令狐彰
令狐彰、字は伯陽、京兆富平の人、その先祖は敦煌より内徙す。父の濞は世の善吏たり。初め、范陽の尉となり、民家の女を通じて、彰を生む。罷めて帰り、彰を母の所に留む。既に長ずるに及び、志膽沈果にして、書傳の大義を知り、射て命中す。安祿山に從い、左衛郎將に署せらる。張通儒と長安に入り、また左街使に署せらる。二京平らぎ、河朔に走る。史思明、博・滑二州刺史に署し、滑臺に屯す。時に中人楊萬定滑州軍を監す、彰は節を以て自ら顯はんと欲し、沒人を募りて夜河を度り、悉く士馬州縣を籍して款を獻じ、萬定に因りて以て聞かしむ。肅宗大いに悅び、書を下して慰勞す。彰は壁を杏園渡に移す、思明之を疑い、薛岌を遣わして兵を以て彰を劫わしむ。彰は衆を諭すに大誼を以てし、皆感附して死力を盡くし、遂に岌の兵を破り、圍を潰して出で、麾下数百を以て朝に入る。甲第・帷帳・什器を賜い、滑亳・魏博節度使に拜す。河朔平らぎ、兼御史大夫を加えられ、霍國公に封ぜられ、檢校尚書右僕射と為る。
初め、滑は寇衝に當たり、城邑墟榛たり、彰躬より吏下を訓し、軍を檢し農に力を入れ、法令嚴にして、敢えて犯す者無し。田疇大いに開け、庫委豐余にして、歳時の貢賦期の如し。時に吐蕃邊を盜み、防秋兵を召す、彰は士三千を遣わし、自ら糧を賫し、過ぐる所秋毫も犯さず、供擬を讓りて受けず、時に其の能を韙とす。然れども猜阻忮忍にして、忤る者は輒ち死す。潁州刺史李岵に怒り、姚奭を遣わして之に代え、戒めて曰く「時に代わらざれば、之を殺せ」と。岵其の謀を知り、因りて奭を殺し、死者百餘人、汴州に奔り、上書して自ら言う、彰も亦之を劾す。河南尹張延賞は彰を畏れ、岵の使を留む、故に彰の書先ず聞こえ、岵を夷州に斥け、之を殺す。魚朝恩と隙有り、及び用事するに及び、彰は敢えて朝に入らず。
會うに母喪に遭い、失明し、卒す。方に疾甚だしきに、子の建・通・運を敕して東都の私第に歸らしめ、悉く軍府の兵仗財用の簿最を上り、吏部尚書劉晏・工部尚書李勉の大事に堪うるを表し、請うて以て自ら代わらしむ。代宗表を得て咨悼し、詔を下して其の門閭を褒美し、太傅を贈る。
建累官して右龍武軍使と為る。德宗奉天に幸す、建方に士射を肄い、遂に四百人を以て從い、且つ殿す。行在中軍鼓角使・左神武軍大將軍に擢でらる。其の妻は成德節度使李寶臣の女なり、建将に之を棄てんとし、門下客郭士倫と通ずると誣い、士倫を榜殺して其の妻を逐う、士倫の母痛憤して卒す。寶臣請うて劾按せしむも、狀無し。建赦に會い免る。帝常膳錢五十萬を取って士倫母子を葬り、並びに其の家を恤う。俄に建を起して右領軍大將軍と為す。復た專殺に坐し、勛を以て貸さる。妄りに自ら陳するに坐し、施州別駕に貶せられ、卒す。右領軍大將軍を贈られ、又加えて揚州大都督を贈らる。
憲宗の時、宰相李吉甫奏言して曰く「彰将に死せんとするに、土地兵甲を籍して上り、諸子を遣わして第に還らしむ、彰同時の河朔諸鎮は、子孫に傳え、熏灼數代す、唯だ彰忠義奮發して、而して長子建は事に坐し、幼子運は辜無く、皆竄死す、今通幸いに存す、惟だ陛下之を用いよ」と。因りて贊善大夫を授く。時に蔡を討つ、故に連ねて壽州團練使に徙す。吉甫の卒するを聞き、自ら安からず。每たび戰うに、虚しく首級を張り、敗るれば則ち掩いて奏せず。露布上るも、宰相武元衡之を卻す。後賊に攻められ、廥聚を焚かれ、屯柵を破られ、通大いに懼れ、重ねて塹りて敢えて出でず。詔して金吾大將軍李文通宣慰せしめ、将に至らんとして、遂に之に代わる。昭州司戶參軍事に貶せらる。久しくして乃ち召されて右衛將軍と為る、給事中崔植其の制を還す、帝植に諭さしめ、彰功有るを以て、其の嗣を棄てしむるに忍びず、制乃ち下る。終に左衛大將軍と為る。
運は東都留守将と為り、杜亞に陷れられ、流死して歸州に至る。
張孝忠
張孝忠、字は孝忠、本は奚種、世々乙失活の酋長と為る。父の謐は開元中衆を提げて款を納れ、鴻臚卿を授かる。孝忠初め阿勞と名づく、勇を以て聞こえ、燕・趙の間共に張阿勞・王沒諾幹を推す、二人齊名す。沒諾幹は王武俊なり。孝忠魁偉にして、長さ六尺、性寬裕、親に事えて孝なり。天寶末、善射を以て仗內に供奉す。安祿山奏して偏将と為し、九姓突厥を破り、功を以て漳源府折沖に擢でらる。祿山・史思明河・洛を陷るるに、常に賊の前鋒と為る。朝義敗るるに及び、乃ち自ら歸り、左領軍將軍を授かり、兵を以て李寶臣に屬す。累ねて左金吾衛將軍を加えられ、今の名を賜う。寶臣其の沈毅謹詳なるを以て、遂に姻家と為り、易州諸屯を委ねて統制せしむ、十餘年、威惠流聞す。田承嗣冀州を寇す、寶臣兵四千を付し、出でて上谷にし、貝丘に屯せしむ。承嗣其の軍整嚴なるを見て、嘆じて曰く「阿勞焉に在り、冀は未だ圖るべからず」と。即ち營を焚きて去る。寶臣朱滔と瓦橋に戰う、孝忠を易州刺史と奏し、精騎七千を分かち、幽州に當たらしむ。太子賓客に擢でられ、符陽郡王に封ぜらる。
寶臣晚節稍々忌刻にして、大将李獻誠等を殺して孝忠を召す、孝忠往かず、復た其の弟孝節をして之を召さしむ。孝忠復命して曰く「諸將狀無く、頸を連ねて戮を受けん。吾は禍を懼れ、敢えて往かず、亦敢えて叛かず、猶お公の天子を覲ざるが如し」と。孝節泣いて曰く「即ち歸らば、且つ僇死せん」と。孝忠曰く「偕に往かば則ち並びに命を失わん、吾留まらば患無し」と。果たして敢えて殺さず。
然れども寶臣素より孝忠に善く、及び病して語る能わず、手を以て北を指して死す。子の惟嶽擅に立ち、詔して朱滔をして幽州兵を以て之を討たしむ。滔孝忠の善戰するを忌み、師出でて己が患と為らんことを慮り、判官蔡雄を遣わして往き説いて曰く「惟嶽は孺子、兵を弄して命に拒ぐ、吾は詔を奉じて罪を伐つ、公は乃ち宿将、安んぞ逆を助けて自ら福を求めざるや。今昭義・河東軍已に田悅を破り、而して淮西軍襄陽を下し、梁崇義の屍井中より出で、漢江上に斬るる者五千人、河南軍日を計りて北首し、趙・魏の滅亡見るべし。公誠に逆を去り順に蹈み、先んじて國に歸るを倡えば、以て不世の功を建つべし」と。孝忠之然りとし、将程華を遣わして滔に報じ連和し、易州錄事參軍事董稹を遣わして朝に入らしむ。德宗之を嘉し、孝忠を擢でて檢校工部尚書・成德軍節度使と為し、滔と並び力をせしむ。孝忠の子弟恒州に在る者は皆死す。孝忠滔を重德し、子茂和の為に其の女を聘し、締約益々堅し。
