新唐書

巻一百五十二 列傳第七十七 張姜武李宋 張鎰 姜公輔 武元衡從父弟:儒衡 李絳  宋申錫

張鎰

張鎰、字は季権、また公度と称す。国子祭酒張後胤の五世の孫なり。父は齊丘、朔方節度使・東都留守を歴任す。鎰は蔭により左衛兵曹参そうしん軍を授かり、郭子儀が元帥府判官に表し、累遷して殿中侍御史となる。乾元初め、華原令盧樅が公事をもって邑人齊令詵を譙責す。令詵は宦官なり、これを恨み、樅に罪を構う。鎰が按驗して官を免ずるに当たるも、有司は風旨を承けて死罪と論ず。鎰はこれを不直とし、乃ち母に白して曰く、「今樅を理めば、樅は死を免れ、鎰は坐して貶せられん。黙すれば官に負い、貶せられれば太夫人の憂いとならん。敢えて安んずる所を問う」と。母曰く、「児、道に累わるところなくんば、吾の安んずる所なり」と。遂にその罪を正し、樅は流罪を得、鎰は撫州司戸参軍に貶せらる。晉陵令に徙る。江西観察使張鎬が判官に表し、屯田・右司の二員外郎に遷る。母喪に服し、孝を以て聞こゆ。妄りに交遊せず、特に楊綰・崔祐甫と善し。

大暦初め、出でて濠州刺史となり、政条清簡にして、経術の士を延いて生徒を講教す。去るに及び、州より明経に挙げらるる者四十人。李霊耀が汴に反す。鎰は郷兵を団閲して厳に守禦し、詔有りて褒美し、侍御史に擢げ、兼ねて縁淮鎮守使とす。最を以て寿州刺史に遷る。江西・河中観察使を歴任す。旬を閲ずして、汴滑節度使に改む。病を以て固く辞し、詔して私第に留めしむ。

建中二年、中書侍郎・同中書門下平章事を拝す。明年、両河に用兵あるを以て、詔して禦膳及び皇太子の食物を省薄す。鎰因りて堂餐銭及び百官の稟奉を三分の一減ずるを奏し、以て用度を助く。時に黜陟使裴伯言が潞州の処士田佐時を薦む。詔して右拾遺・集賢院直学士を除す。鎰は礼軽きを以て、士の勧まざるを恐れ、復た詔して州県の吏に絹百匹・粟百石を以て家に就きて聘を致さしむ。佐時遂に至らず。

郭子儀の婿太僕卿趙縱が奴に告げられ、御史に下して劾治せしむ。而して奴は内侍省に留まる。鎰奏言して曰く、「貞観の時に奴その主の謀反を告ぐる者有り。太宗曰く、『謀反は理として独り成らず、尚た他人のこれを論ずる有るべし。豈に奴の告ぐるを藉らんや』と。乃ち令を著す。奴主を告ぐる者は斬ると。是れにより賤は貴を幹するを得ず、下は上を凌ぐを得ず。教本既に修まり、悖乱萌さず。頃者、長安ちょうあん令李濟奴によりて罪を得、万年令霍晏婢に因りて坐して譴せらる。輿臺の下類、主反ってこれを畏る。悖慢風を成し、漸く長ずべからず。建中元年五月辛卯の詔書に、奴婢主を告ぐる者は、謀叛に非ざれば、自首の法に同じく、並びに律に準じて論ずと。是れにより獄訴衰息す。今、縱の事は叛逆に非ず。而して奴は禁中に留まり、独り縱を獄に下すは、情の厭わざる所なり。且つ将帥の功、孰か子儀より大なる。冢土僅かに乾かず。両婿前に已に罪を得、縱復たこれに継ぐ。数ヶ月ならずして其三婿を斥く。仮令縱実に法を犯すも、事奴に縁らず、尚た勲を録み亡を念い、以て蕩宥に従うべし。況んや奴に訴えらるるにおいてをや。陛下方に武臣を貴びて以て賊を討たしむ。彼一時寵を見るも、異日に於いて忘懐する能わざるなり」と。帝これを納れ、縱を循州司馬に貶し、奴を杖して死せしむ。鎰は子儀の家僮数百を召し、奴の屍を示して暴く。

盧杞、鎰の剛直を忌み、去らんと欲す。時に朱泚、盧龍の卒を以て鳳翔を戍わす。帝、人を択びて以て代わらんとす。杞即ち謬りて曰く、「鳳翔の将校、班秩素より高し。宰相の信臣に非ざれば、鎮撫すべからず。臣行くべし」と。帝許さず。杞復た曰く、「陛下必ず臣が容貌蕞陋を以て、三軍に信ぜられず、後に変を生ずるを恐るるならば、臣敢えて自ら謀らず。惟だ陛下これを択ばん」と。帝乃ち鎰を顧みて曰く、「文武兼備し、内外に望重し、卿に易うる者なし。其れ朕が為に盧龍の士を撫せ」と。乃ち中書侍郎を以て鳳翔・隴右節度使とす。鎰、杞の陰に中てらるるを知るも、然れども辞窮し、因りて再拝して詔を受く。頃之、吐蕃の相尚結贊と清水に盟し、牛馬を牲とすと約す。鎰、盟するを恥じ、将にその礼を末殺せんとし、乃ち吐蕃に紿語して、羊豕犬を以てこれに代う。

帝奉天に幸す。鎰、家の貲を罄して将に自ら行在に献ぜんとす。而して営将李楚琳なる者、嘗て朱泚に事え、その心を得たり。軍司馬齊映等謀りて曰く、「楚琳必ず乱を為さん」と。乃ち隴州に屯せしむ。楚琳これを知り、故に稽えて行かず。鎰、帝の外に在るを以て、心憂惑し、已に亟に去れりと謂い、備えを為さず。楚琳夜にその党王汾・李卓・牛僧伽等を率いて乱を作す。齊映は竇より出で、齊抗は傭に托り、皆免る。鎰は城を縋りて走るも、遠く及ばず、二子とともに候騎に執せらる。楚琳これを殺す。属官王沼・張元度・柳遇・李漵皆死す。詔して鎰に太子太傅を贈る。

