李逢吉
李逢吉、字は虚舟、系は隴西に出づ。父顔、錮疾有り、逢吉自ら医剤を料り、遂に方書に通ず。明経に挙げられ、又進士第に擢でられる。范希朝之を表して振武掌書記と為し、之を徳宗に薦め、左拾遺拝さる。元和の時、給事中・皇太子侍読に遷る。中書舎人に改め、礼部貢挙を知る。未だ事已らざるに、門下侍郎・同中書門下平章事拝さる。詔して礼部尚書王播に榜を署せしむ。
逢吉性忌刻にして、険譎多端なり。位を得るに及んで、務めて好悪を償わんとす。裴度淮西を討つに、逢吉成功を慮り、密かに沮止を図り、和議を趣る者に諸道の兵を罷めしむるを請わしむ。憲宗知りて之を悪み、出でて剣南東川節度使と為す。
帝暴疾に罹り、中外阻遏す、逢吉中人梁守謙・劉弘規・王守澄の議に因り、景王を立てて皇太子と為さんことを請う、帝言う能わず、頷くのみ。明日詔を下し、皇太子遂に定まる。鄭注王守澄に幸を得る、逢吉従子訓を遣わして注に賂り、守澄を結んで奥援と為し、是より志を肆にして憚る所無し。其の党に張又新・李続・張権輿・劉棲楚・李虞・程昔范・薑洽及び訓八人有り、而して傅会する者又八人、皆要劇に任じ、故に「八関十六子」と号す。求請有る所は、先に関子に賂り、後に逢吉に達す、欲する所を得ざる無し。未だ幾ばくもあらざるに、涼国公に封ぜらる。
敬宗新に立ち、度入覲を求む、逢吉自ら安からず、張権輿為に讖言を作りて以て度を沮がんとす、而して韋処厚亟に帝に之を言う、計卒に行われず。武昭と云う者有り、陳留の人、果敢にして弁有り。度の蔡を討つに、遣わして呉元済を説かしむ、元済兵を以て之に臨む、辞撓まず、厚礼を以て遣い還し、度軍職に署し、従って太原に鎮し、石州刺史を除く。罷め帰りて用いられず、怨望し、太学博士李涉・金吾兵曹参軍茅匯と長安中に居り、気侠を以て相い許す。逢吉と李程同に執政す、葉わず。程の族人仍叔昭に謂いて曰く「丞相君を用いんと欲す、顧みるに逢吉持して不可とす」と。昭愈々憤り、酒の所、其の友劉審に語り、逢吉を刺さんと欲す。審窃かに権輿に語る、逢吉匯に因りて昭を召し見え、厚く相い結納し、忿隙解くを得。逢吉素より匯を厚く待ち、嘗て書を与えて曰く「足下当に'自求'を以て僕に字すべく、吾当に'利見'を以て君に字すべし」と。辞頗る猥昵なり。度将に還らんとするに及び、復た人をして昭の事を発せしむ。ここにより昭・匯皆獄に下り、御史中丞王播に命じて之を按ぜしむ。訓匯を諷して昭と李程の同謀を誣らしめんとす、然らず且つ死せんと。匯不可として曰く「人を誣いて以て自ら免るるは、為さざるなり」と。獄成り、昭榜死し、匯崖州に流され、涉康州に、仍叔道州司馬に貶せられ、訓象州に流さる。審を擢でて長寿主簿と為す。而して逢吉の謀益々露わる。昭死す、人皆之を冤とす。
初め、逢吉昭の獄を興して以て度の入るを止めんとす而して果たさず、天子度の忠なるを知り、卒に之を相とす。逢吉是より浸く疏んぜられ、検校司空・平章事を以て山南東道節度使と為り、表して李続を自ら副とし、張又新を行軍司馬とす。頃之、検校司徒。初め、門下史田伾逢吉の親信に倚り、財利を顧み、婢を進め、之を嬖す。伾事に坐して逢吉の家に匿る、名捕するも獲ず。出鎮するに及び、表して軍に随わしむ、歳満ちて敢えて集まらず、人をして偽り門下省に過ぎしめ、房州司馬に調ず。有司の発する所と為り、即ち襄州に之を捕え、詭讕して遣わさず。御史劾奏し、詔して一季の俸を奪い、是に因りて続を貶して涪州刺史と為し、又新を汀州刺史と為す。久しくして乃ち宣武に徙り、太子太師を以て東都留守と為る。訓用いらるるに及び、召し拝して尚書左僕射と為す、足病して朝す能わず、司徒を以て致仕す。卒す、年七十八、太尉を贈られ、諡して成と曰う。子無し、従弟の子植を以て嗣がしむ。
元稹
始め、王叔文・王伾太子宮に蒙幸して国政を橈す、稹謂う宜しく正人を選びて輔導すべしと、因りて書を献じて曰く
伏して見るに陛下明詔を降し、廃学を脩め、胄子を増す、然れども事此に先んずる有り、臣敢えて昧死して之を言わん。
賈誼言有り「三代の君仁にして且つ久しきは、之を教うる然らしむるなり」と。周の成王本中才、管・蔡に近づけば則ち讒入り、周・召を任すれば則ち善聞こゆ。豈天の聰明ならんや?而して道に克ち終わる者は、教えなり。始めて太子と為るや、太公師と為り、周公傅と為り、召公保と為り、伯禽・唐叔と游び、目淫豔を閲せず、耳優笑を聞かず、居庸邪に近づかず、玩珍異を備えず。君と為るに及び、血気既に定まり、游習既に成り、放心有りと雖も、已に成れる性を奪う能わず。則ち彼の道德の言は、固より吾の習聞する所、之を陳る者は諭し易く;回佞庸違は、固より吾の積懼する所、之を諂う者は弁じ易し。人の情能う所を耀さざる莫く、近きに党す、苟くも志を得ば、必ず其の蘊む所を快くせん。物の性亦然り、故に魚は水を得て游ぎ、鳥は風に乗じて翔け、火は薪を得て熾ゆ。夫れ成王の蘊む所は、道德なり;近きは、聖賢なり。其の蘊む所を快くすれば、則ち礼楽を興し、諸侯を朝し、刑罰を措く、教の至りなり。
