新唐書

巻一百六十二 列傳第八十七 姚獨孤顧韋段呂許薛李

姚南仲

姚南仲は華州下邽の人である。乾元の初め、制科に挙げられ、太子校書に任ぜられた。累遷して右補闕となった。大暦十年、獨孤皇后が崩御し、代宗は悼み痛んで、近い城の傍に陵を造り、朝夕に臨み望むよう詔した。南仲は上疏して言う、「臣は聞く、人臣は家に宅し、帝王は国に宅すと。長安ちょうあんは祖宗の宅せられた所、その側に陵を興し鑿つべきであろうか。そもそも葬とは、蔵すること、人の見えざることを欲するのである。今、西は宮闕に近く、南は大道に迫る。近くして見るべくし、歿して復た生きんとすれば、宮を以てこれに待つも可なり。もし骨肉を土に帰し、魂の之かざる所なからしむれば、自ら近からんと欲すとも、果たして何の益かあらん。かつ王者は必ず高明に拠り、幽隠を燭す、先皇が龍首に因りて望春を建てられた所以である。今、陵を目前に起こせば、心ひとたび感傷すれば、累日平らかならず。かつ匹夫隅に向かえば、満堂楽しまず、況んや万乗においてをや、天下何と謂わん。陛下は後に貞懿と謚し、終には褻近を以てす、臣窃かに惑う。今、国人皆曰く、后陵は邇し、陛下は日に省み時に望まんとすと。これ聖徳を損い、先後に益なく、寵せんと欲して反って辱しむ、惟うに陛下熟計せられよ」。疏が奏上されると、帝は嘉し納れ、五品の階を進めて讜言に酬いた。

宰相常袞に善しとせられて坐し、出されて海塩令となった。浙西観察使韓滉が推官に表し、殿中侍御史内供奉に擢でられた。召し還され、四遷して御史中丞となり、給事中・陜虢観察使に改めた。義成節度使を拝した。監軍薛盈珍は権を恃み政を橈め、思い通りにならず、因って朝に南仲を毀り、徳宗はこれに惑わされた。俄かに小使程務盈を遣わし、誣って表して罪に陷れようとした。時に南仲の裨将曹文洽が入奏し、その言葉を知ると、則ち晨夜追って長楽駅に至り、之に及び、同じ舎に宿り、夜に務盈を殺し、その誣りを廁に投げた。二つの書を作り、一つは南仲に抵し、一つは南仲の冤を治め、且つ自ら務盈を殺した状を言い、乃ち自殺した。駅吏が聞こえさせると、帝は駭き異とした。南仲は自ら安からず、固く入朝を請うた。帝は労って言う、「盈珍は卿の政を橈めたか」。曰く、「臣の政を橈めず、臣が陛下の法を隳すのみ。盈珍の輩の如きは、所在に之あり、羊・杜復た生きたと雖も、百姓を撫し、三軍を禦して、必ずや愷悌の化を成し師律を正すこと能わざるべし」。帝は黙然とした。乃ち尚書右僕射を授けた。貞元十九年に卒す。年七十五。太子太保を贈られ、謚して貞と言う。

初め、崔位・馬少微なる者、俱に南仲の幕府に在った。盈珍の譖により、位を出して遂州別駕とした。東川観察使王叔邕は旨に希い位を奏し、之を殺した。復た少微を出して外に補し、宦官に護送させ、江を渡り、之を水に投げたという。

獨孤及

獨孤及、字は至之、河南洛陽らくようの人である。児童の時、『孝経』を読み、父が試みて曰く、「児の志す所は何の語か」。対えて曰く、「身を立て道を行い、名を後世に揚ぐ」。宗党は之を奇とした。天宝末、道挙の高第を以て華陰尉を補し、江淮都統李亙の府に辟せられ、書記を掌った。

代宗は左拾遺を以て召し、既に至ると、上疏して政を陳べて曰く、

陛下は屡に徳音を発し、左右の侍臣に直言極諫を得しめられた。壬辰の詔書、裴冕等十有三人を召して集賢殿に待制せしめ、以て詢問に備えしむ。これ五帝の盛徳なり。然るに頃者陛下は其の直を容るるも、其の言を録せず、上る所の封事は皆寝して報ぜず。下を容るるの名有りて、諫を聴くの実無く、遂に諫者をして稍稍自ら口を鉗し、飽食して相招き禄仕を為さしむ。これ忠鯁の人の窃かに嘆ずる所以、而して臣も亦之を恥ず。十室の邑と雖も必ず忠信有り、況んや朝廷の大、卿大夫の衆、陛下の選授の精なるや。仮令文王の多士の如く能わざるとも、其中豈に故きを温ね新しきを知り、政要を懋めて陳べ億して屡中する者無からんや。陛下議政の際、曾て其の一説を采らず、堯の疇咨、禹の昌言、豈に是の若くならんや。昔、堯は謗木を五達の衢に設け、孔子は曰く、「能を以て不能に問い、多を以て寡に問う」。然らば則ち多く聞きて疑わしきを闕き、下問を恥じず、これ聖人の心なり。願わくは陛下堯・孔の心を以て心と為し、日に清問を降し、其の不可なる者は之を罷め、可なる者は朝に議し、執事者と之を共にせられよ。之を知れば必ず言わしめ、之を言えば必ず行わしめ、之を行えば必ず公ならしめば、則ち君臣に私論無く、朝廷に私政無く、陛下此を以て献替に可否を弁じ、而して太平の階を建つる可し。

