新唐書

巻一百五十五 列傳第八十 馬燧子:暢 渾瑊子:鎬 鐬

馬燧

馬燧、字は洵美、その系は右扶風に出で、汝州郟城の人に移る。父は季龍、孫呉倜儻善兵法科に挙げられ、嵐州刺史に至る。燧は姿度魁傑、長さ六尺二寸。諸兄と学び、策を輟めて歎じて曰く、「天下事有るに方り、丈夫は功を以て四海を済うべし、渠れ一儒を老いんや」と。更に兵書戦策を学び、沈勇にして算多し。

安祿山反す。賈循をして范陽を守らしむ。燧、循を説きて曰く、「祿山は乱を首めく、今洛陽らくようを挙ぐと雖も、猶将に誅覆せられん。公何ぞ向潤客・牛廷玠を斬らざる。其の本根を傾け、西して関に入るを得ざらしめ、退きて拠る所を亡わば、則ち坐して禽を受くべし、これは世にない功なり」と。循之を許すも、時に決せず。会に顔杲卿、循を招きて兵を挙げしめ、祿山、韓朝陽を遣わして循を召し計事せしむ。因りて縊殺す。燧は西山に走り、間道より平原に帰る。平原守れず、復た魏に走る。

宝応中、沢潞節度使李抱玉、署して趙城尉と為す。時に回紇国に還り、功を恃みて恣睢し、過ぐる所皆剽傷し、州県の供餼称せざれば、輒ち人を殺す。抱玉将に饋労せんとし、賓介敢えて往く者無し。燧自ら請うて典め具を弁ず。乃ち先ず其の酋に賂して約し、其の旗章を得て信と為し、令を犯す者は之を殺すを得たり。燧又た死囚を取って左右に役し、小しく令に違えば輒ち戮し死せしむ。虜大いに駭き、境を出るに至り、敢えて暴く者無し。抱玉之を才とす。因りて進みて説きて曰く、「回紇に接し、且つ其の情を得たり。僕固懐恩が党を樹て自ら重んじ、河北を裂きて李懐仙・張忠志・薛嵩・田承嗣等に授け、其の子瑒は佻勇にして義無く、将に必ず太原を窺わんとす。公当に之を備うべし」と。既にして懐恩、太原の将と謀りて其の城を挙げんとす。辛雲京之を覚り、克たず。嵩、相・衛より自ら懐恩に糧を帰し、以て河津を絶つ。抱玉、燧をして嵩を説かしむ。嵩、懐恩に告げて絶つ。即ち燧を署して左武衛兵曹参そうしん軍と為す。

累進して鄭州刺史に至る。農力を勧督し、歳一税、人以て便と為す。懐州に徙る。時に師旅の後、歳大いに旱り、田茀にして耕に及ばず。燧務めて教化に勤め、横調を止む。将吏に親有る者は、必ず之に造り、厚く礼を為す。暴胔を瘞め、煩苛を止む。是の秋、穭境に生じ、人之に頼りて済う。抱玉、鳳翔を守り、表して燧を隴州刺史と為す。西山は吐蕃に直し、其の上に通道有り、虜常に出入する所なり。燧石を聚め樹を種えて之を障ぎ、二門を設けて譙櫓と為し、八日にして畢り、虜暴くる能わず。抱玉に従い朝に入る。代宗雅く其の才を聞き、召見し、商州刺史を授け、水陸転運使を兼ぬ。

大暦中、河陽の兵其の将常休明を逐う。詔して燧を検校左散騎常侍さんきじょうじと為し、三城使と為す。汴将李霊耀反す。帝人を息まんことを務め、即ち以て汴宋節度留後を授く。霊耀拝せず、魏博田承嗣を引いて援と為す。詔して燧をして淮西李忠臣と之を討たしむ。師鄭に次す。霊耀多く旗幟を張りて以て王師を犯す。忠臣の兵潰えて西す。燧の軍熒沢に頓す。鄭人震駭す。忠臣将に遂に帰らんとす。燧之を止め、益々軍を治む。忠臣乃ち還りて亡卒を収め、復た振う。忠臣は汴南を行き、燧は汴北を行き、賊を西梁固に敗る。霊耀、鋭卒八千を以てし、「餓狼軍」と号す。燧独り戦いて之を破り、浚儀に進む。是の時河陽の兵諸軍に冠たり。田悦、衆二万を帥いて霊耀を助け、永平の将杜如江等を破り、勝に乗じて汴を距ること一舍にして屯す。忠臣諸軍を合して戦い利あらず。燧奇兵を為して之を撃つ。悦単騎遁る。汴州平ぐ。

