新唐書

巻一百六十六 列傳第九十一 賈耽 杜佑子:式方 從郁 孫:悰 慆 牧 顗 曾孫:裔休 令狐楚子:緒 綯 孫:滈 渙 沨 弟:定

賈耽

賈耽、字は敦詩、滄州南皮の人なり。天寶年中、明経に挙げられ、臨清尉を補す。上書して事を論じ、太平に徙る。河東節度使王思禮、度支判官に署す。累進して汾州刺史となり、治むること凡そ七年、政に異績あり。召されて鴻臚卿を授け、左右威遠営使を兼ぬ。俄にして山南西道節度使と為る。梁崇義東道に反し、耽進んで谷城に屯し、均州を取る。建中三年、東道に徙る。德宗梁に在り、耽司馬樊沢を使わして事を奏す。沢還り、耽大いに酒を置き諸将を会す。俄かに急詔至り、沢を以て耽に代え、工部尚書に召す。耽詔を懐に納れ、飲むこと故の如し。罷りて既に、沢を召して曰く「詔に公を以て見代すとあり、吾将に行いを治めん」と。将吏を勅して沢に謁せしむ。大将張献甫曰く「天子播越し、而して行軍公の命を以て行在を問う。乃ち旄鉞を規り、公の土地を利す、人に事うるに忠ならざると謂うべし。軍中平らかならず、請う公が為に之を殺さん」と。耽曰く「是れ何を謂うぞ。朝廷命有らば、即ち帥たり。吾今趨覲し、君を以て俱にするを得ん」と。乃ち行く、軍中遂に安んず。

俄にして東都留守と為る。故事に、居守は城を出でず。耽の善射を以て、優詔して近郊に狩るを許す。義成節度使に遷る。淄青の李納偽号を削がるれども、陰に奸謀を蓄え、逞うする所有らんことを冀う。其の兵数千自ら行営より還り、道滑に出ず。或いは外に館すべしと謂う。耽曰く「我と鄰道たるに、奈何ぞ之を疑い、野に暴からしめんや」と。命じて城中に館し、廡下に宴す。納の士皆心服す。耽每に畋すに、数百騎に従い、往往にして納の境に入る。納大いに喜び、然れども其の徳を畏れ、謀ることを敢えず。

貞元九年、尚書右僕射同中書門下平章事を以てし、俄に魏国公に封ぜらる。常に方鎮の帥缺は、当に天子自ら之を命ずべく、若し軍中に之を謀らば、則ち下に背向有り、人固より安からずとす。帝然りとすれども、用いず。順宗立ち、検校司空しくう・左僕射に進む。時に王叔文等政を幹み、耽之を病み、屢疾を移し骸骨を乞うも、許さず。卒す、年七十六、太傅を贈られ、謚して元靖と曰う。

耽書を観るを嗜み、老いて益々勤しみ、尤も地理に悉し。四方の人と夷狄に使する者之を見れば、必ず従いて風俗を詢索す。故に天下の地土区産・山川夷岨、必ず究め知る。方に吐蕃盛んにして強く、隴西を盗み有つ。異時に州県の遠近、有司復た伝えず。耽乃ち隴右・山南九州を布に絵し、且つ河の経受する所を載せて図と為し、又洮湟甘涼の屯鎮頟籍・道里の広狭・山険水原を以て『別録』六篇・『河西戎之録』四篇と為し、之を上る。詔して幣馬珍器を賜う。又『海内華夷』を図す、広三丈、従三丈三尺、寸を以て百里と為す。並びに『古今郡国県道四夷述』を撰す。其の中国は『禹貢』に本づき、外夷は班固の『漢書かんじょ』に本づく。古の郡国は墨を以て題し、今の州県は朱を以てす。疏舛を刊落し、多く厘正す。帝之を善しとし、賜予加等す。或いは図を指して其の邦人を問うも、皆其の真を得たり。又『貞元十道録』を著す。貞観天下を分ち十道に隷するを以てし、景雲に在りては按察と為り、開元に在りては采訪と為り、廃置升降備わりたり。陰陽雑数に至るまで通ぜざる無し。

其の器恢然たり、蓋し長者なり。人物を臧否するを喜ばず。相と為ること十三年、安危の大事に発明する所亡きも、身を検め行いを厲するは、自ら其の長とする所なり。毎に第に帰れば、賓客に対し少も倦むこと無く、家人近習、其の喜慍を見ず。世に淳徳有常の者と謂う。

杜佑

杜佑、字は君卿、京兆萬年の人なり。父希望、然諾を重んじ、交遊する所皆一時の俊傑なり。安陵令と為り、都督ととく宋慶礼其の異政を表す。小累に坐して官を去る。開元中、交河公主突騎施に嫁ぎ、詔して希望を和親判官と為す。信安郡王漪表して霊州別駕・関内道度支判官に署す。代州都督より召されて京師に還り、辺事に対し、玄宗之を才とす。吐蕃の勃律を攻むるに属し、勃律帰するを乞う。右相李林甫方に隴西節度を領す。故に希望を鄯州都督に拝し、留後を知らしむ。伝を馳せて隴を度り、烏莽の衆を破り、千余級を斬り、進んで新城を抜き、旅を振るいて還る。鴻臚卿に擢でらる。ここに於て鎮西軍を置く。希望師を引きて塞下に部分す。吐蕃懼れ、書を遺わして和を求む。希望報じて曰く「和を受くるは臣下の得て専にする所に非ず」と。虜衆を悉くして檀泉を争う。希望大小数十戦し、其の大酋を俘え、莫門に至り、積蓄を焚き、卒く城して還る。二子に官を授く。時に軍屢興し、府庫虚寡なり。希望数歳居るに、芻粟金帛豊余す。宦者牛仙童辺を行く。或いは希望に其れを結ぶを勧む。答えて曰く「貨を以て身を藩う、吾忍びず」と。仙童還り奏して希望職せずとす。下遷して恒州刺史と為し、西河に徙す。而して仙童諸将の金を受くる事泄れ、死に抵い、金を畀うる者皆罪を得たり。希望文学を愛重し、門下に引く所崔顥等の如き皆名当時に重し。