秦は則ち然らず、先王の学を滅ぼし、師保の位を黜く。胡亥の生るるや、《詩》・《書》聞くを得ず、聖賢近づくを得ず。彼の趙高は、刑餘の人、之に残忍戕賊の術を傅え、日に恣睢す、天下の人未だ尽く愚ならざるに、而して亥は馬鹿を分つ能わず;高の威天下に懾するに、而して亥自ら深宮に幽まる。秦の亡ぶるは、則ち以て之を致す有り。
太宗が皇太子であった時、道徳を知る者十八人を選んでこれと交遊せしめ、即位の後も、間宴飲食の間も、この十八人は常に側にあった。上の過失は言わざるなく、下の情実は通ぜざるなく、三、四年を経ずして名を盛古に高くした。これ遊習の致すところである。貞観以来、太子保・傅は皆宰相が兼ねてこれを領し、その他の官も時に重く選ばれた。故に馬周は位高くして司議郎とならざるを恨んだ。その証左である。
母后が朝政に臨み、王室を切り捨てた時、中宗・睿宗が皇太子であったが、骨鯁敢言の士ありといえども、調護保安の職に在るを得ず、讒言中傷に及んでは、ただ楽工が腹を割いて証とするのみであった。豈に哀しまざらんや。近来この弊は特に甚だしく、師資保傅は、疾んで廃れた老耄の貴人か、あるいは休戎罷帥の者がこれを処する。また僻滞華首の儒を以て侍直・侍読に備え、月を越え時を過ぎても召されることがない。匹夫がその子を愛するにも、なお明哲慈恵の師を求める。まして天下の元良(皇太子)にして、かえって及ばざるということがあろうか。
臣が思うに、高祖より陛下に至る十一聖は、生まれながらにして神明、長じて仁聖であり、このような瑣末なことを以て、省みられなかったのである。万世の後に、周の成王のような中才の君主が、深宮に生まれ、保助の教えなくば、喜怒哀楽の由来を知ることができず、ましてや稼穡の艱難をどうして知ることができようか。願わくは皇太子及び諸王に、歯冑講業せしめ、厳師に問う礼を行わせ、禽色の娯楽を止め、遊習の善きところを資けしめよ。豈に美ならざらんや。
また自ら諫諍の職にあることを以て、しばしば召し見えられざるを憂い、上疏して曰く。
臣は聞く、治乱の始めには、それぞれ萌芽の兆しがあると。直言を容れ、視聴を広くし、みずから庶務に勤め、大臣を信じて任せ、左右近習に遠方の者を蔽わせざらしむるは、これ治の兆しである。大臣を親しまず、直言を進まず、忌諱に触れる者を殺し、左右を犯す者を刑し、一二の近習と深宮にて事を決し、群臣をして与からしめざるは、これ乱の萌芽である。人君が即位の初め、萌芽の兆し未だ見えざる時、必ず狂直敢言の者あり。上あるいは激してこれを進めれば、天下の君子は風を望んで曰く、「彼の狂なる者、上に容れられた。天下の士を招こうとするのか。我が道を行い得るであろう」と。小人は利に聳えて曰く、「彼の直なる者、上に幸いを得た。我も直言を以て利を求めんか」と。ここにおいて天下の賢不肖、各々その忠ずるところを以て上に貢ぐ。上下の志、沛然として通ず。天下の智を合わせ、万物の心を治め、人々その得るところを楽しみ、その上を戴くこと赤子の慈母に親しむが如し。たとえこれを誘いて乱を為さしめんと欲すとも、得べしや。進計する者入りて、直言する者戮せらるるに及べば、天下の君子は内に謀りて曰く、「言を用いられずして身戮せらるるよりは、危行言遜を以てその終わりを保たん」と。小人は利を択んで曰く、「我が君の悪むところは、心に逆らい耳に逆らうことなり。我は苟も是非に順ってこれに事えん」と。ここにおいて進見する者は革めて内せられず、事を言う者は寝て聞かれず。この如くならば、十歩の事すら見るを得ず、まして天下四方の遠きをや。故に曰く、聾瞽の君は耳目なきに非ず、左右前後の者がこれを遮へいし、視聴せしめざるなり。乱れざらんと欲すとも、得べしや。
太宗が即位の初め、天下言う者なかりし時、孫伏伽が小事を以て諫めを奉じ、厚く賜うてこれを勧めた。ここより事を論ずる者は、ただ言直からず、諫極まらず、上の盛意を激しめざるを懼れ、曾て忌諱を虞れとせざりき。ここにおいて房玄齢・杜如晦・王珪・魏徴は前にて可否を議し、四方は外にて得失を言い、数年を経ずして大治した。豈に文皇(太宗)独り上に聰明を運らしたのみならんや。下その言を尽くして、これを宣揚発暢したるなり。全安を楽み、戮辱を悪むは、古今情一つなり。豈に貞観の人独り忌諱を軽んじて犯し、戮辱を好むのみならんや。上激してこれを進めたるなり。順従を喜び、謇犯を怒るも、また古今情一つなり。豈に文皇独り逆耳を甘んじ、心に従うを怒るのみならんや。順従の利軽く、危亡の禍大なるを以て、子孫の為に永安の計を建てんと思えるなり。後嗣たる者、一朝の意に順って、文皇の天下を蔑ろにすべけんや。
