新唐書

巻一百六十五 列傳第九十 三鄭高權崔

巻一百六十五 列傳第九十 三鄭高權崔

鄭餘慶

原文鄭餘慶

鄭餘慶、字あざなは居業、鄭州滎陽けいようの人、三代にわたり皆顕官であった。餘慶は若くして文をよくし、進士に及第した。嚴震が山南西道の節度使せつどしとなった時、幕府に奏請して置かれた。貞元の初め、朝廷に還り、庫部郎中に抜擢され、翰林學士となり、工部侍郎として吏部選を管掌した。浮屠の法湊が罪により民が闕下に訴えた時、詔して御史中丞宇文邈・刑部侍郎張彧・大理卿鄭雲逵を三司とし、功德判官諸葛述とともに審理させた。述は、もと胥吏であった。餘慶は述が卑賤であると弾劾し、三司と雑治すべきでないとし、時にその言を是とした。

原文鄭餘慶,字居業,鄭州滎陽人,三世皆顯宦。餘慶少善屬文,擢進士第。嚴震帥山南西道,奏置幕府。貞元初,還朝,擢庫部郎中,為翰林學士,以工部侍郎知吏部選。浮屠法湊以罪為民訴闕下,詔御史中丞宇文邈、刑部侍郎張彧、大理卿鄭雲逵為三司,與功德判官諸葛述參按。述,故史也,餘慶劾述猥賤,不宜與三司雜治,時韙其言。

貞元十四年、中書侍郎・同中書門下平章事に拝された。奏対の度に、多く経義を敷衍した。元来度支使の於〓と親しく、凡そ陳奏する事は必ずこれを支持したが、〓は事に坐して貶せられた。また旱魃と飢饉の年があり、朝廷で禁衛十軍を賑恤することを議したが、中書省の吏が漏洩した。この二つの忤いが重なり、故に郴州司馬に貶せられた。

原文貞元十四年,拜中書侍郎、同中書門下平章事。每奏對,多傅經義。素善度支使於〓,凡所陳,必左右之,〓坐事貶;又歲旱饑,朝廷議賑禁衛十軍,為中書史漏言。疊二忤,故貶郴州司馬。

順宗は尚書左丞として召したが、憲宗が即位した時に合わせ、その官のまま再び同中書門下平章事に拝された。当時、主書の滑渙が宦官の劉光琦と相倚って奸を為し、宰相が議する度に、光琦が阻み変えさせようとする事は、渙に往って請わせれば必ず得られた。これにより四方からの賄賂が奔集し、弟の泳は刺史に至った。杜佑・鄭絪が政を執った時は、頗る姑息であったが、佑は常に同輩として扱い、名を呼ばなかった。餘慶が議事するに至ると、渙は傲然として宰相らの前で指画したので、餘慶は叱りつけて退けた。未だ幾ばくもせず、太子賓客に罷められた。後に渙が贓により敗れると、帝は次第に叱りつけて退けた事を聞き、これを善しとした。国子祭酒に改め、累遷して吏部尚書となった。

原文順宗以尚書左丞召,會憲宗立,即其官復拜同中書門下平章事。時主書滑渙與宦人劉光琦相倚為奸,每宰相議,為光琦沮變者,令渙往請必得,由是四方貲餉奔委之,弟泳至官刺史。杜佑、鄭絪執政,頗姑息,而佑常行輩待,不名也。至餘慶議事,渙傲然指畫諸宰相前,餘慶叱去。未幾,罷為太子賓客。後渙以贓敗,帝浸聞叱去事,善之。改國子祭酒,累遷吏部尚書。

医工の崔環という者が、淮南の小将から黄州司馬に除されたが、餘慶は執奏して言った。「諸道の散将で功なくして五品の正員を受けるのは、僥倖の路を開くものであり、不可である。」権力者たちは喜ばず、太子少傅に改め、兼ねて太常卿事を判じた。朱泚の乱以来、都ではしばしば驚擾があり、太常の楽の練習では鼓の使用を禁じていたが、餘慶は時既に久しく平穏であるとして、旧制に復するよう奏上した。山南西道節度使として出向し、後に召されて太子少師となり、老齢を理由に致仕を請うたが、許されなかった。

原文醫工崔環者,自淮南小將除黃州司馬,餘慶執奏:「諸道散將無功受五品正員,開僥幸路,不可。」權者不悅,改太子少傅,兼判太常卿事。自朱泚亂,都輦數驚,太常肄樂禁用鼓,餘慶以時久平,奏復舊制。出為山南西道節度使。入拜太子少師,請老,不許。

当時は赦しが多く、官には泛階が多かった。また帝が親しく郊祀し、陪祠した者に三品・五品を授けたが、考課を考慮しなかった。使府の賓吏が、軍功を借りて朱紫を賜る率は十のうち八に及んだ。近臣の謝恩や郎官の出使に、多く賜与あずかがあった。毎朝会するに、朱紫が朝廷に満ちて緑衣の者は少なかった。品服が甚だしく濫り、人は貴ばず、帝もこれを憎み、始めて餘慶に条奏して懲らしめ革めるよう詔した。尚書左僕射に遷った。僕射は比するに人を得ず、餘慶が宿徳をもって進められると、公論は浩然として重んじられた。帝は典制が倫を失うことを患い、餘慶が前代の事に通暁しているとして、詳定使に詔し、参画して裁訂させた。餘慶は韓愈・李程を副使に引き、崔郾・陳佩・楊嗣復・庾敬休を判官とし、凡そ儀礼の規矩を損益し、詳衷と称された。

原文時數赦,官多泛階;又帝親郊,陪祠者授三品、五品,不計考;使府賓吏,以軍功借賜朱紫率十八;近臣謝、郎官出使,多所賜與;每朝會,朱紫滿廷而少衣綠者。品服太濫,人不以為貴,帝亦惡之,始詔餘慶條奏懲革。遷尚書左僕射。僕射比非其人,及餘慶以宿德進,公論浩然歸重。帝患典制不倫,謂餘慶淹該前載,乃詔為詳定使,俾參裁訂正。餘慶引韓愈、李程為副,崔郾、陳佩、楊嗣復、庾敬休為判官,凡損增儀矩,號稱詳衷。

俄かに鳳翔尹に拝され、鳳翔を節度した。再び太子少師となり、滎陽郡公に封ぜられ、兼ねて国子祭酒事を判じた。建言して言った。「兵興以来、学校は廃れ、諸生は離散している。今天下は平穏である。臣は文吏の月俸を百分の一取り立て、以て修繕の資としたい。」詔して可とした。穆宗が即位すると、検校司徒を加えられた。卒去、七十五歳。太保を贈られ、諡して貞といった。帝はその貧しさを以て、特に一月分の俸料を与えて賻賵とした。

原文俄拜鳳翔尹,節度鳳翔。復為太子少師,封滎陽郡公,兼判國子祭酒事。建言:「兵興以來,學校廢,諸生離散。今天下承平,臣願率文吏月俸百取一,以資完葺。」詔可。穆宗立,加檢校司徒。卒,年七十五,贈太保,謚曰貞。帝以其貧,特給一月奉料為赗禭。

餘慶は若くして自らを磨き、己を行うに完潔であった。四朝に仕え、その禄は悉く親族に施し、或いは人の急を救い、自らの生活は粗末であった。官府に至っては、広大に開け、常に人に語って言った。「禄が親友に及ばずに僕妾を贅沢にする者は、私はこれを卑しむ。」大抵、中外の姻戚の嫁娶では、その礼の献上物を自ら閲した。後輩が内謁すれば、必ず引見し、諄々と経義を教え、儒学を成就させることに努めた。至徳以後、方鎮の除拜には必ず内使を遣わし幢節をその邸に持参させたが、到れば多く金帛を饋り、且つ天子に媚び、厚くないことを恐れたので、一つの使者が数百万緡を受け取ることもあった。憲宗は餘慶に命ずる度に、必ず使者を戒めて言った。「この家は貧しい。妄りに求め取ってはならぬ。」議者にはその沽激を誹る者もあったが、餘慶は意に介さなかった。奏議は古言を用いる類いで、「仰給縣官」「馬萬蹄」など、有司がどのような言葉か分からず、人はその時宜に適わないと非難した。従父の絪と昭国坊に住み、絪の邸は南に、餘慶の邸は北にあり、世に「南鄭相」「北鄭相」と言った。子に澣。澣は本名を涵といったが、文宗の諱いみなを避けて改めた。進士に及第し、累遷して右補闕となった。敢えて言い、憚るところなく、憲宗は餘慶に言った。「涵は、卿の令子にして朕の直臣である。互いに賀すべきである。」起居舍人・考功員外郎に遷った。時に刺史が吏に迫って功績を愛でて記録させることがあったので、涵は観察使に責めさせてその欺瞞を杜ぐよう請うた。餘慶が僕射となった時、避けて国子博士・史館修撰に除された。

原文餘慶少砥礪,行己完潔。仕四朝,其祿悉赒所親,或濟人急,而自奉粗狹。至官府,乃開肆廣大,常語人曰:「祿不及親友而侈仆妾者,吾鄙之。」大抵中外姻嫁,其禮獻皆親閱之。後生內謁,必引見,諄諄教以經義,務成就儒學。自至德後,方鎮除拜,必遣內使持幢節就第,至則多饋金帛,且以媚天子,唯恐不厚,故一使者納至數百萬緡。憲宗每命餘慶,必誡使曰:「是家貧,不可妄求取。」議者或詆其沽激,餘慶不屑也。奏議類用古言,如「仰給縣官」、「馬萬蹄」,有司不曉何等語,人訾其不適時。與從父絪家昭國坊,絪第在南,餘慶第在北,世謂「南鄭相」、「北鄭相」云。子澣。澣本名涵,避文宗故名,改焉。第進士,累遷右補闕。敢言,無所諱,憲宗謂餘慶曰:「涵,卿令子而朕直臣也,可更相賀。」遷起居舍人、考功員外郎。時刺史或迫吏下紀功愛,涵請責觀察使以杜其欺。餘慶為僕射,避除國子博士、史館脩撰。

文宗が即位すると、翰林に入り侍講學士となった。帝が経史を集めて『要録』を作らせたが、その博く精しいことを愛で、試みに諸条を挙げて問うと、即座に応答分析し、答えに滞ることがなかった。そこで金紫服を賜った。累進して尚書左丞となり、山南西道節度使として出向した。初め、餘慶が興元で学舎を創建し、澣がこれを継いで完成させ、生徒を養い、風化が大いに行われた。戸部尚書として召されたが、拝せずに卒去した。六十四歳。尚書右僕射を贈られ、諡して宣といった。

原文文宗立,入翰林為侍講學士。帝使稡擷經史為《要錄》,愛其博而精,試舉諸條擿問之,隨即酬析,無留答,因賜金紫服。累進尚書左丞,出為山南西道節度使。始,餘慶在興元創學廬,澣嗣完之,養生徒,風化大行。以戶部尚書召,未拜,卒。年六十四,贈尚書右僕射,謚曰宣。

四子あり、処誨・従讜が特に知名である。

原文四子,處誨、從讜尤知名。

子 処誨

原文子 處誨

処誨、字は廷美、文辞秀抜であった。仕えて刑部侍郎・浙東観察使・宣武節度使を歴任し、卒した。先に、李徳裕の『次柳氏旧聞』があったが、処誨は詳らかでないとして、更に『明皇雑録』を撰し、当時盛んに伝えられた。

原文處誨,字廷美,文辭秀拔。仕歷刑部侍郎、浙東觀察、宣武節度使,卒。先是,李德裕《次柳氏舊聞》,處誨謂未詳,更撰《明皇雜錄》,為時盛傳。

子 従讜

原文子 從讜

従讜、字は正求。進士に及第し、校書郎に補され、累遷して左補闕となった。令狐綯・魏扶は皆澣の門生で、しばしば誉めて進めたので、中書舎人に遷った。咸通年中、吏部侍郎となり、銓衡は明らかで公正であった。河東節度使として出向し、宣武に移り、善政最上の評判を得た。嶺南東道節度使に改めた。先に、林邑蛮が内侵し、天下の兵を召して進援させたが、龐勛の乱に会い、派遣されず、北兵は寡弱であった。従讜は土豪を募り、その酋長に右職を署し、規律を定めて互いに防禦させたので、交州・広州は平穏であった。

