新唐書

巻一百六十四 列傳第八十九 歸崇敬子:登 孫:融 奚陟 崔衍 盧景亮附:王源中 薛蘋兄:芳 莘子:膺 えい次公子:洙 薛戎弟:放 胡證 丁公著 崔弘禮 崔玄亮 王質 殷侑孫:盈孫 王彥威

帰崇敬

帰崇敬、字は正礼、蘇州呉の人。礼の家学を修め、容儀典制に通暁し、明経に挙げられた。父の喪に遭い、孝行は郷里に聞こえた。国子直講に任ぜられる。天宝年中、博通墳典科に挙げられ、策問で第一となり、四門博士に遷った。詔して百里を宰つべき才を挙げよとあり、再び策問で高等となり、左拾遺を授けられた。粛宗が霊武に駐蹕すると、再び起居郎・賛善大夫・史館修撰・兼集賢殿校理に遷り、国史・儀注を修した。貧しさを理由に職を解くことを請うた。同州長史・潤州別駕を歴任した。間もなく、橋陵・建陵に祭祀があり、召還されて儀典の参掌を命ぜられた。主客員外郎に改め、再び修撰を兼ねた。

代宗が陝に行幸した際、得失を召し問われ、崇敬は極力「民衆が疲弊しているので、倹約をもって天下を教化すべきであり、そうすれば国は富み兵も用いることができる」と陳べた。当時、百官が朔望に朝参する際、皆袴褶を着用していたが、崇敬はこれを非とし、「三代から漢に至るまでその制度はなく、隋以来初めて着用する者がおり、古を稽えず、止めるべきである」と建言した。詔して可とされた。また言上して「東都の太廟に木主を置くのは妥当でない。『礼』によれば『虞主には桑を用い、練主には栗を用いる』とあり、栗主を作れば桑主を埋める。これは天に二日なく、土に二王なきが如しである。東都太廟は本来、武后が建てて諸武を祀ったものであり、中宗が主を除き廟を存置して、行幸や遷都の際の備えとしたのである。また、商は遷都するに前八後五であったが、必ずしも毎都ごとに別に神主を立てたわけではない。もし神主は一旦奉祀した以上、一日も廃することはできないというならば、桑主は虞祭に用い、練祭に至って埋めるのであり、明らかにそうではない」と。時に方士の巨彭祖が建言して「唐家は土徳であるから、四季の月に天地を郊祀すべきである」と言った。詔して礼官と儒者をして雑議させた。崇敬が議して「『礼』では立秋の先十八日に黄霊を迎え、黄帝を祀る。黄帝は五行では土に当たり、火は母であるから、火が用事を終える末にこれを祭り、三季の月には行わない。彭祖は緯候の説を引き、事は詭怪で経典に拠らず、用いるべからず」とした。また議して「五人帝は国家にとっては前後の関係にあり、君臣の義はない。天子が祭祀する際は臣と称すべきでなく、祭祀して臣と称するのは、天帝と異ならない」とした。また「春秋の釈奠で孔子を祀る際、祝版に皇帝が署名し、北面して揖するのは、あまりに重すぎる。武王が師尚父から丹書を受けた例に準じ、東面の礼を行うべきである」とした。事は皆施行された。

大暦初年、倉部郎中を授けられ、新羅への吊祭冊立使を充てられた。海路で風濤に遭い、船はほとんど破損し、人々は驚き、単舸に載せて逃れようと謀ったが、答えて「今、同じ船に数十百人がいる。どうして私一人だけが助かることができようか」と言った。しばらくして風が止んだ。これ以前、外国への使者は多く金帛を携え、その地にないものを買い求めたが、崇敬の囊橐には衾衣のみであり、東夷はその清徳を伝えた。帰還後、国子司業・兼集賢学士を授けられた。八年、衡山に遣わされて祭祀を行ったが、到着しないうちに哥舒晃が広州で乱を起こした。監察御史はこれを恐れ、望祀して帰還するよう請うたが、崇敬は正色して「君命にどうして畏れることがあろうか」と言い、遂に往った。

皇太子が国学に臨んで歯冑の礼を行おうとしたが、崇敬は学と官の名が共に正しくないとして、建議した。

古の天子の学を辟雍という。形から言えば、水を壅きて環らせ璧のようであり、意義から言えば、礼楽をもって天下を明らかに和するというのである。『礼』では沢宮といい、故に前世では璧池あるいは璧沼とも言い、また学省とも言う。漢の光武が明堂・辟雍・霊台を立てて「三雍宮」と号した。晋の武帝が辟雍に臨み郷飲酒の礼を行い、別に国子学を立てて士と庶を区別した。永嘉の際に南遷し、国子学のみとなった。隋の大業年中、国子監と改称した。今、声明の盛んなるに、辟雍のみが欠けており、国子監を辟雍省とすることを請う。祭酒・司業の名は、学官の宜しきものではない。業とは、栒虡の大版であり、今の学は楽を教えず、義に当たらない。祭酒を太師氏とし、位は三品、司業を左師・右師とし、位は四品とすることを請う。

近世の明経は、その義を課さず、先ず帖経を取り、専門を廃し業を絶ち、伝授して義は絶える。『礼記』・『左氏春秋』を大経とし、『周官』・『儀礼』・『毛詩』を中経とし、『尚書』・『周易』を小経とし、各博士一員を置くことを請う。『公羊』・『穀梁春秋』は共に一中経に準じ、通じて博士一員を置く。博士は『孝経』・『論語』に兼通し、章疏に依って講解する。德行純潔・文詞雅正・形容荘重で師表と為し得る者は、四品以上に委ねて各々知る所を挙げさせ、外に在る者は伝を与え、七十歳の者は安車蒲輪で敦遣する。国子・太学・四門の三館に、各々五経博士を立て、品秩・生徒に差等を設ける。旧来の博士・助教・直講・経直・律館・算館助教は、皆罷めることを請う。

教授の法。学生が師に謁する際、贄として腶脩一束・酒一壺・衫布一裁を用い、色は師の着る服と同じとする。師は中門より出て、迎え入れて座らせ、腶脩を割り酒を酌み、三爵で止める。そして篋を開き経を取り出し、衣を摳えて前に進み請う。師は経の大略を説き、その後室に就き、朝晩に益を請う。師は二時に堂上で道義を訓授し、文行忠信・孝悌睦友を示す。旬に省み、月に試し、時に考え、歳に貢ぎ、生徒の及第多少を以て博士の考課の上下と為す。教えに従わない者があれば、槚楚で懲らしめ、国子からは礼部に移し、太学生と為す。太学でも改めなければ、四門に移す。四門でも改めなければ、本州の学に移す。再び改めなければ、繇役は初めの如くにし、終身歯することなし。たとえ教えに従っても、九年学んで成らざる者も、また本州に帰す。