佑蔭を以て済南参軍事・剡県丞を補す。嘗て潤州刺史韋元甫に過ぐ。元甫故人の子を以て之を待ち、礼を加えず。它日、元甫疑獄有りて決する能わず。試みに佑に訊く。佑為に弁処し、契要尽くさざる無し。元甫之を奇とし、司法参軍に署す。府浙西・淮南に徙り、表して幕府に置く。入りて工部郎中と為り、江淮青苗使を充て、再遷して容管経略使と為る。楊炎政を輔く。金部郎中を歴とし、水陸転運使と為り、度支兼和糴使に改む。ここに於て軍興饋漕、佑剸決を得たり。戸部侍郎を以て度支を判ず。建中初、河朔兵戦を挐え、民困し、賦出す所無し。佑以為く、敝を救うは用を省くに若くは莫し。用を省くは則ち官を省くべしと。乃ち議を上りて曰く。

漢光武建武中県四百を廃し、吏率十に署一。魏太和時に使者を分遣して吏員を省き、正始時に郡県を並す。晋太元官七百を省く。隋開皇郡五百を廃す。貞観初内官六百員を省く。官を設くるの本、衆庶を治むるを以てす。故に古者は人を計りて吏を置き、虚設を肯んぜず。漢より唐に至る、征戦艱難に因りて吏員を省く、誠に弊を救うの切なるなり。

昔、咎繇が士(刑官)となったが、今の刑部尚書・大理卿は、二つの咎繇である。垂が共工(工官)となったが、今の工部尚書・将作監は、二つの垂である。契が司徒しととなったが、今の司徒・戸部尚書は、二つの契である。伯夷が秩宗となったが、今の礼部尚書・礼儀使は、二つの伯夷である。伯益が虞(山沢の官)となったが、今の虞部郎中・都水使司は、二つの伯益である。伯冏が太僕となったが、今の太僕卿・駕部郎中・尚輦奉御・閑廄使は、四つの伯冏である。古の天子には六軍があり、漢には前後左右将軍が四人いたが、今の十二衛・神策八軍では、将軍は合わせて六十員である。旧い官名は廃されず、新たな官職は日に日に加わる。また漢が別駕を置き、刺史に随行して巡察させたのは、今の観察使に副使があるようなものである。参軍とは、その府の軍事に参与することで、今の節度判官のようなものである。官名と職務は、単に変遷し易いだけであって、どうして実質が異なることがあろうか。まことに繁簡を斟酌すべきである。治を致そうとする者は、まず名を正すべきである。神龍年間、官紀は乱れ果て、役所は選抜者を大いに集めたが、欠員がなかったため、員外官を二千人置き、これ以後常例となった。開元・天宝の頃、四方に憂いがなく、戸籍に登録された戸数は九百余万、国庫は豊かに溢れ、たとえ無駄な出費があっても憂うるに足らなかった。今、民衆は疲弊し、天下の戸数は百三十万、陛下が使者に命じて調査させたところ、わずか三百万を得たに過ぎず、天宝の三分の一に相当し、その中にも虚偽の寄寓が五分の二を占める。租税を出す者はすでに減耗しているのに、それを食む者は旧来のままである。どうして改革しないでいられようか。

議論する者は、天下にまだ跋扈して朝廷に服さぬ者がいるので、一度官吏を削減すれば、罷免された者たちは皆そこに身を寄せるだろうと言う。これは常情に基づく説であって、およそ至論ではない。そもそも有能な者は推挙任用されるのであり、無能な者がどこへ行こうと何を憂えようか、ましてや姻戚や家産を顧みるなどということがあろうか。建武の時、公孫述・隗囂が未だ滅びず、太和・正始・太元の時、呉・しょくが鼎立し、開皇の時、陳がなお割拠していたが、皆優れた人材を網羅し、人材を失って敵に資することを憂えなかった。今、田悦の輩は刑を煩くし賦を暴にし、ただ軍務に心を砕き、士人を奴隷のように遇するので、固より范睢が秦に仕えたり賈季が狄を強くするような憂いはない。もし習い久しくして急に改められないというなら、しばらく別駕・参軍・司馬、州県の定員内の官を臨時に削減し、戸数に応じて尉を置くべきである。罷免されるべき者で、行義のある者は、在所の役所が上聞に達せよ。事実と異なる場合は、推挙した者が罪に坐す。誰にも推挙されない者は、通常の選考に任せよ。それで何を憂えようか。例えば魏が柱国を置いた時、当時の宿徳で盛業ある者がこれに居り、貴寵第一であった。周・隋の間に授受がすでに多く、国家はこれを勲級とし、わずか田地三十頃を得るに過ぎない。また開府儀同三司・光禄大夫も、もとは官名であったが、あまりに多くなったので、階級に改めたのである。時に応じて制度を立て、弊害があれば変えるのであり、どうして因循して改作を憚る必要があろうか。

建議が入ったが、省みられなかった。

盧杞が国政を執ると、彼を憎み、蘇州刺史として出させた。前任の刺史が母の喪で解任されたが、杜佑の母は存命であったので、辞して行かず、饒州に改められた。まもなく嶺南節度使に遷った。杜佑は大通りを開き、町屋の区画を整理して、火災を鎮めた。朱崖の黎民が三代にわたり険阻な地に拠って帰順しなかったが、杜佑は討伐平定した。召されて尚書右丞に拝された。まもなく淮南節度使として出され、母の喪で解任を願い出たが、詔は許さなかった。

徐州節度使張建封が卒すると、軍が乱を起こし、その子の張愔を立てて朝廷に請うたが、帝は許さず、そこで杜佑を検校尚書左僕射・同中書門下平章事とし、徐泗を節度してこれを討定させた。杜佑は舟艦を整え、配下の将孟準に命じて淮を渡り徐州を撃たせたが、勝てず、引き返した。杜佑は出師の応変に長けておらず、国境を固守して進もうとせず、ついに張愔を徐州節度使に任命し、濠・泗の二州を淮南に隷属させた。初め、杜佑は雷陂を決壊させて灌漑を広げ、海辺の棄てられた土地を開拓して田とし、蓄積した米は五十万斛に至り、三十区の営を列ね、兵馬は整い、四隣はこれを畏れた。しかし僚佐に寛大であったため、南宮僔・李亜・鄭元均らが権力を争って政を乱すに至り、帝は杜佑のために彼らを斥け去った。