惟嶽を束鹿に敗り、滔勝に乗じて恒州を襲わんと欲す、孝忠乃ち軍を引き西北し、義豐に壁す。滔之を疑う、孝忠の将佐諫めて曰く「尚書赤心を朱司徒に推す、至りと謂うべし。今逆賊已に潰え、元功終わらず、後且つ之を悔いん」と。孝忠曰く「本賊を破らんことを求め、賊已に破る、而して恒州には宿将多し、之を迫れば則ち死鬥し、之を緩めば則ち圖を改めん。且つ滔言は大にして識淺く、以て始めを慮るべくも、難くして成を守らしめん。故に吾此に堅壁して、以て賊の滅するを待つのみ」と。滔も亦束鹿に屯すを止む。月餘、王武俊果たして惟嶽を斬りて以て獻ず。已にして定州刺史楊政義州を以て孝忠に降り、遂に易・定を有つ。時に成德の地を三分し、詔して定州に軍を置き、名づけて義武とし、孝忠を以て節度・易定滄等州觀察使と為す。
張孝忠の子、茂宗。
茂宗は、累次抜擢されて光禄少卿・左衛将軍となった。元和年中、閑廄使を歴任した。初め、至徳の時、西戎が隴右を陥落させたため、旧隴右監及び七廄は皆廃止され、閑廄はその地の収入を私していた。宝応の初め、初めてその地を貧民に給した。茂宗は恩寵を恃み、その賦税を悉く収めるよう奏上し、また麟遊・岐陽の牧地三百余頃を取るよう奏上した。民が朝廷に訴えると、詔して監察御史の孫革に巡察させたが、還って奏上して不可とした。茂宗は左右の援助を頼み、孫革の奏上が事実でないと誣告し、再び侍御史の範伝式に実態を覆査させ、遂にその田を悉く奪った。長慶の初め、岐人が列をなして訴え、御史に下され、その地を尽く民に還した。宝歴の初め、兗海節度使に遷った。終に左龍武統軍となった。
張孝忠の子、茂和。
茂和は、左武衛将軍を歴任した。裴度が蔡州を討つ時、都押衙に奏請した。茂和は数度、胆勇を以て自ら試みることを求めたが、裴度が功を立てられないと言い、辞して行かなかった。裴度は彼を斬って軍に令せんことを請うたが、憲宗は曰く、「朕はその家が忠且つ孝であることを以て、卿のために遠く斥けることとする」と。後に終に諸衛将軍となった。
張孝忠の子、茂昭。
還鎮すると、王承宗が叛いた。詔して河東・河中・振武・義武が軍を合わせて恒州北道招討と為し、茂昭は倉廩・厩舎を整え、亭候を列ね、道路を平易にし、以て西軍を待った。王承宗は騎兵二万を以て木刀溝を越え、王師と薄戦した。茂昭は躬ずから甲を擐けて前鋒と為り、その子の克讓・従子の克儉に命じて諸軍と左右の翼に分かれて賊を包囲させ、大いにこれを破り、王承宗は危うくならんとした。時に詔有って班師することとなり、検校太尉を加えられ、兼ねて太子太傅となった。乃ち宗族を挙げて還朝することを請い、表を数度上奏し、帝は乃ち許した。北鎮は客を遣わして間諜し説いたが、皆受け入れなかった。詔して左庶子の任迪簡を行軍司馬と為し、駅伝に乗って往き代わらせた。茂昭は両州の符節・管鑰・図籍を奉じてこれを帰した。先ず妻子に命じて上路させ、戒めて曰く、「我が汝らをして易州を出させしは、後世が汚れた習俗に染まらざらんことを庶幾うためなり」と。半道に至らぬうちに、兼中書令を迎え拝し、河中晉絳慈隰節度使を充てた。京師に至ると、双日に延英殿を開き、五刻間対した。又、墳墓を京兆に遷すことを表請し、許された。翌年、疽が首に発して卒去、年五十、冊贈して太師と為し、諡して献武といった。帝はその忠を思い、諸子を皆要職に抜擢し、歳ごとに絹二千匹を給した。
茂昭の少子、克勤。
少子の克勤は、開成年中に左武衛大将軍を歴任した。詔有って一子に五品官を賜うこととなったが、克勤は息子が幼いことを以て、その甥に推譲した。吏部員外郎の裴夷直が弾劾して曰く、「克勤は司法を枉げ、他の族に引き入れて庇い、後日の売爵の端を開く。許すべからず」と。詔して聴し、遂に令に著した。
附、裴夷直。
夷直は字を礼卿といい、また幸亮であり、進士に及第し、右拾遺を歴任し、累進して中書舎人となった。武宗が立つと、夷直は冊牒を視て、署名を肯んぜず、乃ち出されて杭州刺史と為り、更に州司戸参軍に貶斥された。宣宗の初め内に徙され、再び江州・華州等の刺史を拝した。終に散騎常侍となった。
茂昭の甥、陳楚。
陳楚は、茂昭の甥なり、字は材卿、定州の人なり。武幹あり、茂昭に事え、牙将を歴任し、常に精卒を統率して征伐に従う。茂昭が入朝するや、諸衛大將軍に擢でられ、普寧郡王に封ぜらる。元和の末、義武節度使渾鎬が師を喪い、定州乱る。楚を節度使に拝し、伝駅を馳せて軍に赴かしむ。郊に及ぶも、迎ふる者なし。左右入るなからんと勧む。楚曰く、「定軍の来迎せざるは、我を試さんとす。今入らざれば、正に計中に堕つ。」乃ち雪を冒して四十里を行き、夜その州に入る。然して軍校部伍、皆楚の旧なり。これによりて衆心乃ち定まる。河陽三城に徙り、入りて左羽林統軍、檢校司空となる。卒す。年六十一。司空を贈らる。子君奕も亦た鳳翔節度使に至る。
康日知
康日知は、霊州の人なり。祖植は、開元の時に当たり、康待賓を縛し、六胡州を平らぐ。玄宗召見し、左武衛大將軍に擢で、天山県男に封ぜらる。日知は少くして李惟嶽に事え、累擢して趙州刺史となる。惟嶽叛く。日知は別駕李濯及び部将百人と牲血を啐ぎて共に盟し、州を固めて自ら帰順す。惟嶽怒り、先鋒兵馬使王武俊を遣わして之を攻む。日知、客をして武俊に謝して曰く、「賊孱弱甚だし。安んぞ安危を共にすに足らんや。吾が城固く士和す。歳を引くも未だ下すべからず。且つ賊の恃む所は田悦のみ。悦の兵は邢に血を蔑み、壕は浮ぶべし。半堞を残す能わず。況んや吾が城の完きをや。」又臺検を偽り示して曰く、「使者詔を賫して中丞に諭す。中丞奈何ぞ天子に負ひ、小児の跳梁に従わんや。」武俊悟り、兵を引いて還り、惟嶽を斬りて献ず。徳宗其の謀を美しみ、深趙観察使に擢で、実封戸二百を賜う。
