竇群
竇群、字は丹列、京兆金城の人である。父の叔向は、詩をもって自ら名とし、代宗の時、左拾遺の位にあった。群の兄弟は皆進士第に擢でられたが、群のみは処士として客となり毗陵に隠棲した。母が卒去すると、一指を嚙み切り棺中に置き、墓の傍に廬して喪に服し、喪が終わるまで過ごした。盧庇に従い啖助の『春秋』学を伝授され、著書数十篇を著した。蘇州刺史韋夏卿が朝廷にこれを推薦し、併せてその書を上表したが、聞き届けられただけで、召されなかった。後に夏卿が入朝して京兆尹となると、再び徳宗にこれを言上し、左拾遺に擢でられた。時に張薦が節を持ち吐蕃に使わされたので、群を侍御史に遷し、張薦の判官とした。群は入朝して帝に謁し言う、「陛下が即位されて二十年、初めて草茅の臣を擢でて拾遺とされましたが、何と難しいことでありましょう。二十年かかってようやく進めた臣を、和蕃の判官とするのは、何と容易なことでしょうか」と。帝はその言を壮とし、遣わさなかった。
王叔文の党が盛んになると、元より群を喜ばず、群もまた憤然として附かず。叔文らはこれを逐おうとしたが、韋執誼が不可としたので止めた。群は叔文を訪ねて言う、「事には知り得ないものがある」と。叔文が「どういうことか」と問うと、「去年、李実が恩を恃み権をほしいままにし、中外を震駭させました。その時、君は路傍に逡巡し、江南の一吏に過ぎませんでした。今、君はまた李実と同じ勢位にあります。路傍にまた君の如き者がいることを思わないのですか」と。叔文は悚然としたが、結局用いることはなかった。
憲宗が立つと、膳部員外郎に転じ、侍御史知雑事を兼ねた。出て唐州刺史となった。節度使於頔がその名を聞き、語り合ってこれを奇とし、自らの副使にすべく上表した。武元衡・李吉甫はいずれも厚く善しとしたので、召して吏部郎中に拝された。元衡が政を輔けると、群を推薦して中丞に代えさせた。群は呂温・羊士諤を引き立てて御史としたが、吉甫はこの二人が躁険であるとして、押し留めて下さなかった。群は忮み狠く、逆に吉甫を怨んだ。吉甫が淮南節度使となると、群はこれが恩を失したものと思い、これに因み吉甫を排斥しようとした。陳登という者は、術に長けていたが、夜に吉甫の家を訪れた。群は直ちに陳登を捕らえて拷問し、吉甫の陰事を上言した。憲宗が陳登を面詰してその実情を得ると、大いに怒り、群を誅せんとしたが、吉甫が救解したので、誅を免れ、出て湖南観察使となった。黔中に改めた。時に水害により城郭が損壊したので、溪洞の群蛮を徴発して修築させたが、これが因で群蛮が乱を起こし、開州刺史に貶せられた。稍々遷って容管経略使となった。召還されたが、途中で卒去した。年五十五。左散騎常侍を贈られた。
群は狠く自らを任じ、怨みを報いることに果敢であった。初め召された時、大任しようとしたので、衆人は皆懼れたが、その死を聞いて安堵した。
兄の常・牟、弟の庠・鞏は、皆郎官となり、詞章に巧みで、『聯珠集』を撰して当時に流行した。その義は、兄弟が五星の如きを取ったのである。
群の兄 常
常、字は中行、大曆年中に進士第に及んだが、調を肯まず、広陵に客寓し、論著多く、二十年間隠居した。鎮州の王武俊がその才を聞き、奏辟したが応じなかった。杜佑が淮南を鎮めると、参謀に署した。朗・夔・江・撫の四州刺史・国子祭酒を歴任し、致仕した。卒去し、越州都督を贈られた。
群の兄 牟
牟、字は貽周、累ねて節度使府の佐官となった。晩年に昭義の盧従史に従ったが、従史が次第に驕慢となるに及び、牟は諫めても叶わぬと度り、直ちに病を称して東都に帰った。従史が敗れた時、微かに覚って避け去ったことを以て自ら賢しとしなかった。国子司業の位に至った。
群の弟 庠
庠、字は胄卿、婺州刺史で終わった。
群の弟 鞏
鞏、字は友封、雅裕にして、当時に名があった。平居人と語るも口より出でざるが如く、世に「囁嚅翁」と号された。元稹が武昌を節度すると、鞏を自らの副使にすべく奏上し、任中に卒去した。
