新唐書

巻一百六十三 列傳第八十八 孔穆崔柳楊馬

孔巢父

孔巢父、字は弱翁、孔子の三十七世孫なり。少くして學に力を入れ、徂來山に隱棲す。永王璘江淮に兵を稱するや、幕府に辟署せられしも應ぜず、民伍に跡をけずる。璘敗れて、名を知られたり。廣德中、李季卿江淮を宣撫し、左衛兵曹參軍に薦む。三遷して庫部員外郎となる。出でて涇原行軍司馬となる。累遷して湖南觀察使に拜せられしも、未だ行かず、會に普王荊襄副元帥となるや、行軍司馬を署す。俄にして德宗奉天に狩す。行在にて給事中に擢でられ、河中・陝・華招討使となり、累ねて賊を破る方略を上る。帝嘉して納る。

未だ幾もせず、御史大夫を兼ね、魏博宣慰使となる。巢父辯才あり、田悅に見え、之と君臣の大義、利害逆順を言ひ、其の眾を開曉す。是の時、悅久しく臣たらず、下皆亂を厭ひ、雜然として喜びて曰く、「圖らず今日また王人と爲らんとは!」酒中、悅起ち、自ら騎射の工なるを陳べて曰く、「陛下用ひ見えば、何の敵か摧かざらん!」巢父曰く、「若し爾りせば、蚤く自ら歸せずして、乃ち一の劇賊のみ。」悅曰く、「劇賊と爲り得ば、豈に功臣と爲り得ざらんや?」巢父曰く、「國方に虞多し、子を待ちて息まん。」悅謝す。數日、田緒悅を殺し、大將邢曹俊等と命を聽く。巢父即ち緒をして權に軍務を知らしめ、其の難をゆるむ。

李懷光河中に據る。帝復た巢父をして宣慰せしめ、其の兵を罷め、太子太保を以て之を授けしむ。懷光素服して命を待つ。巢父止めず。眾忿然として曰く、「太尉官無し!」詔を宣するに方りて、乃ち噪きて合ひ、巢父を害し、並びに中人啖守盈を殺す。初め、巢父至るに、懷光其の魏博に使して田悅死せしを以て、其の謀巢父に出づるを疑ひ、故に軍亂して肯へて救はざりき。帝聞き震悼し、尚書左僕射を贈り、謚して忠と曰ふ。詔して禮を具へて收葬せしめ、其の家に粟帛を賜ひ、存恤す。

從子戣・戡・戢。

從子 戣

戣、字は君嚴、進士第に擢でらる。鄭滑盧群判官に辟す。群卒して、揔留務を攝る。監軍楊誌謙雅より自らほしいままにす。眾皆恐る。戣誌謙を邀けて府に至らしめ、對榻して臥起し、疑はざるを示す。誌謙嚴憚して敢へて動かず。入りて侍御史となり、累擢して諫議大夫となる。四事を條上す。一、冗官多し。二、吏法を奉ぜず。三、百姓田盡く墾せず。四、山澤榷酤州縣の弊と爲る。憲宗其の言を異とす。中人劉希光賕二十萬緡を受けて死に抵る。吐突承璀厚く善しと坐し、逐はれて淮南監軍と爲る。太子舍人李涉帝の意を知り、匭に投じて上言し、承璀功有り棄つ可からずとす。戣副章を得て肯へて受けず、面質して之を讓る。涉更に左右に因りて聞こしめす。戣劾奏して涉近幸に結び、上聽を營罔すとす。詔有りて涉を峽州司馬に斥く。宦寵側目し、人爲に危ふむ。戣自ら適に所誌に適ふを以てし、軒軒として甚だ得たり。

俄かに太子侍讀を兼ね、給事中に改む。江西觀察使李少和贓に坐し、獄寢みて下さず。博陵崔易簡從父兄を殺す。鞫狀具はる。京兆尹之を左右し、其の情を翻す。戣慷慨として論正し、少和を貶し、易簡を殺し、尹の三月の俸を奪ふ。再遷して尚書左丞となる。信州刺史李位黃老道を好み、數へて祠禱す。部將韋嶽位方士を集めて不軌を圖ると告ぐ。監軍高重謙急變を上り、位を捕へて禁中に劾す。戣奏す、「刺史罪有りと雖も、仗内にとらふるを容れず。請ふ有司に付せん。」詔して御史臺に還す。戣三司と雜治し、反狀無し。嶽誣罔に坐して誅せられ、位は建州司馬に貶せらる。中人愈いよいよ怒り、故に出でて華州刺史と爲る。明州歲に淡菜蚶蛤の屬を貢す。戣以爲く、海より京師に抵るまで、道路の役凡そ四十三萬人、と。奏して之を罷む。歷て大理卿・國子祭酒となる。

會に嶺南節度使崔詠死す。帝裴度に謂ひて曰く、「嘗て蚶菜を罷むるを論ぜし者は誰ぞや。今安在ぞ。是往く可く、朕が爲に之を求めよ。」度戣を以て對ふ。即ち嶺南節度使に拜す。既に至りて、屬州の逋負十八萬緡・米八萬斛・黃金稅歲八百兩を免ず。先づ是れ、屬刺史の俸率ねて三萬、又時に給はらず、皆部中より取りて自ら衣食す。戣乃ち其の俸を倍し、約して貪暴を爲すを得ざらしめ、稍く法を以て之を繩す。南方口をひさぎて貨と爲し、人を掠めて奴婢とす。戣峻きびしく之が禁を爲す。親吏道に於て嬰兒を得て、收めて之を育つ。戣死を以て論ず。是より閭裏相約して敢へて犯さず。士の南に斥けられて北歸する能はざる者と罪有りの後百餘族、才用ふるに足れば之を用ひ、のべる無き者あれば告げ、女子は爲に嫁して遣る。蕃舶步に泊するに下碇稅有り、始めて至るに閱貨宴有り。餉る所の犀琲、下りて仆隸に及ぶ。戣禁絕し、求索する所無し。舊制、海商死する者は、官其の資をり、三月を滿て妻子府に詣らざれば、則ち沒入す。戣以爲く、海道歲一往復す。苟くも驗する者有らば限と爲さず、と。悉く推し與ふ。

貞元中より、黃洞諸蠻叛し、久しく平らかならず。容・桂二管虜掠を利とし、幸ひ有功を有りて、乃ち合兵して之を討たんことを請ふ。戣固より言ひて不可とす。帝聽かず、大いに江・湖の兵を發し、會して二管入りて討つ。士瘴毒に被りて死する者數に勝へず。安南之に乘じ、都護李象古を殺す。而して桂管裴行立・容管陽旻皆功無く、憂ひて死す。獨り戣一旦の功を邀へず、交・廣晏然として大いに治まる。

穆宗立ち、吏部侍郎を以て召し、右散騎常侍さんきじょうじに改め、還りて左丞と爲り、老を以て自ら乞ふ。雅く韓愈に善し。謂ひて曰く、「公尚ほ壯し。上三たび留む。何ぞ去るの果なる。」戣曰く、「吾豈に君を要せんとする者ならんや。吾が年、一たび去るに宜し。吾左丞として、郎官を進退すること能はざるは、二たび去るに宜し。」愈曰く、「公留資無し。何を恃みて歸らん。」曰く、「吾二宜去を負ふ。尚奚ぞ子の言を顧みん。」愈嗟嘆し、即ち上疏して言ふ、「臣戣と南省に同じくし、數へて戣と相見る。其の人節を守り清苦、論議正平なり。年七十、筋力耳目未だ衰へず。國を憂ひ家を忘れ、用意至到なり。戣の輩の如き、朝に在りて三數人に過ぎず。陛下宜しく苟くも其の求に順ひ、留めて自助せしめざるべからず。禮に、大夫七十にして事を致す。若し謝するを得ざれば、則ち之に幾杖安車を賜ふ。必ずしも七十を盡くして事を致すを許さず。今戣禮に據りて退かんことを求む。陛下若し聽許せざれば、亦た義を傷はずして、而して賢を貪るの美有らん。」報へず。禮部尚書を以て致仕し、歲に羊酒を致すこと漢の征士の禮の如し。卒す。年七十三。兵部尚書を贈り、謚して貞と曰ふ。

子 遵孺

子遵孺、溫裕、仕へて天平節度使と爲る。遵孺の子緯。

遵孺子 緯

孔緯は字を化文といい、幼くして孤児となり、諸父に身を寄せた。多く名ある者と交遊し、才誉は早くから成った。進士に擢第し、東川の崔慎由が幕府に置くよう上表した。崔鉉に従って淮南に赴き、また慎由に従って河中を守り、再び観察判官に遷った。宰相楊収が長安ちょうあん尉・直弘文館として推薦した。監察御史に遷り、礼部員外郎・兼集賢直学士に進んだ。母の喪で解官した。還って右司員外郎となった。趙隠がその才能を言上し、翰林学士に拝され、まもなく知制誥を掌った。頻りに戸部侍郎に遷り、御史中丞に擢でられた。孔緯は方正高雅で、悪を憎むこと仇の如く、朝廷内外その風聞に接し、未だ糾さずとも粛然とした。三たび吏部侍郎に遷った。権要の私謁が机に満ちるほどに至ったが、一切省みず、当路の者を悦ばせず、太常卿に改められた。