十九年、検校司空・同中書門下平章事に拝された。徳宗が崩じると、詔して冢宰を摂行させた。検校司徒に進み、度支塩鉄使を兼ねた。この時、王叔文が副使となったが、杜佑はすでに宰相として自ら事を親しまず、叔文が遂に専権した。後に叔文が母の喪で邸に帰ると、杜佑が何か按決しようとすると、郎中陳諫が叔文を待つよう請うた。杜佑は「使者は専断してはならぬというのか」と言い、陳諫を河中少尹として出した。叔文は東宮(皇太子)を揺るがそうとし、杜佑の助力を期待したが、杜佑は応じず、そこで彼を追い落とそうと謀ったが、決せぬうちに敗れた。杜佑は改めて李巽を推挙して自らの副使とした。憲宗が諒闇(喪中)にある時、再び冢宰を摂行し、度支塩鉄の職務を全て李巽に譲った。初め、度支は吝嗇で、出費が多く、吏を署して百司の職務を権宜に摂行させ、煩雑で綱紀がなかった。杜佑は営繕の事を将作監に戻し、木炭の事を司農寺に帰し、湅染の事を少府監に戻して、職務を簡素に整えた。翌年、司徒に拝され、岐国公に封ぜられた。

党項が密かに吐蕃を導いて乱を起こすと、諸将は功を求めて、討伐を請うた。杜佑は、良き辺境の臣がいないために、作為があって叛くのだと考え、すぐに上疏して言った。

昔、周の宣王が中興した時、獫狁が害をなしたが、太原まで追撃し、国境に至って止め、中国を疲弊させて遠夷を怒らせまいとした。秦は兵力を恃み、北は匈奴を拒ぎ、西は諸羌を逐い、怨みを結んで乱の階梯とし、実に謫戍(罪人を辺境に戍らせること)を生んだ。およそ聖王が天下を治めるには、ただ民衆を安寧にしたいと願い、西は流沙に至り、東は海に及び、北と南では、ただ声教(教化)を存するのみで、どうして内を疲弊させて外に事えようか。昔、馮奉世が詔を矯って莎車王を斬り、その首を京師に伝え、威は西域に震ったが、宣帝が爵土を加えようと議すると、蕭望之だけが、詔を矯り命に違えたので、たとえ功があっても法とすべきでなく、後世の使者が国家のために夷狄に事を生じさせることを恐れる、と言った。近ごろ突厥の默啜が中国を寇害した時、開元初め、郝霊佺が捕らえて斬り、自らその功は二つとないと言ったが、宋璟は辺臣がこれによって功を求めることを憂え、ただ郎将を授けただけであった。これによって開元の盛時まで、再び辺境のことを議せず、中国は遂に安泰となった。これは成敗の鑑戒が遠くないのである。

党項は小さな蕃族で、中国と雑居している。この間、辺境の将が侵奪し、その良馬や子女を利し、徭役を求め徴発したため、遂に叛亡に至り、北狄や西戎と相誘って辺境を盗んだのである。『伝』に言う、「遠人が服さないならば、文徳を修めてこれを来たらしめる」と。管仲に言がある、「国家は勇猛な者を辺境に使ってはならない」と。これはまことに聖哲が微を知り著を察する方略である。今、戎狄の類がまさに強く、辺境の守備は充実していない。まことに良将を慎んで選び、彼らに完備統括させ、誅求を禁絶し、信誠を示し、来れば懲らしめ防ぎ、去れば謹んで備えるべきである。彼らはまさに懐柔され、その奸謀を改めるであろう。どうして急いで師役を興し、労費を坐して取る必要があろうか。

帝はこれを嘉納した。

一年余りして、致仕を乞うたが、聞き入れられず、詔して三五日に一度中書省に入り、政事を平章するように命じた。杜佑が進見する度に、天子は彼を尊礼し、官名で呼んで名を呼ばなかった。後数年して、固く骸骨を乞うたので、帝は已むなくこれを許した。なお光禄大夫・守太保のまま致仕させ、朔望の朝参を行わせ、中人を遣わして賜与を厚くした。元和七年に卒した。年七十八。冊贈して太傅とし、謚して安簡といった。

杜佑は学問を好む資質で、貴くなってもなお夜分まで読書した。先に、劉秩が百家の説を拾い集め、周の六官の法に倣って『政典』三十五篇を著したが、房琯はその才が劉向を過ぎると称賛した。杜佑はこれが未だ尽くしていないと考え、その欠けを広め、新たな礼を参考に加えて二百篇とし、自ら『通典』と号して奏上した。優詔して嘉賞し、儒者はその書が簡約で詳しいことを服した。

人となり平易で遜順、物事に違忤せず、人皆これを愛重し、漢の胡広に比す、然れども練達文采は及ばざるなり。朱坡樊川に、頗る亭観林を治め、山を鑿ち泉を股き、賓客と酒を置きて楽しみを為す。子弟皆朝請を奉じ、貴盛一時の冠たり。天性吏職に精しく、治めるところ察せず、数たび計賦を斡め、民の利病を相して上下し、議者佑の治行欠くるところなしと称す。惟だ晚年妾を以て夫人と為し、蔽うところ有りと云う。

子 式方

式方、字は考元、蔭により揚州参軍事を授かる。再び遷りて太常寺主簿となり、音律を考定し、卿高郢これを称す。佑既に相と為り、出でて昭応令と為り、遷りて太僕卿となる。子悰、公主に尚る。式方右戚を以て、輒ち病みて事を視ず。穆宗立ち、桂管観察使を授かる。弟従郁痼疾に、躬ら方薬羞膳を営み、及び死す、期して泣き、世その篤行を称す。卒し、礼部尚書を贈らる。

式方弟 従郁

従郁、元和初め左補闕と為り、崔群等宰相の子を以て嫌い、再び徙りて秘書丞となる。終に駕部員外郎。子牧。

式方子 悰

悰、字は永裕、門蔭により三たび遷りて太子司議郎と為る。権徳輿相と為るや、其の婿翰林学士独狐郁嫌いを以て自ら白す。憲宗郁の文雅を見て、嘆じて曰く「徳輿に婿乃ちかくの如き有り!」時に岐陽公主は帝の愛女なり。旧制、選ぶところ多く戚裏将家、帝始めて詔して宰相李吉甫に大臣の子を択ばしむ、皆疾を辞す、唯だ悰選ばれて麟徳殿に召し見ゆ。礼成り、殿中少監・駙馬都尉を授かる。太和初め、澧州刺史より召されて京兆尹と為り、遷りて鳳翔忠武節度使となる。入りて工部尚書と為り、度支を判ず。会に公主薨じ、悰久しく謝せず、文宗之を怪しむ。戸部侍郎李玨曰く「比の駙馬都尉皆公主の為に斬衰三年を服す、故に悰謝するを得ず」と。帝矍然とし、始めて詔して杖して期とし、令に著す。

