鎮海軍に徙して王璠に代わらしむ。

原文後帝暴感風,害語言。鄭注始因王守澄以藥進,帝少間,又薦李訓使待詔,帝欲授諫官,德裕曰:「昔諸葛亮有言:'親賢臣,遠小人,先漢所以興隆也。親小人,遠賢士,後漢所以傾頹也。'今訓小人,頃咎惡暴天下,不宜引致左右。」帝曰:「人誰無過,當容其改。且逢吉嘗言之。」對曰:「聖賢則有改過,若訓天資奸邪,尚何能改?逢吉位宰相,而顧愛凶回,以累陛下,亦罪人也。」帝語王涯別與官,德裕搖手止涯,帝適見,不懌,訓、注皆怨,即復召宗閔輔政,拜德裕為興元節度使。入見帝,自陳願留闕下,復拜兵部尚書。宗閔奏:「命已行,不可止。」更徙鎮海軍以代王璠。

先に太和年中、漳王の養母杜仲陽が浙西に帰り、詔ありて在所に存問す。時に徳裕召され、乃ち檄を留後使に留めて詔書の如くせしむ。璠入りて尚書左丞と為り、而して漳王罪を以て廃され死す、因りて戸部侍郎李漢と共に徳裕が嘗て仲陽に賂して王を導き不軌を為さしむと譖ふ。帝其の言に惑ひ、王涯・李固言・路隋を召して之を質す。注・璠・漢三人の者の語益々堅く、独り隋言ふ「徳裕大臣、宜しく此れ有るべからず」と。讒の焰稍々衰ふ。遂に徳裕を貶して太子賓客と為し、分司東都す。復た袁州長史に貶し、隋も亦宰相を免ぜらる。未だ幾ばくもせず、宗閔罪を以て斥けられ、而して注・訓等乱敗す。帝追ひて悟り徳裕の誣構を以て逐はれたるを、乃ち滁州刺史に徙す。又た太子賓客を以て分司東都す。開成初、帝従容として宰相に語りて曰く「朝廷豈に遺事有らんや」と。衆皆宋申錫を以て対ふ。帝首を俯して涕数行下り、曰く「当の時、兄弟相保たず、況んや申錫をや。有司我が為に之を褒顕せよ」と。又曰く「徳裕も亦申錫の比なり」と。起して浙西観察使と為す。後に学士に対し禁中にて、黎埴頓首して言ふ「徳裕と宗閔皆逐はる、而して独り三進官す」と。帝曰く「彼嘗て鄭注を進む、而して徳裕之を殺さんと欲す、今当に官を何人に与ふべきか」と。埴懼れて出づ。又た座の扆の前を指して宰相に示し曰く「此れ徳裕の鄭注を争へる処なり」と。

原文先是太和中,漳王養母杜仲陽歸浙西,有詔在所存問。時德裕被召,乃檄留後使如詔書。璠入為尚書左丞,而漳王以罪廢死,因與戶部侍郎李漢共譖德裕嘗賂仲陽導王為不軌。帝惑其言,召王涯、李固言、路隋質之,注、璠、漢三人者語益堅,獨隋言:「德裕大臣,不宜有此。」讒焰少衰。遂貶德裕為太子賓客,分司東都。復貶袁州長史,隋亦免宰相。未幾,宗閔以罪斥,而注、訓等亂敗。帝追悟德裕以誣構逐,乃徙滁州刺史。又以太子賓客分司東都。開成初,帝從容語宰相:「朝廷豈有遺事乎?」眾皆以宋申錫對。帝俯首涕數行下,曰:「當此時,兄弟不相保,況申錫邪?有司為我褒顯之。」又曰:「德裕亦申錫比也。」起為浙西觀察使。後對學士禁中,黎埴頓首言:「德裕與宗閔皆逐,而獨三進官。」帝曰:「彼嘗進鄭注,而德裕欲殺之,今當以官與何人?」埴懼而出。又指坐扆前示宰相曰:「此德裕爭鄭注處。」

徳裕三たび浙西に在り、出入十年、淮南節度使に遷り、牛僧孺に代る。僧孺之を聞き、軍事を其の副張鷺に付し、即ち馳せ去る。淮南府の銭八十万緡、徳裕奏言して止む四十万、鷺其の半を用ふるが為なりと。僧孺帝に訴へ、而して諫官姚合・魏謨等共に劾奏して徳裕が私怨を挟みて僧孺を沮傷すとす。帝章を置きて下さず、詔して徳裕に実を覆せしむ。徳裕上言して「諸鎮の更代は、例へば半数を殺して以て水旱に備へ、軍費を助く。因りて王播・段文昌・崔從の相授くる簿最も具はりて在り。惟れ從官下に死し、僧孺之に代り、其の殺す数最も多し」と。即ち自ら劾して「初め鎮に至り、用例に失ひ、妄りに敢へず」と、遂に罪を待つ。詔有りて之を釈す。

原文德裕三在浙西,出入十年,遷淮南節度使,代牛僧孺。僧孺聞之,以軍事付其副張鷺,即馳去。淮南府錢八十萬緡,德裕奏言止四十萬,為鷺用其半。僧孺訴於帝,而諫官姚合、魏謨等共劾奏德裕挾私怨沮傷僧孺,帝置章不下,詔德裕覆實。德裕上言:「諸鎮更代,例殺半數以備水旱、助軍費。因索王播、段文昌、崔從相授簿最具在。惟從死官下,僧孺代之,其所殺數最多。」即自劾「始至鎮,失於用例,不敢妄」,遂待罪,有詔釋之。

