新唐書

巻一百七十八 列傳第一百零三 劉蕡

劉蕡

劉蕡、字は去華、幽州昌平の人、梁・汴の間に客居す。『春秋』に明るく、古の興亡の事を能く言い、謀略に沈健にして、浩然として救世の志あり。進士第に擢でられる。元和の後、権綱弛廃し、神策中尉王守澄はしいしいぎゃくの罪を負い、二帝を経ても討つ能わず、天下之を憤る。文宗即位し、元和の宿恥を洗わんと思い、将に支黨を翦落せんとす。時に宦人は兵を握り、横に海内を制し、「北司」と号し、兇醜朋挻し、外には群臣を脅し、内には天子を掣侮す。蕡常に痛疾す。

大和二年、賢良方正能直言極諫に挙げられ、帝諸儒百餘人を廷に引き、策して曰く、

朕聞く、古の先哲王の治は、玄默無為にして、端拱して契を司り、氓の心を陶して簡に居らしめ、日用を凝らして宰たず、下を厚くして本を立て、誠を推して中を建つ。是に由りて天人通じ、陰陽和し、俗仁壽に躋り、物疵癘無し。噫、盛徳の臻る所、敻乎として其の及ぶ可からざるのみ。三代の令主、質文疊りて救い、百氏滋熾し、風流浸微し、漢より以降、足るに言うべきもの蓋し寡し。

朕顧みて唯だ道に昧く、祗ち丕構を荷い、謨訓を奉若し、敢えて怠荒せず、賢を任じ惕厲し、宵衣旰食し、詎ぞ三五の遐軌を追わん、庶幾くは祖宗の鴻緒を紹がんとす。而るに心有って未だ達せず、行有って未だ孚らず、中より外に及び、闕政斯くの如く広し。是を以て人化に率わず、気或いは堙厄し、災旱歳を竟え、播植時に愆る。国廩罕に蓄え、九年の儲に乏しく、吏道多端にして、三載の績微なり。京師は諸夏の本なり、将に治を観んとすに、豪猾檢を逾え、太學は明教の源なり、風を変えんことを期すに、生徒業に惰る。列郡は條を頒つに在るに、幹禁或いは未だ絶えず、百工は度を按ずるに在るに、淫巧或いは未だ息まず。俗恬びて風靡し、訛を積みて蠹と成る。其の官を択び治を済すや、人をして言を以て聽かしむれば則ち枝葉辨じ難く、下をして法を以て禦すれば則ち恥格形を成さず。其の財を阜くし號を發するや、之を生むこと寡くして之を食むこと衆く、令に煩にして治に鮮し。此の繆盩を究め、之を治平に致す所以を思うに、茲の心浩然として、淵氷に渉るが若し。故に前に有司に詔し、群彥を博延し、宿懵を啓くを佇ち、時雍に臻らんことを冀う。

子大夫皆古今に識達し、志康済に在り、廷に造りて問を待ち、朕が虚懷を副うべし。必ず当に治の闕を箴し、政の疵を辨じ、綱條の紊るるに致す所以を明らかにし、富庶の急とする所を稽うべし。何を施して前弊を革すか。何の澤を下土に恵むか。何を脩めて治古に近づく可きか。何の道を以て和気克く充つるか。本原を推し、條對に著せ。至りて夷吾の軽重の権、孰れか治に輔う。嚴尤の底定の策、孰れか時に葉う。元凱の考課何を先とす。叔子の克平何を務とす。惟れ此の龜鑒、中庸に択び、斯れ洽聞に在り、朕将に親ら覽ん。

蕡對えて曰く、

臣誠に佞ならず、国を正し君に致すの術有りと雖も、位無くして行うを得ず。顔を犯し敢えて諫むるの心有りと雖も、路無くして達するを得ず。憤を懐い郁抑し、時に発せんことを思う。常に庶人と道に議し、商賈と市に謗り、上聽に通じ、一たび主心を悟らしめんと欲す。襖言の罪を被ると雖も悔い無し。況んや陛下の過闕を詢求し、嘉謀を咨訪し、中外に制詔し、直言極諫を挙げるに逢うや。臣斯の挙に辱しめられ、専ら大問を承く。敢えて意を悉くして言わざらんや。上に忌む所、時に禁ずる所、権幸の諱悪する所、有司の与奪する所に至りては、臣愚にして識らず。伏して惟うに陛下少しく優容を加え、聖時に讜言を受くる者の戮せらるる無からしめんことを。天下の幸いなり。謹みて昧死を以て對う。

