新唐書

巻一百七十六・列傳第一百一 韓愈附:孟郊 張籍 賈島

韓愈

韓愈、字は退之、鄧州南陽の人なり。七世の祖茂は、後魏に功有り、安定王に封ぜらる。父仲卿は、武昌令となり、美政有り、去りて後、県人は石を刻み徳を頌す。終に秘書郎に至る。愈は三歳にして孤となり、伯兄會に従ひ嶺表に貶官す。會卒し、嫂鄭之を鞠く。愈自ら書を読むことを知り、日に数千百言を記し、長ずるに及び、尽く能く『六経』・百家の学を通ず。進士第に擢でらる。時に董晉宣武節度使となり、表して觀察推官に署す。晉卒し、愈喪に従ひて出づ、四日ならずして、汴軍乱る、乃ち去る。武甯節度使張建封に依る、建封府推官を辟す。操行堅正にして、鯁言忌む所無し。四門博士に調じ、監察御史に遷る。上疏して宮市を極論す、徳宗怒り、陽山令に貶す。民に愛有り、民子を生むこと多く其の姓を以て之を字す。江陵法曹參軍に改む。元和初め、権に國子博士を知り、東都に分司し、三歳にして真と為る。都官員外郎に改め、即ち河南令を拝す。職方員外郎に遷る。

華陰令柳澗罪有り、前刺史之を劾奏す、報へずして刺史罷む。澗百姓を諷し遮り軍頓役の直を索む、後刺史之を悪み、其の獄を按じ、澗を房州司馬に貶す。愈華を過ぎ、刺史陰に相党すと以為ひ、上疏して之を治めんとす。既に御史覆問し、澗の贓を得、再び封溪尉に貶す。愈是に坐して復た博士と為る。既に才高くして数たび黜けられ、官又下遷す、乃ち『進学解』を作りて以て自ら諭す曰く、

國子先生晨に太学に入り、諸生を召して館下に立たしめ、之に誨へて曰く、「業は精しきは勤に在り、荒ぶるは嬉に在り。行は成るは思に在り、毀つるは随に在り。方今聖賢相逢ひ、治具畢く張り、凶邪を抜き去り、畯良を登崇す。小善を占むる者は率ね以て録し、一藝を名づくる者は庸ならざる無し。爬羅剔抉し、垢を刮り光を磨く。蓋し幸ひにして選ばるる有り、孰れぞ多しと云ひて揚げられざらんや。諸生業は精しからざるを患へ、有司の明らかならざるを患ふる無かれ。行は成らざるを患へ、有司の公ならざるを患ふる無かれ。」

言未だ既らず、列に笑ふ者有りて曰く、「先生予を欺く哉。弟子先生に事へ、茲に年有り。先生口に六藝の文を吟するを絶たず、手に百家の編を披くを停めず。事を記する者は必ず其の要を提げ、言を纂する者は必ず其の玄を鉤す。多きを貪り得るを務め、細大捐てず。膏油を焼きて以てを継ぎ、常に矻矻として以て年を窮む。先生の業は、勤と謂ふべし。異端を牴排し、佛老を攘斥す。罅漏を補苴し、幽眇を張惶す。墜緒の芒芒を尋ね、独り旁に搜し遠く紹ぐ。百川を停めて之を東にし、狂瀾を回らして既倒に於けり。先生の儒に於ける、労有りと謂ふべし。濃郁に沈浸し、英を含み華を咀む。文章を作す、其の書家に満つ。上は姚姒に規し、渾渾として涯無し。周の『誥』商の『盤』、佶屈聱牙。『春秋』謹厳、『左氏』浮誇。『易』奇にして法有り、『詩』正にして葩有り。下は『莊』『騷』に迨び、太史の録する所、子雲相如、工を同じくして曲を異にす。先生の文に於ける、其の中閎にして其の外肆なりと謂ふべし。少しく始めて学を知り、敢為するに勇み有り。長じて方に通じ、左右具に宜し。先生の人と為るに於ける、成れりと謂ふべし。然れども公は人に見信ぜられず、私は友に見助けられず。前に跋き後に躓き、動く輒ち咎を得。暫く御史と為り、遂に南夷に竄す。三年博士、冗にして治を見ず。命と仇謀り、敗を取ること幾時ぞ。冬暖かにして兒寒きを號し、年豊かにして妻饑ゆるを啼く。頭童齒豁、竟に死して何の裨ぞ。此れを慮へざるを知らずして、反つて人を教ふるか。」

