新唐書

巻一百六十九 列傳第九十四 杜裴李韋

杜黄裳

杜黄裳、字は遵素、京兆府萬年県の人である。進士に及第し、また宏辞科に合格した。郭子儀が召し出して朔方節度使府の補佐とし、子儀が朝廷に入ると、留守の事務を主管させた。李懐光が監軍と共に陰謀を巡らせ詔を偽って大将らを誅殺し、以て衆心を動かし、子儀に代わらんとした。黄裳は詔を得て、その偽りなるを判じ、懐光に質すと、懐光は流汗して罪に服した。ここにおいて諸将の中であらく驕りて制し難き者、黄裳は皆子儀の命を以て更易し置く、衆敢えて乱れず。

侍御史として朝廷に入るが、裴延齢に憎まれ、十年遷官せず。貞元末、太子賓客に拝され、韋曲に居住した。時に宦官がその地を請いて公主に賜わらんと欲す、徳宗曰く「城南は杜氏の郷里なり、易うべからず」。太常卿に遷る。時に王叔文が権勢を振るうも、黄裳は嘗てその門を過ぐることなし。婿の韋執誼が政を輔けるや、黄裳は太子に国事を監せしむるよう勧めて請わしむ、執誼曰く「公は始めて一官を得たるのみ、にわかに禁中の事を議すとは」。黄裳怒りて曰く「吾は三朝の恩を受く、豈に一官を以て売られんや」。即ち衣を拂いて出でぬ。

皇太子が軍国事を総べし、黄裳を門下侍郎・同中書門下平章事に抜擢す。ここにおいて、夏綏銀節度使韓全義は憸佞にして功無く、その来朝に因み、罷むるを白す。しばらくして劉辟叛く、議者辟の険に恃むを以てし、これを討てば或いは事を生ずとす、唯だ黄裳固く赦さずと勧め、因りて中人をして監軍するを罷め、専ら高崇文に委ぬるを奏す。凡そ兵の進退、黄裳自ら中より指授す、機に切らざるは無し。崇文は素より劉澭を憚る、黄裳人をして謂わしめて曰く「公奮命せざれば、当に澭を以て代えん」。崇文懼れ、一死力を奮って賊を縛りて献ず。しょく平らぎ、群臣賀す、憲宗黄裳を目して曰く「是れ卿の功なり」。

初め、徳宗は多難を創艾いましめ、藩鎮を姑息するを務め、帥臣の死する毎に、中人を遣わしてその軍に伺わしめ、衆の立たんと欲する所の者を観しむ、故に大将は私に金幣を以て左右に結び、以て節度使を求め、晏年(晩年)は特に甚だしく、方鎮の選は朝廷より出でず。黄裳は毎に従容として具に言う「陛下は貞元の弊を鑑み、法度を整え、諸侯を晙損しゅんそんせば、則ち天下治まらん」。帝嘗て古の王者の治乱する所以を問う云々、黄裳は帝の治に鋭きを知り、その要を得ざるを恐れ、因りて推言す「王者の道は、己を修め賢を任ずるに在るのみ。綱領を操執し、大なる者を得るを要す、簿書獄訟に至りては、百吏の能ふる否やは、本より人主の自ら任ずる所に非ず。昔、秦始皇帝しこうてい自らはかり事を決す、前世に見嗤わる。魏明帝は尚書の事を按ぜんと欲す、陳矯従わず。隋文帝は日昃ひぐれに政を聴き、衛士に餐を伝えしむ、太宗これを笑う。故に王者は人を択びて任じて責成し、功を見れば必ず賞し、罪有ればまことに罰す、孰か敢えて力を尽くさざらん。孔子の帝舜を称えて恭己南面すとは、その能く十六相を挙げ、四凶を去り、而して無為に至るを以てす。豈に必ずしも神をり体を疲れ、耳目の察に労し、然る後に治と為さんや」。帝は黄裳の言忠なるを以てし、嘉納す。ここによりて夏を平らげ、斉をり、蔡を滅ぼし、両河を復し、機柄を宰相に還し、紀律設け張り、赫然として中興と号す、黄裳よりこれを啓く。

元和二年、検校司空しくう同中書門下平章事を以て、河中・晋絳節度使と為り、俄かに邠国公に封ぜらる。明年卒す、年七十、司徒しとを贈られ、謚して宣献と曰う。

黄裳は権変に達し、王佐の大略有り。性雅淡にして、未だ嘗て物にさからわず。初め執誼に礼せられざるも、その敗るるに及び、悉く力を営救す。既に死して後、表してその柩を還して葬らしむ。嘗て疾に被る、医者誤って薬を進む、疾遂に甚だしくなるも、終に怒りめず。然れども吏を除くに甚だ流品を別たず、饋謝を通じ、潔白の名無し。大政に当る未だ久しからざるも、その才を究めず、外に処するに及び、天下常に属意す。卒後数年、御史劾奏して黄裳が邠寧節度使高崇文の銭四万五千緡を納るるを挙ぐ、故吏の吳憑及び黄裳の子載を按ずるに、辞服す。帝旧功を念い、但だ憑を昭州に流し、載をゆるして問わず。載は終に太僕少卿。