日知の子 誌睦
子誌睦、字は得衆。資質趫捷にして偉岸、馳射に巧みなり。右神策軍に隷し、累遷して大將軍となる。張韶を討ち、功多きを以て御史大夫を兼ね、平盧軍節度使に進む。李同捷反す。兵を放ちて千乗を略す。誌睦其の鋭を挫き、逞ふるを得ず。遂に蒲臺を下し、其の械を尽く奪う。檢校尚書左僕射を加う。涇原に徙り、会稽郡公に封ぜらる。卒す。年五十七。司空を贈らる。
誌睦の子 承訓
子承訓、字は敬辭。門功を推して累進し左神武軍將軍となる。宣宗之を擢でて天徳軍防禦使とす。軍中馬乏し、虜来たりて戦ふこと数え、負く。承訓は冗費を罷め、馬を市いて軍を益し、軍乃ち奮張す。初め、党項射雕軍洛源鎮を破り、其の人を悉く俘ふ。承訓の威政を聞き、皆俘を還して敢えて謷かず。詔して檢校工部尚書、会稽県男に封じ、義武節度使に擢でらる。
南詔安南を破るに会い、詔して嶺西南道に徙め、邕州に城し、容管経略使を合して之に隷せしめ、遂に諸軍行営兵馬を統す。南詔深入す。承訓兵を六道に分ち出でて以て蛮を掩はんとす。戦利あらず。士死すること十に八。唯だ天平の卒二千還りて屯すのみ。闔軍震う。ここに於て節度副使李行素城を完して出でず。南詔之を囲むこと四日。或は夜兵を出だして蛮を襲はんことを請ふ。承訓意索然たり。聴かず。天平裨将陰に勇児三百を募り、夜縋りて蛮の屯を焼き、首級五百を斬る。南詔恐れ、明日解きて去る。承訓謬りて大いに賊を破れりと言ひ、朝に告ぐ。群臣皆賀す。檢校尚書右僕射を加う。子弟姻昵を籍して賞を冒す。而して士に及ばず。怨言嚾流す。嶺南東道節度使韋宙状を宰相に白す。承訓慚じ、疾を移し、右武衛大將軍を授けられ、分司東都す。
咸通中、南詔復た辺を盗む。武寧の兵七百桂州に戍す。六歳にして代はるを得ず。列校許佶・趙可立衆怒に因りて都将を殺し、監軍使に詣りて糧鎧を丐ひて北還せんことを請ふ。許さず。即ち庫を斧りて擅にし、戦械を劫ひ、糧料判官龐勛を推して長と為し、衆を勒して上道す。懿宗中人張敬思を遣わして部送せしめ、詔して本道観察使崔彦曾をして之を慰安せしむ。潭州に次ぐ。監軍詭りて其の兵を奪ふ。勛必ず誅せらるるを畏れ、舟を篡ひて江に循ひ下り、益々兵を裒め、亡命を招き、銀刀の亡卒艚を収めて之を匿ふ。徐城に及び、謀りて曰く、「吾等城を叩きて大呼せば、衆必ず応ぜん。前日の賞緡五十万を得べし。」衆喜ぶ。牙健趙武等亡げんと欲す。勛首を斬りて彦曾に送りて曰く、「此れ乱を揺がす者なり。」彦曾詰むる能はず。勛都押衙尹戡・教練使杜璋・兵馬使徐行儉を怨む。又使ひて彦曾に白して曰く、「士罪を負ひ、敢えて甲を釈かず。請ふ二屯と為さんことを。」且つ戡等を退けしめんことを白す。府属温廷皓彦曾に謂ひて曰く、「勛擅に戍を委ぬ。一に殺すべし。専ら大将を戕ぐ。二に殺すべし。私に兵を置く。三に殺すべし。士子弟ならざれば即ち父兄、袂を振ひて唱へば、内外必ず応ぜん。銀刀の亡命、復た其の中に在り。四に殺すべし。請ふ両営に分ち、三将を脅して去らしむ。五に殺すべし。」彦曾然りと謂ふ。乃ち纛を祃ぎて黄堂の前にし、兵三千を選びて都虞候元密に授く。任山に屯し、勛の至るを須ちて劫ひ取りんとす。邏子を遣わし贏服して賊を覘はしむ。暮に比し、勛至る。覘者を捕へ、其の謀を知り、即ち偶人を蕝ぎ、虚幟を剚ち、而して詭路して苻離を襲ふ。密久しうして乃ち寤り、回りて城南に屯す。勛宿将喬翔と睢河に戦ふ。翔大いに敗れ、摂太守焦璐遁げ去る。勛入りて州を拠り、自ら兵馬留後と称す。
初め、璐汴水を決し、勛の北道を絶つ。水未だ至らず。勛渡る。密の兵宿を攻むるに比し、水大いに至り、渉りて城に傅ふ。攻めて克たず。勛百艘を劫ひて糧を運び泗州に趨る。婦弱を留めて陬を持たしむ。翌日、密覚り、之を追ふ。士未だ食はず。賊伏兵を舟に於てし、陣を汴上にす。軍密を見て皆走る。密追躡す。伏発き、之を夾攻す。密敗れ、衆殲さる。遂に徐州に入り、彦曾及び官属を囚へ、尹戡等を殺す。又下邳・漣水・宿遷・臨淮・蘄・虹諸県を徇ひ下す。皆下る。偽将を遣わして柳子に屯し、豊に屯し、滕に屯し、沛に屯し、蕭に屯し、以て其の軍を張る。乃ち章を露はして節度使を求む。周重なる者有り、濠・泗の間に隠れ、謀有りと号す。勛迎へて上客と為し、策の出づる所を問ふ。因りて勛を教へて曰く、「囚徒を赦し、揚州を拠り、北は兗・鄆を収め、西は汴・宋を挙げ、東は青・齊を掠め、境を大河に拓き、敖倉に食らひて以て持久すべし。」勛雄才無く、納れず。偽将劉行及濠州を攻め、刺史盧望回を執り、自ら刺史と称す。帝中人康道隠を遣わして徐州を宣慰せしむ。勛郊迎す。旗鎧矛戟三十里に亙る。騎をして鼙角を鳴らしめ、声山谷を動かす。球場に酒を置き、道隠を引いて其の衆を閲す。賊の来降する者六十人と偽り、平民を妄りに戮し、首級を上りて勝を誇る。」道隠還り、固より節度を求む。即ち魚臺・金郷・碭山・単父十余県を残し、官吏を斬り、金帛を出だして兵を募る。遊民多く之に従ふ。
帝は承訓を検校尚書右僕射・義成軍節度使・徐泗行営都招討使に任じ、神武大将軍王晏権を武寧軍節度使・北面行営招討使とし、羽林将軍戴可師を南面行営招討使として、魏博・鄜延・義武・鳳翔・沙陀・吐渾の兵二十万を率いてこれを討たしむ。
