新唐書

巻一百六十六 列傳第九十一 賈耽 杜佑子:式方 從郁 孫:悰 慆 牧 顗 曾孫:裔休 令狐楚子:緒 綯 孫:滈 渙 沨 弟:定

巻一百六十六 列傳第九十一 賈耽 杜佑子:式方 從郁 孫:悰 慆 牧 顗 曾孫:裔休 令狐楚子:緒 綯 孫:滈 渙 沨 弟:定

賈耽

原文賈耽

賈耽、字あざなは敦詩、滄州南皮の人なり。天寶年中、明経に挙げられ、臨清尉を補す。上書して事を論じ、太平に徙る。河東節度使せつどし王思禮、度支判官に署す。累進して汾州刺史となり、治むること凡そ七年、政に異績あり。召されて鴻臚卿を授け、左右威遠営使を兼ぬ。俄にして山南西道節度使と為る。梁崇義東道に反し、耽進んで谷城に屯し、均州を取る。建中三年、東道に徙る。德宗梁に在り、耽司馬樊沢を使わして事を奏す。沢還り、耽大いに酒を置き諸将を会す。俄かに急詔至り、沢を以て耽に代え、工部尚書に召す。耽詔を懐に納れ、飲むこと故の如し。罷りて既に、沢を召して曰く「詔に公を以て見代すとあり、吾将に行いを治めん」と。将吏を勅して沢に謁せしむ。大将張献甫曰く「天子播越し、而して行軍公の命を以て行在を問う。乃ち旄鉞を規り、公の土地を利す、人に事うるに忠ならざると謂うべし。軍中平らかならず、請う公が為に之を殺さん」と。耽曰く「是れ何を謂うぞ。朝廷命有らば、即ち帥たり。吾今趨覲し、君を以て俱にするを得ん」と。乃ち行く、軍中遂に安んず。

原文賈耽,字敦詩,滄州南皮人。天寶中,舉明經,補臨清尉。上書論事,徙太平。河東節度使王思禮署為度支判官。累進汾州刺史,治凡七年,政有異績。召授鴻臚卿,兼左右威遠營使。俄為山南西道節度使。梁崇義反東道,耽進屯谷城,取均州。建中三年,徙東道。德宗在梁,耽使司馬樊澤奏事。澤還,耽大置酒會諸將。俄有急詔至,以澤代耽,召為工部尚書。耽納詔於懷,飲如故。既罷,召澤曰:「詔以公見代,吾且治行。」敕將吏謁澤。大將張獻甫曰:「天子播越,而行軍以公命問行在,乃規旄鉞,利公土地,可謂事人不忠矣。軍中不平,請為公殺之。」耽曰:「是何謂邪?朝廷有命,即為帥矣。吾今趨覲,得以君俱。」乃行,軍中遂安。

俄にして東都留守と為る。故事に、居守は城を出でず。耽の善射を以て、優詔して近郊に狩るを許す。義成節度使に遷る。淄青の李納偽号を削がるれども、陰に奸謀を蓄え、逞うする所有らんことを冀う。其の兵数千自ら行営より還り、道滑に出ず。或いは外に館すべしと謂う。耽曰く「我と鄰道たるに、奈何ぞ之を疑い、野に暴からしめんや」と。命じて城中に館し、廡下に宴す。納の士皆心服す。耽每に畋すに、数百騎に従い、往往にして納の境に入る。納大いに喜び、然れども其の徳を畏れ、謀ることを敢えず。

原文俄為東都留守。故事,居守不出城,以耽善射,優詔許獵近郊。遷義成節度使。淄青李納雖削偽號,而陰蓄奸謀,冀有以逞。其兵數千自行營還,道出滑,或謂館於外。耽曰:「與我鄰道,奈何疑之,使暴於野?」命館城中,宴廡下,納士皆心服。耽每畋,從數百騎,往往入納境。納大喜,然畏其德,不敢謀。

貞元九年、尚書右僕射同中書門下平章事を以てし、俄に魏国公に封ぜらる。常に方鎮の帥缺は、当に天子自ら之を命ずべく、若し軍中に之を謀らば、則ち下に背向有り、人固より安からずとす。帝然りとすれども、用いず。順宗立ち、検校司空・左僕射に進む。時に王叔文等政を幹み、耽之を病み、屢疾を移し骸骨を乞うも、許さず。卒す、年七十六、太傅を贈られ、謚して元靖と曰う。

原文貞元九年,以尚書右僕射同中書門下平章事,俄封魏國公。常以方鎮帥缺,當自天子命之,若謀之軍中,則下有背向,人固不安。帝然之,不用也。順宗立,進檢校司空、左僕射。時王叔文等幹政,耽病之,屢移疾乞骸骨,不許。卒,年七十六,贈太傅,謚曰元靖。

耽書を観るを嗜み、老いて益々勤しみ、尤も地理に悉し。四方の人と夷狄に使する者之を見れば、必ず従いて風俗を詢索す。故に天下の地土区産・山川夷岨、必ず究め知る。方に吐蕃とばん盛んにして強く、隴西を盗み有つ。異時に州県の遠近、有司復た伝えず。耽乃ち隴右・山南九州を布に絵し、且つ河の経受する所を載せて図と為し、又洮湟甘涼の屯鎮頟籍・道里の広狭・山険水原を以て『別録』六篇・『河西戎之録』四篇と為し、之を上る。詔して幣馬珍器を賜う。又『海内華夷』を図す、広三丈、従三丈三尺、寸を以て百里と為す。並びに『古今郡国県道四夷述』を撰す。其の中国は『禹貢』に本づき、外夷は班固の『漢書』に本づく。古の郡国は墨を以て題し、今の州県は朱を以てす。疏舛を刊落し、多く厘正す。帝之を善しとし、賜予加等す。或いは図を指して其の邦人を問うも、皆其の真を得たり。又『貞元十道録』を著す。貞観天下を分ち十道に隷するを以てし、景雲に在りては按察と為り、開元に在りては采訪と為り、廃置升降備わりたり。陰陽雑数に至るまで通ぜざる無し。

原文耽嗜觀書,老益勤,尤悉地理。四方之人與使夷狄者見之,必從詢索風俗,故天下地土區產、山川夷岨,必究知之。方吐蕃盛強,盜有隴西,異時州縣遠近,有司不復傳。耽乃繪布隴右、山南九州,且載河所經受為圖,又以洮湟甘涼屯鎮頟籍、道里廣狹、山險水原為《別錄》六篇、《河西戎之錄》四篇,上之。詔賜幣馬珍器。又圖《海內華夷》,廣三丈,從三丈三尺,以寸為百里。並撰《古今郡國縣道四夷述》,其中國本之《禹貢》,外夷本班固《漢書》,古郡國題以墨,今州縣以朱,刊落疏舛,多所厘正。帝善之,賜予加等。或指圖問其邦人,咸得其真。又著《貞元十道錄》,以貞觀分天下隸十道,在景雲為按察,開元為采訪,廢置升降備焉。至陰陽雜數罔不通。

其の器恢然たり、蓋し長者なり。人物を臧否するを喜ばず。相と為ること十三年、安危の大事に発明する所亡きも、身を検め行いを厲するは、自ら其の長とする所なり。毎に第に帰れば、賓客に対し少も倦むこと無く、家人近習、其の喜慍を見ず。世に淳徳有常の者と謂う。

原文其器恢然,蓋長者也,不喜臧否人物。為相十三年,雖安危大事亡所發明,而檢身厲行,自其所長。每歸第,對賓客無少倦,家人近習,不見其喜慍。世謂淳德有常者。

杜佑

原文杜佑

杜佑、字は君卿、京兆萬年の人なり。父希望、然諾を重んじ、交遊する所皆一時の俊傑なり。安陵令と為り、都督宋慶礼其の異政を表す。小累に坐して官を去る。開元中、交河公主突騎施に嫁ぎ、詔して希望を和親判官と為す。信安郡王漪表して霊州別駕・関内道度支判官に署す。代州都督より召されて京師に還り、辺事に対し、玄宗之を才とす。吐蕃の勃律を攻むるに属し、勃律帰するを乞う。右相李林甫方に隴西節度を領す。故に希望を鄯州都督に拝し、留後を知らしむ。伝を馳せて隴を度り、烏莽の衆を破り、千余級を斬り、進んで新城を抜き、旅を振るいて還る。鴻臚卿に擢でらる。ここに於て鎮西軍を置く。希望師を引きて塞下に部分す。吐蕃懼れ、書を遺わして和を求む。希望報じて曰く「和を受くるは臣下の得て専にする所に非ず」と。虜衆を悉くして檀泉を争う。希望大小数十戦し、其の大酋を俘え、莫門に至り、積蓄を焚き、卒く城して還る。二子に官を授く。時に軍屢興し、府庫虚寡なり。希望数歳居るに、芻粟金帛豊余す。宦者牛仙童辺を行く。或いは希望に其れを結ぶを勧む。答えて曰く「貨を以て身を藩う、吾忍びず」と。仙童還り奏して希望職せずとす。下遷して恒州刺史と為し、西河に徙す。而して仙童諸将の金を受くる事泄れ、死に抵い、金を畀うる者皆罪を得たり。希望文学を愛重し、門下に引く所崔顥等の如き皆名当時に重し。

原文杜佑,字君卿,京兆萬年人。父希望,重然諾,所交遊皆一時俊傑。為安陵令,都督宋慶禮表其異政。坐小累去官。開元中,交河公主嫁突騎施,詔希望為和親判官。信安郡王漪表署靈州別駕、關內道度支判官。自代州都督召還京師,對邊事,玄宗才之。屬吐蕃攻勃律,勃律乞歸,右相李林甫方領隴西節度,故拜希望鄯州都督,知留後。馳傳度隴,破烏莽眾,斬千餘級,進拔新城,振旅而還。擢鴻臚卿。於是置鎮西軍,希望引師部分塞下,吐蕃懼,遺書求和。希望報曰:「受和非臣下所得專。」虜悉眾爭檀泉,希望大小戰數十,俘其大酋,至莫門,焚積蓄,卒城而還。授二子官。時軍屢興,府庫虛寡,希望居數歲,芻粟金帛豐余。宦者牛仙童行邊,或勸希望結其,答曰:「以貨藩身,吾不忍。」仙童還奏希望不職,下遷恒州刺史,徙西河。而仙童受諸將金事泄,抵死,畀金者皆得罪。希望愛重文學,門下所引如崔顥等皆名重當時。