燧忠臣の暴傲なるを知り、其の功を譲り、出でて板橋に舎る。忠臣汴に入り、果たして会に因りて宋州刺史李僧惠を撃殺す。燧河陽に還る。秋大雨、河溢る。軍吏請うて舟を具えて以て避く。燧曰く、「城中をして尽く魚と為して独り其の家を完うせしむるは、吾忍びず」と。既にして水害と為らず。

河東節度留後に遷り、節度使に進む。太原は鮑防の敗を承け、兵力衰単なり。燧廝役を募り、数千人を得、悉く騎士を補い、之に戦を教え、数月にして精卒と成る。鎧を造るに必ず短長三制を以てし、士の衣る所に称し、以て進趨に便ならしむ。戦車を為し、狻猊の象を以て冒し、戟を後に列ね、行いて以て兵を載せ、止まれば則ち陣と為し、険に遇えば則ち沖冒を制す。器用完鋭なり。一年居りて、広場を辟き、兵三万を羅して以て肄し、威北方に震う。建中二年、京師に朝し、検校兵部尚書に遷り、豳国公に封ぜられ、軍に還る。

初め、田悦新たに魏博有り、下の未だ附かざるを恐れ、即ち款を朝廷に輸す。燧建言して悦必ず反すとす。既にして悦果たして邢州を囲み、身を以て臨洺を攻め、重城を築きて内外の援を絶つ。邢将李洪・臨洺将張伾固く守る。詔して燧をして歩騎二万を以て昭義李抱真・神策兵馬使李晟と軍を合して之を救わしむ。燧〓郭口より出で、未だ険を過ぎずして、書を移して悦に抵り、之に好を示す。悦燧己を畏るるを以てし、大いに喜ぶ。既に邯鄲に次す。悦の使至る。燧皆之を斬り、兵を遣わして其の支軍を破り、賊将成炫之を射殺す。悦聞き、大将楊朝光をして兵万人を以て双岡に据え、東西二柵を築きて以て燧を禦がしむ。燧軍を率いて二壘の間に営す。是の夜、東壘遁ぐ。燧進みて狗明山に営し、棄てたる壘を取って輜重を置く。悦計りて曰く、「朝光柵を堅くし、且つ万人、燧能く攻むと雖も、数日を以て下すべからず、且つ殺傷必ず衆し。則ち吾已に臨洺を抜き、士を饗して以て戦わば、必勝の術なり」と。即ち恒州の兵五千を分かち朝光を助く。燧大将李自良等をして騎兵を以て双岡を守らしめ、戒めて曰く、「悦の過ぐるを得しむるを令せば斬らん」と。燧乃ち火車を推して朝光の柵を焚き、晨より晡に及び、急撃し、大いに之を破り、朝光を斬り、其の将盧子昌を禽え、首五千を獲、八百人を執う。五日居りて、進みて軍を臨洺にす。悦軍を悉くして戦う。燧自ら鋭士を以て之に当たり、凡そ百余返し、士皆決死す。悦大いに敗れ、首万級を斬り、俘系千余、館穀三十万斛、邢の囲みも亦解く。功を以て尚書右僕射に遷る。初め、将に戦わんとし、燧衆に約し、勝てば則ち家貲を以て賞す。是に至り、私財を殫して麾下に賜う。徳宗之を嘉し、詔して度支の銭五千万を出して其の財を償わしむ。兼ねて魏博招討使に進む。

