張薦
張薦、字は孝舉、深州陸沢の人。祖父の鷟、字は文成、幼少より聡明で並ぶ者なき才知あり。幼き時、紫文の大鳥、五色文を成し、その庭に止まる夢を見る。祖父曰く、「吾聞く、五色赤文は鳳なり、紫文は鸑鷟なり。若し壮年ならば、おそらく文章を以て朝廷の瑞たるべし」と。遂に名を以て命ず。調露初年、進士第に登る。考功員外郎騫味道その対策を見て、天下に双ぶものなしと称す。岐王府参軍を授かる。八度制挙に応じ皆甲科、再び長安尉に調じ、鴻臚丞に遷る。四度選に参じ、判策は銓府の最たり。員外郎員半千数度公卿に「鷟の文辞は猶青銅銭の如く、万選万中す」と称し、時に鷟を「青銭学士」と号す。証聖年中、天官侍郎劉奇、鷟及び司馬锽を以て御史とす。性躁卞にして、儻蕩にして檢なく、正人に遇わるること稀く、姚崇特に之を悪む。開元初、御史李全交、鷟が多く口語を以て時政を訕び短ずるを劾し、嶺南に貶す。刑部尚書李日知、斥が重きに過ぐると訟え、内徙を得る。鷟属文すれども下筆すれば輒ち成り、浮艷にして理致少なく、その論著は率ね詆誚蕪猥なりと雖も、然れども大いに一時に行われ、晚進伝記せざるは莫し。武后の時、中人馬仙童、默啜に陷り、問うて曰く、「文成在りや否や」と。答えて曰く、「近く自ら御史より貶官す」と。曰く、「国に此人ありて用いざれば、能く為すこと無きなり」と。新羅・日本の使至れば、必ず金宝を出して其の文を購う。終に司門員外郎に至る。
薦は敏銳にして文辞あり、『周官』・『左氏春秋』を能くす。初め、顔真卿に嘆賞せらる。大暦年中、浙西観察使李涵、才史官に任ずべきを表薦し、詔して左司禦率府兵曹参軍を授く。母老を以て辞し就かず。喪除く、礼部侍郎於邵以て聞こえ、召して史館修撰を充たし、陽翟尉を兼ぬ。真卿、李希烈に拘へらる。兄の子峴及び家僕を遣わして事を奏せしむるに、五輩皆内客省に留め、出づるを得ず。薦上疏して曰く、
去る正月の中、真卿淮西に奉使し、期は先に戒めず、行は素より備え無し。命を受けたる後、家に宿せず、親黨告別に遑あらず、介副陳請に及ばず、孱僮単騎、即日に馳す。奸鋒を臨汝に冒し、元悪を許下に折り、躯を捐て義に杖ち、威て群兇を詬り、遂に脅制する者をして慮を回らせ、忠勇なる者をして情を肆わしむ。周曾は外に奮発し、韋清は内に伺応し、希烈蒼黄窘迫し、旧穴に奔固す。蓋し真卿の義風の激する所なり。真卿逮て四朝に事え、国の元老たり。忠直孝友、王室の羽儀たり。行年八十、羸老の疾を被り、環堵の間に拘囚せられ、鉤戟の下に顧眄し、呼嗟憤恚し、寝を失い食を忘る。悲翁何を以てか此れに堪えんやを知らず。
伏して聞く、希烈の母、幼子を鐘念し、目絶えず泣き、希烈を責め求む。又希烈の妻の祖母郭及び妻の妹封並びに逮捕せられ京師に至る。此の三人留むるも益無し。請うらくは境上に寘きて以て真卿を贖わしめ、先ず詔書を降し、分明に諭告せよ。且つ希烈真卿の人望を知り、敢えて害を加えず。既に嫌隙無く、只だ因循して未だ遣わさざるのみ。若し其の親愛を帰せば、賊亦何ぞ一使を還すを吝しまんや。
臣又聞く、真卿の遣わす所の兄の子峴及び家僮、官に従い表を奉じて来る者五輩、皆中に留めらる。其の子頵等拳拳として実に一見を希う。望むらくは休澣を許し、安否を告げしめよ。疏奏すれども、盧杞之を持し、報ぜず。
朱泚反す。詭姓名して城中に伏匿し、『史遁先生伝』を著す。京師平らぎ、左拾遺に擢る。詔して復た杞を用いて刺史とせんとす。薦、陳京・趙需等と共に杞の奸悪傾覆、用うべからざるを論じ、入対して挺確たり。徳宗之を納る。
時に裴延齢用事し、俊良を中傷し、建白帝の意に当らざる莫し。薦将に其の悪を疏せんとす。延齢之を知り、因りて帝に言いて曰く、「諫議は朝政の得失を論じ、史官は人君の善悪を書く。二者兼ぬべからず」と。薦秘書少監に改む。延齢必ず罪を以て之を斥廃せんと欲す。会に使を遣わし回鶻の毗伽懐信可汗を冊す。薦をして回鶻に至らしむ。還りて監と為る。吐蕃の贊普死す。薦を工部侍郎に擢り、弔祭使と為す。薦占対詳辯たり。三度絶域に使し、始め侍御史・中丞を兼ね、後大夫と為る。赤嶺に次ぎ、病に被り卒す。年六十一。吐蕃其の柩を伝えて帰す。順宗立ち、問至り、礼部尚書を贈り、謚して憲と曰う。
