新唐書

巻一百七十九 列傳第一百零四 李訓 鄭注附:錢可復 王涯 賈餗 舒元輿 王璠子:遐休 郭行餘 韓約 羅立言 李孝本 顧師邕 李貞素

李訓

李訓、字は子垂、初めは仲言と名乗り、字は子訓、故宰相李揆の族孫である。体躯は魁偉で、弁論に敏速、大言を好み、自ら高く位置づけた。進士に及第し、太学助教に補され、河陽節度使の幕府に召された。従父の李逢吉が宰相となると、仲言が陰険で謀事に長けているとして、深く親しんだ。武昭の獄に連座し、象州に流された。文宗が即位し、赦されて帰還し、母の喪に服して東都に居た。鄭注が昭義節度使の幕府に仕えていた時、仲言は慨然として言った。「当世権力を握る者は皆こせこせしている。注が士を好み、内廷の助力があると聞く。共に事を為すべきである。」そこで注を訪ねて会い、互いに意気投合した。時に逢吉は留守としており、不満で楽しまず、再び任用されることを望んでいた。注と仲言が親しいことを知り、金百万を託し、西上して京師で注と深く結びつかせた。注は喜び、仲言を紹介して王守澄に謁見させた。守澄は彼を厚遇し、すぐに注の術数と仲言の経義を併せて帝に推薦した。

仲言は詭弁を弄し、激昂して聞くに堪え、人の主の意を巧みに推し量り、また自ら儒者であり、海内の名族であることから、既に識抜されると、志望は小さくなかった。初め、宋申錫が守澄を誅殺しようとして果たせず、死んだ。宦官はますます横暴となり、帝はますます憤り恥じた。憲宗のしいしいぎゃくについて、罪人が得られず、外では仮借するも、内では耐えられず、その類を滅ぼし絶やそうとしたが、在位の臣は禄を保ち安泰を求め、節を守って難に死する者はなかった。注は密かに帝の意を知り、しばしば密計を建て、仲言を引き入れて葉力を得た。帝は外では講義と勧学を装い、また皆守澄を通じて進んだので、彼らと謀ればその党は疑わなかった。仲言はまだ喪服を着ていたが、帝は戎服を着させ、「王山人」と号し、注を伴って禁中に出入りさせた。喪が明けると、四門助教に起用され、緋袍と銀魚袋を賜り、時は太和八年であった。その十月、『周易』博士に遷り、翰林侍講学士を兼ねた。翰林院に入ると、詔して法曲の弟子二十人に宴を助けさせ、優寵を示した。ここにおいて給事中鄭粛・韓佽・諫議大夫李珝・郭承嘏・中書舎人高元裕・権璩らが共に仲言は邪佞の小人で天下に知られており、側近に置くべきでないと弾劾した。帝は聞き入れなかった。仲言はしばしば進講し、宦官に至ると必ず感憤を重ねて述べ、帝の心を激した。帝はその言論が縦横であるのを見て、果たして任用できると思い、遂に疑わず、待遇は比べる者なく、そこで名を訓と改めた。帝はなお宦官の猜忌を慮り、『易』の五義を疏して群臣に示し、訓の意に異なることが出来る者があれば賞するとし、天下に師臣として訓を遇することを知らしめようとした。

翌年秋七月、翰林学士・兵部郎中・知制誥に進み、宮中にいて重んじられ、実に宰相の事を行った。宦官陳弘志が時に襄陽軍を監していたが、訓は帝に召還を請い、青泥駅に至った時、使者を遣わして杖殺させた。また計略をもって守澄の観軍容使を罷免させ、毒を賜って死なせた。さらに西川監軍楊承和・淮南韋元素・河東王踐言を嶺外に追放し、既に出発した後、皆死を賜った。また崔潭峻は以前に死去していたが、詔して棺を剖き屍を鞭うった。元和の逆党はほとんど尽きた。

訓は元より奇策を抱いて進み、大権が己に在ると、鋭意悪を除こうとし、故に帝と天下の事を言うに、欲する所の如くならざるはなかった。注と結託し、恩に報い仇を復することを務め、平素より李徳裕・李宗閔の寵遇を妬んでいたので、楊虞卿の獄に因み、彼らを党人と指弾し、かつて憎んでいた者を悉く党中に陥れ、遷貶は日を絶たず、朝列はほとんど空になり、中外は震え畏れた。帝は詔を下して諭し、群情はやや安まった。一ヶ月も経たず、礼部侍郎同中書門下平章事となり、金紫服を賜り、なお詔して三日に一度翰林に至り、『易』の義を終えさせた。

訓は流人から起用され、一年で宰相に至り、時に遭ったとして、その志が行えると思った。先ず宦官を誅し、次いで河湟を回復し、夷狄を攘い、河朔諸鎮を帰順させようとした。意志は果決だが謀略は浅く、天子はこれを然りとした。やがて勝業里に邸宅を賜り、賞賜は頻繁であった。毎回進見する時、他の宰相は備位に過ぎず、天子は心を傾け、宦官や衛兵も皆恐れて迎え拝した。天下の険怪な士で富貴を僥倖する者は、皆これを頼りとして資本とした。訓は時々賢才で声望高い者を進めて、士人の心を喜ばせ、人々は皆惑わされた。かつて建言して、天下の浮屠が傜役と賦税を避け、国の衣食を消耗するので、行業が令に如かざる者は民に還すべきだと請うた。既に政を執ると、自らこれを罷めるよう言い出し、恩を売ることにした。

