李棲筠
李棲筠、字は貞一、代々趙の人である。幼くして孤となり、遠大な器量あり、荘重にして寡言、体貌は軒昂として特異であった。書を好み、多く通暁し、文章を作れば、勁健迅速にして体要あり。妄りに交遊せず。族子の李華はしばしば王佐の才ありと称し、士多く慕い向かった。初め汲の共城山下に居り、李華が固く請いて進士に挙げさせると、俄かに高第に擢でられた。冠氏主簿に調じ、太守の李峴は布衣の交わりの如く遇した。安西の封常清節度府判官に遷る。常清が召された時、監察御史を摂行するよう表し、行軍司馬となった。粛宗が霊武に駐蹕すると、安西の兵を発し、棲筠は精卒七千を選んで国難に赴き、殿中侍御史に擢でられた。
李峴が大夫となると、三司を以て賊に陥った群臣を推按するに当たり、棲筠を詳理判官とするよう表した。その人の脅迫されて汚れた所以を推原し、情状に応じて軽重を付け、心を尽くして李峴を助けた。故に李峴はこれを愛恕し、その名声は一朝にして呂諲・崔器の上に出た。三たび遷って吏部員外郎となり、南曹を判じた。当時は大盗の後で、選簿が亡失錯乱し、偽冒多く、棲筠の判析は条理あり、吏は気を奪われ、神明と号した。山南防禦観察使に遷る。会に李峴が宰相を去ると、棲筠は善しとする者に坐し、太子中允に除されたが、衆はこれを不当とし、河南令に改めた。
李光弼が河陽を守ると、その才を高く評価し、行軍司馬に引き、兼ねて糧料使とした。絳州刺史に改め、累擢して給事中となった。この時、楊綰は進士が郷挙せず、ただ辞賦の浮文を試みるのは、士を取る実に非ずとして、五経科・秀才科を置くことを請うた。詔して群臣に議させると、棲筠は賈至・李廙と共に楊綰の言うところを是とした。工部侍郎に進む。関中は旧来鄭・白の二渠に仰いで田を灌漑していたが、豪戚が上流を壅いで硙の利を取り、およそ百所もあり、農用の十七を奪っていた。棲筠は皆撤毀するよう請い、歳に租二百万を得、民はその収入に頼り、魁然として宰相の望みあり。元載はこれを忌み、常州刺史に出した。歳なお旱魃し、編戸の民は死に徙りて路に踵を接し、棲筠は渠を浚い、江流を廝して田を灌漑し、遂に大いに稔った。宿賊の張度が陽羨の西山に保ち、累年吏の討つも克たず、ここに至り卒を発して捕斬し、支党ことごとく尽き、里に吠える狗無し。乃ち大いに学校を起こし、堂上に『孝友伝』を画いて諸生に示し、郷飲酒の礼を行い、登歌し降飲して、人々知って勧む。治行により銀青光禄大夫に進み、贊皇県子に封じられ、一子に官を賜う。人は石を刻み徳を頌した。
蘇州の豪士方清が凶歳に乗じ、流殍を誘いて盗賊とし、数万を積み、黟・歙の間に依り、山を阻んで自ら防ぎ、東南は厭苦した。詔して李光弼に分兵して討平させた。会に平盧行軍司馬の許杲が功を恃み、上元に擅かに留まり、江・呉を窺う意あり、朝廷は創残を以て兵を重ねて起こすを憚り、即ち棲筠を浙西都団練観察使に拝してこれを図らせた。棲筠至り、武備を張設し、弁士を遣わし厚く金幣を齎して許杲の軍に抵り賞労し、士卒に歓愛させ、その謀を奪った。許杲懼れ、衆を悉くして江を渡り、楚・泗を掠めて潰えた。功により兼ねて御史大夫に進む。則ちまた学廬を増し、宿儒の河南の褚沖・呉の何員等を表し、学官を超拝して師と為し、自ら経を執り義を問い、遠近趨慕し、徒数百人に至った。また部内の豪姓多く京兆・河南に籍を徙し、徭科を脱せんと規るを奏し、産に量り出賦するよう請い、以て奸謀を杜がんとした。詔して可とした。