師旅興りて息まず十年、人の生産、杼軸に空し。兵を擁する者は第館街陌に亙り、奴婢は酒肉に厭き、而して貧人は羸餓して役に就き、膚を剝ぎ髓に及ぶ。長安城中、白昼に椎剽し、吏敢えて詰めず。官乱れ職廃し、将堕ち卒暴なり、百揆隳剌し、沸粥紛麻の如し。民敢えて有司に訴えず、有司敢えて陛下に聞こえず、毒を茹み痛みを飲み、窮して告ぐる無し。今其の心颙颙として、独り麦に恃む。麦登らざれば、則ち子を易えて骨を咬まん。陛下此時に厲精更始し、之を救うの術を思わずんば、忍びて宗廟に累卵の危き有らしめ、万姓悼心失図せしむるに忍びんや、臣実に懼る。去年十一月丁巳の夜、星隕ちて雨の如く、昨清明に霜降り、三月苦熱し、錯繆顛倒し、沴これより大なるは莫し。これ下陵上替、怨讟の気の之を取るなり。天意丁寧に譴戒し、以て陛下を警す、宜しく躬を反らせ己を罪し、旁らに賢良を求めて之を師友とし、貪佞不肖の者を黜け、哀痛の詔を下し、天下の疾苦を去り、無用の官を廃し、不急の費を罷め、暴兵を禁じ、用を節し人を愛し、兢兢乾乾、以て上下に福を僥し、必ずや天を感ぜしめ神応ぜしめ、妖災を反たせ和気と為すを得べし。

又言う、

江淮・山南諸道の兵を減じて国用に贍すべし。陛下初め臣の言を愚と為さず、然して即ち施行を許すも、今に及びはい然たる詔無し、臣窃かに之を遅しとす。今天下唯だ朔方・隴西に吐蕃・仆固の虞有り、邠・涇・鳳翔の兵以て之に当つるに足る。此より往く、東は海に洎ぎ、南は番禺に至り、西はしょくはしょくを尽くすまで、鼠窃の盗無く、而して兵解かず。天下の貨を傾け、天下の谷を竭くして、用いざるの軍に給し、端無きの費と為す、臣其の故を知らず。仮令安きに居りて危きを思うも、以て不虞に備えんとすれば、自ら害を阨するの地に、俾ち屯禦を置かしめ、其の余を悉く休め、以て糧儲扉屨の資を疲人の貢賦に充て、歳に国租の半を減ずるを得べし。陛下豈に改作に遅疑し、旧貫に逡巡して、大議の壅るる所有らしめ、而して率土の患日一日に甚だしからしめんや。是れ其の弊を益し其の疾を厚くするなり。夫れ癰を療する者は、必ず之を決して潰さしむ。今兵の患と為すは、猶お癰の如し、漸を以て之を戢めざれば、其の害滋大、大にして之を図れば、必ず力倍にして功寡く、豈に『易』の「終日を俟たず」の義ならんや。

俄かに太常博士に改む。或る者、景皇帝は太祖と為すべからずと言う。及は礼に拠り条上す。呂諲・盧弈・郭知運等の謚に浮美無く、隠悪無く、褒貶の正を得たり。礼部員外郎に遷り、濠・舒二州刺史を歴任す。歳饑旱し、隣郡は庸亡すること什四以上、舒人は独り安し。治課を以て検校司封郎中を加えられ、金紫を賜う。常州に徙る。甘露其の廷に降る。卒す。年五十三。謚して憲と言う。

また喜んで後進を鑑識し抜擢し、梁肅・高參・崔元翰・陳京・唐次・齊抗らは皆師事した。性質は孝行で友愛に厚い。その文章は善悪を明らかにし、議論に長じていた。晩年は琴を好み、眼病を患ったが、治療を肯んぜず、聴覚を専一にさせようとした。子に朗・郁がいる。