先生曰く、「吁、子来たれ。夫れ大木は杗と為り、細木は桷と為り、欂櫨侏儒、椳闑磺楔、各其の所を得、之を施して室を成すは、匠氏の工なり。玉劄丹砂、赤箭青芝、牛溲馬勃、敗鼓の皮、俱に収め併せ蓄へ、用に待ちて遺る無きは、醫師の良なり。明を登し公を選び、巧拙雑へ進み、紆餘を以て妍と為し、卓犖を以て傑と為し、短を校へ長を量り、唯だ器の是に適するを取るは、宰相の方なり。昔し孟軻辯を好み、孔道以て明らかなり。轡天下を環り、卒に行に老ゆ。荀卿王を宗とし、大倫以て興る。讒を楚に逃れ、蘭陵に廢死す。是の二儒者は、詞を吐きて経と為し、足を挙げて法と為し、類を絶ち倫を離れ、優に聖域に入る、其の世に遇ふること何如ぞ。今先生学は勤なれども其の統に由らず、言は多けれども其の中を要せず。文は奇なれども用に濟はず、行は修なれども衆に顯れず。猶ほ且つ月に俸錢を費し、歳に稟粟を靡し、子は耕るるを知らず、婦は織るるを知らず。馬に乗り徒に従ひ、安坐して食らふ。常途の促促に踵き、陳編を窺ひて以て盗竊す。然れども聖主誅を加へず、宰臣斥を見ず。茲れ其の幸ひに非ずや。動きて謗を得、名亦之に随ふ。閒に投じ散に置くは、乃ち分の宜しきなり。若し夫れ財賄の有無を商ひ、班資の崇庳を計り、己の称する所の量を忘れ、前人の瑕疵を指すは、是れ所謂匠氏の杙を以て楹と為さざるを詰め、而して醫師を昌陽を以て年を引くを以て訾し、其の豨苓を進めんと欲する者なり。」

執政之を覧み、其の才を奇とし、比部郎中・史館修撰に改む。考功に転じ、制誥を知り、中書舍人に進む。

初め、憲宗将に蔡を平げんとし、御史中丞裴度を命じて諸軍に使はし按視せしむ。還りて及び、且つ賊滅す可きを言ひ、宰相と議合はず。愈亦た奏言す、

淮西連年器械を脩め防守し、金帛糧畜賞を給するに耗し、兵を執るの卒四方に侵掠し、農夫織婦其の後に餉る、得て費に償はず。比に聞く畜馬皆槽櫪に上ると、此れ譬へば十夫の力有るが如く、朝より夕に抵り、跳躍叫呼し、勢久しきを支へず、必ず自ら委頓す。其の已に衰へたるに当りては、三尺の童子其の命を制す可し。況んや三州の残弊困劇の余を以てして天下の全力に当るや、其の敗は立って待つ可きなり、然れども未だ知る可からざるは、陛下の断と断たざるとに在るのみ。夫れ兵多からざれば以て勝を取るに足らず、必勝の師は速戦に利有り、兵多きにして戦速ならざれば則ち費す所必ず廣し。疆場の上、日相攻劫し、賊に近き州縣、賦役百端、小に水旱に遇へば、百姓愁苦す。方此の時、人人異議を以てして陛下を惑はし、陛下之を持すること堅からず、半塗にして罷むれば、威を傷ひ費を損じ、弊と為ること必ず深し。要するに先づ心に決し、本末を詳かに度り、事至りて惑はず、乃ち功を図る可し。

