徐浩
徐浩、字は季海、越州の人。明経に挙げられ、文辞に優れた。張説がその才を称え、魯山主簿から集賢校理に推薦され、『喜雨』『五色鴿賦』を見て、嘆息して言うには、「後進の英傑なり」と。監察御史裏行に進む。幽州張守珪の幕府に召された。河陽令を歴任し、治績があった。東都留守王倕がその府に任用するよう上表した。民に妄りに符命を作る者がいたが、衆人は疑わず、浩のみが篆書を調べて詰問したところ、果たして詐りであった。累遷して都官郎中となり、嶺南選補使を務め、また東都選を管掌した。
粛宗が即位すると、襄州刺史から召されて中書舍人に任じられた。四方への詔令は多く浩の手に成り、文辞は豊かで迅速、しかも書法は極めて精妙であり、帝はこれを喜んだ。また太上皇の誥冊に参画し、寵遇は一時に絶えた。兼尚書右丞を授けられた。浩が建言した、「故事では、官司が獄を断ずるには必ず刑部が審査覆奏する。李林甫・楊国忠が国政を執って以来、専ら威福をなし、官司に宰相府で事を断ずることを許し、尚書以下は、未だ省みずして即座に署名し、慎み恤むの意に背いている。旧例の如くにせんことを請う」と。詔して可とした。よって詳断はこれより復活した。国子祭酒に進んだが、李輔国に讒言され、廬州長史に貶された。
代宗は再び中書舍人として召し、工部侍郎・会稽県公に遷り、嶺南節度使として出向した。召されて吏部侍郎に任じられ、薛邕と分かれて選挙を掌った。浩に妾の弟が優選を冒そうとし、邕に託して長安尉に擬したが、御史大夫李棲筠がこれを弾劾し、帝は怒り、邕を歙州刺史に、浩を明州別駕に貶した。徳宗の初め、召されて彭王傅に任じられ、郡公に進んだ。卒す、年八十、太子少師を贈られ、謚して定といった。
初め、浩の父嶠之は書を善くし、その法を浩に授けたので、ますます巧みになった。かつて四十二幅の屏風に書き、八体を備え、草書・隷書は特に巧みで、世にその法を形容して「怒猊石を抉り、渇驥泉に奔る」と云った。晩節、広州を治め選挙を管掌するに及び、頗る財を嗜み、寵愛する者に惑わされ、ついに敗れた。
呂渭
呂渭、字は君載、河中の人。父の延之は、浙東節度使で終わった。渭は進士に及第し、浙西観察使李涵に従って支使となり、殿中侍御史に進んだ。大暦の末、涵が元陵副使となると、渭はまた判官となった。涵が御史大夫から太子少傅に抜擢された時、渭が建言した、「涵の父の名は少康、避けるべきである」と。宰相崔祐甫はその言を善しとし、渭を司門員外郎に抜擢した。御史たちが共に渭を弾劾した、「昔、涵が再び少卿に任ぜられた時は、嫌名を避けず、今になって少傅を閑職と言い、渭が涵のために遊説した疑いがある」と。そこで渭を歙州司馬に貶した。
貞元の中ごろ、累遷して礼部侍郎となった。初め、中書省に古柳があり、建中の末に枯死したが、徳宗が梁より還ると、再び栄茂し、人はこれを瑞柳とし、渭は貢士にこれを賦せしめた。帝は聞いて、善しとしなかった。また裴延齢と姻戚となり、その子の操を上第に抜擢し、たまたま入閣の際、廷中に私的な謁見の書を遺した。出されて潭州刺史となった。卒す、陜州大都督を贈られた。
四子あり:温・恭・儉・譲。
渭の子 温
温は文筆に精しく豊かで、一時の同輩に推尚された。性は険しく躁急で、詭譎にして利を好み、竇群・羊士諤と昵懇であった。群が御史中丞となると、温を知雑事に推薦し、士諤を御史にしようとしたが、宰相李吉甫がこれを抑え、久しく報いず、温らは怨んだ。時に吉甫が宦官に抑えられていたので、温はその隙に乗じて吉甫を逐おうと謀った。たまたま吉甫が病み、夜に術士を召して邸に宿らせたのを捕らえ、拷問し、かつ吉甫の陰事を上奏した。憲宗は驚き怪しみ、詰問弁明させると、皆虚言であり、群らを悉く誅せんとしたが、吉甫が苦しく救ったので免れ、ここに温を均州刺史に、士諤を資州に貶した。議する者は飽き足らず、再び道州に貶された。久しくして衡州に移され、治績に善状があった。卒す、年四十。