及の子 朗

朗は字を用晦といい、処士から江西・宣歙・浙東の三府に辟召されて官に就いた。元和年間、右拾遺に抜擢された。建言して言うには、「観察使に本道の塩鉄を管轄させ、場監の管榷吏を廃止し、百姓の患いを除くべきである」と。聞き入れられなかった。賊が武元衡を殺害すると、朗は京兆尹を貶官し、賊を捕らえた吏を誅殺するよう請うた。ついで兵を罷めるよう勧めたため、憲宗の意に逆らい、興元戸曹参そうしん軍に貶された。久しくして殿中侍御史に任ぜられ、史館修撰を兼ねた。李景儉と酒を飲んだことで連座し、景儉が酒に任せて宰相を侮慢したため、韶州刺史として出された。召還されて、再び諫議大夫に遷った。

敬宗の初め、宦官が鄠県令崔発を鶏幹の下で殴打した。朗は首悪を誅殺して常法を正すよう請うた。王播が権力者に賄賂を贈り、塩鉄判官に復帰しようとしたが、朗は連続して上疏して論じ固執した。御史中丞に遷った。故事によれば、御史を選ぶには皆中丞が自ら請うものであった。この時、崔晁・鄭居中が宰相の力によって監察御史を得ようとしたが、朗は拒んで受け入れず、晁・居中は結局他の官に改まった。侍御史李道樞が酔って朗に謁見した。朗は不敬を弾劾し、司議郎に降格させた。時に殿中王源植が貶官されたが、朗はその冤罪を正し、五度上書しても回答がなく、自ら法を執ることが適任でないと弾劾し、罷免を願い出た。帝は宦官を遣わして慰諭し、許さなかった。文宗の初め、工部侍郎に遷り、福建観察使として出され、背中に癰を発して卒した。右散騎常侍さんきじょうじを追贈された。

及の子 郁

郁は字を古風といい、生まれてすぐ孤児となり、朗と共に伯父の汜に養育された。進士第に及第し、最も権徳輿に称賛され、娘を娶らせた。元和初め、制科の高等に挙げられ、右拾遺に任ぜられ、まもなく史館修撰を兼ね、右補闕に進んだ。吐突承璀が王承宗を討とうとした時、郁は不可と主張し、議論は剛直で確固としており、職務に適うと称された。翰林学士に抜擢された。徳輿が政務を補佐すると、嫌疑を避けて内職を去り、考功員外郎に任ぜられ、引き続き修撰を兼ねた。憲宗は徳輿に良い婿がいることを嘆賞し、宰相に命じて世族から高く選ばせた。そこで杜悰が岐陽公主を娶ったが、帝はなお徳輿が郁を得たには及ばないと言った。まもなく知制誥を掌った。徳輿が去位すると、学士に戻った。九年、病気を理由に禁中の近職を辞し、秘書少監に転じ、鄠に隠居して卒した。年四十。絳州刺史を追贈された。郁は高雅な名声があり、帝の遇すること厚く、議する者も宰相に当たるべきと言い、皆早世を惜しんだ。

子の庠は字を賢府といい、父を喪った時わずか十歳で、至極の孝心があり、父の官名を呼ばれることや弔問客が来るのを聞くたびに、号泣してほとんど絶えんばかりであった。後に進士に挙げられ、尚書丞に至った。

顧少連

顧少連は字を夷仲といい、蘇州呉の人である。進士に挙げられ、特に礼部侍郎薛邕に器重され、上第に抜擢され、抜萃科により登封主簿に補された。県内に虎の災いがあり、民はこれを患っていた。少連は罠を塞ぐよう命じ、ただ岳神に移文しただけで、虎は害をなさなくなった。御史大夫於頎が監察御史に推薦した。徳宗が奉天に幸した時、徒歩で詣で謁見し、水部員外郎・翰林学士に任ぜられた。再び中書舎人に遷り、十年を経て、謹密と称された。かつて先祖の墓所を洛陽に移すよう請うた。帝は遠く離れることを重んじ、詔してその子を行かせ、かつ宦官に命じて葬儀の労を助けさせた。

吏部侍郎を歴任した。裴延齢がまさに横暴で、逆らう者はいなかった。かつて田鎬の邸宅で少連と会し、酒が酣になった時、少連は笏をまっすぐに掲げて言った。「段秀実は笏で賊臣を撃った。今わが笏は奸臣を撃たんとする!」奮い立ち前に進んだ。元友直が同席しており、和やかにこれを解いた。京兆尹に改めた。政治は寛大簡素を尊び、目立つ名声を求めなかった。先に、京畿の租賦は厚薄一様でなかったが、少連は法によってこれを均しくした。吏部尚書に遷り、本県男に封ぜられ、兵部に転じた。東都留守として、禁苑および汝の閑田を募耕して民に便ならしめるよう上表し、武力を検閲し、鎧仗を整え、良吏と称された。卒した。年六十二。尚書右僕射を追贈され、諡を敬といった。

