新唐書

巻一百五十七 列傳第八十二 陸贄

陸贄、字は敬輿、蘇州嘉興の人なり。十八歳にして進士に及第し、博學宏辭科に中る。鄭尉に補せられ、罷めて帰る。壽州刺史張鎰は重名あり、贄往きて見ゆ、語ること三日、之を奇とし、忘年交たらんことを請う。既に行くに及び、錢百萬を餉る、曰く「母夫人一日の費と為さんことを請う」と。贄納れず、止むことを得ず茶一串を受く、曰く「敢えて公の賜を承けざらんや」と。書判拔萃に以て渭南尉を補す。

德宗立ち、黜陟使庾何等十一人を遣わして天下を行かしむ。贄使者に説き、五術を以て風俗を省み、八計を以て吏治を聴き、三科を以て雋乂を登し、四賦を以て財實を經め、六德を以て罷瘵を保ち、五要を以て官事を簡にすることを請う。五術とは曰く「謠誦を聴きて其の哀樂を審らかにし、市賈を納れて其の好惡を觀、簿書を訊ねて其の爭訟を考へ、車服を覽て其の儉奢を等しくし、作業を省みて其の趣舍を察す」と。八計とは曰く「戶口の豐耗を視て撫字を稽へ、墾田の贏縮を視て本末を稽へ、賦役の薄厚を視て廉冒を稽へ、案籍の煩簡を視て聽斷を稽へ、囚系の盈虛を視て決滯を稽へ、奸盜の有無を視て禁禦を稽へ、選舉の眾寡を視て風化を稽へ、學校の興廢を視て教導を稽す」と。三科とは曰く「茂異、賢良、幹蠱」と。四賦とは曰く「稼を閱して稅を奠め、產を度して征を衰し、丁壯を料して庸を計ひ、商賈を占して利を均す」と。六德とは曰く「老を敬ひ、幼を慈しみ、疾を救ひ、孤を恤ひ、貧窮を賑ひ、失業を任す」と。五要とは曰く「兵の冗食を廢し、法の撓人を蠲ぎ、官の不急を省み、物の無用を去り、事の非要を罷む」と。時に皆其の言を韙とす。監察御史に遷る。

帝東宮に在りし時、既に其の名を聞く。召して翰林學士と為す。時に馬燧賊を河北に討つも、久しく決せず、師の濟るを請う。李希烈襄城を寇す。詔して策の安くより出づるかを問う。贄言う。

遠きを服するに勞するは、近きを脩むるに若かず。多方を以て失を救ふは、行ひを改むるに若かず。今幽・燕・恒・魏の勢は緩にして禍輕く、汝・洛・滎・汴の勢は急にして禍重し。田悅覆敗の餘、復た遠略無く、王武俊は勇有りて謀無く、朱滔は疑多くして決少く、互ひに制劫し、急なれば則ち合力し、退けば則ち憎みを背き、越軼の患ひ有る能はず、此れ緩と謂ふなり。希烈は奔ぜいに果にして、傷殘を忍び、蔡・許の富全の地に據り、而して鄧・襄の虜獲の實を以て益し、東に寇すれば則ち餉道阻まれ、北に窺へば則ち都邑震ふ、此れ急と謂ふなり。代・朔・邠・靈は昔よりの精騎、上黨・盟津は今の選師、舉げて之を山東に委ぬれば、將多くして勢分かれ、兵廣くして財屈す、則ち屯戍は太繁に失す。李勉は文吏なり、而して汴の必爭の地に當たり、哥舒曜の眾は烏合なり、襄城の方銳の賊を扞ぐ。本より素習に非ず、首鼠して前に莫く、則ち守禦は不足に失す。今若し李芃を還して河陽にし東都を援けしめ、李懷光に襄城の圍を解かしめ、專ら太原・澤・潞の兵を以て山東に抗せしめば、則ち梁・宋安んず。

又言う。

國を立つるの權は、輕重を審らかにするに在り。本大にして末小なれば、以て能く固くす。故に天下を治むる者は、身の臂を使ひ、臂の指を使ふが若く、小大適稱して悖らざるなり。王畿は四方の本なり。京邑は王畿の本なり。其の勢は京邑を身の如くし、王畿を臂の如くし、而して四方を指の如くすべきなり、此れ天子の大權なり。是を以て前世は天下の租稅を轉じ、郡縣の豪傑を徙して、以て京師を實にす。太宗府兵八百所を列置し、而して關中五百、天下を舉げて關中に敵せず、則ち重きを居めて輕きを馭するの意なり。方に世承平久しく、武備微なりし故に、祿山外重の勢に乘じ、一舉にして兩京を覆す。然れども猶ほ諸牧に馬有り、州縣に糧有りし故に、肅宗中興することを得たり。乾元の後、外虞踵いて發し、師を悉くして東に討つ、故に吐蕃虛に乘じ、而して先帝與に禦するもの莫し、是れ輕きを馭するの權を失へるなり。既に陜より還り、前事を懲乂し、稍く禁衛を益す、故に關中に朔方・涇原・隴右の兵有りて西戎を捍ぎ、河東に太原の兵有りて北虜を制す。今朔方・太原の眾既に山東に屯し、而して神策六軍悉く關外に戍る。將能く盡く敵せず、則ち師の濟るを請ふ。陛下之が爲に邊軍を輟め、環衛を缺き、內廄の馬・武庫の兵を竭くし、將家子を占めて以て師を益し、私畜を賦して以て騎を增す。又財の乏しきを告ぐれば、則ち室廬を算し、商人に貸し、諸榷の科を設け、日日以て甚だし。萬一朱滔・李希烈の如き邊壘に負固し、都甸に竊發する者有らば、何を以て之を備へん。

夫れ關中は、王業の根本の在る所なり。關中に在る豪傑は、營衛に籍するに殊ならず。關中に在る車乘は、廄牧に列するに殊ならず。關中に在る財用は、帑藏に貯するに殊ならず。一朝急有らば、取る可し。陛下幸ひに臣が計を聽き、芃をして還軍して洛を援けしめ、懷光をして襄城を救はしめば、希烈必ず走らん。神策軍及び將家子の占めて東する者を追ひ還し、凡そ京師の稅間架・榷酒・抽貫・貸商・點召の令を、一切停めば、則ち本を端にし棼を整ふるの術なり。

帝納れず。後涇師急變す、贄の言皆效驗す。

奉天に從狩し、機務填總し、遠近調發し、奏請報下し、書詔日數百、贄初め若し思ひを經ざるが如し、逮び成るに及び、皆事情に周盡し、衍繹孰復し、人々曉する可し。旁吏承寫して給はず、他の學士筆閣して下すを得ず、而して贄はい然として餘有り。

初め、帝倉卒變故に際し、每自ら克責す。贄曰く「陛下咎を引くは、堯・舜の意なり。然れども寇を致す者は乃ち群臣の罪なり」と。贄の意は盧杞等を指す。帝杞を護り、因りて曰く「卿朕に過を歸するを忍びず、是の言有るかな。然れども古より興衰は、其れ亦天命有るか。今の厄運は、恐らく人に在らず」と。贄退きて上書して曰く。

