新唐書

巻一百六十一 列傳第八十六 張趙李鄭徐王馮庾

巻一百六十一 列傳第八十六 張趙李鄭徐王馮庾

張薦

原文張薦

張薦、字あざなは孝舉、深州陸沢の人。祖父の鷟、字は文成、幼少より聡明で並ぶ者なき才知あり。幼き時、紫文の大鳥、五色文を成し、その庭に止まる夢を見る。祖父曰く、「吾聞く、五色赤文は鳳なり、紫文は鸑鷟なり。若し壮年ならば、おそらく文章を以て朝廷の瑞たるべし」と。遂に名を以て命ず。調露初年、進士第に登る。考功員外郎騫味道その対策を見て、天下に双ぶものなしと称す。岐王府参軍を授かる。八度制挙に応じ皆甲科、再び長安尉に調じ、鴻臚丞に遷る。四度選に参じ、判策は銓府の最たり。員外郎員半千数度公卿に「鷟の文辞は猶青銅銭の如く、万選万中す」と称し、時に鷟を「青銭学士」と号す。証聖年中、天官侍郎劉奇、鷟及び司馬锽を以て御史とす。性躁卞にして、儻蕩にして檢なく、正人に遇わるること稀く、姚崇特に之を悪む。開元初、御史李全交、鷟が多く口語を以て時政を訕び短ずるを劾し、嶺南に貶す。刑部尚書李日知、斥が重きに過ぐると訟え、内徙を得る。鷟属文すれども下筆すれば輒ち成り、浮艷にして理致少なく、その論著は率ね詆誚蕪猥なりと雖も、然れども大いに一時に行われ、晚進伝記せざるは莫し。武后の時、中人馬仙童、默啜に陷り、問うて曰く、「文成在りや否や」と。答えて曰く、「近く自ら御史より貶官す」と。曰く、「国に此人ありて用いざれば、能く為すこと無きなり」と。新羅しらぎ・日本の使至れば、必ず金宝を出して其の文を購う。終に司門員外郎に至る。

原文張薦,字孝舉,深州陸澤人。祖鷟,字文成,早惠絕倫。為兒時,夢紫文大鳥,五色成文,止其廷。大父曰:「吾聞五色赤文,鳳也;紫文,鸑鷟也。若壯,殆以文章瑞朝廷乎?」遂命以名。調露初,登進士第。考功員外郎騫味道見所對,稱天下無雙。授岐王府參軍。八以制舉皆甲科,再調長安尉,遷鴻臚丞。四參選,判策為銓府最。員外郎員半千數為公卿稱「鷟文辭猶青銅錢,萬選萬中」,時號鷟「青錢學士」。證聖中,天官侍郎劉奇以鷟及司馬锽為御史。性躁卞,儻蕩無檢,罕為正人所遇,姚崇尤惡之。開元初,御史李全交劾鷟多口語訕短時政,貶嶺南;刑部尚書李日知訟斥太重,得內徙。鷟屬文下筆輒成,浮艷少理致,其論著率詆誚蕪猥,然大行一時,晚進莫不傳記。武後時,中人馬仙童陷默啜,問:「文成在否?」答曰:「近自御史貶官。」曰:「國有此人不用,無能為也。」新羅、日本使至,必出金寶購其文。終司門員外郎。

薦は敏銳にして文辞あり、『周官』・『左氏春秋』を能くす。初め、顔真卿に嘆賞せらる。大暦年中、浙西観察使李涵、才史官に任ずべきを表薦し、詔して左司禦率府兵曹参軍を授く。母老を以て辞し就かず。喪除く、礼部侍郎於邵以て聞こえ、召して史館修撰を充たし、陽翟尉を兼ぬ。真卿、李希烈に拘へらる。兄の子峴及び家僕を遣わして事を奏せしむるに、五輩皆内客省に留め、出づるを得ず。薦上疏して曰く、

原文薦敏銳有文辭,能為《周官》、《左氏春秋》。初,為顏真卿嘆賞。大歷中,浙西觀察使李涵表薦才任史官,詔授左司禦率府兵曹參軍,以母老辭不就。喪除,禮部侍郎於邵以聞,召充史館修撰,兼陽翟尉。真卿為李希烈所拘,遣兄子峴及家仆奏事,五輩皆留內客省,不得出。薦上疏曰:

