李德裕、字は文饒、元和の宰相吉甫の子なり。少より学に力を入れ、冠すや、卓犖として大節あり。諸生と共に有司の試を受けるを好まず、蔭により校書郎に補せらる。河東の張弘靖、これを辟きて掌書記と為す。府罷し、召されて監察御史に拝せらる。
穆宗即位し、翰林學士に擢でらる。帝、太子たりし時、既に吉甫の名を聞き、ここより德裕を顧みること厚く、凡そ號令大典冊は、皆その手を経る。数え召し見え、賞賜獎勵優渥なり。帝、政に怠荒す、故に戚裏多く請丐するところあり、宦人を挟みて禁中の語を詗し、大臣に関托す。德裕建言す、「旧制、駙馬都尉と要官は禁中往来せず。開元中、訶督特に切なり、今乃ち公然と宰相及び大臣の私第に至る。是等は他材無く、直に禁密を洩漏し、中外に交通するのみ。請う、宰相に事を白する者は、中書に至るを聴すべし、輒り第に詣る無からしむ。」帝然りとす。再び中書舍人に進む。未だ幾ばくもせず、御史中丞を授けらる。
初め、吉甫憲宗に相たりし時、牛僧孺・李宗閔、直言策に対し、痛く当路を詆し、失政を条す。吉甫、帝に訴え、且つ泣く、有司皆罪を得、遂に怨みを為す。吉甫又た帝に謀りて両河の叛将を討たんとし、李逢吉その言を沮解し、功未だ既ならざるに吉甫卒し、裴度実にこれを継ぐ。逢吉、議合わざるを以て罷め去り、故に吉甫を追銜して度を怨み、德裕を擯きて進ましめず。ここに至り、帝の暗庸なるを間み、度が元稹と相怨むを憚り、その宰相を奪いて己れ代わりて之に代わらんとす。僧孺を引きて益々党を樹てんと欲し、乃ち德裕を出して浙西觀察使と為す。俄にして僧孺相に入り、ここより牛李の憾結ぶ。
初め、潤州は王國清の乱を承け、竇易直府庫を傾けて軍に賚い、貲用空殫し、而下益々驕る。德裕自ら檢約し、留州の財を以て兵を贍ひ、儉ながらも均し、故に士怨み無し。再期すれば、則ち賦物儲牣す。南方は禨巫を信じ、父母癘疾と雖も、子棄てて敢えて養わず。德裕、長老に語る可き者を択び、孝慈の大倫を諭し、患難相収め棄つべからざるの義を以てし、帰りて相曉敕せしめ、約に違う者は顕に法を以て置く。数年、悪俗大いに変ず。又た属州の経祠に非ざる者を按じ、千余所を毀ち、私邑山房千四百舎を撤し、寇廋蔽する所無し。天子詔を下して褒揚す。
敬宗立ち、侈用度無く、詔して浙西に脂朅妝具を上らしむ。德裕奏す、「比年旱災、物力未だ完からず。乃ち三月壬子の赦令、常貢の外、悉く進献を罷む。此れは陛下、聚斂の吏の縁りて奸を成すを恐れ、雕窶の人のその敝に勝えざるを恐れ給うなり。本道素より富饒と號し、更に李錡・薛蘋、皆民に酒を榷し、供に羨財あり。元和の詔書は榷酤を停め、又た赦令は諸州の羨餘の使に送る無きを禁ず。今存する者は惟だ留使錢五十萬緡のみ、率歳の経費常に十三萬少く、軍用褊急なり。今須する所の脂朅妝具、度るに銀二萬三千兩、金百三十兩を用い、物は土産に非ず、力を営索すと雖も、尚お逮ばざるを恐る。願くは宰相に詔して議せしめ、何を以てか臣をして詔旨に違わず、軍興に乏せず、人を疲れさず、怨を斂めざらしむるかを、則ち前敕後詔、咸か遵承す可し。」報えず。是の時に方り、進献を罷むるや、月を閲せずして、貢を求むる使者足相接して道にあり、故に德裕一を推して他を諷す。
又た詔して盤絛繚綾千匹を索む。復た奏して言す、「太宗の時、使涼州に至り、名鷹を見て、李大亮に諷して之を献ぜしむ。大亮諫めて止め、詔を賜いて嘉歎す。玄宗の時、使者江南に抵りて〓〓・翠鳥を捕えしむ。汴州刺史倪若水之を言う、即ち褒納を見る。皇甫詢、半臂を織り、琵琶の捍撥を造り、牙筩を鏤くことを益州にてす。蘇頲詔に奉ぜず、帝罪を加えず。夫れ〓〓・鏤牙は微物なり。二三の臣尚お労人損德を言うを以てす。豈に二祖かくの如き臣ありて、今独り之無からんや。蓋し有位者蔽いて聞かざるなり、陛下拒んで納れざるに非ず。且つ立鵝天馬、盤絛掬豹、文彩怪麗、惟だ乗輿当に禦すべし。今広く千匹を用うるは、臣未だ諭さず。昔、漢文身に弋綈を衣い、元帝軽纖の服を罷む。故に仁德慈儉、今に至るまで之を称す。願くは陛下二祖の容納に師い、遠く漢家の恭約を思い、賜わるを裁ち節減せば、則ち海隅の蒼生畢く賜を受くべし。」優詔して為に停む。
元和以後より、天下に私に僧を度するを禁ず。徐州の王智興紿いて天子の誕月を言い、壇を築き人を度して以て福を資せんことを請う。詔して可とす。即ち顕に江淮の間に募り、民皆曹輩奔走し、因りてその財を牟擷して自ら入る。德裕劾奏す、「智興、泗州に壇を為し、度せんと願う者を募り、人錢二千を輸すれば、則ち復た勘詰せず、普く髡落を加う。淮より右に自り、戸三丁男、必ず一男剔発し、影傜賦を規り、度する所算無し。臣、江を度する者の日数百なるを閲す。蘇・常の齊民、十固八九、若し禁遏を加えざれば、則ち前めて誕月に至り、江淮丁男六十萬を失い、細変と為さず。」詔有りて徐州に禁止せしむ。
