韋執誼
韋執誼は京兆の旧族である。幼くして才あり。進士に及第し、対策は異等、右拾遺に授けられる。冠を過ぎる年齢にて、翰林に入り学士となり、便敏にして側媚、徳宗の寵幸を得る。詩歌の属和に預からしめ、詔を被りて旨に称す。裴延齢・韋渠牟等と寵は相埒し、出入りして顧問に備わる。帝の誕生日に、皇太子が浮屠の画象を献ずるや、帝は執誼にこれを賛せしめ、太子は帛を賜う。詔して執誼をして東宮に詣でて謝せしむ。太子は卒然に見て言を藉る所なき者あり、乃ち曰く「君は王叔文を知るか。美才なり」と。執誼はここより叔文と善し。母喪により解く。喪終わりて、吏部郎中となり、数たび禁中に召し至らしむ。補闕張正一が上書により召見されしとき、その善しとする所の王仲舒・韋成季・劉伯芻・裴愬・常仲孺・呂洞、これに往きて賀す。或る者執誼に謂いて曰く「彼ら将に君と叔文の鉤党の事を論ぜんとす」と。執誼は即ち成季等の朋比し、窺望する所有るを白す。帝は金吾に伺わしめ、相過ぎて食飲する状を得、悉くこれを逐い出だす。
順宗立ちて、疾を以て政に親しまず、叔文事を用うるや、乃ち執誼を擢て尚書左丞・同中書門下平章事とす。叔文と王伾は中に居て命を窃み、執誼に拠りて奉行せしめ、因りて朝権を迷奪せんと欲す。執誼既に引かれる所と為るも、然れども外は公議に迫られ、天下に党与に非ざるを示さんと欲し、乃ち時時異論を以て可否相い、密かに叔文に謝して曰く「敢えて約に負かず、共に国家の事を済さんと欲するのみ」と。叔文数たびその梗まれる所と為り、遂に詬怒し、反って仇怨を成す。憲宗内禅を受くるに及び、叔文・伾を流し、支党を分北し、執誼を貶して崖州司戸参軍とす。帝は宰相杜黄裳の婿なるを以て、故に最後に貶す。
執誼は既に形勢を失い、禍将に及ばんとするを知り、尚在位するも、事に臨みて奄奄として気無く、人の足音を聞けば輒ち悸動し、敗るるに至る。始め未だ顕れざる時、嶺南の州県を言うを喜ばず。既に郎と為りて、嘗て職方に詣でて図を観るに、嶺南に至れば輒ち目を瞑い、左右に命じて徹去せしむ。相と為りてより、坐する堂に図有り、就いて省みず。既に旬を易え、試みにこれを観れば、崖州の図なり。不祥と以為い、これを悪む。果たして貶死す。
王叔文
王叔文は越州山陰の人なり。棋を以て待詔と為る。頗る書を読み、班班として治道を言う。徳宗詔して東宮に直らしめ、太子これを引いて侍読と為し、因りて政を論じ宮市の弊に及ぶ。太子曰く「寡人上に見え、将に極めてこれを言わん」と。坐する者皆趣いて賛す。叔文独り嘿然たり。既に罷りて、太子曰く「向に君言無し、何ぞや」と。叔文曰く「太子の上に事うるは、膳を視り安んずるを問うに非ざれば与る無し。且つ陛下在位久しく、もし小人これに間せば、殿下の群情を収厭すと謂わん。則ち安んぞ解けんや」と。太子謝して曰く「先生に非ざればこの言を聞かず」と。ここよりこれを重んじ、宮中の事咸くこれと参訂す。
叔文は浅中浮表にして、遂に言を肆にして疑わず、曰く「某は相と為るべく、某は将と為るべく、他日幸いにこれを用いよ」と。陰に天下の有名士を結び、而して速やかに進まんと欲する士は、率ね諧いてこれに附す。韋執誼・陸質・呂溫・李景儉・韓曄・韓泰・陳諫・柳宗元・劉禹錫を死友と為し、而して淩准・程又はその党に因りて進み、出入り詭秘、外その端を得る莫し。強藩劇帥は、或いは陰に相賂遺して以て自ら結ぶ。
順宗立ちて、政を聴く能わず、深居して幄坐を施し、牛昭容・宦人李忠言を侍側せしめ、群臣の事を奏するに、幄中よりその奏を可す。王伾密かに諸黄門に語りて曰く「陛下素より叔文を厚くす」と。即ち蘇州司功参軍より起居郎・翰林学士に拝す。大抵叔文は伾に因り、伾は忠言に因り、忠言は昭容に因り、更に相依仗す。伾は伝受を主とし、叔文は裁可を主とし、乃ちこれを中書に授け、執誼詔文を作り施行す。時に景儉は親喪に居り、溫は吐蕃に使す。惟だ質・泰・諫・准・畢・宗元・禹錫等これに倡譽し、以て伊・周・管・葛の復出と為し、憪然として天下に人無しと謂う。叔文毎に言う「銭穀は国の大本、その柄を操れば、因りて以て士を市うべし」と。乃ち白して杜佑を用いて度支・塩鉄使を領せしめ、己はこれに副い、実にその政を専らにす。淹時せずして、戸部侍郎に遷る。
宦人俱文珍その権を忌み、叔文の学士を罷む。詔出でて、駭悵して曰く「吾当に数たびここに至りて議事すべし。然らずんば、禁中に入る縁無し」と。伾復た力を請う。乃ち聴して三五日に一たび翰林に至らしむ。然れども旧職を得ず。省に在りてその職する所に事えず、日々その党を引きて神策の兵を取らんと謀り、天下の命を制せんとす。乃ち宿将范希朝を以て西北諸鎮行営兵馬使と為し、泰を司馬と為してこれに副わしむ。ここにおいて諸将中尉に移書し、将に去らんと告ぐ。宦人始めてその権を奪わるを悟り、大怒して曰く「吾属必ずその手に死せん」と。乃ち諸鎮に諭し、慎んで兵を以て人に属する無かれとす。希朝・泰奉天に到るも、諸将至らず、乃ち還る。