去る正月の中、真卿淮西に奉使し、期は先に戒めず、行は素より備え無し。命を受けたる後、家に宿せず、親黨告別に遑あらず、介副陳請に及ばず、孱僮単騎、即日に馳す。奸鋒を臨汝に冒し、元悪を許下に折り、躯を捐て義に杖ち、威て群兇を詬り、遂に脅制する者をして慮を回らせ、忠勇なる者をして情を肆わしむ。周曾は外に奮発し、韋清は内に伺応し、希烈蒼黄窘迫し、旧穴に奔固す。蓋し真卿の義風の激する所なり。真卿逮て四朝に事え、国の元老たり。忠直孝友、王室の羽儀たり。行年八十、羸老の疾を被り、環堵の間に拘囚せられ、鉤戟の下に顧眄し、呼嗟憤恚し、寝を失い食を忘る。悲翁何を以てか此れに堪えんやを知らず。

原文去正月中,真卿奉使淮西,期不先戒,行無素備。受命之後,不宿於家,親黨不遑告別,介副不及陳請,孱僮單騎,即日載馳。冒奸鋒於臨汝,折元惡於許下,捐軀杖義,威詬群兇,遂令脅制者回慮,忠勇者肆情。周曾奮發於外,韋清伺應於內,希烈蒼黃窘迫,奔固舊穴,蓋真卿義風所激也。真卿逮事四朝,為國元老,忠直孝友,羽儀王室。行年八十,被羸老之疾,拘囚環堵之間,顧眄鉤戟之下,呼嗟憤恚,失寢忘食,不知悲翁何以堪此!

伏して聞く、希烈の母、幼子を鐘念し、目絶えず泣き、希烈を責め求む。又希烈の妻の祖母郭及び妻の妹封並びに逮捕せられ京師に至る。此の三人留むるも益無し。請うらくは境上に寘きて以て真卿を贖わしめ、先ず詔書を降し、分明に諭告せよ。且つ希烈真卿の人望を知り、敢えて害を加えず。既に嫌隙無く、只だ因循して未だ遣わさざるのみ。若し其の親愛を帰せば、賊亦何ぞ一使を還すを吝しまんや。

原文伏聞希烈之母,鐘念幼子,目不絕泣,求責希烈;又希烈妻祖母郭及妻妹封並逮捕京師。此三人留之無益,請寘境上以贖真卿,先降詔書,分明諭告。且希烈知真卿人望,不敢加害,既無嫌隙,但因循未遣耳。若歸其親愛,賊亦何吝還一使哉?

臣又聞く、真卿の遣わす所の兄の子峴及び家僮、官に従い表を奉じて来る者五輩、皆中に留めらる。其の子頵等拳拳として実に一見を希う。望むらくは休澣を許し、安否を告げしめよ。疏奏すれども、盧杞之を持し、報ぜず。

原文臣又聞真卿所遣兄子峴及家僮從官奉表來者五輩,皆留中,其子頵等拳拳實希一見,望許休澣,告以安否。疏奏,盧杞持之,不報。

朱泚反す。詭姓名して城中に伏匿し、『史遁先生伝』を著す。京師平らぎ、左拾遺に擢る。詔して復た杞を用いて刺史とせんとす。薦、陳京・趙需等と共に杞の奸悪傾覆、用うべからざるを論じ、入対して挺確たり。徳宗之を納る。

原文朱泚反,詭姓名伏匿城中,著《史遁先生傳》。京師平,擢左拾遺。詔復用杞為刺史,薦與陳京、趙需等論杞奸惡傾覆不當用,入對挺確,德宗納之。

貞元元年、帝親しく郊す。時に兵乱を更め、礼物残替す。薦を以て太常博士と為し、典儀に参綴せしむ。略旧章の如し。刑部尚書関播、節を持ち鹹安公主を回紇かいこつに送る。薦を以て判官と為す。還り、工部員外郎に遷る。久しくして、諫議大夫に擢り、復た史館修撰と為る。

原文貞元元年,帝親郊。時更兵亂,禮物殘替,用薦為太常博士,參綴典儀,略如舊章。刑部尚書關播持節送鹹安公主於回紇,以薦為判官。還,遷工部員外郎。久之,擢諫議大夫,復為史館修撰。