又た言ふ、「諸道の兵は羈旅單弱用に足らず、而して賊に界する州縣の百姓は戦闘に習ひ、賊の深淺を知る、若し内軍を以て募れば、教ふること三月ならずして、一切用ふ可し。」又た「四道に兵を置き、道ごとに三萬を率ひ、力を畜へ利を伺ひ、一日に俱に縱てば、則ち蔡首尾相救はず、以て功を責む可し」と欲す。執政喜ばず。會ひて人有り愈が江陵に在りし時裴均に厚くせられ、均の子鍔素より状無きを、愈文章を作り、字を鍔に命ずるを謗み語囂暴なりとす、是に由り太子右庶子に改む。及び度宰相として彰義軍を節度し、淮西を宣慰するに、愈を行軍司馬とす。愈遽に乗り先づ汴に入り、韓弘を説きて力を葉はしむるを請ふ。元濟平ぐ、刑部侍郎に遷る。

憲宗は使者を鳳翔に遣わし、仏骨を迎えて禁中に入れ、三日にして、仏祠に送った。王公士人は奔走して礼拝し、夷狄の法に至っては、体膚を焼き、珍貝を捨て、道に満ち溢れた。愈はこれを聞いて悪しとし、上表して曰く。

仏とは、夷狄の一法に過ぎぬ。後漢の時に始めて中国に入り、上古には未だ嘗て有らざるなり。昔、黄帝は在位百年、年百一十歳。少昊は在位八十年、年百歳。顓頊は在位七十九年、年九十歳。帝嚳は在位七十年、年百五歳。堯は在位九十八年、年百一十八歳。帝舜は在位及び禹の年は皆百歳。この時、天下太平にして、百姓安楽寿考なりしも、然れども中国には仏未だ有らざりき。その後、湯も亦年百歳、湯の孫太戊は在位七十五年、武丁は在位五十年、書史はその寿を言わざれども、その年数を推すに、蓋し百歳を減ぜざるべし。周の文王は年九十七歳、武王は年九十三歳、穆王は在位百年。この時も仏法は未だ中国に至らず、事仏によって然るに致したるに非ざるなり。漢の明帝の時に始めて仏法有り、明帝は在位僅かに十八年。その後、乱亡相継ぎ、運祚長からず。宋・斉・梁・陳・元魏以下、事仏漸く謹み、年代特に促し。唯だ梁の武帝は在位四十八年、前後三たび身を捨てて仏に施し、宗廟の祭に牲牢を用いず、昼日一食、菜果に止まり、後に侯景に逼られて、台城に餓死し、国も亦尋いで滅びぬ。事仏して福を求め、却って禍を得たり。これより観るに、仏は信ずるに足らず、亦知るべし。

仏は本より夷狄の人、中国と言語通ぜず、衣服制を殊にす。口に先王の法言を道わず、身に先王の法服を服せず、君臣の義・父子の情を知らず。仮令その身尚在り、その国の命を奉じて来朝し京師に至るとも、陛下容れてこれを接するは、宣政殿に一見し、礼賓に一設け、衣一襲を賜い、衛してこれを境に出だし、衆に貳せしめざるに過ぎざるべし。況んやその身死して已久しく、枯朽の骨、凶穢の余り、豈に宮禁に入るべけんや。孔子曰く、「鬼神を敬して之を遠ざく。」古の諸侯、その国に吊するに、必ず巫祝を令して先ず桃茢を以て不祥を祓除せしめ、然る後に進みて吊す。今、故無く朽穢の物を取り、親臨してこれを観る。巫祝先んぜず、桃茢用いず、君臣その非を言わず、御史その失を挙げず。臣実にこれを恥ず。乞うらくはこの骨を水火に付し、永く根本を絶ち、天下の疑いを断ち、前代の惑いを絶ち、天下の人をして大聖人の所作為、尋常を出でること万万なるを知らしめん。仏もし霊有りて、禍祟を作す能わば、凡そ殃咎有らば、宜しく臣が身に加うべし。上天鑒臨す、臣怨悔せず。

表入るや、帝大いに怒り、持して宰相に示し、以て死に抵せんとす。裴度・崔群曰く、「愈の言、訐牾す、これを罪するは誠に宜し。然れども内に至忠を懐かざれば、安くんぞ能く此に及ばん。願わくは少しく寛假して、以て諫争を来たらしめよ。」帝曰く、「愈の言、我が仏を奉ずること過ぎたりとは、猶容るべし。東漢仏を奉ずる以後、天子夭促を感ずと謂うに至りては、言何ぞ乖剌なるや。愈、人臣、狂妄にして敢えて爾る、固より赦すべからず。」ここにおいて中外駭懼し、戚里の諸貴と雖も、亦愈のために言う有り、乃ち潮州刺史に貶す。

