鮑防
鮑防、字は子慎、襄州襄陽の人。幼くして孤貧、志を強くして学に励み、詞章を善くす。進士に及第し、歴任して節度使府の僚属を署す。入朝して職方員外郎となる。薛兼訓が太原を帥ぶとき、病に罹り、代宗は防に少尹・節度行軍司馬を授け、召見して慰めて遣わした。まもなく留後を兼ね、太原尹・節度使を兼ねる。人々その治を楽しみ、詔して別殿に図形せしむ。入朝して御史大夫となり、福建・江西観察使を歴任し、召されて左散騎常侍に拝せらる。徳宗に従い奉天に赴き、礼部侍郎に進み、東海郡公に封ぜらる。
初め、防と知雑御史竇參と遇い、導騎避けず。參、その僕を謫す。及んで參が相となると、防は京兆尹たり。迫りて致仕せしめ、工部尚書を授く。防咤して曰く「吾は蕭昕の子と歯するも、而して昕とともに老ゆ。宰相の余忿に坐するか」と。志を得ずして卒す。年六十九。太子少保を贈られ、謚して宣と曰う。防は詩に特に工なり。感発する所あり、以て世の弊を譏切す。当時に之を称す。中書舎人謝良弼と友善、時に「鮑謝」と号す。
李自良
李自良、兗州泗水の人。天宝の乱、往きて兗鄆節度使能元皓に従う。戦功多く、累ねて右衛率を授かる。袁傪に従い賊袁晁を討ち、積閥して試殿中監に至り、浙東薛兼訓節度府に事う。兼訓が太原に徙ると、また牙将となる。鮑防、代わりて節度事を総べ、会に回紇入寇す。防、大将焦伯瑜らを遣わして之を撃たしむ。自良曰く「寇遠来す、争鋒し難し。請う二壘を築き帰路を搤ち、堅壁して出でず、求戦を許さず、師老いて墮ち、その勢乗じ易し」と。防聴かず。伯瑜、百井に戦い大敗す。是より知名となる。
蕭昕
蕭昕、字は中明、梁の鄱陽王蕭恢の七世の孫、世々河南に居る。再び博学宏辞科に中り、寿安尉に調じ、累遷して左補闕となる。哥舒翰が副元帥として安禄山を拒ぐに、辟して書記を掌らしむ。翰敗れ、儳道して蜀に走る。粛宗立ち、誥冊を奉じて行在に見ゆ。中書舎人・礼部侍郎を歴任す。代宗陜に狩す。昕、武関より帝に従い、擢て国子祭酒となる。太学を崇めて教本を樹つることを建請す。帝その言に寤り、詔して群臣に朝に籍ある者及び神策六軍の子弟で業に隷する者は、生員を補するを聴くとす。
大歷中、節を持ちて回紇を弔う。回紇功を恃み、廷にて昕を譲りて曰く「乃ち中国乱る。我無くしては以て平げず。奈何ぞ馬を市して時に我が直を帰さざる」と。衆色を失う。昕徐に曰く「国家寇難を龕定す。功は絲毫と雖も賞を遺さず、況んや隣国をや。仆固懷恩、我が叛臣なり。爾これと連禍し、又吐蕃を引きて我が郊甸を暴かしむ。天その衷を捨て、吐蕃敗北し、回紇悔懼し、顙を叩きて和を乞う。天子旧功を恤わざれば、則ち只馬も塞下を出でず。孰れか失信なる者ぞ」と。回紇大いに慚じ、因りて厚く昕に礼し、使者を遣わして和を約す。工部尚書に転じ、晉陵侯に封ぜらる。徳宗奉天に出ず。昕年八十余、歩いて城を出づ。賊急に求め、獨り山谷の間に竄き、僅かに奉天に至る。太子少傅に遷り、爵郡公、礼部尚書を兼ね、貢挙を知る。久しくして、太子少師を以て致仕す。卒す。年九十三。揚州大都督を贈られ、謚して懿と曰う。
昕始めに張鎬・来瑱を薦め、礼部に在りて杜黄裳・高郢・裴垍を擢でる。その後鎬布衣より興り、数年を経ずして将相の位に至り、瑱は将として威名有り、黄裳ら相継ぎて政を輔け、並びに名宰と為る。
薛播
