高崇文
劉辟が反すと、宰相杜黄裳がその才を薦め、詔して検校工部尚書・左神策行営節度使とし、左右神策・麟遊奉天諸屯の兵を統べさせて辟を討たしむ。時に顕功の宿将は、人々自ら当選すべしと謂うも、詔出づるに及んで皆大いに驚く。初め、崇文は兵五千を選び、常に寇至るが如くす。ここに至り、卯の漏に命を受け、辰巳に出師し、器良く械完くして、一も具はらざるなし。興元を過ぐるに、士に逆旅の匕箸を折る者有れば、即ち斬りて以て徇す。乃ち西より閬中より出で、剣門の兵を退け、梓潼の囲みを解き、賊将邢泚は退きて梓州を守る。詔して崇文を東川節度使に拝す。初め、辟は東川を陥とし、節度使李康を執えて殺さず。ここに至り、康を帰して以て雪ぎを丐う。崇文は康の失守の罪を数えて、これを斬る。鹿頭山は南成都より百五十里を距ち、二川の要を扼す。辟はこれに城し、旁ら八屯を連ね、以て東兵を拒ぐ。崇文始め賊二万を城下に破る。雨に会い、攻め克たず。明日、万勝堆に戦う。堆は鹿頭の左に直し、驍将高霞寓をしてこれを鼓せしむ。士は攀縁して上り、矢石雨の如し。死士を募りて奪いてこれを有ち、戍者を尽く殺し、その柵を焚き、下より鹿頭城を瞰れば、人頭数を数うべし。凡そ八戦皆捷し、賊心始めて揺ぐ。大将阿跌光顔は崇文と約し、後期して罪を懼れ、深く入りて自ら贖わんことを請う。乃ち鹿頭の西に軍し、賊の糧道を断つ。賊大いに震い、その将李文悦は兵三千を以て自ら帰し、仇良輔は鹿頭城の二万の衆を挙げて降り、辟の子方叔・婿蘇強を執る。遂に成都に趣き、余兵は皆面縛して款を送る。辟は走り、追いこれを禽え、檻車に載せて京師に送る。
成都に入るや、師は大達に屯し、市井移らず、珍貨山の如く、秋毫の犯すところなし。邢泚は既に降りて而も貳す。軍中に斬る。衣冠脅汙せられたる者は牙門に詣でて命を請う。崇文は条を為して上り、これを全活す。検校司空・西川節度副大使、南平郡王に進み、実封三百戸、石を刻みて功を鹿頭山に紀す。
子承簡、少く忠武軍に事え、後神策に更めて隷す。崇文の蜀を平ぐる功を以て、嘉王傅を除く。裴度蔡を征するに、奏して牙将に署す。蔡平ぐるや、詔して上蔡・郾城・遂平・西平の四県を析きて洲殷州と為し、承簡を刺史に拝し、郾城を治む。始めて屯田を開き、防庸を列ね、溵に瀕みて地二百里、復た水敗なく、皆腴田と為る。先ず是れ、賊は武宮を築きて以て戦労を誇る。承簡はその丘を夷し、家財を庀えて以て葬る。儒宮を葺き、俎豆を備え、歳時礼を行ふ。野に荍実有り、民以て食うことを得。将吏石を立てて功を頌す。邢州刺史に遷る。観察府賦を責むること尤も急なり。承簡は下戸数百を代わりて租を輸す。
宋州に遷る。会に宣武将李が反す。使いを遣わして財を宋に責む。承簡これを囚う。前後数輩輒ち獄に繫ぐ。一日並びに出でて牙門に斬る。威部中に震う。悉く兵を以てこれを攻む。宋に三城有り。南城陥る。承簡は北の両城を保ち、数え賊と確す。会に徐州の救い至り、李質に執せられ、兵遂に潰ゆ。兗海沂密節度使に拝す。義成軍に遷り、検校尚書左僕射。入りて右金吾衛大將軍を拝し、復た邠寧を節度す。先ず是れ、虜多く盛秋を以て辺を犯す。承簡は寧州に屯して以てその侵を制せんことを請う。疾に属して還朝し、道に卒す。司空を贈り、謚して敬と曰う。
崇文の孫駢、自ら伝有り。
伊慎
伊慎、字は寡悔、兗州の人。『春秋』・『戦国策』・天官・五行の書に通じ、善射を以て折衝都尉と為る。母に喪し、合葬せんとすれども父の墓を知らず、昼夜哭く。夢みるに導く者有るが若し。既にこれを発するに、旧誌按ずべし。乃ち葬ることを得。
江西路嗣恭哥舒晃を討つに、慎を以て先鋒と為す。疾戦して賊を破り、首級三千を斬り、韶州を下す。把江口に戦う。水湍駛なり。乃ち桴を為し、薪を寘く。風に乗じて火を縱つ。賊焚け且つ溺ること計うべからず。諸将とともに追い晃を泔溪に斬る。連州長史を授け、団練副使を知る。三遷して江州別駕と為る。
梁崇義を討つに、慎は江西牙兵を以て李希烈に属す。希烈は漢南北兵馬使に署せんとすれども受けず、独り所部を率いて崇義を蛮水に破り、俘三万を效す。襄・漢平ぐ。功多し。希烈その材を愛し、数え饋遺し、縻止せんと欲す。卒に計を以て免る。明年、希烈果たして反す。嗣曹王臯鐘陵に至り、得てこれを壮とし、抜きて大将と為す。希烈は臯に任せらるるを恐れ、七属甲を遺し、詐りて慎の書と為し、反間を行ふ。帝使いを遣わして即ち軍中にこれを斬らんとす。臯表を上りてその誣を列ねるも、報ぜず。賊江を溯りて地を徇う。臯慎に兵を授け、労して遣わす。賊と大戦し、これを破り、黄梅を収め、長平に次ぎ、賊将を殺し、級千余を斬り、蔡山を抜くこと尤も力めり。遂に蘄州を下す。即ち刺史に拝し、南充郡王に封ぜらる。