渭の子 恭
恭、字は恭叔、気節を尚び、縦横・孫呉の術を好む。山南西道府の掌書記となり、殿中侍御史に進み、終に嶺南府判官に至る。
渭の子 儉
儉もまた御史となる。
渭の子 讓
讓は太子右庶子。皆美材なり。
孟簡
孟簡、字は幾道、德州平昌の人。曾祖は詵、武后の時に同州刺史。簡は進士・宏辞に連中し、累遷して倉部員外郎となる。王叔文が戸部を任ぜられると、簡は附離せざるを以て疾まれ、敢えて顕に黜せられず、宰相韋執誼の為に他の曹に徙す。元和の中、諫議大夫に拝され、匭事を知る。韓泰・韓曄の刺史復帰、吐突承璀の招討使就任に、簡は皆固く争い、延英に詣りて不可の状を言い、悻切を以て出され常州刺史となる。州に孟瀆あり、久しく淤閼す、簡これを治導し、田を溉ぐこと凡そ四千頃、労を以て金紫を賜わり、召されて給事中となる。
李遜に代わり浙東観察使となる。遜は士族を抑え、編人を右し、横恣不検に至る。簡に及んで一反之し、農估兼ねて其の弊を受け、時に両失と謂う。工部侍郎を以て召還さる。初め、使府代わるを得、詔至れば、留後を署して即行す。李翛が浙西を観察し、始めて故使を留めて政を交わすことを請う。簡の還るに及び、半道にて堂牒を還し、例の如くにして、乃ち解くを聴す。
戸部に進み、御史中丞を加う。戸部に二員あり、判使案する者は別の一署に居り、「左戸」と謂う。元和の後、選び委ねて華重、宰相多く此れより進む。崔群既に相たり、而して簡之に代わる、故に簡意は且く柄任せんとす。山南東道節度使出されしに及び、内に楽しまず。政頗る厳峭なり。時に詔ありて臨漢監を置き馬を牧し、簡に使職を兼ねしむ。簡は親吏陸翰を以て奏邸を主とし、閹侍に関通す。翰之を持ち、数傲很す。簡怒り、追い還し、土囊を以て之を斃す。家上変を発し、簡の奸贓を発く。御史劾験し、吐突承璀に遺せる資七百萬を得る。左授して太子賓客、東都に分司し、再び吉州司馬に貶す。赦令を以て睦州刺史に進み、復た常州に徙し、仍って太子賓客分司、卒す。
簡は尤も詩に工し、江・淮の間に聞こゆ。節義を尚び、之と交わる者、雖も歿すと、其の孤を視恤して少しく衰えず。晩路殊に躁急、仏を佞うこと過甚にして、時に誚らる。嘗て劉伯芻・帰登・蕭俯と梵言を訳次す。
劉伯芻
劉伯芻、字は素芝、兵部侍郎迺の子。行い修謹なり。淮南の杜佑奏して節度府判官に署す。府罷まり、召されて右補闕に拝し、主客員外郎に遷る。数友家に過ぎ飲噱し、韋執誼に陰に劾せられ、虔州参軍に貶せらる。久しくして乃ち考功員外郎を除く。裴垍之を善く待ち、擢て累ね給事中に至る。李吉甫国を当てて垍卒す、贈らず。伯芻為に申理し、乃ち太子少傅を贈る。或いは言う、其の妻は垍の従母なりと。吉甫按ぜんと欲し、虢州刺史を補うを求む。稍く遷り刑部侍郎・左散騎常侍。卒し、工部尚書を贈らる。伯芻風度高厳、談確を善くす、而して動時と適い、論者之を少くす。
伯芻の子 寬夫
子寬夫、宝暦の中に監察御史となる。奏して言う、「王府の官を以て祠を摂せしむるは、位軽く、厳恭の意に非ず。請う、尚書省・東宮の三品若しくは左右丞・侍郎を通摂せしむるを。」俄に転じて左補闕となる。陳岵浮屠の書を註し、供奉の僧を因りて以て聞こえ、濠州刺史を除く。寬夫状を劾す。敬宗怒り宰相に謂いて曰く、「岵は僧に由りて州を得ず。諫臣安んぞ此の言を受く。」寬夫曰く、「衆岵を劾す。独り臣状を草す。応に誅に伏すべし。言の従う所を推せば、恐らくは国体を累す。」帝其の言を讜とし、之を釈す。
伯芻の子 允章
