韋臯
韋臯、字は城武、京兆府萬年県の人である。六代の祖の韋範は、周・隋の間に勲功を立てた。韋臯は初め建陵の挽郎として出仕し、諸帥府に転じて辟召され、監察御史に抜擢された。張鎰が鳳翔節度使となると、営田判官に任じた。殿中侍御史として隴州行営留後事を管掌した。
徳宗が奉天に蒙塵した時、李楚琳が張鎰を殺害し、兵衆を脅して朱泚に叛き帰順した。隴州刺史の郝通は逃れて李楚琳に降った。初め、朱泚は范陽軍を率いて鳳翔を鎮守していたが、節度使の任を返上した後、兵五百を留めて隴上を守らせ、部将の牛雲光を督させた。この時、牛雲光は韋臯を帥に推戴しようと謀り、彼を脅して朱泚に臣従させようとした。別将の翟曄がこれを察知して韋臯に告げた。牛雲光は成功しないことを恐れ、兵衆を率いて出奔し、汧陽に至ったところ、朱泚の使者が韋臯のもとへ赴く途中に出会った。使者は牛雲光に言った、「太尉(朱泚)は既に天子となられた。私に御史中丞の官職を授けて韋臯に与えよと命じられた。もし受け入れれば、当然我が方の者となる。受け入れなければ、直ちに誅殺せよ。兵を率いて共に行ってくれ。」牛雲光はこれを承諾した。韋臯は出迎えて労い、先ず使者を受け入れ、偽って朱泚の詔を受けた。すぐに牛雲光を責めて言った、「既に去ったのにまた戻って来たのは、どういうわけか。」答えて言う、「以前は公のご命令を知らなかったので去った。今戻って来たのは、公と生死を共にしたいからである。」韋臯は言った、「貴使の志は誠に結構である。もし他に図る所がなければ、甲冑を解いて兵衆を安心させた上で、入城するがよい。」牛雲光は韋臯を一介の書生と見て、何もできないと思い、兵士に武器と鎧を捨てさせた。韋臯はそれを受け取り、その兵卒を城内に入れた。翌日、酒宴を大いに設けた。使者と牛雲光およびその部下が到着すると、韋臯は左右の廡に伏兵を置き、酒が巡るうちに、ことごとくこれを殺し、その首を掲げて示した。朱泚はまた別の使者を遣わして韋臯を鳳翔節度使に任じたが、韋臯はこれも斬り、従騎三人も共に斬り、一人を放って朱泚に報告させた。帝(徳宗)はこれを聞き、韋臯を隴州刺史に任じ、奉義軍を設置して節度使に拝し、その功を寵遇した。韋臯は兄の韋平と韋弇を相次いで奉天に派遣し、士気はますます盛んとなった。そこで壇を築き犠牲の血で士と盟して言った、「力を合わせ心を一つにして、元凶を誅する。この盟に背く者あれば、神よその者を罰したまえ。」また使者を馳せて吐蕃と連和し、隴坻はついに安泰となった。帝が梁州・洋州から還幸すると、左金吾衛将軍に召され、大将軍に遷った。
貞元初年、張延賞に代わって剣南西川節度使となった。初め、雲南蛮は吐蕃に隷属しており、その辺塞を侵す時は必ず蛮を先導としていた。韋臯は、雲南を得れば吐蕃の右翼を断ち切ることができると考え、密かに使者を遣わして招き寄せ、次第に西南夷と通じるようになった。翌年、蛮の大首領苴那時が王爵を兄の子の烏星に譲った。初め、烏星が幼かったため、那時がその部を代行統領していたので、爵位を返上しようと請うたのである。韋臯は上奏して言った、「礼譲が異俗の地で行われれば、凶暴な者も感化されます。どうか皆に封爵を与えて褒め進めることを示されたい。」詔はこれを許可した。さらに翌年、雲南が辺境に来て内属を求め、東蛮の鬼主である驃傍・苴夢沖らと共に吐蕃との盟約を絶った。五年、東蛮が瀘水の橋を断ち切って吐蕃を攻撃し、韋臯に援軍を求めた。韋臯は精兵二千を派遣し、蛮と共に台登で吐蕃を破り、青海の大酋長乞臧遮遮・臘城の酋長悉多楊朱および論東柴らを殺し、虜は崖谷に墜死した者が数え切れず、牛馬や鎧装を多く鹵獲した。遮遮は尚結賛の子で、虜の貴将にして勇猛な者であった。敗れた後、酋長百余人が泣きながらその後を追った。勇猛な将が既に亡くなったので、屯柵は次々に降伏平定された。韋臯は検校吏部尚書に進んだ。