会昌初め、淮南節度使と為る。武宗詔して揚州監軍に倡家の女十七人を取って禁中に進めしむ、監軍悰に同選を請い、又た良家に姿相有る者を閲せんと欲す、悰曰く「吾詔を奉ぜずして輒ち与うれば、罪なり」と。監軍怒り、表して帝にす。帝悰大臣の体有りと以て、乃ち詔して進めしむる伎を罷め、悰を倚りて相と為さんと意有り。年を逾え、召し拜して検校尚書右僕射・同中書門下平章事と為し、仍って度支を判ず。劉稹平ぎ、左僕射に進み、兼ねて門下侍郎と為る。未だ幾ばず、本官を以て罷められ、出でて剣南東川節度使と為り、西川に徙り、復た淮南を鎮す。時に方に旱し、道路流亡藉藉たり、民漕渠の遺米を漉して自ら給し、「聖米」と呼び、陂沢の茭蒲の実を取ること皆尽き、悰更に表して以て祥と為す。獄囚数百千人を積み、而して荒湎宴適して事を能くせず。罷められ、兼ねて太子太傅と為り、東都に分司す。歳を逾え、起きて留守と為り、復た剣南西川を節度す。召されて右僕射と為り、度支を判じ、進みて門下侍郎同平章事を兼ぬ。

始め、宣宗の世、夔王以下五王は大明宮内院に処り、而して鄆王は十六宅に居る。帝大漸す、枢密使王帰長・馬公儒等遺詔を以て夔王を立て、而して左軍中尉王宗実等殿中に入り、帰長等詔を矯るを以て、乃ち鄆王を迎えて之を立て、是れ懿宗なり。久しくして、枢密使楊慶を遣わして中書に詣らしめ、独り悰を揖し、他の宰相畢諴・杜審権・蔣伸進むるを敢えず、乃ち悰に中人請う帝の監国する奏を授け、因りて悰に諭して大臣の名在らざる者を劾して罪に抵せしむ。悰遽かに封じて使者に授け復命せしめ、慶に謂ひて曰く「上践祚未だ久しからず、君等権を秉り、愛憎を以て大臣を殺さば、公属禍無き日無からん」と。慶色沮みて去り、帝の怒り亦解け、大臣遂に安んず。未だ幾ばず、冊拜して司空と為り、邠国公に封ぜられ、検校司徒を以て鳳翔・荊南節度使と為り、加えて太傅を兼ぬ。会に黔南観察使秦匡謀蛮を討ち、兵敗れ、悰に奔る、悰之を囚え、劾して節を伏せずとし、詔有りて之を斬る。悰其の死するを意せず、駭愕して疾を得て卒す、年八十、太師を贈らる。葬の日、詔して宰相百官に臨奠せしむ。

悰大議論に於いて往往相合する所有り、然れども才用に周らず。将相に出入すと雖も、厚く自ら奉養し、未だ嘗て幽隠を薦進せず、佑の素風衰ゆ、故に時に「禿角犀」と号す。

悰子 裔休

子裔休、懿宗の時歴りて翰林学士・給事中、事に坐して端州司馬に貶せらる。弟孺休、字は休之。累りて擢でられ給事中と為る。大順初め、銭镠弟銶を遣わして兵を率い徐約を蘇州に撃ち、之を破り、海昌都将沈粲を行刺史事と為し、而して昭宗更に孺休を命じて之と為し、粲を制置指揮使と為す。镠悦ばず、密かに粲を遣わして害せしむ。始め、孺休攻めらるるを見て、曰く「我を殺す勿れ、当に爾に金を与えん」と。粲曰く「爾を殺せば、金焉くにか往かん」と。兄述休と同く死す。

悰弟 慆

悰弟慆。慆、咸通中泗州刺史と為る。会に龐勛反し、城を囲む、処士辛讜広陵より来りて慆を見、家属を出だすを勧め、独り身を以て守らんとす。慆曰く「吾百口を出だして生を求めば、衆心動揺す、将士と生死を共にするに如かず」と。衆聞きて皆泣下す。慆難を聞き、城隍を完濬し、器械を閲するに具はらざる無し。

賊将李円慆を易しとし、勇士百人を馳せて府庫を封ぜんと欲して入らんとす、慆好言厚礼を以て迎え労し、賊慆の謀を虞れず。明日、甲士三百を伏せ、球場に宴し、賊皆殲さる。円怒り、城に傅りて戦ひ、慆数百人を殺し、円退きて城西に壁す。勛聞き、其の兵を益し、而して書を以て城中に射て降るを促す。会に夜、慆鼓を撃ち城に乗りて大呼し、円気奪はれ、奔り還りて徐州に至る。未だ幾ばず、賊淮口を焚き、昼夜戦ひ息まず、讜乃ち戍将郭厚本に請ひて救を求め、賊解けて去る。浙西節度使杜審権将を遣わして兵千人を以て来援せしむ、反って円軍に包まれ、一軍尽く没す。慆人をして間道より京師に走らしめ、詔して戴可師に沙陀・吐渾の兵二万を以て招討せしむ。淮南節度使令狐牙将李湘を遣わして淮口に屯し、郭厚本と合す、円に敗られ、湘等並びに没し、於是に援絶ゆ。賊乃ち鉄鎖を以て淮流を絶ち、梯衝を以て城に乗ず。糧尽き、薄饘を以て給す。懿宗使者を遣わして慆に検校右散騎常侍さんきじょうじを加え、堅守を勉む。勛円を遣わして城に入り慆を見て降を約せしむ、慆怒りて之を殺す。勛復た之に書を遺す、答書に安禄山・朱泚等終に覆滅に底するは、以て陰に其の党を携ぐと言ふ。勛累りて攻めて志を得ず、会に招討使馬挙兵を率いて至り、遂に解けて去る。囲むこと凡そ十月、慆士を拊循し、皆殊死に奮ひ、而して辛讜囲みを冒して出入し、援師を糾輯し、卒に一州を完うす、時に難と称す。賊平ぎ、慆遷りて義成軍節度使・検校兵部尚書と為り、卒す。

従子の郁の子、牧。

牧、字は牧之、文を属するに善し。進士に及第し、復た賢良方正に挙げらる。沈傳師、表して江西團練府巡官と為し、又た牛僧孺の淮南節度府掌書記と為る。監察御史に擢でられ、疾を移して東都に分司し、弟の顗の病を以て官を棄つ。復た宣州團練判官と為り、殿中侍御史内供奉に拝せらる。