天子梁州に在す。包佶東南の財糧を転じて蘄口に次ぐ。賊驍将杜少誠を遣わし兵万人を以て江道を遏し、西することを得ず。慎士七千を選び、三屯を列ねて相望み、旗を偃して以て待つ。少誠分かちこれを囲む。未だ合せず。慎中屯よりこれを鼓す。諸屯悉く出で奮撃す。賊乱れ、少誠走る。別将許少華を斬り、その屍を封じて京冢と為す。漕留艱無し。進みて安州を囲む。希烈の甥劉戒虚兵八千を以て来援す。慎応山に於いて逆撃し、これを禽え、城下に示す。州門を開きて降る。功を以て安州刺史と為り、実封百戸。隋州に改む。厲郷に戦い、首級五千を斬り、李惠登を諭降す。即ち惠登を薦めて刺史と為す。慎を安・黄州節度使に拝す。
呉少誠が反乱を起こすと、詔により歩騎五千を率い、兼ねて荊南・湖南・江西の兵を統べ、一軍を担当し、三州港で賊に遭遇し、義陽に営を置き、申州で戦って数千の首級を斬り、検校刑部尚書を加えられた。貞元末年、詔により安州・黄州を奉義軍とし、即座に奉義節度使となった。
憲宗が即位すると、兵をその子の李宥に託し、自ら入朝し、尚書右僕射に拝され、金吾衛大將軍に改められた。銭三千萬を宦官に賄って河中節度使を求めようとしたが、事が露顕し、帝はその半ばの贓物を没収し、右衛將軍に貶した。翌年、旧功を思い、再び検校右僕射兼右衛上將軍とした。卒すと、太子太保を追贈され、諡して壮繆といった。乾符年中、盗賊がその墓を暴いたため、絹二百匹を賜って修復埋葬させたという。
朱忠亮
朱忠亮、字は仁輔、汴州浚儀の人。明経に挙げられたが及第せず、かつて昭義節度使薛嵩に仕えて裨将となり、普潤に駐屯し、田を開き糧食を備蓄し、功により太子賓客に抜擢された。
朱泚の乱に際し、麾下四十騎を率いて奉天に至り、東陽郡王に封ぜられ、「定難功臣」となった。梁州への行幸に扈従したが、賊に掠奪されて捕らえられ、長安の獄に繋がれた。賊が平定されると、李晟がこれを釈放し、本軍に隷属するよう奏上し、累進して定平軍使となった。憲宗が立つと、御史大夫を加えられた。涇州の将楊琦が詔を拒んで乱を謀り、諸校を集めて計議している最中、家屋が崩壊し、楊琦は圧死したため、忠亮を涇原四鎮節度使に任じた。本名は士明であったが、この時に今の名を賜った。
軍籍を厳密に調査し、名を潜ませていた者三千人を発見し、年間十万緡の不正利得を取り立てた。役人が老齢で戦に耐えられない兵士は罷免すべきと申し出ると、答えて「古より老馬すら棄てず、まして戦士をや」と言った。聞く者感奮しない者はなかった。涇州の風俗は従来子を売ることが多かったが、忠亮が財貨で贖い免がせた者は前後数百人に及んだ。潘原城を築く功労があり、丹陽に改封された。卒すと、尚書右僕射を追贈され、諡して霊といった。
劉昌裔
劉昌裔、字は光後、太原陽曲の人。幼少より動作が重く鈍く遊戯を好まず、常に何かを思慮している様子であった。壮年になると、辺境の将帥に対する献策が採用されず、去って蜀に入った。楊恵琳が乱を起こすと、昌裔はこれを説得した。劉闢(子琳)が順命すると、瀘州刺史に拝され、昌裔を州の佐官に任命した。子琳が死ぬと、河朔の地に客寓した。曲環がちょうど濮州を攻撃していた時、判官に上表して任じられた。環のために李納に檄文を作り、道理を明快に説き、環がその草稿を上奏すると、徳宗はこれを異とした。環が陳許軍を統べると、またその幕府に従って移った。累進して営田副使となった。
曲環が卒すると、上官涚が後務を執ったが、呉少誠が兵を率いて城に迫ると、涚は遁走しようとした。昌裔が制止して言うには、「詔を受けて守るのは、その職に死する所以である。況んや士馬は充実して奮っており、賊を支えるに足る。もし堅壁して七日間戦わなければ、賊の気勢は必ず衰え、我らが全軍をもってこれを制することができよう」。涚は承諾した。賊が攻めて城壁の女牆を破壊し、修復できなかった。昌裔は密かに飛棚と連柵を造り、即座に突将千人を募って城を穿って出撃し、賊を撃退した。帰還する頃には、柵は既に立ち、城壁の守りは安泰となった。兵馬使安国寧が賊に応じようと謀ったが、昌裔は計略をもってこれを斬った。その麾下千人を召して饗宴を催し、一人に二匹の縑を賞与し、道に伏兵を置き、「縑を持つ者は斬れ」と命じたので、一人も逃れられず、賊はこれを聞いて解囲して去った。功により上官涚を陳許節度使に抜擢し、昌裔を陳州刺史とした。
