劉晏
劉晏、字は士安、曹州南華の人なり。玄宗が泰山に封ずる時、晏は始めて八歳、行在に頌を献ず。帝その幼さを奇とし、宰相張説に試みさせしむ。説曰く「国瑞なり」と。即ち太子正字を授く。公卿の邀請旁午し、神童と号し、名一時に震う。天宝中、累ねて夏令に調ず。未だ賦を督せずして、輸に逋期無し。賢良方正に挙げられ、温令を補す。至る所に恵利紀すべき有り、民皆石を刻みて伝う。再び侍御史に遷る。禄山乱に、襄陽に避地す。永王璘、晏を右職に署すも、固く辞す。房琯に移書し、封建は古と異なるを論じ、「今諸王深宮より出で、一旦に桓・文の功を望むも、致すべからず」と。詔して度支郎中を拝し、侍御史を兼ね、江淮租庸事を領す。晏、呉郡に至りて璘反す。乃ち采訪使李希言と謀りて之を拒ぐ。希言、晏に余杭を守らしむ。会戦利あらず、走りて晏に依る。晏、守るべきの計を陳べ、因りて義兵を発し壁を堅くす。会に王敗れ、転じて州県を略せんと欲す。晏に備え有るを聞き、遂に自ら晋陵より西走す。終に功を言わず。召されて彭原太守を拝し、隴・華二州刺史に徙り、河南尹に遷る。時に史朝義東都を盗む。乃ち長水を治む。戸部侍郎に進み、御史中丞・度支鑄錢鹽鐵等使を兼ぬ。京兆尹鄭叔清・李齊物、残摯に坐して罷む。詔して晏に京兆尹を兼ねしむ。大體を総べて苛からず、職に称うと号せらる。会に司農卿厳莊獄に下り、已にして釈さる。晏を誣劾して禁中の語を漏らすとす。宰相蕭華も亦之を忌み、通州刺史に貶す。
代宗立ち、復た京兆尹・戸部侍郎と為り、度支・鹽鐵・轉運・鑄錢・租庸使を領す。晏、戸部を以て顔真卿に譲り、国子祭酒に改む。又京兆を以て厳武に譲る。即ち吏部尚書・同中書門下平章事を拝し、使は旧の如し。程元振と善きに坐し、太子賓客に罷む。俄かに御史大夫に進み、東都・河南・江淮轉運・租庸・鹽鐵・常平使を領す。時に大兵の後、京師に米一斗千錢、禁膳時に兼ねず、甸農は穗を挼えて以て輸す。晏乃ち自ら按行し、淮・泗に浮かび、汴に達し、河に入る。右に底柱・硤石に循り、三門の遺跡を観る。河陰・鞏・洛に至り、宇文愷の梁公堰を見、河を廝して通済渠と為し、李傑の新堤を視、其の病利を尽く得たり。然れども人の牽制を畏れ、乃ち宰相元載に移書し、以て為すに「大抵運の利と害は各々四有り。京師三輔は、税入の重きを苦しむ。淮・湖の粟至らば、徭賦半ばを減ず可く、一利と為す。東都雕破し、百戸に一も存せず。若し漕路流通せば、則ち聚落邑廛漸く還定す可く、二利と為す。諸将に廷せざる有り、戎虜に侵盗有り。我が貢輸錯入するを聞き、軍食豊衍し、以て夷夏を震耀す可く、三利と為す。若し舟車既に通ぜば、百貨雑集し、航海梯嶠し、貞観・永徽の盛を追う可く、四利と為す。宜陽・熊耳より起り、虎牢・成臯五百里、見戸纔か千余、居に尺椽無く、爨に盛煙無く、獣遊び鬼哭く。而して転車漕を免ぜしめんとすれば、功且く就き難く、一病と為す。河・汴は寇難以来、復た穿治せず、岸崩れ木滅し、所在廞淤し、泗を渉ること千里、水無きに舟を行くが如く、二病と為す。東垣・底柱、澠池・北河の間六百里、戍邏久しく絶え、奪攘奸宄し、河を夾みて藪と為し、三病と為す。淮陰より蒲阪に去ること、亙ること三千里、屯壁相望み、中軍皆鼎司の元侯、毎に衣に纊無く、食は半菽と言う。漕を免ずる所至れば、輒ち留めて以て軍に饋え、単車の使者簡書を折るのみにて能く制す可からず、四病と為す」と。載方に内に朝権を擅にす。書を得るや、即ち尽く漕事を晏に委ぬ。故に晏其の才を尽くすを得たり。歳輸始めて至る。天子大いに悦び、衛士を遣わし鼓吹を以て東渭橋に迓えしめ、馳せ使をして労して曰く「卿、朕が酂侯なり」と。凡そ歳に四十万斛を致す。是より関中水旱有りと雖も、物翔貴せず。