叔文の母死す。匿して発せず、酒を翰林に置き、忠言・文珍等皆在り。金を裒めて以て餉い、因りて揚言して曰く「天子適た兔苑中に射し、鞍に跨がること飛ぶが若し。敢えて異議する者は斬らん」と。又自ら陳す「親疾病、身を以て国の大事を任じ、朝夕侍するを得ず。今当に急を請うべく、聴く宜し。然れども向の心を悉くし力を戮し、難易避くる所亡くして、天子の異知に報いしのみ。今一たびここを去らば、則ち百謗至らん。孰か吾が助け為す者あらんや」と。又言う「羊士諤我を毀短す。我将に杖殺せんとす。而して執誼懦くして果たさず。劉辟来たりて韋皋の為に三川を求めしが、吾が生平辟を識らず。便ち前に吾が手を執らんと欲す。凶人に非ずや。木場を掃して将にこれを斬らんとす。而して執誼持して可とせず。毎にこの二賊を失いしを念うとき、人をして悵恨せしむ」と。又度支を領する所以の利を興し害を去る者を陳べて己が労と為す。文珍語に随いて詰折す。叔文対うるを得ず。左右窃かに語りて曰く「母死して已に腐れり。方にここに留まる、将に何を為さんとするか」と。明日、乃ち喪を発す。執誼益々その語を用いず。乃ち起復を謀り、執誼と己に附かざる者を斬らんとす。聞く者恟懼す。
広陵王太子と為る。群臣皆喜ぶ。独り叔文憂色有り。杜甫の諸葛祠の詩を誦して以て自ら況え、歔欷して泣下す。太子已に国を監すれば、渝州司戸参軍に貶す。明年、誅死す。
附 王伾
王伾は杭州の人なり。始め書を以て翰林に待詔し、太子宮に入りて侍書す。順宗立ちて、左散騎常侍・待詔に遷る。伾は本より闒茸、貌陋く、楚語、他の大志無し。帝褻にこれを寵し、叔文の任気して事を言うを好むが如く、帝の礼せらるるに及ばず。至りて出処に及びては、又伾の間無きに及ばず。叔文は入りて止む翰林に、而して伾は柿林院に至り、牛昭容等に見ゆ。その党盛んなる当時、門は皆沸羹の若く、而して伾は尤も天下の賕謝に通じ、日月闋くること無し。巨櫝を為り、竅を裁ちて以て珍を受く。出だすべからざらしめ、則ちその上に寝る。
叔文が既に喪に服すや、王伾は日ごとに宦官及び杜佑に請いて、叔文を宰相に起用し、且つ北軍を総べしむるを求めしも、許さず。又、威遠軍使として同中書門下平章事たらしむるを請うしも、復た許さず。乃ち一日に三表を上るも、皆報いず。憂懼して、歩みては臥し、夕に至りて大呼して曰く、「吾が疾発す」と。輿にて第に帰る。開州司馬に貶せられ、其の所にて死す。支党は皆逐われ、惟だ李質は以前に死せしによりて免る。
附 韓曄
曄は、韓滉の族子にして、俊才あり。司封郎中より饒州司馬に貶せらる。永州刺史に終わる。
附 陳諫
諫は警敏にして、嘗て染署の歳簿を覧るに、悉く其の尺寸を言う能う。治むる所は、一たび籍を閲すれば、終身忘れず。河中少尹より台州司馬に貶せられ、循州刺史に終わる。
附 凌準
準は、字は宗一、史學あり。翰林学士より連州司馬に貶せられ、貶所にて死す。
附 韓泰
泰は、字は安平、籌畫あり、王伾・王叔文の倚重する所となり、大事を決する能う。戸部郎中・神策行営節度司馬より虔州司馬に貶せらる。湖州刺史に終わる。
陸質
陸質は、字は伯沖。七代の祖澄は、梁に仕えて名儒と為る。世に吳に居る。『春秋』に明るく、趙匡に師事し、匡は啖助に師事す。質は二家の學を盡く傳う。陳少遊が淮南を鎮むるや、幕府に表して、朝に薦め、左拾遺を授く。累遷して左司郎中に至り、信・台二州刺史を歴任す。
質は素より韋執誼に善し。時に執誼が叔文に附いて威柄を竊むるや、其の力を用いて給事中に召す。憲宗が太子たりし時、詔して侍読と為す。質は本名淳、太子の名を避けて、故に改む。時に執誼は太子が己の専を怒るを懼れ、故に質をして東宮に侍せしめ、陰に意を伺いて左右の者を解釈せしむ。質が間を伺いて言う所あるや、太子輒ち怒りて曰く、「陛下先生を命じて寡人の為に學を講ぜしむ、何ぞ它に及ぶべけんや」と。質は惶懼して出づ。
執誼未だ敗れざる時、質病甚だし。太子既に即位し、臨問して礼を加う。卒す。門人、質が聖人の書を能く文し、後世に通ずるを以て、私に共に諡して文通先生と曰う。著す所の書甚だ多し、世に行わる。
劉禹錫