安史の亂より、朝廷因循涵養し、而して諸方自ら壤地を擅にし、未だ嘗て朝會せず。陛下一區宇を將せんとし、乃ち將を命じて師を興し、以て四方を討たしむ。一人征行すれば、十室資奉す。居る者は饋轉に疲れ、行く者は鋒鏑に苦しむ。去留騷然として、而して閭裏寧からず。兵を聚むる日眾く、供費日博く、常賦給はず、乃ち限を蹙めて斂を加ふるを議す。加斂既に殫れば、乃ち別に之を配す。別配足らざれば、於是に榷算の科設け、率貸の法興る。禁防滋章し、吏命に堪へず。農桑追呼に廢し、膏血笞捶に竭く。兆庶嗷然として、而して郡邑寧からず。邊陲の戍は以て封疆を保ち、禁衛の旅は以て巡警を備ふ、邦の大防なり。陛下悉くして東征し、邊備空屈し、又私牧を搜し、將家を責めて以て兵籍馬を出さしむ。夫れ私牧者は、元勛貴戚の門なり。將家者は、統帥嶽牧の後なり。其の復除征徭舊し。今其の畜牧を奪ひ、其の子孫を事とし、丐假して以て資裝を給し、破産して以て卒乘を營む。元臣貴位、孰か解體せざらん。方に侯王の廬を稅し、裨販の緡を算し、貴きは優れしを見ず、近きは異なるを見ず、群情囂然として關畿寧からず。

陛下はまた、あらゆる制度が弛緩廃頽しているとおっしゃるが、それならば義を以て恩を覆い隠し、法を任せて治を成し、裁断はあまりに迅速に失し、察することはあまりに精細に傷つく。裁断が速やかすぎれば人に対して寛恕が少なく、疑わしいものは弁明を許さず、察することが精細すぎれば物事に対して猜疑が多く、憶測は必ずしも然らず。寛恕が少なければ下は禍を恐れ、故に反覆の兆しが生じ、猜疑が多ければ下は嫌疑を防ぎ、故に姑息の患いが起こる。これにより叛乱が相次いで起こり、怨嗟の声が並び起こり、尋常ならざる憂いを、ただ人主のみが聞かないのである。凶暴な兵卒が堂々と行進し、白昼に宮闕を犯し、重なる門には結草の防禦もなく、環衛の兵には誰何する者もない。陛下には股肱の臣、耳目の補佐があっても、危険を見て誠を尽くすことができず、難に臨んで死を効することができない、これこそ群臣の罪である。

陛下は今まさに興衰を天命に委ねようとされているが、これもまた誤りである。『書経』に言う、「天の視るは我が民の視るに由り、天の聴くは我が民の聴くに由る」と。すなわち天の視聴は、すべて人に因っており、人事の外に自ら天命があるのではない。紂王の言葉に、「我が生くるや天命あらざるや」とある。これは人事を捨てて天命を推すもので、必ずしも理に適うものではない。『易経』に言う、「天より之を祐す」と。孔子はこれを、「祐とは助けなり。天の助けるところは順なり、人の助けるところは信なり。信を履みて順を思う、是を以て之を祐す」と解した。『易経』が天人祐助の間を論ずるには、必ずまず履行を先とし、吉凶の報いは象に現れる。この天命が人にあることは、まことに明らかである。人事が治まって天が乱を降すことは、未だこれあらず、人事が乱れて天が康寧を降すことも、未だこれあらず。なお疑わしいものがあるならば、近き事を以て信じさせていただきたい。

近年兵乱が起こって以来、物力は消耗し尽くした。人心は風濤の如く驚き疑い、湧き立って定まらず、一族で謀り集まって議し、必ず変事があると言う。ならば京師の人々は、固より皆が占術に通じ天命を暁っているわけではない。ならば寇賊を招いた原因は、果たして運命が当然としたものか。治世は時に乱を生み、乱は時に治を助ける。難なきが故に亡び、多難にして興るものあり。治が乱を生むとは、治を恃んで修めざるによる。乱が治を助けるとは、乱に遭いながらよく治めるによる。難なきにして失うとは、万機の重さを忽せにし、憂畏を忘れるによる。多難にして興るとは、諸事の艱難を渉り、戒慎を知るによる。今、乱を生み秩序を失った事は追うべからず、治を助け邦を興す業は、刻励して謹んで修めるにある。至危の機に当たり、その道を得れば興り、失えば廃れる。その間には再び悔いる余地もない。ただ勤めて思い、熟して計るのみである。己を捨てて衆に従い、欲に背いて道に遵い、諂佞を遠ざけ、忠直を親しみ、至誠を推し、逆詐を去る。この道は甚だ知り易く、甚だ行い易く、神を消耗せず、力を労せず、ただ心に約するのみである。何ぞ乱人を憂え、何ぞ厄運を畏れ、何ぞ不寧を患わんや。

帝はまた陸贄に、今日に切実な事柄を問うた。陸贄は帝を諫めて言った、「群臣に日を参じて、思い切って得失を言わせるべきです。もし軍務について対する者は、時を選ばずに引見し、倦まずに聴き入れなさい。天下の智を兼ねて以て聡明と為すのです」と。帝は言った、「朕はどうして誠を推さないことがあろうか。しかし上封する者を見るに、ただ人の短長を讒斥するのみで、類として忠直ではない。かつて君臣一体と謂ったので、信を推して疑わなかったが、ついに諂佞の人がこれを売って威福とした。今の禍は、誠を推した弊害である。また諫める者は密でなく、必ず曲を朕に帰して、自ら名を取る。朕が位を嗣いで以来、事を言う者を見ることも多いが、大抵は雷同して道聴し、質すと窮する。故に近頃は次に対することを詔さなかった。どうして倦んだと言えようか」と。陸贄はこれにより極諫して言った。

昔、噎せたために食を廃する者がおり、また溺れることを恐れて自ら沈む者もあった。その患いを防ぐことは、あまりに過ぎたのではないか。願わくは陛下これを鑑とし、小さな憂いによって大道を妨げないでください。臣は聞く、人の助けるところは信にあり、信の本は誠にあると。一たび誠でなければ、心はこれを保つことができず、一たび信でなければ、言はこれを行うことができない。故に聖人はこれを重んじる。『礼記』に伝えて言う、「誠は物の終始なり、誠なければ物なし」と。物とは事である。言うに誠がなければ、事とすべきものはない。匹夫が誠でなければ、再び事とすべきものはなく、まして王者は人の誠に頼って自らを固めるのに、人に対して誠でなくてよいのか。陛下の謂う、誠信によって害を招くというのは、臣はひそかにこれを非とする。孔子は言われた、「言うべき者に言わざれば、人を失う。言うべからざる者に言えば、言を失う。智者は人を失わず、また言を失わない」と。陛下はその言を審らかにして信じないわけにはいかず、与えるところを慎んで誠でないわけにはいかない。いわゆる民とは、最も愚にして神である。蚩蚩たる輩は、あるいは昏くあるいは鄙しい、これは愚に似ている。しかし上の得失はことごとく弁えずといえず、好悪は知らずといえず、秘するものは伝わらずといえず、為すところは效わずといえず。智を以て馭すれば詐り、疑いを示せば怠惰となる。礼を以て接しなければその義に殉ずることを軽んじ、情を以て撫でなければその忠を效うことを薄くする。上に行えば下これに従い、上に施せば下これに報いる。影が形に附くが如く、響きが声に応ずるが如し。故に言う、「天下の至誠のみ、能く其の性を尽くす」と。己に尽くさずして人に尽くすことを責め、前に誠でなくして後に誠であることを望めば、必ず欺かれて信じられない。今、方鎮に国に対して誠でない者がいれば、陛下は師を興してこれを伐ち、臣下に上に対して信でない者がいれば、陛下は令を下してこれを誅する。有司が命を奉じて敢えて赦さないのは、陛下の所有するもので彼の無いものを責めるからである。故に誠と信は、須臾も己から去るべからず。願わくは陛下これを慎んで守り、力を尽くして行い、恐らくこれを悔いる所以ではないでしょう。

