李光進
李光進は、その先祖は河曲の諸部にあり、姓は阿跌氏であった。貞観年間に内属し、その地を以て鶏田州と為し、世襲の刺史となり、朔方軍に隷属した。
光進は弟の光顔と共に幼少より舍利葛旃に依り、葛旃の妻はその姉であった。初め、葛旃が仆固玚を殺し、河東の辛雲京に帰順したので、遂に光進と共に太原に家を構えた。沈着果断と称された。馬燧に従って臨洺を救援し、洹水で戦って功があった。前後軍の牙門将、兼御史大夫、代州刺史を歴任した。元和四年、王承宗が反乱を起こすと、範希朝が軍を率いて易定を救援し、光進を都将に上表した。当時光顔も大夫に至っていたので、軍中では「大小大夫」と呼んだ。まもなく検校工部尚書となり、振武節度使となり、姓を賜って寵遇した。別詔で光顔を洺州刺史に拝した。兄弟の栄誉は当時に冠たるものがあった。光進は霊武に転じ、卒去した。享年六十五、尚書左僕射を追贈された。
光顔は、字を光遠という。葛旃が幼少より騎射を教え、常にその天資の敏捷剛健を嘆き、己の及ばざるところとした。成長して河東軍に従い裨将となり、節度使馬燧は「奇相あり、終には必ず光大するであろう。」と言い、佩いていた剣を解いて贈った。李懐光・楊恵琳を討ち、戦って功があった。高崇文に従って剣南を平定し、数度旗を抜き軍陣を踏み、出入りすること神の如く、益々有名となった。兼御史大夫に進み、代・洺二州刺史を歴任した。
元和九年、蔡州を討つに当たり、陳州刺史として忠武軍都知兵馬使を充てた。始めて一月を過ぎ、本軍節度使に抜擢され、詔してその軍をもって一翼を担当せしめた。光顔は溵水に陣を構えた。翌年、賊を時曲で大破した。初め、賊は朝方にその陣営を圧して陣を敷き、衆は出ることができなかった。光顔はその柵を破壊し、数騎を率いて賊中に突入し、往き来すること数度、衆は光顔と識り、矢がその身に集まること猬の如しであった。子が馬の手綱を掴んで深入りを諫めたが、光顔は刃を挺てて叱り、ここに於いて士卒は奮い争い、賊は遂に潰走した。この時、諸鎮の兵は蔡州を十数屯で囲んだが、相顧みて進もうとせず、独り光顔が先んじて賊を破った。初め、裴度が諸軍を宣慰して還り、憲宗に「光顔は勇にして義あり、必ず功を立てるであろう。」と述べた。
まもなくまた烏重胤と共に賊を小溵河で破った。初め、都統韓弘は諸軍と約して賊を攻めたが、賊は先に重胤の陣営に迫り、重胤は矛に中って傷甚だしく、光顔に救援を請うた。光顔は、賊が既に出たならば小溵河の堡塁を乗ずべきであり、且つ重胤は破られるべきでないと策した。大将の田穎・宋朝隠を遣わしてその城を襲い、これを平らげ、賊は物資の集積所を失った。韓弘は重胤を救援せず、節度に違背したことを怒り、田穎らを捕らえて誅殺せんとした。全軍はその才能を惜しみ、光顔は拒むことができなかった。折しも中人景忠信が至り、その事情を知るや、即ち詔を矯って在所に械繫し、馳せて上聞し、詔してこれを釈放させた。韓弘及び光顔が更に表をもって言上すると、帝は韓弘の使者に「都統の令に違うは死に当たる。但し功をもって贖うべく、赦して後の図りとせよ。」と言った。韓弘は悦ばず。ここより韓弘と隙を生じた。