伏して惟うに聖策に古先の治を思う有り、玄默の化を念う有り、将に天地を通じて俗を済わしめ、陰陽を和して物を煦わさんとす。陛下の道を慮るの深きを見る。臣以為うらく、哲王の治は、其の則遠からず、唯だ之を致すの道如何なるかのみ。伏して惟うに聖策に丕構を祗荷して敢えて荒寧せず、謨訓を奉若して怠忽有ること罔しと有り。陛下の憂労の至りを見る。若し夫れ賢を任じ惕厲し、宵衣旰食せんとせば、宜しく左右の纖佞を絀け、股肱の大臣を進むべし。若し夫れ三五を追蹤し、祖宗を紹復せんとせば、宜しく前古の興亡を鑒とし、当代の成敗を明らかにすべし。心有って未だ達せざるは、下情蔽えて上通するを得ざるに由り、行有って未だ孚らざるは、上澤壅えて下に浹するを得ざるに由る。人の化せんことを欲すれば、己を脩めて以て之に先んずるに在り。気の和せんことを欲すれば、性を遂げて以て之を導くに在り。災旱を救うは精誠を致すに在り、播殖を広むるは食力を視るに在り。国廩罕に畜ゆるは、本より冗食尚ほ繁きに在り。吏道多端なるは、本より選用失当なるに在り。豪猾檢を逾ゆるは、中外の法殊なるに由り。生徒業に惰るは、学校の官廃るるに由り。列郡幹禁するは、授任人に非ざるに由り。百工淫巧なるは、制度立たざるに由る。伏して惟うに聖策に官を択び治を済すの心有り、財を阜くし號を發するの嘆有り。陛下の教化の本を見る。且つ人を行いを以て進むれば、則ち枝葉安んぞ辨じ難き有らんや。下を礼を以て防げば、則ち恥格安んぞ形を成さざる有らんや。生むこと寡くして食むこと衆きを念えば、惰遊を罷斥す可し。令煩にして治鮮なるを念えば、其の行の否やを察するを要す。群彥を博延す。願わくは陛下必ず其の言を納めよ。廷に造りて問を待つ。則ち小臣安んぞ敢えて死を愛せんや。伏して惟うに聖策に賢を求めて闕を箴するの言有り、政を審うめて疵を辨するの令有り。陛下の咨訪の勤めを見る。遂に小臣の奸豪を斥るるの志あらば、則ち弊前より革まるべく、陛下の康済を念うの心を守らば、則ち恵下に敷かるべし。邪正の道分かれて、治古近づく可く、礼楽の方著わして、和気克く充つ。至りて夷吾の法は、皇王の権に非ず。嚴尤の陳ぶる所は、最上の策無し。元凱の先とする所は、唐堯の考績に若かず。叔子の務むる所は、虞舜の舞幹に若かず。且つ大徳の中庸、上聖の龜鑒に非ざれば、又何を以てか陛下に之を道うに足らん。或いは安危の機に係り、存亡の変を兆す者有らば、臣請う、肝膽を披きて陛下の為めに別白し重ねて之を言わん。

臣前に所謂「哲王の治は、其の則遠からず」とは、陛下の之を慎み思う、力を之に行う、終始懈かざるに在るのみ。謹みて『春秋』に按ずるに、元は気の始め、春は歳の元なり。『春秋』は元を以て歳に加え、春を以て王に加う。明らかに王者は当に天道を奉若して、其の始めを謹むべきなり。又時にを挙げて歳を終え、月を挙げて時を終う。『春秋』は事無くと雖も、必ず首月を書して時を存す。明らかに王者は当に天の道を承けて、其の終わりを謹むべきなり。王者の動作終始必ず天に法るは、其の運行息まざるを以ての故なり。陛下能く其の始めを謹み、又能く其の終わりを謹み、之を懋め脩め、之を勤めて行わば、則ち契を執りて簡に居り、為して宰たず、本を立つるの大業を広め、中を建つるの盛徳を崇くす。安んぞ三代循環の弊、百偽滋熾の漸有らんや。臣故に曰く、「唯だ之を致すの道如何なるかのみ」と。