陛下即位すでに一年、百辟卿士・天下四方の人、曾て一計を献じ一言を進めて賞を受くる者なし。左右前後の拾遺補闕も、また封を奏し諫を執りて勧めらるる者なし。諫鼓を設け、匭函を置くも、曾て冤を雪ぎ事を決し、幽を明らかに察するの意を聞かず。陛下の睿博洪深、励精求治を以てすれば、豈に言を用いられざらんや。下能く発明する所なきなり。顧問を承くる者は、ただ一二の執政のみ。対すること頃ならずして罷む。豈に治安を陳べ、教化を議する暇あらんや。他の有司は時に召し見えらるるも、ただ簿書を奉じ、銭穀の登降を計るのみ。陛下の政を以て、貞観に視るに何如ぞ。貞観の時には、なお房・杜・王・魏輔翊の智あり、日に献可替否する者あり。今陛下致治の初めに当たりて、事を言い計を進むる者、歳一人もなし。豈に群下の因循窃位の罪に非ずや。輒て死を昧して十事を条上す。一、太子を教え、邦本を正す。二、諸王を封じ、磐石を固くす。三、宮人を出す。四、宗女を嫁す。五、時に宰相を召して庶政を講ぜしむ。六、群臣を次対し、聰明を広くす。七、正衙奏事を復す。八、方幅の糾弾を許す。九、非時の貢献を禁ず。十、出入遊畋を省く。
時に論傪・高弘本・豆盧靖らが刺史として出され、十日余りを経て、詔書を追い還した。元稹は諫めて曰く、「詔令数たび易わりて、天下に信ぜられず」と。また西北辺境の事を陳べた。憲宗悦び、召して得失を問う。当路の者これを憎み、河南尉として出され、母喪のため解官した。喪服を除き、監察御史に拝された。東川にて獄を按じ、節度使厳礪が詔に違いて数百万を過賦し、塗山甫ら八十余家の田産奴婢を没入したことを劾奏した。時に礪は既に死し、七刺史は皆俸を奪われ、礪の党は怒った。まもなく東都に分司した。
時に浙西観察使韓皋が安吉令孫澥を杖ち、数日にして死なせた。武寧王紹が監軍孟升の喪を護送し、駅馬に乗り、喪を郵中に納め、吏敢えて止めざりき。内園が勝手に人を拘し一年を逾え、御史台これを知らず。河南尹が諸生尹太階を誣いて殺す。飛龍使が亡命の奴を誘いて養子とす。田季安が洛陽の衣冠の女を盗み取る。汴州が死賈の銭千万を没入す。凡そ十余事、悉く論奏した。時に河南尹房式が罪に坐し、元稹がこれを挙劾し、故事に按じて追摂し、移書して務めを停めしめた。詔して式の罪を薄くし、元稹を召し還した。敷水駅に次ぐ時、中人仇士良夜に至る。元稹譲らず、中人怒り、元稹を撃ちて面を敗った。宰相は元稹年少にして軽々しく威を樹て、憲臣の体を失えるとし、江陵士曹参軍に貶した。李絳・崔群・白居易皆その枉れるを論ず。久しくして通州司馬に徙り、虢州長史に改む。元和の末、召されて膳部員外郎に拝された。
元稹は特に詩に長け、白居易と名相埒し、天下伝誦して「元和体」と号し、しばしば楽府に播せられた。穆宗が東宮に在りし時、妃嬪近習皆これを誦し、宮中にて元才子と呼んだ。元稹の江陵に謫せられた時、臨軍崔潭峻に善し。長慶の初め、潭峻方に親幸せられ、元稹の歌詞数十百篇を奏禦す。帝大いに悦び、「元稹今いずくに在るや」と問う。曰く、「南宮散郎たり」と。即ち祠部郎中に擢で、制誥を知らしむ。詔書の文体を変え、純厚明切を務む。盛んに一時に伝わる。然れどもその進むや公議に非ず、士類に訾薄せらる。元稹内に平らかならず、『誡風俗詔』に因りて歴に群有司を詆し、以てその憾みを逞うせり。
俄かに中書舍人・翰林承旨學士に遷る。数たび召し入れて、礼遇益々厚く、自ら天下の事を言うを得たりと謂う。中人争いて稹と交わり、魏弘簡は枢密に在りて、特に相善し。裴度出でて鎮州に屯し、論奏する所あり、共に沮ぎ却く。度三たび疏を上りて弘簡・稹を劾し、国政を傾乱すとす:「陛下賊を平げんと欲せば、当に先ず朝廷を清くすべし乃ち可なり。」帝群議に迫られ、乃ち弘簡を罷め、而して稹を出だして工部侍郎と為す。然れども眷倚衰えず。未だ幾ばくもあらず、同中書門下平章事に進み、朝野雑然として軽く笑う。稹奇節を立てて天子に報い、以て人心を厭わしめんと思う。時に王廷湊方に牛元翼を深州に囲み、稹の善くする于方言う:「王昭・于友明皆豪士、雅く燕・趙の間に遊び、能く賊の要領を得、間を反して元翼を出ださしむべし。願わくは家貲を以て行いを弁じ、兵部の虚告二十を得、便宜を以て士を募らん。」稹然りとす。李逢吉其の謀を知り、陰に李賞をして裴度に訹らしめて曰く:「于方稹の為に客を結び、将に公を刺さんとす。」度隠して発せず。神策軍中尉以て聞こえしむ、詔して韓皋・鄭覃及び逢吉をして雑治せしむ、度を刺す状無く、而して方の計暴に聞こゆ、遂に度と偕に宰相を罷め、出だされて同州刺史と為る。諫官争いて言う、度当に免さるべからず、而して稹を黜くるは軽しと。帝独り稹を憐れみ、但だ長春宮使を削る。初め、獄未だ具わらず、京兆劉遵古吏を遣わして稹の第を羅禁す、稹之を訴う、帝怒り、京兆を責め、捕賊尉を免じ、使者をして稳を慰めしむ。再期して、浙東観察使に徙す。明州歳ごとに蚶を貢す、郵子万人を役し、其の疲れに勝えず、稳奏して之を罷む。