韓全義が溵水で敗れ、軍を率いて陳州に走り、入城して保たんと求めた。昌裔は城壁に登り拱手して言うには、「天子は君に蔡州を討たしめた。何故陳州に来るのか。しかも賊は我が城下に至る勇気もない。君は城外に駐屯され、恐れることはない」。翌日、十余騎を従え牛酒を持って全義の営に至り、軍を労った。全義は予期していなかったので、迎えて拝礼し嘆服した。陳許行軍司馬に改めた。上官涚が卒すると、軍中が昌裔を推挙し、詔により検校工部尚書とし、節度使を代行させた。国境の役人に蔡州の人を犯さぬよう命じ、少誠の役人で侵犯して来た者を捕らえて縛り送り、自らこれを処置させた。少誠は自軍の行いを恥じ、また国境での暴掠を禁じた。彭城郡公に封ぜられた。
元和八年、大水が家屋を損壊し、住民を溺死させたため、検校尚書左僕射兼左龍武統軍として京師に召還された。初め、憲宗は昌裔が自立したことを憎み、召還しようとしたが、変事が生じることを恐れた。宰相李吉甫が言うには、「陛下は人心が愁苦している時を乗じて召還なさればよい」。そこで韓臯を代わりに任じた。長楽駅に至り、帝の意を知り、風眩を称して邸に臥した。その年のうちに卒し、潞州大都督を追贈され、諡して威といった。
範希朝
範希朝、字は致君、河中虞郷の人。初め邠寧軍に従って別将となり、節度使韓遊瑰に仕えた。徳宗が奉天に在った時、戦守の功により累進して御史中丞を兼ねた。軍を統治するに厳整で剛毅であり、遊瑰はその才を畏れ、隙を窺って殺そうとしたので、希朝は恐れて鳳翔に奔った。帝はこれを聞き、召して左神策軍に置いた。貞元四年、遊瑰の政務が良くないとして、希朝に代えようとした。希朝は言うには、「初めは脅迫されて来たのに、終にはその任に代わるというのは、覬覦を防ぎ、反側を安んずる道ではない」。固辞して左金吾衛将軍張献甫を推した。軍中は献甫の厳しさを畏れ、兵をもって監軍使を脅迫し帝に請願し、必ず希朝を得なければ止まないとした。詔により寧州刺史・邠寧節度副使に拝し、献甫を補佐させた。
まもなく振武節度使に遷った。管内には党項・室韋が雑居し、暴掠放縦で、日が暮れると悪事を働き、これを「城門を刮ぐ」といった。希朝は要害の地に屯保を置き、斥候と巡邏を厳密にし、辺境の民は安堵した。些細な窃盗でも殺して赦さず、虜人は畏服し、互いに言うには、「これは必ず張光晟が偽名を使って来たのだ!」と。辺州では長帥が着任する度に、必ず駱駝や駿馬を献上し、甚だ廉潔な者でも受け取って、その歓心を結んだ。希朝は一切受け取らなかった。十四年間在任し、虜は塞を守って横暴を働かなくなった。初め、単于都護府の城には樹木が無かったが、希朝は柳を植えるよう命じ、数年で林となった。
貞元末年、朝覲を請うた。当時、諸鎮で自ら職務を述べて朝覲する者は、希朝のみであった。帝は喜び、右金吾衛大將軍に拝した。王叔文が権力を握り、彼は制御しやすいと考え、右神策統軍とし、左右神策京西諸城鎮行営節度使を充て、奉天に駐屯させ、韓泰を副使とし、因って泰に代わらせようとした。神策軍を掌握できなかったため、中止となった。憲宗が立つと、検校尚書左僕射とし、再び右金吾衛大將軍とした。まもなく検校司空とし、出向して朔方霊塩節度使とした。河東に遷り、師を率いて王承宗を討ち、木刀溝でこれを破ったが、老病のため、大功を挙げることはできなかった。還朝し、左龍武統軍に改め、太子太保をもって致仕した。卒すと、太子太師を追贈され、諡して忠武といったが、後に宣武と改めた。
希朝は当世の名将と称され、時に趙充国に比せられた。朔方に在った時、突厥の別部沙陀の千落、衆万余りを招きこれを有し、その後沙陀を用いて戦うところ、至る所で功績があった。
王鍔
王鍔は、字を昆吾といい、自ら太原の人と称した。初め湖南団練府に隷属して裨将となった。楊炎が潭州を通った時、彼と語り、その才能を異とした。嗣曹王李臯が団練使となると、鍔に命じて武岡の叛将王国良を誘降させ、功により邵州刺史に抜擢された。
李臯が江西節度使であった時、李希烈が南侵し、臯は鍔に兵三千を与え、潯陽に駐屯させた。一方で臯は全軍を率いて九江に臨み、蘄州を襲撃し、ついに衆を率いて渡河した。鍔を江州刺史兼御史中丞に表し、都虞候を充てた。鍔は小心で、軍中の真偽を探るのが巧みであり、事の大小を問わず、臯はすべて知った。そこで腹心として推し、家族が私居していても時に参画させた。臯が安州を攻めた時、伊慎に命じて大軍で包囲させ、一方で鍔を城中に遣わして降伏を約束させ、従わない者を殺させた。翌日城門が開くと、慎は賊が降伏したのは自分の功績だとして、鍔に譲らなかったので、鍔は病と称してこれを避けた。