初め、注が先に顕れ、訓はこれを頼って進んだが、勢力が等しくなると、寵を頼んで功を争い、両立しなかった。しかし事が未だ成就しないので、注を出して鳳翔を鎮守させ、外では援助とし、内実は猜忌し、事が成ったら殺そうとした。厚く親しい者を抜擢して兵権を分掌させ、ここにおいて王璠を太原節度使とし、郭行余を邠寧節度使とし、羅立言を権京兆尹とし、韓約を金吾将軍とし、李孝本を権御史中丞とした。密かに璠と行余に多くの兵士と金吾・台府の兵卒を募らせ、劫略して用いようと約束した。

十一月壬戌、帝は紫宸殿に御し、韓約が奏上して甘露が金吾左仗の樹に降ったと言い、群臣が祝賀した。訓と李元輿が奏言して、「甘露は禁中近くにあります。陛下は自ら往きて天の祉を承けるべきです。」と言った。許された。すぐに輦に乗って含元殿に行き、宰相群臣に往視させた。戻ると、訓が奏言して、「甘露ではありません。」と言った。帝は「韓約が妄りか?」と言い、中尉仇士良・魚志弘らに検証させた。訓はそこで諸宦官を閉じ込めて、逃げる者を出さないようにしようとした。時に璠と行余は皆鎮に赴くと言い、兵は丹鳳門外に列し、弓を引きしぼって待っていた。訓が伝呼して「両鎮の軍は詔旨を受けるに入れ!」と言うと、聞いた者は駆け入った。邠寧軍は至らず、璠は恐れて前に進めず、行余だけが殿下で拝した。宦官が仗所に至ると、韓約は汗を流して頭を上げられず、士良らは怪しんで「将軍はどうしたのか?」と言った。ちょうど風が廡幕を動かし、兵を持つ者を見ると、士良らは驚いて走り出た。閽者が扉を閉めようとしたが、宦官の侍者に叱られて争い、閉めるに及ばなかった。訓は急いで金吾兵に連呼して「乗輿を衛う者には、人ごとに銭百千を賜う!」と言った。ここにおいて訓に従って入る者があった。宦官は「急です、上は内に還るべきです!」と言い、すぐに輦を扶けて罘罳を決めて殿を下り急いだ。訓は輦にすがって「陛下は去るべからず!」と言った。士良は「李訓が反逆だ!」と言った。帝は「訓は反逆ではない。」と言った。士良は手で訓を殴り倒そうとしたが躓き、訓が彼を押さえ、靴の中から刀を抜こうとしたが、救いが来て、士良は免れた。立言と孝本が四百の兵を率いて東西から来て、殿上に上り金吾の兵と共に縦撃し、宦官で死者数十人を出した。訓は輦をますます激しく支え、宣政門に至ると、宦官の郗志栄が訓を突き、倒した。輦は東上閣に入り、すぐに閉じられ、宮中で万歳を呼んだ。元輿は謀を知っていたが、王涯に告げず、「上将軍が延英殿を開くのか?」と言った。群臣は宰相に会って故を問うた。ちょうど士良が神策副使劉泰倫・陳君奕らに衛士五百を率いさせ兵を挺して出させ、出会う者を殺させた。涯らは慌てて服を着替えて歩いて出た。諸司の吏六七百人を殺し、さらに兵を分けて諸宮門に屯し、訓の党千余人を捕え、四方館で斬り、流血は渠を成した。宦官は訓の事が天子に連なることを知り、互いに怨み罵った。帝は恐れ、偽って語らず、故に宦官は思いのままに殺戮をほしいままにした。やがて元輿と涯は皆兵に捕えられた。涯は実は謀を知らず、士良が激しく鞭打つので、自ら反状に署名した。詔して衛騎千余を出し、咸陽・奉天に馳せて逃亡者を捕え、都城を大索し、分かれて涯・訓らの邸宅を襲い、兵は大いに掠奪し、黎埴・羅譲・渾鐬・胡証らの家や賈耽の廟に入り、資産を一空にした。両省の印や簿書は持ち去られ、秘館の図籍は蕩然として余るもの無かった。

翌日、群臣を召して朝参せしむるに、建福門に至りて、従者は入るを得ず、光範門は尚閉ざされ、兵を列ねて誰何し、乃ち金吾右仗より宣政衙に至る。兵は皆露刃を帯びたり。是の時、宰相・御史中丞無く、久しくして、閣門使馬元贄、宣政扉を啓きて詔を伝う。張仲方、京兆尹を可とすと雖も、而して吏は皆前に死し、群臣班を整うること能わず。帝初め涯等の繋がれしを知らず、猶其の朝せざるを遅しとす。既にして士良、涯と訓の謀逆を白し、将に鄭註を立てんとす。遽かに僕射令狐楚・鄭覃・兵部尚書王源中・吏部侍郎李虞仲等を召し至らしむ。帝対して悲憤し、因りて涯の訊牒を付して曰く、「果たして涯の書かんや」と。楚曰く、「然り。涯誠に謀有らば、罪死に応ず」と。