李納と李惟岳は兵一万三千を合わせて田悅を救援し、田悅は散兵二万を集めて洹水に陣を構え、淄青軍はその左に、恒冀軍はその右に布陣した。馬燧は鄴に進軍して駐屯し、増兵を請うた。詔により河陽の李芃が兵を率いて合流し、漳に駐屯した。田悅は将の王光進を遣わして兵をもって漳の長橋を守らせ、月形の堡塁を築いて軍路を扼させた。馬燧は下流において鉄鎖で車数百を繋ぎ、河を遮断し、土嚢を載せて水を堰き止めてから渡河した。田悅は馬燧の食糧が乏しいことを知り、深く塁壁を固めて戦わなかった。馬燧は兵士に十日分の食糧を持たせ、倉口に進んで営を置き、田悅と洹水を挟んで対陣し、三つの橋を造って洹水を渡り、毎日挑戦した。田悅は出撃せず、ひそかに一万人を伏兵させ、馬燧を急襲しようとした。馬燧は諸軍に夜半に食事をとらせ、鶏が鳴く前に鼓角を鳴らし、ひそかに軍を率いて洹水沿いに魏州へ向かい、命令して曰く、「賊が来るのを聞いたら、止まって陣を構えよ。」と。百騎の騎兵に火種を持たせて残し、軍が全て出発するのを待ち、その傍らに隠れさせ、田悅の軍勢が渡り終わるのを待って、直ちに橋を焼かせた。馬燧が十余里進んだ時、田悅は李納らの兵を率いて橋を渡り、風に乗って火を放ち、叫びながら前進した。馬燧は兵士に動かないよう命じ、雑草を刈り払って百歩四方の広場とし、勇士五千人を募って陣を構えて待った。田悅が到着する頃には、火は消え、気勢はやや衰え、馬燧は兵を放ってこれを撃ち、田悅は敗走して橋へ向かったが、橋は既に焼かれており、水に飛び込んで死んだ者は数え切れず、斬首二万級、賊将の孫晋卿・安墨啜を殺し、三千人を捕虜とし、屍は三十里にわたって累々とし、淄青兵はほとんど全滅した。田悅は夜に魏州へ逃げたが、その将は受け入れを拒み、夜明け頃までに追撃は来ず、田悅はようやく入城できた。

李抱真と李芃が問うて曰く、「食糧が少ないのに深く敵地に入ったのは、何故か。」と。馬燧曰く、「食糧が少なければ戦いは速やかに利あり、兵は人を引き寄せることを善しとする。今、田悅は淄青・恒の三軍と首尾をなして、戦わずして我が軍を疲弊させようとしている。もし左右を分けて撃てば、必ずしも撃破できるとは限らず、田悅が来て助ければ、これは腹背に敵を抱えることになる。兵法に『必ず救うところを攻めよ』とある。故に魏州へ向かってこれを破るのだ。」と。皆曰く、「善し。」と。

田悅は城に籠って自ら守った。ここにおいて李再春は博州を、田悅の兄の田昂は洛州を、王光進は長橋を以て、皆降伏した。田悅は符璘・李瑤を遣わして淄青の残兵を護衛して帰らせたが、符璘らも降伏した。魏州では御溝が城を貫いており、馬燧はその上流を塞いだので、魏人は恐れた。田悅は許士則・侯臧を遣わし、間道を行かせて朱滔・王武俊に窮状を告げさせた。ちょうど二人は怨みを抱いていたので、連合した。田悅は燕・趙の軍が今にも到着すると恃み、直ちに兵を出して城を背に陣を構えたが、馬燧は再び諸軍と共にこれを破った。進んで同中書門下平章事・北平郡王・魏州大都督ととく長史に任ぜられた。

朱滔と王武俊は連合して兵五万を率い魏州に迫った。時に帝は李懷光を遣わし朔方軍一万五千で馬燧を援助させた。李懷光は戦闘に勇猛で、兵士を休ませず、直ちに朱滔らと戦ったが、利あらず。田悅は水を決壊させて軍を灌漑し、馬燧の兵も屈し、退いて魏県を守った。朱滔らは河に臨んで堡塁を築いた。時に涇原の兵が乱を起こし、帝は奉天に幸し、馬燧は軍を返して太原に帰った。

初め、李抱真は懐州刺史の楊鉥を殺そうとしたが、楊鉥は馬燧のもとに奔った。馬燧は彼に罪がないと上奏し、ようやく免れた。李抱真は怒った。共に邢州の包囲を解き、軍糧を獲得した時、馬燧はこれを自らのものとし、余りを李抱真の軍に与えたので、李抱真はますます怒った。洹水の勝利の後、軍は進んで魏州に迫り、田悅が突騎をもって馬燧の営を犯した時、李芃がこれを救ったが、李抱真は兵を統率して出撃しなかった。馬燧が魏州を攻撃しようとし、攻撃用具を李抱真の営から取り、また両軍を混ぜてその功績を平らかにすることを請うたが、李抱真は聞き入れず、独りで一面を担当することを請うた。これにより逗留した。帝はたびたび使者を遣わして和解させようとした。王武俊が趙の地を略奪すると、李抱真は麾下の二千人を分けて邢州を守らせた。馬燧は怒って曰く、「李抱真は兵を返して自らの地を守らせる。我は独りで戦って死ねるというのか。」と。引き返そうとしたが、李晟がこれを和解させ、再び李抱真と良好な関係になった。田昂が降伏した時、馬燧は洺州を李抱真に隷属させることを請い、昭義副使の盧玄卿を用いて刺史とし、兼ねて魏博招討副使とした。李晟の兵は以前は独り李抱真に隷属していたが、李抱真もまた兼ねて馬燧に隷属することを請い、協調一致を示した。しかし、議する者は馬燧が私怨によって交悪し、ついに大功を成さなかったことを咎めた。

