鄭餘慶
鄭餘慶、字は居業、鄭州滎陽の人、三代にわたり皆顕官であった。餘慶は若くして文をよくし、進士に及第した。嚴震が山南西道の節度使となった時、幕府に奏請して置かれた。貞元の初め、朝廷に還り、庫部郎中に抜擢され、翰林學士となり、工部侍郎として吏部選を管掌した。浮屠の法湊が罪により民が闕下に訴えた時、詔して御史中丞宇文邈・刑部侍郎張彧・大理卿鄭雲逵を三司とし、功德判官諸葛述とともに審理させた。述は、もと胥吏であった。餘慶は述が卑賤であると弾劾し、三司と雑治すべきでないとし、時にその言を是とした。
貞元十四年、中書侍郎・同中書門下平章事に拝された。奏対の度に、多く経義を敷衍した。元来度支使の於〓と親しく、凡そ陳奏する事は必ずこれを支持したが、〓は事に坐して貶せられた。また旱魃と飢饉の年があり、朝廷で禁衛十軍を賑恤することを議したが、中書省の吏が漏洩した。この二つの忤いが重なり、故に郴州司馬に貶せられた。
順宗は尚書左丞として召したが、憲宗が即位した時に合わせ、その官のまま再び同中書門下平章事に拝された。当時、主書の滑渙が宦官の劉光琦と相倚って奸を為し、宰相が議する度に、光琦が阻み変えさせようとする事は、渙に往って請わせれば必ず得られた。これにより四方からの賄賂が奔集し、弟の泳は刺史に至った。杜佑・鄭絪が政を執った時は、頗る姑息であったが、佑は常に同輩として扱い、名を呼ばなかった。餘慶が議事するに至ると、渙は傲然として宰相らの前で指画したので、餘慶は叱りつけて退けた。未だ幾ばくもせず、太子賓客に罷められた。後に渙が贓により敗れると、帝は次第に叱りつけて退けた事を聞き、これを善しとした。国子祭酒に改め、累遷して吏部尚書となった。
医工の崔環という者が、淮南の小将から黄州司馬に除されたが、餘慶は執奏して言った。「諸道の散将で功なくして五品の正員を受けるのは、僥倖の路を開くものであり、不可である。」権力者たちは喜ばず、太子少傅に改め、兼ねて太常卿事を判じた。朱泚の乱以来、都ではしばしば驚擾があり、太常の楽の練習では鼓の使用を禁じていたが、餘慶は時既に久しく平穏であるとして、旧制に復するよう奏上した。山南西道節度使として出向し、後に召されて太子少師となり、老齢を理由に致仕を請うたが、許されなかった。
当時は赦しが多く、官には泛階が多かった。また帝が親しく郊祀し、陪祠した者に三品・五品を授けたが、考課を考慮しなかった。使府の賓吏が、軍功を借りて朱紫を賜る率は十のうち八に及んだ。近臣の謝恩や郎官の出使に、多く賜与があった。毎朝会するに、朱紫が朝廷に満ちて緑衣の者は少なかった。品服が甚だしく濫り、人は貴ばず、帝もこれを憎み、始めて餘慶に条奏して懲らしめ革めるよう詔した。尚書左僕射に遷った。僕射は比するに人を得ず、餘慶が宿徳をもって進められると、公論は浩然として重んじられた。帝は典制が倫を失うことを患い、餘慶が前代の事に通暁しているとして、詳定使に詔し、参画して裁訂させた。餘慶は韓愈・李程を副使に引き、崔郾・陳佩・楊嗣復・庾敬休を判官とし、凡そ儀礼の規矩を損益し、詳衷と称された。
俄かに鳳翔尹に拝され、鳳翔を節度した。再び太子少師となり、滎陽郡公に封ぜられ、兼ねて国子祭酒事を判じた。建言して言った。「兵興以来、学校は廃れ、諸生は離散している。今天下は平穏である。臣は文吏の月俸を百分の一取り立て、以て修繕の資としたい。」詔して可とした。穆宗が即位すると、検校司徒を加えられた。卒去、七十五歳。太保を贈られ、諡して貞といった。帝はその貧しさを以て、特に一月分の俸料を与えて賻賵とした。
餘慶は若くして自らを磨き、己を行うに完潔であった。四朝に仕え、その禄は悉く親族に施し、或いは人の急を救い、自らの生活は粗末であった。官府に至っては、広大に開け、常に人に語って言った。「禄が親友に及ばずに僕妾を贅沢にする者は、私はこれを卑しむ。」大抵、中外の姻戚の嫁娶では、その礼の献上物を自ら閲した。後輩が内謁すれば、必ず引見し、諄々と経義を教え、儒学を成就させることに努めた。至徳以後、方鎮の除拜には必ず内使を遣わし幢節をその邸に持参させたが、到れば多く金帛を饋り、且つ天子に媚び、厚くないことを恐れたので、一つの使者が数百万緡を受け取ることもあった。憲宗は餘慶に命ずる度に、必ず使者を戒めて言った。「この家は貧しい。妄りに求め取ってはならぬ。」議者にはその沽激を誹る者もあったが、餘慶は意に介さなかった。奏議は古言を用いる類いで、「仰給縣官」「馬萬蹄」など、有司がどのような言葉か分からず、人はその時宜に適わないと非難した。従父の絪と昭国坊に住み、絪の邸は南に、餘慶の邸は北にあり、世に「南鄭相」「北鄭相」と言った。子に澣。澣は本名を涵といったが、文宗の諱を避けて改めた。進士に及第し、累遷して右補闕となった。敢えて言い、憚るところなく、憲宗は餘慶に言った。「涵は、卿の令子にして朕の直臣である。互いに賀すべきである。」起居舍人・考功員外郎に遷った。時に刺史が吏に迫って功績を愛でて記録させることがあったので、涵は観察使に責めさせてその欺瞞を杜ぐよう請うた。餘慶が僕射となった時、避けて国子博士・史館修撰に除された。