劉禹錫は、字は夢得、自ら言う、系は中山に出づと。世儒と為る。進士第に擢でられ、博學宏辭科に登り、文章に工なり。淮南の杜佑、表して書記を管せしめ、入りて監察御史と為る。素より韋執誼に善し。時に王叔文太子の寵を得、禹錫は名一時に重きを以て、之と交わり、叔文每に宰相の器有りと称す。太子即位し、朝廷の大議秘策多く叔文より出で、禹錫及び柳宗元を引きて禁中に与に議せしめ、言う所必ず従わる。屯田員外郎に擢でられ、度支・鹽鐵案を判じ、頗る其の勢を馮藉し、多く士を中傷す。若し武元衡は柳宗元の喜ばざる所と為り、自ら御史中丞より下りて太子右庶子と為る。御史竇群、禹錫を劾して邪を挾み政を乱すとす。群は即日罷めらる。韓皋は素より貴く、肯て叔文等に親しまず、斥けられて湖南觀察使と為る。凡そ進退する所は、愛怒の重軽を視、人敢えて其の名を指さず、「二王・劉・柳」と号す。
憲宗が即位し、叔文らが敗れると、禹錫は連州刺史に貶せられたが、未だ到着せず、朗州司馬に斥けられた。州は夜郎の諸夷に接し、風俗は甚だ陋しく、家々は巫鬼を喜び、毎度祭祀の際には、『竹枝』を歌い、鼓吹して徘徊し、その声は傖佇であった。禹錫は、屈原が沅・湘の間に居て『九歌』を作り、楚人に神を迎え送らせたと謂い、乃ちその声に倚り、『竹枝辞』十餘篇を作った。ここにおいて武陵の夷俚は悉くこれを歌った。
初め、叔文に坐して貶せられた者は八人、憲宗は終に斥けて復用せざることを欲し、乃ち詔して後に更に赦令有りと雖も原宥すべからずとす。然れども宰相其の才を哀れみ且つ困窮するを、将に澡濯して用いんとし、会に程异復た起きて運務を領するに及び、乃ち詔して禹錫らに悉く遠州刺史を補せしむ。而して元衡方に政を執り、諫官頗る用うべからずと言う、遂に罷む。
禹錫久しく落魄し、鬱鬱として自ら聊かすこと能わず、其の吐く辞多く諷托幽遠にして、『問大鈞』・『謫九年』等の賦数篇を作る。又叙して曰く、「張九齢が宰相たりし時、建言して放臣は善地と与すべからずとし、悉く五溪の不毛の処に徙す。然れども九齢自ら内職より出でて始安に至り、瘴癘の歎有り;政事を罷めて荊州を守り、拘囚の思有り。身は遐陬より出で、一たび失意すれば能く堪えず、況んや華人の士族、必ず醜地に致して、然る後に快意ならんや!議者開元の良臣と為すも、而して卒に嗣無し、豈に忮心恕を失い、陰責最大にして、他の美を以てすら贖うこと莫きか!」権近に感諷せんと欲するも、而して憾み釋れず。久しくして、召し還さる。宰相南省郎に任ぜんと欲するも、而して禹錫『玄都観看花君子』の詩を作り、語譏忿にして、当路者喜ばず、播州刺史として出づ。詔下るや、御史中丞裴度言う、「播は極めて遠く、猿狖の宅する所、禹錫の母八十餘、往くこと能わず、其の子と死訣せんとす、恐らくは陛下の孝治を傷らん、請う稍く内遷せしめよ。」帝曰く、「人子たる者は宜しく事を慎み、親に憂いを貽すこと無かるべし。若し禹錫他人を望まば、尤も赦すべからず。」度敢えて対せず、帝容を改めて曰く、「朕の言う所は、人子の事を責むるなり、終に其の親を傷らんと欲せず。」乃ち連州に易え、又夔州刺史に徙す。
禹錫嘗て天下の学校廃れるを歎き、乃ち宰相に奏記して曰く、
言う者は天下に士少なしと謂うも、而して材を養うの道を知らず、鬱堙して揚がらず、天の材を生ぜざるに非ざるなり。是れ耕さずして廩庾の餘無きを歎くが若く、可ならんや?貞観の時、学舍千二百区、生徒三千餘、外夷子弟を遣わして入附する者五国。今室廩廃れ、生徒衰少す、学官振わざるに非ず、資無きを病として以て給するなり。
凡そ学官、春秋に先師に釈奠す、是れ辟雍・頖宮に止まり、天下に及ばず。今州縣咸に春秋上丁を以て孔子廟に事有り、其の礼古に応ぜず、甚だ孔子の意に非ず。漢初群臣屠販より起り、故に孝惠・高後の間郡国に原廟を置く、元帝の時に逮び、韋玄成遂に議して之を罷む。夫子孫尚お礼を違えて其の祖を饗うことを敢えず、況んや後学先聖の道に師いて而して之を違えんと欲するや。『伝』に曰く、「祭は数うるを欲せず。」又曰く、「神を祭るには神在ますが如し。」其の薦饗に煩するに与りては、孰か其の教を行わん。今教頽靡し、而して非礼の祀を以て之に媚びる、儒者の宜しく疾む所なり。窃かに歴代を観るに是の事有ること無し。
武徳初、詔して国学に周公・孔子の廟を立て、四時に祭らしむ。貞観中、詔して孔子廟を兗州に修めしむ。後許敬宗等奏して天下州縣に三献官を置き、其他社を立つるが如し。玄宗儒臣と議し、釈奠の牲牢を罷め、酒脯を薦む。時に王孫林甫宰相たり、学に渉らず、御史中丞王敬従をして明衣牲牢を令に著わさしむ、遂に之を非とすること無き者有り。今夔四県歳に釈奠の費十六万、天下州縣の歳凡そ費す所四千万、適に三献官の衣裳を飾り、妻子に飴するを資とし、学に補うこと無し。
請う礼官博士を下して議せしめ、天下州縣の牲牢衣幣を罷め、春秋の祭り開元の時の如くし、其の資を籍して半ばを隷する州に畀え、学校を増さしめ、半ばを挙げて太学に帰せしめよ、猶お万計に下らざるべく、以て学室を営み、器用を具え、饌食を豊かにし、掌故を増し、以て使令に備え、儒官各お稍食を加え、州縣の進士皆程督を立てしめよ、則ち貞観の風、粲然として復すべし。
