新唐書

巻一百五十三 列傳第七十八 段秀實 顏真卿

段秀實

段秀實、字は成公、本は姑臧の人である。曾祖父の師濬は、隴州刺史として仕え、留まって帰らず、更に汧陽の人となった。秀實六歳の時、母が病に臥せり、勺飲すら七日間受けず、病が癒えて初めて食を肯う、時に「孝童」と号された。長じて後は、沈着で厚く決断力あり、慨然として世を救う志を有した。明経に挙げられしも、其の友これを軽んず、秀實曰く「章句を捜り擿つは、以て功を立てるに足らず」と。乃ち棄て去る。

天宝四載、安西節度使馬霊詧に従い護密を討ち功有り、安西府別将を授かる。霊詧罷むると、又高仙芝に事う。仙芝大食を討ち、怛邏斯城を囲む。会に虜の救い至り、仙芝の兵退き、士卒相失う。秀實夜に副将李嗣業の声を聞き、之を識り、因りて責めて曰く「敵を憚りて奔るは、勇に非ず、己を免れて衆を陥るは、仁に非ず」と。嗣業慚じ、乃ち秀實と共に散卒を収め、再び軍を成し、安西に還り、秀實を判官と為さんことを請う。隴州大推府果毅に遷る。後に封常清に従い大勃律を討ち、賀薩労城に次ぐ。虜と戦い、之に勝つ。常清北に逐う、秀實曰く「賊は羸師を出だし、我を餌とす、大いに索むるを請う」と。悉く其の廋伏を得、虜師唧す。綏徳府折衝都尉に改む。

粛宗霊武に在り、詔して嗣業に安西兵五千を以て行在に走らしむ。節度使梁宰は逗留して変を観んと欲し、嗣業は陰に然し可とす。秀實責めて謂いて曰く「天子方に急なるに、臣下乃ち晏然たらんと欲す、公常に自ら大丈夫と称す、今誠に児女の如し」と。嗣業因りて固く宰に請い、遂に師を東し、秀實を副と為す。嗣業節度使と為り、而して秀實方に父喪に居る。表して起ちて義王友と為し、節度判官を充てしむ。安慶緒鄴に奔る、嗣業諸将と共に之を囲み、輜重を河内に委ね、秀實を署して兼ねて懐州長史と為し、州事を知り、兼ねて留後と為す。時に師老い財覂え、秀實饋を督して道に系ぎ、士を募り馬を市して軍を助く。諸軍愁思岡に戦い、嗣業流矢に中り卒す。衆推して荔非元礼をして其の軍を将うに代えしむ。秀實之を聞き、即ち白孝德に書を遺し、卒を発して喪を護り河内に送らしめ、親しく将吏と共に諸境に迎え、私財を傾けて之を葬る。元礼其の義を高しとし、奏して試みに光禄少卿に擢ぐ。俄にして元礼麾下に殺され、将佐多く死す。惟だ秀實は恩信を以て士卒に服せられ、皆羅拜して害せず、更に推して白孝德を節度使と為す。秀實凡そ三府を佐け、益々知名となる。

時に吐蕃京師を襲い、代宗陝に幸す。孝德を勧めて即日鼓行して入援せしむ。孝德邠寧に徙り、支度営田副使を署す。是に於て邠寧食に乏しく、乃ち奉天に屯するを請い、畿内に仰ぎ給う。時に公廩竭き、県吏出ずる所を知らず、皆逃げ去り、軍輒ち散じて剽し、孝德制す能わず。秀實曰く「我をして軍候と為さしめば、豈に是に至らんや」と。司馬王稷之を言い、遂に奉天行営事を知る。号令厳にして壹、軍中畏れて戢む。兵還り、孝德薦めて涇州刺史と為し、張掖郡王に封ず。