僖宗に従って西のかたしょくに到り、刑部尚書として戸部を判じた。蕭遘は元より好まず、調度を給せざるに坐し、太子少保に改められた。帝が朱玫を避けて陳倉に次いだ時、黄門衛士数百のみが乗輿を扈従した。詔して孔緯を御史大夫に拝し、百官を行在に趣かせよと命じた。時に群臣は盩厔に野宿し、盗賊に掠奪脅迫され、衣囊ほぼ尽きた。孔緯が宰相に謁し、論じようとしたところ、蕭遘と裴澈は田令孜を怨み、行きたくなく、辞して会わなかった。孔緯は御史を召して言った、「我らは恩を被り、義として難を辞さず。今詔して群臣皆至らず。人と布衣の交わりをなすも、猶お緩急相い恤む、況や君においておや?」と。かつ涙を流した。御史もまた方や寇奪に遭い、衣食を乞い、一日分の費用を調えてから行くよう請うた。孔緯は言った、「我が妻は病に臥し、旦暮に尽きんとす。丈夫たるもの、豈に家事を以て国事の後とせんや?公は善く自ら謀れ、我は行くことを決す」と。往って李昌符に見えて言った、「詔書再び至るも、群臣顧みて未だ行かず。仆、大夫なり、敢えて後れず。兵を仮りて天子の御所に護送せんことを願う」と。昌符は資装を具えてこれを送った。既に行在に及ぶと、孔緯は朱玫必ず反すと策し、関邑は狭隘にして六師を駐めるに足らずと建言し、梁州に幸するよう請うた。即日に陳倉を去ると朱玫の兵が至り、微かに孔緯の言わなければ幾らかも脱せざるところであった。兵部侍郎・同中書門下平章事に進拝された。朱玫が平らぎ、帝に従って還り、諸道塩鉄転運使を領し、累遷して尚書左仆射となり、「持危啓運保乂功臣」の号を賜った。鉄券恕十死を賜い、また天興の良田・善和里の邸宅各一区を賜り、兼京畿営田使となった。

昭宗が即位すると、司空しくうに進んだ。太学が焼けて残欠となったため、兼国子祭酒としてこれを完治した。司徒しとを加えられ、魯国公に封ぜられた。帝が郊祀に臨まんとした時、中尉枢密使が宰相の朝服を求め、有司が中人に衣冠を着けて助祭する事なしと申し上げると、中尉は怒り、礼官に必ず得させよと責めた。孔緯は言った、「中人が朝服せざるは、国の典制なり。陛下仮借せんと欲せば、則ち兼ねる官を以て之が服と為すことを請う」と。諫官が固く執したので、帝は召して謂いて言った、「方に大礼を挙げんとす、我がために之を容れよ」と。太保を兼ねて進んだ。時に天武都頭李順節は、粗野暴戻の者で、浙西節度使兼平章事となった。台史が申し上げた、「既に謝恩し、当に班を立てて百官に見ゆべし」と。孔緯は判してこれを止めた。明日、順節が盛服して至ると、則ち班無く、怏怏として去った。他日孔緯に見え、以て言うと、孔緯は言った、「固より公の見望を疑う。且つ百辟卿士は、天子の廷臣、宰相に班見するは、宰相を以て之が長と為す。公は天武の健児を提げ、堂に拠って礼を受く、安からんや?必ず之を用いんと欲せば、都頭を去らば乃ち可なり」と。順節は慚縮して敢えて言わなかった。

張濬が太原を伐たんとした時、帝は決せず、孔緯に問うと、孔緯は張濬を助けて請うた。既に張濬が敗れると、傅会に坐し、荊南節度使に出され、まもなく均州刺史に貶ぜられた。二人は密かに朱全忠と結び、全忠が請うたので、詔して便に従うことを聴し、乃ち華陰に屏居した。李茂貞が入って韋昭度を殺すと、帝は大臣が朋比し、藩臣と交わることを悪み、改めて孔緯を朝に召し入れ、再び吏部尚書に擢で、司空・門下侍郎として復た政を輔けさせた。使者が敦促し、病を押して京師に到り、帝に謁して嗚咽流涕し、衰疾を陳べて事に任じず、田里に帰ることを乞うた。帝は動容し、詔して使者に孔緯を送り堂に至らせて事を視させた。天子が石門に出て次いだのに従い、莎城に至り、病を以て都に還った。家人が医を召して視させると、孔緯は言った、「天下方に乱る、何ぞ久しく生を求めん?」と。薬を服することを肯ぜず、卒した。太尉を贈られた。

従子 孔戡

孔戡は字を勝始といい、進士及第し、修武尉に補され、大理評事として昭義李長栄の節度府を佐けた。長栄が死ぬと、盧従史が別将としてこれに代わり、留めて掌書記に署した。従史は稍々志を得て、益々驕り、王承宗・田緒と陰に相結び、久しく兵を連ねて以て其の位を固めんとした。孔戡は初め陰に争って従わず、則ち会合の席で肆言してこれを折った。従史は初め其の言を受けるが如く、後には偃蹇として軌に従わず、孔戡は遂に疾を以て洛陽らくように帰った。未だ幾ばくもせず、李吉甫が揚州を鎮めると、表して幕府に置かんとしたが、孔戡は応じなかった。従史は言った、「是れ我を捨てて人に従わんと欲するか?」と。即ち事を誣えて奏し、三たび上るに及び、詔して衛尉丞・分司東都とした。貞元以後、帥鎮が僚佐を劾奏し、験わずして輒ち斥くことがあった。是に至り、給事中呂元膺が執して不可とした。憲宗は使いを遣わして諭して言った、「朕は孔戡を知らざるに非ず、行いて用いんとす」と。未だ幾ばくもせず、卒した。年五十七。従史が敗れると、司勲員外郎を追贈された。

従子 孔戢

孔戢は字を方挙という。初め、父が難に死すと、詔して一子に官を与え、修武尉に補されたが、受けず、その兄孔戡に譲った。明経に擢でられ、書判高等となり、校書郎・陽翟尉となり、累遷して殿中侍御史・分司東都となった。昭義判官徐玫は、故に嘗て盧従史を助けて跋扈せしめた者で、従史が敗れると、孟元陽が代わり、復たこれを用いんとした。孔戢は書を移して昭義に徐玫を前もって繋がしめ、乃ち上って其の状を列挙した。帝は怒り、徐玫を播州に流した。侍御史・庫部員外郎に転じた。初め、朱泚が彭偃を中書舎人としたが、偃の子充符は死を免れ、鄜坊府に辟された。或る者がその才能を薦め、召還して京師に還した。孔戢は京兆尹裴武に謂って言った、「朱泚の下した詔令は皆彭偃の為せる所、悖逆の子が鳥竄獣伏せず、乃ち誉を幹めて進を求むるか?子何ぞ季孫行父が莒仆を逐いて以て事君に勉むる者に效わざるや?」と。裴武は即ち充符を逐い出した。京兆少尹に拝され、再遷して湖南観察使となり、召されて右散騎常侍・京兆尹を授かった。歳旱して、文宗は甚だ憂え、孔戢は躬から曲江池に祠り、一夕にして大雨が降り、帝は悦び、詔して兼御史大夫とした。卒し、工部尚書を贈られた。

子 孔温業

子温業は字を遜誌といい、進士に擢第した。大中時、吏部侍郎となった。外遷を求めたので、宰相白敏中が同列を顧みて言った、「吾等は少しく警むべし、孔吏部は朝に居るを楽しまず」と。後、太子賓客となった。

穆寧

穆寧は、懷州河内の人である。父の元休は、開元の間に名を知られ、書を天子に献じて偃師丞に抜擢され、代々儒学で聞こえた。寧は剛直で、気節を自ら任じた。明経で塩山尉に任ぜられる。安禄山が反乱を起こすと、劉道玄を景城守に任命したが、寧は兵を募ってこれを斬り、檄を飛ばして州県に賊を防ぐよう命じた。史思明が境を侵すと、郡守は寧を召して東光令を代行させて防がせた。賊は使者を遣わして寧を誘ったが、寧は斬って示衆にした。郡守は賊を怒らせて死を招くことを恐れ、直ちにその兵を奪い、代行を罷免した。初め、寧が平原を通った時、顔真卿に会い、かつて賊が必ず反乱を起こすと論じた。この時、真卿が禄山を拒んだと聞くと、直ちに真卿に書を送って言った、「夫子は衛君のためにせんか」と。真卿は喜び、寧を河北采訪支使に任命した。寧は息子を母の弟に託して言った、「もし後継ぎが絶えなければ、それで十分だ」と。即ち馳せ参じて真卿に謁し言った、「先人には後継ぎがおります。私は公に従って死ぬことができます」と。やがて賊が平原を攻めると、寧は固守を勧めたが、真卿は従わず、夜に河を渡って逃れ、粛宗の行在所に参じた。帝が様子を問うと、真卿は答えて言った、「穆寧の言を用いなかったので、このようになりました」と。帝はこれを異とし、駅伝を馳せて寧を召し、諫議大夫に任じようとした。ちょうど真卿が直諫して旨に逆らったため、寧もまた罷免された。