臣が先に申し上げた『賢才を任用し戒め慎み、早朝より衣を着け日暮れまで食事を取らず、左右の小賢しい佞臣を退け、股肱の大臣を進める』ということは、まさに陛下の憂慮勤労が極まったゆえである。臣は聞く、憂うべきでないことを憂うれば国は必ず衰え、憂うべきことを憂わなければ国は必ず危うくなると。陛下が国家の存亡、社稷の安危に関する策を下問されないのは、陛下が布衣の臣では大計を定めるに足りないとお考えなのか、それとも万機の勤めに至らぬところがあるのか。そうでなければ、どうして憂うべきことを憂われないのか。臣は考えるに、陛下がまず憂うべきは、宮闈に変事が起こり、社稷が危うくなり、天下が傾き、四海が乱れることである。この四つは国家がすでに現れている兆しであるから、臣は聖慮がまずこれに及ぶべきだと申し上げる。帝業は艱難を経て成し遂げられたもので、固より容易に守れるものではない。太祖がその基を開き、高祖こうそがその績を勤め、太宗がその業を定め、玄宗がその明を継ぎ、陛下に至るまで二百余年、その間聖明の君が相継ぎ、擾乱も続いて起こったが、賢士を用い正人に近づかずして興隆した例はない。一日でも念わざれば、大器は覆り、宗廟の恥は万古の恨みとなる。臣謹んで『春秋』を按ずるに、人君の道は、元を体して正に居るにある。昔、董仲舒が漢武帝に対してこれを大略説いたが、尽きていないところがあるので、臣は陛下のために備えて論じたい。先君の跡を継ぐ時は必ず即位を記すのは、その始めを正すためである。終わりには必ず終わった地を記すのは、その終わりを正すためである。故に君主たる者は、発する言葉は必ず正言であり、踏み行う道は必ず正道であり、居る所は必ず正位であり、近づく者は必ず正人でなければならない。『春秋』に「閽(宦官)が呉子余祭を弑す」とある。その名を記すのは、賢士を疎遠にし、刑人にしたしみ、君たる道に背くことをそしったのである。伏して惟うに、陛下には祖宗の開国の勤めを思い、『春秋』の継故の誡めを念じ、法度の端を明らかにして正言を発し、正道を履み、さん弑の兆しをふさぎ、正位に居り、正人に近づかれんことを。刀鋸のざんこくを遠ざけ、骨鯁の直臣を親しみ、輔相にその任を専らにさせ、庶僚にその官を守らせよ。どうして五六人の褻近(身近な寵臣)に天下の大政を総べさせ、外には陛下の命を専らにし、内には陛下の権をぬすみ、威は朝廷を脅かし、勢は海内を傾け、群臣はその状を指摘できず、天子はその心を制することができず、禍は蕭墻(宮中の壁)に熟し、奸は帷幄(幕の中)に生ずることを許されようか。臣は曹節、侯覧が今日に復活することを恐れる。これが宮闈の将に変ぜんとする所以である。臣謹んで『春秋』を按ずるに、「定公元年春王」とある。正月と言わないのは、『春秋』が先君がその終わりを正し得なければ、後君はその始めを正し得ないと考えたからで、故に「定公には正(正月)なし」と言うのである。今、忠賢には腹心として寄せる所がなく、閽寺(宦官)が廃立の権を専らにし、先帝をしてその終わりを正し得ず、陛下をしてその始めを正し得ず、況んや太子は未だ立たず、郊祀は未だ修まらず、将相の職は帰せず、名器の宜しきは定まらず。これが社稷の将に危うからんとする所以である。臣謹んで『春秋』を按ずるに、「王劄子が召伯、毛伯を殺す」とある。『春秋』の義では、両者が相殺した場合は記さない。これを記すのは、王命を専らにしたことを重んじたのである。天の授ける所は命にあり、君の存する所は令にある。その命を操りながら失うのは、君たらずである。その命を侵して専らにするのは、臣たらずである。君君たらず、臣臣たらず、これが天下の将に傾かんとする所以である。臣謹んで『春秋』を按ずるに、晋の趙鞅が晋陽の兵を以て叛き晋に入ったが、その帰還を記すのは、君側の悪を逐ってその君を安んじたからで、『春秋』はこれを善しとした。今、威柄は陵夷し、藩臣は跋扈す。人臣の大節に達せず、首乱する者が安君を名とし、『春秋』の微意を究めず、兵を挙げる者が悪を逐うことを義とする。そうなれば典刑は天子に由らず、征伐は必ず諸侯より起こる。これが海内の将に乱れんとする所以である。故に樊噲は門を排して涕を雪ぎ、袁盎は車前に当たって辞を抗し、京房は憤りを発して身を殞し、竇武は顧みずして命をえた。これらは皆、陛下の明らかに知るところである。臣謹んで『春秋』を按ずるに、晋の狐射姑が陽処父を殺したが、襄公が殺したと記すのは、その君が言葉を漏らしたからである。襄公は陰重の機を固く保つことができず、処父はそれ故に残賊の禍に及んだので、『春秋』はこれを非とした。上その情を漏らせば、下は敢えて意を尽くさず、上その事を泄らせば、下は敢えて言を尽くさない。故に『伝』には膝を造り詭辞すべき文があり、『易』には身を失い成事を害する戒めがある。今、公卿大臣は陛下に言わんとしないわけではないが、陛下が用いられまいと慮るからである。軽んじて用いられなければ、必ずその言を泄らし、臣下は既に言って行われなければ、必ずその禍をこうむる。それは直臣の口をふさぎ、奸臣の威を重くするに足るのみである。是以、その言を尽くさんとすれば身を失う懼れがあり、その意を尽くさんとすれば成事を害する憂いがあり、裴回ためらい鬱塞し、陛下の感悟を待って、然る後にその啓沃を尽くすのである。陛下はどうして朝政の余暇に、時々便殿に御し、当世の賢相老臣を召し、変を持ち危を扶ける謀を訪ね、傾きを定め乱を救う術を求め、陰邪の路を塞ぎ、褻狎の臣をしりぞけ、侵陵迫脅の心を制し、門戸掃除の役を復し、戒むべきを戒め、憂うべきを憂われないのか。既にその前を治め得なければ、後を治めるべきであり、その始めを正し得なければ、終わりを正すべきである。そうすれば典謨をつつしんで奉じ、丕構をく承け、賢を任ずる効を終え、宵旰の憂い無からん。