時に郭子儀副元帥と為り、蒲に居る。子晞は検校尚書を以て行営節度使を領し、邠州に屯す。士放縦して法に背き、邠人の嗜悪なる者、賄を納れて名を伍中に竄え、因りて志を肆にし、吏問うを得ず。白昼群行して市に於て丐頡し、嗛からざる有れば、輒ち市人を撃ち傷つけ、釜・鬲・甕・盎を椎きて道に盈ち、遂に孕婦を撞き害するに至る。孝德劾するを敢えず、秀實州より状を以て府に白し、計事を願う。至れば則ち曰く「天子生人を以て公に付して治めしむ、公人の暴害せらるるを見て恬然たり、将に大乱せんとす、若何」と。孝德曰く「教えを奉らんことを願う」と。因りて請いて曰く「秀實人無寇暴死するを忍びず、天子の辺事を乱す。公誠に都虞候と為さんと思わば、公の為に乱を已むる能わん」と。孝德即ち檄を以て署して軍に付す。俄にして晞の士十七人市に入り酒を取り、酒翁を刺し、釀器を壊す。秀實卒を列ねて之を取り、首を断ち槊の上に置き、市門外に植う。一営大いに噪ぎ、尽く甲す。孝德恐れ、秀實を召して曰く「奈何」と。秀實曰く「軍に辞せんことを請う」と。乃ち佩刀を解き、老いたる鐍一人を選び馬を持たしめ、晞の門下に至る。甲する者出づ、秀實笑いて且つ入りて曰く「一老卒を殺すに、何ぞ甲するや、吾頭を戴きて来れり」と。甲する者愕眙す。因りて之を曉して曰く「尚書固より若属に負くや、副元帥固より若属に負くや、奈何ぞ乱を以て郭氏を敗らんと欲する」と。晞出づ、秀實曰く「副元帥の功天地に塞がり、務めに当たり始終すべし。今尚書卒を恣にして暴を為さしめ、天子の辺を乱さしむ、誰に帰罪せんと欲するや、罪将に副元帥に及ばん。今邠の悪子弟貨を以て名を軍籍中に竄え、人を殺害し、藉藉として是の如し、幾日か大乱せざらん、乱は尚書より出づ。人皆曰く、尚書副元帥の故を以て士を戢えずと。然らば則ち郭氏の功名、其れ存する者と与に幾何ぞ」と。晞再拝して曰く「公幸いに教う、晞軍を奉じて従わんことを願う」と。即ち左右を叱して皆甲を解かしめ、令して曰く「敢えて喧する者は死す」と。秀實曰く「吾未だ晡食せず、具を設けんことを請う」と。已に食し、曰く「吾疾発す、願わくは門下に宿らん」と。遂に軍中に臥す。晞大いに駭き、候卒を戒めて柝を撃ちて之を衛わしむ。旦、俱に孝德の所に至り、不能を謝す。邠是より安し。

初め、秀實営田官と為る。涇の大将焦令諶人の田を取りて自ら占め、農に与え、熟すれば其の半を帰すを約す。是歳大旱し、農告げて入る無しとす。令諶曰く「我は入るを知り、旱を知らず」と。責むること急なり、農償うるに以て無く、往きて秀實に訴う。秀實牒を署して之を免じ、因りて人をして遜りて令諶に諭さしむ。令諶怒り、農を召し責めて曰く「我段秀實を畏るるか」と。牒を背上に置き、大杖を以て二十撃ち、輿して廷中に致す。秀實泣いて曰く「乃ち我汝を困す」と。即ち自ら裳を裂き瘡を裹み薬を注ぎ、己が馬を売りて以て代償す。淮西の将尹少榮頗る剛鯁なり、入りて令諶を罵りて曰く「汝誠に人か、涇州野赭の如く、人饑え死す、而して爾必ず穀を得んとし、罪無き者を撃つ。段公は仁信の大人、唯一の馬有り、売りて穀を市い汝に入る、汝之を取りて恥じずや。凡そ人として天災を傲り、大人を犯し、罪無き者を撃つ、尚お奴隷に愧じざらんや」と。令諶聞き、大いに愧じて汗を流し、曰く「吾終に段公を見ることを得ず」と。一夕、自ら恨みて死す。

馬璘が段孝徳に代わると、事ごとに秀実に諮問した。馬璘の処置が適切でない時は、秀実は強く争い、従わなければ止めなかった。初め、馬璘が涇州に城を築いた時、秀実は留後として功労により御史中丞を加えられた。大暦三年、遂に涇州に移った。この軍は四鎮・北庭より国難に赴き、征伐して幾度も功を立てたが、急に移されたので、互いに怨言を発した。別将の王童之が乱を謀り、『警鼓を聞いたら挙兵する』と約束した。秀実はこれを知り、鼓手を召し出し、節度を失ったと偽って怒り、『毎に籌(時計)が尽きたら必ず報告せよ』と戒めた。そこで数刻を延ばし、四鼓が尽きて夜明けとなった。翌日、また告げる者がいて、『夜に藁積みを焼き、救火を約束して乱を起こす』と言った。秀実は厳重に警戒した。夜中に果たして火が起こり、軍中に令して、『敢えて救う者は斬る』と言った。童之は外におり、入ることを請うたが、許さなかった。翌日、彼を捕らえ、その徒党八人と共に斬って示し、『後に移る者は族誅する』と言った。軍は遂に涇州に移った。当時、食糧に長く蓄えがなく、城郭に住む者もなく、朝廷はこれを憂い、詔して馬璘に鄭・潁二州を領させて軍を助け、秀実を留後とした。軍は物資に乏しまず、二州は治まった。馬璘はその功績を称え、行軍司馬を奏請し、兼ねて都知兵馬使とした。