劉棲楚
劉棲楚は、その出自は寒微で卑しいものであった。鎮州の小吏となり、王承宗は彼を異才と認め、李逢吉に推薦した。これにより鄧州司倉参軍から右拾遺に抜擢された。李逢吉が裴度を罷免し、李紳を追放したことは、いずれも劉棲楚をそそのかして奸計を行わせたものである。敬宗が即位すると、朝政を見るのが常に遅く、しばしば遊猟にふけって徳を失った。棲楚は諫めて言うには、「前世の王者は初めて嗣位すると、皆みずから諸政に親しみ、坐して夜明けを待たれた。陛下は新たに即位されながら、安らかに寝殿内に臥し、日が遅くなってから起きられる。先帝の殯宮が近くにあり、鼓吹の声が毎日朝廷に聞こえている。しかも憲宗及び先帝(穆宗)はいずれも長君であられ、朝夕慎み勤めておられたのに、四方にはなお反乱する者があった。陛下は少主として、践祚されてまだ間もないのに、悪徳が流布し、恐らくは福祚が長く続かないであろう。臣は諫言を職務とする官でありながら、陛下に天下の誹りを負わせるようなことでは、どうか首を砕いてお詫び申し上げたい。」そこで額を龍墀に叩きつけ、血が顔を覆った。李逢吉が詔を伝えて、「頭を叩くことはない。詔旨を待て。」と言うと、棲楚は頭を抱えて立ち、帝は顔色を動かし、袖を揚げて去らせた。棲楚は言った、「臣の言うことをお聞き入れなければ、臣はここで死ぬことを請う。」詔があって慰諭すると、ようやく退出した。起居郎に遷り、病を理由に辞して洛陽に帰った。後に諫官が延英殿で対面したとき、帝が問うた、「かつて朝廷で争った者はいるか。」諫議大夫として召し出された。間もなく、宣旨をもって刑部侍郎を授けられた。故事では、侍郎は宣旨で授けることはなかったが、李逢吉は彼が自分を助けることを喜び、故に順序を飛び越えて任用したのである。
数か月後、京兆尹に改められ、誅罰を峻烈に行い、権豪をも避けなかった。これ以前、諸悪少は北軍(神策軍)に名を潜り込ませ、衣冠の士を凌辱し、罪があれば軍中に逃げ込み、捕らえる者はいなかった。棲楚は一切を徹底的に取り締まり、十日も経たぬうちに、宿悪老蠹は影を潜めた。ある日、軍士が酔いに乗じて何らかの凌辱行為をしたとき、諸少年が傍らから騒ぎ立てて言った、「愚かな男、頭上の尹(京兆尹)を忘れたのか。」
しかしその性質は詭激で、怪しい行いを敢えてし、険しいところに乗じ隙を衝くことを好み、顧みるよりどころがないかのようであったが、内実は権勢を恃み寵愛を頼みとして進出を図った。宰相を訪ね、厳しい顔色で傲慢な言葉を吐き、韋処厚は彼を憎んで、桂管観察使として出させた。卒去し、左散騎常侍を追贈された。
張又新
張又新、字は孔昭、工部侍郎張薦の子である。元和年間、進士の高第に及第し、左右補闕を歴任した。性質は邪悪で偏っている。李逢吉が権力を握り、李紳を憎んで、その罪を得んことを望み、朝中で凶暴果敢に言える者を求めて厚遇し、李紳を中傷させようとした。張又新は拾遺の李続・劉棲楚らとともに、李逢吉のために憎むべき者に吠えかかる犬の役を務め、故に「八関十六子」の称があった。
敬宗が即位すると、李紳は端州司馬に貶せられ、朝臣が宰相を訪ねて祝賀したとき、門番が言った、「止まれ、宰相はただ今補闕と話している。しばらく待たれよ。」張又新が出てくると、流汗して百官に揖して言った、「端溪(李紳左遷)の件については、ひそかに譲るわけにはまいりません。」人々は皆退き畏れた。まもなく祠部員外郎に転じた。かつて婢を買って約束を違え、牙儈に探し出されて陵辱され、御史が弾劾したが、李逢吉が庇い、事は徹底的に追及されなかった。李逢吉が罷免され、山南東道節度使を兼ねると、張又新を行軍司馬に表薦した。田伾の事件に連坐して、汀州刺史に貶せられた。李訓が寵愛を受けると、又新は再び用いられ、刑部郎中に遷り、申州刺史となった。李訓が死ぬと、また連坐して貶せられた。終わりは左司郎中であった。又新は文辞に優れていたが、二度も諂い付き従って失敗し、その家の名声を失ったという。