韓弘は元来傲慢で放縦であり、密かに賊を挟んで自重し、且つ光顔の忠誠と尽力を憎み、これを挫き貶める方法を考えていた。そこで名妓を整え、歌舞・六博を教え、襦䙱に珠琲を飾り、挙止光麗にして、費やすこと百万を巨とし、使者を遣わして光顔に贈り、「公は君が外に暴露するを以て、恭しく侍者を進じ、君の征行の勤労を慰めんとす。」と言った。光顔は明朝に納れることを約した。そこで大いに将校を集めて酒宴を設け、使者を引いて侍姝を至らせると、秀麗で優雅、一軍驚き視る。光顔は徐に言うには、「我が家室を去ること久しく、公の憂いと為す。誠に徳に報いること無し。然れども戦士は皆妻子を棄て、白刃を蹈む。何ぞ独り女色を以て楽しみと為さんや。我に代わり公に謝せよ。天子の光顔に対する恩は厚く、誓って賊と俱に生くべからず。」と。心を指して、「死すとも二心無し。」と言い、因って嗚咽して泣き、将卒数万皆感激して涙を流し、乃ち厚く使者を賄ってこれを返し、ここに於いて士気益々奮い立った。
裴度が沲口に赫連城を築き、軽騎を率いてこれを視察した。賊は奇兵を以て五溝より至り、大呼して戦いを迫り、城は震動して崩れ、裴度は甚だ危うかったが、光顔が力戦してこれを退けた。先に、光顔は賊の必ず至るを策し、密かに田布に精騎を溝の下に伏せさせ、その帰路を扼させた。賊は敗れ、騎を棄てて去り、溝中に顛死する者千余り。これにより賊は鋭士を悉く光顔に当て、李は虚に乗じて蔡州に入ることができたのである。董重質が洄曲の軍を棄てて降ると、光顔は馬を躍らせて賊の営に入り大呼し、衆万余り甲を投じて命を請うた。賊が平定され、検校司空を加えられた。入朝し、麟徳殿に召し対し、賜与は豊かで、その邸宅に宴を命じ、芻米二十車を帰した。
帝が李師道を討つに当たり、義成節度使に転じ、忠武兵を随行することを許した。三旬に満たず、再び賊を濮陽で破り、闘門を抜き、数千級を斬った。上言して許・鄭の兵を合わせ用いるべからずとし、遂に再び忠武を鎮守した。吐蕃が侵入すると、邠寧軍に転じた。時に虜は塩州城を毀ち、光顔にこれを修復させ、また忠武兵を従わせた。初め、田縉が夏州を鎮守し、貪婪をもって辺境に隙を開いたので、党項が吐蕃を引きいて涇州を囲んだが、郝が力戦してこれを破った。光顔は賊の至るを聞き、兵を計って赴かんとしたが、邠人は傲慢な言葉を洶洶とし、騒ぎ立てて行こうとしなかった。光顔が大義を陳説し、感慨に流涕すると、聞く者も亦泣き、急ぎ路に就き、虜は塞外に走出した。
光顔は忠義の性を有し、士卒を善く撫で、その下の者は喜んで用いられることを願った。許師は勁悍にして、常に諸軍の鋒となり、故に数たび勲を立てた。王仙芝・黄巢が反すると、諸道より告急し、多くは助守を請うた。大校曹師罕は千五百人を率いて招討使宋威に隷し、張貫は四千人を率いて副使曾元裕に隷した。僖宗は許軍を倚りとして東都を屏蔽し、請うて以て援と為さんとする者あれど、率ね報いず。大将張自勉は雲南・党項を討ち、龐勛の乱に際しては寿州の囲みを解き、淮口に戦い、功を累ねて右威衛上将軍に擢げられた。ここに至り表して賊を討つことを請い、詔して伝車に乗り軍に赴き、宋州の囲みを解かしむ。威は自勉の成功を忌み、請うて麾下に隷せしめ、且つ殺さんと欲す。宰相その謀を得て、聴かず、自勉を以て元裕に代えしむ。
烏重胤
烏重胤、字は保君、河東の将烏承玼の子なり。少くして潞の牙将となり、左司馬を兼ぬ。節度使盧従史詔を奉じて王承宗を討つと、陰に賊と連なり。吐突承璀将にこれを図らんとし、以て重胤に告ぐ。乃ち従史を縛す。帳下の士兵を把りて合讙す。重胤叱して曰く、「天子に命有り、従う者は賞し、違う者は斬らん」と。士手を斂めて部に還り、敢えて動く者無し。憲宗その功を嘉し、河陽節度使に擢げ、張掖郡公に封ず。