吐蕃が辺境を侵し、塩倉で戦い、軍は利あらず。馬璘は敵に遮られ、還ることができず、都將が潰兵を率いて先に入ろうとした。秀実が責めて言うには、『兵法に、将を失えば麾下は斬るとある。公らは死を忘れて、その家を安んじようとするのか』。そこで城中の兵士を全て集め、鋭将に統率させ、東原に依って奇兵を列ね、賊に戦う構えを示した。虜はこれを見て、敢えて迫らなかった。やがて馬璘は帰還できた。

久しくして、馬璘が病に罹り、秀実に節度副使を摂行するよう請うた。秀実は甲を整えて変事に備えた。馬璘が卒すると、願将の馬頔に喪事を主させ、李漢恵に賓客を主させ、家人は堂に、宗族は廷に、賓将は牙内に、尉吏士卒は営次に位置させ、その親族でなければ喪側に居ることを許さなかった。朝夕に臨み、三日で止めた。族談して離立する者があれば、皆捕らえて囚えた。都虞候の史廷幹・裨将の崔珍・張景華が乱を謀ろうとしたが、秀実は廷幹を京師に送り、珍と景華を外に移し、一軍は遂に安まった。

即時に四鎮北庭行軍・涇原鄭潁節度使を拝命した。数年、吐蕃は敢えて塞を犯さなかった。また格令に従い、官使の二料のうち一料を取り、公の会でなければ楽を挙げ酒を飲まず、室に妓媵なく、余財なく、賓佐が至れば軍政を議し、私事には及ばなかった。十三年に来朝し、蓬萊殿で対し、代宗が辺境を安んずる方法を問うと、地を画いて答え、件別に条陳した。帝は喜び、慰労と賞賜を厚くし、また第一等の邸宅一区を賜い、実封百戸とした。鎮に還った。徳宗が立つと、検校礼部尚書を加えられた。建中初め、宰相の楊炎が元載の議を追って、原州に城を築こうとし、詔して中使に状を問わせた。秀実は言う、『今は春で土功を興すべからず、農隙を待たれよ』。楊炎は自分を沮むと思い、遂に召して司農卿とした。

朱泚が反すると、秀実が兵を失い、必ず恨み憤るだろうし、かつ平素から人望があるので、騎兵をやって迎えさせた。秀実は子弟と訣別して入った。朱泚は喜んで言う、『公が来れば、我が事は成る』。秀実は言う、『将士が東征し、宴賜が豊かでないのは、有司の過ちであって、人主がどうして知ろうか。公は本来忠義をもって天下に聞こえ、今変が倉卒に起こった。禍福を以て衆を諭し、宮室を掃清し、乗輿を迎えるのが、公の職分である』。朱泚は黙然とした。秀実はこれが叶わぬと知り、乃ち陽とこれに合し、陰に将軍の劉海賓・姚令言・都虞候の何明礼と結び、朱泚を図ろうとした。三人は皆、秀実が平素から厚く遇していた者である。時に源休が朱泚に偽って天子を迎えるよう教え、将の韓旻に鋭師三千を率いさせて奉天に疾駆させた。秀実は宗社の危険は喘ぐ暇もないと思い、乃ち人をやって大吏の岐霊嶽に令言の印を窃取させようとしたが、得られず、乃ち司農の印を倒用してその兵を追い返した。韓旻が駱驛に至り、符を得て還った。秀実は海賓に言う、『韓旻が来れば、我らは生き残れない。我は直ちに賊を搏ち殺すべきだ。そうでなければ死のう』。乃ち事急なれば継ぐことを約し、明礼に外で応ずるよう命じた。翌日、朱泚が秀実を召して事を計った。源休・姚令言・李忠臣・李子平が皆在座した。秀実は戎服で休と並び語り、僭位に至ると、勃然として起き上がり、休の腕を執り、その象笏を奪い、奮って前に進み、朱泚の面に唾して大罵した、『狂賊!万段に磔にすべきもの、我どうして汝に従って反せんや』。遂にこれを撃った。朱泚は臂を挙げて笏を防ぎ、額に中り、血が面に流れ、匍匐して逃げた。賊衆は敢えて動かず、海賓らは至らなかった。秀実は大呼した、『我は反に与せず、何ぞ我を殺さざる』。遂に害され、六十五歳であった。海賓・明礼・霊嶽らは皆続いて賊に害された。帝は奉天におり、秀実を用いてその才を極めなかったことを恨み、涙を垂れて悔い悵んだ。

