新唐書

巻一百五十九 列傳第八十四 鮑防 李自良 蕭昕 薛播播子:公達 樊澤澤子:宗師 王緯 吳湊湊從子:士矩 鄭權 陸亙 盧坦 柳晟 崔戎子:雍

巻一百五十九 列傳第八十四 鮑防 李自良 蕭昕 薛播播子:公達 樊澤澤子:宗師 王緯 吳湊湊從子:士矩 鄭權 陸亙 盧坦 柳晟 崔戎子:雍

鮑防

原文鮑防

鮑防、字あざなは子慎、襄州襄陽の人。幼くして孤貧、志を強くして学に励み、詞章を善くす。進士に及第し、歴任して節度使せつどし府の僚属を署す。入朝して職方員外郎となる。薛兼訓が太原ゆるを帥ぶとき、病に罹り、代宗は防に少尹・節度行軍司馬を授け、召見して慰めて遣わした。まもなく留後を兼ね、太原尹・節度使を兼ねる。人々その治を楽しみ、詔して別殿に図形せしむ。入朝して御史大夫となり、福建・江西観察使を歴任し、召されて左散騎常侍に拝せらる。徳宗に従い奉天に赴き、礼部侍郎に進み、東海郡公に封ぜらる。

原文鮑防,字子慎,襄州襄陽人。少孤窶,強志於學,善辭章。及進士第,歷署節度府僚屬。入爲職方員外郎。薛兼訓帥太原,被病,代宗授防少尹、節度行軍司馬,召見,慰遣之。俄知留後,兼太原尹、節度使。人樂其治,詔圖形別殿。入爲御史大夫,歷福建、江西觀察使,召拜左散騎常侍。從德宗奉天,進禮部侍郎,封東海郡公。

貞元元年、賢良方正を策問し、穆質・裴復・柳公綽・帰登・崔邠・韋純・魏弘簡・熊執易あなどらを得、世は防の人を知ることを美とす。時に連年旱魃あり、策問に陰陽の祲沴を問う。質の対えて曰く「漢の故事、三公を免ず。卜式、弘羊を烹らんことを請う」と。当時の輔政者を指す。右司郎中獨孤愐、質を下第にせんと欲す。防は許さず、曰く「上に未だ聞かざる所を聞かしむるは、亦た善からずや」と。遂に質を高第に置く。帝、策を見て嘉し揖す。

原文貞元元年,策賢良方正,得穆質、裴復、柳公綽、歸登、崔邠、韋純、魏弘簡、熊執易等,世美防知人。時比歲旱,策問陰陽祲沴,質對:「漢故事,免三公,卜式請烹弘羊。」指當時輔政者。右司郎中獨孤愐欲下質,防不許,曰:「使上聞所未聞,不亦善乎?」卒置質高第,帝見策嘉揖。

初め、防と知雑御史竇參と遇い、導騎避けず。參、その僕を謫す。及んで參が相となると、防は京兆尹たり。迫りて致仕せしめ、工部尚書を授く。防咤して曰く「吾は蕭昕の子と歯するも、而して昕とともに老ゆ。宰相の余忿に坐するか」と。志を得ずして卒す。年六十九。太子少保を贈られ、謚して宣と曰う。防は詩に特に工なり。感発する所あり、以て世の弊を譏切す。当時に之を称す。中書舎人謝良弼と友善、時に「鮑謝」と号す。

原文初,防與知雜御史竇參遇,導騎不引避,參謫其仆。及爲相,防尹京兆,迫使致仕,授工部尚書。防咤曰:「吾與蕭昕子齒,而同昕老,坐宰相余忿邪!」不得誌卒,年六十九,贈太子少保,謚曰宣。防於詩尤工,有所感發,以譏切世敝,當時稱之。與中書舍人謝良弼友善,時號「鮑謝」雲。

李自良

原文李自良

李自良、兗州泗水の人。天宝の乱、往きて兗鄆節度使能元皓に従う。戦功多く、累ねて右衛率を授かる。袁傪に従い賊袁晁を討ち、積閥して試殿中監に至り、浙東薛兼訓節度府に事う。兼訓が太原に徙ると、また牙将おさとなる。鮑防、代わりて節度事を総べ、会に回紇かいこつ入寇す。防、大将焦伯瑜らを遣わして之を撃たしむ。自良曰く「寇遠来す、争鋒し難し。請う二壘を築き帰路を搤ち、堅壁して出でず、求戦を許さず、師老いて墮ち、その勢乗じ易し」と。防聴かず。伯瑜、百井に戦い大敗す。是より知名となる。

原文李自良,兗州泗水人。天寶亂,往從兗鄆節度使能元皓。以戰多,累授右衛率。從袁傪討賊袁晁,積閥至試殿中監,事浙東薛兼訓節度府。兼訓徙太原,又爲牙將。鮑防代總節度事,會回紇入寇,防遣大將焦伯瑜等擊之。自良曰:「寇遠來,難與爭鋒。請築二壘搤歸路,堅壁勿出,求戰不許,師老而墮,其勢易乘。」防不聽。伯瑜戰百井,大敗。由是知名。

馬燧、防に代わり、表して軍候とす。自良、人となり勤めて且つ謀あり。燧、之を倚信す。田悦を討ちに従い還り、李懷光を河中に攻む。数えず鋒を履み陣に陷り、功諸将の右に在り。貞元三年、燧来朝す。徳宗、燧の兵を罷め、自良を以て之に代えんとす。自良、燧に事うること久しきを以て、敢えて当たらず。議者その譲を多とす。乃ち右龍武大将軍を授く。入朝して謝す。帝終に河東胡に近きを以て、謂いて曰く「卿、進退に礼あらざるや。然れども北門を守るに卿に易きは無し。勉めて朕が為に行え」と。乃ち検校工部尚書を以て河東節度使を充つ。治に居ること九年、挙げて法を愆たず、簡儉にして循い易く、民軍有るを知らず、上下諧附す。官に卒す。尚書左僕射を贈らる。

原文馬燧代防,表爲軍候。自良爲人勤且有謀,燧倚信之。從討田悅還,攻李懷光河中,數履鋒陷陣,功在諸將右。貞元三年,燧來朝,德宗罷燧兵,以自良代之。自良以事燧久,不敢當,議者多其讓,乃授右龍武大將軍。入謝,帝終以河東近胡,謂曰:「卿於進退寧不有禮?然守北門無易卿者,勉爲朕行。」乃以檢校工部尚書充河東節度使。居治九年,舉不愆法,簡儉易循,民不知有軍,上下諧附。卒於官,贈尚書左僕射。

蕭昕

原文蕭昕

蕭昕、字は中明、梁の鄱陽王蕭恢の七世の孫、世々河南に居る。再び博学宏辞科に中り、寿安尉に調じ、累遷して左補闕となる。哥舒翰が副元帥として安禄山を拒ぐに、辟して書記を掌らしむ。翰敗れ、儳道して蜀に走る。粛宗立ち、誥冊を奉じて行在に見ゆ。中書舎人・礼部侍郎を歴任す。代宗陜に狩す。昕、武関より帝に従い、擢て国子祭酒となる。太学を崇めて教本を樹つることを建請す。帝その言に寤り、詔して群臣に朝に籍ある者及び神策六軍の子弟で業に隷する者は、生員を補するを聴くとす。

