楊朝晟
楊朝晟、字は叔明、夏州朔方の人なり。興行の間、先鋒の功により甘泉府果毅を授かる。建中初め、李懷光に従い劉文喜を涇州に討ち、斬獲多く、驃騎大將軍を加えらる。李納徐州を寇す、唐朝臣に従い往きて討ち、常に軍を冠す。懷光奉天に難に赴くに属し、朝晟に兵千人を属して咸陽を下さしめ、実封百五十戸を賜う。
懷光反す、韓遊瑰邠・寧に退きて保つ。賊党の張昕邠州を守り、大いに軍実を索め、多く士を募り、潜かに之に帰せんと欲す。朝晟の父懷賓遊瑰の将たり、夜数十騎を以て昕及び同謀者を斬る。遊瑰懷賓を遣わし行在に告げしむ。徳宗労問し、兼御史中丞を授く。朝晟泣きて懷光に見え曰く「父国に功を立て、子誅さるべし、以て兵を主とすべからず」と。懷光之を縶す。諸軍河中を囲むに及び、遊瑰長春宮に営し、而して懷賓戦い甚だ力めり。懷光平らぎ、帝朝晟を原し、因りて遊瑰の都虞候と為す。父子皆開府・賓客・御史中丞、軍中栄と為す。
吐蕃辺を犯す、遊瑰自ら将りて寧州を守るも、而して士を禦ぐに寛なり、軍驕る。張献甫来たりて代わるに及び、軍遂に乱る。朝晟郊に逃る。衆監軍を脅し、范希朝を以て節度使と為さんことを請う。希朝時に已に京師に在り。明日、朝晟出で、衆を紿して曰く「予来たりて請いし所の当たるを賀す」と。衆稍く定まる。朝晟諸将を結び謀りて首悪の者を誅す。三日居り、人を紿して自ら邠より来たり遣わし曰く「前の請い報罷せり、張公已に邠を舎てたり、反する者は皆当に死すべし、吾尽く誅せんことを願わず、第に首悪の者を取らん」と。衆の讙きて指す所、二百余人を斬り、献甫遂に軍に入る。帝希朝を以て節度副使と為し、而して朝晟に御史大夫を加う。
貞元九年、塩州を城し、卒を発して境を護らしむ。朝晟木波堡に屯す。献甫卒するに会し、詔有りて代わりて邠寧節度使と為る。朝晟方渠・合道・木波を城して以て吐蕃の路を遏えんことを請う。詔問う「須いる兵幾何ぞ」と。報えて曰く「部兵にて弁ずべし」と。帝問う「前日五原を城すに、師七万を興せり、今何ぞ易きや」と。対えて曰く「塩州の役、虜先ず之を知る。今戎に薄して城せば、虜王師十万に足らざるを料り、勢軽々しく入り難し。若し部兵を発せば、十日にして塞下に至り、三旬に未だ畢らざるに城畢り、芻を積み糧を聚め、卒を留めて之を守らば、寇至るも抜くべからず、野を萊え夷を翦ぎ、虜且に走らん。此れ万全の計なり。若し大いに兵を発し、月を閲して乃至らば、虜亦来たり、来たらば必ず戦い、戦えば則ち城する暇あらざらん」と。帝其の策を納る。師方渠に次るも、水乏し。青蛇有りて険より下り走る。其の跡を視れば、水従いて流る。朝晟防を築きて之を環らしむ。遂に渟淵と為り、士飲み仰ぎて足る。其の事を図りて以て聞かしむ。詔有りて祠を置き、泉を応聖と命ず。已に城す。吐蕃衆を悉くして至るも、害すること能わざるを度り、乃ち引き去る。復た馬嶺を城して帰り、地三百里を開く。十七年、屯に卒す。
戴休顏 弟戴休璿 戴休晏