姜公輔

姜公輔、愛州日南の人なり。進士に第し、校書郎を補し、制策異等により右拾遺を授かり、翰林学士となる。歳満ちて当に遷るべし。上書して母老いて祿に頼りて養うを以て、兼ねて京兆戸曹参軍事を求めんとす。公輔は高材有り、毎に進見するに、敷奏詳亮にして、徳宗これを器とす。

朱滔が田悅を助くるや、蜜に書を裹みて間道より泚を邀う。太原の馬燧これを獲るも、泚知らず。召して京師に還す。公輔諫めて曰く、「陛下若し坦懐を以て泚を待つ能わずんば、誅するに如かず。虎を養いて自ら害を詒る無かれ」と。従わず。俄にして涇師乱す。帝苑門より出づ。公輔馬に叩きて諫めて曰く、「泚嘗て涇原を帥き、士心を得たり。向に滔の叛に因りてその兵を奪う。居常怫郁自ら聊かず。請う馳騎して捕取し以て従わしめ、群兇のこれを得る無からしめよ」と。帝倉卒にして聴くに及ばず。既に行き、鳳翔に駐らんとし張鎰に倚らんとす。公輔曰く、「鎰は信臣なれども、然れども文吏なり。領く所皆朱泚の部曲、漁陽の突騎なり。泚若し立たば、涇軍且つ変有らん。万全の策に非ず」と。帝亦た桑道茂の言を記し、遂に奉天に之く。数日ならずして、鳳翔果たして乱し、鎰を殺す。帝奉天に在り。泚の反すと言う者有り。守備を為さんことを請う。盧杞曰く、「泚は忠正篤実なり。奈何ぞその叛を言い、大臣の心を傷つけん。請う百口を以てこれを保たん」と。帝、群臣多く乗輿を奉迎するを勧むる者あるを知り、乃ち諸道の兵に詔して城より一舎を距てて止ましむ。公輔曰く、「王者羽衛を厳にせずんば、以て威霊を重んずる無し。今禁旅単寡にして、而して士馬外に処る。陛下の為にこれを危ぶむ」と。帝曰く、「善し」と。諸軍を悉く内す。泚の兵果たして至り、言う如くなるに及び、乃ち公輔を擢げて諫議大夫・同中書門下平章事とす。

帝梁に徙る。唐安公主道に薨ず。主は性仁孝、韋宥に下嫁を許すも、播遷に因りて克くせず。帝これを悼むこと甚だしく、詔してその葬を厚くす。公輔諫めて曰く、「即ち賊平げば、主必ず帰葬せん。今行道は儉に従うべし。以て軍興を済さん」と。帝怒り、翰林学士陸贄に謂いて曰く、「唐安の葬、塋壟を事とせず、甓を累ねて浮図と為さんと欲す。費甚だ寡約なり。宰相關預するを容れず。茍も朕の過ちを指さんと欲するのみ」と。贄曰く、「公輔の官は諫議、職は宰相なり。献替固よりその分なり。本、輔臣を立て、朝夕誨を納るるは、微にしてこれを弼くる、乃ちその所なり」と。帝曰く、「然らず。朕、公輔の才相たるに足らずとし、而又自ら解かんとす。朕既にこれを許す。内に且つ罷まんことを知り、故に直を売りて名を售るのみ」と。遂に下遷して太子左庶子とし、母喪に因りて解く。復た右庶子と為す。

長らく昇進せず、陸贄が宰相となると、公輔はたびたび官を求めた。陸贄は密かに言った、「竇丞相(参)がかつて言うには、貴殿のために官を擬することしばしばであったが、上(帝)は常に喜ばれなかった」と。公輔は恐れ、道士となることを請うたが、返答はなかった。ある日またそのことを言うと、帝は理由を問うた。公輔は陸贄の言葉を隠し、参(竇参)の言葉を以て答えた。帝は怒り、公輔を泉州別駕に左遷し、使者を遣わして詔を携えさせ参を責めさせた。順宗が即位すると、吉州刺史に拝され、官に就く前に卒した。憲宗の時、礼部尚書を追贈された。

武元衡

武元衡、字は伯蒼。曾祖父は載徳、則天皇后の族弟である。祖父は平一、名を知られた。元衡は進士に挙げられ、累任して華原県令となった。畿輔の鎮軍督将は皆驕横で政を乱したため、元衡は病を理由に去った。徳宗はその才を欽慕し、召して比部員外郎に拝し、一年の内に三度昇進して右司郎中となり、詳密整然として職務を担った。御史中丞に抜擢された。かつて延英殿で対面した時、帝はその背を見送り、「これは真の宰相の器なり」と言った。

順宗が即位すると、王叔文が人を遣わして誘い党としようとしたが、拒絶して受け入れなかった。まもなく山陵儀仗使となり、監察御史劉禹錫が判官となることを求めたが、元衡は与えず、叔文はますます快く思わなかった。数日後、太子右庶子に改められた。皇太子冊立の儀に際し、元衡が賛相を務め、太子は彼を覚えていた。即位すると、これが憲宗であり、再び中丞に拝され、戸部侍郎に進んだ。元和二年、門下侍郎・同中書門下平章事に拝され、戸部事を兼ねて判った。帝は元来、元衡が堅正で節操あることを知っていたため、眷顧礼遇信任は他の宰相とは異なっていた。浙西の李錡が入朝を求めたが、やがてまた病気と称し、その期日を延ばそうとした。帝が宰相鄭絪に問うと、絪はそれを聞き入れるよう請うた。元衡は言った、「不可です。錡が自ら入朝を請い、詔が既にそれを許したのに、再び至らないのは、可否が錡にあることになります。陛下は新たに即位され、天下が耳目を注いでおります。もし奸臣がその私心を遂げるならば、威令は失われます」。帝はこれを然りとし、急いで錡を召還させた。錡は計窮し、果たして反逆した。