『春秋左氏伝』に言う、「人誰か過ちなからん。過ちて能く改むるは、善なることこれより大なるは莫し」と。仲虺は成湯の徳を称えて言った、「過ちを改むるに吝かならず」と。吉甫は宣王の功を美して言った、「袞職に闕あり、仲山甫これを補う」と。夫れ成湯は聖君、仲虺は聖輔である。聖輔が聖君を賛えるのに、その過ちなきを称えず、その過ちを改むるを称えた。周の宣王は中興の賢王、吉甫は文武の賢臣である。その主を歌誦するのに、その闕なきを美とせず、その闕を補うを美とした。すなわち聖賢の意は、過ちを改むることを貴び、明らかに甚だ明白である。およそ過差は、上智下愚も免れず、ただ智者は改めて善に至り、愚者は恥じて非に至るのである。中古以降、その臣は尚諛し、その君もまた自ら聖と為し、盛徳を掩い、小道を行い、ついには入れば造膝し、出れば詭辞し、奸はここより滋し、善はここより沮まれ、天子の意はここより惑い、諍臣の罪はここより生じ、媚道が行われて害はここより甚だしくなる。太宗には文武仁義の徳、治めて太平に致す功があり、盛であると言えるが、しかし人々は今に至るも諫めに従い過ちを改めることを称首とする。これにより諫めてよく従い、過ちてよく改むることが、帝王の大なる業であることを知る。陛下が諫官の事を論じ、善を引きて自らに与え、過ちを上に帰する者は、確かにその美ではないが、しかし盛徳には未だ虧けるところはない。受け入れて背かざれば、伝わるに足ってかえって美を増し、拒んでこれに背けば、どうして伝えざることを禁じられようか。このことを以て進言の路を塞ぐべきではない。

聖人は細微を忽せにせず、鰥寡を侮らず、誇大な言で験なきは必ずしも用いず、質実な言で理に当たれば必ずしも背かず、志に遜れば必ずしも然らず、心に逆らえば必ずしも否まず、人に異なれば必ずしも是とせず、衆に同じければ必ずしも非とせず、辞拙にして效迂遠な者は必ずしも愚とせず、言甘くして利重き者は必ずしも智とせず。実を以てこれを考うるに、ただ善の在る所に従えば、以て天下の心を尽くすことができる。およそ人情は信ずる所に蔽われ、疑う所に沮まれ、軽んずる所に忽せにされ、欲する所に溺れる。信が偏れば言を聴いてその実を尽くさず、故に過当の言あり、疑い甚だしければ実と雖もその言を聴かず、故に失実の聴きあり。その人を軽んずれば重くすべき事を遺し、その事を欲すれば棄つべき人を存す。もしその私を恣にし、その実を考えざれば、すなわち天下の心を失うのである。故に常情の軽んずる所を、聖人の重んずる所とし、必ずしも高きを慕い異を好む必要はない。

陛下はまた、雷同の説を以て、質を加へれば則ち窮すと為す。臣は謂ふ、陛下は其の辞を窮すと雖も未だ其の理を窮せず、其の口を服せしむる能ふと雖も未だ其の心を服せしむる能はざるなり。且つ下の情は上に達せんと願はざるは莫く、上の情は下を知らんと求めざるは莫し。然るに下は常に上に達し難きを苦しみ、上は常に下を知り難きを苦しむ。是の若き者は何ぞ。九弊去らざるなり。所謂九弊とは、上に六有り、下に三有り。人に勝たんと好み、過を聞くを恥ぢ、弁給を騁け、聰明を衒ひ、威厳を厲し、強愎を恣にす、是れ上の弊なり。諂諛・顧望・畏懦、是れ下の弊なり。勝たんと好みて過を恥づれば、必ず佞辞を甘んじ、直言を忌み、則ち諂諛の者進みて、忠実の語聞こえず。弁を騁け明を炫かせば、必ず言を以て人を折り、詐を以て人を虞ふ、則ち顧望の者自ら便にして、切摩の益盡きず。威を厲し愎を恣にせば、必ず情を降して物に接し、咎を己に引くこと能はず、則ち畏懦の者至りて、情理の説申さず。人の知り難きは、堯・舜の病と為す所、胡ぞ一酬一詰を以てして、其の能を盡せりと謂はんや。夫れ天下を治めんと欲して、人心を得るに務めざれば、則ち天下固より治まらず。人心を得るに務めて、下に接するに勤めざれば、則ち心固より得られず。下に接するに務めて、君子小人を辨ぜざれば、則ち下固より接すべからず。君子小人を辨ずるに務めて、直を悪み諛を嗜めば、則ち君子小人固より辨ずべからず。和に趨り媚を求むるは、人の甚だ利ある存する所なり。顔を犯し禍を冒すは、人の甚だ害ある存する所なり。上に居る者其の言を易へて美利を以て之を利せしむるも、猶ほ忠告の暨らざるを懼る、況んや疏隔にして猜忌する者をや。

是の時、賊未だ平らず、帝は明年遂に改元せんと欲し、而して術家爭ひて言ふ、數百六に鐘し、宜しく變有るべし、天下に復始を示すべしと。帝乃ち議して更に大號を益さんとす。贄曰く、「今乘輿播越し、大憝未だ去らず、此れ人情向背・天意去就の隙なり。陛下宜しく痛く自ら貶勵すべく、美名を益して謙德を累すべからず。」帝曰く、「卿の言固より善し、然れども要は當に小有る變革すべく、朕の為に之を計れ。」贄奏して言ふ、「古の人君、德天に合するを『皇』と曰ひ、地に合するを『帝』と曰ひ、人に合するを『王』と曰ひ、天を父とし地を母として人を養ひ物を治め其の宜を得る者を『天子』と曰ふ、皆大名なり。三代而上、稱する所其の德に象り、敢へて加ふる有らざりき。秦に至りて乃ち兼ねて『皇帝』と曰ひ、流れて後世の昏僻の君に及び、始めて聖劉・天元の號有り。故に人主の重輕は、稱謂に在らず、德の何如なるかを視るのみ。若し時屯に當り變革有るべくは、咎を引き名を降すに若かず、以て天戒を祗る。且つ舊失を矯ふるは、至明なり。虛飾を損ずるは、大知なり。寧ろ冗號を加へて實患を受くると與にせんや。」帝之に從ふ。