戴休顏、字は休顏、夏州の人なり。家世武を尚び、志膽常ならず。郭子儀之を引きて大将と為し、党項羌を平げ諭し、以て河曲を安んず。太常卿を試み、済陰郡公に封ぜられ、進みて咸寧郡王に封ぜられ、兼ねて朔方節度副使と為る。邠州を城する功最も、塩州刺史に遷る。朱泚反す、兵三千を率い昼夜馳せ、奔りて行在を問う。徳宗之を嘉し、実戸二百を賜う。渾瑊・杜希全・韓遊瑰等と扞禦し労有り。帝進みて梁・洋に狩り、奉天に留守す。李懷光咸陽に屯し、人をして之を誘わしむ。休顏其の使を斬り、兵を勒して自ら守る。懷光眙駭し、自ら涇陽より夜走る。検校工部尚書・奉天行営節度使に遷る。渾瑊の兵を合わし泚の偏師を破り、首三千級を斬り、中渭橋に追う。京師平らぎ、又瑊と兵を率い岐陽に趨り、泚の残党を邀う。検校尚書右僕射を加えられ、戸四百を進む。乗輿に従い京師に至り、女楽・甲第を賜わり、左龍武軍統軍に拝す。卒し、揚州大都督を贈らる。
弟休璿、開府儀同三司を歴え、東陽郡王に封ぜらる。休晏、輔国大將軍を歴え、彭城郡公に封ぜらる。俱に将略を以て称せらる。
陽惠元
陽惠元、平州の人なり。趫勇を以て奮い、平盧軍に事う。田神功・李忠臣に従い海を浮かびて青州に入る。詔して兵を以て神策に隷せしめ、京西兵馬使と為り、奉天に鎮す。
徳宗初めに立ち、稍く諸節度の跋扈する者を縄す。是に於いて李正己曹州に屯し、田悦河上の兵を増し、河南大いに擾る。詔して兵万二千を移し関東に戍らしむ。帝望春楼に御し師を誓い、因りて諸将を労遣す。酒神策に至るも、将士飲まんとせず。帝故を問う。惠元曰く「初め奉天を発するに、臣が帥張巨濟衆と約す『是の役、功を立てざれば、酒を飲むなかれ』と。臣其の言を食らわざるを敢えず」と。既に行く、道に饋る有りも、惟だ惠元の軍は瓶罍発せず。帝咨嘆已まず、璽書を以て慰労す。俄に兵三千を以て諸将に会し田悦を撃ち、御河に戦い、三橋を奪う。惠元功多し。兵を以て李懷光に属す。
朱泚反するに及び、自ら河朔より難に赴き、奉天の囲みを解く。検校工部尚書を加えられ、貝州刺史を摂す。詔して惠元をして神策行営節度使李晟・鄜坊節度使李建徽及び懷光と便橋に聯営せしむ。晟懷光将に叛かんとするを知り、屯を移し東渭橋にす。翰林学士陸贄帝に諫めて曰く「四将壘を接す。晟等兵寡く位下しく、懷光に易せらるる所と為り、勢両全せず。晟既に変を慮う、請う惠元と東に徙らんとす。則ち建徽孤立せん。宜しく晟の行に因り、両軍を合わし皆往かしめ、以て賊に備うるを解と為し、装を趣え道を進ましむべし。則ち懷光計施す所無からん」と。帝従わず、神策将李升をして往きて伺わしむ。還り奏す「懷光の反すること明らかなり」と。是の夕、二軍を奪わる。惠元・建徽奉天に走る。懷光将冉宗を遣わし騎を馳せて好畤に追い及ぶ。惠元髪を被きて天を呼び、血目眥より流出し、袒裼して戦いて死す。二子晟・暠井中に匿るも、皆害に及ぶ。建徽独り免る。詔して惠元に尚書左僕射を贈り、晟に殿中監を、暠に邠州刺史を贈る。
少子旻、字は公素。惠元の死するに、八創を被り、別井に墮つ。或る人救いて免る。邢州刺史を歴る。盧従史既に縛せらるるに及び、潞軍潰く。驍卒五千有り、従史嘗て子を以て視し所の者、旻に奔る。旻城を閉じて内れず。衆皆哭して曰く「奴帥を失う。今公完城有り、又度支の銭百万府に在り。少しく之を賜い、表して天子に旌節を求めしめよ」と。旻禍福を開諭して之を遣わす。衆感悟し、遂に軍を還す。憲宗之を嘉し、易州刺史に遷す。