載の弟勝、字は斌卿、宝暦初め進士に及第す。楊嗣復数え薦めて材諫官に堪うとす、鄭覃にたすけられず。宣宗は章武(憲宗)の旧事に感き、元和時の大臣の子若しくは孫の在る者、多く振り抜く。帝嘗て勝に問う、勝具に黄裳が首めて憲宗の監国の議を建つるを道う、帝嘉嘆し、給事中に拝し、戸部侍郎判度支に遷し、宰相に倚らんと欲す。及んで蕭鄴罷むるや、中人に沮毀せられ、而して更に蔣伸を用い、勝を以て検校礼部尚書とし、出でて天平節度使と為る、意を得ず、卒す。

裴垍

裴垍、字は弘中、絳州聞喜県の人である。進士に及第し、賢良方正科の対策第一を以て美原尉に補せらる。藩府交えてすも、就かず。四遷して考功員外郎。吏部侍郎鄭珣瑜、垍に辞判を校せしむ、研核精密にして、皆才実にたる。憲宗元和初め、召し入れて翰林学士と為し、再遷して中書舎人。李吉甫始めて執政す、情を以て垍に謂いて曰く「吾落魄して遠裔に在り、更に十年、始めて天子にたすく、比日の人物、吾懵として知るに及ばず。且つ宰相の職は賢を進め能を任ずるに当たる、君精鑒す、我が為にこれを言え」。垍即ち崖略あらまし三十人許りを疏し、吉甫籍りて以て朝廷に薦む、天下翕然として人を得たりと称す。皇甫湜・牛僧孺等の対策の是に非ざるを覆視するに坐し、学士を罷め、戸部侍郎と為る。帝は垍の方直を器とし、公卿に任ずべしと為し、その過を薄くし、眷信弥いよいよ厚し。吉甫罷むるや、乃ち垍を中書侍郎・同中書門下平章事に拝す。集賢殿大学士を加え、国史を監修せしむ。

垍始めて翰林に旨を承く、天子新たに蜀の乱を翦り、精を厲して治を致し、中外の機筦きかん、垍多く参与し、小心慎默を以て帝の意に称す。既に国に当り、不軌をただし、吏治を課し、淑慝を分明にするを請う、帝意を降して順納す。吐突承璀は東宮より侍を得、恩顧親渥なり、間を承けて説き関らんと欲す、帝は垍を憚り、誡めて言わしむる勿れとす。帝殿中に在りては、常に垍の官を呼んで名を呼ばず。嶺南節度使楊於陵が監軍許遂振に誣えらる、詔して冗官を授く。垍曰く「一中人を以て藩臣を罪す、陛下の法安くにか在る」。更に美官を授く。厳綬は太原を守るも、政は一に監軍李輔光に出ず、垍そのなるを劾し、李鄘を以てこれに代う。

王承宗が節度使の地位をほしいままに襲ったとき、帝はたびたび叛族を削ごうとし、必ずこれを取るつもりであった。また吐突承璀は常に垍の権力をくじかんと欲し、帝の意を探って自ら往くことを請うた。時に澤潞の盧從史はいつわって征討の計を献じたが、垍は固く争い、以て「從史は逆節を包み、内には承宗と連なり、外には師を興すことを請うて、身の利を図らんとす。かつ武俊は国に功あり、陛下前に地を李師道に授けたまいしに、今承宗の地を奪わんとす。賞罰一ならず、沮勸そけん廃れん」とす。帝は猗違ためらいて決することができず、久しくしてついに承璀の謀を用いた。兵を会して承宗を討つに、從史は果たして反覆し、兵は久しくさらされて功なく、王師はつかれき。既にして從史が部将王翊元を遣わして事を奏するに及び、垍は従容として語を以てこれを動かすと、翊元は因りて從史の悪稔あくじゅくして図るべき状を言う。垍はしばしばこれを遣わして往かしめ、その大将烏重胤等の要領を得たり。垍は乃ち帝に陳べて「從史は暴戾にして君たらず、承璀を小児のごとく視、神策軍に往来して甚だ戒めず。その機に因りてこれを致すべく、後に師を興す労なし」とす。帝は初め瞿然きょぜんとし、おもむろに乃ちこれを許した。垍はその計を秘すことを請うと、帝曰く「惟だ李絳・梁守謙これを知る」と。俄くして承璀、從史を縛って朝に献じ、因りて師をかえす。垍は奏して「承璀は首謀にして功なく、陛下法をくつがえすと雖も、人心厭わず。流斥して天下に謝すことを請う」とす。乃ち領する兵を罷めしむ。

