李晟
李晟、字は良器、洮州臨潭の人である。代々武力をもって仕え、然れども位は裨将を過ぎず。晟は幼くして孤となり、母に孝養を尽くす。身長六尺。十八歳の時、河西の王忠嗣に事え、吐蕃を撃つに従う。悍猛なる酋長が城に乗じ、士卒を殺傷すること甚だ多く、忠嗣怒り、射者を募る。晟は一矢を挟んでこれを殪し、三軍歓奮す。忠嗣その背を撫でて曰く、「万人敵なり」と。鳳翔節度使高升、召して列将に署し、疊州の叛羌を高当川に撃ち、又連狂羌を罕山に撃ちてこれを破る。累遷して左羽林大将軍となる。広徳初年、党項を撃ちて功あり、特進を授けられ、太常卿を試みる。
大暦初年、李抱玉、晟を右軍将に署す。吐蕃霊州を寇す。抱玉、兵五千を授けてこれを撃たんとす。辞して曰く、「衆を以てすれば則ち足らず、謀を以てすれば則ち多し」と。乃ち千人を請う。大震関より臨洮に趨き、定秦堡を屠り、その帥慕容谷鐘を執る。虜乃ち霊州を解きて去る。開府儀同三司に遷り、右金吾衛大将軍を以て涇原・四鎮・北庭兵馬使となる。馬璘、吐蕃と塩倉に戦い、敗績す。晟、遊兵を率いて璘を抜きて帰る。合川郡王に封ぜらる。璘、内に晟の威略を忌み、これを朝に帰し、右神策都将と為す。徳宗初めて立ち、吐蕃剣南を寇す。時に崔寧未だ還らず、蜀土大いに震う。詔して晟に神策兵を将いてこれを救わしむ。漏天を踰え、飛越等三城を抜き、大渡を絶ち、虜千級を斬る。虜遁走す。
疾稍く間あり、将に復た進まんとす。会に帝奉天に出ず。詔有りて晟を召し、即日厳を治めしむ。而して孝忠は軍を二盗の間に介し、晟を重しと倚り、数々晟を止めて西す無からしむ。晟衆に語りて曰く、「天子播越す。人臣は百舎一息すべし。義武吾を止めんと欲す。吾は子を以て質と為さん」と。乃ち憑を以て婚を約し、並びに良馬を遺す。孝忠に親将有りて晟に謁す。晟、玉帯を解きてこれを遺し、孝忠を諭さしむ。乃ち飛孤を踰え、代州に次ぐことを得る。詔して迎え、神策行営節度使を拝す。進みて渭北に臨み、東渭橋に壁す。過ぐる所樵蘇を犯さず。時に劉徳信、扈澗より敗れて帰り、亦渭南に次ぐ。軍囂然として制無し。徳信入りて晟に謁す。晟、敗れたる所以を責め、これを斬る。数騎を以て壁に入り、その軍を労う。敢えて動く者無し。晟既に兵を併せ、則ち軍益々振るう。
ここにおいて朔方の李懐光、方に咸陽に軍し、晟の一当面を当たるを欲せず、晟と合するを請う。詔有りて屯を徙む。乃ち引きて陳濤斜に趨き、懐光と壘を聯ぬ。晟、毎に賊と戦うに、必ず錦裘繡帽を以て自ら表し、指顧陣前にす。懐光望見し、これを悪み、戒めて曰く、「将は持重を務むべし。豈に自ら表襮し、賊の餌と為るべきや」と。晟曰く、「昔涇原に在りし時、士頗る相畏伏せり。これを見せしめ、その心を奪わんと欲するのみ」と。懐光悦ばず、遷延して異志有り。晟、間をして懐光を説かしめて曰く、「賊京邑を拠り、天子外に暴露す。公宜しく速やかに兵を進むべし。晟不肖と雖も、公が先駆と為らんことを願い、死すとも悔い無し」と。懐光納れず。毎に兵都城の下に至るも、而して懐光の軍多く鹵掠す。晟の軍は整斉す。懐光、分ちて獲たる所を遺わしむ。又辞して敢えて受けず。懐光、その軍を沮撓せんと謀り、即ち奏言す、「神策兵の給賜、方鎮に比べて独り厚し。今桀逆未だ平らかならず、軍異なるべからず。且つ衆以て言と為す。臣解くこと無し。惟うに陛下裁処せられよ」と。懐光は晟自らその軍を削らしめ、則ち士怨みて撓がし易からんことを欲す。帝、諸軍と神策とを等しくせんと議す。力且つ贍かず。翰林学士陸贄を遣わし、詔を臨ませて懐光に、晟と計る所の宜き者を令す。懐光曰く、「稟賜均しからず、軍何を以てか戦わん」と。贄数々晟を顧みる。晟曰く、「公は元帥なり。軍政専らに之を得べし。晟は一軍を将う。惟だ命の所に従う。その増損費調、敢えて聴かざらんや」と。懐光黙然として計塞がり、顧みて稟賜を刻削する事己より出ずるを慮り、乃ち止む。
懐光、咸陽に屯すること凡そ八旬。帝数々戦を促す。賊の隙を伺うを以て言と為し、卒に兵を出さず。陰に硃泚に通じ、反跡浸く露わる。晟、併せられんことを懼れ、上言す、「当に先ず制を変え備えをなすべし。裨佐趙光銑・唐良臣・張彧を仮に洋・利・剣三州刺史と為し、各兵を勒して以て蜀・漢の衿喉を通ぜしめんことを請う」と。未だ報ぜず。会に吐蕃、泚を誅するを佐けんと欲す。帝、咸陽に幸して戦を督せんと議す。懐光大いに駭き、帝その軍を奪わんことを疑い、反を図ること益々急なり。晟と李建徽・陽恵元は皆聯屯す。適に使者の晟の軍に到る者有り。晟乃ち令して曰く、「詔有りて屯を徙む」と。即ち陣を結び東渭橋に趨く。後数日、懐光、建徽・恵元の兵を併せ、恵元これに死す。
是の日、帝進みて梁州に狩す。駱穀の道隘く、儲供豫めず。従官食に乏し。帝歎じて曰く、「早く晟の言を用いば、三蜀の利、坐して有すべかりしものを」と。渾瑊を顧みて曰く、「渭橋は賊の腹中に在り、兵孤絶す。晟能く勝を弁ずるや」と。瑊曰く、「晟は義を秉り忠を挺し、崒然として奪うべからず。臣これを策す。必ず賊を破らん」と。帝乃ち安んず。行在より晟の将張少弘を遣わし、口詔を以て晟を進めて尚書左僕射・同中書門下平章事と為す。晟命を受け、拝し且つ泣いて曰く、「京師は天下の本なり。若し皆羈靮を執らば、誰か将にこれを復せん」と。乃ち甲兵を繕い、陴隍を治め、以て収復を図る。