時に裴延齢用事し、俊良を中傷し、建白帝の意に当らざる莫し。薦将に其の悪を疏せんとす。延齢之を知り、因りて帝に言いて曰く、「諫議は朝政の得失を論じ、史官は人君の善悪を書く。二者兼ぬべからず」と。薦秘書少監に改む。延齢必ず罪を以て之を斥廃せんと欲す。会に使を遣わし回鶻の毗伽懐信可汗を冊す。薦をして回鶻に至らしむ。還りて監と為る。吐蕃とばんの贊普死す。薦を工部侍郎に擢り、弔祭使と為す。薦占対詳辯たり。三度絶域に使し、始め侍御史・中丞を兼ね、後大夫と為る。赤嶺に次ぎ、病に被り卒す。年六十一。吐蕃其の柩を伝えて帰す。順宗立ち、問至り、礼部尚書を贈り、謚して憲と曰う。

原文方裴延齡用事,中傷俊良,建白無不當帝意。薦將疏其惡,延齡知之,因言於帝曰:「諫議論朝政得失,史官書人君善惡,二者不可兼。」薦改秘書少監。延齡必欲以罪斥廢之。會遣使冊回鶻毗伽懷信可汗,使薦至回鶻。還為監。吐蕃贊普死,擢薦工部侍郎,為吊祭使。薦占對詳辯,三使絕域,始兼侍御史、中丞,後大夫。次赤嶺,被病卒,年六十一,吐蕃傳其柩以歸。順宗立,問至,贈禮部尚書,謚曰憲。

薦拾遺より侍郎に至るまで、凡そ二十年、常に史館修撰を兼ぬ。初め、貞元の時、京師旱す。帝正殿を避け、膳を減ず。薦日に限りて以て古制に応ずるを白す。及び昭徳皇后の廟楽を定め、献・懿二祖を遷し、太儀の位号・大臣の祔廟鼓吹の法を定むるに、参裁せざる莫く、諸儒博にして詳なりと謂う。著する所の書百余篇。子又新、別に伝有り。

原文薦自拾遺至侍郎,凡二十年,常兼史館修撰。初,貞元時,京師旱,帝避正殿,減膳,薦白限日以應古制。及定昭德皇后廟樂,遷獻、懿二祖,定太儀位號、大臣祔廟鼓吹法,莫不參裁,諸儒謂博而詳。所著書百餘篇。子又新,別有傳。

薦の孫 読

原文薦孫 讀

孫読、字は聖用、幼くして穎解たり。大中時に進士第に及ぶ。鄭薰辟して宣州幕府に署す。累遷して礼部侍郎に至る。中和初め吏部と為り、選牒精允たり。官を調えて二年を丐い留まらんことを請う。詔して可とし、其の事を曹門に榜す。後弘文館学士を兼ね、院事を判じ、卒す。

原文孫讀,字聖用,幼穎解。大中時第進士,鄭薰辟署宣州幕府。累遷禮部侍郎。中和初為吏部,選牒精允。調官丐留二年,詔可,榜其事曹門。後兼弘文館學士,判院事,卒。

趙涓

原文趙涓

趙涓は冀州の人である。幼くして文才があり、天寶の時に進士に及第し、郾城尉を補任され、次第に臺省の官を歴任した。河南の王縉が引き立てて副元帥府判官に任用した。德宗の初め、衢州刺史となった。初め、永泰の時、禁中に火災があり、東宮に近かったため、代宗はこれを疑った。趙涓は監察御史として巡使となり、検証審理は明らかで詳細であり、火の来た跡を調べると、それは宦官の直舎であった。帝(德宗)は東宮にいた時、大いに彼を徳とした。衢州を治めるに及んで、觀察使韓滉に容れられず、奏上されて官を免ぜられた。帝はその名を見て、宰相に問うて言う、「これは永泰の時の御史であろうか」と。答えて言う、「そうです」と。詔して尚書左丞に拝任した。到着すると、労って言う、「卿は正直である、朕の知るところである。罪を以て聞こえるとは、信じない」と。吏部選を掌らせた。梁に狩りに従った。興元元年に卒し、戸部尚書を贈られた。