既に潮に至り、表を以て哀謝して曰く。

臣は狂妄戇愚を以て、礼度を識らず、仏骨の事を陳べ、言不恭に渉り、名を正し罪を定むれば、万死も塞ぐに足らず。陛下臣が愚忠を哀れみ、臣が狂直を恕し、言は罪すべしと雖も、心亦他無しと謂い、特ち刑章を屈し、臣を以て潮州刺史と為す。既に刑誅を免れ、又禄食を得、聖恩寛大、天地量る莫し。脳を破り心を刳くも、豈に謝と為すに足らんや。

臣の領する州は、広府の極東に在り、海口を過ぎ、悪水を下れば、濤瀧壮猛にして、期程を計り難く、颶風鱷魚、患禍測るべからず。州南の近界、漲海天に連なり、毒霧瘴気、日夕発作す。臣少より病多く、年纔かに五十、髪白く歯落ち、理久長ならず。加うるに罪犯至重、処する所遠悪、憂惶慚悸し、死亡日に無し。単立一身、朝に親党無く、蛮夷の地に居り、魑魅と群を同じくす。苟くも陛下哀れみてこれを念わざれば、誰か肯んで臣が為に言わん。

臣は性を愚陋に受け、人事多く通ぜざる所有れども、唯酷く学問文章を好み、未だ嘗て一日暫くも廃せず、実に時輩の推許する所と為る。臣が当時の文に於いても、亦人に過ぐる者未だ有らず。陛下の功德を論述するに至りては、『詩』・『書』と相表裏し、歌詩を作し、これを郊廟に薦め、太山の封を紀し、白玉の牒を鏤り、天に対する宏休を鋪張し、前に無き偉績を揚厲し、『詩』・『書』の策に編して愧ずること無く、天地の間に措いて虧くこと無からん。古人をして復生せしむると雖も、臣未だ肯て譲らじ。

伏して惟うに、皇唐は命を受けて天下を有ち、四海の内、臣妾ならざる莫し。南北東西、地各万里。天宝以後より、政治少しく懈り、文致優れず、武克剛ならず、孽臣奸隸、蠹居棋処し、毒を揺りて自ら防ぎ、外は順いて内は悖り、父死して子代わり、祖を以て孫を以てす。古の諸侯の如く、自らその地を擅にし、朝せず貢せず、六七十年。四聖伝序して、陛下に至る。陛下即位以来、躬親して聴断し、乾を旋し坤を転じ、関機闔開し、雷厲風飛し、日月清照す。天戈の麾く所、従順ならざる無し。宜しく楽章を定め、以て神明に告げ、東に泰山を巡り、功を皇天に奏し、具に著す顯庸、明らかに得意を示し、永永の年をして、我が成烈に服せしむべし。この際に当たりて、所謂千載一時逢うべからざる嘉会、而るに臣は罪を負い釁に嬰り、自ら海島に拘わる。戚戚嗟嗟、日と死に迫り、曾て薄伎を従官の内・隷禦の間に奏するを得ず、思を窮め精を畢くして、以て前過を贖わん。痛みを懐いて天に窮し、死して目を閉ざさず。伏して惟うに陛下は天地父母、哀れみてこれを憐れみたまえ。

帝は表を得て、頗る感悔し、復用せんと欲し、宰相に示して曰く、「愈が前の論は朕を大いに愛するものなり。然れども天子の仏に事ふれば年促しと云ふは当たらず」と。皇甫鎛は素より愈の直なるを忌み、即ち奏して言ふ、「愈は終に狂疏なり。且く内移すべし」と。乃ち袁州刺史に改む。初め、愈潮州に至り、民の疾苦を問ふに、皆曰く、「悪溪に鱷魚有り、民の畜産を食ひ且く尽くす。民是を以て窮す」と。数日、愈自ら往きて之を視、其の属秦済に令して一羊一豚を以て溪水に投じ、之を祝して曰く、

