新唐書

巻一百五十八 列傳第八十三 韋臯兄:聿 弟:平 從子:正貫 附:劉辟 張建封子:愔 嚴震從孫:譔 韓弘子:公武 弟:充

巻一百五十八 列傳第八十三 韋臯兄:聿 弟:平 從子:正貫 附:劉辟 張建封子:愔 嚴震從孫:譔 韓弘子:公武 弟:充

韋臯

原文韋臯

韋臯、字あざなは城武、京兆府萬年県の人である。六代の祖の韋範は、周・隋の間に勲功を立てた。韋臯は初め建陵の挽郎として出仕し、諸帥府に転じて辟召され、監察御史に抜擢された。張鎰が鳳翔節度使せつどしとなると、営田判官に任じた。殿中侍御史として隴州行営留後事を管掌した。

原文韋臯,字城武,京兆萬年人。六代祖範,有勛力周、隋間。臯始仕為建陵挽郎,諸帥府更辟,擢監察御史。張鎰節度鳳翔,署營田判官。以殿中侍御史知隴州行營留事。

徳宗が奉天に蒙塵した時、李楚琳が張鎰を殺害し、兵衆を脅して朱泚に叛き帰順した。隴州刺史の郝通は逃れて李楚琳に降った。初め、朱泚は范陽軍を率いて鳳翔を鎮守していたが、節度使の任を返上した後、兵五百を留めて隴上を守らせ、部将の牛雲光を督させた。この時、牛雲光は韋臯を帥に推戴しようと謀り、彼を脅して朱泚に臣従させようとした。別将の翟曄がこれを察知して韋臯に告げた。牛雲光は成功しないことを恐れ、兵衆を率いて出奔し、汧陽に至ったところ、朱泚の使者が韋臯のもとへ赴く途中に出会った。使者は牛雲光に言った、「太尉(朱泚)は既に天子となられた。私に御史中丞の官職を授けて韋臯に与えよと命じられた。もし受け入れれば、当然我が方の者となる。受け入れなければ、直ちに誅殺せよ。兵を率いて共に行ってくれ。」牛雲光はこれを承諾した。韋臯は出迎えて労い、先ず使者を受け入れ、偽って朱泚の詔を受けた。すぐに牛雲光を責めて言った、「既に去ったのにまた戻って来たのは、どういうわけか。」答えて言う、「以前は公のご命令を知らなかったので去った。今戻って来たのは、公と生死を共にしたいからである。」韋臯は言った、「貴使の志は誠に結構である。もし他に図る所がなければ、甲冑を解いて兵衆を安心させた上で、入城するがよい。」牛雲光は韋臯を一介の書生と見て、何もできないと思い、兵士に武器と鎧を捨てさせた。韋臯はそれを受け取り、その兵卒を城内に入れた。翌日、酒宴を大いに設けた。使者と牛雲光およびその部下が到着すると、韋臯は左右の廡に伏兵を置き、酒が巡るうちに、ことごとくこれを殺し、その首を掲げて示した。朱泚はまた別の使者を遣わして韋臯を鳳翔節度使に任じたが、韋臯はこれも斬り、従騎三人も共に斬り、一人を放って朱泚に報告させた。帝(徳宗)はこれを聞き、韋臯を隴州刺史に任じ、奉義軍を設置して節度使に拝し、その功を寵遇した。韋臯は兄の韋平と韋弇を相次いで奉天に派遣し、士気はますます盛んとなった。そこで壇を築き犠牲の血で士と盟して言った、「力を合わせ心を一つにして、元凶を誅する。この盟に背く者あれば、神よその者を罰したまえ。」また使者を馳せて吐蕃とばんと連和し、隴坻はついに安泰となった。帝が梁州・洋州から還幸すると、左金吾衛将軍に召され、大将軍に遷った。

原文德宗狩奉天,李楚琳殺鎰,劫眾叛歸朱泚,隴州刺史郝通奔降楚琳。始,泚以范陽軍鎮鳳翔,既歸節,而留兵五百戍隴上,以部將牛雲光督之。至是,雲光謀請臯為帥,將劫以臣泚。別將翟曄伺知以白臯。雲光懼不克,率眾出奔,至汧陽,遇泚奴使臯所,謂雲光曰:「太尉已為天子,使我以御史中丞授臯。若聽,固吾人也,不受,可遂誅之。請以兵俱。」許之。臯迎勞,先納奴,偽受泚詔。即讓雲光曰:「既去而復,何也?」對曰:「向未知公之命,故去;今還,願與公同生死。」臯曰:「大使固善,茍無它圖,請釋甲以安眾,而後可入也。」雲光以臯諸生,亡能為,乃命士委仗鎧,臯受而內其卒。明日,置酒大會,奴、雲光與其下至,臯伏甲左右廡,酒行,盡殺之,以其首徇。泚復使它奴拜臯鳳翔節度使,臯亦斬之及從騎三人,縱一人使報泚。帝聞,乃授臯隴州刺史,置奉義軍,拜節度使,寵其功。臯遣兄平及弇繼至奉天,士氣益壯,乃築壇血牲與士盟曰:「協力一心,以誅元惡,有渝此盟,神其殛之。」又馳使吐蕃與連和,隴坻遂安。帝自梁、洋還,召為左金吾衛將軍,遷大將軍。

貞元初年、張延賞に代わって剣南西川節度使となった。初め、雲南蛮は吐蕃に隷属しており、その辺塞を侵す時は必ず蛮を先導としていた。韋臯は、雲南を得れば吐蕃の右翼を断ち切ることができると考え、密かに使者を遣わして招き寄せ、次第に西南夷と通じるようになった。翌年、蛮の大首領苴那時が王爵を兄の子の烏星に譲った。初め、烏星が幼かったため、那時がその部を代行統領していたので、爵位を返上しようと請うたのである。韋臯は上奏して言った、「礼譲が異俗の地で行われれば、凶暴な者も感化されます。どうか皆に封爵を与えて褒め進めることを示されたい。」詔はこれを許可した。さらに翌年、雲南が辺境に来て内属を求め、東蛮の鬼主である驃傍・苴夢沖らと共に吐蕃との盟約を絶った。五年、東蛮が瀘水の橋を断ち切って吐蕃を攻撃し、韋臯に援軍を求めた。韋臯は精兵二千を派遣し、蛮と共に台登で吐蕃を破り、青海の大酋長乞臧遮遮・臘城の酋長悉多楊朱および論東柴らを殺し、虜は崖谷に墜死した者が数え切れず、牛馬や鎧装を多く鹵獲した。遮遮は尚結賛の子で、虜の貴将にして勇猛な者であった。敗れた後、酋長百余人が泣きながらその後を追った。勇猛な将が既に亡くなったので、屯柵は次々に降伏平定された。韋臯は検校吏部尚書に進んだ。

原文貞元初,代張延賞為劍南西川節度使。初,雲南蠻羈附吐蕃,其盜塞必以蠻為鄉道。臯計得雲南則斬虜右支,乃間使招徠之,稍稍通西南夷。明年,蠻大首領苴那時以王爵讓其兄子烏星。始,烏星幼,那時攝領其部,故請歸爵。臯上言:「禮讓行於殊俗,則怫戾者化,願皆封以示褒進。」詔可。又明年,雲南款邊求內屬,約東蠻鬼主驃傍、苴夢沖等絕吐蕃盟。五年,東蠻斷瀘水橋攻吐蕃,請臯濟師。臯遣精卒二千,與蠻共破吐蕃於臺登,殺青海大酋乞臧遮遮、臘城酋悉多楊朱及論東柴等,虜墜死崖谷不可計,多獲牛馬鎧裝。遮遮,尚結贊之子,虜貴將悍雄者也;既敗,酋長百餘行哭隨之。悍將已亡,則屯柵以次降定。進檢校吏部尚書。