薛播、河中宝鼎の人。曾祖文思、官は中書舎人。播早く孤と成る。伯母林、経史に通じ、文を属するに善く、躬ら経を諸子及び播兄弟に授く。故に開元・天宝の間、播兄弟七人皆進士第に擢でられ、衣冠の光韙と為る。累ねて殿中侍御史を授かり、武功・萬年令に遷る。温敏にして裕あり、人と交わり常有り。李棲筠・常袞・崔祐甫並びに之を器とす。祐甫政を輔くに及び、中書舎人に拝し、出でて汝州刺史と為る。小累に坐し、泉州に貶せられ、再遷して河南尹に至る。礼部侍郎にて卒す。本曹尚書を贈らる。
播の子 公達
子の公達は、進士第に擢でられた。鳳翔軍を佐けた。時に帥が文雅ならず、嘗て射を集め、的を数十尺の高さに設け、令して曰く、「中る者には錦と金を酬ゆ。」一軍中だれも能く中てる者なし。公達は弓矢を執り揖して曰く、「公の為に歓を為さんことを請う。」三発を射て連続して中つ、衆大いに呼び笑う。帥は喜ばず、乃ち自ら免じて去る。復た河陽軍を佐く。国子助教を以て東都に居りて卒す。
樊澤
樊澤、字は安時、河中の人なり。少くして孤となり、外家に依りて河朔に客す。相衛節度使薛嵩、表して堯山令と為す。賢良方正に挙げられ、潼関に次ぎ、雨淖にて、困して前に進む能わず。熊執易という者有り、同舎の逆旅にて、之を哀しみ、乗する所の馬を輟め、褚を傾けて済し、自ら挙げたる所を罷む。是の歳、澤上第し、楊炎之を善しとし、左補闕に擢でらる。
澤の子 宗師
王緯
王緯、字は文卿、并州太原の人なり。父之咸、長安尉と為り、弟之賁・之奐と共に皆文有り。緯は明経に挙げられ、書判を以て等に入り、歴任して長安尉。大曆中、李泌と共に路嗣恭の江西観察判官と為る。泌は元載に悪まれるを見、嗣恭意に希って之を殺さんと欲すれども、緯護り解き、僅かに免る。泌執政し、己に私恩有りと奏す、徳宗泌の為に報いんことを許す、故に緯を進めて給事中と為す。浙西観察使欠く、泌緯を擬す、帝曰く、「是朕が君の為に徳を報いんとする者か?黄門要地、独り議事を留めざるや?」対えて曰く、「浙西の賦入尤も劇しく、緯清にして忠、能く民を恵養す、故に之を遣わんことを請う。」制可す。初め、州県に韓滉の時に罷めたる銭未だ入らざる者十八万緡有り、府史之を裒めて進奉と為さんことを請う、緯上疏して願わくば之を蠲だして以て民を紡がんとし、詔して之を聴す。貞元十年、御史大夫兼諸道塩鉄転運使を加う。裴延齢諸道の負う所の銭四百万緡を以て羨銭と献じて、以て寵を図る、緯奏して「此れ諸州の経費なり」と、大いに延齢の意に忤い、検校工部尚書に改む。卒す、年七十一、太子少保を贈らる。
緯は官に居るに清白を以て称せらる、然れども好んで刻深の吏を用いて其の下を督察し、条約苛碎にして、人聊かも云わず。
呉湊
呉湊は、章敬皇后の弟なり。布衣より兄の漵と一日に官封を賜いて皆等しく、而して湊は太盛を畏れ、太子詹事を解くことを乞い、換えて検校賓客兼家令と為る。進み累ねて左金吾衛大将軍。
湊は才敏鋭なり、而して謙畏自ら将め、帝数え顧訪し、尤も委信せらる。是の時、令狐彰・田神功等継いで没し、其の下喪に乗じて兵を挟み、輒ち偃蹇して揺乱す。湊は節を持ちて汴・滑に至り、委悉に慰説し、裁して為さんと欲する所を奏し、各其の情を尽くし、亦朝廷の可行なる者を度る、故に軍中附く。帝其の為す所を才し、之を重んず。元載国に当たり久しく、愎状日に肆なり、帝陰に誅せんと欲すれども、未だ発せず、左右を顧みて計るに与るべき者無く、即ち湊を召して之を図る。俄して載を収めて死を賜う。是に於て王縉・楊炎・王昂・韓会・包佶等皆坐すべきに当たる、湊建言して曰く、「法に首従有り、従は死に応ぜず、一に極刑を用いれば、徳を虧い仁を傷つく。」縉等是に由りて死を減ぜらる。後母の喪に丁たって職を解く。既に除き、右衛将軍を拝す。