子の允章、字は蘊中、咸通年間に礼部侍郎となる。諸生及び進士第の者に先師に謁見せしめ、衣は青衿、介幘を用い、以て古制に還すことを請う。国子祭酒に改む。また建言す、「群臣に光學錢を輸納せしめて庠序を治めしむべし、宰相は五萬、節度使は四萬、刺史は一萬と。」詔して可とす。後に東都留守となる。黄巢至るや、分司の李磎は尚書印を挈きて河陽に走り、允章は河清に寄りて治む。巢が僭號するや、輒ち偽官を受け、文書は尽く金統を用う。印を磎の在所に取り遣わすも、磎は與えず、更に悔愧し、檄を近鎮に移して兵を起こし賊を払わんとす。磎は印を持ちて之を還す。後に家に廢せらる。
楊憑
楊憑、字は虛受、一字は嗣仁、虢州弘農の人。少にして孤、其の母は訓導方有り。長じて文辭を善くし、弟の凝・淩と皆名有り。大歷年中、踵を接して進士第に擢でられ、時に「三楊」と號す。憑は交遊を重んじ、氣節然諾を尚び、穆質・許孟容・李鄘と相善くし、一時歆慕せられ、「楊穆許李」と號す。
節度府に事へ歴て、召されて監察御史と為るも、樂しまず、輒ち免じて去る。累遷して太常少卿・湖南江西觀察使と為る。性簡傲にして、下に接するに脫略、人多く之を怨む。二鎮に在りて尤も侈忲なり。入りて京兆尹を拝す。御史中丞李夷簡と素より隙有り、因りて憑を劾す、江西に於ける奸贓及び他の不法を。詔して刑部尚書李鄘・大理卿趙昌に即ち臺に参して訊わしむ。時に憑は第を永寧裏に治め、功役叢煩し、又妓妾を永樂の別舍に幽し、謗議頗る讙し。故に夷簡之を藉りて痛く擿發し、以て死に抵せんと欲す。既に対を置くも、状を得ず、即ち故官屬を逮捕して推躡せしめ、憑の家資を簿す。翰林學士李絳奏言す、「憑の坐する所の贓は、逆人の法に同じくすべからず。」乃ち止む。憲宗、憑の京兆を治めて績有るを以て、但だ臨賀尉に貶す。初め、德宗の時、方鎮に假借し、僭擬の事に習う。夷簡首めて憑を按ず、時に宜しと為すも、而して私怨に緣り、論者も亦與せず。俄かに杭州長史に徙る。太子詹事を以て卒す。
憑の善くする所の客徐晦なる者、字は大章、進士・賢良方正に第し、櫟陽尉に擢でらる。憑罪を得たる時、姻友累を憚り、往きて候う者無し。獨り晦藍田に至りて慰餞す。宰相權德輿謂いて曰く、「君の臨賀を送るは誠に厚し、乃ち累と為る無からんや。」晦曰く、「布衣の時、臨賀我を知る。今忍びて遽かに棄てんや。公が異時に奸邪の譖斥せらるる有らば、又爾くの如くせんか。」德輿其の直を嘆し、之を朝に稱す。李夷簡遽かに表して監察御史と為し、晦過ぎて謝し、挙ぐる所の由を問う。夷簡曰く、「君楊臨賀に負かず、肯て国に負かんや。」後に歴て中書舍人と為り、強直守正にして、時に沈浮せず。酒を嗜みて明を喪い、礼部尚書を以て致仕し、卒す。
憑の弟 凝
憑の弟 淩
淩、字は恭履、最も文を善くし、終に侍御史。子に敬之。
淩の子 敬之
敬之、字は茂孝。元和初め、進士第に擢でられ、平判入等し、右衛胄曹参軍に遷る。累遷して屯田・戶部の二郎中と為る。李宗閔の黨に坐し、連州刺史に貶せらる。文宗儒術を尚び、宰相鄭覃を以て兼ねて国子祭酒と為し、俄かに敬之を以て代う。未だ幾ばくもせず、兼ねて太常少卿と為る。是の日、二子の戎・戴科に登り、時に「楊家三喜」と號す。転じて大理卿、檢校工部尚書、兼祭酒と為り、卒す。
敬之嘗て《華山賦》を作りて韓愈に示せば、愈之を稱し、士林一時に傳布す。李德裕特に咨賞す。敬之士類を愛し、其の文章を得れば、孜孜として玩諷し、人以て癖と為す。雅に項斯の詩を為すを愛し、至る所之を稱し、繇りて上第に擢でらる。斯、字は子遷、江東の人。敬之祖客灞上にて、閩人濮陽願を見、其の文を閱し、大いに推挹し、遍く公卿の間に語る。願の死に會い、敬之之が為に斂葬す。
潘孟陽