初め、東蛮の地は二千里、常に数万の勝兵を有し、南は閣羅鳳に依り、西は吐蕃と結び、勢力の強弱を窺って患いとなっていたが、韋臯はこれを綏撫して服従させたので、戦いに功があった。詔により、那時を順政王、夢沖を懐化王、驃傍を和義王とし、「両林」「勿鄧」などの印を刻んで賜った。ところが夢沖が再び吐蕃と盟を結んだので、韋臯は別将の蘇峞を遣わして召し出し、その叛きを詰問して琵琶川で斬り、次の鬼主である様棄らを立てた。蛮部は震え服した。そこで資州に安夷軍を建てて諸蛮を統制し、西山に龍渓城を築いて降伏した羌を保護収容した。

原文初,東蠻地二千里,勝兵常數萬,南倚閣羅鳳,西結吐蕃,狙勢強弱為患,臯能綏服之,故戰有功。詔以那時為順政王、夢沖懷化王、驃傍和義王,刻「兩林」、「勿鄧」等印以賜之。而夢沖復與吐蕃盟,臯遣別將蘇峞召之,詰其叛,斬於琵琶川,立次鬼主樣棄等,蠻部震服。乃建安夷軍於資州,維制諸蠻;城龍溪於西山,保納降羌。

九年、天子が塩州を築城すると、虜が来て妨害・襲撃するであろうと策を立て、詔して韋臯に出師させて牽制させた。そこで大将の董勔・張芬を命じてそれぞれ西山・霊関から出撃させ、峨和・通鶴・定廉城を破り、的博嶺を越えて遂に維州を包囲し、棲鶏を攻め、羊渓などの三城を攻め落とし、剣山の屯営を取って焼き払った。南道元帥の論莽熱が来援し、これと戦ってその軍を破り、白岸を進んで収め、ついに塩州を築城した。詔して韋臯に兵士を休ませた。功により検校尚書右僕射・扶風県伯となった。

原文九年,天子城鹽州,策虜且來橈襲,詔臯出師牽維之。乃命大將董勔、張芬分出西山、靈關,破峨和、通鶴、定廉城,逾的博嶺,遂圍維州,搏棲雞,攻下羊溪等三城,取劍山屯焚之。南道元帥論莽熱來援,與戰,破其軍,進收白岸,乃城鹽州。詔臯休士。以功為檢校尚書右仆射、扶風縣伯。

ここにおいて西山羌女・訶陵・南水・白狗・逋租・弱水・清遠・咄覇の八国の酋長は、皆韋臯を通じて入朝を請うた。そこで幕府の崔佐時を石門から雲南へ向かわせ、南詔との通交が再開された。石門とは、隋の史万歳が南征した道であり、天宝年間に鮮于仲通が兵を南渓に下した時、道は閉ざされたのであった。この時、蛮は北谷を通り、吐蕃に近かったので、韋臯はこれを修復させた。黎州から邛部を出て、直ちに雲南に至り、青渓関を設置して、「南道」と号した。そこで詔して韋臯に近界諸蛮・西山八国・雲南安撫使を統轄させた。まもなく同中書門下平章事に進んだ。

原文於是西山羌女、訶陵、南水、白狗、逋租、弱水、清遠、咄霸八國酋長,皆因臯請入朝。乃遣幕府崔佐時由石門趣雲南,而南詔復通。石門者,隋史萬歲南征道也,天寶中,鮮于仲通下兵南溪,道遂閉。至是蠻徑北谷,近吐蕃,故臯治復之。繇黎州出邛部,直雲南,置青溪關,號曰「南道」。乃詔臯統押近界諸蠻、西山八國、雲南安撫使。俄進同中書門下平章事。

十三年、巂州を回復した。吐蕃は恨み、堡塁を修築し舟を造って辺境を攪乱しようと謀ったが、韋臯はこれを撃破し退けた。これより曩貢・臘城などの九節度使の嬰嬰・籠官の馬定徳と大将の挙落が皆降伏し、昆明管の些蛮もまた内附した。賛普は怒り、北へ霊州・朔州を掠め、麟州を破って償いを取った。帝は詔して韋臯に深入りして虜を牽制させた。韋臯は大将の陳泊らを三奇から出撃させ、崔堯臣を石門無衣山に向かわせ、仇冕・董振を維州へ走らせ、邢玼を黄崖から出撃させて棲鶏・老翁城を攻略させ、高倜・王英俊を峨和・清渓道から故松州に迫らせ、元膺を湿山・成渓から出撃させ、臧守至を道黎・巂に向かわせ、韋良金を平夷に向かわせ、路惟明を霊関・夏陽から逋租・偏松城を攻撃させ、王有道に大度河を渡らせ、陳孝陽に蛮の苴那時らを率いさせて西瀘から昆明・諾済を攻撃させた。軍勢はおよそ五万、八月に悉く塞外に出撃した。十月、吐蕃を大破し、その保鎮や斥候を抜き、追撃して転戦すること千里、遂に維州を包囲した。吐蕃は霊州・朔州の兵を解き、論莽熱を内大相兼東境五節度大使とし、雑虜十万を率いて来援させた。軍は伏兵を以て待ち、虜が乗勝して深入りすると、軍は鬨の声を上げて奮い立ち、虜は大いに潰え、生きて莽熱を捕らえて朝廷に献じた。帝は喜び、韋臯を検校司徒兼中書令・南康郡王に進め、帝は紀功碑を製して褒め賜った。

原文十三年,復巂州。吐蕃怨,完壘造舟謀擾邊,臯輒破卻之。自是曩貢、臘城等九節度嬰嬰、籠官馬定德與大將舉落皆降,昆明管些蠻又內附。贊普怒,遂北掠靈、朔,破麟州以取償焉。帝詔臯深入以橈虜。臯遣大將陳泊等出三奇,崔堯臣趨石門無衣山,仇冕、董振走維州,邢玼出黃崖略棲雞、老翁城,高倜、王英俊繇峨和、清溪道薄故松州,元膺出濕山、成溪,臧守至道黎、巂,韋良金趨平夷,路惟明自靈關、夏陽攻逋租、偏松城,王有道涉大度河,陳孝陽率蠻苴那時等道西瀘攻昆明、諾濟,師無慮五萬,以八月悉出塞。十月,大破吐蕃,拔其保鎮捕候,追奔轉戰千里,遂圍維州。吐蕃釋靈、朔兵,使論莽熱以內大相兼東境五節度大使,率雜虜十萬來救。師伏以待,虜乘勝深入,師噪而奮,虜大潰,生禽莽熱獻諸朝。帝悅,進檢校司徒兼中書令、南康郡王,帝制紀功碑褒賜之。

順宗が即位すると、詔して検校太尉とした。時に王叔文らが政権を専断すると、韋臯は劉辟を京師に遣わして王叔文に謁見させて言わせた、「公が私のために君(王叔文)に働きかけ、剣南を全て領有させてくだされば、君に報いるであろう。そうでなければ、君を怨むであろう。」と。王叔文は怒り、劉辟を斬ろうとしたが、劉辟は逃げ去った。韋臯は王叔文に多くの過失があることを知り、また自ら大臣として国家の大議に参与できると考え、すぐに上表して皇太子の監国を請うとともに、太子に上箋して王叔文・王伾の奸悪を暴き、かつ即位を勧めた。時に大臣が相次いで請うたので、太子はついに禅を受け、これにより奸党を投獄・誅殺した。この年、韋臯は急死した。享年六十一。太師を追贈され、諡して忠武といった。