初め、少連は末子の師閔を連れて行在所に奔った。詔があって共に翰林院に止宿することを許され、車駕が還ると、同州参軍に任ぜられた。

韋夏卿

韋夏卿は字を雲客といい、京兆万年の人である。若くして学問に精通し、文辞に優れていた。大暦年間、弟の正卿と共に賢良方正科に挙げられ、皆策問で高等となった。高陵主簿に任ぜられ、累遷して刑部員外郎となった。時に連年旱魃と蝗害があり、詔によって郎官が畿県の長官となることとなり、奉天令に任ぜられ、考課第一となり、長安令に改まった。吏部員外郎・郎中に転じ、給事中に抜擢され、常州・蘇州の刺史として出された。徐州節度使張建封が病篤くなると、詔して夏卿を徐泗行軍司馬とし、かつ代わらせようとした。到着しないうちに建封が卒し、徐州軍はその子の愔を留後として立てた。夏卿は召されて吏部侍郎となった。

時に従弟の執誼が翰林にいた。かつて人の金を受け、何らかの依頼があり、密かに金を夏卿の懐中に入れた。夏卿は懐を破って受けず、言った。「我と汝は先人の遺徳により、この地位に至った。まさかこのようなことをすべきであろうか。」執誼は大いに慚じた。京兆尹・太子賓客に転じ、検校工部尚書となり、東都留守となったが、病気を理由に辞し、太子少保に改まった。卒した。年六十四。尚書左僕射を追贈され、諡を献といった。

夏卿の性質は通達簡素で、古を好み遠い韻致があり、談説は博識であった。晩年、罷めて帰ろうとする時、その居宅に「大隠洞」と名付けた。齊映・穆贊・贊の弟の員と親善し、同じく遊んでも、一年中その喜怒を見せなかった。孤児となった甥を養育する恩情は己が子を越えた。政治を行うに、道理を通すことを務め、あまり条教を作らなかった。辟召した士人、路隋・張賈・李景儉らは、宰相や高官に至り、故に世に人を知ると称された。

夏卿の従子、瓘。

正卿の子、瓘、字は茂弘、進士第に及第し、官は累ねて中書舎人に至る。李徳裕と親善し、徳裕が宰相に任ぜられた時、士人と接すること稀であったが、唯だ瓘のみは往きて請うて間隙がなかった。李宗閔はこれを憎み、徳裕が罷免されると、明州長史に貶せられた。会昌の末、累ねて楚州刺史に遷り、終に桂管観察使となった。

段平仲。

段平仲、字は秉庸、本は武威の人、隋の民部尚書段達の六世の孫。進士第に擢でられる。杜佑・李復が淮南を節度した時、連ねて表して掌書記を任じた。監察御史に擢でられる。磊落として気節有り、酒を嗜み敢えて言う。是の時、徳宗は春秋高く、躬自ら聴断し、天下の事に壅隔する所有り、群臣は帝の苛察を畏れ、敢えて言う者無し。平仲は常に曰く、「上は聡明神武なれど、但だ臣下が畏怯し、自ら循黙を為すのみ。我をして一日召見を得しめば、宜しく大いに開納有るべし」と。時に京師旱魃有り、詔して御史・郎官を択び倉を開き振恤せしむ。平仲と考功員外郎陳帰と選ばれ、同に対を得、粗に振恤の事を陳ぶ。帝其の意に畜える所有るを察し、帰が側に在りて未だ言わざるを以て、事訖りて平仲方に独り進む。帝乃ち並びに帰を留め、正色して之を問い、雑に他の語を以てす。平仲錯牾して言を得ず、乃ち謬りに名を称す。帝怒り、叱して之を去らしむ。蒼黄として幄後に向かう。帰趨り降りて之を招く、乃ち去るを得たり。是に由り坐して廃すること七年、然れども名は是に由り顕る。

元和初、諫議大夫と為り、憲宗吐突承璀をして鎮州を討たしむるに、亟に疏を上り争い、不可とす。及び還りて功無く、又請うて之を斬らんとす。再び尚書右丞に遷る。朝廷に得失有れば、未だ嘗て論奏せざること無し、世其の敢えて直なるを推すと云う。終に太子左庶子となる。

賛に曰く、君に常の尊有り、臣に定の卑有り、是れ自然の勢なり。然れども臣自ら上に通ぜず、君降りて諸を下に逮せずんば、則ち治成らずして功顕れず。是に返れば天下の務粲として幾からん。徳宗察察として、臣下を折伏せんと欲し、自ら聡明を為すも、而して治愈よ疏なり。段平仲一たび上に忤い、蒼惶として対を失うも、而も猶以て名を取りしは、何ぞや。下其の職する所を知り、而上其の以て上と為る所以を喪うなり。故に聖王は己を屈して諫に従い、君臣両に其の美を得るは、道の本を知れるか。