元載が国政を執ること久しく、益々恣横となり、代宗は堪えられず、陰に剛鯁の大臣を引いて自ら助け、綱権を収めて以て元載を黜けんとした。会に御史大夫の敬括が卒すと、即ち棲筠と河南尹の張延賞を召し、大夫と為すべき者を択ばせた。延賞先に至り、遂に敬括に代わった。会に李少良・陸珽等が上書して元載の陰事を劾すと、詔して御史に状を問わしめたが、延賞は疾を称して敢えて鞫せず、少良・珽は覆って罪を得て死した。帝は殊に失望し、延賞を出して淮南節度使とし、引いて棲筠を拝して大夫とした。初め、棲筠が帝に謁見し、敷奏明弁にして阿附せず、帝心これを善しとし、故に制麻を中より出して授け、朝廷これを知らず、中外竦眙した。棲筠は素より方正剛挺にして、屈する所無し。ここにおいて華原尉の侯莫陳怤が優により長安尉に補され、台に参ずるに当たり、棲筠はその労を物色すると、怤は色動き、対することができず、乃ち自ら徐浩・杜済・薛邕に引かれたと述べ、真の優では無いとした。初め、徐浩が嶺南節度使を罷め、瑰貨数十万を以て元載に餉ったが、杜済は時に京兆尹、薛邕は吏部侍郎であり、三人は皆元載の厚遇する者であった。棲筠はこれを併せて劾した。帝は未だ決せず。会に月蝕があり、帝がその故を問うと、棲筠は曰く、「月蝕は刑を修むるなり。今、上を行い私する者を得ず。天、若し以て陛下を儆すか」と。これにより怤等は皆坐して貶された。故事に、百官に曲江に宴を賜う時、教坊の倡顐が雑侍するが、棲筠は国風憲を任ずるを以て、独り往かず、台は遂にこれを法とした。
帝はしばしば相に召さんとしたが、元載を憚って止んだ。然れども進用する者あれば、皆密かに訪ね、多く補助した。棲筠は帝の猗違して断ぜざるを見て、また内に憂憤し、卒す。年五十八。自ら墓誌を作った。吏部尚書を贈られ、諡して文献といった。
棲筠は善を奨めるを喜び、人が己の短を攻めるを楽しみ、天下の士の帰重する所となり、敢えて斥く所無く、贊皇公と称された。
棲筠の子 吉甫
子の吉甫。吉甫、字は弘憲、蔭により左司禦率府倉曹参軍に補せられた。貞元初め、太常博士となり、年なお少なく、典故に明練であった。昭徳皇后が崩ずると、天宝以後中宮虚しく、恤礼廃缺していた。吉甫はその儀を草具し、徳宗は善しと称した。李泌・竇参はその才を器とし、厚く遇した。陸贄は党有りと疑い、明州長史に出した。陸贄が忠州に貶された時、宰相はこれを害せんとし、吉甫を起して忠州刺史とし、甘心させんとした。既に至るや、怨みを置かず、却って歓を結び、人は益々その器量を重んじ、この事に坐して徙らざること六年。郴州・饒州の刺史に改めた。会に前刺史が相継いで死に、皆牙城に物怪有りと言い、敢えて居らざりし。吉甫は命じてその署を菑除して以て視事し、吏はこれにより安んじた。奸盗の窟穴を誅破し、治績流聞された。