時に帝昏荒、数え遊幸し、群小に狎比し、朝を聴くこと簡忽なり。德裕『丹扆六箴』を上り、表して言す、「『心乎く愛す、遐く謂わざるか』、此れ古の賢人の事君に篤き者なり。夫れ跡疎にして言親しき者は危うく、地遠にして意忠なる者は忤う。臣窃に惟み念う、先聖より抜き出で、遍く寵私を荷い、忠を竭くさざれば、是れ霊鑒に負く。臣、先朝に在り、嘗て『大明賦』を献じて以て諷し、頗る嘉采を蒙る。今日明主に節を尽くすも、亦た是れに由る。」其一を『宵衣』と曰い、朝を見るの晩きを諷す。二を『正服』と曰い、服禦の法に非ざるを諷す。三を『罷献』と曰い、怪珍を斂求するを諷す。四を『納誨』と曰い、忠言を侮棄するを諷す。五を『辨邪』と曰い、群小を任するを諷す。六を『防微』と曰い、偽遊軽出を諷す。辞皆明直婉切なり。帝其の言を用うること能わざるも、猶お韋處厚に敕して諄諄として詔を作らしめ、厚く其の意に謝す。然れども逢吉に排笮せられ、訖く内徙せず。
時に亳州の浮屠が水は病を癒すと妄言し、これを「聖水」と号し、転々と流聞され、南方の人々は十戸ごとに一人を雇い、汲みに行かせた。既に行きて飲むや、病者は葷血に近づくことを敢えず、危篤の老人は多く死んだ。而して水一斗は三十千、取る者はますます他から汲み、道中で転売し、互いに欺き煽り、往く者は日に数十百人に及んだ。徳裕は厳しく津邏に命じて捕え絶やし、且つ言うには、「昔、呉に聖水あり、宋・斉に聖火あり、皆もと妖祥にして、古人の禁ずる所なり。観察使令狐楚に命じて填塞せしめ、妄りの源を絶たんことを請う」と。帝はこれに従う。帝は方に仏老に惑い、福を祷り年を祈り、浮屠方士、並びに禁中に出入りす。狂人杜景先が上言して、その友周息元は寿数数百歳とし、帝は宦者を遣わして浙西に迎えさせ、詔して在所に馳駅して敦遣せしむ。徳裕は上疏して曰く、「道の高き者は、広成・玄元に若くは莫く、人の聖なる者は、軒轅・孔子に若くは莫し。昔、軒轅が広成子に治身の要を問うに、曰く、'視ること無く聴くこと無く、神を抱いて以て静かにすれば、形将に自ら正し。子の形を労すること無く、子の精を揺るがすこと無く、乃ち長生すべし。慎んで其の一を守り、以て其の和に処す。故に我れ身を修めて千二百歳、形未だ嘗て衰えず'と。又曰く、'吾が道を得る者は上は皇となり、下は王となる'と。玄元が孔子に語りて曰く、'子の驕気と多欲・態色と淫志とを去れ、是れ皆子の身に益無し'と。陛下は軒後の術を修め、異人を物色す。若し広成・玄元が混跡して至り、陛下に告ぐるの言あらば、亦此に出ずる莫からん。臣は慮るに、今得る所の者は、皆迂怪の士にして、物をして氷を淖ますが如く、小術を以て聰明を欺き、文成・五利の如き者ならんと。又、前世の天子は方士を好むと雖も、未だ其の薬を禦ぐる者無し。故に漢人は黄金成る可しと称し、以て飲食の器と為せば則ち寿ぶと為す。高宗の時劉道合、玄宗の時孫甑生皆黄金を作る能くし、二祖は之を服さず、豈に宗廟を重しと為さざるに非ずや。儻し必ず真隠を致さば、願わくは保和の術を師うるに止め、慎んで薬に及ぶこと無からしめよ。然らば則ち九廟尉悦せん」と。息元は果たして誕譎にして情に合わず、自ら張果・葉靜能と遊ぶと云う。帝は詔して画工に肖状して図と為し以て之を観るも、終に帝の世に他に験無し。文宗即位して、乃ち之を逐う。
年を逾えて、剣南西川に徙る。蜀は南詔の入寇より以来、杜元穎を敗り、而して郭釗之に代わるも、病みて事を能わず、民は職を失い、聊生す所無し。徳裕至るや、則ち残を完うし怯を奮い起こし、皆条次有り。成都は既に南に姚・協を失い、西に維・松を亡い、清溪より沫水を下りて左に至るまで、尽く蛮の有と為る。初め、韋皋は南詔を招来し、巂州を復し、内資を傾けて蛮と好を結び、戦陣の文法を示す。徳裕は皋が戎を啓き盗に資するを以て、其の策是に非ず、癰疽を養い成し、第に未だ決せざるのみとす。元穎の時に至り、隙に遇いて発し、故に長駆深入し、千里を蹂剔し、蕩然として孑遺無し。今、瘢夷尚お新たに、痛く矯革せざれば、一方の恥を刷うること能わず。乃ち籌邊楼を建て、南道の山川険要にして蛮と相入る者を按じて之を左に図し、西道の吐蕃と接する者を右に図す。其の部落の衆寡、饋餫の遠邇、曲折ことごとく具わる。