徳宗初め、出でて福建観察使と為り、政勤清にして、美誉四方に騰る。宰相竇参と憾み有り、参数え短毀を加え、又湊は風痹にて良く趨走せずと言う、帝召し還し、其の疾を験すれども、是に非ず、是に由りて参を直さず。湊を擢でて陝虢観察使と為し、李翼に代わる。翼は参の党なり。宣武劉玄佐死し、湊を以て検校兵部尚書を以て節度使を領し馳せ代わらしむ。未だ至らざるに、汴軍乱れ、玄佐の子士寧を立てる。帝兵を遣わして湊を内れんと欲すれども、而して参は士寧に授けて以て湊を沮まんことを請い、還って右金吾衛大将軍と為る。
貞元十四年夏、大旱し、穀貴く、人流亡す、帝過ちを以て京兆尹韓臯に帰し、之を罷む。即ち湊を召して臯に代わらしめ、已に謝し、督めて視事せしめ、明日詔下る。湊は人と為り強力劬儉にして、瞿瞿として未だ嘗て民を擾さず、上下愛向す。京師は宮市の強いて物を估取するを苦しみ、而して有司は中官に附媚し、率ね阿従して敢えて争う者無し。湊便殿に見え、因りて言う、「中人の市う所は、宵民に便ならず、徒に紛紛として流議す。宮中に須うる所は、臣を責めて可く弁ぜしむ。若し外吏の禁中の事を与聞するを欲せざれば、宜しく中官の高年謹信なる者を料して宮市令と為し、平賈和售して、以て衆の讙を息めん。」又言う、「掌閑・広騎・飛龍・内園・芙蓉園・禁兵諸司の雑供役手は、資課太だ繁し、宜しく蠲省有るべし。」帝輒ち順可す。初め、府中湊を貴戚の子と易り、簿領に便せず、毎に疑獄有れば、時に其の将に出づるを、則ち湊を遮りて決を取る、幸いに倉卒にして欺きを容るるを得んとす。湊は鞍を叩いて一視し、凡そ指擿する所、尽く其の弊に中り、初め留思無く、衆畏服し、湊の精裁遣する此の如きを意えざりき。僚史は大過に非ざれば榜責せず、廷に召し至り、詰めて服して原し去らしめ、其の下伝相訓勖し、挙げて稽る事無し。
文敬太子・義章公主仍薨じ、帝悼念し、厚く之を葬り、車土墳を治め、農事廃す。湊は帝の閑なるを候いて徐に言い、極めて争いて避けず。或る人論事は宜しく簡約すべしと勧め、然らずんば、上に厭苦せらるべしと。湊曰く、「上は明睿にして、四海を憂労し、愛の鐘る所を以て民を疲して逞しむるに非ず。顧みるに左右鉗噤自ら安んずるのみ、若し反復啓寤して、幸いに一たび之を聴かば、則ち民賜を受くる少なからず。舌を撟げて旨に阿るは固より善し、有如窮民上訴せば、云う可からず罪何ぞ?」能を以て進み兼ねて兵部尚書。
病に罹った時、門を閉じて医者や巫を入れず、薬も口にせず、家人が涙を流して請うた。彼は答えて言う、「私は凡庸で慎み深い者が田畑から起こり、位は三品に至り、顕職に四十年、年は七十、まだ何を求めようか。古来、外戚で終わりを全うした者は数えられるほどである。私は天寿を全うして先人のもとに地下に帰ることができれば、それで十分だ」と。帝はこれを知り、侍医に詔して湯薬を進めさせたが、やむを得ず一度だけ飲んだ。卒去、年七十一、尚書右僕射を追贈され、諡して成といった。
以前より、街路の樹木はまばらで、役所が空地に榆を植えていたが、湊は言った、「榆は人の蔭りとして楽しむ木ではない」と。すべて槐に替えさせ、槐が成長した時には湊は既に亡くなっていた。通行人は樹を指して彼を偲んだ。唐が興って以来、后族で朝請に退いた者でも、事によって失職する者がいたが、湊は朝廷内外の職を歴任し、罪過によって罷免されたことはなく、世の外戚の模範とされた。
湊の従子に士矩あり。