楊虞卿
楊虞卿、字は師臯、虢州弘農の人である。父の楊寧は高潔な操行を持ち、談論弁駁が巧みで人を喜ばせた。明経に抜擢され、臨渙主簿に任じられたが、官を棄てて夏県に帰り、陽城と莫逆の交わりを結んだ。徳宗が諫議大夫として陽城を召したが、城は拝命せず、詔して楊寧にすぐに諭させ、ともに来朝させた。陝虢観察使李斉運が幕府に置くよう上表した。李斉運が入朝して京兆尹となると、奉先主簿に表薦し、監察御史に拝されたが、連累して免官となった。順宗の初め、殿中侍御史に召され、終わりは国子祭酒であった。
虞卿は進士及び博学宏辞科に及第し、校書郎となった。淮南に赴き、婚資を委ねようとしたが、ちょうど陳商が先祖を葬ろうとして貧窮して立ち行かず、虞卿は彼と交遊したこともなかったが、携えていたものをすべて援助した。累次抜擢されて監察御史となった。
穆宗が初めて即位したとき、安逸に遊び放縦にふけった。虞卿は上疏して言った、「烏鳶(悪人)が害を被れば仁鳥(賢臣)は去り、誹謗を誅さなければ良臣は進む。臣は誅されることを冒して盲人の言葉を献じる。臣は聞く、堯・舜は天下を憂いとして、位を楽しみとされなかった。まして今、北虜(吐蕃)がまさに障害となり、西戎は安寧でなく、両河には戦乱の憂いがあり、五嶺では疫病の労役に罹っている。人民の疾苦は下に積もり、朝廷の制度は修められない。辺境には蓄えが見えず、国家の費用は次第に窮屈である。固より高枕して安息することはできないのである。陛下は万機に臨まれたばかり、天下を憂うる心を持つべきである。毎日輔臣・公卿・百執事に会い、心を垂れて問い、四方内外に明らかに知らしめるべきである。ところが聴政六十日、延英殿に入対したのは、ただ三数人の大臣が聖問を受けただけで、他の内朝臣は皆一緒に入り一緒に出るだけで、諮詢するところがない。諫臣は朝廷に満ちているのに、忠言が聞こえない。臣は実にこれを恥じる。これは主上の恩が疎遠で、正しい道が塞がれているからである。公卿大臣は朝夕宴見すべきであり、そうすれば君臣の情が通じ治道が得られる。今、宰臣は四、五人いるが、ある者はわずかな間侍坐し、謹んで過ちを犯し、旨に従って上下するだけで、往来することができない。これは君主が尊すぎ、臣下が卑しすぎる故である。公卿が列位していても、清要の地を昇降するだけで、いまだ優れた眷顧を奉じ、下問を受けたことはない。たとえ陛下が五帝のように神聖であっても、なお広く顧み及び、和やかな顔色をもって恵み、肢体が相成り、君臣の関係が明らかになるようにすべきである。陛下は宰相に治を求め、宰相は臣らに治を求める。忠を進めることが利に趨くが如く、政を論ずることが冤みを訴えるが如くであれば、これで治まらないことはない。古来、天子が危険にあるときに安泰を思う心は同じでも、安泰にあるときに危険を慮る心は異なる。故に皆が聖明となることは得ないのである。」当時また衡山の布衣趙知微がおり、帝の傍らに俳優がおり、馳騁に度がなく、内には色に荒み、外には禽獣に荒んでいることを指摘して上書した。言辞はかなり危険で切実であった。帝は詔して宰相に慰謝させた。宰相はこれによって天子が諫言を受け入れたことを祝賀したが、用いることはできなかった。まもなく詔して西北辺境を巡行慰労した。帰還後、侍御史に遷り、礼部員外郎・史館修撰に改められた。吏部員外郎に進んだ。ちょうど曹史の李賨らが偽りの告身を売り、六十五人の官を選任し、贓物千六百万以上に及ぶ事件があり、虞卿がその奸を発覚させ、李賨らは御史府に拘束された。ところが虞卿の親しい吏がかつて二百万銭を受け取って逃亡し、私奴が三十万銭を受け取っていた。虞卿は奴を縛って獄に送った。三司の厳休復・高鉞・韋景休が共同で推問し、李賨らは皆誅殺された。虞卿は部下を監督しなかった罪で免官となった。