武宗立ち、召して門下侍郎・同中書門下平章事と為す。既に謝に入り、即ち進みて帝に戒めて曰く「邪正を弁じ、委任を専らにし、而して後朝廷治まる。臣嘗て先帝に之を言ふ、用ひられず。夫れ正人は既に小人を呼んで邪と為し、小人も亦正人を謂ひて邪と為す、何を以て之を弁ぜん。請ふ物を借りて諭と為さむ。松柏の木と為るや、孤生勁特にして、因倚する所無し。蘿蔦は則ち然らず、弱くして立つ能はず、必ず他の木に附く。故に正人は一心に君に事へ、助を待つこと無し。邪人は必ず更に党を為し、以て相蔽欺す。人君たる者は是を以て之を弁ずれば、則ち惑ふこと無からん」と。又た治乱は信任に係ると謂ひ、斉の桓公の管仲に問ふ所以の霸を害する者を引き、仲対へて琴瑟笙竽・弋獵馳騁は、霸を害する者に非ず。惟だ人を知りて挙げ能はず、挙げて任ずる能はず、任じて又小人を以て雑ふ、是れ霸を害するなりと。「太・玄・徳・憲の四宗は皆盛朝なり、其の始め臨禦するや、自ら視ること堯・舜の若く、浸く久しければ則ち初に及ばず。陛下其の然るを知るや。始め一に輔相に委ぬ、故に賢者は心を尽くすことを得。久しければ則ち小人並び進み、党与を造り、視聴を乱す、故に上疑ひて専らにせず。政宰相を去れば則ち治まらず。徳宗に在りて最も甚しく、晚節の宰相は惟だ詔書を奉行するのみ、所与に事を図る者は、李齊運・裴延齢・韋渠牟等、訖る今之を乱政と謂ふ。夫れ輔相に欺罔不忠有らば、当に亟に免じ、忠にして材なる者は属任すべし。政に他の門無くんば、天下安くか治まらざらん。先帝の人を任ずるや、始め皆回容し、纖微を積みて以て誅貶に至る。誠に使ひ小過と雖も必ず知りて之を改め、君臣猜ること無くんば、則ち讒邪其の間を干さざらん」と。又た言ふ「開元初、輔相率ね三考すれば輒ち去る、姚崇・宋璟と雖も逾ゆる能はず。李林甫に至りて、権を秉ること乃ち十九年、遂に禍敗に及ぶ。是れ知る、亟に宰相を進め罷むるは、政を中書に在らしむるは、誠に治の本なり」と。

原文武宗立,召為門下侍郎、同中書門下平章事。既入謝,即進戒帝:「辨邪正,專委任,而後朝廷治。臣嘗為先帝言之,不見用。夫正人既呼小人為邪,小人亦謂正人為邪,何以辨之?請借物為諭,松柏之為木,孤生勁特,無所因倚。蘿蔦則不然,弱不能立,必附它木。故正人一心事君,無待於助。邪人必更為黨,以相蔽欺。君人者以是辨之,則無惑矣。」又謂治亂系信任,引齊桓公問管仲所以害霸者,仲對琴瑟笙竽、弋獵馳騁,非害霸者;惟知人不能舉,舉不能任,任而又雜以小人,害霸也。「太、玄、德、憲四宗皆盛朝,其始臨禦,自視若堯、舜,浸久則不及初,陛下知其然乎?始一委輔相,故賢者得盡心。久則小人並進,造黨與,亂視聽,故上疑而不專。政去宰相則不治矣。在德宗最甚,晚節宰相惟奉行詔書,所與圖事者,李齊運、裴延齡、韋渠牟等,訖今謂之亂政。夫輔相有欺罔不忠,當亟免,忠而材者屬任之。政無它門,天下安有不治?先帝任人,始皆回容,積纖微以至誅貶。誠使雖小過必知而改之,君臣無猜,則讒邪不幹其間矣。」又言:「開元初,輔相率三考輒去,雖姚崇、宋璟不能逾。至李林甫,秉權乃十九年,遂及禍敗。是知亟進罷宰相,使政在中書,誠治本也。」

帝嘗て楊嗣復・李玨の顧望して忠ならざるを疑ひ、使を遣はして之を殺さしむ。徳裕帝の性剛にして断に果なるを知り、即ち三宰相を率ひて延英に見え、嗚咽流涕して曰く「昔太宗・徳宗大臣を誅す、未だ嘗て悔いざること無し。臣陛下に全活せしめんと欲す、異時に恨むこと無からん。二人の罪悪暴著せしめ、天下共に之を疾ましむ」と。帝許さず、徳裕伏して起たず。帝曰く「公等の為に之を赦す」と。徳裕降りて拝し坐に升る。帝曰く「令して諫官論争せしむるも、千疏と雖も、我赦さず」と。徳裕重ねて拝す。因りて使者を追ひ還し、嗣復等乃ち免る。

原文帝嘗疑楊嗣復、李玨顧望不忠,遣使殺之。德裕知帝性剛而果於斷,即率三宰相見延英,嗚咽流涕曰:「昔太宗、德宗誅大臣,未嘗不悔。臣欲陛下全活之,無異時恨。使二人罪惡暴著,天下共疾之。」帝不許,德裕伏不起。帝曰:「為公等赦之。」德裕降拜升坐。帝曰:「如令諫官論爭,雖千疏,我不赦。」德裕重拜。因追還使者,嗣復等乃免。

時に帝数たび畋遊に出で、暮夜にして乃ち還る。徳裕上言して「人君の動は日に法る、故に出でて朝を視、入りて燕息す。伝に曰く『君房に就くに常節有り』と。惟だ古誼を深く察し、夜を以て継ぐこと無かれ。側聞く五星度を失ふと、恐らくは天是を以て勤々儆戒す。詩に曰く『天の渝るを敬ひ、敢へて馳駆せず』と。願くは田游を節し、天意を承けよ」と。尋で冊拝して司空と為す。

原文時帝數出畋遊,暮夜乃還,德裕上言;「人君動法於日,故出而視朝,入而燕息。《傳》曰:'君就房有常節。'惟深察古誼,毋繼以夜。側聞五星失度,恐天以是勤勤儆戒。《詩》曰:'敬天之渝,不敢馳驅。'願節田游,承天意。」尋冊拜司空。

回鶻は開成時より黠戛斯に破らる。会昌後、烏介可汗公主を挟みて牙塞下に在り、種族大いに饑ふ。弱口・重器を以て粟を辺に易ふ。退渾・党項虜掠を利し、因りて天徳軍使田牟上言し、願くは部落の兵を以て之を撃たんとす。議者其の言を可とすべしと請ふ。徳裕曰く「回鶻は国に於て嘗て功有り、窮を以て来帰し、未だ輒く辺を擾さず、遽に之を伐つは、漢の宣帝の呼韓を待つの義に非ず。之に食を与へ、其の変を待つに如かず」と。陳夷行曰く「盗に糧を資すは、計に非ず、之を撃つの便に如かず」と。徳裕曰く「沙陀・退渾は、恃むべからず。夫れ利を見れば則ち進み、敵に遇へば則ち走る、雑虜の常態、孰か肯て国家の為に用たらん。天徳の兵素より弱し、一城を以て勁虜と確むれば、敗れざる無し。請ふ牟に詔して諸戎の計を聴くこと無からしめよ」と。帝是に於て粟二万斛こくを貸す。