會に興元赦令方に具はらんとす、帝稿を以て贄に付し、使はして其の詳を商討せしむ。贄帝の德を執ること固からざるを知り、困れば則ち治を思ひ、泰なれば則ち驕り易きを、激して其の意を強からしめんと欲し、即ち建言す、「非常の危に履む者は、常道を以て安んずべからず。非常の紛を解く者は、常令を以て諭すべからず。陛下兵甲を用ひ窮まり、財賦を取り竭し、變京師に生じ、盜宮闥に據る。今假王する者四兇、僭帝する者二豎、其他顧瞻懷貳する者、悉く數ふべからず。而して多難を紓げ、群心を收めんと欲すれば、惟だ赦令に在るのみ。言を以て人を動かすは、感ずる所已に淺し。言又切ならざれば、人誰か肯て懷かん。故に誠至らざれば物感ぜず、損極まらざれば益臻らざるなり。夫れ過を悔ゆるは深からざるべからず、咎を引くは盡さざるべからず、招延は廣からざるべからず、潤澤は弘からざるべからず、天下をして之を聞かしめ、廓然として一變し、人々其の欲する所を得しむれば、安くか服せざらんや。其の改革を須ふる科條は、已に別に封じて上る。臣聞く、過を知るは難しからず、之を改むるは難し。善を言ふは難しからず、之を行ふは難しと。《易》に曰く、『聖人人心を感じて天下和平す』と。夫れ感ずる者は、誠心に發して事に形はる。事或は未だ諭らざれば、故に之を言に宣ぶ。言必ず心を顧み、心必ず事に副ふ。三者相合して、乃ち感を求むべし。惟ふらくは陛下先づ其の志を斷じて、以て其の辭を施し、行ふ可き者を度りて之を宣べ、不可なる者は之を措け。言に茍くする無く、以て重ねて悔を取り。」帝之を納る。

初め、帝播遷し、府藏委棄し、衛兵褚衣無し。是に至り、天下の貢奉稍く至り、乃ち行在の夾廡に於て瓊林・大盈の二庫を署し、別に貢物を藏む。贄諫めて以爲す、「瓊林・大盈は古に傳ふる無し。舊老皆言ふ、開元の時貴臣巧を飾りて以て媚を求め、郡邑の賦稅は、當に有司に委ねて以て經用を制すべく、其の貢獻は悉く天子の私有に歸すと建言す。心を蕩し欲を侈にす、亦終に寇を餌とするに以てす。今師旅方に殷く、瘡痛呻吟の聲未だ息まず、遽に珍貢を以て私別庫にす、恐らくは群下觖望する所有らん、請ふらくは悉く出して以て有功に賜はん。後納貢するを令して必ず之を有司に歸し、先づ軍賞に給し、瑰怪纖麗を以て供ふるを得ざらしめん。是れ乃ち小儲を散じて大儲を成し、小寶を捐てて大寶を固くするなり。」帝悟り、即ち其の署を撤す。

李懷光異志有り、其の軍を怒らせて叛かしめんと欲し、即ち上言す、「兵稟薄く、神策と等しからず、以て戰ひ難し」と。李晟密かに其の變を言ひ、因りて移屯を請ふ。帝贄を遣はして懷光に見え議事せしむ。贄還り奏す、「懷光寇奔るるを追はず、師老ゆるを用ひず、群帥進まんと欲すれば、輒ち其の謀を沮止す。此れ必ず反す、宜しく之を制する所有るべし」と。因りて帝を勸めて晟の移軍を許さしむ。初め、贄懷光と語り晟に及ぶ、懷光妄りに詫て曰く、「吾晟に藉ること無し」と。贄即ち其の強雄を美しめて、翻覆するを得ざらしむ。是に至り、詔書を下して其の意の如き者にし、且つ朝に歸りて短を言ふ辭無からしめんと請ふ。又建つ、「李建徽・陽惠元を遣はして晟と俱に東渭橋に屯せしめ、托言して晟兵寡く賊を支ふるに足らずとし、俾く掎角たらしめん」と。懷光遣はすことを欲せざると雖も、且つ辭窮まり、以て沮解する無し。帝猶して曰く、「晟移屯すれば、懷光固より怏怏たり、若し又建徽等を遣はして俱に東せば、彼將に辭と為さん。少しく之を須てん」と。晟已に營を徙す、旬を閱ずして、懷光果たして兩節度の兵を奪ふ。建徽身を挺して免れ、惠元之に死す。行在震驚し、遂に幸を梁に徙す。

道より瓜果を献ずる者有り、帝其の意を嘉し、試官を授けんと欲す。贄曰く、「爵位は天下の公器なり、軽んずべからず」と。帝曰く、「試官は虚名なり、且つ已に宰相と議せり、卿其れ嫌うこと無かれ」と。贄奏して曰く、「賞を信にし罰を必にすることは、王の資なり。爵を軽んじ刑を褻するは、衰乱の漸なり。功無くして爵を獲れば則ち軽く、罪無くして刑を肆にすれば則ち褻なり。天宝の季、嬖幸国を傾け、爵は情を以て授け、賞は寵を以て加え、綱紀始めて壊れぬ。羯胡之に乗じ、遂に中夏を乱せり。財賦賜へるに供するに足らず、而して職官の賞興れり。職員功を容るるに足らず、而して散・試の号行はれり。今病む所は爵軽きなり、法を設けて之を貴ぶも、猶ほ重からざるを恐る。若し又自ら棄てば、将に何を以てか勧めん。陛下試官を虚名と謂ふ、豈に之を思ふ熟せざらんや。夫れ国を立つるは惟だ義と権と、人を誘ふは惟だ名と利と。名は虚に近く、教に於て重し。利は実に近く、徳に於て軽し。凡そ是と非とを裁し、法と制とを立つるは、則ち其の義に存す。虚と実とを参し、軽と重とを揣むは、則ち其の権に存す。実利に専らにして之を虚を以て済さざれば、則ち物匱耗して給せず。虚名に専らにして之を実を以て副へざれば、則ち情誕謾にして趨かず。故に貨財を錫ひ、稟秩を列ねて、以て実を彰はす。品列を差し、服章を異にして、以て虚を飾る。上に居る者其の変に達し、相須ひて以て表裏と為せば、則ち国を為すの権を得たり。甲令を案ずるに、職事官有り、散官有り、勲官有り、爵号有り。其の事に賦し奉を受くるは、惟だ職事一官のみ。以て才能を叙し、以て勲徳を位す。所謂実利を施して虚名を寓すなり。勲・散・爵号は、服色・資蔭に止まりて、以て崇貴を馭し、以て功労を甄す。所謂虚名を仮りて実利を佐くるなり。今員外・試官は勲・散・爵号と同し。然るに鋒を突き禍難を排する者は是を以て之に酬ふ、重しと謂ふ可し。今瓜一器・果一盛を献ずれば則ち之を受く。彼躯命を忘るる者有りて以て相謂ふ有らん、曰く『吾が躯命は乃ち瓜果に同じ』と。瓜果は草木なり。草木の若くんば、人何を以てか勧めん。夫れ田父野人は必ず其の歓心を得んと欲せば、厚く之を賜ふ可きなり」と。