初め、秀実が涇州より召された時、その家に戒めて言った、『もし岐を過ぎれば、朱泚は必ず贈遺を致すだろう。慎んで納れるな』。岐に至ると、朱泚は固より大綾三百を贈った。家人は拒んだが、遂げられなかった。都に至り、秀実は怒って言った、『我は終に我が第を汚すことはしない』。これを司農の治堂の梁の間に置いた。吏が後に朱泚に告げた。朱泚が取って見ると、その封帕は完うして新しかった。

秀実は嘗て禁兵が寡弱で、非常事態に備えられないと思い、帝に言った、『古え、天子は万乗、諸侯は千乗、大夫は百乗と言う。これは大をもって小を制し、十をもって一を制するためである。今、外には朝廷に従わぬ虜があり、内には命を梗ぐ臣があり、しかるに禁兵は寡少である。卒然として患難あれば、何をもってこれに待たん。かつ猛虎が百獣に畏れられるのは、爪牙があるためである。もしこれを去れば、犬彘馬牛も皆敵となり得る』。帝は用いなかった。涇州の兵卒が乱を起こし、神策六軍を召した時、一人も至る者がなく、世間はその謀を称えた。

興元元年、詔して太尉を贈り、諡して忠烈とした。封戸五百、荘・第各一区を賜う。長子は三品、諸子は五品とし、並びに正員の官とした。帝が都に還ると、また詔して祭を致し、その門閭を旌表し、親しくその碑に銘をした。太和中、子の伯倫が初めて廟を立て、詔して鹵簿を給し、度支より綾絹五百を賜い、少牢をもって祭を致した。

伯倫は累官して福建観察使となり、太僕卿で終わった。時に宰相の李石が文宗に賻襚を加えるよう請うた。鄭覃が言う、『古より身を殺して社稷に利する者は、秀実の如きはない』。帝は惻然とし、朝を罷め、その請を許した。

孫の嶷・文楚・珂は知名である。

孫 嶷

嶷は鄭滑節度使より入りて右金吾衛大将軍となり、西平郡公に封ぜられた。甘露の変の時、嶷は誅されるべきであったが、裴度が忠臣の後であると奏し、死を免ずべきとし、循州司馬に貶された。

孫 文楚

文楚は、咸通末に雲州防禦使となった。時に李国昌が振武を鎮め、国昌の子の克用が雲中を得ようとし、兵を引いてこれを攻め、闘鶏台の下で殺した。沙陀の乱はここに始まった。

孫 珂

珂は、僖宗の時に潁州に居住した。黄巢が潁州を包囲すると、刺史は城を降伏させようとしたが、珂は少年を募って抗戦し、兵卒らは糧食を携えて従軍を請い、賊は遂に潰走した。州司馬に任ぜられた。

附 劉海賓

劉海賓は、彭城の人であり、義侠をもって知られた。涇原兵馬将となり、段秀実と親善であった。戦功を重ね、御史中丞を兼ねた。劉文喜が涇州を占拠して叛くと、海賓はその子光国とともに奏請するふりをして欺いた。対面の機会を得ると、奸悪を誅すべき状勢を述べた。帰還後、光国は自ら文喜を斬り、その首を朝廷に献じた。左ぎょう衛大将軍に任ぜられ、五原郡王に封ぜられた。海賓は楽平郡王となり、太子太保を追贈され、実封百戸を賜った。

顏真卿

顏真卿、字は清臣、秘書監師古の五世の従孫である。幼くして孤となり、母の殷氏が自ら訓導を加えた。成長すると、博学で文章に巧みであり、親に仕えて孝行であった。

開元年中、進士に挙げられ、また制科に抜擢された。醴泉尉に任ぜられる。再び監察御史に遷り、河・隴の地に使した。時に五原に冤罪の獄が久しく決せず、天は旱魃となろうとしていた。真卿が獄を弁明すると雨が降り、郡人は「御史雨」と呼んだ。再び河東に使し、朔方令鄭延祚が母の死後三十年も埋葬しないことを弾劾上奏した。詔により終身仕官を許されず、聞く者は聳然とした。殿中侍御史に遷る。時に御史吉温が私怨により中丞宋渾を陥れ、賀州に貶された。真卿は言った、「どうして一時の憤りをもって、宋璟の後裔を危うくせんとするのか」。宰相楊国忠はこれを憎み、中丞蔣冽に諷して東都採訪判官に奏させ、さらに武部員外郎に転じた。国忠は終に彼を去らせんとし、平原太守として出させた。