勛は鬼道を好み、漢高祖廟にて夜兵を閲し、人馬汗を流すとの言あり、勛は日ごとに往きて命を請う。巫の言に、球場に隠龍あり、之を得れば戦勝すべしと、勛は大いに役徒を動かして地を鑿つも、得ること能わず。賊将李圓・劉佶は泗を攻め、欧宗・丁従実は舒・廬・寿・沂・海の諸道に分かれて略す。兵は海州に屯し、賊の至るを度り、機橋を作り、長縆を雑えて、賊半ば度るに、縆絶え、半ば溺死し、度る者は戦うを得ず、之を殲す。賊別に和州を取り、沐陽・下蔡・烏江・巢の諸県を破り、揚州大いに恐れ、民悉く江を渡る。淮南節度使令狐は書を移して禍福を陳べ、節度を求むるを助けんことを許す、勛は甲を按じて命を聴く。淮南は宣・潤の兵を合わせて都梁山を戍る。勛は夜淮を渡り、曙に壘に迫る、賊将劉行立・王弘立は勛と合し、淮南将李湘を敗り、淮口に屯し、盱眙を劫う。帝また将軍宋威に詔して淮南と力を併せしむ。
承訓は新興に屯し、賊挑戦す、時に諸道の兵未だ集まらず、承訓帳下纔に万人、退きて宋州に壁す。勛益々驕る。光・蔡の鉅賊滁州を陥とし、刺史高錫望を殺して勛に応ず。戴可師は兵三万を引きて淮口を奪い、勛を都梁山下に囲み、其の衆を降す。可師は勝に恃みて戒めず、弘立は兵を以て之を襲い、可師は陣を克せずして潰え、士淮に溺死し、逸る者数百人、賊可師の首を取りて徐州に伝う。詔して馬士挙を以て淮南節度使・南面行営諸軍都統と為し、伝に馳せて揚州に入らしむ。士挙曰く「城堅く士多し、賊何をか能く為さん」と。衆稍く安んず。初め、帝は晏権が故智興の子なるを以て、武寧を節度せしめ、以て賊を怖れしめんとす。是に及び、返って賊に困らされ、敢えて戦わず、乃ち更に隴州刺史曹翔を以て兗海節度・北面都統招討使と為し、滕・沛に屯し、魏博将薛尤は蕭・豊に屯す。
賊首孟敬文は勛を絶ちて自立せんと欲し、陰に鑒を刻みて文と為し「天口云云、爾に将軍を錫う」と、夜之を野に瘞し、耕者之を得て以て献ず、衆駭異し、乃ち三日斎して之を授く。勛其の謀を知り、人をして襲い之を殺さしむ。
ここに於いて承訓は柳子右に屯し、汴を夾んで壘を築き、一舎に連属す。勛は城中の兵を籍し、止むこと三千、民を劫いて甲を授くも、皆窟穴を穿ちて遁去す。王弘立は睢を渡り、新興・鹿塘を囲む。承訓は沙陀の騎を縦して之を躙らしむ、弘立走り、士水に赴きて死し、鹿塘より襄城に属するまで、伏屍五十里、首数二万、器鎧を獲ること貲ふべからず。承訓は柳子を攻め、姚周は水を渡りて戦い、又敗れ、風に乗じて賊に火を放つ、周は余卒を提げて去り、沙陀之に躡き、芳亭に及び、死者枕藉し、劉豊を斬り、而して周は十騎を以て宿州に走る、守将之を斬る。勛懼れ、乃ち崔彦曾等を害し、其の下に謂ひて曰く「上我が節度を許さず、諸君と真に反す」と。大いに兵を索め、三万を得る。許佶・趙可立は勛を勧めて「天冊将軍」と称せしむ、勛は漢高祖廟に謁して命を受け、其の父挙直を大司馬と為し、徐州を守らしむ。或る曰く「方に大事を為す、父に私すべからず、上下の序を失う」と。挙直乃ち廷に拝し、勛坐して之を受く。兵を引いて豊を救い、木を刻みて婦人と為し、絳を衣て発を被り、軍過ぎて、之を斬りて火にし、乃ち行く。勛は夜城に入る、外知らず。勛は鋭軍を出して援屯を撃ち、魏博軍は勛自ら将たるを知り、驚きて潰ゆ。賊は得たる所を以て徐州に送りて下に誇る。曹翔は退きて兗州を保つ。勛は勝に乗じて承訓を攻めんと欲す、或る曰く「今北兵敗れ、西軍揺るぐ、虞るに足らず。方に蠶月、衆を息ませて農に力を尽くし、秋に至りて士馬強く、決して勝を取るべし」と。挙直曰く「時は重ねて得ず、願くは将軍敵を縦すこと無かれ」と。勛曰く「然り」と。時に承訓方に臨渙を攻む、勛の計を聞き、兵仗を追還して以て待つ。勛の軍は皆市人、囂しくして狂ひ、未だ陣せずして即ち奔り、相蹈藉して死者四万。勛は甲を釈ぎ垢襦を服して脱し、夷痕の士三千を収めて以て帰り、張行実を遣わして第城に屯せしむ。
馬士挙は泗州を救い、賊解き去り、進みて賊の濠州を攻む。是の時、又詔して黔中観察使秦匡謀に賊を討たしめ、招義・鐘離・定遠を下す。勛は呉迥を遣わして北津に屯し濠を援けしむ、士挙は鋭兵を以て淮を渡り、尽く其の営を砕く。初め、勛の遁るるや、衆軍せざるを懼れ、妄りに神有りて野中に呼びて曰く「天符下り、国兵休む」と。勛は下をして相語らしむ、符未だ降らず、故に北津に敗る。
帝は魏博軍の勝たざるを恨み、宋威を以て西北面招討使と為し、兵三万を率いて蕭・豊に屯し、勛に約す「降る者は当に之を赦すべし」と。初め、宿の鄙人劉洪なる者、黄袍を被り、白馬に乗り、人をして封檄を捧げて観察府に叩きて曰く「我当に徐に王たらん」と。崔彦曾之を斬り、遺党山谷に匿れ、勛に附せんと欲す、承訓は諭して之を降す。王師は臨渙を破り、万級を斬り、襄城・留武・小睢の諸壁を収む。曹翔は滕を下し、賊将は蘄・沛を以て降り、賊の李直は奔り入りて徐州に入る。翔は又豊・徐城・下邳を破り、賊益々蹙る。
勛は張玄稔をして宿州を守らしめ、張儒・劉景之を助けしむ、自ら統軍と称し、壁を列ねて相望む。承訓は第城を抜き、張行実は宿州に奔る、承訓遂に宿州を囲む。行実は勛に教ふ「官軍尽く鋭を此にす、西鄙虚単なり、将軍直ちに宋・亳を搗き、不意に出で、宿の囲み自ら解くべし」と。勛喜び、引きて西し、挙直・許佶をして徐を守らしむ。承訓は攻め敗り、十遇みな勝つ。弁士を遣わして威を以て玄稔を動かす。玄稔は賊の重将なり、帛書を以て城外に射て、勛を誅し自ら帰るを約し、張臯をして期を献ぜしむ。俄に二将と柳溪に会し、士を旁に伏せ、玄稔は騎を馳せて呼びて曰く「龐勛の首已に僕射の寨に梟せり」と。伏興き、劉景・張儒を斬る。玄稔は諸将を率いて肉袒して承訓に見え、自ら陳べて賊に陷りて早く奮わず、久しく王師を暴す、願くは賊を禽えて以て死を贖わんと。承訓之を許す。復た詐りて潰軍と為りて符離を劫わんことを請う。苻離知らず、之を内す、已に入りて、即ち守将を斬り、兵万人を得て、北して徐州を攻む。許佶等は敢えて出でず。玄稔は城を環し、彦曾の故吏路審中は白門を啓きて玄稔の兵を内す、許佶等は北門を啓きて走る、玄稔身を以て之を追ひ、士大いに崩れ、皆水に赴きて死し、挙直・許佶・李直等を斬り、叛卒の親族を収めて悉く之を夷す。