礼部の試験法。帖経を廃し、習う経から大義を二十問して十八を得、『論語』・『孝経』は十問して八を得るを通とし、策三道を、本経に対し、二つ通ずるを及第と為すことを請う。その孝行が郷里に聞こえる者は、挙解に具に言い、試験の日に義が一二欠けても、兼ねて収めることを許す。天下の郷貢もこれに同じ。習業考試は、皆明経を名とし、第を得て官を授かることは、進士と同じとする。

詔して尚書省に百官を集めて議させた。皆、習俗久しく、制度は分明にし難く、省禁は外司の名とすべきでなく、『周官』では世職の者を氏と称し、国学は世官ではないから、辟雍省・太師氏と名づけることはできないとした。大抵改作を憚り、故に施行する者はなかった。

史が稟給の銭を実の如くせざることに坐し、饒州司馬に貶せられた。徳宗が即位すると、召還され、再び国子司業に拝され、稍々遷って翰林学士・左散騎常侍さんきじょうじとなり、皇太子侍読を充て、また晋王元帥参謀を兼ね、餘姚郡公に封ぜられた。田悦・李納が命を稟くと、節を持ち宣慰し、旨に称した。上冢に帰ることを表し、寵賜として繒帛を賜り、儒生は栄えとした。工部尚書に遷り、仍って前職にあった。年老いて、兵部尚書を以て致仕した。卒す、年八十八、尚書左僕射を贈られ、諡して宣といった。論撰数十篇。子に登あり。

崇敬の子 登

登、字は沖之、継母に仕えて篤く孝行す。大暦年中、孝廉に挙げられて高第を得る。貞元初め、賢良に策問し、右拾遺となる。裴延齢は寵を得、徳宗遂に以て相たらんと欲す。右補闕熊執易疏を上りて之を論ず。登に示す。登容色を動かして曰く、「願わくは吾が名を竄せよ。雷霆の下、君独り処るは難し」と。故に同列に諫正する所あるも、輒ち聯署して回諱する所なし。右補闕・起居舎人に転ず。凡そ十五年、僚類其の下に出でて進趨し、自ら喜びて顕官を得るも、惟だ登と右拾遺蔣武は退然として権勢を遠ざけ、終に淹晚を以て概懐せず。兵部員外郎に遷る。

順宗皇太子たりし時、登父子侍読を為す。即位に及び、東宮の恩を以て超えて給事中に拝し、工部侍郎に遷り、復た皇太子・諸王の侍読となり、『龍楼箴』を献じて以て諷す。左散騎常侍に徙り、入朝して謝す。憲宗政の先ずる所を問う。登帝の叡にして断に果なるを知り、順に諫争を納るるを勧む。内外伝えて讜言と為す。後に国子祭酒事を判じ、工部尚書に進み、累ねて長洲県男に封ぜらる。卒す。年六十七。太子少師を贈られ、謚して憲と曰う。

登の性は温恕なり。家僮馬に踶かる。馬の足を笞折す。登知るも、責を加えず。金石不死の薬を遺る者有り。紿いて已に嘗むと曰う。登服して幾くんか死す。之を訊ねば、乃ち未だ之を嘗めざるなり。人皆怒るも、登慍らず。常に陸象先の為人を慕う。世も亦其の類たるを許すと云う。子融。

登の子 融

融、字は章之、元和年中、進士第に及第し、累ねて左拾遺に遷る。文宗に事えて翰林学士となり、進みて戸部侍郎に至る。開成初め、御史中丞に拝す。湖南観察使盧周仁、南方屡火を以て、羨銭億万を取って京師に進む。融劾奏して曰く、「天下一家、中外の財は皆陛下の府庫なり。周仁は小利を陳べ、異端を仮り、公に詔書に違ひ、私に徇ひて恩を希う。恐らくは海内之に效ひ、因縁して漁刻し、生人弊を受くれば、罪は周仁に始まらん。請う重く責め、進むる所を還し、貧民の租入に代えよ」と。詔従わず、銭を河陰院に置きて以て水旱に虞る。初め、戸部員外郎盧元中・左司員外郎戸部案を判ずる姚康、平糴官秦季元の絹六千匹を受け、乾没銭八千万を貸し、倶に嶺南尉に貶せらる。数年、金部員外郎韓益度支を判ず。子弟賕三百万を受け、未だ入らざるは半ばなり。帝融に問う、「益の犯す所は盧元中・姚康と孰れか甚だしき」と。対えて曰く、「元中等は枉くして庫銭を失い、益の坐する所は子弟の賄を受くるなり。事異なり法軽し」と。故に益は止だ梧州参軍に貶せらる。融京兆尹に遷る。李固言相と為り、之を悪み、秘書監に徙す。固言罷む。擢でて権に兵部侍郎を知る。歳の間、出でて山南西道節度使と為り、東川に徙る。還り、歴て兵部尚書、累ねて晋陵郡公に封ぜらる。

会昌後、儒臣少なく、朝廷の礼典多く融の議に本づく。疾を辞し、太子少傅を以て東都に分司す。大中七年、卒す。尚書左僕射を贈らる。

奚陟

奚陟、字は殷卿、其の先は譙亳より西に徙る。故に京兆人と為る。少しく志を篤くし、群書に通ず。大暦末、進士・文辞清麗科に擢でられ、弘文館校書郎を授かる。徳宗立ち、諫議大夫崔河図節を持ちて吐蕃に使す。表して陟を以て自ら副と為さんとす。親老を以て辞して拝せず。楊炎政を輔く。召して左拾遺を授く。親喪に居り、毀瘠礼を過ぐ。朱泚反す。間道を走りて車駕に及び興元に於いて、起居郎・翰林学士に拝す。職に就かず。賊平ぐ。太子司議郎に改め、金部・吏部員外を歴る。左右丞缺くるに会い、左司郎中に転ず。

貞元八年、中書舎人に遷る。是に於いて江南・淮西皆大水す。詔して陟に労問循慰せしむ。至る所人人便安す。中書の吏は宰相の勢に倚り、常に姑息す。独り陟之に遇うに仮借無し。先ず是に、右省雑給・氐職田稟、主事と拾遺等し。陟奉稍を以て率と為す。是に由りて吏官差有り。中書令李晟紙筆猥料省に積む。它日に以て舎人に遺すも、雑事舎人は常に私に之を有す。陟均しく舎寮に厚薄無し。細務と雖も、皆身其の労を親む。久しくして益々強力なり。人以て難しと為す。

刑部侍郎に遷る。京兆尹李充美政有り。裴延齢之を悪み、誣えて劾す、充陸贄に比し、数え金帛を遺すと。罪に当たるべし。又京兆銭六十八万緡を乾没す。請う比部に付して鉤校せしめよ。時に郎中崔元翰贄を怨み、延齢の指を揣り、逮系し搒掠甚だ急にし、内に険文を以てす。陟持平して上下する所無く、具獄を上り、且つ言う、「京兆銭は県館伝に給し、余は度支符を以て用度略く尽くす」と。充既に免る。元翰意を得ず、以て恚死す。