乃ち辺事に習う者を召して之と指画商訂し、凡そ虜の情偽尽く之を知る。又、伏瘴の旧獠と州兵の戦に任ずる者を料択し、獰耄を廃遣すること什三四、士敢えて怨む者無し。又、甲人は安定に、弓人は河中に、弩人は浙西に請う。繇りて蜀の器械皆犀銳なり。戸二百を率いて一人を取り、戦を習わしめ、事を貸して勿れ、緩なれば則ち農し、急なれば則ち戦う、之を「雄辺子弟」と謂う。其の精兵を南燕保義・保惠・両河慕義・左右連弩と曰い、騎士を飛星・鷙撃・奇鋒・流電・霆声・突騎と曰う。総じて十一軍。杖義城を築き、以て大度・青溪関の阻を制し、禦侮城を作り、以て栄経の犄角の勢を控え、柔遠城を作り、以て西山吐蕃を厄し、邛崍関を復し、巂州の治を台登に徙し、以て蛮の険を奪う。
ここに於いて二辺漸く懼れ、南詔は俘掠したる四千人を還すことを請い、吐蕃の維州将悉怛謀は城を以て降る。維は成都より四百里を距ち、山に因りて固と為し、東北は索叢嶺より下ること二百里、地に険無く、長川を走ること三千里に満たず、直ちに吐蕃の牙に至り、異時に之を戍り、以て虜の入るを制せし所なり。徳裕既に之を得るや、即ち兵を発して以て守り、且つ出師の利を陳ぶ。僧孺は中に居りて其の功を沮ぎ、命じて悉怛謀を虜に返し、以て盟する所を信ぜしむ。徳裕は終身之を以て恨みと為す。監軍使王踐言の朝に入るに会い、盛んに悉怛謀の死を言い、遠人の向化の意を拒ぐ。帝も亦之を悔い、即ち兵部尚書を以て召し、俄かに中書門下平章事を拝し、贊皇県伯に封ず。
故事、丞郎宰相に詣るは、須らく少間有って乃ち敢えて通ず、郎官は公事に非ざれば敢えて謁せず。李宗閔の時、往々賓客を通ず。李聽は太子太傅と為り、善くする所を招き酒を載せて宗閔の閣に集い、酣酔して乃ち去る。徳裕に至りては、則ち御史に諭す:「事を以て宰相に見ゆる者有らば、必ず先ず台に白して乃ち聴け。凡そ朝を罷むるや、龍尾道より趨り出づべし」と。遂に輒く閣に至る者無し。又、京兆の沙堤を築くこと・両街の上朝衛兵を罷む。常に建言す:「朝廷には唯だ邪正の二途有り、正は必ず邪を去り、邪は必ず正を害す。然れども其の辞皆聴く可きが若し、願わくは取捨する所を審にせよ。然らずんば、二者並び進み、聖賢と雖も経営すと雖も、成功するに繇り無からん」と。俄かに宗閔罷められ、徳裕代わって中書侍郎・集賢殿大学士と為る。初め、二省は江淮の大賈に符し、堂厨の食利を主らしむ。因りて是に貲を挟み天下に行き、至る所の州鎮に右客と為り、富人は之に倚りて自ら高しと為す。徳裕は一切之を罷む。
後、帝は暴に風を感し、言語を害す。鄭注は始め王守澄に因りて薬を進め、帝少しく間ゆ。又、李訓を薦めて待詔せしむ。帝は諫官を授けんと欲す。徳裕曰く、「昔、諸葛亮に言有り、'賢臣に親しみ小人を遠ざくれば、先漢の興隆する所以なり。小人に親しみ賢士を遠ざくれば、後漢の傾頽する所以なり'と。今、訓は小人、頃に咎悪天下に暴れ、左右に引致すべからず」と。帝曰く、「人誰か過ち無からん、当に其の改むるを容るべし。且つ逢吉も嘗て之を言えり」と。対えて曰く、「聖賢は則ち過ちを改むる有り、若し訓が天資奸邪なれば、尚お何の能く改めん。逢吉は位宰相にして、顧みて凶回を愛し、以て陛下を累わす、亦罪人なり」と。帝は王涯に語りて別に官を与えんとす。徳裕は手を搖りて涯を止む。帝は適に見て、懌ばず。訓・注皆怨み、即ち復た宗閔を召して政を輔けしめ、徳裕を拝して興元節度使と為す。入りて帝に見え、自ら陳べて闕下に留まるを願う。復た兵部尚書を拝す。宗閔奏す:「命已に行わる、止む可からず」と。更に鎮海軍に徙して王璠に代わらしむ。
先に太和年中、漳王の養母杜仲陽が浙西に帰り、詔ありて在所に存問す。時に徳裕召され、乃ち檄を留後使に留めて詔書の如くせしむ。璠入りて尚書左丞と為り、而して漳王罪を以て廃され死す、因りて戸部侍郎李漢と共に徳裕が嘗て仲陽に賂して王を導き不軌を為さしむと譖ふ。帝其の言に惑ひ、王涯・李固言・路隋を召して之を質す。注・璠・漢三人の者の語益々堅く、独り隋言ふ「徳裕大臣、宜しく此れ有るべからず」と。讒の焰稍々衰ふ。遂に徳裕を貶して太子賓客と為し、分司東都す。復た袁州長史に貶し、隋も亦宰相を免ぜらる。未だ幾ばくもせず、宗閔罪を以て斥けられ、而して注・訓等乱敗す。帝追ひて悟り徳裕の誣構を以て逐はれたるを、乃ち滁州刺史に徙す。又た太子賓客を以て分司東都す。開成初、帝従容として宰相に語りて曰く「朝廷豈に遺事有らんや」と。衆皆宋申錫を以て対ふ。帝首を俯して涕数行下り、曰く「当の時、兄弟相保たず、況んや申錫をや。有司我が為に之を褒顕せよ」と。又曰く「徳裕も亦申錫の比なり」と。起して浙西観察使と為す。後に学士に対し禁中にて、黎埴頓首して言ふ「徳裕と宗閔皆逐はる、而して独り三進官す」と。帝曰く「彼嘗て鄭注を進む、而して徳裕之を殺さんと欲す、今当に官を何人に与ふべきか」と。埴懼れて出づ。又た座の扆の前を指して宰相に示し曰く「此れ徳裕の鄭注を争へる処なり」と。