原文從讜,字正求。及進士第,補校書郎,遷累左補闕。令狐、魏扶皆澣門生,數進譽之,遷中書舍人。咸通中,為吏部侍郎,銓次明允。出為河東節度使,徙宣武,以善最聞。改嶺南東道節度。先是,林邑蠻內侵,召天下兵進援,會龐勛亂,不復遣,而北兵寡弱。從讜募土豪,署其酋右職,為約束,使相捍禦,交、廣晏然。

僖宗が即位すると、召されて刑部尚書となった。久しくして、同中書門下平章事に抜擢され、門下侍郎に進んだ。沙陀都督李國昌は辺境に憂い多きを聞き、振武・雲朔等の州を占拠し、南に太谷を攻略した。河東節度使康傳圭は大将伊釗・張彦球・蘇弘軫を遣わして兵を率いこれを防がせたが、戦い数えて敗れ、傳圭は軫を斬って衆に示した。彦球の部下が反逆し、傳圭を攻めてこれを殺し、府庫を掠奪して乱を起こした。朝廷これを憂いとし、帝は大臣に臨んで制せんと欲し、乃ち從讜を檢校司徒に拝し、宰相の秩をもって再び河東節度使とし、兼ねて行營招討使とし、詔して自ら参佐を択ばしめた。從讜は即ち表して長安令王調を自らの副とし、兵部員外郎劉崇龜・司勛員外郎趙崇を節度觀察府判官とし、前進士劉崇魯を推官とし、左拾遺李渥に掌書記を執らせ、長安尉崔澤を支使とし、皆一時の選りすぐりであった。京師の士人は太原を小朝廷に比し、才を得ること多しと言った。時に軍乱を承け、掠奪日々に錯雑す。從讜は既に視事するや、奸悪は隠れることなく情状を推し捕らえ、反賊を誅しその首悪を戮した。彦球は本善意にして、且つ才任に堪うるを以て、釈して問わず、却って兵を付し、隔てなく余猜なきにより、故にその死力を得た。渠凶宿狡は敢えて発せず、発すればまた即ち得られ、士は皆寒毛し慄いて伏した。

原文僖宗立,召為刑部尚書。久之,擢同中書門下平章事,進門下侍郎。沙陀都督李國昌間邊多虞,入據振武、雲朔等州,南略太谷。河東節度使康傳圭遣大將伊釗、張彥球、蘇弘軫引兵拒之,戰數負,傳圭斬軫以徇。彥球所部反,攻傳圭,殺之,劫府庫為亂。朝廷以為憂,帝欲大臣臨制,乃拜從讜檢校司徒,以宰相秩復為河東節度,兼行營招討使,詔自擇參佐。從讜即表長安令王調自副,兵部員外郎劉崇龜、司勛員外郎趙崇為節度觀察府判官,前進士劉崇魯推官,左拾遺李渥掌書記,長安尉崔澤支使,皆一時選。京師士人比太原為小朝廷,言得才多也。時承軍亂,剽奪日旁午。從讜既視事,奸無庾情,乃推捕反賊,誅其首惡。以彥球本善意,且才可任,釋不問,而付以兵,曠無余猜,故得其死力。渠凶宿狡不敢發,發又輒得,士皆寒毛惕伏。

時に黃巢が京師を犯すに会い、帝は梁・漢に駐蹕し、詔して從讜に部兵を発し北面招討副使諸葛爽に属して入討せしめた。從讜は士五千を団結し、将論安を遣わして爽に従わしめた。然るに李克用は太原乗ず可きを謂い、沙陀兵を以て其の地に奄入し、汾東に壁し、賊を討つと釈言し、須索頻りに仍った。從讜は餼醪を以て軍を犒い、克用は遥かに謂って曰く「我まさに引きて南せんと欲し、公と面して約せん」と。從讜は城に登り、開き勉めて感概し、功を立てて天子の厚恩に報ぜしめんとす。克用は辞窮し、再拝して去った。然れども陰に其の下を縦して肆に掠奪せしめ、以て人心を撼がす。從讜は安を追い、将王蟾・高弁等に踵ぎ撃たしめ、また振武の契通至るに会い、沙陀と戦い、沙陀は大敗して引き還った。即ち安等を遣わして北の百井に屯せしめしに、安は擅かに還りしを以て、從讜は諸将を合わせ、命じて安を引き出し、鞠場に斬った。中和二年、朝廷は沙陀を赦し、賊を撃って自ら贖わしめんとす。兵は敢えて太原を通らず、嵐・石より河に並びて南し、独り克用は数百騎を従え城下を過ぎ辞ししに、從讜は名馬器幣を以て之に帰した。明年、賊平ぎ、詔して克用に代わって河東を領せしむ。克用使いを来らせて曰く「まさに雁門に親を省し、願わくは公徐行せよ」と。從讜は即日、監軍周從寓に兵馬留後を知らしめ、掌書記劉崇魯に觀察留後を知らしめ、克用の至るを敕し、籍を按じてこれを効い、乃ち行った。

原文會黃巢犯京師,帝駐梁、漢,詔從讜發部兵屬北面招討副使諸葛爽入討。從讜團士五千,遣將論安從爽。而李克用謂太原可乘,以沙陀兵奄入其地,壁汾東,釋言討賊,須索繁仍。從讜以餼醪犒軍,克用隃謂曰:「我且引而南,欲與公面約。」從讜登城,開勉感概,使立功報天子厚恩,克用辭窮,再拜去。然陰縱其下肆掠,以撼人心。從讜追安,使與將王蟾、高弁等踵擊,亦會振武契通至,與沙陀戰,沙陀大敗引還。即遣安等屯北百井,安擅還,從讜合諸將,命持安出,斬之鞠場。中和二年,朝廷赦沙陀,使擊賊自贖,兵不敢道太原,繇嵐、石並河而南,獨克用從數百騎過辭城下,從讜以我名馬器幣歸之。明年,賊平,詔克用代領河東。克用使來曰:「方省親雁門,願公徐行。」從讜即日以監軍周從寓知兵馬留後,掌書記劉崇魯知觀察留後,敕克用至,按籍效之,乃行。

黃頭軍は糧少なるを以て其の資を劫いしに、從讜は間を走って絳州に至り、道梗びて通ぜず、数月して、召されて司空に拝し、復た政を秉り、太傅兼侍中に進んだ。帝に従って興元に至り、疾を以て骸骨を乞う。太子太保に拝し、第に還り、卒す。謚して文忠と曰う。

原文黃頭軍以糧少劫其資,從讜間走絳州,方道梗不通,數月,召拜司空,復秉政,進太傅兼侍中。從帝至興元,以疾乞骸骨,拜太子太保,還第,卒。謚文忠。

從讜は進止礼法有り、性矜満せず、沈毅謀有り。汴に在りし時、處誨が鎮に歿するを以て、代に訖るまで、牙中に楽を奏せず。陸扆を後生に識り、数えしばしば之を称誉し、扆は後に宰相の位に至った。張彦球は、拳摯にして善く断じ、累ねて虜を破り功有り、奏して行軍司馬と為し、後に金吾将軍を署す。初め、盗中原に流れ、沙陀強悍なりしも、而して卒に其の用を収めたるは、蓋し從讜が太原に重きを為したるによる。時に鄭畋は宰相を以て鳳翔に鎮し、檄を移して賊を討ち、両人は忠義を以て相提衡し、賊は特に之を憚り、「二鄭」と号したという。

原文從讜進止有禮法,性不矜滿,沈毅有謀。在汴時,以處誨歿於鎮,訖代,不奏樂牙中。識陸扆於後生,數稱譽之,扆後位宰相。張彥球者,拳摯善斷,累破虜有功,奏為行軍司馬,後署金吾將軍。初,盜流中原,沙陀強悍,而卒收其用者,蓋從讜為太原重也。時鄭畋以宰相鎮鳳翔,移檄討賊,兩人以忠義相提衡,賊尤憚之,號「二鄭」云。

鄭珣瑜

原文鄭珣瑜

鄭珣瑜、字は元伯、鄭州滎沢の人。少くして孤となり、天寶の乱に値い、退きて陸渾山に耕し、以て母を養い、州裏に干せず。転運使劉晏の奏により寧陵・宋城尉を補し、山南節度使張献誠の表により南鄭丞と為さんとすれども、皆謝して応ぜず。大歷中、諷諫主文科に高第し、大理評事を授かり、陽翟丞に調じ、抜萃を以て萬年尉と為る。崔祐甫が相と為り、左補闕に擢でられ、出でて涇原帥府判官と為る。入りて侍御史・刑部員外郎に拝し、母喪ほろに服して解く。喪に訖り、吏部に遷る。貞元初、詔して十省郎を択び畿・赤を治めしむ。珣瑜は本官を檢校し兼ねて奉先令と為る。明年、饒州刺史に進む。入りて諫議大夫と為り、四遷して吏部侍郎と為る。

原文鄭珣瑜,字元伯,鄭州滎澤人。少孤,值天寶亂,退耕陸渾山,以養母,不幹州裏。轉運使劉晏奏補寧陵、宋城尉,山南節度使張獻誠表南鄭丞,皆謝不應。大歷中,以諷諫主文科高第,授大理評事,調陽翟丞,以拔萃為萬年尉。崔祐甫為相,擢左補闕,出為涇原帥府判官。入拜侍御史、刑部員外郎,以母喪解。訖喪,遷吏部。貞元初,詔擇十省郎治畿、赤,珣瑜檢校本官兼奉先令。明年,進饒州刺史。入為諫議大夫,四遷吏部侍郎。

河南尹と為る。未だ境に入らざるに、徳宗の生日に会い、尹はまさに馬を献ずべきところ、吏は前に進み印を取らんと欲し、珣瑜の視事するを白し、且つ内贄せんとす。珣瑜は徐かに曰く「官に到らざるに遽にわかかに献ずるに事えんは、礼なるか」と。聴かず。性厳重にして言少く、未だ嘗て私を以て人に托せず、而して人もまた敢えて私を以て謁せず。既に河南に至りては、清静にして下に恵み、賤く斂め貴く発して以て民に便す。方に是の時、韓全義将兵して蔡を伐たんとし、河南は饋運を主る。珣瑜は密かに之を陽翟に儲え、以て官軍に給し、百姓は僦運の労を知らず。凡そ敕使を迎送するに、皆常の処に在り、吏は密かに其の馬を識り、進退数歩を差さず。全義と監軍の別檄に取りて、詔約に非ざるもの有れば、珣瑜は輒ち壁に掛けて酬いず。軍罷するに至るまで、凡そ数百封。諫むる者有りて曰く「軍須期会は急を為す、公は報ぜざる可きか」と。珣瑜曰く「武士戎を統ぶるは、多く恃みて以て取求す。苟も罪と為さんには、尹まさに之に坐すべし、終に万人の産を沴さじ」と。故に下に怨讟無し。時に謂う、河南を治むること張延賞に比すも、而して重厚堅正は之を過ぎたりと。

原文為河南尹。未入境,會德宗生日,尹當獻馬,吏欲前取印,白珣瑜視事,且內贄。珣瑜徐曰:「未到官而遽事獻,禮歟?」不聽。性嚴重少言,未嘗以私托人,而人亦不敢謁以私。既至河南,清靜惠下,賤斂貴發以便民。方是時,韓全義將兵伐蔡,河南主饋運,珣瑜密儲之陽翟,以給官軍,百姓不知僦運勞。凡迎送敕使,皆在常處,吏密識其馬,進退不數步差也。全義與監軍別檄有所取,非詔約者,珣瑜輒掛壁不酬。至軍罷,凡數百封。有諫者曰:「軍須期會為急,公可不報?」珣瑜曰:「武士統戎,多恃以取求。茍以為罪,尹宜坐之,終不為萬人產沴也。」故下無怨讟。時謂治河南比張延賞,而重厚堅正過之。

復た吏部侍郎として召され、門下侍郎・同中書門下平章事に進む。李實が京兆尹と為り、下を剝ぎて務めて進奉す。珣瑜は顯かに詰して曰く「留府の緡帛は入るに素有り、余る者は応に内度支すべし。今進奉するは乃ち何の色より出づるや」と。具に以て対す。實は方に幸いを受け、依違して以て免る。

原文復以吏部侍郎召,進門下侍郎、同中書門下平章事。李實為京兆尹,剝下務進奉,珣瑜顯詰曰:「留府緡帛入有素,余者應內度支。今進奉乃出何色邪?」具以對。實方幸,依違以免。