陟尋いで吏部選事を知り、侍郎に遷る。銭綜平允なり。時に謂う、李朝隠と略等しく、裴行儉・盧従願の如く清明を擿発する能わずと。十五年、癰に病む。帝医を遣わして療視せしめ、勅して曰く、「陟は賢臣なり。我が為に善く之を治めよ」と。卒す。年五十五。礼部尚書を贈らる。

陟少しく自ら底厲し、名節を著わす。常に権徳輿を薦めて起居舎人知制誥と為し、楊於陵を薦めて郎中と為す。其の後皆名有り。子敬玄、位は左補闕。

崔衍

崔衍、字は著、深州安平の人。父倫、字は叙、父喪に居り、跣て柩を護りて千里を行く。道路之が為に流涕す。廬冢弥年。服除け、進士第に及び、吏部員外郎を歴る。安禄山反す。賊に陥り、偽官に汚れず、子弟をして間を以て賊の事を表せしむ。賊平ぐ。下りて晋州長史に遷る。李斉物其の忠を訟え、長安ちょうあん令を授け、武邑県男に封ぜらる。宝応二年、右庶子を以て吐蕃に使す。虜約に背き、二歳を留め、倫を執いて涇州に至り、逼りて書を為して城中の降るを約せしむ。倫従わず。更に邏娑城に囚う。六歳を閲し、終に屈せず。乃ち還るを許す。代宗之を見て、感動嗚咽せり。即ち具に虜の情偽・山川の険易を陳べ、帝前を指画す。人其の詳なるを服す。尚書左丞に遷り、疾を以て太子賓客に改む。卒す。年七十一。工部尚書を贈られ、謚して敬と曰う。

衍、天宝末に明経に擢でられ、富平尉を調う。継母李は慈しまず。倫吐蕃より帰る。李は敝衣を以て見ゆ。故を問う。曰く、「衍吾に給せず」と。倫怒り、衍を召し、将に袒して之を鞭たんとす。衍涕泣して陳ぶる所無し。倫の弟殷趨りて白す、「衍の稟挙する所は夫人の所に送る。尚何をか云わん」と。倫悟る。繇りて譖入る無し。清源令を調う。民を勧めて田を力め、流亡を懐附す。観察使馬燧其の能を表し、美原に徙す。父卒す。李に事えて謹み、歳毎に李子郃の負を償うに勝計せず。故に刺史の官に在りて、妻子僅かに饑寒を免る。

蘇州・虢州の刺史を歴任した。虢州は陝州と華州の間に位置し、租税の収入は数倍に上るが、李衍はその負担が重すぎると上奏した。裴延齢が度支を管轄し、徴収に力を入れていた折、ひそかに李衍に言った、「前任の刺史は何も申し立てなかった。貴公もやめておくがよい」。李衍は聞き入れず、再び上奏した、「当州には険しい田が多く、また駅伝の要衝で、この数年は凶作が続き、民はことごとく流亡している。租額を減免しなければ、人々は生きる道がない。臣が思うに、地方長官の過ちは、旧習に従って上聞に達しないことにある。陛下が民を憂い憐れまないことを憂うるのではなく、申請が事実に基づかないことを憂うるのである。朝廷が哀れんで貸し与えないことを憂うるのではなく、陛下は臣を大州に抜擢なされたが、どうして民の困窮を見ながら顧みず、言わずにおられようか」。徳宗はその言を公平と認め、詔を下して度支に賦税を減らさせた。宣歙池観察使に転じ、簡素で静謐な治績は百姓に懐かれた。幕府が招聘した者には皆名士がおり、後に多くは世に顕れた。六十九歳で卒去し、工部尚書を追贈された。李衍は倹約して法を畏れ、家には妾媵もなく、俸禄は親族に行き渡り、葬埋や嫁娶に頼って救われた者は数十家に及んだ。死後、葬儀を整えることができず、朝廷に上表すると、賻として帛三百段とそれに見合う米粟を賜った。

先に、天下では進奉によって主君の恩寵を結びつけ、州の蔵は消耗し尽くしていたが、韋臯・劉贊・裴肅がその先駆けとなった。劉贊が死ぬと、李衍が後任となった。旧来の貢物である金錫は十八品目あり、すべて州で通常の倍の値段で買い上げられ、民は困窮し多くが逃亡していた。李衍が着任すると、これを廃止した。十年在任し、費用を節約したので、府庫は充実した。穆贊が州を代わった時、四十万緡の銭を民の賦税に貸し与えたため、旱魃があっても人は流亡せず、これは李衍の蓄積が平素からあったためである。路応が観察使となり、李衍に民への恩恵があることを言上した。元和元年、詔書で褒め称えられ、一子に官を賜ったという。謚は懿。

盧景亮

盧景亮、字は長晦、幽州范陽の人。幼くして孤となり、学んで覧ざるものなし。進士・宏辞に及第し、秘書郎を授かる。張延賞が荊南節度使となった時、枝江尉・掌書記に表挙された。入朝して右補闕に遷る。朱泚が反乱を起こすと、景亮は徳宗を諫めて言った、「陛下の罪己の詔が十分でなければ、人を深く感動させることはできません」。帝はこれを然りとした。景亮の志義は高く、多くは激しく発し、穆質と共に諫争の地位にあり、しばしば上書し、剛直で屈することがなかった。宰相李泌が景亮らを弾劾し、かつて衆会の席で上奏した言葉を漏らし、善は己に引き、悪があれば君に帰したと。帝は怒り、朗州司馬に貶し、穆質もまた斥けられ、二十年間抑圧された。憲宗の時に至り、和州別駕から召還され、再び中書舎人に遷った。

景亮は文章をよくし、忠仁を根底とし、国を治める志があった。かつて言った、「人君が食を足し兵を足し、しかも士を得れば、天下を為すことができる」。そこで軒轅・顓頊以来から唐代に至るまで、治道の要を抜き出し、上下篇の書を著し、『三足記』と号した。また『答問』を作り、漕運の大要を述べ、西戎の利害を陳べ、当世を痛切に指摘した。公卿はその古今に通じることを敬服した。元和初年に卒去し、礼部侍郎を追贈された。憲宗の時、直諫をもって知られた者に、

附 王源中

また王源中、字は正蒙。進士・宏辞に擢第し、累進して左補闕に至った。この時、宦官が禁兵を統率し、しばしば法を乱し、御史台や京兆府の吏属を捕らえて軍中に拘束した。源中が上言した、「台憲は紀綱の地であり、府県は責成の所である。吏に罪があるならば、すべからく有司に帰すべきで、北軍に南衙を乱させ、麾下を仗内より重んじさせてはなりません」。帝はこれを容れた。累転して戸部郎中・侍郎となり、翰林学士に抜擢され、承旨学士に進んだ。