当時其の言を用いず。
和州刺史より入りて主客郎中と為り、復た『游玄都』の詩を作り、且つ言う、「初め謫せられて十年、京師に還りし時、道士桃を植う、其の盛んなること霞の若し。又十四年を過ぎて之を過ぐるに、復た一も存せず、唯だ兔葵・燕麥春風に動揺するのみ。」以て権近を詆し、聞く者益々其の行を薄しむ。俄に東都に分司す。宰相裴度集賢殿大学士を兼ね、雅く禹錫を知り、礼部郎中・集賢直学士に薦む。度罷むるや、蘇州刺史として出づ。政最を以て、金紫服を賜う。汝・同二州に徙す。太子賓客に遷り、復た分司す。
禹錫才を恃みて廢せられ、褊心怨望無きこと能わず、年益々晏く、偃蹇として合う所寡く、乃ち文章を以て自ら適す。素より詩を善くし、晚節尤も精しく、白居易と酬復頗る多し。居易詩を以て自ら名とすと雖も、嘗て「詩豪」と推し、又言う、「其の詩在る処、応に神物の護持有るべし。」
会昌の時、検校礼部尚書を加う。卒す、年七十二、戸部尚書を贈らる。初め疾病に罹り、自ら『子劉子伝』を作り、称して曰く、「漢景帝の子勝、中山に封ぜられ、子孫中山人と為る。七代祖亮、元魏の冀州刺史、洛陽に遷り、北部都昌人と為り、墳墓洛北山に在り、後其の地狭くして依るべからず、乃ち滎陽檀山原に葬る。徳宗天下を棄て、太子立つ、時に王叔文善弈を以て通籍を得、因りて間言事し、積久しくして、衆未だ知らず。蘇州掾より起き、超えて起居舍人・翰林学士に拝され、陰に丞相杜佑を薦めて度支・塩鉄使と為す。翌日、自ら副と為り、貴震一時。叔文、北海の人、自ら猛の後と言い、遠祖の風有り、東平呂溫・隴西李景儉・河東柳宗元以て信然と為す。三子者皆予厚く善くし、日夕過ぎ、其の能を言う。叔文実に治道を言うに工く、口辯を以て人を移すこと能く、既に用いらるるを得、施為する所人以為えず当らずと。太上久しく疾み、宰臣及び用事者対うことを得ず、宮掖の事秘かにして、桓を建て順を立つるも、功貴臣に帰す、是れ由りて及びて貶せらる。」其の自ら弁解する所大略此の如し。
柳宗元
柳宗元、字は子厚、其の先蓋し河東の人。從曾祖奭中書令と為り、武后に得罪し、高宗の時に死す。父鎮、天宝末乱に遇い、母を奉じて王屋山に隠れ、常に間行して養いを求め、後吳に徙る。肅宗賊を平げ、鎮上書して事を言い、左衛率府兵曹参軍に擢げらる。郭子儀の朔方府を佐け、三遷して殿中侍御史と為る。事を以て竇参に触れ、夔州司馬に貶せらる。還り、終に侍御史と為る。
宗元少しくして精敏絶倫、文章を為すに卓偉精緻、一時の輩行推仰す。進士・博学宏辞科に第し、校書郎を授かり、藍田尉に調う。貞元十九年、監察御史裏行と為る。王叔文・韋執誼に善くし、二人者其の才を奇とす。政を得るに及び、内禁近に引き入れ、計事に与り、礼部員外郎に擢げ、大いに進用せんと欲す。
やがて叔文が敗れると、邵州刺史に貶せられ、半道にも至らぬうちに、永州司馬に貶せられた。既に流謫の身となり、土地もまた荒れて瘴癘の地であるため、自ら山沢の間に放浪し、その鬱屈した感情をすべて文章に託し、『離騷』に倣って数十篇を著した。読む者は皆、悲しみ哀しんだ。平素より蕭俛と親しく、書を贈って心情を述べて言うには、
私は以前、進退不安の情勢に当たり、平素は門を閉ざし、口舌の争いは数知れず、また久しく遊説の徒と交わり、危うくその間に身を置いた。進んで退かんとする者は皆、集まって仇怨となり、粉飾を造作し、蔓延してますます甚だしくなった。明らかに自ら内に断じなければ、誰が私を冥々たる中で理解できようか。私は当時三十三歳、御史裏行から礼部員外郎に抜擢され、顕著な美職を得た。世の求進の者の怪しみ怒り嫉み憎むことを免れようとして、得られるであろうか。罪人と交わり十年、官はこれによって進み、辱は附会に在り。聖朝は寛大で、貶黜は甚だ軽く、衆人の怒りを塞がず、誹謗の言葉はますます広がり、囂囂嗷嗷として、次第に怪人と成り下がった。智を飾って仕官を求める者は、さらに私を罵って仇人の心を喜ばせ、日々新奇を為し、互いに喜ばせんと務め、自ら援引の道を速めんとした。我々はますます困辱に陥り、万の罪が横生し、その端緒を知らず、悲しいことよ。人生七十古来稀なり、今や三十七歳、年を経て日月のますます促きを覚え、年々一層甚だしく、多くは数十の寒暑を過ぎず、この身は無くなる。是非栄辱など、また何を足して言わん。云々と止まず、ただ罪を増すのみ。