原文蕭昕,字中明,梁鄱陽王恢七世孫,世居河南。再中博學宏辭科,調壽安尉,累遷左補闕。哥舒翰爲副元帥拒安祿山,辟掌書記,翰敗,儳道走蜀。肅宗立,奉誥冊見行在。歷中書舍人、禮部侍郎。代宗狩陜,昕由武關從帝,擢國子祭酒。建請崇太學以樹教本,帝寤其言,詔群臣有籍於朝及神策六軍子弟隸業者,聽補生員。

大歷中、節を持ちて回紇を弔う。回紇功を恃み、廷にて昕を譲りて曰く「乃ち中国乱る。我無くしては以て平げず。奈何ぞ馬を市して時に我が直を帰さざる」と。衆色を失う。昕徐おもむろに曰く「国家寇難を龕定す。功は絲毫と雖も賞を遺さず、況んや隣国をや。仆固懷恩、我が叛臣なり。爾これと連禍し、又吐蕃とばんを引きて我が郊甸を暴かしむ。天その衷を捨て、吐蕃敗北し、回紇悔懼し、顙を叩きて和を乞う。天子旧功を恤わざれば、則ち只馬も塞下を出でず。孰れか失信なる者ぞ」と。回紇大いに慚じ、因りて厚く昕に礼し、使者を遣わして和を約す。工部尚書に転じ、晉陵侯に封ぜらる。徳宗奉天に出ず。昕年八十余、歩いて城を出づ。賊急に求め、獨り山谷の間に竄き、僅かに奉天に至る。太子少傅に遷り、爵郡公、礼部尚書を兼ね、貢挙を知る。久しくして、太子少師を以て致仕す。卒す。年九十三。揚州大都督を贈られ、謚して懿と曰う。

原文大歷中,持節吊回紇。回紇恃功,廷讓昕曰:「乃中國亂,非我無以平,奈何市馬不時歸我直?」眾失色。昕徐曰:「國家龕定寇難,功雖絲毫不遺賞,況鄰國乎?仆固懷恩,我之叛臣,爾與連禍,又引吐蕃暴我郊甸。天舍其衷,吐蕃敗北,回紇悔懼,叩顙乞和。非天子恤舊功,則只馬不得出塞下,孰爲失信者?」回紇大慚,因厚禮昕,遣使者約和。轉工部尚書,封晉陵侯。德宗出奉天,昕年八十餘,步出城。賊求之急,獨竄山谷間,僅至奉天。遷太子少傅,爵郡公,兼禮部尚書,知貢舉。久之,以太子少師致仕。卒,年九十三,贈揚州大都督,謚曰懿。

昕始めに張鎬・来瑱を薦め、礼部に在りて杜黄裳・高郢・裴垍を擢でる。その後鎬布衣より興り、数年を経ずして将相の位に至り、瑱は将として威名有り、黄裳ら相継ぎて政を輔け、並びに名宰と為る。

原文昕始薦張鎬、來瑱,在禮部擢杜黃裳、高郢、裴垍。其後鎬興布衣,不數年位將相,瑱爲將有威名,黃裳等繼輔政,並爲名宰雲。

薛播

原文薛播

薛播、河中宝鼎の人。曾祖文思、官は中書舎人。播早く孤と成る。伯母林、経史に通じ、文を属するに善く、躬ら経を諸子及び播兄弟に授く。故に開元・天宝の間、播兄弟七人皆進士第に擢でられ、衣冠の光韙と為る。累ねて殿中侍御史を授かり、武功・萬年令に遷る。温敏にして裕あり、人と交わり常有り。李棲筠・常袞・崔祐甫並びに之を器とす。祐甫政を輔くに及び、中書舎人に拝し、出でて汝州刺史と為る。小累に坐し、泉州に貶せられ、再遷して河南尹に至る。礼部侍郎にて卒す。本曹尚書を贈らる。

原文薛播,河中寶鼎人。曾祖文思,官中書舍人。播早孤,伯母林通經史,善屬文,躬授經諸子及播兄弟,故開元、天寶間,播兄弟七人皆擢進士第,爲衣冠光韙。累授殿中侍御史,遷武功、萬年令。溫敏而裕,與人交有常,李棲筠、常袞、崔祐甫並器之。祐甫輔政,拜中書舍人,出爲汝州刺史。坐小累,貶泉州,再遷至河南尹。以禮部侍郎卒,贈本曹尚書。

播の子 公達

原文播子 公達

子の公達は、進士第に擢でられた。鳳翔軍を佐けた。時に帥が文雅ならず、嘗て射を集め、的を数十尺の高さに設け、令して曰く、「中る者には錦と金を酬ゆ。」一軍中だれも能く中てる者なし。公達は弓矢を執り揖して曰く、「公の為に歓を為さんことを請う。」三発を射て連続して中つ、衆大いに呼び笑う。帥は喜ばず、乃ち自ら免じて去る。復た河陽軍を佐く。国子助教を以て東都に居りて卒す。

原文子公達,擢進士第。佐鳳翔軍。會帥不文,嘗集射,設的高數十尺,令曰:「中者酬錦與金。」一軍莫能中。公達執弓矢揖曰:「請爲公歡。」射三發連中,眾大呼笑。帥不喜,乃自免去。復佐河陽軍。以國子助教居東都卒。

樊澤

原文樊澤

樊澤、字は安時、河中の人なり。少くして孤となり、外家に依りて河朔に客す。相衛節度使薛嵩、表して堯山令と為す。賢良方正に挙げられ、潼関に次ぎ、雨淖ぬかるみにて、困して前に進む能わず。熊執易という者有り、同舎の逆旅にて、之を哀しみ、乗する所の馬を輟やめ、褚たからを傾けて済し、自ら挙げたる所を罷む。是の歳、澤上第し、楊炎之を善しとし、左補闕に擢でらる。

原文樊澤,字安時,河中人。少孤,依外家客河朔。相衛節度使薛嵩表爲堯山令。舉賢良方正,次潼關,雨淖,困不能前。有熊執易者,同舍逆旅,哀之,輟所乘馬,傾褚以濟,自罷所舉。是歲,澤上第,楊炎善之,擢左補闕。

澤は武力有り、兵法を喜び、議者将帥の器有りと謂う。嘗て延英に召対せられ、徳宗其の兵を論ずるを嘆じて「我が意に合う」と。累遷して山南東道司馬、就いて節度使を拝す。毎に射猟すれども、諸将其の材武を憚る。数え李希こいねが烈と確たたかい、票将張嘉瑜・杜文朝・梁悛之等を禽とらえ、賊気沮縮し、遂に唐・随二州を取る。貞元三年、荊南節度使と為る。時に山南東道嗣曹王臯卒し、軍乱れ、居人を剽す。澤の威恵襄・漢の間に著るを以て、復た山南東道に徙し、検校尚書右僕射を加う。十四年卒す、年五十七、司空を贈られ、謚して成と曰う。訃至るに及び、帝宴を撤し朝を廃す。