是の日、京師に兵の剽劫止まず、民乱に乗じ、往々復た私怨を挟み、相戕撃し、人死甚だ衆し。帝、楊鎮・靳遂良等を遣わして兵を大衢に屯し、鼓して之を儆し、兵乃ち止む。帝宦官に逼られ、是に於て詔を下して訓・涯等の罪を暴く。孝本、緑誇を易え、猶金帯を帯び、帽を以て面を障い、鄭註に奔る。咸陽に至りて、追騎之に及ぶ。餗、民間に匿れ、羸服を着て驢に乗り自ら帰る。璠、河東の兵を聚めて第を環らし自衛す。弘誌、偏将をして之を攻めしめ、呼ばしめて曰く、「王涯等罪を得たり。尚書を起して相と為さん」と。璠喜び、関を啓きて之を納る。既に行くこと知り、見紿るるを知り、泣いて曰く、「李訓我を累す」と。俄に行余・立言皆得らる。涯より十余族並びに奴婢悉く左右軍に繋がる。璠、涯を見て、恚りて曰く、「公何ぞ見引かん」と。涯曰く、「君昔宋丞相の謀を守澄に漏らせり。今焉ぞ死を逃れん」と。

訓既に敗れ、緑衣を被り、詭りて官を黜せられしと言い、終南山に走り、浮屠宗密に依る。宗密之を匿わんと欲すと雖も、其の徒肯わず、乃ち鳳翔に奔り、盩厔の将に執えられ、械せられて東す。訓、宦人の酷辱を受くるを恐れ、監者に祈りて曰く、「我を得る者賞有り。首を持ち去るに如かず」と。乃ち之を斬り、其の首を伝え、余党悉く禽す。

後一日、両神策兵将涯等を郊廟に赴かしめ、両市を過ぐるに、皆腰斬梟首して以て徇す。餗、臨刑に憤叱す。独り元輿曰く、「晁錯・張華尚免れず、豈に吾が属のみならんや」と。約最後に捕え得らる。反状を責むるも、服せず、之を斬る。訓の弟仲褒・元臯を殺す。初め、元臯は属疏を以て自ら解し、去るを得たり。士良奴を訊くに、事の前一昔訓の第に宿せりと言う。人を遣わして追斬せしむ。訓死し、士良宗密を捕え、将に之を殺さんとす。怡然として曰く、「訓と遊ぶこと久し。浮屠の法、困に遇えば則ち救う。死は固より其の分なり」と。乃ち之を釈す。是の時、暴屍旁午し、詔有りて都外に棄つ。男女孩嬰相雑廁す。旬を淹くし、許して京兆府に瘞斂せしめ、二大冢を作り、道の左右に葬る。

他日、帝頗る訓を思い、数度李石・鄭覃に其の才を称す。而して宦豎益々熾なり、帝制する末だ由無く、居常忽忽として懌せず。毎に遊燕すと雖も、倡楽雑沓すれども、未だ嘗て歓ばず、顔惨として展せず、往々瞋目して独り語り、或いは裴回して眺望し、詩を賦して以て情を見す。是より疢を感じ、天下を棄つるに至る云う。

鄭注

鄭注、絳州翼城の人。世微賤、方伎を以て江湖の間を遊ぶ。元和の末、襄陽に至り、節度使李愬に依る。愬が為に黄金を煮て之を餌とし、浸く親遇せられ、衙推に署し、徐州に従う。稍く軍政に参処す。注多芸、詭譎陰狡、人の廋隠を億探し、輒く其の欲する所に中る。事を籌するに、未だ嘗て用いられざること無し。邪を挟み権を市い、挙軍之を患う。監軍王守澄、愬に白す。愬曰く、「然り彼奇士なり。将軍試みに与に語れ」と。守澄初め拒み納れず。既に坐すや、機辯横生し、其の意を鉤得す。守澄大いに驚き、後堂に引き至り、語ること終夕、相見ゆるの晚きを恨む。謝して曰く、「誠に公の言の如し」と。即ち巡官に署す。

守澄枢密を総べ入り、俱に京師に至る。厚く贍恤を加え、日夜守澄の為に計議し、因りて陰に賂遺を通ず。初め士の纖巧なる者附離し、後には要官貴人も亦趨往す。既に宋申錫を陷れ、搢紳側目す。金吾将軍孟文亮、邠寧に鎮し、之を取って司馬と為さんとす。行くことを肯わず。御史中丞宇文鼎劾奏す。乃ち上道す。奉天を過ぐるや輒ち還る。御史復た注の奸状を言い、請う有司に付して治罪せしめんとす。初め、王涯注の力を用いて再び政を輔け、又守澄を憚り、其の奏を遏す。更に通王府司馬・右神策判官に擢す。士議讙駭す。劉従諫其の人を悪み、因りて之を斥去せんと欲し、即ち表して昭義節度副使と為す。府に至ること旬月ならず、文宗暴眩す。守澄復た注を薦む。即日召し入り、浴堂門に対し、賜賚至って渥し。是の夜、彗東方に出で、長さ三尺、芒耀怒急なり。俄に太僕卿に進み、兼ねて御史大夫と為す。

注資貪沓、既に権寵を藉り、専ら官を鬻ぎ利を射り、貲積鉅万、止まるを知らず。第を善和裏に起し、永巷に通じ、飛廡復壁、京師の軽薄子・方鎮の将吏を聚め、以て声焰を煽ぐ。間に入りて神策し、守澄と語るには必ず終日し、或いは夜艾にして乃ち罷む。険人躁夫、幹謝する所ある者、日門を走る。李訓既に注に附きて進み、是に於て両人の権天下に震う。尋いで工部尚書・翰林侍講学士に擢す。時に訓既に禁中に在り、日日帝の前に議論し、相倡和し、中官を鉏翦せんと謀り、自ら功は刻に在りと謂う。帝之に惑う。是に乗じて士大夫を進退し、朝法を撓骫し、賢不肖淆乱し、以て弛張当然と為す。衆其の必ず乱るるを策す。