安禄山の叛逆の兆しが萌し、真卿は必ず反逆すると推量し、霖雨を仮託して城壁を増築し濠を浚い、有能な壮丁を選び、倉庫に食糧を蓄えた。日ごとに賓客と舟を浮かべて酒を飲み、禄山の疑いを和らげた。果たして書生と見做され、警戒されなかった。禄山が反逆すると、河朔はことごとく陥落したが、平原だけは城守の備えが整っており、司兵参軍李平を馳せさせて奏上させた。玄宗は初めて乱を聞き、嘆いて言った、「河北二十四郡に、一人の忠臣もいないのか」。平が到着すると、帝は大いに喜び、左右に謂って言った、「朕は真卿がどのような人物か知らなかったが、その行いはかくの如きか」。

時に平原には静塞兵三千があり、さらに兵士を募り、一万人を得た。録事参軍李択交にこれを統率させ、刁万歳・和琳・徐浩・馬相如・高抗朗らを将とし、各部隊を分掌させた。城西門で兵士に大饗を与え、慷慨として涙を流すと、兵卒らは感動して奮い立った。饒陽太守盧全誠・済南太守李随・清河長史王懷忠・景城司馬李〓韋・鄴郡太守王燾がそれぞれ兵を率いて帰順し、詔により北海太守賀蘭進明に精鋭五千を率いて黄河を渡り援助するよう命じた。賊が東都を破り、段子光を遣わして李憕・盧奕・蔣清の首を伝え示し河北を巡回させた。真卿は兵卒らが恐れるのを畏れ、諸将に欺いて言った、「私は平素より憕らを知っているが、その首は皆本物ではない」。そこで子光を斬り、三つの首を隠した。後日、藁を結んで体を継ぎ、殯して祭り、位を設けて哭した。

この時、従父兄の杲卿が常山太守となり、賊将李欽湊らを斬り、土門を清めた。十七郡が同日に自ら帰順し、真卿を推して盟主とし、兵二十万で燕・趙の連絡を絶った。詔により即座に戸部侍郎に任ぜられ、李光弼を補佐して賊を討たせた。真卿は李暉を副とし、李銑・賈載・沈震を用いて判官とした。まもなく河北招討採訪使を加えられた。

清河太守が郡人李崿を遣わして援軍を乞うた。崿は言った、「公が率先して奮い立ち大順を唱えられたと聞き、河朔は公を金城のごとく頼りにしています。清河は西の隣国であり、江淮の租布を北軍に備え、『天下の北庫』と号します。その蓄積を計れば、平原の三倍に足り、士卒は平原の二倍の数に相当します。公がこれを撫有して腹心とし、他の城を運営することは、臂の指を使うが如きものです」。真卿は兵六千を出し、謂って言った、「我が兵は既に出た。子は何を以て私を教えようとするか」。崿は言った、「朝廷は程千里に十万の兵を統率させ、太行より東に出て、槨口から出ようとしており、賊を阻んで前進させません。公が先んじて魏郡を討ち、賊の守将袁知泰を斬り、精兵をもって{{?}}郭口を開き、官軍を出して鄴・幽陵を討たせ、平原・清河が合わせて十万の兵で洛陽らくようを巡行し、精鋭を分けてその衝を制すれば、公は堅壁して戦わず、数十日もせず賊は必ず潰え、互いに図って死ぬでしょう」。真卿はこれを然りとした。そこで清河等の郡に檄を飛ばし、大将李択交・副将范冬馥・和琳・徐浩を遣わし、清河・博平の兵五千とともに堂邑に駐屯させた。袁知泰は将白嗣深・乙舒蒙らに兵二万を率いさせて防戦したが、賊は敗れ、首級一万を斬り、知泰は汲郡に逃れた。

史思明が饒陽を包囲し、遊奕兵を遣わして平原の救軍を遮断した。真卿は敵わぬことを恐れ、書を以て賀蘭進明を招き、河北招討使の職を譲った。進明は信都で敗れた。時に平盧将劉正臣が漁陽を以て帰順した。真卿はその意志を堅固にせんと欲し、賈載を遣わして海を越え軍資十余万を送り、子の頗を人質とした。頗はわずか十歳であり、軍中は固く留めるよう請うたが、従わなかった。

粛宗が既に霊武で即位した。真卿はたびたび使者を遣わし、蠟丸に書を包んで事態を奏上した。工部尚書兼御史大夫に任ぜられ、再び河北招討使となった。時に軍費が困窮し、李崿は真卿に景城の塩を収め、諸郡に輸送させるよう勧めた。用度は遂に乏しくなかった。第五琦が進明の軍に参じていたが、後にこの法を得て施行し、軍用は豊かになった。