先に、天下の賦法に三あり。曰く上供、曰く送使、曰く留州。建中初め、常賦を厘定りていす。而して物重く銭軽し。その後軽重相反し、民の輸するりつ初めの一倍、而して所在留州・送使の入るを以て、公估こうこを捨て、更に私直をして以て自らうるおす。故に賦益々きびしく、斉民重く困す。垍これを禁ずるを奏し、一に公估を以て物にじゅんず。観察使は治むる所の州の租調を用うるを得、至りて足らざれば、乃ち支郡を取って以てす。故に送使の財悉く上供と為る。是より淮・江より南をこし、民少しくやすらぐ。

垍は器局峻整しゅんせいにして、法度を持し、宿貴前望の造詣すと雖も、敢えて私を以てかんせず。諫官の得失を言うに、大抵執政多くこれを忌む。惟だ垍は奨励して言を尽くさしむ。初め、拾遺独狐郁・李正辞・厳休復の三人皆遷す。及び垍におとずれて謝するに、垍は独り休復を譲りて曰く「君は二人の孜孜ししとして献納する者に異なり。前日進擬しんぎするに、上固より疑わしむ」と。休復大いにず。垍が学士たりし時、李絳・崔群を引いて同列とす。及び相たり、又韋貫之・裴度をえらびて知制誥とし、李夷簡を御史中丞とす。皆踵躡しょうじょうして輔相と為り、名臣と号す。他の選任より、精明ならざるはなく、人異言なし。士大夫、垍の年少にして柄用するを以て嫌とせず。故に元和の治、百度修挙し、朝に幸人無きを称す。

五年、暴に風痹ふうひす。帝悵惜ちょうせきし、使を遣わして問い致し、薬膳進退すなわち疏を以て聞かしむ。三月をきょす。益々す。乃ち罷めて兵部尚書と為す。垍の進むや、李吉甫薦めて頗る力あり。及びちゅうに居るや、多く吉甫の時の約束を変更す。吉甫復用せられ、これをふくむ。たまたま垍、史官蔣武等と『徳宗実録』を上す。吉甫、垍が疾を引いて史任を解くを以て、冒して奏すべからずとし、乃ち垍を太子賓客にうつし、武等の史官を罷む。会卒す。ぞうを加えず。給事中劉伯芻その忠を表す。帝乃ち太子太傅を贈る。

垍始めて相たり、建言す。「集賢院の官、朝に登るはり五品上を学士と為し、下を直学士と為し、余は皆校理とす。史館は朝に登る者を以て修撰と為し、いなば直史館と為し、以て『六典』に準ぜよ」と。遂に令にあらわす。

京兆少尹裴武、王承宗に使いして還り、徳・棣二州を得たり。すでにして地入らず。或る人言う「武還りて、先ず垍に見え、明日乃ち朝す」と。帝怒り、学士李絳を召して武を斥くを議す。絳言う「垍身備そなえて宰相、時事に明練、勢い先ず武に見ゆるを容れず」と。帝悟り、これをゆるす。議者謂う、帝の垍の明を知り、倚任方まさあつきに、なお疑嫌を免れず。以て信を処位するの難きを謂うと。

李藩

李藩、字は叔翰、その先は趙州の人。父承仕、湖南観察使と為り、時に名有り。藩少しく沈靖ちんせいにして検局けんきょく有り、姿制閑美かんびにして学にびんなり。父の喪に居す。家本もと財にゆたかなり。姻属来り吊うに、持去る者有りと雖も、未だ嘗て問わず。益々施与に務め、数年を居てほぼ尽きたり。年四十余、広陵の間に困し、自らふるわず。妻子追咎ついきゅうすと雖も、藩晏如あんじょたり。杜亞東都に居守きょしゅし、表して府中に致す。亞嘗かつて牙将令狐運を盗と疑い、りゃくして服せしむ。藩争いて従わず、すなわち去る。後果たして真盗をたり。ようやく知名と為る。

徐州の張建封、節度府に辟す。未だ嘗て苛細を察せず。建封卒す。濠州刺史杜兼疾駆して至り、陰かに顗望ぎぼう有り。藩泣いて謂いて曰く「公今喪す。君宜しく謹んで土を守るべし。何ぞ棄てて来る。宜しく速やかに還るべし。然らずんば法を以て君をあげつらわん」と。兼錯忤さくごして去り、これを恨み、因りて誣奏して「建封死し、藩その軍をうごかし、非望有り」とす。徳宗怒り、密詔して徐泗節度使杜佑にこれを殺さしむ。佑雅つねに藩を器とす。詔を得て十日発せず。藩を召見して曰く「世、生死報応を謂う。しるしなるか」と。藩曰く「ほとんど然り」と。曰く「つまびらかに此のごとくば、君宜しく事に遇いて恐るる無かれ」と。因りて詔を出して藩に示す。藩色変ぜず、曰く「信なるかな、杜兼の報いなるか」と。佑曰く「慎んで畏るるかれ。吾が闔門を以て君を保たん」と。帝未だこれを信ぜず、しきりに藩を追う。既に入る。帝その状貌を望みて曰く「是れに乱を作す人ならんや」と。これを釈し、秘書郎に拝す。