原文趙涓,冀州人。幼有文,天寶時第進士,補郾城尉,稍歷臺省。河南王縉引署副元帥府判官。德宗初,為衢州刺史。始,永泰時,禁中火,近東宮,代宗疑之。涓以監察御史為巡使,驗治明諦,跡火所來,乃宦人直舍。帝在東宮頗德之。及治衢,不為觀察使韓滉所容,奏免官。帝見其名,問宰相曰:「是豈永泰時御史乎?」對曰:「然。」詔拜尚書左丞。既至,勞之曰:「卿正直,朕所自知,乃以罪聞,不信也。」命典吏部選。從狩梁。興元元年卒,贈戶部尚書。

涓の子 博宣

原文涓子 博宣

子の博宣もまた進士第に擢でられた。文藻は豪邁であったが、酒に沈み、傲然としてわずかに行いを整えなかった。陳許の曲環が府に辟召して任用したが、久しく堪えられず、ついに「呉少誠の金を受け取って反間となり、しばしば吉凶を言って衆を惑わした」と誣告した。詔があり、四十回杖打ち、康州に流され、当時の人はこれを冤とした。

原文子博宣,亦擢進士第。藻翰豪邁,沈於酒,傲忽少檢。陳許曲環辟署於府,久不能堪,乃誣「受吳少誠金為反間,數言休咎惑眾」。有詔杖四十,流康州,時人冤之。

李紓

原文李紓

李紓、字は仲舒。初め仕えて校書郎となり、大歷の初め、李季卿が推薦して左補闕となり、累遷して中書舎人となった。德宗が奉天におられた時、禮部侍郎より選ばれて同州刺史となった。帝が梁に駐蹕されると、李紓は城を委ねて行在所に赴き、兵部侍郎・高邑伯に擢でられた。武成王廟を享祀するのは文宣王と同等にすべきでないと建言し、制がこれに従った。李紓の性格は楽易で、後進を喜んで受け入れた。自らの養生はかなり華やかで裕福であり、齷齪とした崖岸な行いはしなかった。官は貴いながらも、遊び縦にすることは自在であった。詔を奉じて『興元紀功述』及びその他の郊廟楽章を作り、論撰は甚だ多かった。吏部侍郎に進んだ。六十二歳で卒し、禮部尚書を贈られた。

原文李紓,字仲舒。始仕為校書郎,大歷初,李季卿薦為左補闕,遷累中書舍人。德宗居奉天,繇禮部侍郎選為同州刺史。帝次梁,紓委城趨行在,擢兵部侍郎、高邑伯。建言享武成王廟不宜與文宣王等,制從之。紓性樂易,喜接後進。其自奉養頗華裕,不為齪齪崖檢。官雖貴,則遊縱自如。奉詔為《興元紀功述》及它郊廟樂章,論撰甚多。進吏部侍郎。年六十二卒,贈禮部尚書。

鄭雲達

原文鄭雲達

鄭雲達、本系は滎陽けいようである。父の戸は郾城尉となり、州刺史が職を移す時、暴悪な民が道を遮って留めようとしたので、戸は六七人を誅殺した。采訪使はこれを奇とし、状況を言上し、北海尉に擢でられた。安祿山が反乱すると、県民の孫俊が市人を駆り立てて応じたので、戸は衆を率いてこれを撃ち殺した。登州司馬に改めた。李光弼が表して武寧府判官とし、沂州刺史に遷り、賊の李浩五千人を諭して降伏させた。終に滁州刺史となった。

原文鄭雲達,系本滎陽。父戶,為郾城尉,州刺史移職,民之暴謷者遮道留,戶誅殺六七人。采訪使奇之,言狀,擢北海尉。安祿山反,縣民孫俊驅市人以應,戶率眾擊殺之。改登州司馬。李光弼表為武寧府判官,遷沂州刺史,諭降賊李浩五千人。終滁州刺史。

雲達は人となり誕譎で敢えて言い、既に進士第に登った後、去って燕朔に客遊し、朱泚はこれを善しとし、表して掌書記とし、滔の娘を妻とした。朱泚が朝見しようとする時、雲達を先に入らせて奏上させたが、同府の蔡廷玉が朱泚に讒言し、奏上されて平州参軍に貶された。滔が朱泚に代わって将となると、再び雲達を辟召して判官とした。廷玉と要藉官の朱體微がある日朱泚と従容として言う、「滔は長者ではなく、兵を付託すべきではない」と。雲達はしばしばその言葉を漏らして滔を怒らせたので、滔が廷玉らを論じて、皆罪を得て死んだ。滔が田悅を助けると、雲達は諫めたが、従わなかったので、遂に家を棄てて自ら帰った。德宗は喜び、諫議大夫に擢でた。帝が梁におられた時、雲達は李晟に依り、李晟が表して禮部侍郎を以て軍司馬とし、時々戎略について諮問した。元和の初め、京兆尹となり、卒した。