昔、先王天下を有つてより、山沢を列ね、罔繩擉刃を以て蟲蛇悪物の民物を害する者を除き、之を駆り出して四海の外にせり。徳薄くして遠く有つ能はざるに及びては、則ち江漢の間すら皆棄てて以て蛮夷楚越に与ふ。況んや湖嶺の間、京師を去ること万里なるをや。鱷魚の此に涵淹卵育するは、亦固より其の所なり。

今天子唐の位を嗣ぎ、神聖慈武にして、四海の外、六合の内、皆撫して之を有つ。況んや禹跡の掩ふ所、揚州の近地、刺史県令の治むる所、貢賦を出して以て天地宗廟百神の祀に供するの壤なるをや。鱷魚其れ刺史と雑処して此の土に居るべからず。刺史は天子の命を受け、此の土を守り、此の民を治む。而るに鱷魚は旰然として溪潭に安んぜず、拠処して民畜の熊豕鹿麞を食ひて以て其の身を肥し、其の子孫を種く。刺史と拒争して長雄を為さんとす。刺史雖だ駑弱なりと雖も、亦安んぞ鱷魚が為に低首下心し、伈々睍睍として吏民の羞と為り、以て此に偷活せんや。天子の命を承けて吏と為り来る、固より其の勢鱷魚と弁せざるを得ず。鱷魚知有らば、其れ刺史に聴け。

潮の州は、大海其の南に在り。鯨鵬の大なるも、蝦蟹の細なるも、容れ帰する無からず。以て生ひ以て食ふ。鱷魚朝に発てば夕に至るなり。今鱷魚と約す。尽く三日、其れ丑類を率ひて南に海に徙り、以て天子の命吏を避けよ。三日に能はざれば、五日に至る。五日に能はざれば、七日に至る。七日に能はざれば、是れ終に徙らんと肯はざるなり。是れ刺史有らず、其の言に聴従せざるなり。然らずんば、則ち是れ鱷魚冥頑にして霊ならず。刺史言有りと雖も、聞かず知らずなり。夫れ天子の命吏を傲り、其の言を聴かず、徙らざる以て之を避けず、頑にして霊ならずして民物の害を為す者は、皆殺すべし。刺史は則ち材技の民を選び、強弓毒矢を操り、以て鱷魚に従事し、必ず尽く殺すに至りて乃ち止まん。其れ悔ゆること無かれ。

之を祝するの夕、暴風震電溪中に起こる。数日にして水尽く涸る。西に六十里に徙る。是より潮に鱷魚の患無し。袁人は男女を以て隷と為し、期を過ぎて贖はざれば、則ち之を没入す。愈至るや、悉く庸を計ひて没入せられたる所を贖ひ得、之を父母に帰すこと七百余人。因りて与に約し、其の隷と為るを禁む。召して国子祭酒に拝し、兵部侍郎に転ず。

鎮州乱れ、田弘正を殺して王廷湊を立てる。詔して愈に宣撫せしむ。既に行くや、衆皆之を危ぶむ。元稹言ふ、「韓愈惜しむべし」と。穆宗も亦悔い、詔して愈に事に度り宜しきに従ひ、必ずしも入る無からしむ。愈至るや、廷湊兵を厳しくして之を迓へ、甲士廷に陳ぶ。既に坐すや、廷湊曰く、「紛々たる所以の者は、乃ち此の士卒なり」と。愈大声に曰く、「天子公を以て将帥の材有りと為し、故に節を賜ふ。豈に賊と同じく反せんと意ふや」と。語未だ終はらざるに、士前に奮ひて曰く、「先太師国為に朱滔を撃つ。血衣猶ほ在り。此の軍何の負ふ所か有りて、乃ち賊と為すや」と。愈曰く、「爾ら先太師を記せざるを以て為すと為す。若し猶ほ之を記せば、固より善し。天宝以来、安禄山・史思明・李希烈等に子若くは孫有るか。亦官に居る者有るか」と。衆曰く、「無し」と。愈曰く、「田公魏博六州を以て朝廷に帰し、官は中書令、父子旗節を受く。劉悟・李祐皆大鎮たり。此れ爾が軍の其れ聞く所なり」と。衆曰く、「弘正刻なり。故に此の軍安んぜず」と。愈曰く、「然らば爾曹も亦田公を害し、又其の家を残せり。復た何の道か有らん」と。衆讙然として曰く、「善し」と。廷湊衆の変ずるを慮り、疾く麾して去らしむ。因りて曰く、「今廷湊に何を為さしめんと欲するや」と。愈曰く、「神策六軍の将、牛元翼の如き者は乏しからず。但だ朝廷は大體を顧み、之を棄つべからず。公久しく之を囲むは何ぞや」と。廷湊曰く、「即ち之を出ださん」と。愈曰く、「若し爾らば、則ち事無し」と。会に元翼も亦囲みを潰して出づ。廷湊追はず。愈帰りて其の語を奏す。帝大いに悦ぶ。吏部侍郎に転ず。