李臯が荊南節度使となると、府少尹に任用しようとしたが、上佐がその人柄を卑しんだため、再び都虞候に任じた。李臯に従って京師に朝し、臯は「鍔は文才は足りないが、他の点では試用できる」と奏上した。徳宗は彼を鴻臚少卿に抜擢した。先に、天宝の末、西域の朝貢する酋長および安西・北庭の校吏で毎年京師に集まる者が数千人おり、隴右が陥落した後、帰れず、皆鴻臚寺の礼賓に給与を仰ぎ、月四万緡、凡そ四十年に及び、名田を持ち子孫を養って編戸の民のようであった。この時、鍔は名王以下およそ四千人を悉く籍に載せ、畜馬二千を数え、皆への給与停止を奏上した。宰相李泌はこれを全て左右神策軍に隷属させ、酋長を牙将に任じて、歳に五十万緡を省いた。帝はその公正を嘉し、容管経略使に抜擢した。凡そ八年、溪落は安んじた。
嶺南節度使に遷った。広州の人々は蛮族と雑居し、土地の租税は薄く、多くは市で利益を貪った。鍔はその店舗に租を課し、専売の収入は常賦に等しく、これを時進とし、残りは全て自分が収めた。諸蕃の船が到着すると、その税を全て取り立て、これにより財貨の蓄積は計り知れず、日に十余艘が犀角・象牙・真珠・宝玉を積み、商人と共に境内を出入りした。数年後、京師の権力家で鍔の財産で富まない者はなかった。召されて刑部尚書となった。淮南節度使杜佑がたびたび代わりを請うたので、鍔を検校兵部尚書として佑の副使とし、厚く佑に仕えて喜ばせ、座には必ず司馬の庁舎に就き、数日も経たずに、ついに佑を代わった。久しくして、入朝して尚書左僕射を拝し、また検校司徒となり、河中節度使となった。
進んで太子太傅を兼ね、河東に転じた。河東は範希朝が鎮州を討って功がなく、兵はわずか三万、騎兵六百、府庫は残り乏しかった。鍔はこれを補い完成させ費用を節約し、間もなく、兵は五万に至り、騎兵五千、財用は豊かで余裕があった。ちょうど回鶻が摩尼師を伴って入朝した時、鍔は威武を示して彼らを驚かせようと、軍を悉く出迎えさせ、五十里にわたって列を廷に並べ、旗幟は光鮮で、戈や鎧は犀のごとく密であった。回鶻は恐れ、仰ぎ見ることができず、鍔は平然としてその礼を受けた。帝は聞いてこれを嘉し、即座に検校司空・同中書門下平章事を除した。鍔は自ら財産が多いのを見て、かつ誹謗を恐れ、銭二千万を納めた。李絳が奏言して言うには、「鍔は功労はあるが、しかし衆望は属さず、天下が宰相は買って得られるものと議論することを恐れます」。帝は言った、「鍔は太原が残破した後、雄富の治を成した。官爵は功を待つものであり、功を図らないなら、どうして勧められようか。王播の献上した数万万も、平章政事とすることができようか」。聞き入れなかった。卒し、太尉を贈られ、諡して魏といった。
鍔は初め太原の王翃に附いて従子となり、婚姻の門閥をもって自らを高しとした。翃の子弟もまた鍔を頼りに多く官を得た。また常に『春秋』を読み、自ら儒者と称したが、士人は大いにこれを笑った。数に長け部下を操るのが巧みで、淮南に在った時、無名の書状を得たことがあり、靴の中に入れ、やがて他の書状を取り出して焼き、人々はそれが無名のものだと信じた。他日、小さな罪によって、かつて告げられたことをことごとく詮索して証拠を示し、衆に神明のごとく示した。性は細かく吝嗇で、何か工事があると、たとえ細々としたものでも見逃さなかった。官曹の簾が壊れた時、吏が替えようとしたが、鍔は壊れたものを取って船坊に渡し、針と笹で補修させた。宴会のたびに、必ず残り物を記録し、売って利益を収めた。故に鍔の家の銭は天下に遍くあった。
開成年中、滄州節度使劉約が奏上して、稷の子叔泰が五歳の時、全略の乱に遭い、郡人に匿われ養われて死なずに済んだと報告した。叔泰を京師に送ると、文宗はこれを哀れみ、詔して九品の官を授け、鍔の祭祀を奉じさせた。
孟元陽
孟元陽は、史書にその出身地を失っている。陳許軍中から起り、厳格整斉と称された。曲環が節度使を領した時、既に大将となっており、西華の屯田を監督させた。盛夏でも、草鞋を履いて道に立ち、役が休みになってから舎に入ったので、田は常に豊作となり、軍糧は常に足りた。環が卒すると、呉少誠が来寇し、元陽は城を守り、包囲は甚だ急であったが、ついに城に付くことはできなかった。韓全義が五楼で敗れると、列将の多くは私的に去ったが、ただ元陽と神策将の蘇元策・宣州将の王幹のみが配下を率いて溵水に屯し、賊二千を破り、詔して陳州刺史に拝された。憲宗が立つと、河陽節度使に遷った。五年、盧従史が敗れると、検校尚書右僕射となり、昭義軍の帥に転じた。入朝して右羽林統軍となり、趙国公に封ぜられた。右金吾大将軍に改め、再び統軍を拝した。卒し、揚州大都督を贈られた。
王棲曜