太原に至り、軍司馬の王権に兵五千を率いさせ奉天へ急行させ、また子の馬匯と諸将の子を中渭橋に駐屯させた。帝は既に梁に幸していたので、帰還した。時に天下は騒然としており、北辺はたびたび警報があった。馬燧は晋陽が王業の基盤であると考え、険阻を固めて敵に示すべきであるとした。そこで晋水を引き汾水に架けて城に連ね、東の堀として貯水し、城壁を守る兵一万人を省いた。また汾水を分流させて城を環流させ、堤防を固めるために樹木を植えた。詔により保寧軍節度使を兼ねた。

帝が京に還ると、李懷光が河中で反逆した。詔により馬燧は河東保寧・奉誠軍行営副元帥とされ、渾瑊・駱元光と合兵してこれを討った。時に賊党の要廷珍は晋を守り、毛朝易攵は隰を守り、鄭抗は慈を守っていた。馬燧が檄文を送って諭すと、皆州を以て降伏した。よって馬燧を晋絳慈隰節度使に任じた。

王武俊が趙を包囲した時、康日知は支えきれず、趙を棄てようとした。馬燧は詔により王武俊に朱滔を撃たせ、深州・趙州を与え、康日知を晋慈隰節度使とすることを請うた。三州が降伏した時、馬燧は固く辞退して康日知に譲り、かつ降伏によって節度使を受けるのは、後に功績を立てる者がこれに続いて利益とすることを恐れる、と上言した。帝はこれを賞賛した。府庫の兵仗を籍没して康日知に授けると、康日知は望外の喜びを示した。馬燧は歩騎三万を率いて絳に駐屯し、諸県を平定し、その将の馮万興・任象玉を降伏させ、ついに絳を包囲し、外郭を陥とし、守将は夜に城を棄てて去り、四千人が降伏した。李自良を遣わして六県を平定させ、その将の辛兟を降伏させ、兵卒五千を収めた。裨将の谷秀が命令に違反して士女を掠奪したので、斬って衆に示した。賊と宝鼎で戦い、賊将の徐伯文を射殺し、斬首一万級、馬五百匹を獲た。

当時、天下に蝗害があり、兵士は食糧に苦しみ、物価は高騰していた。朝廷の臣の多くは李懷光を赦すことを請うたが、帝は決断しなかった。馬燧は「李懷光の逆謀は久しく、反覆して信じるに足らず。河中は近畿に近く、これを捨てれば威霊を屈し、天下に示すところがない。」として、軍を離れて朝廷に入り、天子に自ら言上した。「かつ三十日分の食糧を得れば、河中を平定するに足る。」と。許された。そこで渾瑊・駱元光・韓遊瑰の兵と合流した。

賊将の徐廷光は長春宮城を守っていた。馬燧は長春宮が下らなければ、李懷光が固守し、長く攻めれば傷む者必ず多かろうと考え、身を挺して城下まで行き徐廷光に会った。徐廷光は馬燧の威を畏れ、城上で拝礼した。馬燧はその心が既に屈したのを見て、ゆるやかに曰く、「我は朝廷より来た。西に向かって命を受けよ。」と。徐廷光は再拝した。馬燧曰く、「公らは朔方の士であり、安禄山以来、功績は天下に高く、何故これを棄てて族滅の計を為すのか。もし我が言に従えば、禍を免れるのみならず、富貴を遂げることができよう。」と。答えないので、馬燧曰く、「爾は我が欺くと思っているのか。今数歩も遠くない、我を射よ。」と。衣を開いて心臓を示した。徐廷光は感激して泣き、一軍皆涙を流し、直ちに衆を率いて降伏した。馬燧は数騎でその城に入ると、衆は大呼して曰く、「我らは再び王の民となった。」と。渾瑊もまた自ら及ばないと思い、嘆いて曰く、「かつて馬公が田悅を窮地に追い込めたのを疑ったが、今その敵を制するのを見ると、確かに人に優るものがある。我は遠く及ばない。」と。