漵の子、士矩。士矩は文学が早く成り、豪傑と交わることを好み、人々が皆、談説を助けた。開成初年、江西観察使となり、饗宴は贅沢で放縦、一日の費用は十数万に及んだ。着任時、庫の銭は二十七万緡あったが、晩年には九万にまで減り、軍用は乏しく、頼るものもなかった。事が聞こえると、朝廷内外が共に弁解し、親族の議によって、文宗は徹底的に追及せず、蔡州別駕に貶した。諫官がその罪を処するよう執ったが、聞き入れられなかった。そこで御史中丞狄兼謨が建言した、「陛下が士矩を抜擢任用されたのは私情ではない。士矩が陛下に背いてこれを治めるのも私情ではない。御史を江西に遣わして即座に訊問させ、江淮の他の藩鎮がこの習いに倣う意を杜ぐべきです」と。帝は聞き入れ、端州に流した。
鄭権
鄭権は、汴州開封の人である。進士に及第し、涇原節度使劉昌の幕府に佐けた。劉昌が病で朝廷に入ると、その軍が必ず乱れると見込み、権が寛厚で衆を容れる人物であるため、檄を飛ばして後務を主管させた。劉昌が去ると、軍は果たして乱れ、権は身を挺して白刃を冒し、逆順を明らかに諭し、首謀者を殺すと、一軍が畏れて服した。徳宗はちょうど兵事を厭っており、藩鎮・屯所の校佐で兵士の心を得ている者は、皆そのまま任命したので、権は試参軍から行軍司馬に任ぜられた。累遷して河南尹に抜擢され、進んで山南東道節度使に拝され、徳棣滄景軍を領するよう転じた。時に李師道を討つにあたり、権は自ら兵を率いて出屯し、帰化県を置くことを奏上し、降伏者を安撫して受け入れた。滄州刺史李宗奭がたびたび命令に背いたため、権が弾劾して上奏すると、詔で召還したが、宗奭は州兵を留めて自らを弁解した。憲宗は改めて烏重胤を以て権に代え、滄州の民は恐れ、共に宗奭を追い返して京師に送り、詔があって斬って示し、権を邠寧節度使に転じた。ある者が宗奭が権に誣いられたと訴えたため、左遷されて原王傅となった。右金吾衛大将軍に改めた。
穆宗が立つと、左散騎常侍として節を持ち回鶻告哀使となったが、足の病を理由に辞したが、許されず、肩輿で道に就いた。権は識見が堂々としており、広い弁舌があった。可汗と曲直を争い、持論は明らかで雄壮であり、虜は礼を異にした。使いから戻り、三転して工部尚書となった。用度が豪奢であったため、権幸に結びついて鎮守を求め、そこで検校尚書右僕射・嶺南節度使となった。多くの資財珍宝を集め、吏に輸送させ、帝の側近で助力する者には皆贈り物をしたので、人々は彼を笑った。官の任上で卒した。
陸亙
亙は文雅で厳粛であり、赴任した地では善政をもって称えられた。初めて兗州刺史となった時、延英殿で対し、詳しく陳述した、「節度使が兵を分けて属州に駐屯させると、刺史はこれを制することができず、故に乱れやすい」と。帝はそこで詔を下し、屯兵は刺史に隷属させることとした。温州は海に臨み、賊の乱を経て、官吏の俸禄の半分を奪って民の租税に代えていたが、後世に相沿い、かえって奸悪の手段となった。亙は官に全俸を戻し、贓罪を糺弾したので、吏は畏れながらもこれに頼った。
盧坦
盧坦、字は保衡、河南洛陽の人である。河南尉に仕えた。時に杜黄裳が府尹であり、坦を召して堂下に立たせ、「ある家の子が悪人と交わり、家産を傾けた。どうしてこれを察しないのか」と言った。坦は言った、「およそ官に居て廉潔であれば、たとえ大臣でも厚い蓄えはない。財を積むことができる者は必ず下を剥いでこれを致すものである。もし子孫が善く守れば、それは天が不道の家を富ませることであり、その不道を恣にさせて、人に帰するよりはましだ」と。黄裳はその言葉に驚き、これ以後ますます厚く遇した。