この時、しょくは新たに平定されたばかりで、高崇文が節度使であったが、吏治を知らず、帝はその後任を難しく思った。詔して元衡を検校吏部尚書・兼門下侍郎・同平章事とし、剣南西川節度使とし、蕭県伯から臨淮郡公に封じ、帝は安福門に臨んで慰労し送り出した。崇文が成都を去る時、金帛・帟幕・伎楽・工巧を全て持ち去り、蜀はほとんど空になった。元衡が到着すると、綏撫し規制を設け、自ら倹約して民を寛容にし、三年を経る頃には、上下ともに充実し、蛮夷も帰順を懐いた。雅性は荘重で、人と接することは淡泊であったが、開府して人材を集めることは一時の選りすぐりであった。

八年、召還されて政務を執った。李吉甫と李絳がしばしば帝の前で事を争い、和せず、元衡のみが公正を保持して誰にも迎合せず、帝は彼を長者と称えた。吉甫が卒すると、淮西・蔡州で戦役が起こり、帝は機密政務を全て彼に委ねた。王承宗が上疏して呉元済を赦すよう請い、使いを遣わして中書省に事を述べさせたが、悖慢で恭しくなかったので、元衡は叱りつけて追い返した。承宗は怨み、たびたび上章して誣告誹謗した。まもなく元衡が朝参するため、靖安里の邸宅を出た。夜の更けきらぬうちに、賊が暗がりに乗じて「燭を消せ!」と呼び、元衡の肩に射かけ、さらにその左腿を撃った。従者や護衛が格闘したが勝てず、皆驚いて逃げた。賊は遂に元衡を害し、頭蓋骨を裂き取って去った。巡邏の役所が「盗賊が宰相を殺した」と叫び伝え、十余里に連なり、朝堂に達した。百官は恐れおののき、主犯を知らなかった。しばらくして、馬が逸走して邸に戻り、朝廷内外でようやく確かに知った。この日、儀仗が紫宸門に入った時、役人が事を奏上すると、帝は震驚し、朝を罷め、延英殿に坐って宰相に会い、哀慟し、再び食事を摂らなかった。司徒しとを追贈し、諡して忠湣といった。詔して金吾衛・京兆府・県が大規模に捜索した。ある伝言に「賊を捜索するな、賊が窮すれば必ず乱を起こす」と言い、また道に書を投げて「我を急がせるな、我先にお前を殺す」とあった。そのため吏卒は徹底的に捕らえようとしなかった。兵部侍郎許孟容が帝に言った、「国相が路傍に横死し、盗賊が捕らえられぬのは、朝廷の辱めです」。帝はそこで詔を下した、「賊を得る者には賞銭千万、五品官を授ける。賊と謀った者及び賊を匿いながら自ら申し出る者も賞する。詔に従わぬ者は、族誅する」。東西の市に銭を積んで告発者を募った。そこで左神策将軍王士則・左威衛将軍王士平が賊の情報を奏上し、張晏ら十八人を捕らえた。彼らは承宗に遣わされたと言い、皆斬られた。一ヶ月余り後、東都防禦使呂元膺が淄青留邸の賊、門察・訾嘉珍を捕らえた。彼らは自ら、元衡を謀殺することを最初に企てた者だと述べ、たまたま張晏が先に実行したため、師道に告げてその賞を盗もうとしたのだという。帝は密かに彼らを誅した。

当初、京師は大いに恐れ、城門には兵を加えて誰何し、姿形が立派で異様な服装、燕趙の言葉を話す者は、皆取り調べてから送り出した。公卿が朝参する時は、家奴に武器を持たせて呵護させ、宰相には金吾衛の騎兵に弓を張らせて先導護衛させ、毎回里門を通る度に、搜索して喧嘩した。これにより詔して、寅の刻の上二刻(午前四時頃)になってから点を伝えることとした。

従父の弟 儒衡

従父の弟、儒衡。儒衡、字は廷碩、姿形は秀麗で魁偉、妄りに言葉を発せず、人と交わるにも終始一節を貫いた。宰相鄭餘慶は華美清潔を事とせず、門下の客は多く汚れた衣服を着ていたが、儒衡のみが謁見に上る時は、常に何ら変えるところがなく、荘重な言葉と厳しい表情で餘慶に重んじられた。元衡が没すると、帝は彼をますます厚遇し、累遷して戸部郎中となり、諫議大夫事を知り、まもなく知制誥を兼ねた。皇甫镈が宰相として度支を領し、下を剥いで天子に媚びた。儒衡はその状況を上疏した。镈は帝に訴えた。帝は「それは怨みを報いようとするのか」と言った。镈は敢えて答えなかった。

儒衡の論議は勁直公正で、風節があり、まさに大用されようとしていた。宰相令狐楚はこれを忌み、たまたま狄兼謨を拾遺に任じる際、楚自ら制文を草し、武后が革命をなした故事を引き、仁傑の功績を盛んに推賞して、儒衡を指弾し、かつ彼の昇進を阻止しようとした。儒衡は涙を流して上(帝)に謁し、「臣の祖父平一は、天后の時に、仕官を避けて終老し、累(罪に連なること)には及びませんでした」と言った。帝は慰労激励し、これより楚の為人を軽んじた。中書舎人に遷った。当時、元稹は宦官に頼り、知制誥となっていた。儒衡は彼を軽蔑し嫌った。ある時瓜を食していると、蝿がその上に集まった。儒衡は扇で払い、「いずこより来たりて、急にここに集まるのか」と言った。一座は皆顔色を失った。しかし、悪を憎むことがあまりにも鮮明であったため、ついに大任には至らず、兵部侍郎の任で卒した。享年五十六。工部尚書を追贈された。