蛮夷の中に久しく居り、炎毒に慣れ、目は昏く足は重く腫れ、これを常と思いなしていた。突然北風に遇い朝起き、薄寒が体に中ると、肌膚は惨懍とし、毛髪は蕭條として、瞿然として注視し、怵惕として異候と思い、意緒はほとんど中国人ではないようだ。楚・越の間の声音は特に異なり、鴂舌啅噪であるが、今これを聞いて恬然として怪しまず、すでに彼らと同類となった。家に生まれた小童は皆、自然に嘵嘵とし、昼夜耳に満ちる。北人の言を聞けば、啼き呼び走り匿れ、病夫ですらも怛然として驚く。門を出て州閭市井に適う者を見れば、その十八九は杖にすがって起き上がる。自ら料るに、ここに居るのもまた幾何ほどか、さらに止まることを知らず、長短を言説し、重ねて一世の非笑を受けようか。『易』の「困卦」を読み「有言不信、尚口乃窮」に至り、往復してますます喜び、言うには「ああ、我が家に一喙を置いて自ら称道しても、辱はますます甚だしいのみ」。これによってさらに喑黙を楽しみ、木石を徒とし、再び意を致さない。
今天子は教化を興し、邪正を定め、海内は皆欣欣として怡愉であるが、私と四、五人の者はこのように淪陷している。これ命ではなかろうか。命は天なり、云々する者の制する所ではなく、また何を恨まん。しかし治平の世に居りながら、終身頑人の類となるは、なお少しの恥あり、未だ尽く忘れることができない。もし賊平の慶賞の際に因り、以て白状せしめられ、天沢の余潤を受けることができれば、朽枿敗腐して生植できずとも、なお芝菌を蒸し出して瑞物と為すに足る。一度廃錮を解かれ、数県の地に移されれば、世は必ず罪少し解けたと言うであろう。その後魂魄を収め召し、土一廛を買って耕氓と為し、朝夕歌謠して文章を成し、庶幾くば木鐸者がこれを採取し、法宮に献じて聖唐大雅の什を増し、位を得ずとも、また虚しく太平の人と為らざらん。
また京兆尹許孟容に贈って言うには、
宗元は早くより罪を負う者と親善し、初めその才能を奇として、以て共に仁義を立て教化を裨益すべしと謂う。過ちて自ら料らず、勤勤勉勵し、ただ忠正信義を志とし、堯・舜・孔子の道を興し、元元を利安するを務めとし、愚陋にして強うべからざるを知らず、その素意はかくの如し。末路に厄塞臲卼し、事既に壅隔し、貴近に很忤し、狂疏繆戾にして、不測の辜を蹈む。今、党与は幸いに寬貸を得、各々善地を得、公事無く、坐して奉祿を食む、德至って渥し。なお何ぞ敢えて更に除棄廢痼を俟ち、外の澤を望まん。年少気鋭、幾微を識らず、当否を知らず、ただ一心に直遂せんと欲し、果たして刑法に陷る、皆自ら求め取る所、また何を怪しまん。
宗元は衆党人の中にて、罪状最も甚だしく、神理の罰降り、また即死せず、なお人に対し語言し、飲食して自ら活き、迷いて恥を知らず、日を重ねる。然れどもまた大故有り。姓を得て以来二千五百年、代々塚嗣たりしが、今、非常の罪を抱き、夷獠の郷に居り、卑湿昏霧、一日に溝壑に填委し、先緒を曠墜するを恐れ、以て怛然として痛恨し、心骨沸熱す。煢煢として孤立し、子息無く、荒陬の中に士人女子少なく、婚する者無く、世もまた罪人と親昵するを肯ぜず、以て嗣續の重き、縷の如く絶えず。春秋の時饗毎に、孑立して奠を捧げ、顧眄するに後継する者無く、懍懍然として欷歔惴惕し、この事便ち已むを恐れ、心を摧き骨を傷み、鋒刃を受けるが若し。これは誠に丈人の共に閔惜する所なり。先墓は城南に在り、異なる子弟主と為る者無く、独り村鄰に托す。譴逐されて以来、消息存亡一至せず、郷閭の主守固より益々怠る。昼夜哀憤し、松柏を毀傷し、芻牧禁ぜられず、以て大戾を成すを懼る。近世礼は拜掃を重んず、今闕くこと四年なり。寒食に遇う毎に、則ち北に向かって長號し、以て首を地に頓つ。田野道路を想うに、士女遍満し、皁隸庸丐も皆父母の丘墓に上ることを得、馬医・夏畦の鬼も子孫の追養を受からざるは無し。然れどもこれは已に望みを息め、また何を以てか雲わん。城西に数頃の田有り、樹果数百株、多く先人の手自ら封植する所、今已に荒穢し、便ち斬伐せられ、再び愛惜無からんことを恐る。家に賜書三千卷有り、尚ほ善和裏の旧宅に在り、宅は今三たび主を易え、書の存亡知る可からず。皆付受の重き所、常に心腑に系る、然れども為す可き者無し。立身一たび敗れば、万事瓦裂し、身は殘り家は破れ、世の大僇と為る。是を以て食に当たりて辛鹹節適を知らず、洗沐盥漱、動もすれば歳時を踰え、一たび皮膚を搔けば、塵垢爪に満つ、誠に憂恐悲傷し、告訴する所無く、以て此に至る。
古より賢人才士、志を秉り分を遵び、謗議を被りて自ら明らかにすること能わざる者、百数を以て数う。故に兄無くして嫂を盗み、孤女を娶りて婦翁を撾つ者有り。然れども当世の豪傑に頼りて分明に辨列し、卒に史冊を光らす。管仲は盗に遇い、升って功臣と為り、匡章は不孝の名を被り、孟子之に礼す。今は已に古人の実為有るも無くして詬有り、世人の己を明らかにするを望むは、得べからず。直不疑は金を買いて以て同舎に償い、劉寬は下車して、牛を郷人に帰す。これは誠に疑似の辯うべからざるを知り、口舌の能く勝つ所に非ざるなり。鄭詹は晉に束縛せられ、終に死せず、鐘儀は南音、卒に國に返ることを獲、叔向は囚虜、自ら必ず免かるを期し、范痤は危に騎り、以て生を死に易え、蒯通は鼎耳に據り、齊の上客と為り、張蒼・韓信は斧鑕に伏し、終に將相を取る。鄒陽は獄中に在り、以て書自ら治め、賈生は斥逐せられ、復た宣室に召され、兒寬は擯厄せられ、後御史大夫に至り、董仲舒・劉向は獄に下り誅に當たり、漢の儒宗と為る。これらは皆瑰偉博辯奇壯の士、能く自ら解脫す。今、恇怯淟涊、下才末伎、また痼病を嬰り、慷慨攘臂せんと欲すとも、自ら昔人に同ぜんとすれば、愈よ疏闊なり。