徳裕三たび浙西に在り、出入十年、淮南節度使に遷り、牛僧孺に代る。僧孺之を聞き、軍事を其の副張鷺に付し、即ち馳せ去る。淮南府の銭八十万緡、徳裕奏言して止む四十万、鷺其の半を用ふるが為なりと。僧孺帝に訴へ、而して諫官姚合・魏謨等共に劾奏して徳裕が私怨を挟みて僧孺を沮傷すとす。帝章を置きて下さず、詔して徳裕に実を覆せしむ。徳裕上言して「諸鎮の更代は、例へば半数を殺して以て水旱に備へ、軍費を助く。因りて王播・段文昌・崔從の相授くる簿最も具はりて在り。惟れ從官下に死し、僧孺之に代り、其の殺す数最も多し」と。即ち自ら劾して「初め鎮に至り、用例に失ひ、妄りに敢へず」と、遂に罪を待つ。詔有りて之を釈す。
武宗立ち、召して門下侍郎・同中書門下平章事と為す。既に謝に入り、即ち進みて帝に戒めて曰く「邪正を弁じ、委任を専らにし、而して後朝廷治まる。臣嘗て先帝に之を言ふ、用ひられず。夫れ正人は既に小人を呼んで邪と為し、小人も亦正人を謂ひて邪と為す、何を以て之を弁ぜん。請ふ物を借りて諭と為さむ。松柏の木と為るや、孤生勁特にして、因倚する所無し。蘿蔦は則ち然らず、弱くして立つ能はず、必ず他の木に附く。故に正人は一心に君に事へ、助を待つこと無し。邪人は必ず更に党を為し、以て相蔽欺す。人君たる者は是を以て之を弁ずれば、則ち惑ふこと無からん」と。又た治乱は信任に係ると謂ひ、斉の桓公の管仲に問ふ所以の霸を害する者を引き、仲対へて琴瑟笙竽・弋獵馳騁は、霸を害する者に非ず。惟だ人を知りて挙げ能はず、挙げて任ずる能はず、任じて又小人を以て雑ふ、是れ霸を害するなりと。「太・玄・徳・憲の四宗は皆盛朝なり、其の始め臨禦するや、自ら視ること堯・舜の若く、浸く久しければ則ち初に及ばず。陛下其の然るを知るや。始め一に輔相に委ぬ、故に賢者は心を尽くすことを得。久しければ則ち小人並び進み、党与を造り、視聴を乱す、故に上疑ひて専らにせず。政宰相を去れば則ち治まらず。徳宗に在りて最も甚しく、晚節の宰相は惟だ詔書を奉行するのみ、所与に事を図る者は、李齊運・裴延齢・韋渠牟等、訖る今之を乱政と謂ふ。夫れ輔相に欺罔不忠有らば、当に亟に免じ、忠にして材なる者は属任すべし。政に他の門無くんば、天下安くか治まらざらん。先帝の人を任ずるや、始め皆回容し、纖微を積みて以て誅貶に至る。誠に使ひ小過と雖も必ず知りて之を改め、君臣猜ること無くんば、則ち讒邪其の間を干さざらん」と。又た言ふ「開元初、輔相率ね三考すれば輒ち去る、姚崇・宋璟と雖も逾ゆる能はず。李林甫に至りて、権を秉ること乃ち十九年、遂に禍敗に及ぶ。是れ知る、亟に宰相を進め罷むるは、政を中書に在らしむるは、誠に治の本なり」と。
帝嘗て楊嗣復・李玨の顧望して忠ならざるを疑ひ、使を遣はして之を殺さしむ。徳裕帝の性剛にして断に果なるを知り、即ち三宰相を率ひて延英に見え、嗚咽流涕して曰く「昔太宗・徳宗大臣を誅す、未だ嘗て悔いざること無し。臣陛下に全活せしめんと欲す、異時に恨むこと無からん。二人の罪悪暴著せしめ、天下共に之を疾ましむ」と。帝許さず、徳裕伏して起たず。帝曰く「公等の為に之を赦す」と。徳裕降りて拝し坐に升る。帝曰く「令して諫官論争せしむるも、千疏と雖も、我赦さず」と。徳裕重ねて拝す。因りて使者を追ひ還し、嗣復等乃ち免る。
時に帝数たび畋遊に出で、暮夜にして乃ち還る。徳裕上言して「人君の動は日に法る、故に出でて朝を視、入りて燕息す。伝に曰く『君房に就くに常節有り』と。惟だ古誼を深く察し、夜を以て継ぐこと無かれ。側聞く五星度を失ふと、恐らくは天是を以て勤々儆戒す。詩に曰く『天の渝るを敬ひ、敢へて馳駆せず』と。願くは田游を節し、天意を承けよ」と。尋で冊拝して司空と為す。
回鶻は開成時より黠戛斯に破らる。会昌後、烏介可汗公主を挟みて牙塞下に在り、種族大いに饑ふ。弱口・重器を以て粟を辺に易ふ。退渾・党項虜掠を利し、因りて天徳軍使田牟上言し、願くは部落の兵を以て之を撃たんとす。議者其の言を可とすべしと請ふ。徳裕曰く「回鶻は国に於て嘗て功有り、窮を以て来帰し、未だ輒く辺を擾さず、遽に之を伐つは、漢の宣帝の呼韓を待つの義に非ず。之に食を与へ、其の変を待つに如かず」と。陳夷行曰く「盗に糧を資すは、計に非ず、之を撃つの便に如かず」と。徳裕曰く「沙陀・退渾は、恃むべからず。夫れ利を見れば則ち進み、敵に遇へば則ち走る、雑虜の常態、孰か肯て国家の為に用たらん。天徳の兵素より弱し、一城を以て勁虜と確むれば、敗れざる無し。請ふ牟に詔して諸戎の計を聴くこと無からしめよ」と。帝是に於て粟二万斛を貸す。