文宗が即位すると、翰林に入り侍講學士となった。帝が経史を集めて『要録』を作らせたが、その博く精しいことを愛で、試みに諸条を挙げて問うと、即座に応答分析し、答えに滞ることがなかった。そこで金紫服を賜った。累進して尚書左丞となり、山南西道節度使として出向した。初め、餘慶が興元で学舎を創建し、澣がこれを継いで完成させ、生徒を養い、風化が大いに行われた。戸部尚書として召されたが、拝せずに卒去した。六十四歳。尚書右僕射を贈られ、諡して宣といった。
四子あり、処誨・従讜が特に知名である。
子 処誨
処誨、字は廷美、文辞秀抜であった。仕えて刑部侍郎・浙東観察使・宣武節度使を歴任し、卒した。先に、李徳裕の『次柳氏旧聞』があったが、処誨は詳らかでないとして、更に『明皇雑録』を撰し、当時盛んに伝えられた。
子 従讜
従讜、字は正求。進士に及第し、校書郎に補され、累遷して左補闕となった。令狐綯・魏扶は皆澣の門生で、しばしば誉めて進めたので、中書舎人に遷った。咸通年中、吏部侍郎となり、銓衡は明らかで公正であった。河東節度使として出向し、宣武に移り、善政最上の評判を得た。嶺南東道節度使に改めた。先に、林邑蛮が内侵し、天下の兵を召して進援させたが、龐勛の乱に会い、派遣されず、北兵は寡弱であった。従讜は土豪を募り、その酋長に右職を署し、規律を定めて互いに防禦させたので、交州・広州は平穏であった。
僖宗が即位すると、召されて刑部尚書となった。久しくして、同中書門下平章事に抜擢され、門下侍郎に進んだ。沙陀都督李國昌は辺境に憂い多きを聞き、振武・雲朔等の州を占拠し、南に太谷を攻略した。河東節度使康傳圭は大将伊釗・張彦球・蘇弘軫を遣わして兵を率いこれを防がせたが、戦い数えて敗れ、傳圭は軫を斬って衆に示した。彦球の部下が反逆し、傳圭を攻めてこれを殺し、府庫を掠奪して乱を起こした。朝廷これを憂いとし、帝は大臣に臨んで制せんと欲し、乃ち從讜を檢校司徒に拝し、宰相の秩をもって再び河東節度使とし、兼ねて行營招討使とし、詔して自ら参佐を択ばしめた。從讜は即ち表して長安令王調を自らの副とし、兵部員外郎劉崇龜・司勛員外郎趙崇を節度觀察府判官とし、前進士劉崇魯を推官とし、左拾遺李渥に掌書記を執らせ、長安尉崔澤を支使とし、皆一時の選りすぐりであった。京師の士人は太原を小朝廷に比し、才を得ること多しと言った。時に軍乱を承け、掠奪日々に錯雑す。從讜は既に視事するや、奸悪は隠れることなく情状を推し捕らえ、反賊を誅しその首悪を戮した。彦球は本善意にして、且つ才任に堪うるを以て、釈して問わず、却って兵を付し、隔てなく余猜なきにより、故にその死力を得た。渠凶宿狡は敢えて発せず、発すればまた即ち得られ、士は皆寒毛し慄いて伏した。
黃頭軍は糧少なるを以て其の資を劫いしに、從讜は間を走って絳州に至り、道梗びて通ぜず、数月して、召されて司空に拝し、復た政を秉り、太傅兼侍中に進んだ。帝に従って興元に至り、疾を以て骸骨を乞う。太子太保に拝し、第に還り、卒す。謚して文忠と曰う。
從讜は進止礼法有り、性矜満せず、沈毅謀有り。汴に在りし時、處誨が鎮に歿するを以て、代に訖るまで、牙中に楽を奏せず。陸扆を後生に識り、数えしばしば之を称誉し、扆は後に宰相の位に至った。張彦球は、拳摯にして善く断じ、累ねて虜を破り功有り、奏して行軍司馬と為し、後に金吾将軍を署す。初め、盗中原に流れ、沙陀強悍なりしも、而して卒に其の用を収めたるは、蓋し從讜が太原に重きを為したるによる。時に鄭畋は宰相を以て鳳翔に鎮し、檄を移して賊を討ち、両人は忠義を以て相提衡し、賊は特に之を憚り、「二鄭」と号したという。
鄭珣瑜
鄭珣瑜、字は元伯、鄭州滎沢の人。少くして孤となり、天寶の乱に値い、退きて陸渾山に耕し、以て母を養い、州裏に干せず。転運使劉晏の奏により寧陵・宋城尉を補し、山南節度使張献誠の表により南鄭丞と為さんとすれども、皆謝して応ぜず。大歷中、諷諫主文科に高第し、大理評事を授かり、陽翟丞に調じ、抜萃を以て萬年尉と為る。崔祐甫が相と為り、左補闕に擢でられ、出でて涇原帥府判官と為る。入りて侍御史・刑部員外郎に拝し、母喪に服して解く。喪に訖り、吏部に遷る。貞元初、詔して十省郎を択び畿・赤を治めしむ。珣瑜は本官を檢校し兼ねて奉先令と為る。明年、饒州刺史に進む。入りて諫議大夫と為り、四遷して吏部侍郎と為る。
河南尹と為る。未だ境に入らざるに、徳宗の生日に会い、尹はまさに馬を献ずべきところ、吏は前に進み印を取らんと欲し、珣瑜の視事するを白し、且つ内贄せんとす。珣瑜は徐かに曰く「官に到らざるに遽かに献ずるに事えんは、礼なるか」と。聴かず。性厳重にして言少く、未だ嘗て私を以て人に托せず、而して人もまた敢えて私を以て謁せず。既に河南に至りては、清静にして下に恵み、賤く斂め貴く発して以て民に便す。方に是の時、韓全義将兵して蔡を伐たんとし、河南は饋運を主る。珣瑜は密かに之を陽翟に儲え、以て官軍に給し、百姓は僦運の労を知らず。凡そ敕使を迎送するに、皆常の処に在り、吏は密かに其の馬を識り、進退数歩を差さず。全義と監軍の別檄に取りて、詔約に非ざるもの有れば、珣瑜は輒ち壁に掛けて酬いず。軍罷するに至るまで、凡そ数百封。諫むる者有りて曰く「軍須期会は急を為す、公は報ぜざる可きか」と。珣瑜曰く「武士戎を統ぶるは、多く恃みて以て取求す。苟も罪と為さんには、尹まさに之に坐すべし、終に万人の産を沴さじ」と。故に下に怨讟無し。時に謂う、河南を治むること張延賞に比すも、而して重厚堅正は之を過ぎたりと。
復た吏部侍郎として召され、門下侍郎・同中書門下平章事に進む。李實が京兆尹と為り、下を剝ぎて務めて進奉す。珣瑜は顯かに詰して曰く「留府の緡帛は入るに素有り、余る者は応に内度支すべし。今進奉するは乃ち何の色より出づるや」と。具に以て対す。實は方に幸いを受け、依違して以て免る。