勛は徐が既に陥落したと聞き、気力を喪い、頼る所なく、兵は尚二万あり、石山より西へ、所在にて焚掠す。承訓は兵八万を悉くして逐北し、沙陀の将朱耶赤衷急追して宋州に至る。勛は南城を焚くも、刺史鄭處沖に破られ、将に南へ亳に趨かんとす。承訓の兵は渙に沿って東し、賊は蘄県に走る。官兵は橋を断ち、渡河に及ばず。承訓乃ち縱撃して之を斬ること万級、餘は皆溺死す。三日を閲て、勛の屍を得。其の子を京師に斬る。吳迥は濠州を守り、糧尽きて人を食い、女孺を駆りて薪を運び隍を塞ぎ、併せて之を填む。旅を整えて行くに、馬士舉斬りて以て献ず。勛の始めて徐州を得し時、貲儲蕩然たり、乃ち四出して剽取し、男子十五以上は皆兵を執り、舒鉏鉤を兵と為し、「霍錐」と號す。十余州を破り、凡そ二歳にして滅ぶ。
詔して張玄稔を右驍衛大將軍に擢げ、承訓は檢校左僕射・同中書門下平章事に遷り、河東に徙節す。是に於て宰相路巖・韋保衡、承訓を劾し、賊を討つに逗撓し、虜獲を貪り、時に功を上せずとす。蜀王傅に貶し、東都に分司す。再び恩州司馬に貶す。僖宗立ち、左千牛衛大將軍を授く。卒す、年六十六。
承訓の子 傳業
子傳業、嘗て父に從い征伐し、終に鄜坊節度使となる。
李洧
李洧は、淄青節度使正己の從父兄なり。初め、徐州刺史に署す。建中初、正己卒し、子納叛き、宋州を攻む。洧は州を挈して自ら歸し、兼御史大夫を加えられ、潮陽郡王に封ぜられ、實封戶二百、招諭使を充つ。初め、洧は巡官崔程を遣わし朝に入り、且つ宰相に白す、「徐州獨り賊に抗するに足らず、海・沂を得て節度と為せば、成功と與にすべし。洧素より二州刺史と約有り、且つ肯て賊の為に守らざらん」と。程先ず張鎰に咨り、而して盧杞先に白さざるを怒る、故に洧の請中格す。納の徐を攻むるに及び、劉玄佐諸将と與に撃ちて之を退く。既に賊方に張るに及び、乃ち洧に徐海沂密觀察使を加ふ。時に海・密は賊の為に守り、命を受けず、洧未だ之を取る所以有らず。檢校戶部尚書に遷る。會うに疽背に發し、少しく間有り、肩輿にて市を過ぐるに、市人叫歡す。洧驚き、疽潰れて卒す。尚書左僕射を贈らる。洧の将高承宗を以て之に代う。
洧の弟 淡
其の弟淡は、險人なり、下に居るを恥じ、密かに納と約し徐を攻めて内應と為し、併せて滕の将翟濟を説く。濟執えて以て聞す。濟を擢げて沂州刺史と為す。淡を召し京師に入り、洧の赦に因りて罪せず。
劉澭
劉澭は、盧龍節度使怦の次子、濟の母弟なり。書史に涉り、材武有り、施しを好み士を愛し、能く人の死力を得。始め朱滔に事え、常に君臣の大分を陳べ、其の兇を裁抑す。怦の幽州を得るに及び、三月に満たずして病み且つ死せんとす。澭湯液に侍りて未だ嘗て離れず、輒ち父命を以て濟を莫州より召す。濟嗣いで軍事を總ぶ。故に澭の譲を德とし、以て瀛州刺史と為し、もし不諱有らば、己に代わるを許す。
久しくして、濟自ら其の子を副大使と為して用う。澭恨み無き能わず、因りて以て所部を以て天子の為に隴を戍らんことを請い、其の兵千五百を悉く發し馳せて京師に歸る。一卒も敢えて令に違う者無し。德宗甚だ之を寵し、秦州刺史を拝し、普潤に屯す。軍中音楽を設けず。士卒病めば、親しく存問して所欲を問い、不幸にして死すれば、之を哭す。
憲宗立ち、方士羅令則澭の營に詣り、妄りに廢立を言いて以て澭を動かさんとす。命じて之を繫ぐ。辭して曰く、「吾が黨甚だ衆し、公我を囚うること無かれ、大行の梓宮發するを約せば、濟わざる無からん」と。澭械して闕下に送り、之を殺す。功を錄し、其の軍を號して保義と曰う。蕃戎畏懾し、敢えて寇に入らず。常に愾然として河湟を復するの志有り、屢朝廷の為に之を言うも、未だ省みられず。封累ねて彭城郡公。病に及び、士馬を籍して代を求む。既に還り、道にて卒す。年四十九。尚書右僕射を贈られ、謚して景と曰う。
田弘正
田弘正、字は安道。父廷玠、儒學を尚び、軍旅を樂しまず、承嗣と從昆弟たり。平舒丞に仕え、樂壽・清池・束城・河間四縣令に遷り、治を以て稱せらる。滄州刺史に遷る。李寶臣・朱滔承嗣と協せず、兵を合して滄州を圍む。廷玠固く守りて連年、食盡くると雖も叛く者無し。朝廷其の節を嘉し、相州に徙す。承嗣磁・相を盜むも、廷玠回染する所無し。悅代わりて立つに及び、廷玠の正を忌み、召して節度副使と為す。廷玠至り、悅を譲りて曰く、「而は伯父の緒業を承け、當に朝廷の法度を守り以て富貴を保つべし、何ぞ苦しんで恒・鄆と與に叛臣と為らん。兵興り來り、天子に叛きて能く宗族を完うする者は誰ぞや。而が志悛まざれば、盍ぞ我を殺さん、我をして田氏の血人刀を汚すを見しむること無からしめよ」と。遂に疾を稱して出でず。悅過ぎて之を謝すも、門を杜して納れず、憤して卒す。
弘正幼より兵法に通じ、騎射に善くす。承嗣之を愛し、以て必ず吾が宗を興すべしと為し、之を名づけて興と曰う。季安の時、衙內兵馬使・同節度副使となり、沂國公に封ぜらる。季安侈汰にして、殺罰に銳し。弘正從容として規切し、軍中之に頼り、翕然として歸重す。季安内に忌み、出して臨清鎮将と為し、罪に因りて之を誅せんと欲す。弘正陽に痹痼を為し、家に臥して出でず、乃ち免る。季安死し、子懷諫節度を襲ぎ、舊職に召し還す。
田懷諫は政務を家奴の蔣士則に委ねたが、措置が公平でなく、衆怒を買い、皆が言うには、「兵馬使こそ我らの帥である」と。牙兵は直ちにその家に赴いて迎え、田弘正は拒んで受け入れず、衆は門前で騒ぎ立てた。弘正が出ると、衆は拝礼し、脅して府に戻らせた。弘正は地に頓首し、免れ難いと悟り、直ちに軍中に令して言うには、「汝らが私を不肖とせず、軍を主宰させようとするなら、今公らと約束する、命令を聞くことができるか」と。皆が言うには、「公の命令に従うのみ」と。そこで言うには、「私は天子の法を守り、六州の版籍を挙げて朝廷に官吏を請いたい。もし天子が未だ命じられなければ、敢えて私の旌節を請う者は死罪、人を殺し及び人を掠める者は死罪とする」と。皆が言うには、「諾」と。遂に府に到り、士則及びその支党十余人を殺した。ここにおいて魏・博・相・衛・貝・澶の地を図上に示し、その収入を籍に記して献上し、敢えて僚属を任命せず、王官の到来を待った。