李復が鄭滑節度使となると、彼を判官に表した。監軍薛盈珍がたびたび政事に干渉したが、坦は毎度道理に基づいて拒んだ。笛の上手な者がおり、大将らがこれを気に入り、李復のところに行って重職を請うた。坦は笑って言った、「大将は長く軍中にあり、労を積んで急ぎ昇進し、ようやく右職に及ぶ。どうして自らを軽んじ、笛を吹く少年と同列になろうとするのか」と。諸将は慚じ、急いで出て坦に謝した。李復が重病になると、盈珍が甲士五百を牙中に入れ、府庫を封じたので、全軍が大いに恐れた。坦がこれを制止するよう勧め、軍はようやく安まった。李復が卒すると、詔で姚南仲が代わった。盈珍は南仲がもともと書生であるため、侮って言った、「これが将たる材か」と。坦はひそかに人に言った、「姚大夫は外は柔らかだが中は剛直である。監軍がもし彼を侵せば、必ず受け入れないだろう。私が留まれば、禍が及ぶ恐れがある」と。そこで李復の喪に従って東都に帰り、寿安令となった。盈珍は果たして南仲と折り合わず、幕府の者は多く貶黜され死んだ。
河南の賦税の期限が尽きたが、県民が機織がまだ完成していないと訴えたので、坦は府に行って十日延長を請うた。聞き入れられなかった。坦は県民に順序よく納めるよう諭し、期限を顧みるな、違反してもせいぜい県令の俸禄を罰するだけだと言った。これによって有名になった。累遷して刑部郎中となり、兼侍御史知雑事を兼ねた。赤県尉が御史台に糾弾され、京兆尹が密かにこれを救おうとしたので、帝が中人を遣わして釈放させた。坦は中丞に白状し、中使による覆奏を請うた。中人が走ってこれを奏上すると、帝は言った、「私は確かに先に有司に命ずべきであった」と。そこで詔を下し、ようやく釈放した。数月後に中丞に遷った。
初め、諸道の長吏で罷任して還る者は、本道の銭を取って進奉としていたが、帝は赦令によって一切禁止した。しかし山南節度使柳晟と浙西観察使閻済美が詔に背いて献上したので、坦が弾劾して上奏すると、晟と済美は白衣のまま待罪した。帝は坦に諭して言った、「二人の献上したものは皆家財である。朕は既に許して赦すと約した。信を失うことはできない」と。坦は言った、「大信を布くものは、赦令です。今、二臣が詔に背きました。陛下はどうして小信のために大信を失おうとなさるのですか」と。帝は言った、「朕は既に受け取ってしまった。どうすればよいか」と。坦は言った、「有司に出して帰属させ、陛下の徳を明らかになさるのです」と。帝はこれを聞き入れた。李锜が誅せられた時、有司がその祖墓を破壊しようとしたが、坦が上疏して諫めて止めさせた。裴均が僕射となり、諫議大夫・常侍の上位に座ろうとしたので、坦は故事と姚南仲の先例を引いた。均は言った、「南仲とは何者か」と。坦は言った、「正を守って権幸と交わらない者です」と。均は怒り、遂に左庶子に罷められた。
数ヶ月後、宣歙池観察使に任ぜられた。初め、劉辟の婿の蘇強が罪に坐して誅殺された。蘇強の兄の蘇弘は、晋州に宦していたが、自ら免職して去り、人々は敢えて用いる者もなかった。李坦は「蘇弘は才能と行いがあり、その弟が劉辟に従った時、三千里も離れており、謀議を通じるべきではない。今、坐して廃されているのは、人を用いる意に非ず」と奏上し、判官に署することを請うた。帝は「仮に蘇強が誅殺されずとも、尚おその材を録するであろう。況んや彼の兄においてをや」と言われた。時に江淮は旱魃に遭い、穀物の価格が高騰した。或る者がその価格を抑制することを請うた。李坦は「管轄する地域は土地が狭く、穀物は他州から来る。もし価格を安くすれば、穀物は至らなくなる。放任するに如かず」と言った。やがて商人が米を大量に運んで来ると、兵糧を多く貸し出して市場に出し、価格は遂に平準となった。