時に王紹君を得、藩をもとめて相見えんとす。当に即時に用いらるべしと雖も、終にいたらず。王仲舒、同舎郎韋成季・呂洞と日を置きて酒を置き賓客を邀えて相楽しまんとし、藩の名を慕い、強いてこれを致す。仲舒等俳説庾語はいせつゆごを為して相狎昵きょうあつじつす。藩一見し、謝して往かず、曰く「吾が終日与ともにすと雖も、語る所何のいいなるかをさとらず」と。後仲舒等果たして坐して斥廢せらる。憲宗皇太子と為る。王紹太子の諱を避け、始めて名を改む。時に議して以てへつらいと為す。藩曰く「古より故事は、体を識らざるの人に由りてこれを敗り、復た正すべからず。紹と雖も何ぞとがめん」と。しばしば擢ばれて吏部郎中と為る。小累しょうるいに坐し、左授さじゅされて著作郎と為り、再びうつりて給事中と為る。制に不便有れば、いて敕尾ちょくびしてこれをしりぞく。吏驚き、請うて他の紙をつらぬるを。藩曰く「紙を聯ぬるは是れじょうなり。豈に敕と曰わんや」と。裴垍憲宗に白して、藩に宰相の器有りと謂う。会鄭絪罷む。因りて門下侍郎・同中書門下平章事に拝す。

藩忠謹にして、好醜必ず言う。帝以て隠す無しと為す。嘗て前世の家給かきゅうする所以ゆえん或いは国匱乏する者、何を致して然るか及び祈禳きじょうの数を問う。藩具つぶさに対えて「儉なれば則ち用足り、本をあつくすれば則ち百姓富む。これに反すれば則ち匱す」と。又言う「孔子病み、子路のいのりを止む。漢文帝毎に祭り、有司に敕して敬して祈らざらしむ。神無知ならしめば、則ち福を降す能わず。有知ならば、固より私己しこ求めてびてこれを悦ばしむべからず。且つ義は人に於いて和するは神に於いて和す。人乃ち神の主なり。人安んじて福至る」と。帝悦びて曰く「当に公等と上下相勖つとめて、以てこの言を保たん」と。後復た神仙長年の事を問う。藩、帝将まさに惑わさるる所有らんことを知り、極陳して荒妄謾誕こうもうまんたん信ずべからざるをす。後柳泌等の語に入り、果たして累いと為るという

河東節度使王鍔が権勢に近い者に賄賂を贈り宰相を兼ねることを求め、密かに中書門下に詔して曰く、「鍔は宰相を兼ねるべし」と。李藩は直ちに筆を取って「宰相」の二字を消し、その左に署して曰く、「不可」と。還してこれを奏す。宰相権徳輿は色を失って曰く、「不可ならば、別に奏すべきなり、筆をもって詔を塗るべけんや」と。藩曰く、「勢い迫れり、今日を出でては便ち止むべからず」と。既にして事やむを得て止む。

李吉甫が再び宰相となるや、藩は大いに沮み止めたり。時に呉少陽が淮西節度を襲うに及び、吉甫は既に帝に謁し、密かに藩を中傷せんと欲し、即ち奏して曰く、「道にて中人に逢い印節を仮して呉少陽に与う、臣陛下の為にこれを恨む」と。帝色を変えて平らかならず。翌日、藩を罷めて太子詹事と為す。後数月、帝復た藩を思い、殿中に召して対せしむるに、事次第に解く。明年、華州刺史と為る。未だ行かずして卒す、年五十八、戸部尚書を贈られ、謚して貞簡と曰う。

藩の才能は韋貫之・裴垍に及ばざるも、然れども人物清整にして、是れ其の流亜なりと云う。

韋貫之

韋貫之、名は純、憲宗の諱を避け、字をもって行わる。後周の柱国韋敻の八世の孫。父は肇、大暦中に中書舎人と為り、累疏を上つて得失を言い、元載に悪まれる所となり、左遷されて京兆少尹と為る。久しくして、秘書少監に改む。載曰く、「肇若し我を過ぐれば、善き地を択びて之を処せん」と。終に詣らざりき。載誅され、吏部侍郎を除く。代宗之を相にせんと欲す、会に卒す、謚して貞と曰う。

貫之進士第に及第し、校書郎と為り、賢良方正異等に擢でられ、伊闕・渭南尉を補す。河中の鄭元・沢潞の郗士美厚幣を以て召すも、皆応ぜず。貧に居り、豆糜を啖いて自ら給す。再遷して長安ちょうあん丞と為る。或る者之を京兆尹李実に薦む、実笏を挙げて記す所を示して曰く、「此れ其の姓名なり、我と同じ里、素より其の賢を聞く、之を識りて上に進めんことを願う」と。或る者喜び、以て告げて曰く、「子今日実に詣れば、而して明日賀する者至らん」と。貫之唯唯すれども、往かず、官も亦遷らず。