進んで焦籬堡に営を置くと、堡の将は降伏し、残りの守備兵は風の便りに遁走した。馬燧は河を渡り、兵八万を城下に陣させた。この日、賊将の牛名俊が李懷光を斬って降伏し、衆はなお一万六千あった。その党の閻晏・孟宝・張清・吳冏らを誅し、他の脅迫されて従った者は全て赦した。一月も経たずして、河中は平定された。光禄大夫に遷り、侍中を兼ね、一子に五品官を賜った。太原に還ると、帝は『宸扆』・『台衡』の二銘を賜い、君臣が相成す美を言った。石に刻んで起義堂に建て、帝はその額を書いて寵遇した。

貞元二年、吐蕃の尚結贊が塩・夏二州を破り、これを守り、自ら鳴沙に駐屯した。春に至り、畜産は死に、糧食は乏しくなった。詔して燧を綏銀麟勝招討使とし、駱元光・韓遊瑰らと会師して虜を撃たしめた。燧は石州に駐屯した。結贊は恐れ、盟を乞うたが、帝は許さなかった。そこで将の論頰熱を遣わし、甘言をもって燧に請い、かつ重幣を以て殷勤を繰り返した。翌年、燧は太原に還り、論頰熱とともに朝し、盛んに盟を許すべきであると説き、天子はこれを然りとした。燧が朝している間に、結贊は急ぎ兵を引き去った。帝は渾瑊に詔して平涼で盟を結ばせたが、虜は瑊を劫し、辛うじて免れた。吐蕃は燧の兄の子の弇を帰した。曰く、「河曲の屯では、春草まだ生ぜず、我が馬は飢えていた。公もし河を渡れば、我らは絶滅していたであろう。公が和を許されたことに頼り、今弇を釈放して報いる。」帝はこれを聞き、悔い怒り、その兵権を奪い、司徒しとに拝し、侍中を兼ね、妓楽を賜い、奉朝請するのみとした。李晟とともに皆、淩煙閣に画像を掲げられた。後に足を病み、謁見に耐えられなかった。九年十月、自ら力を奮って延英殿に朝し、詔して拝礼せずに済ませた。時に晟は既に卒しており、帝は燧を顧みて言った、「まだ太尉の李晟とともに来たことを覚えているか?今はただ公一人に会うのみである。」よって悲しみ涙した。燧もまた病んで倒れ、帝は自らこれを支え、詔して左右に扶けさせて去らせ、階の下まで送らせた。燧は頓首して泣き謝した。固より骸骨を乞い、侍中を譲ろうとしたが、許されなかった。卒す。年七十。太傅を贈られ、諡して莊武といった。子に匯・暢あり。

子 暢

暢は若くして蔭により鴻臚少卿に至った。建中年中、燧が山東の賊を討った時、暢は京師に留まった。この時大旱があり、朝廷は商旅の緡銭を徴収することを議し、多く亡命して南山に入り盗賊となった。暢の客の単超俊・李雲端らが密かに議論し、事は危うくなると考えた。暢はその言を是とし、奴を遣わして燧に班師を諫めさせた。燧は怒り、奴を捕らえて上聞し、兄の炫に命じて暢を拘束させて罪を請わせた。帝はちょうど燧を頼りとしていたので、問わずに許し、ただその客を誅し、炫に勅して暢に杖三十を賜わせた。しかし商人徴収令もまた廃止した。燧の没後、その財産は天下に冠たるものとなり、暢もまた財を殖やすことに長け、家はますます豊かになった。晩年は豪族や幸臣に侵奪され、また匯の妻が財産分割を訴えた。貞元末、神策中尉の楊志廉が田産を納めるようそそのかした。順宗の時に至り、再びこれを賜った。中官がしばしば強引に取り立て、暢は畏れて吝しむことを敢えず、ついに困窮に至った。少府監で終わり、工部尚書を贈られた。諸子は自ら身を寄せる家屋もなかった。奉誠園の亭観は、すなわちその安邑里の旧邸であるという。故に当世は暢を厚い蓄財の戒めと見なした。有司は諡して縱といった。

子の継祖は、四歳で門功により太子舎人となり、五遷して殿中少監に至った。

兄 炫

燧の兄の炫、字は弱翁。若くして儒学で知られ、蘇門山に隠棲し、辟召に応じなかった。至徳年中、李光弼が太原を鎮守した時、初めて掌書記に任じられ、常に軍謀に参与し、光弼はこれを器とした。刑部郎中田神功が宣武を帥いた時、節度判官に任じ、連・潤二州刺史を授かり、清白をもって顕れた。燧が司徒となった時、刑部侍郎を授けられたが、病気を理由に辞し、兵部尚書をもって致仕し、卒した。