臣が先に申し上げた『三皇五帝の跡を追い、祖宗の業を紹ぎ復するには、前古の興亡を鑑とし、当時の成敗を明らかにすべき』ということについて。臣は聞く、堯、禹が君主として天下が大治したのは、九官、四嶽、十二牧を任用し、その推挙を誤らず、その業に二心なく、その職を侵さず、官に居る者はその能のみを以てし、左右にいる者はその賢のみを以てし、元凱(賢臣)は下位にいて微賤でも必ず挙げ、四兇は朝廷にいて強力でも必ず誅し、その安危を考へ、その取舍を明らかにしたからである。秦の二世、漢の元帝・成帝に至っては、皆国を唐・虞の如くに措き、身を堯・舜の如くに致さんと願いながら、終に敗亡したのは、安危の機を見ず、取舍の道を知らず、大臣を任ぜず、奸人を辨ぜず、忠良を親しまず、讒佞を遠ざけなかったからである。伏して惟うに、陛下には唐・虞の興った所以を察して前に景行し、秦・漢の亡びた所以を鑑として後に戒懼されんことを。陛下、廟堂に賢相無く、庶官に賢士無しと謂うことなかれ。今、紀綱は未だ絶えず、典刑は猶在り、誰か致身して王臣となり、致時して昇平たらんと欲せざらんや。陛下は何をゆるがせにして用いられないのか。また、官に居る者がその能に非ず、左右の者がその賢に非ず、悪は四兇の如く、詐は趙高の如く、奸は弘恭・石顕の如き者があれば、陛下は何を憚って去られないのか。神器には固より帰すべき所があり、天命には固より分があり、祖宗には固より霊があり、忠臣には固より心がある。陛下、これを念われよ。昔、秦の亡びは強暴に失い、漢の亡びは微弱に失った。強暴であれば奸臣は死を畏れて上を害し、微弱であれば強臣は権を窃って主を震う。臣伏して見るに、敬宗は亡秦の禍を慮らず、その萌をらなかった。伏して惟うに、陛下には深く亡漢の憂いをいたみ、その漸を杜がれんことを。そうすれば祖宗の洪業を紹ぎ、三五の遐軌を追うことができよう。