この時、李晟は孤軍を率いて賊の鋒先に横たわり、二つの賊(朱泚・李懐光)が合流して自軍を圧迫することを恐れ、謙った言葉と厚い贈り物をもって、偽り李懐光に誠意を示した。当時、食糧倉庫は空乏していたので、張彧を京兆少尹に仮任し、多くの吏を任命して、畿内の租税を徴収させると、十日も経たぬうちに、秣と米が揃ったと報告があった。そこで兵を整え、命令を下して言った、「国家は多難であり、天子は流浪しておられる。危難を見て節を守って死ぬことは、我が分である。諸君らがこの時に元凶を誅伐し、富貴を取らねば、豪傑とは言えぬ。渭橋で賊の首尾を断ち、我は諸君と力を合わせ心を一つにして、並びなき功績を立てようと思う。よろしいか。」兵士たちは皆、涙を流して言った、「ただ公のご命令に従います。」ここにおいて、駱元光は華州の兵を率いて潼関を守り、尚可孤は神策軍の兵を率いて七盤を保ち、皆、李晟の節度を受けた。戴休顔は奉天を挙げ、韓遊瑰は邠寧軍の全軍を率いて李晟に従った。李懐光は初めて恐れをなした。李晟は文書を送って李懐光を公然と責め、賊を破って自ら罪を贖うよう求めた。李懐光は聞き入れなかったが、その部下はますます離反し、李晟に襲撃されることを恐れて、河中に奔った。その部将の孟涉・段威勇は兵数千を率いて自ら脱出して帰順し、李晟は皆、要職に任ずるよう上表した。帝(徳宗)は使者を間道より遣わし、詔を下して李晟に河中・晉・絳・慈・隰節度使を兼ねさせ、さらに京畿・渭北・鄜坊・丹延節度招討使を兼ねさせた。帝はさらに西へ行幸しようとしたが、李晟は梁・漢に駐蹕して天下の望みを繋ぐよう請うた。また、京畿・渭北・鄜坊・商華兵馬副元帥に進めた。この時、京兆司録参軍の李敬仲が賊中より来たので、節度使府の判官に任じ、諫議大夫の鄭雲逵を行軍司馬とし、張彧を抜擢して副使とした。
神策軍の兵士たちと李晟の家族は皆、賊の人質となっていた。左右からそのことを言う者がいると、李晟は涙を流して言った、「陛下はどこにおられるというのに、どうして家族を憂えようか。」朱泚は李晟の旧吏である王無忌の婿を使わして、壁門に近づいて告げさせた、「公のご家族は無事です。」李晟は怒って言った、「お前は賊の間者となったのか。」叱って斬らせた。当時、絹布の供給が続かず、盛夏であったが、兵士には裘(皮衣)を着ている者もいた。李晟は部下と苦楽を共にし、忠義をもって兵士の心を感動させ奮い立たせたので、ついに離反や怨みはなかった。斥候が姚令言・崔宣の間者を捕らえた。李晟は縄を解くよう命じ、飯を食べさせ飲ませて、帰らせ、告げて言った、「我に代わって令言らに謝せよ。よく賊のために守れ。朱泚に不忠であってはならぬ。」
そこで兵を率いて都の城門を叩いた。賊は出撃しようとせず、軍を整えて引き揚げた。翌日、諸将を集めて進むべき方向を図った。諸将はまず外城を抜き、それから宮城を清めるべきだと答えた。李晟は言った、「外城には里門の狭隘な所があり、もし伏兵を設けて戦い、住民が騒ぎ崩れたら、良策ではない。賊の重兵と精鋭の甲士は苑中に集まっている。今、直ちにこれを撃てば、これはその心腹をえぐるものであり、逃走を図る暇もなかろう。」諸将は言った、「よろしい。」そこで東渭橋より陣営を光泰門に移し、都城に迫り、溝と柵を連ねた。賊将の張庭芝・李希倩が戦いを求めてきた。李晟は顧みて言った、「賊が出てこないのが、我が憂いである。今、命を顧みずに来たのは、天がこれを誘ったのだ。」呉詵らに命じて兵を縦横に奮わせて撃たせた。賊が華原の軍を急攻したので、李晟は精鋭の騎兵を馳せさせて救援し、中軍が騒ぎながら従い、大いにこれを破った。勝ちに乗じて光泰門に入った。再び戦い、賊を敗走させ、死体が累々と横たわり、残党は白華に逃げた。賊は大声で泣き、夜通し止まなかった。翌日、再び戦おうとした。ある者が西の軍(渾瑊ら)を待つよう請うた。李晟は言った、「賊は既に敗れた。機に乗じて撲滅すべきである。もし西軍を待てば、これに計略を立てる余裕を与えることになり、どうして我が利となろうか。」そこで全軍を光泰門に集結させ、王佖・李演に騎兵を率いさせ、史萬頃に歩兵を率いさせて、苑の北に進ませた。李晟は前夜、苑の垣を崩して二百歩の道を作っていたが、兵が到着する頃には、賊は既に木を伐って道を塞ぎ、防戦していた。李晟は諸将を叱って言った、「どうして賊を放っておくことができようか。今、まず公らを斬る。」萬頃は恐れ、先に登り、柵を抜いて入った。佖は騎兵を督してこれに続いた。賊は崩壊し、その将の段誠諫を捕らえた。大軍は分かれて進み、雷のような喚声が地を震わせた。令言・庭芝・希倩らは必死に戦った。李晟は唐良臣らに歩騎を突撃させると、賊は陣を成すや敗北し、十余度遭遇しても皆勝てず、白華に追い詰められた。賊は千騎の伏兵を官軍の背後に出した。李晟は麾下の百騎を率いて自らこれに向かい、左右が叫んだ、「相公が来た!」賊は驚いて潰走し、捕虜と首級はほぼ尽きた。朱泚は残兵一万人を率いて西へ逃走し、田子奇がこれを追撃し、残党は悉く降伏した。