王廷湊を討たんとし、出でて深州に屯す。時に朝廷の号令乖迕し、賊漸く制せず。重胤久しく進むことを敢えず。穆宗これを観望と為し、詔して杜叔良を以てこれに代え、重胤を太子太保と為す。長慶の末、検校司徒・同中書門下平章事を以て山南西道節度使と為る。京師に召し至り、節を改めて天平軍と為す。文宗の初、真に司徒を拝す。李同捷父の位を襲がんことを請う。帝方に静安を務む。同捷に兗海を授け、重胤を耆将と為し、節度滄景を兼ね、斉州を軍に隷す。未幾にして卒す。年六十七。太尉を贈り、謚して懿穆と曰う。
重胤は行伍より出で、士卒を善く撫で、下と甘苦を同じくす。蔡の将李端重胤に降る。蔡人その妻を執りて殺す。妻呼んで曰く、「善く烏僕射に事えよ」と。士の心を得ること、大抵かくの如し。官属を待つに礼有り。当時名士たる温造・石洪の如き皆幕府に在り。既に歿するや、士二十余人股を刲りて以て祭る。
子漢弘爵を嗣ぐ。母の喪に居るに、奪いて左領軍衛将軍と為さんとす。固く辞す。帝嘉みてこれを許す。
石洪、字は浚川、その先は烏石蘭と姓す。後に独り石を以て氏と為す。至行有り、明経に挙げられ、黄州録事参軍と為り、罷めて東都に帰る。十余年隠居して出でず。公卿数たび薦ぐも、皆答えず。重胤河陽に鎮す。賢者を求めて以て自ら重んぜんとす。或いは洪を薦む。重胤曰く、「彼は人に求むること無し、其れ肯んぞ我が為に来らんや」と。乃ち書幣を具えて邀辟す。洪も亦た重胤を知己と謂い、故に欣然として行を戒む。重胤その至るを喜び、礼す。後に詔書召して昭応尉・集賢校理と為す。
又た李珙有り。世儒家なり。珙独り材武を尚び、崖岸有り。嘗て沢潞に至り李抱真に見ゆ。牙将に署せんと欲す。その酒を使うを聞き、用いず。都将王虔休曰く、「珙は奇士なり、用いざれば、即ちこれを殺せ、他人に得せしむる無かれ」と。抱真納れず。虔休節度に代わり、引いて将と為す。重胤従史を禽う。珙将にこれを救わんとす。既に謀の朝廷より出づるを聞き、乃ち止む。重胤その才を愛し、淮西を討つに、表して行営都将と為す。終に右武衛上将軍に至る。
王沛
王沛、許州許昌の人。少くして勇決、節度使上官涚に器とされ、女を妻とし、牙門将に署す。涚卒す。他の婿田偁涚の子を脅しその軍を襲領せしめ、監軍を謀殺せんとす。沛その計を知り、密かにこれに告ぐ。支党悉く禽らる。徳宗嘉美し、即ち行軍司馬を拝す。而して劉昌裔節度を領し、奏して沛を監察御史と為す。詔有りて涚の喪を護り京師に還らしむ。帝召見して嘆息し、功を異等と為し、昌裔の請うる薄きを嫌い、沛に謂いて曰く、「吾が意殊に未だ厭わず、爾帰れ、方に別奏せしめん」と。沛未だ許に至らざるに、兼御史中丞を拝す。
李光顔呉元済を討つ。沛の風概を奇とし、行営兵馬使に署し、勁兵を将いて別に屯せしめ、数たび賊を破り功有り。時に詔書戦を趨らしむ。諸将観望し、敢えて溵を度りて壁せず。沛兵五千を引き夜に合流を済し、賊の沖を扼し、遂に城して以て居す。ここに於いて河陽・宣武・太原・魏博等の軍継いで度り、郾城を囲む。沛先ず壘を結び賊に対す。蔡の将鄧懐金遂に降る。蔡平ぐ。兼大夫を加う。復た光顔に従い淄青を定む。及び光顔邠に鎮するに、詔して許兵を分かち往きて戍らしむ。沛又た都将と為り、塩州を救い、吐蕃を敗り、功を以て寧州刺史に擢ぐ。陳州に徙る。