臣が先に申し上げたところの、陛下が「心に未だ通ぜざる所あり、下情塞がりて上通せず、行いに未だ信ぜられざる所あり、上澤壅がれて下に浸潤せず」、かつ百姓塗炭の苦しみありて陛下これを知る由なく、陛下子恵の心ありて百姓これを信ずる由なしという件である。臣謹んで按ずるに、『春秋』が「梁亡す」と書き「取る」と書かざるは、梁自ら亡ぶが故なり。その思慮昏く耳目塞がり、上は悪政を出し、人は寇盗となるも、皆その所以を知らず、終に自ら滅亡を取るに至るなり。臣聞く、国君の尊ばるる所以は、その社稷を重んずるが故なり。社稷の重んぜらるる所以は、その百姓を存するが故なり。もし百姓存せずんば、則ち社稷と雖もその重きを固くすること得ず。社稷重からずんば、則ち人君その尊きを保つこと得ず。故に天下を治むる者は、百姓の情を知らざるべからず。夫れ百姓は、陛下の赤子なり。陛下は慈仁なる者をして視育せしめ、保傅の如く、乳哺の如く、師の教導の如くすべし。故に人の上に於けるや、これを神明の如く恭しくし、父母の如く愛す。今或いは然らず、陛下親近の貴幸に分曹建署し、卒吏を補除し、賓客を召致し、その貨賄に因り、声勢を仮す。大なる者は藩方を統べ、小なる者は守牧たり。上に居りて清恵の政なくして饕餮の害あり、下に居りて忠誠の節なくして奸欺の罪あり。故に人の上に於けるや、これを豺狼の如く畏れ、仇敵の如く悪む。今海内困窮し、処々流散し、飢うる者は食を得ず、寒き者は衣を得ず、鰥寡孤独は存するを得ず、老幼疾病は養わるるを得ず、これに加うるに国権兵柄左右にもっぱらにし、貪臣聚斂して寵を固め、奸吏因縁して法を弄ぶ。冤痛の声、上は九天に達し、下は九泉に入り、鬼神これが為に怨怒し、陰陽これが為に愆錯す。君門万重、告訴するを得ず、士人帰化する所なく、百姓帰命する所なし。官乱れ人貧しく、盗賊並び起こり、土崩の勢、憂い旦夕に在り。即ち不幸にもこれに因りて病癘を以てし、凶荒を継げば、陳勝ちんしょう・呉広は独り秦に起こるのみならず、赤眉・黄巾は独り漢に生ずるのみならず。臣が陛下の為に発憤扼腕し、痛心泣血する所以なり。かくの如くすれば百姓塗炭の苦しみありて、陛下何の由かこれを知らんや。陛下子恵の心ありて、百姓安んぞこれを信ぜんや。陛下を行いに未だ信ぜられざる所あり、心に未だ通ぜざる所ありとせしむるは、固より其の然る所以なり。臣聞く、漢の元帝即位の初め、七十余事の制を更え、その心甚だ誠なり、その称甚だ美なり。然れども紀綱日々に紊れ、国祚日々に衰え、奸宄日々に強く、黎元日々に困す。賢明を択んでこれに任ぜず、その操柄を失えるが故なり。陛下即位よりこのかた、兆庶を憂勤し、屡々徳音を降し、四海の内、抗首長息せざるなく、自ら喜んで死亡の中より復生するが如し。伏して惟うに、陛下終わりを慎むこと始めの如くして、以て四方の望みを塞がんことを。誠に能く国柄を掲げて相に帰し、兵柄を持して将に帰し、貪臣聚斂の政を去り、奸吏因縁の害を除き、ただ忠賢を近くし、ただ正直を用い、内寵便僻に聴く所なからしめ、清慎の官を選び、仁恵の長を択び、利を以て敏にし、和を以てあたため、孝慈を以て教え、徳義を以て導き、耳目の塞を去り、上下の情を通じ、万国をして歓康ならしめ、兆庶をして蘇息せしめば、即ち心通ぜざるなく、行い信ぜられざるなし。

臣が先に申し上げたところの「人の化せんことを欲するは、己を脩めて以てこれに先んずるに在り」という件である。臣聞く、徳は以て己を脩め、教は以て人を導く。これを脩むれば、則ち人勧めずして自ら立つ。これを導けば、則ち人教えずしておおむね従う。君子は政の必ず行わるることを欲すれば、故に身を以てこれに先んず。人の化に従わんことを欲すれば、故に道を以てこれをぎょす。今陛下は身を以てこれに先んずれども政必ずしも行わず、道を以てこれを禦すれども人未だ化に従わず。豈に立教の旨その方未だ尽くさざるか。夫れ立教の方は、君の明を以てこれを制するに在り、臣の忠を以てこれを行うに在り。君は人を知るを以て明と為し、臣は時を正すを以て忠と為す。人を知るは賢を任じて邪を去るに在り、時を正すは本を固くして法を守るに在り。賢任ぜざれば則ち重賞も以て善を勧むるに足らず、邪去らざれば則ち厳刑も以て非を禁ずるに足らず、本固からざれば則ち人流れ、法守らざれば則ち政散じ、而して教の必ず至り、化の必ず行わるることを欲すれば、得べからざるなり。陛下能く奸邪を斥けてその左右を私せず、賢正を挙げてその疏遠をわすれざれば、則ち化朝廷にゆきわたらん。人を愛して本をあつくし、職を分かちて法を奉じ、その身を脩めてその人に及び、中より始めて外に成れば、則ち化天下に行われん。

臣が先に申し上げたところの「気の和せんことを欲するは、その性を遂げて以てこれを導くに在り」という者は、人を仁寿に納むるに当たるなり。人の仁寿たらんことを欲するは、制度を立て、教化を脩むるに在り。夫れ制度立てば則ち財用省み、財用省みれば則ち賦斂軽く、賦斂軽ければ則ち人富む。教化脩まれば則ち争競息み、争競息めば則ち刑罰清く、刑罰清ければ則ち人安んず。既に富めば則ち仁義興り、既に安んずれば則ち寿考至る。仁義の心下に感ずれば、和平の気上に応ず。故に災害作らず、休祥存臻ぞくしんし、四方寧やすらかにいたり、万物咸みな遂げらる。