原文澤有武力,喜兵法,議者謂有將帥器。嘗召對延英,德宗嘆其論兵「與我意合」。累遷山南東道司馬,就拜節度使。每射獵,諸將憚其材武。數與李希烈確,禽票將張嘉瑜、杜文朝、梁悛之等,賊氣沮縮,遂取唐、隨二州。貞元三年,爲荊南節度使。會山南東道嗣曹王臯卒,軍亂,剽居人。以澤威惠著襄、漢間,復徙山南東道,加檢校尚書右僕射。十四年卒,年五十七,贈司空,謚曰成。訃至,帝爲撤宴廢朝。

澤の子 宗師

原文澤子 宗師

子宗師、字は紹述。始め国子主簿と為り、元和三年、軍謀宏遠科に擢でられ、著作佐郎を授かる。歴任して金部郎中・綿州刺史。絳州に徙り、治め跡有り。進みて諫議大夫、未だ拝せずして卒す。初め、宗師家は財に饒ゆたかなり、悉く姻旧賓客に散施し、妻子給せざるを告ぐれども、宗師笑って答えず。然れども力を学に努め多く通解し、『春秋伝』・『魁紀公』・『樊子』を著す凡そ百余篇、別集尚ほ多し。韓愈、宗師の論議平正にして経拠有りと称し、嘗て其の材を薦むと云う。

原文子宗師,字紹述。始爲國子主簿,元和三年,擢軍謀宏遠科,授著作佐郎。歷金部郎中、綿州刺史。徙絳州,治有跡。進諫議大夫,未拜卒。始,宗師家饒於財,悉散施姻舊賓客,妻子告不給,宗師笑不答。然力學多通解,著《春秋傳》、《魁紀公》、《樊子》凡百餘篇,別集尚多。韓愈稱宗師論議平正有經據,嘗薦其材雲。

王緯

原文王緯

王緯、字は文卿、并州太原の人なり。父之咸、長安尉と為り、弟之賁・之奐と共に皆文有り。緯は明経に挙げられ、書判を以て等に入り、歴任して長安尉。大曆中、李泌と共に路嗣恭の江西観察判官と為る。泌は元載に悪まれるを見、嗣恭意に希って之を殺さんと欲すれども、緯護り解き、僅かに免る。泌執政し、己に私恩有りと奏す、徳宗泌の為に報いんことを許す、故に緯を進めて給事中と為す。浙西観察使欠く、泌緯を擬す、帝曰く、「是朕が君の為に徳を報いんとする者か?黄門要地、独り議事を留めざるや?」対えて曰く、「浙西の賦入尤も劇しく、緯清にして忠、能く民を恵養す、故に之を遣わんことを請う。」制可す。初め、州県に韓滉の時に罷めたる銭未だ入らざる者十八万緡有り、府史之を裒あつめて進奉と為さんことを請う、緯上疏して願わくば之を蠲めだして以て民を紡がんとし、詔して之を聴す。貞元十年、御史大夫兼諸道塩鉄転運使を加う。裴延齢諸道の負う所の銭四百万緡を以て羨銭と献じて、以て寵を図る、緯奏して「此れ諸州の経費なり」と、大いに延齢の意に忤い、検校工部尚書に改む。卒す、年七十一、太子少保を贈らる。

原文王緯,字文卿,并州太原人。父之咸,爲長安尉,與弟之賁、之奐皆有文。緯舉明經,以書判入等,歷長安尉。大曆中,與李泌俱爲路嗣恭江西觀察判官。泌見惡於元載,嗣恭希意欲殺之,緯護解,僅免。泌執政,奏於己有私恩,德宗許爲泌報,故進緯給事中。浙西觀察使缺,泌擬緯,帝曰:「是朕爲君報德者乎?黃門要地,獨不留議事耶?」對曰:「浙西賦入尤劇,緯清而忠,能惠養民,故請遣之。」制可。初,州縣有韓滉時罷錢未入者十八萬緡,府史請裒爲進奉,緯上疏願蠲以紓民,詔聽之。貞元十年,加御史大夫兼諸道鹽鐵轉運使。裴延齡以諸道負錢四百萬緡獻爲羨錢,以圖寵,緯奏「此諸州經費」,大忤延齡意,改檢校工部尚書。卒,年七十一,贈太子少保。

緯は官に居るに清白を以て称せらる、然れども好んで刻深の吏を用いて其の下を督察し、条約苛碎にして、人聊いささかも云わず。

原文緯居官以清白稱,然好用刻深吏督察其下,條約苛碎,人不聊雲。

呉湊

原文吳湊

呉湊は、章敬皇后の弟なり。布衣より兄の漵と一日に官封を賜いて皆等しく、而して湊は太盛を畏れ、太子詹事を解くことを乞い、換えて検校賓客兼家令と為る。進み累ねて左金吾衛大将軍。

原文吳湊,章敬皇后弟也。由布衣與兄漵一日賜官封皆等,而湊畏太盛,乞解太子詹事,換檢校賓客兼家令。進累左金吾衛大將軍。

湊は才敏鋭なり、而して謙畏自ら将め、帝数え顧訪し、尤も委信せらる。是の時、令狐彰・田神功等継いで没し、其の下喪に乗じて兵を挟み、輒すなわち偃蹇して揺乱す。湊は節を持ちて汴・滑に至り、委悉に慰説し、裁して為さんと欲する所を奏し、各其の情を尽くし、亦朝廷の可行なる者を度る、故に軍中附く。帝其の為す所を才し、之を重んず。元載国に当たり久しく、愎状日に肆ほしいままなり、帝陰に誅せんと欲すれども、未だ発せず、左右を顧みて計るに与るべき者無く、即ち湊を召して之を図る。俄しばらくして載を収めて死を賜う。是に於て王縉・楊炎・王昂・韓会・包佶等皆坐すべきに当たる、湊建言して曰く、「法に首従有り、従は死に応ぜず、一に極刑を用いれば、徳を虧そこない仁を傷つく。」縉等是に由りて死を減ぜらる。後母の喪に丁あたって職を解く。既に除き、右衛将軍を拝す。

原文湊才敏銳,而謙畏自將,帝數顧訪,尤見委信。是時,令狐彰、田神功等繼沒,其下乘喪挾兵,輒偃蹇搖亂。湊持節至汴、滑,委悉慰說,裁所欲爲奏,各盡其情,亦度朝廷可行者,故軍中附。帝才其爲,重之。元載當國久,愎狀日肆,帝陰欲誅,未發也,顧左右無可與計,即召湊圖之。俄而收載賜死。於是王縉、楊炎、王昂、韓會、包佶等皆當坐,湊建言:「法有首從,從不應死,一用極刑,虧德傷仁。」縉等繇是得減死。丁後母喪解職。既除,拜右衛將軍。