王棲曜は、濮州濮陽の人である。安祿山が反すると、尚衡が義兵を集めて賊を討ち、牙将に任じ、兗・鄆の諸県を巡ってこれを下し、牙前総管に進んだ。賊将の邢超然が曹州を守り、城上で指をさし顧みた時、棲曜は言った、「彼は取ることができる」。一矢でこれを斃し、ついに曹州を抜いた。累次して試金吾衛将軍を授けられた。
袁晁が浙東で乱を起こすと、御史中丞袁傪がこれを討ち、偏将に表した。賊と戦い、日に十余度遭遇し、晁を生け捕りにし、州県十六を収めた。常州別駕・浙西都知兵馬使を授けられた。当時、江辺は未だ定まらず、詔して内常侍馬日新に汴滑軍五千を率いて鎮守させた。宦官は暴虐横暴で、賊の蕭廷蘭が衆の怨みに乗じて日新を追い払い、その衆を奪った。棲曜が近郊を遊弋していた時、賊に脅し取られ、蘇州包囲に加わった。棲曜は賊が油断した隙に、身を挺して城に登り、城中の兵を率いて出戦し、賊衆は大敗し、試金吾大将軍に遷った。
李霊曜が汴州に反すると、浙西観察使李涵は彼に兵四千を率いさせて河南の掎角と為し、功績があった。李希烈が汴州を陥落させた時、勝に乗じて東を攻略し、寧陵に駐屯し、宋州を襲撃せんとした。浙西節度使韓滉は棲曜に強弩三千を率いさせて河を渡り、夜に寧陵に入らせたが、希烈はこれを知らなかった。朝になり、矢が陣幕前に集中したので、驚いて曰く、「江淮の弩士が入ったぞ!」と。遂に東進を敢えてしなかった。
貞元初年、左龍武大将軍に拝され、出て鄜坊節度使となった。十九年、卒し、尚書右僕射を追贈され、諡して成と曰う。
棲曜は性質謹厚にして、騎射に長じた。初めて兵を将いた時、寇の境に踏み込み、遊騎に包囲されたが、百歩を測り、標的を立てて射ると、毎度的に当たり、虜は互いに顧みて懼れ、引き去った。
子の茂元は、少より学を好んだ。徳宗の時、上書して自らを薦め、抜擢されて校書郎を試みられ、太子賛善大夫に改めた。呂元膺が東都留守となると、防禦判官に任じた。淄青留邸の兵卒が乱を謀ると、元膺は兵を率いて包囲したが、兵士に先んずる者無く、茂元は一人を捕らえて斬り、衆は乃ち進み、賊は遂に出奔した。累遷して嶺南節度使となり、蛮落を安んじた。
家に財を積み、権貴と交わり煽った。鄭注が権を握ると、涇原節度使に遷った。注が敗れると、悉く家財を出して両軍に饋り、誅を免れ、濮陽郡侯に封ぜられた。召されて将作監となり、陳許節度使を兼ね、また河陽に転じた。劉〓真を討つに当たり、李徳裕は茂元の兵が寡少なるを以て、詔して王宰に陳許を領せしめ義成の兵と合わせてこれを援けさせ、河陰に貯蔵する兵械・内庫の甲冑弓矢陌刀を賜った。会に病み、宰に河陽行営攻討使を兼ねさせた。卒し、司徒を追贈され、諡して威と曰う。
劉昌
劉昌、字は公明、汴州開封の人。騎射に長じた。天宝末、河南防禦使張介然に従い安禄山を討ち、易州遂城府左果毅を授かった。史朝義の兵が宋州を囲み、城中の食尽きて将に降らんとした。昌は刺史李岑に説いて曰く、「李光弼は河陽におり、江淮には兵足り、勢い必ず来援すべし。今倉の麹尚おおく、若しこれを屑として食わせば、二十日を支え得べく、則ち救い至らん」と。岑はこれを聴いた。昌は乃ち鎧を着て城に登り、忠義を以て賊を諭すと、賊は畏れて敢えて攻めず。俄にして光弼の援兵至り、賊は夜に潰走した。光弼はその謀を聞き、召して軍中に置き、将に用いんとした。会に光弼卒し、還って宋州牙門将となった。
李霊曜が汴州に反すると、刺史李僧恵はこれに応ぜんとしたが、昌は請い見えて、逆順の計を陳べ、且つ泣いた。僧恵悟り、即ち馳せて奏し、自ら将いて賊を討たんことを請うた。故に霊曜は助けを失い、逞うるを得なかった。汴州平らぎ、李忠臣は僧恵を疾み、攻めて殺したので、昌は遁れ去った。
劉玄佐が宣武節度使を領すると、昌を抜擢して左廂兵馬使とした。李納が反し、偏師を以て考城を収め、行営諸軍馬歩都虞候を充てた。玄佐が濮州を攻めるに、昌をして刺史を摂行せしめた。李希烈が汴を取ると、玄佐の別将高翼が精卒を提げて襄邑を守ったが、城陥ち、翼は水に赴いて死に、江淮大いに震動した。昌は兵三千を以て寧陵を守り、希烈の衆五万これを攻めたが、昌は塹を掘って地道を遏え、相拒すること凡そ四十余日、賊数度敗れ、乃ち囲みを解いて去った。更に陳州を攻めると、昌は玄佐に従い浙西兵三万を以てこれを救った。西に陳を去ること五十里、昌はその軍に迫り、大戦してこれを破り、賊将翟曜を擒にし、希烈は奔り還って蔡州に至った。検校工部尚書を加えられ、累ねて実封二百戸を賜う。
初め平涼に城する時、劫盟の後当たり、将士の骸骨蔵められず、昌始めて命じてこれを瘞せしむ。夕べ夢に若し昌に詣でて厚く謝する者の如く、昌は具に以て聞こゆ。徳宗、詔を下して哀痛し、衣数百称を出し、官をして賽具と為し、棺槥を以て斂め、分かちて二冢を建つ、大将を旌義冢と曰い、士を懷忠冢と曰い、浅水原に葬り、詔して翰林学士に銘を作らしめて其の所を識らしむ。昌は盛んに兵衛を陳べ、牢醴を具え、諸将を率いて素服してこれに臨み、辺兵感泣せざる者無し。