賢者が今の世に志を得られぬならば、必ず後世に貴ばれることになる、古の著書者は皆これである。宗元近ごろこれを務めようとするが、しかし力は薄く志は劣り、並外れた才能もなく、筆を執って詳しく述べようとすれば、精神は荒れ果て衰え、前後を忘れ失い、ついに文章を成すことができない。かつて書を読んだ時は、自ら滞りに至らないと思っていたが、今は皆頑なになって再び省みて記録することもない。古人の一つの伝を読み、数枚の後には、再三巻物を伸ばし、また姓氏を観ては、たちまちまた失ってしまう。仮に万一刑部の囚人籍から除かれ、再び士人の列に加わることがあっても、やはり当世の用に堪えることはできぬであろう。
ひたすら思うに、無用の地において哀れみを起こし、報いられぬ所に徳を垂れ、一族の宗祀を通じさせることを念とし、心を動かすことのできるものがあれば、それを執り行って失うことなきように。たとえ墓域に帰って掃除し、先人の廬に退いて託り、残りの命を尽くすことを望むことは敢えてせずとも、少しばかり北に移り、ますます瘴癘を軽くし、婚娶を遂げ、子孫を求め、託すべきものがあれば、すなわち冥然として長く別れ、甘い眠りを得るがごとく、再び恨みはないであろう。
しかし人々はその才の高さを畏れ、懲らしめて再び進用されることを戒めたので、力を尽くす者はいなかった。
宗元は長く沈んでいたが振るい立ち、その文章を為すに、思惟はますます深くなった。かつて書一篇を著し、『貞符』と号して、曰く。
臣の貶された州の流人である呉武陵が臣に言う、「董仲舒が三代の受命の符について答えたことは、誠に然るか、否か」と。臣は曰く、「否である。何ぞ仲舒のみならんや、司馬相如・劉向・揚雄・班彪・彪の子の固らは皆、嗤嗤たるものを沿襲し、古の瑞物を推して受命に配し、その言は淫巫や瞽史の類いであり、後代を誑かし乱し、聖人の極を立てる根本を知るに足らず、至徳を顕わし、大功を揚げることを、甚だしくその趣旨を失っている」。臣が尚書郎であった時、かつて『貞符』を著し、唐家の正徳が生民の意によって命を受けたこと、累積して厚く久しく、無極の義を享くべきことを言い、本末は広大であった。貶逐に遭い中絶し、備えて究めることができなかった。武陵はすなわち頭を叩いて臣に請う、「これは大事である。辱められた故をもって休み欠くべからず、聖王の典を立てずしては、詭類を抑え、正道を抜き、万代に表し核とすることはできない」と。臣は奮い立つに堪えず、すなわち詳しく書を為した。蛮夷の地に終に泯没し、時に聞こえぬことを思えば、ただ為さないわけにはいかない。苟も一たび大道を明らかにし、人世に施すことができれば、死して憾みなし、これをもって自ら決した。臣宗元、稽首拜手して以て聞かせんとす、曰く。
誰が古の初めを称えて、朴蒙として空侗として争いがなく、その流れが訛り、ついに奮い奪い、闘い怒り振動し、専ら肆に淫威を為したと言うか。曰く、これは道を知らぬのである。人の初めには、総総として生まれ、林林として群れる。雪霜風雨雷雹が外に暴れ、ここにおいてすなわち巣を架け穴を空け、草木を引き、皮革を取ることを知る。飢渇牝牡の欲が内に駆り立て、ここにおいてすなわち禽獣を噬み、果穀を咀む。合偶して居り、交われば争い、睽てば闘い、力大なる者は搏ち、歯利き者は齧み、爪剛き者は決し、群衆なる者は軋し、兵良き者は殺し、披披藉藉として、草野は血に塗れる。後に強く有力なる者が出てこれを治め、往々にして険阻な陰に曹を為し、号令を用いて起こし、君臣什伍の法が立つ。徳を継ぐ者は嗣ぎ、道を怠る者は奪わる。ここにおいて聖人あり、黄帝と曰い、その兵車を遊ばせ、内に交貫させ、一たび類を統べ、制量を斉しくしたが、なお大公の道を建てることはできなかった。ここにおいて聖人あり、堯と曰い、州牧四嶽を置き、持してこれを綱とし、徳有り功有り能ある者を立て、参じてこれを維とし、臂を運び指を率い、屈伸把握して、統率せざるはなかった。年老いて、聖人を挙げてこれに禅し、大公がすなわち建つことができた。これによって観れば、その初めは極乱でないものはなく、後に漸く為すべきものとなったのである。しかして徳なくしては樹てられない。故に仲尼が『書』を叙して、堯については「克く俊徳を明らかにす」と曰い、舜については「濬哲文明」と曰い、禹については「文命祗承於帝」と曰い、湯については「克く寬克く仁、信を章らかにして兆民にす」と曰い、武王については「有道の曾孫」と曰った。典誓を稽え揆うに、貞なるかな惟れこの徳、実に受命の符であり、以て永祀を奠むるものである。後の祅淫囂昏にして怪を好むの徒は、すなわち始めて大電・大虹・玄鳥・巨跡・白狼・白魚・流火の烏などを陳べて符と為し、これらは皆詭譎闊誕であり、その恥ずべきこと、その貞に本づくことを知る者はない。