徳宗初め、出でて福建観察使と為り、政勤清にして、美誉四方に騰る。宰相竇参と憾み有り、参数え短毀を加え、又湊は風痹にて良く趨走せずと言う、帝召し還し、其の疾を験すれども、是に非ず、是に由りて参を直さず。湊を擢でて陝虢観察使と為し、李翼に代わる。翼は参の党なり。宣武劉玄佐死し、湊を以て検校兵部尚書を以て節度使を領し馳せ代わらしむ。未だ至らざるに、汴軍乱れ、玄佐の子士寧を立てる。帝兵を遣わして湊を内いれんと欲すれども、而して参は士寧に授けて以て湊を沮まんことを請い、還って右金吾衛大将軍と為る。

原文德宗初,出爲福建觀察使,政勤清,美譽四騰。與宰相竇參有憾,參數加短毀,又言湊風痹不良趨走,帝召還,驗其疾,非是,繇是不直參。擢湊陜虢觀察使,代李翼。翼,參黨也。宣武劉玄佐死,以湊檢校兵部尚書領節度使馳代。未至,汴軍亂,立玄佐子士寧。帝欲遣兵內湊,而參請授士寧以沮湊,還爲右金吾衛大將軍。

貞元十四年夏、大旱し、穀貴く、人流亡す、帝過ちを以て京兆尹韓臯に帰し、之を罷む。即ち湊を召して臯に代わらしめ、已に謝し、督めて視事せしめ、明日詔下る。湊は人と為り強力劬儉にして、瞿瞿きょきょとして未だ嘗て民を擾さず、上下愛向す。京師は宮市の強いて物を估取するを苦しみ、而して有司は中官に附媚し、率ね阿おもね従して敢えて争う者無し。湊便殿に見え、因りて言う、「中人の市う所は、宵民に便ならず、徒いたずらに紛紛として流議す。宮中に須うる所は、臣を責めて可く弁ぜしむ。若し外吏の禁中の事を与聞するを欲せざれば、宜しく中官の高年謹信なる者を料して宮市令と為し、平賈和售して、以て衆の讙を息めん。」又言う、「掌閑・広騎・飛龍・内園・芙蓉園・禁兵諸司の雑供役手は、資課太だ繁し、宜しく蠲省有るべし。」帝輒すなわち順可す。初め、府中湊を貴戚の子と易り、簿領に便せず、毎に疑獄有れば、時に其の将に出づるを、則ち湊を遮りて決を取る、幸いに倉卒にして欺きを容るるを得んとす。湊は鞍を叩いて一視し、凡そ指擿する所、尽く其の弊に中り、初め留思無く、衆畏服し、湊の精裁遣する此の如きを意えざりき。僚史は大過に非ざれば榜責せず、廷に召し至り、詰めて服して原し去らしめ、其の下伝相訓勖し、挙げて稽とどまる事無し。

原文貞元十四年夏,大旱,谷貴,人流亡,帝以過京兆尹韓臯,罷之。即召湊代臯,已謝,督視事,明日詔乃下。湊爲人強力劬儉,瞿瞿未嘗擾民,上下愛向。京師苦宮市強估取物,而有司附媚中官,率阿從無敢爭。湊見便殿,因言:「中人所市,不便宵民,徒紛紛流議。宮中所須,責臣可辦。若不欲外吏與聞禁中事,宜料中官高年謹信者爲宮市令,平賈和售,以息眾讙。」又言:「掌閑、廣騎、飛龍、內園、芙蓉園、禁兵諸司雜供役手,資課太繁,宜有蠲省。」帝輒順可。初,府中易湊貴戚子,不便簿領,每有疑獄,時其將出,則遮湊取決,幸倉卒得容欺。湊叩鞍一視,凡指擿,盡中其弊,初無留思,眾畏服,不意湊精裁遣如此。僚史非大過不榜責,召至廷,詰服原去,其下傳相訓勖,舉無稽事。

文敬太子・義章公主仍なお薨じ、帝悼念し、厚く之を葬り、車土墳を治め、農事廃す。湊は帝の閑なるを候いて徐に言い、極めて争いて避けず。或る人論事は宜しく簡約すべしと勧め、然らずんば、上に厭苦せらるべしと。湊曰く、「上は明睿にして、四海を憂労し、愛の鐘る所を以て民を疲して逞しむるに非ず。顧みるに左右鉗噤自ら安んずるのみ、若し反復啓寤して、幸いに一たび之を聴かば、則ち民賜を受くる少なからず。舌を撟あげて旨に阿るは固より善し、有如もし窮民上訴せば、云う可からず罪何ぞ?」能を以て進み兼ねて兵部尚書。

原文文敬太子、義章公主仍薨,帝悼念,厚葬之,車土治墳,農事廢。湊候帝閑徐言,極爭不避。或勸論事宜簡約,不爾,爲上厭苦。湊曰:「上明睿,憂勞四海,不以愛所鐘而疲民以逞也。顧左右鉗噤自安耳,若反復啟寤,幸一聽之,則民受賜爲不少。撟舌阿旨固善,有如窮民上訴,叵雲罪何?」以能進兼兵部尚書。

病に罹った時、門を閉じて医者や巫を入れず、薬も口にせず、家人が涙を流して請うた。彼は答えて言う、「私は凡庸で慎み深い者が田畑から起こり、位は三品に至り、顕職に四十年、年は七十、まだ何を求めようか。古来、外戚で終わりを全うした者は数えられるほどである。私は天寿を全うして先人のもとに地下に帰ることができれば、それで十分だ」と。帝はこれを知り、侍医に詔して湯薬を進めさせたが、やむを得ず一度だけ飲んだ。卒去、年七十一、尚書右僕射を追贈され、諡して成といった。

原文及屬病,門不內醫巫,不嘗藥,家人泣請。對曰:「吾以庸謹起田畝,位三品,顯仕四十年,年七十,尚何求?自古外戚令終者可數,吾得以天年歸侍先人地下,足矣!」帝知之,詔侍醫敦進湯劑,不獲已,一飲之。卒,年七十一,贈尚書右僕射,謚曰成。

以前より、街路の樹木はまばらで、役所が空地に榆を植えていたが、湊は言った、「榆は人の蔭りとして楽しむ木ではない」と。すべて槐に替えさせ、槐が成長した時には湊は既に亡くなっていた。通行人は樹を指して彼を偲んだ。唐が興って以来、后族で朝請に退いた者でも、事によって失職する者がいたが、湊は朝廷内外の職を歴任し、罪過によって罷免されたことはなく、世の外戚の模範とされた。

原文先是,街樾稀殘,有司蒔榆其空,湊曰:「榆非人所蔭玩。」悉易以槐,及槐成而湊已亡,行人指樹懷之。唐興,後族退居奉朝請者,猶以事失職,而湊任中外,未嘗以罪過罷,爲世外戚表雲。