上元の初め、殿中侍御史となり、塩鉄転運を補佐し、埇橋に駐在した。李光弼が徐州に駐屯し、糧秣が届かず、檄を以て資糧を求めると、寧は与えなかった。光弼は怒り、寧を召して殺そうとした。ある者が寧に去るよう勧めたが、寧は言った、「避けることは職責を失うことであり、乱は我より始まる。どうして罪を逃れられようか」と。即ち往って光弼に会った。光弼は言った、「我が軍は数万の衆を以て、天子のために賊を討つ。食が乏しければ兵は散る。君が倉を閉じて救わぬのは、我が兵を潰そうとするのか」と。答えて言った、「寧に糧食を主管せよと命じたのは、勅である。公が檄を以て取ることができようか。今、公が糧を求めれば、寧は専らこれを送る。寧が兵を求めれば、公もまた専らこれを与えるのか」と。光弼はその手を取って謝して言った、「私はもとよりできないと知っていたが、ただ君と論じてみただけだ」と。時にその職を守る能を重んじられた。累遷して鄂嶽沔都団練及び租庸塩鉄転運使となった。この時、河の漕運が通じず、漢水・沔水から商山を経て京師に入った。淮西節度使李忠臣は法を奉ぜず、戍所と巡邏を設けて商人から徴税し、また兵を放って行人を掠奪したため、道路はほとんど絶えた。忠臣は寧と淮を挟んで治めていたが、寧の威を憚り、掠奪は衰え、漕運と商売は通じるようになった。沔州別駕を杖殺した罪に坐し、平集尉に貶せられた。

大暦の初め、起用されて監察御史となり、三遷して検校秘書少監、兼和州刺史となり、治績があった。後任の刺史がこれを憎み、天宝の旧籍で現戸数と照合し、妄りに寧が多くの逃亡戸があると弾劾し、泉州司戸参軍事に貶せられた。子の贊がその冤罪を訴え、三年にしてようやく上聞に達した。詔して御史に覆査させると、実際には戸数が数倍に増えていた。召されて太子右諭徳に拝された。寧の性質は権勢ある者に仕えることができず、毅然として交わりを結ぶことが少なく、執政者はこれを憎んだ。その誣告を正したが、なお閑職に置かれた。寧は黙って楽しまず、嘆息して言った、「時は我を容れず、我は時に従わず、またどうして進むことができようか」と。遂に病と称して出仕せず、百日満了も数回に及んだが、親友が強いるので、やむを得ず一朝参内した。徳宗が奉天におられた時、行在所に馳せ参じ、秘書少監に抜擢され、太子右庶子に改められた。帝が京師に還られると、乃ち言った、「我が志を行うことができる」と。即ち罷めて東都に帰った。秘書監を以て致仕し、卒した。

寧は家に居て厳格であり、寡婦の姉に仕えて甚だ恭しかった。嘗て家令を撰して諸子を訓戒し、人ごとに一通ずつ与えた。また戒めて言った、「君子が親に仕えるには、志を養うことが大事である。我が志は直道のみである。もし枉げて道に従うならば、三牲五鼎も我が養いではない」と。病気になっても薬を嘗めず、時に知命と称された。

四子あり:贊、質、員、賞。寧が老いた時、贊は御史中丞、質は右補闕、員は侍御史、賞は監察御史であり、皆、道を守り行誼を重んじて顕れた。先に、韓休の家は子侄を訓えること甚だ厳しかった。貞元の間、家法を言う者は、韓・穆の二門を尊んだという。

子 贊

贊は、字を相明といい、累遷して侍御史となり、東都に分司した。陜虢観察使盧嶽の妻が財産を分けるのに妾の子に及ばず、妾がこれを訴えた。中丞盧佋は妾の罪を重くしようとしたが、贊は聞き入れなかった。佋は宰相竇参と共に、贊が金を受けたと誣告し、捕らえて獄に送った。弟の賞が冤状を上奏すると、詔して三司に覆審させたが、その事実はなく、なお郴州刺史として出された。参が敗れると、召されて刑部郎中となり、延英殿で対し、御史中丞に抜擢された。裴延齢が度支を管掌し、属吏が賄賂を受け、獄が決したが、延齢は吏を曲げて赦そうとした。贊は執って許さなかった。延齢は贊が法文を深く追求すると奏上し、饒州別駕に貶せられた。久しくして、州刺史に拝された。憲宗が即位すると、宣歙観察使に進み、官に卒した。工部尚書を追贈された。

子 質

質は、性質強直で、賢良方正に挙げられ、条対が詳切であり、頻りに抜擢されて給事中に至った。政事の得失について、未だ嘗て言い尽くさないことはなかった。元和の時、塩鉄・転運諸院が囚人を擅に拘禁し、笞打ち掠奪が厳しく痛ましく、多く死んだ。質は奏上して州県の吏と参決するよう請い、これより冤罪はなくなった。後に吐突承璀を将とすべからざるを論じ、憲宗は悦ばず、太子左庶子に改められた。楊憑と親善した罪に坐し、開州刺史として出され、卒した。

子 員

員は、字を與直といい、文章を作ることに巧みであった。杜亞が東都留守となった時、その府に佐として置かれたが、早世した。

兄弟は皆和やかで純粋であり、世の人々は珍味に譬えて目した:贊はやや俗だが然るに格があり、「酪」となす。質は美しく多く人に受け入れられ、「酥」となす。員は「醍醐」となす。賞は「乳腐」となすという。

崔邠

崔邠は、字を處仁といい、貝州武城の人である。父の倕は、三世が一つの竈で炊き、当時、家を治めることを言う者はその法を推した。至徳の初め、行在所に賦を献じ、粛宗はその文を異とし、吏部侍郎の位に至った。

邠は進士に及第し、また賢良方正に抜擢され、渭南尉を授かり、補闕に遷った。上疏して裴延齢の奸を論じ、鯁亮をもって知られた。中書舎人から再遷して吏部侍郎となった。性質は温裕で深密、己れを行うことまた簡儉であり、憲宗はこれを器とし、裴垍もまた邠の材が宰相に堪えると推薦した。ちょうど病に会い、遂に拝されなかった。久しくして太常卿となり、吏部尚書の銓選を管掌した。故事によれば、太常が始めて視事する時、四部楽を大いに閲し、都人は観覧に赴いた。邠は自宅から帽子を脱ぎ、親しく母の輿を導き、公卿でこれを見た者は皆、道を避け、都人はこれを栄とした。母の憂いにより解官し、喪中に卒した。年六十。吏部尚書を追贈され、諡して文簡といった。

弟は酆、郾、郇、鄯、鄲。

弟 郾

郾は、字を廣略といい、姿形は雄大で秀麗、人々は遠くから見て慕うが、親しみやすくはなかった。進士に及第し、集賢校書郎を補任された。累進して吏部員外郎となり、下僚は欺くことができず、毎度官吏を選任する際には、自ら選抜基準を携え、褒賞・罷免は必ず適切で、寒門遠方の者でも才能を留め置くことはなかった。三度転じて諫議大夫となった。穆宗が即位すると、遊猟にふけり、内では酒宴に耽り、夜明けになっても朝政に出られなかった。郾が進言して言うには、「十一代の先帝の功徳、四海の広さ、萬國の民衆、その治乱は、陛下にかかっている。山以東の百城、千里の地は、昨日得たものが、今日には失われる。西に戎の砦を望めば、宗廟からわずか十舎の距離にあり、百姓は憔悴し、蓄えは何もない。願わくは陛下が政事に親しまれて天下を幸せにされたい」。帝は顔色を動かして慰謝し、給事中に転じた。

敬宗が位を嗣ぐと、翰林侍講學士に拝され、まもなく中書舍人に進んだ。郾は謝して言った、「陛下が臣に侍講をさせられて、半年を経ても一度も経義をお尋ねになりません。臣に功績がなく、厚恩に副いません」。帝は恥じて言った、「朕は少し間を置いて必ず教えを請おう」。高釴がちょうど傍らにいたので、言った、「陛下は善を好みながらも諮詢する所がなく、天下の人は儒者に意向を向けることがあるのを知りません」。帝は重ねて咎め謝り、ともに錦や幣を賜った。郾は高重とともに『六経』の要言を分類して十篇とし、これを献上した。観覧しやすいようにとのことであった。