順宗立ち、即ち吏部尚書に遷る。王叔文は州吏より起りて翰林学士・鹽鐵副使と為り、内に奄人と交わり、政機を攘撓す。韋執誼が宰相と為り、外に居りて奉行す。叔文一日中書に至り執誼を見んとす。直吏曰く「方に宰相会食す、百官見る者無し」と。叔文恚り、吏を叱す。吏走り入りて白す。執誼起ち、就きて閣にて叔文と語る。珣瑜と杜佑・高郢は饔を輟めて以て待つ。頃くして、吏白す「二公同じく飯す」と。珣瑜喟然として曰く「吾かくの如く復た此に居る可けんや」と。命じて左右に馬を取らしめ帰り、家に臥して出でずこと七日、罷めて吏部尚書と為る。亦た疾有るに会い、数月にして卒す。年六十八。贈られて尚書左僕射と為る。太常博士徐復は謚して文献とす。兵部侍郎李巽言う「文とは、天地を経緯す。二謚を用うるは、『春秋』の正に非ず、請う更に議せよ」と。復謂う「二謚は、周・漢以来之れ有り。威烈・慎靜は周なり。文終・文成は漢なり。況んや珣瑜は名臣、二謚嫌うこと無し」と。巽曰く「謚一は正なり、堯・舜是れなり。二謚は古に非ず、法の載せざる所なり」と。詔して復の議に従う。子に覃有り。
子 覃
覃は父の蔭により弘文校書郎を補し、累擢して諫議大夫と為る。憲宗五中官を取って和糴使と為さんとす。覃奏して之を罷む。
穆宗が即位すると、国事を顧みず、しばしば遊楽に耽った。吐蕃はちょうど強勢であった。鄭覃は崔郾らと共に朝廷で対して言うには、「陛下は新たに即位され、身を慎んで政務に励むべきであるのに、内では宴楽に耽り、外では狩猟遊楽にふけっておられる。今、吐蕃が国境にあり、隙をうかがっている。万一緊急の事態があれば、臣下は陛下の所在さえ知らず、事を誤らぬことがあろうか。金銀や絹織物は、もとより民の膏血から出るものであり、それを役にも立たぬ俳優に濫りに賜与してよいものか。願わくは費用を節約し、余りを辺境の備えとし、役人が重ねて百姓から取り立てることのないようにされれば、天下の幸いです」と。帝は快く思わず、宰相の蕭俛を顧みて言うには、「これは皆、何者か」と。俛は「諫官です」と答えた。帝の気持ちが和らぎ、そこで言うには、「朕の過ちを、臣下がよく諫めるのは、忠である」と。そこで詔を下して覃に言うには、「閣中の議論は甚だ誠実でなかったが、今後朕のために言う者がいれば、卿を延英殿に引見しよう」と。当時、閣中の奏議は久しく廃されていたが、この時より、士人は互いに慶賀した。
王承元が鄭滑節度使に転じると、鎮州の兵士は強く引き留めて出発させなかった。承元は重臣を派遣してその軍を慰撫安定させるよう請うた。詔により覃が宣諭使となり、起居舍人の王璠が副使となった。初め、鎮州の兵士は甚だ無礼であったが、覃が詔を伝え、大義を開き勧告すると、軍は遂に安定し、承元は去ることができた。
宝暦の初め、京兆尹に抜擢された。文宗が翰林侍講学士に召し、工部侍郎に進めた。覃は経術に精通し、篤実で正道を守り、帝は特にこれを重んじた。李宗閔と牛僧孺が政務を執ると、覃が李徳裕と親しいのを憚り、その近侍が助力となるのを忌み、表向き工部尚書に遷し、侍講を罷めて、遠ざけようとした。帝は学問を好み、覃のことをよく思い、再び侍講学士に召した。徳裕が宰相となると、御史大夫とした。帝はかつて殷侑が経書についてよく論じるのを称し、その人となりは鄭覃に比べると言った。宗閔が軽率に言うには、「二人は確かに経書に通じているが、その議論は取るに足りません」と。徳裕は言うには、「覃と侑の言は、他人は聞きたくないが、陛下こそ聞くべきです」と。やがて徳裕が罷免され、宗閔が再び用いられると、覃は戸部尚書から秘書監に左遷された。宗閔が罪を得ると、刑部尚書に遷り、尚書右僕射に進み、国子祭酒を兼ねた。李訓が誅殺されると、帝は覃を召して禁中で詔を視させ、そこで同中書門下平章事に任じ、滎陽郡公に封じた。
文辞を好まず、進士の浮華誇張を弊害とし、その科を廃止するよう建言して言うには、「南北朝が治まらなかったのは、文采が質朴敦厚に勝ったからです。士は才能を用いるだけで、何ぞ文辞を必要としましょう」と。また言うには、「文人は多く軽薄である」と。帝は言うには、「純朴と軽薄は天性の違いのようであり、何ぞ特に進士だけか。かつこの科を設けて二百年、どうして容易に変えられようか」と。そこで止めた。帝はかつて百官に対し一日も弛緩怠惰であってはならないと言い、香案の炉を指して言うには、「これは初めは華美であるが、使い古すと曇る。手入れ飾らなければ、どうして再び新しくできようか」と。覃は言うには、「世の弊を救うには、まず実務を責めることにあります。近頃は皆職務を執らず、かえって王夷甫を慕い、及ばないことを惜しんでいます。これは太平の世に由来し、人人が事なく、安逸がこれを招いたのです」と。帝は言うには、「要は法度を謹むのみである」と。門下侍郎・弘文館大学士に進んだ。
帝が延英殿に坐って詩の巧拙を論じると、覃は言うには、「孔子が刪定された三百篇(詩経)がそれです。雅正でないものは、天子が語るに足りましょうか。『風』や大小『雅』は皆、下が上を諷刺する変風変雅であり、上が下を教化して作ったものではありません。故に王者は詩を採って風俗の得失を考察するのです。陳の後主や隋の煬帝は特に詩の章句を解する能力があったが、王者の術を知らなかったため、遂に乱に帰しました。些細な詩文など、陛下は取られませんように」と。