佑蔭を以て済南参軍事・剡県丞を補す。嘗て潤州刺史韋元甫に過ぐ。元甫故人の子を以て之を待ち、礼を加えず。它日、元甫疑獄有りて決する能わず。試みに佑に訊く。佑為に弁処し、契要尽くさざる無し。元甫之を奇とし、司法参軍に署す。府浙西・淮南に徙り、表して幕府に置く。入りて工部郎中と為り、江淮青苗使を充て、再遷して容管経略使と為る。楊炎政を輔く。金部郎中を歴とし、水陸転運使と為り、度支兼和糴使に改む。ここに於て軍興饋漕、佑剸決を得たり。戸部侍郎を以て度支を判ず。建中初、河朔兵戦を挐え、民困し、賦出す所無し。佑以為く、敝を救うは用を省くに若くは莫し。用を省くは則ち官を省くべしと。乃ち議を上りて曰く。

原文佑以蔭補濟南參軍事、剡縣丞。嘗過潤州刺史韋元甫,元甫以故人子待之,不加禮。它日,元甫有疑獄不能決,試訊佑,佑為辨處,契要無不盡。元甫奇之,署司法參軍,府徙浙西、淮南,表置幕府。入為工部郎中,充江淮青苗使,再遷容管經略使。楊炎輔政,歷金部郎中,為水陸轉運使,改度支兼和糴使。於是軍興饋漕,佑得剸決。以戶部侍郎判度支。建中初,河朔兵挐戰,民困,賦無所出。佑以為救敝莫若省用,省用則省官,乃上議曰:

漢光武建武中県四百を廃し、吏率十に署一。魏太和時に使者を分遣して吏員を省き、正始時に郡県を並す。晋太元官七百を省く。隋開皇郡五百を廃す。貞観初内官六百員を省く。官を設くるの本、衆庶を治むるを以てす。故に古者は人を計りて吏を置き、虚設を肯んぜず。漢より唐に至る、征戦艱難に因りて吏員を省く、誠に弊を救うの切なるなり。

原文漢光武建武中廢縣四百,吏率十署一;魏太和時分遣使者省吏員,正始時並郡縣;晉太元省官七百;隋開皇廢郡五百;貞觀初省內官六百員。設官之本,以治眾庶,故古者計人置吏,不肯虛設。自漢至唐,因征戰艱難以省吏員,誠救弊之切也。

昔、咎繇が士(刑官)となったが、今の刑部尚書・大理卿は、二つの咎繇である。垂が共工(工官)となったが、今の工部尚書・将作監は、二つの垂である。契が司徒となったが、今の司徒・戸部尚書は、二つの契である。伯夷が秩宗となったが、今の礼部尚書・礼儀使は、二つの伯夷である。伯益が虞(山沢の官)となったが、今の虞部郎中・都水使司は、二つの伯益である。伯冏が太僕となったが、今の太僕卿・駕部郎中・尚輦奉御・閑廄使は、四つの伯冏である。古の天子には六軍があり、漢には前後左右将軍が四人いたが、今の十二衛・神策八軍では、将軍は合わせて六十員である。旧い官名は廃されず、新たな官職は日に日に加わる。また漢が別駕を置き、刺史に随行して巡察させたのは、今の観察使に副使があるようなものである。参軍とは、その府の軍事に参与することで、今の節度判官のようなものである。官名と職務は、単に変遷し易いだけであって、どうして実質が異なることがあろうか。まことに繁簡を斟酌すべきである。治を致そうとする者は、まず名を正すべきである。神龍年間、官紀は乱れ果て、役所は選抜者を大いに集めたが、欠員がなかったため、員外官を二千人置き、これ以後常例となった。開元・天宝の頃、四方に憂いがなく、戸籍に登録された戸数は九百余万、国庫は豊かに溢れ、たとえ無駄な出費があっても憂うるに足らなかった。今、民衆は疲弊し、天下の戸数は百三十万、陛下が使者に命じて調査させたところ、わずか三百万を得たに過ぎず、天宝の三分の一に相当し、その中にも虚偽の寄寓が五分の二を占める。租税を出す者はすでに減耗しているのに、それを食む者は旧来のままである。どうして改革しないでいられようか。

原文昔咎繇作士,今刑部尚書、大理卿,則二咎繇也。垂作共工,今工部尚書、將作監,則二垂也。契作司徒,今司徒、戶部尚書,則二契也。伯夷為秩宗,今禮部尚書、禮儀使,則二伯夷也。伯益為虞,今虞部郎中、都水使司,則二伯益也。伯冏為太僕,今太僕卿、駕部郎中、尚輦奉御、閑廄使,則四伯冏也。古天子有六軍,漢前後左右將軍四人,今十二衛、神策八軍,凡將軍六十員。舊名不廢,新資日加。且漢置別駕,隨刺史巡察,猶今觀察使之有副也。參軍者,參其府軍事,猶今節度判官也。官名職務,直遷易不同爾,詎有事實哉?誠宜斟酌繁省。欲致治者先正名。神龍中,官紀蕩然,有司大集選者,既無闕員,則置員外官二千人,自是以為常。當開元、天寶中,四方無虞,編戶九百餘萬,帑藏豐溢,雖有浮費,不足為憂。今黎苗雕瘵,天下戶百三十萬,陛下詔使者按比,才得三百萬,比天寶三分之一,就中浮寄又五之二,出賦者已耗,而食之者如舊,安可不革?

議論する者は、天下にまだ跋扈して朝廷に服さぬ者がいるので、一度官吏を削減すれば、罷免された者たちは皆そこに身を寄せるだろうと言う。これは常情に基づく説であって、およそ至論ではない。そもそも有能な者は推挙任用されるのであり、無能な者がどこへ行こうと何を憂えようか、ましてや姻戚や家産を顧みるなどということがあろうか。建武の時、公孫述・隗囂が未だ滅びず、太和・正始・太元の時、呉・蜀が鼎立し、開皇の時、陳がなお割拠していたが、皆優れた人材を網羅し、人材を失って敵に資することを憂えなかった。今、田悦の輩は刑を煩くし賦を暴にし、ただ軍務に心を砕き、士人を奴隷のように遇するので、固より范睢が秦に仕えたり賈季が狄を強くするような憂いはない。もし習い久しくして急に改められないというなら、しばらく別駕・参軍・司馬、州県の定員内の官を臨時に削減し、戸数に応じて尉を置くべきである。罷免されるべき者で、行義のある者は、在所の役所が上聞に達せよ。事実と異なる場合は、推挙した者が罪に坐す。誰にも推挙されない者は、通常の選考に任せよ。それで何を憂えようか。例えば魏が柱国を置いた時、当時の宿徳で盛業ある者がこれに居り、貴寵第一であった。周・隋の間に授受がすでに多く、国家はこれを勲級とし、わずか田地三十頃を得るに過ぎない。また開府儀同三司・光禄大夫も、もとは官名であったが、あまりに多くなったので、階級に改めたのである。時に応じて制度を立て、弊害があれば変えるのであり、どうして因循して改作を憚る必要があろうか。

原文議者以天下尚有跋扈不廷,一省官吏,被罷者皆往托焉。此常情之說,類非至論。且才者薦用,不才者何患其亡,又況顧姻戚家產哉!建武時公孫述、隗囂未滅,太和、正始、太元時吳、蜀鼎立,開皇時陳尚割據,皆羅取俊乂,猶不慮失人以資敵。今田悅輩繁刑暴賦,惟軍是恤,遇士人如奴,固無范睢業秦、賈季強狄之患。若以習久不可以遽改,且應權省別駕、參軍、司馬,州縣額內官,約戶置尉。當罷者,有行義,在所以聞;不如狀,舉者當坐;不為人舉者,任參常調。亦何患哉?如魏置柱國,當時宿德盛業者居之,貴寵第一;周、隋間授受已多,國家以為勛級,才得地三十頃耳。又開府儀同三司、光祿大夫,亦官名,以其太多,回作階級。隨時立制,遇弊則變,何必因循憚改作耶?

建議が入ったが、省みられなかった。

原文議入,不省。

盧杞が国政を執ると、彼を憎み、蘇州刺史として出させた。前任の刺史が母の喪で解任されたが、杜佑の母は存命であったので、辞して行かず、饒州に改められた。まもなく嶺南節度使に遷った。杜佑は大通りを開き、町屋の区画を整理して、火災を鎮めた。朱崖の黎民が三代にわたり険阻な地に拠って帰順しなかったが、杜佑は討伐平定した。召されて尚書右丞に拝された。まもなく淮南節度使として出され、母の喪で解任を願い出たが、詔は許さなかった。

原文盧杞當國,惡之,出為蘇州刺史。前刺史母喪解,佑母在,辭不行,改饒州。俄遷嶺南節度使。佑為開大衢,疏析廛闬,以息火災。朱厓黎民三世保險不賓,佑討平之。召拜尚書右丞。俄出為淮南節度使,以母喪解,詔不許。

徐州節度使張建封が卒すると、軍が乱を起こし、その子の張愔を立てて朝廷に請うたが、帝は許さず、そこで杜佑を検校尚書左僕射・同中書門下平章事とし、徐泗を節度してこれを討定させた。杜佑は舟艦を整え、配下の将孟準に命じて淮を渡り徐州を撃たせたが、勝てず、引き返した。杜佑は出師の応変に長けておらず、国境を固守して進もうとせず、ついに張愔を徐州節度使に任命し、濠・泗の二州を淮南に隷属させた。初め、杜佑は雷陂を決壊させて灌漑を広げ、海辺の棄てられた土地を開拓して田とし、蓄積した米は五十万斛こくに至り、三十区の営を列ね、兵馬は整い、四隣はこれを畏れた。しかし僚佐に寛大であったため、南宮僔・李亜・鄭元均らが権力を争って政を乱すに至り、帝は杜佑のために彼らを斥け去った。

原文徐州節度使張建封卒,軍亂,立其子愔,請於朝,帝不許,乃詔佑檢校尚書左僕射、同中書門下平章事,節度徐泗討定之。佑具舠艦,遣屬將孟準度淮擊徐,不克,引還。佑於出師應變非所長,因固境不敢進,乃招授愔徐州節度使,析濠、泗二州隸淮南。初,佑決雷陂以廣灌溉,斥海瀕棄地為田,積米至五十萬斛,列營三十區,士馬整飭,四鄰畏之;然寬假僚佐,故南宮僔、李亞、鄭元均至爭權亂政,帝為佑斥去之。

十九年、検校司空・同中書門下平章事に拝された。徳宗が崩じると、詔して冢宰を摂行させた。検校司徒に進み、度支塩鉄使を兼ねた。この時、王叔文が副使となったが、杜佑はすでに宰相として自ら事を親しまず、叔文が遂に専権した。後に叔文が母の喪で邸に帰ると、杜佑が何か按決しようとすると、郎中陳諫が叔文を待つよう請うた。杜佑は「使者は専断してはならぬというのか」と言い、陳諫を河中少尹として出した。叔文は東宮(皇太子)を揺るがそうとし、杜佑の助力を期待したが、杜佑は応じず、そこで彼を追い落とそうと謀ったが、決せぬうちに敗れた。杜佑は改めて李巽を推挙して自らの副使とした。憲宗が諒闇(喪中)にある時、再び冢宰を摂行し、度支塩鉄の職務を全て李巽に譲った。初め、度支は吝嗇で、出費が多く、吏を署して百司の職務を権宜に摂行させ、煩雑で綱紀がなかった。杜佑は営繕の事を将作監に戻し、木炭の事を司農寺に帰し、湅染の事を少府監に戻して、職務を簡素に整えた。翌年、司徒に拝され、岐国公に封ぜられた。