帝富人の術を問う。榷茶を以て対う。其の法は茶官を置き、民の圃を籍して其の直を与え、工自ら擷暴せしめ、則ち利悉く官に帰せんと欲す。帝始めて詔して王涯を榷茶使と為す。又言う、秦・雍災有り、役を興して以て之を厭うべしと。帝嘗て杜甫の『曲江辞』を詠ず。「宮殿千門」の語有り。天宝の時、江を環らして観榭宮室有りと意う。注の言を聞き、即ち詔して両神策に曲江・昆明を治めしめ、紫雲楼・采霞亭を作らしめ、詔して公卿堤上に列舍するを得しむ。

注本姓魚、鄭と冒す。故に当時「魚鄭」と号す。及び用事するに及び、人廋して「水族」と謂う。貌寢陋、遠視する能わず、常に粗裘を衣い、外に質素を示す。初め、李愬病痿す。注之を治むること状有り。守澄其の術を神とす。故に中人皆昵愛す。

俄に尚書左僕射・鳳翔隴右節度使を検校す。詔して月に奏事に入らしむ。僚属を訓に請う。訓と舒元輿、終に注を殺さんと謀り、其の豪俊助けと為るを慮り、更に臺閣の長厚なる者を択び、銭可復を副使とし、李敬彜を司馬とし、盧簡能・蕭傑を判官とし、盧弘茂を掌書記とす。旧制、節度使命を受くれば、戎服を着て兵部に詣り謁す。後浸く廃す。注之を復せんことを請う。而して王璠・郭行餘皆踵いて常と為す。是の日、度支・京兆等供帳す。入りて辞し、帝通天犀帯を賜う。都門を出づるに、旗幹折る。注之を悪む。

先に、守澄が死に、十一月に滻水に葬られた時、鄭注は上奏して言うには、「守澄は国家に功労ある旧臣、願わくは自ら喪を護送せん」と。そこで宦官たちを率いて臨送し、鎮兵をもって悉くこれを捕らえ誅殺せんと図った。李訓は鄭注がその功を専有することを恐れ、乃ち五日先に挙事した。鄭注は五百騎を率いて到着したが、扶風県令韓遼はその謀を知り、武功に奔った。鄭注は李訓の敗北を聞き、乃ち引き返した。その配下の魏弘節は鄭注に監軍の張仲清及び大将の賈克中ら十余人を殺すよう勧めたが、鄭注は驚き慌てて聞く暇もなかった。張仲清は前少尹の陸暢と共にその将李叔和の策を用い、鄭注を訪ねて事を計り、その首を斬り、兵は皆潰走した。鄭注の妻の兄魏逢は特に軽薄で険悪であり、鄭注を助けて奸悪を為し、しばしば賄賂を貪り、率更令・鳳翔少尹となった。魏逢を京師に遣わして李訓と約束させたが、誅殺された。錢可復ら及び親兵千余人は皆族誅された。張仲清を内常侍に抜擢し、韓遼を咸陽県令に、李叔和を検校太子賓客とし、銭千万を賜い、陸暢を鳳翔行軍司馬とした。

鄭注の首を光宅坊に梟し、三日後にこれを埋めた。群臣皆賀し、乃ちその家を誅滅した。初め、鄭注を捕らえ得ず、京師は戒厳し、涇原・鄜坊節度使の王茂元・蕭弘は皆兵を率いて非常事態に備えた。この時に至って人々は互いに慶賀した。その財産を没収すると、絹百万匹を得、その他の物もこれに相当した。鄭注が敗れる前に、菌がその帯上に生じ、袋の中の薬が蠅数万匹と化して飛び去った。

附 錢可復

錢可復は錢徽の子なり、礼部郎中たり。錢簡能は錢簡辞の弟なり、駕部員外郎たり。錢傑は錢俛の弟なり、主客員外郎たり。錢弘茂は右拾遺たり。錢可復が死のうとした時、娘年十四歳、助命を祈ったが、娘は言うには、「我が父を殺すに、何の面目あって生きんや」と。錢可復を抱いて死を求め、これも斬られた。錢弘茂の妻蕭氏は、刑に臨んで罵って言うには、「我は太后の妹なり、奴輩来たりて殺すべし」と。兵士は皆手を控え、乃ち免れた。魏弘節は勇猛で謀略多く、初め鄜坊の趙儋節度使府に在り、鄭注に召し用いられた。敬彜は路隋に召し用いられたが、路隋が卒すると、江淮に客居し、未だ赴任せざるを以て免れ、兵部員外郎に抜擢され、衢州刺史に終わる。

王涯

王涯、字は廣津、その先祖は元より太原の人、魏の廣陽侯王冏の裔なり。祖父の王祚は、武后の時に萬象神宮の造営中止を諫めて知名たり。開元の時、大理司直として駅伝に乗り獄を決し、至る所仁平なりき。父の王晃は、左補闕・溫州刺史を歴任す。