会に嗢没斯赤心を殺して降る、赤心の兵潰けて去る。是に於て回鶻勢窮し、数たび羊馬を丐ひ、兵を藉りて故地を復せんと欲し、又た天徳城を仮りて以て公主を舎せんことを願ふ。帝許さず。乃ち進みて振武の保大柵杷頭峰に逼り、以て朔川を略し、転戦して雲州に至る。刺史張献節城を嬰して出でず。回鶻乃ち大いに掠め、党項・退渾皆保険して敢へて拒まざる。帝益々向に田牟の二部の兵を用ひざりし効を知り、乃ち復た計を以て問ふ。徳裕曰く「杷頭峰の北は皆大磧なり、騎を利用し、歩を以て之に当るべからず。今烏介の恃む所は、公主のみ。健将をして奇を出だして奪ひ還さしめ、王師急撃すれば、彼必ず走らん。今鋭将石雄に易ふる者無し。請ふ籓渾の勁卒を以て漢兵と銜枚夜に之を撃たしむれば、勢必ず得ん」と。帝即ち方略を劉沔に授け、令して雄に邀撃せしめて可汗を殺胡山に於て破り、公主を迎へて還す。回鶻遂に敗る。位を進めて司徒と為す。
黠戛斯が使者を派遣して来朝し、かつ安西・北庭を攻め取ったと述べ、帝は黠戛斯からその地を求めることを望んだが、徳裕は言う、「不可でございます。安西は京師より七千里、北庭は五千里でございます。昔は河西・隴右より玉門関に至るまで、皆わが郡県であり、しばしば兵がおり、ゆえに緩急に応じて調発できました。河・隴より吐蕃に入るには、道は回鶻を経由します。回鶻は今破滅いたしましたが、果たして黠戛斯がその地を有しているでしょうか?仮に安西を得たとしても、すぐに都護を再び置き、一万の兵を派遣して戍らせますが、何処から兵を興し発し、どの道で糧食を輸送いたしましょう?あの天徳・振武でさえ京師に近く、その力でもなお不足を苦しんでおります。まして七千里の安西をどういたしましょう?臣はたとえ得たとしても、無用であると考えます。昔、漢の魏相は車師での屯田を廃止するよう請い、賈捐之は珠崖を放棄するよう請い、近くでは狄仁傑もまた四鎮及び安東を放棄するよう請いました。皆、外に貪って内を消耗することを望まなかったのでございます。この三臣は、全盛の時にあってさえ、なお中国を肥やすために割譲放棄しようとしたのです。まして久しく没し、はるか遠方の地をどういたしましょうか?これは実費を持って、虚事を買い、一回鶻を滅ぼして、また新たなものを生み出すことになります」と。帝はそこでやめた。
沢潞の劉従諫が死に、その従子の劉稹が勝手に留後を務め、節度使の地位を求めた。徳裕は言う、「沢潞は内陸の地であり、河朔とは比べものになりません。昔は皆、儒術に通じた大臣がこれを守っておりました。李抱真が初めて昭義軍を建て、最も功績がありましたが、徳宗でさえその子が継ぐことを許しませんでした。劉悟が死んだ時、敬宗は政事に倦んでおり、遂に符節を従諫に授けました。太和の時、長子で兵権を専断し、密かに李訓・鄭注と結び、外には忠を効うと偽り、君側の奸を除くよう請いました。そして犬馬の病(重病)にかかると、医者を謝絶し使者を拒み、すぐに兵を劉稹に委ねました。これを放置して討たなければ、四方に示しが立ちません」と。帝が言う、「勝てるか?」と。答えて言う、「河朔は、劉稹が頼みとする唇歯の関係でございます。もし魏博・成徳が与しなければ、破れましょう。三鎮(魏博・成徳・幽州)は世襲を許されてきました。近臣を派遣して明らかに告げさせてください、『沢潞に帥を命ずることは、三鎮の例に見習うことはできない。今朕は劉稹を誅しようと思う。それぞれ兵を率いて会せよ』と」と。帝はこれをよしとした。そこで李回に節を持たせて王元逵・何弘敬に諭させたところ、皆命令に従った。初め用兵を議した時、朝廷内外から上奏文が相次いで強く反対し、皆言う、「劉悟の功績は高く、その子孫を絶つことはできない。また従諫は十万の兵を蓄え、糧食は十年分あるので、破ることはできない」と。他の宰相もまた曖昧に迎合したが、徳裕だけが言う、「諸葛亮は曹操は用兵に長けていると言いながらも、なお昌覇を五度攻め、漅を三度越えたと言っております。ましてその下の者をどういたしましょう?しかし勝敗の損得は、兵家の常でございます。ただ陛下の聖策が先に定まり、小さな利鈍をもって浮議に動揺されなければ、功績があげられます。もし不利となりましたら、臣は命をもって責めを塞ぎます!」と。帝は憤然として言う、「朕のために朝廷に伝えよ。わが軍議を沮む者があれば、先ずこれを誅せよ!」と。群議はそこで止んだ。元逵の兵は既に出発したが、弘敬は逗留して両端を持していた。徳裕は王宰に陳・許の精鋭を率いさせ、魏博を仮道して磁州を伐つことを建議した。弘敬はこれを聞き、急いで兵を率いて自ら漳水を渡り磁州・潞州を取ることを請うた。