子逢、父に従い征伐し、功を累ねて忠武都知兵馬使に署す。太和中、入りて諸衛将軍と為る。劉沔・石雄に従い回鶻を天徳に破る。士二千人戦わざる者あり、賞賜を冒さんと欲す。逢与えず。或いはこれが為に請う。答えて曰く、「士奮死して賞を取る。若し功無くして賞せば、何ぞや」と。武宗逢の法を用いる厳しきを以て、宰相李徳裕をしてこれを譲らしむ。逢曰く、「戦う者は、前に白刃を踏む。法を以てせざれば、人孰れか命を用いん」と。劉稹を討つに、太原道行営将と為り、陳許の兵七千を領し翼城に屯す。稹平ぐ。検校右散騎常侍を加う。後亦た忠武節度使に至るという。
楊元卿
楊元卿、史書はその出身地を失う。幼くして孤となり、慷慨として術略あり。江海の上に客とし、時々高論を吐き、人これを狂生と謂う。呉少誠、蔡州に跋扈す。元卿、褐衣を以て見え、劇県に署し、俄かに召されて幕府に入る。また少陽に事う。事を奏して京師に至る毎に、頗る宰相李吉甫に慰め納れらる。元卿還り、少陽と君臣の大義を言いて以て其の心を動かす。賊の党、悪みて共にこれを構う。判官蘇肇、保救し、乃ち免る。然れども元卿、陰に少陽の事を橈め、而して款を朝廷に輸す。元済の節度を擅に襲ぐに及び、元卿、其の財を困らしめて振わざらしめんと欲し、謬りに説いて曰く、「先公は財に吝なり、諸将寒餒に至る。府の有亡、我具にこれを知る。君若し大いに将士を賜いて以て自ら固くし、又卑辞厚礼を以て諸鎮に事を邀えば、則ち諸将悦び、庶幾く我を助けん。吾君が為に表を持ちて天子に見えん、安んぞ従わざる者有らんや」と。元済之を許す。既に至れば、則ち具に賊の虚実を条し、諸道を勅して元済を執り誅せんことを請う。元済覚り、乃ち其の妻並びに四子を殺し、圬して一堋と為し之を射る。肇も亦害せらる。
長慶初め、鎮・魏帥を易う。元卿、具に所以の成敗の事を道い、穆宗久しくして乃ち悟り、白玉の帯を賜い、涇原渭節度使に擢す。元卿、屯田五千頃を墾発し、屯に高き垣を築き、牢に鍵閉し、寇至れば、耕者垣を保ちて以て守る。六年居り、涇人之を徳とす。節を河陽に徙す。何進滔、魏博に乱る。元卿、自ら三月の糧を賫し軍を挙げ出でて討たんことを請う。文宗嘉美し、検校司空を加う。粟二十万石を献じ、天子の経費を助く。光禄大夫に進む。宣武軍に徙す。太和七年、疾を以て東都に帰り、太子太保を授かる。卒す。司徒を贈る。然れども性憸巧にして、至る所聚斂し、権近に諧結す。故に累ね方任を更うる雲。
子延宗、開成中に磁州刺史と為り、河陽の兵と謀り帥を逐い自立せんとす。事敗る。詔して元卿嘗て家を毀ちて忠に帰せしを以て、其の宗を全うし、延宗を京兆府に杖死せしめ、田産を還し賜う。
曹華
曹華は、宋州楚丘の人なり。始め宣武軍に従う。乱将李迺を縛り闕下に送る。節度使董晋、牙将に署す。後ち仇を避けて東都に奔る。会に呉少誠叛く。留守王翃、華を襄城戍将に署す。華、隍を浚い埤堞し、日賊と搏ち、数え禽馘し、賊之を憚る。憲宗初め、累ねて検校右散騎常侍に拝し、京師に召し至り、矛甲繒錦を賜い、還りて屯す。寧州刺史に拝す。未だ行かず、属に呉元済命を受けず。詔して河陽懷汝節度使烏重胤をして之を討たしむ。重胤、華を自副せんことを請う。青陵城に戦い、賊大いに奔る。淩雲柵を抜く。功を以て陳留郡王に封ぜらる。