禮部侍郎に転じ、出向して虢州觀察使となった。先だって、上供の財が不足すると、官吏の俸給を奪って輸送を助けさせ、年間およそ八十萬を徴していた。郾は言った、「官吏が私生活を満たせないで、どうして民を顧みる暇があろうか。私一人で治めることができず、どうして自ら封じることができようか」。ただちに府の常費をもってこれに代えた。また詔により粟を太倉に輸送するよう命じられ、年間数萬石に上り、民は輸送に苦しみ、さらに車で河まで運ばねばならなかった。郾はそこで川の傍らに大きな倉を造って粟を受け入れ、穴を開けて船に注ぎ入れた。民は喜び、輸送の労苦を忘れた。鄂・嶽等州觀察使に改めた。蔡州の者が叛いて以来、鄂・嶽は常に兵乱に苦しみ、江湖の盗賊が公然と横行していた。郾は鎧や兵器を整備し、蒙衝を造り、疾走して追跡し、上下千里をわたり、一年のうちにすべて捕らえて平定した。また浙西觀察使となり、檢校禮部尚書に遷り、官の任上で卒した。吏部尚書を追贈され、謚は德といった。

郾は財を貯えず、あればすぐに親族旧友に施し、彼らの婚礼や葬儀の世話をした。家に居ては和やかで、子弟を訓戒することなく、子弟は自ずから感化された。住居は低く雨漏りし、歩廊もなく、長雨でぬかるむと、客は笠をかぶり下駄を履いて外の座に就いた。虢州を治めるには寛容で、一月経っても一人も笞打つことはなかった。鄂州に臨むと、法を厳しく誅罰を峻烈にし、一切容赦しなかった。ある人がその理由を尋ねると、言った、「陝の地は瘠せて民は疲労している。私はこれを慰撫する暇もなく、かえって彼らを煩わせることを恐れている。鄂の地は肥沃で民は悍ましく、夷の習俗が混じっている。威を用いなければ治めることができない。政治が変化を知ることを貴ぶ所以である」。聞いた者は敬服した。

五人の子:瑤、瑰、瑾、珮、璆。瑤は禮部侍郎・浙西鄂嶽觀察使を務めた。瑾は禮部侍郎・湖南觀察使となった。瑰と珮はともに高官に達した。

弟 鄯

鄯は進士に擢第し、累進して左金吾衛大將軍に至ったが、急死した。韓約が代わった。十日も経たないうちに李訓の乱が起こり、韓約は難に死んだ。世間では鄯の死を、崔氏の積善の報いだと言った。禮部尚書を追贈された。

弟 鄲

鄲は進士に及第し、渭南尉を補任された。累進して刑部郎中を除され、出向して杜元穎の西川節度使府の副使となった。召されて工部侍郎・集賢殿學士となった。再び吏部侍郎に遷り、宣歙觀察使から入朝して太常卿となった。文宗の末、同中書門下平章事に擢られ、中書侍郎に改められ、罷められて劍南西川節度使となった。宣宗の初め、檢校尚書右仆射同中書門下平章事として、淮南を節度し、軍中で卒した。

崔氏は四世にわたり緦麻の親族が同じ竈で炊き、兄弟六人が三品に至り、邠・郾・鄲の三人で禮部尚書を五度、吏部尚書を二度務めた。唐の興隆以来なかったことである。光徳里に住み、便齋を構えた。宣宗はこれを聞いて嘆じて言った、「鄲の一門は孝友であり、士族の模範とすべきである」。そこで「德星堂」と題した。後に京兆の民はその里を「德星社」と呼んだという。

柳公綽

柳公綽、字は寬、京兆華原の人。生まれて三日目に、伯父の子華が言った、「我が門を興す者は、この児である」。そこで幼名を起之とした。幼少より孝友で、性質は厳粛重厚、起居すべてに禮法があった。文章を綴れば典雅端正で、聖人の書でないものは読まなかった。賢良方正直言極諫科に挙げられ、校書郎を補任された。一年おいて、再びその科に登第し、渭南尉を授かった。凶作飢饉の年、その家は給与はあったが、毎食一器を超えず、豊作の年になって元に戻した。ある人が尋ねると、答えて言った、「四方が飢えに苦しんでいるのに、自分だけ満腹できようか」。累進して開州刺史となり、地は夷の部落に接し、賊寇が常に城に迫った。役人が言った、「兵力では制圧できません。どうか要職をもって賊の首領に官職を与えてください」。公綽は言った、「彼らと同類の悪なのか。どうして法を曲げられようか」。ただちにこれを誅し、賊寇も引き去った。侍御史・吏部員外郎に遷った。時に武元衡が劍南を節度し、裴度とともに判官となり、特に互いに引き立て重んじた。召されて吏部郎中となった。

憲宗は武功を喜び、しばしば遊猟に出た。公綽は『太醫箴』を奏上して諷諫した。曰く、「天は寒暑を布くも、人に私せず。品類既に一ならば、高卑も以て均し。人は好愛を謹み、能く其の身を保つ。清靜瑕無くば、輝光以て新たなり。寒暑は天地に満ち、肌膚に外より洽く;好愛は耳目に在り、心知を内に誘う。端潔を堤と為し、奔射猶お敗る。気は行くに間無く、隙は大ならずと謂う。天は高しと謂えども、氛蒙之を晦ます;地は厚しと謂えども、横流之を潰す。飲食は身を資くも、過ぐれば則ち患を生じ;衣服は徳に称うも、侈れば則ち慢を生ず。唯だ過と侈は、心必ず之に随う。気と心流れば、疾乃ち之を伺う。畋遊は楽を恣にし、情を流し志を蕩す。馳騁は形を労し、叱咤は気を傷う。其の外を養わざれば、前脩の忌む所。人は気に乗じて生じ、嗜欲以て萌す。気離るれば患有り、気完うすれば則ち成る。巧は必ず真を喪い、智は実に情を誘う。醫の上なる者は、未然に於いて理む。患は慮後の後に居り、防ぐは事の先に処る。心静かにして楽行い、體和して道全うす。万物に克く施し、以て億年を享く。聖人上に在りて、各々攸く処る有り。臣太醫を司り、敢えて諸禦に告ぐ」。天子はその才能を高く評価し、使者を遣わして言った、「卿の言う『気は行くに間無く、隙は大ならず』は、朕を深く愛する者である。座右に置くべきである」。一月余りして、御史中丞に拝された。

公綽はもと裴垍と親しくしていたが、李吉甫が再び国政を執ると、湖南観察使として出された。土地が低湿であるため、父母を迎えて養うことができず、東都の分司を求めたが、聞き入れられなかった。後に鄂嶽観察使に転じた。当時ちょうど呉元済を討伐しており、詔によって鄂嶽の兵卒五千を発し、安州刺史李聴の麾下に属させた。公綽は言った、「朝廷は私を儒生で兵事を知らぬと思っているのか」と。すぐに自ら行くことを請い、許された。兵を率いて江を渡り、安州に到着すると、李聴は軍礼をもって迎え拝謁した。公綽は彼に言った、「貴公が弩を負うことを命じられたのは、まさに兵事のためではないか。もし軍装を脱げば、それはただ二郡の太守に過ぎず、何を統率統一しようというのか。貴公は代々の将で兵事に通じているので、私は暫く職を置き、兵法に従って事を行おうと思う」と。李聴は「ご命令のままに」と言った。そこで直ちに都知兵馬使・中軍先鋒・行営都虞候の三つの辞令を彼に授け、選んだ兵六千をその麾下に属させ、諸校に戒めて言った、「行営の事は全て都将が決する」と。李聴は用いられてその威を畏れ、ついに力を尽くし、当時の人々は彼が権変を知っていると感服した。軍が出ると、公綽はたびたび兵士の家を訪ねて安否を問い、病気や生死には手厚く給与し、浮気な女は江に沈めた。軍中は感激して服し、「中丞は我々のために家事を知ってくださる。どうして死力を尽くして戦わぬことがあろうか」と言った。ゆえに鄂軍は戦うごとに勝利した。

元和十一年、李道古に代わって召還され、給事中に任じられた。李師道が平定されると、鄆州に宣諭のため派遣され、復命して京兆尹に任じられた。府に赴く途中、神策軍の校が馬に乗って道を譲らぬ者がいたので、即時に打ち殺した。帝はその専殺を怒ったが、公綽は言った、「これはただ臣を試みるだけでなく、陛下の法を軽んじるものです」と。帝は言った、「既に死んだ以上、上聞に達さぬのはよろしいか」と。公綽は言った、「臣が奏上すべきことではありません。市で死ねば、職は金吾にあり、坊で死ねば、職は左右巡使にあります」と。帝はようやく納得した。母の喪のため官を去った。喪が明けて、刑部侍郎となり、塩鉄転運使を兼ね、兵部に転じ、御史大夫を兼ねた。