呂元膺。

呂元膺、字は景夫、鄆州東平の人。姿儀瑰秀、器識有り。始め京師に遊び、故宰相斉映に謁す。映嘆じて曰く、「吾は婁・郝を識るに及ばず、殆ど是れ斯の人の類か」と。賢良に策して高第、安邑尉に調じ、長春宮判官に辟せらる。李懐光河中に乱すや、輒ち解き去る。論惟明渭北を節度し、表して其の府を佐けしむ。惟明卒す、王棲曜之に代わる。徳宗棲曜に勅して元膺を留めて自ら佐けしめ、入りて殿中侍御史に拝す。右司員外郎を歴る。出でて蘄州刺史と為る。嘗て囚を録す。囚或いは白す、「父母在り、明日歳旦に省するを得ず、恨みと為す」と。因りて泣く。元膺惻然とし、悉く械を釈して之を帰し、而して還期を戒む。吏「不可」と白す。答えて曰く、「吾は信を以て人に待つ、人豈に我に違わんや」と。期に如期にして至る。是より群盗感愧し、悉く境を避けて去る。

元和中、累ねて給事中に擢でらる。俄に同州刺史と為る。既に謝し、帝逮いで政事を問う。対する所詳詣なり。明日、宰相に謂いて曰く、「元膺直気讜言、宜しく左右に留むべし、奈何ぞ之を出す」と。李藩・裴垍謝し、因りて言う、「陛下此に及ぶは、乃ち宗社無疆の休なり。臣等昧死して元膺を留めて給事左右せしめんことを請う」と。未だ幾ばくもせず、皇太子侍読を兼ね、御史中丞に進む。鄂嶽観察使に拝す。嘗て夜城に登らんとす。守者許さず。左右曰く、「中丞なり」と。対えて曰く、「夜は弁ず可からず」と。乃ち還る。明日、守者を擢でて大将と為す。入りて尚書左丞に拝す。度支使潘孟陽・太府卿王遂互いに悪み交わす。乃ち孟陽を散騎常侍に除し、遂を鄧州刺史と為し、詔辞に軽重を加えず。元膺其の詔を上り、枉直を明らかにし、以て褒懲を顕わさんことを請う。

江西の裴堪、虔州刺史李将順の賄を受くるを按じ、覆訊せずして貶す。元膺曰く、「観察使部刺史を奏す、覆を加えずんば、当に誅すべしと雖も、猶天下の法と為す可からず」と。御史を遣わして按問せしめんことを請う。宰相能く奪うこと能わず。

選ばれて東都留守に拝す。故事に、留守には旗甲を賜う。元膺に至りては給せず。或る上言す、「兵を用いて淮西を討つに、東都は賊に近く、其の儀を損じ、威望を沮ぐ。請う、華・汝・寿の三州に比せよ」と。帝聴かず、並びに三州を罷む。留守に旗甲を賜わざるは、此より始まる。都に李師道の留邸有り、邸兵と山棚と謀り窃かに発せんとす。事覚る。元膺之を禽え破る。始め、盗発するや、都人は震恐し、守兵弱く恃むに足らず。元膺城門に坐し指縱部分し、意気閑舒、人頼りて以て安んず。東畿西南は鄧・虢に通じ、川谷曠深、麋鹿多く、人は射猟を業とし農に事えず、遷徙常無く、皆趫悍にして闘を善くし、号して「山棚」と曰う。権徳輿居守たりし時、将に之を羈縻せんとすも、克せず。是に至り、元膺募りて山河子弟と為し、宮城を衛わしむ。詔して可とす。

河中節度使に改む。時に方鎮多く姑息す。独り元膺は正を秉し自ら将たり。監軍及び中人往来する者、厳憚せざる無し。入りて吏部侍郎に拝す。正色して朝に立ち、台宰の望有り、事を処するに裁宜、人其の礼有るを服す。疾を以て太子賓客に改む。官に居ること終始訾缺無し。卒す。年七十二。吏部尚書を贈らる。

許孟容。

許孟容、字は公範、京兆長安の人。進士異等に擢でられ、又明経に第し、校書郎に調ぜらる。武寧張建封の府に辟せらる。李納兵を以て境を拒ぐ。建封使いを遣わし諭して止めしむ。前後三輩往くも、皆聴かず。乃ち孟容をして納に見えしめ、逆順を敷引す。納即ち悔謝し、兵を罷むるを為す。表して濠州刺史と為す。

徳宗其の能を知り、召して礼部員外郎に拝す。公主の子崇文生に補わんことを求む。孟容固より不可と謂う。主之を訴う。帝状を問う。著令を以て対う。帝其の守るを嘉し、郎中に擢つ。累ねて給事中に遷る。京兆上言す「好畤に風雹有りて稼を害す」と。帝宦人を遣わし覆視せしむ。実ならず。尹以下の俸を奪う。孟容曰く、「府県事を上ること実ならずんば、罪は罰すべし。然れども陛下宦者を遣わし覆視せしむるは、綱紀を紊す。宜しく更に御史一人を択び参験せしむべし、乃ち可なり」と。聴かず。