憲宗が即位すると、考功郎中として召され、制誥を掌った。まもなく翰林に入って學士となり、中書舍人に遷った。劉闢が命令に背くと、帝は討伐を考えたが、決断できなかった。吉甫のみが討伐を放置せず、朝貢を絶って奸謀を挫くべきと請うた。時に李錡が浙西におり、貴幸に厚く賄賂を贈り、韓滉の故事に倣って鹽鐵を領することを請い、また宣・歙を求めた。帝が吉甫に問うと、對して言うには、「昔、韋臯が財を蓄え多かったため、劉闢がそれに乗じて亂を構えた。李錡には不臣の兆しがあり、もし鹽鐵の豊かさと采石の險しさを加えれば、彼を反逆に駆り立てることになる」と。帝は悟り、李巽を鹽鐵使とした。高崇文が鹿頭を囲んで落とせず、嚴礪が并州の兵を出し、崇文とともに果・閬に向かい、渝・合を攻めることを請うたが、吉甫はこれを誤りとし、言うには、「漢が公孫述を伐ち、晉が李勢を伐ち、宋が譙縱を伐ち、梁が劉季連・蕭紀を伐った、凡そ五度蜀を攻めたが、江路によるものが四度である。かつ宣・洪・蘄・鄂の強弩は、天下の精兵と號され、險地を爭うのは兵家の長じるところ、その兵を起こして三峽の虚を衝かせれば、賊の勢いは必ず分かれ、首尾相救わず、崇文は舟師の成功を恐れ、人に鬥志が生じるであろう」と。帝はこれに従った。礪がまた大臣を節度とすることを請うと、吉甫は諫めて言うには、「崇文は功成らんとしているのに、また帥を命じれば、もはや力を盡くさないであろう」と。そこで西川を崇文に授け、礪を東川に屬させ、益・資・簡など六州を加え、両川が相制し得るようにすることを請うた。これにより崇文は力を盡くした。劉闢が平定されると、吉甫の謀略が多かった。
吐蕃が使を遣わして盟を求めると、吉甫は議して言うには、「德宗の初め、南詔を得られなかったため、吐蕃と盟を結んだ。異牟尋が歸國して以来、吐蕃は塞を犯さず、もし盟を許せば、南詔は怨望し、邊境の隙が日々生じるであろう」と。帝はその使を辭した。また濱塞の亭障南北數千里を獻じて盟を求めてきたので、吉甫は謀って言うには、「邊境は荒れて險しく、犬牙相食むが如く、邊吏が地圖に按じて覆視しても、なお知ることができない。今、吐蕃が山に綿り谷に跨って、數枚の紙で千里を圖し、靈武から起り、劍門に著き、要險の地で失うところ二三百所、地を得る名はあれど、實はこれを喪う、陛下はどうしてこれを用いられようか」と。帝はそこで贊普に詔して謝し、受け入れなかった。
張愔が徐州を得た後、帝はまた濠・泗二州をその軍に還そうとしたが、吉甫は言うには、「泗は淮に背き、餉道の會する所、濠には渦口の險があり、前に建封に授けた時、形勢を失うところであった。今、愔は両廊の壯士に立てられた者で、善意はあれど、その衆を制することはできない。また淮・渦を得させれば、東南の走集を扼し、憂いは未だ止まないであろう」と。そこで止めた。
中書史の滑渙は平素より中人劉光琦と厚く、宰相の議で光琦が異を執るものは、渙に請わせると、常に平素通りに得られ、宦官が詔を傳えるにも、中書に至らず、延英で渙を召して旨を承け、群意に迎合し、即ち文書とし、宰相に至って知らない者もあった。これにより四方の賂謝を通じ、弟の泳は刺史に至った。鄭餘慶が國政を執った時、一度責め怒ると、數日で罷め去った。吉甫が間を請い、その奸を劾すると、帝は渙の家を簿記させ、資數千萬を得、雷州に貶して死なせた。また建言して言うには、「州刺史は本道の使に擅に謁見せず、諸道の歳終の巡句を罷めて苛斂を絶ち、有司に材縣令に堪える者を挙げさせ、軍國の大事は寶書をもって墨詔に代える」と。これにより帝はますます倚信した。