原文雲達為人誕譎敢言,已登進士第,去客燕朔,朱泚善之,表為掌書記,妻以滔女。泚將朝,使雲達先入奏,同府蔡廷玉譖於泚,奏貶為平州參軍。滔代泚將,復辟雲達為判官。廷玉與要藉官朱體微它日與泚從容言:「滔非長者,不可付以兵。」雲達數漏其語以怒滔,故滔論廷玉等,皆得罪死。滔助田悅,雲達諫,不從,遂棄室自歸。德宗悅,擢諫議大夫。帝在梁,雲達依李晟,晟表以禮部侍郎為軍司馬,時時咨逮戎略。元和初,為京兆尹,卒。

雲達の弟 方達

原文雲達弟 方達

弟の方達は悖悍で、徒党を結んで剽劫し、父はこれを殺そうとしたが、果たせなかった。雲達は自ら劾して「教えられず、臣の家を赤(滅ぼす)ことを恐れる」と言った。詔して黔州に錮死させた。

原文弟方達,悖悍,結徒剽劫,父欲殺之,不克。雲達自劾「不能教,恐赤臣家」。詔錮死黔州。

徐岱

原文徐岱

徐岱、字は處仁、蘇州嘉興の人、代々農家の子である。学問に通じないものはなく、弁論は明鋭で、座人は常に屈服した。大歷の中ごろ、劉晏が表して校書郎とした。觀察使李棲筠はその賢を欽慕し、その住む所を「復禮郷」と名付けた。名は朝廷に達し、偃師尉に擢でられた。禮儀使蔣鎮が推薦して太常博士とし、専ら禮事を掌らせた。德宗に従って奉天に出て、膳部員外郎を兼ねて博士となった。

原文徐岱,字處仁,蘇州嘉興人,世農家子。於學無所不通,辯論明銳,座人常屈。大歷中,劉晏表為校書郎。觀察使李棲筠欽其賢,署所居為「復禮鄉」。名達於朝,擢偃師尉。禮儀使蔣鎮薦為太常博士,專掌禮事。從德宗出奉天,以膳部員外郎兼博士。

貞元の初め、太子・諸王侍読となり、給事中・史館修撰に遷った。帝は誕生日に毎年詔して仏老者を麟徳殿で大論させ、併せて徐岱及び趙需・許孟容・韋渠牟を召して講説させた。初め三家は矛楯のようであったが、終には善に同帰した。帝は大いに悦び、賜与に差等があった。両宮の恩遇は比類がなかった。性格は篤実で慎重であり、宮殿中では語を未だ嘗て近づけず、人の短を談ぜず、宗族の孤孺なる者は皆婚嫁させた。しかし吝嗇で、自ら家の管鑰を持ち、世に譏られた。卒し、禮部尚書を贈られた。

原文貞元初,為太子、諸王侍讀,遷給事中、史館修撰。帝以誕日歲歲詔佛老者大論麟德殿,並召岱及趙需、許孟容、韋渠牟講說。始三家若矛楯然,卒而同歸於善。帝大悅,賚予有差。兩宮恩遇無比。性篤慎,至宮殿中語未嘗近之,不談人短,宗族孤孺者皆為婚嫁。然吝嗇,自持家管鑰,世所譏云。卒,贈禮部尚書。

王仲舒

原文王仲舒

王仲舒、字は弘中、并州祁の人。若くして江南に客遊し、梁肅・楊憑と交遊し、文名があった。貞元の中ごろ、賢良方正で高第となり、左拾遺に拝された。德宗が裴延齡を相としようとすると、陽城と交章して不可と言った。後に閣に入ると、帝は宰相を顧みて指して言う、「これはまさか王仲舒か」と。俄かに右補闕に改め、禮部考功員外郎に遷った。奏議は詳雅で、省中はその能に伏した。累に坐して連州司戸参軍となり、再び徙って荊南節度参謀となった。