原文十九年,拜檢校司空、同中書門下平章事。德宗崩,詔攝冢宰。進檢校司徒,兼度支鹽鐵使。於是王叔文為副,佑既以宰相不親事,叔文遂專權。後叔文以母喪還第,佑有所按決,郎中陳諫請須叔文,佑曰:「使不可專耶?」乃出諫為河中少尹。叔文欲搖東宮,冀佑為助,佑不應,乃謀逐之,未決而敗。佑更薦李巽以自副。憲宗在諒暗,復攝冢宰,盡讓度支鹽鐵於巽。始,度支嗇,用度多,署吏權攝百司,繁而不綱;佑以營繕還將作,木炭歸司農,湅染還少府,職務簡修。明年,拜司徒,封岐國公。

党項が密かに吐蕃を導いて乱を起こすと、諸将は功を求めて、討伐を請うた。杜佑は、良き辺境の臣がいないために、作為があって叛くのだと考え、すぐに上疏して言った。

原文党項陰導吐蕃為亂,諸將邀功,請討之。佑以為無良邊臣,有為而叛,即上疏曰:

昔、周の宣王が中興した時、獫狁が害をなしたが、太原まで追撃し、国境に至って止め、中国を疲弊させて遠夷を怒らせまいとした。秦は兵力を恃み、北は匈奴を拒ぎ、西は諸羌を逐い、怨みを結んで乱の階梯とし、実に謫戍(罪人を辺境に戍らせること)を生んだ。およそ聖王が天下を治めるには、ただ民衆を安寧にしたいと願い、西は流沙に至り、東は海に及び、北と南では、ただ声教(教化)を存するのみで、どうして内を疲弊させて外に事えようか。昔、馮奉世が詔を矯って莎車王を斬り、その首を京師に伝え、威は西域に震ったが、宣帝が爵土を加えようと議すると、蕭望之だけが、詔を矯り命に違えたので、たとえ功があっても法とすべきでなく、後世の使者が国家のために夷狄に事を生じさせることを恐れる、と言った。近ごろ突厥とっけつの默啜が中国を寇害した時、開元初め、郝霊佺が捕らえて斬り、自らその功は二つとないと言ったが、宋璟は辺臣がこれによって功を求めることを憂え、ただ郎将を授けただけであった。これによって開元の盛時まで、再び辺境のことを議せず、中国は遂に安泰となった。これは成敗の鑑戒が遠くないのである。

原文昔周宣中興,獫狁為害,追之太原,及境而止,不欲弊中國,怒遠夷也。秦恃兵力,北拒匈奴,西逐諸羌,結怨階亂,實生謫戍。蓋聖王之治天下,惟欲綏靜生人,西至於流沙,東漸於海,在北與南,止存聲教,豈疲內而事外耶?昔馮奉世矯詔斬莎車王,傳首京師,威震西域,宣帝議加爵土,蕭望之獨謂矯制違命,雖有功不可為法,恐後奉使者為國家生事夷狄。比突厥默啜寇害中國,開元初,郝靈佺捕斬之,自謂功莫與二,宋璟慮邊臣由此邀功,但授郎將而已,繇是訖開元之盛,不復議邊,中國遂安。此成敗鑒戒之不遠也。

党項は小さな蕃族で、中国と雑居している。この間、辺境の将が侵奪し、その良馬や子女を利し、徭役ようえきを求め徴発したため、遂に叛亡に至り、北狄や西戎と相誘って辺境を盗んだのである。『伝』に言う、「遠人が服さないならば、文徳を修めてこれを来たらしめる」と。管仲に言がある、「国家は勇猛な者を辺境に使ってはならない」と。これはまことに聖哲が微を知り著を察する方略である。今、戎狄の類がまさに強く、辺境の守備は充実していない。まことに良将を慎んで選び、彼らに完備統括させ、誅求を禁絶し、信誠を示し、来れば懲らしめ防ぎ、去れば謹んで備えるべきである。彼らはまさに懐柔され、その奸謀を改めるであろう。どうして急いで師役を興し、労費を坐して取る必要があろうか。

原文党項小蕃,與中國雜處,間者邊將侵刻,利其善馬子女,斂求繇役,遂致叛亡,與北狄西戎相誘盜邊。《傳》曰:「遠人不服,則修文德以來之。」管仲有言:「國家無使勇猛者為邊境。」此誠聖哲識微知著之略也。今戎醜方強,邊備未實,誠宜慎擇良將,使之完輯,禁絕誅求,示以信誠,來則懲禦,去則謹備。彼當懷柔,革其奸謀。何必亟興師役,坐取勞費哉?

帝はこれを嘉納した。

原文帝嘉納之。

一年余りして、致仕を乞うたが、聞き入れられず、詔して三五日に一度中書省に入り、政事を平章するように命じた。杜佑が進見する度に、天子は彼を尊礼し、官名で呼んで名を呼ばなかった。後数年して、固く骸骨を乞うたので、帝は已むなくこれを許した。なお光禄大夫・守太保のまま致仕させ、朔望の朝参を行わせ、中人を遣わして賜与を厚くした。元和七年に卒した。年七十八。冊贈して太傅とし、謚して安簡といった。

原文歲餘,乞致仕,不聽,詔三五日一入中書,平章政事。佑每進見,天子尊禮之,官而不名。後數年,固乞骸骨,帝不得已,許之。仍拜光祿大夫、守太保致仕,俾朝朔望,遣中人錫予備厚。元和七年卒,年七十八,冊贈太傅,謚曰安簡。

杜佑は学問を好む資質で、貴くなってもなお夜分まで読書した。先に、劉秩が百家の説を拾い集め、周の六官の法に倣って『政典』三十五篇を著したが、房琯はその才が劉向を過ぎると称賛した。杜佑はこれが未だ尽くしていないと考え、その欠けを広め、新たな礼を参考に加えて二百篇とし、自ら『通典』と号して奏上した。優詔して嘉賞し、儒者はその書が簡約で詳しいことを服した。

原文佑資嗜學,雖貴猶夜分讀書。先是,劉秩摭百家,侔周六官法,為《政典》三十五篇,房琯稱才過劉向。佑以為未盡,因廣其闕,參益新禮,為二百篇,自號《通典》,奏之,優詔嘉美,儒者服其書約而詳。

人となり平易で遜順、物事に違忤せず、人皆これを愛重し、漢の胡広に比す、然れども練達文采は及ばざるなり。朱坡樊川に、頗る亭観林を治め、山を鑿ち泉を股き、賓客と酒を置きて楽しみを為す。子弟皆朝請を奉じ、貴盛一時の冠たり。天性吏職に精しく、治めるところ察せず、数たび計賦を斡め、民の利病を相して上下し、議者佑の治行欠くるところなしと称す。惟だ晚年妾を以て夫人と為し、蔽うところ有りと云う。

原文為人平易遜順,與物不違忤,人皆愛重之,方漢胡廣,然練達文采不及也。朱坡樊川,頗治亭觀林,鑿山股泉,與賓客置酒為樂。子弟皆奉朝請,貴盛為一時冠。天性精於吏職,為治不察,數斡計賦,相民利病而上下之,議者稱佑治行無缺。惟晚年以妾為夫人,有所蔽雲。

子 式方

原文子 式方

式方、字は考元、蔭により揚州参軍事を授かる。再び遷りて太常寺主簿となり、音律を考定し、卿高郢これを称す。佑既に相と為り、出でて昭応令と為り、遷りて太僕卿となる。子悰、公主に尚る。式方右戚を以て、輒ち病みて事を視ず。穆宗立ち、桂管観察使を授かる。弟従郁痼疾に、躬ら方薬羞膳を営み、及び死す、期して泣き、世その篤行を称す。卒し、礼部尚書を贈らる。

原文式方,字考元,以蔭授揚州參軍事。再遷太常寺主簿,考定音律,卿高郢稱之。佑既相,出為昭應令,遷太僕卿。子悰,尚公主。式方以右戚,輒病不視事。穆宗立,授桂管觀察使。弟從郁痼疾,躬為營方藥羞膳,及死,期而泣,世稱其篤行。卒,贈禮部尚書。

式方弟 従郁

原文式方弟 從郁

従郁、元和初め左補闕と為り、崔群等宰相の子を以て嫌い、再び徙りて秘書丞となる。終に駕部員外郎。子牧。

原文從郁,元和初為左補闕,崔群等以宰相子為嫌,再徙秘書丞。終駕部員外郎。子牧。

式方子 悰

原文式方子 悰

悰、字は永裕、門蔭により三たび遷りて太子司議郎と為る。権徳輿相と為るや、其の婿翰林学士独狐郁嫌いを以て自ら白す。憲宗郁の文雅を見て、嘆じて曰く「徳輿に婿乃ちかくの如き有り!」時に岐陽公主は帝の愛女なり。旧制、選ぶところ多く戚裏将家、帝始めて詔して宰相李吉甫に大臣の子を択ばしむ、皆疾を辞す、唯だ悰選ばれて麟徳殿に召し見ゆ。礼成り、殿中少監・駙馬都尉を授かる。太和初め、澧州刺史より召されて京兆尹と為り、遷りて鳳翔忠武節度使となる。入りて工部尚書と為り、度支を判ず。会に公主薨じ、悰久しく謝せず、文宗之を怪しむ。戸部侍郎李玨曰く「比の駙馬都尉皆公主の為に斬衰三年を服す、故に悰謝するを得ず」と。帝矍然とし、始めて詔して杖して期とし、令に著す。

原文悰,字永裕,以門蔭三遷太子司議郎。權德輿為相,其婿翰林學士獨孤郁以嫌自白。憲宗見郁文雅,嘆曰:「德輿有婿乃爾!」時岐陽公主,帝愛女。舊制,選多戚裏將家,帝始詔宰相李吉甫擇大臣子,皆辭疾,唯悰以選召見麟德殿。禮成,授殿中少監、駙馬都尉。太和初,由澧州刺史召為京兆尹,遷鳳翔忠武節度使。入為工部尚書,判度支。會公主薨,悰久不謝,文宗怪之。戶部侍郎李玨曰:「比駙馬都尉皆為公主服斬衰三年,故悰不得謝。」帝矍然,始詔杖而期,著於令。