原文順宗立,詔檢校太尉。會王叔文等幹政,臯遣劉辟來京師謁叔文曰:「公使私於君,請盡領劍南,則惟君之報。不然,惟君之怨。」叔文怒,欲斬辟,辟遁去。臯知叔文多釁,又自以大臣可與國大議,即上表請皇太子監國,又上箋太子,暴叔文、伾之奸,且勸進。會大臣繼請,太子遂受禪,因投殛奸黨。是歲,臯暴卒,年六十一,贈太師,謚曰忠武。

韋臯は蜀を治めること二十一年、しばしば出師し、凡そ吐蕃四十八万を破り、節度・都督・城主・籠官千五百を擒殺し、斬首五万余級、牛羊二十五万を獲、器械六百三十万を収め、その功烈は西南において最も著しいものとなった。士を善く拊し、至っては昏嫁に至るまで皆厚く資を与え、婿には錦衣を給し、女には銀塗衣を給し、各万銭を賜い、死喪者にはこれに相当するものを与えた。その僚掾官は顕であっても、還朝させず、即ち属州刺史に署し、自ら侈横を以てし、務めてこれを蓋蔵せしめた。故に劉辟はその弊に乗じ、遂に叛した。朝廷はその咎を追って正そうとしたが、韋臯と仲の悪い者が誹って進めた兵は皆「定秦」の字を鏤いていたので、陸暢という者が上言して言うには、「臣が以前蜀に在った時、『定秦』というのは工匠の名であると知りました」と。これによって議論は止んだ。暢は字を達夫といい、韋臯が特に厚く礼遇した者である。初め、天宝の時、李白が『蜀道難』の篇を作って厳武を斥けたが、暢はさらに『蜀道易』を作って韋臯を称えた。

原文臯治蜀二十一年,數出師,凡破吐蕃四十八萬,禽殺節度、都督、城主、籠官千五百,斬首五萬餘級,獲牛羊二十五萬,收器械六百三十萬,其功烈為西南劇。善拊士,至雖昏嫁皆厚資之,婿給錦衣,女給銀塗衣,賜各萬錢,死喪者稱是。其僚掾官雖顯,不使還朝,即署屬州刺史,自以侈橫,務蓋藏之。故劉辟階其厲,卒以叛。朝廷欲追繩其咎,而不與臯者詆所進兵皆鏤「定秦」字,有陸暢者上言:「臣向在蜀,知『定秦』者,匠名也。」繇是議息。暢,字達夫,臯雅所厚禮。始,天寶時,李白為《蜀道難》篇以斥嚴武,暢更為《蜀道易》以美臯焉。

初め、韋臯は私的にその民に務め、諸州の租を互いに除き、凡そ三年に一度免除した。韋臯が没すると、蜀人はその徳を慕い、その遺像を見れば必ず拝した。凡そ石に刻んで韋臯の名を著すものは、皆その文を鑱り尊んで諱いみなんだ。

原文始,臯務私其民,列州互除租,凡三歲一復。臯沒,蜀人德之,見其遺象必拜。凡刻石著臯名者,皆镵其文尊諱之。

韋臯の兄 韋聿

原文臯兄 聿

兄聿、弟平。聿は蔭により南陵尉に調じ、秘書郎に遷り、父の嫌名により太子司議郎に換えられ、淮南の杜佑の府に辟された。元和初め、国子司業となった。劉辟が盧文若と反すると、韋臯の子行式は文若の妹を娶っていたが、聿はこれを上聞しなかった。劉辟が平定されると、行式の妻は掖庭に没入すべきところ、有司は聿をも推問し、ある者は道遠であることを以て坐すべきでないとしたので、乃ち皆赦した。終に太子右庶子となった。

原文兄聿,弟平。聿以蔭調南陵尉,遷秘書郎,以父嫌名換太子司議郎,辟淮南杜佑府。元和初,為國子司業。劉辟與盧文若反,臯子行式娶文若女弟,聿不以聞。辟平,行式妻當沒掖庭,有司並按聿,或以道遠不應坐,乃皆赦之。終太子右庶子。

韋臯の弟 韋平

原文臯弟 平

韋平は韋臯と共に朱泚の使者を斬り、間道を走って奉天に至り功を上奏し、萬年尉に抜擢された。

原文平與臯斬朱泚使者,間走奉天上功,擢萬年尉。

韋平の子 韋正貫

原文平子 正貫

韋平の子正貫、字は公理、幼くして孤となり、韋臯はその門を大いにできると言い、名を臧孫と付けた。蔭を推されて単父尉となったが、意に得ず、官を棄て去り、今の名に改めた。賢良方正異等に挙げられ、太子校書郎に除され、華原尉に調じられた。後にまた詳閑吏治科に中第し、萬年主簿に遷り、累擢して司農卿となった。尚食の供給不足に坐し、均州刺史に貶された。久しくして、寿州団練使に進んだ。宣宗が立つと、治績が最も優れているとして、京兆尹・同州刺史に拝された。俄かに嶺南節度使に抜擢された。南海の船商が初めて到着すると、大帥は必ず象牙・犀角・明珠を取って、上珍を以て下直で売っていた。正貫が到着すると、何も取らず、吏はその清廉を称えた。南方の風俗は鬼を尊び、正貫は淫祠を毀ち、民に妄りに祈らぬよう教えた。会に海水が溢れ、人々は祠を撤去したことを咎めて争い、神が厭わないと思い、正貫は城に登り酒を沃って誓って言うには、「神意に適わなければ、長たる者がその咎を任じ、下民に及ぼさない」と。俄かに水が引き、民は乃ちこれを信じた。鎮に居ること三年、病に罹ると、遺令して厚葬せず、鼓吹を用いず、謚を請わぬよう言った。卒す、年六十八、工部尚書を贈られた。

原文平子正貫,字公理,少孤,臯謂能大其門,名曰臧孫。推蔭為單父尉,不得意,棄官去,改今名。舉賢良方正異等,除太子校書郎,調華原尉。後又中詳閑吏治科,遷萬年主簿,擢累司農卿。坐尚食乏供,貶均州刺史。久之,進壽州團練使。宣宗立,以治當最,拜京兆尹、同州刺史。俄擢嶺南節度使。南海舶賈始至,大帥必取象犀明珠,上珍而售以下直。正貫既至,無所取,吏咨其清。南方風俗右鬼,正貫毀淫祠,教民毋妄祈。會海水溢,人爭咎撤祠事,以為神不厭,正貫登城沃酒以誓曰:「不當神意,長人任其咎,無逮下民。」俄而水去,民乃信之。居鎮三歲,既病,遺令無厚葬,無用鼓吹,無請謚。卒,年六十八,贈工部尚書。

附 劉辟

原文附 劉辟

劉辟は、字は太初、進士宏詞科に擢第し、韋臯の府を佐け、累遷して御史中丞・支度副使となった。韋臯が卒すると、辟は後務を主り、諸将に旌節を求めるよう唆した。憲宗は給事中として召したが、詔に奉じなかった。時に帝は新たに即位し、四方を静鎮しようとしたので、即ち検校工部尚書・剣南西川節度使に拝した。辟は帝が動かし得ると考え、益々傲慢不遜となり、不臣の語を吐き、三川を統べることを求め、親しい盧文若を東川節度使にしようとし、即ち兵を以て梓州を取った。且つ術家の言う五福・太一が蜀に宿るとの言に因り、乃ち大樓を造って祥を祈った。帝は初めて征討を重んじ、宰相杜黄裳が帝を勧め、且つ言うには、「辟は妄りなる書生に過ぎず、鼓して俘え得ます」と。高崇文・李元弈等を薦めて神策行営兵を率いさせて皆西に向かわせ、厳礪・李康に掎角させた。