先に、諸将が出屯する時は妻子を人質とし、里民は互いに往来することができなかった。弘正はその禁令を悉く除き、民が饋謝や慶弔を通じることを許した。服玩が僭侈な者は、即日に徹毀させた。田承嗣の時代、正寝は華麗で顕著であったが、弘正は避けて敢えて居住せず、更に采訪使の堂皇たる聴事の間を用いた。幽・恒・鄆・蔡は大いに恐れ、客を遣わして説き勧めて結びつけようとしたが、弘正は皆拒絶して遣り返した。憲宗はその誠実を賞美し、詔して検校工部尚書とし、魏博節度使を充てた。また司封郎中知制誥の裴度を遣わして宣慰させ、その軍に銭百五十万緡を賜い、六州の民には一年の賦役を免除し、現囚を赦し、高年・惸独・廃疾で自活できない者を存問した。裴度は明弁で、朝廷の厚意を詳しく述べると、弘正は知らず知らず自らを失い、深く結び付き、上に奉ることを益々謹んだ。更に裴度にその部を遍く行かせ、天子の恩詔を宣示させた。そこで節度僉謀の布衣崔歓に表を奉らせて陳謝させ、且つ言うには、「天宝以来、山東の奥壤は戎墟と化し、官は世襲され、刑賞は自ら出し、国家は垢を含み、六十年を垂れた。臣もし天の齢を仮り、陛下の宸算を奉じ、冀ち太和を道揚し、偽風を洗濯し、然る後に退いて丘園に帰り、賢者の路を避けんことを、死んでも恨みなし」と。制詔を下して褒め答え、且つ今の名を賜い、賜与は途に踵いた。
天子が蔡を討たんとした時、弘正は子の田布に兵三千を率いさせて進軍させ、数たび功を立てた。李師道はその襲撃を疑い、敢えて公然と蔡を助けず、故に呉元済は援を失い、王師は誅罰を加えることができた。王承宗が叛くと、詔して弘正に全師を以て境を圧させ、その衆を南宮で破った。承宗は恐れ、弘正に窮状を訴え、弘正は朝廷に上表し、遂に徳・棣の二州を献じて謝罪し、二子を人質として納めた。
間もなく李師道が命に逆らうと、詔して弘正に宣武等五節度の兵と共に進討させた。弘正は揚劉から黄河を渡り、鄆より四十里の地に堅壁を築いた。師道の大将劉悟は精兵を率いて河東に屯した。陽谷で戦い、再び遭遇し再び敗北し、万余級を斬り、賊の勢いは窮した。劉悟は遂に兵を反し、師道の首を斬り、弘正の下に赴いて降伏し、十二州を取って献じた。初め、劉悟が賊を平定した後、軍中で大いに酒宴を張り、凡そ三日間、角觗戯を設け、魏博の使者を廷に引いて歓楽とし、劉悟は目を見開き腕をまくってその決断を助け、座中の者は皆劉悟の勇を畏れた。客が弘正に告げると、弘正は言うには、「鄆の士は戦いに疲れ、傷ついた者は未だ起たず、劉悟は亡き者を恤れ、乏しき者を弔い、士大夫の心を慰めるべきである。どうして目前の快楽を取るのか。私は詔を奉じて軍を按じ、劉悟の去就を窺っているが、今その無能なることを知った」と。既にして詔して劉悟を義成軍節度使とし、狼狽して上路した。時に弘正の劉悟を知る明らかさを称えた。
功により弘正を検校司徒・同中書門下平章事に加えた。この年、来朝し、麟徳殿で対し、眷労は殊に等しくなかった。僚佐将校二百余人を引見し、皆に班賜があった。侍中を兼ね、実封三百戸を進め、その兄の田融を太子賓客・東都留司に擢げた。弘正は数度上表して固く闕下に留まることを請うたが、帝は労って言うには、「先に韓弘は病を以て軍に就くことを辞したが、朕は既にこれを許した。今卿また然り、私は応えて違うべきではない。但し魏人は卿の政を楽しみ、四隣は卿の威を畏れ、朕の長城となっている。またどうして辞する必要があろうか」と。弘正は遂に還った。常に山東の承襲旧風を変えようと欲し、故に子孫を悉く朝廷に仕えさせた。帝は皆これを擢げ任用し、朱紫門に満ち、栄冠は当時であった。
弘正は幼くして孤となり、田融に事えて甚だ謹み、軍中で嘗て曹を分かって射を習うた時、弘正が矢を注ぎて連続して中てると、田融は退き、鞭打って怒った。故に季安の猜暴な時に自ら全うすることができた。軍中に推迫された時、田融は悦ばずに言うには、「爾は終に自ら晦ますことなく、禍を取る道である」と。朝廷はその友愛を知り、詔して相州刺史に拝し、金紫を賜い、その相遠からんことを欲しなかった。
弘正の性質は忠孝を尽くし、功名を好み、楼を建てて書万余巻を集め、『春秋左氏』に通じ、賓属と終日講論し、客が『沂公史例』を著して世に行われた。弘正の禍の時、その判官劉茂復のみが独り免れ、士は戒め合って言うには、「この人は議事に忠を尽くし、我らに信を遇した。敢えてその家を犯す者は共に殺す」と。
弘正の子は田布・田群・田牟である。
弘正の子 田布
田布は字を敦礼といい、幼少より機悟であった。弘正が臨清に戍る時、田布は季安が危うからんことを知り、密かに父に白いて、衆を以て帰朝することを請うた。弘正はこれを奇とした。魏を得ると、田布に親兵を総べさせた。王師が蔡を誅する時、軍を厳綬に隷させ、唐州に屯した。帝は田布が大臣の子であるため、或いは罪があり、且つ法を橈ることを慮り、弘正は董畹を代えんことを請うたが、士卒は田布を愛して留まらんことを願い、帝は乃ち止めた。凡そ十八戦し、凌雲柵を破り、郾城を下し、功により御史中丞を授かった。裴度が軽く出て沱口で兵を観る時、賊将董重質が奇兵を以て掩撃すると、田布は伏騎数百を突出させて薄め、諸軍が継いて至ると、賊は驚いて引き還った。蔡が平定すると、入って左金吾衛将軍となった。諫官が嘗て帝の前で事を論ずる時、同列が麾してこれを退けようとすると、田布は止めて言うには、「天子に直臣を容れさせよ、軽々しく進むな」と。弘正が成徳に徙ると、田布を河陽節度使とし、父子同日に命を受けた。時に韓弘と子の公武も皆節度を領し、天下は忠義を以て田氏を多しとした。田布の至る所、必ず冗将を省き、戦卒を募り、賦を寛げて穡を勧め、人皆安んじた。長慶初、涇原に徙った。