会昌初め、淮南節度使と為る。武宗詔して揚州監軍に倡家の女十七人を取って禁中に進めしむ、監軍悰に同選を請い、又た良家に姿相有る者を閲せんと欲す、悰曰く「吾詔を奉ぜずして輒ち与うれば、罪なり」と。監軍怒り、表して帝にす。帝悰大臣の体有りと以て、乃ち詔して進めしむる伎を罷め、悰を倚りて相と為さんと意有り。年を逾え、召し拜して検校尚書右僕射・同中書門下平章事と為し、仍って度支を判ず。劉稹平ぎ、左僕射に進み、兼ねて門下侍郎と為る。未だ幾ばず、本官を以て罷められ、出でて剣南東川節度使と為り、西川に徙り、復た淮南を鎮す。時に方に旱し、道路流亡藉藉たり、民漕渠の遺米を漉して自ら給し、「聖米」と呼び、陂沢の茭蒲の実を取ること皆尽き、悰更に表して以て祥と為す。獄囚数百千人を積み、而して荒湎宴適して事を能くせず。罷められ、兼ねて太子太傅と為り、東都に分司す。歳を逾え、起きて留守と為り、復た剣南西川を節度す。召されて右僕射と為り、度支を判じ、進みて門下侍郎同平章事を兼ぬ。

原文會昌初,為淮南節度使。武宗詔揚州監軍取倡家女十七人進禁中,監軍請悰同選,又欲閱良家有姿相者,悰曰:「吾不奉詔而輒與,罪也。」監軍怒,表於帝。帝以悰有大臣體,乃詔罷所進伎,有意倚悰為相矣。逾年,召拜檢校尚書右僕射、同中書門下平章事,仍判度支。劉稹平,進左僕射、兼門下侍郎。未幾,以本官罷,出為劍南東川節度使,徙西川,復鎮淮南。時方旱,道路流亡藉藉,民至漉漕渠遺米自給,呼為「聖米」,取陂澤茭蒲實皆盡,悰更表以為祥。獄囚積數百千人,而荒湎宴適不能事。罷,兼太子太傅,分司東都。逾歲,起為留守,復節度劍南西川。召為右僕射,判度支,進兼門下侍郎同平章事。

始め、宣宗の世、夔王以下五王は大明宮内院に処り、而して鄆王は十六宅に居る。帝大漸す、枢密使王帰長・馬公儒等遺詔を以て夔王を立て、而して左軍中尉王宗実等殿中に入り、帰長等詔を矯るを以て、乃ち鄆王を迎えて之を立て、是れ懿宗なり。久しくして、枢密使楊慶を遣わして中書に詣らしめ、独り悰を揖し、他の宰相畢諴・杜審権・蔣伸進むるを敢えず、乃ち悰に中人請う帝の監国する奏を授け、因りて悰に諭して大臣の名在らざる者を劾して罪に抵せしむ。悰遽かに封じて使者に授け復命せしめ、慶に謂ひて曰く「上践祚未だ久しからず、君等権を秉り、愛憎を以て大臣を殺さば、公属禍無き日無からん」と。慶色沮みて去り、帝の怒り亦解け、大臣遂に安んず。未だ幾ばず、冊拜して司空と為り、邠国公に封ぜられ、検校司徒を以て鳳翔・荊南節度使と為り、加えて太傅を兼ぬ。会に黔南観察使秦匡謀蛮を討ち、兵敗れ、悰に奔る、悰之を囚え、劾して節を伏せずとし、詔有りて之を斬る。悰其の死するを意せず、駭愕して疾を得て卒す、年八十、太師を贈らる。葬の日、詔して宰相百官に臨奠せしむ。

原文始,宣宗世,夔王以下五王處大明宮內院,而鄆王居十六宅。帝大漸,樞密使王歸長、馬公儒等以遺詔立夔王,而左軍中尉王宗實等入殿中,以為歸長等矯詔,乃迎鄆王立之,是為懿宗。久之,遣樞密使楊慶詣中書,獨揖悰,它宰相畢諴、杜審權、蔣伸不敢進,乃授悰中人請帝監國奏,因諭悰劾大臣名不在者抵罪。悰遽封授使者復命,謂慶曰:「上踐祚未久,君等秉權,以愛憎殺大臣,公屬禍無日矣。」慶色沮去,帝怒亦釋,大臣遂安。未幾,冊拜司空,封邠國公,以檢校司徒為鳳翔、荊南節度使,加兼太傅。會黔南觀察使秦匡謀討蠻,兵敗,奔於悰,悰囚之,劾不能伏節,有詔斬之。悰不意其死,駭愕得疾卒,年八十,贈太師。葬日,詔宰相百官臨奠。

悰大議論に於いて往往相合する所有り、然れども才用に周らず。将相に出入すと雖も、厚く自ら奉養し、未だ嘗て幽隠を薦進せず、佑の素風衰ゆ、故に時に「禿角犀」と号す。

原文悰於大議論往往有所合,然才不周用。雖出入將相,而厚自奉養,未嘗薦進幽隱,佑之素風衰焉,故時號「禿角犀」。

悰子 裔休

原文悰子 裔休

子裔休、懿宗の時歴りて翰林学士・給事中、事に坐して端州司馬に貶せらる。弟孺休、字は休之。累りて擢でられ給事中と為る。大順初め、銭镠弟銶を遣わして兵を率い徐約を蘇州に撃ち、之を破り、海昌都将沈粲を行刺史事と為し、而して昭宗更に孺休を命じて之と為し、粲を制置指揮使と為す。镠悦ばず、密かに粲を遣わして害せしむ。始め、孺休攻めらるるを見て、曰く「我を殺す勿れ、当に爾に金を与えん」と。粲曰く「爾を殺せば、金焉くにか往かん」と。兄述休と同く死す。

原文子裔休,懿宗時歷翰林學士、給事中,坐事貶端州司馬。弟孺休,字休之。累擢給事中。大順初,錢镠遣弟銶率兵擊徐約於蘇州,破之,以海昌都將沈粲行刺史事,而昭宗更命孺休為之,以粲為制置指揮使。镠不悅,密遣粲害焉。始,孺休見攻也,曰:「勿殺我,當與爾金。」粲曰:「殺爾,金焉往?」與兄述休同死。

悰弟 慆

原文悰弟 慆

悰弟慆。慆、咸通中泗州刺史と為る。会に龐勛反し、城を囲む、処士辛讜広陵より来りて慆を見、家属を出だすを勧め、独り身を以て守らんとす。慆曰く「吾百口を出だして生を求めば、衆心動揺す、将士と生死を共にするに如かず」と。衆聞きて皆泣下す。慆難を聞き、城隍を完濬し、器械を閲するに具はらざる無し。

原文悰弟慆。慆,咸通中為泗州刺史。會龐勛反,圍城,處士辛讜自廣陵來見慆,勸出家屬,獨以身守。慆曰:「吾出百口求生,眾心搖矣,不如與將士生死共之。」眾聞皆泣下。慆之聞難,完濬城隍,閱器械無不具。

賊将李円慆を易しとし、勇士百人を馳せて府庫を封ぜんと欲して入らんとす、慆好言厚礼を以て迎え労し、賊慆の謀を虞れず。明日、甲士こうし三百を伏せ、球場に宴し、賊皆殲さる。円怒り、城に傅りて戦ひ、慆数百人を殺し、円退きて城西に壁す。勛聞き、其の兵を益し、而して書を以て城中に射て降るを促す。会に夜、慆鼓を撃ち城に乗りて大呼し、円気奪はれ、奔り還りて徐州に至る。未だ幾ばず、賊淮口を焚き、昼夜戦ひ息まず、讜乃ち戍将郭厚本に請ひて救を求め、賊解けて去る。浙西節度使杜審権将を遣わして兵千人を以て来援せしむ、反って円軍に包まれ、一軍尽く没す。慆人をして間道より京師に走らしめ、詔して戴可師に沙陀・吐渾の兵二万を以て招討せしむ。淮南節度使令狐牙将李湘を遣わして淮口に屯し、郭厚本と合す、円に敗られ、湘等並びに没し、於是に援絶ゆ。賊乃ち鉄鎖を以て淮流を絶ち、梯衝を以て城に乗ず。糧尽き、薄饘を以て給す。懿宗使者を遣わして慆に検校右散騎常侍を加え、堅守を勉む。勛円を遣わして城に入り慆を見て降を約せしむ、慆怒りて之を殺す。勛復た之に書を遺す、答書に安禄山・朱泚等終に覆滅に底するは、以て陰に其の党を携ぐと言ふ。勛累りて攻めて志を得ず、会に招討使馬挙兵を率いて至り、遂に解けて去る。囲むこと凡そ十月、慆士を拊循し、皆殊死しゅしに奮ひ、而して辛讜囲みを冒して出入し、援師を糾輯し、卒に一州を完うす、時に難と称す。賊平ぎ、慆遷りて義成軍節度使・検校兵部尚書と為り、卒す。

原文賊將李圓易慆,馳勇士百人欲入封府庫,慆為好言厚禮迎勞,賊不虞慆之謀也。明日,伏甲士三百,宴球場,賊皆殲焉。圓怒,傅城戰,慆殺數百人,圓退壁城西。勛聞,益其兵,而以書射城中促降。會夜,慆擊鼓乘城大呼,圓氣奪,奔還徐州。未幾,賊焚淮口,晝夜戰不息,讜乃請救於戍將郭厚本,賊解去。浙西節度使杜審權遣將以兵千人來援,反為圓軍所包,一軍盡沒。慆使人間道走京師,詔戴可師以沙陀、吐渾兵二萬招討。淮南節度使令狐遣牙將李湘屯淮口,與郭厚本合,為圓所敗,湘等並沒,於是援絕。賊乃以鐵鎖絕淮流,梯沖乘城。糧盡,為薄饘以給。懿宗遣使加慆檢校右散騎常侍,勉以堅守。勛遣圓入城見慆約降,慆怒殺之。勛復遺之書,答書言安祿山、朱泚等終底覆滅者,以陰攜其黨。勛累攻不得志,會招討使馬舉率兵至,遂解去。圍凡十月,慆拊循士,皆殊死奮,而辛讜冒圍出入,糾輯援師,卒完一州,時稱為難。賊平,慆遷義成軍節度使,檢校兵部尚書,卒。

従子の郁の子、牧。

原文從郁子 牧

牧、字は牧之、文を属するに善し。進士に及第し、復た賢良方正に挙げらる。沈傳師、表して江西團練府巡官と為し、又た牛僧孺の淮南節度府掌書記と為る。監察御史に擢でられ、疾を移して東都に分司し、弟の顗の病を以て官を棄つ。復た宣州團練判官と為り、殿中侍御史内供奉に拝せらる。

原文牧,字牧之,善屬文。第進士,復舉賢良方正。沈傳師表為江西團練府巡官,又為牛僧孺淮南節度府掌書記。擢監察御史,移疾分司東都,以弟顗病棄官。復為宣州團練判官,拜殿中侍御史內供奉。

