新唐書

巻一百四十七 列傳第七十二 三王魯辛馮三李曲二盧

王思禮

王思禮は高麗の人で、營州に移り住んだ。父は朔方軍の将であった。思禮は戦闘に習熟し、王忠嗣に従って河西に至り、哥舒翰とともにその麾下に名を連ねた。翰が隴右節度使となると、思禮は中郎将周佖とともに翰に仕え、功により右衛将軍・関西兵馬使を授けられた。九曲を討つに従軍したが、期日に遅れて斬刑に当たるべきところ、刑に臨んで、翰がこれを赦した。思禮はゆるゆると言う、「死はもとより本分なり、どうしてまた貸すことがあろうか」。諸将はその壮挙を称えた。天宝十三載、吐谷渾の蘇毗王が帰順を請うた。詔して翰を磨環川に至らせて応接せしめた。思禮は落馬し、足をひどく痛めた。翰は監軍の李文宜に言う、「思禮は足を挫いているが、なお何をしようというのか」。まもなく金城郡太守を加えられた。

安禄山が反すると、翰が元帥となり、思礼を軍に赴かせるよう奏上した。玄宗は言う、「河・隴の精鋭はすべて潼関におり、吐蕃に隙あらば、ただ思礼を頼みとするのみである」。翰が固く請うたので、太常卿を兼ね、元帥府馬軍都将を充て、翰は軍事を委ねた。密かに翰を勧めて楊国忠を誅殺するよう上表させようとしたが、翰は応じなかった。また三十騎を以て劫略し潼関に至って殺すことを請うた。翰は言う、「これはすなわち我が反逆であって、どうして禄山の事に関わろうか」。

潼関が陥落すると、思礼は呂崇賁・李承光とともに行在所に逃れた。粛宗は堅守しなかったことを責め、纛下に引き出して斬ろうとした。宰相の房琯が諫め、後効を収めうるとしたので、ただ承光のみを斬り、思礼らを赦した。まもなく房琯の副将として便橋で戦ったが、利あらず、関内行営節度・河西隴右伊西行営兵馬使に転じ、武功を守った。賊の安守忠が来戦し、思礼は扶風に退いて守った。賊は兵を分けて大和関を攻略し、鳳翔より五十里のところに迫った。李光進の戦い利あらず、行在所は戒厳し、従官はひそかに妻子を逃がした。帝は左右巡御史虞候に命じてその姓名を記させたので、衆は次第に止んだ。郭子儀に命じて朔方兵を以てこれを撃たせた。時に崔光遠の行軍司馬王伯倫・判官李椿が兵二千を率いて扶風に駐屯していた。賊がすでに西に向かったと聞き、虚に乗じて京師を襲おうとし、まっすぐに高陵に至った。賊は軍を引き返して椿らを撃ち、椿はすでに中渭橋に至り、守兵千人を殺し、苑門を攻撃した。伯倫は戦死し、椿は捕らえられた。先に、賊の残衆は武功に留まっていたが、官軍が京師に入ったと伝わると、営を焼いて逃げ去った。これより賊は敢えて西に向かわなくなった。

長安ちょうあんが平定されると、思礼は先んじて宮中を清めた。東京を収復し、数たび戦って功があった。兵部尚書に遷り、霍国公に封ぜられ、実封五百戸を賜った。まもなく潞・沁等州節度を兼ねた。乾元元年、関中・潞州行営の兵三万・騎八千を総べ、子儀とともに賊を相州に包囲したが、軍は潰え、ただ李光弼・思礼のみが軍を全うして還った。まもなく直千嶺で史思明の別将万余衆を破った。光弼が河陽に移ると、代わって河東節度副大使となった。上元元年、司空しくうを加えられた。武徳以来、三公が宰輔を務めなかったが、ただ思礼のみがそうであった。二年、薨じ、太尉を贈られ、諡して武烈といった。

思礼は守りの計略に長け、攻撃戦は短かった。しかし法を厳格に持ち、兵士は敢えて犯す者なかった。太原においては、器甲は完備精鋭で、蓄えられた粟は百万斛に及んだという。