再び戸部侍郎に遷り、度支を判った。或る者が泗州刺史の薛謇が代北水運使であった時、異なる良馬を飼育しながら、献上しなかったと告げた。事は度支に下された。李坦は吏を遣わして検証させたが、戻らぬうちに、帝はこれを遅しとし、更に宦官の劉泰昕を遣わした。李坦は「事は有司に付したのに、また宦官を遣わすとは、有司が信頼に足らぬというのか」と言い、三度奏上して、帝はやめさせた。韓重華を代北水運使に表薦し、廃田を開墾し、二十の堡塁を設け、兵三千人を増やし、毎年粟二十万石を収穫させた。
黄河が西受降城を破壊した。宰相の李吉甫は天徳に移転することを議した。李坦は「城は磧口に当たり、北狄を制する要を得て、美水豊草、辺境の障壁に利がある。もし黄河の流れを避けるならば、数里を退いて移るに過ぎない。如何ぞ一時の費用節約に従い、万世の策を堕すことがあろうか。天徳の故城は、土地が瘠せており、北は山に倚り、黄河から遠く、烽候が統べ接続する所なく、虜騎が唐突すれば、その勢いを知る由もない。これは故なくして地を二百里縮めることであり、故に便ならずと言うのである」と考えた。城使の周懷義もまたこの意見を述べた。李吉甫は快く思わず、李坦を出して東川節度使とした。後数ヶ月、周懷義は憂死し、燕重旰が代わると、遂に天徳に移転した。兵士は怨み、燕重旰を殺し、その家を覆した。
旧制では、官・階・勲が全て三品になって初めて戟を立てることを許された。後に四品官に転じても、貶削されない限り戟は奪われなかった。李坦が戸部侍郎であった時、階は朝議大夫、勲は護軍であったが、かつて宣州刺史として三品に任ぜられたことがあるとして、戟を立てることを請い、許された。時に鄭餘慶は旧章に精通しており、これは正しくないと考えた。憲司に劾正され、詔により一月の俸を罰せられ、戟を奪われた。貞元以来、戟を立てた十八家が法令に応じないものは、全て追って正された。
閻済美という者。進士に及第し、長者の名声があった。貞元末、婺州刺史より福建観察使となり、浙西に移った。治め方は簡易で、鎮に居ても常賦を増やすことはなかった。浙西を罷める時、道中にあったが、詔を見て貢献する物を還す所がなかったので、帝がこのことを言われた。間もなく華州刺史として出され、入朝して秘書監となり、工部尚書をもって致仕した。卒去。諡は温。
柳晟
柳晟は、河中解の人である。六世の祖の柳敏は、後周に仕えて太子太保となった。父の柳潭は、和政公主を尚し、太僕卿に官した。柳晟は十二歳の時、父の喪に服し、孝を聞こえた。代宗は宮中で養い、太子や諸王と共に呉大瓘及びその子の通玄に学ばせ、十日ごとに学んだことを上奏させた。成長すると、詔により呉大瓘らを家に教授させた。検校太常卿に任ぜられた。
徳宗が即位すると、柳晟は親信として用いられた。朱泚が反乱を起こすと、帝に従って奉天に至り、自ら請うて京師に入り賊党を説き、離間させようとした。帝はその志を壮とし、派遣を許した。朱泚の将である右将軍の郭常、左将軍の張光晟は皆、柳晟の旧知であった。柳晟は密詔を出し、禍福と逆順を説いた。郭常は詔を奉じて命を受け、自ら抜けて帰ることを約した。要籍の朱既昌がその謀を告げた。朱泚は柳晟と郭常を捕らえて外獄に繋いだ。柳晟は夜半に壁に穴を穿ち械を壊して逃亡し、髪を断って浮屠となり、間道を伝って奉天に帰った。帝はこれを見て涙を流された。乗輿が京師に還ると、原王府長史に抜擢された。呉通玄が罪を得ると、柳晟は上書してその罪を弁明した。その弟が「天子まさに怒っておられる。後悔を招くことなかれ」と止めたが、聞き入れなかった。凡そ三度上書し、帝の意が解け、呉通玄は死罪を減ぜられた。