是の時、劉從諫は澤潞を守り、何進滔は魏博に拠り、頗る驕蹇にして法度に循わず。牧は長慶以来、朝廷の措置に術亡く、復た山東を失い、鉅封劇鎮、以て天下の軽重を系ぐる所以のもの、承襲を軽く授くるを得ざるは、皆国家の大事なりと咎め、位に当たらずして言うを嫌い、実に罪有りとし、故に『罪言』を作る。其の辞に曰く、

原文是時,劉從諫守澤潞,何進滔據魏博,頗驕蹇不循法度。牧追咎長慶以來朝廷措置亡術,復失山東,鉅封劇鎮,所以系天下輕重,不得承襲輕授,皆國家大事,嫌不當位而言,實有罪,故作《罪言》。其辭曰:

生人は常に兵を病む、兵は山東に祖り、天下に羨る。山東を得ざれば、兵は去るべからず。山東の地、禹は九土を画して冀州と曰い、舜は其の分太大なるを以て、離して幽州と為し、并州と為す。其の水土を程するに、河南と等しく、常に十二を重んず。故に其の人沈鷙にして材力多く、許可を重んじ、辛苦に能し。魏晉以下、工機纖雑、意態百出し、俗益々卑弊し、人益々脆弱なり。唯だ山東は五種を敦くし、兵矢を本とし、他の能く蕩するも自若たり。健馬を産し、下なる者は日に二百里を馳す。所以に兵は常に天下に当たる。冀州は、其の強を恃みて理に循わざるを以て、其の必ず破れて弱からんことを冀う。既に破るるも、其の復た強大ならんことを冀うなり。并州は、力并吞するに足るなり。幽州は、幽陰惨殺なり。聖人、因りて以て名と為す。

原文生人常病兵,兵祖於山東,羨於天下。不得山東,兵不可去。山東之地,禹畫九土曰冀州;舜以其分太大,離為幽州,為并州。程其水土,與河南等,常重十二,故其人沈鷙多材力,重許可,能辛苦。魏晉以下,工機纖雜,意態百出,俗益卑弊,人益脆弱,唯山東敦五種,本兵矢,他不能蕩而自若也。產健馬,下者日馳二百里,所以兵常當天下。冀州,以其恃強不循理,冀其必破弱;雖已破,冀其復強大也。并州,力足以並吞也。幽州,幽陰慘殺也。聖人因以為名。

黄帝の時、蚩尤兵階と為り、自後帝王多く其の地に居す。周は斉の覇に劣り、一世ならず、晋は大なり、常に諸侯を傭役す。秦に至りて三晋の鋭を萃め、六世を経て乃ち韓を得、遂に天下の脊を折り、復た趙を得、因りて諸国を拾取す。韓信斉を聯ねて之を有つ。故に蒯通、漢・楚の軽重は信に在るを知る。光武は上谷に始まり、鄗に成る。魏武は官渡を挙ぐ、三分の天下に其の二を有つ。晋乱びて胡作し、宋武に至りて英雄と号し、蜀を得、関中を得、尽く河南の地を有ち、天下の十分の八を有つ。然れども一人をして河を度りて胡を窺わしむる能わず。高斉の荒蕩に至り、宇文之を取る。隋文因りて以て陳を滅ぼす。五百年の間、天下乃ち一家と為る。隋文は宋武の敵に非ざるなり。是れ宋は山東を得ず、隋は山東を得たればなり。故に隋は王と為り、宋は覇と為る。此れに由りて言えば、山東は、王者は王たらざるを得ず、覇者は覇たらざるを得ず、猾賊之を得れば、以て天下の安からざるを致すに足る。

原文黃帝時,蚩尤為兵階,自後帝王多居其地。周劣齊霸,不一世,晉大,常傭役諸侯。至秦萃銳三晉,經六世乃能得韓,遂折天下脊;復得趙,因拾取諸國。韓信聯齊有之,故蒯通知漢、楚輕重在信。光武始於上谷,成於鄗。魏武舉官渡,三分天下有其二。晉亂胡作,至宋武號英雄,得蜀,得關中,盡有河南地,十分天下之八,然不能使一人度河以窺胡。至高齊荒蕩,宇文取之,隋文因以滅陳,五百年間,天下乃一家。隋文非宋武敵也,是宋不得山東,隋得山東,故隋為王,宋為霸。由此言之,山東,王者不得不為王,霸者不得不為霸,猾賊得之,足以致天下不安。

天宝末、燕盗起こり、成臯・函・潼の間を出入し、無人の地に渉るが若し。郭・李輩の兵五十万、鄴を過ぐる能わず。爾来百余城、天下の力尽き、尺寸を得ず。人の之を望むは回鶻・吐蕃の若く、義として敢えて窺う者無し。国家之に因りて河に畦り障戍を修め、其の街蹊を塞ぐ。斉・魯・梁・蔡其の風流を被り、因りて以て寇と為す。裏を以て表を拓き、表を以て裏を撐ぎ、混澒回転し、顛倒横邪し、未だ嘗て五年の間戦わざる無し。生人は日に頓委し、四夷は日に日に熾なり、天子之に因りて陜に幸し、漢中に幸し、焦焦然として七十余年。運孝武に遭い、衣を澣ぎ一肉し、畋せず楽しまず、卑冗の中より将相を抜き取り、凡そ十三年、乃ち能く尽く河南・山西の地を得、洗削更革し、適わざる無し。唯だ山東服せず、亦た再び之を攻むるも、皆利あらず。豈に天の生人をして未だ怗泰に至らしめざるか。豈に人の謀未だ至らざるか。何ぞ其れ艱なるや。

原文天寶末,燕盜起,出入成臯、函、潼間,若涉無人地。郭、李輩兵五十萬,不能過鄴。自爾百餘城,天下力盡,不得尺寸,人望之若回鶻、吐蕃,義無敢窺者。國家因之畦河修障戍,塞其街蹊。齊、魯、梁、蔡被其風流,因以為寇。以裏拓表,以表撐裏,混澒回轉,顛倒橫邪,未常五年間不戰。生人日頓委,四夷日日熾,天子因之幸陜,幸漢中,焦焦然七十餘年。運遭孝武,澣衣一肉,不畋不樂,自卑冗中拔取將相,凡十三年,乃能盡得河南、山西地,洗削更革,罔不能適。唯山東不服,亦再攻之,皆不利。豈天使生人未至於怗泰邪?豈人謀未至邪?何其艱哉!

今日天子聖明、古昔を超出し、平治を志す。若し悉く生人をして事無からしめんと欲せば、其の要は先ず兵を去るに在り。山東を得ざれば、兵は去るべからず。今、上策は自治に如くは莫し。何となれば、貞元の時、山東には燕・趙・魏叛き、河南には斉・蔡叛く。梁・徐・陳・汝・白馬津・盟津・襄・鄧・安・黄・寿春皆、厚兵十余所を戍し、才だ自ら治所を護るに足り、実に一人を輟て他に使わず。遂に我が力を解き勢を弛め、熟視して不軌の者に奈何すべからざらしむ。此れに階り、蜀も亦た叛き、呉も亦た叛く。其の他未だ叛かざる者は、時に迎ひ上下し、保信すべからず。元和の初より今に至る二十九年の間、蜀を得、呉を得、蔡を得、斉を得、郡県二百余城を収む。未だ能く得ざる所は、唯だ山東の百城のみ。土地人戸、財物甲兵、往年に較ぶれば、豈に綽綽たらずや。亦た自ら以て治と為すに足る。法令制度、品式条章、果たして自治せるか。賢才奸悪、搜選置捨、果たして自治せるか。障戍鎮守、干戈車馬、果たして自治せるか。井閭阡陌、倉廩財賦、果たして自治せるか。もし果たして自治せずんば、是れ虜を助けて虜と為すなり。環土三千里、根を植えて七十年、復た天下陰に之を助くる有らば、則ち安んぞ取り得べけんや。故に曰く、上策は自治に如くは莫し。中策は魏を取るに如くは莫し。魏は山東に於いて最も重く、河南に於いても亦た最も重し。魏は山東に在りて、其の趙を遮る能くするを以てなり。既に魏を越えて趙を取るべからず、固より趙を越えて燕を取るべからず。是れ燕・趙は常に魏に取りて重んぜられ、魏は常に燕・趙の命を操る。故に魏は山東に於いて最も重し。黎陽は白馬津より三十里、新郷は盟津より一百五十里、陴壘相望み、朝に駕して暮に戦う。是の二津、虜一を潰す能くば、則ち馳ちて成臯に入り、数日の間ならず。故に魏は河南に於いても亦た最も重し。元和中、天下の兵を挙げて蔡を誅し、斉を誅し、之を頓すること五年、山東の憂い無きは、魏を得る能くするを以てなり。昨日滄を誅し、之を頓すること三年、山東の憂い無きも、亦た魏を得る能くするを以てなり。長慶初め趙を誅し、一日に五諸侯の兵四出して潰解するは、魏を失うを以てなり。昨日趙を誅し、長慶の時の如く罷まるも、亦た魏を失うを以てなり。故に河南・山東の軽重は魏に在り。魏の強大に非ず、地形然らしむるなり。故に曰く、魏を取るを中策と為す。最下策は浪戦と為し、地勢を計わず、攻守を審らかにせざるは是れなり。兵多粟多、人を駆りて戦わしむるは、守に便なり。兵少粟少、人駆らずして自ら戦うは、戦に便なり。故に我は常に戦に失い、虜は常に守に困る。山東叛くこと且つ三五世、後生の見る所の言語挙止、叛に非ざるは無し。事理正に当に此くの如くすべきと為し、沈酣して骨髓に入り、以て非と為す無く、囲急食尽き、屍を啖いて以て戦う有るに至る。此れを以て俗と為す、豈に与に一勝一負を決すべけんや。十余年来凡そ三たび趙を収むるも、食尽きて且つ下らんとす。郗士美敗るれば、趙復た振るい、杜叔良敗るれば、趙復た振るい、李聽敗るれば、趙復た振るう。故に曰く、地勢を計わず、攻守を審らかにせざるを浪戦と為し、最下策なり。