原文劉辟者,字太初,擢進士宏詞科,佐韋臯府,遷累御史中丞、支度副使。臯卒,辟主後務,諷諸將僥旄節,憲宗以給事中召之,不奉詔。時帝新即位,欲靜鎮四方,即拜檢校工部尚書、劍南西川節度使。辟意帝可動,益驁蹇,吐不臣語,求統三川,欲以所善盧文若節度東川,即以兵取梓州。且以術家言五福、太一舍於蜀,乃造大樓以祈祥。帝始重征討,而宰相杜黃裳勸帝,且言:「辟,妄書生耳,可鼓而俘也。」薦高崇文、李元弈等將神策行營兵皆西,使嚴礪、李康掎角之。

詔して自新を許したが、辟は聴かなかった。崇文が東川を取ると、帝は乃ち詔を下してその官を奪い、進んで鹿頭関を破り、遂に成都を陥とした。辟は数十騎を従えて走り、羊灌田に至り、自ら水に投じたが、死ねず、騎将の酈定進がこれを擒えた。文若は先にその一族を殺し、石を縋って自ら江に沈み、その屍を失った。檻車で辟を京師に送ると、尚ほ死なずに済むことを冀い、道中で飲食して平然としていた。将に都に至らんとする時、神策軍が兵を以て迎え、その首を繫ぎ、曳き入れると、驚いて言うには、「何ぞここに至るや」と。帝は興安楼に御して俘を受け、詔して反状を詰問すると、辟は言うには、「臣は敢えて反しません、五院子弟が悪を為し、制することができなかったのです」と。詔して問う、「使者を遣わして旌節を賜うのに何故受けなかったのか」と。乃ち罪に伏した。廟社に献じ、市に徇し、城西南の独柳の下で斬った。子の超郎等九人と、部将の崔綱は順次誅された。

原文詔許自新,辟不聽。崇文取東川,帝乃下詔奪其官,進破鹿頭關,遂下成都。辟從數十騎走,至羊灌田,自投水,不能死,騎將酈定進禽之。文若先殺其族,縋石自沈於江,失其屍。檻車送辟京師,尚冀不死,食飲於道晏然。將至都,神策以兵迎之,系其首,曳而入,驚曰:「何至是邪?」帝禦興安樓受俘,詔詰反狀,辟曰:「臣不敢反,五院子弟為惡,不能制。」詔問:「遣使賜節何不受?」乃伏罪。獻廟社,徇於市,斬於城西南獨柳下。子超郎等九人,與部將崔綱以次誅。

初め、辟は嘗て病み、見舞いに来る者があれば必ず手を行ってその口に入れ、辟は即ち裂いて食った。唯盧文若が来た時は、平常の如くであったので、故に益々彼と厚くし、而して皆夷族となった。

原文始,辟嘗病,見問疾者必以手行入其口,辟即裂食之。唯盧文若至,如平常,故益與之厚,而皆夷族。

張建封

原文張建封

張建封、字は本立、鄧州南陽の人、客として兗州に隠れた。父の玠は、若くして任侠を好んだ。安祿山が反すると、李廷偉をして山東を脅し徇わしめ、魯郡太守韓擇木はこれを迎えて館した。玠は豪桀の段絳等を率いて兵を集め、将に斬って徇わそうとしたが、擇木は許さず、唯司兵参軍の張孚がその謀を助けたので、乃ち廷偉並びにその党を殺して上聞した。擇木・孚は皆賞を受け、而して玠は江南に去り、自ら功を言わなかった。

原文張建封,字本立,鄧州南陽人,客隱兗州。父玠,少任俠。安祿山反,使李廷偉脅徇山東,魯郡太守韓擇木迎館之。玠率豪桀段絳等集兵,將斬以徇,擇木不許,唯司兵參軍張孚助其謀,乃殺廷偉並其黨以聞。擇木、孚皆受賞,而玠去之江南,不自言功。

建封は若くして文章を喜び、弁論ができ、慷慨として気節を尚び、自ら功名を以て顕れると期した。李光弼が河南を鎮めると、盗賊が蘇・常の間に起こり、郷県を残掠した。代宗は中人馬日新に詔し、光弼の麾下と皆討たせた。建封は中人に会い、先んじて賊を諭すことを請い、戦わずに済ませられるとした。因って賊の屯に到り禍福を開譬し、一日に数千人を降し、田裏に還して放し、これによって知名となった。湖南観察使韋之晉が辟して参謀に署し、左清道兵曹参軍を授けたが、職を楽しまず、輒ち去った。令狐彰が滑亳を節度し、幕府に置くことを奏したが、彰は朝覲せず、建封はこれを非とした。転運使劉晏に往って見え、晏は試みに大理評事を奏し、漕務を管せしめたが、歳余で罷めた。時に馬燧が三城鎮遏使となり、雅くこれを知り、判官に表し、監察御史に擢った。燧が李霊耀を伐つ時、軍中の事多く諮問に与り、河東に鎮するに従い、侍御史を授け、即ちその能を朝に表した。楊炎は要職に任じようとしたが、盧杞が喜ばず、岳州刺史として出した。

原文建封少喜文章,能辯論,慷慨尚氣,自許以功名顯。李光弼鎮河南,盜起蘇、常間,殘掠鄉縣。代宗詔中人馬日新與光弼麾下皆討。建封見中人,請前喻賊,可不須戰。因到賊屯開譬禍福,一日降數千人,縱還田裏,由是知名。湖南觀察使韋之晉辟署參謀,授左清道兵曹參軍,不樂職,輒去。令狐彰節度滑亳,奏置幕府,彰不朝覲,建封非之。往見轉運使劉晏,晏奏試大理評事,使筦漕務,歲餘罷。時馬燧為三城鎮遏使,雅知之,表為判官,擢監察御史。燧伐李靈耀,軍中事多所諏訪,從鎮河東,授侍御史,即表其能於朝。楊炎將任以要職,盧杞不喜,出為岳州刺史。

李希烈が既に梁崇義を破り、跋扈して臣下の礼を取らず、壽州刺史崔昭は彼と通じていた。徳宗は宰相を召して崔昭に代わる者を選ばせたが、盧杞は慌てて他の官吏を取る暇がなく、即座に張建封を用いることを上奏した。李希烈は王師を数度破り、勢いが甚だ盛んで、遂に僭称せんしょうして天子の位に即き、淮南節度使陳少遊は密かにこれに附いた。李希烈は将の楊豐を遣わし、偽りの赦書二通を持たせ、張建封と陳少遊に与えさせた。楊豐が到着すると、張建封は彼を縛って軍中に送致し、宦官の使者が来たのに合わせ、その面前で楊豐の首を斬り、偽りの書を行在に送った。陳少遊はこれを聞き、悔しさと汗で居ても立ってもいられず、張建封は彼が賊に附いた状況を弾劾したが、帝は難に遭っている最中で、取り調べる暇がなかった。李希烈はまた杜少誠を淮南節度使に任命し、壽州を破って江都に向かうことを約束させた。張建封は霍丘の秋柵に陣を構えてこれを防ぎ、賊は東進できなかった。團練使に遷る。帝が梁より還御すると、陳少遊は遂に憂死した。御史大夫・濠壽廬觀察使を兼ねて進む。この時、四方は尚お多く事変が続いており、張建封は城壁と堀を修繕し、兵を益々整え、四方の辺境の民は附き喜んだ。李希烈が精鋭の将帥と悍卒を遣わして来戦したが、張建封は皆これを挫き敗走させた。賊が平定されると、封階を進められ、また一子に正員官を任じた。