長慶元年、再び京兆尹となった。当時幽州・鎮州で戦争があり、諸将を補充任命するため、駅伝の使者が道に連なった。公綽は上奏して言った、「近頃駅館は物資が乏しく、駅舎の備えも多く欠けています。勅使で緋紫の衣を着る者は、従う騎が三四十に至り、黄緑の衣を着る者も、十数騎を下りません。吏は券を見ず、口に任せて供給します。駅馬が尽きると、民馬を掠奪します。怨嗟と驚擾が起こり、旅人の往来はほとんど絶えています。限りを定めることを請い、その弊を止めたいと思います」と。詔によって中書に条を定めて数を検させたため、吏は罪を免れることができた。宦官たちは皆これを憎んだ。吏部侍郎に改められ、御史大夫に遷った。韓弘が病気になり、河中から還ると、詔によって百官が病を見舞った。韓弘は子を遣わして面会できないと断ったが、公綽は言った、「上は百司に省みさせ見舞わせるのは、これこそ異例の礼です。力を振り絞って病を押し、公卿に会うべきであり、どうして臥せたまま子や孫に言葉を伝えさせることができましょうか」と。韓弘は恐れ、人に挟まれて出てきた。

礼部尚書に改められ、祖父の諱のため左丞に換えた。まもなく検校戸部尚書・山南東道節度使となった。巡察して鄧に至ると、県吏に賄賂を受け取った者と法律を曲げた者が二人、ともに獄につながれていた。県令は公綽が平素法を重んじるので、必ず貪った者を殺すだろうと思った。公綽は判決して言った、「贓吏が法を犯せば、法はなお存在する。奸吏が法を壊せば、法は滅びる」と。法律を曲げた者を誅した。その厩の馬が飼育係を害したので、公綽はそれを殺した。ある人が良馬は愛すべきだと言うと、言った、「どうして良馬が人を害することがあろうか」と。

宝暦元年、そのまま検校左僕射に遷った。牛僧孺が政事を罷められ、武昌節度使となると、公綽は軍容を整えて伏して拝謁した。左右が諫めて止めさせようとしたが、答えて言った、「奇章公(牛僧孺)が今台宰を去られたばかりである。方鎮が宰相を重んじるのは、朝廷を尊ぶためである」と。道士が丹薬を献じた。どこから来たかと問うと、「薊門からです」と言った。当時朱克融がちょうど叛いていたので、急いで言った、「惜しいことだ、薬が賊の境から来たのでは、たとえ効験があっても何の益があろうか」と。すぐに薬を棄てて道士を追い払った。入朝して刑部尚書となり、まもなく邠寧節度使に任じられた。これ以前、神策諸鎮が部中に列屯していたが、本道の節制に従わなかったため、虜が隙を窺うことができた。公綽がそのあるべきところを論じたので、詔によって屯営は緩急を問わず全て節度を受けることとなった。再び刑部尚書となった。京兆の獄に姑が嫁を鞭打って死なせた事件があり、府は姑を殺そうとした。公綽は言った、「尊が卑を殴るのは、闘いではない。しかも子がいるのに、妻のためにその母を戮するのは、道理に順わない」と。ついに減刑して論じた。

太和四年、河東節度使となった。凶年に遭い、用度を節約し、宴飲を止め、衣食は士卒と等しくした。北虜が梅禄将軍李暢に馬一万匹を持たせて交易に来た。通過する地では皆手厚く労い、兵を整えて襲奪を防いだ。太原に至ると、公綽はただ牙将に単騎で労問させ、至誠をもって待遇し、牙門を開き、訳官に引かせて謁見させ、宴は常より増やさなかった。李暢はその徳を感じ、涙を流し、ゆっくりと道を進み、妄りに馳せて狩りをしなかった。陘北に沙陀部があり、勇武で闘いを好み、九姓・六州に畏れられていた。公綽はその酋長朱邪執宜を召し、廃れた柵十一を修復し、兵三千を募って塞上に留め屯させた。その妻や母が太原に来た者は、夫人に飲食を与えて問い遺わさせた。沙陀は恩を感じたので、力を尽くして障塞を守った。

病気のため代わりを乞い、兵部尚書を授けられたが、朝請に堪えられなかった。突然左右を顧みて旧吏の韋長を召した。人々は家事を託すのだと思った。韋長が到着すると、言った、「私のために宰相に申し上げよ。徐州が李聴の親吏を専殺したのは、高瑀を用いなければ安んじられない」と。そこで目を閉じて再び語らず、二日後に卒去した。享年六十八。太子太保を追贈され、諡は元といった。

公綽は喪に服して身を毀し慕い、三年間沐浴しなかった。後母の薛氏に仕えて非常に謹み、姻族でさえ薛氏の実子でないことを知らなかった。母方の従兄の薛宮が早くに亡くなったので、その娘を育てて嫁がせた。かつて言った、「私は官に臨んで私的な喜怒を人に加えたことはない。子孫はきっと栄えるだろう」と。錢徽・蔣乂・杜元穎・薛存誠と親しくし、許康佐・鄭朗・盧簡辭・崔玙・夏侯孜・李拭・韋長らを士として取り立てたが、皆名を知られ顕貴となった。

子の仲郢、字は諭蒙。母の韓氏は、すなわち韓臯の女であり、子を訓えるのが巧みだったので、仲郢は幼い頃から学問を好み、かつて熊胆丸を和らせ、夜に噛みしめて飲ませて勤勉を助けさせた。成長して文章に巧みとなり、『尚書二十四司箴』を著し、韓愈に賞賛された。元和の末、進士に及第し、校書郎となった。牛僧孺が武昌幕府に辟召すると、父の風範矩度があり、僧孺は嘆じて言った、「名教を積み習わなければ、どうしてここに至れようか」と。入朝して監察御史となり、侍御史に遷った。禁卒が里人を誣って父の墓の柏を切ったと言い、射殺した事件があった。吏は専殺として論じたが、中尉が庇ってその死を免じようとした。右補闕の蔣系が争ったが、聞き入れられなかった。仲郢が罰を監察し、主張して言った、「賊が死ななければ、これは典刑を乱すものです」と。詔によって御史の蕭傑がこれを監察したが、蕭傑もまた争った。ついに詔によって京兆府に杖刑を行わせ、監察はしなかった。朝廷はその職守を嘉した。

會昌の初め、累遷して吏部郎中に轉ず。時に詔して冗長なる官を減ずるを、仲郢條簡すること浹日にして、千二百五十員を損じ、議者厭伏す。左諫議大夫に遷る。武宗方士を延き、望仙臺を築くに、累諫諄切にして、帝中人を遣はして愧諭す。御史崔元藻、吳湘の獄を覆按するを以て罪を得るに、仲郢切諫す、宰相李德裕嫌はざるを爲し、奏して京兆尹を拜せしむ。權量を東西市に置き、貿易して之を用ゐしめ、私に制する者を禁ず。北司の吏粟を入れて約に違ふを、仲郢殺して之を屍し、是より人敢て犯す者無く、政嚴明と號す。浮屠の法を廢するに會ひ、盡く銅象を壞して錢と爲す。仲郢鑄錢使と爲り、吏錢に字を識するを請ふも、答へず。既にして、淮南會昌の字を鑄し、久しくして、僧反つて取つて鐘鈸と爲す。中書舍人紇幹、甥劉詡其の母を毆るを訴ふ、詡禁軍の校と爲るを、仲郢奏を待たず、即ち捕へ取りて、杖下に死せしむ、宦官以て言ふ有り、右散騎常侍に改め、吏部銓を知る。德裕頗る進士科を抑へ、仲郢徇ふ所無し。是の時、進士を以て選ぶに、惡官を受くる者無し。又調ふべき者に當り、闕簿を持ちて自ら閱せしめ、即ち擬唱し、吏奸を爲す能はざりき。

宣宗の初め、德裕政事を罷む、厚く善くする所に坐し、出でて鄭州刺史と爲る。周墀滑を鎮め、而して鄭屬郡と爲るに、其の績を高む。及入相するに及び、薦めて河南尹を授け、召して戶部侍郎を拜す。墀罷む、他の宰相仲郢を惡み、左遷して秘書監と爲す。數月、復た出でて河南尹と爲り、寬惠を以て政を爲す。或ひは京兆の時に類せずと言ふに、答へて曰く、「輦轂の下は、先づ彈壓す。郡邑の治は、本惠養に在り。烏ぞ類す可けんや」と。劍南東川節度使を擢でる。大吏邊章簡勢を挾みて肆に貪るを、前帥制すること能はざるに、仲郢事に因りて之を殺し、官下肅然たり。五年居り、召されて吏部侍郎と爲り、俄に兵部に改め、鹽鐵轉運使を領す。劉習と云ふ者有り、藥術を以て進み、詔して鹽官に署す。仲郢醫に本色官有りと爲し、若し錢穀を委ねば、名分正しからずと爲す。帝悟り、乃ち縑を賜ひて還遣す。