湊の従子に士矩あり。

原文湊從子 士矩

漵の子、士矩。士矩は文学が早く成り、豪傑と交わることを好み、人々が皆、談説を助けた。開成初年、江西観察使となり、饗宴は贅沢で放縦、一日の費用は十数万に及んだ。着任時、庫の銭は二十七万緡あったが、晩年には九万にまで減り、軍用は乏しく、頼るものもなかった。事が聞こえると、朝廷内外が共に弁解し、親族の議によって、文宗は徹底的に追及せず、蔡州別駕に貶した。諫官がその罪を処するよう執ったが、聞き入れられなかった。そこで御史中丞狄兼謨が建言した、「陛下が士矩を抜擢任用されたのは私情ではない。士矩が陛下に背いてこれを治めるのも私情ではない。御史を江西に遣わして即座に訊問させ、江淮の他の藩鎮がこの習いに倣う意を杜ぐべきです」と。帝は聞き入れ、端州に流した。

原文漵子士矩。士矩文學蚤就,喜與豪英遊,故人人助爲談說。開成初,爲江西觀察使,饗宴侈縱,一日費凡十數萬。初至,庫錢二十七萬緡,晚年才九萬,軍用單匱,無所仰。事聞,中外共申解,得以親議,文宗弗窮治也,貶蔡州別駕。諫官執處其罪,不納。於是御史中丞狄兼謨建言:「陛下擢任士矩,非私也;士矩負陛下而治之,亦非私也。請遣御史至江西即訊,使杜江淮它鎮循習意。」帝聽,乃流端州。

鄭権

原文鄭權

鄭権は、汴州開封の人である。進士に及第し、涇原節度使劉昌の幕府に佐けた。劉昌が病で朝廷に入ると、その軍が必ず乱れると見込み、権が寛厚で衆を容れる人物であるため、檄を飛ばして後務を主管させた。劉昌が去ると、軍は果たして乱れ、権は身を挺して白刃を冒し、逆順を明らかに諭し、首謀者を殺すと、一軍が畏れて服した。徳宗はちょうど兵事を厭っており、藩鎮・屯所の校佐で兵士の心を得ている者は、皆そのまま任命したので、権は試参軍から行軍司馬に任ぜられた。累遷して河南尹に抜擢され、進んで山南東道節度使に拝され、徳棣滄景軍を領するよう転じた。時に李師道を討つにあたり、権は自ら兵を率いて出屯し、帰化県を置くことを奏上し、降伏者を安撫して受け入れた。滄州刺史李宗奭がたびたび命令に背いたため、権が弾劾して上奏すると、詔で召還したが、宗奭は州兵を留めて自らを弁解した。憲宗は改めて烏重胤を以て権に代え、滄州の民は恐れ、共に宗奭を追い返して京師に送り、詔があって斬って示し、権を邠寧節度使に転じた。ある者が宗奭が権に誣いられたと訴えたため、左遷されて原王傅となった。右金吾衛大将軍に改めた。

原文鄭權,汴州開封人。擢進士第,佐涇原節度劉昌府。昌被病入朝,度其軍必亂,以權寬厚容眾,檄主後務。昌去,軍果亂,權挺身冒白刃,明諭逆順,殺首亂者,一軍畏伏。德宗方厭兵,藩屯校佐得士心者,皆就命之,權自試參軍拜行軍司馬。擢累河南尹,進拜山南東道節度使,徙領德棣滄景軍。時討李師道,權身將兵出屯,奏置歸化縣,綏納降附。滄州刺史李宗奭數違命,權劾奏,詔追之,宗奭以州兵留己自解。憲宗更以烏重胤代權,滄人懼,共逐宗奭還京師,有詔斬以徇,徙權節度邠寧。或訟宗奭爲權所誣,左遷原王傅。改右金吾衛大將軍。

穆宗が立つと、左散騎常侍として節を持ち回鶻告哀使となったが、足の病を理由に辞したが、許されず、肩輿で道に就いた。権は識見が堂々としており、広い弁舌があった。可汗と曲直を争い、持論は明らかで雄壮であり、虜は礼を異にした。使いから戻り、三転して工部尚書となった。用度が豪奢であったため、権幸に結びついて鎮守を求め、そこで検校尚書右僕射・嶺南節度使となった。多くの資財珍宝を集め、吏に輸送させ、帝の側近で助力する者には皆贈り物をしたので、人々は彼を笑った。官の任上で卒した。

原文穆宗立,以左散騎常侍持節爲回鶻告哀使,以足疾辭,不許,肩舁就道。權識詣魁然,有閎辯。與可汗爭曲直,持議明壯,虜禮異之。使還,三遷工部尚書。用度豪侈,乃結權幸求鎮守,於是檢校尚書右僕射、嶺南節度使。多裒資珍,使吏輸送,凡帝左右助力者皆有納焉,人笑之。卒於官。

陸亙

原文陸亙

陸亙、字は景山、蘇州呉の人である。元和三年、制科に策して及第し、万年丞を補った。再遷して太常博士となった。礼史の孟真は儀礼典制に練達しており、博士が顔色を和らげて尋ねると、史はそれに依って傲慢になった。ちょうど皇太子を冊立することになり、儀式を起草するにあたり、真が参議して傲慢であったので、亙が鞭打って追い出し、胥吏たちは顔色を失った。累遷して戸部郎中・太常少卿となった。兗・蔡・虢・蘇の四州刺史・浙東観察使を歴任し、宣歙に転じた。太和八年に卒し、年七十一、礼部尚書を追贈された。

原文陸亙,字景山,蘇州吳人。元和三年,策制科中第,補萬年丞。再遷太常博士。禮史孟真練容典,博士降色訪逮,史倚以倨橫。會將冊皇太子,草儀,真參議偃蹇,亙榜逐之,胥曹失色。遷累戸部郎中、太常少卿。歷兗蔡虢蘇四州刺史、浙東觀察使,徙宣歙。太和八年卒,年七十一,贈禮部尚書。

亙は文雅で厳粛であり、赴任した地では善政をもって称えられた。初めて兗州刺史となった時、延英殿で対し、詳しく陳述した、「節度使が兵を分けて属州に駐屯させると、刺史はこれを制することができず、故に乱れやすい」と。帝はそこで詔を下し、屯兵は刺史に隷属させることとした。温州は海に臨み、賊の乱を経て、官吏の俸禄の半分を奪って民の租税に代えていたが、後世に相沿い、かえって奸悪の手段となった。亙は官に全俸を戻し、贓罪を糺弾したので、吏は畏れながらもこれに頼った。

原文亙文明嚴重,所到以善政稱。初爲兗州,對延英,具陳:「節度分兵屯屬州,刺史不能制,故易亂。」帝因詔屯士得隸刺史。溫州瀕海,經賊亂,奪官吏半祿代民租,後相沿,更以爲奸,亙還官全稟,繩贓罪,吏畏而賴之。

盧坦

原文盧坦

盧坦、字は保衡、河南洛陽の人である。河南尉に仕えた。時に杜黄裳が府尹であり、坦を召して堂下に立たせ、「ある家の子が悪人と交わり、家産を傾けた。どうしてこれを察しないのか」と言った。坦は言った、「およそ官に居て廉潔であれば、たとえ大臣でも厚い蓄えはない。財を積むことができる者は必ず下を剥いでこれを致すものである。もし子孫が善く守れば、それは天が不道の家を富ませることであり、その不道を恣にさせて、人に帰するよりはましだ」と。黄裳はその言葉に驚き、これ以後ますます厚く遇した。