原文李希烈既破梁崇義,跋扈不臣,壽州刺史崔昭與相聞,德宗召宰相選代昭者,杞倉卒不暇取它吏,即白用建封。希烈數敗王師,張甚,遂僭即天子位,淮南節度使陳少遊陰附之。希烈遣將楊豐賫偽赦二,畀建封、少遊。豐至,建封縛致軍中,會中人來,對之斬其首,因送偽書於行在。少遊聞之,恚汗不自處,建封乃劾其附賊狀,帝方蒙難,不暇治也。希烈又署杜少誠為淮南節度使,約破壽州,以趣江都。建封壁霍丘秋柵拒之,賊不能東。遷團練使。帝還自梁,少遊卒憂死。進兼御史大夫、濠壽廬觀察使。是時,四方尚多故,乃繕陴隍,益治兵,四鄙附悅。希烈使票帥悍卒來戰,建封皆沮衄之。賊平,進封階,又任一子正員官。

貞元四年、御史大夫・徐泗濠節度使に拝された。初め、李洧が徐州を以て降伏し、李洧が卒すると、高承宗・獨孤華がこれを代わったが、地は寇に迫られ、常に困窮して支えられなかった。ここにおいて李泌が建言した、「東南からの漕運は淮より諸汴に達し、徐州の埇橋は江・淮の要衝である。今、徐州刺史高明應は甚だ兵が少なく、もし李納に併呑され、糧道を塞がれたならば、江・淮を失うことになります。張建封を以てこれに代え、濠・泗二州を加えることを請います。徐州は地が重要で兵も強く、もし将帥がまた賢明ならば、即ち淄青も震え上がるでしょう。」帝は「善し」と言った。これにより徐州は再び雄鎮となった。久しくして、檢校尚書右僕射となる。十三年、来朝し、帝は日を待たずに延英殿に召し見え、詔して朝会の際に大夫班に赴かせ、殊寵を示された。張建封は『朝天行』を賦して献上した。帝の眷遇は格別で、名馬と珍しい器物を賜った。

原文貞元四年,拜御史大夫、徐泗濠節度使。始,李洧以徐降,洧卒,高承宗、獨孤華代之,地迫於寇,常困不支。於是李泌建言:「東南漕自淮達諸汴,徐之埇橋為江、淮計口,今徐州刺史高明應甚少,脫為李納所並,以梗餉路,是失江、淮也。請以建封代之,益與濠、泗二州。夫徐地重而兵勁,若帥又賢,即淄青震矣。」帝曰:「善。」繇是徐復為雄鎮。久之,檢校尚書右仆射。十三年,來朝,帝不待日召見延英殿,詔會朝赴大夫班,以示殊寵,建封賦《朝天行》以獻。帝眷遇異等,賜名馬珍具。

この時、宦官が宮市を主管し、数十百人の者を置いて市場の左側で物品を見定め、これを「白望」と称した。詔書の文書による検核はなく、ただ宮市と称すれば、敢えて誰も何とも言えず、大抵は価値の十分の一も償わなかった。また、門を通すための礼銭や運搬賃を要求し、重い荷物を担いで店舗に赴きながら徒労に帰る者さえあった。ある農夫が一頭の驢馬と薪を売っていたところ、宦官が数尺の帛でこれを交換し、さらに他の費用を取り立て、かつ驢馬を宮中に追い入れようとした。農夫は薪を納めて帛を辞退し、急いで去ろうとしたが、許されず、憤って言った、「ただ死があるのみ!」遂に宦官を殴った。役人が彼を捕らえて上聞すると、帝は宦官を罷免し、農夫に帛十匹を賜ったが、宮市は廃されなかった。諫臣が次々と上奏文を列ねて上ったが、皆容れられず、故に張建封は隙を見て帝にこのことを言上し、帝はかなり従順に聞き入れた。詔書が民の滞納租税を免除することになった時、帝はどうかと問うと、答えて言った、「残りの滞納と積もった負債は、決して徴収できるものではなく、これを免除しても、百姓は尚お益を得るところがありません。」また陳述した、「河東節度使李説・華州刺史盧征は皆病で職務を執れず、側近がこれに乗じて奸を行うことができます。右金吾大将軍李翰は細事を探って寵を求めることを好み、人々はこれを疾み憎んでおります。」帝は悉く嘉納した。間もなく、制詔が下った、「官師の過度な交際は人情の常である。今後、金吾はこれを上聞しないこと。」

原文是時,宦者主宮市,置數十百人閱物廛左,謂之「白望」。無詔文驗核,但稱宮市,則莫敢誰何,大率與直十不償一。又邀閽闥所奉及腳傭,至有重荷趨肆而徒返者。有農賣一驢薪,宦人以數尺帛易之,又取它費,且驅驢入宮,而農納薪辭帛,欲亟去,不許,恚曰:「惟有死耳!」遂擊宦者。有司執之以聞,帝黜宦人,賜農帛十匹,然宮市不廢也。諫臣交章列上,皆不納,故建封請間為帝言之,帝頗順聽。會詔書蠲民逋賦,帝問何如,答曰:「殘逋積負,決無可斂,雖蠲除之,百姓尚無所益。」又陳:「河東節度使李說、華州刺史盧征皆病不能事,左右得以為奸。右金吾大將軍李翰好刺細事規寵,人疾惡之。」帝悉嘉可。未幾,制詔:「官師過從,人情之常,自今金吾勿以聞。」

上巳の節に、曲江で宴を賜り、特に詔して宰相と同榻で食を共にさせた。その還鎮に際し、帝は詩を賦して餞別した。当時、馬燧・渾瑊・劉玄佐・李抱真等の勲寵卓越なる者でも、詩を以て餞別された者はなかった。帝はまた左右の者に自ら持つ鞭を賜わせて言った、「卿の節誼は歳寒にも変わることなし。故にこれをもって比況とする。」張建封はまた詩を賦して自らを戒め励ました。十六年、病を以て代わりを求め、詔して韋夏卿を以てこれに代わらせたが、到着しないうちに張建封は卒した。年六十六。冊贈して司徒とした。

原文元巳,賜宴曲江,特詔與宰相同榻食。其還鎮,帝賦詩以餞,於時雖馬燧、渾瑊、劉玄佐、李抱真等勛寵卓越,未有以詩餞者。帝又使左右以所持鞭賜之,曰:「卿節誼歲寒弗渝,故用此為況。」建封又賦詩以自警勵。十六年,以病求代,詔韋夏卿代之,未至而建封卒。年六十六,冊贈司徒。

徐州を治めること凡そ十年、自ら職務に躬行し、一軍は大いに治まった。人の過ちを容れることを善くし、剛健で狡猾な者に対しても、未だ曲げて法を仮り与えることはしなかった。その言は忠義に感激させられるので、下僚は皆畏れ喜んだ。性、士を楽しみ、賢者・不肖者を問わずその門を遊ぶ者には礼を必ず均しくしたので、その来ることは帰るが如かった。許孟容・韓愈は皆奏して幕府に署し、文章が当時に伝わった。

原文治徐凡十年,躬於所事,一軍大治。善容人過,至健黠亦未嘗曲法假之。其言忠義感激,故下皆畏悅。性樂士,賢不肖遊其門者禮必均,故其往如歸。許孟容、韓愈皆奏署幕府,有文章傳於時。