王師が呉元済を討つに当たり、唐州刺史として兵を率いて二百里深く進み、申州に迫って外城を陥落させ、その城壁を破壊した。功により御史中丞を加えられた。容州の西原蛮が反乱を起こすと、本州経略招討使を授かり、これを撃破平定した。御史大夫に進み、邕管と容管の両管を合わせて一道とした。死去し、左散騎常侍を追贈された。
李元諒
李元諒は安息の人である。本姓は安氏、幼少時に宦官の駱奉先の養子となり、駱姓を冒し、名を元光といった。美しい鬚髯を持ち、勇猛果敢で謀略があった。宿衛の功労を積んで太子詹事に任じられた。李懷讓が鎮国軍節度使となった時、自らの副官として上奏し任用された。軍中に十年居て、兵士の心は畏服した。
徳宗が奉天に出奔した時、賊将の何望之が華州を襲撃し、刺史の董晉は城を棄てて逃走した。望之は兵を集めて東道を遮断しようとしたが、元諒は潼関から兵を率いて直ちにその城に迫り、これを陥落させた。当時は兵乱が起こり突然のことであったため、毛氈を鎧に巻き、蓬を削って矢とし、数日のうちに兵を募って一万余りとし、軍の士気はようやく振るった。賊が攻めて来ると、常にこれを退けた。時に尚可孤は藍田を守り、元諒は昭応に駐屯し、王権は中渭橋に陣を構えたため、賊兵は渭南を越えることができなかった。間もなく、鎮国軍節度使に遷り、武康郡王に封ぜられた。先に、詔により豳州・隴州の兵を発して東へ李希烈を討たせた。軍が関を出ようとした時、朱泚が劉忠孝を使者として派遣し召還させようとした。華陰に至ると、華陰尉の李夷簡が駅官に命じてこれを捕らえさせ、関まで追いかけ、元諒はこれを斬って示し、召還されようとした兵は入ることができず、これによって華州のみが無事であった。間もなく詔により元諒は李晟と共に京師を収復し、浐水の西に駐屯した。元諒は先に奮戦して賊と激闘し、これを破り、苑の東に進んで駐屯し、李晟は苑の垣を壊して入らせた。朱泚は連戦連敗し、遂に大敗潰走し、京師は平定された。功を李晟に譲り、自らは近郊に陣を退いた。検校尚書左僕射を加えられ、実封五百戸を賜り、邸宅・女楽・一子に六品官を賜った。
李懐光が反乱を起こすと、馬燧・渾瑊と共にこれを討った。その部将の徐廷光は平素より元諒を見下しており、幾度も罵倒し、胡人の俳優の戯れを演じて、その祖先を侮辱した。また降伏の約束をさせ、「我は漢将に降るのみ」と言った。馬燧が到着すると、燧に降った。元諒は韓遊瑰に会って言った、「彼は我が祖を罵った。今日これを斬るが、君は我を助けるか」。遊瑰は承諾した。やがて諸道で廷光に出会うと、即座にその罪を数え上げ、左右の者を叱ってこれを斬り、馬燧の下に赴き謝罪した。燧は大いに怒り、元諒を殺そうとした。遊瑰が会って言った、「一偏将を殺すのにさえこの有様である。仮に一節度使を殺せば、法はどうなるというのか」。燧は黙然とした。元諒は百万銭を献じて軍を労い自ら贖罪することを請い、渾瑊もまた請願したので、燧はこれを赦した。皇帝は専断で殺したことをもって、役所が弾劾処分することを恐れ、先に詔を下して論じないこととした。