源中は酒を嗜み、帝が召しても、酔って拝謁できなかった。醒めて後、その怠慢を憂えたが、進められなかったことを悔やまなかった。ある日、また同様のことがあり、ついに帝の意を失った。病気を理由に自ら申し出て、山南西道節度使として出向し、入朝して刑部侍郎を拝した。間もなく、天平節度使を兼ねた。開成三年に卒去し、尚書右僕射を追贈された。

源中は名利に淡泊で、身を率い人を治め、倹約で簡素であり、当時に称美された。

薛蘋

薛蘋、河中宝鼎の人。七世の祖道実は、隋の礼部尚書であった。父の順は奉天尉となり、楊国忠と旧知であったが、国忠が権力を握ると、引き立てようとしたが、つねに謝絶した。

薛蘋は吏治の最として長安令に任じられ、虢州刺史を歴任した。憲宗の時、治績最上と奏上され、湖南観察使に抜擢され、浙東に転じ、治行によって浙西に遷り、御史大夫を加えられ、累封して河東郡公となった。任地では法度を守り、人を安んずることを務めた。身を治めること質素で、着用した緑袍は十年を経て、緋衣になってようやく替えた。三鎮を治めたが、家に声楽の音は聞こえず、得た俸禄は即座に親族や故人に分け与え、余剰を蓄えることはなかった。左散騎常侍に除かれ、七十歳で致仕した。この時、薛蘋より年長で辞任を肯んじない者もいたので、論者は薛蘋を高く評価した。四年後、卒去し、工部尚書を追贈され、謚は宣。薛蘋は文章の中で詩を得意とした。

薛蘋の兄 芳

兄の芳は、器量と幹才があった。萊と莘は、その母が代宗の従母(母方のいとこ)であった。外戚として朝請に奉じ、ともに賛善大夫となった。

莘の子 膺

莘の子膺は、大和の初めに右補闕内供奉となった。その弟の齊は、興元の李絳の幕府に仕え、絳が害に遇うと、齊も難に死した。膺はこれを聞き、請う暇もなく馳せ赴き、哀しみは甚だしく、聞く者は涙を垂れた。後に工部員外郎を歴任した。

衞次公

衞次公、字は從周、河中河東の人である。進士に挙げられ、礼部侍郎の潘炎は彼を異とし、「国器なり」と言った。その第を高くした。渭南尉に調せられた。厳震が興元に在った時、その府の佐となるよう辟召した。累遷して殿中侍御史となった。貞元年中、左補闕・翰林学士に擢でられた。徳宗が崩御すると、鄭絪と共に金鑾殿に召し出された。時に皇太子は久しく疾を患い、禁中では更に立つべき者を議するという伝えもあり、衆は色を失った。次公は言った、「太子は久しく疾を患うといえども、冢嫡なり、内外の心の繫がる所久し。必ず已むを得ずば、宜しく広陵王を立てるべし」。絪がこれに賛同し、議は定まった。

順宗が立つと、王叔文らが権を握り、威柄を軽んじて弄んだが、次公と絪は多く正しきを保持した。礼部貢挙を掌り、華を斥け実を取って、権力の侵橈を受けなかった。中書舎人より史館修撰を充てられ、兵部侍郎に改まった。絪が宰相を罷められると、彼と善しとすることを坐し、下って太子賓客となった。久しくして陝・虢州観察使となり、横租銭歳三百万を蠲免した。再び入朝して兵部侍郎となった。故英公李勣、大理卿徐有功の孫が、皆負債のため調官を得られずにいた。次公は彼らを召し見て言った、「子の祖は、勲は王府に在り、常格に限らんや」。即ち優補して遣わした。尚書左丞に進んだ。時に蔡州を討つ最中であり、数度兵を罷むるよう請うた。帝は彼を相にしようとし、制稿が整ったところに蔡州の捷書が至ったため、追って止めた。検校工部尚書として淮南節度使となった。久しくして召還されたが、道中病を得て卒した。年六十六、太子少傅を贈られ、諡して敬といった。

次公は元来琴を善くしたが、未だ顕れざる時、京兆尹李齊運が子をして彼と交遊させ、法を授けんことを請うたが、次公は拒絶し、これにより終身再び鼓することはなかった。その節操と志尚は終始完うして潔かった。

次公の子 洙

子の洙は進士に挙げられ、臨真公主をめとり、検校秘書少監・駙馬都尉となった。文宗は言った、「洙は名家より起り、文をもって進む、宜しく諫官として寵遇すべし」。乃ち左拾遺とし、義成節度使を歴任した。咸通年中に卒した。

薛戎

薛戎、字は元夫、河中宝鼎の人である。毗陵の陽羨山に客居し、四十余歳まで仕えなかった。江西観察使李衡が幕府に辟召したが、三度返して初めて応じた。故宰相の齊映が衡に代わり、留めるよう奏上した。府が罷められると、再び陽羨に帰った。福建観察使柳冕がその府の佐となるよう辟召した。先に、馬総が鄭滑府に仕えていた時、監軍の宦官が誣って弾劾し、泉州別駕に貶した。冕は総を除いて幸家に附せんと欲し、即ち戎に刺史を摂行させ、その罪を按ずるよう命じた。戎は言った、「かくの如く我を待つか。我が初め仕えんと願わざるは、正に此の謂いなり」。肯んぜず、状を白状して還った。冕は怒り、案に拠って戎を引き入れようとした。戎は引く者を叱って言った、「賓客を見るに乃ちかくの如くするか」。東廂より進んだ。冕は屈せしめ得ぬと度り、揖して去り、他の館に囚え、兵を環らして脅し辱めた。累月に及んだが、戎は終に屈しなかった。淮南節度使杜佑がこれを聞き、書を以て冕を責めた。会うこと冕もまた病死し、解かれて、自ら江湖の間に放浪した。

再び藩府より交わって奏薦され、漸く河南令に遷った。吐突承璀が鎮州を討つ時、過ぐる所の官吏は迎えて廷に畏れ及ばず、道を治めて前駆したが、ただ戎の境内のみは故に按じて治め迎える所無かった。留府の卒で令を犯す者を縛って獄に置くと、留守は怒り、将を遣わして略出させようとしたが、与えなかった。累遷して浙東観察使となり、管下の州で酒禁に触れる者は罪当に死すべきであり、橘は未だ貢せざるに先んじて売る者は死すべきであったが、戎はその禁を弛めた。任地にて卒した。年七十五、左散騎常侍を贈られた。

戎は吏たりし時、約束や詭りて名誉を尚ばず、善きことがあれば、それを管下に帰した。故に官に居る時は灼灼として驚くべき者無かったが、罷めて後は人々に懐かれた。俸給を悉く奉じて内外の親族を赒済し、疎遠なる者無く皆これに帰した。病に罹ると、所有する物を分けて遺して言った、「我死せり、持って帰資とせよ」。衆は皆泣いて去った。