李晟は軍を率いて含元殿の外廷に駐屯し、右金吾衛の官舎に宿営し、軍中に命じて言った、「五日の間、決して家族との連絡をしてはならぬ。違う者は斬る。」京兆尹の李齊運に長安・萬年の令を率いさせ、分かれて住民を慰撫させ、秋毫も犯すところがなかった。別将の高明曜が賊の妓女一人を奪い、司馬の伷が賊の馬二頭を奪ったので、即座に斬って示衆した。坊の遠方の住民は、夜が明けて初めて王師の入城を知った。翌日、孟涉は白華に駐屯し、尚可孤は望仙門に駐屯し、駱元光は章敬寺に駐屯し、李晟は安国寺に駐屯した。賊に仕えた者や賊に臣従した宦官を市中で斬り、節を守って屈しなかった者を顕彰し、文武の官を選んで台省の官を代行させ、天子の帰還を待った。賊に脅迫されて汚れた者については、死罪を免ずるよう請うた。
勝利の報告が梁に届くと、帝は感激して涙し、群臣が祝賀を述べ、かつ言った、「李晟は凶悪な賊を掃討平定したが、市は店舗を変えず、宗廟は震動せず、長安の人は旗鼓を知らず、三代の用兵といえども、これに加えることはできない。」帝は言った、「天が李晟を生んだのは、社稷と万民のためである。ただ朕一人のためではない。」李晟を司徒、兼中書令に任じ、実封千戸を与えた。李晟は大将の呉詵に兵三千を率いさせて寶雞に行かせ道を清めさせ、自ら出迎え護衛することを請うたが、許されなかった。帝が梁より到着すると、李晟は戎服で三橋にて謁見した。帝は馬を止めて労った。李晟は再拝頓首し、大盗を殲滅し、朝廷が安泰に復したことを賀し、終わると、跪いて陳べた、「爪牙の臣たる者が、期日を指して賊を破らず、天子を再び巡幸させたことは、臣が職務を全うしなかった咎です。敢えて死を請います。」道の左に伏すと、帝は涙をぬぐい、給事中の齊映に命じて起こさせ、位に就かせた。詔を下して永崇裏に邸宅を、涇陽の上田を、延平門の林園を、女楽一列を賜った。李晟が邸に入ると、京兆府が供帳を設け、教坊が鼓吹を奏して先導し、詔により将相がこれを送った。帝はその功績を記録し、自ら碑文を撰し、皇太子に書写を命じ、東渭橋に立てて後世に示したという。また、太子に命じて副本を書き写させて賜った。
初め、李晟が渭橋に駐屯した時、熒惑(火星)が歳星(木星)の位置を犯し、久しくして退いた。幕府中の者皆が祝賀して言った、「熒惑が退いたのは国家の利益です。速やかに兵を用いる者は栄えます。」李晟は言った、「天子が野に曝されていらっしゃる。人臣は力を尽くして死に、艱難に勤しむべきである。どうして天道を知ることができようか。」この時になって、ようやく言った、「以前、士大夫が李晟に出兵を勧めたが、敢えて拒んだのではない。人は用いることはできても、その理由を知らせることはできないのである。ただ五緯(五星)の運行は一定でない。李晟は再び歳星を犯されることを恐れたのだ。そうなれば我が軍は戦わずして自ら屈服してしまう。」皆が言った、「我々の及ぶところではありません。」
涇州は辺境に接し、しばしばその帥を殺害したので、李晟は命に従わぬ者を処罰することを請うた。これにより耕作を教え、穀物を蓄えて塞下を充実させ、西戎を羈縻せんとした。帝は李晟を鳳翔・隴右・涇原節度使とし、兼ねて行営副元帥とし、西平郡王に徙封し、実封千五百戸を与えた。李晟は李楚琳とともに行くことを請うた。また張鎰を殺した罪を治めようとしたが、帝は反側の心を安んずることを務めていたので、許さなかった。李晟が鳳翔に至ると、乱将の王斌ら十余人が順次誅殺された。時に宦官の尹元貞が節を持って同州・華州に至り、勝手に河中に入り李懐光を諭慰した。李晟は元貞が詔命を偽り、元凶を洗い宥そうとしたと弾劾し、その罪を治めることを請うた。また言うには、「李懐光を赦すことには五つの不可がある。河中は京師まで三百里、同州がその要衝を制する。兵を多くすれば信じていないことを示し、少なければ力が足りず、東辺を驚かせばどう対処するのか。これが一である。今李懐光を赦せば、必ず晋・絳・慈・隰を返すこととなり、渾瑊・康日知はまた移されることになろう。これが二である。兵力がまだ窮していないのに、突然反逆を赦せば、四夷がこれを聞き、陛下の兵が屈して自ら罷めたというであろう。今、回紇は北に拒み、吐蕃は西を塞ぎ、李希烈は淮・蔡で僭称している。強きを棄て弱きを示して、覬覦を招くこと、これが三である。李懐光を赦せば、朔方の将士は皆、勲功を叙し賞を行い、絹と俸禄を追って返還せねばならぬ。今、府庫は空しく尽き、物をもって満たすに足らず、これでは彼らを叛かせることになる。これが四である。河中の包囲を解けば、諸道の軍は還屯し、賜賚があるべきである。賞典を行わなければ、怨言必ず起こる。これが五である。今、河中では米一斗が五百銭、秣草もまさに尽き、人は餓死して牆壁の間にあり、その大将は殺戮されほとんど尽きた。これを旬時に囲めば、力尽きて潰えるであろう。どうか腹心の疾を養って後患とすることなかれ。臣は精兵五千を選び、十日分の糧食を約し、賊を破ることができると請う」と。帝はすでに賊を馬燧・渾瑊に委ねていたので、許さなかった。