柳晟は累遷して将作少監となり、崇陵の造営を護った功で河東県子に封ぜられ、山南西道節度使に任ぜられた。府兵が劉辟を討って還り、未だ城門を叩かぬうちに、また詔により梓州に戍ることを命ぜられた。軍の兵士は怒り、監軍を脅して謀反を企てた。柳晟はこれを聞き、疾駆して入り、士卒を労った。やがて問うて「汝らは何を以て成功したのか」と言うと、「驕って命令を受けぬ者を誅したのである」と答えた。柳晟は「汝らは劉辟が天子に罪を得て誅されたことを知っているのに、如何ぞまた後人に汝らを誅させようとするのか」と言った。兵士は皆、冑を脱いで拝し、移徙に従った。入朝して将作監となった。回鶻に使いし、冊を奉じて可汗を立てた。逆に言うに「かねて聞くに、可汗は礼なくして自ら大とし、信を去って自ら強しとす。礼と信を行うことができぬならば、何をもって中国に奉じるに足りようか」と言った。可汗と諸貴人は愕然として驚き、皆跪き伏して礼を成した。還って左金吾衛大将軍となり、爵は公となった。卒去。六十九歳。詔により従官が臨弔し、太子少保を追贈された。
柳晟は弁舌に敏で、士を下し施すことを楽しんだ。ただ、興元より入朝した時、貢献が詔に如かず、御史中丞の盧坦に劾せられたが、憲宗はその賢を以て、暴かずに置いたという。
崔戎
崔戎は、字は可大、崔玄韋の従孫である。明経に挙げられ、太子校書郎を補した。判入等し、藍田主簿に調ぜられた。淮南の李鄘の幕府に辟された。衛次公が李鄘に代わると、憲宗は崔戎の才を称えられたので、衛次公は職務において彼に依って成した。裴度が太原を節度した時、参謀に署した。時に王承宗が鎮州を以て叛いた。裴度は崔戎を遣わして諭すことを請うた。王承宗は涙を流すに至り、乃ち命を聴いた。入朝して殿中侍御史となり、累遷して諫議大夫に至った。
雲南の蛮が成都を乱した。詔により崔戎は節を持ち剣南に宣撫使として赴いた。税外の姜芋銭を廃することを奏上し、賦銭を納める者には概ね三分の一を率い、その一分を繒布に準じ、その評価を優遇して民に与えた。流亡の民を綏撫招集した。凡そ廃することと置くこと、公私共に便ならざるはなかった。還って給事中に任ぜられた。出て華州刺史となった。吏は故事により銭一万緡を置いて刺史の私用に供したが、崔戎は取らなかった。去るに当たり、吏を召して言うに「籍に置いた銭で軍を饗せよ。吾は重ねて矯激を以て後人に誇ることはしない」と言った。兗海沂密観察使に移ると、民は道に擁留して行くことを得ず、乃ち伝舎に休んだ。民は抱き持ってその靴を取るに至った。時に詔使が尚在していた。民は泣いて詔使に詣で、天子に請うて崔戎を還らしめるよう乞うた。詔使は承諾した。崔戎は恚ってその下を責めた。衆は「公を留めて天子が怒られても、吾ら二、三の老人を斬るに過ぎず、然らば公は去らぬであろう」と言った。崔戎は夜、単騎で亡去した。民は追い及ばず、乃ち止んだ。兗州に至ると、奸吏十余輩を誅滅し、民は大いに喜んだ。歳余にして卒去。五十五歳。礼部尚書を追贈された。
崔戎の子、崔雍
子雍、字は順中、起居郎より出でて和州刺史となる。龐勛が兵を以て烏江を劫掠するや、雍は抗し能わず、人を遣わして牛酒を持たせてこれを労い、密かにその状を表す。民は知らず、諸朝に訴う。宰相路巖は素より不平を抱き、これに因ってその罪を傅え、宣州にて賜死す。