戎の弟 放

弟の放は、端厚にして寡言であった。進士に及第し、累擢して兵部郎中となった。穆宗が太子の時、侍読に拝され、即位すると、機命に参賛した。帝は言った、「小子新たに立ち、克く荷うことを懼る、先生宜しく相たりて、逮わざるを輔うべし」。放は叩頭して言った、「臣庸浅にして、大任を塵するに足らず、賢能自ら之を処する者有り」。帝はその誠を美とし、工部侍郎・集賢学士に進め、寵待は特に至った。刑部侍郎に改まった。

帝嘗て問うた、「朕経と史を学ばんと欲す、何れを先にすべきか」。放は言った、「『六経』は聖人の言、孔子の明らかにする所、天人の極なり。『史記しき』は成敗得失の道を説き、亦た以って鑑とすべきも、然れども是非に謬り、『六経』に比ぶるに非ず」。帝は言った、「学者白首にして一経を通ずる能わずと聞く、安んぞ其の要を得んや」。対えて言った、「『論語』は『六経』の菁華なり。『孝経』は人倫の本なり。漢の時『論語』は首に学官に立てらる。光武は虎賁士に皆『孝経』を習わしめ、玄宗は註訓を為す。蓋し人孝慈を知れば、則ち気和楽す」。帝は言った、「聖人以って孝を至徳要道と為す、信然なり」。終に江西観察使となり、諡して簡といった。

胡證

胡證は、字を啓中といい、河中河東の人である。進士に挙げられて及第し、渾瑊はその才能を賞賛し、また郷里の府として幕下に置くよう奏上した。殿中侍御史から韶州刺史となったが、母が老齢であることを理由に辞退し、太子舎人となった。さらに襄陽の于頔に従い、掌書記に任じられた。朝廷に入り戸部郎中となった。田弘正が魏博を帰順させた際、自らの副使を請うたので、詔により御史中丞を兼ね、弘正の副使となった。入朝して諫議大夫に遷った。

元和九年、党項がたびたび辺境を侵し、一方で単于都護府は武官の交代が頻繁で職務が廃れていたため、證は文官でありながら勇気があるとして選ばれ振武軍節度使に任じられた。赴任途中河中を通過したとき、趙宗儒が節度使であったが、州民として謁見し、郷里の人はこれを栄誉とした。四年在任し、召されて金吾大将軍に任じられ、また京西・京北巡辺使を兼ねた。

太和公主が回鶻に降嫁する際、検校工部尚書として和親使となった。旧制では、使者は私的な贈答の礼があり、県官が調達できないときは、富裕な者の子から使者に資金を納めさせて官位を授けていた。證は倹約して費用を削減し、官位売買の濫用を絶つよう請うた。漠南に至ると、虜(回鶻)が屈服させ脅そうとし、また使者は必ず胡服に着替えるべきだと言い、さらに公主に近道を急いで進むよう求めようとしたが、證は固く従わず、唐の官人としての礼儀を守り通し、ついに使命を辱めなかった。帰還し、工部侍郎に任じられ、京兆尹・左散騎常侍に改めた。宝暦初年、戸部尚書として度支を管轄するよう命じられたが固辞し、嶺南節度使に任じられた。死去、七十一歳。尚書右僕射を追贈された。

広州には船来の貝や珍しい宝物があり、證は財を厚く殖やして自らを養い、奴僕数百人を抱え、修行里に邸宅を営み、その広さは町並みにまで及び、車馬・衣服・器物は珍しく贅沢であったため、ついに京師の高額資産家と称された。平素より賈餗と親しかった。李訓が敗れると、禁衛軍がその財産を狙い、賈餗が證の家に匿われていると声高に言い立て、争って押し入り略奪し、その子の溵を捕らえて左神策軍に引き渡し、ついに斬って見せしめとした。

證は膂力が人並み外れていた。晉公裴度がまだ顕職でなかったとき、質素な服装で私的に酒を飲んでいて、武人たちに窘められた。證はこれを聞き、突然座に割り込み客の上座に座り、觥を取って三度一気に飲み干し、客は皆顔色を失った。そこで鉄の灯台を取り、枝葉部分を外し、台座部分をこすり合わせて合わせ、膝の上に横たえ、客に向かって言った、「私は酒令をしようと思う。飲み干さない者は、これで打つぞ!」一同は唯々とした。證は一度に数升を飲み干し、次に客に回したが、客は杯や杓をあちこちにこぼして飲み尽くせず、證が打とうとすると、悪少年たちは叩頭して退去を請い、證は彼らを皆追い出した。ゆえに当時の人はその侠気を称えた。

丁公著

丁公著は、字を平子といい、蘇州呉の人である。三歳で母を喪った。わずか七歳のとき、隣の老女が子を抱いているのを見て、哀しみに感じて食事を取らず、父の緒に請い、穀物を断って老子の道を学びたいと願い、父はこれを許した。やや成長すると、父が勉学に就くよう勧めた。明経科で高第に挙げられ、集賢校書郎に任じられたが、任期を満たさずして去り、家で父母に仕えて養った。父が死去すると、土を背負って墳墓を作り、容貌は力尽き痩せ衰え、見る者はその孝行のあまり死ぬのではないかと心配した。観察使薛蘋がその至高の行いを上表すると、詔により刺史が弔問し、粟帛を賜り、その里門に旌表を立てた。淮南節度使李吉甫が上表して太子文学を授け、兼ねて集賢校理とした。ちょうど吉甫が朝廷に入り政務を補佐することとなり、公著は右補闕に抜擢され、直学士に遷り、皇太子・諸王侍読を充てられ、そこで『太子諸王訓』十篇を著した。

穆宗が即位し、まだ政務を聴かないうちに、禁中に召し寄せ、統治の道理を条陳して諮問し、かつ宰相に登用することを許した。公著は固く辞退を陳べたので、給事中に抜擢し、工部侍郎に遷り、吏部選事を管轄した。公著は内心、帝が自分を進用しようとしていることを知っていたので、病気を理由に外職を求め、浙西観察使に遷任され、さらに河南尹に転じ、清静な政治で知られた。四度の遷転を経て礼部尚書・翰林侍講学士となった。長慶年中、浙東に災害と疫病が発生したため、観察使に任じられ、詔により米七万斛を賜り、飢饉救済に当たらせた。久しくして、朝廷に入り太常卿となった。太和年中、病気を理由に致仕して郷里に帰り、死去、六十四歳。尚書右僕射を追贈された。