李晟が涇州に至ると、田希鑒が迎えて謁し、これを捕らえ、その党の石奇らとともに皆誅殺された。右龍武将軍の李観を涇原節度使に表薦した。李晟は常に言った、「河・隴の陥落は、吐蕃がこれを取ったのではなく、皆、将臣が貪婪で、その種族を暴虐にし、耕稼を得ず、日に日に東へ徙り、自らこれを棄てたのである。かつ土には繒絮がなく、人は苦役に悩まされ、唐を思う心、どうして尽きることがあろうか」と。そこで家財を尽くして降附者を懐柔し、大酋の浪息曩を得て、王号を授けるよう上表した。毎度、虜の使者が来ると、必ず息曩を座に召し、大錦の袍・金帯を着せ、これを誇示したので、虜は皆、指さし目で見て羨んだ。吐蕃の君臣は大いに懼れ、互いに議した。尚結贊という者は計略に長け、すなわち言った、「唐の名将はただ李晟と馬燧・渾瑊のみである。これを除かねば、必ず我が患いとなろう」と。すなわち使者を遣わして言葉を委ね、馬燧を通じて和を請い、かつ盟を求め、盟の機に乗じて渾瑊を捕らえて馬燧を売ろうとした。ここにおいて結贊は大いに兵を起こして隴・岐を越えたが、掠めるものなく、偽って怒って言った、「我を召しておきながら、牛酒で軍を犒わないのか」と。ゆるやかに引き去った。これをもって李晟を離間しようとした。李晟は兵三千を選び、王佖に汧陽の傍らに伏せさせ、その中軍を撃たせ、ほとんど結贊を捕らえんとした。李晟はまた野詩良輔らを遣わして摧沙堡を攻め、これを抜いた。結贊はたびたび和を乞うた。時に李晟が京師に朝したので、奏言した、「戎狄に信義なし、許すべからず」と。宰相の韓滉は李晟と合意し、これにより軍糧を調えて西師に給することを請うた。しかし天子は内に兵を厭い、将臣が事を生ずることを疑った。また韓滉が卒し、張延賞が国政を執ることとなり、もとより李晟と隙があったので、後に詔して和解させたが、陰には与せず、密かに李晟が長く兵権を持てないと言い、かえって劉玄佐・李抱真を推薦して西北を経略させ、功を立てさせて李晟を離間しようとした。帝はその言葉に惑わされた。
明年、詔して李晟のために五廟を立てさせ、高祖の李芝以下を追贈してその主に祔せ、犠牲・器・床・幄を給し、礼官に儀式を執り行わせた。ある日、馬燧とともに延英殿で謁見したとき、帝はその勲功を嘉し、詔を下して言った、「昔、我が烈祖は、乾坤を蕩滌し、隋季の荒蕪を掃い、元を体し極を禦して、人の父母となされた。すなわち熊羆の士、不二心の臣あり、左右で経綸し、参翊して締構し、文徳を昭かにし、武功を恢め、威は若かず、康は乂かず、用て上帝に命を端くし、四方に付畀された。王業既に成り、太階既に平らぎ、すなわちその容を図り、淩煙閣に列ね、績效を懋かに昭かにし、儀形を表し式とし、朝夕を忘れず、永く来裔に垂れんとした。君臣の義、厚きことこれより重きは莫し。歳は己巳の秋九月、我、西宮を行き、崇構を瞻望し、老臣の遺像を見るに、顒然として肅然とし、和敬色に在り。雲龍の協期を想い、致業の艱難を感し、往きを睹て今を思えば、類を取るに遠からず。かつ功は時と並び、才は世と生ず。苟くもその才を蘊め、その時に遇えば、主を尊び人を庇うこと、何の代にか有らざらん。中宗の時には、桓彥範等の如きあり、輔戴の績を著わし、玄宗の時には、劉幽求等の如きあり、弼翼の勲を申べ、肅宗の時には、郭子儀の如きあり、氛祲を掃除せり。今、顧みるに李晟等は、朕躬を保寧し、皆、力を宣べ勤めを肆にし、宗祏を光復せり。前烈に訂すも、豈に多謝せんや。闕けて録せざれば、孰かその賢を旌さん。況んや功を念い徳を紀するは、文祖のなすところなり。我に在りて其れ曷ぞ敢て怠らんや。有司は宜しく先後を叙し、各その象を旧臣の次に図るべし」と。皇太子に命じてその文を書かせて李晟に賜い、李晟は石に刻んで門に置いた。
七年、臨洮が未だ復されないので、万年に附貫することを請うた。詔して可とした。九年、薨去。六十七歳。帝は聞いて涕を流し、詔して百官に第に進んで弔わせた。大斂に臨んで、帝は手詔し、世嗣を存保することを誓い、柩前に申し告げた。冊贈して太師とし、諡して忠武といった。葬送の時、また望春門に臨んで送り、謁者を遣わして詔を柩車に宣べさせ、百官は道で拜哭した。憲宗の元和年中、詔してその家を属籍に与え、李晟を徳宗の廟廷に配饗させた。僖宗が蜀に狩るとき、倉部員外郎の袁皓が李晟の功烈を採り、『興元聖功録』を作り、諸将に遍く賜って、これを表し励ました。
李晟は性来、悪を憎み、部下に対しては明察であった。軍を治める毎に必ず言うには、「某は功労あり、某はこれに長ず」と。たとえ賤しい者でも小さな善行があれば、必ず姓名を記し、特に部下が徒党を組むことを嫌った。義理を重んじ、旧知を厚く遇した。嵐州刺史の譚元澄はかつて李晟に恩徳があり、後に貶謫されて死んだ。李晟が貴顕となってから、その冤罪を正し、詔により元澄を甯州刺史に追贈させ、李晟はその二人の子を養育し、立身させた。鳳翔に在った時、嘗て言うには、「魏徴は直言によって太宗を堯舜の上に致した、忠臣である。私は誠にこれを慕う」と。行軍司馬の李叔度が言うには、「あれは縉紳儒者の為すことであり、公の勲功徳行は何ぞこれを希わんや」と。李晟は言う、「君の言葉は誤りである。私は幸いにも将相の列に備わり、もし身を容れて言わざれば、敢えて犯顔して隠さずと言えようか。是非はただ上に選択を待つのみである」と。叔度は慚じた。故に李晟は毎度進み対する時、忠直に大臣の節を尽くし、未だ外に露わさなかった。家を治めるには厳格で、子や甥は朝夕の挨拶以外には軽々しく会わず、共に語ることは未だ公事に及ばなかった。正月、崔氏の娘が里帰りしたが、諫めて言うには、「汝には家があり、姑が堂に在る。婦は酒食を整え、且つ賓客を待つべきである」と。即座にこれを退け、進ませなかった。礼を達し教えを厚くする類はこのようであった。馬燧と共に朝廷に在った時、宴楽や恩賜の度毎に、使者が道に相連なった。両家から鐘鼓の音が聞こえぬ日があれば、金吾がこれを奏聞し、暫くすると使者が至り、必ず言うには、「今日は何ぞ楽を挙げざるや」と。薨去の後、塩州を築城し、旧池を復し、新たな塩を宰相に賜った。帝は李晟を思い、乃ち塩を霊座に供えた。その寵遇の終始、比べる者無きものであった。