子の士涇、云安公主に尚し、駙馬都尉に拝され、累遷して少卿となる。家に財を積み、内に権近と結ぶ。胡琴を善くする故に、貴人の幸いを得る。後に太僕卿に遷るが、給事中韋弘景等が制書を封還し、士涇が近幸と交通し、九卿に居るべからずとす。憲宗曰く、「昌は辺に功あり、士涇又た主を尚す、官少卿已に十余年、制書宜しく下すべし」と。弘景等乃ち詔を奉ず。
賛に曰く、唐の杜牧が称して言う、「寧陵の囲み解け、劉玄佐、昌を召して問うて曰く、『君は孤城を以て、一をもって十に当たる、何を以て能く守るや』と。昌泣いて曰く、『始め昌が令す、陴を守りて内顧する者は斬ると。昌が孤甥張俊西北を守るも、未だ嘗て内顧せず、捽ち下してこれを斬る。士に死の志あり、故に能く守る』と。因りて地に伏して流涕す、玄佐も亦た泣いて曰く、『国家将に汝を富貴せん』と」。史臣は然らずと謂う、且つ兵を勒して城に乗り賊と抗するは、賞罰に頼る所なり。今罪無くして其の甥を斬れば、士心且つ離れ、不祥これより大なるは莫し。寧んぞ好事の者、此れを傅えて以て其の美を益すや。昌の志に非ざるなり。牧は張巡・許遠の睢陽に陷るも、其の名伝わり、昌の寧陵を全うするも事世に暴かれざるを以て、寧んぞ牧の未だこれを思わざるや。
趙昌
趙昌、字は洪祚、天水の人。始め昭義李承昭の節度府の属となり、累遷して虔州刺史となる。安南の酋獠杜英翰叛き、都護高正平憂いて死す、昌を拝して安南都護と為し、夷落向化して敢えて桀ぶる者無し。十年居り、足疾あり、還朝を請う、兵部郎中裴泰を以てこれに代え、入って国子祭酒となる。未だ幾ばくもせず、州将泰を逐う、徳宗、昌を召して状を問う、時に年七十を踰え、占対精明、帝之を奇とし、復た安南都護を拝す。詔書至るや、人相賀い、叛兵即ち定まる。
憲宗が即位した初め、検校戸部尚書となり、嶺南節度使に遷った。辺境の地を降伏させて安んじ、その功労により荊南節度使に移った。召されて入朝し、再び工部尚書・兼大理卿に遷った。出て華州刺史となった。麟徳殿で対面したとき、趨拝の動作が強健で、帝はその養生の術を尋ねた。太子少保に遷った。卒去、年八十五、揚州大都督を追贈され、諡して成といった。
李景略
李景略は、幽州良郷の人である。父の承悦は、檀州刺史・密雲軍使であった。景略は蔭補により幽州府功曹参軍となった。大暦の末、河中に客居し、門を閉じて読書に励んだ。
李懐光が朔方節度使となると、巡官に任用した。五原の将張光がその妻を殺し、財貨で獄を買い、前後して決断できなかったが、景略が事実を究明し、死刑に処した。その後、女の亡霊のような者が廷中に進み出て謝した様は、あたかも張光の妻のようであった。大理司直に遷った。懐光が咸陽に駐屯し、東渭橋を襲おうとし、幕府を召して計議した。景略は言った、「朱泚を殺し、諸道に軍を返し、策を杖いて行在所に詣でる、これこそ禍を転じて福となすものです」と。聞き入れられなかった。軍門を出てから、慟哭して言った、「まさかこの軍が不義に陥るとは思わなかった」と。遂に遁走して帰った。
霊武節度使杜希全が上表して府に置き、累転して侍御史・豊州刺史となった。豊州は回紇の通路に当たり、前刺史は軟弱で、毎度虜の使者が来ると、対等の礼をとっていた。時に梅録将軍が入朝し、景略はこれを屈服させようとし、郊労の際、先に人を遣わして言った、「可汗が新たに没したので、使者を弔問したい」と。そこで高き塚の上に坐ってこれを待った。梅録はうつむきかがんで前に進み哭した。景略は直ちにこれを撫でて言った、「可汗が世を棄てられた、お前の号慕を助けよう」と。ここにおいて虜の容貌気色は萎縮し、敢えて抗せず、父の行輩をもって景略を呼んだ。これより後、回紇の使者が来る者は、皆廷中で拝礼し、威名は顕著に聞こえた。希全はこれを忌み、誣奏して、袁州司馬に貶した。
希全が死ぬと、左羽林将軍に遷り、徳宗の延英殿で対面し、論奏すること侃侃として、大臣の風があった。時に河東節度使李説が病み、景略を太原少尹・行軍司馬とした。当時方鎮は既に重んじられていたので、少尹が召還されることは稀で、ただ不運な場合に司馬が代わるのであった。説が病んでから、人心は固より景略に属していた。時に梅録が再び入朝し、説が大宴会を開くと、虜人が座席を争い、説は敢えて止められなかったが、景略がこれを叱責すると、梅録はその声を識り、驚いて拝して言った、「李豊州ではございませんか」と。そこで座に就いた。将吏は互いに顧みて厳しく畏れ、説はますます不平を抱き、中尉竇文場に賄賂して謀り、景略を毀損して去らせようとした。
