陳夷行
陳夷行、字は周道、その先祖は江左の諸陳なり、代々潁川に客寓す。進士第に由り、累遷して起居郎・史館修撰に擢でられる。労により司封員外郎に遷り、凡そ再び歳を経て、吏部郎中を以て翰林學士となる。莊恪太子東宮に在りし時、夷行は兼ねて侍讀を為し、五日に一たび謁見し、太子の為に講説す。数遷して工部侍郎に至る。
帝常に天寶の政事善くあらざるを怪しみ、問う「姚元崇・宋璟は時に在りしや」と。李玨曰く「姚は亡びて宋は罷む」と。玨因りて推言す「玄宗自ら未だ嘗て一の不辜を殺さずと謂うも、而して李林甫を用い、数十族を種夷す、亦惑わしからずや」と。夷行曰く「陛下今亦宜しく権を人に属するを以て戒むべし」と。嗣復曰く「夷行は言を失う、太宗は暴乱を易えて仁義と為し、房玄齢を用うること十有六年、魏徵を任ずること十有五年、未だ嘗て道を失わず。人主忠良を用うれば久しく益々治まり、邪佞を用うれば一日にして多し」と。時に郭薳を用いて坊州刺史と為す、右拾遺宋邧論じて不可とす、果たして贓に坐して敗る。帝邧を賞せんと欲す、夷行曰く「諫官事を論ずるは其の職なり、若し一事善くば輒ち官を進まば、恐らくは後私有るを免れざらん」と。夷行蓋し専ら嗣復を詆す。又素より覃に善くし、陰に其の力を助け、以て朋党を排折す。是の時、天子と雖も其の過ぎたるを悪み、恩礼遂に衰え、吏部尚書に罷められ、尋いで華州刺史を拝す。
李紳
李紳、字は公垂、中書令敬玄の曾孫なり。世に南方に宦し、潤州に客寓す。紳六歳にして孤となり、哀しみ成人に等し。母盧、躬から之に学を授く。人と為り短小精悍、詩に於いて最も名有り、時に「短李」と号す。蘇州刺史韋夏卿数たび之を称す。母を葬るに、烏芝を銜んで輔車に墜つ。
元和初め、進士第に擢でられ、国子助教を補す、楽しまず、輒ち去る。金陵に客す、李锜其の才を愛し、辟いて書記を掌らしむ。锜次第に法に非ず、賓客敢えて言う者無く、紳数たび諫む、入らず;去らんと欲す、許さず。会に使者锜を召す、疾を称し、留後王淡行を具す、锜怒り、陰かに士に教えて之を臠食せしめ、即ち使者を脅して衆をして天子に奏せしめ、幸いに留まるを得んとす。锜紳を召して疏を作らしむ、锜の前に坐す、紳陽に怖慄し、字を為すに至らざるに至り、筆を下せば輒ち塗り去り、数紙を尽くす。锜怒罵して曰く「何ぞ敢えて爾る、死を憚れざるか」と。対えて曰く「生未だ嘗て金革を見ず、今死を得て幸いと為す」と。即ち刃を以て注ぎ、紙を易えしむ、復た然り。或る言う許縦能く軍中に書す、紳用うるに足らずと。縦を召して至らしむ、書を操るに欲する所の如く、即ち紳を獄中に囚う、锜誅され、乃ち免る。或る聞かんと欲す、謝して曰く「本や義に激するも、名を市するに非ず」と。乃ち止む。
久しくして、辟に従い山南觀察府に在る。穆宗召して右拾遺・翰林學士と為し、李德裕・元稹と同時に、号して「三俊」とす。累擢して中書舍人と為る。稹宰相と為るも、李逢吉人を教えて于方の事を告げしむ、稹遂に罷む;牛僧孺を引かんと欲すも、紳等の禁近に在りて沮解するを懼れ、乃ち德裕に浙西觀察使を授く。僧孺政を輔くに、紳を以て御史中丞と為す、其の気剛卞なるを顧み、疵累し易く、而して韓愈勁直なり、乃ち愈を以て京兆尹と為し、兼ねて御史大夫と為し、臺参を免じて以て紳を激す。紳・愈果たして相下らず、更に臺府の故事を持し、論詰往反し、詆訐紛然たり、繇りて皆之を罷め、紳を以て江西觀察使と為す。帝素より紳を厚く遇い、使者を遣わして第に就き労賜し、以て外遷を楽しましむ、紳泣きて言す逢吉に中傷せられしと。入り謝し、又自ら然る所以を陳ぶ、帝悟り、戸部侍郎に改む。