新唐書

巻一百七十二 列傳第九十七 于頔 王智興子:晏平 晏宰 杜兼從弟:羔 子:中立 杜亞 范傳正

巻一百七十二 列傳第九十七 于頔 王智興子:晏平 晏宰 杜兼從弟:羔 子:中立 杜亞 范傳正

于頔

原文于頔

于頔、字あざなは允元、後周の太師于謹の七世の孫なり。蔭補により千牛となり、華陰尉に転じ、累功して侍御史に遷る。吐蕃とばん計会使となり、専対の才あり。長安令・駕部郎中に抜擢される。

原文于頔,字允元,後周太師謹七世孫。蔭補千牛,調華陰尉,累勞遷侍御史。為吐蕃計會使,有專對材。擢長安令、駕部郎中。

湖州刺史として出向す。管内に湖陂あり、往時は田三千頃を灌漑せしが、久しく廃れていた。頔が県を行き、堤閼を修復せしめ、歳に粳稻蒲魚を獲ること万計に及ぶ。州の地は低湿で、葬る者柩を掩わず、頔は坎を為し、枯骨千余を瘞り、人これにより安んず。

原文出為湖州刺史。部有湖陂,異時溉田三千頃,久廞廢,頔行縣,命脩復堤閼,歲獲粳稻蒲魚無慮萬計。州地庳薄,葬者不掩柩,頔為坎,瘞枯骨千餘,人賴以安。

間もなく、蘇州に転ず。淫祠を廃し、溝澮を浚い、路衢を整え、政績あり。然れども暴横にして恩少なく、前部尉を杖ちて憾みを逞しうす。観察使王緯これを聞くも、徳宗省みず。俄かに大理卿に遷り、陝虢観察使となる。慢言して緯に謝して曰く、「始め足下我を劾す、三たび官を進む!」益々自ら肆なり。峻罰苛懲、官吏惴恐し、皆重足一跡す。参軍事姚岘虐に勝えず、自ら河に沈む。

原文未幾,改蘇州。罷淫祠,浚溝澮,端路衢,為政有績。然暴橫少恩,杖前部尉以逞憾,觀察使王緯以聞,德宗不省。俄遷大理卿,為陜虢觀察使,慢言謝緯曰:「始足下劾我,三進官矣!」益自肆。峻罰苛懲,官吏惴恐,皆重足一跡。參軍事姚峴不勝虐,自沈於河。

貞元十四年、山南東道節度使せつどしに拝す。是の時、呉少誠叛く。頔兵を率い唐州より出で、呉房朗山に戦いこれを取り、其の将李璨を禽え、又濯神溝に之を勝つ。ここにおいて襄州を大都督府に昇格することを請い、広く戦士を募り、良き器械を儲え、撊然として漢南を専らにせんとする意あり、牾く者は類を以て軍法に治す。帝晩年に姑息を務むるに及び、頔の奏建する所、開允せざるは無し。公に斂り私に輸し、下を抑えること益々急にして、上を奉ずるに慢なり。鄧州刺史元洪を誣劾し、朝廷重ねて違えず、端州に流すと為し、中人を中使として護送し棗陽に至らしむ。頔兵を遣わし洪を劫いて還し、之を拘え、表して洪を責むること太重なりとし、吉州長史に改め、使いを遣わし厚く諭して乃ち已む。嘗て判官薛正倫に怒り、奏して陝州長史に貶す。詔下るに及び、頔中に悔い、奏して復た旧職に署す。正倫死す、兵を以て其の居を囲み、強いて孽子をして婚せしむ。昵吏高洪、縦して下を剝がしむ。別将陳儀忿に勝えず、洪を刺殺す。一府驚潰す。累遷して検校尚書左僕射・同中書門下平章事となり、燕国公に封ぜらる。俄かに擅に兵を以て鄧州を取る。天子未だ誰何せず。初め、襄に髹器あり、天下以て法と為す。頔に至り驕蹇す、故に方帥法に非ざる者、「襄様節度」と号す。

原文貞元十四年,拜山南東道節度使。是時,吳少誠叛,頔率兵自唐州戰吳房朗山,取之,禽其將李璨,又勝之濯神溝。於是請升襄州為大都督府,廣募戰士,儲良械,撊然有專漢南意,所牾者類治以軍法。帝晚務姑息,頔所奏建,無不開允。公斂私輸,持下益急,而慢於奉上。誣劾鄧州刺史元洪,朝廷重違,為流端州,命中人護送至棗陽。頔遣兵劫洪還,拘之,表責洪太重,改吉州長史,遣使厚諭乃已。嘗怒判官薛正倫,奏貶陜州長史,比詔下,頔中悔,奏復署舊職。正倫死,以兵圍其居,強使孽子與婚。昵吏高洪,縱使剝下,別將陳儀不勝忿,刺殺洪,一府驚潰。累遷檢校尚書左僕射、同中書門下平章事,封燕國公。俄擅以兵取鄧州,天子未始誰何。初,襄有髹器,天下以為法。至頔驕蹇,故方帥不法者號「襄樣節度」。