常袞政を執り、晏に公望有るを忌み、乃ち晏は旧徳有り、当に百僚を師長すべしと言い、用いて左僕射と為す。実に其の権を奪わんと欲す。帝、計務方に治まるを以て、詔して僕射を以て使を領すること旧の如くせしむ。初め、晏諸道に租庸使を分置し、慎みて臺閣の士を簡びて之に専らせしむ。時に経費充たず、天下の摂官を停む。独り租庸は補署を得、数百人を積む。皆新進鋭敏、当時の選を尽くし、趣督倚辦す。故に能く成功す。権貴の幹請有りと雖も、職仕を仮せんと欲する者は、晏厚く稟入を以て之を奉ず。然れども未だ親事せしめず。是を以て人人職を勧む。嘗て言う「士に爵祿有れば、則ち名は利に重し。吏に栄進無ければ、則ち利は名に重し」と。故に檢劾出納は、一に士人に委ね、吏は惟だ文書を奉行するのみ。任ずる所の者は、数千里の外と雖も、教令を奉ずること目前の如く、頻伸諧戲も敢えて隠さず。惟だ晏能く之を行い、他人は能わざるなり。代宗嘗て命じて部内の官吏の善悪を考せしむ。刺史に罪有る者は、五品以上は輒ち系劾し、六品以下は杖して然る後に奏す。
初め、楊炎が吏部侍郎であった時、劉晏は尚書であり、互いに高ぶって譲らなかった。劉晏が元載の罪を追及したため、楊炎は連座して貶官された。楊炎が政権を執ると、宿怨を抱き、元載の仇を討とうとした。先に、帝(徳宗)が東宮にあった時、代宗は獨孤妃を寵愛し、その子の韓王を愛した。宦官の劉清潭と寵臣らが妃を皇后に立てるよう請い、また韓王に幾度も符瑞の兆しがあると言って、東宮を動揺させようとした。当時、妄りに劉晏がこれに加わったと噂された。この時、楊炎は帝に拝謁して涙を流し、「祖宗の神霊に頼り、先帝と陛下は賊臣に離間されることはなかったが、さもなければ、劉晏と黎幹が社稷を揺るがし、凶悪な謀略は成就していたであろう。今、黎幹は罪に伏したが、劉晏は生きている。臣は宰相の位にありながら、その罪を正すことができず、法に照らせば死罪である」と言った。崔祐甫が「陛下は既に広く大赦を行われたので、根拠のない噂を追及して人を罪に陥れるべきではない」と言い、朱泚と崔寧が力を合わせて弁解し、崔寧は特に切実であった。楊炎は怒り、崔寧を外任に追いやり、遂に劉晏の使職を罷免した。新旧の官吏が交際した際の帳簿の物品に不正があったことを理由に、忠州刺史に貶し、宦官が護送した。楊炎はどうしても罪を着せようと、庾準が劉晏と元々恨みがあることを知り、彼を荊南節度使に抜擢した。庾準は直ちに、劉晏が朱泚に送った手紙に怨望の言葉があること、また兵卒を徴発し、官物を擅に取り、詔使を脅迫し、乱を謀ったことを上奏した。楊炎がこれを証拠立てた。
劉晏が没して二十年後、韓洄、元琇、裴腆、李衡、包佶、盧徵、李若初が相次いで財利を掌り、皆劉晏が抜擢任用した者で、当時に名声があった。
附 元琇
元琇は後に尚書右丞として度支を判り、国に横領がなく軍務を賄った。韓滉に憎まれ、雷州司戸参軍に貶官された。広州に私的に入った罪により、死を賜った。
附 裴腆
裴腆は兵部侍郎として度支を判り、聞喜県公に封ぜられた。
附 李衡
李衡は戸部侍郎を歴任した。
附 包佶
包佶は字を幼正といい、潤州延陵の人である。父の包融は集賢院学士で、賀知章・張旭・張若虚と当時有名で、「呉中四士」と号された。包佶は進士に及第し、累官して諫議大夫となった。元載と親しかった罪で、嶺南に貶官された。劉晏が上奏して起用し、汴東両税使とした。劉晏が罷免されると、包佶を諸道塩鉄軽貨銭物使に充て、刑部侍郎に遷り、秘書監に改め、丹陽郡公に封ぜられた。
附 盧徵