潘孟陽、史に何れの人なるかを亡うす。父は炎、大歷末に右庶子に官し、元載に悪まれるを以て、久しく遷らず。載誅せられ、進みて礼部侍郎と為り、病を以て免ず。方に劉晏權を任ずるや、炎は乃ち其の婿なり。書疏報答と雖も、未だ嘗て輒ち開かず、時に古人の節有りと稱す。晏罪を得、坐して澧州司馬に貶せらる。時に輿疾して上道し、自ら言わず。於邵其の介を高しとし、申救すも、聽かれず。
孟陽少にして蔭を以てし、俄かに博學宏辭科に登り、渭南尉を補い、再遷して殿中侍御史と為る。公卿多く父の行及び外家の賓客なり。故に慰薦せられ、擢で累ねて兵部郎中と為る。貞元末、王紹恩幸を以て進み、數え孟陽の才を稱し、權知戶部侍郎と為す。杜佑度支を判ず、奏して以て自らの副と為す。時に憲宗新に立ち、詔して孟陽に馳驛江淮して財賦を視しめ、鹽鐵轉運副使を加え、並びに諸使の治否を察せしむ。孟陽奧主を恃み、又氣豪倨にして、從者数百人、至る所賓客を會し、留連して倡樂し、金錢を招き、多く吏を補い、譽望大いに喪う。使い還り、罷めて大理卿と為る。其の後左司郎中鄭敬江淮を宣慰す。帝誡して曰く、「朕宮中に用うる尺寸の物も皆籍有り。唯だ民を賑わすには計る所無し。卿是の行、宜しく朕が意を諭すべし。潘孟陽の財を殫くし費やし酣飲して遊山寺するが若くあるなかれ。」
初め、孟陽が侍郎であった時、年齢四十に満たず、その母が言うには、「お前の才能で丞郎の位にあるのは、私を憂わせる」と。
崔元略
崔元略は博州の人である。父の敬は、貞元の時に尚書左丞で終わった。元略は進士に及第し、諸府に辟召され転任を重ね、殿中侍御史に累遷し、刑部郎中として御史雑事を知り、進んで中丞に拝された。時に李夷簡が大夫として召されたため、詔して元略に東臺に留まって司ることを命じた。京兆少尹に改め、府事を行い、数ヶ月で尹に遷った。左散騎常侍に転じた。
初め、中丞が欠員となった時、議論する者は崔植に属していたが、元略は誤って植が閣に入る際儀礼に適わないと言い、御史に弾劾させて糾明させた。宰相が二人を推挙した時、元略は果たしてその職を得たので、植は恨み悵んだ。既に国政を担当すると、元略を宣撫党項使としたが、病気を理由に辞して行かなかった。植が上奏して言うには、「少しも責めなければ、群臣に示すところがない」と。そこで黔南観察使として出向させ、鄂嶽に転じた。久しくしてようやく大理卿を拝した。
元略の子 鉉
久しくして、淮南節度使として出向し、帝は太液亭で餞別し、詩を賜って寵遇した。宣州の軍乱に因り、観察使鄭薫が追放されたので、鉉は出兵して討撃し、詔して宣歙池観察使を兼ねさせた。平定後、検校司空を加えられ、兼使を罷めた。九年間在任し、教令を一度下せば再び改めることなく、民は順頼した。咸通の初め、山南東道・荊南の二鎮に転じ、魏国公に封ぜられた。龐勛が叛き、桂管から北還し、通過する所で略奪した。鉉は聞き、大いに兵を募り江・湘に屯して、賊の帰路を遮ろうとした。賊は懼れ、さらに嶺を越え、淮から北へ向かった。朝廷はその忠を壮とした。官の下で卒去した。
鉉の子 沆
子の沆は字を内融といい、累遷して中書舎人となった。韋保衡が于琮を追放すると、沆もまた循州司戸参軍に貶された。僖宗が即位すると、永州刺史として召され、再び舎人を拝し、礼部・吏部の二侍郎に進んだ。乾符五年、戸部侍郎として同中書門下平章事となった。明け方に麻を告げる時、大霧が廷中に満ち、百官が班列に就いて慶賀を修めたが、大風雨雹があり、当時不祥と謂われた。まもなく中書侍郎に改め、工部尚書を兼ねた。時に王景崇が中書令を兼ねることを進めたが、その兄の景儒に譲り、易定節度使を求めた。沆は魏博・盧龍が互いに援助すると言って、固執して認めなかった。盧携が専政し、黄巢の勢いが次第に盛んとなる中、沆はしばしば抑制策を建言したが、多くは携に沮止抑圧された。賊が京師を陥落させると、張直方の邸宅に匿われたが、遇害した。