李絳

李絳、字は深之、本系は賛皇である。進士・宏辞科に抜擢され、渭南尉に補され、監察御史に拝された。元和二年、翰林学士を授かり、まもなく知制誥を知った。ちょうど李錡が誅殺された時、憲宗はその財貨を車で運び取ろうとした。絳と裴垍は諫めて言った、「錡は僭越奢侈で誅求し、六州の人は怨みを骨髄に徹しております。今、元悪の首が伝えられました。もしその財を取るならば、乱略を遏え、困窮を恵み綏撫するものではあるまいと恐れます。本道に賜い、貧民の租賦に代えられることを願います」。制により許可された。枢密使劉光琦が、赦令を諸道に賜るため宦官を使者に立て、饋餉(贈り物)を集めようと議した。絳は、度支塩鉄の急遞に付して遣わし、求め取る弊害を止めるよう請うた。光琦は故事を引いて答えた。帝は言った、「故事が正しければ、守るべきである。そうでなければ、改めるべきである。旧きをどうして循るべきか」。

帝は嘗て太宗・玄宗の盛時を称えて言う、「朕は不佞なりと雖も、二祖の道德風烈に庶幾からんことを欲す。謚號に愧じず、宗廟の羞とならざらんには、何を行へばかくの如くに至るや」と。絳曰く、「陛下誠に能く身を正し己を勵まし、道德を尊び、邪佞を遠ざけ、忠直を進めよ。大臣と言ふには、敬して信じ、小人をして参ぜしむることなかれ。賢者と遊ぶには、親して禮し、不肖をして與からしむることなかれ。治に益なき官を去らば、則ち材能出づ。御せざるを希ふ宮女を斥けば、則ち怨曠銷ゆ。將帥を擇べば、士卒勇なり。官師公ならば、吏治輯む。法令行はれて下違はず、教化篤くして俗必ず遷る。是の如くせば、祖宗と德を合するに與かり、號して中興と稱すべし。夫れ何ぞ遠からんや。言ふて行はれざれば、益無し。行ひて至らざれば、益無し」と。帝曰く、「美なるかな斯の言、朕將に諸を紳に書かん」と。即ち詔して絳に崔群・錢徽・韋弘景・白居易等と君臣成敗五十種を搜次せしめ、連屏となし、便坐に張らしむ。帝每に閱視するに、左右を顧みて曰く、「而等宜しく意を作すべし、此の如き事を爲すことなかれ」と。

是の時、安國佛祠を盛んに興し、幸臣吐突承璀石を立て聖德を紀せんことを請ふ。營構華廣にして、絳をして之が頌を爲さしめんと欲し、將に錢千萬を遺はんとす。絳上言す、「陛下積習の弊を蕩し、四海延頸して德音を望むに、忽ち自ら碑を立て、人以て廣からざるを示す。《易》に稱す、『大人は天地と德を合す』と。文字の能く盡す所に非ずと謂ふ。若し述ぶ可からしむれば、是れ陛下の美分限有りと爲すなり。堯・舜より文・武に至るまで、皆其の事を傳へず。惟だ秦始めて嶧山に刻し、暴に誅伐巡幸の勞を揚げたり。道を失へるの君、法と爲すに足らず。今安國に碑有り、若し遊觀を敘すれば、即ち治要に非ず。崇飾を述べれば、又政宜に非ず。請ふ之を罷めん」と。帝怒る。絳伏して奏す愈よ切なり。帝悟りて曰く、「絳微からずば、我自ら知らず」と。百牛を命じて石を倒さしめ、使者をして絳を勞諭せしむ。襄陽裴均詔書に違ひ、銀壺甕數百具を獻ず。絳請ふ之を度支に歸し、天下に信を示さんと。帝奏を可とし、仍て均の罪を赦す。時に議して盧從史を昭義に還さしめんとし、已にして將に復た之を召さんとす。從史軍に見儲無きを以て解と爲す。李吉甫鄭絪其の謀を漏らせりと謂ふ。帝絳を召して議し、絪を逐はんと欲す。絳爲に開白す。乃ち免る。

絳浴堂殿に見ゆ。帝曰く、「比來諫官多く朋黨を爲し、論奏實ならず、皆謗訕に陷る。其の尤者を黜せんと欲す。若何」と。絳曰く、「此れ陛下の意に非ず。必ず憸人此を以て上心を營誤す。古より諫を納るれば昌へ、諫を拒めば亡ぶ。夫人臣上に言を進むる、豈に易からんや。君尊きこと天の如く、臣卑しきこと地の如し。雷霆の威を加ふれば、彼晝に度り夜に思ひ、始め十事を陳べんと欲するも、俄に去ること五六、及ぶ將に聞こえんとするに、則ち又憚りて其の半を削る。故に上達する者は財十二なり。何ぞや。測るべからざるの禍を幹り、身を顧みて利無きのみ。開納獎勵すと雖も、尚ほ至らざるを恐る。今乃ち譴訶せんと欲し、直士をして口を杜からしむ。社稷の利に非ず」と。帝曰く、「卿の言に非ざれば、我諫の益を知らず」と。

初め、承璀王承宗を討つ。議者皆古より宦人を以て師を統ぶる者無しと言ふ。絳制書に當たり固く爭ふ。帝能く奪ふこと能はず。止めて宰相に敕を授けしむるを詔す。承璀果たして功無くして還る。開府儀同三司を加ふ。絳奏す、「承璀師を喪ひ、罪に當たるべし。今崇秩を以て寵す。後奔軍の將有りて、利に蹈み賞を幹ば、陛下何を以て之を處せん」と。又數たび宦官の橫肆、方鎮の進獻等の事を論ず。自ら言の切なるを知り、且つ斥去らるべく、悉く內署の上する疏稿を取て焚き、以て命を俟つ。帝果たして怒る。絳謝して曰く、「陛下臣が愚を憐れみ、腹心の地に處す。而して身を惜しみて言はざれば、乃ち臣陛下に負く。若し上聖顏を犯し、旁貴幸に忤ひ、因りて罪を獲ば、乃ち陛下臣に負く」と。是に於て帝容を動かして曰く、「卿朕に人以て言ひ難き者を告ぐ。疾風勁草を知る。卿之に當る」と。遂に司勛郎中より中書舍人に進む。翌日、金紫を賜ひ、親しく良笏を擇びて之に與へ、且つ曰く、「異時に顧托を膺け南面するは、當に此の如くすべし」と。絳頓首す。