是の時、劉從諫は澤潞を守り、何進滔は魏博に拠り、頗る驕蹇にして法度に循わず。牧は長慶以来、朝廷の措置に術亡く、復た山東を失い、鉅封劇鎮、以て天下の軽重を系ぐる所以のもの、承襲を軽く授くるを得ざるは、皆国家の大事なりと咎め、位に当たらずして言うを嫌い、実に罪有りとし、故に『罪言』を作る。其の辞に曰く、

生人は常に兵を病む、兵は山東に祖り、天下に羨る。山東を得ざれば、兵は去るべからず。山東の地、禹は九土を画して冀州と曰い、舜は其の分太大なるを以て、離して幽州と為し、へい州と為す。其の水土を程するに、河南と等しく、常に十二を重んず。故に其の人沈鷙にして材力多く、許可を重んじ、辛苦に能し。魏晉以下、工機纖雑、意態百出し、俗益々卑弊し、人益々脆弱なり。唯だ山東は五種を敦くし、兵矢を本とし、他の能く蕩するも自若たり。健馬を産し、下なる者は日に二百里を馳す。所以に兵は常に天下に当たる。冀州は、其の強を恃みて理に循わざるを以て、其の必ず破れて弱からんことを冀う。既に破るるも、其の復た強大ならんことを冀うなり。并州は、力并吞するに足るなり。幽州は、幽陰惨殺なり。聖人、因りて以て名と為す。

黄帝の時、蚩尤兵階と為り、自後帝王多く其の地に居す。周は斉の覇に劣り、一世ならず、晋は大なり、常に諸侯を傭役す。秦に至りて三晋の鋭を萃め、六世を経て乃ち韓を得、遂に天下の脊を折り、復た趙を得、因りて諸国を拾取す。韓信かんしん斉を聯ねて之を有つ。故に蒯通、漢・楚の軽重は信に在るを知る。光武は上谷に始まり、鄗に成る。魏武は官渡を挙ぐ、三分の天下に其の二を有つ。晋乱びて胡作し、宋武に至りて英雄と号し、蜀を得、関中を得、尽く河南の地を有ち、天下の十分の八を有つ。然れども一人をして河を度りて胡を窺わしむる能わず。高斉の荒蕩に至り、宇文之を取る。隋文因りて以て陳を滅ぼす。五百年の間、天下乃ち一家と為る。隋文は宋武の敵に非ざるなり。是れ宋は山東を得ず、隋は山東を得たればなり。故に隋は王と為り、宋は覇と為る。此れに由りて言えば、山東は、王者は王たらざるを得ず、覇者は覇たらざるを得ず、猾賊之を得れば、以て天下の安からざるを致すに足る。

天宝末、燕盗起こり、成臯・函・潼の間を出入し、無人の地に渉るが若し。郭・李輩の兵五十万、鄴を過ぐる能わず。爾来百余城、天下の力尽き、尺寸を得ず。人の之を望むは回鶻・吐蕃の若く、義として敢えて窺う者無し。国家之に因りて河に畦り障戍を修め、其の街蹊を塞ぐ。斉・魯・梁・蔡其の風流を被り、因りて以て寇と為す。裏を以て表を拓き、表を以て裏を撐ぎ、混澒回転し、顛倒横邪し、未だ嘗て五年の間戦わざる無し。生人は日に頓委し、四夷は日に日に熾なり、天子之に因りて陜に幸し、漢中に幸し、焦焦然として七十余年。運孝武に遭い、衣を澣ぎ一肉し、畋せず楽しまず、卑冗の中より将相を抜き取り、凡そ十三年、乃ち能く尽く河南・山西の地を得、洗削更革し、適わざる無し。唯だ山東服せず、亦た再び之を攻むるも、皆利あらず。豈に天の生人をして未だ怗泰に至らしめざるか。豈に人の謀未だ至らざるか。何ぞ其れ艱なるや。

今日天子聖明、古昔を超出し、平治を志す。若し悉く生人をして事無からしめんと欲せば、其の要は先ず兵を去るに在り。山東を得ざれば、兵は去るべからず。今、上策は自治に如くは莫し。何となれば、貞元の時、山東には燕・趙・魏叛き、河南には斉・蔡叛く。梁・徐・陳・汝・白馬津・盟津・襄・鄧・安・黄・寿春皆、厚兵十余所を戍し、才だ自ら治所を護るに足り、実に一人を輟て他に使わず。遂に我が力を解き勢を弛め、熟視して不軌の者に奈何すべからざらしむ。此れに階り、蜀も亦た叛き、呉も亦た叛く。其の他未だ叛かざる者は、時に迎ひ上下し、保信すべからず。元和の初より今に至る二十九年の間、蜀を得、呉を得、蔡を得、斉を得、郡県二百余城を収む。未だ能く得ざる所は、唯だ山東の百城のみ。土地人戸、財物甲兵、往年に較ぶれば、豈に綽綽たらずや。亦た自ら以て治と為すに足る。法令制度、品式条章、果たして自治せるか。賢才奸悪、搜選置捨、果たして自治せるか。障戍鎮守、干戈車馬、果たして自治せるか。井閭阡陌、倉廩財賦、果たして自治せるか。もし果たして自治せずんば、是れ虜を助けて虜と為すなり。環土三千里、根を植えて七十年、復た天下陰に之を助くる有らば、則ち安んぞ取り得べけんや。故に曰く、上策は自治に如くは莫し。中策は魏を取るに如くは莫し。魏は山東に於いて最も重く、河南に於いても亦た最も重し。魏は山東に在りて、其の趙を遮る能くするを以てなり。既に魏を越えて趙を取るべからず、固より趙を越えて燕を取るべからず。是れ燕・趙は常に魏に取りて重んぜられ、魏は常に燕・趙の命を操る。故に魏は山東に於いて最も重し。黎陽は白馬津より三十里、新郷は盟津より一百五十里、陴壘相望み、朝に駕して暮に戦う。是の二津、虜一を潰す能くば、則ち馳ちて成臯に入り、数日の間ならず。故に魏は河南に於いても亦た最も重し。元和中、天下の兵を挙げて蔡を誅し、斉を誅し、之を頓すること五年、山東の憂い無きは、魏を得る能くするを以てなり。昨日滄を誅し、之を頓すること三年、山東の憂い無きも、亦た魏を得る能くするを以てなり。長慶初め趙を誅し、一日に五諸侯の兵四出して潰解するは、魏を失うを以てなり。昨日趙を誅し、長慶の時の如く罷まるも、亦た魏を失うを以てなり。故に河南・山東の軽重は魏に在り。魏の強大に非ず、地形然らしむるなり。故に曰く、魏を取るを中策と為す。最下策は浪戦と為し、地勢を計わず、攻守を審らかにせざるは是れなり。兵多粟多、人を駆りて戦わしむるは、守に便なり。兵少粟少、人駆らずして自ら戦うは、戦に便なり。故に我は常に戦に失い、虜は常に守に困る。山東叛くこと且つ三五世、後生の見る所の言語挙止、叛に非ざるは無し。事理正に当に此くの如くすべきと為し、沈酣して骨髓に入り、以て非と為す無く、囲急食尽き、屍を啖いて以て戦う有るに至る。此れを以て俗と為す、豈に与に一勝一負を決すべけんや。十余年来凡そ三たび趙を収むるも、食尽きて且つ下らんとす。郗士美敗るれば、趙復た振るい、杜叔良敗るれば、趙復た振るい、李聽敗るれば、趙復た振るう。故に曰く、地勢を計わず、攻守を審らかにせざるを浪戦と為し、最下策なり。