初め、東蛮の地は二千里、常に数万の勝兵を有し、南は閣羅鳳に依り、西は吐蕃と結び、勢力の強弱を窺って患いとなっていたが、韋臯はこれを綏撫して服従させたので、戦いに功があった。詔により、那時を順政王、夢沖を懐化王、驃傍を和義王とし、「両林」「勿鄧」などの印を刻んで賜った。ところが夢沖が再び吐蕃と盟を結んだので、韋臯は別将の蘇峞を遣わして召し出し、その叛きを詰問して琵琶川で斬り、次の鬼主である様棄らを立てた。蛮部は震え服した。そこで資州に安夷軍を建てて諸蛮を統制し、西山に龍渓城を築いて降伏した羌を保護収容した。
九年、天子が塩州を築城すると、虜が来て妨害・襲撃するであろうと策を立て、詔して韋臯に出師させて牽制させた。そこで大将の董勔・張芬を命じてそれぞれ西山・霊関から出撃させ、峨和・通鶴・定廉城を破り、的博嶺を越えて遂に維州を包囲し、棲鶏を攻め、羊渓などの三城を攻め落とし、剣山の屯営を取って焼き払った。南道元帥の論莽熱が来援し、これと戦ってその軍を破り、白岸を進んで収め、ついに塩州を築城した。詔して韋臯に兵士を休ませた。功により検校尚書右僕射・扶風県伯となった。
ここにおいて西山羌女・訶陵・南水・白狗・逋租・弱水・清遠・咄覇の八国の酋長は、皆韋臯を通じて入朝を請うた。そこで幕府の崔佐時を石門から雲南へ向かわせ、南詔との通交が再開された。石門とは、隋の史万歳が南征した道であり、天宝年間に鮮于仲通が兵を南渓に下した時、道は閉ざされたのであった。この時、蛮は北谷を通り、吐蕃に近かったので、韋臯はこれを修復させた。黎州から邛部を出て、直ちに雲南に至り、青渓関を設置して、「南道」と号した。そこで詔して韋臯に近界諸蛮・西山八国・雲南安撫使を統轄させた。まもなく同中書門下平章事に進んだ。
順宗が即位すると、詔して検校太尉とした。時に王叔文らが政権を専断すると、韋臯は劉辟を京師に遣わして王叔文に謁見させて言わせた、「公が私のために君(王叔文)に働きかけ、剣南を全て領有させてくだされば、君に報いるであろう。そうでなければ、君を怨むであろう。」と。王叔文は怒り、劉辟を斬ろうとしたが、劉辟は逃げ去った。韋臯は王叔文に多くの過失があることを知り、また自ら大臣として国家の大議に参与できると考え、すぐに上表して皇太子の監国を請うとともに、太子に上箋して王叔文・王伾の奸悪を暴き、かつ即位を勧めた。時に大臣が相次いで請うたので、太子はついに禅を受け、これにより奸党を投獄・誅殺した。この年、韋臯は急死した。享年六十一。太師を追贈され、諡して忠武といった。