大中十二年、疾を辭し、刑部尚書を以て使を罷め、戶部に轉じ、河東縣男を封ぜられ、山南西道節度使と爲る。南鄭令權弈罪を以て、仲郢之を杖ち、六日にして死す、雷州刺史に貶せらる。頃之、太子賓客を以て東都に分司し、起きて虢州刺史と爲り、檢校尚書左仆射東都留守を以てす。會ひ盜父の墓を發するに、官を棄てて華原に歸る。華州刺史に徙るも拜せず。咸通五年、天平節度使と爲る。初め、仲郢諫議大夫と爲り、後每に遷るに、必ず烏升平の第に集まり、庭樹戟架皆滿ち、五日にして乃ち散ず。是に及びて復た集まらず。鎮に卒す。

仲郢方嚴にして、氣義を尚び、親に事ふること甚だ謹みたり。李德裕貶死し、家祿無く、自ら振はず。及鹽鐵を領するに及び、遂に其の兄の子從質を取つて推官と爲し、蘇州院を知らしむ。宰相令狐持す可からずとす、乃ち書を移して開諭し、感して悟り、之に從ふ。每に私居の內齋に、帶を束ね色を正し、服用簡素なり。父子更に九鎮し、五たび京兆と爲り、再び河南と爲り、皆瑞を奏せず、浮屠を度せず。貪吏を摘むに急にし、單弱を濟ふ。每に旱潦有れば、必ず匱を貸し負を蠲ち、裏に逋家無し。衣冠の孤女自ら歸る能はざる者、稟を斥けて婚嫁と爲す。朝に在りて、慶吊に非ざれば宰相の第に至らず。其の跡略相同じ。

家に書萬卷有り、藏する所必ず三本す。上なる者は庫に貯へ、其の副は常に閱する所、下なる者は幼學ぶ。仲郢嘗て手づから《六經》を鈔し、司馬遷、班固、范曄の史皆一たび鈔し、魏晉及び南北朝の史は再びし、又類する所の他の書を鈔すこと凡そ三十篇、號して《柳氏自備》と曰ふ。旁ら仙佛の書を錄すること甚だ衆く、皆楷小精眞にして、行字無し。

子璞、珪、璧、玭。

子 璞

璞、字は韜玉、學びて仕を營まず。《春秋三氏異同義》を著し、又《天祚長歷》を述べ、漢武帝の紀元を斷ちて編年と爲し、大政・大祥異・侵叛戰伐を以て之に隨ひ著け、閏位なる者は其の左に附見す。常に「杜征南《春秋後序》紀甲歷を述べて實を得たりと爲し、自余の史家は皆差たり」と謂ふ。蔣系然りと爲す。終に著作郎。

子 珪

珪、字は交玄。大中中、璧と繼ぎて進士に擢でられ、皆秀整にして文有り、杜牧、李商隱之を稱す。杜悰西川を鎮むるに、表して幕府に在らしむ、久しくして乃至る。會ひ悰淮南に徙るに、其の積俸を歸すも、珪納れず、悰故事を舉げて言ふも、卒に之を辭す。藍田尉を以て弘文館に直し、右拾遺に遷る。而して給事中蕭仿、鄭裔綽、珪父に事ふること能はずと謂ひ、其の詔を封還す。仲郢其の子を訴へて「諫職に冒り處るは不可と爲し、不孝と謂ふは則ち誣なり。請ふらくは就養せしめよ」と。詔して可とす。始め、公綽家を治むること韓滉に埒り、及珪廢せらるるに及び、士人愧悵す。終に衛尉少卿。

子 璧

璧、字は賓玉。馬植汴州を鎮むるに、辟して管書記と爲す。又李瓚に從ひ桂州に至り、其の不法を規止すも、瓚聽かず、乃ち衣を拂ひて去る。未だ幾ばず、軍亂す。右補闕に擢でられ、再轉して屯田員外郎と爲る。僖宗蜀に幸するに、翰林學士を授け、累遷して右諫議大夫と爲る。

子 玭

玭明經を以て秘書正字を補し、書判拔萃より、累轉して左補闕と爲る。高湜再び昭義を鎮むるに、皆表して副と爲し、擢でられて刑部員外郎と爲る。湜高要尉に貶せらるるに、比して三疏を上りて申理す。湜後稿を得て嗟嘆し、以爲らく其の言自ら辨するも加はらざるなりと。出でて嶺南節度副使と爲る。廨中の橘熟るるに、既に食ひて、乃ち直を官に納む。黃巢交・廣を陷すに、逃れて還り、起居郎を除かる。巢京師に入るに、行在に奔り、再遷して中書舍人・御史中丞と爲る。文德元年、吏部侍郎を以て國史を脩め、御史大夫を拜す。直清父の風有り、昭宗倚りて以て相たらんと欲すも、中官譖へて比煩碎にして、廊廟の器に非ずとす、乃ち止む。事に坐して瀘州刺史に貶せられ、卒す。光化初め、帝華より還るに、詔して官爵を復す。

玭嘗て家訓を述べて以て子孫を戒むること曰く、

門地の高い者は、一事でも先人の教えに背けば、他人とは異なり、生きては苟も爵位を得ることはできても、死しては祖先の地下に顔向けできない。門が高ければ自ら驕り、族が盛んになれば人に窺われ嫉まれる。実の才芸や美しい行いは、人は必ずしも信じず、わずかな瑕や微細な過失は、十の手が争って指さすものである。それゆえ己を修めるには至らざるを得ず、学問を為すには堅固でなければならない。士君子が世に生まれて、己に能なくして他人の用いられることを望み、己に善なくして他人の愛されることを望むのは、農夫が粗雑に種を蒔いて天の潤いが降らないと怨むようなもので、飢えずにいられようか、いや、いられない。余は幼少の頃、先公の仆射(柳公綽)の言葉を聞いた。立身は孝悌を基とし、恭しく黙することを本とし、畏れ慎むことを務めとし、勤勉倹約を法とする。家を豊かにするには忍従と順応をもってし、交わりを保つには簡素と恭順をもってする。広く記すことは及ばざるが如く、名を求めることは偶々来るが如し。官に臨むには己を清くして事を省み、それから後に家法を語ることができる。家法が備わって、それから後に人を養うことを語ることができる。直なるも禍に近づかず、廉なるも名を買わず。憂いと禍は偕にせず、清潔と富貴は並び立たない。董生(董仲舒)が言うには、「弔う者が門に在れば、賀う者が閭(里門)に在る」と。憂いあれば則ち恐懼し、恐懼すれば則ち福至るというのである。また言うには、「賀う者が門に在れば、弔う者が閭に在る」と。福を受ければ則ち驕奢し、驕奢すれば則ち禍至るというのである。故に世族が遠く長く続くことと、命位が豊かであるか否かは、亀や蓍(占い)や星の数に頼る必要はなく、心を処し事を行なう如何にあるのみである。

昭国里の崔山南(崔琯)の子孫の繁栄は、仕宦の族でも比類稀である。山南の曾祖母の長孫夫人は高齢で歯がなく、祖母の唐夫人は姑に孝養を尽くし、毎朝、櫛で髪を梳き、縰(髪を束ねる布)と笄を付け、階下で拝礼し、堂に上がって姑に乳を与えたので、長孫夫人は数年間粒食をしなかった。ある日、病に臥せって言うには、「我が婦に報いる術がない。子孫が皆この婦のように孝順であることを願う」と。されば崔の家門がどうして大きくならぬことがあろうか。東都仁和里の裴尚書(裴寛)の子孫は多く繁盛し、実に名門である。則天武后の時、宰相の魏玄同が尚書の先人を婿に選んだが、未だ婚を成さずして魏は羅織の獄に陥り、家は嶺表に移された。北に帰還した時、娘は既に笄を過ぎていた。その家では衣食の資とする術がないと議し、髪を下ろして尼になることを願った。一人の尼が外から来て言うには、「娘は福が厚く豊かである。必ず良き配偶者があり、子孫は天下に遍くならん。北に帰るがよい」と。家人は遂に敢えて議せず。荊門に至ると、裴が装いを整えて迎えたのである。今の勢利の徒が、信誓を捨てることが掌を返すが如きであるならば、裴の繁栄は天の報いである。余の旧府の高公(高釴)の先君兄弟三人は、皆清要の地位にあり、客を招かない限り二種の羹や胾(肉の切り身)を用いず、夕食はただ干瓢を齧るのみであり、皆世に重名を保った。