累進して左補闕・史館修撰に至り、膳部員外郎に改める。宰相李徳裕は平素よりその才を奇とす。会昌年中、黠戛斯が回鶻を破り、回鶻の種落は潰えて漠南に入る。牧は徳裕に説き、むしろこれを取るに如かずとし、以て「両漢の虜を伐つは、常に秋冬を以てし、匈奴の勁弓折膠し、重馬乳を免くるに当たり、之と相校するを以て、故に敗多く勝少なし。今若し仲夏に幽・并の突騎及び酒泉の兵を発し、その意表に出でば、一挙にして類無からん」と為す。徳裕これを善しとす。時に劉稹が命に拒ぐに会い、詔して諸鎮の兵にこれを討たしむ。牧復た書を徳裕に移し、以て「河陽西北天井関に去ること百里を強うす。万人を用いて壘と為し、その口を窒ぎ、壁を深くして戦をこれと与うるなかれ。成徳軍は世に昭義と敵と為り、王元逵は一雪して自ら奮わんことを思う。然れども長駆径ち上党を搗くこと能わず、その必ず取る者は西面に在り。今若し忠武・武寧の両軍を以て青州の精甲五千・宣潤の弩手二千を益し、絳より道を通じて入らば、数箇月を経ずして必ず賊の巣を覆さん。昭義の食は、尽く山東を仰ぐ。常日節度使は率ね留まって邢州に食し、山西の兵は単少なり。虚に乗じて襲い取り得べし。故に兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきを睹ず」とす。俄にして沢潞平らぎ、略ぼ牧の策の如し。黄・池・睦の三州刺史を歴任し、入って司勲員外郎と為り、常に史職を兼ぬ。吏部に改め、復た湖州刺史たることを乞う。年を踰えて、考功郎中として制誥を知り、中書舎人に遷る。

牧は剛直にして奇節有り、齪齪たる小謹を為さず、敢えて大事を論列し、病利を指陳すること尤も切至なり。少くして李甘・李中敏・宋元阝と善し。その古今を通じ、成敗を善く処するは、甘等及ばざる所なり。牧も亦た疏直を以てす。時に右援する者無し。従兄悰は将相を更め歴るも、牧は困躓して自ら振わず、頗る怏怏として平らかならず。卒す。年五十。初め、牧夢に人告げて曰く「爾応に名を畢すべし」と。復た夢に「皎皎白駒」の字を書く。或いは曰く「隙を過ぐるなり」と。俄にして炊甑裂く。牧曰く「祥ならず」と。乃ち自ら墓誌を為り、悉く為す所の文章を取ってこれを焚く。

牧は詩に於いて、情致豪邁、人号して「小杜」と為し、以て杜甫と別つと云う。

牧の弟 顗

顗は、字は勝之。幼くして目を病み、母その学を為すを禁ず。進士に挙げらる。礼部侍郎賈餗人に語りて曰く「杜顗を得れば数百人に敵するに足る」と。秘書省正字を授く。李徳裕奏して浙西府の賓佐と為す。徳裕貴盛なるも、賓客敢えて忤う者無し。惟だ顗のみ数えてこれを諫正す。袁州に謫せらるるに及び、嘆じて曰く「門下我を愛する皆顗の如くせば、吾今日有ること無からん」と。太和末、召されて咸陽尉と為り、史館に直る。常に人に語りて曰く「李訓・鄭註必ず敗れん」と。行きて未だ都に及ばず、難の作るを聞き、疏を以て疾を辞して帰る。顗も亦た文を属するに善く、牧と相上下す。竟に喪明を以て卒す。

令狐楚

令狐楚は、字は殼士、徳棻の裔なり。五歳にして生まれ、辞章を為す能し。冠に逮り、進士に貢す。京兆尹将に第一として薦めんとす。時に許正倫は軽薄の士、長安ちょうあんの間に名有り、蜚語を作る能くす。楚その争いを嫌い、譲ってこれを下す。第に及ぶや、桂管観察使王拱その材を愛し、将に楚を辟せんとす。至らざるを懼れ、乃ち先ず奏して後に聘す。拱の所に在りと雖も、父并州に官すを以て奉養を得ず、未だ宴楽にせず。歳満ちて謝して帰る。李説・厳綬・鄭儋相継いで太原を領す。その行いを高くし、幕府に引き、掌書記より判官に至る。徳宗文を喜び、毎に太原の奏を省み、必ず能く楚の為す所を弁じ、数えてこれを称す。儋暴死し、後事を占うに及ばず。軍大いに歓き、将に乱を為さんとす。夜十数騎刃を挺てて楚を邀え取り、遺奏を草せしむ。諸将圜視す。楚色変ぜず、筆を秉てば輒ち就き、以て遍く示す。士皆感泣し、一軍乃ち安んず。ここにより名益々重し。親喪を以て解く。既に除くや、召されて右拾遺を授く。

憲宗の時、累進して職方員外郎に擢でられ、制誥を知る。その文を為すに、箋奏制令に於いて尤も善くし、一篇成る毎に、人皆伝え諷す。皇甫镈は利を言うを以て幸いし、楚・蕭俛と皆厚く善し。故に帝に薦む。帝も亦た自らその名を聞き、召して翰林学士と為し、中書舎人に進む。方に蔡を伐つに、久しく下らず。議者多く兵を罷めんと欲す。帝独り裴度と赦さず肯んぜず。元和十二年、度宰相を以て彰義節度使を領す。楚制を草す。その辞に合わざる所有り。度その情を得る。時宰相李逢吉は楚と善く、皆度を助けず。故に帝逢吉を罷め、楚の学士を停め、但だ中書舎人と為す。俄に出でて華州刺史と為る。後他の学士比々事を宣べて旨に切らざるに、帝その草を抵し、楚の才を思う。