魯炅

魯炅は幽州薊の人である。身長七尺余り、書史をほぼ通じた。蔭により左羽林長上に補せられた。隴右節度使哥舒翰が別奏に引き立てた。顔真卿がかつて隴右に使いし、翰に言う、「君は郎将より興り、節制を総べるが、また人を得たことがあるか」。炅は時に階下に立ち、翰は指して言う、「この者はまさに節度使となるべき者なり」。石堡城を破り、河曲を収めるに従い、左武衛将軍に遷った。後にまた吐蕃を破った跳蕩の功により、右領軍大将軍を除かれた。

安禄山が反すると、上洛太守に拝され、赴任せんとするに際し、帝の前で攻守の勢を図示した。南陽太守に遷り、守捉防禦使を兼ね、金郷公に封ぜられた。まもなく山南節度使となり、嶺南・黔中・山南東道の子弟五万を率いて滍水の南に駐屯した。賊将の武令珣・畢思琛らがこれを撃つと、衆は戦おうとしたが、炅は許さなかった。賊は右に趨り、風に乗じて火を放ち、鬱然たる気が営に奔り、兵士は止められず、戸を負って走った。賊の矢は雨の如く、炅は中人薛道とともに身を挺して走り、衆はことごとく賊に没した。時に嶺南節度使何履光・黔中節度使趙国珍・襄陽節度使徐浩は未だ至らず、その子弟の半ばは軍中にあり、金を挟んで資糧としていたが、ここに至って器械とともに山のように棄てられ、賊はこれを資として富んだ。

炅は散兵を糾合して南陽を守った。潼関が陥落すると、賊は哥舒翰を使わして降伏を招いたが従わず、武令珣をして攻撃させた。令珣が死ぬと、田承嗣が継いで赴いた。潁川の来瑱・襄陽の魏仲犀が兵を合わせて炅を救援した。仲犀の弟孟馴の兵が明府橋に至ると、賊を見て走った。炅の城中は食尽き、米一斗五十千、鼠一匹四百文、餓えた者は枕を並べた。朝廷は使者曹日昇を遣わして宣慰し、炅に特進・太僕卿を加えたが、入城できなかった。日昇は単騎で命を致さんことを請うたが、仲犀は許さなかった。時に顔真卿が河北より至り、言う、「使者は死を顧みず、天子の命を致さんとする。もし賊に捕らえられれば、これは一使者を失うに過ぎぬ。もし入城できれば、則ち万の心固からん」。中官の馮廷瑰もまた言う、「将軍必ず入らんとするなら、我は両騎を以て助けんことを請う」。仲犀は騎を増して凡そ十輩とした。賊はこれを見て、皆鋭兵なるを知り、敢えて撃たず、遂に入城して命を致し、人心はますます固まった。日昇はまた騎を以て襄陽に趨り、兵千を領し、音聲道より糧食を運んで炅に供給したので、炅は賊と相持すること三月を越えることができた。炅は包囲されること凡そ一年、昼夜戦い、人はついに人を食うに至り、ついに救援はなかった。

至徳二載五月、ついに衆を率いて包囲を突破し襄陽に走った。承嗣が背後から撃つと、炅は必死に二日間戦い、斬獲甚だ多く、賊は引き去った。まもなく御史大夫・襄鄧十州節度使に拝された。また二京が平定され、賊が河北に走った時に当たった。時に襄・漢の数百里の間、郷聚は蕩然として、ひとつとして炊煙の上がるものはなかった。初め、賊は江湖を剽乱せんとしたが、炅が適時にその衝を扼したことにより頼り、故に南夏は全うされた。勲功を策して岐国公に封ぜられ、実封二百戸を賜った。

乾元元年、また淮西節度・鄧州刺史を加えられた。九節度とともに安慶緒を相州に包囲し、炅は淮西・襄陽両鎮の歩卒一万・騎三百を率いた。明年、史思明と安陽で戦い、王師利あらず、炅は流れ矢に中り、たちまち奔り、諸節度は潰走し、過ぐる所で剽奪したが、炅の軍は特に甚だしかった。詔して来瑱を淮西節度とし、炅を鄭陳亳節度使に転じた。新鄭に至り、郭子儀が軍を整えて谷水に駐屯し、李光弼が太原に還ったと聞き、炅は羞恥し恐れ、薬を仰いで死んだ。年五十七。