李宗閔・牛僧孺が政を輔けると、引き立てて右司郎中・弘文館学士とした。再び給事中に遷った。虞卿は諂い柔らかで、権幸に巧みに取り入って喜ばせ、奸利を図るよりどころとした。毎年挙選を受ける者は皆その門を走り、第を署し員を注し、望むところを得られない者はなく、昇沈はその口先の間にあった。当時、蘇景胤・張元夫という者がいたが、虞卿兄弟の楊汝士・楊漢公は人々が奔走する対象であり、故に言葉があった、「挙場に趨かんと欲すれば、蘇・張に問え。蘇・張はまだしも、三楊(楊虞卿・汝士・漢公)は我を殺す。」宗閔は彼を特に厚く遇し、党中で最もよく唱和する者とし、口先で事の機微を軽重した。故に当時「党魁」と号された。
徳裕が宰相となると、出されて常州刺史となった。宗閔が再び入朝すると、工部侍郎として召され、京兆尹に遷った。太和九年、京師に鄭註が帝のために丹薬を調製し、小児の肝心を剔き取って用いているとの風説が流れた。民衆は驚き相い、児童を戸締りして守った。帝は快く思わず、註も内心安からず、かつて虞卿と怨みがあったので、すなわち李訓と謀って奏上して言うには、「流言は虞卿の家から出て、京兆尹の騶卒・伍長を通じて都下に広まった」と。御史大夫李固言は平素より虞卿の周囲との結託を憎んでいたので、これに左の端緒を付会した。帝は大いに怒り、虞卿を詔獄に下した。ここにおいて諸子弟は自ら囚われて闕下に至り冤罪を称したので、虞卿は釈放され、虔州司戸参軍に貶せられ、死んだ。
子に知退・知権・壇・堪・漢公あり、皆進士第に擢でられ、漢公が最も顕著であった。
虞卿の子 漢公
漢公は、字を用乂という。初め興元李絳の幕府に辟せられ、絳が死んだとき、その禍に与からなかった。累遷して戸部郎中・史館修撰となり、司封郎中に転じた。虞卿の事に坐し、下除されて舒州刺史となり、湖・亳・蘇の三州に徙った。桂管・浙東観察使に擢でられ、戸部侍郎より荊南節度使に拝され、工部尚書として召された。ある者が漢公が荊南を治めて貪贓があったと劾したので、秘書監に降った。稍く遷って国子祭酒となった。
宣宗は同州刺史に擢でた。ここにおいて、給事中鄭裔綽・鄭公輿が共に漢公は猥りに冒進して廉概なく、近輔に処すべからずと奏し、三度制書を返した。帝は他日、門下省が論執駁正することを未だ嘗て退けなかった。漢公は平素より左右と結び、奥深き援助があった。ここに至り、帝は惑わされて従わず、制は遂に行われた。寒食の宴に近臣を会したとき、帝自ら撃球をして楽しみ、巡って従臣を労い、裔綽らを見て言うには、「省中の議は従わざるは無いが、ただ漢公の事のみが党有りと為す」と。裔綽独り対して言うには、「同州は、太宗の興王の地なり。陛下は人子孫として精選して守長を付すべし、漢公は既に墨に敗れたるに、陛下はどうして劇部を挙げて貪人に私すべけんや」と。帝は恚み顔色に現れた。翌日、裔綽を斥けて商州刺史とした。漢公は同州より更に宣武・天平両節度使となり、卒した。子に籌・範あり、仕えて亦顕著であった。
虞卿の兄 汝士
汝士は、字を慕巢という。進士第に中り、又宏辞に擢でられた。牛李(僧孺・徳裕)は彼を善く待遇し、引きいて中書舎人とした。開成初め、兵部侍郎より東川節度使となった。時に嗣復は西川を鎮めしめ、乃ち族昆弟にして、対して旄節を擁し、世その門を栄しとした。刑部尚書に終わった。
子に知温・知至あり、悉く進士第を以て官に入った。知温は荊南節度使に終わった。知至は宰相劉瞻に善くせられ、比部郎中知制誥となった。瞻が罪を得ると、亦貶せられて瓊州司馬となり、累擢して戸部侍郎となった。
楊氏は汝士の後より、貴赫として冠族と為った。居る所は静恭里、兄弟並びに門戟を列ねた。咸通の後、台省方鎮に在る者率ね十余人に及んだ。
張宿