隴右節度使に転じ、良原を治めた。良原の城壁は埋もれ崩れ、周囲は皆平地の林と深い草が茂り、虜が侵入する時、常にここで馬を放牧し兵士を休ませていた。元諒は高く土を盛り堀を深くし、自ら苦労を分かち士卒と均しくし、草木を刈り払って数十里の良田を開き、兵士に勧めて開墾耕作させ、毎年粟や豆数十万斛を収入し、什器は全て供給された。また連弩台を築き、遠く烽火を偵察し、守備を固め、地勢の勝れた所を占拠し、新たに城壁を築いた。虜は来ても掠奪するものがなく、戦っても常に敗北した。これにより涇州・隴州は安泰となり、西戎はこれを畏れた。死去、六十二歳。司空を追贈され、諡して莊威といった。
李観
李観、その祖先は趙郡から洛陽に移り住んだので、故に洛陽の人とする。若い頃は沈着温厚で寡黙であった。策を以て朔方節度使の郭子儀に干謁し、子儀は彼を坊州刺史の呉伷の補佐として防遏使に派遣した。親の喪のため解任された。吐蕃が内寇し、代宗が陝州に避難した時、観は盩厔に隠れ、郷里の子弟千人を率いて黒水を守り、虜は侵すことを敢えなかった。嶺南節度使の楊慎微が偏将として上奏し、徐浩・李勉が代わって節度使となっても、常に軍政を任せ、幾度も大賊を捕らえ平定した。大将に遷り、試殿中監を経て、右龍武将軍に召された。
涇原の兵が叛くと、観は丁度番上中であり、直ちに兵千余りを率いて徳宗を奉天に扈従した。詔により諸軍を全て監督し、巡邏を整え、五千人を増募し、太鼓や旗を高く掲げて士気を大いに振るわせた。封戸二百を賜り、二人の子に八品官を授けた。徳宗に従って梁州に至った。帝が還都すると、詔により後軍を総括した。四鎮・北庭行軍涇原節度使に抜擢された。駐屯すること四年、部隊を訓練し、蓄えは豊かであった。平涼の会盟で、吐蕃は目的を果たせなかった。この年、観が入朝するため、前日に出発すると、虜は期日に合わせて精騎を出して狙撃したが、間に合わず去った。少府監・検校工部尚書となった。死去し、太子少傅を追贈された。
韓遊瑰
韓遊瑰は霊州霊武の人、初め郭子儀の裨将であった。安禄山が反乱を起こすと、阿史那従礼に同羅・突厥の五千騎を率いさせて朔方に偽降し、塞門を出て、河曲の九蕃府・六胡を誘い、部落合わせて五十万を叛かせた。子儀は遊瑰に辛京杲を率いさせてこれを撃破し、九蕃府は再び帰附した。累進して邠寧節度留後となった。
李懐光が叛き、韓遊瓌を誘って変を起こさせようとしたが、遊瓌はその書状を白状して発した。帝は「卿は忠義というべきである」と言った。これに対し「臣がどうして忠義を知りましょうか。ただ懐光が臣を誤らせ、乗輿を震驚させ、後に臣を利用して自らを弁解しようとしただけです」と答えた。帝はその誠実さを嘉し、従って問うた「計略はどう出そうか」。対して「懐光は諸府の兵を総べ、それを恃んで乱を起こそうとしています。今、邠には張昕、霊武には寧景璿、河中には呂鳴嶽、振武には杜従政、潼関には李朝臣、渭北には竇覦がおり、皆守将です。陛下がその衆と地を彼らに授け、懐光の権を罷め、元功として尊ぶならば、諸将は首を仰ぎ、各々その帥に聴き、彼はどうして乱を起こせましょうか」と答えた。帝は「懐光の権を罷めると朱泚がますます勢いを増すが、どうするか」と言った。対して「陛下は士に次第なき賞を約束されました。今、貢賦がまさに至り、それを発して酬いれば、その守りは自ずと固くなります。邠には一万の精甲があり、臣がこれを将すれば、賊を誅することができます。四方が義を杖として起てば、賊は慮るに足りません」と答えた。帝はその言葉を称えた。