原文今日天子聖明,超出古昔,誌於平治。若欲悉使生人無事,其要先去兵。不得山東,兵不可去。今者,上策莫如自治。何者?當貞元時,山東有燕、趙、魏叛,河南有齊、蔡叛,梁、徐、陳、汝、白馬津、盟津、襄、鄧、安、黃、壽春皆戍厚兵十餘所,才足自護治所,實不輟一人以他使,遂使我力解勢弛,熟視不軌者無可奈何。階此,蜀亦叛,吳亦叛,其他未叛者,迎時上下,不可保信。自元和初至今二十九年間,得蜀,得吳,得蔡,得齊,收郡縣二百餘城,所未能得,唯山東百城耳。土地人戶,財物甲兵,較之往年,豈不綽綽乎?亦足自以為治也。法令制度,品式條章,果自治乎?賢才奸惡,搜選置舍,果自治乎?障戍鎮守,干戈車馬,果自治乎?井閭阡陌,倉廩財賦,果自治乎?如不果自治,是助虜為虜。環土三千里,植根七十年,復有天下陰為之助,則安可以取?故曰:上策莫如自治。中策莫如取魏。魏於山東最重,於河南亦最重。魏在山東,以其能遮趙也。既不可越魏以取趙,固不可越趙以取燕。是燕、趙常取重於魏,魏常操燕、趙之命。故魏在山東最重。黎陽距白馬津三十里,新鄉距盟津一百五十里,陴壘相望,朝駕暮戰,是二津,虜能潰一,則馳入成臯,不數日間。故魏於河南亦最重。元和中,舉天下兵誅蔡,誅齊,頓之五年,無山東憂者,以能得魏也。昨日誅滄,頓之三年,無山東憂,亦以能得魏也。長慶初誅趙,一日五諸侯兵四出潰解,以失魏也。昨日誅趙,罷如長慶時,亦以失魏也。故河南、山東之輕重在魏。非魏強大,地形使然也。故曰:取魏為中策。最下策為浪戰,不計地勢,不審攻守是也。兵多粟多,驅人使戰者,便於守;兵少粟少,人不驅自戰者,便於戰。故我常失於戰,虜常困於守。山東叛且三五世,後生所見言語舉止,無非叛也,以為事理正當如此,沈酣入骨髓,無以為非者,至有圍急食盡,啖屍以戰。以此為俗,豈可與決一勝一負哉?自十餘年凡三收趙,食盡且下。郗士美敗,趙復振;杜叔良敗,趙復振;李聽敗,趙復振。故曰:不計地勢,不審攻守,為浪戰,最下策也。

累進して左補闕・史館修撰に至り、膳部員外郎に改める。宰相李徳裕は平素よりその才を奇とす。会昌年中、黠戛斯が回鶻を破り、回鶻の種落は潰えて漠南に入る。牧は徳裕に説き、むしろこれを取るに如かずとし、以て「両漢の虜を伐つは、常に秋冬を以てし、匈奴の勁弓折膠し、重馬乳を免くるに当たり、之と相校するを以て、故に敗多く勝少なし。今若し仲夏に幽・并の突騎及び酒泉の兵を発し、その意表に出でば、一挙にして類無からん」と為す。徳裕これを善しとす。時に劉稹が命に拒ぐに会い、詔して諸鎮の兵にこれを討たしむ。牧復た書を徳裕に移し、以て「河陽西北天井関に去ること百里を強うす。万人を用いて壘と為し、その口を窒ぎ、壁を深くして戦をこれと与うるなかれ。成徳軍は世に昭義と敵と為り、王元逵は一雪して自ら奮わんことを思う。然れども長駆径ち上党を搗くこと能わず、その必ず取る者は西面に在り。今若し忠武・武寧の両軍を以て青州の精甲五千・宣潤の弩手二千を益し、絳より道を通じて入らば、数箇月を経ずして必ず賊の巣を覆さん。昭義の食は、尽く山東を仰ぐ。常日節度使は率ね留まって邢州に食し、山西の兵は単少なり。虚に乗じて襲い取り得べし。故に兵は拙速を聞くも、未だ巧の久しきを睹ず」とす。俄にして沢潞平らぎ、略ぼ牧の策の如し。黄・池・睦の三州刺史を歴任し、入って司勲員外郎と為り、常に史職を兼ぬ。吏部に改め、復た湖州刺史たることを乞う。年を踰えて、考功郎中として制誥を知り、中書舎人に遷る。

原文累遷左補闕、史館修撰,改膳部員外郎。宰相李德裕素奇其才。會昌中,黠戛斯破回鶻,回鶻種落潰入漠南,牧說德裕不如遂取之,以為:「兩漢伐虜,常以秋冬,當匈奴勁弓折膠,重馬免乳,與之相校,故敗多勝少。今若以仲夏發幽、并突騎及酒泉兵,出其意外,一舉無類矣。」德裕善之。會劉稹拒命,詔諸鎮兵討之,牧復移書於德裕,以「河陽西北去天井關強百里,用萬人為壘,窒其口,深壁勿與戰。成德軍世與昭義為敵,王元逵思一雪以自奮,然不能長驅徑搗上黨,其必取者在西面。今若以忠武、武寧兩軍益青州精甲五千、宣潤弩手二千,道絳而入,不數月必覆賊巢。昭義之食,盡仰山東,常日節度使率留食邢州,山西兵單少,可乘虛襲取。故兵聞拙速,未睹巧之久也」。俄而澤潞平,略如牧策。歷黃、池、睦三州刺史,入為司勛員外郎,常兼史職。改吏部,復乞為湖州刺史。逾年,以考功郎中知制誥,遷中書舍人。

牧は剛直にして奇節有り、齪齪たる小謹を為さず、敢えて大事を論列し、病利を指陳すること尤も切至なり。少くして李甘・李中敏・宋元阝と善し。その古今を通じ、成敗を善く処するは、甘等及ばざる所なり。牧も亦た疏直を以てす。時に右援する者無し。従兄悰は将相を更め歴るも、牧は困躓して自ら振わず、頗る怏怏として平らかならず。卒す。年五十。初め、牧夢に人告げて曰く「爾応に名を畢すべし」と。復た夢に「皎皎白駒」の字を書く。或いは曰く「隙を過ぐるなり」と。俄にして炊甑裂く。牧曰く「祥ならず」と。乃ち自ら墓誌を為り、悉く為す所の文章を取ってこれを焚く。

原文牧剛直有奇節,不為齪齪小謹,敢論列大事,指陳病利尤切至。少與李甘、李中敏、宋元阝善,其通古今,善處成敗,甘等不及也。牧亦以疏直,時無右援者。從兄悰更歷將相,而牧困躓不自振,頗怏怏不平。卒,年五十。初,牧夢人告曰:「爾應名畢。」復夢書「皎皎白駒」字,或曰「過隙也」。俄而炊甑裂,牧曰:「不祥也。」乃自為墓誌,悉取所為文章焚之。

牧は詩に於いて、情致豪邁、人号して「小杜」と為し、以て杜甫と別つと云う。

原文牧於詩,情致豪邁,人號為「小杜」,以別杜甫云。

牧の弟 顗

原文牧弟 顗

顗は、字は勝之。幼くして目を病み、母その学を為すを禁ず。進士に挙げらる。礼部侍郎賈餗人に語りて曰く「杜顗を得れば数百人に敵するに足る」と。秘書省正字を授く。李徳裕奏して浙西府の賓佐と為す。徳裕貴盛なるも、賓客敢えて忤う者無し。惟だ顗のみ数えてこれを諫正す。袁州に謫せらるるに及び、嘆じて曰く「門下我を愛する皆顗の如くせば、吾今日有ること無からん」と。太和末、召されて咸陽尉と為り、史館に直る。常に人に語りて曰く「李訓・鄭註必ず敗れん」と。行きて未だ都に及ばず、難の作るを聞き、疏を以て疾を辞して帰る。顗も亦た文を属するに善く、牧と相上下す。竟に喪明を以て卒す。

原文顗,字勝之,幼病目,母禁其為學。舉進士,禮部侍郎賈餗語人曰:「得杜顗足敵數百人。」授秘書省正字。李德裕奏為浙西府賓佐。德裕貴盛,賓客無敢忤,惟顗數諫正之。及謫袁州,嘆曰:「門下愛我皆如顗,吾無今日。」太和末,召為咸陽尉,直史館。常語人曰:「李訓、鄭註必敗。」行未及都,聞難作,疏辭疾歸。顗亦善屬文,與牧相上下。竟以喪明卒。

令狐楚

原文令狐楚

令狐楚は、字は殼士、徳棻の裔なり。五歳にして生まれ、辞章を為す能し。冠に逮り、進士に貢す。京兆尹将に第一として薦めんとす。時に許正倫は軽薄の士、長安の間に名有り、蜚語を作る能くす。楚その争いを嫌い、譲ってこれを下す。第に及ぶや、桂管観察使王拱その材を愛し、将に楚を辟せんとす。至らざるを懼れ、乃ち先ず奏して後に聘す。拱の所に在りと雖も、父并州に官すを以て奉養を得ず、未だ宴楽に豫せず。歳満ちて謝して帰る。李説・厳綬・鄭儋相継いで太原を領す。その行いを高くし、幕府に引き、掌書記より判官に至る。徳宗文を喜び、毎に太原の奏を省み、必ず能く楚の為す所を弁じ、数えてこれを称す。儋暴死し、後事を占うに及ばず。軍大いに歓き、将に乱を為さんとす。夜十数騎刃を挺てて楚を邀え取り、遺奏を草せしむ。諸将圜視す。楚色変ぜず、筆を秉てば輒ち就き、以て遍く示す。士皆感泣し、一軍乃ち安んず。ここにより名益々重し。親喪を以て解く。既に除くや、召されて右拾遺を授く。

原文令狐楚,字殼士,德棻之裔也。生五歲,能為辭章。逮冠,貢進士,京兆尹將薦為第一,時許正倫輕薄士,有名長安間,能作蜚語,楚嫌其爭,讓而下之。既及第,桂管觀察使王拱愛其材,將辟楚,懼不至,乃先奏而後聘。雖在拱所,以父官并州不得奉養,未嘗豫宴樂。滿歲謝歸。李說、嚴綬、鄭儋繼領太原,高其行,引在幕府,由掌書記至判官。德宗喜文,每省太原奏,必能辨楚所為,數稱之。儋暴死,不及占後事,軍大歡,將為亂。夜十數騎挺刃邀取楚,使草遺奏,諸將圜視,楚色不變,秉筆輒就,以遍示,士皆感泣,一軍乃安。由是名益重。以親喪解,既除,召授右拾遺。

憲宗の時、累進して職方員外郎に擢でられ、制誥を知る。その文を為すに、箋奏制令に於いて尤も善くし、一篇成る毎に、人皆伝え諷す。皇甫镈は利を言うを以て幸いし、楚・蕭俛と皆厚く善し。故に帝に薦む。帝も亦た自らその名を聞き、召して翰林学士と為し、中書舎人に進む。方に蔡を伐つに、久しく下らず。議者多く兵を罷めんと欲す。帝独り裴度と赦さず肯んぜず。元和十二年、度宰相を以て彰義節度使を領す。楚制を草す。その辞に合わざる所有り。度その情を得る。時宰相李逢吉は楚と善く、皆度を助けず。故に帝逢吉を罷め、楚の学士を停め、但だ中書舎人と為す。俄に出でて華州刺史と為る。後他の学士比々事を宣べて旨に切らざるに、帝その草を抵し、楚の才を思う。