浙東観察使裴粛は判官の斉総に暴斂を委せて厚く献上し、天子の欲する所を満たした。時に裴粛が卒すると、帝は総を大理評事兼監察御史より抜擢して衢州刺史とした。衢は大州である。孟容は詔書を返して言うには、「兵を用いる所には、順序を待たずに抜擢する者がある。今衢は他に憂い無く、総は功績無くして越進・超授され、群議は何と言うか。且つ総は元は判官であり、今の詔書には『権知留後、摂都団練副使』とあるが、初めに制書による授けは無く、特にその可なるを見ず。仮令総に録すべき所あらば、宜しく課最を顕わし、中外の惑いを解くべし。」時に補闕の王武陵等もまた執って争い、ここにおいて詔は中停された。帝は召して謂うには、「百執事皆卿の如くならば、朕何ぞ憂えんや。」袁高が盧杞を争って以来、凡そ十八年、門下に議して可否する者無し。孟容に至りて数え論駁し、四方は天子が士を開き納れるを知り、浩然としてその風を想い見る。

貞元十九年夏、大旱し、上疏して言うには、「陛下は斎居して膳を損じ、牲玉を具え、群望に走るも、天意未だ答えず。豈に豊凶定まり有り、陰陽適然たるや。窃かに惟うに、天人交感の際は、教令の民に順うか否かに係る。今戸部の銭は度支の歳計に非ず、本緩急に備う。若し百万緡を取って京兆の一歳の賦に代うれば、京畿に流亡無く、災を振るって福と為す。又応に流移・征防で当に還るべくして未だ還らざる者、役作・禁錮で当に釈すべくして未だ釈さざる者を省察すべし。負逋・饋送は、当に免ずるはこれを免し、沈滞・鬱抑は、当に伸ぶるはこれを伸ぶべし。以て人に順い天に奉ずるなり。若し是くの如くにして神祐まず、歳稔らずというは、未だこれを聞かず。」先に、裴延齢・李斉運により流斥された者は、十年と雖も内移せず、故に孟容は旱に因りてこれに及ぶ。帝初めは悦ばず、太常少卿に改む。

元和初、再び尚書右丞・京兆尹に遷る。神策軍は興元以後より、日に驕恣し、府県これを制す能わず。軍吏の李昱は富人の銭八百万を貸り、三年にしても肯って帰さず。孟容は吏を遣わして捕え詰め、期をこれに与えて償わしめ、曰く、「期に如かざれば、将に死すべし。」一軍尽く驚き、朝に訴う。憲宗は詔して昱を軍に付してこれを治めしむ。再び使を遣わすも、皆聴かず、奏して曰く、「詔を奉ぜずんば、臣当に誅せらるべし。然れども臣の職は輦轂を司り、当に陛下のために豪強を抑うべし。銭未だ尽く輸せずんば、昱を得可からず。」帝その守正を嘉し、これを許す。京師の豪右大いに震う。

累遷して吏部侍郎となる。盗が武元衡を殺す。孟容は宰相に白して曰く、「漢に一の汲黯有りて、奸臣謀を寝めき。今朝廷に過失無くして、狂賊敢えてかくの如し。尚た国に人あるを謂うか。願わくは天子に白し、裴中丞(裴度)を起して政を輔けしめ、兵柄を主らしめ、賊党を索めしめよ。罪人得べし。」後数日、果たして度を相とす。俄かに尚書左丞として汴宋陳許河陽行営を宣慰し、東都留守を拝す。卒す。年七十六。太子少保を贈られ、謚して憲という。

孟容は方正剛勁にして礼学有り、毎に折衷する所、咸くその正を得たり。士を提掖するを好み、天下の清議これを上ぐ。

孟容の弟 季同

弟の季同は、始め西川の韋臯の府に判官として署せらる。劉辟反すに及び、妻子を棄てて帰り、監察御史を拝す。長安令を歴任し、再び兵部郎中に遷る。孟容が礼部侍郎たりし時、季同を京兆少尹に徙す。時に京兆尹の元義方が鄜坊観察使として出で、奏して宰相の李絳を劾す。季同と進士として同年なり、才数月にして輒ち徙す、と。帝以て絳に問う。絳曰く、「進士・明経は、歳大抵百人、吏部に官を得るは千人に至る。私に同年と謂うも、本より親と旧とに非ず。今季同は兄の嫌いに以て少尹に徙す。豈に臣の助けし所ならんや。且つ忠臣の君に事うるは、私を以て公を害せず。設い才有らば、親旧と雖も当に白用すべし。嫌を避けて用いざるは、乃ち臣下の身謀にして、天子の人を用うるの意に非ず。」帝然りとす。終に宣歙観察使となる。