時に宰相李逢吉は李紳を悪み、之を逐はんと欲し、遂に愈を以て京兆尹兼御史大夫と為し、特詔して台参せず。而して紳を中丞に除く。紳果たして愈を劾奏す。愈は詔を以て自ら解す。其の後文刺紛然たり。宰相は台府協はざるを以て、遂に愈を罷めて兵部侍郎と為し、紳を出だして江西観察使と為す。紳帝に見え、留まるを得。愈も亦復た吏部侍郎と為る。長慶四年卒す。年五十七。礼部尚書を贈られ、諡して文と曰ふ。

愈性明鋭にして、詭随せず。人と交はり、終始少しくも変ぜず。後進士を成就して、往々知名なり。愈の指授を経る者、皆「韓門の弟子」と称す。愈官顕るに及び、稍々謝遣す。凡そ内外の親交友にして後なき者は、孤女を嫁遣して其の家を恤ふ。嫂鄭の喪に、服期を以て報ゆ。

毎に言ふ、文章は漢の司馬相如・太史公・劉向・揚雄より後、作者世に出でず。故に愈深く本元を探り、卓然として樹立し、一家の言を成す。其の『原道』『原性』『師説』等数十篇、皆奥衍閎深にして、孟軻・揚雄と相表裏して『六経』を佐佑すと云ふ。他の文に至りては、端を造り辞を置く、要は前人を襲蹈せざる者と為す。然れども惟だ愈之を為すに、はい然として若く余有るが如し。其の徒李翺・李漢・皇甫湜の従ひて之を效ふに至りては、遽かに及ばず遠く甚だし。愈に従ひて游ぶ者、孟郊・張籍の若きは、亦皆時に自ら名有り。

附 孟郊

孟郊は、字は東野、湖州武康の人。少く嵩山に隠れ、性介にして、諧合少なし。愈一見して忘形の交と為す。年五十、進士第を得、溧陽尉に調ず。県に投金瀬・平陵城有り。林薄蒙翳し、下に積水有り。郊閑に往きて水旁に坐し、裴回して詩を賦す。而して曹務多く廃す。令府に白し、仮尉を以て之に代へ、其の半奉を分つ。鄭余慶東都留守と為り、水陸転運判官に署す。余慶興元に鎮す。奏して参謀と為す。卒す。年六十四。張籍諡して貞曜先生と曰ふ。

郊詩を為すに理致有り。最も愈の称する所と為る。然れども思ひ苦しく奇澀なり。李観も亦其の詩を論じて曰く、「高き処は古に上無く、平かなる処は下りて二謝を顧みる」と云ふ。

附 張籍

張籍は、字は文昌、和州烏江の人。進士に第し、太常寺太祝と為る。久しく次ぎ、秘書郎に遷る。愈薦めて国子博士と為す。水部員外郎・主客郎中を歴る。当時有名の士皆与に游び、而して愈之を賢重す。籍性狷直なり。嘗て愈を責む、博褭を喜び及び駁雑の説を為すを、論議は人に勝たんことを好み、其の釈老を排するは孟軻・揚雄の若く書を著して以て世に垂るる者に能はざるを。愈最後に書を答へて曰く、