俄に労を以て遷り諫議大夫と為り、仍て学士と為る。時に鳳翔節度使李楚琳は張鎰を殺して位を得、数へて貢奉すと雖も、議者頗る其の両端を挟み、狙伺する所有りと云ふ。帝亦能く容れず、其の使至るも皆召すを得ず、渾瑊を以て之に代へんと欲す。贄諫めて曰く、「楚琳の罪は旧し。今議者乃ち始めて紛紜す、亦た晩からずや。且つ王を勤むるの師畿内に在る者は、急に宣ぎ亟に告ぐ、景刻差す可からず。商嶺既に回遠にして、而して駱谷又賊に扼せられ、王命を通ずる者は唯だ褒斜のみ。若し復た阻まば、則ち諸鎮の向背する者、我勝てば則ち来り、賊勝てば遂に往く。此れ幾会、差跌を容れず。楚琳に憾を逞ふしめ、敢て猖狂を為さしめ、南に要衝を塞ぎ、東に賊と合はば、則ち我咽喉梗で心膂分かる。豈に病まざらんや。今両端を顧望するは、是れ乃ち天其の衷を誘ひ、帰塗を通じ大業を済すなり」と。帝釈然たり、尽く其の使を召見し、優詔を以て労安す。

帝内外の従官を普く「定難元従功臣」と号せんと欲す。贄曰く、「宮官具僚は恪みて奔走に居り、労有りと雖も、何の功か之を云ふ。難は嘗むと雖も、何の定か之を云ふ。今奮命する者と歯す、戦士の心を沮み勲臣の憤を結ぶを恐る」と。帝乃ち止む。

京師已に平らぎ、帝渾瑊を召して奔亡の内人を訪はしめ、装を給して行在に赴かしめんと欲す。贄諫めて曰く、「大難始めて平らぎ、而して百役疲瘵の氓・重傷残廃の卒は、皆死を忍び疾を扶け、徳音を聞かんと想ふ。蓋し事に先後有り、義に軽重有り。重き者は宜く先にし、軽き者は宜く後にす。昔武王殷を克ち、未だ車を下さずして之を為す者有り、車を下して之を為す者有り。当今の務む所は、謂ふ宜く大臣をして伝を馳せ、神主を迎へ復し、郊丘を脩飭し、禋享の礼を展べ、告謝の意を申し、死義を恤ひ、有功を犒ひ、忠直を崇進し、耄耋を優問し、反側を定め、脅従を寛め、職を失へるを官し、業を廃せしを復せしむ。是れ皆宜く先にし後る可からざるなり。宮室を葺き、服玩を治め、耳目の娛、巾櫛の侍は、是れ皆宜く後にし先る可からざるなり。且つ内人は離潰の後当たり、或は将士に私せらる。昔人纓を絶つを掩ひ、盗馬を飲む者は、豈に其の愛を忘れんや。君の体然るを知ればなり。天下固より褻人多し、何ぞ必ずしも独り此れをせん」と。帝復た詔を下さず、猶ほ使を遣はして瑊に諭し資遣せしむ。

初め、劉従一・姜公輔等は材下贄に逮はること遠しと雖も、徒に単言暫謀偶有て合ふを以て、下位より台宰を建つ。而して贄は孤立一意、左右の権幸に沮短せられ、又事を言ふに回諱する所無く、陰に帝の意を失ひ、久しく宰相を得ず。京に還り、但だ中書舎人と為る。母韋猶江東に在り、帝中人を遣はして迎へて京師に還す。俄に喪を以て官を解き、客と為り東都に在り。諸方の賵遺一も取らず、惟だ韋臯は布衣の交はりを以てし、先づ聞けしが故に、致す所輒ち詔を称して之を受く。又詔して中人をして父の柩を護りて呉会より至らしめ、洛陽らくように葬る。服除け、権に兵部侍郎を知りて復た学士に召さる。入謝し、地に伏して鯁泣す。帝為に興り、容を改めて慰撫す。眷遇弥渥く、天下相と為すに属すと雖も、而して竇参素より平らかならず、之を忌む。贄亦数へて参の罪失を言ふ。貞元七年、学士を罷め、兵部侍郎を以て貢挙を知る。明年、参黜せられ、乃ち中書侍郎同中書門下平章事と為す。

帝始め楊炎・盧杞を任じ、私党を引樹し、忠良を排し、天下怨疾す。貞元後、其の失を懲艾し、宰相を置くと雖も、庶官を除用するに至りては、反覆参詰して乃ち下るを得。及び贄政を秉るに及び、始めて台閣長官に其の属を自ら薦むるを得しめ、職せざる有らば、挙者を坐せしむるを請ふ。帝初め之を許す。或は諸司の引く所は皆親党にして、賂遺を招き、実才無しと言ふ。帝復た詔して宰相に自ら択ましむ。贄奏して言ふ、「斉桓公管仲に害覇を問ふ。対へて曰く『賢を得て能く任せざるは、害覇なり。賢を任じて能く固くせざるは、害覇なり。固く始めて終はらざるは、害覇なり。賢人と事を謀りて、小人之を議するは、害覇なり』と。所謂小人とは、悉く険诐を懐ひて以て邦家を覆すに非ず。蓋し趨向狭促にして、以て議を沮むを出衆と為し、自ら異なるを不群と為し、小利に趣き、遠図に昧く、小信を效し、大道を傷るのみ。所謂台省長官とは、仆射・尚書・丞・郎・御史大夫・中丞是れなり。陛下輔相を択ぶに多く其の中より出だす。行実頓に殊ならざる可からず。今乃ち一二の属吏を進むる能はざると謂ふ、豈に後位宰相と為れば則ち天下の材を択ぶ可き乎。夫れ才を求むる者は広きを貴び、課を考ふる者は精なるを貴ぶ。往く武后人心を収め、務めて抜擢す。徒に人を得て士を薦むるのみならず、亦自ら其の才を挙ぐるを許す。豈に易からざらんや。然るに課責厳しく、進退速かなり。故に当世知人の明を称し、累朝多士の用に頼る。陛下賞鑒独り任じ、公挙に難し。登延の路有りて、練核の方無し。武后は易を以て人を得、陛下は精を以て士を失ふ。今宰相を択ぶには庶品より重くし、長官を選ぶには下流より愈る。及び宰相言を献じ、長吏士を薦むれば、則ち又横議を納れ、始謀を廃す。是れ重きを以て任ずる者は其の言を軽くし、軽きを以て待つ者は其の事を重くするなり」と。帝之を嘉すと雖も、然れども卒に士を薦むる詔を停む。

旧制では、吏部の選任は毎年集めて行った。乾元(758-760年)の後、天下に兵乱が起こり、おおむね三年に一度の人事異動となり、官吏の員数が滞積し、公文書は錯綜し、偽りを冒して真を蒙り、吏がこれに乗じて奸をなすようになり、任免に綱紀なく、十年も異動を受けない者もあり、欠員が数年にわたって補充されないこともあった。贄は内外の官職を三分し、毎年欠員を計算して人を集め、吏の奸を検挙し、天下に便利をもたらした。