薛存誠

薛存誠、字は資明、河中宝鼎の人。進士第に中る。擢て累ねて監察御史となる。元和初、劉辟を討つに当たり、郵伝の事叢雑す。詔して中人を以て館駅使と為す。存誠は体を害すること甚だしと以為い、奏してこれを罷む。殿中侍御史に転じ、累遷して給事中となる。瓊林庫広く工徒を籍す。存誠曰く、「此れ奸人の名を羼して征役を避くるなり。許すべからず。」又た神策軍と咸陽尉の袁儋平らかならず、誣ってこれを奏す。儋罰せらる。二つの敕皆執して下さず。憲宗悦び、使を遣わしてこれを労い、御史中丞を拝す。浮屠の鑒虚という者は、貞元中より賂遺に関通し、宦豎に倚りて奸を為す。時に于頔・杜黄裳の家事に坐し、逮捕されて獄に下る。存誠窮めてこれを劾し、贓数十万を得、大辟に当たる。権近更に帝に保救す。詔有りてこれを釈す。存誠聴かず。明日、詔使台に詣りて諭して曰く、「朕この囚を須いて面詰す。赦に非ず。」存誠奏して曰く、「獄已に具わる。陛下必ず召してこれを赦せんと欲せば、請う先ず臣を殺し然る後可なり。然らずんば、臣詔を奉ぜず。」鑒虚遂に死に抵る。江西監軍の高重昌妄りに信州刺史の李位を劾して謀反すと為し、追付して仗内に詰状せしむ。存誠一日に三表し、請う位を御史台に付すべしと。按ずるに及び、果たして実無し。

未だ幾ばくもせず、復た給事中と為る。時に御史中丞闕く。帝宰相に謂いて曰く、「憲を執るに存誠に易うる者無し。」乃ち復たこれを命ず。時に暴卒す。帝悼惜し、刑部侍郎を贈る。存誠の性は和易にして、人に容れざる所無し。及んで官に当たれば、毅然として奪う可からず。子に廷老有り。

存誠の子 廷老

廷老、字は商叟、進士第に及び、讜正にして父の風有り。宝暦中、右拾遺と為る。敬宗の政日くに僻し。嘗て舒元褒・李漢と共に入閣して論奏して曰く、「比来除拜は宰司の擬進に由らず。恐らくは綱紀浸く壊れ、奸邪放肆せん。」帝厲語して曰く、「更に何事を論ずる。」元褒曰く、「宮中の興作甚だし。」帝色変じて曰く、「興作何の所ぞ。」元褒対うる能わず。廷老曰く、「臣等は諫を職とし、聞く有れば即ち応に論奏す。然れども外に材瓦を輦するの絶えて多きを見、営む所有るを知る。」帝曰く、「已に諭す。」時に清思院を造り、殿中に銅鑒三千、薄金十万餅を用う。故に廷老等懇ろにこれを言う。尋いで史館修撰を加う。

鄭註用いられし時、嶺南節度使の鄭権これに附き、悉く公庫の宝貨を盗みて註の家に輸じ謝と為す。廷老表して権の罪を按ず。ここにおいて中人切歯す。又た李逢吉の党の張権輿・程昔範の諫争の官に居るべからざるを論ず。逢吉怒る。時に廷老が百日を告げ満つるに会い、出でて臨晋令と為る。文宗立ち、召して殿中侍御史と為す。李讓夷数えこれを薦む。翰林学士を拝す。日に酣飲し、検操を持せず。帝悦ばず、並びに讓夷を罷む。開成三年、給事中に遷る。公卿の間において侃侃として虚誉を干せず、正人と推さる。卒す。刑部侍郎を贈らる。

子の保遜、進士第に及ぶ。擢て累ねて給事中となる。

保遜の子の昭緯、乾寧中、礼部侍郎に至る。性軽率にして、事に坐し磎州刺史に貶せらる。

李遜

李遜、字は友道、魏の申公李発の後裔にして、趙郡にて申公房と称せられる一族なり、荊州に客居す。初め山南東道掌書記に署せられ、累遷して濠州刺史となる。初め、濠州の兵、その将楊騰を謀殺せんとし、騰は揚州に走り、これにより騰の家を滅ぼし、兵卒は逃亡し剽劫す。遜至るや、利害を鐫諭し、衆は鎧を解き自ら帰順す。観察使の旨、限外の浮斂を命ずるも、遜は一も応ぜず。入朝して虞部郎中となる。衢州刺史より政績最上として抜擢され浙東観察使となる。貞元初めの頃、福建軍乱あり、前観察使、兵三千を益して境に屯せしむるを奏し、以て閩の衝を折らんとし、遂に長戍となり、幾三十年。遜、事を署するや、即ちその兵を停む。