镈既に相と為り、楚を擢でて河陽懐節度使と為し、烏重胤に代わる。初め、重胤滄州に徙る。河陽の士三千を以て従う。士楽しまず、半道に潰れて帰り、北城を保ち、将に旁州を転掠せんとす。楚中潬に至り、数騎を以て自ら往きてこれを労う。衆甲して出で、楚を見て疑わず、乃ち皆降る。楚その首悪を斬る。衆遂に定まる。度太原に出づ。镈楚を薦めて中書侍郎・同中書門下平章事と為す。穆宗即位し、門下侍郎に進む。镈罪を得る。時に楚は镈に縁りて進むと謂い、且つ嘗て裴度を逐う。天下の共に疾む所なり。蕭俛政を輔くるに会い、乃ち敢えて言わず。方に景陵を営む。詔して楚を使いと為す。而して親吏韋正牧・奉天令於翚等傭銭十五万緡を償わず。楚献じて以て羨余と為す。怨訴路に系る。詔して翚等を捕えて獄に下し誅し、楚を出して宣歙観察使と為す。俄に衡州刺史に貶せられ、再び徙り、太子賓客を以て東都に分司す。長慶二年、陜虢観察使に擢でらる。諫官論執して置かず。楚陜に至ること一日、復た罷められ、東都に還る。

逢吉復た相と為るに会い、力めて楚を起す。李紳の翰林に在りてこれを沮むを以て、克たず。敬宗立ち、紳を逐い出だし、即ち楚を拝して河南尹と為す。宣武節度使に遷る。汴軍は驕を以て故にす。而して韓弘弟兄は務めて峻法を以てこれを繩治す。士安きに偷み、革心無し。楚至り、酷烈を解き去り、仁恵を以て鐫諭す。人人喜び、遂に善俗と為る。入って戸部尚書と為り、俄に東都留守を拝し、天平節度使に徙る。初め、汴・鄆の帥毎に至り、州銭二百万を以て私蔵に入る。楚独り辞して取らず。又た李師古の園檻僭制なる者を毀つ。久しくして、節を河東に徙す。召されて吏部尚書と為り、検校尚書右僕射。故事に、検校官重ければ、則ちその班に従う。楚は吏部自ら品有りを以て、固く辞す。詔有りて嘉み允す。俄に太常卿を兼ね、左僕射・彭陽郡公に進み拝す。

李訓の乱の際、将相は皆神策軍に拘束された。文宗は夜に令狐楚と鄭覃を禁中に召し入れ、楚は建言した、「外には三司御史があり、さもなければ大臣が雑治すべきであり、内仗は宰相が拘束されるべき場所ではありません。」帝はこれを肯いた。詔を草した後、王涯・賈餗の冤罪を指摘したが、その罪状を切実に述べず、仇士良らはこれを怨んだ。初め、帝は楚を宰相に任じることを許したが、果たさず、代わりに李石を用い、楚を塩鉄転運使とした。先に、鄭註が榷茶使の設置を奏上し、王涯はまた官が自ら園を治めて茶を植えることを議し、人々は不便を感じた。楚は使を廃し、旧法の如くにすることを請い、従われた。元和年中、禁兵を出して左右街使に与え、宰相が朝に入るのを建福門まで護衛させた。この乱に至り、廃された。楚は即座に奏上した、「鎮帥が初めて拝命する時、必ず戎服を着て仗に属して省に詣でて辞し謁するのは、鄭註に由来し、実に乱の兆しである。故に王璠・郭行余は将吏を駆って京師に血を踏ませた。停止すべきである。」詔はこれを可とした。開成元年の上巳、群臣に曲江で宴を賜う。楚は新たに大臣を誅し、暴かれた骸骨が未だ収められず、怨みと災いが感応して結びついているとして、疾を称して出ず、衣衾と槥櫝を与えて刑死した骨を収め、陽気に順うことを請うた。この時、政は宦官にあり、数度上疏して位を辞し、山南西道節度使に拝された。卒す。七十二歳。司空を贈られ、文と諡された。

楚は外見は厳重で犯しがたいが、内面は寛厚で、士を礼をもって遇した。星歩や鬼神を以て進む客は、一人も接しなかった。政を行うに善く撫御し、治績があり、人々はそれぞれ適宜を得た。病が甚だしくなり、諸子が薬を進めたが、肯かず、曰く、「士には固より命あり、何ぞこの物を事とせんや。」自ら力を振るって奏して天子に謝し、門人李商隱を召して曰く、「我が気魄は将に尽きんとす、我を助けてこれを成せ。」その大意は甘露の事で誅殺・譴責された者が多いので、威を和らげ、広く昭雪洗浊されることを請うたものであった。文辞は委曲を尽くし、誤りや脱落はなかった。書き終え、諸子に命じて曰く、「我が生は時に益なく、諡を請うな。鼓吹を求むるな。布車一乗で葬り、銘誌には高位を選ぶな。」この夜、大星が寝室の上に隕ち、その光が庭を照らした。坐して家人と訣別し、乃ち終えた。詔があり、鹵簿を停めてその志を伸べさせた。

子の緒・綯は時に顕れた。

子 緒

緒は蔭によって仕え、隋・寿・汝の三州刺史を歴任し、佳政があった。汝の人は石に刻んで徳を頌することを請うたが、緒は綯が国政を執っているので、固く辞した。宣宗はその意を嘉し、乃ち止めた。