順宗立ち、即ち吏部尚書に遷る。王叔文は州吏より起りて翰林学士・鹽鐵副使と為り、内に奄人と交わり、政機を攘撓す。韋執誼が宰相と為り、外に居りて奉行す。叔文一日中書に至り執誼を見んとす。直吏曰く「方に宰相会食す、百官見る者無し」と。叔文恚り、吏を叱す。吏走り入りて白す。執誼起ち、就きて閣にて叔文と語る。珣瑜と杜佑・高郢は饔を輟めて以て待つ。頃くして、吏白す「二公同じく飯す」と。珣瑜喟然として曰く「吾かくの如く復た此に居る可けんや」と。命じて左右に馬を取らしめ帰り、家に臥して出でずこと七日、罷めて吏部尚書と為る。亦た疾有るに会い、数月にして卒す。年六十八。贈られて尚書左僕射と為る。太常博士徐復は謚して文献とす。兵部侍郎李巽言う「文とは、天地を経緯す。二謚を用うるは、『春秋』の正に非ず、請う更に議せよ」と。復謂う「二謚は、周・漢以来之れ有り。威烈・慎靜は周なり。文終・文成は漢なり。況んや珣瑜は名臣、二謚嫌うこと無し」と。巽曰く「謚一は正なり、堯・舜是れなり。二謚は古に非ず、法の載せざる所なり」と。詔して復の議に従う。子に覃有り。

原文順宗立,即遷吏部尚書。王叔文起州吏為翰林學士、鹽鐵副使,內交奄人,攘撓政機。韋執誼為宰相,居外奉行。叔文一日至中書見執誼,直吏曰:「方宰相會食,百官無見者。」叔文恚,叱吏,吏走入白,執誼起,就閣與叔文語。珣瑜與杜佑、高郢輟饔以待。頃之,吏白:「二公同飯矣。」珣瑜喟曰:「吾可復居此乎!」命左右取馬歸,臥家不出七日,罷為吏部尚書。亦會有疾,數月卒,年六十八,贈尚書左僕射。太常博士徐復謚文獻,兵部侍郎李巽言:「文者,經緯天地。用二謚,非《春秋》之正,請更議。」復謂:「二謚,周、漢以來有之。威烈、慎靜,周也;文終、文成,漢也。況珣瑜名臣,二謚不嫌。」巽曰:「謚一,正也,堯、舜是也。二謚,非古也,法所不載。」詔從復議。子覃。

子 覃

原文子 覃

覃は父の蔭により弘文校書郎を補し、累擢して諫議大夫と為る。憲宗五中官を取って和糴使と為さんとす。覃奏して之を罷む。

原文覃以父蔭補弘文校書郎,擢累諫議大夫。憲宗取五中官為和糴使,覃奏罷之。

穆宗が即位すると、国事を顧みず、しばしば遊楽に耽った。吐蕃とばんはちょうど強勢であった。鄭覃は崔郾らと共に朝廷で対して言うには、「陛下は新たに即位され、身を慎んで政務に励むべきであるのに、内では宴楽に耽り、外では狩猟遊楽にふけっておられる。今、吐蕃が国境にあり、隙をうかがっている。万一緊急の事態があれば、臣下は陛下の所在さえ知らず、事を誤らぬことがあろうか。金銀や絹織物は、もとより民の膏血から出るものであり、それを役にも立たぬ俳優に濫りに賜与してよいものか。願わくは費用を節約し、余りを辺境の備えとし、役人が重ねて百姓から取り立てることのないようにされれば、天下の幸いです」と。帝は快く思わず、宰相の蕭俛を顧みて言うには、「これは皆、何者か」と。俛は「諫官です」と答えた。帝の気持ちが和らぎ、そこで言うには、「朕の過ちを、臣下がよく諫めるのは、忠である」と。そこで詔を下して覃に言うには、「閣中の議論は甚だ誠実でなかったが、今後朕のために言う者がいれば、卿を延英殿に引見しよう」と。当時、閣中の奏議は久しく廃されていたが、この時より、士人は互いに慶賀した。

原文穆宗立,不恤國事,數荒昵。吐蕃方強。覃與崔郾等廷對曰:「陛下新即位,宜側身勤政,而內耽宴嬉,外盤遊畋。今吐蕃在邊,狙候中國,假令緩急,臣下乃不知陛下所在,不敗事乎?夫金繒所出,固民膏血,可使倡優無功濫被賜與?願節用之,以所餘備邊,毋令有司重取百姓,天下之幸也。」帝不懌,顧宰相蕭俛曰:「是皆何人?」俛曰:「諫官也。」帝意解,乃曰:「朕之闕,下能盡規,忠也。」因詔覃曰:「閣中殊不款款,後有為我言者,當見卿延英。」時閣中奏久廢,至是,士相慶。

王承元が鄭滑節度使に転じると、鎮州の兵士は強く引き留めて出発させなかった。承元は重臣を派遣してその軍を慰撫安定させるよう請うた。詔により覃が宣諭使となり、起居舍人の王璠が副使となった。初め、鎮州の兵士は甚だ無礼であったが、覃が詔を伝え、大義を開き勧告すると、軍は遂に安定し、承元は去ることができた。

原文王承元徙鄭滑節度使,鎮人固留不出。承元請以重臣勞安其軍,詔覃為宣諭使,起居舍人王璠副之。始,鎮人慢甚,及覃傳詔,開勖大義,軍遂安,承元乃得去。

宝暦の初め、京兆尹に抜擢された。文宗が翰林侍講学士に召し、工部侍郎に進めた。覃は経術に精通し、篤実で正道を守り、帝は特にこれを重んじた。李宗閔と牛僧孺が政務を執ると、覃が李徳裕と親しいのを憚り、その近侍が助力となるのを忌み、表向き工部尚書に遷し、侍講を罷めて、遠ざけようとした。帝は学問を好み、覃のことをよく思い、再び侍講学士に召した。徳裕が宰相となると、御史大夫とした。帝はかつて殷侑が経書についてよく論じるのを称し、その人となりは鄭覃に比べると言った。宗閔が軽率に言うには、「二人は確かに経書に通じているが、その議論は取るに足りません」と。徳裕は言うには、「覃と侑の言は、他人は聞きたくないが、陛下こそ聞くべきです」と。やがて徳裕が罷免され、宗閔が再び用いられると、覃は戸部尚書から秘書監に左遷された。宗閔が罪を得ると、刑部尚書に遷り、尚書右僕射に進み、国子祭酒を兼ねた。李訓が誅殺されると、帝は覃を召して禁中で詔を視させ、そこで同中書門下平章事に任じ、滎陽郡公に封じた。

原文寶歷初,擢京兆尹。文宗召為翰林侍講學士,進工部侍郎。覃於經術該深,諄篤守正,帝尤重之。李宗閔、牛僧孺知政,以覃與李德裕厚,忌其親近為助力,陽遷工部尚書,罷侍講,欲推遠之。帝雅向學,頗思覃,復召為侍講學士。德裕既相,以為御史大夫。帝嘗謂殷侑善言經,其為人鄭覃比也。宗閔猥曰:「二人誠通經,然其議論不足取。」德裕曰:「覃、侑之言,它人不欲聞,惟陛下宜聞之。」俄德裕罷,宗閔復用,覃繇戶部尚書下除秘書監。宗閔得罪,遷刑部尚書,進尚書右僕射,判國子祭酒。李訓誅,帝召覃視詔禁中,遂拜同中書門下平章事,封滎陽郡公。

文辞を好まず、進士の浮華誇張を弊害とし、その科を廃止するよう建言して言うには、「南北朝が治まらなかったのは、文采が質朴敦厚に勝ったからです。士は才能を用いるだけで、何ぞ文辞を必要としましょう」と。また言うには、「文人は多く軽薄である」と。帝は言うには、「純朴と軽薄は天性の違いのようであり、何ぞ特に進士だけか。かつこの科を設けて二百年、どうして容易やすに変えられようか」と。そこで止めた。帝はかつて百官に対し一日も弛緩怠惰であってはならないと言い、香案の炉を指して言うには、「これは初めは華美であるが、使い古すと曇る。手入れ飾らなければ、どうして再び新しくできようか」と。覃は言うには、「世の弊を救うには、まず実務を責めることにあります。近頃は皆職務を執らず、かえって王夷甫を慕い、及ばないことを惜しんでいます。これは太平の世に由来し、人人が事なく、安逸がこれを招いたのです」と。帝は言うには、「要は法度を謹むのみである」と。門下侍郎・弘文館大学士に進んだ。

原文不喜文辭,病進士浮誇,建廢其科,曰:「南北朝所以不治,文采勝質厚也。士惟用才,何必文辭。」又言:「文人多佻薄。」帝曰:「純薄似賦性之異,奚特進士?且設是科二百年,渠可易?」乃止。帝嘗謂百司不可使一日弛惰,因指香案爐曰:「此始華好,用久則晦,不治飾,何由復新?」覃曰:「救世之敝,在先責實。比皆不攝職事,至慕王夷甫,以不及為靳。此本於治平,人人無事,安逸致然。」帝曰:「要在謹法度而已。」進門下侍郎、弘文館大學士。

帝が延英殿に坐って詩の巧拙を論じると、覃は言うには、「孔子が刪定された三百篇(詩経)がそれです。雅正でないものは、天子が語るに足りましょうか。『風』や大小『雅』は皆、下が上を諷刺する変風変雅であり、上が下を教化して作ったものではありません。故に王者は詩を採って風俗の得失を考察するのです。陳の後主や隋の煬帝は特に詩の章句を解する能力があったが、王者の術を知らなかったため、遂に乱に帰しました。些細な詩文など、陛下は取られませんように」と。

原文帝坐延英論詩工否,覃曰:「孔子所刪,三百篇是已,其非雅正者,烏足為天子道哉?夫《風》、大小《雅》,皆下刺上之變,非上化下為之。故王者采詩,以考風俗得失。若陳後主、隋煬帝特能詩之章解,而不知王術,故卒歸於亂。章什諓諓,願陛下不取也。」

帝はしばしば言うには、「順宗の事績は詳実でない。史臣の韓愈は、当時人を屈服させたのではないか。昔、漢の司馬遷が任安に与えた書簡は、怨みの言葉が多く、故に『武帝本紀』は多く事実を失っている」と。覃は言うには、「武帝は中年に大いに兵を起こして辺境に事を構え、民は疲弊し、府庫は枯渇しました。遷の述べたことは過言ではありません」と。李石は言うには、「覃が述べたのは、武帝を引き合いに出して諫め、陛下に盛徳を終わりまで全うさせようとしたのです」と。帝は言うには、「誠にその通りである。初め有らざるはなく、終わりを全うする者は少ない」と。覃は言うには、「陛下は書を読むのを好まれますが、要義は一二に過ぎず、陛下がおっしゃった通りです。寝食を忘れてこれに励まれるべきです」と。

原文帝每言:「順宗事不詳實,史臣韓愈豈當時屈人邪?昔漢司馬遷《與任安書》,辭多怨懟,故《武帝本紀》多失實。」覃曰:「武帝中年大發兵事邊,生人耗瘁,府庫殫竭,遷所述非過言。」李石曰:「覃所陳,因武帝以諫,欲陛下終究盛德。」帝曰:「誠然。靡不有初,鮮克有終。」覃曰:「陛下樂觀書,然要義不過一二,陛下所道是矣。宜寢饋以之。」

覃は名儒であったので、宰相として祭酒を兼ね、太学に『五経』を置き、各経ごとに博士を置き、俸禄は王府の官に準じるよう請うた。再び太子太師に遷った。開成三年、旱魃があり、帝は多くの宮人を放出した。李玨が入朝して賀し言うには、「漢の制度では八月に人を選び、晋の武帝は呉を平定すると多く採択した。孔子のいわゆる『徳を好む者を見ざる』です。陛下は無益とお考えになり、放逐されたのは、盛徳です」と。覃はさらに推奨して言うには、「晋は採択の過失により、天下を左衽(夷狄の風)にしました。陛下はこれを殷鑑とされるべきです」と。帝はその善を褒め称えるのを良しとした。病を理由に職を去ろうと請うと、詔があり太子太師を解くことを許し、五日に一度中書省に入り政事を商量することを許した。まもなく尚書左僕射に罷免された。武宗の初め、李徳裕が再び用いられ、覃を引き入れて共に政務を執らせようとしたが、固辞した。そこで司空を授け、致仕し、死去した。