韋臯は蜀を治めること二十一年、しばしば出師し、凡そ吐蕃四十八万を破り、節度・都督・城主・籠官千五百を擒殺し、斬首五万余級、牛羊二十五万を獲、器械六百三十万を収め、その功烈は西南において最も著しいものとなった。士を善く拊し、至っては昏嫁に至るまで皆厚く資を与え、婿には錦衣を給し、女には銀塗衣を給し、各万銭を賜い、死喪者にはこれに相当するものを与えた。その僚掾官は顕であっても、還朝させず、即ち属州刺史に署し、自ら侈横を以てし、務めてこれを蓋蔵せしめた。故に劉辟はその弊に乗じ、遂に叛した。朝廷はその咎を追って正そうとしたが、韋臯と仲の悪い者が誹って進めた兵は皆「定秦」の字を鏤いていたので、陸暢という者が上言して言うには、「臣が以前蜀に在った時、『定秦』というのは工匠の名であると知りました」と。これによって議論は止んだ。暢は字を達夫といい、韋臯が特に厚く礼遇した者である。初め、天宝の時、李白が『蜀道難』の篇を作って厳武を斥けたが、暢はさらに『蜀道易』を作って韋臯を称えた。
韋臯の兄 韋聿
兄聿、弟平。聿は蔭により南陵尉に調じ、秘書郎に遷り、父の嫌名により太子司議郎に換えられ、淮南の杜佑の府に辟された。元和初め、国子司業となった。劉辟が盧文若と反すると、韋臯の子行式は文若の妹を娶っていたが、聿はこれを上聞しなかった。劉辟が平定されると、行式の妻は掖庭に没入すべきところ、有司は聿をも推問し、ある者は道遠であることを以て坐すべきでないとしたので、乃ち皆赦した。終に太子右庶子となった。
韋臯の弟 韋平
韋平は韋臯と共に朱泚の使者を斬り、間道を走って奉天に至り功を上奏し、萬年尉に抜擢された。
韋平の子 韋正貫
附 劉辟
劉辟は、字は太初、進士宏詞科に擢第し、韋臯の府を佐け、累遷して御史中丞・支度副使となった。韋臯が卒すると、辟は後務を主り、諸将に旌節を求めるよう唆した。憲宗は給事中として召したが、詔に奉じなかった。時に帝は新たに即位し、四方を静鎮しようとしたので、即ち検校工部尚書・剣南西川節度使に拝した。辟は帝が動かし得ると考え、益々傲慢不遜となり、不臣の語を吐き、三川を統べることを求め、親しい盧文若を東川節度使にしようとし、即ち兵を以て梓州を取った。且つ術家の言う五福・太一が蜀に宿るとの言に因り、乃ち大樓を造って祥を祈った。帝は初めて征討を重んじ、宰相杜黄裳が帝を勧め、且つ言うには、「辟は妄りなる書生に過ぎず、鼓して俘え得ます」と。高崇文・李元弈等を薦めて神策行営兵を率いさせて皆西に向かわせ、厳礪・李康に掎角させた。
詔して自新を許したが、辟は聴かなかった。崇文が東川を取ると、帝は乃ち詔を下してその官を奪い、進んで鹿頭関を破り、遂に成都を陥とした。辟は数十騎を従えて走り、羊灌田に至り、自ら水に投じたが、死ねず、騎将の酈定進がこれを擒えた。文若は先にその一族を殺し、石を縋って自ら江に沈み、その屍を失った。檻車で辟を京師に送ると、尚ほ死なずに済むことを冀い、道中で飲食して平然としていた。将に都に至らんとする時、神策軍が兵を以て迎え、その首を繫ぎ、曳き入れると、驚いて言うには、「何ぞここに至るや」と。帝は興安楼に御して俘を受け、詔して反状を詰問すると、辟は言うには、「臣は敢えて反しません、五院子弟が悪を為し、制することができなかったのです」と。詔して問う、「使者を遣わして旌節を賜うのに何故受けなかったのか」と。乃ち罪に伏した。廟社に献じ、市に徇し、城西南の独柳の下で斬った。子の超郎等九人と、部将の崔綱は順次誅された。
初め、辟は嘗て病み、見舞いに来る者があれば必ず手を行ってその口に入れ、辟は即ち裂いて食った。唯盧文若が来た時は、平常の如くであったので、故に益々彼と厚くし、而して皆夷族となった。