永貞の時、始めて監察御史と為り、其の弟纁を挙げて自らに代う。右補闕と為るに及び、纁代わって御史と為る、議する者之を私と謂わず。宰相杜佑の子従郁補闕と為る、貫之と崔群持して不可とし、左拾遺に換う、復た奏す、「拾遺・補闕は諫官等たり、宰相の政に得失有らば、従郁をして議せしむるは、是れ子にして父を議するなり、殆ど訓うべからず」と。遂に他の官に改む。礼部員外郎に遷る。新羅の人金忠義工巧を以て幸い、少府監に擢でられ、子を蔭して斎郎を補す、貫之与えず、曰く、「是れ将に郊廟祠祭を奉じ、階を守宰と為さんとする者なり、安んぞ賤工の子を以て之を為すべけんや」と。又た忠義の朝籍を汚すに宜しからざるを劾す、忠義竟に罷む。是に於て権幸側目す。

吏部員外郎に進み、賢良方正牛僧孺等の策を考ふるに坐し、独り署して奏するを以て、出でて果州刺史と為り、半道にして巴州に貶せらる。久しくして、都官郎中に召され、制誥を知り、中書舎人に進む。宰相裴垍嘗て三たび事を奏すれども、憲宗従わず。貫之曰く、「公も亦た進退を以て決して請うか」と。垍曰く、「教えを奉ず」と。事果たして聴かる。垍因りて曰く、「君異時に当に此れに位せん」と。礼部侍郎に改む。取る所の士は、浮華を抑え、先ず行実を重んじ、時に流れ競うこと息む。嘗て従容として奏して曰く、「礼部侍郎は宰相より重し」と。帝曰く、「侍郎は宰相の除く所なり、安んぞ重からん」と。曰く、「然りと雖も陛下の為に宰相を柬ぶる者、重きこと無からんや」と。帝其の言を美とす。尚書右丞に改め、俄に同中書門下平章事と為る。中書侍郎に遷る。

呉元済を討つに当たり、貫之は鎮州を釈き、専ら力を淮西にすべしと請い、且つ言う、「陛下豈に建中の事を知らざらんや。始めは蔡急にして魏応ず、斉・趙同じく起り、徳宗天下の兵を引いて之を誅す、物力殫屈す、故に朱泚乗じて以て乱を為す。此れ他に非ず、撲滅に速きなり。今陛下独り少しく忍び、蔡平ぐるを俟ちて鎮を誅する能わざるか」と。時に帝既に鎮を討つを業とし、従わず。終に之を、蔡平ぎ、鎮乃ち服す。初め、蔡を討つに、宣武韓弘を以て都統と為し、又た詔して河陽烏重胤・忠武李光顔兵を合して以て進ましむ。貫之諸将の戦い方に力を尽くすを諫め、今若し都統を置き、又た二帥に連営せしむれば、則ち各々持重して威を養い、未だ歳月を以て下すべからずと。亦た従わず。後四年にして乃ち蔡を克つ、皆貫之の策の如しと云う。

帝段文昌・張仲素を以て翰林学士と為す。貫之謂う、学士の以て顧問に備うる所以は、専ら辞芸を取るに宜しからずと、奏して之を罷む。皇甫鎛・張宿皆幸を以て進む。宿淄青に使わさる、裴度銀緋を請わんと欲す、貫之曰く、「宿は奸佞なり、吾等縦え斥くること能わずと雖も、奈何ぞ寵を以て仮せんと欲するか」と。是れ由りて宿等怨み、陰に之を構う、又た度と兵を論ずるに帝の前にて、議頗る駁なり、故に罷めて吏部侍郎と為す。是に於て翰林学士・左拾遺郭求上疏して理を申す、詔して求の学士を免じ、貫之を出して湖南観察使と為す。三日ならずして、韋顗・李正辞・薛公幹・李宣・韋処厚・崔韶貫之と厚く善しきに坐し、悉く州刺史に貶せらる。顗・正辞・処厚皆清正なり、鉤党を以て去る、是れ由りて中外始めて大いに宿を悪む。

時に国用足らず、塩鉄副使程異を遣わして諸道の賦租を督めしむ、異州県を諷して厚く斂めて以て献ぜしむ。貫之横賦を忍びず、而して献ずる所異の意に中らず、因りて属内六州の留錢を取って以て之に継ぐ。左遷されて太子詹事と為り、分司東都す。穆宗立ち、即ち河南尹を拝し、工部尚書を以て召さる。未だ行かずして卒す、年六十二、尚書右僕射を贈られ、謚して貞と曰い、後更に謚して文と曰う。