逢吉終に之を陥れんと欲す。紳の族子虞、文学の名有り、華陽に隠居し、自ら仕えざるを願うと言い、時に来りて紳を省み、雅より柏耆・程昔範と善し。耆拾遺と為るに及び、虞書を以て薦めを求め、紳其の立操無きを悪み、痛く之を誚す。虞失望し、後京師に至り、悉く紳の言う所を逢吉に暴く。逢吉怒りを滋し、乃ち張又新・李続等の計を用い、虞・昔範と劉棲楚を皆拾遺に擢で、以て紳の隙を伺い、内に中人王守澄を結んで自ら助く。会に敬宗立ち、逢吉紳の勢を失い乗ず可きを知り、守澄をして従容として奏言せしむ「先帝始めて太子を立てんと議す、杜元穎・李紳は深王を立てんと勧め、独り宰相逢吉は陛下を立てんことを請う、而して李続・李虞之を助く」と。逢吉間を乗じて言す紳嘗て陛下に利あらずと、之を逐わんことを請う。帝初めて即位し、弁ずる能わず、乃ち紳を貶して端州司馬と為す。棲楚等善地を得たるを怒り、皆切歯す。詔下り、百官逢吉を賀す、唯だ右拾遺吳思往かず、逢吉思を斥け、大行の喪を吐蕃に告げしむ。此時、人敢えて言う者無く、惟だ韋處厚屢り紳の枉を言い、逢吉の奸を折る。後天子禁中に先帝の手緘書一笥を得、之を発く、裴度・元穎・紳の三疏帝を立てて嗣とせんことを請うを見、始めて大いに感悟し、悉く逢吉党の上る所の謗書を焚く。
初め、李紳が南方に追放され、封州・康州の間を経た時、急流は険しく浅瀬が多く、水かさが増すのを待ってのみ渡ることができた。康州には媼龍祠があり、古くから雲雨を招くことができると伝えられていた。李紳が文書で祈ると、間もなく水かさが大きく増した。宝暦年間の赦令には左遷された官の量移について言及しておらず、韋処厚が執り争い、詔を追って定めさせ、江州長史に転任することができ、滁州・寿州の二州刺史に遷った。霍山には虎が多く、茶を摘む者を悩ませ、仕掛けの罠を整え、民に足跡を追わせて射させたが、止めることができなかった。李紳が着任すると、これを全て撤去し、虎は暴れなくなった。太子賓客として東都に分司した。太和年間、李徳裕が国政を執ると、李紳を抜擢して浙東観察使とした。李宗閔がちょうど君主の信任を得ると、再び太子賓客として分司した。開成初年、鄭覃が李紳を河南尹とした。河南には悪少年が多く、ある者は高い帽子をかぶり衣服を乱し、大きな毬を打ち、官道にたむろし、車馬も前に進めなかった。李紳の統治は剛直で厳格であり、皆風の便りに聞いて逃げ去った。宣武節度使に遷った。大旱魃があったが、蝗害は管内に入らなかった。
武宗が即位すると、淮南に転じ、召されて中書侍郎・同中書門下平章事に拝され、尚書右僕射・門下侍郎に進み、趙郡公に封ぜられた。在位四年、足が不自由で朝謁に耐えられず、職を辞し、検校右僕射平章事として、再び淮南節度使となった。卒し、太尉を追贈され、文粛と諡された。
初め、灃州の人呉汝納という者は、韶州刺史呉武陵の兄の子である。武陵は贓罪に坐して潘州司戸参軍に貶せられて死に、汝納の家は追放され、長らく官職に補されなかった。時に李吉甫が宰相を務めており、汝納はこれを怨み、後に遂に宗閔の党に附いた。会昌の時、永寧尉となり、弟の湘は江都尉となった。管轄の者が湘が贓物を乱雑に受け取り、身分を隠して民の顔悦の娘を娶ったと訴えた。李紳が観察判官魏鉏に湘を審問させたところ、罪は明白であり、判決を上奏してこれを殺した。時に、議する者は呉氏が代々宰相と不和があったので、李紳が内心で様子を窺い、罪をでっち上げたのではないかと疑った。諫官がたびたび論じたため、詔を遣わして御史崔元藻に再審させた。