薦拾遺より侍郎に至るまで、凡そ二十年、常に史館修撰を兼ぬ。初め、貞元の時、京師旱す。帝正殿を避け、膳を減ず。薦日に限りて以て古制に応ずるを白す。及び昭徳皇后の廟楽を定め、献・懿二祖を遷し、太儀の位号・大臣の祔廟鼓吹の法を定むるに、参裁せざる莫く、諸儒博にして詳なりと謂う。著する所の書百余篇。子又新、別に伝有り。
薦の孫 読
趙涓
涓の子 博宣
子の博宣もまた進士第に擢でられた。文藻は豪邁であったが、酒に沈み、傲然としてわずかに行いを整えなかった。陳許の曲環が府に辟召して任用したが、久しく堪えられず、ついに「呉少誠の金を受け取って反間となり、しばしば吉凶を言って衆を惑わした」と誣告した。詔があり、四十回杖打ち、康州に流され、当時の人はこれを冤とした。
李紓
李紓、字は仲舒。初め仕えて校書郎となり、大歷の初め、李季卿が推薦して左補闕となり、累遷して中書舎人となった。德宗が奉天におられた時、禮部侍郎より選ばれて同州刺史となった。帝が梁に駐蹕されると、李紓は城を委ねて行在所に赴き、兵部侍郎・高邑伯に擢でられた。武成王廟を享祀するのは文宣王と同等にすべきでないと建言し、制がこれに従った。李紓の性格は楽易で、後進を喜んで受け入れた。自らの養生はかなり華やかで裕福であり、齷齪とした崖岸な行いはしなかった。官は貴いながらも、遊び縦にすることは自在であった。詔を奉じて『興元紀功述』及びその他の郊廟楽章を作り、論撰は甚だ多かった。吏部侍郎に進んだ。六十二歳で卒し、禮部尚書を贈られた。
鄭雲達
鄭雲達、本系は滎陽である。父の戸は郾城尉となり、州刺史が職を移す時、暴悪な民が道を遮って留めようとしたので、戸は六七人を誅殺した。采訪使はこれを奇とし、状況を言上し、北海尉に擢でられた。安祿山が反乱すると、県民の孫俊が市人を駆り立てて応じたので、戸は衆を率いてこれを撃ち殺した。登州司馬に改めた。李光弼が表して武寧府判官とし、沂州刺史に遷り、賊の李浩五千人を諭して降伏させた。終に滁州刺史となった。
雲達は人となり誕譎で敢えて言い、既に進士第に登った後、去って燕朔に客遊し、朱泚はこれを善しとし、表して掌書記とし、滔の娘を妻とした。朱泚が朝見しようとする時、雲達を先に入らせて奏上させたが、同府の蔡廷玉が朱泚に讒言し、奏上されて平州参軍に貶された。滔が朱泚に代わって将となると、再び雲達を辟召して判官とした。廷玉と要藉官の朱體微がある日朱泚と従容として言う、「滔は長者ではなく、兵を付託すべきではない」と。雲達はしばしばその言葉を漏らして滔を怒らせたので、滔が廷玉らを論じて、皆罪を得て死んだ。滔が田悅を助けると、雲達は諫めたが、従わなかったので、遂に家を棄てて自ら帰った。德宗は喜び、諫議大夫に擢でた。帝が梁におられた時、雲達は李晟に依り、李晟が表して禮部侍郎を以て軍司馬とし、時々戎略について諮問した。元和の初め、京兆尹となり、卒した。
雲達の弟 方達
弟の方達は悖悍で、徒党を結んで剽劫し、父はこれを殺そうとしたが、果たせなかった。雲達は自ら劾して「教えられず、臣の家を赤(滅ぼす)ことを恐れる」と言った。詔して黔州に錮死させた。
徐岱
徐岱、字は處仁、蘇州嘉興の人、代々農家の子である。学問に通じないものはなく、弁論は明鋭で、座人は常に屈服した。大歷の中ごろ、劉晏が表して校書郎とした。觀察使李棲筠はその賢を欽慕し、その住む所を「復禮郷」と名付けた。名は朝廷に達し、偃師尉に擢でられた。禮儀使蔣鎮が推薦して太常博士とし、専ら禮事を掌らせた。德宗に従って奉天に出て、膳部員外郎を兼ねて博士となった。