張建封
張建封、字は本立、鄧州南陽の人、客として兗州に隠れた。父の玠は、若くして任侠を好んだ。安祿山が反すると、李廷偉をして山東を脅し徇わしめ、魯郡太守韓擇木はこれを迎えて館した。玠は豪桀の段絳等を率いて兵を集め、将に斬って徇わそうとしたが、擇木は許さず、唯司兵参軍の張孚がその謀を助けたので、乃ち廷偉並びにその党を殺して上聞した。擇木・孚は皆賞を受け、而して玠は江南に去り、自ら功を言わなかった。
建封は若くして文章を喜び、弁論ができ、慷慨として気節を尚び、自ら功名を以て顕れると期した。李光弼が河南を鎮めると、盗賊が蘇・常の間に起こり、郷県を残掠した。代宗は中人馬日新に詔し、光弼の麾下と皆討たせた。建封は中人に会い、先んじて賊を諭すことを請い、戦わずに済ませられるとした。因って賊の屯に到り禍福を開譬し、一日に数千人を降し、田裏に還して放し、これによって知名となった。湖南観察使韋之晉が辟して参謀に署し、左清道兵曹参軍を授けたが、職を楽しまず、輒ち去った。令狐彰が滑亳を節度し、幕府に置くことを奏したが、彰は朝覲せず、建封はこれを非とした。転運使劉晏に往って見え、晏は試みに大理評事を奏し、漕務を管せしめたが、歳余で罷めた。時に馬燧が三城鎮遏使となり、雅くこれを知り、判官に表し、監察御史に擢った。燧が李霊耀を伐つ時、軍中の事多く諮問に与り、河東に鎮するに従い、侍御史を授け、即ちその能を朝に表した。楊炎は要職に任じようとしたが、盧杞が喜ばず、岳州刺史として出した。
李希烈が既に梁崇義を破り、跋扈して臣下の礼を取らず、壽州刺史崔昭は彼と通じていた。徳宗は宰相を召して崔昭に代わる者を選ばせたが、盧杞は慌てて他の官吏を取る暇がなく、即座に張建封を用いることを上奏した。李希烈は王師を数度破り、勢いが甚だ盛んで、遂に僭称して天子の位に即き、淮南節度使陳少遊は密かにこれに附いた。李希烈は将の楊豐を遣わし、偽りの赦書二通を持たせ、張建封と陳少遊に与えさせた。楊豐が到着すると、張建封は彼を縛って軍中に送致し、宦官の使者が来たのに合わせ、その面前で楊豐の首を斬り、偽りの書を行在に送った。陳少遊はこれを聞き、悔しさと汗で居ても立ってもいられず、張建封は彼が賊に附いた状況を弾劾したが、帝は難に遭っている最中で、取り調べる暇がなかった。李希烈はまた杜少誠を淮南節度使に任命し、壽州を破って江都に向かうことを約束させた。張建封は霍丘の秋柵に陣を構えてこれを防ぎ、賊は東進できなかった。團練使に遷る。帝が梁より還御すると、陳少遊は遂に憂死した。御史大夫・濠壽廬觀察使を兼ねて進む。この時、四方は尚お多く事変が続いており、張建封は城壁と堀を修繕し、兵を益々整え、四方の辺境の民は附き喜んだ。李希烈が精鋭の将帥と悍卒を遣わして来戦したが、張建封は皆これを挫き敗走させた。賊が平定されると、封階を進められ、また一子に正員官を任じた。