貫之沈厚寡言、人と交わるに、終歳款曲無く、偽りの辞を為して以て人に悦ばず。右丞と為りし時、内僧門を造りて曰く、「君且く相たらん」と。貫之左右を命じて引出さしめ、曰く、「此れ妄人なり」と。輔相に居り、身を厳しくして下を律し、正議を以て物を裁ち、室居するに改易する所無し。裴均の子万縑を持ちて先銘を撰ぜんことを請う、答えて曰く、「吾寧ろ餓死すとも、豈に是れを為さんや」と。生平未だ嘗て饋遺を通ぜず、故に家に羨財無し。

子は澳、字は子裴、進士に第し、復た宏辞に擢でらる。方に静かにして寡欲、十年調ぜられんことを肯わず。御史中丞高元裕其の兄の温と善し、之を用いんと欲して薦め、澳を諷して己に謁せしめんとす。温帰りて以て告ぐ、澳答えず。温曰く、「元裕は端士なり、若し之を軽んずるか」と。澳曰く、「然り、恐らくは身を呈する御史無からん」と。

周墀鄭滑を節度し、表して幕府に署す。会に墀入相す、私に謂いて曰く、「何を以てか我を教うる」と。澳曰く、「願わくは公権無からんことを」と。墀愕眙す、澳曰く、「爵賞刑罰は、人主の柄なり、公喜怒を以て之を行い、庶官をして各々其の職を挙げしむること無からしめよ、則ち公衽を廟堂上に斂め、天下治まらん。何ぞ権を用いん」と。墀嘆じて曰く、「吾先ず此れに居る、愧ること無からんや」と。

考功員外郎・史館修撰に抜擢された。その年のうちに知制誥を兼ね、翰林學士として召された。累進して兵部侍郎となり、學士承旨に進んだ。蕭寘と共に宣宗の礼遇を受け、二人が宿直する度に必ず共に召されて政事の得失を問われた。嘗て夜に詔書起草を命ぜられ、事柄に不安があると、すぐに遅延して帝に拝謁を求め、可否を開陳し、帝は常にこれを順納した。ある日召されて入ると、帝は左右を退けて問うた、「朕は敕使(宦官)を如何に扱っているか」。韋澳は帝の威制が前世に比類なきことを述べた。帝は首を振り、「未だならず。策は如何にすべきか」。韋澳は慌てて答えて曰く、「もし外廷(朝臣)に謀るならば、太和の事(太和九年の甘露の変)が追鑒と為り得ます。不如、適任者を選んでこれと事を計るに如かず」。帝曰く、「朕は固より之を行っている。黄から緑、緑から緋までは猶可なり、紫衣を着れば即ち一つに合するなり」。韋澳は汗を愧じて答える能わず、乃ち罷めさせられた。京兆尹に改めた。

帝の舅鄭光の別荘の吏が豪横放縦で、積年の官賦を納めず、韋澳はこれを逮捕拘束した。他日延英殿で、帝はその故を問うた。韋澳は詳しく奸状を述べ、且つ必ず法に処すべきことを言上した。帝曰く、「赦免することは可か」。答えて曰く、「陛下が内署より臣を抜擢して京邑の尹と為されたのに、安んぞ画一の法を貧しい下民にのみ行わせることを得ましょうか」。帝は内に入って太后に白して曰く、「是は犯すべからず」。後に租を納めさせ、乃ち免じた。ここにより豪右は行跡を斂めた。

時に戸部に判使が欠員し、帝は韋澳にこれを問うたが、韋澳は三度答えなかった。帝曰く、「卿に任せるは可か」。曰く、「臣は老い、力疲れ気耗え、煩劇は臣の任と為す所に非ず」。帝は黙然として楽しからず。出てその甥柳玼に謂いて曰く、「吾は元より宰相に知られず、上は便ち使務を委ねんとす。もし吾が他岐(他の手段)にて得たと謂わば、遂に自ら白する所無からん。今時事は漸く悪しくなり、皆吾輩が爵位を貪ったことに致るなり」。未だ幾ばくもなく、河陽節度使を授けられた。入朝して辞すに、帝曰く、「卿自ら便りとして我を遠ざく、我が卿を去るに非ず」。

懿宗が立つと、平盧軍に移り、入朝して吏部侍郎と為り、再び出て邠寧節度使と為った。宰相杜審権は素より韋澳を悦ばず、吏部在任時に史が簿書を盗んで奸を為したことに坐し、秘書監に貶され、東都に分司した。就いて河南尹に遷ったが、疾を辞して拝せず、樊川に帰ることを乞うた。一年余りを経て、吏部侍郎として召されたが、起たなかった。卒し、戸部尚書を贈られ、謚して貞と曰う。