烏重胤盧從史を縛ふ。而して承璀牒して昭義留後を署す。絳曰く、「澤潞山東の要害に據り、磁・邢・洺兩河の間を跨ぐ。其の合從を制す可し。今孽豎禽に就く。方に威柄を收めんとす。遽に偏將を以て本軍に蒞ましむ。綱紀大いに紊る。河南・北諸鎮、陛下官爵を以て啗ひ、其の帥を逐はしむと謂はば、其れ肯て默然たらんや。宜しく孟元陽を以て澤潞と爲し、而して重胤をして三城を節度せしむべし。兩河の諸侯之を聞けば、必ず欣然たらん」と。帝之に從ふ。

張茂昭舉族入覲す。絳上言す、「任迪簡既に往きて代はる。則ち茂昭に從ふ士、皆定人と爲る。宜しく亟に官を授け、且つ使者を遣はし其の麾下皆茂昭の節度を聽かしむべし」と。詔有りて河中節度使を拜す。會ふに迪簡帑廥匱竭するを以て、稍々士の疲老なる者を簡罷す。人情安からず。迪簡亦危し。絳請ふ禁帑の絹十萬を斥けて以て事機を濟さしめんと。吳少誠病甚だし。絳建言す、「淮西の地賊と接せず。若し朝廷帥を命ぜば、今乃ち其の時なり。阻命すること有らば、則ち決して討つ可し。然れども鎮・蔡並びに取る可からず。願くは承宗を赦し、蔡の功を立つるを趣けよ」と。時に江淮大旱す。帝赦令を下して蠲弛する所有り。絳言ふ、「江淮流亡す。貸す所未だ廣からず。而して宮人猥積し、怨鬲の思有り。當に大いに之を出だし、以て經費を省くべし。嶺南の俗、子を鬻ぐを業と爲す。聽く可し。券劑に非ずして直を取る者は、掠賣の法の如く、敕して有司一切苛止せしむべし」と。帝皆順納す。

後月を閱て對賜はらず。絳謂ふ、「大臣祿を持て諫ふるを敢へず。小臣罪を畏れて言ふを敢へず。管仲以爲く害最甚しと。今臣等飽食して言はざれば、危きを履むの患無く、自ら計を得たり。顧みるに聖治如何」と。詔有りて明日三殿に對せしむ。帝嘗て苑中に畋り、蓬萊池に至る。左右に謂ひて曰く、「絳嘗て以て我を諫む。今返す可し」と。其れ禮憚せらるること此の如し。

帝怪しむ前世賢を任じて以て治を致す。今賢無くして任ず可き、何ぞや。對へて曰く、「聖王當代の人を選び、其の才分を極むれば、自ら治を致す可し。豈に賢を異代に借りて、今日の人を治めんや。天子己の能を以て人を蓋はず、痛く節を折りて士に下らば、則ち天下の賢者乃ち出づ」と。帝曰く、「何を以て其の必ず賢なるを知りて之を任ずるや」と。對へて曰く、「人を知るは誠に難し。堯・舜以て病と爲す。然れども其の名を循り、事を以て驗せば、得る所十七なり。夫れ官を任じて廉を辨じ、事を措いて阿容せず、希望依違の辭無く、邪媚愉悅の容無きは、此れ賢に近し。賢なれば則ち當に任ずべく、任ずれば則ち當に久し。賢者は中立して寡助なり。其の類を舉ぐれば則ち不肖者怨み、邪徑を杜げば則ち奸を懷く者疾み、一制度すれば則ち貴戚毀傷し、過失を正せば則ち人君疏忌す。夫れ然り。賢を用ふること豈に容易ならんや」と。帝曰く、「卿の言之を得たり」と。

六年、学士を罷め、戸部侍郎に遷り、本司を判ず。帝は戸部が故に献上物があるのに、絳のみ無きを以て、何ぞやと問う。答えて曰く、「凡そ方鎮は地有れば則ち賦有り、或いは用度を嗇しみて羨余を易えて以て献と為す。臣は乃ち陛下の為に出納を謹み、烏んぞ羨贏有らんや。若し以て献と為さば、是れ東庫の物を徙して西庫を実たし、官物を進めて私恩を結ぶなり」と。帝瞿然として悟る。帝は毎に詢訪有れば、事に随ひて補益し、言ふ所聴かざる無し、遂に以て相たらんと欲す。而して承璀の寵方に盛んなるに、其の進を忌み、陰に毀短有り、帝は乃ち承璀を出して淮南監軍と為す。翌日、絳を中書侍郎・同中書門下平章事に拝す。高邑男に封ず。時に江淮歳に儉しく、民饑を薦め、御史有りて使より還り、災と為さずと奏す、帝以て絳に語る、答えて曰く、「方隅は皆陛下の大臣なり、奏孰か実ならざらん。而して御史苟も陛下を悦ばしめんとす。凡そ君人たる者は大臣を任ずべく、小臣をして以て間せしむる無からしむ、願はくは其の名を出して顕に責めよ」と。李吉甫嘗て盛んに天子の威徳を讃す、帝欣然たり、絳独り曰く、「陛下自ら視るに今日何如、漢文帝の時に比して」と。帝曰く、「朕安んぞ敢て文帝を望まん」と。対えて曰く、「是の時賈誼以て措火積薪の下に、火未だ然えず、因って以て安しと為す、其の憂ひ此の如し。今法令の及ばざる者五十余州、西戎内訌し、近くは涇・隴を以て鄙と為し、京師を去ること遠からず千里、烽燧相ひ接す。加ふるに比年水旱有りて年無く、倉廩空虚す。誠に陛下焦心銷誌して時を済はすの略を求むべく、渠ぞ便り高枕して臥せんや」と。帝入りて左右に謂ひて曰く、「絳の言骨鯁たり、真に宰相なり」と。使者を遣はして酴醿酒を賜ふ。