この時、宦官が宮市を主管し、数十百人の者を置いて市場の左側で物品を見定め、これを「白望」と称した。詔書の文書による検核はなく、ただ宮市と称すれば、敢えて誰も何とも言えず、大抵は価値の十分の一も償わなかった。また、門を通すための礼銭や運搬賃を要求し、重い荷物を担いで店舗に赴きながら徒労に帰る者さえあった。ある農夫が一頭の驢馬と薪を売っていたところ、宦官が数尺の帛でこれを交換し、さらに他の費用を取り立て、かつ驢馬を宮中に追い入れようとした。農夫は薪を納めて帛を辞退し、急いで去ろうとしたが、許されず、憤って言った、「ただ死があるのみ!」遂に宦官を殴った。役人が彼を捕らえて上聞すると、帝は宦官を罷免し、農夫に帛十匹を賜ったが、宮市は廃されなかった。諫臣が次々と上奏文を列ねて上ったが、皆容れられず、故に張建封は隙を見て帝にこのことを言上し、帝はかなり従順に聞き入れた。詔書が民の滞納租税を免除することになった時、帝はどうかと問うと、答えて言った、「残りの滞納と積もった負債は、決して徴収できるものではなく、これを免除しても、百姓は尚お益を得るところがありません。」また陳述した、「河東節度使李説・華州刺史盧征は皆病で職務を執れず、側近がこれに乗じて奸を行うことができます。右金吾大将軍李翰は細事を探って寵を求めることを好み、人々はこれを疾み憎んでおります。」帝は悉く嘉納した。間もなく、制詔が下った、「官師の過度な交際は人情の常である。今後、金吾はこれを上聞しないこと。」
上巳の節に、曲江で宴を賜り、特に詔して宰相と同榻で食を共にさせた。その還鎮に際し、帝は詩を賦して餞別した。当時、馬燧・渾瑊・劉玄佐・李抱真等の勲寵卓越なる者でも、詩を以て餞別された者はなかった。帝はまた左右の者に自ら持つ鞭を賜わせて言った、「卿の節誼は歳寒にも変わることなし。故にこれをもって比況とする。」張建封はまた詩を賦して自らを戒め励ました。十六年、病を以て代わりを求め、詔して韋夏卿を以てこれに代わらせたが、到着しないうちに張建封は卒した。年六十六。冊贈して司徒とした。
徐州を治めること凡そ十年、自ら職務に躬行し、一軍は大いに治まった。人の過ちを容れることを善くし、剛健で狡猾な者に対しても、未だ曲げて法を仮り与えることはしなかった。その言は忠義に感激させられるので、下僚は皆畏れ喜んだ。性、士を楽しみ、賢者・不肖者を問わずその門を遊ぶ者には礼を必ず均しくしたので、その来ることは帰るが如かった。許孟容・韓愈は皆奏して幕府に署し、文章が当時に伝わった。
建封の子 愔
子の愔は、初め蔭補により虢州参軍事となった。張建封が卒すると、府の佐官の鄭通誠という者が留後事務を摂り、その軍の乱を恐れ、浙西の戍兵が徐州を通るのに乗じて、これを援けとして引き入れようと謀った。挙軍怒り、武器庫を破って兵器を取り、府を囲んで大いに騒ぎ、鄭通誠及び大将数人を殺し、乃ち朝廷に上表し、張愔を留後とすることを請い、旌節を仮り受けようとした。帝は許さず、濠・泗を割いて淮南に隷属させ、詔して杜佑に徐の乱を討たせた。泗州刺史張伾が兵を以て埇橋を攻め、徐軍と遭遇し、張伾は大敗した。帝にはこれを制する術がなく、乃ち張愔を右驍衛将軍・徐州刺史に授け、留後を掌らせた。張伾を泗州留後とし、杜兼を濠州留後とした。間もなく張愔を武寧軍節度使に進めた。
元和の初め、病を以て代わりを求め、召されて工部尚書となり、王紹を武寧節度使とし、濠・泗を徐州に隷属させて戻した。徐州の民は喜び、遂に敢えて乱れず、張愔は任地を発つことができた。境を出ないうちに卒した。張愔は徐州を治めること七年、その政は治まると称された。尚書右僕射を追贈された。
嚴震