元和六年、裴垍が病により免ぜられ、吉甫は前官をもって召し返され、政務を執ることとなった。延英殿に入り対し、およそ五刻(約二時間)で罷めた。帝は彼を尊んで任用し、官名のみで名を呼ばなかった。吉甫は吏員の広がりを憂い、漢より隋に至るまで、今より多きはなかったとし、奏上して言うには、「方今、吏を置くこと精ならず、流品は龐雑にして、事なき官を存し、至重の税を食む。故に生民は日に困しみ、冗食は日に滋す。また国家は天宝以来、宿兵は常に八十余万、その去って商販となる者、度して仏老となる者、雑に科役に入る者は、率ね十五以上なり。天下は常に労苦の人三をもって、坐して衣食を待つ人七を奉ず。而して内外の官、奉稟を仰ぐ者は、慮るに万員、職局重出し、名異なりて事離るる者甚だ衆し。故に財は日に寡くして禄を受くる多く、官は限有りて調は数無し。九流安んぞ雑ならざらんや、万務安んぞ煩ならざらんや。漢初、郡を置くこと六十を過ぎずして、文・景の化は幾くばくか三王に近し。則ち郡少なきも必ずしも政紊れず、郡多きも必ずしも事治まらず。今、州を列ねること三百、県千四百、邑を以て州を設け、郷を以て県を分つ。費広くして制軽く、化を致すの本に非ず。願わくは詔して有司に博く議せしめ、州県に併すべきものはこれを併し、歳時に入仕すべきものはこれを停めしめよ。然らば吏寡なくして求め易く、官少なくして治め易からん。国家の制、官一品、奉三千、職田禄米は大抵千石を過ぎず。大暦の時、権臣の月奉は九千緡に至り、州刺史は大小と無く皆千緡なり。宰相常袞始めて裁限を為し、李泌に至りて閑劇を量りて稍々これを増し、相通じ相済わしむ。然れども名は職に在りて廃し、奉は存して額は去る。閑劇の間、厚薄頓に異なり。亦た一切商定を請う」と。乃ち詔して給事中段平仲・中書舎人韋貫之・兵部侍郎許孟容・戸部侍郎李絳に参閲蠲減せしめ、凡そ冗官八百員、吏千四百員を省く。又た奏して都畿の仏祠田・磑租の入を収め、以て貧民を寛かにせしむ。
徳宗の時、義陽・義章の二公主薨じ、詔して祠堂を墓に百二十楹起すことを命じ、費やすところ数万計り。会に永昌公主薨じ、有司以て請う。帝は義陽の半ばに減ずることを命ず。吉甫曰く、「徳宗の一切の恩は、法と為すべからず。昔、漢の章帝、親陵に邑屋を起さんと欲す。東平王蒼以て不可と為す。故に礼に非ざる挙は、人君の慎むところなり。請うらくは墓戸を裁置し、以て守奉に充てんことを」と。帝曰く、「吾固より其の冗なるを疑う。之を減ず。今果然なり。然れども編民を取るを欲せず、官戸を以て墳を奉るのみ」と。吉甫再拝して謝す。帝曰く、「事安からざる者は第に之を言え。朕の行う能わざるを謂うこと無かれ」と。十宅の諸王は既に閤を出でず、諸女は嫁する時を得ず。而して選尚は皆中人に繇り、厚く財謝を為して乃ち遣わしむるを得たり。吉甫奏す、「古より尚主は必ず其の人を慎み択ぶ。江左は悉く名士を取り、独り近世然らず」と。帝乃ち詔を下し、皆県主に封じ、有司に門閥ある者を取らしめて配せしむ。