王涯は博学にして、文を綴ることに巧みなり。梁肅に往き見え、梁肅はその才を異とし、陸贄に推薦す。進士に擢でられ、また宏辞科に挙げられ、再び藍田尉に調ぜらる。久しくして、左拾遺を以て翰林学士となり、起居舍人に進む。元和の初め、甥の皇甫湜が賢良方正科の対策で異等となり、宰相に逆らい、王涯は嫌疑を避けざる罪に坐し、学士を罷められ、再び貶せられて虢州司馬となり、袁州刺史に移る。憲宗これを思い、兵部員外郎として召し、制誥を知らしめ、再び翰林学士となり、累遷して工部侍郎となり、清源県男に封ぜらる。

王涯の文章は雅な思致あり、永貞・元和の間、訓誥は温麗にして、多く稿を定むること所あり。帝はその孤進して自ら樹立するを以て、数え訪い逮ぶ。私宅遠きを以て、或いは召しても時に至らざるあり、詔して光宅裏の官第を仮せしむ。諸学士敢えて望む者なし。俄かに中書侍郎・同中書門下平章事を拝す。循黙して職に称せざるに坐し罷めらる。再び吏部侍郎に遷る。

穆宗立つ、出でて劍南東川節度使と為る。時に吐蕃辺境を寇し、西北騒然たり。また雅州を略す。王涯兵を調えてこれを拒ぐ。上言して曰く、「しょくに二道ありて賊の腹を直搗す。一は龍川清川より松州に抵り、一は綿州威蕃柵より棲雞城に抵る。皆虜の険要の地なり。臣願わくは金帛を愛しまず、信臣に節を持たせて北虜と約せしめん。『能く兵を発して深く入る者は、某人を殺し、某地を取り、某賞を受く』と。懐を開いてこれを示し、要約を諄熟にして他日に異ならしむれば、則ち匈奴の鋭鋒を出だし、西戎の力を衰えしめん」と。帝報えず。

長慶三年、入朝して御史大夫と為り、戸部尚書・塩鉄転運使に遷る。宝暦の時、再び出でて山南西道節度使を領す。文宗嗣位し、召して太常卿を拝し、吏部尚書を以て王播に代わり、再び塩鉄を総べ、政益々刻急なり。歳中、尚書右僕射・代郡公に進む。而して御史中丞宇文鼎は王涯が使職を兼ねるを以て、これに屈するを恥じ、奏す、「僕射が視事する日、四品以上の官は独り拝すべからず」と。王涯怒り、即ち建言す、「礼を廃するよりは、官を審らかにせんことを請う。位を避けて旧典を存せん」と。帝これを難じ、詔して尚書省に雑議せしむ。工部侍郎李固言謂う、「『礼』に曰く、君は士に答拝せず、その臣ならざれば則ち答す、人の臣を臣とせざるなり。大夫はその臣に、賤しきと雖も必ず答拝す、正君を避くるなり。大夫は献ずるに親しまず、君賜うるに面拝せず、君の己に答うるが為なり。古え列国の君猶お大夫と答拝す、以て天子に事えて尊び、嫌疑を別ち微を明らかにする所以なり。議者謂う、『僕射は尚書令しょうしょれいに代わり、礼重きに当たる。凡そ百司州県皆副貳あり、欠くれば則ち摂総す。著定の礼に至りては、則ち越ゆべからず。僕射これに由る』と。令を按ずるに、凡そ文武三品は一品を拝し、四品は二品を拝す。『開元礼』に、京兆河南牧・州刺史・県令の上日の儀に、丞以下答拝す。此れ礼と令相い戾る。独り拠るべからず」と。又言う、「冊を受ける官の始上には、答拝せざる者なし。而るに僕射も亦冊を受け、礼異なるを得ず。相承けて故事と為すと雖も、然れども人情安んじ難きは、安んぞ改めざらんや。礼の如くにせんことを請う」と。帝決すること能わず、王涯竟に旧儀を用う。

李師道が平定されて以来、三道十二州皆銅鉄官あり、歳ごとに冶賦百万を取るも、観察使擅らにこれを有し、公上に入らず。王涯始めて建白す、「建中元年九月戊辰の詔書の如く、天子の塩鉄に収め隷せしむべし」と。詔して可とす。久しくして、本官を以て同中書門下平章事となり、度支・塩鉄を合わせて一使と為し、兼ねてこれを領す。乃ち奏して京畿の榷酒銭を罷めて衆を悦ばしむ。俄かに検校司空しくう、兼門下侍郎。度支を罷め、真に司空を拝す。始めて茶法を変じ、その税を増して用度を済まさんとす。下民益々困窮す。而して鄭注も亦茶の専売を議す。天子王涯をして使と為さしむ。心に不可なるを知りながら、敢えて争わず。李訓敗るるや、乃ち禍に及ぶ。初め、民は茶禁の苛急を怨み、王涯誅せらるるや、皆群りて詬詈し、瓦礫を以てこれに投げつく。

王涯の体つきは背が高く痩せており、上半身長く下半身短し。動作挙措は詳らかで華やかなり。性吝嗇で倹約、妓妾を蓄えず、卜祝及び他の方伎を悪む。別墅に佳木流泉あり、居常に書史を以て自ら楽しみ、客の賀若夷に琴を鼓がせて賓を娯しましむ。文宗は俗の侈靡を悪み、詔して王涯に懲らしめ革めしむ。王涯はその制を条上す。凡そ衣服室宇、古えに略如からしむ。貴戚皆便せず、謗訕囂然たり。議遂に格てらる。然れども王涯は年七十を過ぎ、権を嗜み位に固執し、李訓らに迎合し、潔く去就すること能わず、以て宗族を覆すに至る。是の時、十一族の財貨悉く兵に掠めらる。而して王涯の永寧裏の邸宅は、乃ち楊憑の旧第なり。財貨巨万を貯え、これを取ること日を経て尽きず。家蔵の書は多く秘府に侔ひ、前世の名書画は、嘗て厚貨を以て鉤致し、或いは私かに官を以てし、垣を鑿ちてこれを納れ、重ねて秘固し、窺うべからざるが若し。ここに至りて人の為に垣を破られて奩軸金玉を剔り取られ、その書画を道に棄つ。田宅を籍没して官に入る。