盧徵は幽州の人である。劉晏が推薦して殿中侍御史とした。劉晏が罪を得ると、珍州司戸参軍に貶官された。元琇が度支を判ると、員外郎に推薦した。元琇が罪を得ると、秀州長史に貶官され、三度遷って給事中となった。戸部侍郎の竇參は彼を気に入り、ちょうど自らの後継者にしようとしていたが、同州刺史が欠員となった時、竇參は尚書左丞趙憬を用いるよう請うた。徳宗は竇參を憎み、その腹心を離間しようと、代わりに盧徵を用いて同州刺史とした。久しくして華州刺史に転じ、権力者に厚く結び付き、登用を望んだ。同州・華州は土地が狭く貧しく、献上品は常に粗末であったが、盧徵に至っては重税を課し、奉る品は常に定数を上回り、人々はその要求に堪えられなかった。
附 李若初
若初は、初め劉晏に仕えて冗職にあり、包佶に称賛された。太康令を歴任し、刺史李芃に余剰の銭を徴収して権勢家に取り入るよう勧め、芃は彼を厚遇した。累進して浙東観察使となった。王緯に代わって浙西観察使・諸道塩鉄使となった。当時天下の銭は少なく貨物は軽く、州県は銭の境外持ち出しを禁じ、商人の流通が途絶えていた。若初は初めて銭の流通を許して万貨を活発にすることを奏上し、詔はこれを許可した。剛直をもって部下を糾し、吏民は畏服した。死去し、礼部尚書を追贈された。
宗経は給事中・華州刺史の官で終わった。子の濛は、字を仁澤という。進士に挙げられ、累官して度支郎中となった。会昌初年、給事中に抜擢された。才能を宰相李徳裕に認められた。当時回鶻が衰え、朝廷が河・湟の地を経略しようとしていたので、濛を派遣して辺境を巡察させ、兵糧器械を調達させ、宣慰霊夏以北党項使とした。初めて木牛を用いて運搬することを議した。宣宗が即位し、徳裕が罪を得ると、濛は朗州刺史に左遷され、大理卿の官で終わった。
劉晏の兄 暹
劉晏の兄の暹は、汾州刺史となった。天資として悪を憎み、赴任先では方正剛直をもって観察使に畏れられた。建中末年、召されて御史大夫となった。宰相盧杞はその厳格さを憚り、代わりに前河南尹の於頎を推薦した。暹は潮州刺史の官で終わった。
於頎は字を休明といい、河南の人である。初め京兆士曹参軍となり、尹の史翙に器重された。翙が山南東道節度使となると、判官に表奏した。翙が乱兵の手に倒れると、頎は挺身して出てその遺体を収め葬り、当時その義を称えられた。累進して京兆尹となり、機略と詭弁を用い、政務は煩瑣で大要を欠き、元載に親昵された。載が罪を得ると、鄭州刺史として出され、河南尹に転じ、諂い柔順であったため、御史大夫となることができた。三度転じて工部尚書となり、入朝の際、金吾の仗の下で倒れ、御史に弾劾され、太子少師として致仕し、死去した。
暹の孫 潼
暹の孫の潼は、字を子固という。進士第に及第し、杜悰が度支を管掌すると、巡官に表奏し、累進して祠部郎中となった。大中初年、党項羌を討伐するにあたり、軍糧が不足し、宰相は潼を使者にしようとしたが、派遣を躊躇した。潼が宰相に面会して言うには、「陛下が辺境の糧秣を憂慮され、使者を派遣しようと議しておられます。潼は任に堪えないことを恐れるだけで、どうして行くのを憚りましょうか」と。そこで供軍使に任命された。ちょうど河・湟の地を回復し、軍隊を駐屯させ守備するため、潼に度支河・湟供軍案を管掌させた。京兆少尹を歴任した。山南に大賊がおり、山に依って略奪を働いていた。宣宗は怒って討伐しようとしたが、宰相崔鉉が言うには、「これは陛下の赤子であり、飢寒に迫られて山谷で兵を弄んでいるに過ぎず、討伐するに足りません。使者を派遣して諭し解放させてください」と。詔して潼を急行させた。潼は挺身して直ちに賊の砦を訪れ、「詔があって汝らの罪を赦す」と言った。賊は皆列んで拝礼し、潼が宿舎に就くことを約束して降伏した。ちょうど山南節度使封敖が兵を派遣して賊を撃ったため、潼は罷めて帰還した。