原文覃既名儒,故以宰相領祭酒,請太學《五經》,經置博士,祿廩比王府官。再遷太子太師。開成三年,旱,帝多出宮人,李玨入賀曰:「漢制,八月選人;晉武帝平吳,多采擇;仲尼所謂未見好德者。陛下以為無益,放之,盛德也。」覃又推贊曰:「晉以采擇之失,舉天下為左衽,宜陛下以為殷鑒。」帝善其將美。以病乞去位,有詔解太子太師,許五日一入中書,商量政事。俄罷為尚書左僕射。武宗初,李德裕復用,欲援覃共政,固辭,乃授司空,致仕,卒。

覃は清く正しく、控えめで、人と親しみ軽はずみな交わりをすることはなかった。宰相の位にあっても、住む邸宅を飾り立てず、内に妾媵を持たなかった。孫娘が崔臯に嫁いだが、官はわずか九品の衛佐であった。帝はその権勢ある家と婚姻しないのを重んじた。覃が侍講であった時、常に風俗を厚くし、徒党を排斥することを再三天子に言ったので、終に宰相となった。しかし、悪を憎むことが多く、容赦しないところがあり、世間は過ぎていると思い、これを畏れた。初め、覃は経籍の文字が誤り、博士が浅陋で正せないのを以て、建言して言うには、「願わくは碩学の鴻儒と共に校訂刊行し、漢の旧事に準じて、石に刻んで太学に置き、万世の模範と示したい」と。詔はこれを許可した。覃はそこで周墀・崔球・張次宗・孔溫業らにその文を是正させ、石に刻ませた。子に裔綽がいる。

原文覃清正退約,與人未嘗串狎。位相國,所居第不加飾,內無妾媵。女孫適崔臯,官裁九品衛佐,帝重其不昏權家。覃之侍講,每以厚風俗、黜朋比再三為天子言,故終為相。然疾惡多所不容,世以為太過,憚之。始,覃以經籍刓繆,博士陋淺不能正,建言:「願與巨學鴻生共力讎刊,準漢舊事,鏤石太學,示萬世法。」詔可。覃乃表周墀、崔球、張次宗、孔溫業等是正其文,刻於石。子裔綽。

裔綽は峻厳で父の風があり、門蔭によって進み、李徳裕に知られ、渭南尉に抜擢された。弘文館に直し、累進して諫議大夫となった。宣宗の初め、劉潼が鄭州刺史から桂管観察使に任じられると、裔綽は強く争って言うには、「潼が責めを受けて間もないのに、廉察の任に付けるのは宜しくありません」と。帝は既に使者に詔を頒つことを遣わしていたが、追ってこれを罷めた。給事中に遷った。楊漢公が荊南節度使となり、貪婪の罪に坐し、秘書監に貶せられ、まもなく同州刺史に任じられると、裔綽と鄭公輿は制書を封還した。帝は即位以来、諫臣の規正することを容れないことはなかったが、この時、漢公のために弁護する者がいたので、遂に改めなかった。禁中で宴を賜る際、天子が球を撃つと、門下の官の所まで来て、二人に言うには、「近ごろ漢公の事を論じるのは、徒党の類のようだ」と。裔綽は言うには、「同州は太宗が王業を興した地です。陛下は子孫として、付けるべき所を慎むべきです。かつ漢公は汚職で官を敗りました。どうして要地を私すことができましょうか」と。帝は顔色を変えた。翌日、商州刺史に貶された。当時まだ緑の官服を着ていたので、詔により緋魚袋を賜った。後に秘書監から浙東観察使に遷り、太子少保で終わった。覃の弟に朗がいる。

原文裔綽峭立有父風,以門蔭進,為李德裕所知,擢渭南尉。直弘文館,累遷諫議大夫。宣宗初,劉潼繇鄭州刺史授桂管觀察使,裔綽固爭:「潼被責未久,不宜付廉察。」帝已遣使者頒詔,追罷之。遷給事中。楊漢公為荊南節度使,坐貪沓,貶秘書監,尋拜同州刺史,裔綽與鄭公輿封還制書。帝自即位,諫臣規正無不納。至是,有為漢公地者,遂終不易。會賜宴禁中,天子擊球,至門下官,謂二人曰:「近論漢公事,類朋黨者。」裔綽曰:「同州,太宗興王地,陛下為人子孫,當慎所付。且漢公墨沒敗官,奈何以重地私之?」帝變色。翌日,貶商州刺史。時猶衣綠,因詔賜緋魚。後繇秘書監遷浙東觀察使,終太子少保。覃弟朗。

朗、字は有融、初め柳公綽の山南幕府に辟召され、入朝して右拾遺に遷る。開成年中、起居郎に抜擢される。文宗が宰相と政事を議する際、ちょうど朗が螭頭の下に筆を執っているのを見て、言うには、「先ほど論じた事も、記録しているのか。朕はそれを見たい。」朗曰く、「臣が筆を執って記すのは、史でございます。故事により、天子は史を観覧されませぬ。昔、太宗がご覧になろうとされた時、朱子奢が申しました、『史は善を隠さず、悪を諱みませぬ。中主以下の者は、或いは非を飾り過失を庇い、それを見れば、史官は自ら免れる術がなく、かつ敢えて直筆することができませぬ。』と。褚遂良もまた称して、『史は天子の言行を記し、たとえ法に合わぬことでも必ず書き記し、以て自らを戒めさせます。』と。」帝は喜び、宰相に謂う、「朗は故事を引き、朕に起居注を見せようとせぬ。職を善く守る者と言えよう。しかし人君の行い、善悪は必ず記される。朕は平素の言葉が治体に叶わず、将来の恥となることを恐れる。一度見て、以て自ら改めることができればよい。」朗は遂にこれを上る。

原文朗,字有融,始辟柳公綽山南幕府,入遷右拾遺。開成中,擢起居郎。文宗與宰相議政,適見朗執筆螭頭下,謂曰:「向所論事,亦記之乎?朕將觀之。」朗曰:「臣執筆所書者,史也。故事,天子不觀史,昔太宗欲觀之,朱子奢曰:『史不隱善,不諱惡。自中主而下,或飾非護失,見之,則史官無以自免,且不敢直筆。』褚遂良亦稱:『史記天子言動,雖非法必書,庶幾自飭。』」帝悅,謂宰相曰:「朗援故事,不畀朕見起居註,可謂善守職者。然人君之為,善惡必記,朕恐平日言之不葉治體,為將來羞,庶一見,得以自改。」朗遂上之。

累遷して諫議大夫となり、侍講学士を兼ねる。華州刺史より入朝し、御史中丞・戸部侍郎を拝す。鄂嶽・浙西観察使となり、進んで義武・宣武二節度使となる。工部尚書判度支・御史大夫を歴任し、再び工部尚書・同中書門下平章事となる。中人李敬寔が朗の騶導を押しのけて馳せ去ったので、朗はこれを奏聞する。宣宗が敬寔を詰問すると、自ら供奉官は道を避けぬと申す。帝曰く、「朕の命を伝えるのであれば道を遮って行ってもよいが、私事で出るのに、宰相を避けぬというのか。」即座に敬寔を斥ける。右拾遺鄭言という者は、かつて朗の幕府にいたが、朗は諫臣が輔相と得失を争うのは、論じなければ職を廃するに等しいとして、他官に転任させるよう奏上する。久しくして、病を以て自ら陳請し、罷められて太子少師となる。卒し、司空を贈られる。

原文累遷諫議大夫,為侍講學士。由華州刺史入拜御史中丞、戶部侍郎。為鄂嶽、浙西觀察使,進義武、宣武二節度。歷工部尚書判度支、御史大夫,復為工部尚書、同中書門下平章事。中人李敬寔排朗騶導馳去,朗以聞。宣宗詰敬寔,自言供奉官不避道,帝曰:「傳我命則絕道行可也,而私出,不避宰相邪?」即斥敬寔。右拾遺鄭言者,故在幕府,朗以諫臣與輔相爭得失,不論則廢職,奏徙它官。久之,以疾自陳,罷為太子少師。卒,贈司空。

初め、朗が進士に挙げられた時、相者があって言う、「貴方は貴くなるが、しかし科第によって進むことはできまい。」間もなく有司が朗を第一に擢でるが、その後覆試によって放逐される。相者が賀して言う、「安んぜよ。」果たして後に宰相となる。

原文始,朗舉進士,有相者言:「君當貴,然不可以科第進。」俄而有司擢朗第一,既又覆實被放,相者賀曰:「安之。」已而果相。

高郢

原文高郢

高郢、字は公楚、その先祖は渤海より衛州に移り、遂に衛州の人となる。九歳で『春秋』を通じ、文章を作ることに巧みで、『語黙賦』を著し、諸儒に称される。父伯祥は好畤尉であったが、安祿山が京師を陥落させ、これを誅殺せんとした時、郢はまだ幼く、衣を解いて代わることを請う。賊はその義に感じ、共に赦す。

原文高郢,字公楚,其先自渤海徙衛州,遂為衛州人。九歲通《春秋》,工屬文,著《語默賦》,諸儒稱之。父伯祥為好畤尉,安祿山陷京師,將誅之,郢尚幼,解衣請代,賊義,並貸之。

宝応初年、進士第に及第する。代宗が太后のために章敬寺を営造しようとした時、郢は白衣の身で上書して諫めて言う。

原文寶應初,及進士第。代宗為太后營章敬寺,郢以白衣上書諫曰:

陛下の大孝は心より発し、天と共に極まりなく、烝烝たる思いは、これ以上に加えるものはございませぬ。臣は思いますに、力を尽くして孝を追うことは、誠に益あることではありますが、時を妨げ民を苦しめることは、損なわざるを得ませぬ。人を捨てて寺に就くこと、何の福となりましょうか。昔、魯の荘公が桓公の廟の楹を丹にしその桷を刻んだことを、『春秋』は非礼として記します。漢の孝恵帝・孝景帝・孝宣帝は郡国諸侯に高祖・文帝・武帝の廟を立てさせましたが、元帝に至り、博士・議郎と古礼を斟酌して、一斉にこれを罷めました。廟でさえも礼を越えて立てることはせず、まして寺は宗廟の安置する所でもなく、神霊の住まう所でもございませぬ。万人の力を尽くし、一時の報いを求めることは、その不可なること明らかでございます。

原文陛下大孝因心,與天罔極,烝烝之思,要無以加。臣謂悉力追孝,誠為有益,妨時剿人,不得無損。舍人就寺,何福之為?昔魯莊公、丹桓公廟楹而刻其桷,《春秋》書之為非禮。漢孝惠、孝景、孝宣令郡國諸侯立高祖、文、武廟,至元帝,與博士、議郎斟酌古禮,一罷之。夫廟猶不越禮而立,況寺非宗祏所安、神靈所宅乎?殫萬人之力,邀一切之報,其為不可亦明矣。

近頃、昆吾(賊徒)の勢いが盛んとなり、生民を侵食し、百姓は慄慄として、一日として安らぐ日はございませぬ。将を遣わしてこれを撃退しようとしても、寸尺の功もなく、隴外の地は豺狼に委ねられております。太宗の艱難を経て築かれた業を、陛下は受け継がれました。一人の民を得られず、尺土が侵されれば、成功を告げる時にも、なお欠けることを恐れねばなりませぬ。ましてや用武以来十三年、傷ついた者は救われず、死んだ者は収められず、兵卒を繕い車乗を補うことは、今に至るも止みませぬ。師を十万興せば、一日に千金を費やします。十三年を計れば、百万の衆を挙げ、資糧や履物などを人から取り立て、疲労して流離する者は、十に一も生きておりませぬ。父子兄弟は、互いに見つめ合って頼るものなく、首を延べて嗷嗷と、王命に使役されるのを待っております。たとえ禁中の財を出して鰥寡を養うことができぬにしても、なお少しは労弊を休め、慰撫すべきでございます。どうして戎虜が未だ平らかでなく、侵された地が未だ回復せず、兵革が未だ収まらず、疲弊した民が未だ撫でられず、太倉には一年分の蓄えもなく、大農には専売の弊害がある時に、力役を興そうとなさるのでございましょうか。この八月頃より雨が地を潤さず、菽麦は時を失い、黔首は狼顧し、食糧の艱難を憂えております。もし遂に供給が続かぬならば、どうやってこれを救うのでございましょう。寺がなくともよいが、人がいなくてよいのでございましょうか。しかも土木の労、功用の費は、府庫を虚しくせずして、どこから取るのでございましょう。府庫が既に尽きれば、また誅求することとなり、もし人が命に堪えられず、盗賊が相挺して起こり、戎狄がその隙に乗じ、風塵(戦乱)となれば、陛下の深く憂えられるところとならぬでしょうか。

原文間者昆吾孔熾,薦食生人,百姓懍懍,無日不惕。遣將攘卻,亡尺寸功,隴外壤地,委諸豺狼。太宗難之業,傳之陛下,一夫不獲,尺土見侵,告成之時,猶恐有闕。況用武以來十三年,傷者不救,死者不收,繕卒補乘,於今未已。夫興師十萬,日費千金,計十三年,舉百萬之眾,資糧屝屨,取足於人,勞罷宛轉,十不一在。父子兄弟,相視無聊,延頸嗷嗷,以役王命。縱未能出禁財,贍鰥寡,猶當稍息勞敝,以噢休之。奈何戎虜未平,侵地未復,金革未戢,疲人未撫,太倉無終歲之儲,大農有榷酤之敝,欲以此時興力役哉?比八月雨不潤下,菽麥失時,黔首狼顧,憂在艱食,若遂不給,將何以救之?無寺猶可,無人其可乎?然土木之勤,功用之費,不虛府庫,將焉取之?府庫既竭,則又誅求,若人不堪命,盜賊相挺而興,戎狄乘間,以為風塵,得不為陛下深憂乎?