弘正が害せられると、魏博節度使李愬は病んで軍を統率できず、公卿は議して、魏は強く鎮は弱く、かつ魏人は平素より弘正の徳を慕い、田布の賢さをもってその官を世襲させれば、成功できると論じた。穆宗は急ぎ田布を召し、喪服を解かせて検校工部尚書・魏博節度使に任じ、駅伝車で赴任させた。田布は号泣して固辞したが、聞き入れられず、そこで伎楽を出し、妻子賓客と決別して言うには、「我は還らぬ」と。魏に至る三十里手前で、跣足で髪を振り乱し、号哭して入城し、白壁の室に居り、節旄を屏けた。およそ将士の年長者は、兄としてこれに事えた。俸禄月百万銭は、一銭も私門に入れず、また家財十余万緡を発して士卒に頒った。牙将史憲誠が麾下より出でて任用に堪えると見て、精鋭を委ねた。時に宦官がしばしば戦いを促したが、度支の糧餉は続かず、田布はたびたび六州の租賦を以て軍に給した。兵三万を率いて進み南宮に屯し、賊の二つの堡塁を破った。
時に朱克融は幽州を拠り、王廷湊と唇歯の関係にあった。河朔三鎮は旧より連衡し、桀驁にして私を利し、しかるに憲誠は異志を蓄え、陰に釁に乗ぜんと欲し、また魏軍は驕り、格戦を憚った。時に大雪に会い、軍は寒く糧乏しく、軍中に誹謗して言うには、「他日に兵を用うる時は、粒米も尽く朝廷に仰ぐ。今六州の肉を刮ぎ、鎮・冀と死生を角するは、たとえ尚書が己を瘠せさせて国を肥やすとも、魏人は何の罪ぞ」と。憲誠は隙を得て、これに因りて動揺せしめた。時に詔有りて、軍を分かち李光顔と合して深州を救わしめんとす。兵は怒り、東せんことを肯ぜず、衆遂に潰え、皆憲誠に帰し、唯中軍のみ動かず。田布は中軍を率いて魏に還る。明日、諸将を会して事を議す。衆嘩然として曰く、「公能く河朔の旧事を行わば、則ち生死公に従わん。然らずんば、以て戦うべからず」と。田布は衆の将に乱れんことを量り、嘆いて曰く、「功成る無からん」と。即ち書を為りて帝に謝して曰く、「臣衆の意を観るに、終に将に国に背かんとす。臣功無くとも、死を忘れざらん。願わくは速やかに元翼を救い、忠臣義士を河朔に塗炭せしむること無からしめよ」と。哭いてその従事李石に授け終わり、乃ち入り、几筵に至り、刀を引きて心を刺して曰く、「上は以て君父に謝し、下は以て三軍に示す」と。言い終わりて絶え、年三十八。尚書右僕射を贈られ、諡して孝と曰う。子の鐬は、宣宗の時に銀州刺史を歴任し、私の鎧を以て辺馬と易えた罪に坐して死を論ぜられた。宰相崔鉉が、田布が国のために節を死したことを奏し、鐬を貸して忠烈を勧むべしとし、故に州司馬に貶せられた。
田布の弟 田群
田群は、会昌年中に蔡州刺史を歴任し、贓罪に坐して死に抵らんとした。兄の田肇これを聞き、食を絶って卒した。宰相李德裕が奏して言うには、「漢の河間の人尹次、潁川の人史玉が人を殺した罪に坐して死に当たる時、尹次の兄の尹初、史玉の母の渾が官に詣でて代わることを請い、縊死して物故した。時に皆その死を赦した」と。ここにおいて武宗は詔して死罪一等を減ぜしめた。
田群の弟 田牟
田牟は寛厚にして吏治に明るく、神策大將軍となった。開成初め、塩州刺史王宰が羌人の和を失い、詔して田牟を以て代わらしめた。累遷して鄜坊節度使となり、再び天平に移り、三たび武寧、一たび霊武軍の節度使となり、官は検校尚書左僕射に至り、卒した。諸子は皆方面の功有り、忠義を以て当世に高められた。
王承元
王承元は、王承宗の弟なり。沈謀有り。年十六にして、承宗に急ぎ兵を引きて共に李師道を討たんことを勧む。承宗はこれを幼少とし、用いざりしも、然れども軍中往々これを指目す。承宗死す。未だ喪を発せず、大将は帥を他姓に取らんと謀る。参謀崔燧と諸校と計り、祖母涼国夫人李の命を以て承元を嗣がしむ。承元は泣き且つ拝し、受けず。諸将は牢に請う。承元曰く、「上は中貴人をして監軍せしむ。何ぞ先ず請わざる」と。監軍至る。又命の如し。乃ち謝して曰く、「諸君王氏を忘れずして孺子に及ぶ。苟くも令有らば、其れ我に従わんや」と。衆曰く、「惟だ命のする所なり」と。乃ち事を牙闔の偏に視り、左右に約して留後と称することを得ざらしめ、事一に参佐に関し、密かに表して朝に帥を請う。穆宗、起居舍人柏耆を詔して宣慰せしむ。承元に検校工部尚書・義成軍節度使を授く。北鎮は両河の故事を以て脅迫誘惑すれども、承元は納れず、諸将皆悔ゆ。耆至る。士軍に哭す。承元令して曰く、「諸君我が去るを欲せざるは、意固より善し。然りと雖も、天子の詔を格げば、我罪を獲ること奈何。前に李師道詔有りて死を赦し、挙族西せんと欲す。諸将止めて遣さず。他日乃ち共にこれを殺す。今君等幸いに我を置くも、師道と比する無かれ」と。乃ち遍く諸将に拝し、諸将語塞ぐ。承元即ち家の財を出し尽くしてこれを賜い、命に従わざる者十輩を斬り、軍乃ち定まる。ここにおいて諫議大夫鄭覃をして宣慰せしめ、その軍に銭百万緡を賜い、囚徒を赦し、孤独・廃疾自ら存すること能わざる者に粟帛を差等有りて問う。
承元鎮を去る。左右器幣を裒めて自ら随う。承元は空褚をして留めざらしむ。朝に入る。昆弟刺史を拝する者四人、朝に位する者四十人。祖母入見す。帝命中宮礼賚異等ならしむ。承元を鄜坊丹延節度に徙す。俄に鳳翔に徙す。鳳翔は右に涇・原に袤なり。地平かにして巖険少く、吐蕃数入りて盗む。承元は勝地に拠りて鄣と為し、守兵千を置く。詔して臨汧城と号す。府郭の左に百賈州聚す。異時に虜の剽奪を為し、烽を燎して相警するに至る。承元は版堞を以てこれを繚らし、人乃ち安しと告ぐ。労を以て岐国公に封ぜらる。太和初め、祖母喪す。詔して曰く、「王武俊横流の時当たり、奔潰を拯定し、功は史官に在り。今李不幸なり。贈恤宜しく厚く加うべし」と。且つ儀仗を給して以て葬らしむ。