論著する所甚だ多く、世に行わる。越に在りし時、竇鞏を辟く。鞏は天下詩を為すに工なり、之と酬和す、故に鏡湖秦望の奇益々伝わり、時に「蘭亭絶唱」と号す。稹始め事を言うこと峭直、以て名を立たんと欲し、中に見斥け廃せられ十年、道を通ずること堅からず、乃ち守る所を喪う。宦貴に附いて宰相を得、位に居ること纔かに三月にして罷む。晩節弥々沮喪し、廉節を加えて飾らずと云う。
牛僧儒
穆宗初め、庫部郎中を以て制誥を知る。御史中丞に徙し、不法を按治し、内外澄粛す。宿州刺史李直臣賕に坐して当に死す、宦侍に賂して助けと為し、獄を具えて上る。帝曰く:「直臣才有り、朕貸して之を用いんと欲す。」僧孺曰く:「彼不才の者は、祿を持って容を取るのみ。天子法を制す、所以に有才の者を束縛するなり。祿山・硃泚才を以て人に過ぎ、故に天下を乱す。」帝其の言を異とし、乃ち止む。金紫服を賜い、戸部侍郎同中書門下平章事と為す。
初め、韓弘朝に入り、其の子公武財を用いて権貴に賂し、言者を杜塞す。俄かに弘・公武卒し、孫弱くして事を能くせず、帝使者を其の家に遣わし、悉く貲簿を収め、出入を校計す。以て中朝臣に餉うる所皆在り、僧孺に至りては、独り其の左に注して曰く「某月日、銭千万を送る、納れず」と。帝之を善しとし、左右に謂いて曰く「吾人を知るに謬らず」と。繇是遂に以て相と為す。尋いで中書侍郎に遷る。
敬宗立ち、進みて奇章郡公に封ぜらる。是の時政近幸より出ず、僧孺数たび表を以て位を去らんとし、帝為に鄂州に武昌軍を置き、武昌節度使・同平章事を授く。鄂城土悪しく亟に圮ち、歳ごとに築きを増し、蓑茅を民に賦し、吏倚りて以て擾しと為す。僧孺甓を陶して以て城し、五年にして畢り、鄂人復た歳費無し。又た沔州を廃して以て冗官を省く。
文宗立ち、李宗閔国に当たり、屢たび僧孺の賢を称し、外に棄つべからずとす。復た兵部尚書平章事と為す。幽州乱れ、楊志誠李載義を逐う、帝時に及ばずして宰相を召し計を問う、僧孺曰く:「是れ朝廷の憂いと為すに足らず。夫れ范陽は安・史の後より、国家系る所の休戚無く、前日劉総境を挈して国に帰し、荒財耗力且つ百万、終に范陽の尺帛斗粟を天府に入るるを得ず、俄かに復た之を失う。今志誠は向の載義より繇るなり、第に節を付して以て奚・契丹を扞せしめよ、彼且つ自力すべく、以て逆順を治むるに足らず。」帝曰く:「吾初め此を計らず、公の言是れなり。」因りて使を遣わして之を慰撫せしむ。門下侍郎・弘文館大学士に進む。
是の時、吐蕃和を請い、兵を弛むるを約し、而して大酋悉怛謀維州を挙げて之を剣南に入る、ここにおいて李德裕上言す:「韋皋西山を経略し、至死恨みて致す能わず、今生羌二千人を以て十三橋を焼き、虜の虚を搗てば、志を得べし。」帝君臣をして大議せしめ、請うらくは徳裕の策の如くせんとす。僧孺不可を持ちて曰く:「吐蕃地を綿すること万里、一維州を失うとも、其の強きを害せず。今好を脩むる使者未だ至らず、遽に其の言を反す。且つ中国戎を禦るは、信を守るを上と為し、敵に応ずるは之に次ぐ。彼来りて責めて曰く『何の故にか信を失う』と。贊普蔚茹川に牧馬し、若し東に隴阪を襲い、騎を以て回中に綴り、三日を経ずして咸陽橋に抵らば、則ち京師戒厳す、百維州を得るとも何の益かあらん!」帝然りとし、遂に詔して降者を返す。時に皆僧孺素怨を挟み、横議を以て之を沮解すと謂い、帝亦以て直ならずと為す。
会に中人王守澄纖人を引いて窃に朝政を議す、它日延英に召し見えて宰相に曰く:「公等太平に意有るか、何の道を以て之を致さんや?」僧孺曰く:「臣宰相に待罪し、康済する能わず、然れども太平亦象無し。今四夷内に擾さず、百姓生業に安んじ、私室強家無く、上壅蔽せず、下怨讟せず、未だ至盛に及ばずと雖も、亦治と為すに足る。而して更に太平を求むるは、臣の及ぶ所に非ず。」退きて它宰相に謂いて曰く:「上責成すること是の如し、吾久しく此に処るべけんや?」固く罷むるを請う、乃ち検校尚書左僕射平章事と為し、淮南節度副大使と為る。天子既に治に急なるを以て、故に李訓等隙に投じて得て其の妄を售し、幾くんぞ国を亡ぼすに至らんとす。
諸子のうち、牛蔚・牛叢が最も顕著である。
子 蔚
牛蔚は字を大章といい、若くして二経に及第し、また進士に及第した。監察御史から右補闕となった。大中初年、たびたび政事を厳しく指摘したので、宣宗は喜んで言った。「牛氏には果たして子がある。ややもすれば人の意を慰める」と。金州刺史として出向し、累進して吏部郎中となった。権勢を握る者たちの意に背き、国子博士に貶され、分司東都となった。再び吏部に召され、史館修撰を兼ねた。