渾瑊

渾瑊は、本来鉄勒九姓の渾部である。代々皋蘭都督を務めた。父の釈之は、才武あり、朔方軍に従い、戦功多く積み、累遷して開府儀同三司・試太常卿・寧朔郡王となった。広徳年中、吐蕃と戦って没した。

瑊は十一歳の時、騎射に優れ、釈之に従って防秋し、朔方節度使の張齊丘が戯れて言った、「乳母と一緒に来たのか?」この年、跳蕩の功を立てた。後二年、賀魯部を破り、石堡城・龍駒島を抜くのに従い、その勇は常に軍中第一であった。折沖果毅に任じられた。節度使安思順は瑊に偏師を授け、葛禄部に入り、特羅斯山を攻略し、阿布思を破り、諸軍とともに永清及び天安軍を築城した。中郎将に遷った。

祿山が反すると、李光弼に従って河北を平定し、賊のぎょう将李立節を射て、その左肩を貫き、死なせた。粛宗が即位すると、瑊は兵を率いて行在に急行した。天徳に至り、虜軍と遭遇し、これを破った。郭子儀に従って両京を回復し、安慶緒を討ち、新郷で勝利し、武鋒軍使に抜擢された。僕固懐恩に従って史朝義を平定し、大小数十戦、功績最も多く、太常卿に改め、実封二百戸を賜った。懐恩が反すると、瑊は配下を率いて子儀に帰順し、ちょうど釈之の喪に遭い、喪中に起復されて朔方行営兵馬使となった。子儀に従って吐蕃を邠州で撃ち、邠に留まり駐屯した。虜が再び侵入し、奉天に至ると、瑊は漠谷で戦い、功績あり、太子賓客に遷り、奉天に駐屯した。周智光が反すると、子儀は瑊に歩騎一万人を率いて同州を下らせた。智光が平定されると、邠寧を朔方軍に隷属させ、瑊は宜祿に駐屯した。

大暦七年、吐蕃が塞を侵犯して深く侵入したので、瑊は涇原節度使馬璘とともにこれを討った。黄菩原に駐屯し、瑊は衆を率いて険阻な地を占拠し、槍の柵を設けて自ら営し、賊の奔突を遮った。旧将の史抗らは内々に瑊を軽んじ、左右の者に槍を撤去させ、騎兵を叱咤して賊に馳せさせた。戻った後、虜が追撃して侵入し、ついに大敗し、死者は十の八に及んだ。子儀は諸将を召して言った、「朔方軍は天下に高名であるが、今虜に敗れた。どうすればよいか。」瑊は言った、「願わくば再戦を。」そこで朝那に急行し、塩州刺史李國臣とともに秦原に向かった。吐蕃は引き去り、瑊は邀撃してこれを破り、掠奪したものを全て奪回して還った。この時より毎年、長武城で盛秋を防ぎ、邠州刺史を兼ねた。吐蕃が方渠・懐安に入ると、瑊はこれを撃退した。

子儀が入朝すると、邠寧慶兵馬の後方事務を留まって知った。回紇が太原を侵し、鮑防の軍を破った。瑊を都知兵馬使に拝し、石嶺関より南に下り、諸軍を督して掎角の勢いとし、虜は引き去った。単于副都護・振武軍使を兼ねて進んだ。子儀が太尉となると、徳宗はその配下を三節度に分け、瑊に単于大都護、振武・東受降城・鎮北大都護府・綏銀麟勝州節度副大使を兼ねさせた。間もなく、崔寧が朔方を領することとなり、故に召されて左金吾衛大將軍となった。建中年中、李希烈が瑊の書状を偽造し、あたかもともに乱を謀る者のようであったが、帝はその諜報を見抜き、疑わず、かえって良馬・錦幣を賜った。普王が荊襄元帥として希烈を討つに当たり、瑊を中軍都虞候とした。