たびたび辺境の事を上奏し、右諫議大夫に抜擢された。朔方・霊武節度使として出向した。連座して鄭州刺史に左遷され、湖南観察使に改められた。召されて左散騎常侍となった。昭義節度使に任じられ、河東に転じ、さらに西川に転じた。当時李福が南詔を討伐して兵が利あらず、潼が着任すると、恩信をもって慰撫し、蛮族は皆約束を守った。六姓蛮は態度を曖昧にし、南詔の間諜となっていた。卑籠部落という者がこれを討伐しようと請うたので、潼は出兵して襲撃し、五千人を捕虜とした。南詔は大いに恐れ、これ以後辺境を侵犯しなくなった。功により検校尚書右僕射を加えられた。死去し、司空を追贈された。
初め、琦は乾元重宝銭を鋳造し、一銭で十銭に代えることを請うた。国政を執るようになると、さらに重規銭を鋳造し、一銭で五十銭に代えた。ちょうど物価が高騰し、飢饉が相次いだため、議者はこれを非とし、詔して忠州長史に左遷した。ちょうど琦が金を受け取ったと告発する者がおり、御史を急派して取り調べさせた。琦は言上して、「宰相の位にあり、自ら金を持つことができましょうか。もし授受に証拠があれば、有司に罪を帰してください」と言った。御史は理解せず、服罪したものとみなし、獄を上奏した。そこで長流の刑で夷州に流された。
宝応初年、朗州刺史として起用され、優れた政績があり、太子賓客に任じられた。吐蕃が京師を侵すと、郭子儀が糧料使に表奏し、御史大夫・関内元帥副使を兼ねた。京兆尹に改められた。まもなく判度支・鑄錢・塩鉄・転運・常平等使を加えられた。累進して扶風郡公に封ぜられた。再び戸部侍郎兼京兆尹となった。魚朝恩と親しかったことで連座し、括州刺史に左遷された。饒州・湖州の刺史に転じた。再び太子賓客・東都留守となった。徳宗はかねてよりその才能を聞き、再び任用しようとして召した。ちょうど死去した。七十一歳。太子少保を追贈された。子の峰と、その妻の鄭は、ともに孝行で著名であり、門に旌表された。
班宏
班宏は、衛州汲県の人である。父の景倩は国子祭酒で、儒学をもって名家となった。宏は、天宝年間に進士第に及第し、右司禦冑曹参軍に任じられた。高適が剣南を鎮守すると、観察判官に表奏した。青城の人が左道で衆を惑わし、乱を謀った。事が発覚すると、屯将を誣告して死を免れようとし、衆は凶暴で恐れていた。宏が取り調べると、すぐにこれを殺し、人心は大いに安まった。郭英乂が高適に代わると、雒県令に表奏したが、病気のため辞任した。
大暦年間、起居舎人に抜擢され、四度転じて給事中となった。李宝臣が死ぬと、子の惟嶽は喪を匿して節度使を求めた。帝は韓滉を成徳に遣わしてその軍を諭させた。惟嶽は厚く献上物を贈ったが、韓滉は受け取らず、帰還して旨に叶うと報じたため、刑部侍郎・京官考使に抜擢された。右僕射崔寧が兵部侍郎劉乃を上下考に署したが、韓滉は従わず、言うには「今、軍は節度使にあり、尺籍伍符はあれども、省署は校べない。上に虚美多ければ、下は趨競す。上が阿容すれば、下は朋党す」と。そこでこれを削った。劉乃は聞き、謝して言うには「敢えて一美を掠めて二罪を邀えんや」と。吏部侍郎に進んだ。