王難得

王難得は沂州臨沂の人である。父の思敬は若くして軍に属し、試みに太子賓客となった。難得は武に健く、騎射に巧みであった。天宝初め、河源軍使となる。吐蕃の賛普の子郎支都という者は、軽捷敏速を恃み、名馬に乗り、宝鈿の鞍を飾り、陣を掠めて挑戦し、甚だ閑暇にして、敢えて校する者無し。難得は怒り、矛を挟み馬を駆って馳せ、支都は闘う暇もなく、直ちにその首を斬った。玄宗はその果断を壮とし、召し見て、殿前にて馬に乗り矛を挟んで賊を刺す状をさせ、大いに悦び、錦袍・金帯を賜う。累ねて金吾将軍を授かる。哥舒翰に従い吐蕃を撃ち、積石に至り、虜吐谷渾の王子悉弄参及び悉頰藏をして還る。また五橋を収め、樹惇城を抜き、白水軍使に進む。九曲を収め、特進を加えられる。

粛宗が霊武に在りし時、軍の賞与乏しく、難得は家財を上って軍を助け、試みに衛尉卿となる。俄かに興平軍及び鳳翔兵馬使を領し、京師を収む。戦うに当たり、麾下の士馬を失い、難得馳せて救い、矢眉に著き、膚を披きて目を障う。乃ち箭を抜き膚を断ち、殊死に前進して闘い、血面を蔑みて已まず、帝これを嘉す。郭子儀に従い相州を攻む。累ねて瑯邪郡公に封ぜられ、英武軍使となる。宝応二年、卒す。潞州大都督ととくを贈られる。

子の子顔は、少くより父に従い征討し、検校衛尉卿となり、莊憲太后を生む。元和元年、憲宗南宮にて太后に朝し、乃ち思敬を司徒しと、難得を太尉、子顔を太師と褒め贈る。唯だ子顔の子用のみ及び封ぜられる。

用は字を師柔という。太子詹事に拝され、僅か三月にして、太原郡公に封ぜられ、廄苑を掌る。累ねて検校左散騎常侍さんきじょうじに遷り、右金吾大将軍を兼ぬ。謙遜畏慎して過ち無し。卒し、工部尚書を贈られる。

辛雲京

辛雲京は蘭州金城の人、客籍は京兆、代々将家を為す。雲京は胆決有り、生け捕り斬首に常に軍を冠し、功を積みて特進・太常卿に遷る。史思明相州に屯し、雲京鋭兵四千を以て滏陽を襲い、その衆を追い破り、浪井に至る。功績多く、開府儀同三司を授かり、代州都督・鎮北兵馬使を加えられる。

太原軍乱し、帝は鄧景山の下を縛するに漸無きを悪み、雲京の性沈毅なるを以て、故に太原尹を授け、金城郡王に進封す。雲京は法に謹みて治め、下に犯す者有れば、毫髪の比も肯て貸さず、及び功を賞するも亦之の如し、故に軍中畏れて信ず。回紇は旧勛を恃み、毎に入朝し、所在暴掠す、太原に至り、雲京は戎狄を以て之を待ち、虜畏れて敢えて息を惕せず。数年、太原大いに治まる。検校尚書右仆射・同中書門下平章事を加えられる。

大暦三年、検校左仆射となる。卒す、年五十五、代宗哀を発して涕を流し、太尉を贈り、謚して忠献と曰う。他日、郭子儀・元載上に見え、語雲京に及ぶや、帝必ず泫然たり。及び葬るに、中使を命じて吊祠せしめ、時に将相祭る者七十余幄に至り、喪車移にして乃ち去るを得たり。徳宗の時、至徳以来の将相を第せしに、雲京を次とす。