朱泚が反逆し、腹心の穆廷光等を遣わし帛書を送って誘ったが、嚴震は即座に斬って上聞した。この時、李懷光が賊と連和し、奉天は危急に陥り、帝は山南に遷ることを考えた。嚴震はこれを聞き、馳せて表を奉って迎え、大将張用誠に兵五千を率いさせて護衛させた。張用誠が盩厔に至り謀反の計画を抱いたので、帝はこれを憂えた。折しも嚴震の牙将馬勛が嗣ぎ物を持って到着したので、帝はその故を告げた。馬勛は言った、「臣、帰って節度使の符を取って彼を召します。もし受けなければ、その首を斬って復命いたします。」帝は悦び、期日を定めて往かせた。馬勛は帰って符を得、壮士五人を同道することを請い、駱谷を出た。張用誠はその謀り事が知られていないと思い、数百騎を率いて馬勛を出迎え館に宿泊させ、左右厳重に侍らせた。馬勛は発する前に、密かに館の外で草を焚かせ、兵士は寒さに火に群がった。馬勛は従容として符を示して言った、「大夫(嚴震)が君を召している。」張用誠は恐れ、逃げようとしたが、壮士が後ろからこれを捕らえた。張用誠の子が馬勛を斬りつけて頭に傷を負わせたが、左右が刀を防いで難を免れ、遂に張用誠を倒し、その子を格殺した。馬勛が軍中に立つと、兵士は皆鎧を着けていた。馬勛は大声で言った、「お前たちの父母妻子は梁州にいる。今これを棄てて反逆するのは、何の利があるのか?大夫が張用誠を取るだけだ。お前たちは関わるな!」衆は乃ち服し、敢えて動かなかった。即座に張用誠を縛って嚴震の下に送り、杖殺し、その副将を抜擢して師を統率させた。初め、馬勛が行在に赴いた時、半日遅れたので、帝は頗る憂えた。到着すると大いに喜んだ。翌日、奉天を発った。駱谷に入った後、李懷光が騎兵で追襲したが、山南の兵に頼って難を免れた。間もなく檢校戸部尚書・馮翊郡王を加えられ、実封二百戸を与えられた。
天子が梁州に至ると、宰相らは当地が貧しく物資の供給が得られないとして、成都への行幸を請うた。震は言う、「山南は畿輔に近接し、李晟は収復に鋭意であり、まさに六師を頼りに声援とすべきところ、今西へ引き上げれば、諸将は顧みて望みを失い、功績を責める期もない」と。帝は決断せず、ちょうど李晟の上表が届き、これもまた梁・洋への駐蹕を請うたので、議論は定まった。しかし梁・漢の間は刀耕火耨の地で、民は穭を採って食とし、十五郡を領するといえども、賦入は東方の数大県に比するのみであった。安史の乱後、山賊が剽掠し、戸口は流散していたが、震は時宜に随って勧課し、鳩斂に法あり、民は煩擾せず、行在の供億は整った。車駕が還都せんとするに及び、検校尚書左仆射を加えられた。詔して梁州を興元府と改め、ただちに震を用いて尹とし、実封二百戸を加えた。久しくして、同中書門下平章事に進んだ。貞元十五年卒、年七十六、太保を贈られ、謚して忠穆という。
震の従孫に譔あり。
従孫の譔は、宰相楊収と親善であった。咸通年中、桂管観察使より抜擢されて江西節度使となり、鎮南軍と号を改めた。時に南蛮が内寇し、詔して譔に兵士三万を募り備えさせた。ある者が譔が広く兵卒を補充し、勝手に縑を納めて糧食としたと告げた。楊収が罪を得ると、韋保衡は譔が平素楊収と善しとしていたことから、賄賂が狼藉であるとして、使者を遣わして審査させ、詔して死を賜った。
韓弘
韓弘は、滑州匡城の人である。幼くして孤となり、その舅の劉玄佐に依った。明経に挙げられたが及第せず、外家に従って騎射を学んだ。諸曹より大理評事に試みられ、宋州南城将となった。劉全諒に仕え、都知兵馬使に署せられた。貞元十五年、全諒が死ぬと、軍中は玄佐を懐かしみ、弘の才武を以て、共に留後として立て、監軍に朝廷へ上表することを請うた。詔して検校工部尚書を授け、宣武節度副大使を充て、節度事を知らせた。