建封の子 愔

原文建封子 愔

子の愔は、初め蔭補により虢州参軍事となった。張建封が卒すると、府の佐官の鄭通誠という者が留後事務を摂り、その軍の乱を恐れ、浙西の戍兵が徐州を通るのに乗じて、これを援けとして引き入れようと謀った。挙軍怒り、武器庫を破って兵器を取り、府を囲んで大いに騒ぎ、鄭通誠及び大将数人を殺し、乃ち朝廷に上表し、張愔を留後とすることを請い、旌節を仮り受けようとした。帝は許さず、濠・泗を割いて淮南に隷属させ、詔して杜佑に徐の乱を討たせた。泗州刺史張伾が兵を以て埇橋を攻め、徐軍と遭遇し、張伾は大敗した。帝にはこれを制する術がなく、乃ち張愔を右驍衛将軍・徐州刺史に授け、留後を掌らせた。張伾を泗州留後とし、杜兼を濠州留後とした。間もなく張愔を武寧軍節度使に進めた。

原文子愔,始以蔭補虢州參軍事。建封卒,府佐鄭通誠者攝留事,畏其軍亂,因浙西戍兵過徐,謀引以為援。舉軍怒,斧庫取兵,環府大噪,殺通誠及大將數人,乃表於朝,請愔為留後,假旄節。帝不許,披濠、泗隸淮南,詔杜佑討徐亂。泗州刺史張伾以兵攻埇橋,與徐軍遇,伾大敗。帝未有以制,乃授愔右驍衛將軍、徐州刺史,知留後。以伾為泗州留後,杜兼為濠州留後。俄進愔武寧軍節度使。

元和の初め、病を以て代わりを求め、召されて工部尚書となり、王紹を武寧節度使とし、濠・泗を徐州に隷属させて戻した。徐州の民は喜び、遂に敢えて乱れず、張愔は任地を発つことができた。境を出ないうちに卒した。張愔は徐州を治めること七年、その政は治まると称された。尚書右僕射を追贈された。

原文元和初,以疾求代,召為工部尚書,以王紹節度武寧,還濠、泗隸徐。徐人喜,遂不敢亂,而愔得行。未逾境,卒。愔治徐七年,其政稱治。贈尚書右仆射。

嚴震

原文嚴震

嚴震、字は遐聞、梓州鹽亭の人。元は農家の子で、財力をもって里閭を役使した。至徳・乾元年間、数度資財を出して辺境を助け、州長史となることができた。西川節度使嚴武はその才を知り、押衙に署し、恒王府司馬に遷し、軍府の諸務を委ねた。嚴武が卒すると、罷められて帰郷した。折しも東川節度使李叔明が上表して渝州刺史とし、嚴震は李叔明が姻戚であることを理由に、病と称して去った。山南西道節度府がまた上表して鳳州刺史とした。母の喪のため解任。起復して興・鳳両州團練使となり、利を興し害を除くことを好んだ。建中年間、剣南黜陟使韋楨が嚴震の治行を山南第一として上奏したので、乃ち上下考を賜り、鄖国公に封ぜられた。鳳州を治めること十四年、清厳と称され、遠近諮詢して美とした。山南西道節度使に遷る。

原文嚴震,字遐聞,梓州鹽亭人。本農家子,以財役裏閭。至德、乾元中,數出資助邊,得為州長史。西川節度使嚴武知其才,署押衙,遷恒王府司馬,委以軍府眾務。武卒,罷歸。會東川節度使李叔明表為渝州刺史,震以叔明姻家,移疾去。山南西道節度府又表為鳳州刺史。母喪解。起為興、鳳兩州團練使,好興利除害。建中中,劍南黜陟使韋楨狀震治行為山南第一,乃賜上下考,封鄖國公。治鳳十四年,號稱清嚴,遠邇咨美。遷山南西道節度使。

朱泚が反逆し、腹心の穆廷光等を遣わし帛書を送って誘ったが、嚴震は即座に斬って上聞した。この時、李懷光が賊と連和し、奉天は危急に陥り、帝は山南に遷ることを考えた。嚴震はこれを聞き、馳せて表を奉って迎え、大将張用誠に兵五千を率いさせて護衛させた。張用誠が盩厔に至り謀反の計画を抱いたので、帝はこれを憂えた。折しも嚴震の牙将馬勛が嗣ぎ物を持って到着したので、帝はその故を告げた。馬勛は言った、「臣、帰って節度使の符を取って彼を召します。もし受けなければ、その首を斬って復命いたします。」帝は悦び、期日を定めて往かせた。馬勛は帰って符を得、壮士五人を同道することを請い、駱谷を出た。張用誠はその謀り事が知られていないと思い、数百騎を率いて馬勛を出迎え館に宿泊させ、左右厳重に侍らせた。馬勛は発する前に、密かに館の外で草を焚かせ、兵士は寒さに火に群がった。馬勛は従容として符を示して言った、「大夫(嚴震)が君を召している。」張用誠は恐れ、逃げようとしたが、壮士が後ろからこれを捕らえた。張用誠の子が馬勛を斬りつけて頭に傷を負わせたが、左右が刀を防いで難を免れ、遂に張用誠を倒し、その子を格殺した。馬勛が軍中に立つと、兵士は皆鎧を着けていた。馬勛は大声で言った、「お前たちの父母妻子は梁州にいる。今これを棄てて反逆するのは、何の利があるのか?大夫が張用誠を取るだけだ。お前たちは関わるな!」衆は乃ち服し、敢えて動かなかった。即座に張用誠を縛って嚴震の下に送り、杖殺し、その副将を抜擢して師を統率させた。初め、馬勛が行在に赴いた時、半日遅れたので、帝は頗る憂えた。到着すると大いに喜んだ。翌日、奉天を発った。駱谷に入った後、李懷光が騎兵で追襲したが、山南の兵に頼って難を免れた。間もなく檢校戸部尚書・馮翊郡王を加えられ、実封二百戸を与えられた。

原文朱泚反,遣腹心穆廷光等遺帛書誘之,震即斬以聞。是時,李懷光與賊連和,奉天危蹙,帝欲徙蹕山南,震聞,馳表奉迎,遣大將張用誠以兵五千扞衛。用誠至盩厔有反計,帝憂之,會震牙將馬勛嗣至,帝告以故,勛曰:「臣請歸取節度符召之,即不受,斬其首以復命。」帝悅,使計日往。勛還得符,請壯士五人與偕,出駱谷,用誠以為未知其謀,以數百騎迓勛館之,左右嚴侍。勛未發,陰令焚草館外,士寒爭附火,勛從容引符示之,曰:「大夫召君。」用誠懼,將走,壯士自後禽之。用誠子斫勛傷首,左右扞刀得免,遂仆用誠,而格殺其子。勛即軍中,士皆擐甲矣。勛昌言曰:「若父母妻子在梁州,今棄之而反,何所利邪?大夫取用誠爾,若等無與!」眾乃服,不敢動。即縛用誠送於震,杖殺之,而拔其副以統師。始,勛赴行在,逾半日期,帝頗憂。比至,大喜。翌日,發奉天。既入駱谷,懷光以騎追襲,賴山南兵以免。尋加檢校戶部尚書、馮翊郡王,實封二百戶。

天子が梁州に至ると、宰相らは当地が貧しく物資の供給が得られないとして、成都への行幸を請うた。震は言う、「山南は畿輔に近接し、李晟は収復に鋭意であり、まさに六師を頼りに声援とすべきところ、今西へ引き上げれば、諸将は顧みて望みを失い、功績を責める期もない」と。帝は決断せず、ちょうど李晟の上表が届き、これもまた梁・洋への駐蹕を請うたので、議論は定まった。しかし梁・漢の間は刀耕火耨の地で、民は穭を採って食とし、十五郡を領するといえども、賦入は東方の数大県に比するのみであった。安史の乱後、山賊が剽掠し、戸口は流散していたが、震は時宜に随って勧課し、鳩斂に法あり、民は煩擾せず、行在の供億は整った。車駕が還都せんとするに及び、検校尚書左仆射を加えられた。詔して梁州を興元府と改め、ただちに震を用いて尹とし、実封二百戸を加えた。久しくして、同中書門下平章事に進んだ。貞元十五年卒、年七十六、太保を贈られ、謚して忠穆という。