臣が先に申し上げたところの「災旱を救うは精誠を致すに在り」という件である。臣謹んで按ずるに、『春秋』、魯の僖公一年の中に三たび「雨ふらず」と書するは、その人君に人をあわれむの志あるが故なり。文公三年の中に一たび「雨ふらず」と書するは、その人君に人をあわれむの心なきが故なり。故に僖は誠を致して旱も物を害せず、文は恤閔なくして変則ち災を成す。陛下に人を閔むの志あらば、則ち災を成すの変無からん。

臣が先に申し上げたところの「播殖を広むるは食力を視るに在り」という件である。臣謹んで按ずるに、『春秋』に曰く「人を君とする者は必ず時に民の勤むる所を視よ。民力に勤むれば則ち功築罕まれなり、民財に勤むれば則ち貢賦少なく、民食に勤むれば則ち百事廃す」と。今財食と力と皆勤む。願わくは陛下百事の用を廃し、以て三時の務を広めば、則ち播植愆あやまたざらん。

臣が先に申し上げたところの「国廩の蓄えすくなきは、冗食尚なお繁きに本づく」という件である。臣謹んで按ずるに、『春秋』に「臧孫辰斉にちょうを告ぐ」と。『春秋』はその九年の蓄え無きをそしる。一年登みのらずして百姓飢う。臣願わくは遊惰の人を斥けて耕殖をあつくし、不急の費を省いて黎元をなわば、則ち廩蓄乏しからざらん。

臣が先に申し上げたところの「吏道多端なるは、選用の当を失うに本づく」という者は、国家人の取るにその材を尽くさず、人を任ずるにその要を明らかにせざるが故なり。今陛下の人を用いるや、その声を求めその実を求めず。故に人の趨進するや、その末を務めてその本を務めず。臣願わくは考課の実を核し、遷序の制を定めば、則ち多端の吏息まん。

臣が先に申し上げた「豪猾なる者が法度を越えるのは、中外の法が異なるからである」というのは、その官禁が統一されていないためである。臣が謹んで『春秋』を按ずるに、斉の桓公が諸侯と盟した時は日付を記さないが、葵丘の盟だけは特に日付を記しているのは、天子の禁令を宣明し、王官の法を率いて奉じたことを称美したからであり、故に『春秋』は詳しくこれを記したのである。然らば官とは、五帝・三王の建てられたものであり、法とは、高祖・太宗の制定されたものである。法は画一であるべきであり、官は正名されるべきである。今また外官と中官の員を分け、南司と北司の局を立て、或いは南で禁を犯せば北に亡命し、或いは外で正刑されれば中で律を破り、法は多門より出で、人は措くところを知らず、これは兵と農の勢が異なり、中外の法が異なるからである。臣が聞くに、古くは井田によって軍賦を制し、農事の間に武備を修め、提封によって卒乗の数を約し、将を命ずるは公卿の列に在り、故に兵農は一致し、文武は同じ方にあり、以て邦家を保乂し、乱略を式遏した。太宗は府兵を置き、台省の軍衛とし、文武に参掌させ、閑歳には弓を櫜めて力穡に励み、有事には耒を釈ぎ戈を荷い、以て古制を修復し、旧物を廃さなかった。今は然らず。夏官は兵籍を知らず、ただ朝請を奉ずるに止まり、六軍は武事を主とせず、ただ階勲を養うに止まる。軍容は中官の政に合し、戎律は内臣の職に附す。頭に一たび武弁を戴けば、文吏を疾むこと仇讎の如く、足に一たび軍門を蹈めば、農夫を視ること草芥の如し。謀は奸兇を翦除するに足らず、而して詐は威福を抑揚するに足り、勇は社稷を鎮衛するに足らず、而して暴は閭裏を侵害するに足る。藩臣を羈紲し、宰輔を幹陵し、王度を隳裂し、朝経を汩乱す。武夫の威を張り、上は以て君父を制し、天子の命を仮り、下は以て英豪を禦す。奸を蔵し釁を観るの心有りて、節を伏して難に死するの誼無し。豈に先王が文を経とし武を緯とするの旨ならんや。臣願わくは陛下、文武の道を貫き、兵農の功を均しくし、貴賤の名を正し、中外の法を一にし、軍衛の職を還し、省署の官を修め、近くは貞観の風を崇め、遠くは成周の制を復し、邦畿より下国に刑し、天子より始めて諸侯に達し、以て猾奸の強を制し、法度を越えるの患無からしめ給わんことを。

臣が先に申し上げた「生徒が業を惰るのは、学校の官が廃れているからである」というのは、国家がその禄を貴び、その能を賤しみ、その事を先にし、その行いを後にするため、故に庶官には通経の学乏しく、諸生には修業の心無きなり。