臣は聞きます。聖人は天より命を受け、人を以て主と為す。もし功が天に済い、天人共に和すれば、則ち宗廟は福を受け、子孫は慶びを蒙ると。『伝』に曰く、「徳教を百姓に加え、四海に刑(模範を示)す、これ天子の孝なり。」と。また曰く、「爾が祖を念うこと無かれ、聿つとめて厥の徳を脩めよ。」「既に帝祉を受け、孫子に施す。」と。これによりて知る、王者の孝は、天地を承順し、宗考を厳かに配祀し、徳教を恭慎し、以て兆民に臨むことに在り。四海の内をして、歓心して助祭せしめ、福を延べ祚を流し、永永に窮まり無からしむることに在る。梵宮を崇め樹て、金玉を彫琢することを以て孝とすることを聞きませぬ。夏の禹は宮室を卑くし、溝洫に力を尽くし、人は今に至るもこれを称えます。梁の武帝は土木を窮め、塔廟を飾りましたが、人これを称えませぬ。陛下がもし用を節し人を愛すれば、夏后と美を斉うべく、何ぞ必ず人を労し衆を動かし、梁武帝の遺風を踵ぐ必要がありましょうか。また制作の初め、支費は尚浅く、人は力を量ることを貴び、必ず成すことを貴ばず、事は時に相うことを貴び、必ず遂げることを貴びませぬ。陛下がもし思い慮いを回らし、人心に従われれば、則ち聖徳孝思は天地に格り、千福万禄は先後に受けられましょう。どうして一寺の功徳と較べるものでありましょうか。

原文臣聞聖人受命於天,以人為主,茍功濟於天,天人同和,則宗廟受福,子孫蒙慶。《傳》曰:「德教加於百姓,刑於四海,天子之孝也。」又曰:「無念爾祖,聿脩厥德,」「既受帝祉,施於孫子。」是知王者之孝,在於承順天地,嚴配宗考,恭慎德教,以臨兆民。俾四海之內,歡心助祭,延福流祚,永永無窮。未聞崇樹梵宮,雕琢金玉之為孝者。夏禹卑宮室,盡力溝洫,人到於今稱之。梁武帝窮土木,飾塔廟,人無稱焉。陛下若節用愛人,當與夏後齊美,何必勞人動眾,踵梁武遺風乎?及制作之初,支費尚淺,人貴量力,不貴必成,事貴相時,不貴必遂。陛下若回思慮,從人心,則聖德孝思,格於天地,千福萬祿,先後受之,曾是一寺較功德邪?

書が奏上されたが、返答がなかった。再び上言して言う。

原文書奏,未報。復上言:

王者が将に為さんとし、将に行わんとする時は、必ず衆に稽え人に順う。則ち自然の福は、求めずして至り、未然の禍は、除かずして絶つ。臣は聞きます。神人は功無き者、有功の功を為さず。聖人は名無き者、有名の名を為さず。有功の功を為さざる故に、功はこれより大なるは莫く、有名の名を為さざる故に、名はこれより厚きは莫し、と。古の明王は善を積みて以て福を致し、財を費やして福を求めず。徳を脩めて以て禍を銷し、人を労して禍を攘わず。陛下の営作は、臣窃かにこれを惑う。もし功と為すならば、天は覆い地は載せ、陰は施し陽は化す、未だ嘗て為すこと有りませぬ。もし名と為すならば、至徳要道、以て天下に順う、未だ嘗て待つこと有りませぬ。もし福を致すならば、神明に通じ、四海に光る、財を費やすに在らず。もし禍を攘うならば、方に厥の徳を務め、天災有ること無し、人を労するに在らず。今、興造は急を趣き、人徒は竭くして作し、土木並びに起こり、日課万工、食息する暇もなく、搒笞の愁痛は道路に盈つ。これを以て福を望むは、臣恐らく然らざらんと。陛下は多難を戢め定め、励精して治を思い、務めて寛仁を行い、以て天下を幸せにせんとされております。今、固より群情に違い、左右の過計に徇うのは、臣窃かに陛下のためこれを惜しみます。

原文王者將有為也,將有行也,必稽於眾而順於人,則自然之福,不求而至,未然之禍,不除而絕。臣聞神人無功者,不為有功之功;聖人無名者,不為有名之名。不為有功之功,故功莫大;不為有名之名,故名莫厚。古之明王積善以致福,不費財以求福;脩德以銷禍,不勞人以攘禍。陛下之營作,臣竊惑之。若以為功,則天覆地載,陰施陽化,未曾有為也;若以為名,則至德要道,以順天下,未曾有待也;若以致福,則通於神明,光於四海,不在費財;若以攘禍,則方務厥德,罔有天災,不在勞人。今興造趣急,人徒竭作,土木並起,日課萬工,不遑食息,搒笞愁痛,盈於道路。以此望福,臣恐不然。陛下戢定多難,勵精思治,務行寬仁,以幸天下。今固違群情,徇左右過計,臣竊為陛下惜之。

採用されなかった。

原文(段落全体)以茂才異行高第,累擢咸陽尉。郭子儀取為朔方掌書記。子儀怒判官張曇,奏抵死,郢引捄甚力,忤子儀意,下徙猗氏丞。李懷光引佐邠寧府。懷光將還河中,郢勸不如西迎乘輿,懷光反方銳,不聽。既又欲悉兵鼓而西。時渾瑊提孤軍抗賊,群將未集,郢恐為懷光所乘,與李庸阝固止之。會懷光子隹候郢,郢因脅說曰:「君視天寶以來稱兵者,今尚誰在?且國家固有天命,人力不豫焉。今若恃眾而動,自絕於天。十室之小,必得忠信,安知三軍不有奔潰而助順者乎?」隹大懼,流汗不能語。郢因與其將呂鳴嶽、張延英謀間道歸國,事泄,懷光先斬二將,然後引郢詰誚,郢抗詞無所愧隱,觀者為泣下。懷光慚,赦之。孔巢父遇害,郢撫屍而哭。懷光已誅,李晟表其忠,馬燧奏管書記。召拜主客員外郎,遷中書舍人。久之,進禮部侍郎。時四方士務朋比,更相譽薦,以動有司,徇名亡實。郢疾之,乃謝絕請謁,顓行藝。司貢部凡三歲,甄幽獨,抑浮華,流競之俗為衰。遷太常卿。

茂才異行にて高第に挙げられ、累進して咸陽尉に抜擢される。郭子儀が召し取って朔方掌書記とした。子儀が判官張曇を怒り、奏上して死罪に処せんとしたとき、郢は力強く救済を引き出し、子儀の意に逆らい、左遷されて猗氏丞に移された。李懷光が召し出して邠寧府を補佐させた。懷光が河中に還ろうとしたとき、郢は西進して乗輿を迎えるべからずと諫めたが、懷光の反逆の意志は盛んで、聞き入れなかった。その後また兵を悉くして鼓を鳴らし西進せんとした。時に渾瑊が孤軍を率いて賊に抗し、諸将は未だ集まらず、郢は懷光に乗ぜられることを恐れ、李庸阝と共に固くこれを止めた。折しも懷光の子隹が郢のもとに伺候したので、郢は脅し説いて曰く、「君は天宝以来兵を挙げた者を見よ、今なお誰か在るか。且つ国家は固より天命あり、人力はこれに関与せず。今若し衆を恃んで動かば、自ら天より絶たるるなり。十室の小さき邑にも必ず忠信あり、安んぞ三軍に奔潰して順を助くる者なからんや」。隹は大いに懼れ、流汗して語る能わず。郢はそこでその将呂鳴嶽・張延英と謀り、間道より帰国せんとしたが、事泄れ、懷光は先ず二将を斬り、それから郢を引き出して詰問した。郢は抗弁して愧じ隠すところなく、見る者は涙を流した。懷光は慚じてこれを赦した。孔巢父が害に遇うと、郢は屍を撫でて哭した。懷光が既に誅せられた後、李晟はその忠を上表し、馬燧は管書記に奏した。召されて主客員外郎に拝され、中書舎人に遷った。久しくして、礼部侍郎に進んだ。時に四方の士は朋とも比に務め、互いに誉め薦めて、有司を動かし、名に殉じて実を忘れた。郢はこれを憎み、請謁を謝絶し、専ら行芸を重んじた。貢部を司ること凡そ三歳、幽独を甄別し、浮華を抑え、流競の俗は衰えた。太常卿に遷った。

原文(段落全体)以茂才異行高第,累擢咸陽尉。郭子儀取為朔方掌書記。子儀怒判官張曇,奏抵死,郢引捄甚力,忤子儀意,下徙猗氏丞。李懷光引佐邠寧府。懷光將還河中,郢勸不如西迎乘輿,懷光反方銳,不聽。既又欲悉兵鼓而西。時渾瑊提孤軍抗賊,群將未集,郢恐為懷光所乘,與李庸阝固止之。會懷光子隹候郢,郢因脅說曰:「君視天寶以來稱兵者,今尚誰在?且國家固有天命,人力不豫焉。今若恃眾而動,自絕於天。十室之小,必得忠信,安知三軍不有奔潰而助順者乎?」隹大懼,流汗不能語。郢因與其將呂鳴嶽、張延英謀間道歸國,事泄,懷光先斬二將,然後引郢詰誚,郢抗詞無所愧隱,觀者為泣下。懷光慚,赦之。孔巢父遇害,郢撫屍而哭。懷光已誅,李晟表其忠,馬燧奏管書記。召拜主客員外郎,遷中書舍人。久之,進禮部侍郎。時四方士務朋比,更相譽薦,以動有司,徇名亡實。郢疾之,乃謝絕請謁,顓行藝。司貢部凡三歲,甄幽獨,抑浮華,流競之俗為衰。遷太常卿。

貞元の末、中書侍郎・同中書門下平章事に抜擢された。順宗が即位したが、病にて政事を執れず、王叔文の党が朝廷に根拠を置いた。帝は初めて詔して皇太子に国を監せしめ、郢は刑部尚書として罷免された。翌年、華州刺史となり、政治は仁静を尚んだ。初め、駱元光が華より軍を率いて良原を戍った。元光が卒すると、軍は神策軍に入ったが、州は毎年その糧を供給し続け、民は輸送に困窮し、累代の刺史は憚って敢えて上言せず、郢は奏上してこれを廃した。再び召されて太常卿となり、御史大夫を除かれた。数月後、兵部尚書に改められ、固く骸骨を乞い、尚書右僕射として致仕した。卒し、年七十二、太子太保を贈られ、謚して貞といった。

原文貞元末,擢中書侍郎、同中書門下平章事。順宗立,病不能事,王叔文黨根據朝廷,帝始詔皇太子監國,而郢以刑部尚書罷。明年,為華州刺史,政尚仁靜。初,駱元光自華引軍戍良原。元光卒,軍入神策,而州仍歲餉其糧,民困輸入,累刺史憚不敢白,郢奏罷之。復召為太常卿,除御史大夫。數月,改兵部尚書,固乞骸骨,以尚書右僕射致仕。卒,年七十二,贈太子太保,謚曰貞。