従弟の京杲は、字を京杲という。信安王禕朔方を節度し、京杲は弟の旻と策を以て説き、禕評議して加えて異とす。後に李光弼に従い井陘より出で、趫蕩を督めて先駆し、嘉山に戦いて尤も力め、粛宗之を異とし、召し見て曰く「げい布・彭越・関羽・張飛の流か」と。累ねて鴻臚卿に遷り、召されて英武軍使となる。代宗立ち、粛国公に封ぜられ、左金吾衛大将軍に遷り、晋昌郡王に進み、歴て湖南観察使、後に工部尚書として致仕す。朱泚京師を盗み、老病を以て従う能わず、西に向いて慟哭して卒す。太子少保を贈られる。

旻も亦光弼に従い恒・趙を定め、後に署せられて太原三城使となる。史思明相に屯し、軍滏陽に及び、旻逆撃して之を走らす。東都陥ち、退きて河陽を守り、屯にて卒す。雲京の曾孫讜は、別に伝有り。

馮河清

馮河清は京兆の人。始め郭子儀の軍に隷し、戦多くして左衛大将軍拝さる。後に涇原節度使馬璘に従い、兵馬使を充て、数えざる偏師を以て吐蕃と遇い、多く首級を献じ、名軍中に聞こゆ。

建中の時、節度使姚令言兵を率いて関東を討ち、河清をして留後を知らしめ、幕府の殿中侍御史姚況州を領す。而して行師闕を過ぎ、急変有り、徳宗奉天に走る。河清・況問いを聞き、諸将を召して事を計り、東に向いて哭き、相い励まして忠を以てし、意象軒毅たり。衆その為すを義とし、敢えて異言する者無く、即ち儲鎧完仗百余乗を発して行在に献ず。初め、帝の出ずるや、六軍倉卒にして良兵無く、士気沮喪す。河清の輸械至るに及び、堅きを被り兵を勒して、軍声大いに振るう。即ち河清を涇原節度使・安定郡王に拝し、況を行軍司馬とす。朱泚数えざる諜人を遣わして之を訹すも、河清輒ち斬りて以て徇す。

興元元年、渾瑊吐蕃兵を以て賊韓旻等を敗る。涇人の妄に伝うるに、吐蕃功有り、将に叛卒の妻子と資財を以て之に帰さんとすと。衆大いに恐れ、且つ言う「馮公を殺さざれば、吾ら類無からん」と。田希鑒遂に河清を害し、況は身を挺して郷里に還る。

京師平らぎ、河清に尚書左仆射を贈り、況を太子中舎人に拝す。況の性簡退にして、未だ功を言わず。凶歳に属し、俸禄自ら給せず、饑えて死す。河清再び太子少傅を贈られる。

李芃

李芃、字は茂初、趙州の人。初めて官に就き上邽主簿となる。厳武が京兆尹となったとき、推薦されて長安尉を補任された。李勉が江西を観察したとき、上表して判官に任命した。

永泰の初め、宣饒の大賊方清・陳莊が西へ長江を渡り、商人を掠めて乱を起こし、その支党は蟠り結んだ。芃は秋浦に州を置き、要害を扼して、彼らが合従することを得ざらしむるを請う。勉はこの計策を是とし、宣州の秋浦・青陽と饒州の至徳を以て池州を置くを奏上した。即ち詔して芃に行州事を行わしむ。後に魏少遊が勉に代わり、上表して都団練副使に任命し、江州刺史を摂行せしむ。母の喪に服して解任。勉が永平を節度するに及び、再び幕府に辟召された。時に李霊耀が反し、芃を兼亳州防禦使に任命し、陳・潁の糧道を護り、軍の興起に便ならしむ。

徳宗が立つと、河陽三城鎮遏使を授かる。糧食・物資の善きものは必ず先ず士卒に給し、士卒これを悦んだ。事柄に通達練達し、厳に備え常に敵あるが如し。未だ幾ばくもなく、節度使に拝され、東畿の汜水等五県を隷属させた。馬燧らと田悦を洹水の上で破り、功により兵部尚書を検校し、実封百戸を賜う。進んで悦を囲み、悦の将符璘が騎兵五百を率いて降ると、芃は大いに壁門を開いてこれを納れた。