子は十五人あり、その聞こえたる者は李願、李憲、李愬、李聴である。
子 李願 李憲
李願は若い頃謙虚で慎み深かった。李晟が功を立てた時、諸子は未だ官に就いておらず、宰相がこれを聞き届けると、即日に召されて太子賓客・上柱国を授けられた。故事により、柱国の門には戟を列ねるが、遂に父子共にこれを賜った。元和の初め、夏綏銀宥節度使を領した。政は簡にして厳であった。管内に馬を失う者あり、李願は道に牒を掲げ、金を以てこれを購うた。三日にして、失った馬と良馬一頭が牒の下に繋がれ、且つ言うには、「逸走して至り、告げざるは罪死に当たる。謹んで良馬を以て贖う」と。李願は失った馬を返し、その良馬を放ち去らせた。境内は粛然とした。武寧軍節度使に転じた。青・鄆を討伐するに当たり、数度功を立てたが、久しく病んだため、李愬を以て代えられた。召されて刑部尚書となり、俄かに検校尚書左僕射、鳳翔節度使となり、ここに至って声色に近づき政は衰えた。
長慶年中、宣武節度使に転じた。初め、張弘靖はその軍に頗る厚く給したが、李願が至ると、府庫は空乏し、賞賜は弘靖の時には及ばず、しかも奢侈の費はこれを過ぎた。威刑を以て下を操り、姻戚の竇緩を用いて帳中兵を典じさせたが、驕慢で怠惰であった。牙将の李臣則らは衆の忍びざるに乗じ、夜に竇緩の首を斬った。李願は変を聞き、冠を戴く暇もなく、左右数人と共に縋りて逃れ、野人の乗る馬を奪い、馳せて免れた。その家族は兵に殺され、三子は匿れて免れた。兵は既に乱れ、大いに掠奪し、李朅を推して後務を主らせ、朝廷に請うた。時に李願の不職を責め、隋州刺史に貶した。入朝して左金吾衛大將軍となり、再び河中・晉・絳等節度使に拝された。嘗て荒侈に敗れたにも拘わらず、自ら悔い改めず、軍政は愈々弛み、権勢に近い者と結び、官の資財は賂遺に随って直ぐに尽きた。蒲の人は怨み、且つ乱れんとした。会うこと卒し、司徒を贈られた。
李憲と李愬は諸子の中で最も仁孝と称された。李憲は長じて儒学を好み、礼法を以て自らを制した。太原府参軍事・醴泉尉に調された。于頔が襄陽を鎮守する時、府に辟召して任用した。時に呉少誠が淮西で勢力を張ったが、独り于頔の威強を憚り、時に李憲がこれを助けたと謂われた。また魏博の田弘正の幕府に辟召され、衛州刺史に遷り、治行を以て称された。絳州に転じた。絳には幻術を使う者が民を惑わして乱らせようとしたが、李憲はこれを捕らえて誅した。河中の兵は元来、食糧を絳に仰いでいたが、汾水を利用して河・渭に輸送でき、歳の租税と糴買は常に数十万石に上った。故に倉庫を山に保って堅固にし、民の輸送するには、十牛でも一車に勝たなかった。李憲は汾水の畔に地を相して新倉を造り、費用は二百万を要したが、垣県の粟を留めて河南に売り、その銭を以て絳の粟を糴い戻すことを請うた。これにより負載の労を免れ、且つその利益を運用して新倉を完成させ、絳の人はその利に頼った。入朝して宗正少卿となり、金吾大將軍胡證の副使として太和公主を送る使となった。還り、《回鶻道裏記》を献上し、太府卿に遷った。太和の初め、江西観察使より嶺南節度使に遷った。
李憲は、勲功の家の子であり、歴任した所皆吏能を以て顕れ、政績は著しかった。律令を善く治め、性は明察で寛恕、大獄を詳らかに正し、無罪の者数百人を生かした。官の下で卒した。
子 李愬
李愬は、字を元直と云い、籌略有り、騎射に長じた。蔭補により協律郎となり、累遷して衛尉少卿となった。早くに実母を喪い、晉国王夫人に養育された。王が卒すると、李晟は嫡出でないため、諸子に緦麻の服を着るよう命じたが、李愬独り号慟して忍びず、李晟は乃ち縗の服を着ることを許した。練祭の後、李晟が薨じると、李憲と共に墓側に廬し、徳宗は帰第を促して遣わしたが、一晩でまた往き、帝はこれを許した。喪服を除くと、太子右庶子を授けられた。出て坊・晉二州刺史となり、治績が異等であるとして、金紫光禄大夫を加えられ、詹事に進んだ。