原文回鶻自開成時為黠戛斯所破。會昌後,烏介可汗挾公主牙塞下,種族大饑,以弱口、重器易粟于邊。退渾、党項利虜掠,因天德軍使田牟上言,願以部落兵擊之。議者請可其言。德裕曰:「回鶻于國嘗有功,以窮來歸,未輒擾邊,遽伐之,非漢宣帝待呼韓之義。不如與之食,以待其變。」陳夷行曰:「資盜糧,非計也,不如擊之便。」德裕曰:「沙陀、退渾,不可恃也。夫見利則進,遇敵則走,雜虜之常態,孰肯為國家用邪?天德兵素弱,以一城與勁虜確,無不敗。請詔牟無聽諸戎計。」帝於是貸粟二萬斛。

会に嗢没斯赤心を殺して降る、赤心の兵潰けて去る。是に於て回鶻勢窮し、数たび羊馬を丐ひ、兵を藉りて故地を復せんと欲し、又た天徳城を仮りて以て公主を舎せんことを願ふ。帝許さず。乃ち進みて振武の保大柵杷頭峰に逼り、以て朔川を略し、転戦して雲州に至る。刺史張献節城を嬰して出でず。回鶻乃ち大いに掠め、党項・退渾皆保険して敢へて拒まざる。帝益々向に田牟の二部の兵を用ひざりし効を知り、乃ち復た計を以て問ふ。徳裕曰く「杷頭峰の北は皆大磧なり、騎を利用し、歩を以て之に当るべからず。今烏介の恃む所は、公主のみ。健将をして奇を出だして奪ひ還さしめ、王師急撃すれば、彼必ず走らん。今鋭将石雄に易ふる者無し。請ふ籓渾の勁卒を以て漢兵と銜枚夜に之を撃たしむれば、勢必ず得ん」と。帝即ち方略を劉沔に授け、令して雄に邀撃せしめて可汗を殺胡山に於て破り、公主を迎へて還す。回鶻遂に敗る。位を進めて司徒と為す。

原文會嗢沒斯殺赤心以降,赤心兵潰去。於是回鶻勢窮,數丐羊馬,欲藉兵復故地,又願假天德城以舍公主,帝不許。乃進逼振武保大柵杷頭峰,以略朔川,轉戰雲州,刺史張獻節嬰城不出。回鶻乃大掠,党項、退渾皆保險莫敢拒。帝益知向不許田牟用二部兵之效,乃復問以計,德裕曰:「杷頭峰北皆大磧,利用騎,不可以步當之。今烏介所恃,公主爾,得健將出奇奪還之,王師急擊,彼必走。今銳將無易石雄者,請以籓渾勁卒與漢兵銜枚夜擊之,勢必得。」帝即以方略授劉沔,令雄邀擊可汗于殺胡山,敗之,迎公主還,回鶻遂敗。進位司徒。

黠戛斯が使者を派遣して来朝し、かつ安西・北庭を攻め取ったと述べ、帝は黠戛斯からその地を求めることを望んだが、徳裕は言う、「不可でございます。安西は京師より七千里、北庭は五千里でございます。昔は河西・隴右より玉門関に至るまで、皆わが郡県であり、しばしば兵がおり、ゆえに緩急に応じて調発できました。河・隴より吐蕃に入るには、道は回鶻を経由します。回鶻は今破滅いたしましたが、果たして黠戛斯がその地を有しているでしょうか?仮に安西を得たとしても、すぐに都護を再び置き、一万の兵を派遣して戍らせますが、何処から兵を興し発し、どの道で糧食を輸送いたしましょう?あの天徳・振武でさえ京師に近く、その力でもなお不足を苦しんでおります。まして七千里の安西をどういたしましょう?臣はたとえ得たとしても、無用であると考えます。昔、漢の魏相は車師での屯田を廃止するよう請い、賈捐之は珠崖を放棄するよう請い、近くでは狄仁傑もまた四鎮及び安東を放棄するよう請いました。皆、外に貪って内を消耗することを望まなかったのでございます。この三臣は、全盛の時にあってさえ、なお中国を肥やすために割譲放棄しようとしたのです。まして久しく没し、はるか遠方の地をどういたしましょうか?これは実費を持って、虚事を買い、一回鶻を滅ぼして、また新たなものを生み出すことになります」と。帝はそこでやめた。

原文黠戛斯遣使來,且言攻取安西、北庭,帝欲從黠戛斯求其地,德裕曰:「不可。安西距京師七千里,北庭五千里。異時繇河西、隴右抵玉門關,皆我郡縣,往往有兵,故能緩急調發。自河、隴入吐蕃,則道出回鶻。回鶻今破滅,未知黠戛斯果有其地邪?假令安西可得,即復置都護,以萬人往戍,何所興發,何道饋輓?彼天德、振武于京師近,力猶苦不足,況七千里安西哉?臣以為縱得之,無用也。昔漢魏相請罷田車師,賈捐之請棄珠崖,近狄仁傑亦請棄四鎮及安東,皆不願貪外以耗內。此三臣者,當全盛時,尚欲棄割以肥中國,況久沒甚遠之地乎?是持實費,市虛事,滅一回鶻,而又生之。」帝乃止。