永寧の王相国涯が位に在った時、竇氏の娘が嫁入りし、請うて言うには、「玉工が売る釵の値が七十万銭です」と。王は言う、「七十万銭を、娘に惜しむわけではあるまい。しかし釵の値がこのようであるならば、これは妖物である。禍が必ずこれに従うであろう」と。娘は再び敢えて言わなかった。後にその釵は馮球外郎の妻の首飾りとなった。涯は言う、「郎吏の妻として、首飾りに七十万銭のものがある。どうして長く続くことができようか」と。馮は賈相国餗の門人であり、賈には頗る横暴な奴がいた。馮は賈を愛し、その奴を召し出して責めたところ、奴は泣いて謝した。間もなく、馮が朝に賈を謁見した時、賈は未だ出ず、二人の青衣(侍女)が銀の罌を持って出て来て言うには、「公は君が寒からんことを恐れ、地黄酒を三杯奉る」と。馮は喜び、それを全て飲み干した。やがて喉が渇き且つ詰まり、暴卒した。賈は嘆息して涙を流したが、終にその由を知らなかった。翌年、王と賈は皆禍に遭った。ああ、王は珍玩を物の妖と為した。その言葉が正しいことを知るが、恩寵と権勢の隆盛赫奕たる妖が物よりも甚だしいことを知らなかったのか。馮は卑しい地位にありながら財貨を貪り、その家を正すことができず、事に忠ではあったが、その身を保つことができなかった。言うに足りない。賈の奴が客を牆廡の間に害したのに知らず、終始富貴を得ようとするなど、どうしてできようか。舒相国元輿は李繁と隙があり、御史として譙の獄を鞫問し、極力李繁の罪を確定させたが、後に舒もまた禍に及んだ。今の世人は盛んに宿業報応を説くが、曾て履を視て祥を考うる事を思わないのか。名門右族は、皆祖考の忠孝勤倹によって成立し、皆子孫の頑なで軽率、奢侈で傲慢によって覆え墜ちるのである。成立することの難しさは天に昇るが如く、覆え墜ちることの易さは毛を焼くが如し。

我が家は本来、学識と礼法をもって士林に称せられ、諸家が吉凶の礼制について疑うことがあると、多くは我が家に正しさを求めた。喪乱以来、家運は衰え落ち、基盤の重責は後生に属している。道を行なう者にとっては、德行と文学が根幹であり、正直と剛毅が枝葉である。根があって葉がなければ、或いは時を待つことができる。葉があって根がなければ、膏雨(慈雨)をもってしても生きられない。孝慈、友悌、忠信、篤行に至っては、食における醤のようなもので、一日でも欠くことができようか。

その大概はこのようなものである。

弟 公権

公権は、字を誠懸といい、公綽の弟である。十二歳の時、辞賦に巧みであった。元和の初め、進士に及第した。李聴が夏州を鎮守した時、掌書記に表挙した。奏事のために入朝した時、穆宗が言う、「朕は嘗て仏廟にて卿の筆跡を見たことがあり、久しく思っていた」と。即座に右拾遺・侍書学士に拝し、再び司封員外郎に遷った。帝が公権に用筆法を問うたところ、答えて言う、「心正しければ則ち筆正しく、筆正しければ乃ち法とすべきです」と。時に帝は放縦であったので、公権はそれに及んだのである。帝は顔色を改め、それが筆をもって諫めたものであると悟った。公綽は嘗て宰相の李宗閔に書を送り、「家弟は本来儒学を志し、先朝において侍書として用いられ、工祝(祭祀の祝)の類に頗る似ております。散官に転じさせて下さい」と言った。そこで右司郎中・弘文館学士に改めた。

文宗は再び侍書に召し、中書舎人に遷し、翰林書詔学士を充任した。嘗て夜、子亭に召し出されて対し、燭が尽きても語り尽くさず、宮人が蠟液を紙に浸して継いだ。未央宮に従幸した時、帝が輦を停めて言う、「朕に一つの喜びがある。辺境の戍卒に賜る衣が長らく期に間に合わなかったが、今は仲春にして既に衣を与え終わった」と。公権は数十言を以て賀し、帝が言う、「詩を以て我を賀すべきである」と。宮人が促すと、公権は声に応じて成し、文は婉曲で切実かつ麗であった。詔して再び賦せしめると、またもや停思なく、天子は甚だ悦び、言う、「子建(曹植)は七歩、爾は三歩である」と。常に六学士と便殿で対し、帝が漢文帝の恭儉を称え、因みに袂を挙げて言う、「これは三澣(三度洗った)である」と。学士は皆賀したが、公権のみは無言であった。帝が問うと、答えて言う、「人主は賢を進め不肖を退け、諫諍を納れ、賞罰を明らかにすべきです。澣濯の衣を着ることは、この小節に過ぎず、治道に益ある者ではありません」と。他日、周墀と共に対し、事を論じて阿らず、墀は慄然としたが、公権は益々屈せず、帝は徐に言う、「卿には諍臣の風がある。諫議大夫に屈居させることができよう」と。そこで舎人から下遷し、仍って学士知制誥とした。

開成三年、工部侍郎に転じた。得失を問うために召され、因みに言う、「郭文が邠寧を領していますが、議者は頗る臧否があります」と。帝は言う、「郭文は尚父(郭子儀)の従子であり、太皇太后の季父である。官に瑕瑾なく、大金吾から方鎮の位に至った。何を改めて議することがあろうか」と。答えて言う、「郭文は誠に勲旧ですが、人が二女を献上したからこそこの除目があったと言っています。本当ですか」と。帝は言う、「女は自ら太后に参内したのであって、どうして献上と言えようか」と。公権は言う、「疑わしい間柄は戸毎に明らかにすることはできません」と。因みに王珪が廬江王妃の事を諫めた故事を引いた。この日、帝は中官に命じて南内から女を郭文の家に送り返させた。その忠益多くこの類である。学士承旨に遷った。

武宗が即位すると、罷免されて右散騎常侍となった。宰相崔珙が彼を集賢院學士に引き立て、院事を管掌させた。李德裕はこれを快く思わず、左遷して太子詹事とし、賓客に改めた。累封して河東郡公となり、再び常侍に復し、進んで太子少師に至った。大中十三年、天子の元会において、公権はやや老耄して物忘れがひどく、群臣に先立って祝賀の言葉を述べる際、奏上に突然誤りがあった。御史がこれを弾劾し、一季分の俸禄を奪った。議者は彼が引退しなかったことを惜しんだ。咸通初年、ついに太子太保をもって致仕した。卒す。享年八十八。太子太師を追贈された。

公権は経術に広く通じ、『詩経』、『書経』、『左氏春秋』、『國語』、莊周の書に特に精通し、一つの義を解釈するごとに、必ず数十百言に及んだ。音律に通じたが、楽を奏するのは好まず、「聞くと人を驕り怠らせる」と言った。その書法は結体が勁健で優美、一家を成した。文宗がかつて彼を召して聯句をさせた。帝が「人皆苦炎熱、我愛夏日長(人皆炎熱を苦しむ、我は夏日の長きを愛す)」と言うと、公権が続けて「薰風自南來、殿閣生餘涼(薰風南より来たり、殿閣餘涼を生ず)」と詠んだ。他の學士たちも続けて詠んだが、帝は特に公権の句を賞誦し、詞情ともに十分であるとして、殿壁に題させた。字はいずれも径五寸ほどで、帝は嘆じて「鐘繇、王羲之もこれに優ることはない」と言った。彼が少師に遷った時、宣宗は彼を御座前に召し出し、紙三枚に書かせ、真・行・草の三体を書かせた。その書は奇抜で奥深く、器幣を賜い、かつ詔して自ら謝章を書かせ、真・行の制限を設けなかった。当時、大臣の家の碑誌が彼の筆でなければ、人はその子孫を不孝とした。外夷で貢ぎ物を持って来る者も、別に貨貝に「これは柳書を購うためのもの」と記した。かつて京兆西明寺の『金剛経』を書写し、鐘繇・王羲之・歐陽詢・虞世南・褚遂良・陸柬之の諸家の法を備え、自ら得意とした。凡そ公卿が書を贈ってきたものは、巨万に及び、主蔵の奴隷が時には盗んで使った。かつて杯や盂を一笥に貯えていたが、縄の封印は元のままなのに器は全てなくなっていた。奴隷がわけのわからないことを言うと、公権は笑って「銀杯が羽化してしまったのだな」と言い、それ以上詰問しなかった。ただ硯・筆・図籍だけは、自ら鍵をかけて秘蔵した。