ちょうど横水の戍兵が叛き、太原に入り、その帥の李石を追い出し、裨将の楊弁を奉じて留後を務めさせた。この時、劉稹はまだ降っておらず、朝廷はますます憂慮した。議する者は多く兵を皆罷められるべきだと言った。帝は中人馬元実を太原に派遣し、その変事を偵察させた。楊弁は中人に厚く賄賂を贈り、三日間帳中で酒宴を催した。帰還した元実は虚偽を述べた、「楊弁の兵は多く、明光甲を着た者が十五里にわたっています」と。徳裕が詰問した、「李石は太原に兵がないため、横水の卒千五百人を調発して榆社に戍らせたのであり、楊弁はこれに乗じて乱を起こしたのである。どうしてこれほど多くの卒を列ねることができようか?」と。すると元実は言う、「晋人は勇猛で、皆兵となります。募れば得られます」と。徳裕は言う、「兵士を募るには財が必要である。李石は人に一縑を貸していたため、兵が乱を起こした。李石にはそれを取り立てる術がなかったのに、楊弁はどうして得られようか?太原の鎧や戟は一つ残らず行営に送られており、どうして十五里もの明光甲を揃えられようか?」と。使者は言葉に詰まった。徳裕はすぐに上奏した、「楊弁は賤しい兵卒であり、赦すことはできません。もし力が足りなければ、劉稹を捨てて楊弁を誅することを請います」と。急いで王逢に命じて榆社の軍を起こさせ、詔を下して元逵に土門に向かわせ、太原で会合させた。河東監軍の呂義忠はこれを聞き、即日に榆社の卒を召し入れて楊弁を斬り、その首を京師に献上した。
徳裕は常に、貞元・太和の間に征討があった時、諸道の兵が国境を出ると、すぐに度支に依存し、多くは遷延して国力を困窮させたことを憂えていた。あるいは賊と約束し、守備を弛ませさせ、一県一屯を得て天子に報告するだけで、ゆえに軍は大功を立てなかった。そこで諸将に勅を下し、直接州を取るように命じ、県を攻めないよう請うた。ゆえに元逵らが邢・洺・磁を下すと、劉稹の気勢は尽きた。まもなく高文端が帰順し、劉稹の糧食が乏しく、皆女子が穂をもみ潰して兵に食べさせていると述べた。間もなく、郭誼が劉稹の首を持って降伏した。帝が問うた、「郭誼をどう処置すべきか?」と。徳裕は言う、「劉稹は小僧に過ぎず、どうして謀反を知りえましょう?職務として郭誼がこれを為したのです。今三州は既に降り、劉稹は窮迫し、さらにその一族を売り飛ばして富貴を求めようとしています。誅さなければ、後世に悪を懲らすことができません」と。帝は言う、「朕の考えも同じである」と。そこで詔を下して石雄を潞州に入らせ、郭誼ら及びかつて劉稹に用いられた者をことごとく捕らえ、悉く誅した。功績を策して太尉に拝し、趙国公に進封された。徳裕は固辞して言う、「唐が興って以来、太尉はわずか七人でございます。尚父の子儀でさえ拝することを敢えてしませんでした。近くでは王智興・李載義が皆、保・傅を超えて拝されましたが、この官を重んじ惜しんだからでございます。裴度は司徒を十年務めても、遷りませんでした。臣は旧い官秩を守るだけで十分でございます」と。帝は言う、「朕は公に酬いる官がないことを恨む。固く辞するな」と。徳裕はまた陳べた、「先臣(父の李吉甫)は趙に封ぜられ、嫡孫の寛中が生まれた時、字を三趙と付けました。嫡流に伝え、傍流には及ばないとの意でございます。臣が前に益封された時、既に中山に改めております。臣の先祖は皆かつて汲に住みました。衛に封ぜられることを願います」と。帝はこれに従い、遂に衛国公に改封した。