沢潞の劉従諫が死に、その従子の劉稹が勝手に留後を務め、節度使の地位を求めた。徳裕は言う、「沢潞は内陸の地であり、河朔とは比べものになりません。昔は皆、儒術に通じた大臣がこれを守っておりました。李抱真が初めて昭義軍を建て、最も功績がありましたが、徳宗でさえその子が継ぐことを許しませんでした。劉悟が死んだ時、敬宗は政事に倦んでおり、遂に符節を従諫に授けました。太和の時、長子で兵権を専断し、密かに李訓・鄭注と結び、外には忠を効うと偽り、君側の奸を除くよう請いました。そして犬馬の病(重病)にかかると、医者を謝絶し使者を拒み、すぐに兵を劉稹に委ねました。これを放置して討たなければ、四方に示しが立ちません」と。帝が言う、「勝てるか?」と。答えて言う、「河朔は、劉稹が頼みとする唇歯の関係でございます。もし魏博・成徳が与しなければ、破れましょう。三鎮(魏博・成徳・幽州)は世襲を許されてきました。近臣を派遣して明らかに告げさせてください、『沢潞に帥を命ずることは、三鎮の例に見習うことはできない。今朕は劉稹を誅しようと思う。それぞれ兵を率いて会せよ』と」と。帝はこれをよしとした。そこで李回に節を持たせて王元逵・何弘敬に諭させたところ、皆命令に従った。初め用兵を議した時、朝廷内外から上奏文が相次いで強く反対し、皆言う、「劉悟の功績は高く、その子孫を絶つことはできない。また従諫は十万の兵を蓄え、糧食は十年分あるので、破ることはできない」と。他の宰相もまた曖昧に迎合したが、徳裕だけが言う、「諸葛亮は曹操は用兵に長けていると言いながらも、なお昌覇を五度攻め、漅を三度越えたと言っております。ましてその下の者をどういたしましょう?しかし勝敗の損得は、兵家の常でございます。ただ陛下の聖策が先に定まり、小さな利鈍をもって浮議に動揺されなければ、功績があげられます。もし不利となりましたら、臣は命をもって責めを塞ぎます!」と。帝は憤然として言う、「朕のために朝廷に伝えよ。わが軍議を沮む者があれば、先ずこれを誅せよ!」と。群議はそこで止んだ。元逵の兵は既に出発したが、弘敬は逗留して両端を持していた。徳裕は王宰に陳・許の精鋭を率いさせ、魏博を仮道して磁州を伐つことを建議した。弘敬はこれを聞き、急いで兵を率いて自ら漳水を渡り磁州・潞州を取ることを請うた。

原文澤潞劉從諫死,其從子稹擅留事,以邀節度,德裕曰:「澤潞內地,非河朔比,昔皆儒術大臣守之。李抱真始建昭義軍,最有功,德宗尚不許其子繼。及劉悟死,敬宗方怠於政,遂以符節付從諫。太和時,擅兵長子,陰連訓、注,外托效忠,請除君側。及有狗馬疾,謝醫拒使,便以兵屬稹。舍而不討,無以示四方。」帝曰:「可勝乎?」對曰:「河朔,稹所恃以脣齒也。如令魏、鎮不與,則破矣。夫三鎮世嗣,列聖許之。請使近臣明告:'以澤潞命帥,不得視三鎮,今朕欲誅稹,其各以兵會。'」帝然之。乃以李回持節諭王元逵、何弘敬,皆聽命。始議用兵,中外交章固爭,皆曰:「悟功高,不可絕其嗣。又從諫畜兵十萬,粟支十年,未可以破也。」它宰相亦媕婀趨和,德裕獨曰:「諸葛亮言曹操善為兵,猶五攻昌霸,三越漅,況其下哉?然贏縮勝負,兵家之常,惟陛下聖策先定,不以小利鈍為浮議所搖,則有功矣。有如不利,臣請以死塞責!」帝忿然曰:「為我語於朝,有沮吾軍議者,先誅之!」群論遂息。元逵兵已出,而弘敬逗留持兩端。德裕建遣王宰以陳、許精甲,假道于魏以伐磁。弘敬聞,遽勒兵請自涉漳取磁、潞。

ちょうど横水の戍兵が叛き、太原に入り、その帥の李石を追い出し、裨将ひしょうの楊弁を奉じて留後を務めさせた。この時、劉稹はまだ降っておらず、朝廷はますます憂慮した。議する者は多く兵を皆罷められるべきだと言った。帝は中人馬元実を太原に派遣し、その変事を偵察させた。楊弁は中人に厚く賄賂を贈り、三日間帳中で酒宴を催した。帰還した元実は虚偽を述べた、「楊弁の兵は多く、明光甲を着た者が十五里にわたっています」と。徳裕が詰問した、「李石は太原に兵がないため、横水の卒千五百人を調発して榆社に戍らせたのであり、楊弁はこれに乗じて乱を起こしたのである。どうしてこれほど多くの卒を列ねることができようか?」と。すると元実は言う、「晋人は勇猛で、皆兵となります。募れば得られます」と。徳裕は言う、「兵士を募るには財が必要である。李石は人に一縑を貸していたため、兵が乱を起こした。李石にはそれを取り立てる術がなかったのに、楊弁はどうして得られようか?太原の鎧や戟は一つ残らず行営に送られており、どうして十五里もの明光甲を揃えられようか?」と。使者は言葉に詰まった。徳裕はすぐに上奏した、「楊弁は賤しい兵卒であり、赦すことはできません。もし力が足りなければ、劉稹を捨てて楊弁を誅することを請います」と。急いで王逢に命じて榆社の軍を起こさせ、詔を下して元逵に土門に向かわせ、太原で会合させた。河東監軍の呂義忠はこれを聞き、即日に榆社の卒を召し入れて楊弁を斬り、その首を京師に献上した。

原文會橫水戍兵叛,入太原,逐其帥李石,奉裨將楊弁主留事。方是時,稹未下,朝廷益為憂。議者頗言兵皆可罷。帝遣中人馬元實如太原,偵其變。弁厚賄中人,帳飲三日。還,謬曰:「弁兵多,屬明光甲者十五里。」德裕詰曰:「李石以太原無兵,故調橫水卒千五百使戍榆社,弁因以亂,渠能列卒如此多邪?」則曰:「晉人勇,皆兵也,募而得之。」德裕曰:「募士當以財,李石以人欠一縑,故兵亂,石無以索之,弁何得邪?太原一鎧一戟,舉送行營,安致十五里明光乎?」使者語塞。德裕即奏:「弁賤伍,不可赦。如力不足,請舍稹而誅弁。」遽趣王逢起榆社軍,詔元逵趨土門,會太原。河東監軍呂義忠聞,即日召榆社卒入斬弁,獻首京師。