漢は大度を用い、能く有氓を懐き、能を登用し賢を庸い、痍を濯ぎ寒を煦み、以て瘳え以て熙えしめた。これがその符である。しかるにその妄臣は、すなわち下は虺蛇を取り、上は天光を引き、類を推して休と号し、無知の氓に誇誣するために用い、騶虞・神鼎を加え、脅かし駆り立てて縦に踴らせ、東の泰山・石閭に之かせ、大号を作ってこれを「封禅」と謂い、皆『尚書』に無いものである。王莽・公孫述がこれを承け效い、ついに奮い驁逆した。その後、賢帝ありて光武と曰い、能く天下を綏め、旧物を復た承けたが、なお『赤伏』を崇め、以てその徳を玷した。魏・晋以下、尨乱鉤裂し、その符は貞ならず、邦用は靖まらず、また能く久しからず、駁乎として議うるに足りない。
大乱が積もり積もって隋氏に至り、四海を環らして鼎と為し、九垠を跨いで炉と為し、毒燎を爨とし、虐焰を煽り、その人は沸湧灼爛し、号呼騰蹈して、救い止むる者なし。ここにおいて大聖すなわち起こり、丕かに霖雨を降らし、濬滌蕩沃し、蒸して清氛と為し、疏けて泠風と為す。人はすなわち漻然として休然とし、相い晞いて生まれ、相い持して成り、相い弥めて寧んず。琢斮屠剔して膏流節離の禍は作らず、人はすなわち能く完平舒愉し、その肌膚を屍とし、以て夷途に達する。焚坼抵掎して奔走転死の害は起こらず、人はすなわち能く類を鳩め族を集め、歌舞悦懌し、用いて元徳に抵る。徒に袒を奮い呼び、義旅を犒迎し、歓動六合、麾下に至る。大盗豪据して、命を阻み徳を遏むも、義威殄戮し、皆その緒を墜す。虐に劉ることなく、人はすなわち並びに休嘉を受け、隋氏を去り、能く唐に帰し、躑躅謳歌し、灝灝として和寧なり。帝は威栗を用い、惟れ人の為すところなり。敬ってその賦を奠め、積蔵すること下にあり、これを豊国と謂う。郷に義廩を為し、斂発謹飭し、歳に大侵に丁り、人以て有年あり。その刑に簡にして、残さずして懲らしむ、これを厳威と謂う。小は属して支え、大は生んで孥し、愷悌祗敬して、用いて治に底る。凡そその欲する所は、謁せずして獲、凡そその悪む所は、祈らずして息む。四夷稽服し、兵革を作さず、貨力を竭さず。丕かに後嗣に揚げ、用いて帝式に垂る。十聖その治を済し、孝仁平寬、惟れ祖の則なり。沢久しくして逾深く、仁増して益高く、人の唐を戴くこと、永永として窮まりなし。
故に受命は天に在らず、その人に在り。休符は祥に在らず、その仁に在り。惟れ人の仁、天に祥ならず。天に祥ならず、これ惟れ貞符なるかな。仁を喪って久しき者は未だあらず、祥に恃んで寿なる者は未だあらず。商の王は桑穀を以て昌え、雉鴝を以て大いにし、宋の君は法星を以て寿し、鄭は龍を以て衰え、魯は麟を以て弱く、白雉は漢を亡ぼし、黄犀は莽を死なしむ。その符たるや、何の在るか。唐徳の代に勝えず、光紹明濬、深鴻尨大、人を保つこと斯に疆なし。宜しく郊廟に薦け、雅詩に文らし、祗かに徳の休を告ぐべし。帝曰く諶なるかな。すなわち休祥の奏を黜け、貞符の奥を究め、徳の未だ大ならざる所を思い、仁の未だ備わらざる所を求め、以て邦治に極め、以て人事を敬う。その詩に曰く。
ああ、敬虔なる徳よ、民はこれを尊ぶ。その符瑞はただ貞正にして、広大にこれを推し進む。仁は肌膚に含まれ、刃をもって屠り尽くすこと能わず。恩沢は炊事の火のように熱く、炎を潤して洗い清む。凶悪なる徳を勃発させ、これを駆逐し平定す。美しき善政の風は、暖かく吹き育む。父子は和やかに、安らぎ遊ぶ。租税を収めて蔵し、我が食糧を豊かにする。刑罰は軽く清く、我が身は傷つかず。子孫に遺す、百代の安泰。十聖の治世を継ぎ、仁君の子なり。子は孝を思い、父は患いを己に易う。これを戴き奉り、神よ汝に相応しくあれ。雅にこれを揚げ、天の福を承く。天は誠に神なり、仁を照覧すべし。神の依りどころは何か、仁に帰すべきなり。濮鉅公は北に、祝栗は南に、東西の幅員、ただ一心を尽くす。唐の紀元を祝い、後天に墜つることなし。皇帝の寿を祝い、地とともに久遠ならん。ただ祝うのみにあらず、心誠にこれを厚くす。神は人と協同し、道をもってこれを告ぐ。億万年を満たし、震わず危うからず。我が代の延長、永遠にこれを輔け。仁を増して崇め、何ぞ汝を思わざるや。天に号して、皆嗚呼と言う。ああ、皇霊よ、その符瑞を替えることなかれ。