興元の初め、尚書右僕射を検校す。病を以て老いを請わんとし、親しい者に謂いて曰く、「歳は旱魃蝗害に方り、上は征伐を厭い、天下の城壘は堅く、戈鋋は利けれども、然れども力を以て勝つを務むるは、其れ尽くすべけんや。弊を救うは徳に若くは莫し、方鎮の臣は宜しく先ず退譲すべし、権に死し禄に錮さるるは、吾敢えてかくの如くせんや。言いて践まざるは、吾が志に非ざるなり」と。固く罷免を求め、東都に帰る。卒す、年六十四、太子太保を贈られる。

李叔明

李叔明、字は晉、閬州新政の人。本姓は鮮于氏、代々右族たり。兄仲通、字は向、天宝の末に京兆尹・剣南節度使となる。兄弟ともに学に渉り、財を軽んじ施しを好む。叔明は明経に擢でられ、楊国忠の剣南判官となる。乾元の中、司勲員外郎を除かれ、漢中王瑀に副えて回紇に使いし、回紇は瑀を遇するに慢にして、叔明譲りて曰く、「大国通好し、賢王を使者として節を持たしむ。可汗は唐の婿たり、功を恃んで倨なるは、可ならんや」と。可汗礼を加う。命に復し、司門郎中に遷る。

東都平らぎ、洛陽らくよう令に拝され、遺民を招き来たり、能吏と号せらる。商州刺史・上津転運使に擢でらる。京兆尹に遷り、長安に歌われて曰く、「前の尹赫赫たり、具瞻して允かに若し、後の尹熙熙たり、具瞻して允かに斯し」と。久しくして、疾を以て辞し、太子右庶子を除かる。崔旰が成都を擾わすに及び、卬州刺史として出づ。旰が朝に入るに及び、即ち東川節度使・遂州刺史に拝され、治を梓州に徙す。

大暦の末、或いは言う、叔明は本姓は厳氏、少にして孤、外家に養われ、鮮于の姓を冒すと、宗に還るを請う。詔して可とす。叔明初め知らず、意に鬼す、表して宗姓を乞い、属籍に列するを請う、代宗これに従う。

建中の初め、吐蕃火井を襲い、龍州を掠め、扶・文・遠の三州を陥す。叔明五将を分かち邀撃し、これを走らせ、功により戸部尚書を検校して加えらる。梁崇義が命に阻むに及び、詔して兵を率いて峡を下り、荊門に戦い、その衆を敗り、襄州平らぎ、尚書左僕射を検校して遷る。徳宗興元に幸するに及び、家財を出して軍を助け、悉く衣幣を宮掖に献じ、太子太傅を加えられ、薊国公に封ぜらる。初め、東川は兵盗を承け、郷邑凋破す、叔明これを治むること二十年、撫接方あり、華夷遂に安んず。後に京師に朝し、足を病むを以て、錦輦を賜い、宦士に肩舁せしめて見えしめ、尚書右僕射に拝す。骸骨を乞い、太子太傅に改めて致仕す。貞元三年、卒す、謚して襄と曰う。初め、叔明は仲通とともに京兆を尹し、及び御史中丞を兼秩し、並びに剣南を節制し、又子の昇とともに大夫を兼ぬ、しょく人は盛門と推す。