原文盧坦,字保衡,河南洛陽人。仕爲河南尉。時杜黃裳爲尹,召坦立堂下,曰:「某家子與惡人遊,破產,盍察之?」坦曰:「凡居官廉,雖大臣無厚畜,其能積財者必剝下以致之。如子孫善守,是天富不道之家,不若恣其不道,以歸於人。」黃裳驚其言,自是遇加厚。

李復が鄭滑節度使となると、彼を判官に表した。監軍薛盈珍がたびたび政事に干渉したが、坦は毎度道理に基づいて拒んだ。笛の上手な者がおり、大将らがこれを気に入り、李復のところに行って重職を請うた。坦は笑って言った、「大将は長く軍中にあり、労を積んで急ぎ昇進し、ようやく右職に及ぶ。どうして自らを軽んじ、笛を吹く少年と同列になろうとするのか」と。諸将は慚じ、急いで出て坦に謝した。李復が重病になると、盈珍が甲士こうし五百を牙中に入れ、府庫を封じたので、全軍が大いに恐れた。坦がこれを制止するよう勧め、軍はようやく安まった。李復が卒すると、詔で姚南仲が代わった。盈珍は南仲がもともと書生であるため、侮って言った、「これが将たる材か」と。坦はひそかに人に言った、「姚大夫は外は柔らかだが中は剛直である。監軍がもし彼を侵せば、必ず受け入れないだろう。私が留まれば、禍が及ぶ恐れがある」と。そこで李復の喪に従って東都に帰り、寿安令となった。盈珍は果たして南仲と折り合わず、幕府の者は多く貶黜され死んだ。

原文李復爲鄭滑節度使,表爲判官。監軍薛盈珍數幹政,坦每據理拒之。有善笛者,大將等悅之,詣復請爲重職。坦笑曰:「大將久在軍,積勞亟遷,乃及右職。奈何自薄,欲與吹笛少年同列邪?」諸將慚,遽出就坦謝。復病甚,盈珍以甲士五百內牙中,封府庫,舉軍大恐。坦勸止之,軍乃安。復卒,詔姚南仲代之。盈珍以南仲本書生,易之,曰:「是將材邪?」坦私謂人曰:「姚大夫外柔中剛,監軍若侵之,必不受。我留,恐及禍。」乃從復喪歸東都,爲壽安令。盈珍果與南仲不相中,幕府多黜死者。

河南の賦税の期限が尽きたが、県民が機織がまだ完成していないと訴えたので、坦は府に行って十日延長を請うた。聞き入れられなかった。坦は県民に順序よく納めるよう諭し、期限を顧みるな、違反してもせいぜい県令の俸禄を罰するだけだと言った。これによって有名になった。累遷して刑部郎中となり、兼侍御史知雑事を兼ねた。赤県尉が御史台に糾弾され、京兆尹が密かにこれを救おうとしたので、帝が中人を遣わして釈放させた。坦は中丞に白状し、中使による覆奏を請うた。中人が走ってこれを奏上すると、帝は言った、「私は確かに先に有司に命ずべきであった」と。そこで詔を下し、ようやく釈放した。数月後に中丞に遷った。

原文河南賦限已窮,縣人訴機織未就,坦詣府請申十日。不聽。坦諭縣人第輸,勿顧限,違之不過罰令俸爾。由是知名。累爲刑部郎中,兼侍御史知雜事。赤縣尉爲臺所按,京兆尹密救之,帝遣中人就釋。坦白中丞,請中覆,中人走以聞,帝曰:「吾固宜先命有司。」遂下詔,乃釋。數月遷中丞。

初め、諸道の長吏で罷任して還る者は、本道の銭を取って進奉としていたが、帝は赦令によって一切禁止した。しかし山南節度使柳晟と浙西観察使閻済美が詔に背いて献上したので、坦が弾劾して上奏すると、晟と済美は白衣のまま待罪した。帝は坦に諭して言った、「二人の献上したものは皆家財である。朕は既に許して赦すと約した。信を失うことはできない」と。坦は言った、「大信を布くものは、赦令です。今、二臣が詔に背きました。陛下はどうして小信のために大信を失おうとなさるのですか」と。帝は言った、「朕は既に受け取ってしまった。どうすればよいか」と。坦は言った、「有司に出して帰属させ、陛下の徳を明らかになさるのです」と。帝はこれを聞き入れた。李锜が誅せられた時、有司がその祖墓を破壊しようとしたが、坦が上疏して諫めて止めさせた。裴均が僕射となり、諫議大夫・常侍の上位に座ろうとしたので、坦は故事と姚南仲の先例を引いた。均は言った、「南仲とは何者か」と。坦は言った、「正を守って権幸と交わらない者です」と。均は怒り、遂に左庶子に罷められた。

原文初,諸道長吏罷還者,取本道錢爲進奉,帝因赦令一切禁止,而山南節度使柳晟、浙西觀察使閻濟美格詔輸獻,坦劾奏,晟、濟美白衣待罪。帝諭坦曰:「二人所獻皆家財,朕已許原,不可失信。」坦曰:「所以布大信者,赦令也。今二臣違詔,陛下奈何以小信失大信乎!」帝曰:「朕既受之,奈何?」坦曰:「出歸有司,以明陛下之德。」帝納之。李锜誅,有司將毀其祖墓,坦上疏諫止。裴均爲僕射,將居諫議、常侍上,坦引故事及姚南仲舊比。均曰:「南仲何人?」曰:「守正而不交權幸者。」均怒,遂罷爲左庶子。

数ヶ月後、宣歙池観察使に任ぜられた。初め、劉辟の婿の蘇強が罪に坐して誅殺された。蘇強の兄の蘇弘は、晋州に宦していたが、自ら免職して去り、人々は敢えて用いる者もなかった。李坦は「蘇弘は才能と行いがあり、その弟が劉辟に従った時、三千里も離れており、謀議ぼうぎを通じるべきではない。今、坐して廃されているのは、人を用いる意に非ず」と奏上し、判官に署することを請うた。帝は「仮に蘇強が誅殺されずとも、尚おその材を録するであろう。況んや彼の兄においてをや」と言われた。時に江淮は旱魃に遭い、穀物の価格が高騰した。或る者がその価格を抑制することを請うた。李坦は「管轄する地域は土地が狭く、穀物は他州から来る。もし価格を安くすれば、穀物は至らなくなる。放任するに如かず」と言った。やがて商人が米を大量に運んで来ると、兵糧を多く貸し出して市場に出し、価格は遂に平準となった。

原文數月,拜宣歙池觀察使。初,劉辟婿蘇強坐誅。強兄弘,宦晉州,自免去,人莫敢用者。坦奏「弘有才行,其弟從辟時,距三千里,宜不通謀,今坐廢,非用人意」,因請署判官,帝曰:「使強不誅,尚錄其材,況彼兄耶?」時江淮旱,谷踴貴,或請抑其價。坦曰:「所部地狹,谷來他州,若直賤,谷不至矣,不如任之。」既而商以米坌至,乃多貸兵食出諸市,估遂平。