帝嘗て従容として宰相に謂ひて曰く、「或人孔子其の徒三千も亦た党と為すと称す、信ずるか」と。德裕曰く、「昔劉向云ふ、『孔子と顏回・子貢と更相に称譽し、朋党と為さず。禹・稷と皋陶と轉相に汲引し、比周と為さず。邪心無きなり。』臣嘗て共・鮌・驩兜と舜・禹と雜處して堯の朝に在りしを以てす。共工・驩兜は則ち党と為し、舜・禹は党と為さず。小人は相與に比周し、迭は掩蔽を為すなり。賢人君子は然らず、國に忠なれば則ち心を同じくし、義に聞けば則ち志を同じくす。退きて各其の己を行ひ、私を以て交ふべからず。趙宣子・隨會繼て諫を納れ、司馬侯・叔向比して君に事へ、党と為さず。公孫弘每に汲黯と間を請ふ。黯先づ之を發し、弘其の後を推す。武帝の言ふ所皆聽く。黯・弘雖も並びに進むも、然れども廷に齊人の少情を詰め、其の布被を詐りと譏るは、則ち先發後繼、党と為さず。太宗房玄齡と事を圖るに、則ち曰く杜如晦に非ざれば能く之を籌む莫しと。及如晦在るに及びて、亦玄齡の策を推す。則ち同心して國を圖り、党と為さず。漢の硃博・陳鹹相為に腹心と為り、公を背き黨に死す。周福・房植各其の黨を以て相傾き、議論相軋く。故に朋黨は甘陵の二部に始まる。及甚だしきに至りて、之を鉤黨と謂ひ、繼て誅夷を受く。王制を以て之を言へば、不幸に非ざるなり。周の衰へ、列國の公子に信陵・平原・孟嘗・春申有り。游談者は四豪を以て稱首と為し、亦各客三千有り、務めて譎詐勢利を以て相高めし。仲尼の徒は、唯仁義を行ふ。今議者は之を比せんと欲す、罔きなり。臣未だ所謂黨とは、國の為めか、身の為めかを知らず。誠に國の為めならば、隨會・叔向・汲黯・房・杜の道行はるべく、必ずしも黨を要せず。今所謂黨とは、善を誣ひ忠を蔽ひ、下に附き上を罔ひ、車馬馳驅して以て權勢に趨き、晝夜合謀して美官要選、悉く其の黨を引いて之を為し、然らずば抑壓して以て退かしむ。仲尼の徒に是れ有るか。陛下是れを以て之を察せば、則ち奸偽見るべし」と。
時に韋弘質建言す、「宰相錢穀を兼ねて治むべからず」と。德裕奏言す、「管仲治國に明らかなり。其の語に曰く、『國の重器、令より重きは莫し。令重ければ君尊く、君尊ければ國安し。人を治むるの本、令より要なるは莫し』と。故に曰く『令を虧く者は死し、令を益す者は死し、令を行はざる者は死し、令を留むる者は死し、令に從はざる者は死す。五者赦す無し』と。又曰く、『令は上に在りて而も可否を論ずるは下に在り、是れ主威下に人に系るなり』と。太和の後、風俗浸く敝る。令は上に出づるも、之を非むは下に在り。此の敝止まざれば、國を治むる無し。匡衡曰く、『大臣は國家の股肱、萬姓の瞻仰する所、明主の慎みて擇ぶ所なり』と。傳に曰く、『下其の上爵を輕んじ、賤人柄臣を圖らば、則ち國家搖動して人靜かならず』と。今弘質人の教ふる所に爲りて言ふ、是れ柄臣を圖る者なり。且つ蕭望之は漢の名儒、御史大夫と爲りて奏して云ふ、『歲首、日月少光、咎臣等に在り』と。宣帝望之の意丞相を輕んずるを以てし、下して司に詰問せしむ。貞觀の中、監察御史陳師合上言す、『人の思慮は限り有り、一人數職を總ぶべからず』と。太宗曰く、『此れ我が君臣を離間せんと欲するなり』と。之を嶺外に斥く。臣謂ふ、宰相に奸謀隱慝有らば、則ち人皆上論するを得べし。制置職業に至りては、人主の柄、小人の幹する所得る所に非ず。古者朝廷の士、各官業を守り、思ひ位を出でず。弘質賤臣、豈に宜しからざる所の言を以て妄りに天聽に觸るるを得んや。是れ宰相を輕んずるなり。陛下其の邪計を照らし、黨人中より來るを從ひ、當に之を遏絕すべし」と。德裕の大意、朝廷の尊きを欲し、臣下肅なるを欲し、而して政は宰相より出づ。朋黨を深く疾み、故に感憤切に之を言ふ。
德裕性孤峭、明辯にして風采有り、善く文章を爲す。大位に至るも、猶書を去らず。其の謀議古を援りて質と爲し、袞袞として喜ぶ可し。常に經綸天下を以て自ら爲す。武宗知りて能く之を任す。言從ひ計行はる。是の時王室幾くんぞ中興せんとす。
先づ是れ、韓全義蔡に敗れ、杜叔良深に敗る。皆監軍の宦人其の權を制し、將專ら進退するを得ず。詔書一日に三四下る。宰相豫らず。又諸道の銳兵票士、皆監軍取りて以て自ら隨ふ。每たび戰を督むるに、高きに乘り旗を建て自ら表す。師小に勝たざれば、輒ち旗を卷きて去り、大兵隨ひて北す。繇りて王師の向ふ所多く負く。回鶻・澤潞を討つに至りて、德裕建てて請ふ、詔書宰司に付して乃ち下し、監軍軍要を幹るを得ず。率ひて兵百人に一を取るを以て衛と爲す。是れより、號令明らかに壹にして、將乃ち功有り。
元和後數たび兵を用ふ。宰相休沐せず。或ひは火を繼ぎて、乃ち罷むるを得。德裕位に在るや、遽書警奏と雖も、皆從容として裁決し、率ね午漏下りて第に還り、休沐輒ち令の如くし、沛然として事無き時に若し。其の報機急を處するや、帝一切德裕をして詔を作らしむ。德裕數たび辭す。帝曰く、「學士吾が意を盡くす能はず」と。劉稹を伐つに、詔して王元逵・何弘敬に曰く、「子孫の謀りと爲すこと勿れ、輔車の勢を存せよ」と。元逵等情を得て、皆震恐して效を思ふ。已にして三州降る。賊遂に平ぐ。帝每たび魏博の功を稱すれば、則ち德裕を顧みて詔語を道ひ、其の事に切にして能く謀を伐つを咨る。三鎮每たび事を奏す。德裕使者を引いて戒敕し忠義を爲し、指意丁寧にして、歸りて各其の帥の爲に之を道はしむ。故に河朔威を畏れて敢へて慢せず。後浮屠法を除く。僧亡命多く幽州に趣く。德裕邸吏を召して戒めて曰く、「我が爲に張仲武に謝せよ。劉從諫亡命を招納す。今之を視て何の益か有らん」と。仲武懼れ、刀を居庸關の吏に授けて曰く、「僧敢へて入る者は、斬れ」と。