先に、曲環が死ぬと、呉少誠は全諒と謀って陳許を襲おうとし、数輩の使者を館に留め置いていた。弘が帥を得た初め、忠をもって自ら衆に表そうとし、ただちに少誠の使者を駆り出して斬らせ、選卒三千を選び、諸軍と会して少誠を撃ち、これを破った。汴では劉士寧以来、軍はますます驕り、陸長源を殺してからは、主帥の勢い軽く、制することができなかった。弘は軍中で平素より恣横なる者劉鍔ら三百人を察し、ある日、その罪を数え上げて牙門で斬り、流血が道を丹に染めたが、弘は言笑自若であった。これより弘が去るまで、敢えて放肆する者は一人もいなかった。李師古が曹州に屯し、鄭・滑を謀ろうとしたとき、ある者が告げて言う、「師古が道を修治しております、兵がまさに至らんとしています、備えを請います」と。弘は言う、「師が来るのに道を除かないものだ」と。師古は内情を見抜かれたと悟り、引き去った。累次して検校司空・同中書門下平章事を授けられた。弘は官位が太原の王鍔らと同じであることを以て、宰相に書を送り、鍔の下に立つことを恥じた。憲宗はまさに淮西に用兵しており、その重みを頼りに、さらに検校司徒を授け、班位を鍔の上とした。
厳綬が王師の敗れた後、弘を淮西諸軍行営都統に拝し、両河を守らせ、李光顔・烏重胤に賊を撃たせた。弘は自ら屯せず、子の公武に兵三千を率いさせて光顔に属させたが、ひそかに逗橈の計を為し、国を危うくして功を邀えようとする者であり、諸将が告捷するたびに、累日悦ばなかった。呉元済が平定され、功により侍中を兼ね、許国公に封ぜられた。李師道が誅せられると、弘は大いに恐れ、入朝を請い、司徒・中書令に冊拝された。足疾のため、中人に命じて掖かせて拝礼させ、固く願って京師に留まった。帝が崩ずると、冢宰を摂った。まもなく出て河中節度使となった。病を以て還朝を請い、再び司徒・中書令を拝した。卒、年五十八、太尉を贈られ、謚して隠という。
初め、弘が汴より来朝したとき、馬三千・絹五十万・その他の錦彩三万を献上したが、汴の庫廄にはなお銭百万緡、絹も百余万、馬七千、糧三百万斛、兵械は数えきれなかった。弘は人となり荘重で寡言、人を罪して殺すときは、法がどうなっているかを問い、自ら軽重を為さず、沈謀勇断であったので、少誠・師道らは皆これを憚った。詔使が至っても、時に傲慢で礼を為さなかった。斉・蔡が平定され、勢い屈して後に覲見を請うたが、天子は尊寵して異等とし、名位を以て始終することができたのも、またその天幸であった。
弘の子に公武あり。
子の公武は、字は従偃。衛尉主簿より起家し、宣武行営兵馬使となり、蔡討伐の功により検校左散騎常侍・鄜坊等州節度使となった。弘が入朝すると、右金吾将軍となった。弘が河中に出ると、弘の弟の充が宣武に移り、公武は言う、「二父が重鎮に居り、我が孺子また執金吾の職に当たるべきか」と。よって固く辞し、右驍衛大将軍に改められた。性恭遜にして、富貴を以て自ら処さなかった。卒し、戸部尚書を贈られ、謚して恭という。
弘の弟に充あり。