原文天子至梁州,宰相以為地貧無所仰給,請進幸成都。震曰:「山南密邇畿輔,李晟銳於收復,方藉六師為聲援,今引而西,則諸將顧望,責功無期。」帝未決,會晟表至,亦請駐蹕梁、洋,議遂定。然梁、漢間刀耕火耨,民采穭為食,雖領十五郡,而賦入才比東方數大縣。自安、史後,山賊剽掠,戶口流散,震隨宜勸課,鳩斂有法,民不煩擾,而行在供億具焉。車駕將還,加檢校尚書左仆射。詔改梁州為興元府,即用震為尹,加實封二百戶。久之,進同中書門下平章事。貞元十五年卒,年七十六,贈太保,謚曰忠穆。

震の従孫に譔あり。

原文震從孫 譔

従孫の譔は、宰相楊収と親善であった。咸通年中、桂管観察使より抜擢されて江西節度使となり、鎮南軍と号を改めた。時に南蛮が内寇し、詔して譔に兵士三万を募り備えさせた。ある者が譔が広く兵卒を補充し、勝手に縑を納めて糧食としたと告げた。楊収が罪を得ると、韋保衡は譔が平素楊収と善しとしていたことから、賄賂が狼藉であるとして、使者を遣わして審査させ、詔して死を賜った。

原文從孫譔,與宰相楊收善。咸通中,繇桂管觀察使擢為江西節度使,改號鎮南軍。時南蠻內寇,詔譔募士三萬備之。或言譔廣補卒,擅納縑廩。及收得罪,韋保衡以譔素善收,賕賄狼藉,遣使按覆,詔賜死。

韓弘

原文韓弘

韓弘は、滑州匡城の人である。幼くして孤となり、その舅の劉玄佐に依った。明経に挙げられたが及第せず、外家に従って騎射を学んだ。諸曹より大理評事に試みられ、宋州南城将となった。劉全諒に仕え、都知兵馬使に署せられた。貞元十五年、全諒が死ぬと、軍中は玄佐を懐かしみ、弘の才武を以て、共に留後として立て、監軍に朝廷へ上表することを請うた。詔して検校工部尚書を授け、宣武節度副大使を充て、節度事を知らせた。

原文韓弘,滑州匡城人。少孤,依其舅劉玄佐。舉明經不中,從外家學騎射。由諸曹試大理評事,為宋州南城將。事劉全諒,署都知兵馬使。貞元十五年,全諒死,軍中思玄佐,以弘才武,共立為留後,請監軍表諸朝。詔檢校工部尚書,充宣武節度副大使,知節度事。

先に、曲環が死ぬと、呉少誠は全諒と謀って陳許を襲おうとし、数輩の使者を館に留め置いていた。弘が帥を得た初め、忠をもって自ら衆に表そうとし、ただちに少誠の使者を駆り出して斬らせ、選卒三千を選び、諸軍と会して少誠を撃ち、これを破った。汴では劉士寧以来、軍はますます驕り、陸長源を殺してからは、主帥の勢い軽く、制することができなかった。弘は軍中で平素より恣横なる者劉鍔ら三百人を察し、ある日、その罪を数え上げて牙門で斬り、流血が道を丹に染めたが、弘は言笑自若であった。これより弘が去るまで、敢えて放肆する者は一人もいなかった。李師古が曹州に屯し、鄭・滑を謀ろうとしたとき、ある者が告げて言う、「師古が道を修治しております、兵がまさに至らんとしています、備えを請います」と。弘は言う、「師が来るのに道を除かないものだ」と。師古は内情を見抜かれたと悟り、引き去った。累次して検校司空・同中書門下平章事を授けられた。弘は官位が太原の王鍔らと同じであることを以て、宰相に書を送り、鍔の下に立つことを恥じた。憲宗はまさに淮西に用兵しており、その重みを頼りに、さらに検校司徒を授け、班位を鍔の上とした。

原文先是,曲環死,吳少誠與全諒謀襲陳許,使數輩仍在館。弘始得帥,欲以忠自表於眾,即驅出少誠使斬之,選卒三千,會諸軍擊少誠,敗之。汴自劉士寧以來,軍益驕,及殺陸長源,主帥勢輕,不可制。弘察軍中素恣橫者劉鍔等三百人,一日,數其罪斬之牙門,流血丹道,弘言笑自如。自是訖弘去,無一敢肆者。李師古屯曹州,以謀鄭、滑,或告:「師古治道矣,兵且至,請備之。」弘曰:「師來不除道也。」師古情得,乃引去。累授檢校司空、同中書門下平章事。弘以官與太原王鍔等,詒書宰相,恥為鍔下。憲宗方用兵淮西,藉其重,更授檢校司徒,班鍔上。

厳綬が王師の敗れた後、弘を淮西諸軍行営都統に拝し、両河を守らせ、李光顔・烏重胤に賊を撃たせた。弘は自ら屯せず、子の公武に兵三千を率いさせて光顔に属させたが、ひそかに逗橈の計を為し、国を危うくして功を邀えようとする者であり、諸将が告捷するたびに、累日悦ばなかった。呉元済が平定され、功により侍中を兼ね、許国公に封ぜられた。李師道が誅せられると、弘は大いに恐れ、入朝を請い、司徒・中書令に冊拝された。足疾のため、中人に命じて掖かせて拝礼させ、固く願って京師に留まった。帝が崩ずると、冢宰を摂った。まもなく出て河中節度使となった。病を以て還朝を請い、再び司徒・中書令を拝した。卒、年五十八、太尉を贈られ、謚して隠という。

原文嚴綬以王師敗,乃拜弘淮西諸軍行營都統,使扞兩河,而令李光顏、烏重胤擊賊。弘不親屯,遣子公武領兵三千屬光顏,然陰為逗橈計,以危國邀功者,每諸將告捷,輒累日不怡。元濟平,以功加兼侍中,封許國公。李師道誅,弘大懼,因請入朝,冊拜司徒、中書令,以足疾,命中人掖拜,固願留京師。帝崩,攝冢宰。俄出為河中節度使。以病請還,復拜司徒、中書令。卒,年五十八,贈太尉,謚曰隱。

初め、弘が汴より来朝したとき、馬三千・絹五十万・その他の錦彩三万を献上したが、汴の庫廄にはなお銭百万緡、絹も百余万、馬七千、糧三百万斛こく、兵械は数えきれなかった。弘は人となり荘重で寡言、人を罪して殺すときは、法がどうなっているかを問い、自ら軽重を為さず、沈謀勇断であったので、少誠・師道らは皆これを憚った。詔使が至っても、時に傲慢で礼を為さなかった。斉・蔡が平定され、勢い屈して後に覲見を請うたが、天子は尊寵して異等とし、名位を以て始終することができたのも、またその天幸であった。

原文始,弘自汴來朝,獻馬三千、絹五十萬、它錦彩三萬,而汴之庫廄錢尚百萬緡,絹亦百餘萬,馬七千,糧三百萬斛,兵械不可數。弘為人莊重寡言,罪殺人,問法何如,不自為輕重,沈謀勇斷,故少誠、師道等皆憚之。詔使至,或驁侮不為禮。齊、蔡平,勢屈而後請覲,然天子尊寵異等,能以名位始終,亦其天幸。