臣が先に申し上げた「列郡が禁を干犯するのは、授任が人を得ざるからである」というのは、臣は刺史の任は、治乱の根本これに係り、朝廷の法制これに在り、権は以て豪強を禦し、恩は以て孤寡を恵み、強は以て奸寇を禦し、政は以て風俗を移すものと為す。その将校で曾て戦陣を更え、及び功臣の子弟は、宜しく随って酬賞すべきを請う。苟も人を治むるの術なき者は、この官に任ずべからず、即ち禁を干犯するの患を絶つべし。

臣が先に申し上げた「百工が淫巧に流れるのは、制度が立たざるからである」というのは、臣は官位禄秩を以てその器用車服を制し、金銀珠玉、錦繡彫鏤を以て禁じ、私室に蓄えざらしめ、則ち心を蕩す巧無からしむることを請う。

臣が先に申し上げた「葉を辨校する」というのは、言を考うるを以て行いを詢うるからであり、臣が先に申し上げた「恥格に形わる」というのは、道德を以て礼を斉しくするからであり、臣が先に申し上げた「生寡くして食衆しきを念い、惰遊を罷斥すべし」というのは、既に前に備えたり。臣が先に申し上げた「令煩にして治鮮なきは、その行いの否やを察するを要す」というのは、臣が聞くに号令は、国を治むるの具なり。君は審らかにしてこれを出だし、臣は奉じてこれを行い、或いはこれを虧益止留すれば、罪は赦さず。今陛下の令煩にして治鮮なきは、これを持つ者に蔽欺有るに非ざるか。

臣が先に「群彦を博く延べ、願わくは陛下必ずその言を納れ給え。廷を造りて問いを待たば、則ち小臣敢えて死を愛しむや」と謂いしは、昔、晁錯が漢の為に諸侯を削りしは、禍の将に至らんとするを知らざるに非ず、忠臣の心、壮夫の節、苟も社稷に利あらば、死して悔い無きなり。臣は言を発して禍応い、計を行いて身僇らるるを知らざるに非ず、社稷の危きを痛み、生人の悔いるを哀しむが故に、豈に時忌を姑息し、窃かに陛下の一命の寵をせんや。昔、龍逄死して商を啓き、比幹死して周を啓き、韓非死して漢を啓き、陳蕃死して魏を啓く。今臣の来たるや、有司或いは敢えて臣の言を薦めず、陛下また以て臣の心を察する無く、退けば必ず権臣の手に戮せられん。臣幸いに四子に従いて地下に遊ぶを得ば、固より臣の願いなり。知らざる所は、臣死したる後、誰か為にこれを啓かんとするか。

人主の闕、政教の疵、前日の弊に至りては、臣既にこれを言えり。若し下土の恵を流し、近古の治を修めて和平を致さんとせば、陛下のこれを行い給うに在るのみ。然れども上に陳べし者は、実に臣親しく聖問を承け、敢えて条対せざるべからざるなり。臣の愚を以てすと雖も、未だ教化の大端、皇王の要道を極めざると思惟う。伏して惟うに、陛下、天地に事えて以て人の恭を教え、宗廟を奉じて以て人の孝を教え、高年を養いて以て人の長に悌するを教え、百姓を字して以て人の幼を慈しむを教え、元気を調えて以て煦育し、大和を扇いで以て仁寿たらしめ、以て消搖無為し、垂拱して化を成すべし。若し陶鈞の道を念うは、宰相を択びて以てこれを任じ、造化の柄を権らしむるに在り。保定の功を念うは、将帥を択びて以てこれを任じ、閫外の寄を修めしむるに在り。百度の正を求むるを念うは、庶官を択びて以てこれを任じ、職業の守を顓にせしむるに在り。百姓の怨痛を念うは、良吏を択びて以てこれを任じ、恵養の術を明らかにせしむるに在り。自然に言は以て天下の教と為すに足り、動は以て天下の法と為すに足り、仁は以て善を勧むるに足り、義は以て非を禁ずるに足らん。又何ぞ必ずしも宵衣旰食し、神を労し慮を惕して、然る後に治を致さんや。

この時、策を第する官たる左散騎常侍さんきじょうじ馮宿、太常少卿賈餗、庫部郎中龐嚴は劉蕡の対を見て嗟嘆伏し、古の晁錯・董仲舒を過ぐるものと為し、而して中官の眥睚を畏れ、敢えて取らざりき。士人その辞を読み、感概流涕する者あり。諫官御史交えて章を上し、その直を論ず。