元藻は湘が程糧銭を横領した事実はあるが、管轄の者の娘を娶ったことは事実ではなく、調べると顔悦はかつて青州の衙推を務めており、妻の王氏はもと衣冠の家の娘であるから、罪に坐すべきではないと言った。李徳裕は元藻が両端を持つことを憎み、奏上して崖州司戸参軍に貶した。宣宗が立つと、徳裕は失脚し、李紳は既に死去していた。崔鉉らは長らく志を得られず、汝納を導いて湘の訴訟をさせ、「湘は素より正直であり、誣蔑され、重い牢獄に入れられ、五木の拷問を受け、役人は娶妻の資産や妾を結びつけて贓物とした」と言わせた。また「顔悦はもと士族であり、湘の罪はいずれも死に当たらず、李紳が枉げてこれを殺した」と言った。また「湘が死ぬと、李紳は直ちに埋葬させ、帰葬させなかった。調べると李紳は旧宰相として一方を鎮め、威権を恣にした。凡そ罪ある者を戮するにも、なお秋分を待つものである。湘は無辜であり、盛夏に殺された」と言った。崔元藻は徳裕に排斥されたことを恨んでおり、即座にその言葉を翻し、ついでに「御史が獄を覆審して戻ると、皆天子に対面して是非を別白するものである。李徳裕の権勢は天下を圧し、対面させず、獄案を全て有司に付さず、ただ李紳の奏上を用いて湘を死に置いた」と言った。この時、徳裕は既に権力を失っており、宗閔の旧党である令狐綯・崔鉉・白敏中らが皆要路にあったため、これによって恨みを晴らし、利で誘って元藻らを動かし、三司に結審させて李紳が鉞を杖いて藩鎮となり、善良な者を虐殺したとし、神龍の詔書に準じて、酷吏が没した者は官爵を全て剥奪し、子孫は進んで官に就くことを許さないとし、李紳は既に亡くなっているが、『春秋』の死者を戮すの例に従うことを請うた。詔して李紳の三官を削り、子孫は仕官することを許さなかった。李徳裕らを貶し、汝納を左拾遺に、元藻を武功令に抜擢した。
初め、李紳は文芸と節操をもって用いられ、たびたび怨仇によって退けられたが、ついに自らその才を伸ばし、名位をもって終わった。赴任した先では必ず威烈を務め、あるいは暴刻に陥ったため、死後も湘の冤罪によって罪に坐すこととなった。
李譲夷
李譲夷、字は達心、本貫は隴西である。進士第に及第し、鎮国軍節度使李絳の幕府判官に召された。また西川節度使杜元穎の幕府に従った。宋申錫と親しくし、申錫が翰林学士となると、譲夷を右拾遺に推薦し、間もなく召されて学士に拝された。平素より薛廷老と親しかったが、廷老は細かい行いを慎まず、たびたび酒を飲んで職務を治めず、罷免され、これに坐して譲夷もまた官職を奪われた。累進して諫議大夫となった。
開成初年、起居舎人李褒が免官され、文宗が李石に言うには、「褚遂良は諫議大夫を兼ねて起居郎となった。今の諫議大夫は誰か。その人を言うがよい」。石は馮定・孫簡・蕭俶・李譲夷を挙げて答えた。帝は「譲夷がよかろう」と言った。李固言は崔球・張次宗を用いるよう請うた。鄭覃は言った、「球はもと李宗閔と親しく、かつ記注は赤墀の下で筆を執り、書くところは後世の法となる。党人を用いることはできない。裴中孺・李譲夷であれば、臣は敢えて言うことはない」。そこで決めて譲夷を用い、中書舎人に進めた。その後、李玨・楊嗣復は鄭覃の推薦のため、帝の世が終わるまで昇進できなかった。
武宗の初め、李徳裕が再び入朝し、三遷して尚書右丞に至り、中書侍郎・同中書門下平章事に拝された。潞州が平定されると、検校尚書右僕射となった。宣宗が立つと、司空・門下侍郎に進み、大行皇帝の山陵使となった。まだ陵墓が完成しないうちに、淮南節度使に拝された。病気のため帰還を願い、途中で卒した。司徒を追贈された。譲夷は廉潔で狷介であり、妄りに交わらず、地位は顕要で劇務であったが、倹約をもって自らを律し、世に称美された。