田季安疾甚だ篤し。吉甫は薛平を任じて義成節度使とし、重兵を以て邢・洺を控えしむることを請う。因りて河北の険要の所在を図上す。帝は之を浴堂門の壁に張る。毎に河北の事を議するに、必ず吉甫を指して曰く、「朕日ごとに図を按ず。信なるかな卿の料りの如し」と。劉澭の旧軍は普潤に屯し、数たび近県を暴掠す。吉甫奏して涇原に還らしめ、畿民之に頼る。
八年、回鶻兵を引き西城・柳谷より吐蕃を侵す。塞下に伝言して且に寇すとす。吉甫曰く、「回鶻我が為に寇たんと能わば、当に先ず和を絶ちて後に辺を犯すべし。今は虞るるに足らず」と。因りて夏州より天徳に至るまで復た駅候十一区を起し、以て緩急を通ぜしむることを請う。夏州の精騎五百を発して経略故城に屯し、以て党項を護らしむるのみ。既にして果たして辺吏の妄言なりき。六胡州は霊武部中に在り、開元の時に之を廃し、宥州を置きて降戸を処し、治を経略軍に寓し、中に居りて以て戎虜を制し、北は天徳を援け、南は夏州に接す。至徳・宝応の間、宥州を廃し、軍を以て遥かに霊武に隷す。道里曠遠なるを以て、故に党項孤弱にして、虜数たび之を擾す。吉甫始めて宥州を復することを奏し、乃ち経略軍を治め、以て綏銀道に隷し、鄜城の神策屯兵九千を取って之を実たす。江淮の甲三十万を以て太原・沢潞の軍に給し、太原の馬千匹を増す。是に由りて戎備完輯す。
蜀平らぎてより、帝は鋭意淮西を取らんと欲す。方に吉甫淮南に在りし時、呉少陽立つを聞き、上下携泮す。自ら寿州に徙ることを請い、天子の命を以て之を招懐し、反間を以て其の党を撓さんとす。会に王承宗を討つに及び、用いるに及ばず。後、田弘正魏を以て帰す。吉甫は魏人の田進誠を才と謂うを知り、而して唐州は乃ち蔡の喉衿なり。進誠を抜きて刺史とし、以て賊境に臨み、且つ魏の心を慰めんことを請う。烏重胤河陽を守る。吉甫は汝州の東都を捍蔽し、唐・許を聯ね、蔡の西面に当たるを以て、兵寡くして寇を憚るに足らず。而して河陽は乃ち魏博の津なり。弘正国に帰すれば、則ち内鎮と為る。重兵を戍らしめて不信を示すに宜しからず。汝州に徙屯せんことを請う。帝皆之に従う。後、弘正検校尚書右僕射に拝し、其の軍に銭二千万を賜う。弘正曰く、「吾は河陽軍を移すを喜ばざるなり」と。元済の擅に立つに及び、吉甫は内地に唇歯の援無きを以て、時に因りて取るべく、当に河朔の故事を用うべからずとし、帝の意と合す。又た自ら往きて元済を招かんことを請う。苟も逆誌悛まざれば、群帥を指授して賊を俘え、以て天子に献ぜしむるを得んと。許さず。固く請うて涕を流すに至る。帝之を慰勉す。会に暴疾に卒す。年五十七。帝震悼し、賻の外に別に縑五百を賜いて其の家を恤う。大斂より卒哭に至るまで、皆中人をして臨吊せしむ。吉甫淮西の地を図す。未だ上るに及ばず。帝其の子に勅して之を献ぜしむ。葬に及び、少牢を以て祭り、司空を贈る。有司謚して敬憲と曰う。度支郎中張仲方之を非とす。帝怒り、仲方を貶し、更に謚を賜いて忠懿と曰う。