憲宗が呉元済を討った時、唐鄧節度使高霞寓が既に敗れ、袁滋を以て将に代えたが、また功が無かった。李愬は自ら試みることを求め、宰相李逢吉もまた李愬を用いるべきと認め、遂に検校左散騎常侍、隋唐鄧節度使とした。李愬はその軍が初めて傷つき、士気が未だ完からぬと見て、斥候や部伍を設けなかった。或る者が言うと、李愬は言う、「賊は今、袁公の寛大さに安んじている。私は彼らを震駭させて我に備えさせたくない」と。乃ち軍中に令して言う、「天子は私が恥を忍ぶことを知り、故に撫養を委ねられた。戦いは、我が事ではない」と。衆は信じて安んじた。乃ち倡優を斥け、未だ嬉楽せず。兵士が傷つき病めば、自ら看護を営んだ。蔡人は嘗て霞寓らを敗り辱めたことあり、また李愬の名は元来畏れる所でないため、これを軽んじ、備えなかった。李愬は沈着勇猛で、誠を推して士を待つことに務めた。故にその卑弱を張りて用いることができた。賊が降って来れば、その便に任せ、或いは父母と孤児で未だ葬らざる者には、粟帛を与えて帰し、労って言う、「汝らもまた王の民である。親戚を棄てるな」と。衆は李愬のために死すことを願い、故に山川の険易と賊の情偽を、一々能く知った。
半年を経て、士が用いるに足ると知り、乃ち援軍を請うた。詔して河中・鄜坊の二千騎を増派した。ここにおいて鎧を繕い兵を励まし、馬鞍山を攻めてこれを下し、道口柵を抜き、嵖岈山で戦い、炉冶城を取った。白狗・汶港柵に入り、楚城を披き、朗山を襲い、再び守将を捕らえた。青陵城を平らげ、驍将丁士良を生け捕りにし、その才を異として殺さず、捉生将に任じた。士良は謝して言う、「呉秀琳が数千の兵で破れざるは、陳光洽がその謀を為すからである。私は公のためにこれを取れよう」と。乃ち光洽を捕らえて献じた。ここにおいて秀琳は文城柵を挙げて降った。遂にその衆を以て呉房を攻め、外垣を破った。初めて出撃する時、吏が言う、「往亡の日であり、法に当り避くべきです」と。李愬は言う、「彼らは我が来ざると思っている。これは撃つべきである」と。引き返すと、賊は精騎を以て後を追撃した。李愬は馬を下りて胡床に据え、軍に令して言う、「退く者は斬る」と。衆は決死して戦い、その将を射殺したので、賊は走った。或る者が呉房を取ることを勧めたが、李愬は言う、「不可である。呉房を抜けば、賊の力は専一となる。これを留めてその力を分かつに如かず」と。
初めに、秀琳が降伏した時、李愬は単騎で柵の下に至り彼と語り、自ら縄を解き、将として任用した。秀琳は李愬に策を授けて言うには、「必ず賊を破るには、李祐でなければ成功する者はない」と。李祐は賊の健将であり、興橋柵を守り、その戦いにおいて常に官軍を軽んじていた。李愬は李祐が野で収穫を護衛しているのを待ち、史用誠に壮健な騎兵三百を率いてその傍らに伏せさせ、疲れた兵卒の様子でまるで集落を焼こうとするかのように見せかけると、李祐は果たして軽率に出撃し、用誠がこれを捕らえて帰還した。諸将は平素より李祐に苦しめられていたので、これを殺すよう請うたが、李愬は聞き入れず、客将として遇した。機会を待ち、李祐及び李忠義を呼び人を退けて語り、夜の更けるまで及んだ。忠義もまた賊将であり、いわゆる李憲という者である。軍中ではこの二人に近づくべからずと諫める者が多かったが、李愬はますます厚く遇した。そこで死士三千人を募って突将とし、自らこれを教練した。雨に会い、五月から七月まで止まず、軍中では李祐を殺さなかった罰であるとし、将吏は雑然として理解しなかった。李愬は独力で李祐を守りきれず、彼を抱えて泣きながら言うには、「天は賊を平定することを望まないのか。どうして奪い取ろうとする者が多いのか」と。そこで枷をかけて朝廷に送り、上表して李祐を必ず殺すべきこと、李祐と共に蔡を誅する者はないと述べた。詔により釈放して李愬に返した。李愬はそこで彼に佩刀を帯びさせて帳下に出入りさせ、六院兵馬使に任じた。六院とは、隋・唐の兵であり、合わせて三千人、皆山南の奇材鋭士であるため、李祐に統率を委ねたのである。李祐は檄を捧げて嗚咽し、諸将はこれ以上言うことができず、ここに初めて蔡を襲う謀略が定まったのである。旧令では、間諜を匿う者は族誅とされた。李愬はその令を改め、一切これを慰撫したため、間諜はかえって実情を報告し、李愬はますます賊の虚実を詳しく知った。
時に李光顔は戦って数度勝利し、呉元済は精鋭の兵卒を全て洄曲に駐屯させて光顔に対抗していた。李愬はその隙に乗ずべきことを知り、従事の鄭澥を遣わして裴度に会い出師の期日を告げさせた。時に元和十一年十月己卯のことであった。軍は夜に出発し、李祐が突将三千を率いて前鋒となり、李忠義がこれを副え、李愬は中軍三千を率い、田進誠が下軍をもって殿とした。文城柵を出て、命令して言うには、「東へ進め」と。六十里進んで止まり、張柴を襲撃し、その守備兵を殲滅した。兵士に少し休むよう命じ、ますます鞍鎧を整え、刃を発し弓を張らせた。大雨雪に会い、天は晦冥となり、凜冽たる風が旗を倒し肌を裂き、馬は皆縮み慄き、兵士は戈を抱えて凍死する者が道中十の一二に及んだ。張柴の東は、陂沢が険阻で奥深く、衆はかつて踏んだことがなく、皆不測の地に投じるという。出発する時、吏が進む方向を請うと、李愬は言うには、「蔡州に入り呉元済を取るのだ」と。兵士は顔色を失い、監軍使者は泣いて言うには、「果たして李祐の計略に落ちた」と。しかし既に李愬に従っている以上、人々は自ら計略を立てることを敢えてしなかった。李愬は道中で軽兵を分遣して橋を断ち洄曲への道を絶ち、また兵を以て朗山への道を絶った。七十里を行き、夜半に懸瓠城に至ると、雪は甚だしく、城の傍らは皆鵞や鴨の池であり、李愬はこれを打たせて、軍の声を乱させた。