曹確
曹確、字は剛中、河南府河南県の人である。進士第に及第し、朝廷内外の官を歴任し、累進して兵部侍郎に拝された。懿宗の咸通年間、本官のまま同中書門下平章事となり、間もなく中書侍郎に進んだ。
確は儒術に深く通じ、器量と識見は方正で重厚、行動は法度に従った。時に帝は徳を軽んじ、俳優の李可及を寵愛して昵びた。可及という者は、新しい音曲を能くし、自ら曲を作り、歌詞の調子は哀切で、都の軽薄な少年らが争ってこれを慕い、「拍弾」と号した。同昌公主の喪が終わっても、帝と郭淑妃は悼み慕ってやまず、可及が帝のために曲を作り、『嘆百年』と称し、舞う者数百人を教え、皆珠翠で飾り立て、魚や龍を描いた地衣を作り、絹帛五千匹を用い、曲に合わせて歌詞を作り、哀愁が漂い、聞く者は皆涙を流した。舞いが終わると、珠玉や宝物が地を覆い、帝はこれをもって天下の最も悲しいものとし、ますます寵愛した。家で嫁を娶る時、帝は「先に行け、朕が酒を賜ろう」と言った。間もなく使者が二つの銀の酒器を背負って与えたが、皆珠玉の珍宝であった。可及は恩寵を頼みに甚だ横暴で、敢えて斥ける者もなく、遂に威衛将軍に抜擢された。確は言った、「太宗が令を著わし、文武の官六百四十三とし、房玄齢に言われた、『朕はこれを設けて天下の賢士を待つ。工商雑流は、仮に技芸が等輩より優れていても、正しく財を厚く与えるべきであり、官職を与えて賢者と肩を並べて立ち、同じ座で食をすることはできない』と。文宗は楽工の尉遅璋を王府率にしようとされ、拾遺の竇洵直が固く争い、ついに光州長史に授けられた。今、将軍の位に就けることはできない」。帝は聞き入れなかった。僖宗が立つに至り、初めて貶されて死んだ。寵愛されていた時、ただ確のみがたびたびこれを言った。また神策軍中尉の西門季玄という者もまた剛直で鯁介であり、可及に言った、「汝は巧みな佞で天子を惑わす、族滅に当たるべきだ」。かつてその賜物を受けるのを見て、言った、「今は官車で運ぶが、後日財産没収の時もまたこのようになるであろう」。
確は在位六年、尚書右僕射に進み、同平章事のまま鎮海節度使に出向し、河中に転じ、卒した。初め、畢諴が確とともに宰相となり、共に雅望があり、世に「曹畢」と言った。弟の曹汾は、忠武軍節度使として入朝し戸部侍郎となり、度支を判り、卒した。
劉瞻
劉瞻、字は幾之、その先祖は彭城より出で、後に桂陽に徙る。進士・博学宏詞に挙げられ、皆及第す。徐商が塩鉄府に辟召し、累遷して太常博士となる。劉彖が執政し、翰林学士に推薦され、中書舎人を拝し、承旨に進む。出でて河東節度使となる。
瞻は人となり廉約にして、得たる俸禄を以て余りを親旧の貧窮なる者に済し、家に儲留せず。邸宅なく、四方の献饋は門に及ばず、己を行ふこと終始完潔なり。
瞻の弟 助
弟助、字は元德、性仁孝にして、幼時に諸兄と遊ぶとき、飲食に至りては最も下なる者を取る。長ずるに及び、文辞に能くし、黄老の言を喜ぶ。年二十にして卒す。
李蔚
李蔚、字は茂休、系は本より隴西に属す。進士・書判抜萃に挙げられ、皆及第す。監察御史を拝し、累擢して尚書右丞となる。
懿宗は浮屠に惑ひ、常に禁中にて万僧に飯し、自ら賛唄を作る。蔚上疏して切に諫め、狄仁傑・姚元崇・辛替否の言ふ所を引き、時弊を譏り病む。帝聴かず、但だ虚礼を以て褒め答ふ。俄かに京兆尹・太常卿を拝す。出でて宣武節度使となり、淮南に徙る。代はりて還るに、民闕に詣でて留まることを請ひ、詔して一歳を許す。僖宗乾符初、吏部尚書を以て同中書門下平章事となる。罷められて東都留守となる。河東乱し、其の帥崔季康を殺し、邠寧の李侃を用ひて之に代ふるも、士附かず。蔚嘗て太原府に在りて恵政有り、人の懐ふ所と為るを以て、河東節度使・同平章事を拝す。鎮に至ること三日にして卒す。