五年、平盧・淄青に節を徙す。初め、塩禁未だ嘗て両河に行われず。承元は有司に帰せんことを請う。ここに由りて兗・鄆諸鎮皆法を奉ず。承元は仁裕を資り、至る所愛利す。卒す。年三十三。司徒を贈らる。
牛元翼
附 傅良弼
良弼は字を安道といい、清河の人である。射術で軍中に冠たる。初め、瀛州の博野・楽寿は、范陽と成徳の間に介在し、兵が交わる毎に先ず二城に迫ったので、常に劇しい屯所となった。徳宗は王武俊が朱滔を破った功により、皆成徳に隷属させたので、良弼を以て楽寿を守らせ、李寰を以て博野を守らせた。廷湊の叛に際し、両賊は交わって誘ったが、堅く壁を守り国に固守した。詔があり、楽寿を左神策行営とし、良弼を都知兵馬使に拝した。寰の率いる士は右神策に隷属し、忻州営と号し、また寰を都知兵馬使とした。京師に邸宅を賜う。俄かに良弼を沂州刺史とする。良弼は衆を率いて出で、戦力を尽くして、乃ち去るを得た。寰は兵三千を引いて忻州に趨り、廷湊が邀え撃ったが、寰は三百級を斬り、追う者は敢えて前進しなかった。天子は良弼・寰の忠に状有りとし、乃ち更に奴婢・服馬を賜う。良弼を召して左神策軍将軍とする。宝暦初め、夏綏銀節度使に擢でる。異時に蕃帳の亡命して来る者は、必ず馬を償って乃ち与えたが、良弼の至ると、皆捕えてその部に付し、酋種歓び懐いた。終に横海節度使となる。寰は累擢して保義軍節度使となる。
王智興が李同捷を討って未だ克たず、烏重胤が卒したので、寰と共に功を立て得ると謂い、朝に請うて、乃ち横海節度使を授けた。師の過ぐる所暴掠し、屯に至り、軍を按じて進まず、遂に身を入朝し、盛んに賊の勢を陳べ、師の済るを請い、大いに調発せんと欲した。群臣議うに、寰の兵重きを以て、且つ滄・景を盗むとし、未だ決せずして棣州平る。寰内に愧じて自ら安からず、京師に留まらんことを願い、遂に保義軍・忻州営を罷め、更に夏綏宥節度使を授け、卒す。
寰は再び鎮を易え、治績言うべきもの無し。然れども廷湊の乱に、聯軍十五万にして功無く、賊鋒嬰うべからざるに、楽寿・博野は截然として中に峙つこと累年、その吞暴を梗げしめ、議者以て難しと為す。敬宗の世、寰その事を図りて上る。
史孝章
史孝章は、字を得仁といい、資性修謹なり。父憲誠は、戦力に奮い、賓客は挽強撃剣を以て相矜るも、孝章独り退譲して諸生の如く、称道する皆『詩』『書』なり。魏博節度使李訴が大将の子弟の籍を軍に閲するに、孝章は文を以て職に署せんことを願い、之を奇とし、檄して都督府参軍を試む。
憲誠魏を得て、士曹参軍に遷る。孝章父の数たび奸命するを見て、内に之を非とし、間を承けて諫めて曰く、「大河の北は富強と号す、然れども乱を挺ちて地を取り、天下河朔を指すこと夷狄の若し。今大人身は侯に封ぜられ、家は富みて貲えず、痛く洗溉し、節を竭くして上に事えざれば、恐らくは吾が踵旋らざるに禍将に至らん」と。因りて涕下り衿を沾す。父は粗武にして、尽く聴かず。文宗之を賢とし、孝章を節度副使に擢で、累遷して検校左散騎常侍となる。父李同捷を助けんと欲し、孝章切に争い、憲誠稍々その義を憚る。又師を出して同捷を討ち自ら明らかにするを勧め、帝益々之を嘉し、検校工部尚書に進む。及び兵出づるに、父孝章に勅して之を統べしむ。入朝し、労して予うに蕃厚なり。憲誠も亦書を上して覲を求む。帝憲誠の意に非ざるを知り、特ち孝章の悟発に縁る故に、相・衛・澶を分かちて孝章に節度使を授く。未だ至らざるに、魏人乱れ、父遂に軍中に死す。帝史氏の禍を念い孝章を恤れむ故に、喪を奪いて右金吾衛将軍を拝す。節を鄜坊に徙め、検校戸部尚書に進む。久しくして、邠寧より病を以て還るを丐い、行に卒す。年三十九、尚書右僕射を贈らる。孝章本名は唐、後に今の名に改む。
從父 憲誠
憲誠の弟憲忠は、字を元貞といい、少くして魏の牙門将となる。田弘正が斉・蔡を討つに、常に先鋒と為り、三十戦を閲し、流矢に中り、酣闘して解けず、是より著名なり。憲誠表して貝州刺史と為す。魏乱れ、京師に奔り、累加して検校右散騎常侍・隴州刺史となる。亭鄣を増し、客館を外に徙め、戎諜する所無し。
会昌中、三原城を築くに、吐蕃之に因りて数たび辺を犯す。憲忠を涇原節度使に拝してその侵を怖れしむ。吐蕃使いを遣わして来たりて城を堕すことを請い、且つ嘗て使者を殺したる人を以て塞上に置かんことを願う。憲忠使いをして謝して曰く、「前に吾未だ城せざりし時、爾吾が地を犯せり、安んぞ吾が城するを禁ぜん。爾吾が使を殺すを負と為すを知らば、宜しく先ず罪人を取りて我に謝すべし、将に得ざる所無からん。今爾と約す、前節度使の事は一に之を置く」と。吐蕃情を得て服す。憲忠涇を隍に疏け、緡銭十万・粟百万斛を積み、戍人之に宜し。党項羌内寇するに会い、又朔方に徙む。詔ありて駅を馳せて屯に赴かしむ。憲忠辞して曰く、「羌その心を得ざる故に、自ら安からず。今亟かに往かば、吾が備えを為すを知り、闘い益々健ならん。徐行を請う」と。之を許す。乃ち書を移して羌人とし、要約を示す。羌人乃ち皆喜び、酒湩を奉じて道に迎う。
大中初、突厥河東を擾し、漕米行賈を鈔す。節を振武軍に徙む。是に於て故帥荒沓にして、遊弈兵をして戎に良馬牛有るを覘わしめ、強いて之を取り、帰直は十に一なり。戎人怒り、因りて盗掠を興す。憲忠廉倹にして、欲する所少く、嘗て曰く、「吾河朔に居り、此を去ること三千里にして、乃ち五健馬に乗る。今辺を守り、吾が余奉を発すれば、馬無きを患えず、何ぞ忍びて豪市せんや」と。故に至る所懐德せざる莫し。累封して北海県子と為り、検校尚書左僕射、兼ねて金吾大将軍となる。病を以て自ら丐い、左龍武統軍に改む。卒す。年七十一、司空を贈らる。