憲宗立ち、権綱自ら出ず。頔稍々懼れ、子を以て主に尚せんことを願う。帝之を許す。遂に朝に入り、司空・同中書門下平章事に拝す。杜佑に準じ、月三たび朝に奉ずることを請う。詔して可とす。

原文憲宗立,權綱自出,頔稍懼,願以子尚主,帝許之。遂入朝,拜司空、同中書門下平章事。請準杜佑,月三奉朝,詔可。

時に宦者梁守謙帝に幸せられ、頗る用いらる。梁正言なる者有り、頔の子敏と善し。敏正言に因り厚く守謙に賂り、頔の出鎮を求む。久しく報いず、敏其の紿くを怒り、饋りし所を責め、正言の家奴を誘い支解し、混中に棄つ。家童変を上る。詔して頔の吏沈壁及び他の奴を捕え御史獄に送り、中丞薛存誠・刑部侍郎王播・大理卿武少儀をして雑問せしむ。頔諸子と素服して建福門にて罪を待つ。門史内れず、屏営して墻に負い立ち、更に人を遣わし章を上るも、有司拒みて聞かず。翌日復た往く。宰相諭して第に還らしむ。恩王傅に貶せられ、子敏雷州に竄す。商山に至り、死を賜う。次子季友二官を奪わる。正及び方は官を免ぜらる。壁は封州に流され、正言誅死す。

原文時宦者梁守謙幸於帝,頗用事。有梁正言者,與頔子敏善,敏因正言厚賂守謙,求頔出鎮。久不報,敏怒其紿,責所饋,誘正言家奴支解之,棄混中。家童上變,詔捕頔吏沈壁及它奴送御史獄,命中丞薛存誠、刑部侍郎王播、大理卿武少儀雜問之。頔與諸子素服待罪建福門,門史不內,屏營負墻立,更遣人上章,有司拒不聞。翌日復往,宰相諭使還第。貶為恩王傅,子敏竄雷州,至商山,賜死。次子季友奪二官,正及方免官。流壁封州,正言誅死。

久しくして、戸部尚書に拝す。帝蔡を討つに及び、頔家財を献じて国を助く。帝之を卻す。又季友居喪荒宴に坐し、金紫光禄大夫を削らる。帝初め頔に告老せしめんと欲す。宰相李逢吉、謝を得て乃ち優礼なり、責を示す所以に非ずと謂う。明年、乃ち致仕す。宰司将に太子少保を以て之に官せんとす。帝改めて賓客と署す。郁郁として意を得ずして卒す。太保を贈られ、太常謚して厲と曰う。

原文久之,拜戶部尚書。帝討蔡,頔獻家財以助國,帝卻之。又坐季友居喪荒宴,削金紫光祿大夫。帝初欲頔告老,宰相李逢吉謂得謝乃優禮,非所以示責。明年,乃致仕。宰司將以太子少保官之,帝改署賓客。郁郁不得意卒,贈太保,太常謚曰厲。

頔嘗て『順聖楽舞』を制し朝廷に献ず。又女伎を教え八佾と為し、声態雄侈にして、『孫呉順聖楽』と号す。

原文頔嘗制《順聖樂舞》獻諸朝。又教女伎為八佾,聲態雄侈,號《孫吳順聖樂》云。

季友憲宗の永昌公主を尚し、駙馬都尉に拝す。穆宗に従い苑中に獵す。頔の謚を改めんことを求む。会に徐泗節度使李愬も亦為に請う。更に謚を賜いて思と曰う。尚書右丞張正甫詔書を封還す。右補闕高釴・博士王彦威持して不可と謂う、「頔は文吏、倔強にして命に犯し、擅に軍を襄・鄧にし、脅制して朝廷をせんと欲す。不辜を殺し、制囚を留め、使者を遮り、正楽を僭す。勢迫られて朝す、其の宿心に非ず。腰領を全うして歿するも、猶以て幸いと為すべし。更に謚すべからず。」帝従わず。

原文季友尚憲宗永昌公主,拜駙馬都尉。從穆宗獵苑中,求改頔謚,會徐泗節度使李亦為請,更賜謚曰思。尚書右丞張正甫封還詔書,右補闕高釴、博士王彥威持不可,謂:「頔文吏,倔強犯命,擅軍襄、鄧,欲脅制朝廷;殺不辜,留制囚,遮使者,僭正樂。勢迫而朝,非其宿心,得全腰領而歿,猶以為幸,不宜更謚。」帝不從。