君は私が似つかわしくない者ではないとして、聖賢の域に推し進め、邪心を払い、未だ高からざる所を増やそうとお考えである。私の資質が道に至るべきものがあると言い、その源を浚い、その帰する所を導き、その根を灌ぎ、実を食らわんとされる。これは盛徳の辞譲するところであり、まして私のような者においてはなおさらである。しかしその中に復すべきものがあるゆえ、遂に止めることはできない。昔、聖人が『春秋』を作られた時、すでにその文辞を深くしたが、なお敢えて公に伝道せず、口授で弟子に伝え、後世に至ってその書が現れた。その患いを慮る道は微かである。今、二氏(仏・老)を宗として事える者は、下は公卿輔相に及んでいる。私はどうして敢えて公然と排撃できようか。語るに足る者を選んで教えても、なお時に私と悖り、その声は嘵嘵やかましいである。もしその書を成し遂げれば、見て怒る者は必ず多く、必ずや私を狂惑の者とするであろう。その身すら顧みられぬのに、書など何の役に立とう。夫子は聖人であられて、『子路を得てより、悪声耳に入らず』と言われた。その他、輔け相いし者は天下に周くいたが、なおかつ陳で糧を絶ち、匡で畏れ、叔孫で毀られ、斉・魯・宋・衛の郊を奔走された。その道は尊いが、その窮迫もまた極まった。その徒が相与に守ったおかげで、ついに天下に立つことができた。もし独り言い、独り書いていたならば、その存続は望めたであろうか。今、二氏が中土に行われること、およそ六百余年になる。その根は固く植わり、その流れは広く漫り、一朝の令で夕に禁じられるものではない。文王が没し、武王・周公・成王・康王が相与に守り、礼楽は皆存在したが、夫子に至るまで久しからず、夫子から孟子に至るまで久しからず、孟子から揚雄に至るまでまた久しからなかった。しかしなおその勤めはこのようであり、その困窮はこのようであり、その後ようやく立つことができた。私はどうして容易にこれを行えようか。行うことが容易であれば、その伝わることも遠からず、ゆえに私が敢えてしない所以である。しかし古人を見るに、その時を得て、その道を行えば、書くことはなかった。書く者は、皆、今に行われず、後世に行われることをなす者である。今、私が志を得るか失うかは未だ知れず、五十、六十を待って行っても遅くはない。天がこの人に知らしめようとしなければ、私の命は期しがたい。もしこの人に知らしめようとするならば、私でなくて誰であろうか。その道を行い、その書を為し、今を化し、後世に伝えることは、必ずあるであろう。君はどうして急いで私の為す所を憂えるのか。

前の書簡で、私が人と論じて気を下げられず、好勝者のようだと言われた。確かにそのようなことはあるが、しかし己の勝つことを好むのではなく、己の道の勝つことを好むのである。己の道の勝つことを好むのではなく、己の道は夫子・孟軻・揚雄の道である。伝える者が勝たなければ、道と為すところがない。私はどうしてこの名を避けられようか。夫子は『回と終日言いて違わず』と言われた。愚の如くであれば、その眾人と弁ずることもあったであろう。駁雑の讒りは、前の書簡で尽くした。君はそれをまた考えてみよ。昔、夫子でさえなお戯れることがあった。『詩』に『善く戯謔す、虐ならず』と言わないか。『記』に『張りて弛めざれば、文武も為さず』と言う。どうして道に害があろうか。君はそれを考えてみなかったのか。

張籍は詩をよくし、楽府に長け、警句が多い。官は国子司業に終わる。

附 皇甫湜

皇甫湜、字は持正、睦州新安の人。進士に及第し、陸渾尉となり、官は工部郎中に至る。弁が立ちせっかちで酒に任せ、しばしば同省の者に逆らい、東都分司を求めた。留守の裴度が判官に辟召した。度が福先寺を修復し、碑を立てようとして、白居易に文を求めた。湜は怒って言った。「近くに湜を捨てて遠く白居易を取るとは、ここから辞去させてほしい。」度は謝った。湜はすぐに酒一斗を請い、飲み酣になって筆を取ってすぐに書き上げた。度は車馬や繒彩を厚く贈ったが、湜は大いに怒って言った。「私が『顧況集序』を書いて以来、人に許したことはない。今、碑の字は三千、一字につき三縑(絹三匹)としても、どうして私を薄遇するのか。」度は笑って言った。「不羈の才である。」そしてそれに応じて報いた。