魏博の田季安死す、子懷諫弱く、軍中節度を襲はんことを請ふ、吉甫討つを議す、絳曰く、「然らず、両河の懼るる所は、部将の兵を以て己を図るなり、故に諸将に兵を総べしめて、皆力を敵ひ任を均しくして、以て相ひ維制し、変を為すを得ざらしむ。若し主帥強ければ、則ち足りて其の命を制す。今懷諫乳方に臭く、事を能くせず、必ず権を人に仮す、権重ければ則ち怨生じ、向の権力均しき者は、将に事を起こして患を生ぜん。衆の帰する所は必ず寛厚簡易・軍中素より愛する者に在り、彼立ち得れば、朝廷に倚らざるも亦安からず。惟ふに陛下威を蓄へて以て之を俟たまへ」と。俄にして田興果たして立ち、魏博を以て命を聴く、帝大いに悦ぶ。吉甫復た請ふ中人の宣尉を命じ、因りて其の変を刺し、徐ろに議す所宜きを。絳独り謂ひて曰く、「誠を推して撫納するに如かず、即ち旄節を仮せよ。它日使者三軍の表を持ち来たり、興に請はば、則ち制は彼に在り、此に在らず、奏して特授すべし、安んぞ同じくせんや」と。然れども帝重ねて吉甫に違ひ難く、故に詔して張忠順に節を持たしめて往かしめ、而して興に留後を授く。絳固より請ひて曰く、「興万が一命を受けざれば、即ち姑息し、復た向時の如くなるなり」と。是に由りて即ち興を節度使に拝す。絳復た曰く、「王化魏博に及ばず久し、一日六州を挈して来帰す、大いに犒賞せずんば、人心激せず。請ふ禁錢百五十万緡を斥けて其の軍に賜はん」と。言ふ者有りて過ぎたりとす、絳曰く、「仮令十五万の衆を挙げ、歳を期して六州を得たるとす、計ふる所転給するは費の三倍なり。今興天に忠義を挺で、首めて汚俗を変じ、両河の胆を破る、小費を嗇しみて機事を隳さんことを可ならんや」と。之に従ふ。

帝朋党を患ひ、以て絳に問ふ。答えて曰く、「古より人君の最も悪む所は朋党なり、小人之を揣み知り、故に常に口を藉りて以て上心を激怒せしむ。朋党なる者は、之を尋ぬれば則ち跡無く、之を言へば則ち疑はし。小人は常に利を以て動き、忠義を顧みず。君子なる者は、主知に遇へば則ち進み、疑はれれば則ち退き、其の位に安んじて它の計を為さず、故に常に奸人の乗ずる所と為る。夫れ聖人は跡を同じくし、賢者は類を求む、是れ同道なり、党に非ず。陛下堯・舜・禹・湯の徳を奉遵したまふ、豈に上と数千年の君と党を為すと謂はんや。道德同じきのみ。漢時の名節骨鯁の士、心を同くして国を愛し、而して宦官の小人之を疾み、党錮の獄を起こし、訖に天下を亡ぼす。利に趨くの人、常に朋比し、其の私を同じくするなり。正を守るの人、常に構毀に遭ひ、其の私に違ふなり。小人多ければ、譖言常に勝つ。正人少なければ、直道常に勝たず。戒めざるべけんや」と。絳は中間に介特に居り、尤も左右の悦ばざる所と為り、遂に因りて以て自ら明らかにす。

王播塩鉄使と為り、而して事月進す。絳曰く、「比に天下に禁ず正賦の外它の献有るべからず、而るに播妄りに羨余と名づけ、禄稟家貲より出でず、願はくは悉く有司に付せよ」と。帝曰く、「善し」と。訖に絳位に在るまで、献禁中に入らず。吐蕃涇州を犯し、人畜を掠む、絳因りて言ふ、「塞に濱ける虚籍多く、実兵少なし。今京西・北の神策鎮軍は、本盛秋を防ぎ、坐して衣食を仰ぎ、戦はしめず。事至るの日、乃ち先づ中尉に稟す。夫れ兵は内に禦せず、要は須く応変に在り、毫氂を失へば、千里に差つ。請ふ本道に分隷せしめよ、則ち号令斉一にし、前に戦ひて踵を還さざらん」と。然れども士卒両軍の姑息を楽しみ、宦者以て言と為し、議遂に寝す。嘗て盛夏に延英に対す、帝汗衣に浹く、絳出づるに趨らんと欲す、帝曰く、「朕宮中に対するは、惟だ宦官・女子のみ、卿と天下の事を講ぜんと欲するは、乃ち其の楽なり」と。