禄山は虚に乗じて思明・尹子奇を遣わし河北を急攻し、諸郡は再び陥落したが、平原・博平・清河だけは固守した。然れども人心は危惧し、再び振るわなかった。真卿は衆に謀って言った、「賊は甚だ鋭く、抗しがたい。もし命を委ねて国を辱めるは、計略にあらず。直ちに行在に赴くに如かず。朝廷が敗軍の罪を誅するも、我は死んでも恨みない」。至徳元載十月、郡を棄てて黄河を渡り、艱難を経て鳳翔に至り帝に謁した。詔により憲部尚書を授けられ、御史大夫に遷った。

朝廷が草創で余裕ない中、真卿は平素の如く規律を正して治めた。武部侍郎崔漪・諫議大夫李何忌は皆弾劾され斥けられ降格した。広平王が兵二十万を総率して長安ちょうあんを平定する時、辞去の日、宮門前で乗馬を憚り、急ぎ出て{{?}}枑を過ぎてから乗った。王府都虞候管崇嗣は王に先んじて騎乗したので、真卿はこれを弾劾した。帝は奏上に答えて慰め、言った、「朕の子は毎回出るごとに諄々と教戒する故、敢えて過ちを犯さない。崇嗣は老いて粗忽である。卿は暫く容赦せよ」。百官は肅然とした。両京が回復すると、帝は左司郎中李選を遺わして宗廟に告げさせたが、祝文に「嗣皇帝」と署した。真卿は礼儀使崔器に謂って言った、「上皇はしょくにおられる。これでよいのか」。器は急ぎ奏上して改めさせ、帝はこれを達識と認めた。また建言した、「『春秋』に、新宮の災いに魯の成公は三日哭したとあります。今、太廟が賊に毀たれました。野に壇を築き、皇帝が東向きに哭し、その後使者を遣わすことを請います」。聞き入れられなかった。宰相はその言を厭い、馮翊太守として出させた。蒲州刺史に転じ、丹陽県子に封ぜられた。御史唐旻の誣告により弾劾され、饒州刺史に貶された。

乾元二年、浙西節度使に任ぜられた。劉展が反逆せんとすると、真卿は予め戦備を整えた。都統李峘は事を生じさせると考え、真卿を非難し、刑部侍郎に召し返した。劉展は遂に兵を挙げて淮を渡り、李峘は江西に奔った。

李輔国が上皇を西宮に遷したとき、顔真卿は百官を率いて起居を問うた。輔国はこれを憎み、蓬州長史に貶した。代宗が即位すると、利州刺史として起用されたが、拝命せず、再び吏部侍郎に遷った。荊南節度使に任じられたが、赴任せず、尚書右丞に改められた。

帝が陝州から還ると、真卿は先に陵廟を拝謁してから宮中に入るよう請うた。宰相の元載は迂遠であると考えた。真卿は怒って言った、「任用するか否かは公の判断である。言う者に何の罪があろうか。しかし朝廷の事柄を、公が再び破壊するに堪えようか」。載はこれを恨んだ。まもなく検校刑部尚書として朔方行営宣慰使に任じられたが、赴任せず、省事を留まって知り、さらに魯郡公に封ぜられた。時に載は多く私党を引き入れ、群臣の論奏を恐れ、帝を欺いて言った、「群臣の奏事は、多く讒言と誹謗を挟んでおります。請う、事を論ずる毎に、皆まず長官に申し上げさせ、長官が宰相に申し上げ、宰相が可否を詳しくして奏聞させてください」。真卿は上疏して言った。

諸司の長官とは、達官であり、皆天子に直接上達することができる。郎官・御史は、陛下の腹心耳目の臣である。故に天下に出使させ、事の大小得失を問わず、皆訪察させ、還って奏聞させる。これは古の四目を明らかにし、四聡に達する所以である。今、陛下自ら耳目をふさぎ、聡明ならしめないとすれば、天下は何を望もうか。『詩経』に曰く、「営営たる青蠅、棘に止まる。讒言極まり無く、四国をいて乱す」と。その白を黒に変え、黒を白に変える能くするが故である。詩人はこれを憎み、故に曰く、「彼の讒人を取り、豺虎に投げ与えよ。豺虎食わざれば、有北に投げ与えよ」と。昔、夏の伯明、楚の無極、漢の江充は、皆讒人である。陛下がこれを憎まれるのは、当然である。どうして精神を回らせて省察されないのか。その言が虚偽であれば、それは讒人である。誅戮すべきである。その言が虚偽でなければ、それは正人である。奨励すべきである。これを為さず、衆人に陛下が省察できず、聴覧に倦んでいると思わせ、これを口実とさせるのは、臣窃かに惜しむ。