帝は既に数度にわたり反乱を討ち功績を挙げたのであるが、徳裕は武事に慣れ過ぎてしまい、収拾がつかなくなることを憂慮し、即座に上奏して言うには、「曹操が官渡において袁紹を破った時、敗走する敵を追撃せず、自ら得たものは既に多いと称し、威厳を損なうことを恐れました。養由基は古の善射の者であり、柳の葉を百歩離れても必ず射当てたが、見物人が言うには、『少し休んだ方がよい。もし弓が歪み矢が曲がれば、それまでの功績は全て無駄になります』と。陛下の征伐は望むところを得られないことはありませんが、どうか兵を用いることを戒めとされ、そうしてこそ成功を保つことができます」と。帝はその言葉を褒めて受け入れた。方士の趙帰真が術をもって進出すると、徳裕は諫めて言うには、「この者はかつて敬宗の時に詭妄をもって禁中に出入りし、人々は皆陛下の前に至ることを望みませんでした」と。帝は言う、「帰真は我が自ら知っている。大過はないと思われる。召して養生の術を語らせただけである」と。答えて言うには、「小人は利に就くこと、蛾が灯火に赴くが如しです。以前、帰真の門を見ると、車の轍が満ちていました」と。帝は聞き入れなかった。ここにおいて術を抱き時勢を欺く者が進出し、帝の志は衰えたのである。
居住した安邑里の邸宅には、院を「起草」と号し、亭を「精思」と称する所があり、毎度大事を計る時にはその中に居り、左右の侍御といえども預かることはできなかった。酒を飲むことを好まず、後房には声や色による娯楽はなかった。生涯に論じ著したものは多く世に行われたという。
子に燁あり。
子の燁は、汴宋幕府に仕え、象州立山尉に貶せられた。懿宗の時、赦令により郴州に移された。余りの子は皆、貶所に従って死んだ。
燁の子に延吉あり。
燁の子の延吉は、乾符年中、集賢校理となり、累次擢げられて司勳員外郎に至り、平泉に還って居住した。昭宗が東遷した際、朝謁せざることを坐し、衛尉主簿に貶せられた。
附すに崔嘏、丁柔立あり。
徳裕が斥けられた時、中書舎人崔嘏(字は乾錫)は、義士であった。詔書の起草が深切でないことを坐し、端州刺史に貶せられた。嘏は進士に挙げられ、また制策により刑州刺史を歴任した。劉稹が叛いた時、その党の裴問を州に戍らせたが、嘏は説いて命令に従わせ、考功郎中に改められ、当時は皆、賞を選りすぐったと謂われた。この時に至り、詔を作るに当たり巧みに罪を傅えることを肯んじなかった。呉汝納の獄において、朝廷の公卿で弁明する者は無かったが、ただ淮南府佐の魏鉶が捕らえられ、吏が誣って徳裕を引き合いに出すよう迫ったが、痛楚の掠めに遭いながらも終に従わず、遂に嶺外に貶せられて死んだ。また丁柔立という者は、徳裕が国政を執っていた時、或る者がその直清をもって諫争の官に任ずべきことを薦めたが、果たして用いられなかった。大中初年、左拾遺となった。既に徳裕が放逐されると、柔立は内にこれを憫み傷み、上書してその冤罪を直そうとしたが、阿附を坐し、南陽尉に貶せられた。
懿宗の時、詔して徳裕の太子少保・衛国公を追復し、尚書左僕射を贈り、その没より十年を距てた。
賛して曰く、漢の劉向が朋党を論じたその言葉は明らかで切実であり、流涕に値するが、主は悟らず、遂に無辜を陥れた。徳裕はまた向の言葉を援用し、邪正を指摘して質し、再び逐われ、終に大禍を蒙った。ああ、朋党の興ることは、危うきかな。その根は主威の奪われる者は下が陵し、聴くこと明らかならざる者は賢と不肖とが両方進み、進む者は必ず勝つことを務め、そして後人人は私する所を引き、私する所を以て狐疑断たざる隙に乗ずるにある。これは桀・蹠と孔・顔とを引き合わせて前にて鬨がせ、而して衆寡を以て勝負とするようなものである。国亡びざるを得ようか。身は名宰相たりながら、憎む所を損なうこと能わず、顕わに擠して仇と為し、比周の勢い成るに任せ、根株牽連し、賢智は播奔し、而して王室も亦衰えた。寧ろ明察に未だ哲ならざる点があったのではなかろうか。そうでなければ、その功烈は光明に満ち、武を佐けて中興し、姚崇・宋璟らと等しかったであろう。