蔡平ぐ。棣州刺史に進む。州は鄆に比し、時賊滴河を略定す。華遽かに賊を逐い、二千級を斬り、其の県を復す。又群盗の用うべき者を募り、死を貸し、屯卒に補い、孔道を拠らしむ。賊至れば、輒ち之を撃ち却し、敢えて北せず。横海節度副使に擢す。時朝廷鄆を披きて三鎮と為す。其の明年、兗海軍乱り、観察使王遂を殺す。詔して華をして往きて代わらしむ。事に視すること三日、軍を合して大いに饗す。甲士を廡に幕し、酒中に令して曰く、「天子鄆人の別に参じて戍るを以て、転徙の労有り、厚く之を賞せんと欲す。請う鄆人は右に、州兵は左にせよ」と。既にして州兵を出だし、乃ち門を闔いて大いに言いて曰く、「天子命有り、帥を殺す者を誅せよ」と。甲幕より起ち、之を環す。凡そ千二百人を斬る。血渠に殷く流れ、赤き気門に冒れて丈余高し。海・沂の人、重足して息を屏む。
華、沂の地褊なるを悪み、兗に治めんことを請う。之を許す。李正己の盗より、斉・魯の俗益々汚驁なり。華下令して曰く、「鄒・魯は礼義の郷なり、本を忘るべからず」と。乃ち身ずから儒士に見え、春秋孔子祠を祀り、学官を立てて講誦せしめ、家貲を斥けて贍給を佐け、人乃ち教を知り、諸生を成就して諸朝に仕えしむ。鎮人田弘正を害す。華亟に本軍を以て進討せんことを請う。従わず。華を検校工部尚書に進め、就いて節度使を充つ。
李、叛き、兵を以て宋州を取らんとす。華命を待たず、兵を以て逆撃し、之を破る。平ぐ。検校尚書右僕射に進み、鎮を義成軍に徙す。盗商賈を殺す。吏捕え得たり。乃ち華の嬖人なり。華怒り、其の頸を断ちて以て死者に祭る。卒す。年六十九。左僕射を贈る。
華、戎伍より出づるも、而して動く必ず礼に由り、士大夫を愛重し、貴を以て人に倨らず、廝豎に至るまで必ず誠信を以て待つ。人以て難しと為す。
高瑀
高瑀は、冀州蓚の人なり。少くして沈邃、兵を言うを喜ぶ。褐を釈けて右金吾胄曹参軍、累遷して陳・蔡二州刺史、入りて太僕卿と為る。忠武節度使王沛死す。衛軍諸将多く自ら之を得たりと謂う。宰相裴度・韋処厚、瑀の陳・蔡を治むるに素より状有り、軍中の情偽に習うを以て、之を任せんと欲す。会に其の軍表して瑀を丐う。乃ち検校左散騎常侍、忠武節度使を領す。大暦後より、帥を択ぶこと悉く宦人中尉より出づ。輸する所の貨巨万に至り、貧者は富人に仮貸し、既に欲する所を得れば、則ち膏血を椎斫し、倍を以て息に酬い、十常に六七なり。瑀命有るに及び、士相告げて曰く、「韋・裴相と作れば、天下に債帥無し」と。州比年水旱無し。瑀地の宜しきを相し、堤庸百八十里を築き、其の鐘泄に時し、民頼りて饑えず。再び検校尚書右僕射を加う。六年、節を武寧軍に徙す。刑部尚書を以て召す。疾を辞し、太子少傅を拝す。一月を閲せず、復た詔して忠武を節度せしむ。鎮に卒す。司空を贈る。
瑀寛和にして、官に居りて赫然たる誉無し。至る所治まると称せられ、士人之を懐う。
劉沔
劉稹が命に阻むや、詔して劉沔に南討を命じ、榆社に屯す。劉沔は素より張仲武と協わず、時に幽州兵を追わんとす。故に義成に徙す。会に王宰が逗留す。宰相李徳裕、表して劉沔を河陽に鎮せしめ、滑兵二千を以て万善に壁し、王宰の肘腋の下に居らしめ、激して軍を出さしむ。劉稹平らぎ、検校司徒に進み、忠武節度使に徙る。病を以て太子少保に改め、謁に任ぜず、太子太傅を拝して致仕す。卒す。年六十五。司徒を贈られる。
石雄