方、長慶の時に勛家の子として豪侠に通じ、河朔に事えんと欲し、策を以て宰相元稹に干る。而して李逢吉の党執政を傾けんと謀り、乃ち稹の客を結び裴度を刺すを告ぐ。事下り有司にあり、験するに状無し。方坐して誅せらる。

原文方,長慶時以勛家子通豪俠,欲事河朔,以策幹宰相元稹。而李逢吉黨謀傾執政,乃告稹結客刺裴度,事下有司,驗無狀,方坐誅。

王智興

原文王智興

王智興、字は匡諫、懷州温の人なり。少より驍鋭、徐州の牙兵となり、刺史李洧に事う。洧李納を棄て、州を挈きて自ら帰す。納怒り、急ぎ洧を攻む。智興能く歩を駛め、表を奉じ、数日ならずして京師に至り急を告ぐ。徳宗朔方軍五千を出だし納を撃ち、解き去る。是より徐の特将と為る。

原文王智興,字匡諫,懷州溫人。少驍銳,為徐州牙兵,事刺史李洧。洧棄李納,挈州自歸。納怒,急攻洧。智興能駛步,奉表,不數日至京師告急,德宗出朔方軍五千擊納,解去,自是為徐特將。

呉元済を討伐した時である。李師道は王師を撹乱せんと謀り、しばしば徐州を侵して蔡州を救援せんとした。節度使李願は智興に歩騎を率いて賊を防がせた。その将王朝晏が沛を攻めている時、智興は迎え撃ってこれを破り、朝晏は身を逃して沂州に保った。豊北において姚海の兵五万を撃破し、美妾三人を捕らえた。智興は言う、「軍中に女子がいるからこそ、敗れざるを得ないのだ」と。即ち斬って示し衆に示した。朝晏は沂より軽兵を率いて沛を襲い、狄丘で夜戦し、またこれを破った。累遷して侍御史となった。

原文討吳元濟也。李師道謀撓王師,數侵徐救蔡。節度使李願遣智興率步騎拒賊。其將王朝晏方攻沛,智興逆擊,敗之,朝晏脫身保沂州。進破姚海兵五萬於豐北,獲美妾三人,智興曰:「軍中有女子,安得不敗?」即斬以徇。朝晏自沂以輕兵襲沛,夜戰狄丘,復破之。累遷侍御史。

元和十三年、師道を討つに当たり、智興は歩騎八千を率いて胡陵に駐屯し、忠武軍と合流した。騎兵をその子晏平・晏宰に与えて先鋒とし、自ら軍を率いてこれに続いた。河橋を破壊し、黄隊を収め、金郷を攻め、魚臺を抜き、捕虜斬首は万を数えた。賊が平定されると、進んで御史中丞となった。翌年、召還されて沂州刺史となった。

原文元和十三年,伐師道,智興以步騎八千次胡陵,與忠武軍會,以騎畀其子晏平、晏宰為先鋒,自率軍繼之。壞河橋,收黃隊,攻金鄉,拔魚臺,俘斬萬計。賊平,進御史中丞。明年,召還,為沂州刺史。

長慶初め、河朔に兵を用いた時、検校左散騎常侍を加えられ、武寧軍副使・河北行営諸軍都知兵馬使を充て、兵三千を率いて河を渡った。時に朝廷が崔群を武寧節度使に用いようとしたが、群は智興が制し難いことを畏れ、密かに京師に追還するよう請うたが、返答はなかった。ちょうど王廷湊が赦され、諸節度使が軍を返すこととなった。智興が帰還すると、群は僚属を遣わしてこれを迎えさせ、兵士に甲冑を着けたまま入らせよと命じた。智興は心に快く思わず、兵を率いて関門を斬り破って入り、異を唱える者十余人を殺し、それから群に謁して謝して言う、「これは軍の情勢によるものです」と。群はそこで装いを整えて去り、智興は兵を以て護衛して朝廷に送り返した。埇橋に至ると、塩鉄院及び貢物を掠奪し、商旅を劫略し、濠州刺史侯弘度を追い払った。朝廷は兵を罷めたばかりで、討伐できず、即ち詔して検校工部尚書に任じ、本軍節度使を充てた。智興はこれより財賄を搾り取り、権幸と交わって虚名を買い、用度が足りず、初めて泗口に税を課して軍需を補った。