帝が奉天に狩り(行幸)されると、瑊は家族と子弟を率いて従い、行在の都虞候・京畿渭北節度使に任ぜられた。硃泚の兵が城に迫り、譙門で戦い、朝から日中まで解けなかった。ある時は草を積んだ車が来ると、瑊は車を引き寄せて門を塞ぎ、それを燃やして戦い、賊はようやく退いた。泚は攻城具を整え、矢や石が四方から雨のように集まり、昼夜止むことなく、およそ十日間、塹壕を掘って城を包囲した。城中の死者は敷き詰めるほどで、人心は危惧に震え、ある者は夜に縄で城外に降りて野菜の根を摘み供御に充てた。帝と瑊は互いに泣いた。泚は乾陵に拠って城を見下ろし、翠翟の紅袍を着て、左右の宦官を走らせ、宴を賜り拝舞し、また放縦な言葉を弄して天子を嘲り、勝利は刻一刻と迫っているとした。騎兵を走らせて巡回させ、大臣が天命を知らぬことを責めた。雲梁を造り、広さ数十丈、大輪を付け、氈や革を濡らして被せ、周囲に水囊を並べて障壁とし、城の東北を指した。木の小屋を組み、革を被せて周囲に置き、その下に薪や土を運び、堀を塞ごうとした。帝は瑊を召し、千余通の詔書を授けた。御史大夫・実封五百戸以下から、突将や死士を募って賊に当たらせよというもので、瑊に筆を賜り、功績を量って詔に署名させ、足りなければ衣に署名して授けるようにし、ついに言われた、「朕は公と決別する。馬承倩を行かせる。急なことがあれば奏上せよ」。瑊はうつ伏せて嗚咽し、帝は撫でて遣わした。瑊は先に防城使侯仲莊と共に雲梁の通る道を推測し、大隧道を掘り、馬糞や薪を積んで燃やした。賊は風に乗って梁を押し進め、数千人を載せた。王師で城に乗る者は皆凍え飢え、甲は破れ兵は鈍っていた。瑊はただ忠義をもって感化し率いて賊に当たらせたが、人々は支えられぬかと憂い、群臣は天を呼んで祈った。瑊は矢に中り、自ら抜き去り、血にまみれてますます奮戦した。雲梁が隧道に及んで陥没し、風が返って全てを焼き、賊は皆死に、城中は歓声を上げた。この日、詔して瑊の二人の子に官を授け、将校に賞を分け与えた。泚は攻城をますます急にしたが、ちょうど李懷光が難を救いに駆けつけ、賊は去った。行在都知兵馬使に進み、実封五百戸となった。

乗輿が山南に進んで狩り(行幸)されると、瑊は諸軍を率いて衛り谷口に入った。懷光の追撃騎兵が至ったが、後軍が撃退した。検校尚書左僕射・同中書門下平章事に遷り、兼ねて霊塩豊夏定遠西城天徳軍節度・朔方邠寧振武道永平軍奉天行営副元帥を務めた。帝が軒に臨んで鉞を授け、漢が韓信かんしんを拝した故事を用い、制に曰く、「寇賊が紀を干す。爾に節鉞を授け、以て多難をしめん。往け、つつしめよ」。瑊は頓首して曰く、「敢えて力を尽くして天子の休命に対揚せざらんや」。乃ち諸軍を率いて京師に向かった。

賊の韓旻が武功で防ぐと、瑊は吐蕃の論莽羅の兵を率いて武亭川でこれを破り、首級一万を斬り、遂に奉天に屯して西面を抗した。李晟が東渭橋から賊を破ると、瑊は韓游瑰・戴休顔と西軍を率いて咸陽を収め、進んで延秋門に屯した。泚が平定され、功績を論じ、瑊は侍中を兼ね、実封八百戸となった。天子が宮に還ると、河中絳慈隰節度使・河中同陝虢行営副元帥を授け、楼煩郡王から咸寧に徙封された。大寧里の甲第を賜り、女楽五人を賜り、将相が第まで送り、李晟と鈞礼(対等の礼)を交わした。まもなく朔方行営副元帥を加えられ、馬燧と共に李懷光を討った。懷光が平定されると、検校司空しくうとなり、一子に五品官を任じた。還って河中に屯した。

吐蕃の宰相尚結贊が塩・夏を陥とし、密かに京師を窺い、しかし瑊と李晟・馬燧を畏れ、計略をもって勝とうとした。乃ち詭弁を弄し厚礼をもって、燧に講和を請うた。燧がしきりに賛成したので、帝は遂に平涼川で盟を約することを詔し、瑊を会盟使とした。結贊に劫掠され、副使崔漢衡以下は皆陥ち、ただ瑊のみ免れた。奉天から入朝し、粗末な服で罪を待ったが、詔してこれを釈放した。ちょうど吐蕃が再び侵入したので、瑊を奉天に鎮守させた。虜が退くと、河中に還った。貞元四年、虜が涇・邠に入ると、邠寧慶副元帥を授かった。検校司徒に進み、中書令を兼ねた。十五年、卒去。六十四歳。群臣が延英殿で奉慰し、太師を贈り、諡して忠武といった。喪車が鎮から至ると、帝はまた朝を廃した。