石雄は徐州の人、家系は寒微、その先祖の来歴を知らず。少くして牙校となり、敢毅にして戦を善くし、気軍中を蓋う。王智興が李同捷を討ち、棣州を収むるに、石雄をして先駆として河を渡らしめ、鼓行して前に敵無し。初め、徐軍は王智興の苛酷を悪み、これを逐いて石雄を立てんと謀る。王智興は変を懼れ、因って功を立てて刺史を除くことを奏し、詔して壁州刺史と為す。王智興は是より石雄の素より善くする者百余人を殺し、石雄が陰に士を結びて乱を揺るがすと誣え、軍法を以て論ずることを請う。文宗は素よりその能を知り、殺さず、白州に流す。陳州長史に徙す。党項が河西を擾すや、石雄を召して振武劉沔の軍に隷せしめ、羌を破り功労有り。帝は王智興を難じ、久しく擢でず。
会昌初め、回鶻入寇し、連年雲・朔を掠め、牙を五原塞下に置く。詔して石雄を天徳防禦副使とし、兼ねて朔州刺史と為し、劉沔を佐けて雲州に屯せしむ。劉沔、石雄を召して謀りて曰く、「虜離散す、掃除すべき久し。国家は公主の故に、亟に攻めんと欲せず。我若し径ちにその牙に趨かば、彼備えに及ばず、必ず公主を棄てて走らん。我当に主を迎えて帰らん。もし捷たざる有らば、吾則ちこれに死せん。」石雄曰く、「諾。」即ち沙陀李国昌及び契・拓拔の雑虜三千騎を選び、夜馬邑を発ち、旦に振武城に登りてこれを望む。罽車十余乗、従者朱碧の衣を見る。諜者曰く、「公主の帳なり。」石雄潜かに使をしてこれを諭さしめて曰く、「天子公主を取らんとす。兵合わば、第に動くなかれ。」石雄、城に穴を穿ち夜出で、牛馬を放ち鼓噪し、直ちに烏介の帳を搗く。可汗大いに駭き、単騎して走る。殺胡山に追い至り、首級一万を斬り、馬牛羊獲ること数えず。公主を迎えて還る。豊州防禦使に進む。
武寧李彦佐が劉稹を討つに逗留す。石雄を晋絳行営諸軍副使と為し、李彦佐を助けしむ。是の時、王宰は万善に屯し、劉沔は石会関に屯し、顧望して進む者莫し。石雄命を受け、即ち兵を勒して烏嶺を越え、賊の五つの壁を破り、斬獲千計、賊大いに震う。石雄は財に臨み廉、毎に朝廷の賜与有れば、輒ち軍門に置き、自らは一匹の縑を取るのみ、余は悉く士伍に分かつ。是により衆感発し、奮わざる無し。武宗喜びて曰く、「今将帥義にして勇なるもの、石雄に比ぶるは稀なり。」就いて行営節度使を拝し、李彦佐に代わる。河中に徙る。劉稹危蹙す。その大将郭誼密かに款を献じ、劉稹の首を斬りて自ら帰らんことを請う。衆その詐りを疑う。石雄大言して曰く、「劉稹の叛くや、郭誼は謀主たり。今劉稹を殺さんと欲するは、乃ち郭誼の自らの謀りなり、又何ぞ疑わん。」石雄七千人を以て径ちに潞に薄き、郭誼の降を受け入る。検校兵部尚書に進み、河陽に徙る。初め、石雄が劉稹を討つに、水次に白鷺を見て、衆に謂いて曰く、「吾がその目を射中てば、当に成功せん。」一発言の如し。帝聞き、詔を下して褒美す。
宣宗立ち、鎮を鳳翔に徙す。石雄は素より李徳裕に識抜せらる。王宰は王智興の子、石雄とは故に隙有り。潞の役、石雄の功最も多し。王宰これを悪み、数え沮陷せんと欲す。会に李徳裕宰相を罷めらる。因って代わりて帰る。白敏中猥りに曰く、「黒山・天井の功、酬いられしこと已に厭う。」神武統軍を拝す。勢いを失い怏怏として卒す。
賛して曰く、世皆李愬が孤旅を以て蔡に入り賊を縛するを奇功と謂うも、殊に知らず光顔の平蔡に於けること多きを。是の時、賊戦日々に窘し、鋭卒を尽く取りて光顔を護り、空堞を憑みて居る。故に一切の勢いに乗じ、賊の意に出でずして出づることを能くす。然らば則ち光顔の勝無くんば、烏ぞ奮わんや。