当時、賈耽・盧邁・趙憬がともに政を輔けていたが、役所からの報告があれば、三人は互いに顔を見合わせて判を押そうとしなかった。贄はまた旧例のように、十日ごとに一人が筆を執り、諮問があれば即座に判を押すよう請うた。

また、西北辺境では毎年河南・江淮の兵を徴発し、これを「防秋」と称していたが、兵士は平素から訓練されておらず、戦えばしばしば敗れ、将帥の統制は一様でなく、敵に応ずる術がなかった。そこでその弊害を上奏して陳べた。

安禄山が乱を構えて以来、粛宗は辺境の守備を撤去し、以て中邦を靖んじ、外威を借りて内難を寧んじた。ここにおいて吐蕃は隙に乗じ、回紇は功を誇り、中国は振るわず、四十余年を経た。傷み疲れた民を率い、力を尽くしてこれに事え、西には賄賂の絹を輸送し、北には馬の代価を償っても、なおその意を満たすに足りなかった。そこで四方から税を徴発し、以て辺境に屯田させたが、またその侵攻を阻むこともできなかった。故に小規模な侵入があれば略奪を許し、大規模な侵入があれば戒厳を敷いた。当時、辺境の安定を議論する者は、皆、困難なことに努め、容易なことを軽視し、短所を強いて長所を疎かにし、実行しても要領を得ず、計画しても功績が成らなかった。

勢いには難易があり、事には先後がある。力が大きく敵が脆ければ、まず困難なことに取り組む。これは人の心を奪うというものである。力が少なく敵が堅ければ、まず容易なことに取り組む。これは隙を窺って動くというものである。今、財は内に乏しく、民は労苦から癒えていないのに、師徒を発して狡猾な敵の境を犯し、侵された疆土を回復し、その堅城を攻めようとすれば、前には勝敗の定かならぬ憂いがあり、後には糧食輸送が続かぬ患いがある。万一敗れれば、まさに戎の心を啓き、国威を挫くことになる。これをもって辺境を安んずるのは、勢いを量らずして困難なことに努めるというべきである。天の授けるところには分があり、地の産するところには宜しきがある。故に五方の習俗は、長短それぞれに異なる。短所を強いて長所に敵する者は危うく、長所を用いて短所に乗ずる者は強い。また、水草を以て居とし、狩猟を以て生業とし、馳突に便利で、敗亡を恥じない。これは戎狄の長所であり、中国の短所である。それなのに兵を増やし車馬を捜し、争って駆け、力を競い、原野の上で鋒を交え、尋常の間で命を決しようとする。これをもって寇を防ぐのは、短所を強いてその長所と較べるというべきである。困難なことに努め、短所を強いることは、労費百倍にして終に成功なく、仮に成し遂げたとしても、挫けなければ廃れる。誠に天の授けに越え、地の産に違い、時勢を損ない、物の宜しきに反するものである。どうして守るべき容易なことを守らず、用いるべき長所を用いないのか。

将吏を選び、紀律を修め、師徒を訓練し整えること。徳を耀かして威を佐け、近きを能くして遠きを示すこと。侵暴を禁じて我が信を彰わし、攻取を抑えて我が仁を昭かにすること。彼が和を求めればこれを善しとしても盟を結ばず、彼が寇となればこれを備えても報復しないこと。これらは当今の容易なことである。力を賤しみ智を貴び、生を好み殺を悪むこと。利を軽んじ人を重んじ、小を忍んで大を全うすること。その居を安んじて動き、その時を俟って後に行うこと。封疆を修め、要害を守り、けい塹隧せんずいを設け、屯営を列ね、禁防を謹み、斥候を明らかにし、農に務めて食を足し、万全でなければ謀らず、百勝でなければ闘わないこと。寇が小規模に来ればその侵入を阻み、寇が大規模に来ればその帰路を遮り、険に拠ってこれに乗じ、方々を以てこれを誤らせ、その勇を加えるところなく、その衆を用いるところなく、掠めれば獲るものなく、攻めれば能わず、進めば腹背に敵を支える憂いがあり、退けば首尾相救わぬ患いがあるようにする。これを弊に乗じ、戦わずして人の兵を屈すという。これが中国の長所である。我が長所は、戎狄の短所である。我が容易なことは、戎狄の困難なことである。長をもって短を制すれば、力を用いること少なくして功を見ること多く、易をもって難に敵すれば、財乏しまずして事速やかに成る。これを捨てて努めず、却ってその乗ずるところとなるのは、戈矛を倒に持ち、鐏(じゅん、矛の柄の末端)を寇に授けるというものである。今、皆これに努めているのに、なお封疆の守り固からず、寇戎が懲りないのはなぜか。病は、謀に定まった用がなく、衆に適う従い先がないことにある。任ずる者は必ずしも才ならず、才ある者は必ずしも任ぜられず、聞くことは必ずしも実ならず、実は必ずしも聞かれず、信ずることは必ずしも誠ならず、誠は必ずしも信ぜられず、行うことは必ずしも当たらず、当たることは必ずしも行われない。

また六つの失いがある。兵には攻討の兵と鎮守の兵がある。権をもって難をゆるめ、暫くもって機に応じ、事に便宜あり、謀に奇詭あり、常制をおしまず、衆情にしたがわず、死生進退、ただ将の命ずる所に従う。これが攻討の兵である。人情というものは、利あれば勧み、習えば安んじ、親戚を保って後に生を楽み、家業を顧みて後に死を忘れる。治術をもって馭することができ、法制をもって駆ることはできない。これが鎮守の兵である。王者が封疆を備え、戎狄を防ごうとするならば、鎮守の兵を選んでこれを置く。古の善く選置する者は、必ずその土宜をべんじ、その技能を察し、その好悪を知った。その力を用いてその性に違わず、その俗をととのえてその宜しきを易えず、その善を引きてその能わざる所を責めず、その非を禁じてその欲せざる所に処さない。その部伍をるいし、その家室を安んじ、然る後にこれにその居を楽しましめ、その志を定まらしめることができる。恵をもってすれば感して驕らず、威をもってすれば肅して死なず。督課せずして自ら用い、禁防を弛めてもはなれない。故に守れば固く、戦えば強い。その術は他にない。人に便なることのみである。今、遠く屯士を調発して辺陲を戍守させ、その能わざる所を求め、その欲せざる所をい、その数を広げても用に考へず、その力を責めてもその情を察しない。これは羽衛の儀礼にはなっても、備禦の実益にはならない。なぜか。窮辺の地は千里蕭条とし、寒風は膚を裂き、豺狼を隣とす。昼は戈を荷って耕し、夜は烽火に倚ってうかがい、剽害の慮りありて休暇の娛しみなし。その域に生まれ、その風に習い、幼くしてこれを見、長じてこれに安んじなければ、寧居してその敵にれるものではない。関東は百物阜殷ふいんとして、士は温飽に慣れ、諸辺隅と比べれば、天地の差がある。絶塞の荒陬こうすうを聞けば辛酸として容色を動かし、強蕃勁虜をけば慴駭しょうがいとして情をうばわる。また親族を去り、園廬を捨て、辛酸とする所を甘んじ、慴駭する所にあらがわせて、将に用いられんことをこいねがうのは、亦疏うとからぬか。また休代の期ありて統制の善きことなく、資奉は姑息で、驕子の如し。進んで成功をもとめず、退いて厳憲に処せられず、指を屈して帰りを計り、あごを張って飼いを待つ。師が一たび挫傷すれば、その危橈きどうに乗じて、路をいて東に潰える。平居には資儲をくして浮冗を奉じ、臨難には城鎮を棄てて疆場を揺るがす。その弊は豈に無益なるのみならんや。謫徙の人は、元来戸を増やし辺を実にするため、功を立てて自ら贖うものである。良き人でない上に、乱を思い災をねがうことは戍卒よりも甚だしく、防衛の煩わしさがあるだけで、立功の益はない。前代に行われたとはいえ、固より遵ぶべきものではない。帥臣は身を辺に臨まず、偏師を以て戍守させる。大抵、士の犀銳なる者は悉く選んで自ら奉じ、疲羸なる者を委ねて要衝を守らせる。寇至れば支えられず、劫執芟蹂せんじゅうされ、ほしいままに欲する所を得られる。都府のこれを聞くにならべれば、虜は已に旋返している。兵を治めること此の如く、措置方にそむくというべきである。一つの失いである。