蔚の子 徽
牛徽は進士に挙げられ、累進して吏部員外郎となった。乾符年間は選挙が濫雑で、吏が多く奸計を弄し、年間四千人を選調していた。牛徽は剛直明察をもってこれを治め、請託を遮断して杜絶し、法度が再び振るった。
牛蔚が梁に避難する途中、病にかかった。牛徽は子と共に籠輿を担ぎ、険しい山道を行った。盗賊がその頭を打ち、血が顔に流れたが、輿を担ぐのを止めなかった。盗賊が迫ると、牛徽は拝礼して言った。「人には皆父があります。今、父は老いて病んでいます。どうか驚かせないでください」。盗賊はこれに感じ入り、止めた。前の谷に至ると、また盗賊に遭ったが、互いに言った。「これは孝子だ」と。共に輿を担いで家に泊め、帛を進めて傷を包み、粥を奉って牛蔚に飲ませ、二晩留まって去った。梁に着くと、牛徽は蜀に急ぎ行在所に謁し、帰って親の病に侍ることを乞うた。ちょうど諫議大夫に任ぜられたが、固辞し、宰相の杜譲能に会って言った。「上(皇帝)が遷幸なされば従うべきであり、親に疾あれば侍るべきです。そして牛徽の兄は朝廷におります。身をもって還り、医薬を営むことを乞います」。時に兄の牛循は既に給事中に位しており、許された。父の喪に服し、梁・漢に客居した。喪が終わると、中書舎人に召されたが、病を理由に辞し、給事中に改められ、陳倉に留まった。
張濬が太原を討伐する時、判官に引き立てようとし、在所に命じて敦促して派遣させた。牛徽は嘆息して言った。「王室がようやく回復しようとしている時、倉庫の蓄えは尽き果てています。諸侯と協和して藩屏とすべきであり、さらに兵を用いるならば、諸侯は心を離し、必ず後憂があります」。起ち上がろうとしなかった。張濬は果たして敗れた。再び給事中に召された。
楊復恭が山南で叛くと、李茂貞が招討使の節を与えられてこれを討つことを請うた。返答がないうちに、王行瑜と共に勝手に出兵した。昭宗は怒り、上奏文を留めて裁可しなかった。李茂貞がしきりに請うたので、帝は群臣を召して議したが、敢えて言う者はいなかった。牛徽は言った。「王室は多難です。李茂貞は確かに功があります。今、楊復恭が兵を擁して抵抗しているのを討つのは、命令を待たなかった罪にあります。臣は聞きますに、両鎮の兵は多く殺傷し、早く制しなければ、梁・漢の人は尽きてしまいます。節を与え、明確に規律を約束すれば、軍は畏れるところがあります」。帝は言った。「その通りだ」。そこで招討使を李茂貞に授けた。果たして功があったが、ますます驕慢になった。帝は宰相の杜譲能に兵を率いて誅討させようとした。牛徽は諫めて言った。「岐は国の西門です。李茂貞はその衆を頼んで暴虐です。万一不利となれば、威厳が屈するのはどうしましょう。徐々に制することを願います」。聞き入れられなかった。軍が出ると、帝は再び牛徽を召して言った。「今、李茂貞を討つが、彼の衆は烏合の衆である。必ず万全を取らねばならぬ。卿は何日に捷報があると計るか」。答えて言った。「臣の職は諫争です。言うところは軍国の大要です。賊が平定される時期を求めるのは、願わくば陛下が占筮を考査し、将帥に責を負わせてください。臣の職分ではありません」。やがて軍は果たして敗れ、大臣を殺し、王室はますます弱体化した。
まもなく中書舎人から刑部侍郎となり、奇章男を襲封した。崔胤は牛徽の正しさを忌み、左散騎常侍に換え、太子賓客に移し、刑部尚書をもって致仕させ、樊川に帰った。死去し、吏部尚書を追贈された。
子 叢
牛叢は字を表齢といい、進士に及第した。藩帥の幕府から補闕に任じられ、たびたび事を言上した。ちょうど宰相が諫官の員数を増やすことを請うた時、宣宗は言った。「諫臣は職務を果たすことができればよい。どうして多人数が必要か。今、張符・趙璘・牛叢は朕に未だ聞かなかったことを聞かせてくれる。三人で十分である」。司勲員外郎から睦州刺史となった時、帝は労って言った。「卿は宰相を怨んでいるのではないか」。答えて言った。「陛下は近ごろ詔して、刺史・県令を経なければ近臣に任じないとされました。宰相はこれによって臣を抜擢したので、怨みはありません」。即座に金紫を賜ろうとしたが、謝して言った。「臣は今、刺史として仮に授かった緋衣を着ています。すぐに紫を賜れば、等級を越えます」。そこで銀緋を賜った。
咸通末年、剣南西川節度使に任ぜられた。時に蛮が辺境を侵犯し、大渡河に至り、さらに黎州・雅州に進撃し、邛崍関を叩き、侮蔑的な書状を送って入朝を求め、かつ「仮道せよ」と言った。牛叢はその使者四十人を囚え、二人を釈放して帰した。蛮は恐れ、すぐに引き去った。
僖宗が蜀に幸した時、太常卿を授けられた。病を理由に巴州刺史を求めたが、許されなかった。長安に還り、吏部尚書となった。嗣襄王の乱の時、牛叢は太原で客死した。