原文長慶初,河朔用兵,加檢校左散騎常侍,充武寧軍副使、河北行營諸軍都知兵馬使,帥兵三千度河。屬朝廷用崔群為武寧節度使,群畏智興難制,密請追還京師,未報。會赦王廷湊,諸節度班師。智興還,群遣寮屬迎之,令士季甲而入。智興心不悅,因勒兵斬關入,殺異己者十餘輩,然後謁群謝曰:「此軍情也!」群乃治裝去,智興以兵衛送還朝;至埇橋,掠鹽鐵院及貢物,劫商旅,逐濠州刺史侯弘度。朝廷甫罷兵,不能討,即詔檢校工部尚書,充本軍節度使。智興由是揫索財賂,交權幸以賈虛名,用度不足,始稅泗口以佐軍須。

李が宋州を攻めると、智興は精鋭の師を尽くして宋州の西辺に出て、漳口でこれを破った。平定されると、検校尚書左僕射を加えられた。李同捷が滄徳で叛くと、智興は師三万を尽くし五ヶ月分の糧食を携えて賊を討つことを請い、詔して検校司徒・同中書門下平章事・滄德行営招撫使に拝された。戦うや、その将十人・鋭士三千を降し、遂に棣州を抜いた。諸将はこれを聞き、戦いますます力み、遂に功を立てた。入朝し、麟徳殿で宴し、賜与は厚く備わった。冊拝して太傅とし、雁門郡王に封じ、進んで侍中を兼ねた。忠武・河中・宣武の三節度使に改めた。卒す。年七十九。太尉を贈られた。

原文李攻宋州,智興悉銳師出宋西鄙,破之漳口。平,加檢校尚書左僕射。李同捷以滄德叛,智興請悉師三萬賫五月糧討賊,詔拜檢校司徒、同中書門下平章事、滄德行營招撫使。既戰,降其將十輩、銳士三千,遂拔棣州。諸將聞,戰愈力,遂有功。入朝,燕麟德殿,賜予備厚。冊拜太傅,封雁門郡王,進兼侍中。改忠武、河中、宣武三節度。卒,年七十九,贈太尉。

子九人、晏平・宰が知名である。

原文子九人,晏平、宰知名。

智興の子 晏平

原文智興子 晏平

晏平は幼くして父の軍に従い、同捷討伐の功により、検校右散騎常侍・朔方霊塩節度使となった。父の喪に際し、勝手に馬四百・兵械七千を取って自衛し洛陽に帰った。御史がこれを弾劾し、詔ありて康州に流すも、直ちに行かず、ひそかに河北三鎮に援助を求めた。三鎮はその困窮を上表し、撫州司馬に改めた。給事中韋温・薛廷老・盧弘宣らは詔を返して敢えて下さず、永州司戸参軍に改めた。温が固く執したため、文宗が諭して止めた。

原文晏平幼從父軍,以討同捷功,檢校右散騎常侍、朔方靈鹽節度使。父喪,擅取馬四百、兵械七千自衛歸洛陽。御史劾之,有詔流康州,不即行,陰求援於河北三鎮。三鎮表其困,改撫州司馬。給事中韋溫、薛廷老、盧弘宣等還詔不敢下,改永州司戶參軍。溫固執,文宗諭而止。

智興の子 晏宰

原文智興子 晏宰

晏宰は、後に「晏」を去り、単に宰と名乗った。少より拳勇果断で、長じて神策軍に属した。甘露の変に、功により御史大夫を兼ね、光州刺史となった。美政あり、観察使段文昌が朝廷に薦め、塩州刺史に除かれた。法を厳しく執り、人々は甚だ便しとしなかった。累擢して邠寧慶節度使となった。回鶻が平定されると、忠武軍に移った。

原文晏宰,後去「晏」,獨名宰。少拳果,長隸神策軍。甘露之變,以功兼御史大夫,為光州刺史。有美政,觀察使段文昌薦之朝,除鹽州刺史。持法嚴,人不甚便。累擢邠寧慶節度使。回鶻平,徙忠武軍。

劉稹を討つに当たり、詔して宰に兵を出して魏博より磁州に向かわしめた。この時、何弘敬は陰に首鼠両端であり、宰の到着を聞いて大いに懼れ、即ち軍を率いて漳水を渡った。宰相李徳裕が建言する、「河陽の兵は寡なく、忠武を以て援けとし、既に洛を捍ぐならば、併せて魏博を制すべし」と。遂に詔して宰に兵五千を以て鋒を推し、兼ねて河陽行営を統べしめた。進んで天井関を取ると、賊党は離散沮喪した。徳裕は宰が破竹の勢いに乗じて澤州を取らなかったことを、その子晏実に磁を守らせ、顧望の計を為したためとし、帝は詔を下して切に責めた。宰は懼れ、急ぎ陵川を攻め、賊を石会関で破り、進んで澤州を攻めた。その将郭誼が稹を殺して降った。宰は稹の首を京師に伝え、遂に太原を節度した。