公著は清廉・倹約して道を守り、官位が一階進むごとに、必ず憂いの色が顔に現れた。四十歳で妻を喪い、終生妾を置かなかった。死去したとき、天下の人が惜しんだ。

崔弘禮

崔弘禮は、字を従周といい、博陵の出身で、北齊の左僕射崔懷遠の六世孫である。磊落として大志を持ち、兵略に通じていた。宣武を訪れたとき、劉玄佐に従って夷門で狩りをした。玄佐が酒に酔い、顧みて言った、「崔生はただこの楽しみを知らないのか?」弘禮は笑って言った、「私はもともと武を好みます。公のために楽しみましょう。」玄佐は鷹を腕に載せて弘禮と駆け回り、緩急を自在に操り、一軍は驚いて言った、「どこからこの奇客が来たのか?」玄佐は大いに喜び、留めようとしたが、固く辞退し、多額の旅費を与えた。京師に至ると、親交のあった李観が病で死にかけていたので、弘禮は財を尽くして葬儀を整え、埋葬してから去った。

進士に及第し、平判で異等となった。霊武の李欒が判官に上表したが、親が老齢であることを理由に応じず、代わりに東都留守呂元膺の参謀に任じられた。当時天子が蔡州を討伐しており、李師道が洛陽らくようを襲撃しようと謀り、朝廷を脅迫して蔡州の危機を解かせようとしていた。弘禮は賊の情勢を探り、手配りと配置を設け、東都はついに危難がなかった。留守判官に遷り、忻州刺史・汾州刺史に抜擢された。田弘正が入朝を請うたとき、弘禮を衛州に転任させ、兼ねて魏博節度副使とするよう上表した。李師道を討伐する際、弘正は弘禮に多く諮問した。魏博に戻ると、また相州刺史とするよう上表した。

長慶初年、張弘靖が幽州を鎮守することとなり、詔により弘禮が副使として赴くことになった。行かないうちに、軍が乱を起こしたため、絳州刺史に改めた。李が汴州で反乱を起こすと、詔により河南尹に転じ、賊を防衛することを委ねられた。河陽節度使に遷り、河内の秦渠を整備し、千頃の田を灌漑し、年に八万斛を収穫した。華州刺史に転じ、さらに天平節度使に改めた。

李同捷が反乱を起こすと、李聽と合流してこれを討伐した。濮州に至ると、大将の李万瑀・劉寀が兵を擁して自らを固守していたので、弘禮は万瑀を沂州守備、寀を黄州守備とするよう上表し、その兵を奪い、禹城で賊を撃ち破り、鎧や装備数十万を獲得した。当時、徐泗節度使王智興が兗・海・鄆・曹・淄・青の各州で徐州方面に当たる者に檄を飛ばし、車五千乗を出させ、糧食を転送して軍に供給させたが、弘禮は道のりが遠いと判断し、自ら兗州で盲山の旧渠を開削し、黄隊から青丘に至らせ、軍の補給は大いに潤った。李祐が鄭滑の兵三千を率いて斉に入ったが潰走したので、弘禮は彼らを皆斬り、代わりに鄆州の兵二千を出させた。祐はついに賊を大破し、死体が十余里にわたって累々となり、祐は鄆州の方に向かって拝礼して言った、「私を生かしてくれたのは崔公である!」検校尚書左僕射を加えられ、東都留守に転じた。召還されたが、病気を理由に自ら乞い、刑部尚書に改め、再び留守となった。死去、六十五歳。司空しくうを追贈された。

弘禮は民を治めることは不得手で、若い頃は利益を愛することは少なかったが、晚年はかなり蓄財に務め、世間の評判はこれを非とした。

崔玄亮

崔玄亮、字は晦叔、磁州昭義の人。貞元初年、進士に及第し、累ねて諸鎮の幕府に署せられる。父の喪に服し、高郵に客居し、苫に臥して喪期を終える。地は湿潤であったため、痹病を得て、進取を楽しまず。元和初年、召されて監察御史となり、累転して駕部員外郎に至る。清廉にして慎み深く、孤高にして淡白なり。やがて密・歙二州刺史に遷る。歙州の民の馬牛が駒犢を生むと、官は蹄噭を籍録するため、故に吏が奸を為すを得たり。玄亮はその籍を焼き、一切問わず。民は山中に住み、租を輸納する者これを苦しむ。下命して斛を計りて銭を輸することを許す。民はその利に頼る。湖・曹二州を歴任し、曹州を辞して拝せず。大和四年、太常少卿より改めて諫議大夫となり、朝廷は宿望と推して、右散騎常侍を拝す。官に遷る毎に、輒ち譲るの色を形にす。

鄭注が宋申錫を構陷し、捕縛逮問は倉卒にして、内外震駭す。玄亮は諫官を率いて延英殿を叩き苦諫し、反復数百言す。文宗未だ諭さず。玄亮は笏を陛に置きて曰く、「孟軻に言有り、『衆人皆曰之を殺すべしと曰えども、未だ可ならず。卿大夫皆曰之を殺すべしと曰えども、未だ可ならず。天下皆曰之を殺すべしと曰う。然る後に之を察し、乃ち法に置く』と。今一凡庶を殺すに当たりて、典律を稽うべし。況や宰相を誅せんと欲するにおいてをや。臣は陛下の為に天下の法を惜しむ。申錫の為に言うに非ざるなり」と。俯伏して流涕す。帝感寤し、衆も亦た其の橈がざるに服す。此に由りて朝廷に名重し。頃くして、疾を移して東都に帰る。召されて虢州刺史となる。卒す。年六十六。礼部尚書を贈られる。

玄亮は晩年、黄老の清静術を好む。故に居官すること久からずして輒ち去る。遺言して曰く、「山東の士人は便近を利とし、皆両都に葬る。吾が族は未だ遷らず。当に滏陽に帰葬すべし。正に首丘の義なり」と。諸子命の如くす。

王質

王質、字は華卿。五世の祖通は隋の大儒なり。質は少にして孤、寿春に客居し、力を耕して母を養う。講学倦まず、諸生従いて業を受くる者甚だ衆し。年四十を逾え、偃蹇として進取の意無し。姻友苦しく仕を以て勧む。乃ち進士に挙げられ、甲科に中る。秘書省正字より累ねて帥府を佐け、五遷して侍御史となり、山南西道節度副使より再転して諫議大夫となる。宋申錫の罪を得るに及び、質は諫官と共に閣に伏し、文宗延英殿を開き召見す。泣涕して諫を陳ぶ。帝稍く寤り、申錫死せずを得る。宦豎に悪まれるを以て、出でて虢州刺史となる。李徳裕素より之を器とし、給事中・河南尹に擢で、宣歙観察使に徙す。卒す。年六十八。左散騎常侍を贈られ、謚して定と曰う。

質は清白にして畏慎、政を為すには必ず先ず風俗を究め、至る所に恵愛有り。徳裕と厚く善しとすと雖も、中立自ら将り、党を為さず。奏して幕府に署する者、河東の裴夷直・天水の趙皙・隴西の李行方・梁国の劉蕡の如きは、皆一時の選なりと云う。