宗元は召されず、内に悼み、往時の過ちを悔い、自らを戒める賦を作りて曰く。
咎と過ちを懲らしめてその本源に遡れば、いずれも我が心の求めざる所にあらずや。卑賤の身に処して世を憂うれば、固より前志の過ちと為す。初め我学びて古を観るに、今昔の謀りの異なるを怪しむ。ただ聡明なるを以て考うべく、駿足を追って遠く遊ぶ。潔き誠実は既に信直にして、仁ある友は藹然として集う。日に施し陳べて繋がれ、堯舜禹を邀えんとす。上は睢盱として混茫、下は駁詭として私を懐く。旁ら羅列して交貫し、大中なる所宜を求む。
道は象ありと曰えども、その形なし。変を推し時を乗じて、志と相い迎う。及ばざれば則ち危うく、過ぐれば則ち貞を失う。謹んで守りて中にあり、時とともに行く。万類は芸芸として、率いて以て寧し。剛柔は弛張し、出入は綸経す。能を登げ枉を抑え、白黒濁清す。大方に蹈みて、物能く嬰うること莫し。
大謀を奉じて内に植え、我が志の獲る所あるを欣ぶ。再び策書に明信し、耿然として惑わざるを謂う。愚者は自用に果たし、ただ誠の一ならざるを懼る。顧慮せずして周図を図らず、専らこの道を以て服と為す。讒妒は構えて戒めず、なお断断として執る所にあり。我が党の淑からざるを哀しみ、任用の遇いの卒迫に遭う。勢いは危疑にして詐多く、天地の否隔に逢う。退きて己を保たんと図れば、曩昔の乖期を悼む。術を操りて忠を致さんとすれば、衆は呀然として互いに嚇す。進退我に帰する所なく、甘んじて脂潤を鼎鑊にす。幸いに皇鑒の明宥にて、郡印を累ねて南に適す。ただ罪大にして寵厚なれば、宜しく夫れ重ねて禍謫に仍うべし。既に天討を懼れて明らかに、又鬼責を幽かに慄く。惶惶として夜は寤き昼は駭き、麋鹿の奔るが如く息まず。
洞庭の洋洋たるを凌ぎ、湘流の沄沄たるを溯る。飄風は撃ちて波を揚げ、舟は摧抑されて回邅す。日は霾曀として幽昧に、黝雲は湧き上がりて屯す。暮れは屑窣として淫雨、嗷嗷たる哀猿の声を聴く。衆鳥は萃まりて啾号し、洲渚より連山に沸く。漂遙として逐うこと詎でか止まん、逝くに我が形魂の属する所莫し。巒を攒えて奔り紆委し、洶湧の崩湍を束ぬ。畔は尺進みて尋退し、洄汩として淪漣に蕩う。窮冬に際して止居し、羈累は棼として縈纏す。
我が生の甚だ艱しきを哀しみ、『凱風』の悲詩に循う。罪は天に通じて酷を降し、急ぎ死なずして生くを為す。再歳の寒暑を逾え、なお貿貿として自ら持す。淵に沈みて命を隕さんとすれど、詎でか罪を蔽い禍を塞がん。ただ身を滅ぼして後無きも、顧みるに前志なお未だ可ならず。進路は呀として劃絶し、退き伏匿するも又果たさず。孤囚を以て終世し、長く拘攣して轗軻す。
曩に我が志の脩蹇たるや、今何ぞこの戾りを為す。豈に食を貪り名を盗みて、世に混同せざらんや。身を顕して直遂せんとすれど、衆の宜しく蔽う所なり。言を択ばずして危肆なれば、固より群禍の際なり。
長轅の橈め無きを禦え、九折の峨峨たるを行く。却って驚棹を以て江に横たわり、淩天の騰波を溯る。幸いに我が死の已に緩きを以て、形軀の既に多きを完うす。苟くも我が歯に懲る有らば、前烈に蹈みて頗らず。蛮夷に死するは固より我が所、顕寵と雖も何ぞ加えん。大中を配して偶と為し、諒らく天命の何を謂うや。
柳州の民は男女を質に銭を借り、期限過ぎて贖わざれば、元利均しくなれば奴婢に没す。宗元は方計を設け、悉くこれを贖い帰す。特に貧しき者は、庸を書かせ、その直相当するを見て、質を還す。既に没せられたる者は、己が銭を出して贖いを助く。南方に進士を為さんとする者、数千里を走りて宗元に従い遊び、指授を経る者は、文辞みな法有り。世は「柳柳州」と号す。十四年に卒す。年四十七。
宗元は少時進取を嗜み、功業の成る可きを謂う。既に廃せられ坐すに及び、遂に振わず。然れどもその才実に高く、名は一時を蓋う。韓愈その文を評して曰く、「雄深雅健、司馬子長に似て、崔・蔡は多とするに足らず」と。既に没し、柳人はこれを懐い、州の堂に降りたると言い託し、人に慢る者有れば輒ち死す。羅池に廟し、愈は因りて碑を以てこれを実とすと云う。
程异
程异、字は師挙、京兆長安の人。郷に居て孝を以て称せらる。明経に及第し、再び鄭尉を補す。吏治に精しく、叔文に引かれ、監察御史より塩鉄揚子院留後と為る。叔文敗れ、郴州司馬に貶せらる。
賛して曰く、叔文は沾沾たる小人、天下の権柄を窃み、陽虎の大弓を取るがごとく、『春秋』に盗と書くも以て異ならず。宗元等は節を橈げてこれに従い、一時を徼幸し、帝の病昏を貪り、太子の明を抑え、権を規りて私を遂ぐ。故に賢者は疾み、不肖者は媢み、一たび僨れて復せず、宜なるかな。彼若し匪人に傅せず、自ら材猷を励まば、明卿才大夫を失わざるも、惜しいかな。