原文討劉稹也,詔宰以兵出魏博,趨磁州。當是時,何弘敬陰首鼠,聞宰至,大懼,即引軍濟漳水。宰相李德裕建言:「河陽兵寡,以忠武為援,既以捍洛,則並制魏博。」遂詔宰以兵五千椎鋒,兼統河陽行營。進取天井關,賊黨離沮。德裕以宰乘破竹勢不遂取澤州,以其子晏實守磁,為顧望計,帝有詔切責。宰懼,急攻陵川,破賊石會關,進攻澤州。其將郭誼殺稹降。宰傳稹首京師,遂節度太原。

宣宗の初め、入朝し、厚く権幸と結んで宰相を求めたが、周墀がこれを弾劾したため、軍に還った。吐蕃が党項・回鶻を引き連れて河西を寇すと、詔して代北諸軍を統率して進撃せしめた。疾により職務に堪えず、河陽に移った。罷められて太子少保となり、東都に分司した。進んで少傅となり、卒した。

原文宣宗初,入朝,厚結權幸求宰相,周墀劾之,乃還軍。吐蕃引党項、回鶻寇河西,詔統代北諸軍進擊。以疾不任事,徙河陽。罷為太子少保,分司東都。進少傅,卒。

晏実は幼より機警で、智興が自ら養育したため、名を諸父と同列にした。稹が平定されると、抜擢されて淄州刺史となり、終わりに天雄節度使となった。

原文晏實幼機警,智興自養之,故名與諸父齒。稹平,擢淄州刺史,終天雄節度使。

杜兼

原文杜兼

杜兼、字は処弘、中書令正倫の五世孫である。初め、正倫に子がなかったため、兄の子誌静を後嗣とした。父の廙は、鄭州録事参事軍事であった。安禄山の乱に、逃げ去ったが、賊が急に索めたため、宋州刺史李岑が兵を以て迎えたが、追騎に害された。兼は尚幼く、終南山に逃げ入った。伯父存介が賊に捕らえられ、刑に臨む時、兼は号呼して奴となることを願って贖おうとしたため、遂に皆免れた。

原文杜兼,字處弘,中書令正倫五世孫。初,正倫無子,故以兄子誌靜為後。父廙,為鄭州錄事參事軍事。安祿山亂,逃去,賊索之急,宋州刺史李岑以兵迎之,為追騎所害。兼尚幼,逃入終南山。伯父存介為賊執,臨刑,兼號呼願為奴以贖,遂皆免。

建中初め、進士に高第し、徐泗節度使張建封が上表してその府に置いた。労を積んで濠州刺史となった。性浮薄で険悪、豪奢を尚んだ。徳宗は既に兵を厭い、大抵刺史は重代で交替しやすく、数年も移らないこともあった。兼は帝の意を探り、自らを固めんと謀り、即ち武備を修め、勁兵三千を募って占めた。帝は才能と認め、遂に横暴恣肆となった。僚官の韋賞・陸楚は皆聞家の子で、美誉あり、事を論じて兼に逆らい、罪を誣えて弾劾した。帝が中人を遣わすと、兼は廷で労い終え、詔を出して賞らを捕らえて殺した。二人は無罪で死に、衆は冤しまざるはなかった。また妄りに令狐運を拘束して李藩を陥れ、殺そうとしたが、果たせなかった。

原文建中初,進士高第,徐泗節度使張建封表置其府。積勞為濠州刺史。性浮險,尚豪侈。德宗既厭兵,大抵刺史重代易,至歷年不徙。兼探帝意,謀自固,即脩武備,募占勁兵三千。帝以為才,遂橫恣。僚官韋賞、陸楚皆聞家子,有美譽,論事忤兼,誣劾以罪。帝遣中人至,兼廷勞畢,出詔執賞等殺之,二人無罪死,眾莫不冤。又妄系令狐運而陷李藩,欲殺之,不克。

元和の初め、刑部郎中として朝廷に入り、蘇州刺史に改めた。赴任に際し、上書して李錡必ず反すと述べ、留められて吏部郎中となった。まもなく河南尹に抜擢された。杜佑は平素より兼と親しく、終始彼を倚りどころとして助力とした。赴任地では大いに殺戮し、財貨を収集し、嗜欲を極めた。幸いその時勢に適い、敗れることはなかった。卒す。年七十。家に集めた書は万巻に及び、その末尾に署名し、売り払うことを不孝として、子孫を戒めた。