叔明は平素より道・仏の弊を悪み、上言して曰く、「仏は空寂無為の者、道は清虚寡欲の者なり。今その内を迷いその外を飾り、農夫工女をして業を堕して役を避けしむ、故に農桑勧められず、兵賦日々に屈し、国用軍儲斁耗す。臣本道に請う、寺を定めて三等とし、観を二等とし、上寺は僧二十一を留め、上観は道士十四を留め、毎等降殺すること七を以てし、皆行有る者を択び、余は還って民と為す」と。徳宗これを善しとし、本道に止まらず、天下の法と為すべしと以為い、乃ち尚書省に下して雑議せしむ。ここに於いて都官員外郎彭偃曰く、「王者の政は、人心を変ずるを上と為し、人心に因るを次と為し、変ぜず因らざるを下と為す。今道士は名有りて実亡く、帰するに重きを欲して鮮く、乱政に於いて軽し。僧尼は帑穢しく、皆天下の不逞、苟も征役を避く、乱人に於いて甚だし。今叔明の請は善けれども、然れども未だ人心を変ずる能わず、亦人心に因る者に非ざるなり。夫れ天人の生む、必ず職有らん。遊閑浮食は、王制の禁ずる所。故に賢者は爵禄を受け、不肖者は租税を出す、古の常道なり。今僧・道士は耕さずして食い、織らずして衣い、一僧の衣食、歳に慮るらく三万、五夫の致す能わざる所なり。一僧を挙げて以て天下を計れば、その費貲すべからず。臣謂う、僧・道士年未だ五十に満たざるは、歳に絹四を輸するを令すべく、尼及び女官は絹二を輸し、雑役は民と之を同じくすべし。五十を過ぐる者は免ず。凡人年五十に至れば、嗜欲已に衰う、況んや戒法有りてその性情を検するをや」と。刑部員外郎裴伯言曰く、「衣は蚕桑なり、食は耕農なり、男女は祖を継ぐの重きなり。而るに二教悉くこれを禁じ、国家令を著し、又従ってこれを助く、是れ夷狄の経法ならざるもって中夏礼義の俗を制するなり。伝に曰く、『女子十四にして人母たるの道有り、四十九にして生育の理絶ゆ。男子十六にして人父たるの道有り、六十四にして陽化の理絶ゆ』と。臣請う、僧・道士一切限りて年六十四以上、尼・女官四十九以上は、許して終身道に在らしめ、余は悉く還って編人と為し、官として口を計り地を授け、廃寺観を収めて以て廬舎と為すべし」と。議は上るも、これを罷む。

子の昇、少卿として徳宗に従い梁州に至る。叔明厳しく死を以て報ゆるを敕す、故に昇功有り、禁軍将軍に擢でらる。貞元の初め、太子詹事に遷る。郜国公主に坐し、羅州別駕に貶せらる。

叔明は平素より豪侈にし、蜀に在りて財を殖やし、広く第舎田産を営む。歿すること数年、子孫驕縦し、資産皆尽きる。世に言う、多く蔵する者は叔明を以て鑒とすと。

曲環

曲環、陝州安邑の人、隴右に客す。少より兵法を喜び、勇敢を資とし、騎射に善し。天宝の中、哥舒翰に従い吐蕃を討ち、石堡を抜き、黄河九曲洪済等の城を取る。果毅別将を授かる。安禄山反すに及び、魯炅に従い鄧州を守り、賊の武令珣と戦うこと尤も力み、左清道率を加えらる。李抱玉に従い河陽に屯す。又自ら兵を将いて沢州を守り、賊の鋭将安暁を破り、羽林将軍に拝す。諸将と史朝義を討ち、河北を平らげ、累ねて転じて金吾大将軍となる。

大暦年間、隴州を守り、しばしば吐蕃を破り、功により太常卿を兼ねた。徳宗の初め、虜が剣南を寇すと、詔して環に邠・隴の兵五千を率いて馳せ救わしめ、七盤城・威武軍・維茂等州を収め、虜を破って走らせ、威名大いに振るい、太子賓客を加えられ、名馬を賜う。涇州の劉文喜を討つに預かり、開府儀同三司に遷り、晉昌郡王に封ぜられ、邠隴兵馬使となった。時に李納が徐州を逼ると、環は劉玄佐とともにこれを救い、その衆を破り、功最も多し。建中三年、邠隴行営節度使に擢でられた。

李希烈が汴州を陥すと、環は寧陵を守り、陳州に戦い、賊三萬五千級を斬り、その将翟崇暉を禽え、檢校工部尚書に進み、陳州刺史を兼ねた。希烈が平らぎ、陳許節度使に改められ、三百戸を賜って封ぜられた。二州は比年寇の衝となり、民は剽掠に苦しみ、他県に客寓す。環は身を勤め用を節し、賦斂を寛くし、條教を簡にし、三年と経たずして、帰る者繦属す。農を訓え兵を治め、穀食豊かに衍る。檢校尚書左僕射に転ず。貞元十五年、卒す。年七十四。司空を贈られる。