李宗閔
李宗閔、字は損之、鄭王元懿の四世孫なり。進士に擢でられ、華州参軍事に調せらる。賢良方正に挙げられ、牛僧孺と共に時政を詆毀し、宰相に触れ、李吉甫これを悪み、洛陽尉を補せらる。久しく流落して遇わず、藩府の辟召に従いて去る。入りて監察御史・禮部員外郎を授かる。裴度、蔡を伐つに及び、これを引きて彰義觀察判官と為す。蔡平らぎ、駕部郎中に遷り、制誥を知る。穆宗即位し、中書舍人に進む。時に䎖は華州刺史たり、父子同時に拝せられ、世、寵と為す。
長慶初め、錢徽、貢挙を典とす。宗閔、親しき者を徽に托す。而して李德裕・李紳・元稹、翰林に在り、帝に寵有り、共に徽が干丐を納れ、士を取るに実を以てせざるを白す。宗閔坐し貶せられ劍州刺史と為る。ここより嫌忌顕に結び、党を樹てて相軋み、凡そ四十年、搢紳の禍解く能わず。俄に復た中書舍人と為り、貢挙を典とし、取る所多く知名の士、唐沖・薛庠・袁都等の若き、世これを「玉筍」と謂う。寶曆初め、累進して兵部侍郎に至り、父喪にて解く。太和中、吏部侍郎を以て同中書門下平章事と為る。時に德裕、浙西より召され、以て相たらんと欲す。而して宗閔、中助多し、先に進を得、即ち僧孺を引きて同しく政を秉り、相唱和し、異己者を去り、德裕の善とする者皆逐わる。中書侍郎に遷る。
久しくして、德裕相と為り、宗閔と共に国に当たる。德裕入りて謝す。文宗曰く、「而して朝廷に朋党有るを知るや」。德裕曰く、「今、中朝半ば党人と為り、後に来る者と雖も、利に趨きて靡き、往々にして之に陥る。陛下、中立無私の者を用いられば、党与破れん」。帝曰く、「衆、楊虞卿・張元夫・蕭澣を以て党魁と為す」。德裕因りて請う、皆出して刺史と為さんことを。帝之を然りとす。即ち以て虞卿を常州と為し、元夫を汝州と為し、蕭澣を鄭州と為す。宗閔曰く、「虞卿の位は給事中、州は元夫の下に在るを容れず。德裕、外に居ること久しく、其の党人を知ることは臣の詳なるに如かず。虞卿、日に賓客を第に見る、世、行中書と号す、故に臣未だ嘗て美官を与えず」。德裕之を質して曰く、「給事中、美官に非ずと云うは何ぞや」。宗閔大いに沮ぎ、対うるを得ず。俄に同平章事を以て山南西道節度使と為る。
李訓・鄭注始めて事を用い、德裕を疾み、共に其の短を訾る。乃ち德裕を罷め、復た宗閔を召して政事を知らしめ、進めて襄武縣侯に封じ、恣肆に附托す。会に虞卿、京兆尹を以て罪を得、極言して営解す。帝怒り叱して曰く、「爾嘗て鄭覃を以て妖気と為せり、今自ら妖と為るか」。即ち出して明州刺史と為し、貶して處州長史と為す。訓・注乃ち劾す、「宗閔、異時に陰に駙馬都尉沈𥫃・内人宋若憲・宦者韋元素・王踐言等と結び宰相を求め、且つ言う、頃に上疾有り、密かに術家呂華に問い、考命曆を迎え、曰く『十二月を悪む』と。而して踐言、劍南に監軍し、德裕の賕を受け、復た宗閔の家と私す」と。乃ち宗閔を貶して潮州司戸参軍事と為し、𥫃は柳州に逐われ、元素等は悉く嶺南に流され、親信並びに斥けらる。時に訓・注、権を以て天下に市わんと欲し、凡そ己に附かざる者は、皆以て二人の党と指し、逐い去る。人人駭栗し、連月雺晦す。帝乃ち詔す、宗閔・德裕の姻家門生故吏は、今より一切問わず、以て中外を慰安せんと。嘗て歎じて曰く、「河北の賊を去るは易く、此の朋党を去るは難し」と。
開成初め、幽州刺史元忠・河陽李載義累表して洗を論ず。乃ち徙めて衢州司馬と為す。楊嗣復、政を輔け、宗閔と善くし、復用せんと欲す。而して鄭覃を畏れ、乃ち宦人に托して帝を諷す。帝、紫宸に因りて覃に対し曰く、「朕、宗閔の久しく斥けらるるを念い、応に一官を授くべし」。覃曰く、「陛下、徙めて少しく近づけしむるは則ち可なり。若し再用せば、臣請う前もって免ぜられん」。陳夷行曰く、「宗閔の罪、即ち死せざるは幸いなり。寶曆の時、李續・張又新等、『八関十六子』と号し、朋比して険妄、朝廷幾くんぞ危うからん」。李玨曰く、「此れ李逢吉の罪なり。今、續喪闋す、官を以て任せざるべからず」。夷行曰く、「然らず、舜、四凶を逐いて天下治まる。朝廷何ぞ数人の憸人を惜しみて、紀綱を乱らしめんや」。嗣復曰く、「事は適宜に当たるべく、憎愛を以て奪うべからず」。帝曰く、「州刺史は可か」。覃、洪州別駕を授くるを請う。夷行曰く、「宗閔始め鄭注を庇い、其の禍を階り、幾くんぞ国を覆さんとす」。嗣復曰く、「陛下向に鄭注に官せんと欲し、而して宗閔詔を奉ぜず、尚お之を記すべし」。覃質して曰く、「嗣復は宗閔に党する者、彼が悪は李林甫に似たり」。嗣復曰く、「覃の言過ぎたり。林甫は賢を妬み功を忌み、十余族を夷滅す。宗閔固より之無し。始め、宗閔と德裕俱に罪を得、德裕再び鎮に徙めらる。而して宗閔故に貶地に在り。夫れ懲勸は一なるべく、党と謂うべからず」。因りて覃を折して曰く、「比に殷侑、韓益の為に官を求めしに、臣其の昔贓に坐するを以て、許さず。覃、臣に托して論ずる勿からしむ、是れ豈に党と為さざらんや」。遂に宗閔を擢でて杭州刺史と為す。太子賓客に遷り、分司東都す。