貞元初年、なお旱魃と蝗害があり、賦調はますます急であった。戸部侍郎として度支使韓滉の副となった。やがて竇参が国政を執ると、韓滉に代わって使となった。竇参が大理司直であった時、韓滉はすでに刑部侍郎であった。徳宗は韓滉が天下の計に熟達しているとして、韓滉を尚書として竇参の副とし、かつ言うには「朕は宰相を重んずるが、衆務は一卿に委ねる。辞するなかれ」と。竇参もまた韓滉が元より貴いとして、私かに言うには「歳を閲すれば、当に使を公に帰すべし」と。韓滉は喜んだ。後に竇参は自ら安んじ、前の言葉を顧みなかった。韓滉は剛愎で、竇参が己を欺いたと思い、議事は次第に合わなくなった。揚子院は、塩鉄転運の委蔵である。韓滉は御史中丞徐粲を主任させたが、徐粲は賄賂で知られた。竇参が代わりを議すると、韓滉は固く不可とした。竇参が諸院の吏を選ぶのに、韓滉に訪ねることはなかった。韓滉はしばしば竇参の用いた吏の過悪を条陳して聞かせたが、常に留中された。まもなく、竇参は使の功労により、吏部尚書を加えられ、韓滉は蕭国公に封ぜられた。韓滉は竇参が虚寵を己に加えたことを恨み、これを怨んだ。毎度、制旨に営建があれば、必ず極めて瑰麗にし、自ら役を程し、権嬖に媚び結んで竇参を傾けようとした。
張滂は先に韓滉と親しく、司農少卿に推薦された。竇参が張滂に江・淮の塩鉄を分掌させようとすると、韓滉は張滂が疾悪であり、かつ法をもって徐粲を縛るであろうとして、誤って言うには「張滂は強戾で用いるべからず」と。張滂は聞き、喜ばなかった。久しくして、竇参は帝が己を遇するに薄いと知り、使を譲ろうとしたが、韓滉に専らせたくはなく、京兆尹薛玨に策を問うた。薛玨は言うには「張滂と韓滉は交悪しており、張滂は剛決である。もし塩鉄転運を分かち掌らせれば、必ずや韓滉を制することができよう」と。竇参は遂に張滂を戸部侍郎・塩鉄転運使に推薦し、韓滉を以て度支を判らせ、張滂の関内・河東・剣南・山南西道の塩鉄転運を韓滉に隷属させて、その意を悦ばせた。また江淮の両税を還し、巡院官を置き、韓滉と張滂に共に差択させた。張滂は簿最を得ようとしたが、韓滉は与えなかった。院官を署するに及んで、互いに可否を持して定まらず、処々の官が欠けて補われなかった。張滂は奏言して「臣の職修まらず、死を逃るるはなし。国家の大計を如何にせん」と。これにより詔があって分掌することとなった。韓滉は宰相に会って辞し言うには「韓滉が漕を主り、歳に江・淮の米五十万斛を得、前年は七十万に至った。今、職を人に移す。敢えて罪を請う」と。張滂が傍らで儳言して「公の言うところは然らず。朝廷は公の職を奪うにあらず、公が官緡を喪い、奸吏を縦にして、自ら咎を取るのみ。凡そ度支使たるもの、一歳ならずして家は輒ち巨億に至り、僮馬産第は王公を侈にす。県官の財を盗まざれば何を以てか然らん。上既にこれを知り、故に張滂に分掌せしむ。今、公は上に怨を帰すことなからんや」と。韓滉は答えず、ここに病を移して第に帰った。宰相がその状を白すと、詔して劉晏・韓滉の故事に許し、東都・河南・淮南・江南・山南東道の両税を以て、張滂がこれを主り、東渭橋以東の巡院をこれに隷属せしめ、関内・河東・剣南・山南西道は韓滉がこれを主った。張滂は揚州に至り、徐粲を窮めて劾し、その贓を悉く発して巨万に至り、嶺表に徙して死なしめた。
王紹
王紹、本名は純、憲宗の諱を避けて改めた。太原より京兆の万年に徙った。父の端、進士に及第し、天宝の間に名があり、柳芳・陸據・殷寅と友善であった。陸據は嘗て言うには「端の荘、芳の弁、寅の介、以て世に名づくべし」と。工部員外郎に終わった。