原文王仲舒,字弘中,并州祁人。少客江南,與梁肅、楊憑遊,有文稱。貞元中,賢良方正高第,拜左拾遺。德宗欲相裴延齡,與陽城交章言不可。後入閣,帝顧宰相指曰:「是豈王仲舒邪?」俄改右補闕,遷禮部考功員外郎。奏議詳雅,省中伏其能。坐累為連州司戶參軍,再徙荊南節度參謀。

元和の初め、召されて吏部員外郎となり、間もなく制誥を知る。楊憑が罪を得て斥けられ去ると、敢えてその家を訪れる者なく、仲舒はしばしば彼を慰問した。楊憑の冤罪をまさに直そうとして、峽州刺史に貶せられ、母の喪に服して官を解かれた。喪が明けて、婺州刺史となった。州に疫病と旱魃があり、人は移り死にてほとんど空しくなった。五年を居るうちに、里閭は増して完備し、就いて金紫服を加えられた。蘇州に転じた。松江に堤を築いて道とし、屋瓦を改め、火災を絶ち、賦調は常に民と期日を定め、煩わさずして自ら整った。

原文元和初,召為吏部員外郎,未幾,知制誥。楊憑得罪斥去,無敢過其家,仲舒屢存之。將直憑冤,貶峽州刺史,母喪解。服除,為婺州刺史。州疫旱,人徙死幾空;居五年,裏閭增完,就加金紫服。徙蘇州。堤松江為路,變屋瓦,絕火災,賦調嘗與民為期,不擾自辦。

穆宗が立つと、しばしば仲舒の文章は思うに値し、最も誥を為すに適し、古風があると言った。召されて中書舎人となった。既に到着すると、同列を見るに概ね新進の少年であり、居て楽しまず、曰く、「豈に復た其の間に筆硯を治めんや。我は久しく外に棄てられ、俗の病利を周く知る。これを治むるを得ば、自ら愧じず」と。宰相これを聞き、江西観察使を除した。初め、江西の酒の専売の利は他の州より十八倍多く、民は私的に醸造し、歳ごとに死罪に当たるも絶えず、穀数斛こくで斗酒と易えた。仲舒は酤銭九十万を罷めた。吏は官の利息銭五十万を失う罪に坐し、悉く財産を以てしても償う能わず、仲舒は簿書を焼き、械を脱がせて問わなかった。水害旱魃の時、民の賦が納入されず、嘆いて曰く、「我が燕楽他の用を減ずべし、可ならんや」と。銭二千万を出してこれに代えた。仏老の法を為し、浮屠の祠屋を興す者有れば、皆これを境外に駆逐した。官において卒す。年六十二。左散騎常侍を贈られ、諡して成と言う。

原文穆宗立,每言仲舒之文可思,最宜為誥,有古風。召為中書舍人。既至,視同列率新進少年,居不樂,曰:「豈可復治筆研於其間哉!吾久棄外,周知俗病利,得治之,不自愧。」宰相聞之,除江西觀察使。初,江西榷酒利多佗州十八,民私釀,歲抵死不絕,谷數斛易鬥酒。仲舒罷酤錢九十萬。吏坐失官息錢五十萬,悉產不能償,仲舒焚簿書,脫械不問。水旱,民賦不入,嘆曰:「我當減燕樂他用可乎!」為出錢二千萬代之。有為佛老法、興浮屠祠屋者,皆驅出境。卒於官,年六十二,贈左散騎常侍,謚曰成。

仲舒は義概を尚び、居る所では民の急務と廃置に心を配り、自ら科条を定め、初めは煩瑣密緻の如くとも、久しく皆その便利を称えた。

原文仲舒尚義概,所居急民廢置,自為科條,初若煩密,久皆稱其便。

馮伉

原文馮伉

馮伉は、魏州元城の人、籍を京兆に移す。第五経・宏辞に及第し、長安尉に調ぜられる。三遷して膳部員外郎となり、睦王等の侍読となった。李抱真が卒すと、伉は節を持って臨み弔問し、帰るに帛を贈られたが受けず、また京師に致そうとしたが、伉は上表して固く拒んだ。ここにおいて醴泉令に欠員あり、宰相が厳選するに、徳宗曰く、「前に沢潞に使いして幣を受けざりし者、その人清し、用いるべし」と。遂にこれを以て伉に授けた。県には嚚猾多く、数えて法を犯す。伉は為に『諭蒙書』十四篇を著し、大抵農に務め学に進みて忠孝を教うるを勧む。郷ごとにこれを授け、転相教え督めしむ。七年居りて、韋渠牟が薦めて給事中・皇太子諸王侍読となす。殿中に対し、金紫服を賜う。兵部侍郎に進み、出でて同州刺史となる。散騎常侍として召され、国子祭酒を領すること再び。卒す。年六十六。礼部尚書を贈られる。