入朝して給事中となる。故事、天子は畸日に政を聴き、群臣に対す。遜奏す、「陛下治を求め給うに、下より陳ぶる所あらば、時に応じて上るべし、豈に日を以て限るべきや?かくの如くせば、歳を畢えて天子を望み得る者幾何ぞ?」憲宗悦び、これに従う。戸部侍郎に遷る。

厳綬に代わり山南東道節度使となる。時に方に蔡を討たんとし、山南東道を析いて両節度と為す:唐・鄧・隋の三州を高霞寓に授け、専ら攻討を得しめ、而して遜は襄・復・郢・均・房の五州の賦饋を督む。初め、襄陽の兵、霞寓に隷する者多く逃還す。後、霞寓賊に戦いて勝たず、遜に橈かれたりと言う。帝、状を按ぜんと欲す。宰相、置いて問わざるを請う。下遷して太子賓客となる。中人これを誣う。更に貶されて恩王傅となる。久しくして乃ち京兆尹・国子祭酒を歴任す。検校礼部尚書を以て忠武節度使となる。時に呉元済始めて平らぎ、治条に疏颣あり。遜、大衆を召会し、約束を申厳し、賞罰を明諭す。上下皆感畏し、衆遂に安んず。遜、政を為すに当たり、強を抑え弱を植え、貧富均一、至る所に績有りて紀すべきものあり。

長慶初め、幽・鎮相継いで乱る。遜、首に誅討の計を建つ。聴かれず。詔して兵万人を以て行営に会せしむ。即日上道し、諸軍に先んじて至る。これにより進みて検校吏部尚書となる。未だ幾ばくもせず、節を鳳翔に徙す。京師を過ぐるに、疾を以て解くを求め、刑部尚書となる。卒す。年六十三。尚書右僕射を贈られ、謚して貞と曰う。

遜の子 方玄

子方玄、字は景業、進士に及第す。裴誼、奏して江西府判官に署す。大獄有り、死を論ぜらるる者十余囚、方玄その冤を刺審し、悉く平らかにこれを貸す。累遷して池州刺史となる。戸籍を鉤検し、以て徭賦を差量する所以のものは、皆科品程章有り、吏私するを得ず。常に曰く、「沈約年八十にして、手ずから簿書を写す、蓋し此れが為めなり云う。」処州刺史に終わる。

遜の弟 建

遜の弟建、字は杓直、兄と俱に荊州に客居す。郷人の争闘、府に詣でずして建に詣で、平決して偏り無し。母その孝を憐れみ、毎にこれを字して曰く、「㹻子吾に食を勧むれば、吾は輒ち飽く。薬を進むれば、吾は其の瘳ゆるを意う。」貞元中、校書郎を補す。徳宗、文学者を得んと思う。或る者建を以て聞こゆ。帝左右に問う。宰相鄭珣瑜曰く、「臣吏部に為る時、当に校書を補すべき者八人、他の皆貴勢を藉りて以て請う。建独り有ること無し。」帝喜び、左拾遺・翰林学士に擢でる。

順宗立ち、李師古兵を以て曹州を侵す。建詔を作りてこれを諭し還らしむ。詞、仮借せず。王叔文これを更えんと欲すも、建不可とす。左除して太子詹事と為り、改めて殿中侍御史となる。兵部郎中にて制誥を知る。宰相に詔稿を竄定する者有り。亟に職を解くを請い、京兆少尹を除く。会うに遜讒せらる。建これを申治す。出でて澧州刺史となる。召されて刑部侍郎に拝す。卒す。工部尚書を贈らる。

初め、建学を為す時、家苦しく貧し。兄造その賢を知り、為に営丐し、これを成就せしむ。故に遜・建皆進士に挙がる。後、通顕すと雖も、未だ垣屋を治めず、清儉を以て称せらる。

建の子 訥

建の子訥、字は敦止、進士第に及ぶ。累遷して中書舎人となり、浙東観察使となる。性疏卞にして、士に遇うに礼を以てせず、下に逐われ、朗州刺史に貶せらる。召されて河南尹となる。時に久雨、洛水暴漲す。訥、魏王堤を行水し、漂泊を懼れ、疾駆して去る。水遂に大いに民廬を毀つ。議者その材を薄しむ。初め、訥の居、宰相楊收に接す。收、訥の冗舎を市いて以て第を広めんと欲す。訥叱して曰く、「先人の旧廬、権貴の優笑の地たるべきや?」凡そ三たび華州刺史と為り、兵部尚書を歴任し、太子太傅にて卒す。遺命して葬に鹵簿を請わず、贈謚を避く。詔して聴す。