既にして覃・夷行位を去り、嗣復謀りて宗閔を引きて復た政を輔けんとす。未だ及ばずして文宗崩ず。会昌中、劉稹、澤潞を以て叛く。德裕建言す、宗閔素より従諫に厚し、今上党東都に近しと。乃ち宗閔を拝して湖州刺史と為す。稹敗れ、交通の状を得、貶して漳州長史と為し、封州に流す。宣宗即位し、徙めて柳州司馬と為し、卒す。
宗閔、性機警、始め当世の令名有り。既に貴に浸り、権勢を喜ぶ。初め裴度に引抜かれる。後、度、德裕の相たるべきを薦む。宗閔遂に之と怨みを為す。韓愈、為に『南山』・『猛虎行』を作りて之を規む。而して宗閔、私党を崇め、中外に薰熾し、卒に是を以て敗る。
子、琨・瓚、皆進士に擢でらる。令狐綯、相と作り、而して瓚は知制誥を以て翰林學士を歴る。綯罷めらるるや、亦た桂管觀察使と為る。軍を禦するに善からず、士卒に逐われ、貶死す。
宗閔の弟、宗冉、其の子湯、累官して京兆尹に至る。黃巢、長安を陥し、之を殺す。
楊嗣復
楊嗣復、字は繼之。父於陵、始めて浙西觀察使韓滉に見識せられ、其の女を以て妻とす。帰りて妻に謂いて曰く、「吾、人を閲すること多し。後貴く且つ寿なるは生者に若くは無し。子有らば必ず宰相の位に至らん」。既にして嗣復を生む。滉其の頂を撫でて曰く、「名と位皆其の父を逾えん。楊氏の慶なり」。因りて字して慶門と曰う。八歳にして文を属するを知る。後、進士・博學宏辭に擢でられ、裴度・柳公綽と皆武元衡に知られ、表して劍南幕府に署す。右拾遺に進み、直史館す。尤も礼家の学を善くし、太常博士に改め、再遷して禮部員外郎と為る。時に於陵は戸部侍郎たり。嗣復、同省を避け、他官に換らんとす。詔有り、「同司、親大功以上、聯判句檢の官長に非ざれば、皆避くる勿れ。官同じく職異なるは、父子兄弟と雖も嫌い無し」と。遷累して中書舍人と為る。
嗣復は牛僧孺・李宗閔と平素より親しく交わり、二人が政務を補佐すると、彼を引き立てたが、父(楊於陵)が国政を執るのを越えることを望まず、故に権知礼部侍郎となった。二期にわたり、六十八人の士人を得て、多くは顕官となった。文宗が位を嗣ぐと、戸部侍郎に進んだ。於陵が老いたので、侍養を求めたが許されず。喪が明けると、尚書左丞に抜擢された。太和年中、宗閔が罷免されると、嗣復は出向いて剣南東川節度使となった。宗閔が再び宰相となると、西川に転じた。
開成初め、戸部侍郎として召され、諸道塩鉄転運使を兼ねた。まもなく李玨とともに同中書門下平章事に任じられ、弘農県伯に封ぜられ、引き続き塩鉄を兼ねた。後に紫宸殿で奏事の際、嗣復は帝に言上した、「陸洿は民間に隠棲しておりますが、上書して兵事を論じております。官職をもって勧奨すべきです」。李玨がすかさず和して言った、「士人は多く奔走競争に走ります。陸洿を褒賞すれば、貪婪な者も廉潔になります。近ごろ竇洵直が時事を論じて賞せられたことで、天下の疑念は氷解しました。まして陸洿に官職を与えるならなおさらです」。帝は言った、「朕が洵直を賞したのは、その心を褒めたまでである」。鄭覃が不服そうに言った、「彼の胸中は容易に知りがたい」。嗣復は言った、「洵直に邪心はありません。臣が知っております」。覃は言った、「陛下は朋党を察すべきです」。嗣復は言った、「覃は臣が党をなしていると疑っております。臣は免職されるべきです」。即座に再拝して罷免を請うた。李玨は発言が厳しいのを見て、誤魔化して言った、「朋党は確かに少しは収まっております」。覃は言った、「付和雷同する者がまた現れます」。帝は言った、「かつて言われた党与は、すでに尽きたのではないか」。覃は言った、「楊漢公・張又新・李続らがまだおります」。李玨はそこで辺境の事を述べ、その話を遮ろうとした。覃は言った、「辺境の事の安危を論ずるのは、臣は李玨に及びません。朋党を憎むのは、李玨は臣に及びません」。嗣復は言った、「臣は聞きます、左右佩剣、彼此相笑うと。覃が果たして誰を朋党と言うのか分かりません」。香案に向かって頓首して言った、「臣は宰相の位にありながら、賢者を進め不肖を退けることができず、朋党の誹りを受けるとは、朝廷を重んずる道ではありません」。固く罷免を請うたが、帝は政務を委ねようとしていたので、慰め安んじた。
ある日、帝が問うた、「符讖は信じられるか。どうして生じるのか」。嗣復は言った、「漢の光武帝は讖によって事を決め、隋の文帝もこれを喜びました。故にその書は天下に蔓延しました。班彪の『王命論』に引用されているのは、ただ賊の乱を止めるためであり、重んじたわけではありません」。李玨は言った、「治乱はまさに人事を直に推し量るべきです」。帝は言った、「その通りだ」。また問うた、「則天武后の時代に布衣から宰相になった者がいるが、果たして用いることができるか」。嗣復は言った、「武后は刑を重用し、官を軽用しました。自らの計らいによるものです。必ずその能否を責めるなら、試練を経て初めて可能です」。