徳裕は常に、貞元・太和の間に征討があった時、諸道の兵が国境を出ると、すぐに度支に依存し、多くは遷延して国力を困窮させたことを憂えていた。あるいは賊と約束し、守備を弛ませさせ、一県一屯を得て天子に報告するだけで、ゆえに軍は大功を立てなかった。そこで諸将に勅を下し、直接州を取るように命じ、県を攻めないよう請うた。ゆえに元逵らが邢・洺・磁を下すと、劉稹の気勢は尽きた。まもなく高文端が帰順し、劉稹の糧食が乏しく、皆女子が穂をもみ潰して兵に食べさせていると述べた。間もなく、郭誼が劉稹の首を持って降伏した。帝が問うた、「郭誼をどう処置すべきか?」と。徳裕は言う、「劉稹は小僧に過ぎず、どうして謀反を知りえましょう?職務として郭誼がこれを為したのです。今三州は既に降り、劉稹は窮迫し、さらにその一族を売り飛ばして富貴を求めようとしています。誅さなければ、後世に悪を懲らすことができません」と。帝は言う、「朕の考えも同じである」と。そこで詔を下して石雄を潞州に入らせ、郭誼ら及びかつて劉稹に用いられた者をことごとく捕らえ、悉く誅した。功績を策して太尉に拝し、趙国公に進封された。徳裕は固辞して言う、「唐が興って以来、太尉はわずか七人でございます。尚父の子儀でさえ拝することを敢えてしませんでした。近くでは王智興・李載義が皆、保・傅を超えて拝されましたが、この官を重んじ惜しんだからでございます。裴度は司徒を十年務めても、遷りませんでした。臣は旧い官秩を守るだけで十分でございます」と。帝は言う、「朕は公に酬いる官がないことを恨む。固く辞するな」と。徳裕はまた陳べた、「先臣(父の李吉甫)は趙に封ぜられ、嫡孫の寛中が生まれた時、字を三趙と付けました。嫡流に伝え、傍流には及ばないとの意でございます。臣が前に益封された時、既に中山に改めております。臣の先祖は皆かつて汲に住みました。衛に封ぜられることを願います」と。帝はこれに従い、遂に衛国公に改封した。

原文德裕每疾貞元、太和間有所討伐,諸道兵出境,即仰給度支,多遷延以困國力。或與賊約,令懈守備,得一縣一屯以報天子,故師無大功。因請敕諸將,令直取州,勿攻縣。故元逵等下邢、洺、磁,而稹氣索矣。俄而高文端歸命,稱稹糧乏,皆女子挼穟哺兵。未幾,郭誼持稹首降。帝問:「何以處誼?」德裕曰:「稹豎子,安知反?職誼為之。今三州已降,而稹窮蹙,又販其族以邀富貴,不誅,後無以懲惡。」帝曰:「朕意亦爾。」因詔石雄入潞,盡取誼等及嘗為稹用者,悉誅之。策功拜太尉,進封趙國公。德裕固讓,言:「唐興,太尉惟七人,尚父子儀乃不敢拜。近王智興、李載義皆超拜保、傅,蓋重惜此官。裴度為司徒十年,亦不遷,臣願守舊秩足矣。」帝曰:「吾恨無官酬公,毋固辭。」德裕又陳:「先臣封于趙,塚孫寬中始生,字曰三趙,意將傳嫡,不及支庶。臣前益封,已改中山。臣先世皆嘗居汲,願得封衛。」從之,遂改衛國公。

帝嘗て従容として宰相に謂ひて曰く、「或人孔子其の徒三千も亦た党と為すと称す、信ずるか」と。德裕曰く、「昔劉向云ふ、『孔子と顏回・子貢と更相に称譽し、朋党と為さず。禹・稷と皋陶と轉相に汲引し、比周と為さず。邪心無きなり。』臣嘗て共・鮌・驩兜と舜・禹と雜處して堯の朝に在りしを以てす。共工・驩兜は則ち党と為し、舜・禹は党と為さず。小人は相與に比周し、迭は掩蔽を為すなり。賢人君子は然らず、國に忠なれば則ち心を同じくし、義に聞けば則ち志を同じくす。退きて各其の己を行ひ、私を以て交ふべからず。趙宣子・隨會繼て諫を納れ、司馬侯・叔向比して君に事へ、党と為さず。公孫弘每に汲黯と間を請ふ。黯先づ之を發し、弘其の後を推す。武帝の言ふ所皆聽く。黯・弘雖も並びに進むも、然れども廷に齊人の少情を詰め、其の布被を詐りと譏るは、則ち先發後繼、党と為さず。太宗房玄齡と事を圖るに、則ち曰く杜如晦に非ざれば能く之を籌む莫しと。及如晦在るに及びて、亦玄齡の策を推す。則ち同心して國を圖り、党と為さず。漢の硃博・陳鹹相為に腹心と為り、公を背き黨に死す。周福・房植各其の黨を以て相傾き、議論相軋く。故に朋黨は甘陵の二部に始まる。及甚だしきに至りて、之を鉤黨と謂ひ、繼て誅夷を受く。王制を以て之を言へば、不幸に非ざるなり。周の衰へ、列國の公子に信陵・平原・孟嘗・春申有り。游談者は四豪を以て稱首と為し、亦各客三千有り、務めて譎詐勢利を以て相高めし。仲尼の徒は、唯仁義を行ふ。今議者は之を比せんと欲す、罔きなり。臣未だ所謂黨とは、國の為めか、身の為めかを知らず。誠に國の為めならば、隨會・叔向・汲黯・房・杜の道行はるべく、必ずしも黨を要せず。今所謂黨とは、善を誣ひ忠を蔽ひ、下に附き上を罔ひ、車馬馳驅して以て權勢に趨き、晝夜合謀して美官要選、悉く其の黨を引いて之を為し、然らずば抑壓して以て退かしむ。仲尼の徒に是れ有るか。陛下是れを以て之を察せば、則ち奸偽見るべし」と。

原文帝嘗從容謂宰相曰:「有人稱孔子其徒三千亦為黨,信乎?」德裕曰:「昔劉向云:'孔子與顏回、子貢更相稱譽,不為朋黨;禹、稷與皋陶轉相汲引,不為比周。無邪心也。'臣嘗以共、鮌、驩兜與舜、禹雜處堯朝,共工、驩兜則為黨,舜、禹不為黨。小人相與比周,迭為掩蔽也。賢人君子不然,忠於國則同心,聞于義則同志,退而各行其己,不可交以私。趙宣子、隨會繼而納諫,司馬侯、叔向比以事君,不為黨也。公孫弘每與汲黯請間,黯先發之,弘推其後,武帝所言皆聽。黯、弘雖並進,然廷詰齊人少情,譏其布被為詐,則先發後繼,不為黨也。太宗與房玄齡圖事,則曰非杜如晦莫能籌之。及如晦在焉,亦推玄齡之策。則同心圖國,不為黨也。漢硃博、陳鹹相為腹心,背公死黨。周福、房植各以其黨相傾,議論相軋,故朋黨始于甘陵二部。及甚也,謂之鉤黨,繼受誅夷。以王制言之,非不幸也。周之衰,列國公子有信陵、平原、孟嘗、春申,游談者以四豪為稱首,亦各有客三千,務以譎詐勢利相高;仲尼之徒,唯行仁義。今議者欲以比之,罔矣。臣未知所謂黨者,為國乎?為身乎?誠為國邪,隨會、叔向、汲黯、房、杜之道可行,不必黨也。今所謂黨者,誣善蔽忠,附下罔上,車馬馳驅,以趨權勢,晝夜合謀,美官要選,悉引其黨為之,否則抑壓以退。仲尼之徒,有是乎?陛下以是察之,則奸偽見矣。」