王紹は若くして顔真卿に器とされ、字して徳素といい、武康尉に奏された。再び蕭復の府を佐けた。包佶が租庸・塩鉄使を領すると、判官に署した。時に李希烈が江淮に兵を阻み、輸物は留梗した。そこで餉道を潁より汴に入るよう徙めた。王紹が関に及ぶと、徳宗は既に西狩していた。そこで軽貨を督して間道より洋州に走った。王紹は先に行在に見え、帝は労って言うには「吾が軍は春服に乏しく、朕は且つ裘を衣る。奈何」と。王紹は流涕して言うには「包佶が臣を遣わして貢奉せしむるに、慮るなく五十万、当に即ち至らん」と。帝は言うには「道は回遠し、経費まさに急なり。何を以てか望まんや」と。後五日にして継いで至り、これにより難を紓いた。倉部員外郎に遷った。この時、兵旱に年なく、詔して戸部に闕官俸・税茶及び無名銭を収めさせ、以て荒政を修めしめた。王紹は員外郎より務を判じ、戸部・兵部郎中に遷り、皆専領した。戸部侍郎に進み、度支を判じ、間もなく尚書に遷った。徳宗は臨禦久しく、ますます宰相に仮借せず、竇参・陸贄が斥罷されてより、中書は充位を取るのみで、ただ王紹は謹密であり、眷待殊に厚かった。主計凡そ八年、政事毎に多く関訪されたが、王紹もまた一言も人に漏らすことはなかった。
順宗が立ち、王叔文がその権を奪い、兵部尚書を拝し、東都留守に出された。元和初年、検校尚書右僕射となり、武寧軍節度使となり、また濠・泗二州をその軍に隷属させた。張愔の後より、兵驕れて治め難く、王紹は軍政を捜輯し、誠を推して人に示した。裨将の安進達・唐重靖が乱を謀ったが、王紹は計を以てこれを取り、家貲を出して士を賞し、挙軍安んじて頼った。再び兵部尚書を拝し、戸部を判じた。卒す。年七十二。右僕射を贈られ、諡して敬といった。
李巽
李巽、字は令叔、趙州贊皇の人。明経をもって華州参軍事を補い、抜萃に挙げられ、鄠尉を授かった。累進して左司郎中・常州刺史となり、召されて給事中を拝し、出て湖南観察使となった。貞元五年、江西に徙った。李巽は治に鋭く、下を法をもって持し、察するに遺私なく、吏は敢えて少しも紿さなかった。順宗が立ち、兵部侍郎に抜擢された。杜佑が表して塩鉄・転運副使とし、やがて杜佑に代わった。使の任は劉晏の後より、職廃れて振わず、賦入は朘耗していた。李巽が職に蒞むこと一年、較ぶるに所入は晏の最多の年の如く、明年はこれを過ぎ、又明年、百八十万緡を増した。再び吏部尚書に遷った。
天資は吏事に長じ、家を治むるに至っても、案牘簿書を句検すること公府の如くであった。史に過ちあれば、秋毫も縱することなく、股慄脅息して、常に李巽と対するが如かった。程異が王叔文に坐して廢されたが、李巽は特にこれを推薦引いた。程異の計較は李巽より精であり、故に李巽は能く職を善くした。助け有るが故であろう。元和四年、疾革まり、郎官が省候すると、李巽は言及すること病に及ばず、ただ程課功利を商校するのみであった。この夕に卒す。年六十三。尚書右僕射を贈られた。
李巽は人となり忌刻で怨を校え、江西に在りては、憎む所あれば輒ちこれを殺した。初め、竇参が相となった時、李巽を常州に出し、その行を促した。竇参が郴州に貶せられた時、李巽は時に湖南を観察していた。宣武節度使劉士寧が絹数千匹を竇参に致したが、李巽は即ち竇参が藩鎮と交通するを劾し、以て徳宗を怒らせ、遂に竇参を殺させたという。
贊
賛して曰く、生民の本は、食と貨のみ。取る所以を知れば、人は怨まず、与うる所以を知れば、人は乏しまず。道をもってこれを禦すれば王たり、権をもってこれを用いれば覇たり、古今ひとしきなり。劉晏は平準法に因り、山海を斡旋し、商賈を排し、万物の低昂を制し、常に天下の贏貲を操り、もって軍興を佐く。兵を拿ること数十年といえども、斂は民に及ばずして用度足る。唐中に僨えて振い、晏に労あり、取予を知ると謂うべし。その晏に辟署せられしを経る者は、皆材を用いて顕れ、その法を循れば、また能く国を富ますと云う。