子の孟堅は工部郎中・集賢殿学士となり、仲翔は太常博士、季琰は校書郎となり、皆死す。仲翔は初め侍御史裴鐇の家に匿われしが、鐇は彼を捕らえて軍に赴かせしとき、仲翔曰く「業として容れられず、自ら生を求むべきなり、奈何ぞ反って相いぜいまんや」と。聞く者これを哀しむ。後、令狐楚、帝に見え、従容として言う「向に臣と並列せし者、既に族滅せられ、而して露胔蔵れず、深く悼痛すべし」と。帝惻然とし、詔して京兆尹薛元賞に涯等十一人を葬らしめ、各襲衣を賜う。仇士良、盗賊を使いて其の冢を発かしめ、骨を渭水に投ぜしむ。涯の女は竇紃の妻となり、痼病を以て免る。家人、涯の当に貶せらるべきを紿り告ぐ。忽ち涯の自ら首を提げて告げて曰く「族滅せり、惟だ若し存す、歳時に我を忘るるなかれ」と夢に見る。女驚き号して地に堕ち、乃ち実を以て告ぐ。涯の従弟沐、江南に客し、困窮して京師に来たり涯を謁す。二年にして乃ち見ゆ。禄仕を以て許す。難作るや、亦死す。

昭宗天復初、大赦し、涯・訓の冤を明らかにし、爵位を追復し、其の後裔に官す。

賈餗

賈餗、字は子美、河南の人。少くして孤となり、江淮の間に客す。従父全、浙東を観察す。餗往きてこれに依る。全特に器異し、収恤甚だ厚し。進士に挙げられ高第となり、声稱籍甚たり。又賢良方正に策し異等となり、渭南尉・集賢校理を授かる。累擢して考功員外郎となり、制誥を知る。餗は文辞を美とし、開敏にして断あり、然れども褊急にして、気輩行を陵ぐ。李渤、諫議大夫となり、其の人を悪み、宰相にこれを言う。而して李逢吉・竇易直は餗の才を愛し、斥けられず。

穆宗崩じ、江・浙に告哀す。道すがら常州刺史を拝す。旧制、両省官出使するに、朱衣吏の前導を得。餗州に赴くに、猶これを用う。観察使李德裕、吏を還すを敕す。怏怏として憾みとす。入りて太常少卿となり、復た制誥を知り、歴て礼部侍郎となり、凡そ三たび貢挙を典とし、士七十五人を得、多く名卿宰相たり。再び京兆尹・兼御史大夫・姑臧県男に遷る。太和九年上巳、詔して百官をして曲江に会せしむ。故事、尹は門より歩み入り、御史に揖す。餗自ら矜大し、扇蓋を徹せず、騎して入る。御史楊儉・蘇特固く争う。餗曰く「黄面児敢えてかくの如くせんや」と。儉曰く「公御史たり、能く嘿嘿たるべけんや」と。大夫温造これを以て聞かしむ。坐して俸を奪われ、恚に勝えず、求出でて浙西観察使とならんことを求む。未だ行かず、中書侍郎・同中書門下平章事を拝す。俄にして集賢殿大学士・監修国史となる。位を得て後、会に李宗閔罪を得、而して儉・特を指して党と為し、斥けて去らしむ。

少くして沈伝師と善し。伝師先に死す。嘗て夢に云く「君休むべし」と。餗覚めて諸寢に祭り、復た夢に曰く「事已に爾り、奈何すべからず」と。劉蕡、賢良方正に対策し、中人を指して禍乱の根本と為す。而して餗は馮宿・龐嚴と考官と為り、畏避して敢えて聞かず、竟に其の禍に罹る。

餗は本より中立し、肯て身を犯して顔を排し奸幸に及ばんことをせず、以て誅せらる。王涯と実に謀を知らず、人これを冤とす。

舒元輿

舒元輿、婺州東陽の人。地寒く、士と歯せず。始めて学び、即ち警悟す。去りて江夏に客す。節度使郗士美、其の秀特なるを異とし、数え誉を延ぶ。

元和中、進士に挙げらる。有司の鉤校苛切なるを見る。尚書に試みるに及びては、水・炭・脂炬・餐具に至るまで、皆人自ら将い、吏一たび名を倡えて乃ち入るを得、棘を列ねて囲み、廡下に席を坐す。因りて上書して言う「古の貢士、未だ此れより軽きこと有らず。且つ宰相公卿は此れより出づ。夫れ宰相公卿は賢に非ざれば選に在らず。而して有司は隷人を以てこれを持す。誠に賢を下すの意に非ざるなり。羅棘を以て遮截し其の奸を疑うは、又忠直を求むるに非ざるなり。詩賦の微藝、経伝を断離し、人文化成を観るに非ざるなり。臣恐らくは賢者遠辱して自ら引去り、不肖者をして陛下に用いられんことを。今珠貝金玉を貢ぐに、有司は棐笥皮幣を以て承く。何ぞ賢者を軽んじ、金玉を重んずるや」と。又言う「士を取るに数限るべからず。今有司多き者は三十、少なきは二十に止まる。仮令歳に百の元凱有りと曰えども、而して吾が格は二十を取ると曰わば、賢を求むることを可とすべけんや。歳に才徳の才数人有りと曰えども、而して必ず二十を取ると曰わば、謬進する者乃ち過半す。令格に合うことを可とすべけんや」と。