弘の子に公武あり。

原文弘子 公武

子の公武は、字は従偃。衛尉主簿より起家し、宣武行営兵馬使となり、蔡討伐の功により検校左散騎常侍・鄜坊等州節度使となった。弘が入朝すると、右金吾将軍となった。弘が河中に出ると、弘の弟の充が宣武に移り、公武は言う、「二父が重鎮に居り、我が孺子また執金吾の職に当たるべきか」と。よって固く辞し、右驍衛大将軍に改められた。性恭遜にして、富貴を以て自ら処さなかった。卒し、戸部尚書を贈られ、謚して恭という。

原文子公武,字從偃。起家衛尉主簿,為宣武行營兵馬使,以討蔡功檢校左散騎常侍、鄜坊等州節度使。弘入朝,為右金吾將軍。弘出河中,弘弟充徙宣武,乃曰:「二父居重鎮,我以孺子又當執金吾職乎?」因固辭,改右驍衛大將軍。性恭遜,不以富貴自處。卒,贈戶部尚書,謚曰恭。

弘の弟に充あり。

原文弘弟 充

充は、本名は璀、幼少のときもまた舅の家に依った。李元が河陽節度使となると、牙将に署せられた。李元が昭義に改めると、またこれに従った。李元はかつて賓佐に謂って言う、「充は後に貴くなるであろう、諸君は必ず善くこれに事えよ」と。まもなく、弘が宣武を領すると、親兵を主るよう召された。李元は言う、「私は君の旧を知っている、我が児は不才で、君を累わすに足らず、二女は幼い、これを托す」と。よって辞去した。累次して御史大夫を授けられた。

原文充,本名璀,少亦依舅家。李元為河陽節度使,署牙將。元改昭義,又從之。元嘗謂賓佐曰:「充後當貴,諸君必善事之。」未幾,弘領宣武,召主親兵,元曰:「我知君舊矣,吾兒不才,無足累君者,二女方幼,以為托。」遂辭去。累授御史大夫。

弘は峻法を以て臨み、人人は自ら保つことができなかった。充は謙慎にして少しも懈らず、弘が鎮に久しく在り、天子に謁見せず、自身もまた士を得ていることを思い、自ら安からず、よって入宿衛を請うた。弘はこれを許したが、すぐには遣わさなかった。後に狩猟の機に乗じ、単騎で洛陽に走った。朝廷はその節を諒とし、右金吾衛将軍に抜擢し、大将軍に転じ、軍士の虚名で令に従わぬ者七百人を斥けた。少府監・鄜坊等州節度使を歴任した。

原文弘峻法,人人不自保。充謙慎無少懈,念弘在鎮久,不入見天子,身又得士,不自安,因請入宿衛,弘許之,不即遣。後因獵,單騎走洛陽,朝廷亮其節,擢右金吾衛將軍,轉大將軍,斥軍士虛名不如令者七百人。歷少府監、鄜坊等州節度使。

穆宗が立つと、幽・鎮・魏が再び乱れ、王承元が冀兵二千を率いて滑州に屯した。朝廷は冀兵が相い訹いて叛くことを恐れ、承元を鄜坊に移し、充に検校尚書左仆射を授け、義成軍節度使とした。ちょうど汴軍が李願を逐い、李が留後事を主った。帝は充が平素より汴の士卒に悦ばれ向かわれていると考え、詔して宣武を節度させ、兼ねて義成兵を統率して討伐させた。郭橋で戦い、これを破った。ちょうど李質が斬られると、遂に汴に入った。初め、陳許の李光顔もまた詔を受けて討伐し、尉氏に屯し、先に汴を得んと欲し、俘掠を以て軍を餌としようとした。また汴の監軍姚文寿も光顔を内に迎え入れようとした。充はその謀を聞き、馳せて城下に至ると、汴人は充を見るや、歓躍して再び貳心を抱く者はなかった。

原文穆宗立,幽、鎮、魏復亂,王承元以冀兵二千屯滑州,朝廷恐冀兵相訹為叛,徙承元鄜坊,而授充檢校尚書左仆射,為義成軍節度使。會汴軍逐李願,以李主留事。帝謂充素為汴士悅向,詔節度宣武,兼統義成兵討。戰郭橋,破之。會李質斬,遂入汴。初,陳許李光顏亦奉詔討,屯尉氏,意先得汴,欲俘掠以餌軍,而汴監軍姚文壽亦欲內光顏。充聞其謀,馳至城下,汴人望見充,歡躍無復貳者。

初め、帝は人を遣わして賊を破る期を問うた。充は対えて言う、「汴は天下の咽喉、臣はその人々をよく習っています、王師が臨めば、一月で破ることができます」と。ちょうど二旬にして即ちこれを克った。帝は喜んで言う、「充の敵を料ることは神の如し」と。検校司空を加えられた。脅かされて兵とされた者三万を籍し、悉くこれを放った。また首乱の者千余人を責め、境外に斥け、令して言う、「敢えて後に留まる者は斬る」と。これにより内外安堵し、汴人はこれを愛頼した。卒、年五十五、司徒を贈られ、謚して粛という。

原文始,帝遣人問破賊期,充對:「汴,天下咽喉,臣頗習其人,然王師臨之,一月可破。」方二旬即克。帝喜曰:「充料敵若神。」加檢校司空。籍所脅為兵者三萬,悉縱之。又責首亂者千餘,斥出境,令曰:「敢後者斬!」由是內外按堵,汴人愛賴之。卒,年五十五,贈司徒,謚曰肅。

充は将家の出ながら、性質は倹約を旨とし、三鎮を歴任するも、住居や衣服・玩好は儒者の如く、機に乗じて決策を下すに余念なく、世に善将と推された。李元が没すると、充はその二女を嫁がせ、その家を周旋した。弘が汴を去ってより、監軍は軍中より敢闘の士二千を選び閣下に直らせ、日々酒肴を賜り、物力は幾ばくか尽きんとしたが、敢えて廃さなかった。充が未だ入らざりし時、李質が軍事を総べ、乃ち言うには、「韓公が至りて頓に二千人の食を去らば、豈に人心を失わざらんや。去らざれば、且つ継ぐこと無からん。弊事を以て吾が帥に遺すべけんや」と。因って悉くこれを罷めて後に充を迎えた。

原文充雖將家,性儉節,歷三鎮,居處服玩如儒先生,乘機決策無余悔,世推善將。李元沒,充為嫁二女,周其家。自弘去汴,監軍選軍中敢士二千直閣下,日秩酒肴,物力幾屈,然不敢廢。充未入時,李質總軍事,乃曰:「韓公至而頓去二千人食,豈不失人心乎?不去,且無以繼,可以弊事遺吾帥乎!」因悉罷之而後迎充。

李質は、節義の士なり。初め牙将たり、留後に及び、帥節を邀うも、これを勧めて従わず。疽が首に発し、質に兵を委ね、遂に禽せらる。終に金吾将軍に至る。

原文李質者,節士也。始為牙將,及為留後,邀帥節,勸之不從。疽發於首,委質以兵,遂禽。終金吾將軍。

贊

原文贊

贊して曰く、臯・建封・弘は本諸生たり、震は田畝の間より興り、未だ以て人に異なること有らず。及んで隙に投じて龍驤たり、皆な国を梁楹と為し、光奮すること一時なり。使えり遭遇せずんば、庸夫と汩々として並び胔して腐るべし。臯・弘は陰慝と雖も、卒に能く誠言を以て自ら解し、長く天年を没す、宜なるかな。

原文贊曰:臯、建封、弘本諸生,震興田畝間,未有以異人,及投隙龍驤,皆為國梁楹,光奮一時。使不遭遇,與庸夫汩汩並胔而腐可也。臯、弘雖陰慝,卒能以誠言自解,長沒天年,宜哉!