殷侑

殷侑、陳州の人。幼より学に志有り、資産を治めず。長じて経術に通じ、道を講ずるを以て娯しみとす。貞元末、五経に及第す。其の学は『礼』に長ず。太常博士に擢でらる。元和八年、回鶻和親を請う。朝廷は費用の広劇を仰ぎ、期を以て紡がんと欲す。詔して侑・宗正少卿李孝誠をして回鶻に使わしむ。可汗甚だ驕り、甲兵を盛んに陳べ、使者を臣とせんと欲す。侑屈せず。已に命を伝う。虜其の倨を責め、留めて遣わさずと宣言す。衆色怖る。侑徐に曰く、「可汗は唐の婿なり。坐して使者を屈し拝せしめんと欲するは、乃ち可汗無礼なり。使臣の倨に非ざるなり」と。虜其の言を憚り、逼ることを敢えず。還りて、虞部員外郎に遷る。

王承宗叛く。侑を遣わし招諭す。承宗命を聴く。諫議大夫に進む。侑朝廷の治乱得失を論ず。前後凡そ八十四通。語切なるを以て、出でて桂管観察使となる。宝暦元年、江西に徙す。至る所に潔廉を以て称せらる。入りて衛尉卿となる。

文宗即位す。李同捷叛き、而して王廷湊陰に唇歯と為り、兵久しく解けず。詔して五品以上の官に尚書省に議わしむ。帝鋭く賊を討たんと欲す。群臣敢えて異論する者無し。独り侑、廷湊を捨てて専ら同捷に事えんことを請い、且つ言う、「願わくは宗社の安危を計いとし、善く師して攻心を武と為し、垢を含みて人を安んずるを遠図と為し、網漏れて舟を吞むを至誡と為さんことを」と。帝納れず。然れども内に嘉尚す。

同捷平ぐ。侑嘗て滄州行軍司馬為りしを以て、遂に義昌軍節度使を拝す。時に痍荒の余り、骸骨野を蔽い、墟裏荊棘を生ず。侑単身之に官し、足を安んじ粗淡にし、下と共に労苦し、仁恵を以て治む。歳中、流戸繈属して還り、遂に営田を為し、耕牛三万を丐う。詔して度支に帛四万匹を賜い、其の市を佐けしむ。初め、州兵三万、度支の稟を仰ぐ。侑の至りて一歳、自ら賦入を以て其の半を贍い、二歳則ち用を周う。乃ち奏して度支の賜う所を罷む。戸口滋に饒け、廥儲盈ちて腐る。上下便安し、石を立て政を紀さんことを請う。労を以て検校吏部尚書を加う。

六年、天平節度に徙す。李師道の乱より以来、朝廷三鎮を析くと雖も、然れども反側を安んずるを務め、賦入尽く軍資と為り、王府に輸する者無し。侑、餉軍に贏有るを以て、当に上送官すべしとし、乃ち経費を裁制し、歳に銭十五万緡・粟五万石を以て有司に帰す。検校尚書右僕射を加う。御史大夫温造、侑を劾して制に違い、民に擅に賦斂して無名の献を為すとす。詔して庾承宣を以て代えて還らしむ。会うに濮州掾崔元武、吏の賂を受け、又た属邑の奉銭を率い、私馬の估を増して官に售り、三罪を疊ねて絹百二十匹を計る。大理は私馬に入るるを一重とし、三官を削る。刑部覆訊して流に当たるとす。未だ決せず。侑奏す、「三犯同じからず。重きに坐す。律に、頻りに贓する者は累ねて論ず。元武の犯す所は皆枉法、死に当たる」と。詔して覆訊を用い、元武を賀州に流す。帝侑の法を守るを嘉し、刑部尚書に進む。造の奏する所直ならざるを以て、復用いて天平節度と為す。

開成元年、再び召されて刑部尚書と為る。時に李訓・鄭注已に誅せらる。帝侑に治安の術を問う。侑言う、「朝廷宜しく耆徳を任ずべし。軽く新進を用うる毋かれ」と。帝之を善しとし、彩三百匹を賜う。初め、塩鉄度支使の属官悉く罪人を以て在所の獄に系するを得、或いは私かに牢院を置く。而して州県聞知せず。歳千百数、時に決せず。侑奏して、州県に許して系する所を糾列せしめ、本道観察使に申し、並びに獄を具えて上聞せしむ。之を許す。黄金十斤を賜い、以て直言に酬う。

涇原節度使朱叔夜、士卒を侵牟するに坐し、贓数万、家に兵器を畜え、罷めて左武衛大將軍と為る。侑其の罪を薄くす。天子是に由りて之を疏んず。叔夜に死を賜い、侑を出でて山南東道節度使と為す。兵を減ずるに先だち論啓せざるに坐し、左遷して太子賓客、東都に分司す。俄かに忠武節度を領す。卒す。年七十二。司空を贈られる。

侑は経術をもって進み、事に臨んで鋭敏にして、強直の名あり。晩節に内に臺輔を冀ひ、稍く交結を務むるも、素望稍く衰ふ。孫に盈孫あり。

侑の孫 盈孫

盈孫は、廣明の初め、成都諸曹參軍となす。僖宗しょくに至り、礼学あるを聞き、擢て太常博士とす。光啓三年、帝将に京に還らんとす。而して七廟焚殘し、告享する所なし。盈孫宰相に白す、「始め乗輿西す。有司神主を尽く載せて以て行く。鄠に至り、悉く盗に奪はる。今天子宮に還る。宜しく先づ其の礼を具ふべし。」宰相建言す、宗廟を脩復するは、功費廣し。礼官と議せんことを請ふ。時に佗の博士在らず、独り盈孫従ひ、議して曰く、「故廟十一室、二十三楹、楹十一梁、垣墉の廣袤之に称す。今朝廷多難、宜しく礼を少しく変ずべし。按ずるに至徳の時、神主を長安殿に作り、饗告すること宗廟の如し。廟成りて乃ち祔す。今正衙の外に佗の殿なし。伏して詔旨を聞く、少府監を以て太廟に寓すと。請ふ、因りて増完して十一室と為し、其の三太后廟は、権りに西南の夾廡に舎し、廟の成るを須ちて遷すを議ぜん。」詔して可とす。是より神主・楽縣は、皆創定する所と為り、旧学の礼家其の議に当る。

龍紀元年、昭宗郊祠す。両中尉及び樞密皆宰相の服を以て上に侍す。盈孫奏言す、「先世の典令に、内官の朝服を以て祠に侍する無し。必ず之を欲せば、当に摂する所の資品に随ふべし。授くるところ無きと雖も、猶僭逼を免る。」詔して可とす。時に喪乱の後、制度雕紊し、容典を追補するは、皆盈孫の折衷する所なり。終に大理卿に至り、吏部尚書を贈らる。