原文元和初,入為刑部郎中,改蘇州刺史。比行,上書言李锜必反,留為吏部郎中。尋擢河南尹。杜佑素善兼,終始倚為助力。所至大殺戮,裒蓺財貲,極耆欲。適幸其時,未嘗敗。卒,年七十。家聚書至萬卷,署其末,以墜鬻為不孝,戒子孫云。

兼の従弟 羔

原文兼從弟 羔

従弟の羔は、貞元初年に進士第に及第し、至性があった。父は河北で死に、母は兵乱に遭い、行方知れずとなったので、羔は終日憂い号泣した。兼が澤潞判官となった時、獄を審理すると、ある老女が弁対して凡ならざるものがあり、それが羔の母であったため、これに奉養することができた。しかし父の墓の所在を知らず、昼夜哀慟した。ある日仏祠に宿り、柱間に文字があるのを見ると、それは父が臨終に墓の所在を記したものであった。羔は駆け往き、また耆老がその塚を識っており、これによって葬ることができた。元和中、萬年令となった。時に許季同が長安令であり、京兆尹元義方が租賦を期に納めないことを責め、両県の吏を拘束して罪に処そうとした。羔らは特に苦しく弁列したが、尹はこれを赦さなかった。羔は宰相に謁し、散官への移動を請うた。憲宗は中使を遣わして事情を問わせ、府政が苛細で力及ばず奉仕できないことを詳しく答えた。詔して皆免官とし、尹の三か月の俸を奪った。議者は羔を直と評した。まもなく戸部郎中を授かり、後に振武節度使を歴任し、工部尚書をもって致仕した。卒す。尚書右僕射を追贈され、諡して敬といった。

原文從弟羔,貞元初及進士第,有至性。父死河北,母更兵亂,不知所之,羔憂號終日。及兼為澤潞判官,鞫獄,有媼辨對不凡,乃羔母,因得奉養。而不知父墓區處,晝夜哀慟;它日舍佛祠,觀柱間有文字,乃其父臨死記墓所在。羔奔往,亦有耆老識其壟,因是得葬。元和中,為萬年令,時許季同為長安令,京兆尹元義方責租賦不時,系二縣吏,將罪之。羔等辯列尤苦,尹不為縱。羔乃謁宰相,請移散官。憲宗遣中使問狀,具對府政苛細,力不堪奉。詔皆免官,奪尹三月俸。議者以羔為直。未幾,授戶部郎中,後歷振武節度使,以工部尚書致仕。卒,贈尚書右僕射,謚曰敬。

兼の子 中立

原文兼子 中立

子の中立は、字を無為といい、門蔭によって太子通事舍人を歴任した。開成初め、文宗は真源・臨真の二公主を士族に降嫁させようとし、宰相に言った、「民間では婚姻を修めるに、官品を計らずに閥閲を重んじる。我が家は二百年の天子であるが、顧みて崔・盧に及ばないのか」と。詔して宗正卿に世家の子を選んで奏聞させた。中立と校書郎衛洙が禁中に召し出され、著作郎に拝された。一か月のうちに、光禄少卿・駙馬都尉に遷り、真源長公主を尚った。

原文子中立,字無為,以門蔭歷太子通事舍人。開成初,文宗欲以真源、臨真二公主降士族,謂宰相曰:「民間脩婚姻,不計官品而上閥閱。我家二百年天子,顧不及崔、盧耶?」詔宗正卿取世家子以聞。中立及校書郎衛洙得召見禁中,拜著作郎。月中,遷光祿少卿、駙馬都尉,尚真源長公主。

中立はしばしば自ら試みることを求め、憤憤として楽しまず、言った、「朝廷の法令は備わっている。私が任事に堪えなければ、どうして貴戚を頼んで天下の法を撓がせようか」と。帝はこれを異と聞き、太僕・衛尉の二少卿に転じ、左右金吾大将軍を歴任した。京師の悪少が道中で俳優の戯れをし、騶唱や呵衛の具を備え、自ら「盧言京兆」と称し、勝手に駆け放題であった。中立は配下の吏を部して捕らえさせ、すぐに杖殺した。司農卿に遷った。吏を急峻に糾弾したため、かえって中傷され、左遷されて慶王傅となった。

原文中立數求自試,憒憒不樂,因言:「朝廷法令備具,吾若不任事,何賴貴戚撓天下法耶?」帝聞異之,轉太仆、衛尉二少卿,歷左右金吾大將軍。京師惡少優戲道中,具騶唱呵衛,自謂「盧言京兆」,驅放自如。中立部從吏捕系,立箠死。遷司農卿。繩吏急,反為中傷,左徙慶王傅。