ちょうど李懐光の誘いが再び至り、渾瑊がその書状を得て、やや卒を厳にして警戒した。韓遊瓌はこれを知らず、怒りを発し、瑊を罵った。帝は変があると疑い、即日に梁州に幸した。遊瓌は子をして帝に従わせた。李懐光は檄を飛ばして遊瓌を仮に邠州刺史とし、張昕に因ってこれを殺そうとした。遊瓌は既に兵を失い、どうすべきか分からなかった。客の劉南金が説いて言うには「邠には留め置かれた甲兵があり、それで功を立てることができます。これは天が与えたものかもしれません」と。遊瓌は悟り、旧部の兵八百を誘って馳せて邠に入り、張昕を説いて言った「懐光は自ら禍機を踏みました。公は今、富貴を取ることができ、不義に共に汚されることはありません。私は麾下を以て公の先駆けとならんと願います」。昕は聴かなかった。遊瓌は病と称して出ず、密かにその将の高固らと結んだ。昕は遊瓌を殺そうとし、左右に命じて甲を衷て入れさせた。昕の小史である李岌が密かに遊瓌に告げ、伏せた甲兵が先に起ち、高固らがこれに応じ、昕の首を斬って聞かせた。時に李懐光の子の玫が邠にいたが、遊瓌は護衛してこれを出し、「これを殺せばただ敵を怒らせるだけで、至れば必ず急ぎます。捨てるに如かず」と言った。玫が涇陽に至ると、李懐光は遂に蒲州に走った。
ちょうど子の欽緒が射生将として京師を衛り、妖人李広弘と謀反を謀ったが、謀が泄れ、邠州に奔り、中人が捕らえて斬り、その状を韓遊瓌に示した。遊瓌は懼れ、京師に帰って死を求めたが、帝は許さなかった。また欽緒の二息を捕らえて京師に送ったが、帝もまたこれを赦した。間もなく、入朝し、素服で命を聴き、詔があって位に復し、労遇は以前の如くであった。
韓遊瓌は盛んに豊義を城して虜の侵を遏えんことを言上した。帝は悦び、軍を還すことを促した。初め、遊瓌が朝した時、衆は罪を得んと謂ったので、贈り物が殊に薄かった。既に還ると、挙軍自ら安からず。大将の范希朝は兵に善く、遊瓌はその逼ることを畏れ、誅しようとしたので、希朝は鳳翔に奔り、帝は聞いて召し入れて宿衛させた。遊瓌は兵を遣わして豊義を築かせたが、わずか二板で潰え、寧の卒数百が大いに掠奪し、遊瓌はこれを禁じることができなかった。詔して張献甫を用いてこれに代えた。遊瓌は乱を畏れ、軍を委ねて軽く出で、京師に還り、右龍武統軍に拝された。卒し、諡して襄といった。
李広弘は、自ら宗室の子と称した。初め浮屠となり、妄りに言った「私はかつて嶽・瀆の神を見た。天子となるべきである。冠を復すべし」。男子の董昌が広弘を資敬寺に舎し、相工の唐郛を召してこれを見させ、郛に教えて人に告げさせた「広弘はまさに大いに貴くなるであろう」。乃ち韓欽緒・神策将の魏循・李傪・越州参軍事の劉昉らを誘って乱を起こさせた。昉の家は数回酒を具えて広弘の所で大会し、密かに署置を相した。また妄りに言った「神が私に戒めて十月十日に趣いて挙げよと言われた」。欽緒に約して夜に鼓を撃ち、淩霄門で騒ぎ、飛龍廄を焚き、魏循らが神策兵を以て広弘を迎え、事が捷けば、大いに三日間掠奪する、と。魏循・李傪が変を上告したので、乃ち広弘及び支党を禽えて仗内で鞫し、三司に付して訊実させ、皆殊死に処した。広弘は臨刑に際し、色自ら如かった。これにより、人は観・祠に入ることを禁じられた。