子 綯

綯は字を子直といい、進士に挙げられ、累遷して左補闕・右司郎中となった。出て湖州刺史となる。

大中初め、宣宗が宰相白敏中に謂いて曰く、「憲宗の葬送の時、道中風雨に遇い、六宮百官は皆避けたが、ただ頎長で髯ある者が梓宮を奉じて去らぬ者を見た。果たして誰か。」敏中が言う、「山陵使の令狐楚です。」帝曰く、「子はあるか。」対えて曰く、「緒は若くして風痹を患い、用に堪えません。綯は今湖州を守っています。」因みに曰く、「その人となりは、宰相の器です。」即ち召して考功郎中・知制誥とした。翰林に入り学士となる。ある夜、召して人間の疾苦を論じ、帝は『金鏡』の書を出して曰く、「太宗の著したものである。卿は我がためにその要を挙げよ。」綯は語を摘んで曰く、「至治は未だ嘗て不肖を任じず、至乱は未だ嘗て賢を任じず。賢を任ずれば、天下の福を享け、不肖を任ずれば、天下の禍に罹る。」帝曰く、「善し。朕はこれを読んで嘗て三復してやむ。」綯は再拝して曰く、「陛下必ずや王業を興さんと欲せば、これを捨てて何をか先にせん。『詩』に曰く、『惟れ其れ之れ有るが故に、是を以て之れに似る。』」中書舎人に進み、彭陽男を襲封した。御史中丞に遷り、再び兵部侍郎に遷る。還って翰林承旨となる。夜、禁中に対し、燭が尽きたので、帝は乗輿・金蓮華炬を以て送還させた。院吏は望見し、天子が来たと思った。綯が至ると、皆驚いた。俄かに同中書門下平章事となり、十年輔政した。懿宗が嗣位すると、尚書左僕射・門下侍郎より再拝して司空となった。未だ幾ばくもせず、検校司徒平章事となり、河中節度使となる。宣武に移り、また淮南副大使に移る。安南が平定され、饋運の労により、涼国公に封ぜられた。

龐勛が桂州より還り、浙西の白沙より濁河に入り、舟を掠めて上った。綯は聞き、使者を遣わして慰撫し、且つこれを饋った。裨将の李湘が曰く、「徐の兵は擅に還り、果たして反しました。詔が未だなくとも、一切の制乱は、我が専らとすることができます。今その兵は二千に満たず、広く盤艦を設け、旗幟を張り、人に侈りを示し、我を甚だ畏れています。高郵は崖が険しく水が狭く、もし荻曹に火を放って其の前を焼き、勁兵に其の後に乗ぜしめれば、一挙にして覆すことができます。然らずんば、淮泗を絶たしめ、徐の不逞の徒と合すれば、禍乱は滋長します。」綯は懦緩で用いることができず、また自ら詔を奉じていないとして、因みに曰く、「彼らが暴を為さなければ、その淮を渡るに任せよ。何ぞ我に関わらんや。」勛は還り、果たして徐州を盗み、その衆は六七万であった。徐は食を欠き、兵を分けて滁・和・楚・寿を攻め、これを陥れた。糧尽き、人を喰らって飽きた。詔して綯を徐州南面招討使とする。賊は方に泗州を攻め、杜慆が堅守した。綯は湘に命じて兵五千を率いてこれを救わしめた。勛は謾辞を以て綯に謝して曰く、「数度赦しに蒙り、未だ即ち降らざる所以は、一二の将が異なるためです。願わくはこれを除くことを図り、身を以て命を聴かん。」綯は喜び、即ち勛に節を仮することを請い、湘に敕して曰く、「賊は既に降った。ただ淮口を謹んで戍し、戦うに及ばず。」湘は乃ち警備を撤き兵械を解き、日々勛の衆と歓談した。後、賊は隙に乗じて直ちに湘の陣営を襲い、悉く俘虜として食らい、湘及び監軍の郗厚本を醢にした。時、浙西の杜審権が票将の翟行約に千兵を率いて湘と会わしめたが、未だ至らぬうちに湘は覆没した。賊は偽りに淮南の旌幟を建ててこれを誘い、亦皆陥没した。

綯は既に軍が敗れたので、左衛大将軍の馬挙を以てこれに代えた。太子太保とし、東都に分司させた。僖宗の初め、鳳翔節度使に拝された。間もなく、就いて同平章事を加えられ、趙に封を移された。卒す。七十八歳。太尉を贈られた。子に滈・渙・沨あり。

綯の子 滈

滈は嫌疑を避けて進士を挙げなかった。父が輔政すると、滈は鄭顥と姻家となり、勢いを恃んで驕慢となり、賓客と通じ、権を招き、四方の貨財を射取した。皆側目して敢えて言う者なし。懿宗が嗣位し、数度人のためにその事を白状されたので、宰相を去った。因みに滈が群進士と共に有司に試されることを丐い、詔は可とした。この年及第した。諫議大夫の崔瑄が劾奏して、十二月に去位したのに、有司の解牒は十月までで尽きており、朝廷の取士の法を屈して滈の家事としたとし、御史に委せてその罪を按実することを請うた。聴かれず。滈は乃ち長安尉より集賢校理となった。稍々遷って右拾遺・史館修撰となった。詔が下ると、左拾遺の劉蛻・起居郎の張雲が交わして疏を上し、その悪を指摘し、且つ言う、「李琢を安南都護に用い、首として南方を乱し、贓虐が流れ著しく、天下の兵戈調斂を給せしめず。琢は元より滈に賂を進じた。滈は人子として、悪に陥り、顧みて諫臣と為すべきか。」また劾す、「綯は大臣として、国本を調護すべきであるのに、大中時、諫議大夫の豆盧籍・刑部侍郎の李鄴を引いて夔王等の侍読とし、長幼の序を乱し、先帝の貽厥の謀をして殆ど陛下に及ばざらしめた。且つ滈は当時に居て、『白衣宰相』と謂われた。滈は未だ嘗て進士を挙げず、妄りに已に解したと言い、天下に解なくして及第したと言わしめる。已に罔くないか。」滈も亦懼れ、他の官に換えることを求め、詹事府司直に改めた。方に淮南を守る時、上奏して自らを治め、帝は雲を興元少尹に貶し、蛻を華陰令とした。滈も亦湮厄して振るわず死んだ。

綯の子 渙・沨

渙と沨はともに進士に挙げられ、渙は中書舎人で終わった。

弟の定

定は字を履常といい、楚の弟である。進士に及第した。太和の末、駕部郎中として弘文館直学士となった。李訓の乱のとき、王遐休がちょうどその日に就任しようとしていたので、定は祝いに赴き、神策軍に捕らえられ、殺されそうになること数度、やがて免れた。桂管観察使で終わった。

賛にいう。耽、佑、楚はみな篤実な儒者であり、大衣高冠、廟堂に雍容として、古今を論じ、事を成すに処するは、よろしい。大節をもってこれを責むれば、蓋し昬中にして玉表なるか。悰、世が国を当たるも、また譏るに足らず。牧が天下の兵を論じて曰く、「上策は自ら治むるに如くは莫し」と。賢いかな。