元略の弟の元受・元式・元儒は、皆進士に及第した。
元略の弟 元受
元受は高陵尉として史館に直した。元和の時、于臯謨が河北行営糧料使となり、元受はこれに従い、供給の督励を担当した。臯謨が罪を得ると、元受は連座して嶺表で死んだ。
元略の弟 元式
元式は初め帥府の僚佐に署せられ、累官して湖南観察使となった。会昌年中、沢潞に用兵あり、河中に遷り、河東・義成節度使を拝した。宣宗の初め、刑部尚書をもって度支を判じ、門下侍郎・同中書門下平章事を拝し、進みて戸部尚書を兼ねた。疾を以て罷む。卒し、司空を贈られ、諡して莊という。
大中時、また宰相崔龜從あり、字は玄告。初め進士に挙げられ、また賢良方正・抜萃に応じ、三たびその科に中り、右拾遺を拝した。太和初、太常博士に遷る。最も礼家の沿革に明るく、問うに虚しく酬うることなし。敬宗の廟室の祝辞を定め、皇帝は孝弟と云うべからず。九宮は皆列星にして、大祠と為すを容れず。大臣薨ずれば、訃日に朝を輟むにあらず、乃ち数日外に在り。因りて貞観時に引き、任瑰卒し、有司対仗して奏す、太宗その礼を知らざるを責む。岑文本歿し、是の夕警厳を罷む。張公謹亡し、哭すること辰日を避けず。故に閔悼の切なるは、時を過ぐべからず。また言う、三品以上の官、将相密近を経任せざるは、朝を輟むべからず。詔して皆その議を可とす。九宮遂に中祠と為る。再び遷りて司勲郎中に至り、制誥を知り、真に拝して中書舎人となり、戸部侍郎を歴る。大中四年、中書侍郎をもって同中書門下平章事となる。再び歳を経て、罷められ宣武軍節度使と為り、数たび鎮を徙り、卒す。
韋綬
韋綬、字は子章、京兆萬年の人。至性有り、然れども経に好まず、父に喪し、臂を鑱ち血を以て浮屠の書を写す。建中末、長安尉と為る。朱泚乱に、羸服して奉天に走り、華陰令を拝す。襄陽の於頔の府に佐け、数たび譏謔して頔の横恣を刺す。頔能く容れず、諸朝に薦む。三たび遷りて職方郎中と為る。
穆宗太子たる時、綬入りて侍読し、諫議大夫に遷る。太子「依」の字を書くに輒ち「人」を去りて曰く、「上此を以て天下の事を可とす、烏ぞ全書せんや」。綬之を白す。帝喜び、即ち綬に錦彩を賜う。方に太子幼く、綬数たび俚言を以て太子を悦ばす。他日侍す、太子帝の為に之を道う。帝怒りて曰く、「綬当に経義を以て太子を輔導すべし、而して反って此を語る、朕何をか頼まん」。外遷して虔州刺史と為る。
穆宗立ち、召されて尚書右丞・集賢院学士と為り、禁中に出入りし、寵に怙て甚だし。建白す、「帝誕日、百官先ず光順門に詣り皇太后を賀し、然る後に皇帝に千万歳の寿を上る」。詔して可とす。久しくして、宰相奏す、古に生日に称賀する者無しと。綬の議格つ。時に大臣論啓或いは未だ決せず、綬中に居りて可否を助く。九月九日群臣を曲江に宴す、綬請う、集賢学士別に会するを得んと。帝一たび順聴す。進みて礼部尚書と為る。帝災を振い福を邀うる所以を問う。対えて曰く、「宋景公は善言を以て法星を三舎退け、漢文は秘祝を除き、有司に勅して祭りて祈らざらしむ。此の二君皆自ら至るの福を受け、書に前史を美とす。如し徳を失いて以て災を卻け、神に媚びて以て助けを丐うは、神にして知有らば、且つ因りて以て譴すべし」。時に帝徳無く、故に諷を托す。
俄に検校戸部尚書を以て山南西道節度使と為る。入りて辞し、門戟十二を請うて以て行き、又賜銭二百万を乞い、子元弼を太常丞に官す。帝旧恩を以て之を許す。綬耄えて貪り、軍政を事とすること能わず、綱維乱れて弛む。卒し、尚書右僕射を贈られ、帝中人を遣わして其の家を弔う。有司諡して通醜とす。故吏以て言う有り、謬醜と改む。報いず、罷む。