一年余り後、塞下に回紇が南寇しようとしているとの風聞が立ち、文場がちょうど帝の傍に侍っていたが、即座に豊州には良将を得るべきだと言い、かつ景略を推挙した。そこで豊州刺史・天徳軍西受降城都防禦使に任じた。辺境の塞は苦寒の地で、土地は瘠せて塩鹸、辺境の民戸は労苦に憔悴していた。景略が到着すると、費用を節約し己を律し、士卒と共に甘苦を共にし、咸応・永清の二渠を開鑿し、数百頃の田を灌漑し、蓄えの穀物や器械は全て整い、威令は厳然として、名声は北疆に轟き、回紇はこれを畏れた。屯所で卒去、年五十五。天下は景略の才が未だ尽きずに用いられたことを惜しんだ。工部尚書を追贈された。
任迪簡
任迪簡は、京兆万年の人である。進士第に及第した。天徳の李景略が上表してその軍の補佐とし、かつて客を宴する際、酒を運ぶ者が誤って酢を進めた。景略は法を厳しくするので、迪簡はその者が死ぬのを忍びず、飲み干してしまい、徐ろに他の言葉で代えるよう請い、帰って血を吐いたが、これを聞かせず、軍中はその長者ぶりを喜んだ。景略が卒去すると、挙軍して帥となるよう請うたが、監軍使が迪簡を拘束して聞き入れなかった。衆は大呼し、戸を破って彼を出した。徳宗が使者を遣わして変事を察させたところ、ことの次第を詳しく得たので、豊州刺史・天徳軍使を授けた。殿中侍御史より兼大夫・散騎常侍を授けられた。入朝して太常少卿・太子左庶子となった。
張万福
張万福は、魏州元城の人である。三代にわたり明経に及第したが、止まる所は県令・州佐であった。万福は儒業で顕れないので、騎射を学び、王斛斯に従って別校として遼東を征し、功績があった。
李亙が劉展を討伐したとき、部将に任用し、首級一万を献上した。累任して寿州刺史・舒廬寿都団練使を摂行した。州が租賦を都に送る途中、潁に至り、盗賊に奪われた。万福が軽兵を率いて尾行襲撃し、賊は倉卒にして戦えず、悉くこれを捕らえ、失ったものを全て得た。併せて先に掠め取られた人々の妻女・財畜は万を数え、その家に返した。自力で帰れない者には、船車を与えて送り届けた。真除で刺史となり、兼淮南節度副使となった。しかし節度使崔円がこれを忌み、刺史を失い、鴻臚卿に改め、千人を率いて寿州を鎮守させたが、恨みとはしなかった。時に許杲が平盧行軍司馬として卒三千を率いて濠州に駐屯し、ひそかに淮南を窺っていた。円は万福に濠州刺史を摂行させた。杲がこれを聞くと、即座に当塗に移って駐戍した。賊の陳荘が舒州を陥落させると、円はまた舒州刺史を摂行させ、淮南の盗賊を督し、その党類を根こそぎに破った。
久しくして、詔により本鎮の兵千五百人を率いて京西の防秋に当たらせた。万福は揚州に詣でて率いていた兵を返還した。時に元甫が死に、諸将は万福を帥に得たいと願った。監軍使がこれを要請したが、答えて言った、「私は幸運な人間ではない。このような扱いはしないでほしい」と。遂に去った。利州刺史として咸陽を鎮守し、かつ宿衛に留まった。
李正己が反乱を起こし、埇橋に兵を駐屯させると、江淮の漕運船は千余隻も積み上げられて渦口を越えることができなかった。徳宗はそこで万福を濠州刺史に任じ、召して言った、「先帝が汝の名を正と改めたのは、褒めるためであった。朕は江淮の草木も汝の威名を知っていると思い、もし改めた名に従えば、賊がそなただと知らない恐れがある。」と。再び旧名を賜った。万福はそこで渦口へ馳せ至り、岸に馬を停めて漕船をことごとく発し、相連なって進ませた。賊兵は岸によりかかって熟視していたが、敢えて動かなかった。泗州刺史に転じた。魏州が飢饉となり、父子が互いに売り買いする事態となった。万福は言った、「魏州は我が郷里である。どうしてその困窮を忍ぼうか。」と。兄の子に米百車を率いさせてこれを送らせ、魏州人が自ら売られた者を贖い、資を与えて帰した。
杜亜に忌まれて、召されて右金吾将軍に任じられた。謁見した時、帝は驚いて言った、「杜亜はそなたが老耄していると言っていたが、どういうことか。」と。詔して凌煙閣に図形を描かせ、たびたび賜与し、併せて度支に命じて口数と家畜を籍に記してその費用を給させた。陽城らが延英門に詣でて裴延齢の事を論じ、閣下に伏して去らなかった。帝は激怒し、左右は測り難いことを恐れた。万福は大声で言った、「国に直臣あれば、天下は憂いなし。我は八十歳、この盛事を見ることができた。」と。遍く陽城らに揖して労い、天下はますますその名を重んじた。工部尚書をもって致仕し、卒した。九十歳であった。