原文憲宗時,累擢職方員外郎,知制誥。其為文,於箋奏制令尤善,每一篇成,人皆傳諷。皇甫镈以言利幸,與楚、蕭俛皆厚善,故薦於帝。帝亦自聞其名,召為翰林學士,進中書舍人。方伐蔡,久未下,議者多欲罷兵,帝獨與裴度不肯赦。元和十二年,度以宰相領彰義節度使,楚草制,其辭有所不合,度得其情。時宰相李逢吉與楚善,皆不助度,故帝罷逢吉,停楚學士,但為中書舍人。俄出為華州刺史。後它學士比比宣事不切旨,帝抵其草,思楚之才。

镈既に相と為り、楚を擢でて河陽懐節度使と為し、烏重胤に代わる。初め、重胤滄州に徙る。河陽の士三千を以て従う。士楽しまず、半道に潰れて帰り、北城を保ち、将に旁州を転掠せんとす。楚中潬に至り、数騎を以て自ら往きてこれを労う。衆甲して出で、楚を見て疑わず、乃ち皆降る。楚その首悪を斬る。衆遂に定まる。度太原に出づ。镈楚を薦めて中書侍郎・同中書門下平章事と為す。穆宗即位し、門下侍郎に進む。镈罪を得る。時に楚は镈に縁りて進むと謂い、且つ嘗て裴度を逐う。天下の共に疾む所なり。蕭俛政を輔くるに会い、乃ち敢えて言わず。方に景陵を営む。詔して楚を使いと為す。而して親吏韋正牧・奉天令於翚等傭銭十五万緡を償わず。楚献じて以て羨余と為す。怨訴路に系る。詔して翚等を捕えて獄に下し誅し、楚を出して宣歙観察使と為す。俄に衡州刺史に貶せられ、再び徙り、太子賓客を以て東都に分司す。長慶二年、陜虢観察使に擢でらる。諫官論執して置かず。楚陜に至ること一日、復た罷められ、東都に還る。

原文镈既相,擢楚河陽懷節度使,代烏重胤。始,重胤徙滄州,以河陽士三千從,士不樂,半道潰歸,保北城,將轉掠旁州。楚至中潬,以數騎自往勞之。眾甲而出,見楚不疑,乃皆降。楚斬其首惡,眾遂定。度出太原,镈薦楚為中書侍郎、同中書門下平章事。穆宗即位,進門下侍郎。镈得罪,時謂楚緣镈以進,且嘗逐裴度,天下所共疾,會蕭俛輔政,乃不敢言。方營景陵,詔楚為使,而親吏韋正牧、奉天令於翚等不償傭錢十五萬緡,楚獻以為羨余,怨訴系路。詔捕翚等下獄誅,出楚為宣歙觀察使。俄貶衡州刺史,再徙,以太子賓客分司東都。長慶二年,擢陜虢觀察使,諫官論執不置,楚至陜一日,復罷,還東都。

逢吉復た相と為るに会い、力めて楚を起す。李紳の翰林に在りてこれを沮むを以て、克たず。敬宗立ち、紳を逐い出だし、即ち楚を拝して河南尹と為す。宣武節度使に遷る。汴軍は驕を以て故にす。而して韓弘弟兄は務めて峻法を以てこれを繩治す。士安きに偷み、革心無し。楚至り、酷烈を解き去り、仁恵を以て鐫諭す。人人喜び、遂に善俗と為る。入って戸部尚書と為り、俄に東都留守を拝し、天平節度使に徙る。初め、汴・鄆の帥毎に至り、州銭二百万を以て私蔵に入る。楚独り辞して取らず。又た李師古の園檻僭制なる者を毀つ。久しくして、節を河東に徙す。召されて吏部尚書と為り、検校尚書右僕射。故事に、検校官重ければ、則ちその班に従う。楚は吏部自ら品有りを以て、固く辞す。詔有りて嘉み允す。俄に太常卿を兼ね、左僕射・彭陽郡公に進み拝す。

原文會逢吉復相,力起楚,以李紳在翰林沮之,不克。敬宗立,逐出紳,即拜楚為河南尹。遷宣武節度使。汴軍以驕故,而韓弘弟兄務以峻法繩治,士偷於安,無革心。楚至,解去酷烈,以仁惠鐫諭,人人悅喜,遂為善俗。入為戶部尚書,俄拜東都留守,徙天平節度使。始,汴、鄆帥每至,以州錢二百萬入私藏,楚獨辭不取。又毀李師古園檻僭制者。久之,徙節河東。召為吏部尚書,檢校尚書右僕射。故事,檢校官重,則從其班;楚以吏部自有品,固辭,有詔嘉允。俄兼太常卿,進拜左僕射、彭陽郡公。

李訓の乱の際、将相は皆神策軍に拘束された。文宗は夜に令狐楚と鄭覃を禁中に召し入れ、楚は建言した、「外には三司御史があり、さもなければ大臣が雑治すべきであり、内仗は宰相が拘束されるべき場所ではありません。」帝はこれを肯いた。詔を草した後、王涯・賈餗の冤罪を指摘したが、その罪状を切実に述べず、仇士良らはこれを怨んだ。初め、帝は楚を宰相に任じることを許したが、果たさず、代わりに李石を用い、楚を塩鉄転運使とした。先に、鄭註が榷茶使の設置を奏上し、王涯はまた官が自ら園を治めて茶を植えることを議し、人々は不便を感じた。楚は使を廃し、旧法の如くにすることを請い、従われた。元和年中、禁兵を出して左右街使に与え、宰相が朝に入るのを建福門まで護衛させた。この乱に至り、廃された。楚は即座に奏上した、「鎮帥が初めて拝命する時、必ず戎服を着て仗に属して省に詣でて辞し謁するのは、鄭註に由来し、実に乱の兆しである。故に王璠・郭行余は将吏を駆って京師に血を踏ませた。停止すべきである。」詔はこれを可とした。開成元年の上巳、群臣に曲江で宴を賜う。楚は新たに大臣を誅し、暴かれた骸骨が未だ収められず、怨みと災いが感応して結びついているとして、疾を称して出ず、衣衾と槥櫝を与えて刑死した骨を収め、陽気に順うことを請うた。この時、政は宦官にあり、数度上疏して位を辞し、山南西道節度使に拝された。卒す。七十二歳。司空を贈られ、文と諡された。

原文會李訓亂,將相皆系神策軍。文宗夜召楚與鄭覃入禁中,楚建言:「外有三司御史,不則大臣雜治,內仗非宰相系所也。」帝頷之。既草詔,以王涯、賈餗冤,指其罪不切,仇士良等怨之。始,帝許相楚,乃不果,更用李石,而以楚為鹽鐵轉運使。先是,鄭註奏建榷茶使,王涯又議官自治園植茶,人不便,楚請廢使,如舊法,從之。元和中,出禁兵畀左右街使衛宰相入朝,至建福門。及是亂,乃罷。楚即奏:「鎮帥初拜,必戎服屬仗詣省謁辭,本於鄭註,實為亂兆,故王璠、郭行余驅將吏蹀血京師,所宜停止。」詔可。開成元年上巳,賜群臣宴曲江。楚以新誅大臣,暴骸未收,怨沴感結,稱疾不出,乃請給衣衾槥櫝,以斂刑骨,順陽氣。是時,政在宦豎,數上疏辭位,拜山南西道節度使。卒,年七十二,贈司空,謚曰文。

楚は外見は厳重で犯しがたいが、内面は寛厚で、士を礼をもって遇した。星歩や鬼神を以て進む客は、一人も接しなかった。政を行うに善く撫御し、治績があり、人々はそれぞれ適宜を得た。病が甚だしくなり、諸子が薬を進めたが、肯かず、曰く、「士には固より命あり、何ぞこの物を事とせんや。」自ら力を振るって奏して天子に謝し、門人李商隱を召して曰く、「我が気魄は将に尽きんとす、我を助けてこれを成せ。」その大意は甘露の事で誅殺・譴責された者が多いので、威を和らげ、広く昭雪洗浊されることを請うたものであった。文辞は委曲を尽くし、誤りや脱落はなかった。書き終え、諸子に命じて曰く、「我が生は時に益なく、諡を請うな。鼓吹を求むるな。布車一乗で葬り、銘誌には高位を選ぶな。」この夜、大星が寝室の上に隕ち、その光が庭を照らした。坐して家人と訣別し、乃ち終えた。詔があり、鹵簿を停めてその志を伸べさせた。

原文楚外嚴重不可犯,而中寬厚,待士有禮。客以星步鬼神進者,一不接。為政善撫禦,治有績,人人得所宜。疾甚,諸子進藥,不肯禦,曰:「士固有命,何事此物邪?」自力為奏謝天子,召門人李商隱曰:「吾氣魄且盡,可助我成之。」其大要以甘露事誅譴者眾,請霽威,普見昭洗。辭致曲盡,無所謬脫。書已,敕諸子曰:「吾生無益於時,無請謚,勿求鼓吹,以布車一乘葬,銘誌無擇高位。」是夕,有大星隕寢上,其光燭廷。坐與家人訣,乃終。有詔停鹵簿以申其志。

子の緒・綯は時に顕れた。

原文子緒、綯,顯於時。

子 緒

原文子 緒

緒は蔭によって仕え、隋・寿・汝の三州刺史を歴任し、佳政があった。汝の人は石に刻んで徳を頌することを請うたが、緒は綯が国政を執っているので、固く辞した。宣宗はその意を嘉し、乃ち止めた。

原文緒以蔭仕,歷隋、壽、汝三州刺史,有佳政。汝人請刻石頌德,緒以綯當國,固讓。宣宗嘉其意,乃止。

子 綯

原文子 綯

綯は字を子直といい、進士に挙げられ、累遷して左補闕・右司郎中となった。出て湖州刺史となる。

原文綯,字子直,舉進士,擢累左補闕、右司郎中。出為湖州刺史。

大中初め、宣宗が宰相白敏中に謂いて曰く、「憲宗の葬送の時、道中風雨に遇い、六宮百官は皆避けたが、ただ頎長で髯ある者が梓宮を奉じて去らぬ者を見た。果たして誰か。」敏中が言う、「山陵使の令狐楚です。」帝曰く、「子はあるか。」対えて曰く、「緒は若くして風痹を患い、用に堪えません。綯は今湖州を守っています。」因みに曰く、「その人となりは、宰相の器です。」即ち召して考功郎中・知制誥とした。翰林に入り学士となる。ある夜、召して人間の疾苦を論じ、帝は『金鏡』の書を出して曰く、「太宗の著したものである。卿は我がためにその要を挙げよ。」綯は語を摘んで曰く、「至治は未だ嘗て不肖を任じず、至乱は未だ嘗て賢を任じず。賢を任ずれば、天下の福を享け、不肖を任ずれば、天下の禍に罹る。」帝曰く、「善し。朕はこれを読んで嘗て三復してやむ。」綯は再拝して曰く、「陛下必ずや王業を興さんと欲せば、これを捨てて何をか先にせん。『詩』に曰く、『惟れ其れ之れ有るが故に、是を以て之れに似る。』」中書舎人に進み、彭陽男を襲封した。御史中丞に遷り、再び兵部侍郎に遷る。還って翰林承旨となる。夜、禁中に対し、燭が尽きたので、帝は乗輿・金蓮華炬を以て送還させた。院吏は望見し、天子が来たと思った。綯が至ると、皆驚いた。俄かに同中書門下平章事となり、十年輔政した。懿宗が嗣位すると、尚書左僕射・門下侍郎より再拝して司空となった。未だ幾ばくもせず、検校司徒平章事となり、河中節度使となる。宣武に移り、また淮南副大使に移る。安南が平定され、饋運の労により、涼国公に封ぜられた。