絳或いは論諍する所無くば、帝輒ち然る所以を詰む。又言ふ、「公等姻故冗食する者有ること得る無からんや、当に官を惜しむべし」と。吉甫・権徳輿皆無しと称す。絳曰く、「崔祐甫宰相と為り、半歳に満たずして吏八百人を除く。徳宗曰く、『多く公の姻故、何ぞや』と。祐甫曰く、『問ふ所当と不当とのみ、臣の親旧に非ざれば、孰か其の才を知らん。其の知らざる者、安んぞ敢て官を与へん』と。時に以て名言と為す。武後官を命ずること猥りに多く、而して開元中名有る者は皆其の選に出づ。古人言ふ十を抜きて五を得るとも、猶ほ其の半を得たりと。若し情故自ら嫌はば、聖主の責成の意に非ず」と。帝曰く、「誠に然り、至当に在るのみ」と。帝又問ふ、「玄宗開元時に治を致し、天宝に則ち乱る、何ぞ一君にして相反するや」と。絳曰く、「治は憂危より生じ、乱は放肆より生ず。玄宗嘗て官守を歴試し、人の艱難を知り、臨禦の初め、姚崇・宋璟を用ひ、励精して聴納す、故に左右前後皆正人なり。林甫・国忠の君を得るに及び、専ら傾邪の人を引き、要劇を分総す。是に於て上直言を聞かず、嗜欲日滋し、内には盗臣利を興すを勧め、外には武夫辺を開くを誘ひ、天下騒動す、故に禄山隙に乗じて奮ふ。此れ皆小人の啓導する所、逸に従ひて驕るなり。時に係る主の行ふ所、常の治無く、亦常の乱無し」と。帝曰く、「凡人挙事、理に通ぜざるを病とし、其の失を追咎す、古人此を処するに道有りや」と。絳曰く、「事或いは過差有り、聖哲も免れず。天子諫臣有り、是を以て過を救ふ。上下体を同じくするは、猶ほ手足の心膂に於けるが如く、交相ひ用ふる所と為る。但だ能を矜り失を護るは、常情の蔽ふ所、聖人は過を改めて吝からず、願はくは陛下此を以て之を処したまへ」と。

教坊使が密詔と称して良家の子女及び別宅の婦人を禁中に召し入れて選び、京師は騒然となった。李絳は帝に言おうとしたが、李吉甫が「これは諫官が論ずべきことである」と言う。李絳は「公はかつて諫官が事を論ずるのを難じたが、この言いにくいことを、移そうとするのか」と言った。吉甫は詔使を諷して止めさせようとしたが、李絳は吉甫が畏れて敢えて諫めないと考え、遂に独り上疏した。帝は「朕は丹王らに侍者がいないので、先ごろ命じて里巷を訪ね、財貨で招いたが、彼らは朕の意を理解せず、故に騒擾に至ったのだ」と言い、取り立てた者を全て帰した。

足疾を理由に免職を求め、礼部尚書に罷められた。帝は淮南から吐突承璀を召還した。李絳は去位したが、なお思いやまず、上言した。「北虜はまさに強く、その憂い五つあり。彼らは信を蔑み利を重んじ、毎年馬を入れて代価を求めるが、今は置いて取らず、他に謀を貯えている。これが一。屯兵は足らず、斥候は明らかでなく、城には完堞なく、卒然の事態に対応できぬ。これが二。今の営築は衆謀に詢わず、遠く塞外を規して、城は要地にあらず、虜ひとたび入寇すれば、応援は艱阻である。これが三。比年通好し、往来して窺覘し、河山の兵甲を悉く知っている。もし寇掠して脅迫すれば、援兵は十日ならずして至らず、既に至れば虜は去り、兵を罷めてまた来る。これが四。北狄・西戎は久しく仇敵であるが、今回鶻は叛こうとし、もし連約すれば、数道並び進み、どうしてこれを遏せようか。これが五。」

十年、華州刺史として出された。承璀の田は多く管内にあり、主奴が民を擾したので、李絳はこれを捕らえて繋いだ。五坊使が派遣されることになり、帝は戒めて言った。「華州に至ったら自ら慎め。李絳は大臣である。奏上があれば即ち法を行うであろう。」州には捕鷂戸があり、毎年貢納を責められていたが、李絳がこれを言上し、併せて畋猟を止めるよう勧めたところ、詔があり澤潞・太原・天威府で共にこれを罷めた。兵部尚書として召されたが、母の喪で免じられた。後に河中観察使を授かった。河中はかつて節度使の管轄であったが、皇甫镈が李絳を憎んだため、恩を薄くし、議者はこれを正しとしなかった。镈が罪を得ると、再び兵部尚書として召された。御史大夫に遷った。穆宗はしばしば遊猟したので、李絳はその属僚を率いて延英殿を叩いて切に諫めたが、容れられなかった。疾を理由に辞し、兵部尚書に還り、東都留守を歴任し、東川節度使に移り、再び留守となった。宝暦初め、尚書左僕射に拝された。李絳は儀容魁偉で、直道をもって進退し、その声望は一時を冠たが、賢不肖を分かつこと甚だしく、しばしば讒邪の徒に中傷された。御史中丞王璠が道で李絳に遇ったが、避けなかった。李絳は故事を引いて論列したが、宰相李逢吉が王璠を擁護し、李絳を太子少師に左遷し、東都に分司させた。

文宗が立つと、太常卿に召され、検校司空しくうとして山南西道節度使となり、累封して趙郡公となった。四年、南蛮が蜀道を寇したので、詔して李絳に兵千人を募らせて赴かせたが、半道に至らずして蛮は既に去り、兵は還った。監軍使楊叔元は、平素より李絳を憎んでおり、人を遣わして軍を迎え説いて言った。「将に募兵の代価を収めて民に還そうとしている。」兵士は皆怒り、騒ぎ入って庫兵を奪った。李絳はちょうど宴を開いており、備えをしていなかったので、節を握って城壁に登った。或る者が城を縋って逃れれば免れることができると言ったが、李絳は従わなかった。牙将王景延が力戦して死に、李絳は遂に害され、六十七歳であった。幕府の趙存約・薛斉も共に死んだ。事が聞こえると、諫官崔戎らが李絳の冤罪を列挙し、冊贈して司徒とし、諡して貞とし、賻礼は甚だ厚かった。景延もまた官を贈られ、一子に禄が与えられた。大中初め、詔して史官に元和の将相を差第させ、凌煙閣に図形を描かせたが、李絳もその中にあり、ただ中に留め置かれた。李絳の論じた事は万余言に及び、その甥の夏侯孜が蒋偕に授け、七篇に編次した。