韋澳が河陽に累年在った時、宣宗は使者を魏博に遣わし、その道が韋澳の所を過ぎた。帝は薄紙に手ずから詔を作り韋澳に賜って曰く、「密かに装いを整えよ、秋には当に卿を見ん」。蓋し将に相と為さんとしたのである。因りて輔養の術を問うと、韋澳は詳しく金石(仙薬)は用いるべからず、方士の怪妄は宜しく斥けて遠ざくべしと述べた。その八月、帝崩じ、遂に相とはならなかった。學士であった時、帝嘗て曰く、「朕が方鎮刺史を遣わす毎に、各州郡の風俗を悉く知らしめんと欲する、卿朕が為に一書を撰べ」。韋澳は乃ち十道四方誌を取り、手ずから校訂を加え、題して《処分語》と為した。後に鄧州刺史薛弘宗が中謝した時、帝は州事を戒勅したが、人々驚き服した。

韋綬は、韋貫之の兄である。孝廉に挙げられ、また進士に貢された。礼部侍郎潘炎が之を挙首(状元)と為さんとしたが、韋綬はその友楊凝の親が老いていることを以て、故にこれを譲り、対策せずして即ち去り、楊凝は遂に及第した。後に明経に擢でられ、東都幕府に辟召された。

徳宗の時、左補闕を以て翰林學士と為り、密政に多く参与した。帝嘗てその院に幸し、韋妃が従った。時に韋綬は方に寝ていた。學士鄭絪が馳せて告げんとしたが、帝は許さず、時大寒く、妃の蜀𥜝袍を以て覆って去った。その待遇此の若し。毎に入直すると、一月を逾えても休めず。母老いたるを以て、屡々解職を乞うたが、請う毎に帝は常に悦ばず。出入八年、而して性謹畏甚だしかり。晩年に至って心疾を感じ、罷めて邸に還り、極用に至らなかった。九月九日、帝が《黄菊歌》を作り、左右を顧みて曰く、「安んぞ韋綬に示さざるべけんや」。即ち使者を持って往かしめ、韋綬は遽かに奉和し、使者に附けて進めた。帝曰く、「文を為すこと已まず、豈に頤養たるべけんや」。勅して自今より復た爾る勿れと。左散騎常侍さんきじょうじに終わる。

弟の韋纁は、精識有り、士林に器許され、兄弟皆名を当時に重くした。

韋綬の子韋溫。韋溫、字は弘育。方に七歳、日に書数千言を誦す。十一歳、両経に挙げられて及第し、抜萃高等を以て咸陽尉に補せられた。父愕然とし、権勢を仮りて謁進したるかと疑い、召して廷に試みるに、文成りて留まる意無く、喜んで曰く、「児愧ずること無し」。入朝して監察御史と為るが、臺制苛厳にして省養(親の養い)に適せずと、拝せず。著作郎に換えられ、謝したる後、即ち解職して帰った。親の疾に侍し、湯剤を調適すること二十年に弥り、衣帯を弛めず。既に喪に居り、毀瘠して支えられず。服除け、李逢吉が宣武府に辟置した。頻りに遷って右補闕と為る。宰相宋申錫が誣構せられ、罪測るべからず。韋温倡えて曰く、「丞相は操履初め有り、反すに宜しからず、乃ち奸人の之を陥れたるなり。吾等豈に雷霆を避け、上をして霧咎を蒙らしめんや」。同舎の者を率いて閣に伏し切に爭い、ここにより益々知名と為る。

太和五年、太廟の室に漏罅有り、詔して宗正・将作に営治せしむるも、時に及ばずして畢らず。文宗怒り、卿李鋭・監王堪を責め、その俸禄を奪い、自ら勅して中人にこれを葺かしめた。韋温諫めて曰く、「吏その職を挙ぐれば、国以て治まる。事正に帰すれば、法以て修まる。夫れ制度を設け、官司を立て、経費を度るは、則ち宗廟最も重し。比来詔下ること一月を閲すも、有司弛墯して力めず。正に慢官を黜し、不恪を懲らしめ、任に可なる者を選んでこれを繕完すべし。則ち吏職を挙げ、事正に帰す。今慢吏の俸禄を奪い、而して易えるに中人を以てす。是れ百司の公に職を廢するを許し、宗廟の重きを以て、陛下の私と為すなり。臣窃に之を惜しむ。将作に還すことを請う、則ち官業を修む」。帝は乃ち宦人を罷めしめた。時に群臣尊号を上ることを請う。韋温固く諫めて曰く、「今河南に水有り、江淮旱魃凶作、京師雪積ること五尺、老稚凍え仆る。此れ虚名を崇飾する時に非ず」。帝順納し、乃ち群臣に謝した。侍御史に改む。