賊は呉房・朗山の守備を頼み、平然として知る者なし。李祐らは城壁に穴を穿ち先に登り、衆がこれに従い、門番を殺し、関を開き、夜更けの木柝を打つ者を留めて普段通りにさせた。黎明、雪が止み、李愬は入城して元済の外宅に駐屯した。蔡の役人は驚いて言うには、「城が陥落した!」と。元済は尚信じず、言うには、「これは洄曲の子弟が褚衣を求めに来ただけだ」と。そして号令が「常侍が伝言する」と聞こえて初めて驚き、言うには、「どうして常侍がここにいるのか!」と。左右を率いて牙城に登ると、田進誠の兵がこれに迫った。李愬は元済が董重質に救いを望むであろうと計算し、そこで彼の家を訪ねて慰安し、恐れないようにさせ、書を以て重質を召し寄せた。重質は単騎で白衣のまま降伏し、李愬は礼を以て遇した。進誠が南門に火を放つと、元済は罪を請い、梯子で降り、檻車に乗せられて京師に送られた。
申州・光州の諸屯は尚二万の衆がおり、皆降伏したが、李愬は一人も殺戮しなかった。賊に仕えて帳内・厨・厩・厮役に従事していた者は、全て旧来の通り任用し、疑わないようにさせた。そこで鞠場に兵を屯めて裴度を待った。裴度が至ると、李愬は櫜鞬を着けて謁見し、度は避けようとしたが、李愬は言うには、「この地では上下の分が廃れて久しい。どうかこれによって示してください」と。度は宰相の礼を以て李愬の謁見を受け、蔡人は聳立して見守った。そこで文城柵に還って屯した。詔があり、検校尚書左僕射・山南東道節度使に進み、涼国公に封ぜられ、実封五百戸を賜り、一子に五品官を賜った。
帝は隴右を経略しようとしていたため、李愬を鳳翔節度使に転任させた。李師道が反逆すると、詔して李愬に代わって王願を帥とする武寧軍を率いさせた。十日足らずで父兄の二鎮を踏み、世はこれを栄誉とした。董重質が罪を得て排斥されると、李愬は軍中で自ら効力を尽くすことを賜わるよう請い、許され、そこで牙将に任じた。李愬は賊と金郷で戦い、これを破った。合わせて十一度遭遇し、その隊帥五十人を捕らえ、捕虜及び斬首は万を数えた。淄青が平定され、同中書門下平章事に進み、昭義節度使に転じ、興寧里に邸宅を賜った。時に田弘正が鎮州を守っていたため、李愬を以て魏博節度使とした。長慶初め、幽州・鎮州が乱れ、弘正を殺害すると、李愬は素服を着けて軍に令して言うには、「魏人が富庶で天化に通じているのは、田公の力である。上はその人を愛することを以て、鎮州を治めに行かせた。かつ田公は魏を撫すること七年、今鎮人が道に背きこれを害したのは、魏を無きものとするである。田公の恩を食む父兄子弟は、どうしてこれを報いるのか」と。衆は皆泣いた。また玉帯・宝剣を牛元翼に贈り、言うには、「この剣は我が先人が嘗て大盗を討つのに用い、我もまた蔡の奸を平定した。今鎮人が天に逆らい、公はこれを用いてこれを平らげるべきである」と。元翼は感動し、謝して言うには、「敢えてこれを受けずしてその死力を惜しむことがあろうか!」と。そこで軍中に令を下し、兵を整えて待機させた。時に李愬は病が甚だしく、軍を統率できず、詔して田布に代わらせ、太子少保として東都に還った。卒す。年四十九。太尉を贈られ、諡して武といった。
李愬は自らの行いを倹約した。その兄弟は家の勲功貴顕を頼み、車馬を飾り、屋舎を誇ったが、ただ李愬の居所は父の時代の旧い院のままで、増築広げることはなかった。初め、李晟が京師を克復した時、市肆は改まらず、李愬が蔡を平定した時もまた同じであった。功名の奇は、近世未だかつてなかった。晩年は取士に疎かになり、鄭注と親善したが、議する者はこれをもってその賢を覆い隠すとはしなかった。
賛して言う。李愬は李祐を得て殺さず、兵を付けて疑わず、賊を破ることができると知ったのである。李祐は任を受けて辞さず、決策して死地に入り、李愬がその謀を用いることができたのである。李祐の才は、李愬を待って初めて顕れた。故に言う、蔡平定の功は、李愬が多い、と。
子に李聴あり。
李聴は、字を正思といい、七歳で蔭官により協律郎となり、父の吏が彼を軽んじ、あまり敬わなかったので、聴はすぐにこれを鞭打たせ、李晟はその才を奇とした。成長してから于頔の府に佐として召された。吐突承璀が王承宗を討つ時、李聴を神策行営兵馬使とした。戦うや、賊の驍将を斬り、憲宗はこれを壮とし、詔して図を描いて献上させた。承璀はしばしば李聴に計を問い、遂に盧従史を縛った。左驍衛将軍に遷り、蔚州刺史として出向した。州に銅冶があり、天宝以後廃れて治めず、民は盗鑄を禁じられなかった。聴はそこで五炉を開き、官が銭を鋳造すること一日五万、人に犯す者無し。安州に転じた。時に観察使柳公綽が蔡を討とうとしており、李聴に軍を統率させ、逐一諮問し、その名声は賊中に振るった。羽林将軍に召された。
帝が李師道を討つ時、李聴を楚州刺史として出した。淮西兵は綿弱であり、鄆人は平素よりこれを軽んじていた。聴は日々整頓統率し、兵士は皆奮い立った。すぐに賊の不意を掩い、漣水に趨り、沭陽を破り、龍沮堰を絶ち、遂に海州を取り、朐山を攻めてこれを降し、懐仁・東海の両城は風に望んで款を通じた。功により御史大夫を兼ね、夏綏銀宥節度使となった。また霊塩に転じた。管下に光禄渠があり、久しく廃れていたが、聴が初めて屯田を復して転餉を省き、すぐに渠を引いて塞下の地千頃を灌漑し、後世その豊かさに頼った。検校工部尚書に進んだ。