原文大中初,宣宗謂宰相白敏中曰:「憲宗葬,道遇風雨,六宮百官皆避,獨見頎而髯者奉梓宮不去,果誰耶?」敏中言:「山陵使令狐楚。」帝曰:「有子乎?」對曰:「緒少風痹,不勝用。綯今守湖州。」因曰:「其為人,宰相器也。」即召為考功郎中,知制誥。入翰林為學士。它夜,召與論人間疾苦,帝出《金鏡》書曰:「太宗所著也,卿為我舉其要。」綯擿語曰:「至治未嘗任不肖,至亂未嘗任賢。任賢,享天下之福;任不肖,罹天下之禍。」帝曰:「善,朕讀此嘗三復乃已。」綯再拜曰:「陛下必欲興王業,舍此孰先?《詩》曰:『惟其有之,是以似之。』」進中書舍人,襲彭陽男。遷御史中丞,再遷兵部侍郎。還為翰林承旨。夜對禁中,燭盡,帝以乘輿、金蓮華炬送還,院吏望見,以為天子來。及綯至,皆驚。俄同中書門下平章事,輔政十年。懿宗嗣位,由尚書左僕射、門下侍郎再拜司空。未幾,檢校司徒平章事,為河中節度使。徙宣武,又徙淮南副大使。安南平,以饋運勞,封涼國公。

龐勛が桂州より還り、浙西の白沙より濁河に入り、舟を掠めて上った。綯は聞き、使者を遣わして慰撫し、且つこれを饋った。裨将ひしょうの李湘が曰く、「徐の兵は擅に還り、果たして反しました。詔が未だなくとも、一切の制乱は、我が専らとすることができます。今その兵は二千に満たず、広く盤艦を設け、旗幟を張り、人に侈りを示し、我を甚だ畏れています。高郵は崖が険しく水が狭く、もし荻曹に火を放って其の前を焼き、勁兵に其の後に乗ぜしめれば、一挙にして覆すことができます。然らずんば、淮泗を絶たしめ、徐の不逞の徒と合すれば、禍乱は滋長します。」綯は懦緩で用いることができず、また自ら詔を奉じていないとして、因みに曰く、「彼らが暴を為さなければ、その淮を渡るに任せよ。何ぞ我に関わらんや。」勛は還り、果たして徐州を盗み、その衆は六七万であった。徐は食を欠き、兵を分けて滁・和・楚・寿を攻め、これを陥れた。糧尽き、人を喰らって飽きた。詔して綯を徐州南面招討使とする。賊は方に泗州を攻め、杜慆が堅守した。綯は湘に命じて兵五千を率いてこれを救わしめた。勛は謾辞を以て綯に謝して曰く、「数度赦しに蒙り、未だ即ち降らざる所以は、一二の将が異なるためです。願わくはこれを除くことを図り、身を以て命を聴かん。」綯は喜び、即ち勛に節を仮することを請い、湘に敕して曰く、「賊は既に降った。ただ淮口を謹んで戍し、戦うに及ばず。」湘は乃ち警備を撤き兵械を解き、日々勛の衆と歓談した。後、賊は隙に乗じて直ちに湘の陣営を襲い、悉く俘虜として食らい、湘及び監軍の郗厚本を醢にした。時、浙西の杜審権が票将の翟行約に千兵を率いて湘と会わしめたが、未だ至らぬうちに湘は覆没した。賊は偽りに淮南の旌幟を建ててこれを誘い、亦皆陥没した。

原文龐勛自桂州還,道浙西白沙入濁河,剽舟而上。綯聞,遣使慰撫,且饋之。裨將李湘曰:「徐兵擅還,果反矣。雖未有詔,一切制亂,我得專之。今其兵不二千,而廣盤艦,張旗幟,示侈於人,其畏我甚。高郵厓峭水狹,若使荻曹火其前,勁兵乘其後,一舉可覆。不然,使得絕淮泗,合徐之不逞,禍亂滋矣。」綯懦緩不能用,又自以不奉詔,因曰:「彼不為暴,聽其度淮,何豫我哉?」勛還,果盜徐州,其眾六七萬。徐乏食,分兵攻滁、和、楚、壽,陷之,糧盡,啖人以飽。詔綯為徐州南面招討使。賊方攻泗州,杜慆堅守,綯命湘率兵五千救之。勛謾辭謝綯曰:「數蒙赦,所以未即降者,一二將為異耳,願圖去之,以身聽命。」綯喜,即請假勛節,而敕湘曰:「賊已降,第謹戍淮口,無庸戰。」湘乃徹警釋械,日與勛眾歡言。後賊乘間直襲湘壘,悉俘而食之,醢湘及監軍郗厚本。時浙西杜審權使票將翟行約率千兵與湘會,未至而湘覆,賊偽建淮南旌幟誘之,亦皆陷。

綯は既に軍が敗れたので、左衛大将軍の馬挙を以てこれに代えた。太子太保とし、東都に分司させた。僖宗の初め、鳳翔節度使に拝された。間もなく、就いて同平章事を加えられ、趙に封を移された。卒す。七十八歳。太尉を贈られた。子に滈・渙・沨あり。

原文綯既師敗,乃以左衛大將軍馬舉代之。以為太子太保,分司東都。僖宗初,拜鳳翔節度使。頃之,就加同平章事,徙封趙。卒,年七十八,贈太尉。子滈、渙、沨。

綯の子 滈

原文綯子 滈

滈は嫌疑を避けて進士を挙げなかった。父が輔政すると、滈は鄭顥と姻家となり、勢いを恃んで驕慢となり、賓客と通じ、権を招き、四方の貨財を射取した。皆側目して敢えて言う者なし。懿宗が嗣位し、数度人のためにその事を白状されたので、宰相を去った。因みに滈が群進士と共に有司に試されることを丐い、詔は可とした。この年及第した。諫議大夫の崔瑄が劾奏して、十二月に去位したのに、有司の解牒は十月までで尽きており、朝廷の取士の法を屈して滈の家事としたとし、御史に委せてその罪を按実することを請うた。聴かれず。滈は乃ち長安尉より集賢校理となった。稍々遷って右拾遺・史館修撰となった。詔が下ると、左拾遺の劉蛻・起居郎の張雲が交わして疏を上し、その悪を指摘し、且つ言う、「李琢を安南都護に用い、首として南方を乱し、贓虐が流れ著しく、天下の兵戈調斂を給せしめず。琢は元より滈に賂を進じた。滈は人子として、悪に陥り、顧みて諫臣と為すべきか。」また劾す、「綯は大臣として、国本を調護すべきであるのに、大中時、諫議大夫の豆盧籍・刑部侍郎の李鄴を引いて夔王等の侍読とし、長幼の序を乱し、先帝の貽厥の謀をして殆ど陛下に及ばざらしめた。且つ滈は当時に居て、『白衣宰相』と謂われた。滈は未だ嘗て進士を挙げず、妄りに已に解したと言い、天下に解なくして及第したと言わしめる。已に罔くないか。」滈も亦懼れ、他の官に換えることを求め、詹事府司直に改めた。方に淮南を守る時、上奏して自らを治め、帝は雲を興元少尹に貶し、蛻を華陰令とした。滈も亦湮厄して振るわず死んだ。

原文滈避嫌不舉進士。輔政,而滈與鄭顥為姻家,怙勢驕偃,通賓客,招權,以射取四方貨財,皆側目無敢言。懿宗嗣位,數為人白髮其事,故去宰相。因丐滈與群進士試有司,詔可,是歲及第。諫議大夫崔瑄劾奏以十二月去位,而有司解牒盡十月,屈朝廷取士法為滈家事,請委御史按實其罪。不聽。滈乃以長安尉為集賢校理。稍遷右拾遺、史館修撰。詔下,左拾遺劉蛻、起居郎張雲交疏指其惡,且言:「用李琢為安南都護,首亂南方,贓虐流著,使天下兵戈調斂不給。琢本進賂於滈,滈為人子,陷於惡,顧可為諫臣乎?」又劾:「綯,大臣,當調護國本,而大中時,乃引諫議大夫豆盧籍、刑部侍郎李鄴為夔王等侍讀,亂長幼序,使先帝貽厥之謀幾不及陛下。且滈居當時,謂之『白衣宰相』。滈未嘗舉進士,而妄言已解,使天下謂無解及第,不已罔乎?」滈亦懼,求換它官,改詹事府司直。方守淮南,上奏自治,帝為貶雲為興元少尹,蛻華陰令。滈亦湮厄不振死。

綯の子 渙・沨

原文綯子 渙、沨

渙と沨はともに進士に挙げられ、渙は中書舎人で終わった。

原文渙、沨皆舉進士,渙終中書舍人。

弟の定

原文弟 定

定は字を履常といい、楚の弟である。進士に及第した。太和の末、駕部郎中として弘文館直学士となった。李訓の乱のとき、王遐休がちょうどその日に就任しようとしていたので、定は祝いに赴き、神策軍に捕らえられ、殺されそうになること数度、やがて免れた。桂管観察使で終わった。

原文定,字履常,楚弟。及進士第。太和末,以駕部郎中為弘文館直學士。李訓亂,王遐休方以是日就職,定往賀,為神策軍並收,欲殺者屢矣,已而免。終桂管觀察使。

賛

原文(段落全体)贊曰:耽、佑、楚皆惇儒,大衣高冠,雍容廟堂,道古今,處成務,可也;以大節責之,蓋〓昬中而玉表歟!悰、世當國,亦無足譏。牧論天下兵曰:「上策莫如自治。」賢矣哉!

賛にいう。耽、佑、楚はみな篤実な儒者であり、大衣高冠、廟堂に雍容として、古今を論じ、事を成すに処するは、よろしい。大節をもってこれを責むれば、蓋し昬中にして玉表なるか。悰、世が国を当たるも、また譏るに足らず。牧が天下の兵を論じて曰く、「上策は自ら治むるに如くは莫し」と。賢いかな。

原文(段落全体)贊曰:耽、佑、楚皆惇儒,大衣高冠,雍容廟堂,道古今,處成務,可也;以大節責之,蓋〓昬中而玉表歟!悰、世當國,亦無足譏。牧論天下兵曰:「上策莫如自治。」賢矣哉!