初め、吉甫国に当たり、政事を経綜し、衆職咸く治る。賢士大夫を引薦し、善を愛して遺すこと無く、忠臣の後を褒めて、以て義烈を起す。武元衡と位を連ね、未幾くせずして剣南を節度す。屡々元衡の材を言い、宜しく還りて相と為るべしとす。再び政を輔くるに及び、天下その風采を想望す。而して稍々怨みを修め、李藩の宰相を罷め、裴垍を左遷するは、皆其の謀なり。李正辞晩く相失う。蕭俛と同召され翰林学士と為るに及び、独り俛を用いて正辞を罷む。人疑憚せざる莫し。帝亦其の専なるを知り、乃ち李絳を進む。遂に隙有り、数たび殿上に弁争す。帝多くは絳を直とす。然れども畏慎して法を奉り、忮害せず、大體を顧みる。左拾遺楊帰厚嘗て対請す。日已に旰し。帝他日に見よと令す。固く請うて肯て退かず。既に見え、極めて中人許遂振の奸を論じ、又歴に輔相を詆り、自試を求め、又表して郵置院を仮りて婚礼を具せんとす。帝其の軽肆なるを怒り、遠く斥かんと欲す。李絳之を言うも、得ること能わず。吉甫帝に見え、引用の非を謝す。帝の意解け、以て国子主簿分司東都と為るを得たり。初め、政事堂会食す。巨床有り。相伝えて徙る者は宰相輒ち罷むと。敢えて遷さず。吉甫笑いて曰く、「世俗の禁忌、何ぞ疑うに足らんや」と。徹して之を新たにす。吉甫安邑里に居す。時に号して「安邑李丞相」とす。論著する所甚だ多く、皆世に行わる。卒する前の一歳、熒惑太微上相を掩う。吉甫曰く、「天将に我を殺さんとす」と。再び位を遜るも、許さず。
吉甫の子 徳修
子の德修も亦た志操有り、寶歷中に膳部員外郎と為る。張仲方入りて諫議大夫と為るに及び、德修は同朝するを欲せず、出でて舒・湖・楚三州刺史と為る。卒す。次子の德裕は、自ら傳有り。
李鄘
李鄘、字は建侯、北海太守邕の從孫なり。進士に第し、又以て書判高等にて秘書省正字を補す。李懷光辟して幕府に致し、累擢して監察御史と為る。懷光河中に反すに當たり、鄘は母・妻と共に其の中に陷る。因りて懷光を紿して兄病臥洛に在り且つ革まらんとし、母往きて視んと欲すと云ふ。懷光許可し、妻子に戒めて偕に行く無からしむ。鄘密かに之を遣す。懷光怒り、罪を加へんとす。謝して曰く、「鄘籍は軍に在り、母の駕と為るを得ず。奈何ぞ婦をして往かしめざらんや」と。懷光止めて問はず。後高郢と賊の虚實及び攻取の所以を刺し、諸を朝に白す。德宗手詔を下して褒答す。懷光覺り、兵を嚴めて二人を召し問ふ。鄘の詞氣撓まず、三軍之が爲に感動す。懷光殺さず、之を囚ふ。河中平らぎ、馬燧械を破り禮を致し、表して其の府に佐らしむ。言用ひられざるを以て、罷めて洛中に歸る。召されて吏部員外郎と為る。
徐州張建封卒す。兵亂れ、監軍を囚へ、建封の子愔を迫りて軍務を主たしむ。帝鄘の剛敢なるを以て、宣慰使を拜し、節を持して直ちに其の軍に入り、大會して士を會し、禍福を以て諭す。監軍を獄中より出し、桎梏を脫ぎ、位を復せしむ。眾敢て動かず。愔即ち表を上りて罪を謝し、兵馬留後と稱す。鄘曰く、「詔命に非ず、安んぞ輒に之を稱するを得ん」と。削り去りて乃ち受く。既に還り、旨に稱し、郎中に遷る。