穆宗が即位した初め、幽州・鎮州が反し、名臣を選んで太原を節度させ裴度に代え、兵を統率させ北討させようとした。李聴が羽林にあった時、駿馬があり、帝(穆宗)が東宮にあった時、左右の者に命じてこれを取るようほのめかさせたが、聴は自ら宿衛の身であることを理由に、敢えて献上しなかった。そこで帝は、「李聴はかつて軍中にあって、朕に馬を与えなかった。これは必ず任に堪える者である」と言い、そこで検校兵部尚書を授け、河東節度使を充てた。敬宗が位を嗣ぐと、義成軍に改めた。太和初年、李同捷を討つにあたり、魏博の将丌志沼が反し、その帥史憲誠を撃った。詔して聴に出援させ、志沼を撃ち殺した。功により涼国公に封ぜられ、一子に五品官を授けた。
王廷湊の乱に際し、詔して聴に兵を悉く貝州に屯させた。史憲誠は聴が道を取って襲うことを恐れ、甲を衷て郊外で待った。聴は士卒に命じて兵を嚢に収め野営させたので、魏人はようやく安んじた。憲誠が朝請を請うと、魏人は怨み、詔して聴に魏博を兼ねて帥せしめた。聴は遷延して即時に赴かず、魏は遂に乱れ、憲誠を殺し、共に大将何進滔を推して城に乗り拒守させた。聴は入ることができず、館陶に屯した。また備えを設けなかったので、魏人がこれを襲い、師は驚いて潰え、死失すること半ばに及び、輜重器械ことごとくこれを棄て、聴は昼夜馳せて免れた。ここにおいて御史中丞温造らが劾奏して、魏州の乱、憲誠の死は、職として聴に由るとし、法の如く論ずることを請うた。天子は罪とせず、罷めて太子少師とした。
聴は平素より賂遺をもって権幸の心を得ていたので、多く助力があった。間もなく、邠寧節度使に拝された。邠の官署は相伝えて垣舎を治めるに利からずとされ、前刺史はその壊れたるを見て、敢えて修繕する者なかった。聴は言った、「将として凶門を出でんとするに、何ぞ官署を治めることを避けんや」と。急ぎこれを完新させ、ついに異変はなかった。武寧軍を帥するに改めた。旧奴で徐の将となった者がおり、聴の来るを喜ばず、先んじて徐に使した親吏を殺して聴を沮んだ。聴は果たして懼れ、疾を以て解き、太子少保を授かった。一年余りして、鳳翔を節度し、また陳許に徙った。鄭注がその過失を摘発し、詔して太子太保を以て東都に分司させた。開成初年、河中晉絳慈隰節度使となった。文宗は歎じて言った、「兵を付けて疑わず、散地に退きて怨まず、聴のみがこれ可なり」と。四年、疾を以て還ることを求め、再び太子太保に拝された。卒す。年六十一。司徒を贈られた。
聴は官を治めるに苛細で、急に収斂を迫り、その欲するところを極め、車馬服玩を盛んに飾った。ある者がこれを戒めると、聴は言った、「家声は人に在り、もし衰薄を示せば、忠功の効を見ること恐らくできぬ。吾は誇ってこれを勧めんと欲するなり」と。方書を好み、その験ある者を選び、帷帟牆屋に題して皆満たした。
聴の子 李琢
聴の子琢は、家閥を以て累ねて義昌、平盧、鎮海の三節度使に擢でられたが、顕功なく、士大夫に称道されなかった。数度免ぜられまた遷された。広明の時、沙陀が数度辺境を盗み、ここにおいて琢は宿将として、検校尚書右僕射、蔚朔等州招討・都統・行営節度使に拝された。河陽三城に徙り、逗撓の罪に坐し、下って刺史に遷り、卒した。
甥 王佖
王佖は、李晟の甥であり、武勇果断で、騎射に熟達していた。晟が軍中にある時、佖は従わざることはなかった。光泰門にて朱泚を攻むる時、賊は正に鋭く、佖は李演と共に鏖戦して血に蹀り、賊は数度敗北し、諸軍これに乗じ、遂に大いに振るった。功により神策将に擢でられた。吐蕃を撃って功があった。晟は佖を子姓と等しく視し、その給与はこれを過ぎた。晟の兵が罷められると、佖もまた用いられず、召されて左衛上將軍となった。元和年中、朔方・霊塩節度使に拝された。吐蕃は烏蘭橋を作って師を通そうとし、材を河曲に積んだ。朔方府は常に兵を遣わしてその材を発し、河に委ねたので、成すことができなかった。佖が至ると、虜はその謀寡ないことを知り、厚く賂して急ぎ功を遂げ、月城を築いて守った。ここより虜は歳々入寇し、朔方は障塞に乗ずる暇なく、人は佖を咎めた。鎮中では下を検するに術なく、猜忌多く人を殺した。召還されて右衛將軍となった。故事によれば、将相の除徙は皆内より制を出し、故に「白麻」と号したが、佖に至り、責めにより罷められ、遂に中書より制を進めた。久しくして卒した。
賛して言う。李晟が東渭橋に屯した時、朱泚は京師を盗み、李懐光は咸陽に反し、河北の三叛相王し、李納は河南に猘き、李希烈は鄭・汴に訌した。晟は積貯輸糧なく、孤軍を提げて群賊に抗し、身に安危を佩びながら気少しも衰えざるは、ただ忠誼をもって人を感ずるにより、故に豪英これがために死するを楽しんだのである。師が長安に入るに至って人知らず、三王の佐といえども、その能を進むる者なく、仁義の将というべし。嗚呼、功は社稷を存するも、庸主に見信されず、卒にその兵を奪わる。哀しいかな。されども、功天下に蓋う者は、退くこと禍を免るるのみ。四子(李聴・李琢・王佖ら)は世その労に似て、是れ後あるべきか。