帝はしばしば言うには、「順宗の事績は詳実でない。史臣の韓愈は、当時人を屈服させたのではないか。昔、漢の司馬遷が任安に与えた書簡は、怨みの言葉が多く、故に『武帝本紀』は多く事実を失っている」と。覃は言うには、「武帝は中年に大いに兵を起こして辺境に事を構え、民は疲弊し、府庫は枯渇しました。遷の述べたことは過言ではありません」と。李石は言うには、「覃が述べたのは、武帝を引き合いに出して諫め、陛下に盛徳を終わりまで全うさせようとしたのです」と。帝は言うには、「誠にその通りである。初め有らざるはなく、終わりを全うする者は少ない」と。覃は言うには、「陛下は書を読むのを好まれますが、要義は一二に過ぎず、陛下がおっしゃった通りです。寝食を忘れてこれに励まれるべきです」と。
覃は清く正しく、控えめで、人と親しみ軽はずみな交わりをすることはなかった。宰相の位にあっても、住む邸宅を飾り立てず、内に妾媵を持たなかった。孫娘が崔臯に嫁いだが、官はわずか九品の衛佐であった。帝はその権勢ある家と婚姻しないのを重んじた。覃が侍講であった時、常に風俗を厚くし、徒党を排斥することを再三天子に言ったので、終に宰相となった。しかし、悪を憎むことが多く、容赦しないところがあり、世間は過ぎていると思い、これを畏れた。初め、覃は経籍の文字が誤り、博士が浅陋で正せないのを以て、建言して言うには、「願わくは碩学の鴻儒と共に校訂刊行し、漢の旧事に準じて、石に刻んで太学に置き、万世の模範と示したい」と。詔はこれを許可した。覃はそこで周墀・崔球・張次宗・孔溫業らにその文を是正させ、石に刻ませた。子に裔綽がいる。
裔綽は峻厳で父の風があり、門蔭によって進み、李徳裕に知られ、渭南尉に抜擢された。弘文館に直し、累進して諫議大夫となった。宣宗の初め、劉潼が鄭州刺史から桂管観察使に任じられると、裔綽は強く争って言うには、「潼が責めを受けて間もないのに、廉察の任に付けるのは宜しくありません」と。帝は既に使者に詔を頒つことを遣わしていたが、追ってこれを罷めた。給事中に遷った。楊漢公が荊南節度使となり、貪婪の罪に坐し、秘書監に貶せられ、まもなく同州刺史に任じられると、裔綽と鄭公輿は制書を封還した。帝は即位以来、諫臣の規正することを容れないことはなかったが、この時、漢公のために弁護する者がいたので、遂に改めなかった。禁中で宴を賜る際、天子が球を撃つと、門下の官の所まで来て、二人に言うには、「近ごろ漢公の事を論じるのは、徒党の類のようだ」と。裔綽は言うには、「同州は太宗が王業を興した地です。陛下は子孫として、付けるべき所を慎むべきです。かつ漢公は汚職で官を敗りました。どうして要地を私すことができましょうか」と。帝は顔色を変えた。翌日、商州刺史に貶された。当時まだ緑の官服を着ていたので、詔により緋魚袋を賜った。後に秘書監から浙東観察使に遷り、太子少保で終わった。覃の弟に朗がいる。
朗、字は有融、初め柳公綽の山南幕府に辟召され、入朝して右拾遺に遷る。開成年中、起居郎に抜擢される。文宗が宰相と政事を議する際、ちょうど朗が螭頭の下に筆を執っているのを見て、言うには、「先ほど論じた事も、記録しているのか。朕はそれを見たい。」朗曰く、「臣が筆を執って記すのは、史でございます。故事により、天子は史を観覧されませぬ。昔、太宗がご覧になろうとされた時、朱子奢が申しました、『史は善を隠さず、悪を諱みませぬ。中主以下の者は、或いは非を飾り過失を庇い、それを見れば、史官は自ら免れる術がなく、かつ敢えて直筆することができませぬ。』と。褚遂良もまた称して、『史は天子の言行を記し、たとえ法に合わぬことでも必ず書き記し、以て自らを戒めさせます。』と。」帝は喜び、宰相に謂う、「朗は故事を引き、朕に起居注を見せようとせぬ。職を善く守る者と言えよう。しかし人君の行い、善悪は必ず記される。朕は平素の言葉が治体に叶わず、将来の恥となることを恐れる。一度見て、以て自ら改めることができればよい。」朗は遂にこれを上る。
累遷して諫議大夫となり、侍講学士を兼ねる。華州刺史より入朝し、御史中丞・戸部侍郎を拝す。鄂嶽・浙西観察使となり、進んで義武・宣武二節度使となる。工部尚書判度支・御史大夫を歴任し、再び工部尚書・同中書門下平章事となる。中人李敬寔が朗の騶導を押しのけて馳せ去ったので、朗はこれを奏聞する。宣宗が敬寔を詰問すると、自ら供奉官は道を避けぬと申す。帝曰く、「朕の命を伝えるのであれば道を遮って行ってもよいが、私事で出るのに、宰相を避けぬというのか。」即座に敬寔を斥ける。右拾遺鄭言という者は、かつて朗の幕府にいたが、朗は諫臣が輔相と得失を争うのは、論じなければ職を廃するに等しいとして、他官に転任させるよう奏上する。久しくして、病を以て自ら陳請し、罷められて太子少師となる。卒し、司空を贈られる。
高郢
高郢、字は公楚、その先祖は渤海より衛州に移り、遂に衛州の人となる。九歳で『春秋』を通じ、文章を作ることに巧みで、『語黙賦』を著し、諸儒に称される。父伯祥は好畤尉であったが、安祿山が京師を陥落させ、これを誅殺せんとした時、郢はまだ幼く、衣を解いて代わることを請う。賊はその義に感じ、共に赦す。
宝応初年、進士第に及第する。代宗が太后のために章敬寺を営造しようとした時、郢は白衣の身で上書して諫めて言う。