郢は恭慎にして人と交わらず。常に制誥を掌ったが、家に留め置く稿はなく、或る人がどうして前人のように制集を伝えないのかと勧めると、答えて曰く、「王言は私家に蔵すべからず」。生来産を治めず、これを営むよう勧める者があれば、答えて曰く、「禄稟は薄しといえども、我に在りては則ち余りあり、田庄を何に取らんや」。郢が宰相となったとき、鄭珣瑜と同時に拝された。叔文が権力を用いるようになると、珣瑜は甚だ憂い、争うも得ず、乃ち疾と称して出仕せず、郢は特に建白するところなく、やがて珣瑜と共に免ぜられた。故に議者は珣瑜を賢しとし、郢を咎めた。子に定あり。

原文郢恭慎不與人交。常掌制誥,家無留稿,或勸盍如前人傳制集者,答曰:「王言不可藏私家。」生平不治產,有勸營之者,答曰:「祿稟雖薄,在我則有餘,田莊何所取乎?」郢之相也,與鄭珣瑜同拜。既叔文用事,珣瑜憂甚,爭不能得,乃稱疾不出,郢未有所建白,俄與珣瑜免,故議者賢珣瑜而咎郢。子定。

賛して曰く、王叔文は内に甘尹と連なり、外に奸回を倚りて、天権を攘がんとした。然れども是の時、太子は既に長じ、朝に嫌罅なく、若し珣瑜・郢と杜佑等が毅然として東宮を引き監国せしめ、叔文輩を執り退けば、その力難からざるなり。顧みて循嘿苟安す、所謂いわゆる焉んぞ彼の相を用いんや、というものなり。珣瑜一たび忿りて第に臥し、郢・佑は位を固めんとす、二者も亦た相軽重するに足らずという。

原文贊曰:王叔文雖內連甘尹,外倚奸回,以攘天權。然是時太子已長,朝無嫌罅,若珣瑜、郢與杜佑等毅然引東宮監國,執退叔文輩,其力不難。顧循嘿茍安,所謂焉用彼相者矣。珣瑜一忿臥第,與郢、佑固位,二者亦不足相輕重雲。

定は弁慧にして、七歳で『尚書』を読み、『湯誓』に至り、跪いて郢に問うて曰く、「奈何ぞ臣を以て君を伐つや」。郢曰く、「天に応じ人に順う、何ぞ伐つと云わんや」。対えて曰く、「命を用うれば祖に賞し、命を用いざれば社に戮す、是れ人に順うというや」。郢はこれを異とした。小字を董二といい、世はその早慧を重んじ、字を以て顕れた。長じて王氏の『易』に通じ、図を作りて八出を合し、上円下方、合すれば則ち重なり、転ずれば則ち演じ、七転して六十四卦となり、六甲・八節備わる。仕えて京兆府参軍に至る。

原文定,辯惠,七歲讀《尚書》,至《湯誓》,跪問郢曰:「奈何以臣伐君?」郢曰:「應天順人,何雲伐邪?」對曰:「用命賞於祖,不用命戮於社,是順人乎?」郢異之。小字董二,世重其早惠,以字顯。長通王氏《易》,為圖合八出,上圓下方,合則重,轉則演,七轉而六十四卦,六甲、八節備焉。仕至京兆府參軍。

鄭絪

原文鄭絪

鄭絪、字は文明、餘慶の従父の行輩なり。幼より奇誌あり、文を属するに善く、交わる所は皆天下の有名の士なり。進士・宏辞の高第に擢げられる。張延賞が剣南を帥とし、奏して掌書記に署す。入朝して起居郎・翰林学士となり、累遷して中書舎人となる。

原文鄭絪,字文明,餘慶從父行也。幼有奇誌,善屬文,所交皆天下有名士。擢進士、宏辭高第。張延賞帥劍南,奏署掌書記。入為起居郎、翰林學士,累遷中書舍人。

徳宗が興元より還り、六軍統軍を置きて六尚書に視し、功臣を処するに、除制に白麻を用いて外に付す。又宣武軍を廃し、左右神策を益し、監軍を以て中尉となす。竇文場が功を恃み、陰に宰相を諷して進擬すること統軍の比の如くせしめんとした。絪が制を作るに当たり、奏言して曰く、「天子封建するに、或いは宰相を用い、白麻を以て制を署し、中書・門下に付す。今中尉を命ずるに、陛下が特に文場を寵するや識らず、遂に令として著すや」。帝悟り、文場に謂いて曰く、「武徳・貞観の時、中人は内侍に止まり、諸衛将軍同正賜緋なる者幾ばくもなし。魚朝恩以来、旧制復たず。朕今爾を用うるも私無しと謂わず、若し麻制を宣告せば、天下は爾が我を脅してこれを為すと謂わん」。文場叩頭して謝す。改めて中書に命じて詔を作らしめ、並びに統軍の麻を用いることを罷む。明日、帝絪を見て曰く、「宰相は中人を拒む能わず、卿の言を得て乃ち悟る」。

原文德宗自興元還,置六軍統軍視六尚書,以處功臣,除制用白麻付外。又廢宣武軍,益左右神策,以監軍為中尉。竇文場恃功,陰諷宰相進擬如統軍比。絪當作制,奏言:「天子封建,或用宰相,以白麻署制,付中書、門下。今以命中尉,不識陛下特以寵文場邪?遂著為令也?」帝悟,謂文場曰:「武德、貞觀時,中人止內侍,諸衛將軍同正賜緋者無幾。自魚朝恩以來,無復舊制。朕今用爾不謂無私,若麻制宣告,天下謂爾脅我為之。」文場叩頭謝。更命中書作詔,並罷統軍用麻矣。明日,帝見絪曰:「宰相不能拒中人,得卿言乃悟。」

順宗病み、語るを得ず、王叔文と牛美人が権力を用い、権勢中外に震い、広陵王の雄睿を憚り、これを危うくせんとした。帝絪を召して太子を立てる詔を草せしむ。絪請うことなく即ち書して曰く、「嫡を立てて長を以てす」。跪いてこれを白すと、帝頷いて乃ち定まる。

原文順宗病,不得語,王叔文與牛美人用事,權震中外,憚廣陵王雄睿,欲危之。帝召絪草立太子詔,絪不請輒書曰:「立嫡以長。」跪白之,帝頷乃定。

憲宗即位し、中書侍郎・同中書門下平章事を拝し、門下侍郎に遷る。初め、盧従史が陰に王承宗と連和し、詔ありて潞に帰らんとしたが、従史は潞に糧乏しと辞し、軍を山東に留めんことを請うた。李吉甫が密かに絪が従史に言を漏らすと讒し、帝怒り、浴堂殿に坐し、学士李絳を召してその故を語り、且つ曰く、「如何に処せん」。絳曰く、「誠に是の如くならば、罪は族すべし。然れども誰か以て陛下に聞かしむる者」。曰く、「吉甫我が為に言う」。絳曰く、「絪宰相を任じ、名節を識り、犬彘梟獍の如く奸臣と外通すべからず。恐らくは吉甫勢軋みて内に忌み、醜辞を造りて以て陛下を怒らしむるなり」。帝良久して曰く、「幾くんぞ我を誤らんとす」。

原文憲宗即位,拜中書侍郎、同中書門下平章事,遷門下侍郎。始,盧從史陰與王承宗連和,有詔歸潞,從史辭潞乏糧,請留軍山東。李吉甫密譖絪漏言於從史,帝怒,坐浴堂殿,召學士李絳語其故,且曰:「若何而處?」絳曰:「誠如是,罪當族。然誰以聞陛下者?」曰:「吉甫為我言。」絳曰:「絪任宰相,識名節,不當如犬彘梟獍與奸臣外通。恐吉甫勢軋內忌,造為醜辭以怒陛下。」帝良久曰:「幾誤我!」

先に、杜黄裳が方に帝の為に節度を夷削し、王室を強めんとし、建議裁可するも、絪に関決せず、絪は常に黙黙たり。位に居ること四年、罷められて太子賓客となる。久しくして検校礼部尚書となり、出でて嶺南節度使となり、後累遷して河中節度使となる。入朝して御史大夫となり、検校尚書左僕射を兼ね、太子少保を兼ぬ。文宗太和年中、年老いて骸骨を乞い、太子太傅として致仕す。卒し、年七十八、司空を贈られ、謚して宣といった。

原文先是,杜黃裳方為帝夷削節度,強王室,建議裁可,不關決於絪,絪常默默。居位四年,罷為太子賓客。久乃檢校禮部尚書,出為嶺南節度使,後累遷河中節度。入為御史大夫,檢校尚書左僕射,兼太子少保。文宗太和中,年老乞骸骨,以太子太傅致仕。卒,年七十八,贈司空,謚曰宣。

絪は本儒術を以て進み、道を守り寡欲にして、居る所烜赫なる事を為さず、篤実と称せられた。名理の学に善く、世は耆徳を以てこれを推した。

原文絪本以儒術進,守道寡欲,所居不為烜赫事,以篤實稱。善名理學,世以耆德推之。

孫の顥、進士に挙げられ、起居郎として万寿公主に尚り、駙馬都尉を拝す。器識あり。宣宗の時、恩寵比ぶるもの無し。終に検校礼部尚書・河南尹に至る。

原文孫顥,舉進士,以起居郎尚萬壽公主,拜駙馬都尉。有器識。宣宗時,恩寵無比。終檢校禮部尚書、河南尹。

権徳輿

原文權德輿

権徳輿、字は載之。父は臯、『卓行伝』に見ゆ。徳輿七歳にして父の喪に居り、哭踴すること成人の如し。未だ冠せずして、文章を以て諸儒の間に称せらる。韓洄が河南に黜陟し、幕府に辟置す。また江西観察使李兼の府に従い判官となる。杜佑・裴胄交わってこれを辟す。徳宗その材を聞き、召して太常博士とし、左補闕に改む。

原文權德輿,字載之。父臯,見《卓行傳》。德輿七歲居父喪,哭踴如成人。未冠,以文章稱諸儒間。韓洄黜陟河南,辟置幕府。復從江西觀察使李兼府為判官。杜佑、裴胄交辟之。德宗聞其材,召為太常博士,改左補闕。

貞元八年、関東・淮南・浙西の州県に大水あり、廬舎を壊し、人を漂溺せしむ。徳輿建言す、「江・淮の田一たび善く熟すれば、則ち旁ら数道を資す、故に天下の大計は、東南に仰ぐ。今淫雨二時、農田開かず、傭亡日ごとに衆し。群臣の明識通方なる者を選び、節を持して労徠し、人の疾苦を問い、その租入を蠲免し、連帥・守長とともに宜しき所を講求すべし。人に賦取するは、人のうちに蔵するがごとき固きに如かず」と。帝乃ち奚陟ら四人を遣わし循行して慰撫せしむ。裴延齢は巧みに幸いして進み、度支を判ず。徳輿上疏して斥言す、「延齢は常賦正額の用度未だ尽きざる者を以て羨利と為し、以て己が功を誇る。官銭を用いて常平雑物を售り、還ってその直を取り、別貯羨銭と号し、因って以て上を罔す。辺軍乏しく、糧を稟せず、禍を疆場に召す、その事細ならず。陛下流言と為すを疑わば、何ぞ新利を以て延齢を召し、本末を質核し、中朝の臣を択びて辺資を按覆せしめざる。言者の謬らざるが如くんば、則ち邦国の務、宜しく其人に非ざるに委すべからず」と。疏奏すれど省みられず。

原文貞元八年,關東、淮南、浙西州縣大水,壞廬舍,漂殺人。德輿建言:「江、淮田一善熟,則旁資數道,故天下大計,仰於東南。今霪雨二時,農田不開,庸亡日眾。宜擇群臣明識通方者,持節勞徠,問人所疾苦,蠲其租入,與連帥守長講求所宜。賦取於人,不若藏於人之固也。」帝乃遣奚陟等四人循行慰撫。裴延齡以巧幸進,判度支,德輿上疏斥言:「延齡以常賦正額用度未盡者為羨利,以誇己功;用官錢售常平雜物,還取其直,號別貯羨錢,因以罔上;邊軍乏,不稟糧,召禍疆場,其事不細。陛下疑為流言,胡不以新利召延齡,質核本末,擇中朝臣按覆邊資。如言者不謬,則邦國之務,不宜委非其人。」疏奏,不省。