門下侍郎に進んだ。建言した、「使府の官属が多いので、省くべきです」。帝は言った、「かえって才能が滞ることはないか」。答えて言った、「才能のある者は自ずと異なります。秕糠を淘汰すれば、精華が出てきます」。帝は言った、「昔、蕭復が政を執った時、言い難いことも必ず言った。卿もその志を持て」。
まもなく、帝が崩御し、中尉仇士良が遺詔を廃し、武宗を立てた。帝の即位は宰相の意ではなく、故に内では執政の臣を軽んじ、礼を加えず、李徳裕を用いて嗣復を吏部尚書に罷め、湖南観察使に出した。薛季棱・劉弘逸を誅殺するに及び、宦官の多くがかつて嗣復・李玨に附いていたと言い、陛下に不利であると述べた。帝は剛急であったので、即座に詔して中使を分遣し嗣復らを誅殺させようとした。李徳裕と崔鄆・崔珙らが延英殿に詣でて言った、「故事では、大臣は悪状明白でなければ、誅死に至ることはありません。昔、太宗・玄宗・徳宗の三帝はいずれも重刑を用いましたが、後悔しない者はありませんでした。どうかゆっくりとその適否を考えられ、天下に盛徳が寛容であることを知らしめ、人々に冤罪と思われないようにしてください」。帝は言った、「朕が嗣いだ際、宰相は何か数えたことがあったか。しかも李玨らはそれぞれ附会していた。李玨・季棱が陳王に属したのは、まだ先帝の意向である。嗣復・弘逸が安王に属したのは、内で楊妃のために謀ったのだ。しかもその偽りの書状に『姑はどうして則天武后に倣わないのか』とあった」。徳裕は言った、「流言飛語は弁別が難しい」。帝は言った、「妃がかつて病気の時、先帝はその弟の入侍を許し、謀りごとを通じることができた。禁中の証拠は特に揃っている。朕は外に暴露したくない。もし安王が立ったなら、朕を容れるだろうか」。言い終えて悲しげな様子で、そして言った、「卿らのために赦す」。使者を追いかけて戻させ、嗣復を潮州刺史に貶した。
宣宗が立つと、起用されて江州刺史となった。吏部尚書として召されたが、岳州の途中で卒去した。六十六歳。尚書左僕射を追贈され、諡は孝穆。
嗣復が貢挙を管轄した時、於陵が洛陽から朝廷に入ったので、門生を率いて出迎え、邸宅に酒宴を設けた。於陵は堂上に座り、嗣復と諸生は両側の席に座った。かつて於陵が考功郎中であった時、浙東観察使李師稷を及第させたが、その時も同席していた。人々は楊氏の上下門生と言い、世に美談とされた。
嗣復に五人の子があり、顕著な者は、授・損である。
子 授
授は、字は得符、兄弟の中で最も賢であった。進士第から累進して戸部侍郎となり、母の病気のため秘書監を求めた。後に刑部尚書として昭宗に従い華州に幸し、太子少保に転じ、卒去した。尚書左僕射を追贈された。
子 煚
煚は、字は公隱、累進して左拾遺となった。昭宗が即位した初め、しばしば遊宴したので、上疏して極諫した。戸部員外郎を歴任した。崔胤が朱全忠を招いて京師に入れると、煚は一族を連れて湖南に客寓した。諫議大夫で終わった。
子 損
損は字を子默といい、蔭補により藍田尉となり、殿中侍御史に至った。家は新昌里にあり、路岩の邸宅と隣接していた。岩がちょうど宰相となった時、その厩を換えて邸宅を広げようとした。損の一族で仕官している者は十余人おり、議論して「家の盛衰は権力者の喜怒にかかっている、拒むことはできない」と言った。損は「今の寸尺の土地も皆先人の旧来の財産であり、我々の所有するものではない、どうして権臣に奉じることができようか。窮達は天命である」と言い、ついに与えなかった。岩は快く思わず、損をして黔中で獄を按察させ、一年余りして帰還した。三度遷って絳州刺史となった。岩が罷免されて去ると、召されて給事中となり、京兆尹に遷った。宰相盧攜とは元よりうまくいかず、また給事中に除された。陝虢軍が乱を起こし、観察使崔蕘を逐ったので、命じて損をこれに代えさせた。到着すると有罪の者をことごとく誅した。平盧節度使に拝され、天平に移されたが、赴任しないうちにまた留められ、官の下で卒した。
賛して言う。口では先王の言葉を説きながら、行いは市井の人と同じである、その名を「盗儒」という。僧孺・宗閔は方正敢言をもって進んだが、国政を担当するや、かえって私昵の党を奮い起こし、憎む者を排撃した。この時権勢は天下を震わせ、人々は指して「牛李」と言った。盗と言わずして何と言おうか。逢吉は険邪、稹は浮躁、嗣復は弁給、固より言うに足らぬ。幸い主上は孱弱昏愚であり、誅戮に至らなかったが、治世の罪人であろう。