昔、太宗は庶政に勤労し、その『司門式』に曰く、「門籍なき者に急奏あれば、監司と仗家に引対させ、関礙さまたげしてはならない」と。擁蔽を防ぐためである。立仗馬を二頭置き、乗る必要があれば聴許した。これが天下を平治した所以である。天宝の後、李林甫が君寵を得ると、群臣で先に宰相に諮らずに奏事する者があれば、他故を仮托して中傷したが、なお明らかに百司を約束して、先に関白させることは敢えてしなかった。時に宦官の袁思芸が日に詔を宣して中書に至り、天子の動静を必ず林甫に告げた。林甫は先意を以て奏請することができ、帝は神の如く驚喜した。故に権寵は日に甚だしく、道路では目を以て語った。上意は下に宣せず、下情は上に達せず、これは権臣が主を蔽い、太宗の法に遵わなかったのである。陵夷して今に至り、天下の弊は皆陛下に集まり、その由来はようやくである。艱難の初め、百姓は未だ凋竭せず、太平の治はなお致すことができた。しかし李輔国が権を当て、宰相が事を用い、互いに姑息であった。三司を開き、反側を誅し、余賊潰将をして北走して党項に至らしめ、不逞の徒をあつめてうそぶき、更に相驚恐せしめ、思明は危惧し、相挻ひきいて反し、東都は陷没し、先帝はこれにより憂勤して寿を損じられた。臣、これを思う毎に、痛み心骨に貫く。

今、天下の瘡痏(傷)未だ平らかでなく、干戈日にく。陛下どうして博く讜言を聞いて視聴を広げず、忠諫を塞ぎ絶たれようか。陛下が陝州におられた時、奏事する者は貴賤を限らず、群臣は太宗の治をあがって待つことができると思った。かつ君子は進み難く退き易い。朝廷が不諱の路を開いても、なお言わないことを恐れるのに、まして厭怠の心を懐いている。今、宰相に進止を宣せしめ、御史台に条目を作らせ、直に進むことを得ず、これより人は奏事しなくなるであろう。陛下の聞見は、数人の耳目に止まる。天下の士は、まさに口をじ舌を結ぶ。陛下は事を論ずる無しと謂うが、どうして懼れて敢えて進まないことを知り、すなわち林甫・国忠が再び起こることを知らないのか。臣、今日の事は曠古未だ有らず、林甫・国忠と雖もなお敢えて公にこれを為さなかったと謂う。陛下早く覚悟せず、漸く孤立を成し、後悔及ばん。

ここにおいて中人等は中外に騰布(言い広めた)。後に太廟の事を摂り、祭器が整っていないと上言した。載はこれを誹謗とみなし、峽州別駕に貶した。吉州司馬に改め、撫州・湖州の二州刺史に遷った。載が誅されると、楊綰がこれを推薦し、刑部尚書に抜擢し、吏部尚書に進んだ。帝が崩じると、礼儀使とされた。因って列聖の諡が繁雑であると奏上し、初議に従って定めるよう請うたが、袁傪が固くこれを排し、罷めて報いられなかった。時に喪乱の後、典法はふさがれ放たれ、真卿は今古に博識であったが、屡々建議して釐正しようとしたが、権臣に沮抑され、多く中格(中途で止められた)という。

楊炎が国政を当てると、その直さを容れず、太子少師に換えたが、なお使を領した。盧杞に至ると、益々喜ばず、太子太師に改め、併せて使を罷めさせ、数度人を遣わして方鎮の便を問い、将に出そうとした。真卿は杞に往って見え、辞して言った、「先の中丞(盧奕)の首級が平原に伝わった時、面は流血し、私は衣で拭うことを敢えず、親しく舌で舐めました。公はどうして容れられないのですか」。杞は矍然として下拝したが、恨みを骨に徹した。

李希烈が汝州を陥とすと、杞は真卿を遣わすことを建議した、「四方の信する所、もし往って諭せば、師を労せずして定めることができましょう」。詔は可とし、公卿は皆色を失った。李勉は一元老を失い、朝廷の羞を貽すと考え、密表を以て固く留めるよう請うた。河南に至ると、河南尹の鄭叔則は希烈の反状が明らかであるとして、行かないよう勧めた。答えて言った、「君命を避けることができようか」。既に希烈に会い、詔旨を宣すると、希烈の養子千余人が刃を抜いて争って進み、諸将は皆慢罵し、将にこれを食らわんとした。真卿は色を変えず、希烈は身を以てふせぎ、その衆をして退かせ、乃ち館に就いた。逼って上疏して己を雪がせようとしたが、真卿は従わなかった。乃ち詐って真卿の兄の子の峴と従吏数輩を継いで請わせたが、徳宗は報いなかった。真卿は毎に諸子に書を送るも、ただ家廟を厳かに奉じ、諸孤をめぐむことを戒め、終に他の語無し。希烈は李元平を遣わして説かせた。真卿は叱して言った、「爾は国の委任を受けながら、致命することができず、顧みるに我に兵無くして汝を戮するは、尚お我を説くのか」。希烈はその党を大会し、真卿を召し、倡優に朝廷を斥侮させた。真卿は怒って言った、「公は人臣である。どうしてこのようであるのか」。衣を拂いて去った。希烈は大いに慚じた。時に朱滔・王武俊・田悦・李納の使者が皆座に在り、希烈に謂って言った、「太師の名徳を聞くこと久しい。公が大号を建てようとし、太師が至った。宰相を求めるに、太師に先んずる者があろうか」。真卿は叱して言った、「若等は顔常山を聞いたことがあるか。我が兄である。禄山が反した時、真っ先に義兵を挙げ、後に捕らえられても、賊をののしることを口に絶やさなかった。我は年八十に近く、官は太師である。我は我が節を守り、死して後已む。どうして若等の脅迫を受けようか」。諸賊は色を失った。