諸父に子華あり。

子華は、公綽の諸父である。初め厳武の劍南府に辟召され、累遷して池州刺史となった。代宗が華清宮に行幸しようとした時、先にその修繕を命じ、子華を京兆少尹にしようとしたが、京兆尹が彼の剛直方正を嫌い、妨げて解任させた。そこで昭應令・檢校金部郎中・修宮使となった。市に棘の囲いを設け、邑中に触れて言った。「民で華清宮の瓦や石材を用いたものがあれば、囲いの中に投げ入れよ。三日を過ぎても返さない者は死罪とする。」一日も終わらないうちに、既に山のように積もり、営繕に必要なものはほぼ足りた。宰相元載に別荘があり、奴隷に事務を主管させていた。その奴隷は自ら郎将と称し、勢いを頼んで暴虐をほしいままにし、租賦を一度も官に納めなかった。子華はその奴隷が謁見に来た際、捕らえて獄に下し、宿罪を弾劾して発覚させ、杖殺した。一邑は震え伏した。元載は怨むことができず、吏を遣わして厚く謝罪した。子華は自らの終わりを予知し、自ら墓銘を作った。

子に公器・公度あり。公度は養生法に長け、八十余歳でもなお強力であった。常に言った。「私は初め術などない。ただ気海(下丹田)で冷たい物を温めたり、生ものを熱したりせず、元気をもって喜怒の感情を助長しないだけである。」位は光祿少卿に至った。公器は遵を生み、遵は燦を生んだ。別に傳がある。

楊於陵

楊於陵、字は達夫、本は漢の太尉楊震の末裔である。父の太清は、官に倦み、河朔に客居し、安祿山の乱に遭って死んだ。於陵が六歳の時、苦難を経て江左に至り、成長して、非凡な志を持った。十八歳で進士に擢第し、句容主簿に調任された。節度使韓滉は剛厳で認めることが少なかったが、於陵だけを非凡と認め、妻の柳氏に言った。「私は佳婿を求めているが、於陵ほど賢い者はいない。」そこで娘を妻として与えた。鄂嶽・江西の使府に辟召された。韓滉が宰相となり、財賦を管掌すると、権勢は朝廷内外に震えた。於陵は府が廃止されると、親族関係を避けて自ら転任を求めず、建昌に隠居し、文書を以て自ら楽しんだ。韓滉が没すると、ようやく入朝して膳部員外郎となった。吏部判南曹を以て、選者は宰相と親しいことを頼み、文書が様式に合わなかった。於陵はその違反を駁し、宰相は怒り、南曹郎を以て宣武軍に弔問使として出させた。間もなく、右司郎中に遷り、吏部に換えられ、出て絳州刺史となった。德宗はかねてよりその名を聞き、留めて中書舍人に拝した。当時、京兆尹李実は恩寵を頼んで暴虐横暴であったが、於陵は親しい許孟容とともに彼に附かず、讒言されて短所をあげつらわれ、秘書少監に転じた。帝が崩御すると、太原・幽州に遺詔を宣べ、節度使府からの献上物・贈り物は一切受け取らなかった。華州刺史に拝され、浙東觀察使に遷った。越人が飢饉に遭った時、米三十万石を出して貧民を救済するよう請い、政声が広く聞こえた。

入朝して京兆尹となった。先に、編戸の民の多くが北軍の軍籍に逃げ込み、それを頼みとして里巷で横暴を働いていた。於陵は丁数制限を請い、三丁を減じた者は籍に著すことを許さず、奸人は頼る所がなくなり、京師の豪族・権勢家は大いに震え上がった。戸部侍郎に遷った。元和初年、牛僧孺らが賢良方正科の対策を行い、於陵は詔によりその文章を評価し、第一とした。宰相はその言論を憎み、嶺南節度使として出させた。韋詞・李翺らを幕府に辟召し、得失を諮問し、民に陶瓦の製法を教えて蒲葦の屋根を替えさせ、火災を絶った。監軍の許遂振という者は、凶暴で貪欲、於陵を畏れて私事で撹乱しようとしなかったが、その代わりに流言飛語を京師に流した。憲宗も惑わされないわけにはいかず、詔して罷めて帰朝させた。許遂振が留務を領すると、吏を鞭打ってその贓物を探し出させた。吏は叫んだ。「楊公は他方からの賄賂さえ拒んでおられたのに、官の金を私するはずがあろうか。」宰相裴垍もまた帝に別に弁明して言ったため、吏部侍郎を授けられ、許遂振は結局罪を得た。

初め、吏部の程試(判文試験)は、別に詔して他の官が参考にしたが、齊抗が国政を執ると、これを廃止した。この時、尚書鄭餘慶が病気を理由に職務を離れたため、旧制に従うことになった。於陵は建言した。「他の官はただ判文の可否を評価するだけで、人員の制限を知らない。有司は員数を計算して留任・派遣の基準を決める。事が互いに謀らず、置かない方がよい。」そこで詔して、三考官は科目選の比較のみに止め、常調選は全て吏部に戻すこととした。また甲歴(官吏の履歴書)の修繕を請い、南曹に別簿を置いて照合検証させ、吏が奸計を働けないようにした。初めて選者に納銭して符告(任命書)を与えることを奏上し、四年間在任して、凡そ三千員を選任し、当時適切と称された。

兵部尚書を以て御史大夫を兼ね、度支を判った。王師が淮西を討った時、於陵は親しい者を供軍使として用い、唐・鄧を主管させたが、高霞寓が度支に急報を送り、糧道が乏しいと訴えた。そして戦いに敗れると、詔してこれを責め、於陵のことを指して言った。帝は怒り、於陵を郴州刺史に貶した。原王傅に転じ、再び戸部侍郎を以て吏部選を管掌した。李師道が平定されると、詔して淄青を宣慰した。朝廷が初めてその地の分割を議した時、劉悟が滑州節度使に任じられたが、まだ鄆州を出ていなかった。於陵は彼を促して出発させた。還奏すると、帝はその能力を喜んだ。折しも浙西觀察使李翛が死んだ。皇甫镈は平素より於陵を妬んでおり、彼を李翛の後任に推薦したが、帝は認めなかった。穆宗が即位すると、戸部尚書に遷り、東都留守となった。数度上疏して致仕を乞うたが、許されなかった。太子少傅を授けられ、弘農郡公に封じられた。間もなく尚書左仆射をもって致仕し、詔して実俸を賜うたが、辞退して受け取らなかった。於陵は器量が方正で峻厳、進退に常度があり、節操は堅固で明らかで、終始その正しさを失わず、当時の人々に尊仰された。太和四年に卒す。享年七十八。冊贈して司空、謚して貞孝といった。

四子あり。景復は同州刺史に至り、紹復は中書舍人、師復は大理卿、中子の嗣復は宰相の位にあり、別に傳がある。

馬總

馬總、字は會元、扶風の系譜を出す。幼くして孤貧で、妄りに交遊しなかった。貞元年中、滑州の姚南仲の幕府に辟召され署任された。監軍薛盈珍が姚南仲を不法と誣告し、馬總は連座して泉州別駕に貶された。薛盈珍が朝廷で権勢を振るうと、福建觀察使柳冕はその意を迎えようとして馬總を誅殺しようとしたが、刺史穆贊が保護したため、免れた。恩王傅に転じた。

元和年間、虔州刺史より安南都護に遷り、廉潔にして撓まず、儒術を用いてその俗を教え、政事は嘉美であり、獠夷これを安んず。漢の故処に二つの銅柱を建て、唐の徳を刻みつけ、伏波将軍の裔たることを明らかにす。桂管経略観察使に転じ、召されて刑部侍郎となる。十二年、御史大夫を兼ね、裴度に副って淮西を宣慰す。呉元濟が捕らえられると、彰義節度留後となる。蔡人は偽悪に習い、互いに告発し合い、獷悍にして夷貊の風あり。総は教令を設け、賞罰を明らかにし、磨治洗汰して、その俗一変す。初めて彰義を淮西と改めることを奏し、まもなく淮西節度使に擢げて拝され、忠武に転じ、華州防禦・鎮国軍使に改む。李師道が平定され、鄆・曹・濮等を分けて一道とし、総を節度使に除し、天平軍の号を賜う。

長慶初年、劉総が幽・鎮の地を献上し、詔して総を天平に転じさせ、揔を召し還し、大いに用いんとす。会に総卒す、穆宗は鄆人が総に附頼するを以て、復た詔して鎮に還らしむ。二年、検校尚書左僕射、召されて戸部尚書となる。総は篤学にして、吏事倥偬たりと雖も、書を前に去らず、論著頗る多し。卒し、右僕射を贈られ、謚して懿と曰う。

贊して曰く、巣父は正義を恃み、群の不肖に触れ、謀りて権を以てせず、遂にその身を喪う。寧・邠は皆な所謂邦の司直なる者、後世終に蕃衍す。公綽は仁にして勇、於陵は方重、総は沈懿、皆な大臣の風有り、才は宰相に堪うるも用いられず、果たして時に不幸有りしや。穆・崔・柳は代わりて孝友を以て家に聞え、君子の沢遠きかな。