順宗の時、進みて御史中丞と為る。憲宗立つ、京兆尹と為り、進みて尚書右丞と為る。元和初、京師盜賊多し。復た京兆を拜す。檢校禮部尚書を以て鳳翔・隴右節度使と為る。是の鎮常に神策行營を兼ぬ。此より前に武將を用ふ。始めて詔を受くれば、即ち軍に詣り謁を脩む。鄘以て不可と為す。詔して神策行營の號を去らしむ。俄に河東に徙り、入りて刑部尚書・諸道鹽鐵轉運使と為る。
淮南節度使を拜す。王師蔡を討つこと方に急なり。李師道謀りて之を撓沮せんとす。鄘兵二萬を以て鄆の境に分ち壁し、貲餉有司に仰がず。是の時兵興り、天子財乏しきを憂ひ、程异をして驛を馳せしめて江淮に至らしめ、諸道を諷して貨を輸し軍を助けしむ。鄘素より富強なり。即ち府庫を籍し一歲の儲を留め、餘は盡く朝に納む。諸道是に由りて悉く索して獻ず。繄く鄘之を倡く。
先づ、吐突承璀監軍と為り、貴寵甚だし。鄘剛嚴を以て治め、相禮憚み、稍く厚く善し。承璀歸り、數ひ稱薦し、召して門下侍郎・同中書門下平章事を拜す。鄘宦幸を由て進むを喜ばず。出祖するに及び、樂作るに泣下り、諸將に謂ひて曰く、「吾老いて外鎮に安んず。宰相豈に吾が任ならんや」と。京師に至り、事を視るを肯はず。疾を引いて固く辭す。戶部尚書に改む。俄に檢校尚書左僕射を兼ね、太子賓客を加へ、分司東都す。太子少傅を以て致仕し、卒す。贈りて太子太保と為し、謚して肅と曰ふ。
鄘強直にして私無く、楊憑・穆質・許孟容・王仲舒と友善し、皆氣を以て自ら任ず。而して鄘官に當りては、峭法を以て下を操り、至る所治まると稱せらる。猛決にして恩少く、淮南に在ること七年、其の生殺禽擿、多く軍吏に委ね、參佐束手して與るを得ず。人往々にして非法に陷る。議者亦此を以て之を少くす。
鄘の子 拭
子の拭は、仕へて宗正卿・京兆尹・河東鳳翔節度使を歷任し、秘書監を以て卒す。
拭の子 磎
拭の子磎、字は景望。大中末、進士に擢でられ、累遷して戶部郎中、分司東都と為る。內園使郝景全の不法の事を劾奏す。景全反って磎の奏が順宗の嫌名を犯すを摘む。坐して俸を奪はる。磎上言して曰く、「『事に因りて事を告げ、旁ら他人を訟ふ』とは、咸通の詔語なり。禮、嫌名は諱まず。律、廟諱の嫌名は坐せず。豈に臣の引く所の詔書にして有司輒ち論奏せんや。臣恐らくは今より格令を用ふる者、委曲回避し、旁ら緣りて奸を爲さんことを」と。詔して俸を奪はず。
黃巢洛を陷る。磎尚書八印を挾みて河陽に走る。時に留守劉允章賊に脅せられ、人就りて磎に印を索む。拒みて與へず。允章悟り、亦賊に臣せず。嗣襄王の亂に、轉側して淮南に至る。高駢偽命を受けしに、磎苦しみ諫む。納れられず。入りて中書舍人・翰林學士と為る。職を辭して華陰に歸り、復た學士として召さる。
磎學を好み、家に書萬卷に至る有り。世號して「李書樓」と曰ふ。著す所の文章及び諸書傳を註解するもの甚だ多し。
磎の子、沇
沇は字を東濟といい、俊才あり、また害に遇い、禮部員外郎を贈られた。
贊
贊に曰く、剛は天の德なり、故に孔子は「剛は仁に近し」と稱す。骨は四支を強くす、故に君に忠臣あれば、之を骨鯁と謂ふ。若し棲筠・庸阝の二子、其れ剛者なるか。棲筠は權邪に抗し、相に及ばず。庸阝は相を得て、拜せんと願はざりき。剛ならずんば、誰か能く之に勝たん。吉甫は天宰を踐み、謀謨は是なりと雖も、鯁正は父に愧づる有りと云ふ。