時に韋弘質建言す、「宰相錢穀を兼ねて治むべからず」と。德裕奏言す、「管仲治國に明らかなり。其の語に曰く、『國の重器、令より重きは莫し。令重ければ君尊く、君尊ければ國安し。人を治むるの本、令より要なるは莫し』と。故に曰く『令を虧く者は死し、令を益す者は死し、令を行はざる者は死し、令を留むる者は死し、令に從はざる者は死す。五者赦す無し』と。又曰く、『令は上に在りて而も可否を論ずるは下に在り、是れ主威下に人に系るなり』と。太和の後、風俗浸く敝る。令は上に出づるも、之を非むは下に在り。此の敝止まざれば、國を治むる無し。匡衡曰く、『大臣は國家の股肱、萬姓の瞻仰する所、明主の慎みて擇ぶ所なり』と。傳に曰く、『下其の上爵を輕んじ、賤人柄臣を圖らば、則ち國家搖動して人靜かならず』と。今弘質人の教ふる所に爲りて言ふ、是れ柄臣を圖る者なり。且つ蕭望之は漢の名儒、御史大夫と爲りて奏して云ふ、『歲首、日月少光、咎臣等に在り』と。宣帝望之の意丞相を輕んずるを以てし、下して司に詰問せしむ。貞觀の中、監察御史陳師合上言す、『人の思慮は限り有り、一人數職を總ぶべからず』と。太宗曰く、『此れ我が君臣を離間せんと欲するなり』と。之を嶺外に斥く。臣謂ふ、宰相に奸謀隱慝有らば、則ち人皆上論するを得べし。制置職業に至りては、人主の柄、小人の幹する所得る所に非ず。古者朝廷の士、各官業を守り、思ひ位を出でず。弘質賤臣、豈に宜しからざる所の言を以て妄りに天聽に觸るるを得んや。是れ宰相を輕んずるなり。陛下其の邪計を照らし、黨人中より來るを從ひ、當に之を遏絕すべし」と。德裕の大意、朝廷の尊きを欲し、臣下肅なるを欲し、而して政は宰相より出づ。朋黨を深く疾み、故に感憤切に之を言ふ。

原文時韋弘質建言:「宰相不可兼治錢穀。」德裕奏言:「管仲明于治國,其語曰:'國之重器,莫重於令。令重君尊,君尊國安。治人之本,莫要於令。'故曰'虧令者死,益令者死,不行令者死,留令者死,不從令者死。五者無赦。'又曰:'令在上而論可否在下,是主威下系於人也。'太和後,風俗浸敝,令出於上,非之在下。此敝不止,無以治國。匡衡曰:'大臣者,國家股肱,萬姓所瞻仰,明主所慎擇也。'《傳》曰:'下輕其上爵,賤人圖柄臣,則國家搖動而人不靜。'今弘質為人所教而言,是圖柄臣者也。且蕭望之,漢名儒,為御史大夫,奏云:'歲首,日月少光,咎在臣等。'宣帝以望之意輕丞相,下有司詰問。貞觀中,監察御史陳師合上言:'人之思慮有限,一人不可總數職。'太宗曰:'此欲離間我君臣。'斥之嶺外。臣謂宰相有奸謀隱慝,則人人皆得上論。至於制置職業,人主之柄,非小人所得幹。古者朝廷之士,各守官業,思不出位。弘質賤臣,豈得以非所宜言妄觸天聽!是輕宰相。陛下照其邪計,從党人中來,當遏絕之。」德裕大意,欲朝廷尊,臣下肅,而政出宰相,深疾朋黨,故感憤切言之。

又嘗て謂ひて曰く、「事を省くは官を省くに如かず、官を省くは吏を省くに如かず。冗官を簡ぶる能はば、誠に治本なり」と。乃ち郡縣の吏凡そ二千餘員を罷めんことを請ふ。衣冠去る者皆怨む。時に天下已に平らぎ、數上疏して骸骨を乞ふ。而して星家言ふ、熒惑上相を犯すと。又懇に丐ひて位を去らんとす。皆許さず。國に當ること凡そ六年。方に兵を用ふる時、決策制勝す。他の相與る無し。故に威名獨り時に重し。宣宗即位す。德裕冊を奉じて太極殿にす。帝退きて左右に謂ひて曰く、「向ひて行事近く我が者、太尉に非ずや。每たび我を顧みて、毛髮森豎す」と。翌日、罷めて檢校司徒・同中書門下平章事・荊南節度使と爲す。俄に徙めて東都留守と爲す。白敏中・令狐綯・崔鉉皆素より仇とす。大中元年、黨人李鹹をして德裕の陰事を斥けしむ。故に太子少保を以て東都に分司し、再び貶して潮州司馬と爲す。明年、又吳汝納を導きて李紳の吳湘を殺せる事を訟はしむ。而して大理卿盧言・刑部侍郎馬植・御史中丞魏扶言ふ、「紳罪無きを殺す。德裕徇ひて其の冤を成す。至りて御史を黜くるを爲し、上を罔ひて不道なり」と。乃ち貶して崖州司戶參軍事と爲す。明年、卒す。年六十三。德裕既に沒し、夢に令狐綯に見えて曰く、「公幸ひに我を哀れみ、葬に歸らしめよ」と。綯其の子滈に語る。滈曰く、「執政皆共に憾む、可ならんや」と。既に夕べ、又夢む。綯懼れて曰く、「衛公の精爽畏るべし。言はざれば、禍將に及ばん」と。帝に白して、喪を以て還るを得しむ。