貞元の初め、太子・諸王侍読となり、給事中・史館修撰に遷った。帝は誕生日に毎年詔して仏老者を麟徳殿で大論させ、併せて徐岱及び趙需・許孟容・韋渠牟を召して講説させた。初め三家は矛楯のようであったが、終には善に同帰した。帝は大いに悦び、賜与に差等があった。両宮の恩遇は比類がなかった。性格は篤実で慎重であり、宮殿中では語を未だ嘗て近づけず、人の短を談ぜず、宗族の孤孺なる者は皆婚嫁させた。しかし吝嗇で、自ら家の管鑰を持ち、世に譏られた。卒し、禮部尚書を贈られた。
王仲舒
王仲舒、字は弘中、并州祁の人。若くして江南に客遊し、梁肅・楊憑と交遊し、文名があった。貞元の中ごろ、賢良方正で高第となり、左拾遺に拝された。德宗が裴延齡を相としようとすると、陽城と交章して不可と言った。後に閣に入ると、帝は宰相を顧みて指して言う、「これはまさか王仲舒か」と。俄かに右補闕に改め、禮部考功員外郎に遷った。奏議は詳雅で、省中はその能に伏した。累に坐して連州司戸参軍となり、再び徙って荊南節度参謀となった。
元和の初め、召されて吏部員外郎となり、間もなく制誥を知る。楊憑が罪を得て斥けられ去ると、敢えてその家を訪れる者なく、仲舒はしばしば彼を慰問した。楊憑の冤罪をまさに直そうとして、峽州刺史に貶せられ、母の喪に服して官を解かれた。喪が明けて、婺州刺史となった。州に疫病と旱魃があり、人は移り死にてほとんど空しくなった。五年を居るうちに、里閭は増して完備し、就いて金紫服を加えられた。蘇州に転じた。松江に堤を築いて道とし、屋瓦を改め、火災を絶ち、賦調は常に民と期日を定め、煩わさずして自ら整った。
穆宗が立つと、しばしば仲舒の文章は思うに値し、最も誥を為すに適し、古風があると言った。召されて中書舎人となった。既に到着すると、同列を見るに概ね新進の少年であり、居て楽しまず、曰く、「豈に復た其の間に筆硯を治めんや。我は久しく外に棄てられ、俗の病利を周く知る。これを治むるを得ば、自ら愧じず」と。宰相これを聞き、江西観察使を除した。初め、江西の酒の専売の利は他の州より十八倍多く、民は私的に醸造し、歳ごとに死罪に当たるも絶えず、穀数斛で斗酒と易えた。仲舒は酤銭九十万を罷めた。吏は官の利息銭五十万を失う罪に坐し、悉く財産を以てしても償う能わず、仲舒は簿書を焼き、械を脱がせて問わなかった。水害旱魃の時、民の賦が納入されず、嘆いて曰く、「我が燕楽他の用を減ずべし、可ならんや」と。銭二千万を出してこれに代えた。仏老の法を為し、浮屠の祠屋を興す者有れば、皆これを境外に駆逐した。官において卒す。年六十二。左散騎常侍を贈られ、諡して成と言う。
仲舒は義概を尚び、居る所では民の急務と廃置に心を配り、自ら科条を定め、初めは煩瑣密緻の如くとも、久しく皆その便利を称えた。
馮伉
庾敬休
庾敬休、字は順之、鄧州新野の人。祖父光烈は、弟の光先と共に安禄山の偽官を受けず、遁れ去った。光烈は終に大理少卿、光先は吏部侍郎。父の何は、朱泚の反するに当たり、また弟の倬と山谷に逃れ、賊に臣せず。官兵部郎中。
敬休は進士第に擢でられ、また宏辞に中り、宣州幕府に辟せられる。入朝して右補闕・起居舎人に拝され、建言す、「天子朝を見るに、宰相群臣以て次第に対し、後世に伝うべき言は、旨を承けた宰相が左右の起居に示し、則ちこれを載録し、季ごとに史官に送る、故事の如く」と。詔して可とす。既にして執政は機密に露すべからざる有りとし、これを罷む。召されて翰林学士となる。文宗将に魯王を立てて太子とせんとし、師傅を慎選するに、敬休は戸部侍郎を以て魯王傅を兼ぬ。
初め、剣南西川・山南道は歳ごとに茶を徴し、戸部自ら巡院を遣わしてこれを主り、商人を募りて京師に銭を納めしむ。太和の初め、崔元略奏して本道の主当に責めて歳ごとに四万緡を度支に上せしむ。久しくして、逗留多く至らず。敬休始めて院を秭帰に置き、度支の銭を収むるを請う。乃ち逋欠なくなる。また言う、「蜀道米価騰踊し、百姓流亡す。本道の闕官職田を以て貧民を賑わすことを請う」と。詔して可とす。再び尚書左丞となる。卒す。吏部尚書を贈られる。
敬休は夷淡にして、多く容認し、酒を飲まず肉を食わず、声色に近づかず。弟簡休もまた工部侍郎に至る。