陛下の大孝は心より発し、天と共に極まりなく、烝烝たる思いは、これ以上に加えるものはございませぬ。臣は思いますに、力を尽くして孝を追うことは、誠に益あることではありますが、時を妨げ民を苦しめることは、損なわざるを得ませぬ。人を捨てて寺に就くこと、何の福となりましょうか。昔、魯の荘公が桓公の廟の楹を丹にしその桷を刻んだことを、『春秋』は非礼として記します。漢の孝恵帝・孝景帝・孝宣帝は郡国諸侯に高祖・文帝・武帝の廟を立てさせましたが、元帝に至り、博士・議郎と古礼を斟酌して、一斉にこれを罷めました。廟でさえも礼を越えて立てることはせず、まして寺は宗廟の安置する所でもなく、神霊の住まう所でもございませぬ。万人の力を尽くし、一時の報いを求めることは、その不可なること明らかでございます。
臣は聞きます。聖人は天より命を受け、人を以て主と為す。もし功が天に済い、天人共に和すれば、則ち宗廟は福を受け、子孫は慶びを蒙ると。『伝』に曰く、「徳教を百姓に加え、四海に刑(模範を示)す、これ天子の孝なり。」と。また曰く、「爾が祖を念うこと無かれ、聿めて厥の徳を脩めよ。」「既に帝祉を受け、孫子に施す。」と。これによりて知る、王者の孝は、天地を承順し、宗考を厳かに配祀し、徳教を恭慎し、以て兆民に臨むことに在り。四海の内をして、歓心して助祭せしめ、福を延べ祚を流し、永永に窮まり無からしむることに在る。梵宮を崇め樹て、金玉を彫琢することを以て孝とすることを聞きませぬ。夏の禹は宮室を卑くし、溝洫に力を尽くし、人は今に至るもこれを称えます。梁の武帝は土木を窮め、塔廟を飾りましたが、人これを称えませぬ。陛下がもし用を節し人を愛すれば、夏后と美を斉うべく、何ぞ必ず人を労し衆を動かし、梁武帝の遺風を踵ぐ必要がありましょうか。また制作の初め、支費は尚浅く、人は力を量ることを貴び、必ず成すことを貴ばず、事は時に相うことを貴び、必ず遂げることを貴びませぬ。陛下がもし思い慮いを回らし、人心に従われれば、則ち聖徳孝思は天地に格り、千福万禄は先後に受けられましょう。どうして一寺の功徳と較べるものでありましょうか。
書が奏上されたが、返答がなかった。再び上言して言う。
王者が将に為さんとし、将に行わんとする時は、必ず衆に稽え人に順う。則ち自然の福は、求めずして至り、未然の禍は、除かずして絶つ。臣は聞きます。神人は功無き者、有功の功を為さず。聖人は名無き者、有名の名を為さず。有功の功を為さざる故に、功はこれより大なるは莫く、有名の名を為さざる故に、名はこれより厚きは莫し、と。古の明王は善を積みて以て福を致し、財を費やして福を求めず。徳を脩めて以て禍を銷し、人を労して禍を攘わず。陛下の営作は、臣窃かにこれを惑う。もし功と為すならば、天は覆い地は載せ、陰は施し陽は化す、未だ嘗て為すこと有りませぬ。もし名と為すならば、至徳要道、以て天下に順う、未だ嘗て待つこと有りませぬ。もし福を致すならば、神明に通じ、四海に光る、財を費やすに在らず。もし禍を攘うならば、方に厥の徳を務め、天災有ること無し、人を労するに在らず。今、興造は急を趣き、人徒は竭くして作し、土木並びに起こり、日課万工、食息する暇もなく、搒笞の愁痛は道路に盈つ。これを以て福を望むは、臣恐らく然らざらんと。陛下は多難を戢め定め、励精して治を思い、務めて寛仁を行い、以て天下を幸せにせんとされております。今、固より群情に違い、左右の過計に徇うのは、臣窃かに陛下のためこれを惜しみます。
採用されなかった。
茂才異行にて高第に挙げられ、累進して咸陽尉に抜擢される。郭子儀が召し取って朔方掌書記とした。子儀が判官張曇を怒り、奏上して死罪に処せんとしたとき、郢は力強く救済を引き出し、子儀の意に逆らい、左遷されて猗氏丞に移された。李懷光が召し出して邠寧府を補佐させた。懷光が河中に還ろうとしたとき、郢は西進して乗輿を迎えるべからずと諫めたが、懷光の反逆の意志は盛んで、聞き入れなかった。その後また兵を悉くして鼓を鳴らし西進せんとした。時に渾瑊が孤軍を率いて賊に抗し、諸将は未だ集まらず、郢は懷光に乗ぜられることを恐れ、李庸阝と共に固くこれを止めた。折しも懷光の子隹が郢のもとに伺候したので、郢は脅し説いて曰く、「君は天宝以来兵を挙げた者を見よ、今なお誰か在るか。且つ国家は固より天命あり、人力はこれに関与せず。今若し衆を恃んで動かば、自ら天より絶たるるなり。十室の小さき邑にも必ず忠信あり、安んぞ三軍に奔潰して順を助くる者なからんや」。隹は大いに懼れ、流汗して語る能わず。郢はそこでその将呂鳴嶽・張延英と謀り、間道より帰国せんとしたが、事泄れ、懷光は先ず二将を斬り、それから郢を引き出して詰問した。郢は抗弁して愧じ隠すところなく、見る者は涙を流した。懷光は慚じてこれを赦した。孔巢父が害に遇うと、郢は屍を撫でて哭した。懷光が既に誅せられた後、李晟はその忠を上表し、馬燧は管書記に奏した。召されて主客員外郎に拝され、中書舎人に遷った。久しくして、礼部侍郎に進んだ。時に四方の士は朋比に務め、互いに誉め薦めて、有司を動かし、名に殉じて実を忘れた。郢はこれを憎み、請謁を謝絶し、専ら行芸を重んじた。貢部を司ること凡そ三歳、幽独を甄別し、浮華を抑え、流競の俗は衰えた。太常卿に遷った。