瑊は書を好み、『春秋』・『漢書かんじょ』に通じていた。かつて『司馬遷自叙』を慕い、『行紀』一篇を著したが、その文辞は一切驕り高ぶらない。天性忠謹で、功が高くても志はますます謙虚になり、歳時の貢奉は必ず自ら検閲した。賜物があるたびに、下座して跪いて受け、常に帝の前におるかのようであった。世間は金日磾に比し、故に帝は終始信頼して遇した。貞元以後、天子は常に藩侯が事を起こすことを恐れ、少しでも桀驁な者は姑息したが、ただ瑊が奏論しても全て従わせず、私的に喜んで曰く、「上は我を疑わぬ」。故に蒲を治めること十六年、常に軍を保持し、猜疑の間隙が入り込めなかった。君子はこれを賢とした。本名は日進、次第に顕れて改めた。五子あり、鎬・鐬が達官となった。

子 鎬

鎬は謙虚で謹み、士大夫と交わることを好み、鄧・唐二州刺史を歴任し、政績の誉れがあった。元和年間、延州の沙陀部が辺境の官吏の貪婪に苦しみ、震擾して安まらなかった。李絳が建言し、才幹と職名に相応しい者を刺史に選ぶべきだとした。乃ち鎬を延州に任じた。ちょうど王承宗を討つこととなり、義武節度使任迪簡が病で軍を統率できず、鎬が将家の子で用いられるとして、乃ち検校右散騎常侍・義武軍節度副使に遷し、まもなく迪簡に代わって節度使となった。兵を治めるには頗る法があったが、計略に短く、慎重さを欠いた。鎮・定二軍の間は百里もなく、鎬は兵を引いて鎮の境に迫り屯し、賊から三十里、鼓角の声が互いに聞こえた。賊は初めも畏れたが、鎬に斥候がいないのを見て、乃ち密かに軍を定の境に入れ、倉庫を焼き、郷里を屠り、鎬の軍は遂に動揺した。またちょうど宦官が督戦したので、出て賊に迫ったが、大敗して還った。詔して陳楚を代わりに任じた。当時、軍は飢え凍え、鎬が罷免されると聞いて、遂に乱を起こし、鎬の家を劫掠し、裸に辱めるに至った。楚が聞き、馳せ入城して、ようやく鎮定した。軍中に命じて掠奪したものを集めて鎬に返し、兵で護衛して送り出した。韶州刺史に貶された。後、代州刺史韓重華が、鎬が供軍の金幣十余万を収めたと奏上し、乃ち再び循州に貶された。卒去し、工部尚書を贈られた。

子 鐬

鐬は蔭補により諸衛参軍となり、累次擬されて豊州刺史に至った。贓罪七百万に坐し、文宗は勲臣の子であるとして、袁州司馬に貶した。還って袁王傅となり、太子詹事に至った。訓・注の乱の時、ある者が鐬が賈餗を匿ったと言い、百騎に捕らえられたが、苦しく弁明してようやく免れ、しかし家は兵に掠奪されて皆尽きた。文宗はこれを憐れみ、少府監を授け、殿中に遷した。宰相が瑊の子孫として刺史に抜擢しようとしたが、帝は曰く、「これはどうして民を治められようか。その父の功を思い、富ませることはできよう」。宰相が鐬がかつて郡を治めて功績があったと言うと、これに従い、夀州刺史に拝した。諸衛大将軍で終わった。

贊して曰く、唐の史臣は燧を沈雄忠力と称え、常に計を先にして戦を後にした。戦うごとに、自ら衆に令し、感概して命を用いざるはなく、闘えば必ず死を決し、未だ敗北したことがなく、名声は一時を蓋った。しかし力をもって田悅を得ることができながら取らず、虜は信じがたいのに決して信じた。故に河北の三盗はついに臣従せず、平涼では大臣が奔り辱められた。これは燧の罪である。それでも、燧は賢者である。天下が責めるべきと考えるが故に責めるのであり、功をもって罪を掩わず、また罪をもって功を廃することもできない。瑊は親しく結贊と盟し、虜の詐りを料ることができず、ただ詔の如くにすることを恭順とした。猛志はあれども英才がなかったのであろうか。李晟は虜と盟すべからずと言った。則ち燧・瑊は固より晟よりはるかに下である。功名の大小、信じるに然りというべきか。