杜希全
杜希全は、京兆醴泉の人である。裨将として郭子儀に隷し、功労を積んで朔方節度使に至った。軍令は整い厳しく、士はその威を畏れた。奉天の狩りの時、希全は鄜坊節度使李建徽・塩州刺史戴休顔・夏州刺史時常春と兵を引いて難に赴いた。漠谷に次ぐと、賊に邀撃され、高きに乗って石を下し、強弩を雑発した。徳宗は援軍を遣わしたが、克たず、還って邠州を保った。賊が平定されると、検校尚書左僕射・霊塩豊夏節度使に遷り、餘姚郡王に封ぜられた。将として即ち屯せんとする時、《体要》八章を献じ、政の病を砭切した。帝は嘉して納れ、《君臣箴》一篇を賜った。
間もなく夏綏銀節度都統を兼ね、建言した「塩州は要会を据え、塞の保鄣となります。平涼で盟に背いて以来、城は虜に陥ち、ここに霊武の勢いは懸かり、鄜坊は単に逼られ、辺の深患となっています。塩州を復城することを請います」。乃ち詔して希全及び朔方・邠寧・銀夏・鄜坊・振武及び神策行営諸節度に合せて士三万五千を選び塩州に屯させ、また涇原・剣南・山南軍に勅して吐蕃に深入し、その力を牽撓させ、塞を犯させないようにした。築に執る者は凡そ六千人、二旬を閲して畢った。これにより虜は憚り、軽々しく入らなかった。
希全は河西に居ること久しく、頗る法を越えて横暴に振る舞い、帝は数度その短所を容認して覆い隠した。豊州刺史李景略の名声は希全の上に出で、己を逼迫するを疑い、遂に排撃して弾劾す。帝は之を斥けて以て其の意に答う。元来風眩に苦しみ、稍々劇しく、益々忌み忍び、遂に判官李起を誣いて殺し、吏下は累息す。卒し、司空を贈らる。
邢君牙
邢君牙は、瀛州楽寿の人なり。少にして幽薊・平盧の軍に従い、戦功を以て果毅・折衝郎将を歴任す。安禄山反すに及び、侯希逸に従い海を渡り青州に入る。田神功が兗鄆節度使たりし時、君牙をして兵を将いて好畤に屯し盛秋を防がしむ。吐蕃京師を犯すに当たり、代宗陜に出で、扈従の功により、累ねて河間郡公に封ぜらる。
建中初め、李晟が馬燧に従い田悦を討つに、君牙を都將と為し、武安・襄国の間に在りて凡そ五戦し、斬馘の功最も多し。徳宗奉天に出ずるや、晟は君牙を率いて倍道にて難に赴き、渭橋に徙りて屯す。軍中の便宜は、惟だ君牙のみ之に与かるを得たり。晟が鳳翔に在りし時、数度辺を行き、常に君牙をして守らしむ。晟朝に入り、代わって鳳翔観察使と為る。俄かに節度を領し、尚書右僕射を検校す。吐蕃歳毎に辺を犯すも、君牙は耕を奨め戦を講じて以て備えと為し、戎も侵す能わず。又、隴州平戎川に城を築き、永信城と号す。官に卒し、司空を贈らる。
初め、布衣の張汾と云う者あり、紹介無くして君牙に干し、軒然として客の上に坐す。会に吏が簿書を摘発し、盗みて宴銭五万を没するを以てす。君牙其の欺くを怒るも、汾は謝さずして去り、曰く「吾れ京師に在りて、邢君牙を一時の豪俊と聞く、今乃ち吏を設けて銭を論ず、云何ぞ」と。君牙慚じ、遽かに吏を釈し、引いて上客と為し、月余を留め、五百縑を以て謝と為す。其の己を屈して士を好む、此の類なり。