貞元の末、中書侍郎・同中書門下平章事に抜擢された。順宗が即位したが、病にて政事を執れず、王叔文の党が朝廷に根拠を置いた。帝は初めて詔して皇太子に国を監せしめ、郢は刑部尚書として罷免された。翌年、華州刺史となり、政治は仁静を尚んだ。初め、駱元光が華より軍を率いて良原を戍った。元光が卒すると、軍は神策軍に入ったが、州は毎年その糧を供給し続け、民は輸送に困窮し、累代の刺史は憚って敢えて上言せず、郢は奏上してこれを廃した。再び召されて太常卿となり、御史大夫を除かれた。数月後、兵部尚書に改められ、固く骸骨を乞い、尚書右僕射として致仕した。卒し、年七十二、太子太保を贈られ、謚して貞といった。
郢は恭慎にして人と交わらず。常に制誥を掌ったが、家に留め置く稿はなく、或る人がどうして前人のように制集を伝えないのかと勧めると、答えて曰く、「王言は私家に蔵すべからず」。生来産を治めず、これを営むよう勧める者があれば、答えて曰く、「禄稟は薄しといえども、我に在りては則ち余りあり、田庄を何に取らんや」。郢が宰相となったとき、鄭珣瑜と同時に拝された。叔文が権力を用いるようになると、珣瑜は甚だ憂い、争うも得ず、乃ち疾と称して出仕せず、郢は特に建白するところなく、やがて珣瑜と共に免ぜられた。故に議者は珣瑜を賢しとし、郢を咎めた。子に定あり。
賛して曰く、王叔文は内に甘尹と連なり、外に奸回を倚りて、天権を攘がんとした。然れども是の時、太子は既に長じ、朝に嫌罅なく、若し珣瑜・郢と杜佑等が毅然として東宮を引き監国せしめ、叔文輩を執り退けば、その力難からざるなり。顧みて循嘿苟安す、所謂いわゆる焉んぞ彼の相を用いんや、というものなり。珣瑜一たび忿りて第に臥し、郢・佑は位を固めんとす、二者も亦た相軽重するに足らずという。
定は弁慧にして、七歳で『尚書』を読み、『湯誓』に至り、跪いて郢に問うて曰く、「奈何ぞ臣を以て君を伐つや」。郢曰く、「天に応じ人に順う、何ぞ伐つと云わんや」。対えて曰く、「命を用うれば祖に賞し、命を用いざれば社に戮す、是れ人に順うというや」。郢はこれを異とした。小字を董二といい、世はその早慧を重んじ、字を以て顕れた。長じて王氏の『易』に通じ、図を作りて八出を合し、上円下方、合すれば則ち重なり、転ずれば則ち演じ、七転して六十四卦となり、六甲・八節備わる。仕えて京兆府参軍に至る。
鄭絪
鄭絪、字は文明、餘慶の従父の行輩なり。幼より奇誌あり、文を属するに善く、交わる所は皆天下の有名の士なり。進士・宏辞の高第に擢げられる。張延賞が剣南を帥とし、奏して掌書記に署す。入朝して起居郎・翰林学士となり、累遷して中書舎人となる。
徳宗が興元より還り、六軍統軍を置きて六尚書に視し、功臣を処するに、除制に白麻を用いて外に付す。又宣武軍を廃し、左右神策を益し、監軍を以て中尉となす。竇文場が功を恃み、陰に宰相を諷して進擬すること統軍の比の如くせしめんとした。絪が制を作るに当たり、奏言して曰く、「天子封建するに、或いは宰相を用い、白麻を以て制を署し、中書・門下に付す。今中尉を命ずるに、陛下が特に文場を寵するや識らず、遂に令として著すや」。帝悟り、文場に謂いて曰く、「武徳・貞観の時、中人は内侍に止まり、諸衛将軍同正賜緋なる者幾ばくもなし。魚朝恩以来、旧制復たず。朕今爾を用うるも私無しと謂わず、若し麻制を宣告せば、天下は爾が我を脅してこれを為すと謂わん」。文場叩頭して謝す。改めて中書に命じて詔を作らしめ、並びに統軍の麻を用いることを罷む。明日、帝絪を見て曰く、「宰相は中人を拒む能わず、卿の言を得て乃ち悟る」。
順宗病み、語るを得ず、王叔文と牛美人が権力を用い、権勢中外に震い、広陵王の雄睿を憚り、これを危うくせんとした。帝絪を召して太子を立てる詔を草せしむ。絪請うことなく即ち書して曰く、「嫡を立てて長を以てす」。跪いてこれを白すと、帝頷いて乃ち定まる。
憲宗即位し、中書侍郎・同中書門下平章事を拝し、門下侍郎に遷る。初め、盧従史が陰に王承宗と連和し、詔ありて潞に帰らんとしたが、従史は潞に糧乏しと辞し、軍を山東に留めんことを請うた。李吉甫が密かに絪が従史に言を漏らすと讒し、帝怒り、浴堂殿に坐し、学士李絳を召してその故を語り、且つ曰く、「如何に処せん」。絳曰く、「誠に是の如くならば、罪は族すべし。然れども誰か以て陛下に聞かしむる者」。曰く、「吉甫我が為に言う」。絳曰く、「絪宰相を任じ、名節を識り、犬彘梟獍の如く奸臣と外通すべからず。恐らくは吉甫勢軋みて内に忌み、醜辞を造りて以て陛下を怒らしむるなり」。帝良久して曰く、「幾くんぞ我を誤らんとす」。
先に、杜黄裳が方に帝の為に節度を夷削し、王室を強めんとし、建議裁可するも、絪に関決せず、絪は常に黙黙たり。位に居ること四年、罷められて太子賓客となる。久しくして検校礼部尚書となり、出でて嶺南節度使となり、後累遷して河中節度使となる。入朝して御史大夫となり、検校尚書左僕射を兼ね、太子少保を兼ぬ。文宗太和年中、年老いて骸骨を乞い、太子太傅として致仕す。卒し、年七十八、司空を贈られ、謚して宣といった。
絪は本儒術を以て進み、道を守り寡欲にして、居る所烜赫なる事を為さず、篤実と称せられた。名理の学に善く、世は耆徳を以てこれを推した。
孫の顥、進士に挙げられ、起居郎として万寿公主に尚り、駙馬都尉を拝す。器識あり。宣宗の時、恩寵比ぶるもの無し。終に検校礼部尚書・河南尹に至る。
権徳輿
権徳輿、字は載之。父は臯、『卓行伝』に見ゆ。徳輿七歳にして父の喪に居り、哭踴すること成人の如し。未だ冠せずして、文章を以て諸儒の間に称せらる。韓洄が河南に黜陟し、幕府に辟置す。また江西観察使李兼の府に従い判官となる。杜佑・裴胄交わってこれを辟す。徳宗その材を聞き、召して太常博士とし、左補闕に改む。