湜はかつて蜂に指を刺され、子供を買って蜂を集めさせ、その液を搗き取らせた。ある日、子に詩を書写させたが、一字誤ったので、罵り跳ねて杖を呼び、杖がまだ届かないうちに、その腕を噛んで血を流させた。

附 盧仝

盧仝は東都に住み、韓愈が河南令の時、その詩を愛し、厚く礼遇した。仝は自ら玉川子と号し、かつて『月蝕詩』を作って元和の逆党を風刺したが、愈はその巧みさを称えた。

当時また賈島・劉乂がおり、皆、韓愈の門下の弟子である。

附 賈島

賈島、字は浪仙、范陽の人。初め浮屠となり、名は無本といった。東都に来た時、洛陽らくよう令が僧の午後の外出を禁じたので、島は詩を作って自らを傷んだ。愈はこれを憐れみ、文を教えたので、ついに浮屠を去り、進士に挙げられた。苦吟に耽る時は、公卿貴人に出逢っても、皆それに気づかなかった。ある日、京兆尹を見て、驢馬に乗ったまま避けず、呼び詰められ、ようやく釈放された。累次挙げられたが、及第しなかった。文宗の時、誹謗の罪に坐し、長江主簿に貶された。会昌初年、普州司倉参軍から司戸に遷ったが、任命を受ける前に卒した。六十五歳。

附 劉乂

劉乂もまた一節の士である。若い頃は放縦で侠行を行い、酒の勢いで人を殺し亡命した。赦令に遇い、出て、さらに節を折って改め書を読み、歌詩を作ることができた。しかし昔の負い目を恃み、貴人に俯仰することができず、常に屐を穿き、破れた衣を着ていた。韓愈が天下の士を受け入れていると聞き、歩いて帰依し、『冰柱』『雪車』の二詩を作ったが、盧仝・孟郊の右に出た。樊宗師が見て、独り拝礼した。人の短長を面と向かって言うことができたが、その義に服すればまた親族のように縫い合わせた。後に言葉を争って賓客に下ることができず、韓愈の金数斤を持って去り、言った。「これは墓中の人を諂うて得たものだ、劉君に与えて寿とするに如かず。」愈は止められず、斉・魯に帰り、その終わりを知らない。

賛して言う。唐が興り、五代の分裂を承け、王政は綱紀を失い、文は弊れ質は窮まり、険しく俗っぽいものが混在した。天下が定まり、荒れたものを治め蠹を剔り、儒術を討究して典憲を興し、薫り醸し浸潤すること、およそ百余年、その後文章は少しずつ述べるに足るものとなった。貞元・元和の間に至り、韓愈は遂に『六経』の文をもって諸儒の先駆けとなり、末流を障堤し、刓(削)れたものを樸に返し、偽を剗(削)って真とした。しかし愈の才は、自ら司馬遷・揚雄と視し、班固以下は論じなかった。その得るところは、粋然として一に正から出で、陳言を刊落し、横に騖け別に駆け、汪洋として大肆であるが、要するに聖人に牴牾するところはない。その道は自ら孟軻に比し、荀況・揚雄を未だ淳からずとした。寧ろ信じられないことであろうか。進諫し謀を陳べ、難を排し孤を恤み、媮末(軽薄な末俗)を矯拂し、皇皇として仁義に努めたことは、篤道の君子と言えよう。晋から隋に至るまで、老仏が顕に行われ、聖道は帯の如く細くも絶えなかった。諸儒は天下の正議に倚り、怪神を助けた。愈は独り喟然として聖人を引き、四海の惑いを争った。誹笑を蒙っても、躓いてまた奮い立ち、初めは信じられなかったが、ついに大いに時に顕れた。昔、孟軻が楊・墨を拒んだのは、孔子からわずか二百年であった。愈が二家を排したのは、すでに千余年を去り、衰えをはらい正しに返す功は同じく、力はそれを倍した。ゆえに況・雄を過ぎたところ少なくない。愈が没してから、その言は大いに行き、学者はこれを泰山・北斗の如く仰いだ。