原文又嘗謂:「省事不如省官,省官不如省吏,能簡冗官,誠治本也。」乃請罷郡縣吏凡二千餘員,衣冠去者皆怨。時天下已平,數上疏乞骸骨,而星家言熒惑犯上相,又懇丐去位,皆不許。當國凡六年,方用兵時,決策制勝,它相無與,故威名獨重于時。宣宗即位,德裕奉冊太極殿。帝退謂左右曰:「向行事近我者,非太尉邪?每顧我,毛髮為森豎。」翌日,罷為檢校司徒、同中書門下平章事,荊南節度使。俄徙東都留守。白敏中、令狐綯、崔鉉皆素仇,大中元年,使党人李鹹斥德裕陰事。故以太子少保分司東都,再貶潮州司馬。明年,又導吳汝納訟李紳殺吳湘事,而大理卿盧言、刑部侍郎馬植、御史中丞魏扶言:「紳殺無罪,德裕徇成其冤,至為黜御史,罔上不道。」乃貶為崖州司戶參軍事。明年,卒,年六十三。德裕既沒,見夢令狐綯曰:「公幸哀我,使得歸葬。」綯語其子滈,滈曰:「執政皆共憾,可乎?」既夕,又夢,綯懼曰:「衛公精爽可畏,不言,禍將及。」白於帝,得以喪還。

德裕性孤峭、明辯にして風采有り、善く文章を爲す。大位に至るも、猶書を去らず。其の謀議ぼうぎ古を援りて質と爲し、袞袞として喜ぶ可し。常に經綸天下を以て自ら爲す。武宗知りて能く之を任す。言從ひ計行はる。是の時王室幾くんぞ中興せんとす。

原文德裕性孤峭,明辯有風采,善為文章。雖至大位,猶不去書。其謀議援古為質,袞袞可喜。常以經綸天下自為,武宗知而能任之,言從計行,是時王室幾中興。

先づ是れ、韓全義蔡に敗れ、杜叔良深に敗る。皆監軍の宦人其の權を制し、將專ら進退するを得ず。詔書一日に三四下る。宰相豫らず。又諸道の銳兵票士、皆監軍取りて以て自ら隨ふ。每たび戰を督むるに、高きに乘り旗を建て自ら表す。師小に勝たざれば、輒ち旗を卷きて去り、大兵隨ひて北す。繇りて王師の向ふ所多く負く。回鶻・澤潞を討つに至りて、德裕建てて請ふ、詔書宰司に付して乃ち下し、監軍軍要を幹るを得ず。率ひて兵百人に一を取るを以て衛と爲す。是れより、號令明らかに壹にして、將乃ち功有り。

原文先是,韓全義敗于蔡,杜叔良敗于深,皆監軍宦人制其權,將不得專進退,詔書一日三四下,宰相不豫。又諸道銳兵票士,皆監軍取以自隨,每督戰,乘高建旗自表,師小不勝,輒卷旗去,大兵隨以北。繇是王師所向多負。至討回鶻、澤潞,德裕建請詔書付宰司乃下,監軍不得幹軍要,率兵百人取一以為衛。自是,號令明壹,將乃有功。

元和後數たび兵を用ふ。宰相休沐せず。或ひは火を繼ぎて、乃ち罷むるを得。德裕位に在るや、遽書警奏と雖も、皆從容として裁決し、率ね午漏下りて第に還り、休沐輒ち令の如くし、沛然として事無き時に若し。其の報機急を處するや、帝一切德裕をして詔を作らしむ。德裕數たび辭す。帝曰く、「學士吾が意を盡くす能はず」と。劉稹を伐つに、詔して王元逵・何弘敬に曰く、「子孫の謀りと爲すこと勿れ、輔車の勢を存せよ」と。元逵等情を得て、皆震恐して效を思ふ。已にして三州降る。賊遂に平ぐ。帝每たび魏博の功を稱すれば、則ち德裕を顧みて詔語を道ひ、其の事に切にして能く謀を伐つを咨る。三鎮每たび事を奏す。德裕使者を引いて戒敕し忠義を爲し、指意丁寧にして、歸りて各其の帥の爲に之を道はしむ。故に河朔威を畏れて敢へて慢せず。後浮屠法を除く。僧亡命多く幽州に趣く。德裕邸吏を召して戒めて曰く、「我が爲に張仲武に謝せよ。劉從諫亡命を招納す。今之を視て何の益か有らん」と。仲武懼れ、刀を居庸關の吏に授けて曰く、「僧敢へて入る者は、斬れ」と。

原文元和後數用兵,宰相不休沐,或繼火,乃得罷。德裕在位,雖遽書警奏,皆從容裁決,率午漏下還第,休沐輒如令,沛然若無事時。其處報機急,帝一切令德裕作詔,德裕數辭,帝曰:「學士不能盡吾意。」伐劉稹也,詔王元逵、何弘敬曰:「勿為子孫之謀,存輔車之勢。」元逵等情得,皆震恐思效。已而三州降,賊遂平。帝每稱魏博功,則顧德裕道詔語,咨其切於事而能伐謀也。三鎮每奏事,德裕引使者戒敕為忠義,指意丁寧,使歸各為其帥道之,故河朔畏威不敢慢。後除浮屠法,僧亡命多趣幽州,德裕召邸吏戒曰:「為我謝張仲武,劉從諫招納亡命,今視之何益?」仲武懼,以刀授居庸關吏曰:「僧敢入者,斬!」

帝は既に数度にわたり反乱を討ち功績を挙げたのであるが、徳裕は武事に慣れ過ぎてしまい、収拾がつかなくなることを憂慮し、即座に上奏して言うには、「曹操が官渡において袁紹を破った時、敗走する敵を追撃せず、自ら得たものは既に多いと称し、威厳を損なうことを恐れました。養由基は古の善射の者であり、柳の葉を百歩離れても必ず射当てたが、見物人が言うには、『少し休んだ方がよい。もし弓が歪み矢が曲がれば、それまでの功績は全て無駄になります』と。陛下の征伐は望むところを得られないことはありませんが、どうか兵を用いることを戒めとされ、そうしてこそ成功を保つことができます」と。帝はその言葉を褒めて受け入れた。方士の趙帰真が術をもって進出すると、徳裕は諫めて言うには、「この者はかつて敬宗の時に詭妄をもって禁中に出入りし、人々は皆陛下の前に至ることを望みませんでした」と。帝は言う、「帰真は我が自ら知っている。大過はないと思われる。召して養生の術を語らせただけである」と。答えて言うには、「小人は利に就くこと、蛾が灯火に赴くが如しです。以前、帰真の門を見ると、車の轍が満ちていました」と。帝は聞き入れなかった。ここにおいて術を抱き時勢を欺く者が進出し、帝の志は衰えたのである。