起居舎人に遷る。歳中、制誥を知ることを兼ね、中書舎人に進む。是の時に当たり、帝親しく庶政を攬り、除拜を重んじ、凡そ諸朝に命ずるは、皆手制を以て中下す。初め、徳輿制誥を知り、而して徐岱は給事中、高郢は舎人と為る。数歳を居るに、岱卒し、郢は礼部を知る。徳輿独り両省に直し、数旬にして一たび舎に還る。乃ち上書して言う、「左右掖垣は、天子の誥命を承け、奉行詳覆し、各攸司有り。旧制、曹を分ちて十員とし、以て相い防検す。大抵事壅塞する所有らば、則ち吏非為を得る。四方聞く者は、或いは朝廷を以て士乏しと為し、要重の司、久しく廃すべからず」と。帝曰く、「卿の労を知らざるに非ず、但だ卿の如き者を択むも未だ其人を得ざるのみ」と。久しくして、礼部貢挙を知り、真に侍郎を拝す。凡そ三歳、甄品詳諦し、得る所の士相継いで公卿・宰相と為る。明経を取るに初め員を限らず。

原文遷起居舍人。歲中,兼知制誥,進中書舍人。當是時,帝親攬庶政,重除拜,凡命諸朝,皆手制中下。始,德輿知制誥,而徐岱給事中,高郢為舍人。居數歲,岱卒,郢知禮部,德輿獨直兩省,數旬一還舍,乃上書言:「左右掖垣,承天子誥命,奉行詳覆,各有攸司。舊制,分曹十員,以相防檢。大抵事有所壅,則吏得為非。四方聞者,或以朝廷為乏士,要重之司,不宜久廢。」帝曰:「非不知卿之勞,但擇如卿者未得其人耳。」久之,知禮部貢舉,真拜侍郎。凡三歲,甄品詳諦,所得士相繼為公卿、宰相。取明經初不限員。

十九年、大旱あり、徳輿是に因りて闕政を上陳して曰く、「陛下斎心減膳し、元元を閔惻し、宗廟に告げ、諸天地に祷る。一物祈る可きあれば必ずその礼を致し、一士請う有れば必ずその言を聴く、人を憂うるの心至れりと謂う可し。臣聞く、天災を銷するは政術を脩むるにあり、人心を感ずるは恵沢を流すにあり、和気洽すれば則ち祥応至ると。畿甸の内、大率赤地にして望む所無く、転徙の人、道路に斃踣す。麦を種うる時を慮り、種下すを得ず。宜しく在所に詔して経用を裁留し、以て民に種を貸すべし。今茲の租賦及び宿逋遠貸、一切蠲除すべし。設い蠲除せずとも、亦斂むるの理無く、先事にこれを図るに如かず。然らば則ち恩は上に帰せん。十四年夏旱の時、吏常賦を趣け、県令民に毆辱せらるるに至る者、察せざるべからず」と。又言う、「漕運は本に関中を済す。若し東都以西縁道の倉廩を転じ、悉く京師に入れ、江・淮の輸する所を督して以て常数に備え、然る後に太倉の一歳の計を約し、その余る者を斥けて以て民に糶せば、則ち時価踊らずして蓄蔵する者出ず」と。又言う、「大曆中、一縑直銭四千、今止む八百。税入旧の如くんば、則ち民より出づる者は初めの五倍なり。四方上献に鋭く、国為に怨を掊ち、軍実の求広く、而して兵に虚籍有り、多方に剝取す。心計巧歴有りて能く功利を商うと雖も、その股を割き口を啖うに於いて、人を困する均し」と。又言う、「比来絀放を経る者は、自ら抆拭期無しと謂い、坐して匪人と為り、以て和気を動かす。而して冬薦の官三年を逾えても未だ命を受けず、衣食既に空しく、溘然として斃に就く。此も窮人の一端なり。近く陛下絀放する者を洗宥し、或いは起して二千石と為す。その徒更いに相勉め、牽復望む可きを知る。惟だ因ってこれを弘め、人人をして自ら効せしむべし」と。帝頗るこれを採用す。

原文十九年,大旱,德輿因是上陳闕政曰:「陛下齋心減膳,閔惻元元,告於宗廟,禱諸天地,一物可祈,必致其禮,一士有請,必聽其言,憂人之心可謂至已。臣聞銷天災者脩政術,感人心者流惠澤,和氣洽,則祥應至矣。畿甸之內,大率赤地而無所望,轉徙之人,斃踣道路,慮種麥時,種不得下。宜詔在所裁留經用,以種貸民。今茲租賦及宿逋遠貸,一切蠲除。設不蠲除,亦無可斂之理,不如先事圖之,則恩歸於上。十四年夏旱,吏趣常賦,至縣令為民毆辱者,不可不察。」又言:「漕運本濟關中,若轉東都以西緣道倉廩,悉入京師,督江、淮所輸以備常數,然後約太倉一歲計,斥其餘者以糶於民,則時價不踴而蓄藏者出矣。」又言:「大曆中,一縑直錢四千,今止八百,稅入如舊,則出於民者五倍其初。四方銳於上獻,為國掊怨,廣軍實之求,而兵有虛籍,剝取多方,雖有心計巧歷,能商功利,其於割股啖口,困人均也。」又言:「比經絀放者,自謂抆拭無期,坐為匪人,以動和氣。而冬薦官逾三年未受命,衣食既空,溘然就斃,此亦窮人之一端也。近陛下洗宥絀放者,或起為二千石,其徒更相勉,知牽復可望。惟因而弘之,使人人自效。」帝頗采用之。

憲宗元和初、兵部侍郎を歴とし、累に坐し、太子賓客に徙り、俄かに前官に還る。時に沢潞の盧従史詐傲にして、浸く制せず。その父虔京師に卒し、而して成徳の王承宗父死して襲を求む。徳輿諫めて以てす、「山東を変ぜんと欲せば、先ず昭義の帥を択べし。従史は軍校より抜き、偃蹇として法に不法、今その喪に因り、守臣を選んでこれに代うべし。成徳の習俗既に久しく、当に漸を以て制すべし。成徳の請を許すは則ち可なり、昭義を許すは則ち不可なり」と。帝聴かず。王承宗叛するに及び、従史乃ち詭計を以て王師を撓し、兵老いて功無し。徳輿復た承宗を赦し、従史を徙すことを請う。後皆略ね所料の如し。

原文憲宗元和初,歷兵部侍郎,坐累,徙太子賓客,俄還前官。時澤潞盧從史詐傲,浸不制,其父虔卒京師,而成德王承宗父死求襲,德輿諫,以為:「欲變山東,先擇昭義之帥。從史拔自軍校,偃蹇不法,今可因其喪,選守臣代之。成德習俗既久,當制以漸,許成德之請則可,許昭義則不可。」帝不聽。及王承宗叛,從史乃詭計以撓王師,兵老無功。德輿復請赦承宗,徙從史。後皆略如所料。

会に裴垍病み、徳輿太常卿より礼部尚書・同中書門下平章事を拝す。王鍔河中より朝に入り、宰相を兼ぬるを求む。李藩以て不可と為し、徳輿も亦奏す、「平章事は序進宜しく得るに非ず。方鎮の宰相を帯ぶるに比すれば、必ず大忠勛の若き有り、然らずんば強くして制せざる者、已むを得ずしてこれと与う。今鍔功無く、又姑息の時に非ず。一たびこの名を仮し、以て後人を開かば、不可なり」と。帝乃ち止む。

原文會裴垍病,德輿自太常卿拜禮部尚書、同中書門下平章事。王鍔繇河中入朝,求兼宰相,李藩以為不可,德輿亦奏:「平章事非序進宜得,比方鎮帶宰相,必有大忠若勛,否則強不制者,不得已與之。今鍔無功,又非姑息時,一假此名,以開後人,不可。」帝乃止。

董溪・于臯謨は運糧使として軍興を盗み、嶺南に流す。帝その軽きを悔い、詔して中使に半道にてこれを殺さしむ。徳輿諫む、「溪ら方に山東に兵を用うるに、庫財を乾没し、死して責に償わず。陛下流斥の太だ軽きを以てす、当に臣等の繆誤を責め、その罪を審正し、明らかに詔書を下し、衆とともに棄つれば、則ち人人法を懼る。臣已に事は諍わざるを知る、然れども異時に或いはこの比有らば、要須有司の論報有り、一を罰して百を勧めば、孰か甘心せざらん」と。帝深くこれを然とす。嘗て政の寛猛孰れか先んずるかを問う。対えて曰く、「唐家は隋の苛虐を承け、仁厚を以て先と為す。太宗皇帝『明堂図』を見て、始めて鞭背を禁ず。列聖循う所は、皆徳教を尚ぶ。故に天宝の大盗窃に発し、俄かに夷滅す。蓋し本朝の化、人心を感ずること深きなり」と。帝曰く、「誠に公の言の如し」と。

原文董溪、于臯謨以運糧使盜軍興,流嶺南,帝悔其輕,詔中使半道殺之。德輿諫:「溪等方山東用兵,乾沒庫財,死不償責。陛下以流斥太輕,當責臣等繆誤,審正其罪,明下詔書,與眾同棄,則人人懼法。臣知已事不諍,然異時或有此比,要須有司論報,罰一勸百,孰不甘心。」帝深然之。嘗問政之寬猛孰先,對曰:「唐家承隋苛虐,以仁厚為先。太宗皇帝見《明堂圖》,始禁鞭背,列聖所循,皆尚德教。故天寶大盜竊發,俄而夷滅,蓋本朝之化,感人心之深也。」帝曰:「誠如公言。」

徳輿は善く弁論し、古今の本末を開陳して、以て人主を覚悟せしむ。輔相と為り、寛和にして察察たる名を為さず。李吉甫再び政を秉る。帝又自ら李絳を用いて大機に参賛せしむ。是の時、帝治に切にして、事巨細悉く宰相を責む。吉甫・絳の議論能く持異無からず、帝の前に至りて遽に言い亟に弁ず。徳輿従容として敢えて軽重する所無く、これに坐して本官に罷む。検校吏部尚書を以て東都に留守し、扶風郡公に進む。于頔は子の人の殺すを以て、自ら囚われ、親戚敢えて門を過ぐる者莫く、朝廷請う者有ること無し。徳輿将に行かんとし、帝に言う、「頔の罪既に貸して竟わず、宜しく因って寛詔を賜うべし」と。帝曰く、「然り、卿吾が為に過ぎてこれを諭せ」と。復た太常卿を拝し、刑部尚書に徙る。

原文德輿善辨論,開陳古今本末,以覺悟人主。為輔相,寬和不為察察名。李吉甫再秉政,帝又自用李絳參贊大機。是時,帝切於治,事巨細悉責宰相。吉甫、絳議論不能無持異,至帝前遽言亟辯,德輿從容不敢有所輕重,坐是罷為本官。以檢校吏部尚書留守東都,進扶風郡公。于頔以子殺人,自囚,親戚莫敢過門,朝廷無為請者。德輿將行,言於帝曰:「頔之罪既貸不竟,宜因賜寬詔。」帝曰:「然,卿為吾過諭之。」復拜太常卿,徙刑部尚書。

先に、詔して許孟容・蔣乂に格敕を刊匯せしむ。既に成り、これを上る。禁中に留まる。徳輿その書を出だし、侍郎劉伯芻と参復研考することを請う。三十篇を定めて奏上す。復た検校吏部尚書となり、出でて山南西道節度使と為る。後二年、病を以て還るを乞い、道に卒す。年六十。尚書左僕射を贈られ、謚して文と曰う。

原文先是,詔許孟容、蔣乂刊匯格敕,既成,上之,留禁中;德輿請出其書,與侍郎劉伯芻參復研考,定三十篇奏上。復檢校吏部尚書,出為山南西道節度使。後二年,以病乞還,卒於道。年六十,贈尚書左僕射,謚曰文。

徳輿は三歳にして四声の変化を知り、四歳にして詩を賦すことができ、経術を思索し積み重ね、貫通し総合しないものはなかった。学び始めてから老いるまで、一日も書を離れて観ないことはなかった。嘗て論を著し、漢が亡びた所以を弁じ、西京(前漢)は張禹にあり、東京(後漢)は胡広にあるとし、その大旨は世に補うところがあった。その文は雅正で贍縟(豊かで華やか)であり、当時の公卿侯王で功徳卓異なる者は、皆その銘紀するところとなり、十に常に七八を占めた。動静に外飾はなかったが、その醞藉風流(含蓄と風雅)は、自然と慕うべきものがあった。貞元・元和の間、縉紳の羽儀(模範)と為った。