希烈は乃ち真卿を拘束し、甲士を以て守らせ、庭に方丈の坎(穴)を掘り、将にこれを坑(生き埋め)にせんとした。真卿は希烈に会って言った、「死生は分かれた。何を多く為さん」。張伯儀が敗れると、希烈は旌節の首級を持たせて真卿に示させた。真卿は慟哭して地に投じた。時にその党の周曾・康秀林等が謀って希烈を襲い、真卿を奉じて帥としようとした。事が泄れ、曾が死ぬと、乃ち真卿を拘して蔡州に送った。真卿は必ず死ぬと度り、乃ち遺表・墓誌・祭文を作り、寝室の西壁の下を指して曰く、「此れ吾が殯の所なり」。希烈が僭って帝を称し、儀式を問わせた。対えて言った、「老夫耄もうす。曾て国礼を掌り、記する所は諸侯の朝覲のみである」。

興元の後、王師再び振るい、賊は変を慮り、将の辛景臻・安華をその所に遣わし、庭に薪を積みて曰く、「節を屈せずば、当に焚死すべし」と。真卿起ちて火に赴かんとす、景臻等遽かにこれを止む。希烈の弟希倩、硃泚に坐して誅せられ、希烈因りて怒を発し、閹奴等をして真卿を害せしめ、曰く、「詔有り」と。真卿再拝す。奴曰く、「宜しく卿に死を賜うべし」と。曰く、「老臣無状、罪死に当たる、然れども使人は何れの日か長安より来たるや」と。奴曰く、「大樑より来たる」と。罵して曰く、「乃ち逆賊耳、何の詔ぞや」と。遂にこれを縊殺す、年七十六。嗣曹王皋これを聞き、泣下し、三軍皆慟哭す、因りてその大節を表す。淮・蔡平らぎ、子の頵・碩、喪を護りて還る、帝朝を廃すること五日、司徒しとを贈り、諡して文忠と曰い、賻に布帛米粟を加等す。

真卿、朝に立ちて正色、剛にして礼有り、公言直道に非ざれば、心に萌さず。天下、姓名を以て称せず、而して独り魯公と曰う。李正己・田神功・董秦・侯希逸・王玄志等の如きは、皆真卿の始め招き起これる所にして、後皆功有り。正・草書を善くし、筆力遒婉、世これを宝伝す。貞元六年、赦書にて頵に五品正員官を授く。開成初、又曾孫の弘式を以て同州参軍とす。

贊して曰く、唐人柳宗元称す、「世、段太尉を言う、大抵武人と為し、一時奮いて死を慮わずして名を取りしと為すは、非なり。太尉人の為り姁姁たり、常に首を低くし拱手して歩み行き、言気卑弱、未だ嘗て色を以て物に待たず。人これを視れば、儒者なり。不可に遇えば、必ずその志を達し、決して偶然なる者に非ず」と。宗元、人を妄りに許さず、その然るを諒とす、孔子の所謂「仁者は必ず勇有り」に非ずや。祿山の反するに当たり、哮ぜいして前に無く、魯公独り烏合を以てその鋒に嬰る、功は成らずと雖も、その志称すに足る者有り。晩節偃蹇、奸臣に擠せられ、賊の手に見殞す。毅然の気、折れて沮まず、忠と謂うべし。詳らかに二子の行う事を観るに、当時も亦能く尽く君に信ぜられず、及び大節に臨み、これを蹈むに貳色無し、何ぞや。彼の忠臣誼士は、寧ろ未だ信を見ざるを以て人に望まず、要は諸を己に返してその正を得、而して後に中に慊りてこれを行えばなり。嗚呼、千五百歳と雖も、その英烈言言、厳霜烈日の如く、畏れて仰ぐべし。