久しくして、再び司農卿に拝され、入朝して謝すると、帝は言った、「卿は用法が厳しいというが、本当か」と。答えて言った、「轂下の百司は名を養って事を肯んぜず、司農は特に煩劇である。陛下は流言を急に信ぜず、臣に数か月の時を与えられば、事は成し遂げられましょう」と。帝はこれを許した。初め、度支が六宮の飧錢を度して司農に移すと、司農は季ごとに一度出して吏に渡し、大吏は給する所のものを全て人に貸し付け、その利息を権衡して給していたが、時を以てせず、黄門が来て督責し慢罵した。中立は錢を取って帑舍に納め、五日ごとに一度出すようにし、吏が奸を行うことができず、後にこれを法とした。検校右散騎常侍を加えられた。

原文久之,復拜司農卿,入謝,帝曰:「卿用法深,信乎?」答曰:「轂下百司養名不肯事,如司農尤叢劇。陛下無遽信流言,假臣數月,事可濟。」帝許之。初,度支度六宮飧錢移司農,司農季一出付吏,大吏盡舉所給於人,權其子錢以給之,既不以時,黃門來督責慢罵。中立取錢納帑舍,率五日一出,吏不得為奸,後遂以為法。加檢校右散騎常侍。

京兆尹が欠員となった時、宣宗は彼を用いようとしたが、宰相は年少を理由に、その能力を歴試しようとし、改めて義武節度使として出させた。旧来の傜車三千乗を、毎年塩海の辺りで免除していたが、民はこれを苦しんでいた。中立は「飛雪将」数百人を置き、舟を具えてこれを運ばせ、これより民は労せず、軍食は足りた。大中十二年、大水が徐・兗・青・鄆に氾濫し、滄州の地は低く積もっていたので、中立は自ら巡行し、禦水を毛河に引き入れ、東に海に注がせ、州に水災がなくなった。卒す。年四十八。工部尚書を追贈された。

原文京兆尹缺,宣宗將用之,宰相以年少,欲歷試其能,更出為義武節度使。舊傜車三千乘,歲免鹽海瀕,民苦之。中立置「飛雪將」數百人,具舟以載,自是民不勞,軍食足矣。大中十二年,大水泛徐、兗、青、鄆,而滄地積卑,中立自按行,引禦水入之毛河,東註海,州無水災。卒,年四十八,贈工部尚書。

中立は官に在って精明であり、吏下は寒慄して畏伏した。中ごろ累に坐して免官されたこともあったが、再び用いられても寛假することなく、それは天資の長ずるところであった。

原文中立居官精明,吏下寒栗畏伏。中雖坐累免,及復用,亦不為寬假,其天資所長云。

杜亞

原文杜亞

杜亞は、字を次公といい、自ら本は京兆の人であると云った。粛宗が霊武に在った時、上書して当世の事を論じ、校書郎に抜擢された。杜鴻漸が河西節度使となると、奏して幕府に署した。朝廷に入り、吏部員外郎を歴任した。鴻漸が山南・剣南副元帥となると、亞は楊炎と共に判官となった。再び諫議大夫に遷った。

原文杜亞,字次公,自云本京兆人。肅宗在靈武,上書論當世事,擢校書郎。杜鴻漸節度河西,奏署幕府。入朝,歷吏部員外郎。鴻漸為山南、劍南副元帥,亞與楊炎並為判官。再遷諫議大夫。

亞は自ら衡柄を執るべきと思い、悒悒として悦ばなかった。李棲筠は風望が高く、時に宰相となるべきと謂われたので、亞は厚く結び付けた。元載が罪を得ると、亞は劉晏らと共にこれを劾治した。載が死ぬと、給事中に遷った。常袞は彼を憎み、江西観察使として出させた。徳宗が立つと、召還された。亞は必ず臺宰に任ぜられると思い、倍道して進んだ。人と語ることは、皆天下の大政であった。ある人が事を以て祈謁すると、すぐに然りと承諾した。帝はこれを知り、悦ばなかった。既にまた奏疏を建てるも疎闊で、旨に称わず、罷められて陝虢観察兼転運使となった。河中に移った。劉晏が罪に抵ると、睦州刺史に貶された。

原文亞自以當衡柄,悒悒不悅。李棲筠風望高,時謂當宰相,故亞厚結納。元載得罪,亞與劉晏等劾治。載死,遷給事中。常袞惡之,出為江西觀察使。德宗立,召還。亞意必任臺宰,倍道進。與人語,皆天下大政。或以事祈謁,輒相然可。帝知,不悅也。既又建奏疏闊,不稱旨,罷為陜虢觀察兼轉運使。徙河中。劉晏抵罪,貶睦州刺史。