再び戸部侍郎に遷り、度支を判った。或る者が泗州刺史の薛謇が代北水運使であった時、異なる良馬を飼育しながら、献上しなかったと告げた。事は度支に下された。李坦は吏を遣わして検証させたが、戻らぬうちに、帝はこれを遅しとし、更に宦官の劉泰昕を遣わした。李坦は「事は有司に付したのに、また宦官を遣わすとは、有司が信頼に足らぬというのか」と言い、三度奏上して、帝はやめさせた。韓重華を代北水運使に表薦し、廃田を開墾し、二十の堡塁を設け、兵三千人を増やし、毎年粟二十万石を収穫させた。

原文再遷戸部侍郎,判度支。或告泗州刺史薛謇爲代北水運時,畜異馬,不以獻,事下度支。坦遣吏驗,未反,帝遲之,更遣中人劉泰昕往。坦曰:「事付有司,而又遣宦官,豈有司不足信乎?」三奏,帝乃止。表韓重華爲代北水運使,開廢田,列壁二十,益兵三千人,歲收粟二十萬石。

黄河が西受降城を破壊した。宰相の李吉甫は天徳に移転することを議した。李坦は「城は磧口に当たり、北狄を制する要を得て、美水豊草、辺境の障壁に利がある。もし黄河の流れを避けるならば、数里を退いて移るに過ぎない。如何ぞ一時の費用節約に従い、万世の策を堕すことがあろうか。天徳の故城は、土地が瘠せており、北は山に倚り、黄河から遠く、烽候が統べ接続する所なく、虜騎が唐突すれば、その勢いを知る由もない。これは故なくして地を二百里縮めることであり、故に便ならずと言うのである」と考えた。城使の周懷義もまたこの意見を述べた。李吉甫は快く思わず、李坦を出して東川節度使とした。後数ヶ月、周懷義は憂死し、燕重旰が代わると、遂に天徳に移転した。兵士は怨み、燕重旰を殺し、その家を覆した。

原文河毀西受降城,宰相李吉甫議徙天德。坦以爲:「城當磧口,得制北狄之要,美水豐草,邊鄣所利。若避河流,不過退徙數里,奈何徇一時省費,墮萬世策邪?天德故城,地壤墝瘠,北倚山,去河遠,烽候無所統接,虜騎唐突,勢不容知,是無故而蹙地二百里,故曰非便。」城使周懷義亦以爲言。吉甫不悅,出坦爲東川節度。後數月,懷義憂死,燕重旰代之,遂徙天德。師人怨,殺重旰,覆其家。

初め、李坦は宰相の李絳と議することが多く一致し、李絳はこれを己の助けとした。李坦が出てから半年で李絳は罷免された。東川を治めるに当たり、山沢・塩井の専売率に関する簿籍を全て免除した。呉少誠を誅した時、詔により兵二千を安州に駐屯させた。李坦は毎月の朔望に人を遣わしてその父母妻子を問い、疾病医薬を看視したので、兵士は皆感慰し、逃げ帰る者はなかった。ただ、軍吏の閏月の糧を収めて行営を助けることを請うたことが、人に非難された。元和十二年に卒去。六十九歳。礼部尚書を追贈された。

原文初,坦與宰相李絳議多協,絳藉爲己助,及坦出半歲而絳罷。治東川,盡蠲山澤鹽井榷率之籍。吳少誠之誅,詔以兵二千屯安州,坦每朔望使人問其父母妻子,視疾病醫藥,故士皆感慰,無逃還者。惟請收軍吏閏月糧助行營,爲人所非。元和十二年卒,年六十九,贈禮部尚書。

旧制では、官・階・勲が全て三品になって初めて戟を立てることを許された。後に四品官に転じても、貶削されない限り戟は奪われなかった。李坦が戸部侍郎であった時、階は朝議大夫、勲は護軍であったが、かつて宣州刺史として三品に任ぜられたことがあるとして、戟を立てることを請い、許された。時に鄭餘慶は旧章に精通しており、これは正しくないと考えた。憲司に劾正され、詔により一月の俸を罰せられ、戟を奪われた。貞元以来、戟を立てた十八家が法令に応じないものは、全て追って正された。

原文舊制,官、階、勛俱三品始聽立戟,後雖轉四品官,非貶削者戟不奪。坦爲戸部侍郎時,階朝議大夫,勛護軍,以嘗任宣州刺史三品,請立戟,許之。時鄭餘慶淹練舊章,以爲非是。爲憲司劾正,詔罰一月俸,奪戟。自貞元以來,立戟十八家不應令,並追正之。

閻済美という者。進士に及第し、長者の名声があった。貞元末、婺州刺史より福建観察使となり、浙西に移った。治め方は簡易で、鎮に居ても常賦を増やすことはなかった。浙西を罷める時、道中にあったが、詔を見て貢献する物を還す所がなかったので、帝がこのことを言われた。間もなく華州刺史として出され、入朝して秘書監となり、工部尚書をもって致仕した。卒去。諡は温。

原文閻濟美者,第進士,有長者名。貞元末,繇婺州刺史爲福建觀察使,徙浙西。爲治簡易,居鎮未嘗增常賦。罷浙西也,方在道,見詔而貢獻無所還,故帝爲言之。尋出華州刺史,入爲秘書監,以工部尚書致仕。卒,謚曰溫。

柳晟

原文柳晟

柳晟は、河中解の人である。六世の祖の柳敏は、後周に仕えて太子太保となった。父の柳潭は、和政公主を尚し、太僕卿に官した。柳晟は十二歳の時、父の喪に服し、孝を聞こえた。代宗は宮中で養い、太子や諸王と共に呉大瓘及びその子の通玄に学ばせ、十日ごとに学んだことを上奏させた。成長すると、詔により呉大瓘らを家に教授させた。検校太常卿に任ぜられた。

原文柳晟,河中解人。六世祖敏,仕後周爲太子太保。父潭,尚和政公主,官太仆卿。晟年十二,居父喪,爲聞孝。代宗養宮中,使與太子諸王受學於吳大瓘並子通玄,率十日輒上所學。既長,詔大瓘等即家教授。拜檢校太常卿。

徳宗が即位すると、柳晟は親信として用いられた。朱泚が反乱を起こすと、帝に従って奉天に至り、自ら請うて京師に入り賊党を説き、離間させようとした。帝はその志を壮とし、派遣を許した。朱泚の将である右将軍の郭常、左将軍の張光晟は皆、柳晟の旧知であった。柳晟は密詔を出し、禍福と逆順を説いた。郭常は詔を奉じて命を受け、自ら抜けて帰ることを約した。要籍の朱既昌がその謀を告げた。朱泚は柳晟と郭常を捕らえて外獄に繋いだ。柳晟は夜半に壁に穴を穿ち械を壊して逃亡し、髪を断って浮屠となり、間道を伝って奉天に帰った。帝はこれを見て涙を流された。乗輿が京師に還ると、原王府長史に抜擢された。呉通玄が罪を得ると、柳晟は上書してその罪を弁明した。その弟が「天子まさに怒っておられる。後悔を招くことなかれ」と止めたが、聞き入れなかった。凡そ三度上書し、帝の意が解け、呉通玄は死罪を減ぜられた。