原文帝既數討叛有功,德裕慮忲于武,不可戢,即奏言:「曹操破袁紹於官渡,不追奔,自謂所獲已多,恐傷威重。養由基古善射者,柳葉雖百步必中,觀者曰:'不如少息,若弓撥矢鉤,前功皆棄。'陛下征伐無不得所欲,願以兵為戒,乃可保成功。」帝嘉納其言。方士趙歸真以術進,德裕諫曰:「是嘗敬宗時以詭妄出入禁中,人皆不願至陛下前。」帝曰:「歸真我自識,顧無大過,召與語養生術爾。」對曰:「小人於利,若蛾赴燭。向見歸真之門,車轍滿矣。」帝不聽。於是挾術詭時者進,帝志衰焉。

居住した安邑里の邸宅には、院を「起草」と号し、亭を「精思」と称する所があり、毎度大事を計る時にはその中に居り、左右の侍御といえども預かることはできなかった。酒を飲むことを好まず、後房には声や色による娯楽はなかった。生涯に論じ著したものは多く世に行われたという。

原文所居安邑裏第,有院號「起草」,亭曰「精思」,每計大事,則處其中,雖左右侍御不得豫。不喜飲酒,後房無聲色娛。生平所論著多行於世雲。

子に燁あり。

原文子 燁

子の燁は、汴宋幕府に仕え、象州立山尉に貶せられた。懿宗の時、赦令により郴州に移された。余りの子は皆、貶所に従って死んだ。

原文子燁,仕汴宋幕府,貶象州立山尉。懿宗時,以赦令徙郴州。餘子皆從死貶所。

燁の子に延吉あり。

原文燁子 延吉

燁の子の延吉は、乾符年中、集賢校理となり、累次擢げられて司勳員外郎に至り、平泉に還って居住した。昭宗が東遷した際、朝謁せざることを坐し、衛尉主簿に貶せられた。

原文燁子延吉,乾符中,為集賢校理,擢累司勳員外郎,還居平泉。昭宗東遷,坐不朝謁,貶衛尉主簿。

附すに崔嘏、丁柔立あり。

原文附 崔嘏 丁柔立

徳裕が斥けられた時、中書舎人崔嘏(字は乾錫)は、義士であった。詔書の起草が深切でないことを坐し、端州刺史に貶せられた。嘏は進士に挙げられ、また制策により刑州刺史を歴任した。劉稹が叛いた時、その党の裴問を州に戍らせたが、嘏は説いて命令に従わせ、考功郎中に改められ、当時は皆、賞を選りすぐったと謂われた。この時に至り、詔を作るに当たり巧みに罪を傅えることを肯んじなかった。呉汝納の獄において、朝廷の公卿で弁明する者は無かったが、ただ淮南府佐の魏鉶が捕らえられ、吏が誣って徳裕を引き合いに出すよう迫ったが、痛楚の掠めに遭いながらも終に従わず、遂に嶺外に貶せられて死んだ。また丁柔立という者は、徳裕が国政を執っていた時、或る者がその直清をもって諫争の官に任ずべきことを薦めたが、果たして用いられなかった。大中初年、左拾遺となった。既に徳裕が放逐されると、柔立は内にこれを憫み傷み、上書してその冤罪を直そうとしたが、阿附を坐し、南陽尉に貶せられた。

原文德裕之斥,中書舍人崔嘏,字乾錫,誼士也。坐書制不深切,貶端州刺史。嘏舉進士,復以制策曆刑州刺史。劉稹叛,使其党裴問戍於州,嘏說使聽命,改考功郎中,時皆謂遴賞。至是,作詔不肯巧傅以罪。吳汝納之獄,朝廷公卿無為辨者,惟淮南府佐魏鉶就逮,吏使誣引德裕,雖痛楚掠,終不從,竟貶死嶺外。又丁柔立者,德裕當國時,或薦其直清可任諫爭官,不果用。大中初,為左拾遺。既德裕被放,柔立內湣傷之,為上書直其冤,坐阿附,貶南陽尉。

懿宗の時、詔して徳裕の太子少保・衛国公を追復し、尚書左僕射を贈り、その没より十年を距てた。

原文懿宗時,詔追復德裕太子少保、衛國公,贈尚書左僕射,距其沒十年。

賛して曰く、漢の劉向が朋党を論じたその言葉は明らかで切実であり、流涕に値するが、主は悟らず、遂に無辜を陥れた。徳裕はまた向の言葉を援用し、邪正を指摘して質し、再び逐われ、終に大禍を蒙った。ああ、朋党の興ることは、危うきかな。その根は主威の奪われる者は下が陵し、聴くこと明らかならざる者は賢と不肖とが両方進み、進む者は必ず勝つことを務め、そして後人人は私する所を引き、私する所を以て狐疑断たざる隙に乗ずるにある。これは桀・蹠と孔・顔とを引き合わせて前にて鬨がせ、而して衆寡を以て勝負とするようなものである。国亡びざるを得ようか。身は名宰相たりながら、憎む所を損なうこと能わず、顕わに擠して仇と為し、比周の勢い成るに任せ、根株牽連し、賢智は播奔し、而して王室も亦衰えた。寧ろ明察に未だ哲ならざる点があったのではなかろうか。そうでなければ、その功烈は光明に満ち、武を佐けて中興し、姚崇・宋璟らと等しかったであろう。

原文贊曰:漢劉向論朋黨,其言明切,可為流涕,而主不悟,卒陷亡辜。德裕復援向言,指質邪正,再被逐,終嬰大禍。嗟乎!朋黨之興也,殆哉!根夫主威奪者下陵,聽弗明者賢不肖兩進,進必務勝,而後人人引所私,以所私乘狐疑不斷之隙;是引桀、蹠、孔、顏相哄於前,而以眾寡為勝負矣。欲國不亡,得乎?身為名宰相,不能損所憎,顯擠以仇,使比周勢成,根株牽連,賢智播奔,而王室亦衰,寧明有未哲歟?不然,功烈光明,佐武中興,與姚、宋等矣。