充は、本名は璀、幼少のときもまた舅の家に依った。李元が河陽節度使となると、牙将に署せられた。李元が昭義に改めると、またこれに従った。李元はかつて賓佐に謂って言う、「充は後に貴くなるであろう、諸君は必ず善くこれに事えよ」と。まもなく、弘が宣武を領すると、親兵を主るよう召された。李元は言う、「私は君の旧を知っている、我が児は不才で、君を累わすに足らず、二女は幼い、これを托す」と。よって辞去した。累次して御史大夫を授けられた。
弘は峻法を以て臨み、人人は自ら保つことができなかった。充は謙慎にして少しも懈らず、弘が鎮に久しく在り、天子に謁見せず、自身もまた士を得ていることを思い、自ら安からず、よって入宿衛を請うた。弘はこれを許したが、すぐには遣わさなかった。後に狩猟の機に乗じ、単騎で洛陽に走った。朝廷はその節を諒とし、右金吾衛将軍に抜擢し、大将軍に転じ、軍士の虚名で令に従わぬ者七百人を斥けた。少府監・鄜坊等州節度使を歴任した。
穆宗が立つと、幽・鎮・魏が再び乱れ、王承元が冀兵二千を率いて滑州に屯した。朝廷は冀兵が相い訹いて叛くことを恐れ、承元を鄜坊に移し、充に検校尚書左仆射を授け、義成軍節度使とした。ちょうど汴軍が李願を逐い、李が留後事を主った。帝は充が平素より汴の士卒に悦ばれ向かわれていると考え、詔して宣武を節度させ、兼ねて義成兵を統率して討伐させた。郭橋で戦い、これを破った。ちょうど李質が斬られると、遂に汴に入った。初め、陳許の李光顔もまた詔を受けて討伐し、尉氏に屯し、先に汴を得んと欲し、俘掠を以て軍を餌としようとした。また汴の監軍姚文寿も光顔を内に迎え入れようとした。充はその謀を聞き、馳せて城下に至ると、汴人は充を見るや、歓躍して再び貳心を抱く者はなかった。
初め、帝は人を遣わして賊を破る期を問うた。充は対えて言う、「汴は天下の咽喉、臣はその人々をよく習っています、王師が臨めば、一月で破ることができます」と。ちょうど二旬にして即ちこれを克った。帝は喜んで言う、「充の敵を料ることは神の如し」と。検校司空を加えられた。脅かされて兵とされた者三万を籍し、悉くこれを放った。また首乱の者千余人を責め、境外に斥け、令して言う、「敢えて後に留まる者は斬る」と。これにより内外安堵し、汴人はこれを愛頼した。卒、年五十五、司徒を贈られ、謚して粛という。
充は将家の出ながら、性質は倹約を旨とし、三鎮を歴任するも、住居や衣服・玩好は儒者の如く、機に乗じて決策を下すに余念なく、世に善将と推された。李元が没すると、充はその二女を嫁がせ、その家を周旋した。弘が汴を去ってより、監軍は軍中より敢闘の士二千を選び閣下に直らせ、日々酒肴を賜り、物力は幾ばくか尽きんとしたが、敢えて廃さなかった。充が未だ入らざりし時、李質が軍事を総べ、乃ち言うには、「韓公が至りて頓に二千人の食を去らば、豈に人心を失わざらんや。去らざれば、且つ継ぐこと無からん。弊事を以て吾が帥に遺すべけんや」と。因って悉くこれを罷めて後に充を迎えた。
李質は、節義の士なり。初め牙将たり、留後に及び、帥節を邀うも、これを勧めて従わず。疽が首に発し、質に兵を委ね、遂に禽せらる。終に金吾将軍に至る。
贊
贊して曰く、臯・建封・弘は本諸生たり、震は田畝の間より興り、未だ以て人に異なること有らず。及んで隙に投じて龍驤たり、皆な国を梁楹と為し、光奮すること一時なり。使えり遭遇せずんば、庸夫と汩々として並び胔して腐るべし。臯・弘は陰慝と雖も、卒に能く誠言を以て自ら解し、長く天年を没す、宜なるかな。