賞は勧めを存するため、罰は懲らしめを示すためであり、功ある者を励まし、不遜なる者を威圧するものである。故に賞罰は衆を馭するにおいて、車を行わしめる輗軏の如く、馬を服させる銜勒の如きものである。今、将の号令は軍に施行できず、国の典刑は将に施すことができず、上下ともに養いを遵奉し、ただ歳月を過ごすのみである。一人の有功者を褒賞しようとすれば、無功者の怨みを慮り、嫌疑を避けて賞せず;一人の有罪者を責めようとすれば、同悪者の恐れを畏れ、隠忍して誅さない。故に身を忘れて節を尽くす者は衆の誹謗に遭い、軍を覆し救援を緩める者は奸を蓄えて畏れず、褒貶と称毀とが紛然として乱れる。公なる者は己を直くして人に求めず、困厄に陥り;奸なる者は私を行い衆に媚び、優崇を得る。これが義士勇夫が痛心して解体する所以である。また、敵に遇って守り固からず、謀を陳べて功成らざる場合、将帥を責めれば、将帥は資糧足らざると言い、有司を責めれば、有司は供給欠かさずと言い、互いに弁解し合い、朝廷は含糊として、未だ究めて詰問したことがない。故に直を抱く者は声を呑み、上を欺く者は慚じない。衆を馭するこの様は、課責の度を虧いたと言えよう。これが第二の失である。

課責の虧きと措置の乖離により、将はその才を尽くすことができず、卒はその力を尽くすことができず、屯集する兵は多くとも、戦陣に施すところなく、虜は常に横行し、境に人無しと謂うに至る。吏はその常に習い、ただ兵少なくして敵わぬと言い、朝廷はこれを省みず、さらに師を調発して益すも、備禦には裨益なく、供億には弊害がある。閭井は日々消耗し、徴斂は日々繁くなり、家を傾け産を析き、塩を専売し酒に税をかけ、およそ収入の半は辺境の事に用いられる。制用この如きは、財が兵衆のために匱すると言えよう。これが第三の失である。

今、四夷の中で最も強盛な者は、吐蕃に如くはない。吐蕃の衆を挙げても、中国の十数の大郡に当たらず、内に虞り外に備えることは中国と異ならぬが、辺境を寇すことができる所以は少ない。また、器は犀利でなく、甲は精完せず、材は敏捷でない。動けば中国はその衆を慹れて敢えて抗せず、静まればその強を憚って敢えて侵さない。何故か。まさに我が節制多く、彼の統帥一なるが故である。かつ節制多ければ、人心一ならず;人心一ならざれば、号令行わず;号令行わざれば、進退必ずしも難く;進退必ずしも難ければ、疾徐宜しきを失い;疾徐宜しきを失えば、機会及ばず;機会及ばざれば、気勢自ら衰える。これこそ勇が廃れて尫となり、衆が失って弱となる所以である。開元・天宝の時、西北の二蕃を制するには、朔方・河西・隴右の三節度使のみであり、なお権の分かるを慮り、時に詔して兼領せしめた。中興して外討に遑あらず、四鎮を僑置して安定に隷属せしめ、隴右を扶風に附せしめ、当たる二蕃に対しては、朔方・涇原・隴右・河東の四節度使のみであり、関東の戍卒をこれに属せしめた。任ずる人を得ざりしも、措置の法は存していた。賊の朱泚の乱が涇原を誘い、李懐光の反が朔方を汚して以来、朔方を分けて三節度使とし、その鎮軍は四十に近く、皆特詔をもって任じ、それぞれ中人(宦官)が監軍し、互いに抗し得た。既に軍法をもって下に臨むことなく、稟属する者なく、辺境からの書状が急を告げて初めて、関白して用兵する。これは従容として溺れる者を拯い、揖譲して焚けるを救うようなものである。兵は気と勢いをもって用いられるものであり、気は聚まれば盛んになり、散じれば消え;勢いは合すれば威あり、析ければ弱し。今の辺戍は、勢い弱く気消えている。軍を建てるこの様は、力が将の多きに分かれると言えよう。これが第四の失である。

戎を治める要は、均斉にあるのみである。故に軍法には貴賤の差・多少の異がなく、以てその志を同じくし、その力を尽くさせるのである。辺境に被る長鎮の兵は、皆百戦して傷つき、その能を角すれば習熟し、その処を度すれば危険を察知し、服役を考えば労多く、臨敵を察すれば勇ましい。然るに衣糧は当身に止まり、また家室に分かたれ、平常より凍餒する。一方、関東の戍士は、歳月ごとに更代し、敵に応ずるに怯え、労に服するに懈る。然るに衣糧は優厚で、茶薬を継ぎ、蔬醬を資する。豊かさと寡しさの相懸けること、勢い遠く甚だしい。また、辺軍が詭って奏請し、遙かに神策軍に隷属する者あり、その稟賜の饒なること、三倍の益がある。これが士類が忿恨し、経費が褊匱する所以である。事業は異ならざるに、給養頓に殊なる、人情の甘んぜざるところである。戎首とならざるは、已に嘉すべき者であり、況や力を協わせ心を同じくして、寇難を攘わしめんとするにおいて、臣はそれができないことを知る。士を養うこの様は、怨みが不均より生ずると言えよう。これが第五の失である。