原文德輿生三歲,知變四聲,四歲能賦詩,積思經術,無不貫綜。自始學至老,未曾一日去書不觀。嘗著論,辨漢所以亡,西京以張禹,東京以胡廣,大指有補於世。其文雅正贍縟,當時公卿侯王功德卓異者,皆所銘紀,十常七八。雖動止無外飾,其醞藉風流,自然可慕。貞元、元和間,為搢紳羽儀雲。

子に璩あり。

原文子 璩

子の璩は、字を大圭といい、元和の初め、進士に擢でられた。監察御史を歴任し、美称があった。宰相李宗閔は父(権徳輿)の門生であったので、中書舎人に推薦した。時に李訓は寵を挟み、『周易』博士として翰林に在ったが、璩は舎人高元裕・給事中鄭粛・韓佽らと連章して、訓が陰巧を傾覆し、かつ国を乱すと劾奏し、禁中に出入りすべからざることを論じた。聞き入れられなかった。宗閔が貶せられると、璩は屡々上表して弁解し、閬州刺史に貶せられた。文宗はその母の病を憐れみ、鄭州に移した。李訓が誅せられた時、人は多く璩が禍福の大體を明らかにし、その家を世継ぐことができると称えた。

原文子璩,字大圭,元和初,擢進士。歷監察御史,有美稱。宰相李宗閔乃父門生,故薦為中書舍人。時李訓挾寵,以《周易》博士在翰林,璩與舍人高元裕、給事中鄭肅、韓佽等連章劾訓傾覆陰巧,且亂國,不宜出入禁中。不聽。及宗閔貶,璩屢表辨解,貶閬州刺史。文宗憐其母病,徙鄭州。訓誅,時人多璩明禍福大體,能世其家。

崔群

原文崔群

崔群は、字を敦詩といい、貝州武城の人である。冠せられざる前に進士に挙げられ、陸贄が貢挙を主るとき、梁粛がその公輔の才あることを推薦し、甲科に擢でられ、賢良方正に挙げられ、秘書省校書郎を授かった。累遷して右補闕・翰林学士・中書舎人となった。数々讜言を陳べ、憲宗は嘉んで受け入れ、因って学士に詔して「凡そ奏議は、群の署するを待って乃ち上ることができる」とした。群は「禁密の言は、人人自ら陳ぶべきであり、一旦故事と為れば、後或いは直を悪み正を醜くする者ありて、則ち他の学士は上言することが得られなくなるであろう」とし、固く辞譲したので、聞き入れられた。恵昭太子が薨じた。この時、遂王が嫡であり、而して澧王が長であったが、内助多くあった。帝は東宮を建てんとし、群に詔して澧王の為に譲表を作らせた。群は奏上して「およそ己が当に得べきものは則ち譲り、当に得べからざるものは、何ぞ譲るを用いん。今遂王は嫡なり、太子と為すべし」といった。帝はその議に従った。魏博の田季安が五千縑を以て開業仏祠の営造を助けようとしたが、群は名の無き献は受くべからずとし、詔してこれを退けた。戸部侍郎に進んだ。

原文崔群,字敦詩,貝州武城人。未冠,舉進士,陸贄主貢舉,梁肅薦其有公輔才,擢甲科,舉賢良方正,授秘書省校書郎。累遷右補闕、翰林學士、中書舍人。數陳讜言,憲宗嘉納,因詔學士:「凡奏議,待群署乃得上。」群以「禁密之言,人人當自陳,一為故事,後或有惡直鬼正,則它學士不得上言矣」,固讓,見聽。惠昭太子薨,是時,遂王嫡,而澧王長,多內助。帝將建東宮,詔群為澧王作讓。群奏:「大凡己當得則讓,不當得之,烏用讓?今遂王嫡,宜為太子。」帝從其議。魏博田季安以五千縑助營開業佛祠,群以為無名之獻,不當受。有詔卻之。進戶部侍郎。

元和十二年、中書侍郎同中書門下平章事となった。李師道が既に誅せられた後、師古らの妻子が掖廷に没官されたが、帝は疑い、群に問うた。群はこれを釈放し、併せてその奴婢資産を還すことを請うた。塩鉄院の官権長孺が罪に坐して死に抵したが、その母は耄耋で、子を丐いて養わんとした。帝は憫然としてこれを赦さんとし、宰相に問うた。群は対えて「陛下幸いにその老いを憐れまれるならば、宜しく即ち使者を遣わして旨を諭すべし。若し勅を出すを須いすれば、及ばざるなり」といった。ここにおいて死を免じた。群の凡そ啓奏することは、このように平恕であった。帝は嘗て宰相に語って「聴受の際、亦た難からずや。比来学士に詔して前世の事を集め、『弁謗略』と為し、以て自らを儆鑒せしむ。その要は何ぞや」といった。群は対えて「情無きは、曲直これを弁ずること至易なり。情有るは、則ち欺くことを審らかにするは難し。故に孔子に衆好衆悪・浸潤膚受の説有り、その弁じ難きを以てなり。若し陛下賢を択びて任じ、誠を以てこれを持ち、法を以てこれを糾せば、則ち人自ら正に帰し、敢えて欺くことを以てせざるなり」といった。帝はその言を是とした。

原文元和十二年,以中書侍郎同中書門下平章事。李師道既誅,師古等妻子沒入掖廷,帝疑,以問群,群請釋之,並還其奴婢貲產。鹽鐵院官權長孺坐罪抵死,其母耄,丐子以養。帝奭然欲赦之,以問宰相,群對:「陛下幸憐其老,宜即遣使諭旨,若須出敕,無及矣。」於是免死。群凡啟奏,平恕如此。帝嘗語宰相:「聽受之際,不亦難乎!比詔學士集前世事,為《辨謗略》,以自儆鑒。其要云何?」群對:「無情,曲直辨之至易;有情,則欺為難審也。故孔子有眾好眾惡、浸潤膚受之說,以其難辨也。若陛下擇賢而任,待之以誠,糾之以法,則人自歸正,而不敢以欺。」帝韙其言。

処州刺史苗積が羨銭七百萬を進めたが、群はこれを受ければ天下に信を失うとして、請うてこれをその州に還賜し、以て下戸の賦を紓ゆるめしめんとした。この時、皇甫镈は利を言って帝に幸いし、陰に左右を藉りて宰相を求め、群は数々その佞邪にして用うべからざるを言った。既に入対し、開元・天宝の事に及ぶと、群は因ってその極みを推言して「安危は令を出すに在り、存亡は任ずる所に係る。昔、玄宗は少くして屯険を歴り、更に民間の疾苦に通じた。故に初め姚崇・宋璟・盧懐慎を得て道徳を以て輔け、蘇颋・李元纮は孜孜として正を守った。則ち開元は治と為った。その後、逸楽に安んじ、正士を遠ざけ、小人に昵した。故に宇文融は利を言うことを以て進み、李林甫・楊国忠は寵を怙たのみて邪を朋にした。則ち天宝は乱と為った。願わくは陛下開元を以て法と為し、天宝を以て戒めと為されんことを。これ社稷の福なり」といった。又言うに「世は禄山の反するを謂い、治乱分かるる時と為す。臣は張九齢を罷め、林甫を相とするを謂い、則ち治乱固より已に分かれたりと謂う」といった。左右は感動した。群は是を以て帝を諷したので、镈はこれを銜ふくんだ。帝は遂に自ら镈を相とした。会に群臣が帝号を上るに及び、镈は兼ねて「孝徳」を用いんとしたが、群は独り「睿聖」有れば、則ち「孝徳」並びに現るると以為った。帝は聞いて楽しからず。会に度支が辺士に稟賜するに時を失い、物多く弊悪にわたり、李光顔は甚だ憂え、佩刀を引きて自決せんと欲するに至り、中外皆恐れた。镈は奏上して「辺鄙事無きに、乃ち群が鼓動し、直を買わんと欲し、怨みを天子に帰せんとす」といった。ここにおいて罷めて湖南観察使と為した。

原文處州刺史苗積進羨錢七百萬,群以受之失信天下,請還賜其州,以紓下戶之賦。是時,皇甫镈言利幸於帝,陰藉左右求宰相,群數言其佞邪不可用。既入對,及開元、天寶事,群因推言其極曰:「安危在出令,存亡系所任。昔玄宗少歷屯險,更民間疾苦,故初得姚崇、宋璟、盧懷慎輔以道德,蘇颋、李元纮孜孜守正,則開元為治。其後安於逸樂,遠正士,昵小人,故宇文融以言利進,李林甫、楊國忠怙寵朋邪,則天寶為亂。願陛下以開元為法,以天寶為戒,社稷之福也。」又言:「世謂祿山反,為治亂分時。臣謂罷張九齡,相林甫,則治亂固已分矣。」左右為感動。群以是諷帝,故镈銜之。帝卒自相镈。會群臣上帝號,镈欲兼用「孝德」為號,群獨以為有「睿聖」,則「孝德」並見。帝聞不樂。會度支稟賜邊士不時,物多弊惡,李光顏憂甚,至欲引佩刀自決,中外皆恐。镈奏:「邊鄙無事,乃群鼓動,欲以買直,歸怨天子。」於是罷為湖南觀察使。

穆宗が立つと、吏部侍郎として之を召し、労って「我が太子と為るは、卿の力なり」といった。群は「これは先帝の意にして、臣何の力か有らん。且つ陛下向さきに淮西節度使と為らるるや、臣起制草(詔書の草案を起す)し、その言に『能く南陽の牘を弁じ、允まことに東海の貴に符す』有り。先帝これを然とし、則ち伝付すること久し」といった。俄かに御史大夫を拝した。未だ幾ばくもなく、検校兵部尚書となり、武寧節度使を充てた。群はその副使王智興が士心を得るを以て、節度を仮するに若かずとし、上奏したが報いられなかった。智興が幽・鎮を討って還り、兵を藉りて群を逐うと、群は守を失い、左遷されて秘書監となり、分司東都した。華州刺史に改め、宣歙池観察使を歴任し、兵部尚書に進み、出でて荊南節度使と為り、召されて吏部尚書を拝した。卒す。年六十一。司空を贈られた。

原文穆宗立,以吏部侍郎召之,勞曰:「我為太子,卿力也。」群曰:「此先帝意,臣何力焉?且陛下向為淮西節度使,臣起制草,其言有『能辨南陽之牘,允符東海之貴』,先帝然之,則傳付久矣。」俄拜御史大夫。未幾,檢校兵部尚書,充武寧節度使。群以其副王智興得士心,不若假以節度,不報。智興討幽、鎮還,藉兵逐群,群失守,左遷秘書監,分司東都。改華州刺史,歷宣歙池觀察使,進兵部尚書,出為荊南節度使,召拜吏部尚書。卒,年六十一,贈司空。

賛に曰く、聖人は多難を畏れず、無難を畏る。何ぞや。多難の世は、人人慮りを長くし謀りを深くし、日々中に惕おそるるも、猶以て未だならずと為し、曰く「吾れ覆亡に暇あらず、又何を以てか安からん」と。故に能く天下を挙げて之を興に付す。これを畏るるなり。禍難已に平らぎ、上は恬やすらぎ下は嬉たわむれ、施施ゆるゆるとして自如し、曰く「賢は得難し。賢無くとも、尚お治むべし。佞は去るべし。佞存るとも、遽には乱れじ」と。漏るるを視て填めず、傾くに忽たちまちにして支えず、偃然として自ら慰めて曰く「我何を以てか喪びん」と。故に能く天下を挙げて之を亡に付す。これを畏れざるなり。常人の畏るる所は、聖人はこれを易くす。畏れざる所は、聖人はこれを難くす。孝明皇帝(憲宗)を観るに、本中主なり。変に遭えば始めを謀るに与るべく、成を持するは終わりを共にすべからず。崔群が李林甫を相とすれば則ち治乱已に分かれたりと以為うは、その言信なるかな。是れ扁鵲の以て桓侯を誚せめる所以なり。

原文贊曰:聖人不畏多難,畏無難。何哉?多難之世,人人長慮而深謀,日惕於中,猶以為未也,曰:「吾覆亡不暇,又何以安?」故能舉天下付之興,畏之也。禍難已平,上恬下嬉,施施自如曰:「賢難得,雖無賢,尚可治也;佞可去,雖存佞,不遽亂也。」視漏弗填,忽傾弗支,偃然自慰曰:「我曷以喪?」故能舉天下付之亡,不畏也。常人所畏,聖人易之;所不畏,聖人難之。觀孝明皇帝,本中主,遭變可與謀始,持成不可與共終。崔群以為相李林甫則治亂已分,其言信哉!是扁鵲所以誚桓侯也。