王虔休

王虔休、字は君佐、汝州梁の人。少しく学に渉り、材武有り、信義をもって郷党に畏慕せらる。大暦年間、刺史李深に署せられて裨将となる。澤潞の李抱真その名を聞き、厚く幣をもってこれを招き、兵馬使を授く。抱真河北を討つに、双罔・臨洺に戦い、虔休は多くして歩軍都虞候に擢でられ、同昌郡王に封ぜられ、実封五十戸。抱真卒すと、元仲経等その子緘を立てんと謀り、一軍乱を思う。虔休正色して衆に語りて曰く、「軍は王の軍、州は王の土なり。帥亡すれば当に天子に稟ずべし。何ぞ妄謀有りと云々せんや」と。衆その言に服し、乱を得ず。徳宗これを嘉し、邕王を昭義節度大使とし、虔休を潞州左司馬に擢で、留後を領せしむ。本名は延貴、ここに至りて名を賜う。号令撫循し、軍中大いに治まる。

初め、抱真の喪に、軍司馬元誼が洺州に拠りて叛く。虔休将李廷芝を遣わしてこれを討たしめ、長橋に戦い、数百級を斬る。次いで雞沢にて、またこれを破る。守戍は皆魏博に奔る。即ち水を決して城を灌ぎ、将に壊れんとするに、掌書記盧頊を遣わして誼に見えしめ、利害を陳べしむ。誼朝請す。即ち頊を洺州別駕とし、洺を守らしむ。誼出でて、また魏に奔る。

潞を治むること二年、昭義節度使に遷り、檢校工部尚書となる。初め、属城州県の守宰多くは他の職を署し、政に親しまず、故に治め苟簡なり。虔休悉く俸稟を増し、部に就かしめ、人以って安んず。卒す。年六十三。尚書左僕射を贈られ、謚して敬という。

虔休の性恪敏にして、用度を節す。既に没し、その部の帑廩皆数歳を支うるべし。嘗て太常の楽家劉玠の撰する『繼天誕聖樂』を得、帝の誕日に因りて以て献ず。その楽は、宮を以て均と為し、五声に君有るを示す。土を以て徳と為し、五運の中に在るを本とす。二十五疊を奏し、二十四気を取りて一歳を成す。十六節を奏し、元・凱の朝に登庸するを象る。後の『中和楽』はこれに本づく。

子の麗成等十人、並びに太学生に補せらる。

盧群

盧群、字は載初、系は范陽に出づ。少くして垂山に学び、淮南の陳少遊その名を聞き、奏して幕府に署し、已にして諸朝に薦む。李希烈反す。監察御史を以て江西行営糧料使と為る。嗣曹王臯江西を節度し、奏して判官と為す。臯荊襄に徙るも、皆その府に従い、勁正を以て聞こゆ。入りて侍御史と為る。郭子儀の家と嬖人張の昆弟、財を訟うて平らかならず、また嬖人の宅に珍宝匿すと言う。徳宗促してこれを按ぜしむ。群奏言して曰く、「子儀は大勛徳有り。今訟うる所は皆その家事なり。且つ嬖人の宅は、子儀昔時にこれを畀えり。子弟の言うべきに非ず。請う赦して問わざらんことを」と。これに従う。人、群の大體を識ると謂う。

累遷して兵部郎中と為る。淮西の呉少誠、擅に司洧の水を決して田を溉ぐ。使者これを止むるも、詔を奉ぜず。命して群に詰め臨ましむ。少誠曰く、「これは人に利有り」と。群曰く、「臣の道は順を貴ぶ。恭恪は順を為す所以なり。命に専らにして順を廃すれば、利有りと雖も何か有らん。且つ事上に怠る者は、固よりその下を責むること能わず」と。少誠命を聴く。群また古今の成敗の事を陳べ、逆順禍福皆効有りて、以てこれを感動せしむ。少誠竦然たり。既に酒を置き、詩を賦し、また歌を以てこれを慰む。少誠感悦し、敢えて桀たらず。奉使して旨に称するを以て、檢校秘書監・鄭滑節度行軍司馬に遷る。姚南仲朝に入る。即ち群を以て代わり節度せしむ。群嘗て鄭に客し、良田を質して耕す。ここに至りて則ち券を出して直を貸し、田をその人に帰す。卒す。年五十九。工部尚書を贈られる。