興元の初め、入朝して刑部侍郎に遷り、また淮西節度使に拝された。着任すると漕渠を治め、湖陂を引き、防庸を築き、これを渠中に入れて大舟を通じさせ、堤を夾んで高くし、田はこれによって灌漑を得た。道衢を疏啓し、壅塞を通じ堙塞を徹し、人皆悦び頼った。しかし陳少遊の後を承け、裒率は煩重で、用度に藝がなく、人は矯革を冀っていたが、亞は雅に丞弼を意とし、外官を厭い、往々にして親しく事をせず、日夜賓客を召して言噱流連した。春の盛り、南民が競度の戯れをした時、亞は軽快に走らせようと、船底を漆塗りし、篙人に油彩の衣を着せ、水に没しても濡れず、観沼は華麗で邃かで、費用は皆千万に及んだ。隴西の李衡が座に在り、言った、「桀・紂がこれを為しても、これに過ぎることはない」と。九曲池を泛べた後、繍を曳いて帆とし、誇って言った、「この林沼に称うべきである」と。衡は言った、「錦纜がまだないのに、どうして云うのか」と。亞は大いに慚じた。これより府の財は耗竭した。

原文興元初,入遷刑部侍郎,又拜淮西節度使。至則治漕渠,引湖陂,築防庸,入之渠中,以通大舟,夾堤高卬,田因得溉灌。疏啟道衢,徹壅通堙,人皆悅賴。然承陳少遊後,裒率煩重,用度無藝,人冀有所矯革,而亞雅意丞弼,厭外官,往往不親事,日夜召賓客言噱流連。方春,南民為競度戲,亞欲輕駛,乃髹船底,使篙人衣油彩衣,沒水不濡,觀沼華邃,費皆千萬。隴西李衡在坐,曰:「使桀、紂為之,不是過也!」既泛九曲池,曳繡為帆,詫曰:「要當稱是林沼。」衡曰:「未有錦纜,云何?」亞大慚。自是府財耗竭。

貞元中、罷められて帰った。宰相竇參はその宿望を憚り、検校吏部尚書として東都留守とした。風痹の病で廃人のようになったが、なお寵を固めようとし、苑中を墾いて営田とし、度支の歳稟を減らせると奏上した。詔してこれを許した。先に、苑地で耕すべきものは、皆留司の中人や屯士が占拠借用していた。亞は計窮まり、さらに軍帑の錢を挙げて甸人に貸し、秋に至って菽粟を取って利息を償い軍中に輸送させたが、貧しく償えない者は囷窖を発して略尽し、流亡は過半に及んだ。また中人に賄賂して河南尹を兼ねることを求めた。帝はその妄りを審らかにし、礼部尚書董晉を代わりに遣わし、亞に還ることを賜った。病で謁することができなかった。卒す。年七十四。太子少傅を追贈され、諡して肅といった。

原文貞元中,罷歸。宰相竇參憚其宿望,以檢校吏部尚書留守東都。病風痹且廢,猶欲固寵,奏墾苑中為營田,可減度支歲稟。詔許之。先是,苑地可耕者,皆留司中人及屯士占假。亞計窘,更舉軍帑錢與甸人,至秋取菽粟償息輸軍中,貧不能償者發囷窖略盡,流亡過半。又賂中人求兼河南尹。帝審其妄,使禮部尚書董晉代之,賜亞還。病不能謁。卒,年七十四,贈太子少傅,謚曰肅。

范傳正

原文范傳正

范傳正、字は西老、鄧州順陽の人なり。父の惀は戸部員外郎となり、趙郡の李華と善くし、当世に名有り。傳正は進士・宏辞に挙げられ、皆高第を得、集賢殿校書郎を授かる。歙・湖・蘇の三州刺史を歴任し、殊政有り、宣歙觀察使に進みて拝せらる。代わりて還り、第宅を治むるに制を過ぐるに坐し、憲宗薄くして用いず、光祿卿に改む。風痹にて卒す。左散騎常侍を贈らる。

原文范傳正,字西老,鄧州順陽人。父惀,為戶部員外郎,與趙郡李華善,有當世名。傳正舉進士、宏辭,皆高第,授集賢殿校書郎。歷歙、湖、蘇三州刺史,有殊政,進拜宣歙觀察使。代還,坐治第過制,憲宗薄不用,改光祿卿。以風痹卒,贈左散騎常侍。

傳正は古を好み、性精悍にして、初め自ら整飭す。官益々達し、用度益々奢侈に、資貨を傾けて権貴の歓を買い、公府を私すること家の帑の如し。亦た幸いに素より名有りて、敗れざるを得たりと云う。

原文傳正好古,性精悍,初自整飭。宦益達,用度益奢侈,傾貲貨市權貴歡,私公府如家帑,亦幸素有名,得不敗云。