初め、懿宗安国祠を成し、宝坐二を賜ふ。高さ二丈に度り、沈檀を以て構へ、塗りて髹し、龍鳳葩蘤を鏤め、金を以て之を扣す。上に復坐を施し、経几を其の前に陳べ、四隅に瑞鳥神人を立て、高さ数尺、磴道を以て升る。前に繍囊錦襜を被せ、珍麗精絶す。咸通十四年春、詔して鳳翔に仏骨を迎ふ。或ひは言ふ、「昔憲宗嘗て此れを為し、俄かに晏駕せり」と。帝曰く、「朕をして生を見しめよ、死して恨み無からん」と。乃ち金銀を以て剎と為し、珠玉を以て帳と為し、孔鷸を以て周飾し、小なる者は尋丈、高きは倍す。檀を刻みて檐註と為し、陛墄に塗りて黄金とす。一剎毎に、数百人之を挙ぐ。香輿前後道に系ぎ、珠瑟瑟の幡蓋を綴り、残彩を以て幢節と為し、費に貲限無し。夏四月、長安に至る。彩観路に夾り、其の徒導衛す。天子安福樓に禦して迎へ拝し、泣下るに至る。詔して両街の僧に金幣を賜ひ、京師の耆老及び元和の事を見る者に、悉く厚く之を賜ふ。不逞の小人に至りては臂指を断ち、流血道に満つ。過ぐる所の郷聚、皆土を裒めて剎と為し、塗に相望み、争ひて金翠を以て抆飾す。剎悉く震搖し、光景雲有るが若しと伝言す。京師の高貲相与に大衢に集り、繒臺縵闕を作り、水銀を注ぎて池と為し、金玉を以て樹木と為し、桑門を聚め像を羅し、鼓を考へ螺を鳴らして日夜を継ぐ。錦車繍輿、歌舞を載せて之に従ふ。秋七月、帝崩ず。方に人主甘心篤向するも、蔚の言ふが如き者甚だ多しと雖も、皆救ふ能はざりき。僖宗立ち、詔して其の骨を帰し、都人の耆耋辞餞し、或ひは嗚咽流涕す。
贊
贊して曰く、人の怪神に惑ふこと、甚だしい哉。若し仏の如きは、特だ西域の一槁人なるのみ。裸顛露足し、乞食を以て自ら資け、身を臒辱し、山樊に屏営し、一概の苦を行ひ、本より人に求むる無く、徒属稍稍之に従ふ。然れども其の言荒茫漫靡にして、夷幻変現し、験無き実無き事を推すに善く、鬼神死生を貫きて一条と為し、之に拠りて疑はざるなり。嗜欲を掊ち、親属を棄つること、大抵黄老と相出入す。漢の十四葉に至り、書中国に入る。夫れ生人の情を跡づくれば、耳目不際を以て奇と為し、不可知を以て神と為し、物理の外を以て畏と為し、変化方無きを以て聖と為し、生にして死し、死して復た生き、回復償報し、其の間に歆艷するを以て或然と為し、賤近貴遠を以てす。鞮訳差殊し、研詰す可からず。華人の譎誕なる者、又た荘周・列禦寇の説を攘ひて其の高を佐け、層累架騰し、直ちに其の表を出で、上無くして加ふ可からざるを以て勝と為し、妄りに相誇脅して其の風を倡く。是に於て、天子より庶人に逮るまで、皆震動して之を祠奉す。
初め、宰相王縉、縁業の事を以て代宗を佐け、是に於て始めて内道場を作り、昼夜梵唄し、寇戎を禳はんことを冀ひ、大に盂蘭を作り、祖宗の像を肖り、分ち供へて塔廟と為し、賊臣の嘻笑を為す。憲宗の世に至り、遂に鳳翔より仏骨を迎へ、之を宮中に内す。韓愈其の弊を指言す。帝怒り、愈を竄して瀕死せしめ、憲も亦た天年を獲ず。幸ひて禍ふ、亦た左ならずや。懿宗君に非ず、精爽奪はれて迷ひ、復た前車に蹈みて之を覆す。無知の場に哀を興し、百解の胔に庇を丐ひ、死を以て自ら誓ひ、顧藉有ること無く、流涙拝伏し、宗廟上帝に事ふるも、以て進むる無し。万乗の貴を屈し、自ら古胡に等しくし、数千載にして遠く、身を以て徇と為す。嗚呼、運祚殫れ、天の之に告ぐるか。懿三月に過ぎずして徂し、唐徳の競はざる、厥れ来ること有る哉、悲しき夫。