貞元八年、関東・淮南・浙西の州県に大水あり、廬舎を壊し、人を漂溺せしむ。徳輿建言す、「江・淮の田一たび善く熟すれば、則ち旁ら数道を資す、故に天下の大計は、東南に仰ぐ。今淫雨二時、農田開かず、傭亡日ごとに衆し。群臣の明識通方なる者を選び、節を持して労徠し、人の疾苦を問い、その租入を蠲免し、連帥・守長とともに宜しき所を講求すべし。人に賦取するは、人のうちに蔵するがごとき固きに如かず」と。帝乃ち奚陟ら四人を遣わし循行して慰撫せしむ。裴延齢は巧みに幸いして進み、度支を判ず。徳輿上疏して斥言す、「延齢は常賦正額の用度未だ尽きざる者を以て羨利と為し、以て己が功を誇る。官銭を用いて常平雑物を售り、還ってその直を取り、別貯羨銭と号し、因って以て上を罔す。辺軍乏しく、糧を稟せず、禍を疆場に召す、その事細ならず。陛下流言と為すを疑わば、何ぞ新利を以て延齢を召し、本末を質核し、中朝の臣を択びて辺資を按覆せしめざる。言者の謬らざるが如くんば、則ち邦国の務、宜しく其人に非ざるに委すべからず」と。疏奏すれど省みられず。
起居舎人に遷る。歳中、制誥を知ることを兼ね、中書舎人に進む。是の時に当たり、帝親しく庶政を攬り、除拜を重んじ、凡そ諸朝に命ずるは、皆手制を以て中下す。初め、徳輿制誥を知り、而して徐岱は給事中、高郢は舎人と為る。数歳を居るに、岱卒し、郢は礼部を知る。徳輿独り両省に直し、数旬にして一たび舎に還る。乃ち上書して言う、「左右掖垣は、天子の誥命を承け、奉行詳覆し、各攸司有り。旧制、曹を分ちて十員とし、以て相い防検す。大抵事壅塞する所有らば、則ち吏非為を得る。四方聞く者は、或いは朝廷を以て士乏しと為し、要重の司、久しく廃すべからず」と。帝曰く、「卿の労を知らざるに非ず、但だ卿の如き者を択むも未だ其人を得ざるのみ」と。久しくして、礼部貢挙を知り、真に侍郎を拝す。凡そ三歳、甄品詳諦し、得る所の士相継いで公卿・宰相と為る。明経を取るに初め員を限らず。
憲宗元和初、兵部侍郎を歴とし、累に坐し、太子賓客に徙り、俄かに前官に還る。時に沢潞の盧従史詐傲にして、浸く制せず。その父虔京師に卒し、而して成徳の王承宗父死して襲を求む。徳輿諫めて以てす、「山東を変ぜんと欲せば、先ず昭義の帥を択べし。従史は軍校より抜き、偃蹇として法に不法、今その喪に因り、守臣を選んでこれに代うべし。成徳の習俗既に久しく、当に漸を以て制すべし。成徳の請を許すは則ち可なり、昭義を許すは則ち不可なり」と。帝聴かず。王承宗叛するに及び、従史乃ち詭計を以て王師を撓し、兵老いて功無し。徳輿復た承宗を赦し、従史を徙すことを請う。後皆略ね所料の如し。
会に裴垍病み、徳輿太常卿より礼部尚書・同中書門下平章事を拝す。王鍔河中より朝に入り、宰相を兼ぬるを求む。李藩以て不可と為し、徳輿も亦奏す、「平章事は序進宜しく得るに非ず。方鎮の宰相を帯ぶるに比すれば、必ず大忠勛の若き有り、然らずんば強くして制せざる者、已むを得ずしてこれと与う。今鍔功無く、又姑息の時に非ず。一たびこの名を仮し、以て後人を開かば、不可なり」と。帝乃ち止む。
董溪・于臯謨は運糧使として軍興を盗み、嶺南に流す。帝その軽きを悔い、詔して中使に半道にてこれを殺さしむ。徳輿諫む、「溪ら方に山東に兵を用うるに、庫財を乾没し、死して責に償わず。陛下流斥の太だ軽きを以てす、当に臣等の繆誤を責め、その罪を審正し、明らかに詔書を下し、衆とともに棄つれば、則ち人人法を懼る。臣已に事は諍わざるを知る、然れども異時に或いはこの比有らば、要須有司の論報有り、一を罰して百を勧めば、孰か甘心せざらん」と。帝深くこれを然とす。嘗て政の寛猛孰れか先んずるかを問う。対えて曰く、「唐家は隋の苛虐を承け、仁厚を以て先と為す。太宗皇帝『明堂図』を見て、始めて鞭背を禁ず。列聖循う所は、皆徳教を尚ぶ。故に天宝の大盗窃に発し、俄かに夷滅す。蓋し本朝の化、人心を感ずること深きなり」と。帝曰く、「誠に公の言の如し」と。
徳輿は善く弁論し、古今の本末を開陳して、以て人主を覚悟せしむ。輔相と為り、寛和にして察察たる名を為さず。李吉甫再び政を秉る。帝又自ら李絳を用いて大機に参賛せしむ。是の時、帝治に切にして、事巨細悉く宰相を責む。吉甫・絳の議論能く持異無からず、帝の前に至りて遽に言い亟に弁ず。徳輿従容として敢えて軽重する所無く、これに坐して本官に罷む。検校吏部尚書を以て東都に留守し、扶風郡公に進む。于頔は子の人の殺すを以て、自ら囚われ、親戚敢えて門を過ぐる者莫く、朝廷請う者有ること無し。徳輿将に行かんとし、帝に言う、「頔の罪既に貸して竟わず、宜しく因って寛詔を賜うべし」と。帝曰く、「然り、卿吾が為に過ぎてこれを諭せ」と。復た太常卿を拝し、刑部尚書に徙る。
徳輿は三歳にして四声の変化を知り、四歳にして詩を賦すことができ、経術を思索し積み重ね、貫通し総合しないものはなかった。学び始めてから老いるまで、一日も書を離れて観ないことはなかった。嘗て論を著し、漢が亡びた所以を弁じ、西京(前漢)は張禹にあり、東京(後漢)は胡広にあるとし、その大旨は世に補うところがあった。その文は雅正で贍縟(豊かで華やか)であり、当時の公卿侯王で功徳卓異なる者は、皆その銘紀するところとなり、十に常に七八を占めた。動静に外飾はなかったが、その醞藉風流(含蓄と風雅)は、自然と慕うべきものがあった。貞元・元和の間、縉紳の羽儀(模範)と為った。