李徳裕が入朝して輔政すると、礼部員外郎に擢でられた。或る者言う、雅(素より)牛僧孺に厚しと。李徳裕曰く、「是の子堅正なり、私を以て廢すべけんや」。鄭註が鳳翔節度使となり、副使に表薦した。韋温曰く、「拒めば遠く黜けられ、従えば禍測るべからず。吾焉んぞ能く鄭註の為に起たんや」。鄭註誅せられ、考功員外郎より諫議大夫に拝せられた。未だ幾ばくもなく、翰林學士と為る。先に、韋綬が禁廷に在りて、憂畏を積み病み廢した故、韋温に近職に任ぜざることを誡めた。此に至り固く辞す。帝怒りて曰く、「寧ろ韋綬の治命(正気の時の遺言)か」。礼部侍郎崔蠡曰く、「韋温乱命(狂乱の時の遺言)を用うるは、益々以て孝と為す所以なり」。帝の意解け、知制誥に換える。疾を引いて太常少卿に徙る。宰相李固言が韋温を給事中に薦む。帝曰く、「韋温素より事を避く、肯んで我が為に論駁せんや。太子の長ずるを須ち、以て賓客と為すべし」。久しくして、卒に給事中と為る。

初め、兼ねて莊恪太子の侍讀を務め、朝早く宮に詣で、日中に太子に謁し、諫めて曰く、「殿下は盛年なり、宜しく雞鳴早く起き、天子に安否を問い、文王の故事の如くすべし」と。太子は悦ばず。侍讀を辞し、聴かれた。王晏平が靈武節度使を罷められ、馬及び鎧仗を自ら随え、康州司戶參軍に貶せられ、貴近に厚く賂り、十日にして、撫州司馬に改められ、樂工の尉遲璋が光州長史を授けられしを、溫は悉く詔書を封じて上奏した。太子が罪を得し時、詔して群臣に諭すに、溫曰く、「陛下の訓ふること早からず、獨り太子の罪に非ず」と。時に其の言を直とする者頗る多し。尚書右丞に遷る。鹽鐵推官の姚勖が大獄を按ずるに、帝能ありと為し、職方員外郎に擢でられ、省に趨かんとするを、溫は戸をして止めしめ、即ち上言して曰く、「郎官は清選なり、能吏を賞すべからず」と。帝は中人をして諭し送らしむるも、溫は議を執して移らず、詔して勖を改めて檢校禮部郎中と為す。帝、故を楊嗣復に問ふに、對へて曰く、「勖は名臣の後なり、治行に疵なし。若し吏の材幹ある者をして清選に入らしめざれば、佗日誰か肯て劇事を當らん。此れ衰晉の風なり、以て法とすべからず」と。帝は素より溫を重んずるも、出でて陝虢觀察使と為す。民、租を輸すべきに麥未だ熟せず、吏白して之を督むるに、溫曰く、「民をして田中の穗を貨して以て賦に供へしむるは、可ならんや」と。期を緩めて而して賦辦せしむ。

武宗立つ、吏部侍郎に擢でらる。李德裕、同しく輔政に引かんと欲すれども、溫は苦言して李漢を釋すべしとし、德裕悵然たり、出でて宣歙觀察使と為る。池の民、刺史を訟ふ、劾するに狀無し、榜して之を殺す、威部中に行はる。既に疾あり、親屬を召し、綬の詩「在室に愧づ屋漏に」を賦し、因りて泣下して曰く、「今、身を沒して斯の誡に負かざるを知る」と。卒す、年五十八、工部尚書を贈られ、謚して孝と曰ふ。

溫の性剛峻、人望見して敢へて戲慢する者無し。楊嗣復・李玨と善し、嘗て李德裕と故憾を平らぐるを勧む、二人從はず、及び皆謫せらるるに及び、溫嘆じて曰く、「吾が言を用ひば、孰か是に至らんや」と。一女あり、薛蒙に歸す。女工文に屬し、曹大家の『女訓』を續ぐ、世に行はる。溫は少く合ふ所あり、善くする所は唯だ蕭祐のみ。

祐は、字は祐之、夷淡の君子なり。少く貧窶、隱居し、孝養を以て聞こゆ。司農卿の李實、官租を督む、祐は喪に居り、未だ輸せず、召し至り、將に之を責めんとす。會ひて賜與有り、祐に倩ひて奏せしむ、實稱善し、即ち朝に薦む。制終り、處士を以て左拾遺に拜す。累遷して諫議大夫、終に桂州觀察使、右散騎常侍を贈らる。畫及び書に精しく、鐘・王・蕭・張以來、皆能く其の真を識る。謷然として塵事を以て自ら蒙せず、故に溫は號して「山林の友」と云ふ。

贊して曰く、杜黃裳は謀を善くし、裴垍は法を能く持ち、李藩は鯁挺、韋貫之は忠實、皆足りて天縡を穆くし、國體を經め、衰を撥て王を奮はしめ、四方を菑攘す。憲宗の中興、寧ろ人を得て然らしむるに非ずやと謂はざらんや。昔、子貢は孔堂の高第にして貨殖し、韓安國は漢の名宰にして資貪り、黃裳も亦た餉を受くるを以て疵見らる。至りて忠烈の峣然たるは、則ち掩ふ可からざるのみ。