時に、選ばれた者は二十三人、その言うところは皆取るに足らぬ常務であり、多くは優等の評定を得た。河南府参軍事李郃は言う、「劉蕡は逐われ、我は留まる、我が顔は厚からんや」と。乃ち上疏して曰く、「陛下は正殿に御して直言を求め、人をして自ら奮い立たしめ給う。臣は才志懦劣にして、今古の是非を質す能わず、陛下に未だ聞かざるの言を聞かしめ、未だ行わざるの事を行わしむるを得ず、忽忽として内に思い、神明に愧羞す。今劉蕡の対する所、敢えて空臆を尽くして言い、皇王の成敗に至り、陛下の防閑する所、時政の安危を、私する所なく料り、又『春秋』を引きて据えと為す、漢・魏以来、劉蕡に比ぶる者無し。有司は言の訐忤に渉るを以て、敢えて聞かず。詔書の下るより、万口籍籍として、其の誠鯁を嘆じ、泣を垂るるに至り、劉蕡が左右を指切し、近臣の怒りを銜むるを畏れ、変を興して非常ならんことを謂い、朝野惴息し、誠に忠良の道窮まり、綱紀遂に絶えんことを恐る、季漢の乱、今に復興せんとす。陛下の仁聖を以てすれども、近臣故に忠良を害するの謀無く、宗廟の威厳を以てすれども、近臣故に敗亡を速むるの禍無からん。事を指して験を取らば、何ぞ直言を懼れんや。且つ陛下は直言を以て天下の士を召し、劉蕡は直言を以て陛下の問う所に副う、訐と雖も必ず容れ、過と雖も当に奨むべく、史策に書して、千古光明明なり。万に一劉蕡不幸にして死せば、天下必ず曰く、陛下陰に讜直を殺し、海内に讎を結ぶと、忠義の士、皆誅夷を憚り、人心一たび揺らげば、以て自ら解く無からん。況んや臣の対する所、劉蕡に及ばざること遠く甚だし、内に愧恥を懐き、自ら賢良と謂うも、人の言を奈何せん。乞うらくは臣の授かる所を回らし、以て劉蕡の直を旌げよ。臣は苟且の慚を逃れ、朝に公正の路有り、陛下は天下の疑を免れ、顧みて美ならずや」と。帝は納れず。李郃は字を子玄とし、後に賀州刺史を歴任す。

劉蕡の策問に対し後七年、甘露の変有り。令狐楚・牛僧孺は山南東西道の節度使となり、皆劉蕡を幕府に表し、秘書郎を授け、師礼を以て礼せり。而して宦官は深く劉蕡を嫉み、罪を誣いて、柳州司戸参軍に貶し、卒す。

初め、帝は恭儉にして治を求め、兇人を除かんと志すも、然れども懦にして睿ならず、臣下は禍を畏れて敢えて言わず、故に劉蕡の対策は極めて晋の襄公が陽処父を殺せることを陳べて以て帝を戒め、又閽人呉子を弑するを引き、陰に帝の決断を賛せり。帝は後に宋申錫と謀りて守澄を誅せんとし克たず、守澄は帝の弟漳王を廃し而して申錫を斥く、帝は其の間に依違し、敢えて主と為さず。賈餗は王涯・李訓・舒元輿と宰相の位に在り、謀りて敗れ、皆中官に其の宗を夷され、而して宦官は益々横なり、帝は以て憂い崩ず。

及んで昭宗が韓全誨等を誅するに及び、左拾遺羅袞上言す、「劉蕡は太和の時に当たり、宦官始めて熾なり、直言の策に因りて爵土を奪い、掃除の役に復せんことを請い、遂に譴逐に罹り、身は異土に死し、六十余年、正人義夫切歯して泣を飲む。比せば陛下東内に幽せられ、西州に幸し、王室幾くんぞ喪わんとす。劉蕡の策を用いること早かりせば、則ち漸を杜ぎ萌を防ぎ、逆節消え可く、寧んぞ殷憂多難にして、遠く聖世に及ばんや。今天地反正し、枉魄憤胔、陛下に望み有り」と。帝感悟し、劉蕡に左諫議大夫を贈り、子孫を訪ねて官を授く。

贊して曰く、漢武帝三たび董仲舒に策し、仲舒の対する所、天人の大概を陳べて、緩にして切ならず。劉蕡は諸儒と偕に進み、独り宦官を譏切す、然れど亦太だ疏直なり。帝に漏言を戒め、而して身は廷に語を誦す、何ぞや。其の後宋申錫は謀の泄るるを以て貶せられ、李訓は計の臧ならざるを以て死し、宦官遂に強し、戒むべからずや。意うに劉蕡の賢、当に先ず忠を以て上に結び、後帝に天下の安危する所以を謀らしめ、庶幾くは其の患を紡がんか。