原文馮伉,魏州元城人,徙貫京兆。第五經、宏辭,調長安尉。三遷膳部員外郎,為睦王等侍讀。李抱真卒,伉持節臨吊,歸之帛,不受,又致京師,伉上表固拒。於是醴泉令缺,宰相高選,德宗曰:「前使澤潞不受幣者,其人清,可用也。」遂以授伉。縣多嚚猾,數犯法,伉為著《諭蒙書》十四篇,大抵勸之務農、進學而教以忠孝。鄉鄉授之,使轉相教督。居七年,韋渠牟薦為給事中、皇太子諸王侍讀。對殿中,賜金紫服。進兵部侍郎,出為同州刺史。以散騎常侍召,領國子祭酒者再。卒,年六十六,贈禮部尚書。

庾敬休

原文庾敬休

庾敬休、字は順之、鄧州新野の人。祖父光烈は、弟の光先と共に安禄山の偽官を受けず、遁れ去った。光烈は終に大理少卿、光先は吏部侍郎。父の何は、朱泚の反するに当たり、また弟の倬と山谷に逃れ、賊に臣せず。官兵部郎中。

原文庾敬休,字順之,鄧州新野人。祖光烈,與弟光先不受安祿山偽官,遁去。光烈終大理少卿,光先吏部侍郎。父何,當朱泚反,又與弟倬逃山谷,不臣賊。官兵部郎中。

敬休は進士第に擢でられ、また宏辞に中り、宣州幕府に辟せられる。入朝して右補闕・起居舎人に拝され、建言す、「天子朝を見るに、宰相群臣以て次第に対し、後世に伝うべき言は、旨を承けた宰相が左右の起居に示し、則ちこれを載録し、季ごとに史官に送る、故事の如く」と。詔して可とす。既にして執政は機密に露すべからざる有りとし、これを罷む。召されて翰林学士となる。文宗将に魯王を立てて太子とせんとし、師傅を慎選するに、敬休は戸部侍郎を以て魯王傅を兼ぬ。

原文敬休擢進士第,又中宏辭,辟宣州幕府。入拜右補闕、起居舍人,建言:「天子視朝,宰相群臣以次對,言可傳後者,承旨宰相示左右起居,則載錄,季送史官,如故事。」詔可。既而執政以幾密有不可露,罷之。召為翰林學士。文宗將立魯王為太子,慎選師傅,敬休以戶部侍郎兼魯王傅。

初め、剣南西川・山南道は歳ごとに茶を徴し、戸部自ら巡院を遣わしてこれを主り、商人を募りて京師に銭を納めしむ。太和の初め、崔元略奏して本道の主当に責めて歳ごとに四万緡を度支に上せしむ。久しくして、逗留多く至らず。敬休始めて院を秭帰に置き、度支の銭を収むるを請う。乃ち逋欠なくなる。また言う、「蜀道米価騰踊し、百姓流亡す。本道の闕官職田を以て貧民を賑わすことを請う」と。詔して可とす。再び尚書左丞となる。卒す。吏部尚書を贈られる。

原文初,劍南西川、山南道歲征茶,戶部自遣巡院主之,募賈人入錢京師。太和初,崔元略奏責本道主當歲以四萬緡上度支。久之,逗留多不至。敬休始請置院秭歸,收度支錢,乃無逋沒。又言:「蜀道米價騰踴,百姓流亡,請以本道闕官職田賑貧民。」詔可。再為尚書左丞。卒,贈吏部尚書。

敬休は夷淡にして、多く容認し、酒を飲まず肉を食わず、声色に近づかず。弟簡休もまた工部侍郎に至る。

原文敬休夷淡,多容可,不飲酒食肉,不邇聲色。弟簡休,亦至工部侍郎。