子の李璋、字は重礼。大中初めに進士第に擢げられ、盧鈞の太原幕府に辟召された。監察御史に遷り、太廟の祫享に再び宰相が事を摂るよう奏上した。起居郎に進んだ。旧制では、郊丘に次を設け、太仆が盤車に楽を載せ、群臣を召して臨観させたが、李璋が奏上してこれを罷めた。咸通年中、累官して尚書右丞・湖南宣歙観察使となった。

宋申錫

宋申錫、字は慶臣、史書にはその出身地を失っている。少にして孤となり、進士第に擢げられ、累ねて節度使の幕府に辟召され、後に頻りに遷って起居舎人となり、礼部員外郎として翰林学士となった。敬宗の時、侍講学士に拝された。長慶・宝暦の間、風俗は囂薄で、朋党を煽り立てたが、申錫は素より孤直で交わり少なく、進用されると、議者は浮競を激することができると言った。

文宗が即位すると、再び転じて中書舎人となり、また翰林学士となった。帝は宦官の権寵が主を震わすことを憎み、再び宮禁の変を招いたが、王守澄が禁兵を典し、傲慢放肆であったので、その本根を剟除しようとし、大議を決するに足る者を思った。申錫が忠厚であると察し、召して対問し、朝臣と謀って守澄らを除かせ、且つ執政を倚り頼もうとした。申錫は頓首して謝した。間もなく尚書右丞に拝され、一月余りして同中書門下平章事に進んだ。そこで王璠を京兆尹に除き、密かに帝の旨を諭した。王璠が言葉を漏らし、守澄の党の鄭注がその謀を得た。太和五年、軍候豆盧著を遣わして申錫が漳王と謀反したと誣告させ、守澄が奏を浴堂に持ち、騎兵二百を遣わして申錫の家を屠らんとしたが、宦官馬存亮が争って言った。「謀反したのは申錫のみである。南司を召して会議すべきである。そうでなければ、京師は跂足して乱れるであろう。」守澄は答えることができなかった。時は二月の晦で、諸司は皆休みであり、中人が馳せて宰相を召したが、馬が奔って疲れ死にし、道で馬を乗り換えて復命した。申錫は牛僧孺・路隋・李宗閔と共に中書に至ったが、中人が唱えて言った。「召された者に宋申錫はいない。」申錫は初めて罪を得たことを知り、延英門を望み、笏で額を叩いて邸に還った。僧孺らは上に出された豆盧著の告牒を見て、皆愕然として何と答えるべきか知らなかった。守澄は申錫の親吏張全真・家人の買子縁信及び十六宅の典史を捕らえ、脅してその罪を成らせた。帝は申錫を罷めて太子右庶子とし、三省官・御史中丞・大理卿・京兆尹を召し、中書集賢院で会して申錫の反状を雑験させた。京師は嘩然として驚き、久しくしてやっと定まった。

翌日、延英で宰相群官を悉く召し入れ、初め申錫を死に抵らせようと議した。仆射竇易直が率然として対して言った。「人臣に将無し、将あれば必ず誅す。」聞いた者は然りとしなかった。ここにおいて左散騎常侍さんきじょうじ崔玄亮・給事中李固言・諫議大夫王質・補闕盧鈞・舒元褒・羅泰・蒋系・裴休・竇宗直・韋温、拾遺李群・韋端符・丁居晦・袁都らが殿陛に伏し、獄を外に付すよう請うた。帝は震怒し、叱って言った。「朕は公卿と議した。卿らはただ退出せよ。」玄亮・固言が執拠すること愈切で、涕泣して懇到であったので、これにより申錫を嶺表に貸すことを議した。京兆尹崔琯・大理卿王正雅が苦しく請うて豆盧著を出し、申錫と対質して情状を劾正させようとした。帝は悟り、申錫を開州司馬に貶し、これに従って流死した者は数十百人に及び、天下は冤罪と見なした。豆盧著を兼殿中侍御史に擢げた。

初め、申錫が帰ると、素服を着て外舎で命を待った。その妻が責めて言った。「公は何を以て天子に負い、乃ち反するのか。」申錫は言った。「我は孤生より起り、宰相の位に至り、国の厚恩を蒙った。奸乱を鉏くことができず、反ってこれに陥れられた。我は豈に反する者であろうか。」初め、申錫は清節をもって進み、要位にある者が賄賂を受け取って風俗を敗ることを疾み、故に近臣となって以来、四方からの賄謝は一切受けなかった。罪を得た後、有司が検劾したが、悉く返した問遺の書状を得て、朝野はこれを閔んだ。しかし宰府にあって他に謀略はなかった。七年、感憤して卒し、詔して帰葬させた。

開成元年、李石が延英殿に召されて対し、穏やかに言うには、「陛下の政は、皆天心を承けております。ただ申錫の冤罪のみが、久しく未だ雪がれずにございます」と。帝は恥じて言うには、「我も当時その過ちを悟ったが、詐って忠を装う者が社稷の計をもって我を迫った故である。もし漢の昭帝・宣帝の時に逢えば、この罪に坐すことはなかったであろう」と。ここに因って右丞・同中書門下平章事を追復し、兵部尚書を贈り、その子慎微を城固尉に任じて録した。会昌二年、謚を賜って貞といった。

贊していわく、鎰・元衡は王室に忠をつくし、絳は巨徳の大臣たり。皆賊奸に乗ぜられ、元身を歿せず。蓋し福善禍淫の訓も時にたわむことあるか。然りといえども、賢者たるもの忠誼に於いては、寧ろ一の不幸を以て、遽かにして慊然たるを其の心に使わんや。要するに躬は殞つべしと雖も、名は岱・崧と等しきなり。公輔の隙開くも、猶説を納るるは焉。申錫は謀小さくして任大なり、顛はいも之に従う。惜しいかな。