張宿は、元は寒人にして、自ら諸生と名乗った。憲宗が広陵王の時、張茂宗の推薦により尉となり、邸中に出入りすることを得て、誕譎にして敢えて言った。及んで監撫すると、布衣より左拾遺を授けられ、権幸と交通し、四方の賂遺門に満ちた。数え召し対せしめられたが、慎密ならず、禁中の語を漏らした事に坐し、郴丞に貶せられて十余年を過ごした。
累遷して比部員外郎となった。宰相李逢吉は数えその狡譎にして信ずべからざるを言い、白して濠州刺史と為そうとしたが、宿は上疏して自らを弁じ、留められて遣わされなかった。帝は諫議大夫と為さんとしたが、逢吉は言う、「諫議の職は要重なり、賢者を待つべし。宿は細人なり、この官を汚すべからず。陛下必ずこれを用いんとせば、臣を先ず去ることを請う」と。帝は快く思わなかった。後逢吉が罷めると、詔して権知諫議大夫と為し、宰相崔群・王涯が同様に請うて言うには、「諫議大夫は、前世には或いは山林より、或いは行伍より擢でて任じた者あり、然れども皆道義時に卓異なり。今宿は望み軽し、若し不次を以て待たば、寵するに足らず、却ってこれを累わすに適う」と。他官を授くることを請うたが、聴かず、中人をして宣授せしめた。宿は執政が己を与えざるを怨み、乃ち日に讒言を肆にして甚だしく、皇甫镈と相附離し、多く正人君子を中傷した。元和の末、節を持して淄青に至り、李師道は地を割き子を遣わして入侍せんことを願った。既にして悔い、復た宿を遣わして往かしめたが、道中に暴卒し、秘書監を贈られた。
熊望
熊望は、字を原師といい、進士第に擢でられた。性険躁にして、弁説を以て公卿の間に遊んだ。劉棲楚が京兆尹となり、権勢を樹てると、望は日々その門下に出入りし、事機を刺取し、陰に計画を佐けた。敬宗は歌詩を為すを喜び、東頭学士を置くことを議し、以て燕狎に備えんとした。棲楚は望を推薦したが、用いられるに及ばず、帝は崩じた。文宗が立ち、韋処厚が政を執ると、詔して望は因縁険薄にして、密職を営み、褻幸を図り、衆議を讙沸せしむとし、漳州司戸参軍に貶した。
柏耆
柏耆は、縦横の学を有す。父の良器は、時に威名ある将たり。耆は志健くして望高く、名を立てることを急ぐ。是の時、王承宗常山を以て叛く。朝廷兵を厭ふ。耆は策を杖きて淮西行営に詣り裴度を謁し、且つ言ふ、「天子の一節を得て鎮に入り馳せば、舌を掉ひて之を下す可し」と。度為に言ふ。乃ち左拾遺を以て往かしむ。既に至り、大誼を以て承宗を動かし、泣下るに至る。乃ち二州を献じ、二子を以て質に入らんことを請ふ。真に耆を左拾遺に擢ぐ。是より声一時に震ふ。起居舎人に遷る。王承元義成軍に徙る。諫議大夫鄭覃を遣はして成徳軍を慰めしめ、緡銭百万を賚ふ。賚未だ至らざるに、挙軍嘩議す。穆宗耆を遣はして天子の意を諭さしむ。衆乃ち信悦す。兵部郎中・諫議大夫に転ず。太和初、李同捷反す。詔して両河諸鎮に出兵せしむ。久しく功無し。乃ち耆に徳州行営諸軍計会使を授け、判官沈亞之と旨を諭さしむ。会に横海節度使李祐徳州を平らぐ。同捷窮し、降を請ふ。祐大将万洪をして代はりて滄州を守らしむ。同捷未だ出でざるなり。耆三百騎を以て滄に入り馳せ、事を以て洪を誅し、同捷とともに京師に朝す。既に行く。諜言ふ、「王廷湊奇兵を以て同捷を劫はんと欲す」と。耆遂に其の首を斬りて献ず。諸将耆の功を嫉み、比奏して攢詆す。文宗已むを得ず、耆を循州司戸参軍に貶し、亞之を南康尉とす。宦人馬国亮耆を譖りて、同捷の先に得たる所の王稷の女及び奴婢珍貲を受くると云ふ。初め、祐耆の洪を殺すを聞き、大いに驚き、疾遂に劇し。帝曰く、「祐若し死せば、是れ耆之を殺すなり」と。是に至り、前の怒を積み、詔して長流愛州とし、死を賜ふ。
賛に曰く、詩人は譖人を斥くること最も甚だしく、之を豺虎・有北に投げ、置かざるなり。群・棲楚の輩の如きは則ち然り。肆に訐きて以て公を示し、党を構へて以て私を植う。其の言纚纚として聴く可きが若し、卒にして敗乱に入るなり。孔子の所謂「非に順ひて沢す」者か、「利口邦家を覆す」者か。耆は衆を掩ひて功を取り、自ら其の死を速ぬ。哀しき哉。