俄にして高第に擢げられ、鄠尉に調じ、能名有り。裴度表して興元書記を掌らしむ。文檄豪健にして、一時推許せらる。監察御史を拝し、劾按深害して縦すること無し。再び刑部員外郎に遷る。

元輿自ら才の人の過ぐる者有るを負い、鋭く進取す。太和五年、文を闕下に献ずるも、報いを得ず。上書して自ら言う「馬周・張嘉貞は人の為に奏を作り、逆旅より起り、卒に名臣と為る。今臣朝に位を備え、自ら文章を陳ぶ。凡そ五晦朔にして一たびも報いず。窃に自ら才は周・嘉貞に後れずと謂う。而して因るに入る無く、又其の缊する所を露さざれば、是れ終に振発の時無からんとす。漢の主父偃・徐楽・厳安は布衣を以て上書し、朝に奏して暮に召さる。而して臣の上ぐる所八万言、其の文鍛練精粹、今古数千百年に出い入りし、披剔剖抉して、以て教化を輔くるに足る者未だ始めより遺さず。犀の角を抜き、象の歯を擢ぐ。豈に主父等の比せんや。盛時逢い難く、窃に自ら愛惜す」と。文宗書を得て、其の自ら激卬するを高しとし、宰相に出示す。李宗閔は浮躁誕肆として用うべからずとし、著作郎に改め、東都に分司せしむ。

時に李訓喪に居り、特に元輿と善し。訓の事を用うるに及び、再び左司郎中に遷る。御史大夫李固言表して雑事を知らしむ。固言政を輔け、権に御史中丞を知る。会に帝囚を録す。元輿奏して辨明審にし、三月に満たずして即ち真除となり、兼ねて刑部侍郎となる。専ら鄭註に附し、註の悪む所は、挙げて繩してこれを逐う。月中、本官を以て同中書門下平章事となる。詭謀謬算、日に訓と比し、天下の事を敗る。二人これを為すなり。然れども旧臣に礼を加え、外に人誉を釣る。先に、裴度・令狐楚・鄭覃皆当路に軋せられ、閑処に致さる。此に至りて、悉く高秩に還す。

元輿『牡丹賦』一篇を作る。時に其の工を称す。死後、帝牡丹を観、殿闌に憑りて賦を誦し、為に泣下す。

弟元褒・元肱・元迥、皆進士に第す。元褒は又賢良方正に擢げられ、終に司封員外郎。余は誅に及ぶ。

王璠

王璠、字は魯玉。元和の初めに進士・宏辭に挙げられ、皆及第し、累遷して監察御史となる。儀表が厳然として整い、時に称せらる。起居舎人として鄭覃に副し、鎮州を宣慰す。長慶末、職方郎中に抜擢され、制誥を知る。

時に李逢吉が政を執り、特に璠を厚遇し、急に御史中丞に拝す。璠は恃む所を抱き、頗る横暴にして恣にし、道にて左僕射李絳と直に遇い、馬を交えて避けず。絳上言す、「左右僕射は、庶官の師長なり、開元の時、名を左右丞相と為し、機務を去くも、然れども猶百司を総べ、署位に姓を著さず。上日の班に百官に見え、而して中丞・御史は廷に在り。元和の中、伊慎僕射と為り、太常博士韋謙、慎の位は恩に縁りて進むを以て、其の礼を削り、僕射の臺に就きて中丞に見え、或いは廷中に立ち、中丞乃ち至るに至る。憲度倒置し、法と為すべからず。」逢吉は絳の正しきを憚り、其の事を遏みて奏せず、但だ璠を罷めて工部侍郎と為し、而して絳も亦用ひられて太子少師、東都に分司す。議者之を直さず。初め、璠武昭の獄を按ずるに、逢吉己に徳するを意ひ、中丞を罷むるに及び、乃ち失望す。

久しくして、出でて河南尹と為る。時に内廄の小児頗る民を擾し、璠其の尤も暴なる者を殺し、遠近畏服す。入りて尚書右丞と為り、再び遷りて京兆尹と為る。李諒の後より、政条隳斁し、奸豪浸に戢えず、璠頗る修め挙げ、政名有り。

鄭註の奸状始めて露はる、宰相宋申錫・御史中丞宇文鼎密かに璠と議し之を除かんとす、璠反って以て王守澄に告げ、而して註是に由りて璠に傾心す。左丞に進み、太常卿事を判ず。出でて浙西観察使と為る。李訓幸を得、璠は逢吉の旧故なるを以て、故に之を薦め、復た召されて左丞と為り、戸部尚書に拝され、度支を判じ、祁県男に封ぜらる。李宗閔罪を得、璠も亦其の党なり、註に会ひて解せんことを求む、乃ち免る。訓将に宦人を誅せんとし、乃ち河東節度使を授く、已にして敗る。