原文德宗立,晟親信用事。朱泚反,從帝至奉天,自請入京師說賊黨以攜沮之,帝壯其誌,得遣。泚將右將軍郭常、左將軍張光晟皆晟雅故,晟出密詔,陳禍福逆順,常奉詔受命,約自拔歸。要籍朱既昌告其謀,泚捕系晟及常外獄,晟夜半坎垣毀械而亡,斷髮爲浮屠,間歸奉天,帝見,爲流涕。乘輿還京師,擢原王府長史。吳通玄得罪,晟上書理其辜,其弟止曰:「天子方怒,無詒悔!」不聽。凡三上書,帝意解,通玄得減死。

柳晟は累遷して将作少監となり、崇陵の造営を護った功で河東県子に封ぜられ、山南西道節度使に任ぜられた。府兵が劉辟を討って還り、未だ城門を叩かぬうちに、また詔により梓州に戍ることを命ぜられた。軍の兵士は怒り、監軍を脅して謀反を企てた。柳晟はこれを聞き、疾駆して入り、士卒を労った。やがて問うて「汝らは何を以て成功したのか」と言うと、「驕って命令を受けぬ者を誅したのである」と答えた。柳晟は「汝らは劉辟が天子に罪を得て誅されたことを知っているのに、如何ぞまた後人に汝らを誅させようとするのか」と言った。兵士は皆、冑を脱いで拝し、移徙に従った。入朝して将作監となった。回鶻に使いし、冊を奉じて可汗を立てた。逆に言うに「かねて聞くに、可汗は礼なくして自ら大とし、信を去って自ら強しとす。礼と信を行うことができぬならば、何をもって中国に奉じるに足りようか」と言った。可汗と諸貴人は愕然として驚き、皆跪き伏して礼を成した。還って左金吾衛大将軍となり、爵は公となった。卒去。六十九歳。詔により従官が臨弔し、太子少保を追贈された。

原文晟累遷將作少監,以護作崇陵,封河東縣子,授山南西道節度使。府兵討劉辟還,未叩城,復詔戍梓州,軍曹怒,脅監軍謀變。晟聞,疾驅入勞士卒,既而問曰:「若等何爲成功?」曰:「誅驕不受命者。」晟曰:「若知劉辟得罪天子而誅之,奈何復欲使後人誅若等耶?」士皆免胄拜,從所徙。入爲將作監。使回鶻,奉冊立可汗,逆謂曰:「屬聞可汗無禮自大,去信自疆。夫禮信不能爲,何足奉中國乎?」可汗諸貴人愕然駭,皆跪伏成禮。還爲左金吾衛大將軍,爵爲公。卒,年六十九,詔從官臨吊,贈太子少保。

柳晟は弁舌に敏で、士を下し施すことを楽しんだ。ただ、興元より入朝した時、貢献が詔に如かず、御史中丞の盧坦に劾せられたが、憲宗はその賢を以て、暴かずに置いたという。

原文晟敏於辯,下士樂施。唯自興元入朝,貢獻不如詔,爲御史中丞盧坦所劾,憲宗以其賢,置弗暴雲。

崔戎

原文崔戎

崔戎は、字は可大、崔玄韋の従孫である。明経に挙げられ、太子校書郎を補した。判入等し、藍田主簿に調ぜられた。淮南の李鄘の幕府に辟された。衛次公が李鄘に代わると、憲宗は崔戎の才を称えられたので、衛次公は職務において彼に依って成した。裴度が太原を節度した時、参謀に署した。時に王承宗が鎮州を以て叛いた。裴度は崔戎を遣わして諭すことを請うた。王承宗は涙を流すに至り、乃ち命を聴いた。入朝して殿中侍御史となり、累遷して諫議大夫に至った。

原文崔戎,字可大,玄韋從孫也。舉明經,補太子校書郎。判入等,調藍田主簿。辟淮南李鄘府。衛次公代鄘,憲宗稱戎才,故次公倚成於職。裴度節度太原,署參謀。時王承宗以鎮叛,度請戎往諭,承宗至泣下,乃聽命。入爲殿中侍御史,擢累諫議大夫。

雲南の蛮が成都を乱した。詔により崔戎は節を持ち剣南に宣撫使として赴いた。税外の姜芋銭を廃することを奏上し、賦銭を納める者には概ね三分の一を率い、その一分を繒布に準じ、その評価を優遇して民に与えた。流亡の民を綏撫招集した。凡そ廃することと置くこと、公私共に便ならざるはなかった。還って給事中に任ぜられた。出て華州刺史となった。吏は故事により銭一万緡を置いて刺史の私用に供したが、崔戎は取らなかった。去るに当たり、吏を召して言うに「籍に置いた銭で軍を饗せよ。吾は重ねて矯激を以て後人に誇ることはしない」と言った。兗海沂密観察使に移ると、民は道に擁留して行くことを得ず、乃ち伝舎に休んだ。民は抱き持ってその靴を取るに至った。時に詔使が尚在していた。民は泣いて詔使に詣で、天子に請うて崔戎を還らしめるよう乞うた。詔使は承諾した。崔戎は恚ってその下を責めた。衆は「公を留めて天子が怒られても、吾ら二、三の老人を斬るに過ぎず、然らば公は去らぬであろう」と言った。崔戎は夜、単騎で亡去した。民は追い及ばず、乃ち止んだ。兗州に至ると、奸吏十余輩を誅滅し、民は大いに喜んだ。歳余にして卒去。五十五歳。礼部尚書を追贈された。

原文雲南蠻亂成都,詔戎持節劍南爲宣撫使。奏罷稅外姜芋錢;當賦錢者率三之,以其一準繒布,優其估以與民;綏招流亡。凡廢若置,公私莫不便之。還拜給事中。出爲華州刺史。吏以故事置錢萬緡爲刺史私用,戎不取。及去,召吏曰:「籍所置錢享軍,吾重矯激以誇後人也。」徙兗海沂密觀察使,民擁留於道不得行,乃休傳舍,民至抱持取其靴。時詔使尚在,民泣詣使,請白天子丐戎還,使許諾。戎恚責其下,眾曰:「留公而天子怒,不過斬吾二三老人,則公不去矣。」戎夜單騎亡去,民追不及乃止。至兗州,鉏滅奸吏十餘輩,民大喜。歲餘卒,年五十五,贈禮部尚書。

崔戎の子、崔雍

原文戎子 雍

子雍、字は順中、起居郎より出でて和州刺史となる。龐勛が兵を以て烏江を劫掠するや、雍は抗し能わず、人を遣わして牛酒を持たせてこれを労い、密かにその状を表す。民は知らず、諸朝に訴う。宰相路巖は素より不平を抱き、これに因ってその罪を傅え、宣州にて賜死す。

原文子雍,字順中,由起居郎出爲和州刺史。龐勛以兵劫烏江,雍不能抗,遣人持牛酒勞之,密表其狀。民不知,訴諸朝,宰相路巖素不平,因是傅其罪,賜死宣州。