凡そ将帥を任ずるには、必ず先ず行能を考察し、然る後に授くる方・委ぬる要を指し示し、自ら可否を揣りせしめて、要領を見させるべきである。某の甲兵を須い、某の参属を藉り、若干の歩騎を用い、若干の資糧を計り、何れの所に列屯し、何時に成功するか、その言を観、その実を校うべし。もし取るに足らぬと言わば、初めにこれを艱難すべく、後になって悔いを遺すべからず;もし任に堪えると言わば、終わりにこれを要すべく、内にあって掣肘すべからず。故に疑う者は使わず、使う者は疑わない。抜選に労神し、委任に端拱し、然る後に否臧を核し、賞罰を信じ、賞を受くる者濫るることなく、罰に当たる者敢えて辞せず、付授専らならば苟且の心は息む。これ故に古の将を遣わす者は、君が轂を推してこれを命じ、また鈇鉞を賜い、故に軍容は国に入らず、国容は軍に入らず、機宜は遠くして決せず、号令は両従せず。今、陛下が帥を命ずるに、先ず制し易き者を求め、その部を多くして力を分からしめ、その任を軽くして心を弱からしめる。これにより、閫外を分けて責成するの義は廃れ、死綏して咎を任ずるの志は衰える。一には命を聴き、二には命を聴き、ただ承順することを取るのみで可なり、もし靖難を意図するならば不可である。両強相接し、両軍相持する時、事機の急なること、隙も留め息つく暇なく、況んや千里の遠き、九重の深きにおいて、陳述の明らかにし難く、聴覽の専らならざるに、事に遺策なからんと欲するは、聖と雖もまた能わざる所あらん。守戍する者は寡をもって敢えて抗せず、分鎮する者は詔無きをもって敢えて救わず、逗留の瞬く間に、寇は已に奔逼す。牧馬屯牛は、鞠椎剽掠され;嗇夫樵婦は、罄く俘囚となる。仮令詔至って兵を発するも、互いに顧望し、敢えて遮礙する者なく、敗者は百を減じて一と為し、獲者は百を衍して千と為す。帥守は総制朝廷に在るを以て、罪を恤れず;陛下は権己より出づるを以て、その情を究めず。帥を用いるこの様は、機が遙制に失うと言えよう。これが第六の失である。

臣愚かに謂う、四方の防秋を罷むるに宜しく、その数を析して三つとなすべし。一つは、本道の節度に責め、壮士にして辺に屯せんことを願う者を募りて徙らしむ。一つは、則ち第に本道の衣稟を以て、関内・河東に責め、蕃・夏の子弟にして軍に傅せんことを願う者を募り用いて給せしむ。一つは、輸する所の資糧を以て応募者に給し、以てその業を安んず。詔して度支に牛を市わしめ、工を召して諸屯に就き器具を繕完せしむ。至る者には家ごとに牛一頭を与え、耕耨水火の器を畢く具え、一年に二口の糧を給し、種子を賜い、播蒔を勧む。一年を須てば、則ち自給せしめ、余粟ある者は、県官倍価を以てしてこれを售る。既に調発の煩わしさを息め、又幸免の弊無く、出ずれば人自ら戦いと為し、処すれば家自ら耕すと為す。夫れ暫く屯し遽かに罷むる者と、豈に同日に論ぜんや。然る後に文武の大臣一人を建てて隴右元帥と為し、涇・隴・鳳翔より長武城に薄り、山南西道を尽くし、凡そ節度府の兵皆これに属せしむ。又一人を詔して朔方元帥と為し、鄜坊・邠寧より霊夏に揵き、凡そ節度府の兵これに属せしむ。又一人を詔して河東元帥と為し、河東を挙げ、振武を極め、節度府の兵これに属せしむ。各おの臨辺の要州を以て治所と為し、部する所の州若しくは府には、良吏を遴柬して刺史と為し、外には軍興を奉じ、内には農桑を課し、慎んで中国の長ずる所を守り、謹んで当今の易き所を行えば、則ち八利を致す可く、六失を去る可し。

帝その言を愛重すれども、従わず。

班宏度支を判じ、官に卒す。贄李巽を薦む。帝漫然とこれを許すも、自ら裴延齢を用う。贄言う、「延齢僻戾躁妄、用うべからず」と。聴かず。俄にして延齢奸佞君を得、天下仇悪すれども、敢えて言う者無し。贄上書苦諫す。帝懌せず、竟に太子賓客を以て罷む。贄本より畏慎、未だ嘗て賓客を通ぜず。延齢帝の意薄きを揣り、讒短百緒、帝遂に怒を発し、贄を誅せんと欲す。陽城等の交章論辨に頼り、乃ち忠州別駕に貶す。後稍くこれを思う。会に薛延刺史と為り、旨を諭して慰労す。韋臯数たび表を上り贄に代わりて剣南を領せんことを請う。帝猶おこれを銜み、肯うて与えず。順宗立ち、召し還す。詔未だ至らざるに卒す。年五十二。兵部尚書を贈り、謚して宣と曰う。

初め、贄翰林に入る、年尚お少く、材を以て幸せられ、天子常に輩行を以て呼びて名を呼ばず。奉天に在りては、朝夕進見すれども、然して小心精潔、未だ嘗て過ち有ること無し。ここにより帝親しく倚り、衣を解きてこれを衣せしむるに至り、同類敢えて望む者無し。外に宰相有りて大議を主つと雖も、而して贄常に中に居りて可否を参裁す。時に「内相」と号す。嘗て帝に為りて言う、「今盗天下に遍く、宜しく痛く自ら咎悔し、以て人心を感ずべし。昔成湯己を罪して以て興り、楚昭王出奔し、一言の善を以て国を復す。陛下誠に改過を吝しまず、言を以て天下に謝し、臣をして筆を持たしめて忌むる所無からしめば、庶幾くは叛者心を革めん」と。帝これに従う。故に奉天の下す所の制書は、武人悍卒と雖も感動流涕せざる者無し。後李抱真朝に入り、帝に為りて言う、「陛下奉天・山南に在りし時、赦令山東に至る。士卒聞く者皆感泣思奮す。臣この時に賊平ぐるに足らざるを知れり」と。議者謂う、興元の戡難の功は、爪牙の宣力有ると雖も、蓋し贄の助け有りと。山南に狩するや、道険澀、従官と相失い、夜贄を召すも得ず。帝驚き且つ泣き、軍中贄を得る者千金を賞すと詔す。久しくして、上謁す。帝喜び顔間に見え、太子以下皆賀す。及び政を輔くるに及びては、敢えて自ら重きを顧みず、事に可否有れば必ずこれを言い、言う所皆帝の短を剴拂し、懇到深切なり。或いはその過ぎたるを規する者有れば、対えて曰く、「吾上は天子に負かず、下は学ぶ所に負かず、皇ぞ它を恤わんや」と。既に荒遠に放たれ、常に戸を闔い、人その面を識らず。又謗を避けて書を著さず、地瘴癘に苦しむ。只《今古集験方》五十篇を為りて郷人に示すのみと云う。

賛に曰く、徳宗の亡びざるは、顧みて幸いならずや。危難の時に在りて贄の謀を聴き、及び已に平ぎ、尽言を仇み追い、怫然として讒幸を以て逐う、猶お梗を棄つるが如し。延齢輩に至りては、則ち寵任磐桓、移ろわざること山の如く、昏佞の相い済むなり。世贄の翰林を白罷するを言い、以て呉通玄兄弟と寵を争い、竇参の死に、贄その言を漏らすと為すは、非なり。夫れ君子小人両進まず、邪諂君を得れば則ち正士危うし、何ぞ訾る可けんや。贄の論諫数十百篇を観るに、時病を譏陳する、皆仁義に本づく、後世の法と為す可く、炳炳として丹の如し。帝の用いる所才に十一。唐の胙競わず、惜しい哉。