子に璩あり。
子の璩は、字を大圭といい、元和の初め、進士に擢でられた。監察御史を歴任し、美称があった。宰相李宗閔は父(権徳輿)の門生であったので、中書舎人に推薦した。時に李訓は寵を挟み、『周易』博士として翰林に在ったが、璩は舎人高元裕・給事中鄭粛・韓佽らと連章して、訓が陰巧を傾覆し、かつ国を乱すと劾奏し、禁中に出入りすべからざることを論じた。聞き入れられなかった。宗閔が貶せられると、璩は屡々上表して弁解し、閬州刺史に貶せられた。文宗はその母の病を憐れみ、鄭州に移した。李訓が誅せられた時、人は多く璩が禍福の大體を明らかにし、その家を世継ぐことができると称えた。
崔群
崔群は、字を敦詩といい、貝州武城の人である。冠せられざる前に進士に挙げられ、陸贄が貢挙を主るとき、梁粛がその公輔の才あることを推薦し、甲科に擢でられ、賢良方正に挙げられ、秘書省校書郎を授かった。累遷して右補闕・翰林学士・中書舎人となった。数々讜言を陳べ、憲宗は嘉んで受け入れ、因って学士に詔して「凡そ奏議は、群の署するを待って乃ち上ることができる」とした。群は「禁密の言は、人人自ら陳ぶべきであり、一旦故事と為れば、後或いは直を悪み正を醜くする者ありて、則ち他の学士は上言することが得られなくなるであろう」とし、固く辞譲したので、聞き入れられた。恵昭太子が薨じた。この時、遂王が嫡であり、而して澧王が長であったが、内助多くあった。帝は東宮を建てんとし、群に詔して澧王の為に譲表を作らせた。群は奏上して「およそ己が当に得べきものは則ち譲り、当に得べからざるものは、何ぞ譲るを用いん。今遂王は嫡なり、太子と為すべし」といった。帝はその議に従った。魏博の田季安が五千縑を以て開業仏祠の営造を助けようとしたが、群は名の無き献は受くべからずとし、詔してこれを退けた。戸部侍郎に進んだ。
処州刺史苗積が羨銭七百萬を進めたが、群はこれを受ければ天下に信を失うとして、請うてこれをその州に還賜し、以て下戸の賦を紓めしめんとした。この時、皇甫镈は利を言って帝に幸いし、陰に左右を藉りて宰相を求め、群は数々その佞邪にして用うべからざるを言った。既に入対し、開元・天宝の事に及ぶと、群は因ってその極みを推言して「安危は令を出すに在り、存亡は任ずる所に係る。昔、玄宗は少くして屯険を歴り、更に民間の疾苦に通じた。故に初め姚崇・宋璟・盧懐慎を得て道徳を以て輔け、蘇颋・李元纮は孜孜として正を守った。則ち開元は治と為った。その後、逸楽に安んじ、正士を遠ざけ、小人に昵した。故に宇文融は利を言うことを以て進み、李林甫・楊国忠は寵を怙みて邪を朋にした。則ち天宝は乱と為った。願わくは陛下開元を以て法と為し、天宝を以て戒めと為されんことを。これ社稷の福なり」といった。又言うに「世は禄山の反するを謂い、治乱分かるる時と為す。臣は張九齢を罷め、林甫を相とするを謂い、則ち治乱固より已に分かれたりと謂う」といった。左右は感動した。群は是を以て帝を諷したので、镈はこれを銜んだ。帝は遂に自ら镈を相とした。会に群臣が帝号を上るに及び、镈は兼ねて「孝徳」を用いんとしたが、群は独り「睿聖」有れば、則ち「孝徳」並びに現るると以為った。帝は聞いて楽しからず。会に度支が辺士に稟賜するに時を失い、物多く弊悪にわたり、李光顔は甚だ憂え、佩刀を引きて自決せんと欲するに至り、中外皆恐れた。镈は奏上して「辺鄙事無きに、乃ち群が鼓動し、直を買わんと欲し、怨みを天子に帰せんとす」といった。ここにおいて罷めて湖南観察使と為した。
穆宗が立つと、吏部侍郎として之を召し、労って「我が太子と為るは、卿の力なり」といった。群は「これは先帝の意にして、臣何の力か有らん。且つ陛下向に淮西節度使と為らるるや、臣起制草(詔書の草案を起す)し、その言に『能く南陽の牘を弁じ、允に東海の貴に符す』有り。先帝これを然とし、則ち伝付すること久し」といった。俄かに御史大夫を拝した。未だ幾ばくもなく、検校兵部尚書となり、武寧節度使を充てた。群はその副使王智興が士心を得るを以て、節度を仮するに若かずとし、上奏したが報いられなかった。智興が幽・鎮を討って還り、兵を藉りて群を逐うと、群は守を失い、左遷されて秘書監となり、分司東都した。華州刺史に改め、宣歙池観察使を歴任し、兵部尚書に進み、出でて荊南節度使と為り、召されて吏部尚書を拝した。卒す。年六十一。司空を贈られた。
賛に曰く、聖人は多難を畏れず、無難を畏る。何ぞや。多難の世は、人人慮りを長くし謀りを深くし、日々中に惕るるも、猶以て未だならずと為し、曰く「吾れ覆亡に暇あらず、又何を以てか安からん」と。故に能く天下を挙げて之を興に付す。これを畏るるなり。禍難已に平らぎ、上は恬らぎ下は嬉れ、施施として自如し、曰く「賢は得難し。賢無くとも、尚お治むべし。佞は去るべし。佞存るとも、遽には乱れじ」と。漏るるを視て填めず、傾くに忽ちにして支えず、偃然として自ら慰めて曰く「我何を以てか喪びん」と。故に能く天下を挙げて之を亡に付す。これを畏れざるなり。常人の畏るる所は、聖人はこれを易くす。畏れざる所は、聖人はこれを難くす。孝明皇帝(憲宗)を観るに、本中主なり。変に遭えば始めを謀るに与るべく、成を持するは終わりを共にすべからず。崔群が李林甫を相とすれば則ち治乱已に分かれたりと以為うは、その言信なるかな。是れ扁鵲の以て桓侯を誚る所以なり。