王彥威

王彥威、其の先は太原より出づ。少くして孤、家に資無く、自ら力を学に致す。明経甲科に挙げらる。古今の典禮に淹識す。調を得ずして、太常の散吏たらんことを求め、卿其の経生なるを知り、検討官を補す。彥威隋より以来下り唐に訖る凡そ礼の沿革を采獲し、皆条次し匯分して、号して《元和新禮》とし、之を上る。詔有りて博士を拝す。

憲宗正月に崩ず。有司葬に十二月下宿を用ふるを議す。彥威建言す、「天子の葬は七月、《春秋》の義なり。崩を誌して葬を誌さず、必ず其の時なり。天下を挙げて一人を葬る、故に期を過ぎて葬らざれば則ち之を譏る。高祖こうそ・中宗の葬は皆六月、太宗四月、高宗九月、睿・代二宗は皆五月、徳宗十月、順宗七月、惟だ玄・肅二宗は皆十二月、為す有るを以て之を為す、常典に非ざるなり。且つ葬畢りて而ち虞、虞して而ち卒哭、卒哭して而ち祔、皆日を卜す。今葬歳暮を卜すれば、則ち畢祔は明年の正月に在り、是れ改元慶賜皆廃せらる。」詔有りて更に五月を用ふ。

淮南の李夷簡上言す、「大行皇帝功高し、宜しく祖と称すべし。」穆宗其の議を下す。彥威奏す、「古者は始封を太祖と為し、太祖より降りて、則ち又功有るを祖とし、徳有るを宗とす。故に夏人は顓頊を祖とし禹を宗とし、商人は契を祖とし湯を宗とし、周人は文王を祖とし武王を宗とす。魏晉より下、務めて美を推さんと欲し、始祖の外より並びに列祖の議を建つ、叔世の乱象、以て訓と為すべからず。唐は本づく周礼に、景皇帝を以て太祖と為し、神堯を祖とし太宗を宗とし、高宗より後は咸に宗と称し、以て成法と為す。然らずんば、太宗は升平を致し、玄宗は内難を清め、肅宗は両都を収復す、皆撥乱反正す、猶祖と称せず。今当に三代の制に本づき、魏晉の乱法を黜け、大行の廟号は宜しく宗と称すべし。」制して可とす。又旧事、廟に祔するは必ず太極殿に告げ、然る後に主を奉りて廟に入る。事既に畢れば則ち已む。而るに有司主を祔し畢り、又還りて太極殿に告ぐ。彥威以て不可と為す。執政怒り、祝辞誤るに坐し、二季の俸を奪ひ、一階を削る。彥威終に回屈せず。後累りて司封郎中・弘文館学士・諫議大夫に擢でらる。

李師道既に平ぐ。其の十二州の賦法未だ均しからず。詔して彥威を勘定両税使と為し、差量纖悉にして、人煩はれず。還りて、史館修撰を兼ぬ。

興平の民上官興人を殺して亡命す。吏其の父を囚ふ。興聞き、自ら首して罪を請ふ。京兆尹杜悰・御史中丞宇文鼎、自ら帰り死して父の囚を免るを以て、風俗を勧むべしとし、死を減ずるを議す。彥威上言す、「人を殺す者は死す、百王の共に守る所なり。原して殺さざれば、是れ人を殺すを教ふるなり。」詔有りて死を貸す。彥威宰相に詣り法に拠りて争論す。下遷して河南少尹と為す。俄に司農卿に改む。

李宗閔執政たり。雅く之を善くし、進めて平盧節度使に拝す。開成初め、召されて戸部侍郎と為り、度支を判す。彥威儒学に固より該邃、亦吏事に善くす。但だ財用を経総し、米塩を出入するは、其の長とする所に非ざるなり。而して性剛訐にして自ら恃み、嘗て文宗に見え、顕かに奏して曰く、「百口の家歳計有るを知る。而して軍用一切謹まざる可けんや。臣見財を按じ、入を量りて以て出と為し、色に随ひて費を占め、歳を終へて之を用ひ、毫厘の差無し。仮令臣一旦に迷愚にして、自ら欺き没せんと欲するも、亦得べからず。」因りて《占頟圖》を上る。又言ふ、「至徳より元和に訖る、天下に観察する者十、節度する者二十有九、防禦する者四、経略する者三、大都通邑皆兵有り。凡そ八十余万。長慶籍戸三百五十万、而して兵は乃ち九十九万、率三戸一兵を資す。今天下の入を挙ぐるに、歳三千五百万、上供する者は其の三の一、又三の二は則ち衣賜仰ぎ給ふ。留州留使を除く外、余四十万の衆は、皆度支に仰ぐ。」又《供軍圖》を作りて之を上る。彥威自ら謂ふ、奸冒を楗柅し、其の費を著定すと。利害に益無きなり。

初め、神策軍多く稟縑を以て度支に直を取る。吏私に賈を増して厚く之を与ふ。経用益々耗す。開成初め、詔有りて禁止す。時に宦者仇士良・魚弘誌方に用事す。彥威乃ち奏して復た直を与へ、士良等に悦媚す。又王播に效ひ羨贏を貢して以て速進を冀ふ。会ふに辺兵賜ふ所の時ならざるを訴へ、縑皆敝悪なり。吏を摂して臺獄に送る。而して彥威事を視ること自如たり。詔して務を停むるに及び、始めて惶恐して第に就く。衛尉卿に貶せらる。

俄に礼部尚書を検校し、忠武節度使と為る。山房三千余所を毀ち、盗容るる所無し。節を徙めて宣武と為り、北海県子を封ぜらる。性强敏にして、善く書を著し、頗る時に行はる。卒し、尚書右僕射を贈らる。謚して靖と曰ふ。

贊して曰く、韓愈称す、「郡邑通じて社稷・孔子を祀るを得。独り孔子は王者の事を用ひ、門人を以て配と為し、天子以下、北面して拜跪薦祭し、礼親弟子の如し。句龍・棄は功を以てし、孔子は則ち徳を以てす。固より自ら次第有り。」崇敬乃ち東揖を請ふ。以て殺太重し。是の時に方り、公卿韓愈の賢無く、其の非是を折る者有らず。道州刺史薛伯高嘗て謂ふ、「夫子顏回を庶幾と称す。其の陳・蔡に従ふ者も、亦各号有り。一時に出づ。後世坐して十人を祀りて以て哲と為す。豈夫子の志ならんや。」七十子の賢を観るに、十人に加ふる無し。坐して之を祀るは、開元に始まる。特に一時の称号に牽かるるに非ず。《記》に曰く、「祭は、其れ之を挙ぐる有らば、敢へて廃する莫し。」崇敬の誠に礼を知らざるが如きは、君を尊び以て世に媚び、歴朝循りて改めざるなり。伯高の語は、柳宗元其の書に之を誌す。必ず其の妄を辨する者有らん。