璠の子 遐休

璠の子遐休、弘文館に直し、善くする所の学士令狐定及び劉軻・劉軿・仲無頗・柳喜其の所に集ひ、皆縛せらる。定等自ら解き弁じ、釈放を得。遐休誅せらる。璠潤州の外隍を鑿るに、石刻を得て曰く、「山に石有り、石に玉有り、玉に瑕有り。」術家璠の祖の名を謂ひ、礎を生み、礎璠を生み、遐休に尽く、蓋し其の応なりと云ふ。

郭行餘

郭行餘は、元和の時に進士に擢でらる。河陽の烏重胤表して書記を掌らしむ。重胤其の先を葬り、冢を誌さしむるに、辞して為さず、重胤怒り、即ち解き去る。累擢して京兆少尹と為る。嘗て尹劉棲楚に値ひ、避けんと肯はず、棲楚導従を捕へて之を繫ぐ。自ら宰相裴度と言ひ、頗る諭し止む。行余書を移して曰く、「京兆府は漢時に尹有り、都尉有り、丞有り、皆詔を以て自ら除き、後循りて改めず。開元の時、諸王牧と為り、故に尹は長史と為り、司馬即ち都尉・丞なる耳。今尹牧務を総べ、少尹之に副ふ、未だ道路の間に下車して塵を望み避くる者有らざるを聞かず、故事猶在り。」棲楚答ふる能はず。

楚・汝二州刺史・大理卿に遷り、邠寧節度使に擢でらる。李訓東都に在り、行余と善し、故に之を用ふ。

韓約

韓約、朗州武陵の人、本名は重華。志勇決し、略く書に渉り、吏幹有り。両池榷塩使・虔州刺史を歴る。交趾叛き、安南都護を領す。再び遷りて太府卿と為る。太和九年、崔鄯に代りて左金吾衛大将軍と為り、四日居りて事を起こす。約は錢穀より進み、更に安南の富饒の地にて、資を聚むること尤も多し。

羅立言

羅立言は、宣州の人。貞元末に進士に擢でられ、魏博の田弘正表して其の府に佐らしむ。陽武令に改め、劇を治むるを以て河陰に遷る。立言始めて城郭を築くに、地の当る所は、皆富豪大賈の占むる所なり、下令して自ら其の処を築かしめ、吏其の闊狹を籍し、衆に号して曰く、「約に如かざる有らば、我が為に更に完うせよ!」民其の厳しきを憚り、数旬にして畢る。民に田無き者は、役有るを知らず。鎖を設けて汴流を絶ち、奸盗屏息す。河南尹丁公著状を上り、朝散大夫を加ふ。然れども下に倨り上に傲り、出でては弓矢を具し呵道し、賓客を宴すれば倡優を列ねること大府の如く、人皆之を悪み、是を以て遷ること稀なり、然れども自ら放つて衰えず。

度支河陰留後に改め、平糴実ならざるに坐し、万九千緡を没せらる、塩鉄使其の幹を惜しみ、止むるに兼侍御史を削るを奏す。廬州刺史より召されて司農少卿と為り、財を以て鄭註に事へ、亦李訓と厚く善し。訓は京兆に吏卒多きを以て、之を擢て少尹と為し、府事を知らしめ、以て其の謀に就かしむ。

李孝本

李孝本は宗室の子なり。元和の時に進士に及第し、累遷して刑部郎中となる。李訓に依りて進み、ここにおいて御史中丞舒元輿が引きて雑事を知らしむ。元輿、相に入り、擢て権知中丞事とす。

顧師邕

顧師邕、字は睦之、少連の子なり。性恬約にして、書を喜び、遊合寡し。進士に及第す。累遷して監察御史となる。李訓、薦めて水部員外郎・翰林學士と為す。訓、宦官田全操・劉行深・周元稹・薛士幹・似先義逸・劉英誗を遣わして辺を按ぜしめ、既に行かしむるに、命じて師邕に詔を為さしめ、六道に賜いて之を殺さしめんとす。会に訓敗れ、果たさず。師邕、崖州に流され、藍田に至り、死を賜う。

李貞素

李貞素は、嗣道王実の子なり。性和裕にして、衣服鮮明を喜ぶ。漢陽公主、季女を以て妻とす。累遷して宗正少卿となり、将作監より改めて左金吾衛将軍となる。韓約の詐り、貞素之を知る。儋州に流され、商山に至り、死を賜う。

贊に曰く、李訓は浮躁にして謀寡く、鄭註は斬斬たる小人、王涯は暗沓、舒元輿は険にして軽く、天功に幸いを邀え、寧くも殆からざらんや。李德裕嘗て言う、天下に常勢有り、北軍是れなりと。訓は王守澄に因りて以て進み、此時北軍に出入す。若し上意を以て諸将を説かば、風を靡くが如く易きに、反って台・府の抱関遊僥を以て中人に抗し精兵を搏たんとす。其の死するや宜なるかな。文宗、宰相李石・李固言・鄭覃に称して曰く、「訓は五常の性を稟け、人倫の教に服す、公等の如くはあらざれど、然れども天下の奇才、公等は及ばざるなり」と。德裕曰く、「訓は徒隸に歯するを得ず、尚お才と云うや」と。世、德裕の言を以て然りと為す。傳に曰く、「国将に亡びんとすれば、天これに乱人を与う」と。若し訓等の腐株を把りて大廈の顛を支うるが如きは、天下寒心し毛を豎つ。文宗偃然として之に倚りて成功せんとし、卒に閹謁の乗ずる所と為る。天果たして唐の德を厭うや。