李元素

李元素、字は大樸、邢國公李密の裔孫、仕えて御史と為る。東都留守杜亞、大将令狐運を悪む。時に盗賊輸絹を洛北に劫う。運適にその下と近郊に畋す。亞これを疑いて訊う。幕府の穆員・張弘靖按鞫するも状無し。亞怒り、更に愛将武金を以て掠めて服せしめ、死する者甚だ衆し。亞請うて運を斥けて醜土とす。詔して監察御史楊寧に覆験せしむ。事皆讎わず。亞怒り、寧を劾して上を罔すとす。寧罪に抵る。また自ら盗を失わざるを功と為し、因って必ずその怒りを傅え致して周内し、翻すべからざるが若し。徳宗信じて疑わず、宰相これを難ず。詔して元素と刑部員外郎崔從質・大理司直盧士瞻をして馳せて按ぜしむ。亞迎え、獄を以て告ぐ。元素徐ろにその冤を察し、囚うる所の者を悉く放ちて還る。亞大いに驚き、また元素を劾して罪有るを失うとす。元素還るに及び、帝已に怒る。獄を奏する未だ畢らざるに、帝曰く、「出でよ」と。元素曰く、「臣言する所未だ尽くさず」と。帝曰く、「第に去れ」と。元素曰く、「臣御史を以て獄を按ずるに、冤を知りて辞を尽くすを得ざれば、是れ復た陛下を見る容れ無し」と。帝の意解け、即ち運の冤状を道う。帝感寤して曰く、「卿に非ざれば、孰か能くこれを弁せん」と。然れども運猶お擅に人を捕うるを以て罪を得、帰州に流され、貶所に死す。武金は建州に流される。後歳余り、齊抗真の盗を得る。これに繇りて天下これを重んず。

給事中に遷る。後、美官缺くるとき、咸く元素のその処を得んことを冀う。時に鄭滑節度使盧群卒す。元素を拝して檢校工部尚書とし、その軍を節度せしむ。治むるに異績有り。元和初め、召されて御史大夫と為る。大夫は、貞元以後その人を得難くして補わず。而るに元素は夙望を以て召し拝せられ、中外その風采を企て聴く。既にして一も建て為すこと無く、容容として祿を持し、内望して宰相と作らんとす。久しく見用いられざるに及び、則ち賓客に謝して曰く、「官散を以て我を外とすること無かれ」と。属吏を見れば輒ち先ず拝し、人人失望す。李锜反す。拝して浙西節度使と為る。数月にして還り、國子祭酒と為り、戸部尚書・判度支に進む。

元素少くして孤となり、長姊に奉じて謹悌す。その没するに及び、悲鯇して疾を成し、因って職を辞して屏居す。その妻は、石泉公王方慶の孫なり。前妻の子は皆不肖にして、元素は姬侍に溺れ、王は答えられず。元素久しく疾み、益々昏惑し、遂にこれを出だす。王諸朝に訴う。詔して元素の官を免じ、且つ王に貲五百萬を畀えしむ。卒す。陜州大都督を贈られる。

盧士玫

盧士玫は山東の人である。文儒をもって進み、端厚にして競うところなし。吏部員外郎となり、職務に善くした。再び遷って京兆尹を管知す。劉總が入朝するに及び、士玫とは旧く内縁の姻戚であったので、瀛・鄚の両州を分割し、士玫を用いて観察使とすべしと請う。詔して可とす。俄にして幽州乱し、朱克融これに襲わる。朝廷その任を重んぜんと欲し、就いて節度使を加う。士玫は家財を空しくして軍を助く。然れども部卒多く幽州に家あり、密かに克融を導き入る。故に士玫は府中の者すべて幽州に囚われる。天子克融を赦し、還るを得しむ。太子賓客として東都に分司し、徐虢州刺史となり、復た賓客となる。卒し、工部尚書を贈られる。