万福は初めから終わりまで禄食を受けること七十年、一日も病を言わなかった。九州を歴任し、皆恵みと慈愛があった。初め、泗州におった時、李希烈の反乱に遭い、陳少遊は部内の刺史の妻子をことごとく揚州に人質としたが、万福だけは送らなかった。使者に謂って、「我がために公に申し上げよ。妻は老いてかつ鬼(醜い)であり、公の意を煩わすに足らぬ。」と。ついに行かず、人はその直を称えた。
高固
高固、何許の人か知れず。或いは言う、四世の祖の侃は、永徽年間に北庭安撫使となり、車鼻可汗を擒らえ、功により安東都護となったと。
固は微賤に生まれ、家に売られて、転じて渾瑊の童奴となり、字は黄芩といった。性質は敏捷で聡明、膂力があり、騎射を善くし、『左氏春秋』を読むことができた。瑊はこれを愛養し、斉に高固がいたことにより、これに因んで名付け、乳母の娘を固に娶せた。瑊に従って朔方に屯した。徳宗が奉天におられた時、固はなお瑊に従い、賊が東壅門に突入した。固は鋭士を率いて長刀を揮い賊数十人を斬り、車を引き寄せて門を塞いだので、賊は入ることができなかった。渤海郡王に封ぜられた。
李懐光が反乱を起こし、邠寧留後の張昕に兵一万を将いて先に河中へ向かわせた。固はその行中にあり、すなわち隙を窺って帳下に入り、張昕の首を斬って示し、検校右散騎常侍・前軍兵馬使に任じられた。貞元十七年、邠寧節度使楊朝晟が卒すると、詔して邠寧・朔方を併せて一軍とし、李朝寀を節度使とし、劉南金をその副とすべく議し、邠軍に諮問した。皆が言うには、「詔の如く。」と。数日後、また固を脅迫して帥としようとした。固は言った、「それならば我が言を聴くこと。そうすればよかろう。」と。衆は唯々と従った。固は衆に示して言った、「人を殺すな、掠奪をほしいままにするな。」と。三軍は皆従い喜んだ。帝もまた固の功を思い、すなわち邠寧節度使に任じた。固はもとより宿将であり、かつ寛厚であったので、人々は皆安んじた。しかし久しく散位に在り、たびたび同輩に軽んじ笑われた。命を受けると、衆は多く懼れたが、固は一たび釈して問わなかった。
憲宗の時、検校尚書右僕射となり、入朝して右羽林統軍となった。卒し、陜州大都督を贈られた。
郝玭
段佑が代わって節度使となると、玭はまた説いて言った、「天宝の時、天下は兵をもって防ぎとしたが、ただ西戎のみであった。そして塞から京師までおよそ万里。安禄山の反乱以来、西陲はことごとく失われ、寰内は辺郡と化しました。虜が入寇するたびに、井閭の父子と馬牛を駆り立て、積聚を焼き、室廬を破壊し、辺人は消耗し尽きました。今もし臨涇を築いて虜の勢いを折れば、甚だ便利です。」と。佑はただ許諾し、朝廷に請うた。ついに詔して臨涇に城を築き、行原州とし、玭を刺史としてこれを戍らせた。これより虜は臨涇を過ぎることを敢えなかった。
玭は辺境に三十年を積み、賊を討つたびに、糗糧を持たず、敵からこれを取った。虜を捕らえれば必ず刳剔してその屍を帰し、虜は大いに畏れ、その名を道いて児を怖がらせて泣かせた。検校左散騎常侍・涇原行営節度使に遷り、保定郡王に封ぜられた。贊普は常に自らの身をもって金像を鋳させ、国中に令して言った、「生ける玭を得たる者は、金の玭をもって償う。」と。朝廷は名将を失うことを畏れ、慶州刺史に転じさせ、卒した。
佑は、もと郭子儀の牙将であり、征伐に従って功があった。貞元末、涇原節度使となり、虜に畏憚された。終に右神策大将軍となった。
史敬奉という者は、霊州の人である。朔方軍に事えて牙将となった。元和年間、吐蕃がたびたび塞を犯した。十四年、敬奉は節度使杜叔良に白し、兵三千、一月分の糧を携え、深く虜地に入り、賊の勢いを分かつことを請うた。叔良は二千の兵を与えた。行くこと十余日、音信がなく、皆すでに死んだと思った。敬奉はすなわち間道より虜の後方に回り出て、部落は奔り駭き、これにより大いにこれを破り、その余衆を瓠蘆河に駆り立て、馬牛雑畜およそ万数に及ぶものを獲た。実封五十戸を賜った。
敬奉は醜陋で、衣を支えきれないほどに見えたが、その走りは奔馬を逐い、鞍と勒えを挟んで乗り上げ、しかる後に羈帯を付け、矛矢を手にすれば、前に強敵無し。甥・侄・部曲二百人、出るたびにその隊を四五に分け、水草に随い、数日互いに知らず、相い遇う時には、すでに皆獲るところがあった。鳳翔の将野詩良輔及び郝玭とともに皆名をもって辺境に雄たった。
良輔は、後に隴州刺史となった。朝廷が使者を吐蕃に遣わすと、虜(吐蕃)は言うのであった、「唐家が和好を称するのは、どうして虚妄であろうか!そうでなければ、どうして良輔を隴州刺史に任じることができようか」と。